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大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2023/11/13 いつかお読みください(再掲)。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ ■関連記事 175:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(4) 174:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(3) 173:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(2) 172:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(1) COVID-19について考察 以下は2022年6月に記した文章です。 ----- 引用開始 ----- ようやく、COVID-19が収まってきました。COVID-19という呼び方もあまり使われなくなり、現在は「新型コロナウイルス感染症」を使う媒体が多くなっています。オミクロンが主流となり、これで変異は「打ち止め」となって欲しいですね。メジャーリーグやヨーロッパのサッカー、F1などのTVを見るとほとんどの観客はマスクをしていません。EUは各国の往来が「ほぼ自由」です。日本も「観光立国」を掲げるなら早期に「完全開国」して海外からの観光客を呼び入れるべきです。 もし重症化率の高い亜種が出てきたら対策を変えれば良いと思います。感染力は強いけれど重症化率の低いオミクロンが主流となっている今こそ「平常運転」に戻すべきです。 下に示す図は、現時点(2022-06-22)での世界COVID-19累積死亡者数(人口100万対)です。 東アジアは少ないですね。日本、台湾、ニュージーランド、豪州は同じくらいですね。豪州、ニュージーランドは「厳格なロックダウン」を行いました。台湾はPCRを広く実施し、封じ込めを行いました。日本は、ナンチャッテロックダウン(強制力は無い)、ナンチャッテPCR(簡単には受けられなかった)+ワクチン接種(それも強制ではありません)で対処。UK、USA、France、Germany、Sweden、Israelは軒並み日本より死亡者数が多いですね。日本が少ない理由が話題になっています。はっきりとした要因は解りません。数十年後に色々と解るかもしれないし、解らないかもしれないです。 ----- 引用終了 ----- 「重症化率の低いオミクロンが主流となっている今こそ「平常運転」に戻すべきです。」と当時書きました。当たっていたと思います。しかし、COVID-19に関する色々なことは、まだ、断定できないことが多いです。 私の予想は「的中」 さて、本論です。 日本でお亡くなりになった“子アイントホーフェン”さんのお孫さんの「Ineke van der Wal」さんが、“子アイントホーフェン”の奥様(一緒に日本に抑留されていた)が日本抑留中に書き残した「日記や手紙」を元に日本滞在中のことを本にして出版していたのです。オランダ語版だけかと思ったら英語版も出版されていることがわかりました。 オランダ語版:De Tempel met de Chrysanten: Krijgsgevangene in Tokio:Ineke van der Wal | 2017/12/3 英語版:The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo:Ineke van der Wal | 2017/12/3 私が読んだのはもちろん英語版です。英語版「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」を翻訳するなら「菊のある寺:東京のオランダ人俘虜収容所」でしょう。少し変です。“子アイントホーフェン”一行が東京で抑留されていたのは元チリ公館です。東京での空襲が激しくなってから彼らは愛知県豊田市の広済寺と広澤寺に移送され終戦を迎えています。広済寺と広澤寺こそ「菊のある寺」です。「菊」がたくさん植えられていたのです。 著者のIneke van der Walさんはなぜ「Chrysanthemums(菊)」をタイトルに入れたのでしょう。これは私の愚考ですが、ルース・ベネディクト著「The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture(邦題:菊と刀)」(1946年刊行)を念頭に置いてタイトルを考えたのだと思います。「菊と刀」はアメリカ人が書いた日本文化論です。 他にも「Chrysanthemum (菊)」をタイトルに入れた日本文化論があります。 Robert Whiting著「The Chrysanthemum and the Bat(邦題:菊とバット)」: The Game Japanese Play(English Edition)」(1977年刊)。 この「菊とバット」は実に面白い本です。「野球」と「Baseball」を対比して日米の文化の違いを浮かび上がらせています。色々と考えるとIneke van der Walさんがタイトルに、抑留体験とはあまり関係の無い「Chrysanthemum(菊)」を入れたのも何となくわかよう様な気がします。 前置きはさておき…… “子アイントホーフェン”が日本に滞在したなら、日本人医師の診察を受けたことが予想されます。診療を受けたなら「アイントホーフェン」の名前に気づいた医師がいなかったかどうか、そういう描写があるかないか、その一点に興味がありました。1924年、“父アイントホーフェン”は心電計の発明でノーベル生理学・医学賞を受賞し一躍有名人となっていました。 ノーベル賞受賞から21年経った1945年の東京で「アイントホーフェン」の名前に気づいた医師がいただろうと、私は、予想したのです。後述しますが、その予想は的中しました。小説を思わせる様な劇的な形での「的中」でした。 この本は358頁もあります。最初に手に取ったとき、読み切れないだろうと思いましたが、あに図らんや、結局最後まで読んでしまいました。それほど面白かったのです。心臓外科、血管外科の英語の教科書は多数読み通しましたが、普通の英文書物を読み通したのは人生初でした。 内容は多岐にわたります。単なる“子アイントホーフェン”の日本滞在記ではありません。 次回紹介しますが、 ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと “子アイントホーフェン”一家のこと 心電図研究のこと アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 そしてなんと言っても“子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 Etc. etc.を紹介します。 以下次回に続く…… 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, et al. : Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram. Ann Thorac Surg, 1999 ; 67 : 1184-1185 本橋均:絃の影を追って:W. Einthovenの業績,初版.医歯薬出版,東京,1969 小宮まゆみ:敵国人抑留:戦時下の外国民間人,初版.吉川弘文館,東京,2009 ; 173-176 日本電気株式会社編:日本電気ものがたり,初版.日本電気,東京,1980 ; 157 Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 Ineke van der Wal : The Temple with the Chrysanthemums Dutch Prisoners of War in Tokyo, 1st ed. Independently published, USA, 2017 Snellen, HA : Willem Einthoven(1860-1927)Father of electrocardiography : Life and work, ancestors and contemporaries. Springer, Netherlands, 1995 Einthoven Jr, WF : The string Galvanometer in wireless telegraphy. Proceedings, 1923 ; 26 : numbers 7, 8. Einthoven W, Einthoven WF, Willem van der Horst, et al. : Brownsche Bewegingen van een gespannen snaar. Physica, 1925 ; 5 : 358-360 ノーベル賞委員会:Willem Einthoven - Nobel Lecture - Nobel Prize. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1924/einthoven/lecture/(2021年 2月閲覧) 明治大学平和教育登戸研究所資料館:地域から追う登戸研究所. https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50en.pdf(2021年 2月閲覧) オランダ日本インドネシア対話の会:Deportation to Japan : Search for Clarity. https://sites.google.com/site/dlgnji4nl/programmas/conf08/2gre-en(2021年 2月閲覧) 心電図 Vol. 41 No. 1 2021 13 ) 日野原重明:心電計の歩み.検査法の変遷(Clinical Laboratory編集委員会編).診療新社,大阪,1982 ; 295 聖路加国際病院 100年史編集委員会編:聖路加国際病院の 100年.聖路加国際病院,東京,2002 大蔵省印刷局編:官報 1921年 08月 27日.国立国会図書館デジタルコレクション United States Department of the Army : Pamphlet - Dept. of the Army. Tokyo, 1949 ; 579 War Graves Commission Oegstgeest(Oorlogsgravencomit? Oegstgeest) : Comit? Herdenken en Vieren Oegstgeest. https://www.oorlogsgravenoegstgeest.nl/en/resistance-fighters/einthoven-en(2022年 2月閲覧) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2023/10/30 いつかお読みください(再掲)。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ ■関連記事 176:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(5) 174:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(3) 173:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(2) 172:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(1) COVID-19について考察 本論の前に少しだけCOVID-19について考察をしたいと思います。 今回のコロナ禍で感じたのは「感染対策には、何らかの方法を用いて全ての医療機関の医療データを収集し分析することが必要」だということです。アメリカには1946年からCDC(Centers for Disease Control and Prevention:アメリカ疾病予防管理センター)があり、コロナのようなパンデミック時には指導的役割を果たします。そのCDCでさえ今回の様な新しい病気の対処に成功したとは思えません。新しい病気への対処は簡単ではないと思います。 今回のコロナ禍でもアメリカのCDCは様々な情報収集を行い分析していると思います。CDCには本部職員だけで8,000人もいます。COVID-19に関する論文は多数発表されています(COVID-19関連で39万もの論文が出版されています@ 2023-10-06(by Pubmed))。そういう論文を分析するだけの部門もCDCにはあります。 2020年3月3日、当時の総理大臣の故安部晋氏は国会答弁で「米国の疾病対策予防センター(Centers for Disease Control and Prevention)のような組織も念頭に置きながら、組織を強化していくことは重要な視点だ」と言っていました。 2023年になり、日本版CDC に関する法案が提出されました。それによると日本版CDCは「国立健康危機管理研究機構」と命名されました(参考:日本版CDC 名称は「国立健康危機管理研究機構」に 法案提出へ(NHK))。 名前はともかく、実効力のある組織になると良いですね。 これからも新しい感染症が出現すると予測します。今回のコロナ禍を正確に分析し、次に備えることが必要だと思います。 上記と関係しますが、「感染症対策にはIT技術を用いた分析が必要」というのが持論です。 日本はITが進んでいると思う方がいるかもしれません。下に令和2年(2020年)に発表された電子カルテの普及率を示します。決して進んでいるとは思えないですね。 1.上記の表を見ても解るとおり日本の電子カルテ普及率は50%を越しました。しかし、未だに、紙の手書きにこだわる医師が多いのです。某大学病院は5年前まで電子カルテを使っていませんでした。それゆえにでしょうか?、その大学病院に患者さんを紹介しても、紹介した患者さんに対する返事が来ることは稀でした。 2.上記の表で1番の問題は「和暦」を使っていることです。令和の時代になって平成20年が2008年で、今から15年前とすぐにわかる方がいらっしゃるでしょうか? 多発する銀行ATM障害も「和暦」が原因の1つだそうです(参考:「1989年5月7日」や「平成3元年」、令和対応トラブルが日本全国で相次ぐ(日経クロステック))。 昭和は12月25日から、平成は1月8日から、始まりました。令和は5月1日から始まりました。和暦だけしか書いてないと年齢を計算するのも面倒です。日本の公的書類は、基本、和暦での記入を求められます。マイナンバーカードも誕生日は和暦で記されています。和暦の「文化、伝統」は尊重しますが、それはそれ、これはこれで、公的文書は全て和暦と西暦を併記すべきだと思います。 3.私は電子カルテを使って20数年になります。電子カルテを使っていると同じ病院で自分の患者さんが他の診療科に受診してもその診療科のカルテも見ることができます。紙カルテだとそれには面倒な手続きが必要です。 4.北欧諸国では、ほぼ全ての医療機関が電子カルテを使っていて、インターネットを介して情報共有ができています。他の医療機関データも見ることができます。データはクラウドにあり、天災や人災で病院のデータが壊れてもクラウドに残っていれば翌日からPCがあれば診療ができます。日本でもクラウド利用の電子カルテシステムも普及し始めましたが、まだまだです。 5.一方、日本は……。言わない方が良いですね。2015年時点ですが、日本○○会の方針は「○○会としては、カルテの電子化は必須とは考えていない」と堂々と宣言しています。だから日本では遅々として医療機関のIT運用が進みません。 6.デンマークは電子カルテがほとんどの医療機関で使われていますが、電子カルテソフトを作っているメーカーがたくさんあり、インターネットでデータを共有できていなかったのです。それを2006年には共通項目だけは見られるようにしています(参考:デンマークの医療の効率化とIT(ジェトロ))。 日本はこの点でも、遅れに遅れています。 7.フィンランドの電子カルテシステムには富士通が開発したシステムが使われています。医療機関同士の情報の共有が可能になっています。 日本もそういうシステムの導入が必要だと思います。日本では別な医療機関に行く度に同じような採血、レントゲン、検査をされます。無駄です。 8.コロナ禍で解ったことは先進国、東南アジア諸国はインターネットで病院間がつながっていて情報共有ができることでした。それらのデータは各国の厚生担当者が瞬時に見ることができます。だから政策決定が早いのです。日本ではCOVID-19関連のデータは診療終了後に医師が入力していました。ネットが使えない医師は、FAXでデータを保健所に送っていました。これは、しかし、罰則規定のない登録です。データ入力は厄介で時間がかかりました。どれくらい正確だったのでしょうか? 9.ほとんどの国で、日本の厚労省に相当する行政機関は、医学知識のある人がコロナに対する施策や情報を発信していました。スウェーデンがその代表ですが毎日、テグネル医師がコロナに対する現状と対策を発表していました。記者の質問にも丁寧に答えていました。テグネル医師はスウェーデン全体の刻々のデータを持っていてそのデータをもとに、記者の質問が終わるまで、時には5-6時間も、毎日質問に答えている様子を見て羨ましく思っていました。一方、日本は、一社一問だけ質問を受け付けるという不思議なルールでの記者会見を行っていました。それも他国に比して、著しく短時間でした。尾身先生は別にして、COVID-19関係の政策説明をするのは医学を勉強したことの無い方です。とても変でした。 「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料 以下、本論です。なお文中の“子アイントホーフェン”とは心電計の発明でノーベル生理学医学賞を受賞した“父アイントホーフェン”の「子」です。なお、名前の読み方は難しいですね。オランダ人の名前はできるだけ、オランダ語での発音を取り入れるべきだとは思いますが、簡単ではないです。 さて、前回で敵国人捕虜に関する研究をしている小宮まゆみ氏から東京で亡くなった「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料を提供して頂いたことを記しました。その資料をお目にかけましょう。なお、話が前後しますが、この中の資料の一部はすでに前回で紹介しました。 小宮さんからのメールには以下のように記されていました。 ----- 引用開始 ----- “子アイントホーフェン”氏を含むオランダ人電気技術者とその家族計22名の日本での生活についての史料としては、 ヘンク・レルス氏の妻アニー氏によって書かれた「アニーの日本抑留日記」があります。 戸田系子さんによって訳されていますが、出版はされていません。それ以外には、 内務省警保局の『外事月報』に掲載されたわずかな記録 日本電気の社史(注:前号で紹介しました) 1945年5月頃にオランダ人技術者たちが東京から移転して収容された愛知県豊田市の広済寺と広澤寺に若干の資料が残っているぐらいです。 従って私がお答えできることは限られています。 ----- 引用終了 ----- 筆者注1:ヘンク・レルス氏の妻アニー氏とは下記のレルス家(4名)の中に記されている「Annie Lels-Visser(アニー)」さんのことです。 最初に日本に抑留されたオランダ人一行22名の名簿が記されています。上記の「アニーの日本抑留日記」に記されていた名簿を頂きました。紹介します。ハーゼンシュタブ家だけ、カナ文字の名前がありません。?と思いましたが、次回紹介しますが、このハーゼンシュタブ家はドイツ系で他の家族と交わらなかったのです。それゆえです。 「アニーの日本抑留日記」内に引用されているG・レーフェンバッハ氏の「日本への強制連行の報告」(1980年)にあるアイントホーフェン氏関連部分もコピーしてくださいました。引用します。 ----- 引用開始 ----- レーフェンバッハ氏「日本への強制連行の報告」 8. 一九四五年になると、B29の日本の都市への攻撃は激しくなった。多くの地域が焼け、明らかに多数の人々が酸素不足で死亡した。私達も一度近所が焼けて、庭に焼夷弾が落ちて来た。この鉄の構造物には爆薬が入っており、地面に一メートルの穴を開けるが、幸いなことに宿舎には命中しなかった。焼夷弾の一つが立ち木に当たり、近くの家も火に包まれたことがあり、私達もパケツの水で消火を手伝った。日本人は私達の奮闘振りにびっくりしていたが、私達はみんな、自分達の家が危ないと思って行動しただけだった。翌日どの家族も、かなりの額のお金の入った封筒をお礼として受け取った。 9. 一九四五年二月、激しい空襲のさなか、ヴィム・アイントホーフェン(筆者注:“子アイントホーフェン”のことです)が肺炎のため、何週間か病に臥した後亡くなった。私達は火葬場に付き添い、ベップ・アイントホーフェンは骨壺に入れた遺灰をオランダに持ち帰った。 ----- 引用終了 ----- やはり前回でもお伝えしたように、“子アイントホーフェン”は肺炎でお亡くなりになっていました。 「アニーの日本抑留日記」の“子アイントホーフェン”に関する該当部分もコピーしてくださいました。引用します(筆者注:文中 ヴィム=“子アイントホーフェン”です。なおこの文章の主語はアーニーさんです。下線は強調として私が記しています、ヴィム=“子アイントホーフェン”のことです)。 ----- 引用開始 ----- 「アニーの日本抑留日記」 一日中することもないのに、上の部屋に行かなければならないのは、私達にとっても悩みです。全く暖房がないからなのです。練炭で小さな炎を起こす方法を知っているのはヴィムだけです。これでは私達はもうもちそうにありません。静かに座っているのは、寒さで不可能です。それで縫い物や学校の勉強はお手上げですし、どのように、どこで過ごせば良いのでしょうか?私達はちょっと仕事をしては、後は震えながら部屋の中を一日中歩き回っています。 二月十七日 一月の最後の日に、生田からジェオが病気で帰って来ました。インフルエンザです。翌日はヘンクが39.8の熱で、同じ目の午後にムルク、フリッツとルーキーもです。ムルクは夜になってとても熱が高くなり、布団の中でひどくうわごとを言っていました。私もすぐに高い熱が出始めました。翌朝、ヴィムとティネケも病気になったと聞きました。この家で8名の病人です。幸いポーリーンはしばらくは私達の後についてまわっていましたが、少し後の翌日の午から症状が出てきました。さらにベップも次の日から悪くなり、リークも寝付ききましたが、彼は早めに治りました。みんな風邪に似た一種のインフルエンザです。8日にはお風呂を沸かしました。ベップ、ティネケ、ムルク、私とやはりベッドに臥せていたコリー以外が入りましたが、これで良くなった人は本当にお風呂を必要としていた人のはずです。ヴィムはお風呂の後一日だけ熱が下がり、階下に降りて上に食事を運ぶのを手伝いました。ヘンクが治ってから初めて生田に出かけて留守だったので、私達にも持って来てくれました。それがヴィムを見た最後になってしまいました。彼はまた高い熱で苦しみました。14日にヘンクは仕事の後二階に上がり、彼と少し話して心配しながら降りて来たのですが、ヴィムは奇妙な行動をして訳のわからないことをしゃべったのです 。症状が出てからすでに四日間頼んでいたのですが、良い医者は来ませんでした。翌朝早くベップが私達の部屋をノックして、ヘンクにヴィムの意識がずっとないので、すぐに良い医者を呼んで来て欲しいと頼みました。10時半にやっと医者が来た時には、ヴィムはまさに最後の息を引き取った時でした。急性肺炎!――私はこれを他の人が火葬場に行っている間に書いています。医者からまだベッドから出てはいけないと言われて、残念なことにヴィムに最後の敬意を表することができませんでした。その医者はヴィムの時、手遅れになってから来た人です。私達は全員、とても打ちのめされています。現在の状況を考えると、日本人は適切な火葬とそれに伴う全てのことを、とても丁寧に面倒を見てくれています。昨日は空襲警報が早朝から夜遅くまで鳴り続けたので、火葬は一日延期されました。千機のアメリカの飛行機が、東京の郊外や港の上空にいました。高射砲の音が、ヴィムに対する最後のお別れのようにも聞こえました。今日もまた同様で、朝早くから空襲警報が鳴り、三時間毎に上空には飛行機群が来ています。この悲しみの日々に、私達はこれで少し救われるような気がします。 二月十八日 今夜は途切れなく注意報が出ていますが、今は飛行機は他を攻撃している様子です。二階で男性全員(あと二、三日は家にいて良いとのことです。)と女性達でヴィムの亡くなった部屋の片付けをしています。 ----- 引用終了 ----- アーニーさんの文章からもヴィム=“子アイントホーフェン”がインフルエンザによる肺炎で亡くなったことが記されています。なお、色々と興味深いことも書かれています。 1945年の冬は寒かった。まともな暖房が無かった 次から次にインフルエンザに罹患している “子アイントホーフェン”がお亡くなりになった後の記述に「日本人は火葬とそれに伴う全てのことを、とても丁寧に面倒を見てくれています」とあります。多少、こういう箇所に救われます。 東京空襲は次から次に行われていたことがわかります。彼らは“子アイントホーフェン”の死後、空襲を逃れるために名古屋に「疎開」します。 このように色々と“子アイントホーフェン”の死に至る状況が解ってきました。公的記録には内務省警保局の『外事月報』に掲載されたわずかな記録しか無さそうです。私がいくら調べても“子アイントホーフェン”のことが解らなかったのも無理ないことでした。こういう特殊な捕虜の研究者である小宮まゆみ氏のような方でないとこのような事情を解き明かすことができなかったのです。 同氏の紹介で「オランダNPO法人日蘭イ対話の会」という《第二次世界大戦で生まれたわだかまりをいつまでも抱いたままでい続けたくないと願ったオランダ人、日本人、インドネシア人が対話をする会》の代表「タンゲナ鈴木由香里」さんとコンタクトをとることができました。タンゲナさんから貴重な情報を頂きました。 タンゲナさんから「最近エイントホーヴェンさん(筆者注:“子アイントホーフェン”)のお孫さんが、戦時中に日本に抑留された時の記録を出版した」と知らされたのです。 日本でお亡くなりになった“子アイントホーフェン”さんのお孫さんの「Ineke van der Wal」さんが、“子アイントホーフェン”の奥様(日本に抑留されています)が日本抑留中に書き残した「日記や手紙」元に日本滞在中のことを本にして出版していたのです。オランダ語版だけかと思ったら英語版も出版されていることがわかりました。 オランダ語版:De Tempel met de Chrysanten: Krijgsgevangene in Tokio Ineke van der Wal 2017/12/3 英語版:The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo Ineke van der Wal, | 2017/12/3 英語版を入手して、読んでみようと思いました。これが凄い本でした。 以下次号に続く…… 追記: 抑留された22名の内、2名は詳細な日記をつけていたことが解ります。記録すること、それを残すことは大切ですね。 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, et al. : Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram. Ann Thorac Surg, 1999 ; 67 : 1184-1185 本橋均:絃の影を追って:W. Einthovenの業績,初版.医歯薬出版,東京,1969 小宮まゆみ:敵国人抑留:戦時下の外国民間人,初版.吉川弘文館,東京,2009 ; 173-176 日本電気株式会社編:日本電気ものがたり,初版.日本電気,東京,1980 ; 157 Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 Ineke van der Wal : The Temple with the Chrysanthemums Dutch Prisoners of War in Tokyo, 1st ed. Independently published, USA, 2017 Snellen, HA : Willem Einthoven(1860-1927)Father of electrocardiography : Life and work, ancestors and contemporaries. Springer, Netherlands, 1995 Einthoven Jr, WF : The string Galvanometer in wireless telegraphy. Proceedings, 1923 ; 26 : numbers 7, 8. Einthoven W, Einthoven WF, Willem van der Horst, et al. : Brownsche Bewegingen van een gespannen snaar. Physica, 1925 ; 5 : 358-360 ノーベル賞委員会:Willem Einthoven - Nobel Lecture - Nobel Prize. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1924/einthoven/lecture/(2021年 2月閲覧) 明治大学平和教育登戸研究所資料館:地域から追う登戸研究所. https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50en.pdf(2021年 2月閲覧) オランダ日本インドネシア対話の会:Deportation to Japan : Search for Clarity. https://sites.google.com/site/dlgnji4nl/programmas/conf08/2gre-en(2021年 2月閲覧) 心電図 Vol. 41 No. 1 2021 13 ) 日野原重明:心電計の歩み.検査法の変遷(Clinical Laboratory編集委員会編).診療新社,大阪,1982 ; 295 聖路加国際病院 100年史編集委員会編:聖路加国際病院の 100年.聖路加国際病院,東京,2002 大蔵省印刷局編:官報 1921年 08月 27日.国立国会図書館デジタルコレクション United States Department of the Army : Pamphlet - Dept. of the Army. Tokyo, 1949 ; 579 War Graves Commission Oegstgeest(Oorlogsgravencomit? Oegstgeest) : Comit? Herdenken en Vieren Oegstgeest. https://www.oorlogsgravenoegstgeest.nl/en/resistance-fighters/einthoven-en(2022年 2月閲覧) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2023/10/16 いつかお読みください(再掲)。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ ■関連記事 176:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(5) 175:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(4) 173:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(2) 172:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(1) 最近(2023-10月)、COVID-19はなんとなく、収まっているような、収まっていないような感じです。当初の武漢からのビールスによるCOVID-19と今のオミクロンビールスによるCOVID-19とは随分違います。国によってもCOVID-19の重症度が違います。 国が違うだけでこれだけ発症数が違うとは このグラフは2022-03-20時点の100万人当たりのCOVID-19発症数です。 フランスや北欧の国々は概ね並んでいます。一方ワクチン接種を勧め強力な対策をとったとされる韓国はトンデモナイことになっています。インド、インドネシアなど一時人口辺りのCOVID-19死者数が激増した国々は発症数が激減しました。緩い規制、緩い検査体制の日本はというと発症数は半ば位です。色々な仮説が唱えられています。解析には数年、数十年かかるかもしれません。日本もきちんとしたデータを出して科学的な検証をすべきです。 話は変わります。 新人医師は風邪に罹りやすい 「新人医師は風邪に罹りやすい」と医師になったときに脅かされました。本当にその通りでした。救急病院の土日当直アルバイトに行き、多くの発熱患者さんを診療していると、月曜日火曜日頃に体調が悪くなるのです。辛かったです。感冒、風邪、インフルエンザに罹っていたのでしょう。若かったから、解熱剤をのんだりして休まずに働いていました。数年経つと救急病院でアルバイトをしても患者さんから風邪、感冒がうつらないようになりました。多分、様々なウイルス、細菌に対して「免疫」ができたのだと思います。コロナ禍の最中に医師になった方の様々なビールスに対する免疫能(どうやって測定するかは不明ですが)を検査して数年追えば面白い結果が出るかもしれません。 本論にはいります。 戦時下の日本に連れてこられた敵国人捕虜 前回、小宮まゆみ氏が著した「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」という本にインドネシアから日本に連れてこられたオランダ人捕虜がいてその中に「アイントホーフェン」の名前を見いだしたことをお伝えしました。 一部抜粋して再掲します。 「オランダ人は、ジャワ島から連行抑留されたオランダ人電気技術者とその家族だった。W・アイントホーフェン博士はジャワ島バンドンの無線電信局で働いていた。1941年12月に太平洋戦争が勃発し彼らは日本軍に降伏、1943年11月、アイントホーフェンとその同僚は妻子とともに日本に送られることになった。」 とあります。前々回紹介した本橋均著「絃の影を追って:W. Einthoven の業績」の頁104にW. Einthovenは彼の第三子W.F. Einthovenと共に心電計の改良に努めたとあり、前々号で紹介しましたが、同書頁106に「第三子W.F. Einthovenは1945年3月の東京大空襲で亡くなった」とあります。 以下、わかりやすくするために 心電計を発明したアイントホーフェン医師(Willem Einthoven)を “父アイントホーフェン” その第三子(長男)の、電気技術者であり東京で亡くなったアイントホーフェン(Willem Frederik Einthoven, Jr.)を “子アイントホーフェン” と略します。 さて、この先どうやって東京で“子アイントホーフェン”がどのような生活をしていたのか、何が原因で床度お亡くなりになったのかを解明しようと思いました。解明には資料が必要です。2つ方法を考えつきました。 小宮まゆみ氏に手紙を書いて資料をご提供ないし資料入手の方法をご教授頂けるかどうかをお願いする。 小宮まゆみ氏の住所はわかりませんので、出版社(吉川弘文館)宛てに上記依頼を記した手紙を送りました。 小宮まゆみの本で紹介されていたアイントホーフェンのことが記されている「日本電気ものがたり(日本電気株式会社 1980年刊)」を入手すること。 の2つです。最初に入手できたのは「日本電気ものがたり」でした。 立派な「函」に入っていました。 「日本電気物語」に記された子アイントホーフェンのこと 「日本電気ものがたり」は日本電気の社史です。日本電気は1899年(明治32年)に設立されています。この本が刊行されたのは1980年です。創業からの80年にわたる歴史が書かれています。元々日本電気はアメリカから電話を広めるために起こされた会社です。 電気通信関係のことを中心に多くの日本電気関係者が興味深いことを書き記しています。 それはともかく本稿と関係のある記述がいくつか見つかりました。“子アイントホーフェン”を始めとしたオランダ人電気技術者たちは神奈川県川崎市生田にある日本電気の生田研究所で仕事をさせられています。その生田の研究所は 「日本電気の小林正次さんが、1943年5月に訪欧した際、たまたまテレビを見ていた時に上空を飛行機が通り、飛行機が通ることによりテレビ画面が乱れたことから電波探知機開発のヒントを得て、日本電気研究所生田分所の建設が決まった」と書かれています。この研究所では電波探知機(略して電探)、つまりレーダーの研究を行っていたのです。 大所帯の生田研究所 レーダーなどの兵器開発を行っていたこの研究所には1000人以上の日本電気社員が働いていたと書かれています。日本軍もレーダー開発に躍起だったことがわかります。昭和19年頃にあった研究所での出来事の中に私が知りたかったことが書かれていました(同書:頁157-159)。引用します。昭和19年日本電気生田研究所長だった大沢寿一さんという方が記しています。一部、解りやすくするため年号などを追記しています。 ----- 引用開始(注:下線は筆者)----- 「昭和19年から終戦までの一年の間のことですが、3人のオランダ人捕虜を生田の研究所で預かることになりました。なんでもジャワのバンドにあったオランダ国立電波研究所の所長と研究員ということでした。」 「外人の年齢はなかなかわからないものですが、所長のアイント・ベンという人は50歳をこえていたようでした。この三人を生田の研究所に連れて来たのは並木さんという陸軍大佐の担当官でした。その時私が心を打たれたのは、並木さんが捕虜に対する軍人という姿勢をまったく見せないばかりか言葉の端々にも相手に対する敬意と礼節を失わない態度だったことです。」 「急を要する電波兵器開発の細に役立てたいという考えで連れてこられたのですが我々にしてみれば敵国人を機密の作業につかせることはできません。3人のために別に1室を設けてそこで計算の仕事をしてもらいました。」 「並木大佐はその後も三人に面会するために幾度か来所したのですが敬意と親愛の情を持った接し方は初めと変わりませんでした。研究所の責任者が国際感覚と寛容さを兼ね備えた丹羽さんであったことも和やかな雰囲気を作った源だと思います。」 「3人のオランダ人は新宿から登戸まで小田急線できて稲田登戸の駅から生田の山道を歩いて通っていました。雨の中を歩く3人に誰からともなく傘が提供されたこともありました。」 「ところが3人のうちでは最年長だった方が病気になって終戦を待たずに亡くなりました。食糧難から来る体力不足と薬品欠乏のため十分な治療ができないことはその頃は常識でしたからこの死亡事故はやむを得ないものだったと思います。」 「戦後戦争犯罪の問題が起こりました。処罰された人もあると聞き、オランダ人捕虜の死亡事故で丹羽さんが責任を問われはしないかと心配したものです。」 「残された二人のうち一人は終戦の3,4年後に来日し、当時の生活を懐かしがって生田に来てくれました。彼はその頃ベル研究所の研究員になっていました。」 「戦争中の話となるととかく暗いものが多いのですが、並木大佐の誠実な態度と3人の捕虜の勤勉な仕事ぶりを通じて、 《人間はどんな時にも誠意をもって人間として正直に生きることが大切だ》 ということをつくづく感じさせられました。」 ---------- 引用終了 ---------- 文中に「アイント・ベン」とありますが、これは「Einthoven」を英語読みしたのでしょう。このように「日本電気ものがたり」からも“子アイントホーフェン”が神奈川県川崎市生田にあった日本電気研究所で働いていたことが確かめられました。 本論とは関係ないですが、 《並木さんという陸軍大佐が捕虜対する軍人という姿勢をまったく見せないばかりか、言葉の端々にも相手に対する敬意と礼節を失わない態度をとった》 《雨の中を歩く3人に誰からともなく傘が提供された》 などの記述から「真っ当な」日本人もいたことがわかります。 さて、日本電気ものがたりを読み終わった頃、小宮まゆみ氏より資料提供の連絡がありました。まさに求めていたモノがそこにありました。長い間、探し求めていた資料そのものでした。ありがたい話です。何事もやってみないと解らないですね。 以下、次回へ続く。 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, et al. : Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram. Ann Thorac Surg, 1999 ; 67 : 1184-1185 本橋均:絃の影を追って:W. Einthovenの業績,初版.医歯薬出版,東京,1969 小宮まゆみ:敵国人抑留:戦時下の外国民間人,初版.吉川弘文館,東京,2009 ; 173-176 日本電気株式会社編:日本電気ものがたり,初版.日本電気,東京,1980 ; 157 Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 Ineke van der Wal : The Temple with the Chrysanthemums Dutch Prisoners of War in Tokyo, 1st ed. Independently published, USA, 2017 Snellen, HA : Willem Einthoven(1860-1927)Father of electrocardiography : Life and work, ancestors and contemporaries. Springer, Netherlands, 1995 Einthoven Jr, WF : The string Galvanometer in wireless telegraphy. Proceedings, 1923 ; 26 : numbers 7, 8. Einthoven W, Einthoven WF, Willem van der Horst, et al. : Brownsche Bewegingen van een gespannen snaar. Physica, 1925 ; 5 : 358-360 ノーベル賞委員会:Willem Einthoven - Nobel Lecture - Nobel Prize. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1924/einthoven/lecture/(2021年 2月閲覧) 明治大学平和教育登戸研究所資料館:地域から追う登戸研究所. https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50en.pdf(2021年 2月閲覧) オランダ日本インドネシア対話の会:Deportation to Japan : Search for Clarity. https://sites.google.com/site/dlgnji4nl/programmas/conf08/2gre-en(2021年 2月閲覧) 心電図 Vol. 41 No. 1 2021 13 ) 日野原重明:心電計の歩み.検査法の変遷(Clinical Laboratory編集委員会編).診療新社,大阪,1982 ; 295 聖路加国際病院 100年史編集委員会編:聖路加国際病院の 100年.聖路加国際病院,東京,2002 大蔵省印刷局編:官報 1921年 08月 27日.国立国会図書館デジタルコレクション United States Department of the Army : Pamphlet - Dept. of the Army. Tokyo, 1949 ; 579 War Graves Commission Oegstgeest(Oorlogsgravencomit? Oegstgeest) : Comit? Herdenken en Vieren Oegstgeest. https://www.oorlogsgravenoegstgeest.nl/en/resistance-fighters/einthoven-en(2022年 2月閲覧) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2023/10/02 いつかお読みください(再掲)。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ ■関連記事 176:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(5) 175:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(4) 174:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(3) 172:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(1) 前回の余話5.をお読みいただけましたでしょうか? ミヤマニガウリの葉が実を守る《温室》を作ることを発見 -91歳自然観察ガイドの10年越しの観察が論文に-(京都大学) https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2020-10-15 ため息が出るほど良い話です。この発見をしたのは91歳で山形県立自然博物館の指導員の長岡信幸(中学校の元教員)さんです。長岡さんの発見を「真摯」に受け止めてそれを論文にして一流科学雑誌に投稿(京都大学の先生方の指導があったと思いますが)、投稿論文の第一著者は91歳の長岡さんです。京都大学は「とても素晴らしいことをした」と思います。こういう場合の多くは大学の研究者が第一著者になり、発見者は「謝辞に名前が載る」くらいになるのが普通です。 「銀杏の精子発見の業績」に対して学士院恩賜賞が贈られたときの東京帝国大学教授池野成一郎と中学の教員だった平瀬作五郎との関係を思い出します。池野は「学士院恩賜賞」は「「銀杏の精子を発見」した平瀬作五郎と一緒でないと受賞しないと言ったそうです。良い話です(参考記事:087:日本の銀杏とイギリスの「家族計画」を結ぶ縁(1)~「銀杏」の話(2))。 論文というと思い出すのは菅原道真の試験点数です。 学問の神様というと「菅原道真」です。全国各地に菅原道真を祀る天満宮があります。天神様。天神社とも言われます。菅原道真は学問に秀でていたので「勉強、学問の神様」ということになっています。さて、その菅原道真ですが彼が受けた試験の問題、回答、試験点数が残っています。「方略試」という試験で今なら、国家公務員採用試験でしょう。 菅原道真が受けたテスト、「方略試」の問題文、答案、評価が載っている資料を探している(レファレンス協同データベース) https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000156767 問題は2問、質問は漢文です。 問1.「明氏族」:翻訳:氏族とは何か明らかにしてください。 問2.「弁地震」:翻訳:地震について論じてください。 問1は特に難問です。氏族について迂闊なことを書くと出世に響くかもしれないです。地震について論じるのは今でも困難です。 成績は出題者の都良香(みやこのよしか)により、「文章は彩を成し、文体には観るべき点が有り、筋道はほぼ整っている」ことなどから、「中の上」と判定されていますが、合格者のほとんどが「中の上」なので、それほど悪い成績ではないのでしょう。それはともかく1000年以上前の試験問題、回答、成績が残っているのは凄いですね。「公的記録が無くなっている」とか、「無くした、見つからない、誤って廃棄した」とかいう報道が多い昨今とは隔世の感があります。 本論に入ります。 小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」歴史文化ライブラリー 吉川弘文館(2009年) という本を偶然発見したことを前回お伝えしました。この本には、太平洋戦争開戦当時日本にいた連合国側の民間外国人342名が強制収容されたこと、開戦後日本が占領した地域にいた外国民間人を日本に送り、様々な仕事に従事させたことが記されています。 最初ざっと立ち読みしました。面白そうなことがたくさん書かれていると気づきました。 山梨県北杜市清里の父ポールラッシュさんも抑留 清里高原を開拓した事や日本にアメフトを紹介したなどで有名なポール・ラッシュ(Paul Rusch 1897 - 1979年)さんも開戦と同時に「捕虜」になっています。ラッシュさんは開戦当時、立教大学の教授でした。英米仏蘭出身の民間人は全員、例外なく強制収容されています。戦争初期には米国などに送還されたり、赤十字の手厚い保護を受けたり、食事や収容所もそれなりに配慮されたり、していた様子がわかります。しかし戦争が進むにつれ食事、宿舎、衛生状態などが段々と悪化しています。なお、イタリアやドイツは日本より先に降参、降参後、イタリア人やドイツ人も「捕虜」となっています。 日米交換船が2回、日英交換船が1回 日米間では2回(1942年6月と1943年9月)、日英間では1回(1942年8月)、民間人捕虜の交換が行われています。そんなことは知りませんでした。 日本軍占領地でも同様な事(民間人の捕虜収容)を行った 日本軍が占領したベトナム、インドネシアなどでもその地にいた連合国側の外国民間人は強制収容されています。なかでも人数が多かったのはインドネシアで、10万人のオランダ人が強制収容されています。戦争当時、アメリカでは日系アメリカ人約11万人が強制収容所に入れられましたが、それと同じくらいの人数のオランダ人がインドネシアで強制収容されています。 そしてパラパラと目次をチェックしていたら!! 「ジャワから連行されたオランダ人」という見出しがあり読み進めたら、私が知りたかった「心電計を発明してノーベル賞を受賞したアイントホーフェン医師と一緒に心電計を改良していた同医師の息子さんが東京でお亡くなりになった事情」が書かれていました。直ちに買い求めて家に帰って熟読しました。 -------以下、同書より引用します。------- 173-176頁からの引用です。全文ではありません。傍線は筆者が記しています。 この時期になって、もう一グループの外国人が連行されて、東京に抑留された。インドネシアのジャワ島から連行されたオランダ人技術者の一団である。 この抑留オランダ人については、よほど厳重に秘匿されていたらしく、『外事月報』にはまったく記載がない。 このオランダ人は、ジャワ島から連行抑留されたオランダ人電気技術者とその家族だった。W・アイントホーフェン博士は、オランダ領インドシナ、ジャワ島バンドンの無線電信局で働いていた。一九四一年一二月太平洋戦争が勃発し、開戦の二、三ヵ月後、彼らは日本軍に降伏、一九四三年一一月、アイントホーフェンとその同僚は妻子とともに日本に送られることになった。 1945年2月、一行のリーダーだったアイントホーフェンが肺炎のため死亡した。 抑留生活を証言したポーリン・レルス氏は2001年に来日して開発に協力させられていた秘密兵器とは、レーダーシステムだったということが明らかになったという。 -------引用終了---------- 1945年2月 アイントホーフェンは肺炎で死亡 と書かれています。前号で紹介した本橋均先生の著書には 「アイントホーフェンは東京大空襲で死亡」 と書かれていましたが、小宮氏の本には 「1945年2月、一行のリーダーだったアイントホーフェンが肺炎のため死亡した」 とあります。アイントホーフェンと東京で一緒に抑留された方の文章が引用されています。一緒に抑留されていた方の証言の方が正しいでしょう。 以下、次回に続く。 最後に: この小宮氏の「敵国人抑留」を読むと同書は広範な資料と当時を知る多くの当事者、関係者からの聞き書きを基に書かれていることがわかります。歴史を誠実に書くことは正にこういうことだと言うことがわかります。同書から著書の知的迫力を感じます。そういう本は少ないです。ぜひ、お読みください。 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, et al. : Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram. Ann Thorac Surg, 1999 ; 67 : 1184-1185 本橋均:絃の影を追って:W. Einthovenの業績,初版.医歯薬出版,東京,1969 小宮まゆみ:敵国人抑留:戦時下の外国民間人,初版.吉川弘文館,東京,2009 ; 173-176 日本電気株式会社編:日本電気ものがたり,初版.日本電気,東京,1980 ; 157 Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 Ineke van der Wal : The Temple with the Chrysanthemums Dutch Prisoners of War in Tokyo, 1st ed. Independently published, USA, 2017 Snellen, HA : Willem Einthoven(1860-1927)Father of electrocardiography : Life and work, ancestors and contemporaries. Springer, Netherlands, 1995 Einthoven Jr, WF : The string Galvanometer in wireless telegraphy. Proceedings, 1923 ; 26 : numbers 7, 8. Einthoven W, Einthoven WF, Willem van der Horst, et al. : Brownsche Bewegingen van een gespannen snaar. Physica, 1925 ; 5 : 358-360 ノーベル賞委員会:Willem Einthoven - Nobel Lecture - Nobel Prize. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1924/einthoven/lecture/(2021年 2月閲覧) 明治大学平和教育登戸研究所資料館:地域から追う登戸研究所. https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50en.pdf(2021年 2月閲覧) オランダ日本インドネシア対話の会:Deportation to Japan : Search for Clarity. https://sites.google.com/site/dlgnji4nl/programmas/conf08/2gre-en(2021年 2月閲覧) 心電図 Vol. 41 No. 1 2021 13 ) 日野原重明:心電計の歩み.検査法の変遷(Clinical Laboratory編集委員会編).診療新社,大阪,1982 ; 295 聖路加国際病院 100年史編集委員会編:聖路加国際病院の 100年.聖路加国際病院,東京,2002 大蔵省印刷局編:官報 1921年 08月 27日.国立国会図書館デジタルコレクション United States Department of the Army : Pamphlet - Dept. of the Army. Tokyo, 1949 ; 579 War Graves Commission Oegstgeest(Oorlogsgravencomit? Oegstgeest) : Comit? Herdenken en Vieren Oegstgeest. https://www.oorlogsgravenoegstgeest.nl/en/resistance-fighters/einthoven-en(2022年 2月閲覧) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2023/8/14 2021年日本不整脈心電学会の学会誌である「心電図」に拙稿が掲載されました。この論文を書くに至った経緯、途中経過などを何回かにわけてお示しします。論文を書くに至った経緯の詳細など興味を引かないかもしれませんが、何かの役に立つかもしれません。 どなたでも読めます。お時間があるときにお読みください。医学知識は不要です。気楽にお読み頂ければ幸いです。 このサイトからPDFをダウンロードして頂ければ幸いです。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 心電図 2021年 41巻 1号 p.30-39 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ ■関連記事 176:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(5) 175:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(4) 174:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(3) 173:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(2) 世界中どこの医療機関にもある「心電計」を開発し、世界で初めて心電図の記録に成功したのはオランダ人医師アイントホーフェン(1860-1927)です。以前にも世界で最初に発明された心電計で記録されて「心電図」をお示ししました。再掲します。 これがオランダのライデンにある「ブールハーフェ(Boerhaave)博物館」に展示されているアイントホーフェン医師が世界で初めて作成した心電計で記録に成功した心電図です。 ブールハーフェとは ブールハーフェ(Boerhaave)博物館は、日本語のオランダ旅行のガイドブックには載っていませんでした。しかし、今はインターネットがあります。同博物館のホームページを見て、ライデンにあることがわかりました。さらにライデン駅からの行き方の詳細は、アムステルダムにある観光案内所で教えて頂きました。同博物館には、 ヘイケ・カメルリング・オネス Heike Kamerlingh Onnes(1853-1926) 液体ヘリウム製造装置(1908年):この装置で超伝導を発見。ノーベル物理学賞を受賞 アイントホーフェン医師(1860-1927)がノーベル生理学医学賞を受賞するに至った心電計 ノーベル化学賞第1号授賞者のホッフ Jacobus Henricus van't Hoff 1852-1911 の立体異性体(光学異性体) レーウェンフック Antoni van Leeuwenhoek (1632-1723) の顕微鏡 など、オランダが世界に誇る科学業績を紹介しています。オランダを訪れる機会がありましたら、ぜひ、訪問してください。 余談です。当クリニックが五反田から浜松町に移転し、再開業した日の出来事です。 開業当日、大量吐血している患者さんが受診されました。飲酒後に嘔吐、その後、大量吐血したのです。ブールハーフェ(Boerhaave)症候群を疑いました。この症候群は、食道に異常がないのに嘔吐により食道壁全層が破裂・穿孔する怖い病気です。診断が遅れると死亡します。この方はすぐに近隣の専門病院に紹介、即刻、緊急で内視鏡検査が行われ「ブールハーフェ症候群」と診断され、食道の出血部を止血して事なきを得ました。この病気は放置すると極めて危険な病気です。名前からお分かりになると思いますがブールハーフェ医師が発見した病気です。 救急診療をしている病院に勤めていると年に数名、ブールハーフェ症候群を発症した方が来院されます。ほとんどが大量飲酒後に嘔吐してから発症します。ブールハーフェ(Boerhaave)の名前は、医師以外には日本では知られていませんが、オランダではその名前が自然科学博物館に冠されるほど有名な科学者兼医師です。 論文は早く書いた方が良いが資料が無くて執筆まで20年も 話を元に戻します。心電計の発明でノーベル生理学・医学賞を受賞したアイントホーフェン医師ですが、心電計の改良は息子さんと一緒に行っていました。ノーベル賞の受賞講演でも息子さんと一緒に行っていた改良についても触れています。心電計の改良に大きな役割を果たしたアイントホーフェンの息子さんは戦時下の日本で亡くなっています。そのことに関する論文が上記の論文です。この論考を書くのに20年という月日を要しました。 この論文を書こうと思ったのは1999年 元々、「Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram (Ann Thorac Surg. 1999 Apr;67(4):1184-5.).」という論文をアメリカのThe Annals of Thoracic Surgeryという雑誌に投稿、掲載されたのが心電図を学び直す契機でした。 心電図に関する論文はたくさんあり、教科書も毎月の様に出版されます。それほど、心電図は面白く、未だに新発見があります。 心電計の原理は物理学、数学の世界 しかし、アイントホーフェンが考えついた「心電計の原理」、「心電図を記録する原理」に関する教科書はほとんどありません。アイントホーフェンの書いた心電計に関する論文は数式が多く、あたかも物理学、数学の論文のようです。この「原理」について書かれた教科書は、日本では、私の知る限り、一冊しかありません。 それがこの本です。 本橋均著「絃の影を追って:W. Einthoven の業績」, 初版. 医歯薬出版. 東京, 1969 という本です。この本で著者はアイントホーフェンの論文(主にドイツ語)を読み解き、心電計の原理を解き明かしています。名著です。 アイントホーフェン医師の息子さんは東京大空襲でお亡くなりになっていた この本の文中にアイントホーフェン医師と共同研究をしていた同医師の息子さんのことが少しだけ紹介されていました(同書106頁)。 アイントホーフェンの息子は1945年3月の東京大空襲で亡くなったと書かれています。びっくりしました。それから、この東京大空襲で亡くなったアイントホーフェン医師の息子さんに関して少しずつ調べましたが、何もわかりませんでした。それに関する書籍、論考、レポートなどを探しましたが全く解りませんでした。 八重洲ブックセンターにて大発見? 2018年頃、八重洲ブックセンターで、東京で亡くなったアイントホーフェン医師の息子さんのことを記してある本を見つけました。それがこの本です。 小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」歴史文化ライブラリー 吉川弘文館(2009年)です。 この本を発見できたのはエミリオ森口先生との会話が元に どうしてこの本を見つけられたか、お伝えしましょう。元は私どものクリニックの名に冠してあるエミリオ森口先生との会話から、はじまりました。エミリオ先生は現在、ブラジルにあるクリーニカス・デ・ポルト・アレグレ病院 (Hospital de Clínicas de Porto Alegre)で内科教授を勤められています。脂質代謝が専門です。 エミリオ先生は日系ブラジル人で、毎夏、ブラジル奥地に住む年老いた日系ブラジル人の「巡回診療」を長年(エミリオ先生の父、祖父の代から行っているそうです)なさっています。この活動は日本でも知られるようになり、2021年には社会貢献支援財団から「社会貢献者表彰50周年記念表彰」を受けています。 社会貢献者表彰に日系人医師の森口氏ら(産経ニュース) https://www.sankei.com/article/20210726-YCOLX57X4BIPTHSS3O3ILUUNUE/ そのエミリオ先生ですが、年に1-2回日本に来られます。その時にブラジル移民の方々の苦労話など聞いて「南米移民」に興味を持つようになりました。八重洲ブックセンターには「移民」に関する書籍が集まっているコーナーがあり、そこで本を色々見ていたら上記の「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」という題の本を見つけたのです。あれ?もしかしたら本橋先生の本の中にあった「1945年3月の東京大空襲で亡くなったアイントホーフェン医師の息子」に関することが記されていないかと思い、ページをめくっていたらその中に、「ジャワから連行されたオランダ人」という項があり、アイントホーフェンの名前を見いだしたのです。 え?え??というようなことが書かれていて、この本の記述からアイントホーフェン医師の息子の消息が少しずつわかり始めました。 以下、次回続く。 カルテの余話1: 論文というか記録を残すことはとても大切です。医師はカルテを記します。これはとても大切な記録です。日本では法律でカルテの保存義務年限が5年と決まっています。最初に就職した大学病院には昭和初年頃のカルテも保存してありました。当時、マイクロフィルム化していました。今はどうなっているのでしょう。 100年の余話2: メイヨークリニックには100年以上前のカルテがカルテ保存庫に残っているそうです(メイヨークリニックに留学した先輩から伺いました)。カルテをきちんと書かないと後世の医師に笑われるかもしれないです。今は電子カルテが普及してきました。電子媒体での記録はどうなるのか? とても興味深いです。能う限りなんとかして100年、200年単位で記録が残る方法を模索して欲しいです。 辛い余話3: 医学論文、科学論文を書くのは大切ですが、嘘の論文はいけないです。日本人は一般的に「嘘をつかない」と思われています。本当でしょうか? 数年前、大騒ぎになったSTAP細胞事件は世界中の研究者を巻き込みました。結果的に「追試による検証」ができなかったために論文は取り下げになり責任者は悲痛なことになりました。 ちょっと悲しい余話4: あまり紹介したくないのですが「The Retraction Watch Leaderboard」というサイトがあります。論文撤回数ランキングです。論文撤回とは「投稿して掲載されたが、実は間違っていた、実験はしていなかった、、等々の理由で論文を取り下げること」です。そのランキングトップ10名のうち5名は日本人研究者です(参考:The Retraction Watch Leaderboard)。 一番は184本、二番は172本の論文を撤回しています。数が多すぎて、論評する気にもなれません。まわりは気づかなかったのでしょうか? 不思議です。 とても良い余話5: 最後にとても素晴らしい余話を。近年、私の中では一番「凄い!」と思った科学論文に関する報道です。 京都大学からの発表です。2020年10月15日のことです。 ミヤマニガウリの葉が実を守る《温室》を作ることを発見 -91歳自然観察ガイドの10年越しの観察が論文に-(京都大学) https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2020-10-15 酒井章子京都大学生態学研究センター教授、直江将司森林研究・整備機構森林総合研究所主任研究員、長岡信幸氏らの研究グループは「ミヤマニガウリという植物は秋になると葉が花や実を包み実の成長を促すこと」を明らかにしました。 植物において、葉は光合成のための器官であり、開花や結実のための葉は、これまで知られていませんでした。ミヤマニガウリの葉は、葉緑体も少なく、光合成よりもいわば「温室」として実を守ることに特化した葉だといえます。 この現象は、論文の第一著者の長岡氏によって、2008年に発見されたとあります。長岡氏は、山形県の月山山麓にある県立自然植物園で毎年観察を重ね、葉が寒さから実を守っているのでは、と考えました。相談を受けた酒井教授、直江研究員らが、2018年に長岡氏と調査を行い、ミヤマニガウリ葉の役割が明らかとなりました。この葉っぱによる自然の「温室」は厳しい寒さから花や実を守る一方、花粉媒介を行う昆虫の訪花を妨げます。温室の形成が植物の交配にどのような影響を与えているのかは、今後明らかにされるべき興味深い課題です。 本研究成果は、2020年10月7日に、「Proceedings of the Royal Society B(英国王立協会紀要)」のオンライン版に掲載されました。 望月注: Proceedings of the Royal Society Bはインパクトファクター 5.3 の雑誌です。「B」は Biological Sciencesの略称 ちなみに、Proceedings of the Royal Society Aは「Mathematical, Physical and Engineering Sciences」に関する論文が載ります、インパクトファクターは2.7です。 長岡信幸さん山形県立自然博物園で指導員を務める元中学校の教員で91歳です。91歳で筆頭著者として論文を書いてインパクトファクターを得ています。筆頭著者としてインパクトファクターを得た日本人研究者としては最高齢かも知れません。 自分が世界最初の発見者となるような「本当の発見」に巡り会うことは、ほとんど、ありません。長岡信幸さんのように「身近な発見」をきちんと検証して論文にする。凄いことだと思います。 なんとこんなことを書いていたら、私もある発見をしてアメリカの大学の超有名研究者と研究をすることになり、私の発見は無事論文になりました。後日ご紹介します。 次回は「菅原道真の試験点数は? 満点だったか?」などの話題を含めて雑誌「心電図」に載った論文を書くに至った経緯をさらにお示しします。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2023/05/22 前回、現在使われている人工血管の原型を開発したDeBakey先生のことをお伝えしました。今回はそのDeBakey先生(Michael Ellis DeBakey 1908 – 2008)の紹介です。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 心臓血管外科学を発展させたDeBakey先生ですが、正式名はMichael Ellis DeBakeyです。 DeBakeyを日本語でなんと発音するか、難しいです。日本語文献でDeBakey は「ドゥベーキー」「ドベーキー」「ドベーキ」などと表記されています。本稿では英語表記とします。 DeBakey先生は両親がレバノンから米国に移住した移民です。レバノンはアラビア語が公用語です。 DeBakey一家の元の名前は「دبغي」 です。 このアラビア語表記をDeBakey先生の両親が「Dabaghi」としています。 これをDeBakey先生が英語でも簡単に読める「DeBakey」に変更したと思います。 DeBakey先生は業績が多すぎて簡単には説明できません。本稿で、主な業績、エピソードを紹介します。 医師なら絶対にDeBakeyの名前を知っています。ある病気の分類にDeBakeyの名前が冠されているからです。心臓血管外科を勉強していると、どの教科書、論文にも彼の書いた「教科書や論文」が多数引用されているのに気づきます。この人は「一人」なのかと思ったほどです。 DeBakey先生の業績 1. タバコと肺がんの関係を明らかにした一人です(1936年、28歳の時に書いた論文)。 2. 第二次世界大戦に軍医として参加。戦闘地域でも適切な医療を受けられるようにMobile Army Surgical Hospital(MASH:移動式軍用外科病院)を創設。戦闘地域でも普通の外科手術が受けられる体制を整えます。 35歳-40歳頃の仕事です。朝鮮戦争時には戦闘地域で通常の外科手術が受けられるようになっていました。 ちなみにこの「MASH」の原型は戦闘地域での「歯科病院」です。戦闘中には虫歯が広がりやすく、虫歯があると著しく戦闘意欲が著しく失われることに気づいた米軍が始めたのが軍隊用の「戦地歯科病院」でした。一旦戦闘が始まると、歯磨きもできずどんどん虫歯が進行するから歯の治療は軍隊に必須でした。一方「日本軍兵士(中公新書)」によると日本軍は歯科治療をほとんど行わなかったので、日本軍の兵士はいつも虫歯で苦しんでいたそうです。彼我の差をこんなところでも感じます。 3. 頚動脈狭窄症に対して血栓内膜除去術を世界で初めて行っています。それまでは診断がついても放置されていた疾患です。頚動脈にこびりついた血栓を除去する手術です。放置すると脳梗塞を高率に発症していましたが、この手術術式が確立されたことで、この病気による、脳梗塞は激減しました。 4. 高齢者および障害者向け公的医療保険の必要性をケネディ大統領に進言、後に米国の高齢者や身体障害者向けの医療制度「Medicare」となっています。 5. アメリカ国立医学図書館(United States National Library of Medicine (NLM))の拡充に尽力、NLMは世界で比すべくもない巨大な医学図書館となっています。貴重な医学書のコレクションでも有名です。文献検索システムの「PubMed」を運営していることでも有名です。お世話になっていない医療関係者はいないでしょう。 6. 冠動脈バイパス術の創始者の一人です。 7. 同種血管(屍体から取った血管)を用いて動脈疾患の手術を多数行っています。おそらく世界一の症例数です(前回記事を参照ください)。 8. ダクロン製人工血管を世界で初めて臨床使用。人工血管の臨床使用は世界で2番目でしたが、DeBakey先生の考案した「ダクロン製人工血管」が人工血管のゴールデンスタンダードになり、今でもそれは続いています。 9. この人工血管を用いて様々な大動脈瘤手術を行っています。腹部大動脈瘤、胸部大動脈瘤、胸腹部大動脈瘤、大動脈解離などの手術を行い素晴らしい成績を残しています。今から50年くらい前に、素晴らしい手術成績を残しています。「凄い」としか言いようがありません。 私が行った、全ての大動脈を人工血管に置換した、患者さんの術後CTです。こういう手術もDeBakey先生の考案した人工血管と手術術式が無ければできません。世界中の大動脈疾患の患者さんがその恩恵を受けています。 10. 大動脈疾患の自然歴を明らかにしています。CTが開発されるまで大動脈瘤の診断は容易ではありませんでした。DeBakey先生はCTが普通に使えて診断が容易になるよりもはるか以前に大動脈疾患の自然歴を明らかにしていたのです。そのお蔭でこのタイプの動脈瘤は手術、このタイプの動脈瘤は経過観察しても良いということがわかり、大動脈の治療レベルは飛躍的に上がりました。 11. 大動脈解離(だいどうみゃくかいり)(注:以前は解離性大動脈瘤と言われていた病気)を研究し、大動脈解離を3つの型に分類、今もDeBakey分類として使われています。この分類を知らないと大動脈解離の治療はできません。大動脈疾患治療の基本中の基本ですので、すべての医師はこの分類を覚える必要があり、必然的にDeBakeyの名前を覚えます。大動脈解離は「型」により治療方針が違います。Ⅰ型、Ⅱ型は緊急手術の必要があります、できるだけ早期に手術をしないと助かりません。DeBakey先生は、大動脈解離に対する基本術式を確立しています。 後年、DeBakey先生自身、DeBakeyⅠ型の大動脈解離を発症しています。 大動脈解離の手術症例を示しましょう。 Ⅰ型の大動脈解離症例です。夜6時に搬送されてきました。手術が終わったのは翌日の午後7時でした。上行大動脈から弓部大動脈全置換を行っています。特殊な血管の病気で血管が薄くもろくて、出血のコントロールに難渋したのです。 12. DeBakey先生が直接指導した外科医は約700人。孫弟子を入れると数千人になるとも言われています。日本人外科医も多数指導を受けています。 13. 生涯の手術件数が6万人を越えています。 14. 90歳まできちんとした手術(良い手術成績を残しています)をしていました。 15. 1996年、88歳の時モスクワに赴きエリツィンロシア大統領の冠動脈バイパス術を行っています。もっとも実際に執刀したのはロシア人外科医です。その外科医と共に日本では“手術” と称されるオペ「operation(作戦)」を一緒に行ったのですね。 16. 世界初の人工心臓を開発、臨床使用への道を開きました。 17. 日本人とも大いに関係があります。DeBakeyの人工心臓の研究には阿久津哲造(1922-2007)、能勢之彦(1932-2011)の両先生が大きな貢献をしています。 18. 米国内で3流大学とみなされていたベイラー医科大学を全米屈指の一流大学にしました。 19. 現在の心臓血管外科は、彼の業績なくして成り立ちません。 20. 98歳まで手術室で指導をしていました。少なくとも90歳で人工弁置換術を行っています。実際にDeBakey先生が90歳の時に手術をしているのを見た先生から話を伺ったことがあります。 21. 世界最大のメディカルセンターであるテキサスメディカルセンターを作り上げています。テキサスメディカルセンターは全米12位のbusiness district(オフィス街)です。49の施設と140の建物が集中しています。DeBakey先生が、この地で医業を始める前に何も無かった土地です。なお、DeBakey先生唯一の「後悔」はこのテキサスメディカルセンター周囲に、人工血管、人工弁、医療器具、人工心臓など彼の考案したさまざまな医療機器を作る会社を誘致しなかったことです。誘致していれば、今の10倍の規模のbusiness districtを作れたと、90歳の時に嘆いていたそうです。 22. 自分が研究し、手術方法を確立した「手術をしないと助からないと彼が分類したタイプの大動脈解離」を97歳の時に発症(2006年)、この年齢でこの病気に対する手術は行われないのが普通で、彼も当初は拒否していましたが、説得されて手術を受けて助かっています。彼の優秀なお弟子さんが手術をしたのですね。大手術を受けて回復した後、「優秀な外科医を育てて良かった。自分の育てた弟子に手術をしてもらって良かった」と書き記しています。言われた外科医も嬉しかったでしょうね。 23. 上記手術を受けて回復した後、アメリカ合衆国議会が国内外の文民に授与する最高位の賞である議会名誉黄金勲章(Congressional Gold Medal)をワシントンのアメリカ議会で授与されています。つまり前年の手術から回復したのですね。 どれ1つとっても「一生モノ」の仕事です。DeBakey先生は多くの手術を毎日のようにこなしつつ、論文を書き、研究をして、ビジネスとして医療オフィス街を作り、弟子を育て、アメリカのVIPのみならず世界中のVIPの主治医を務め、世界中の学会から招待を受けて講演しています。90歳を過ぎても手術を行っていたのです。「人間業」ではないと思います。どうして色々なことを一流のレベルで平行して行えるのか不思議です。 若い時から勤勉で、朝は5時に起き、7時まで勉強、研究、論文を書いた後に、ポルシェで病院まで行き仕事をして6時には家に帰り、夕食後は11時頃まで書斎にこもって仕事をしていたとあります。亡くなる直前まで、そういう生活を続けていたそうです。もちろん、DeBakey先生自身の勤勉さが上述の偉業を成し遂げた原点だとは思います。しかし、お弟子さんの書き残した追悼文を読むと「信頼すると任せて仕事をさせてくれた」とあります。同時に「DeBakey先生から命じられた仕事はいつも期限付きで、期限内に成果が上がらない時は厳しかった」とあります。自分にも他人にも厳しく、任せるところは任せて「医業の本道」を生涯全うした結果が上述のような業績になったのでしょう。なおDeBakeyが生きた時代も良かったのだと思います。 彼が生きた時代には 人工血管の良い材料が発明された 人工心臓の材料となる良い素材が開発された 人工弁の材料なる良い素材が開発された 手術に使う糸や針、手術器具が大幅に改良された DeBakey先生が考案し、彼の名前のついた器具が沢山あります。私も普通によく使っていました。一番よく使ったのがDeBakey鑷子(せっし、ピンセット)です。実に使いやすく持ちやすく、しかも臓器を損傷しない、そういう理想的な鑷子です。 抗生物質が普通に使えるようになった このように、DeBakey先生が生きた時代には、さまざまな素材が開発され、手術に供されるようになったのです。そういう時機にDeBakey先生がいたのは、人類にとって幸せでした。受賞はしませんでしたがノーベル賞の候補にもなっています。その先生も年には勝てず、100歳になる8週間前、99歳でお亡くなりになっています。 DeBakey先生のお墓です。質素ですね。 それにしても素晴らしい仕事を次々と成し遂げています。80歳を越えても次から次に色々なことを始めています。新しい人工心臓製造会社も、80歳を過ぎてから興しています。超人です。真に偉大な生涯でした。 DeBakey先生は偉大すぎて、大部の本でないとその生涯は描けないでしょう。 戯れ言です。日本では以下のような文言の方が「受けます」。DeBakey先生の生涯とは真逆です。。 足利にある「香雲堂本店」という、「最中(もなか)」がとても美味しいことで有名な和菓子屋さんの包装紙です。文章の中にある仕掛けがあります。 私が面白いと思った逸話を紹介したいと思います。 逸話1: 両親はレバノンからアメリカ合衆国ルイジアナ州に来たレバノン移民です。父が薬局を経営し、母は裁縫師でした。後年、DeBakey先生の手術が上手かったのは、母親に習った裁縫技術が役に立っています。いつか紹介したカレル先生もフランスのリヨンの裁縫師に縫い方を習っています。外科医の技術のほとんどは「切る」ことではなくきれいに「縫う」ことです。そういう意味で幸せな一歩を年若い時から身につけていたのでしょう。父親は勉強家で家に本があふれていて、DeBakey先生の身近に学問があったのですね。 逸話2: なぜルイジアナ州だったのでしょう。アメリカ合衆国ルイジアナ州は最南部です。実はこのルイジアナ州には「Cajun country」と呼ばれる地域があります。この地域はフランス出身者が多いのです。レバノンはフランスの植民地だったことがあり、フランス語が公用語の1つです。DeBakey先生の両親もフランス語の読み書きが普通にできたのでこの地域を移民先に選んだのでしょう。日産自動車のカルロス・ゴーン会長はレバノン人、彼はフランスで高等教育を受けています。レバノン人ですからフランス語が普通にできたのですね。 逸話3: 彼にはSelma DeBakey, and Lois DeBakeyという二人の妹がいて、二人ともベイラー医科大学のScientific communication学の教授でした。Scientific communication学とは、「文法的に正しく、しかもわかりやすい英語を用いて文章を書く方法」を教える学問です。このDeBakey先生の妹さん、二人がアメリカでこのような学問を興したと言っても過言ではないくらい有名でした。つまり彼の膨大な著作の影には二人の優秀な妹さんがいたのですね。 DeBakey先生の論文は理路整然としていて、実にわかりやすいのです。凝った表現もなく、わかりやすいので「抄読会」で彼の論文が当たると嬉しかったのを思い出します。他の先生の英語は妙に凝っていたり、辞書に載っていない表現を使ったりしているのですが、DeBakey先生の論文は理路整然としていて読みやすい英語でした。伝えたい内容がDeBakey先生の中にあり、それを上手に表現してくれる妹さんが二人もいたのも、彼の業績が世界的になった1つの大きな要因だと思います。 逸話4: 彼のお弟子さんには優秀な方が多く、なかでも有名なのは次の4名です。破門された方も含まれています。 心臓外科全般:Denton Arthur Cooley先生(1920-2016) 大動脈外科:Ernest Stanley Crawford先生 (1922-1992) 人工心臓、心臓移植:George P. Noon先生 外傷学:Kenneth Mattox 先生(1938-) それぞれの分野で世界のトップです(した)。その上にいて、指導しているのがDeBakey先生です。 この4名の中で、一人、De Bakey先生から破門された先生がいます。Cooley先生(Denton Arthur Cooley )です。 Cooley先生は1960年までDeBakey先生の元で働いていましたが、独立して「Baylor St. Luke's Medical Center」で手術を行い始めます。1962年には自分で基金を募り、The Texas Heart Institute(テキサス心臓研究所)を設立、Baylor St. Luke's Medical Centerを自分の病院として活躍し始めます。DeBakey先生の働くベイラー医科大学メソジスト病院とは通りを隔てたすぐ隣に病院を作ったCooley先生は、それでもベイラー医科大学の教授として教育を行っています。 そんなDeBakey先生とCooley先生の間に大きな溝ができます。1969年4月4日のことです。この日、DeBakey先生はワシントンに出張中で自分の病院にいませんでした。DeBakey先生が不在の日に、Cooley先生は、自分の病院で「世界初の人工心臓移植術」を行ったのです。患者さんの名前は「Mr.Haskell Karp」47歳男性でした。この方は心筋梗塞で心不全を生じ、Cooley先生曰く「やむなく人工心臓を使ったが、それは心臓移植までのつなぎとして使った」そうです。ほどなくして心臓のドナーが現れ、人工心臓を取り外し、心臓移植を行いましたが、残念なことに拒絶反応が生じてこの患者さんはお亡くなりになっています。 出張先で「世界初の人工心臓使用」を聞いたDeBakeyは激怒しました。なぜなら、ベイラー医科大学での人工心臓の主任研究者はDeBakey先生だったからです。DeBakey先生のあずかり知らないところで「人工心臓」が使われたのです。 Cooley先生は「自分達の使った人工心臓はアルゼンチン人外科医のリオッタ先生と共同開発した、DeBakey先生の作っている人工心臓とは違う新しい人工心臓だ」と反論しました。リオッタ先生はDeBakey先生の下で人工心臓開発をしていたのです。それを突かれたリオッタ先生は「休日に自宅ガレージでクーリー先生と共に人工心臓を作っていた」と抗弁しました。 しかし、クーリー先生が“作った”人工心臓はDeBakey先生が作り上げた人工心臓と瓜二つでした。 というわけで、米国外科学会でも問題となり、クーリー先生は「譴責処分」を受けます。そう言うわけで、DeBakey先生から、クーリー先生は破門(ベイラー医科大学の教授職を取り上げられた)されたのです。その後も、このお二人は通りを隔てた病院で手術を多数行い、二人とも驚異的な手術成績を残します。 逸話5: 私はDeBakey先生に、直接習ったことはありませんし、話をしたこともありません。遠くから仰ぎ見る外科医でした。そのDeBakey先生とエレベーターで二人きりになったことがあります。1998年の胸部外科学会に招請されて来日された時のことです。すでに先生は90歳でしたが、1時間の講演をなさっていました。至ってお元気でした。その学会場での出来事です、偶然、エレベーターに乗っていたらDeBakey先生がそのエレベーターに乗ってきました。短時間ですがエレベーター内で、二人きりになりました。ちょっとドキドキしました。今,思うと何か気の利いたことを述べて、学会誌にサインでも頂いておけば良かったと後悔しています。 逸話6: クーリー先生はDeBakeyと対立しましたが、DeBakey先生に勝ると劣らない業績を上げています。 「Texas heart instituge journal 」 最後にDeBakey先生の口癖を紹介しましょう。 「You can never learn enough!」 【参考文献】 DeBakey ME (1991). “The National Library of Medicine. Evolution of a premier information center”. JAMA 266 (9): 1252–8. 能勢之彦, 人工臓器の歴史を語る 世界の巨人たち第二話 : アメリカ人工心臓計画の礎を築いたマイケル・ドベイキー先生 人工臓器 40 (3), 240-248, 2011-12-15 O. H. Frazier, 「Michael E. DeBakey, 1908 to 2008」 J Thorac Cardiovasc Surg . 2008 Oct;136(4):809-11 M E DEBAKEY,「ANEURYSM OF ABDOMINAL AORTA ANALYSIS OF RESULTS OF GRAFT REPLACEMENT THERAPY ONE TO ELEVEN YEARS AFTER OPERATION」Ann Surg. 1964 Oct;160(4):622-39. 川田志明 耳寄りな心臓の話(第13話)『巨星、墜つ!心臓血管外科の厳父』マイケル・ドベイキー(1908-2008) https://www.jhf.or.jp/publish/bunko/13.html Left common carotid artery cannulation for type A aortic dissections. Mochizuki Y, Iida H, Mori H, Yamada Y, Miyoshi S. Tex Heart Inst J. 2003;30(2):128-9. Novel single-stage operation and inflow source: for thoracic aortic aneurysm and limb ischemia. Kawajiri H, Mochizuki Y, Kashima I. Tex Heart Inst J. 2011;38(5):547-8. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2023/4/24 以前、「ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない」というコラムで、血管手術を創始したイギリス人外科医ジョン・ハンター医師の事を紹介しました。当時の血管手術は悪くなった血管を切除する手術で、適応は限られていました。 その後、フランス人医師のカレルが血管手術の基本手術手技を確立、ノーベル賞を受賞しています。しかし、血管手術はなかなか広まりませんでした。良い人工血管がなかったからです。 今回、現在、普通に使われている人工血管の開発史を紹介しようと思います。 ■関連記事 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 人工血管をご存じですか 皆さんは人工血管をご存じでしょうか?血管の手術で使われる医療材料です。その人工血管ですが、実は皆さんの身近にある素材からできています。衣服、布団、登山用品、登山靴などに普通に使われている材料です。以下のような素材です。名前を聞いたことがある方も多いと思います。 テフロン®(ポリテトラフルオロエチレン :polytetrafluoroethylene, 略称 PTFE) ゴアテックス®(延伸テフロン:Expanded polytetrafluoroethylene, 略称 ePTFE) ダクロン®(ポリエチレンテレフタレート: polyethylene terephthalate, 略称 PET) 人工血管をいくつか、お目にかけましょう。 写真1:人工血管各種 写真2:腹部大動脈~両足の動脈用の人工血管 ダクロン®製 写真3:太い大動脈用の人工血管ダクロン®製 人工血管の「直径」がわかるように500円玉(直径26.5mm)を置いてみました。 写真4:ダクロン®製人工血管の内外ある襞(ひだ) 人工血管に「襞(ひだ)」があるのがお変わりになるでしょうか? 写真5:テフロン®製人工血管 これは直径が10mmの人工血管です。襞(ひだ)がありません。 イギリス人外科医、ジョン・ハンターが「まともな血管手術」を創始し、その流れが日本にも伝わるという話を紹介させていただきました。 しかしその後、血管手術はあまり進展しませんでした。痛んだ血管を切除する手術しかできなかったからです。血管(動脈でも静脈でも)を切除すると血流が障害され、臓器障害が生じるので血管切除術が成功するのは一部の血管に限られていました。 以前紹介させていただいた、アレキシス・カレル医師(血管吻合法や臓器移植の業績に対して1912年ノーベル賞を受賞)は、屍体からの血管保存を始めます(文献1)。事故や血管疾患以外の病気でお亡くなりになった方から血管を採取して、保存し、血管の病気の方に使うという方法です。この流れは今でも続き、日本でも屍体から提供していただいた弁膜や血管を保存し、特殊な疾患の治療に使われています(注:同種心臓弁・血管組織移植といいます:英語 homograft)。 屍体から提供を受けた血管を大量に保存していたのがアメリカのテキサス州ヒューストンにあるベイラー医科大学の外科医、DeBakey(ドゥ ベイキー:1908-2008)でした。 DeBakeyとは少し変わった名前です。両親がレバノン出身の移民です。レバノンはアラビア語が公用語で元の表記は دبغي です。アラビア語表記をDeBakey先生の親は「Dabaghi」にして、最後にDeBakeyに変更したのですね( دبغي →Dabaghi→DeBakey)。DeBakey医師のことは、後日、別途紹介します。 人工血管時代の幕開け 話を血管保存に戻します。 1940年代後半、DeBakey先生のグループは世界一の屍体から採取した「血管銀行」を作っていました。テキサス州ヒューストンは大都会(注:人口全米第4位)ですから事故も多く、屍体から採取した血管を大量に貯蔵していました。その採取した血管を使った手術が数多く行われ成績も良好でした。それゆえにDeBakey先生の元には血管疾患を抱えた患者さんが押し寄せ、痛んだ血管を「保存した血管」に交換する手術をうけたのです。多くの手術が行われ、血管銀行で保存していた血管も底を突いてしまいます。手術に使用する血管が足りなくなったのです。 屍体から採取する同種血管には供給に限りがあります。そこで、だれでも考えつくのが「人工血管」です。しかし、人工血管の素材を見つけるのは難しく、なかなか上手くいきませんでした。そんななか、1952年のことです。ニューヨークにあるコロンビア大学の外科医ヴォーヒー(Arthur B. Voorhees Jr:1921-1992)と、ブレイクモア(Arthur Hendley Blakemore:1897-1970)が 「ビニロン“N"で作った人工血管」 を用いて動物実験を手術を行い、良好な成績をおさめました。1954年には、その「ビニロン“N"で使った人工血管」を人体に用いて手術を行いました。死亡率は極めて高い手術でしたが、長期生存例も得られています(18人中10人は長期生存、8人は術中or術後早期に死亡:文献2, 3)。これが世界で最初に行われた人工血管を用いた手術の「成功」例です。人工血管時代の幕開けです。 この成功を見て世界中で「人工血管」の研究が盛んになり、「今月のヒット人工血管」とでも言うほど多くの人工血管が作られ、試されました。ヴォーヒー、ブレイクモア医師が用いたビニロンは、結果的には人工血管には適していませんでした。高価で加工も難しかったからです。 なお、ブレイクモア医師は「セングスターケン・ブレイクモア・チューブ(Sengstaken-Blakemore tube)」に名を残しています。医師なら誰でも知っているこのチューブは食道静脈瘤破裂を予防するためのチューブです。今でも普通に使われています。 人工血管の元になる2つの大きな「進歩」 1950年代半ば、現在も使われている人工血管の元になる2つの大きな「進歩」がありました。どちらも偉大な発見ですが、どちらも「偶然」から得られています。その2つの発見を元にした人工血管が1950年後半にできて以来、ほぼその頃から現在まで人工血管の素材、形状は変わっていません。 この2つの偉大な発見をご紹介しましょう。 一つ目の進歩は前述のDeBakey先生の業績です。DeBakey先生に訪れたセレンディティ(偶然)から産まれた進歩です。DeBakey先生の患者さんに偶然「ボビーソックス」という靴下を作って財を成した実業家のアーサー・ハニッシュ(Arthur Hanisch)という方がいて、この方がDeBakey先生の人工血管製造の手助けをしてくれたのです。 ハニッシュさんは繊維業で財を成し、Stuart Pharmaceutical Companyという製薬会社も経営していました(後にアストラゼネカ社に吸収合併されています)。つまり医療に関心があり、医療知識も豊富でした。ハニッシュさんはDeBakey先生にフィラデルフィア繊維工芸大学(Philadelphia College of Chemistry and Textiles.)のエドマン教授(Thomas Edman)を紹介します。紹介しただけでなく、研究資金援助も行いました。その資金を使ってエドマン教授は、様々な素材を試し、縫い目の無い織り方ができる機械も作っています。 最終的に得られた結論は、人工血管を織る「繊維」は 縫いやすく ほつれが少なく 加工しやすい という特徴を持つポリエステル繊維(ポリエチレンテレフタレート:PET)を使った人工血管です。あのペットボトルのPETです。PETを使って人工血管を作るのが良いという結論でした。 そしてデュポン社のポリエステル繊維「ダクロン®」を用いて織った人工血管製造を提言しました。 人工血管創世記にはDeBakey先生の奥さんが人工血管を作っていました。彼女は裁縫上手だったのです。こういう事も偶然のひとつでしょう。DeBakey先生の手術室の横で、奥さんがデパートで買ってきたダクロン®布をミシンでDeBakey先生の要求する形状、太さの「人工血管」をミシンで作っていたのです。それを消毒して手術に用いていました。ダクロン®製の人工血管は直ちに製品化され今も普通に使われています。つまり「ダクロン®が人工血管製造に適していることの発見」が1番目の大発見です。 DeBakey先生が偶然、 繊維業に詳しく、繊維化学の専門家に知り合いがいる 人工血管開発のための資金を提供してくれる 医薬品開発に関心のある という三拍子揃った患者さんに巡り会わなければ、この発見は随分と遅れたことと思います。 もちろん、裁縫上手な奥さんがいたこともこの発見には必要でした。 人工血管には「襞(ひだ)」がある もう一つの大発見も、またかと思われるかも知れませんが、セレンディティ(偶然)から産まれました。太い血管に使われる人工血管には「襞(ひだ)」がついています。この襞は人工血管には必須です。曲がるストローに似ていますね。 写真6:人工血管の襞 人工血管にこの襞が付いていることで2つの利点が見つかったのです。 折れにくい(曲がりストローと一緒ですね) 人工血管の内側に血管内皮が自然に覆うようになる この2点です。 今では、写真1-4でお示ししたように人工血管に襞があるのが普通です。 写真6の襞付きストローは1937年Joseph B. Friedman(1900-1982)というアメリカの発明家が考えたモノです。“bendable straw" or "bendy straw" “flexible straw"と呼ばれています。こちらの方が人工血管より先に発明され、世の中に出ていたのでこの曲がるストローから人工血管の襞も思いついたと考えるのが普通でしょう。しかし、違います。この襞は偶然の産物です。 前述のヴォーヒー、ブレイクモア医師のビニロンによる人工血管の発表を聞いて、自分も人工血管を作ろうと思い立ったのが、アラバマの外科医のスターリング・エドワード医師(Sterling Edwards:1920-2004)です。彼はChemstrand Corporationの技術者ジェームス・タップ(James Tapp)とともにナイロンを用いた人工血管を作ろうとしていましたが、なかなか上手くいきませんでした。 良い人工血管の条件には、 折れると血流が途絶するので折れ曲がりにくいけれど、適度に曲がること 人工血管の内側に自然な血管内皮ができること の2点が必要です。 そんな条件にあった都合の良い形状の人工血管はなかなか見つかりませんでした。実験を繰り返していたある日、タップさんは少し間違いを犯します。ナイロン製人工血管を、ホルマリン処理を施すためにガラスの管に通しておいたのですが、それを押し出す時、人工血管に襞ができてしまったのです。そうです、写真6の曲がるストローの様な形状の人工血管ができたのです。適度にまがり、折れ曲がって血流が途絶することも無さそうです。しかし、襞があると人工血管の中に血栓ができやすそうですね。普通に考えたら、人工血管の内側は滑らかなほうが良さそうです。しかし、エドワード先生はこのタップさんが“作った"襞のある直径6mmのナイロン製の人工血管をイヌの動脈に移植して実験を行いました。驚いたことに、移植後数日で、襞の部分に血栓ができてその上にきれいな血管内皮ができて内腔がなめらかになったのです。 1954年、この襞付きのナイロン製人工血管を臨床使用して成功しました。足の付け根にある動脈を「襞付き人工血管」に置換したのです。足を曲げても人工血管は折れ曲がらず、血流も良かったのです。 今に至る「人工血管に襞をつけると人工血管内に血管内皮ができやすくなる」という偉大な発見です。当初、エドワード先生、タップさんの考えた人工血管はナイロン製でしたが、ナイロンでは加工が難しく上手くいきませんでした。しかし、テフロン® (デュポン社の商標:正式名はポリテトラフルオロエチレンPolytetrafluoroethylene)を用いて成功します。 DeBakey先生のダクロン®製の人工血管にも「襞」がつくようになり、ほぼ今使っている人工血管と同じモノができたのです。ダクロン®は、繰り返しますが、ポリエチレンテレフタレート、つまりペットボトルのPETと同じです。今使われているテフロン®はテフロンゴアテック社のePTFE(expanded PolyTetraFluoroEthylene)です。ジャケットや靴の素材として有名ですね。いわゆる「ゴアテックス®」です(写真5)。多少は、人工血管を身近に感じられるかと思います。 様々な改良がなされ使いやすくなっている人工血管ですが、その元は1950年代の発見によるというお話でした。 次回は、99歳まで元気で生きて、お亡くなりになる数ヵ月前まで最新型のポルシェを運転し、97歳まで手術をしていた外科医の紹介をしましょう。DeBakey先生のことです。彼なくして人工血管の普及は無く、大血管手術の発展もありませんでした。20世紀最高の外科医です。 【参考文献】 Carrel A. VIII. On the Experimental Surgery of the Thoracic Aorta and Heart. Ann Surg. 1910 Jul;52(1):83?95. 同種血管の論文 ノーベル賞受賞者カレルが書いています。 VOORHEES AB Jr, JARETZKI A 3rd, BLAKEMORE AH. The use of tubes constructed from vinyon "N" cloth in bridging arterial defects. Ann Surg. 1952 Mar;135(3):332-6. Arthur H. Blakemore and Arthur B. Voorhees, Jr :The Use of Tubes Constructed from Vinyon “N" Cloth in Bridging Arterial Defects?Experimental and Clinical :Ann Surg. 1954 Sep; 140(3): 324?333. 世界初の人工血管の臨床使用 DEBAKEY ME, COOLEY DA, CRAWFORD ES, MORRIS GC., Jr :Aneurysms of the thoracic aorta; analysis of 179 patients treated by resection. J Thorac Surg. 1958 Sep;36(3):393?420. DEBAKEY ME, CRAWFORD ES, COOLEY DA, MORRIS GC Jr, ROYSTER TS, ABBOTT WP. ANEURYSM OF ABDOMINAL AORTA ANALYSIS OF RESULTS OF GRAFT REPLACEMENT THERAPY ONE TO ELEVEN YEARS AFTER OPERATION. Ann Surg. 1964 Oct;160:622-39. Edwards WS, Tapp JS. Chemically treated nylon tubes as arterial grafts. Surgery 1955;38:61-76. Edwards WS, Tapp JS. Peripheral artery replacement with chemically treated nylon tubes. Surg Gynecol Obstet 1956;102:443-9. EDWARDS WS, TAPP JS.Surgery. A flexible aortic bifurcation graft of chemically treated nylon. 1957 May;41(5):723-8. JULIAN OC, SU HH, EL ISSA S, LIMA A, LOPEZ-BELIO M. Comparison of flat and crimped dacron taffeta arterial prostheses otherwise identical. Surg Forum. 1958;9:316-9. Edwards WS. Arterial grafts. Arch Surg 1978;113:1225-33. ■関連記事 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2023/02/20 糖尿病治療薬や高脂血症治療薬はある種の感染症に効果がある 現時点(2023-02-07)で、COVID-19の第8波は、新たな感染者が減り、落ち着きつつあるようです。人類は「細菌、ビールス、寄生虫、真菌、プリオン、マイコプラズマ、リケッチア、クラミジア」などが原因となる「感染症」に苦しめられてきました。これからも苦しめられるでしょう。いくつかの感染症には特効薬や著効するワクチンが作られています。しかしほとんどの感染症はいまだに、制御不能です。 感染症治療薬というと、 細菌に対するペニシリン、セフェム系抗生物質、サルファ剤、キノロン契約剤 など多数 結核に対するストレプトマイシン、カナマイシン、リファンピシン、イソニアジド など 抗ウイルス薬:バラシクロビル、タミフル、イナビル など 抗寄生虫薬:イベルメクチン など が挙げられます。病原微生物の数に比して微々たる数しかありません。 世界中でCOVID-19治療薬が開発されていますが、インフルエンザにおけるタミフルのような特効薬は見つかっていません。もっとも日本はタミフルを使いすぎています。全世界のタミフル全使用量のうち、なんと、その75%が日本で使われています。安易に使われ過ぎていると思います。 全世界75%のタミフルを消費する日本人、インフルエンザになる前に知っておくべき薬の話(ITmedia ビジネスオンライン) 日本ではインフルエンザの診断をするのに、イムノクロマト法という特殊な方法を用いた迅速検査キットを普通に使っています(コロナの抗原検査も測定原理は一緒です)。 咽頭粘液を綿棒で採取して検査をします。採取した咽頭粘液を特殊な液に浸し、浸した液をこの検査キットに垂らします。 ある患者さんの検査を示します。この方は、この検査ではA型及びB型のインフルエンザウイルスに同時に感染している事を示します(同時感染は珍しいです)。 C:controlです。ここにスジがでれば検査はきちんと行われていることになります。 B:Bにスジが出ればインフルエンザB型に感染していることを示します。 A:Aにスジが出ればインフルエンザA型に感染していることを示します。 日本では上記の様な検査でインフルエンザ感染が診断されるとタミフルなどの抗インフルエンザ薬が投与されます。実は、この過程は世界でも極めて稀なのです。 ほとんどの国で、高齢者や感染し易い病気に罹っている方は別にして、このようなインフルエンザ検査は行いません。インフルエンザは感冒(風邪)の一種です。「流行性感冒」です。通常、寝ていれば数日で治ります。タミフルなどの抗インフルエンザ薬は解熱するまでの日数を1日早めるだけです。この辺り、議論があるかと思います。 話は変わります。これまで三大感染症と言えば、 1. 結核:150万 2. エイズ:120万人 3. マラリア:44万人 の3つでした。数字は2015年のWHO統計による死者数(世界全体)を示します。 “米ジョンズ・ホプキンズ大の集計によると、新型コロナウイルス感染症による死者が5日、世界全体で70万人を超えた。感染が報告されてから7ヵ月余りで、三大感染症で2番目に死者が多いエイズの昨年の死者数69万人を上回った(2020年08月05日)” と報道されました。この時点で、新型コロナウイルス感染症による死者はエイズ、マラリアを上回っていましたが、最近は死者数が減少しています。また武漢株のような死亡率が高いコロナウイルスが出現すれば、新型コロナウイルス感染症も加えて四大感染症と称されるようになるかもしれません。 結核による死者数は依然として高いままです。結核にはワクチン(BCG)があり、治療薬もたくさんあります。イソニアジド、リファンピシン、ピラジナミド、エタンブトール、ストレプトマイシンなどです。感染者は近年減少していますが、死者数は多いままです。結核は薬だけでなく、社会環境の整備(栄養、上下水道etc. etc.)が必要であることを示していると言っても過言ではないと思います。 「結核菌に感染しても95%は発症しない。結核菌は肺の中で共存している」という説があります。結核蔓延国にはそういう「発症していないけれど結核菌を持っている人」が結構いるのです。発症していないと、結核は診断がつきません。一昔前まで、結核の診断はツベルクリン反応、レントゲン写真、喀痰培養などが用いられました。現在はIGRA(抗原特異的インターフェロン-γ遊離検査 :IGRA:Interferon-Gamma release assay)という検査で鋭敏な結核診断がなされるようになりました。IGRAで陽性だと体内に結核菌がいるか過去に結核に罹患したことを示します。 「日本におけるIGRA(インターフェロンγ遊離試験)の 年代別陽性率に関する検討(Kekkaku Vol. 92, No. 3 : 365_370, 2017)」によると、 20代:2.9 30代:4.7 40代:3.2 50代:3.6 60代:7.1 70代:18.8 80代:26.3 です。高齢者で高いですね。IGRA陽性=結核に罹っていることを示している訳ではありません。 IGRA陽性なら 1. 結核に罹患したことがあるか 2. 結核に罹患しているか 3. 結核菌が休眠状態で体内にいるか のどれかを示します。結核に罹っても発症せず、休眠状態のことも多いのです。なぜ休眠するか?それも良くわかっていません。 最近とても興味深い研究報告があります。皆さんは、 糖尿病治療薬のメトホルミン 高脂血症治療薬のスタチン が結核に効くと思いますか?「効きます」と言われてもにわかには信じがたいでしょう。私もそうでした。 メトホルミンによる結核に対する臨床評価論文の一つを紹介します。 Nicholas R Degner, et al. 「Metformin Use Reverses the Increased Mortality Associated With Diabetes Mellitus During Tuberculosis Treatment:Clinical Infectious Diseases, Volume 66, Issue 2, 6 January 2018, Pages 198–205」 この論文には「糖尿病を合併していると結核の死亡率は約2倍になるが、メトホルミンを服用していると死亡率は高くならない」とあります。なぜメトホルミンという糖尿病治療薬が結核に効くのでしょう? 様々な説があります。メトホルミンによる結核に対する効果に関して様々な論文が出ています。100数編の論文が出版されています(2022-12-17時点)。 メトホルミンには寿命を伸ばすアンチエイジング作用があるとの研究も多数あります。 「メトホルミン」が寿命を延ばす アンチエイジング効果を確かめる試験(糖尿病ネットワーク) 「メトホルミンで糖尿病治療をしていた群ではCOVID-19死亡率が低かった」という論文もあります。 Metformin Use Is Associated With Reduced Mortality in a Diverse Population With COVID-19 and Diabetes メトホルミンは「子宮体癌」にも効くかもしれないとのことで治験が始まっています。 Gynecol Oncol . 2017 Oct;147(1):167-180. 2022/06/30「国立がん研究センター中央病院脳脊髄腫瘍科の成田善孝氏らのグループは2022年6月、悪性脳腫瘍である膠芽腫に対して、標準治療に糖尿病治療薬メトホルミンを併用した場合の安全性と有効性を評価する第2相試験を開始した。」との報道もあります。メトホルミンは万能薬でしょうか? メトホルミンは脳腫瘍の治療にも有用?(国立研究開発法人日本医療研究開発機構) 高脂血症治療薬のスタチンも結核に「効く」という論文が多数あります。 Statin use and risk of tuberculosis: a systemic review of observational studies. Int J Infect Dis . 2020 Apr;93:168-174. Etc. メトホルミンやスタチンは病原微生物を死滅させるような薬ではありません。このようなお薬は宿主(感染を生じているヒト)側の状態を良くさせるという「Host Directed Therapy(HDT)」と言われています。薬剤耐性も生じないか生じにくいだろうと予想されています。 そのうち「スタチンとメトホルミンをのんで結核を治そう」という時代が来るかもしれません。なおメトホルミンやスタチンのように、元々の薬効のほかに別な病気に有効な薬効を見つけることを「ドラッグ ・リポジショニング(drug repositioning)」と言います(注:何か良い日本語による訳語が無いでしょうか)。 注:フランス在住の言語学者小島剛一氏より「想定外薬効開発」が訳語としてはどうでしょうかとの提案がありました。私もそれに賛成です。 いまCOVID-19の治療薬が研究されています。灯台下暗しで、もしかしたらメトホルミンやスタチンのように思わぬところからCOVID-19に効くお薬が見つかるかもしれないです。見つかれば良いですね。 注: COVID-19に対するmRNAワクチン接種が進んでいない国があります。コンゴ民主共和国、イエメン、チャド、ハイチ、ベニン、中央アフリカ共和国などの国の接種率は極めて低いレベルです。どの国も「貧しい」とされている国です。ワクチンを購入する費用がないのです。悲しい話です。 コロナ禍が浮き彫りにするグローバル社会のワクチン格差と不平等(ヒューライツ大阪) 注: COVID-19mRNAワクチンを拒否し、自国製ワクチンを接種している中国のような国もあります。この辺り、本当にどう考えるのか難しいです。 注:結核のワクチンであるBCGにCOVID-19予防効果が? ハーバード大学医学大学院Denise Faustman先生のグループの研究です。 Multiple BCG vaccinations for the prevention of COVID-19 and other infectious diseases in type 1 diabetes(PDF) BCGを3回接種(4週間隔で2回、その翌年に1回)打つと、BCGワクチン接種群のCOVID-19発症者は1%、プラセボ接種群で12.5%と、実にBCGワクチンの感染予防効果は92%という結果です。1型糖尿病の患者さんが対象です。糖尿病の方以外にも効くか? 3回も打てるか? 等々、問題はありますが、良い視点の良い研究だと思います。 注:メトホルミンを投与すると、コロナ後遺症が40%減る という論文が、2023年6月8日にThe Lancet Infectious Diseasesという雑誌に掲載されました。 Outpatient treatment of COVID-19 and incidence of post-COVID-19 condition over 10 months (COVID-OUT): a multicentre, randomised, quadruple-blind, parallel-group, phase 3 trial というタイトルです。アメリカの18の医療機関の共同研究論文です。 ・COVID-19罹患後、早期にメトホルミンを服用するとCOVID-19後遺症発病を40%抑制する ・この効果は患者が肥満している場合に、より効果が高いとの事です。メトホルミン、凄いです。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/12/12 手術をするのは結構大変、大臣室から電話がかかることもある 外科医をやっていると色々な経験をします。滅多に無いことも経験します。いくつか紹介しましょう。最初はとても真面目な話です。 手術は前の晩から始まる 心臓手術前は結構、緊張します。緊張というか集中します。手術は前の晩から始まります。お風呂に入りながら、あるいは寝る前に執刀開始から終了までの手順を頭の中で整理します。 「前の晩に手術手順を頭の中で整理する方法」 を教えてくれたのはO先生です。O先生の手術はいつもテキパキと進み迷うことがありませんでした。どうやったらO先生の様に手際よく手術が出来るのか不思議でした。 「どうしたら先生の様に遅滞なく手術が出来るのですか?」と伺ってみました。 教えてくれたのは「前の晩に手術手順を考えること、患者さんの病状、病態を良く考えること」でした。どんなに小さな手術でも同様なことを繰り返していると聞き、びっくりしました。例えば、冠動脈の手術を執刀するときは、冠動脈造影を繰り返し見て、その映像が頭の中に浮かぶようにする。そしてどこにバイパス吻合をするか頭の中で、きっちりと、考えておく。などなど。。 O先生は後に某大学の学長にもなった偉い方です。そのような先生でもそういう準備をしていると聞き「これは真似しよう」と思いました。 最初のうちは、あれこれ考えて眠れなくなりましたが、段々と慣れてきて自然に手術手順が浮かぶようになりました。実際、行っている外科的操作の、次や次の次に行う外科操作やそのための指示が遅滞なくできるようになりました。外科医も結構大変なのです。 堀内恒夫氏の登板前夜の準備 O先生の話を聞いてから数年後のことです。元ジャイアンツのピッチャー堀内恒夫さんの講演を聞く機会がありました。その講演で堀内さんは「登板日の前夜、相手チームのバッターからどうやってアウトをとるか詳細に検討していた」と話していました。以前対戦したバッターに何を投げたか、結果はどうだったか等々を考え、翌日に投げる球を頭の中で組み立てていたそうです。そういうことの積み重ねが大切だと話していました。 盗塁王の福本豊(元阪急)と日本シリーズで対戦した時の話も面白かったです。福本は当時、盗塁をしまくっていました。圧倒的な盗塁数でした。福本の盗塁記録は「絶対に破れないプロ野球記録」といわれています。その福本選手に日本シリーズで対戦した堀内さんは1回も盗塁を許さなかったのだそうです。それは、森昌彦捕手と盗塁阻止方法を研究し、繰り返し練習したからだと言っていました。ピッチングを考えたり、守備方法を考えたりするのが大切なのですね。前述の手術準備に通じる話だと思って聞いていました。 手術当日は朝1番に患者さんのところに行く 手術当日は朝1番で患者さんのところに行って体調などを確認します。これは結構大切なことです。それから手術室に向かい、病変の確認(超音波の画像、カテーテルの画像などを再度記憶)、人工心肺の確認、麻酔科医師との相談、手術ナースとの打ち合わせ、手術に使う機材の確認などを行います。沢山やることがあります。それでも麻酔が始まるとそういう諸々は終わります。その時間、目を閉じて、再度手術手順の確認を頭の中で行っていました。静かに集中する時間です。 大臣からの電話 TVを見ていたら、昔、手術直前に大臣室から電話がかかってきたことを思い出しました。その元大臣だった方がTVに出ていたのです。その方が大臣を務めていた時のことです。執刀直前、静かに集中している時間にその方から電話がかかってきたのです。 交換台から「A大臣室から電話が入っています。望月先生につなぐように言っています。」と連絡が入りました。手術日は余計な電話はつながないように言ってありますが「大臣からです」と言うので何の用かなと思って電話に出ました。 A大臣の用件は「今日、望月先生が手術するBさんは私の後援会の大切な人だ。手術をしっかりするように、くれぐれもよろしく」とのことでした。手術は予定通り終り何事も無く退院しましたが、その後は1回も大臣から電話はありませんでした。「手術日にA大臣から電話があった」と病院内でちょっとした話題になりました。 余談です。 交換台のお姉さん達に注意(笑) 良かったこと?もあります。大臣からの電話があったおかげで、普段、見たことも話したことも無かった交換台のお姉さん達から声をかけられ、彼女達の忘年会にお呼ばれしました。それでわかったことがあります。交換台の方々は院内院外の恋愛事情を把握しているのです(笑)。謹厳実直を絵に描いたようなあの先生のところには、よくよく、銀座のママさんから電話がかかって長々電話をしているとか、。。怖い怖い。 話を手術に戻します。 怖い筋の方の手術1 怖い筋の偉い方?を手術したこともあります。その患者さんの部屋にはいつも怖そうなお兄さんが病室(個室)にいました。手術前の説明の時には強面の方々が20名程度、勢揃いしました。病院の会議室で手術の説明をしました。映画のような光景でした。手術日前後に怖いお兄さんが「事故でも起こると困るので先生の自宅から家まで、送り迎えをする」と言われましたが、丁重にお断りしました。無事手術が終了して退院。ほっとしました。 怖い筋の方の手術2 緊急で入院してきた別の怖い筋の方、Cさんのことは、今でも忘れません。難しい病気を発症して緊急入院してきました。放置すれば死亡率の高い病気です。救命には手術しか方法がありませんが、極めて難易度が高い手術が必要です。手術死亡率も高い手術です。土曜日の昼頃にいらしたのです。手術をすれば夜中までかかります。怖い筋の方々が、怖い顔をして付き添っています。どうしようか、迷いました。同僚医師も怖い顔の面々を見てビビっていました。 患者さんには正直に「この病気は突然死する可能性が高いことや手術をしても死亡する可能性があること、内科的治療では1週間以内に突然死する可能性が高いこと」などを伝えました。そうしたら、ドスの利いた声で 「悪い奴をやっつけようとしたら急に胸が痛くなった。今、胸が死にそうに痛い。」「このままなら、死んでしまうと素人の俺でもわかる。それくらい痛い。だからスパッとやってくれ。良くなったら悪い奴をやっつける。」 と言ったので手術準備を始めました。着ていた服を全部脱がせたら、私も他の先生も看護師さん達も言葉を失いました。 顔に多数の傷跡があるのは入院してきた時から解っていたのですが、全身が映画や漫画に出てくるその筋の方のようにキズアトだらけでした。キズを縫合したアトが無数にあるのです。こんなに多くのキズアトは、後にも先にも見たことがありません。どうしたのか聞いてみました。 私:「この多数のキズはどうしたのか?」 Cさん:「中学生の頃から、喧嘩してきたから」 私:「沢山あるキズは刃物のキズ?」 Cさん:「そう、喧嘩は最後に刃物を使うからね。この傷はナイフや包丁や日本刀で切られたキズだよ。先生もメスを使うだろう。同じだよ。。」 いやいや、メスを使うのと刃物を使うのは別です。ちなみに皮膚などを切開するのに使う刃物を日本では「メス(mes=オランダ語)」と称しますが、英語では「スカルペル(scalpel)」や「ナイフ(knife)」と称します。私は心臓手術に使う手術用特殊ナイフ(メス)に関する特許を持っています。その特許に準じたメスを作って頂き日本や外国で使ってもらっています。その特許の書類にも「ナイフ」と書かれています。この特許のお蔭で「カンブリア宮殿」という番組に出演しました。クリニックで今、そのビデオの一部を流しています。いつかこのこともお伝えしましょう。 それはさておき 無事、10数時間かかった手術も終りCさんの胸と足にまた「刃物のキズ」が増えてしまいました。元気に退院していきました。色々な人生がありますが「喧嘩に明け暮れる」人生とは無縁でいたいですね。Cさんは、後にちょっとかわいそうなことになりました。折角大手術をして元気になったのにとても残念でした。 ある企業の創業者の方に「先生は偉くなれない」と言われたこと これは私が手術した話ではありません。私が研修医の時、ある大企業の創業者が入院してきました。80歳くらいでした。当時としてはかなり高齢の患者さんです。ご高齢だったので検査から手術まで入院期間が結構長かったのです。そのお蔭で色々な話を伺うことができました。話し好きな方で色々な話をしてくださいました。様々な会社を作った話、ライバル企業に勝つにはどうしたらよいか? 製品開発の話etc。。面白かったです。話題が尽きない方でした。 この方は、毎年ある「島」を貸し切り状態にして茶会を催していました。「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」のような大茶会ですねと言ったら、とても喜んでくれました。退院後に私もその茶会に誘われましたが、時間も無く、残念なことに伺えませんでした。多くの若い女性が茶会に集まると聞いていたので、今でもちょっとだけ悔いています(笑)。 上司の先生が手術を行い、経過は良好で退院が決まった時「羊羹」を頂きました。「珍しい羊羹だから家で開けるように」と言われ、家で開いたら羊羹に加えて高額のお金が添えられていました。羊羹は頂きお金は返しました。その時 「これくらい受け取ってくれ、受け取らないなら先生は偉くなれない」 「気持ちよく受け取って、勉強のために使ってくれ」 「先生なら遊びに使わないだろう」 「受け取ってくれ」 と再三再四、言われました。受け取りませんでした。黙って受け取っておけば「偉く」なったかもしれません(笑)。 他にも ロシア人モデルの御主人のとてつもなく悲しい話 銃で撃たれた方の話 飛行機操縦中に墜落しても助かったロシア人飛行機操縦士の話 某作家の最後 某役者さんの暴言事件 などなど、外科医をしていると色々な経験をします。。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/11/21 少し悲しいお知らせがあります。恩師、新井達太先生が2022年9月15日、逝去されました。 先生は日本の心臓外科学を牽引してきた泰斗です。私は臓外科医を志した時から、医学(心臓血管外科学)のことのみならず、様々の大切なことを先生にお教え頂きました。以下、先生の業績、先生に教わったことなどを紹介いたします。 新井先生は、 「世界的業績が多数」 A型単心室の根治術に世界で初めて成功 日本製人工弁(SAM弁)の開発に成功、多くの患者さんに使われました。臨床応用された日本製人工弁はこの弁だけです。大阪万博の際、未来に残す医療器具の1つに選ばれ(他は聴診器、ファイバースコープ、人工血管)、大阪城の地下に納められ5000年後に開けられることになっているそうです。 ※SAM:Sは榊原仟先生 Aは新井達太先生 Mは人工弁を製造したMERA社(泉工医科工業))の頭文字から名付けられています。 ある種の大血管転位症に対する手術法を開発し、実験をおこないその成果を世界で初めて報告。後にこの手術方法は「標準術式」となります。 等々、多くの業績があります。先生は母校である東京慈恵会医科大学を卒業後、東京女子医科大学心臓血圧研究所にて故榊原仟先生の元で心臓外科の研鑽を積み、上記のような世界的業績を挙げ、母校東京慈恵会医科大学の初代心臓外科主任教授として迎えられました。人工臓器学会長、胸部外科学会長を歴任、日本の心臓外科の発展に大きな功績を残しました。慈恵医大退職後は故郷埼玉県の埼玉県立循環器・呼吸器病センター初代総長となり、埼玉県の医療に多大な貢献をなさいました。 「勉強熱心」 先生は勉強熱心で学会に行くといつも最前列で講演を熱心に聞いていました。先生は「心疾患の診断と手術(南江堂)」という日本を代表する心臓外科の教科書を単著として執筆していましたので、この教科書を適宜更新するために新しい知見の収集に余念がありませんでした。それ故にこの教科書は多くの心臓外科医のバイブルとなっていました。 「学会発表やスピーチが上手」 コロナ禍前、先生は多くの学会でスピーチを頼まれていました。そのスピーチですがいつもきっちりと時間通りに終わるので有名でした(3分、5分、10分etc. 頼まれた時間通りに終わっていました)。 だらだらと長く、いつ終わるとも知れないスピーチを聞くことが多い中で、新井先生のスピーチ時間、スピーチ内容も際立っていました(後にスピーチ内容と時間は奥様が、厳しくチェックしていたと伺いました)。そんな先生ですから、もちろん、学会での講演や発表もきっちりと時間通りに終わっていました。1つの「芸」と言っても過言ではないと思います。また、声を出す練習(合唱など)をなさっていて、いつもよく通る美声で発表をなさっていました。 「学会発表の指導は厳しい」 そんな先生ですから我々が学会発表をする際には厳しいチェックがありました。発表時間を厳守することが基本であり、医局での学会リハーサルで発表時間を超過すると叱られました。時間を守るためには「発表原稿を書いてそれを覚えてくるように」そしてその「原稿を見ないで発表ができるように」指導されていました。厳しい指導でした。言葉遣い、発声の仕方(もごもご言わないで口調をはっきり)の指導もしていました。そういうわけで学会発表よりも医局でのリハーサルの方が厳しかったです。今、思うと「折角発表するのだから、心地よく聞いてもらう」「発表が聴衆に伝わる」ようにとの心遣いだったと思います。 後に独り立ちしてから、多くの学会で発表をしましたが、お教え頂いた通りに原稿は諳んじるまで読み込んでから発表をしました。 「手術が早く、正確」 手術の早さ、正確さは、言葉で伝えることができないくらい凄かったです。とにかく手術が早くスムーズに進むのです。卒業して1-2年目の頃は、その凄さが解りませんでした。しかし、第2、第3助手として段々と手術に参加するようになりその手術に圧倒されました。手術器具の用い方、手さばき、手術用鋏の使い方、糸のかけ方、手術の進め方は言葉には表せないほどスピーディー且つ正確でした。 難しい箇所への針糸をかける時も軽々と運針が進みます。優雅でした。この辺りの技量を伝えることは、言葉では難しいです。段々と手術を覚え、色々な先生と手術をするようになると、メスの持ち方、鋏の使い方、鑷子の使い方、体の使い方で「上手いか下手か」が直ぐにわかる様になりました。手術が上手な外科医は「所作が様になっている」のです。新井先生は、その所作が様になっているのはもちろん、優雅でした。卒業後、新井先生の下で手術を勉強することができたのは私にとって生涯の僥倖でした。 「とても親切でした」 私は、少しでも、新井先生の手術技量に近づきたく先生に直接、色々な質問をしました。今、思うと汗顔の至りですが、ちょっとしたことでも嫌がらずに教えくださいました。手術にはその「ちょっとしたこと」が大切なのです。「新井先生に質問をする」のが実は大変でした。はっきり言って「怖かった」のです。新井先生は、手術が始まると、ほぼ無言でした。 無言のうちにどんどん手術が進みます。手術担当看護師さんも数名は専属でした(今ではあり得ないです)ので、新井先生が手術機械を看護師さんに返すと次に使う手術器具が、次から次に出てきます。そういうわけで、手術が、どんどん進みます。声を交わすのは人工心肺のオンオフの時などに限られています。手術助手の先生も手慣れているので、手術に遅滞がありません。凄い時代でした。 そんな先生ですから気やすく質問することなどできませんでした。しかし、そんなことを言っていると何時まで立っても手術は上達しません。1度、勇を鼓して質問すると気さくに答えてくれました。それからは色々と質問させて頂きました。そういうことがあってから幾星霜、病院は移っても手術の指導にお越し頂き、みっちりと手術指導をして頂いたこともあります。 「迷ったら1番厳しい道をとるべき。それがおおむね正しい」 大きな手術の最中、滅多に無いのですが、時に迷うことがあります。そういう時は「厳しく辛い道が正しいことが多い」「人間は易きに流れることが多い。易きに流れると間違う」。そういうことをいつも仰っていました。 「様々な文章を書くことを好みました」 忙しい先生でしたが、公職を退任後時間がとれるようになり、シミック社の運営するサイトでコラムを連載することが決まりました。先生は、常々「生涯で経験したことを書き残したい」と仰っていたので、丁度良いタイミングでした。 何事にも「時機」が大切ですね。先生はすでに多くの教科書や随筆集も出版されていました。シミック社での連載コラムも文章が上手で、内容も多岐にわたっています。初出の話が多く、毎号楽しみに読ませて頂いていました。毎月毎月、2000-5000文字のコラムを送ってくださいました。もう読めないと思うと寂しいです。これを機会に皆様にも読んで頂ければと思います。 最後のコラムは新井先生の恩師である「榊原仟先生」のことが記されています。今頃、恩師と天国で語らっていることと思います(参照記事:第71話 —心臓外科の恩師・榊原 仟(シゲル)先生—【part3】)。これが最後かと思うと、とても、寂しいです。 「新井先生の大きな悔い」 新井先生、外科医の生涯で唯一の大きな悔いがあり、その「悔い」について色々なところで話したり、文章にして残しています。 それは新しい手術法に関することです。先生は大血管転位症の新しい手術法を考案、実験も行いました。 【新井先生談】 「この実験結果を『弁付きhomograftを用いた右心室- 肺動脈,左心室-肺動脈,左心室 - 大動脈bypassの実験的研究」』と題し総動脈幹症,大血管転移症の臨床に応用できると1964年の第17回日本胸部外科学会にて発表しました。その翌年の1965年,英文で『Bulletin of the Heart Institute, Japan』(女子医大) と、和文で1966年に『胸部外科』 (南江堂)に発表しました。」 「私はSAM弁の臨床成績を報告するために,第15回国際心臓血管学会 (Atlantic City,1967年) に行きました。外国に行くのはその時が初めてでした。その学会の第1席が, Mayo ClinicのRastelli先生の報告でした。 パッと映し出されたスライドの写真を見て私はびっくり仰天しました。それは私が3年前に報告した, 弁付きのhomograft を使って右心室から肺動脈にバイパスした実験内容と全く同じでした。 なぜ3年も経った今ごろ国際学会で報告されるのだろうと虚をつかれた感じでした。」 「英文にはしていたが、世界中で読まれるような雑誌では無かったから、私(新井先生)が3年も先に論文にしていた手術法が今では『Rastelliの手術』となってしまった。それが、かえすがえすも、残念である。」 と仰り、 「何か大きな発見や手術法を思いついたら、一流の英文雑誌に投稿しなさい。」 とことある度に仰っていました。それを聞いていたので私も一流の英文雑誌に数編の論文を載せることができました。臨床外科医が仕事の合間に英文論文を書くのは結構大変です(参照:「論文を書く」ということ(1))。 今、グーグルスカラー(Google Scholar)で自分の論文がどれだけ引用されているかを知ることができます。私が書いた論文もかなり有名な外科医の論文に引用されていることや欧米の教科書に引用されていることがわかります。嬉しい話です。これも「英語で頑張って書いた」からです。 「新井先生の生きがい」 お亡くなりになってから、新井先生の娘さんからメールを頂きました。 “望月先生からコラムのお話をいただき、父は生き甲斐を見つけました。ほとんど1日中2階の書斎に籠ってコラム作成をしておりました。緊急入院する2週間前からは2階へ上がることができなくなっていたのですが、なぜか緊急搬送された日に母と私が家にいない状態の時に2階に上がりコラムを作成していました。きっと、そろそろコラムを提出する時期だと思ったのだと思います。父が緊急搬送されたときに書いていたコラムが残っていました。本当に書いていた途中で苦しくなった、という感じです。” “パソコンの横に張り紙がしており、今後シミックのコラムで書きたいと思っている内容が番号をつけて25近く記載されており、その下にはシミックの担当者の○崎さんの電話番号が記載されています。そして、先生からのコラムを読んでの感想が記載されたメールをプリントアウトして貼付けてあります。 本当にこのコラム執筆が父の生き甲斐だったと思います。ネットで調べるのみならず、YouTubeを見たり、書籍を購入したりしていました。” 89歳から96歳までPCを用いてコラムを書いていたのです。凄いことだと思います。90歳を越えて、きちんとした文章を定期的に書ける方は多く無いと思います。 今、「生きがい」が話題となっていますが、恩師である新井先生にコラムを書くように頼んだ私も恩師の晩年の「生きがい」に関与できたかと思うと、少し、恩返しができたかと思っています。 今年頂いた最後の年賀状です。先生は敬虔なクリスチャンでしたので、毎年、聖書の言葉を年賀状で紹介していました。最後の年賀状は、 「常に喜べ 絶えず祈れ 全てのこと感謝せよ」とありました。 新井達太先生が最後まで書いていたコラムです。文章が上手で、とても読みやすいです。ぜひ、お読みください。 新井 達太 先生のコラム一覧 【参考文献】 新井達太著 「心疾患の診断と手術」南江堂(1974年 刊) 新井達太編著 「心臓外科」医学書院(2005/11/1刊) 新井達太編著 「心臓弁膜症の外科」医学書院(2007/11/1刊) 新井達太著 「この道を喜び歩む」幻冬舎(2018/3/2刊) 新井達太著 「外科医の祈り」メディカルトリビューン(2001/10/1刊) 紹介しきれないくらい多くの論文、業績があります。 このうち、2.と3.は私も一部書かせて頂きました。 3.の「心臓弁膜症の外科」は、現在アマゾンで10万円!近い値段で取引されています。名著です。 余話: あるとき、「病院の警備員がお前(望月)と○○先生は何時も早く来て、遅く帰ると褒めていた」と仰ってくださいました。その警備員の方は新井先生が手術をした患者さんでした。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2022/10/03 大動脈瘤破裂にまつわる真面目な話 今回は胸部大動脈瘤破裂にまつわる話をお伝えしようと思います。 正確に言うと「大動脈瘤が破裂した後のこと」に関する話です。 真面目な話と少し不真面目な話があります。 今から30数年前のことです。当時勤務していた病院に日本を旅行中の東南アジアの方が緊急搬送されてきました。60代後半の男性でした。奥様と一緒に日本を旅行していたのです。来院時、意識がほとんどありませんでした。 奥様は日本人でした。奥様から話を伺うと この患者さんは高血圧の治療中であること、他に病気はないが喫煙歴が長いこと 東京駅で「強い胸痛」を訴えた後、意識が無くなったこと などが判明しました。 心筋梗塞、大動脈瘤破裂などを念頭において検査を行いました。採血、胸部レントゲン、CT検査などを行ったところ、この方は胸部大動脈瘤が破裂して血圧が低下し「ショック状態」となっているということが解りました。 直ちに手術が始まりました。破裂部の大動脈を人工血管に交換して手術が終わりました。「言うは易く行うは難し」です。人工心肺を使った手術です。10時間くらいかかりました。無事手術は終わったのですが、麻酔が覚めるはずの時間になっても患者さんの意識は戻りませんでした。脳のCTを撮影したところ、大きな脳梗塞を認めました。大動脈瘤が破裂して血圧が低くなり、脳梗塞を生じたのだと思います。1ヵ月くらい集中治療室に滞在した後、一般病室の個室に移ることができました。 この方には、成人したお子さんが二人いらして両名共アメリカに住んでいました。一人はアメリカの文系大学を卒業した娘さん、もう一人はアメリカの理系大学に在学中の息子さんでした。 最初にアメリカから病院に駆けつけたのは娘さんでした。娘さんは、胸部大動脈瘤破裂に関する多くの医学論文のコピーを持ってきました。アメリカの大学の図書館で調べてきたのです。娘さんも息子さんも日本語ができました。私の指導医だった先生が娘さん、息子さんに病状を説明しました。 病院に搬送当時、胸部大動脈瘤破裂でショック状態だったこと 手術は成功したが、脳梗塞を生じていること、それも範囲が広い脳梗塞であり、今後も意識が出ない可能性が高いこと いわゆる植物状態になる可能性が高いこと などを説明していました。娘さんは持ってきた論文を広げ、アメリカの病院でも胸部大動脈瘤破裂は死亡率が高く、脳梗塞などの合併症が多いと書いてあると言って、病状や手術については納得してくれました(涙を流しながらでしたが)。 手術後、3ヵ月遷延性意識障害(いわゆる植物状態、英語ではpersistent vegetative state)が続き、ほぼ回復の見込みが無くなりました。帰国するにも手立てがありません。 奥さんと娘さんは病院近くのアパートを借りて、毎日病院に来ては、患者さんに、声をかけていました。我々も、当時遷延性意識障害に対して効果があると言われていたありとあらゆる治療を施したのですが、全く効果がありませんでした。娘さんは日本の図書館で「意識障害を治す治療」に関する論文を探していました。そして我々に色々な治療法を提案してくれました。 外科医は遷延性意識障害の専門家ではありません。娘さんが世界中の「遷延性意識障害治療」に関する論文を探してきてくれるのである意味助かりました。そういうわけで患者さんの家族と一緒に治療法を議論し、日本でも実行可能な治療は取り入れて治療しました。患者さんの家族に治療法を提案されるという希有の事態でした。これは私にとって色々な意味で勉強になりました。今ならインターネットを介して様々な治療法に関する知識を素人の方も入手できますが、当時は簡単ではありませんでした。 当時すでにMedlineがあり、この家族の方々は英語ができるので、Medlineを利用して様々な文献を探してきたのです。しかし、残念なことに、どの治療も功を奏しませんでした。しかし、これは私にとって、とても良い経験でした。 近い将来「患者さんや患者さんの家族が自分達で診断方法や治療方法、治療成績を入手できる時代が来るだろうということ」が予見されたのです。実際に、そういう時代になりました。 やや話は変わります。インターネットでの情報は玉石混淆です。玉が少なく、石が多いのです。玉か石かの見分け方は追記に記しました。参照ください。 話を戻します。今でも英語ができないとMedlineでの文献検索はできませんし医学用語も簡単ではありませんが、翻訳ソフトなどを使ったりすると以前とは比較にならないほど、検索の敷居は低くなっています。そういう時代が直ぐにやってくるであろうことを今から30年以上前、この大動脈瘤が破裂した患者さんの治療を通して学びました。 以上、真面目な話。 不真面目な話 この患者さんは、結局2年近く、遷延性意識障害が続いたまま病院に入院していました。その間、奥様は毎日病院に来て、声をかけ続けていました。娘さんは日本で、外資系多国籍企業に就職し、働きながら病院に来て看病を続けていました。息子さんはアメリカの大学を卒業し、米国の企業に就職し、数ヵ月に一度、来日していました。2年も病院にいらしたので、ご家族とも治療を含めて色々な話をするようになりました。そんな中での話です。 以下は不真面目な話です。読むと不愉快になるかもしれません。ご容赦下さい。 今から記すことは、時効でしょうが、少しguiltyです。 娘さんがある企業に就職した事は前述しました。就職が決まった時、丁度息子さんも来日していて、一家で娘さんの就職祝いをするとのことで、食事に誘われました。普通は入院している患者さんの家族と食事などしません。しかし、入院して1年以上が経過し毎日顔を合わせ、治療法などを相談していたので誘ったのでしょう。私の他に担当だったMH先生と共にご家族と一緒に食事をしました。 食事の際、私は娘さんが就職した「多国籍企業」がどういう仕事をしているのか興味があり質問したところ、娘さんがその企業の入っているビルが食事場所のすぐ近くにあるので「どういう所で、何をやっているかお見せしましょう」というので、当の娘さんと息子さん、私、MH先生の4人でその企業が入っているビルに行きました。娘さんは、その企業の広報部門に就職したので、色々とその企業が行っていることを説明してくれました。 超高層ビルの上層階に、その企業は入居していました。そこから見る東京の夜景はきれいでした。夜、10時を回った頃だと思います。広いスペースに残って働いている社員が数名いました。彼らは米国本社との各種会議があるので、夜中から朝まで残っているのだそうです。多国籍企業の方は大変だと思いましいた。 残って働いている彼ら数名がいるスペースにはなぜか「超高性能天体望遠鏡」が数台置かれているのに気づきました。米国本社との会議の時間待ちをしている間、高層ビルから星を見ているのだと思ったのです。私は中学生の頃天体望遠鏡で月や星を見ることに熱中していた時期がありましたので、彼らが使っている天体望遠鏡がもの凄い性能を持っていることが直ぐに解りました。ガラス窓越しではその高性能が発揮できないなと思いました。それはともかく、望遠鏡に興味があったので、彼らに性能などを聞いていたら、いつの間にか一緒にいた娘さんがいなくなっていました。 女性が周りにいなくなったら彼らは天体望遠鏡を下に向けました。あれれ?と思ったら、彼らがニヤニヤ笑いながら、これを見てみろと言うので見たら「いけない光景」が見えたのです。このビルから1km位のところに有名ホテルがあります。そのホテルの部屋の中の光景が丸見えなのです。まさか遠くから見られているとは思わず、カーテンを開けたままにしている部屋も多かったのです。「色々な光景」が高性能天体望遠鏡のおかげで見えました。 彼らは天体望遠鏡で「天体」ではなくて「ホテルの部屋」を観察していたのです。これは「犯罪行為」です。かなり、嫌な気持ちになりました。世界でも超一流と言われている企業の連中がこんなくだらないことをしているのにびっくりしました。娘さんが、天体望遠鏡のそばにいなくなった理由がこれだったのです。 今でもあのビルを見るとあるいはあの企業の名前を聞くとあのホテルのことを思い出します。あれ以降、ホテルに泊まる時は絶対にカーテンを閉めています。後年、アメリカ人ジャーナリストのゲイタリーズが「The Voyeur's Motel」という本を出版しました。この本とあの風景がダブりました。 大動脈瘤にならないようにするには 話を戻します。2年近く遷延性意識障害が続いた患者さんですが、意識が回復すること無く、最後は肺炎でお亡くなりなりました。大動脈瘤破裂に脳梗塞が合併すると本当に大変です。大動脈瘤にならないようにすれば良いのですね。 それには 高血圧管理 禁煙 体重管理 糖尿病管理 などが必要です。 なお、最近、遷延性意識障害に対してある種の薬物に劇的効果があることが報告されています。今なら、こういう治療も試したかもしれません(追記2 参照ください)。 追記1:玉と石の見分け方 様々な病気の治療法がたくさんインターネットで見つかります。それが真っ当かどうか、見分け方は簡単です。その治療が査読(peer review)のある雑誌の論文になっているかどうかそれが1番大切です。 論文になっていない治療は、査読に通らなかったか(=同業者に認められない)、そもそも論文にしていない(できない)治療です。 インターネットで様々な診断法、治療法を見つけることができますが、論文になっていない治療は効果が無いと思って間違いありません。 注:Peerとは《仲間、同僚》と言う意味ですがこの場合は同業者でしょう。概ね3名で査読をします。要するに同業のプロが認めない論文は査読を通りません。私も様々な医学雑誌(日米欧)を査読をしたことがあります。査読には時間がかかります。投稿してきた論文に関する文献を集め、掲載に値するかどうかを判断するのです。しかも、ただ働きです。真面目に査読をするのは本当に大変です。 注:上記の様なことをあちこちで言ってたり書いていたら、最近いかがわしい治療がいくつか論文になっているのを発見しました。論文が載っている雑誌が査読の無い聞いたことも無いような医学雑誌でした。そういう雑誌を出版する会社があるのですね。困ったことです。 追記2:遷延性意識障害に対する奇妙な治療 今でも遷延性意識障害に対する良い治療はありませんが、にわかには信じがたいような話が2007年に報じられました。睡眠薬の「ゾルピデム」が遷延性意識障害に著効することがあるのだそうです。 Sleeping Pill Wakes Woman After 2 Years in Coma - Consumer Health News | HealthDay https://consumer.healthday.com/cognitive-health-information-26/brain-health-news-80/sleeping-pill-wakes-woman-after-2-years-in-coma-602688.html この記事によると、6年も昏睡状態だった23歳の女性が睡眠薬であるゾルピデム(商品名:マイスリーなど)投与で意識が戻り、歩けるようになったとあります。この治療は南アフリカの看護師さんの発見から始まりました。 交通外傷で脳に重篤な障害が生じ、5年間寝たきりで遷延性意識障害の状態だった南アフリカの24歳の男性が、夜中にマットレスを握りしめているのを見た看護師さんが、苦しそうだから深く眠らせてあげようとゾルピデムを投与したら、なんと投与25分後に座って話せるようになったのだそうです。 睡眠薬は、通常、眠りを誘うお薬です。そういうお薬が意識障害の治療に有用という、にわかには信じがたい話です。それが始まりでゾルピデムを遷延性意識障害の患者さんに投与するという治験が始まりました。治験は続き、肯定的な論文も否定的な論文もあります(文献1-4)。 30数年前、ゾルピデムはありませんでした。今なら、遷延性意識障害となったあの患者さんに投与できるかもしれません。医学の発見は、こういう、思わぬところから起きることがあります。まだこの発見は認められてはいませんが、ある種の遷延性意識障害の患者さんに効果はあるのでしょう。この現象を見逃さなかった看護師さんに敬意を払います。 【参考文献】 Brefel-Courbon C, Payoux P, Ory F, et al. Clinical and imaging evidence of zolpidem effect in hypoxic encephalopathy. Ann Neurol. 2007;62:102–105. Clauss R, Nel W. Drug induced arousal from the permanent vegetative state. NeuroRehabilitation. 2006;21:23–28. Clauss RP, Güldenpfennig WM, Nel HW, Sathekge MM, Venkannagari RR. Extraordinary arousal from semi-comatose state on zolpidem. A case report. S Afr Med J. 2000;90:68–72. Thonnard M, et al.Funct Neurol. 2013 Oct-Dec;28(4):259-64.i: 10.11138/FNeur/2013.28.4.259. Effect of zolpidem in chronic disorders of consciousness: a prospective open-label study. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/09/12 法律の「逃げ道」 前回の続きです。 患者さんのBさんが泣いているのに気づき、話を聞いたところ、「B」さんが退院して家に帰った直後、中学生の娘さんが交通事故でお亡くなりになったことを知りました。 この事故当時(200×年)にはすでに危険運転致死傷罪(2001年)が成立していました。2001年以前はこのような法律はなく、飲酒運転をして死亡事故をおこしても、業務上過失致死罪が適用されていましたが、この法律では長くても5年の懲役しか課すことしかできません。 話は少し前にさかのぼります。1999年の東名高速飲酒運転事故、翌2000年の小池大橋飲酒運転事故を契機に飲酒運転による死亡事故に対して「業務上過失致死罪」しか適応できないこと(=最高でも懲役5年)に強い批判が起きました。結果、飲酒運転で死亡事故を起こしたらもっと重罪に処すべきだと言う世論が上がり、それを受けて2001年に「危険運転致死傷罪」が制定されていました。 この「危険運転致死傷罪」の中に次のような条文があります。 (第二条) 下記の行為を行い、よって人を負傷させた者は15年以下の懲役、人を死亡させた者は1年以上の有期懲役。 1.酩酊運転致死傷罪 アルコール(飲酒)又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させる行為 人を死亡させた者は1年以上の有期懲役、人を負傷させた者は15年以下の懲役とあり、何となく死亡させた方が軽いように思えますが、有期刑の最高は20年、つまり1年以上の有期刑というのは最大で20年までは懲役の可能性があるよということです。わかりづらいですね。 飲酒運転で死亡事故のような重大事故をおこすと、2001年からは危険運転致死傷罪が適用されるようになったのです。業務上過失致死罪なら最高でも5年、しかし、危険運転致死傷罪が適用されるなら最高で20年の懲役が課されます。 5年と20年では大違いですが、この法律には「逃げ道」がありました。 私の患者さんの娘さんの交通事故に話を戻します。飲酒運転をしていた「C」は、上記の罪を知ってか知らずか……ひき逃げ現場から逃走します。6時間後に自首したのですが、すでに血中からアルコールは検出されませんでした。アルコールが検出できないなら「危険運転致死傷罪」は適用できません。「C」と一緒に飲酒をしていた方の証言があっても、アルコール濃度を調べられないと「飲酒運転」とは確定できないからです。 「逃げ得」です。 これが「危険運転致死傷罪」からの「逃げ道」でした。一瞬にして娘さんを奪われた家族の方々の怒りはすさまじかったのですが、飲酒運転をしていたことを示す「証拠」はありません。 「C」が起こした事故で亡くなった2人の遺族は危険運転致死罪の適用を求め、9万人余りの署名を地検に提出しました。しかし地検は危険運転致死罪の適用を見送りました。「ひき逃げ現場までは何事もなく運転していて、正常な運転が困難だったとは言えない」という理由でした。 一審では懲役5年6月。検察は上告します。高裁での判決は一審よりかなり重くなりました。東京高裁は懲役5年6月とした1審地裁判決を破棄、懲役7年を言い渡しました。判決理由にSY裁判長の気持ちがこもっています。 SY裁判長は、 「飲酒運転の発覚を恐れ、衝突に気付いたのに逃走したのは人倫にもとる卑劣な行為。やり場のない怒りに震える遺族の処罰感情は軽視できず、1審の量刑は軽すぎて不当だ」と述べています。 こういう「感情を露わにした」判決はあまり聞いたことがありません。遺族の皆さんの「気持ち」が届いたのでしょう。しかし、くどいですが「危険運転致死罪」の適用はできませんでした。現場から逃げてアルコールが抜けてから出頭したからです。 「逃げ得を許さない」法律の改正 この時点で上述の北海道の交通事故遺族が、この「C」の事件に気づきました。以後、私の患者さんの家族と共に「逃げ得を許さない」法律の改正に向けて行動をはじめました。 冒頭に記した「福岡海の中道大橋飲酒運転事故」には「危険運転致死傷罪」が適用され、20年という長い懲役刑となっています。しかし、一審では「危険運転致死傷罪」が適用されませんでした。それくらい微妙な話です。 北海道江別市の遺族、私の患者さん、福岡海の中道大橋飲酒運転事故の遺族の方々など多くの人々が「逃げ得を許さない法律制定」を訴え続けました。 運動を続けること十数年、遂に2014年5月20日「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律」(自動車運転死傷処罰法)が施行されます。 この法律は「自動車運転過失致死傷罪」と「危険運転致死傷罪」の内容に変更を加え、独立の法律として定められました。社会が動いたのです。素晴らしいことです。 自動車運転死傷処罰法に加えられた新たな規定の中に、「過失運転致死傷アルコール等影響発覚免脱罪」(発覚免脱罪)というものがあります。 発覚免脱罪とは、飲酒や薬物の影響で正常な運転ができないような状況で、自動車事故を起こして人を死傷させた場合、「飲酒等が発覚しないようにする目的で、その場から離れる」といったように飲酒等の発覚を免れる行為をしたケースを処罰するものです。 この法律の制定により「逃げ得」は許されなくなりました。飲酒運転などしない方には関係ないと思われるかも知れません、しかしこの法律が罰するのは飲酒だけではありません。 運転をする際には服用を禁止されている薬物も入っています。薬物の中には睡眠薬、向精神薬はもちろん、花粉症の方によく使われる「抗ヒスタミン薬」も含まれます。お薬の本を読めば「運転は禁」と書いてあるお薬があります。それがこの法律の規定に該当する「薬物」です。 身近なお薬、例えば風邪薬にも「運転は禁」と記されているモノが多いのです。ぜひ、1度ご自分の服用しているお薬が「運転禁止薬物」に該当していないか、見直してみてください。 飲酒運転に対する法律の変遷 長い年月がかかって、現在の法律ができあがっています。まとめます。 1999年の東名高速飲酒運転事故 2000年の小池大橋飲酒運転事故 当時は飲酒運転で死亡事故をおこしても業務上過失致死罪(最高5年の懲役) 」しか科せられなかった。飲酒運転に対して重罰を科すべきだとの世論が起こった。これを受けて 2001年:危険運転致死傷罪が成立(最高20年の懲役) 飲酒運転に重罪が適応されるようになった。しかし、これには抜け道があった(飲酒運転で事故をおこしても現場から逃げてアルコールが抜けてから出頭すると飲酒運転と認定されない)。 2003年:北海道江別市で高校生が飲酒運転(と思われる)によるひき逃げ(運転手は事故現場から逃走) 2006年:海の中道大橋飲酒運転事故(運転手は事故現場から逃走) 200X年:私の患者さんの娘さんの事故(運転手は事故現場から逃走) 飲酒運転事故を起こした運転手が現場から逃走することに対する非難が起こり、遺族が法律を変える運動を起こす。 2014年:「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律」が制定。 これにより「飲酒運転で事故をおこしても現場から逃げると重罪」が科せられることになった。 以上のような努力が実って飲酒運転による死亡事故件数は減少していますが、ゼロにはなっていません。飲酒運転は根絶すべきです。 参考:飲酒運転による死亡事故件数の推移(警察庁ウェブサイト) 「飲んだら乗るな 乗るなら飲むな」 「逃げるは負け」 です。 【参考文献】 北海道交通事故被害者の会 飲酒・ひき逃げ犯の厳罰化を求める署名運動 飲酒運転関係の資料1: 飲酒運転には2種類あります。「酔いの程度」で分類されます。 1. 酒気帯び運転 呼気(吐き出す息のこと)1リットル中のアルコール濃度が0.15mg以上検出された状態での運転 2. 酒酔い運転 アルコールの影響により車両等の正常な運転ができない状態での運転→呼気中のアルコール濃度とは関係がありません。お酒に弱ければアルコール濃度が0.15 mg以下でも酒酔い運転と判断されます。 飲酒運転関係の資料2: 飲酒運転をした際の罰則規定 「車両等を運転した者」が 1.酒酔い運転をした場合 5年以下の懲役又は100万円以下の罰金 2.酒気帯び運転をした場合 3年以下の懲役又は50万円以下の罰金 「車両等を提供した者」 1.(運転者が)酒酔い運転をした場合 5年以下の懲役又は100万円以下の罰金 2.(運転者が)酒気帯び運転をした場合 3年以下の懲役又は50万円以下の罰金 「酒類を提供した者又は同乗した者」 1.(運転者が)酒酔い運転をした場合 3年以下の懲役又は50万円以下の罰金 2.(運転者が)酒気帯び運転をした場合 2年以下の懲役又は30万円以下の罰金 最後に余計な一言: 法律は基本「元号」を用いています。正式な医療文書(公的診断書など)も同様で「元号記載」が基本。現在、大正、昭和、平成、令和が入り乱れています。元号では何年前に病気になったのか? すっと頭に入りません。西暦に統一すべきです。 公的文書の押印廃止で山梨県の印鑑業者は困っています。全国の印鑑の6割を山梨で作っているからです。デジタル化を進めるなら押印廃止よりも公式文書からの元号廃止が先だと思います。なお本文では西暦に統一しています。これを和暦で書いたら、恐らくかなり、時系列がわかりづらい文章になったと思います。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/08/29 福岡 海の中道大橋飲酒運転事故を覚えていますか? 2022年8月、以下のような報道が多数流れました。ご記憶の方も多いかと思います。 福岡市海の中道飲酒運転事故から16年 撲滅へ記憶をつなぐ(FBSニュース) 「海の中道大橋」飲酒運転事故から16年 問われる県民意識(NHK 福岡のニュース) この記事を読み、私の患者さんの「涙」を思い出しました。 最初に上記の記事にある福岡の飲酒運転事故を振り返ってみましょう。2006年8月に起きた自動車事故です。 「A」は大量に酒を飲んだ後、海の中道大橋を猛スピード(推定時速100km)で走っていました。そして、前を走っていた乗用車に追突、追突された乗用車は橋から15mの下の海に転落。転落した車に乗っていた5人家族のうち、両親は助かりましたが、小さな子供3人が亡くなりました。 この事故は「福岡 海の中道大橋飲酒運転事故」と称され、インターネット上で詳細な経過を読むことができます。悲惨です。 「A」は自宅→居酒屋→スナックで飲酒を続けた後、友人を乗せて福岡の繁華街まで移動するために車を運転中に事故をおこしたのです。 「A」は追突して海に落とした車に乗っていた5人を、同乗していた友人と共に、救助すべきでした。そうしていたら幼い3名の命は助かったかも知れません。助かれば「A」に課せられた罪は随分と軽くなったかもしれません。 しかし「A」のやったことは「救助」とは真逆でした。「A」は飲酒していたことを隠すために事故現場から逃走したのです。そして友人に連絡をとり、 「自分の身代わりになってほしい」と懇願→これは当然拒否されています。 「水を持ってきてほしい(アルコール血中濃度を減らそうと考えた)」→友人が水2 L を持ってきてくれたそうです。その水を飲んでいます。念のため申し添えますと飲酒後にいくら水を飲んでも血中のアルコール濃度は、一切、減少しません。水をいくら飲んでも無駄です。 その後、「A」は友人に諭されて事故現場に戻り、事故発生から約50分後に飲酒検知に応じ、翌8月26日朝に逮捕されています。 福岡地方検察庁は2006年9月16日に「A」を 危険運転致死傷罪(注:最高刑 懲役20年) 道路交通法の救護義務違反(ひき逃げ) で福岡地方裁判所へ起訴、懲役25年を求刑しています。 (注:なおこの犯人にお水を飲ませた友人も証拠隠滅の疑いで逮捕されています。飲酒運転と知りながら同乗した32歳の会社員も道路交通法違反(飲酒運転幇助)で逮捕されています。) しかし、福岡地方裁判所の下した結論は予想外に軽い判決でした。 業務上過失致死傷罪(最高刑:懲役5年) 道路交通法違反(酒気帯び運転、ひき逃げ) を適用して懲役7年6ヵ月の判決を言い渡したのです。 検察は控訴、福岡高裁での判決は検察の主張が認められ、 危険運転致死傷罪(最高刑:懲役20年) 道路交通法の救護義務違反(ひき逃げ) の2つが適用され「A」には懲役20年の判決が下り最高裁でも確定しています。 なお、信じがたいことに被害者家族の方は、いわれの無い誹謗中傷を受け福岡で暮らすことができなくなり、今は別な場所でひっそりと暮らしているそうです(参考:福岡3児死亡飲酒事故 きょう15年 遺族が誹謗中傷受け転居 被害者守る仕組み必要:中日新聞Web)。飲酒による交通事故は加害者、被害者、その家族を含め多くの人の人生を変えてしまいます。 ここで少し大きな話をします。 社会というか社会の仕組みや法律を変えるのは大変です。簡単ではないです。私も 「社会を変えよう」 「社会の仕組みを変えよう」 「こういう社会にしたら良い」 と思うことはありますが、実際に行動を起こしたことはありません。 しかし、後述する私の患者さんの「怒り」は社会を変えました。もちろん一人の力ではありません。福岡の事件とも関係します。今回はその話が主題です。 福岡の事件で「A」が事故をおこして最初にやったことは「逃亡」です。飲酒運転で逮捕されるより、酔いをさましてから出頭すれば良いと考えたのでしょう。アルコールや薬物を抜いてから出頭すれば轢き逃げ+危険運転などしか、罪に問われませんでした。変な話です(でした)。 なお「追い飲み」と言って、事故をおこし現場を立ち去り別な場所で飲酒をすれば、それも大量に飲めば「今、飲んだのです。事故当時は飲酒していません」と言い逃れることもできたのです。返す返すも変な話です(でした)。「でした」と記しているのは当時と今では、後述する如く、法律が変わったのです。 福岡の事故は2006年ですが、それより以前2003年に北海道江別市で高校生が飲酒運転(と思われる)によるひき逃げでお亡くなりなりました。この時車を運転していた人は現場から逃げ(つまり引いた高校生の救護をしないで)、酔いが完全に醒めてから逮捕されています。犯人は「懲役2年10月」を課されましたが、飲酒運転(酔いが完全に覚めてから逮捕)にも危険運転(時速50kmで走っていたことになっている)にも問われなかったのです。 この事故の遺族は「逃げ得社会」はおかしいと考え法律を変えるべくさまざまな運動を開始していました(参考文献2)。この運動に、後に私の患者さんも関わることになったのです。 患者さんの「涙」 患者さんの家族の涙を見ること、医師をしていれば稀ならずあります。しかし、患者さん自身の涙を見ることは滅多にありません。ある日の外来診察中のことです。診察予定の方の血圧が異常高値を示していました。この患者さん「B」さんは大動脈瘤に対して手術を行った方でした。かなり珍しい大動脈瘤です。 上行大動脈に血栓があるので慎重が上にも慎重な手術操作が必要です。普通上行大動脈にこのような大きな血栓が形成されることは稀です。極めて稀なことが起こっていました。この手術は特殊な方法を用いないとできません。脳を還流する頚動脈のすぐ側に大きな血栓があります。少し間違えると脳梗塞を生じます。それゆえ普通の胸部大血管手術ではあり得ないような様々な準備を整えてから上行弓部大動脈人工血管置換術を行いました。そういうわけで私にとっても忘れられない患者さんです。 この方の手術を行ったのが200×年2月、経過は良好で退院。順調に経過して何事もなく2月中に退院となりました。手術後の初めての診察日のことです。前述のごとく、血圧があり得ないくらい高いのです。 「Bさんどうしました? 血圧が高いですね。お薬はのんでいますか?」 と聞いたところで、患者さんが泣いているのに気づきました。号泣し始めました。慟哭といっても良いくらいでした。詳しく話を聞いてみました。悲惨な交通事故が起きていました。「B」さんが退院して家に帰った直後、中学生の娘さんが交通事故でお亡くなりになっていたのです。 Bさんの娘さんの身に起こった交通事故 亡くなった娘さんは学校の帰りがてら入院中のお父さんを見舞うために時々病室に来ていました。あの娘さんが亡くなったと思うと私も突然で言葉が出ませんでした。その先の話を聞いたらもっと言葉が出なくなりました。他に私の診療を待っている患者さんもいらしたのですが、そちらの診療は別の医師に任せてBさんのお話をゆっくりと伺いました。話をよく聞いてみると、 Bさんの娘さんは同級生と一緒に自転車で帰宅途中でした。夕方です。その二人の運転する自転車に車が突っ込んだのです。運転していたのは「C」です。 道路から二人が跳ね飛ばされて横たわった箇所まで数十mもあり、警察の捜査で、二人を跳ねた時「C」の自動車は衝突時に時速90kmくらいで走行していたことがわかりました。自転車も走る一般道で90kmあり得ないですね。 二人を跳ねてしまったことに気づいた「C」は、二人を救助すること無く、現場から逃走します。「C」は事故当時酩酊していたのです(推定)。警察に「C」が出頭したのは事故発生から6時間が経過していました。6時間も経つと呼気からアルコールが検出されません。だから飲酒運転を証明することができないのだそうです。 「逃げ得だ」「許せない」と思いました。 「C」と一緒に飲酒をしていた方が見つかったのですが、「C」の事故当時のアルコール濃度はわかりません。 以上、書けば数行ですが、泣きながら、ぽつぽつと話をして下さいました。話を聞き終わったら私も、もらい泣きしそうになりました。掛ける言葉がありませんでした。 「無理しないように」「血圧が上がらないように」「お薬をきちんとのむように」と、月並みな言葉しか出てきませんでした。 次回に続きます。 【参考文献】 北海道交通事故被害者の会 飲酒・ひき逃げ犯の厳罰化を求める署名運動 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/08/01 未だCOVID-19は収まりません。RNAウイルスは変異しやすく対処が難しいです(コロナウイルスもその一種です)。インフルエンザウイルスも代表的なRNAウイルスです。変異します。それゆえに毎年「今冬流行するだろうと予測するインフルエンザウイルスの型」を予測してそれに対応したワクチンを製造します。 少し気が早いかも知れませんが今冬つまり2022-2023年冬に日本で流行ると予想される型は A型株: A/ビクトリア/1/2020(IVR-217)(H1N1) A/ダーウィン/9/2021(SAN-010)(H3N2) B型株: B/プーケット/3073/2013(山形系統) B/オーストリア/1359417/2021(BVR-26)(ビクトリア系統) です(参考:令和4年度インフルエンザHAワクチン製造株の決定について 国立感染症研究所)。 滅多に無いですが、この予想が外れると「インフルエンザワクチンは効き目が悪い」ことになります。 今、南半球でインフルエンザが流行しています。コロナ禍でインフルエンザはほとんど流行りませんでしたが、日本でも今冬は流行ると予想されます。インフルエンザワクチンを受けておきましょう(10月から今冬用のワクチンが供給されます)。 医学の歴史は、当初「感染症と痛みとの戦い」の歴史です。これに関する本はたくさんありますが、以下に挙げる本は「感染と痛み」と医学の戦いに焦点を当てて書かれた本です。 近代医学のあけぼの―外科医の世紀 ユルゲン トールヴァルド(著),小川道雄(翻訳)2007年刊 外科の夜明け(講談社文庫) トールワルド(著), 塩月正雄(翻訳)1977年刊 1.も2.も元本は一緒ですが翻訳者が違います。2.は絶版になっていますが、古本は入手可能です。どちらの本でも構いません、医学に興味がある方はぜひお読みください。 幸いなことに痛みに対しては「麻酔」が確立されましたが、今も全身麻酔が「なぜ効くのか」は解明されていません。それはともかく、感染症に対しても様々な方法、様々な手段を人類は手に入れましたが、未だ完全な対処法はなく、これからも人間は感染症に苦しめられると思います。 指紋の歴史 ここから、本来の指紋の話を始めます(前回はこちら)。 感染症対策として電子マネーが使われるようになっています。お札にコロナウイルスが付着するとお札のやりとりで、手から手へウイルスが伝播します。それゆえにできるだけ、現金に触れないのも感染予防になり得ます。その電子マネーの個人識別には「指紋」が用いられています。指紋は古くて新しい「個人識別方法」です。そして、もちろん、犯罪捜査にも「指紋」は必須です。 指紋の歴史について少し整理します。 古代?: 土器を作るときに、偶然付いた指紋があります。指紋を何かの目的に意図して利用した形跡はありません。 1880年10月: 築地にいたスコットランド人医師ヘンリー・フォールズは指紋のもつ医学的、法医学的な意味に気づいてNATUREに論文を投稿、掲載されました。ヘンリー医師はNATURE投稿前にイギリス人探検家、科学者のゴールトン(ダーウィンの従兄)と指紋について相談しています。 1880年11月: イギリス人博物学者・科学者ハーシェルは1858年から自分がインドに滞在していた時に「指紋を個人識別に使っていたこと」をNATUREで発表。「自分こそヘンリー医師よりも先に指紋を世界で最初に活用した」と主張。これはもちろん築地のフォールズ医師が書いた論文に触発されて書いたのでしょう。 1888年: ヘンリー医師はスコットランドヤードに対して、指紋が犯罪捜査に役立つことを提案。しかし無視されています。 1888年5月: 英国王立協会でゴールトンは「ハーシェルが書いたNATUREの論文を紹介、ハーシェルこそ世界で初めて指紋を個人識別に使うという考えを考案した人物であり、ハーシェルの後にヘンリー医師が指紋についてNATUREに論文を書いた(実際は逆)」と講演。ヘンリー医師が、インドでハーシェルが行っていた指紋認証を知るよしもありません。 確たる証拠はありませんがハーシェルとゴールトンは「組んだ」と推測する本もあります(文献1)。ハーシェルとゴールトンは旧知の間柄です。2人とも英国の上流階級です。そう思われても仕方ないでしょう。ゴールトンはプロの科学者です。「指紋研究」を続けて、ついに指紋に関する本を出版します。 1892年: ゴールトン「Finger Prints.」を出版。 1893年: 個人識別法に関する委員会がイギリスに設置されました。委員長の名前をとってトゥループ委員会と称されました。1894年に報告書が出ます。指紋鑑定を個人識別に使うことが決定されたのです。それには「ゴールトンが見つけた指紋分類」を採用することになったのです。 その決定書には 「ゴールトンの名前と不可分になっている指紋はハーシェルによって最初に提案された」 とあり、ヘンリー医師の名前はありませんでした。ヘンリー医師は憤ります。トゥループ委員長に直談判しますが、無視されます。ヘンリー医師が用いていた指紋分類を用いると計算上17兆も違った指紋を識別できるのですが、ゴールトンが提案していた方法では数十万しかできません。明らかにヘンリー医師の方法が優っています。 1893-1894年頃: ヘンリー医師は、ゴールトンがすでに「Finger Prints.」という本を出版していることに気づきます。しかしこの本には残念なことにヘンリー医師が書いたNATURE論文のことはあまり触れられていませんでした。 1894年10月: ヘンリー医師はNATUREに「指紋による累犯者の識別をめぐって」と言う論文を書き「自分の方が先に指紋について論文を書いた」ことを訴えました。その論文で厳しくゴールトン、ハーシェルのことを非難しました。ゴールトン、ハーシェルの怒りを買い、彼らから反撃されます。 1895年: ゴールトン「Finger Print Directories.」を出版。 1905年: ヘンリー医師「Guide to finger-print identification」を出版。 1909年: ゴールトンは、指紋を始めとする科学研究の業績により「男爵」に叙せられました。1910年ヘンリー医師は当時内務大臣だったあのウィンストン・チャーチル(当時35歳)に「自分の指紋に関する業績も認めてくれる」ように嘆願書を提出しましたが、無視されています。 1911年: ゴールトンは他界。 1912年: ヘンリー医師「Dactylography; Or, the Study of Finger-Prints」を出版。 1915年: ヘンリー医師「How the English fingerprint method arose」を出版。 1916年: ハーシェルは「The Origin of Finger-Printing指紋の起源」を著しますが、ヘンリー医師のことには全く触れませんでした。ヘンリー医師は再度「自分こそ指紋を発見」したとNATUREに投稿しますが、無視され、ハーシェルに「自分の方がインドで指紋を最初に発見した」と反論されます。 1917年: ハーシェル他界。 1930年: ヘンリー医師も他界。ヘンリー医師は亡くなるまでに指紋に関する本を3冊出版しています。それらの本では、かなり詳しく指紋研究、指紋分類etc.のことを書いています(文献3-5)。残念なことにヘンリー医師の「指紋」に関する業績は生前には認められず、彼は失意、困窮の内に亡くなり、彼の子供2名も困窮していました。 1937年: スコットランドの裁判官ジョージ・ウィルトンはヘンリー医師の業績を認める運動を開始、貧しい生活を送っていたヘンリー医師の子供に功労金が支払われるようになり、ヘンリー医師の墓も建てられました。見ている人は見ているのですね。しかし、その後ヘンリー医師の業績を顧みる人もなく、ヘンリー医師の墓はどこにあるのか解らないような状態になっていました。 1978年: 二人のアメリカ人指紋検査官がヘンリー医師の「指紋に関する業績(論文や著書)」に気づき、英国ストーク・オン・トレント市(Stoke-on-Trent)のウルスタントン町(Wolstanton)の共同墓地に埋もれていた墓を探り当て自分たちでお金を出し合って、お墓をきれいに建て直し、今ではウルスタントン町の名所になっています。アメリカ人がイギリス人の業績を掘り起こし顕彰しているのです。良い話ですね。2007年には地元の警察がヘンリー医師の顕彰碑を建てています。 ゴールトンの指紋識別は基本的に単指(1本指)指紋による方法で、どう考えてもヘンリー医師の主張する10本指指紋を用いた方法の方が優れていると、私は、考えていました。しかし、スマホが出現し、話は変わってきました。スマホで使う指紋認証は、普通、単指指紋認証です。単指指紋にも光が当たったのです。10本全ての指をかざして個人識別をしていたら時間がかかります。 つまり、単指指紋識別にも10本指紋識別にもそれぞれ意味があり、それぞれに役割があると、今では考えます。まさか100年以上たってからゴールトンが主張した単指指紋識別が普通に使われるようになるとは思わなかったでしょう。 まとめ 1.イギリス人科学者ハーシェル: 1850年代、インドで指紋を使った個人識別を、世界で最初に、行った。後に指紋は生涯不変であることを証明。 2.ヘンリー医師: 1880年、日本で行った指紋に関する研究をNATUREに発表。10本全ての指で指紋を採取する必要性と犯罪捜査に指紋が役立つことを論文にした。この論文が世界で最初に書かれた指紋に関する論文であり、日本滞在中にこの論文を書いています。 3.イギリス人科学者ゴールトン: 指紋が犯罪捜査に役立つこと、単指指紋も個人識別に役立つことを追求。指紋に関する論文、著作を重ね「指紋の持つ意義」を広く知らしめた。 https://galton.org/fingerprinter.html にゴールトンが書いた指紋に関する論文、一般記事がPDFになって読むことができます。大量にあります。 以下、上記サイトより引用します。 1888 'Personal identification and description.' Nature 38 : 173-7, 201-2 1888 'Personal identification and description.' (revised version) Proceedings of the Royal Institution 12 : 346-60 1889 'Personal identification and description.' Journal of the Anthropological Institute 18 : 177-91 1900 'Identification offices in India and Egypt.' Nineteenth Century 48 : 118-26 1910 'Numeralised profiles for classification and recognition.' Nature 83 : 127-30 1888 Personal Identification Scientific American Supplement 26 (659, August 18) : 10532-3 1888 Personal Identification. Times, The (May 26) : 13c 1890 'The patterns in thumb and finger marks.' Nature 43 : 117-8 1890 'The patterns in thumb and finger marks.' Proceedings of the Royal Society 48 (November 27) : 455-7 1891 Identification by finger tips. Nineteenth Century 30 (August) : 303-11 1891 'Methods of indexing finger-marks.' Nature 44 : 141 1891 'Methods of indexing finger-marks.' Proceedings of the Royal Society 49 (May 28) : 540-48 1891 'The patterns in thumb and finger marks.' Philosophical Transactions of the Royal Society, B 182 : 1-23 1891 'The patterns in thumb and finger marks.' Journal of the Anthropological Institute 20 : 360-1 1892 'Imprints of the Hand, by Dr. Forgeot (exhibited by Francis Galton' Journal of the Anthropological Institute 21 : 282-283 1892 'Finger prints and their registration as a means of personal identification.' Transactions of the Seventh International Congress of Hygiene and Demography 10 : 301-3 1893 'Identification.' [Letter] Nature 48 : 222 1893 'Finger prints in the Indian Army.' Nature 48 : 595 1893 'Recent introduction into the Indian Army of the method of finger-prints for the identification of recruits.' Report of the British Association for the Advancement of Science : 902 1893 'Enlarged finger prints.' Photographic Work (February 10) 1893 'Identification.' [Letter] Times, The (July 7) : 4e 1893 'Payments through telegram by P.O. Savings books.' [Letter] Times, The (December 27) : 7e 1895 'The wonders of a finger print.' Sketch (November 20) 1896 'Les empreintes digitales' Comptes-rendus du IVe Congres International d'Anthropologie Criminelle. Sessions de Geneve : 35-8 1896 'Prints of scars.' [Letter] Nature 53 : 295 1896 Prints of Scars. Scientific American 74 (March 14) : 168 1899 'Finger prints of young children.' Report of the British Association for the Advancement of Science 69 : 868-9 1902 'Finger print evidence.' Nature 66 : 606 1905 [Review of] Guide to Finger Print Identification, Henry Faulds Nature 72 : iv-v Supplement 1909 Identification by finger prints. [Letter] Times, The (January 13) 以上、引用終了。 これらは全て上記のサイトでPDFになっているので誰でも読むことができます。ゴールトンの指紋に関する熱意、思いを感じます。TIMESにも解説を書き、一般人にも啓蒙しています。指紋に関する論文を次から次に書いて発表したゴールトンも「偉い」と思います。 スマホ全盛時代となり指紋が広く使われるようになるとは、ヘンリー医師、ゴールトン、ハーシェルの誰もが思わなかったでしょう。今考えると各々が良い仕事をしたのだと思います。 ヘンリー医師の研究は、繰り返しになりますが、東京築地で行っています。そこに、私は、親しみを覚えます。 築地に行くことがあれば聖路加国際病院の脇にあるヘンリー・ヘンリー医師の顕彰碑をご覧ください。そして今から140年前、東京都大森の縄文土器から「指紋」に気づき、指紋の持つ価値、意味を研究し、そして世界初の「指紋研究論文」をこの地で書き上げてNATUREに投稿したことを思い起こして頂ければ、と思います。 終。 追記: 元警視庁捜査1課長の光真章(みつざねあきら)さんは、指紋だけで無く足紋(足指の指紋)も個人識別に役立つことを提唱しています。足の方が靴を履いているため、そして靴下を履いているため保護され、大震災のような災害時には手よりも足の方が残る確率が高いからだそうです。 その光真章さんはヘンリー・フォールズ医師の眠るイギリスのWolstantonを訪れ、日本に残っていたヘンリー医師の遺品を地元の警察に贈呈しています。良い話です。 【参考文献】 コリン・ビーヴァン著、茂木健訳「指紋を発見した男―ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け」主婦の友社:2005刊 HENRY FAULDS著「Dactylography; Or, the Study of Finger-Prints」1912年刊 HENRY FAULDS著「Guide to finger-print identification」1905年刊 HENRY FAULDS著「How the English fingerprint method arose」1915年 HENRY FAULDS著「Nine Years in Nipon. Sketches of Japanese Life and Manners」1888年 ウェルカム図書館 Wellcome Collection 医学史に関する膨大な資料、文献を所蔵していることで有名です。入場料は無料、コロナ禍で一時閉館していましたが、今は開館しています。予約不要と書いてあります(2022-06-15 確認)。ロンドンにあります。行ってみたい場所の1つです。 Letters of Notable Victorians 2-5は全て、電子化されています。 「Historic Works on Fingerprints」というサイトで読むことができます。 The Project Gutenberg EBook グーテンベルグプロジェクトでも上記文献2.は紹介されています。 S Inaga , H Osatake, K Tanaka:SEM images of DNA double helix and nucleosomes observed by ultrahigh-resolution scanning electron microscopy J Electron Microsc (Tokyo). 1991 Jun;40(3):181-6. アン・セイヤー 著:ロザリンド・フランクリンとDNA―ぬすまれた栄光 草思社(1979/1/1) ブレンダ・マドックス 著: 福岡 伸一 (翻訳):ダークレディと呼ばれて: 二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実 化学同人(2019/9/6) 高野 麻子:「指紋と近代――移動する身体の管理と統治の技法」(みすず書房) 2016年刊 高野 麻子:「指紋法」誕生の軌跡 : 大英帝国のネットワークと移動する身体の管理という「課題」 The History of Practical Application of Fingerprinting : Networks of the British Empire and the "Problem" of Controlling Human Mobilities 東京大学大学院情報学環紀要 -(82), 43-68, 2012-03 Francis Galton :Personal identification and description.' Nature 38 : 173-7, 201-2 1888年 Francis Galton:'Personal identification and description.'(revised version) Proceedings of the Royal Institution 12 : 346-60 1888年 Francis Galton:'Finger print evidence.' Nature 66 : 606,1902年 Henry Faulds[Review of] Guide to Finger Print Identification, Nature 72 : iv-v Supplement 1905年 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/07/11 前回、前々回でも紹介したように1874年に来日したイギリス医師フォールズは日本での診療や日本人医学生への教育の合間に縄文土器を見て指紋が持つ様々な意味に気づき、主に日本人を研究対象として指紋に関する研究を行いその成果を1880年にNATUREに投稿しました。当時の日本人はフォールズ医師の指紋研究に好意的で積極的に参加しています。 前回ご紹介した通り、この論文でフォールズは指紋が 犯罪捜査に役立つこと 個人確認に役立つこと 遺伝関係の確認に役立つこと(親子関係など) などを予測しています。 遺伝関係の確認には、今ではPCRを用いたDNA鑑定がなされ、指紋が果たす役割は終わっているでしょう。しかし、1. 2. は今でも重要な役目を果たしています。スマホ使用時や電子マネーを使う際には指紋認証が求められます。指紋はますますその重要性が増していると言っても過言では無いと思います。 繰り返しますが、この重要な発見の元となったのは日本でのフォールズ医師が行った研究です。しかし、フォールズの存命中は不思議なことに「指紋研究はフォールズとは全く関係の無い別な研究者の業績」とされていました。フォールズの指紋研究は、ある意味盗まれてしまったのです(後述します)。 DNAの二重らせん構造の発見と言えばワトソン(James Dewey Watson:1928-)とクリック(Francis Harry Compton Crick:1916-2004)がなした世紀に残る大発見とされていますが、最近はどうやら旗色が悪いようです。「DNAが二重らせん構造をしていると予想した論文」も「盗まれた」モノだと主張する人がいます(参考:156:DNAが二重らせん構造をしていることを実際に見て撮影したのは日本人研究者)。 それと似たようなことが「指紋研究」にも生じていました。 指紋の話に戻します。 フォールズの指紋研究はその成果を「盗まれた」のです。NATUREに掲載されたフォールズの論文は、ほとんど無視され、成果は横取りされたがゆえにフォールズ医師の業績は評価されていませんでした。つくづく可哀想です。 現在、指紋発見の経緯は細かいところまで明らかになり、フォールズ医師こそ指紋研究の発見者だということになっています。フォールズは存命中に「自分こそ、指紋研究の創始者である」と証明するため、様々な方面へ働きかけ、関係各所に嘆願を行いました。しかしそれは無視され、残念なことに指紋研究は別な研究者が創始し広めたことになっていました。 さて、なぜ、筑地病院のフォールズの指紋研究は、隠され、けなされたのでしょうか。経緯をお示しします。読むと、かなり、悲しくなります。 この辺りの事情の端緒を前々回で紹介しました。端緒はダーウィンへの手紙です。 1. あの進化論で有名なダーウィン宛に手紙 1880年に2月、フォールズ医師(当時東京築地在住)は、雑誌NATUREに論文を投稿する前、あの進化論で有名なダーウィン宛に手紙を書き「指紋研究」への助言、助力を求めています。これが「決定的な悪手」でした。 この手紙は現存します。ロンドンにある「ウェルカム図書館(Wellcome Collection)」に所蔵されています。電子媒体でも公開されています。以下の写真はその現物の写真です。本邦初公開?かも知れません。 なお、同図書館の正式な許可を得て掲載しています(文献11参照)。 図1:上方右側に「Tsukiji hospital Tokio」と記されているのがわかりますでしょうか? 図2 図3 図4 図5 図4、図5はフォールズ医師がダーウィン宛に書いた手紙に同封した指紋、掌紋です。これに示されるように、フォールズ医師は最初から、10本指「全ての指紋」と「掌紋」とを記録しています。これが、後にとても重要な「意味」を持ちます。 さて、本文は筆記体で読めませんが、この手紙の抄録が、なぜか、ケンブリッジ大学の図書館にあったのでそれを引用します。 “私は、ダーウィン先生の本を読んで勉強した医師です。ダーウィン先生なら、私の研究に興味を持ってくださると思い、この手紙をしたためています。私が研究してきたのは、人間の手と指に刻まれている皺と溝についてです。私の研究に、ダーウィン先生、お力を貸してください” 2. ダーウィンの従兄、フランシス・ゴールトン ダーウィンにはこのフォールズ医師の手紙や論文の内容がよくわからなかったのか、従兄のフランシス・ゴールトンに手紙を書き、フォールズ医師の指紋研究のことを知らせます。この手紙も現存します。フォールズの手紙と同じく、ウェルカム図書館に所蔵されています。 ダーウィンの従兄、ゴールトンは指紋研究に全く関係のない人物でした。しかし、それがいつの間にか、、、。 以下、次回へ続く。。。 【参考文献】 コリン・ビーヴァン著、茂木健訳「指紋を発見した男―ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け」主婦の友社:2005刊 HENRY FAULDS著「Dactylography; Or, the Study of Finger-Prints」1912年刊 HENRY FAULDS著「Guide to finger-print identification」1905年刊 HENRY FAULDS著「How the English fingerprint method arose」1915年 HENRY FAULDS著「Nine Years in Nipon. Sketches of Japanese Life and Manners」1888年 ウェルカム図書館 Wellcome Collection 医学史に関する膨大な資料、文献を所蔵していることで有名です。入場料は無料、コロナ禍で一時閉館していましたが、今は開館しています。予約不要と書いてあります(2022-06-15 確認)。ロンドンにあります。行ってみたい場所の1つです。 Letters of Notable Victorians 2-5は全て、電子化されています。 「Historic Works on Fingerprints」というサイトで読むことができます。 The Project Gutenberg EBook グーテンベルグプロジェクトでも上記文献2.は紹介されています。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/06/13 前回より続きます。 同一のDNAを持っている一卵性双生児でも指紋は違います(参考:Identical Twins and Fingerprints)。不思議です。指紋は受精後10-16週で決まります。その間の胎内環境で指紋が違ってくるのです。 なおフォールズ医師の業績を紹介した文献「The Preservation ion of friction ridges(Laura A. Hutchins 著)」に以下の記載があります。 To prove permanence, Faulds and his medical students used various means—razors, pumice stones, sandpaper, acids, and caustics—to remove their friction ridges. As he had hoped, the friction ridges grew back exactly as they had been before. 「指紋が不変である事を証明するために、フォールズ医師と彼の医学生たちは、カミソリ、軽石、紙やすり、酸、苛性剤など様々な手段を使って指紋を取り除いた。フォールズが期待した通り、指紋は元通りになった。」 つまり、指紋を取り除いても皮膚が再生すれば元通りになるのですね。 さて、下の写真は当クリニックで切断指を治療した患者さんの指です。再生した指の指紋と以前の指紋は、多分、同一だと思いますが証明する方法はありません。 (注:当院ではこのような指の再生治療を行っています) さて、前々回で紹介したスコットランド医師ヘンリー・フォールズ(Henry Faulds、1843-1930)が『NATURE』 (1880年10月28日605号)に寄稿した「指紋に関する論文」を紹介します。 この論文を翻訳してみました。古い英語が使われていたりするので間違っているかもしれませんが、大意はあまり変わらないと思います。 手の「指紋」について ヘンリーフォールズ 筑地病院 東京 日本 一年ほど前、日本で発見された先史時代の土器の標本を見ていたら、粘土がまだ柔らかいうちに作られた際に付けられたと思われる指の跡に気づきました。それから「指の跡」に注目するようになりました。残念ながら、古い土器に付いている指紋はどれも曖昧ではっきりとしたものではなく、土器に付いている指紋はあまり参考にはなりませんでした。しかし最近作られた陶器に残っている指の跡は結構はっきりとしていて、それで人間の指紋の特徴を観察することができるようになりました。 最初に猿の指紋の研究をしました。猿の指紋は人間の指紋と似ています。私は後で追求しようと思っていることについて幾つか述べる機会がありましたが、その点については別の手紙で発表するかもしれません。そういう機会があれば良いと思っています。 一方で、キツネザルの興味深い遺伝的関係に光を当てるための追加の手段として、これに関連したキツネザルなどの慎重な研究を提案したいと思います。 私は、日本の人々から多くの指紋を採取しました。現在、他の民族からも採取しているところです。ここで、いくつかの興味深い点を紹介します。 指紋の溝は非常に非対称的な発達を示す人がいます。このような場合、片方の手の指はすべて同じような線の配列をしていますが、もう片方の手ではそのパターンが逆になっています。 私が調べたジブラルタル猿(Macacus innus)にもこのような配列がありました。私がここで検査した数少ないヨーロッパ人にもこのような配列が見られます。 植物観察用レンズは、このような指紋の詳細な特徴を記録するのに役立ちます。 指紋のループが発生しているところでは、一番内側の線は単に切れて突然終わることもあれば、またループが現れて終わることもあります。元の方向に向きを変えて切れ目なくループが続いていることもあります。また鉄道地図の中には分岐点のように合流したり、分岐したりする指紋線もあります。しかし様々な種類の指紋を印刷すると、両手が私たちに与える対称性の一般的な印象と似ているかもしれません。 日本人の場合、両手の親指の線は似たような螺旋状の渦巻きを形成しています。左手の人差し指の指紋線は独特の楕円形の渦巻きを形成していますが、右手の対応する指紋線は右手の人差し指の線とは全く逆の方向を持つ開いたループを形成しています。右の薬指にも楕円形の渦巻きがありますが、対応する左指には開いたループがあります。 特定の掌紋は両手で平行に並んでおり、非常に対称的であり、したがって英国人のそれとはかなり異なっています。 これらの例は両民族の典型的なパターンを示すものではなく、単に観察すべき事実の種類を示すものだと思っています。 私の観察方法は、まず指をよく観察してできるだけ正確に曲線の大まかな傾向をスケッチし、国籍、性別、目と髪の色を記録し、後者の標本を確保することです。私はこれをシダの葉の記録に使う方法である「ネイチャープリンティング」を使って記録することにしました。必要なのは一般的なスレート板や滑らかな板、またはブリキのシートを印刷用インクを非常に薄く均一に広げたものだけです。より強い記録を残したい場合は、しっかりと柔らかく押し付けて、少し湿った紙に転写します。 私はガラス板に指紋の記録を残すことに成功しました。この方法だと非常に繊細な部分まで記録できます。実際にはやや淡いですが、微細な毛穴の細部まで非常によく表現されているのでデモンストレーションには役立つでしょう。色の違うインクを使うことで、2つのパターンを重ね合わせて比較することができます。ガラス記録した指紋は投影装置で表示できるかもしれません。 私は必要に応じて各事件の詳細を記入するための空欄の用紙と、顕微鏡検査のための毛髪の標本を添付したいくつかのアウトラインハンドを用意していました。 それぞれの指先は単独で行うのが最善であり、人々はまれにプロセスに従おうとします。少しのお湯と石鹸でインクを除去します。ベンジンはインク除去に、より効果的です。 これらの無限の品種を通じた遺伝の優勢は、時に非常に印象的でした。 私は親子の間に似た指紋のパターンを発見したことがあります。しかし否定的な結果もあります。親子関係に関して何も証明しないかもしれません。注意を払うことが重要です。 私は、これらのパターンを注意深く研究することがいくつかの点で役立つかもしれないと確信しています。 私がサルに存在することを発見した類似性を他の動物にも拡張できるかもしれません。 これらの類推は更なる分析を認めるかもしれないし、よりよく理解された場合には、民族学的分類に役立つかもしれません。 もしそうなら古代の陶器に見られるものは、歴史的に非常に重要になるかもしれません。しかし、私はこれについて非常に疑わしいです。 ミイラの指は特別な準備をすれば、比較のために結果が得られるかもしれません。しかし、私はそれには懐疑的です。 粘土やガラスなどに血のついた指紋記録が残っていれば、犯罪者を科学的に特定するのに役立つかもしれません。私はすでにそのような2つのケースを経験しています。 1番目のケースでは、脂ぎった指の指紋が、強いアルコールを飲んでいた人間を特定しました。その模様はユニークなもので、私は以前にその人(アルコールを飲んだ人)の指紋記録を入手したことがあったのです(注:どうも教えていた学生が夜中にフォールズの研究室にあったアルコールを飲んでいて、それに気づいたらしい、フォールズ、結構お茶目です)。元の指紋とアルコールグラスの指紋は一致しました。 2番目のケースは、白い壁に残っていた煤けた指の跡が容疑を否定する証拠として使われました(注:犯人の指紋と、指紋が違ったらしい)。 他のケースでは、いくつかの切断された被害者の手だけが発見されたときのように、医学的な法的調査が発生する可能性があります(以前に知られていれば、それらはペニー小説家の標準的なモグラよりも価値ではるかに正確である)。以前に知られていなかった場合には、遺伝学の専門家は、多くの場合にはかなりの確率で、またいくつかの場合には絶対的な精度で親族を決定することができるかもしれません。このような場合、原告はこの原則の範囲を超えていないかもしれません。 認識可能なTichborne型があるかもしれないし、専門家が事件を関連付ける可能性のあるOrton型があるかもしれません。絶対的な同一性は、いくつかの状況では子孫関係を証明するでしょう。 私は、このような一般的な結論に到達してから、私たちが指紋を記録するのと同様、中国の犯罪者の指紋記録が残されていたと聞いたことがあります。しかし、私はまだ、この点についての正確な、あるいは信憑性のある事実を得ることに成功していません。エジプト人は、日本人が現在行っているように、犯罪者の自白を親指の爪で封印していたことが、最近の発見で証明されています。しかし、これは全く別の問題であり、興味深いことに、我々の国イギリス、給仕の女は、同様な方法で封印された手紙にスタンプを押していたのです。 写真の他に重要な犯罪者の指紋の記録を残すことの利点については疑いの余地がありません。昔、中国人が犯罪者の指紋記録を残していたことを知るのは驚くべきことではないと思います。本当にそういう記録を見つけることができたら嬉しいと思います。それは方法の有用性を確認するのに役立つし、蓄積されたかもしれない事実は忍耐強い観察者のための豊かな人類学の宝庫になるでしょう。 以下、次回続く。 【参考文献】 コリン ビーヴァン著、茂木 健訳「指紋を発見した男―ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け」主婦の友社:2005刊 HENRY FAULDS著「Dactylography; Or, the Study of Finger-Prints」1912年刊 HENRY FAULDS著「Guide to finger-print identification」1905年刊 HENRY FAULDS著「How the English fingerprint method arose」1915年 HENRY FAULDS著「Nine Years in Nipon. Sketches of Japanese Life and Manners」1888年 西岡研介著:「噂の眞相」トップ屋稼業 (河出文庫):上述の指紋の話の他にも、あれれ?という話が沢山紹介されています。 2-5は全て、電子化されています。 「Historic Works on Fingerprints」というサイトで読むことができます。 The Project Gutenberg EBook グーテンベルグプロジェクトでも上記文献2.は紹介されています。 https://www.gutenberg.org/files/47911/47911-h/47911-h.htm 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/05/30 前回に引き続き、指紋の話をします。 あっと驚く、縄文人の指紋! が今回の主題です。 今回も写真があります。苦労して入手した写真もあります。かなり珍しい指紋の写真もあります。写真だけでも眺めて楽しんでください。 最初に色々な方の指紋を示します。 当たり前ですが、皆、形が違います。 今回は格調高く世界初の指紋研究を紹介するつもりでしたが、その前に「偉い人」の指紋に関する余話を紹介します。それから本論の「あっと驚く、縄文人の指紋」をお目にかけます。 偉い人の指紋? 最初に「ある偉い人」の指紋にまつわる逸話を紹介します。何十年も前に「偉い方」が要職にあった時のことです。「偉い方」は、「終戦直後、大学時代にあまり褒められたことでは無いことで警察に捕まったことがある」と、ある雑誌で報道されました。こういう時、身に覚えがあれば「放置」して「記憶にありません」で対処するのが1番良いと思います。 誰だって間違いを起こすことがあります。何十年も年、若い時の「微罪」を問われてもどうしようも無いです。こういう時、身に覚えがあるなら放置すべきだと思います。 「記憶にありません」を繰り返していれば大方の人は、事情を察して、それ以上追求しないでしょう。しかし「偉い方」は別な方法をとりました。雑誌の記事は「ねつ造記事だ」と反論、報道した雑誌を訴え裁判になりました。最悪の一手です。一審では、雑誌側の負けとなりました。報道した雑誌には状況証拠、伝聞証拠しか無かったからです。 当たり前ですが、一審で負けた雑誌側は必死になりました。「偉い方」が逃れられないような証拠を探しました。なかなか証拠は見つかりませんでしたが、遂に「偉い方」が学生時代に捕まった際に警察で記録された「指紋番号」を入手したのです。 指紋番号は右手:「12345」、左手:「56789」のように記載されています。指紋の特徴を記載するのに使う番号です。偉い方が逮捕された時の指紋番号と現在の「偉い方」の指紋から得られる指紋番号が一致すれば、逮捕された事実は指紋番号で裏付けられ、訴えられた雑誌が勝ちます。その雑誌は必死になって「あの方」の現在の指紋を探しました。普通は個人の指紋など、公開されていません。 しかし、ついに「偉い方」の指紋を見つけてしまったのです。「偉い方」は手相を見て貰う際に手形を色紙につけて残していたのです。その手形を所持していた方が見つかったのです。その手形に指紋が「ばっちり」写っていて、そこから得られた「偉い方」の指紋番号は「あの方」が大学生時代に捕まった時に記録された指紋番号と同一でした。 ここで少し解説が必要ですね。指紋が一致する他人は今まで見つかっていません。では同一のDNAを持っている一卵性双生児では、どうなのでしょうか? 変わると思いますか? 答えは次回に。 それはともかく、指紋そのものと指紋番号は別です。指紋番号は指紋の記録方法の1つです。この番号が一致する他人はゼロではないのです。とはいえ一致する確率は、現在の指紋番号記録法なら1兆分の1、昔の記録方法でも500-1000万人に一人です。 指紋番号は犯罪捜査などに使われます。終戦直後、写真で指紋写真を撮ることなど簡単にできない時代に「指紋番号」を使って「あの方」の記録を残していた当時の警察に敬意を払います。 さて「あの方」は指紋と指紋番号を突きつけられ逃れようが無く結局、示談になって賠償金無しで裁判は終わりました。 別にそれが直接の原因では無いのですが「偉い方」は要職から去りました。 文献6はこのことを取材した記者の本です。「あの方」の記事の他にもたくさん、興味深いことが書かれています。 指紋を「犯罪捜査」に用いる手法は世界中で使われていますが、それは日本で始まっています。明治時代に東京築地で指紋を研究したフォールズ医師(前回で紹介、明治時代)が書いた論文に指紋で見つけた「お酒泥棒」のことが載っています。 フォールズ医師が所持していたお酒はフォールズ医師の知らぬ間に、時々減っていたのです。フォールズはガラス製のお酒容器に残っていた指紋を用いて犯人を見つけたのです。ガラス容器に残っていたフォールズ医師以外の指紋と彼の教え子の1人の指紋が一致したのです。アルコールを盗んでいたのは彼の教え子だったと「判明」します。これが、多分、世界最初の指紋による犯罪捜査記録だと思います。 なお、指紋を削ってしまえばどうでしょうか? 指紋を消すために指紋を焼いたり、指紋のある皮膚を削ったりしたら大丈夫と考えた犯罪集団がいました。 この件も次回までお考えください。フォールズは、これにも答えを出しています。 図1:ある人の手形です。 図2:同一人物の50数年後の右1指外側の指紋を拡大してみました。 似ているでしょうか?一致するはずです。 なお、この方は犯罪者ではありません。念のため。 図3:公開されているニクソン元米大統領の指紋です。 写真が簡単に撮れるようになると指紋番号による指紋記録法は廃れ このように実写されます。 あっと驚く、縄文人の指紋! さて、ここで凄い指紋をお目にかけようと思います。前回、指紋に関する論文を書いたフォールズ医師は、縄文土器にはあまり鮮明な指紋は残っていないと記していることを紹介しました。私もそう思っていました。しかし、2018年、東京国立博物館で行われた縄文展で指紋が残っている土器が展示されていました。 結構、はっきりとわかる指紋でした。しかし、それは撮影禁止でした。その時そこにいた学芸員の方に縄文時代の指紋が他にもあるかどうか伺ったところ青森県八戸市の是川遺跡に縄文時代の指紋が一番はっきりとわかるモノが展示されていると教えて頂きました。是川遺跡といえば、この縄文展でも展示されていた国宝「合掌土偶」が有名です。ラグビーの五郎丸選手がキックをするときのポーズに似ています。 この合掌土偶が発掘された是川遺跡に縄文時代の指紋が残されているとのことでした。土器に記された指紋ではありません。是川遺跡の遺物は是川縄文館に所蔵されています。指紋の残っている縄文遺物があるかどうか、問い合わせてみました。是川遺跡には完全な形で縄文人の指紋が残されていることが解りました。それをお示しします。 ↓指紋部分を拡大しました 青森県八戸市是川縄文館の所蔵物の写真です。同館の正式な許可を得て掲載しています。 出土場所から、3000年前の遺物だと推定されるそうです。これはケヤキの樹皮に赤と黒の漆(うるし)を塗って補強して使っていた容器の一部です。黒の漆をぬりそれが乾く前に赤い漆を塗っていた時にうっかり指で触ってしまったのでしょう。それゆえに指紋がはっきりと残っています。「しまったあ」と思ったでしょうか。そしてまさか3000年後にそれが人目に晒されるとは思わなかったでしょう。 注1:漆を赤や黒に着色する技術は簡単ではありません。数千年も前の縄文人が漆に着色する技術を持っていた事に驚きます。 注2:東京都東村山市の下宅部遺跡から漆で着色された大量の土器や木製品が出土しています(参考:2.縄文時代の漆:東村山市) 「赤と黒」です。スタンダールに先駆けています。縄文人は土器の造形だけで無く色彩にも「凝っていた」のでしょうか。なお、この指紋に関しては、是川縄文館の学芸員である市川健夫さんの詳しい説明を視聴することができます。 興味がある方は是非、聞いてみてください。 次回に続く。 【参考文献】 コリン ビーヴァン著、茂木 健訳「指紋を発見した男―ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け」主婦の友社:2005刊 HENRY FAULDS著「Dactylography; Or, the Study of Finger-Prints」1912年刊 HENRY FAULDS著「Guide to finger-print identification」1905年刊 HENRY FAULDS著「How the English fingerprint method arose」1915年 HENRY FAULDS著「Nine Years in Nipon. Sketches of Japanese Life and Manners」1888年 西岡研介著:「噂の眞相」トップ屋稼業 (河出文庫):上述の指紋の話の他にも、あれれ?という話が沢山紹介されています。 2-5は全て、電子化されています。 「Historic Works on Fingerprints」というサイトで読むことができます。 The Project Gutenberg EBook グーテンベルグプロジェクトでも上記文献2.は紹介されています。 https://www.gutenberg.org/files/47911/47911-h/47911-h.htm 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/04/18 縄文時代の指紋がきっかけ 年度が替わり勤務先、学校が替わった方も多いかと思います。この季節には桜が付きものです。日本あるいは世界の桜並木の多くはソメイヨシノです。以前もお伝えしましたがソメイヨシノの特徴は2つあります(随筆「桜」雑感)。 同一クローンであること(すべてのソメイヨシノは同じ性質をもった木) 種が生らない(果実ができない) です。1.のために一斉に咲いて一斉に散ります。 ソメイヨシノと同様、コロナも一斉に「散って」欲しいですが無理でしょう。 コロナ禍は収まりません。オミクロンの後にも新株が出現するのでしょうか? 国によっては、ほとんどのコロナ規制を撤廃しています。マスクもワクチンパスポートも不要になっています。 下図はこれまでのCOVID-19による累積死者数(100万人辺り)です。 日本を除いた国々はすでにコロナ規制を撤廃しています。 こちらの図は最近(2022-04-02)2週間の新規患者数(人口100万人辺り)です。日本を含めてスウェーデン、マレーシア、オランダ、デンマーク、ノルウェイは減少傾向にあります。 いずれにしてもCOVID-19に対する対策の違いが浮き彫りになります。こういう統計は、しかし、気を付けないといけないです。病院の数も少なく、検査もできない国は一見するとCOVID-19発症者が少ないと考えられるかもしれないからです。 さて、今回から数回にわけて「指紋」についてお伝えします。 数年前、東京築地にある聖路加国際病院で勉強会があり、ついでに病院周辺を散策しました。良い散歩道があります。この時「指紋研究発症の地」と書かれた碑文(後述)があるのに気づきました。それからこの地で始まった「指紋研究」が気になって色々と調べていたのです。それを紹介します。 スマホを使い始めるまで「指紋」について考えたことはありませんでした。車を運転していてスピード違反で捕まった時に指紋を押させられた記憶があります。それくらいしか指紋を使った(採取された)記憶はありません。しかしスマホを使うようになって「指紋」が身近になりました。スマホを使う際「指紋認証(fingerprint recognition)」が求められる機種があります。指紋は一人一人違うので指紋を用いて個人識別しているのですね。 指紋は他にも様々に使われています。私たちは「指紋」に随分とお世話になっているのです。いくつか例を挙げます。 スマホやパソコン起動時の指紋による認証 電子決済時の指紋認証 ATMの指紋認証 犯罪捜査による指紋の活用 などです。4.は関係ない方が良いですね。私のスマホは個人識別に指紋認証を用いています。顔認証によるスマホもありますが、認証の度にいちいちマスクを取らざるを得ないので、指紋で個人識別ができるスマホの方がコロナの時代には面倒が無いですね(注:最近はマスク越しに顔認証ができる機器もあります)。 私は、つまり、スマホを使う度に指紋を使った個人識別をされていることになります。「指紋がないと生活できない」とも言えます。犯罪捜査にも指紋は必須です。つまり、ある意味私たちの生活は 「指紋によって守られている」 と思います。 今回は写真が多いのですが、苦労して入手した写真もあります。ぜひご覧ください。 いま「指紋による個人識法ができること」や「指紋で犯罪捜査ができること」は世界中で認められています。 その基礎となる指紋研究は、なんと、日本で始まったのです。 明治時代、スコットランドから来日、病院を開設して西洋式医療を広めたりやキリスト教の伝導をしていたスコットランド医師ヘンリー・フォールズ(Henry Faulds、1843年6月1日-1930年3月19日)があの『NATURE』(1880年10月28日605号)に指紋に関する論文を世界に先駆けて発表したのです。フォールズ医師が指紋に興味をもったのは大森貝塚にあった縄文土器に残されていた縄文人の指紋を見たからです。フォールズはそれをきっかけとして指紋に興味を持ち、日本で様々な基礎実験をしてそれをNATUREに投稿したのです。この論文には 指紋を犯罪捜査に使える可能性 両親とその子供の指紋相似性 民族間の指紋の違いを検討したこと などを記しています。 つまり現代に至る様々な「指紋」の活用の端緒は日本で始まったと言っても過言では無いでしょう。フォールズは東京筑地に病院を作りそこで診療をしていました。「筑地病院」です。この病院は、後に米国人医師のルドルフ・トイスラーが買い上げました。それが今の聖路加国際病院の始まりです。その聖路加国際病院のすぐ側にフォールズの旧居跡がありそこに「指紋研究発祥の地」の碑があります。 指紋研究の元は縄文土器 フォールズは大森貝塚を発見したエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse、1838年6月18日-1925年12月20日)と日本で知り合い大森貝塚発掘の手伝いもしています。モースは「縄文、縄紋」の名付け親でもあります。大森貝塚で発掘した土器に独特の縄目模様があることからこの土器を「cord marked pottery(縄目が印された土器)と名付け、それを日本人研究者が翻訳、日本では「縄文」あるいは「縄紋」と称すようになったのです。モースが発掘していた土器に「掌紋や指紋」が残っていることを発見したフォールズはこの掌紋、指紋に興味を抱いたのです。 指紋が付いた縄文土器 そのフォールズが興味を持った指紋付きの縄文土器(大森貝塚でモースが発掘した土器の一部です)を紹介しましょう。これらの土器は全て重要文化財に指定され東京大学総合研究博物館に所蔵されています。公開されていないので見ることはできません。しかし同館のご厚意により許可を得て「指の痕が付いた縄文土器」を皆さんに紹介できることになりました。これらの図版はモースが書いた「大森貝塚(岩波文庫)」(頁98-99)に載っています。しかし文庫では写真が小さくて掌紋、指紋がよくわかりません。同館が所持する土器のデジタルデータで指紋が付いていると思われる場所を拡大してようやく、掌紋、指紋が付いていることがわかります。 土器の写真とモースの書いた図の両方を示します。かなり詳細な部分まで土器を筆写しています。なおモースは両手を同時に使って絵を描くことができたそうです。 東京大学総合研究博物館に残されている縄文土器の写真とモースの描いた土器の図版 東大博物館報告番号BD04-77~87が「大森貝塚(岩波文庫)」図版7に掲載されている土器です。 大森貝塚出土標本データベース この中にある標本番号BD04-77~BD04-97が該当する土器です。示します。 左がモースの書いた図で右がその写真です。 BD04-77: BD04-78: BD04-79: BD04-80: BD04-81: BD04-82: BD04-83:無し BD04-84:無し BD04-85: BD04-86: BD04-87: たしかに指の痕がありますね。BD04-79、BD04-80の2つには、しっかりと指の跡が残っているのがわかります。指紋までは解りませんね。本物を見れば指紋まで解るのだと思います。いずれにしても、縄文土器に付いた指の痕にフォールズは興味を持ち日本で指紋についての広範な実験や観察をしています。 縄文時代の指の跡をお示ししましょう。 フォールズとは関係ありません。2018年東京国立博物館で「縄文―1万年の美の鼓動」と題した縄文土器の特別展が開かれました。日本全国から縄文土器が集められて展示されたのです(普段は各地の博物館でしか見ることができません)。 見学に訪れました。多数の本物の縄文土器が展示されその迫力に圧倒されました。その中に指紋がはっきりと残っている土器が1つだけありました。縄文土器は多数、あっても指紋はほとんど残らないのです。残念な事に写真撮影は不許可でした。 それで、下野栃木県埋蔵文化財センターを訪れる機会があり、その折りに学芸員の方に尋ねてみました。その方によるとやはり縄文土器に指紋はほとんど残っていないとの事でしたが同館所蔵の指の痕跡と思われる土器を見せていただきました。 話は逸れますが、縄文土器の外殻の装飾はよく知られています。 山梨県にある釈迦堂遺跡博物館にある水煙文土器(すいえんもんどき)重文です。 外側は派手ですね。下野栃木県埋蔵文化財センターの方は「こういう土器の内部は見たことが無いでしょう内側に装飾は無いのです」と言って内部を見せて頂きました。内部は文字通り「ツルツル」ですした。凹凸などありません。きれいです。勿論、指紋など残るわけがありませんね。 縄文土器の内側に装飾はない 下野栃木県埋蔵文化財センターの土器の内側です。機械で削ったようにきれいです。これも縄文土器の特徴だそうです。なかなか中を見ることはできないですね。外側の文様は有名ですが、内部のツルツル感はもっと知られて良いと思います。 釈迦堂遺跡博物館@山梨県(中央道釈迦堂PAに併設)に展示されている壺の中もツルツルです。 どういう技術を使ってこんなに「つるつる」にしたのか、全く解らないそうです。簡単では無いことは予想できます。こういうところにも縄文人の情熱を感じます。 フォールズが日本で行った指紋研究 だいぶ話がそれました。縄文土器に残っている縄文人の指の痕跡に刺激を受けて、フォールズ医師は診療の合間に指紋研究を進めます。 陶器を作っているところに行って粘土に指紋をつけています。 でも焼いたら指紋はあまり残らないですね。指紋は1mm程度しか溝が無いから焼いたら残らないのです。 指紋をインクで記録することを考案しています。 ガラス板にインクで指紋を記録すること、そしてガラス板に記録すれば、指紋はランプで投影できることを示しています。 10本の指全てで指紋を記録することを推奨しています。 「日本人」と当時日本に滞在していた「西欧人」の指紋を記録し民族の間に指紋の相違があることを示しています。 親子で指紋の相似性があることを示しています。 指紋は生涯変わらないことを予測しています。 指紋は、様々な方法で削り取っても、元どおりに再生することも示しています。 世界中の研究者に手紙を書いて、指紋を記録して、フォールズの元に送り返すように依頼。ただし、これには反応が無かったようです。 種の起源で有名なダーウィンに手紙を送り、指紋研究の紹介を頼んでいます。 つまりフォールズは、現在、指紋研究で行われている基礎となる研究の殆どを行ったのです。しかし、次号に紹介しますが、1987年まで彼の業績は埋もれてしまいました。フォールズは指紋に関する研究は論文にしてNATUREに投稿、掲載されました。指紋に焦点を当てて書かれた世界初の論文です。しかしフォールズには有力な味方、仲間がいなかったためその業績をかすめ取ってしまった人物が「指紋」の発見者になっていたのです。 うち捨てられていたフォールズ医師の墓を見つけ出し再建したのはアメリカ人指紋捜査官 1987年のことです。フォールズの指紋に関する大業績に気づいたアメリカの指紋捜査官二人が英国中部にあるWolstantonという小さな町の教会共同墓地の「片隅に朽ち果て、埋もれていた」フォールズの墓を見いだし、自分達で費用を捻出して、フォールズの墓を再建したのです。良い話です。 勿論、今ではフォールズこそ指紋研究の創始者であると認められています。 フォールズが集めた日本人の指紋 フォールズは数千人の日本人の指紋を集めています。その一例です。 文献2に載っているフォールズ医師が東京で記録した日本人の指紋と掌紋です。 NATUREの論文によると、日本人は、フォールズ医師の申し出に快く応じてくれたとあります。現代に至る指紋研究の基礎に明治時代の無名の日本人が多大な貢献をしたともいえます。そのフォールズがNATUREに書いた論文を入手したので紹介します。頁右下に HENRY FAULDS Tsukiji Hospital, Tokio, Japan とあります。この論文が、東京で書かれたことが解りますね。 拡大図 この論文を翻訳してみました。次々回で紹介します。 なお次回では、縄文人の指紋がはっきりと解るモノを発見したのでそれも紹介します。乞うご期待です。 注: 交通違反をすると指紋捺印を求められます。今も同様です。交通違反には気を付けましょう。 【参考文献】 コリン ビーヴァン(著)、茂木 健(訳)「指紋を発見した男―ヘンリー・フォールズ医師と犯罪科学捜査の夜明け」主婦の友社 HENRY FAULDS著「Dactylography; Or, the Study of Finger-Prints」1912年 HENRY FAULDS著「Guide to finger-print identification」1905年 HENRY FAULDS著「How the English fingerprint method arose 」1915年 HENRY FAULDS著「Nine Years in Nipon. Sketches of Japanese Life and Manners」1888年 HENRY FAULDS著「Nine Years in Nipon. Sketches of Japanese Life and Manners」1888年 2-5は全て、電子化されています。 「Historic Works on Fingerprints」というサイトで読むことができます。 グーテンベルグプロジェクトでも上記文献2.は紹介されています。 「The Project Gutenberg EBook」 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/03/28 女の人に殴られたり蹴られたあの日。。 ※注意:手術の写真が1ヵ所出てきます。血が苦手な方はお気をつけください。 最近、医師が患者さんに殺される事件が2件起きました。大阪の放火事件と埼玉の猟銃射殺事件です。大阪の放火事件では医師だけでなく多くの患者さんもお亡くなりになりました。お亡くなりになられた多くの方々のご冥福を心からお祈りいたします。これらの事件があり以前私もヒヤッとした事を思い出しました。 ある種の病気は、季節により、発病率が違います。 例えば心臓病や血管の病気の発症率が高いのは、 寒い季節 季節の変わり目 梅雨時 です。梅雨時は湿度に加えて、気温の変化が激しいのがその原因でしょう。 梅雨時は「心」にも影響を及ぼします。以前から悲惨な「無差別殺傷事件」「通り魔事件」は梅雨時から暑い時期にかけて多いと思っています。きちんとした統計資料はありません。いくつか例示しましょう。 深川通り魔殺人事件(1981年 6月17日) 池田小学校事件(2001年6月8日) 秋葉原連続通り魔事件(2008年6月8日) 心斎橋通り魔事件(2012年 6月10日) マツダ本社工場連続殺傷事件(2010年 6月22日) 八王子通り魔事件(2008年 7月22日) 新幹線殺傷事件(2018年6月9日) 川崎市登戸通り魔事件(2019年5月28日) 京都アニメーション放火殺人事件(2019年7月18日) 歌舞伎町ビル火災(2001年9月1日) 新宿西口バス放火事件(1980年8月19日) 全日空61便ハイジャック事件(1999年7月23日) 池袋通り魔殺人事件(1999年9月8日) 下関通り魔殺人事件(1999年9月29日) 5月末-7月末―――夏に多いような気がします。こういう無差別殺傷事件の季節性が解る統計資料があれば良いのですが、調べた範囲ではありませんでした。こういうところにもっと目を向けるべきだと思っています。 もちろん例外はあります。 土浦連続殺傷事件(2008年3月19日、同23日) 北新地ビル放火(2021年12月17日) ふじみ野市の訪問医療医師射殺事件(2022年1月28日) 皆さんは「刑法39条問題」をご存じでしょうか? 刑法第39条 心神喪失者の行為は、罰しない 心神耗弱者(しんしんこうじゃくしゃ)の行為は、その刑を減軽する 心神喪失、心神耗弱とはどういう状態でしょう。大辞泉から引いてみましょう。他の辞書も大同小異です。 心神喪失:精神障害などによって自分の行為の結果について判断する能力を全く欠いている状態。刑法上は処罰されない(大辞泉)。 心神耗弱:心神喪失には至らないが、精神機能の障害により行為の是非を判断する能力や行動を制御する能力がいちじるしく減弱した状態。刑法上は刑が減軽される(大辞泉)。 要するに、心神喪失状態あるいは心神耗弱なら、その者が犯した犯罪は「無罪になる」か「刑が減軽される」のです。心神喪失あるいは心神耗弱に陥っていたかどうかの判定は精神科医が行います。いわゆる「精神鑑定」です。殺傷沙汰があっても「実名」が報道されなくなる場合があります。そのような時は心神喪失や心神耗弱が疑われ「精神鑑定」の対象となっていると考えて間違いがありません。 この精神鑑定の対象になるのは「精神障害者、泥酔状態者・薬物乱用者」です。精神障害者はともかく、泥酔状態、薬物乱用者がこの対象になるのはちょっと納得がいかないですね。心神喪失か心神耗弱かを判断するのは精神鑑定を担当する医師です。つまり、精神鑑定を行う医師によって「罪」が決められると言っても過言ではありません。殺傷事件時に「心身が喪失または耗弱していて善悪の判断ができなかっただろう」と診断されたら殺人を犯しても「無罪」になります。「無罪」になっても、実際にはそういう方を専門に診療する病院に入院することになり、治療も受けられます。 しかし入院の期限は不定です。その先が「闇」になっていて、殺人を犯した方でも「治った」と判断されれば、病院を出て普通に生活ができるようになります。この辺りの実態は全く不明です(参考文献2)。入院した後は「個人情報保護」の厚い壁があり、わからなくなるのです。「罪を憎んで、人を憎まず」といいますが、実際に身内や友人が殺されたら、そんな気持ちにはなれないでしょう。刑法第三十九条に関しては、様々な人々(主に肉親が殺された人)によって、問題が提起されています。様々な本も出版されています。この条文を廃止せよという議論もあるし、残せという反論もあります。 これを題材にした映画もあります。 『39 刑法第三十九条』1999年 主演:鈴木京香 堤真一 予告編 https://www.youtube.com/watch?time_continue=10&v=jXDdrtfgpzc この映画を見ると刑法第三十九条が抱えている問題がよくわかります。 「無差別殺傷事件」には「薬」の問題がつきまといます。ある種のお薬に関する問題です。ある種の抗うつ薬は脳を賦活させます。うつ状態が良くなります。しかし、副作用もあります。そのような抗うつ薬投与の副作用のために、 不眠 軽躁状態 焦燥 不安 易刺激性 攻撃性増加 などの状態に陥ることがあるのです。これを「賦活症候群(Activation Syndrome:アクチベーション・シンドローム)」とも言います。 逆にその抗うつ薬を止めると、止めたことにより、 不眠 幻覚 不安 立ちくらみ めまい 攻撃性増加 "脳への衝撃"感覚 などの症状が現れることがあります。それを「中止後症状」「中止後症候群」と言います。飲んでいても飲むのを止めても「攻撃性増加」があります。 もちろん、どちらの副作用も《必ず出る》訳ではありません。しかし、(1)飲み始めた時にも(2)減量や休薬をする時にも注意が必要な「お薬」なのです。ある精神科医は「無差別殺傷事件」を起こした犯人は全員ある種の「抗うつ薬」を服用していたか服薬歴があったと記し「無差別殺傷事件」これらの抗うつ薬の副作用が原因だと記し、このような薬の投与、中止には慎重が上にも慎重な観察が必要だとしています(「死刑になって死にたいから、殺す」拡大自殺の実行者と車を暴走させる高齢者…その背景にある恐るべき真実 薬物の副作用で人はおかしくなる PRESIDENT Online、参考文献3、4、5など)。 しかしその「投薬開始、投薬中止」に繊細な注意が必要な「抗うつ薬」ですが、「慢性腰痛症」「糖尿病性神経障害に伴う疼痛」「線維筋痛症に伴う疼痛」にも投与されています。 さて、なんで私がこんなことに首を突っ込んでいるかと不思議に思うかも知れません。私もある時まで、このような「抗うつ薬」のことは全く存じ上げていませんでした。心神喪失とか心神耗弱という言葉も知っていましたが、あまり興味がありませんでした。しかし、ある出来事を契機にこのようなことについて、かなり詳しく勉強しました。その出来事を紹介しましょう。 某月某日某病院での外来での話です。梅雨時でした。いつものように外来診療を行っていました。午前の診療が終了し、ほっとしていた時です。ある女性がノックもしないで外来のドアを開けて入ってきました。 「どうしました?」と問う間もなく、いきなり私の頬を平手打ちしたのです。そして私に向かって、 「お前に傷つけられた!」 「一生消えない傷を付けられた!」 と大声で怒鳴りながら、今度はゲンコツで私の顔に殴りかかってきました。次には足で思いっきり私の体全体を蹴り上げました。私には何が何やら解りません。体中のあちこちが痛くてたまりません。女性の暴力とはいえ、力任せです。殴っている方も痛いだろうと、殴られつつ、思っていたのですが、容赦がありません。 何だか全く解らないので殴り返すわけにもいかず、ただ呆然と防御していました。看護師さんは私の横で、もっと呆然としています。私は看護師さんに「何だか解らないけれど警備の人を呼んでくれ」と頼みました。最初は「痴話喧嘩」だと思っていた看護師さんも、あまりにも変なので直ちに警備員に連絡をしてくれました。 警備の人が駆けつけてくれましたが、女性は大暴れしているので簡単には押さえつけることはできませんでした。3人がかりでようやく押さえつけてくれて、暴力は振るえないようになりました。女性は大声で「お前(つまり筆者)に傷つけられた」と騒いでいます。明らかに異常です。話が通じません。 精神科の先生に連絡をとり、診てもらったら、「なんらかの精神疾患で興奮状態になっている」のだろうという話になり、患者さんに鎮静剤を注射してくれました。沈静後に所持品から氏名がわかり精神科に通院歴があることが解りました。しかし、ここ数年、受診しなくなり精神科での治療が中断していた患者さんでした。 私はこの女性の名前を見て直ぐにこの女性は私が、10数年前に、手術した患者さんであることを思い出しました。特殊な心臓疾患あり、症例報告の論文を書いたので覚えていたのです。しかし私が最後にこの方を診察したのは10年以上も前です。手術をしたとき彼女はまだ中学生でした。顔は記憶にありませんでした。 この方の心臓病は特殊でした。自分で心臓に針を刺したのです。それも一度ならず、二度も刺したのです。自分で心臓に針なんて普通は刺せないですね。 この方は、最初は縫い物をしていて、気づいたら針が無くなっていて、胸が痛いので近所の先生にレントゲンを撮ってもらったら縫い針が心臓に刺さっていると診断されて、私が働いていた病院に搬送されてきました。 図1:矢印が針です。 直ちに心臓に刺さっていると思われる針を抜くために開胸しました。 図2:心臓に「裁縫用の縫い針」が刺さっていました。 出血しないようにその周囲に糸をかけて、そっと、抜きました。 図3:心臓に刺さっていた針です。縫い針でした。 なぜ刺さったのか不思議でした。「縫い物をしていて眠ってしまった。目が覚めたら胸が痛くて仕方なかった」とのことでした。いずれにせよ、何事もなく退院していきました。 最初の手術から数ヵ月が経ち、また、この方が病院に搬送されてきました。縫い針が再度胸に入ってしまったのだそうです。 その時のレントゲンが図4です。 図4 写真左側が来院時のレントゲンです。どうやら針の様なモノが胸部の皮下に5本見えます。しかし、どの針も心臓には達していません。これなら簡単な手術でとれそうです。この辺りから「変だ」と思い始めていました。 こんなに何本も何回も縫い針が「間違って入る」ことは考えられません。「自分で刺した」のだろうと思い至りました。患者さんの話はとんちんかんでした。親御さんも、何が起きているのか解らず、戸惑っていました。手術を開始するべく、準備を始めていた時です。患者さんはトイレに行きました。そのまま帰ってきません。看護師さんにトイレを見てきてもらったら「どこにもいません」ということでした。それから病院中を大捜索しました。数時間探しても見つからず、事故があっては困るので警察の方にも来ていただき、さらに捜索を続けたところようやく、かなり病院とは別棟にある事務室のトイレに隠れていた患者さんを見つけました。 患者さんの話は支離滅裂でした。スタッフはもちろん私も捜索でかなり疲れていたのですが、手術準備を再開しました。その時、何となくいやな感じがしたので、もう一度レントゲンを撮影したら、胸に刺さっている針が1本増えていました(図4 右側)。なんということでしょう、しかも増えた針は心臓に刺さっています! 仕方なく、全身麻酔をして開胸しました。 しかし、心臓表面に針は見当たりません。手術室でレントゲンを使った透視を行ったところ、心臓内に入っていることが解りました。動いている心臓から針を抜くのは危険です。心臓を傷つけ、大出血する可能性があります。少し大がかりになりますが、人工心肺を装着して、心臓を止めて針を探して針を抜去しました。 図5:刺さっていた針です。注射針以外は裁縫針です。 白い矢印で示しているのが心臓内に刺さっていた針です。病院内を逃走中にどこからか注射針を手に入れて自分で胸に刺していたのですね。 文献を調べて見ると10数例の「心臓伏針」の症例報告がありました。しかし2回も刺したのは私の症例が初めてでした。学会で発表もして、論文にもしました。 この方は「尖ったモノ」が好きで病院に入院中もずっと避雷針を見つめていました。胸の傷が治る前に精神科の病棟に移りました。その後無事元気に退院してその後は接点がありませんでした。それから10数年が経ち、なぜか執刀医だった私のことを思い出し「キズをつけた」私を殴りつけに来たのです。怖い話です。刃物で襲われたら、どうしようも無かったでしょう。この時に、この事例を傷害事件として届け出るかどうか問題になり、初めて「心神喪失」「心神耗弱」について勉強しました。 今でも、この出来事を思い出すと、ぞっとします。それにしても、殴られた後、とても痛かったです。 【参考文献】 精神障害により繰り返された心臓伏針の1例 望月吉彦et al. :The Japanese journal of thoracic and cardiovascular surgery 46(5), 473-477, 1998 そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫)2006/10/30日垣 隆 著 心神喪失と判定され「無罪」となった方のその後を追った本です。かなり苦労して、本来なら探せない「無罪となった」方から話を聞いています。読んでいると暗澹としてきます。この本だけを読むと「殺しても無罪」というかなり特殊な事がまかり通る法律を変えた方が良いと思うようになりましたが、なかなか難しい問題です。 「治す! うつ病、最新治療 ──薬づけからの脱却」(リーダーズノート編著) SSRI Stories https://ssristories.org SSRIという抗うつ薬にまつわる世界中のニュース、論文が集まっています(2022-03-27 確認済み)。 Hundred Families https://www.hundredfamilies.org/ 英国での精神疾患者による犯罪被害者の遺族(主に殺人)が開設しているサイトです。 どこの国でも、こういう場合、どのように対処すべきなのか議論は尽きないと思います。 追記: 医療関係者が「⼼神喪失者」「⼼神耗弱者」に殺されることが時々、報道されます。実は結構そういうことがあり、いつも⾦属バットを外来の机の下に置いている先⽣もいました。随分前になりますが、同じ病院に勤めていた先⽣は、通勤途中、患者さんに背後から拳銃で撃たれてお亡くなりになりました。怖いことです。 余話:星野仙一監督の思い出 「殴る」「蹴る」で有名なのは野球の故星野仙一監督です。その星野監督1996年、インターネット黎明期に「HOSHINO★EXPRESS」という名前で自分のホームページを作っていました。人気があり、1日6万件のアクセスがあると報じられていました。普通の電話回線でモデムを使っていた頃の話です。 その「HOSHINO★EXPRESS」中には読者から様々な話題を取り上げてコメントするコーナーがありました。そこで駄目元と思い私も「星野監督は鉄拳制裁で有名ですが、選手は萎縮しないでしょうか?」と質問をしてみました。答えが返ってくるとは思わなかったのですが、なんと即刻返事が載りました。 星野監督:「プロ野球選手は、鉄拳制裁程度では萎縮しない。萎縮してプレーが出来無くなるような奴は駄目な選手だ。」とありました(笑)。予想通りでした。 現在も一部記録が残っています。 https://web.archive.org/web/20000229123902/http://www.hoshino.ntc.ne.jp/qa.html 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2022/03/14 ハンターが活躍していた時代、ロンドンで馬車の御者に多発していた職業病とは 前回までイギリス人医師ジョン・ハンター(John Hunter、1728-1793が医学を学んだ時代には、本当の人体臓器の位置や血液の流れなどが、かなりわかってきたことをお示ししました。しかし、臓器の位置や血液の流れがわかっても病気の治療にそれが結びついたわけではありません。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 当時、病気でお亡くなりなった方を解剖することで様々な病気の原因がわかってきました。例えば、胃の辺りに「できもの」があり、次第に食事が摂れなくなり衰弱してお亡くなりなった方を解剖すると胃に腫瘍が見つかり、食事が摂れなくなって死亡した原因は胃に腫瘍ができたからだといったごく初歩的なことが解明されつつあったのです。現代の「病理解剖」です。 このように解剖で病気が解明できるようになったのもハンター医師の功績が大きいのです。ハンターが診ていた患者さんのうち多くの方が死後ハンターによって解剖されることを希望したからです。この辺り、ハンターと患者さんとの関係は「理想的」です。 様々な病気の中で比較的早期から病気の診断が可能であったのは体表面に近い血管の病気です。体表面に近い箇所にある動脈は触れることができます。足の血管が閉塞すれば脈が触れなくなり、足の血管に動脈瘤ができれば「瘤(こぶ)」は触ればわかります。 ハンターが活躍していた時代のロンドンで馬車の御者(ぎょしゃ:馬車に乗って、馬をあやつる者)には、ある職業病が多発していました。その病気は「膝窩動脈瘤(しっかどうみゃくりゅう)」です。膝の裏にある血管が膨れて動脈瘤となる病気です。 なぜ御者だけがこんな病気になるかというと、御者の履いていた膝まで覆うような乗馬用の靴が原因でした。硬い乗馬靴が膝窩動脈に当たって動脈を損傷して動脈瘤を生じさせていたのです。現在なら外傷性動脈瘤に分類されます。 我々がよく見る動脈硬化性の動脈瘤とは原因が違います。足の動脈瘤なんて軽い病気だと思うかもしれません。しかし、動脈が膨れ上がってくると痛みを生じ、やがて破裂して死に至ります。 当時、この乗馬靴が原因の「外傷性膝窩動脈瘤」に対して2つの手術が行われていました。 膝窩動脈瘤の生じた足を切断する 膝窩動脈瘤の中枢側、末梢側の血管をしばって膝窩動脈瘤を切除する この2つの方法です。しかし、どちらの方法を行っても極めて死亡率が高かったのです。本格的な麻酔法が始まったのが1846年のことですから無麻酔で行われています。手術器具などの「消毒」も始まっていません。1.の方法で足を切断しても出血や感染で死亡することも多く、たとえ助かっても片足になってしまいます。2.の方法で動脈を縛っても動脈瘤の近傍で縛るのですから、血管はもろくなっていて出血が止まりません。つまり失血死してしまうのです。どちらの方法も良い方法とは言えません。 前回ご紹介したようにハンターは死亡率の高い手術は行わない主義でした。そういうハンターにとって、1.も2.も良い手術とは思えなかったのでしょう。別の手術を考案します。天才的発想の手術です。 その手術は「膝窩動脈瘤となっている痛んだ血管には触れないで治療する」方法です。膝窩動脈瘤となって弱く脆くなっている血管よりももっと中枢側(心臓に近い側)の健常部分の血管(硬い御者靴で損傷されない部位の血管)を縛る方法です。 当時、こんなことを考えた外科医はいませんでした。動脈を縛ればその先の臓器は「壊死:えし」すると思われていたからです。これは私の推測なのですが、ハンターは数千体の死体を解剖していますので、一部の血管が詰まっても別な道(側副血行路)が生じている、そういう死体を見たのだと思います。 ハンターは手術を行う前に2つの実験をしています。 犬の大腿動脈を露出、血流が見えるまで血管剥いてみる 若い雄鹿の頸動脈を縛り、角がどうなるか観察した この2つの実験をしたのです。 1.は動脈の構造をよく知らないとできません。動脈は内膜、中膜、外膜の3層構造をしています。ハンターは「多分」、動脈の外膜を剥がして中膜と内膜だけにして血流が見えるまで血管壁を薄くしたのです。そして数週間後に改めてこの血管を見てみると元通りになっていたのです。つまり、正常な血管なら損傷を受けても修復することがわかったのです。 2.はどうしてこんなことを思いつくのか常人には理解不能です。鹿の角は頸動脈から供給を受けて大きくなります。 頸動脈を縛れば角の血流は悪くなること、その血流が回復するかどうかの観察が「角なら」容易であることを思いついたのでしょうか?普段から多くの動物を飼育して観察していたから思いついたのでしょうか? 鹿の頚動脈をしばると角(つの)は血流が流れなくなりますので冷たくなりました。しかし、数週間すると元通りの暖かさになり、動脈を縛っていない側、つまり正常側の角の生育と同様な生育を認めたのです。これは縛った血管の周りに側副血行路(バイパス)ができたことを意味します。側副血行路ができていることを血管に色素をいれて確かめています。 このような実験を繰り返し、膝窩動脈瘤よりも中枢側の動脈を結紮(けっさつ)すれば、 膝窩動脈瘤への血流が減ることにより破裂の危険が少なくなること 膝窩動脈より末梢の血流は、数週間すれば側副血行路ができて歩行もできるようになること と確信したと思います。実に合理的、科学的ですね。 実際に手術を行います。手術は公開されました。1785年12月12日のことです。階段式に見学者が手術を見られるようにした「劇場型手術室」で手術を行いました。患者の大腿の内側で膝よりも上の部分の皮膚を切開して大腿動脈を露出し、この動脈を4本の糸を用いて縛ったのです。4本というところが、私は凄いと思います。1本や2本では縛った血管が再開通する可能性がありますが、4本ではまず再開通することはないと思います。さらに用意周到なことにハンターは傷口を閉鎖していません。もし術後、血流途絶による足の壊死が生じそうだったら縛った糸を外すつもりだったのです。わずか5分でこの手術を終わらせています。 この手術を見ていた若きイタリア人外科医パオロ・アサリーニが、この手術の詳細な記録を残しているので細かいところまでわかります。 この手術記録には「ピンセットの柄の部分を用いて大腿動脈だけを露出した」と記されています。私もこの部分の大腿動脈の手術はたくさん行いました。動脈を露出するのは簡単ではありません。大腿動脈の周りには静脈や神経があるからです。今でもハンターの行った手術を5分で行うのは至難の業です。しかし数千体の解剖をしていたハンターには容易だったのでしょう。ちなみにハンター医師が手術に使った大腿内側の部分は特殊な構造をしています。内転筋管と言いますが、ハンター医師に敬意を表して「ハンター管」とも呼ばれています。 この手術も、もちろん、無麻酔で行われています。さぞかし痛かっただろうと思いますが、患者さんにとっては「痛み」よりも「膝窩動脈瘤破裂による死への恐怖」の方が勝っていたのでしょう。 この手術をうけた患者さんの回復は劇的でした。膝窩動脈瘤は小さくなり、痛みを感じないようになり、普通に歩けるようになりました。2年後に別な病気でお亡くなりになりますが、ハンターはいつも通り裏ルートを使ってこの足を手に入れます。きれいに側副血行路ができていました。 この足はロンドンにあるハンテリアン博物館の「P275」という標本となっています。この手術をうけて50年も長生きした方の脚の標本もあります。こちらは「P279」という標本です。どちらも見ることができます(文献2.参照)。 この手術はヨーロッパ中に広まりました。死亡率もそれまでに行われていた手術に比して圧倒的に低かったのです。こういう革新的な手術の話を読んでいると眠れなくなります(笑)。 今でも膝窩動脈瘤の手術は厄介です。手術をするなら痛んだ膝窩動脈に対して、 動脈瘤となっている膝窩動脈を大伏在静脈(足の静脈)で置換するか 人工血管で置換するか ステントグラフト治療を行うか の3択です。私は主に1を行っていました。長期開存率に問題があります。いずれにせよ、良く動く箇所であること、圧迫されやすい箇所であること、日本人特有の「正座」の問題などもあり治療は簡単では無いです。 膝窩動脈瘤を紹介しましょう。外傷性では無く、動脈硬化性です。この部位にできることは稀です。 図1:膝窩動脈瘤は黄色矢印部分 本写真は以下から引用しました。Creative Commonsです。 https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK541115/figure/article-27.image.f5/ 図2:ハンターが行った手術(膝窩動脈の中枢側を4本の糸で縛る)の模式図 動脈瘤よりも中枢側(心臓側)にある動脈をしばれば血流が途絶えて動脈瘤は小さくなります。 図3:今なら膝窩動脈瘤部分を大伏在静脈や人工血管などで置換またはステントグラフト治療 注:黄色部分は代用血管またはステントグラフトを示しています。 図4:このような場所に使われる人工血管です。 わかりづらいですが折れ曲がっても閉塞しないように 血管の周りにプラスチック製のリングが数mmおきに配置されています。 【参考文献】 解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯(河出文庫)2013年 ウェンディ・ムーア著、矢野 真千子(訳) ハンターの設立した自然史博物館はハンテリアン博物館(Hunterian Museum, Royal College of Surgeons)として現在まで残っています。ナチスドイツによるロンドン空襲で標本がかなり損傷してしまいましたが、今でも貴重な標本が多数残っています。今回ご紹介した手術を受けた「歴史的な足」も標本として残っています。現在改装中で2023年に再開する予定だそうです(https://www.rcseng.ac.uk/museums-and-archives/hunterian-museum/)。 追記: このような血管手術が日本にも伝わり、世界最初の動脈瘤切除術は、なんと日本で行われました。この日本で行われた手術は世界を代表する血管外科の教科書にも紹介されています。いつか、ご紹介しましょう。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/01/24 20世紀最大の発見とも言われるのが「DNA(デオキシリボ核酸)の二重らせん構造の発見」です。DNAの二重らせん構造を世界で初めて電子顕微鏡で見て撮影に成功した話を紹介します。 その前に少し変わったTシャツをお目にかけましょう。 図1:科学Tシャツ このTシャツには科学史上の重大な発見とその発見者の生年が記されています。読み飛ばしても構いません。 ニュートン:1642 - 1727:重力の発見、微積分法の確立 アインシュタイン:1879 - 1955:一般相対性理論の確率 ガリレオ・ガリレイ:1564 - 1642:望遠鏡 地動説 落体の法則 マックスウェル:1831 - 1879年11月5日:古典電磁気学を確立 ファイマン:1918 - 1988:量子電磁力学、ファインマン・ダイアグラムを考案 フィボナッチ:1170 - 1250頃:フィボナッチ数列の紹介 フレミング:1881 - 1955:ペニシリンの発見 フランクリン:1706 - 1790: 雷が電気であることを発見 バーディーン:1908 - 1991:トランジスタの発明、超伝導に関する理論構築、ノーベル物理学賞を2回受賞した唯一の科学者 アントニオ・メウッチ :1808 - 1889:電話の発明(注:ベルでは無いです) ロザリンド・フランクリン:1920 - 1958:DNAの2重らせん構造の発見 マリーキュリー:1867 - 1934:ラジウムとポロニウムの発見など、ノーベル物理学賞とノーベル化学賞を受賞 ライナスポーリング:1901 - 1994:化学結合の本質を解明、ノーベル化学賞とノーベル平和賞を受賞 メンデレエフ:1834 - 1907:元素周期表の発見 ハイゼンベルグ:1901 - 1976:量子力学への貢献 テスラ:1856- 1943:交流電気方式、無線操縦、蛍光灯の発明 ダーウィン:1809 - 1882:進化論 メンデル:1822 - 1884:メンデルの法則 シュレディンガー:1887 - 1961:波動力学の確立 レオナルド・ダ・ビンチ:1452 - 1519:多数 あれれ? DNAが2重らせん構造をしていることを「発見」したのはご存じ「ワトソンとクリック」では? ワトソンとクリックはこの発見?でノーベル賞を受賞しました。しかしその発見にはさまざまな「疑惑」(後述)が指摘されるようになっています。文献2.3.に詳しいです。ワトソンはロザリンドの死後、彼女に対するひどい悪口を書いています。 そういうこともあり、Tシャツのデザイナーは敢えてDNAの2重らせん構造の発見者をR. FRANKLINとしたのだろうと思います。 クリックはすでに亡くなっていますが、ワトソンは今も生きています。しかし、ある不名誉な理由で表舞台には出られなくなっています。ノーベル賞のメダルも売ってしまいました。本稿の主題とは少し離れますが、このことを少しだけ紹介します。 DNAが2重らせん構造をしていることを最初に発見したのは女性科学者のロザリンド・フランクリン? 図2:「Photograph 51」ロザリンド・フランクリンが撮影したDNA結晶のエックス線解析写真 この写真はBBCニュースが「The most important photo ever taken?」と 書いているくらい重要な写真です。 ロザリンド・フランクリン女史は1950年、ロンドン大学のキングス・カレッジでX線結晶学の研究生活をスタートさせます。 X線結晶学とは「結晶性物質にX線を照射し、その回折から結晶構造を研究する」学問です。物理学の1分野です。1953年、そのロザリンドは、DNAの二重らせん構造の解明につながるX線回折写真の撮影にも成功。「Photograph 51」と名付けます。図2の写真です。 この写真は「ロザリンド・フランクリンが知らない間」に2つのルートでワトソンとクリックに渡り、この写真を見たワトソンとクリックは「DNAが2重らせん構造」をしていると予想、その予想を論文にしてNATUREに掲載されます。 参考:1953年4月25日号のNATURE http://www.crl.nitech.ac.jp/~ida/education/ResearchSeminar/20190215WatsonCrick.pdf https://cellbank.nibiohn.go.jp/legacy/visitercenter/lecture/genetics/watson.pdf ワトソン・クリックの論文の最後にロザリンド・フランクリンへの謝辞があります。 「We have also been stimulated by a knowledge of the general nature of the unpublished experimental results and ideas of Dr. M. H. F. Wilkins, Dr. R. E.Franklin and their co-workers at King’s College, London.」 ロザリンド・フランクリンは自分の撮影した写真が彼らに渡ったことを知りません。NATUREに掲載されたワトソン・クリックの論文の次はなんとロザリンド・フランクリン自身が「Photograph 51」を引用して書いた論文です(http://www.crl.nitech.ac.jp/~ida/education/ResearchSeminar/2019/20200210FranklinGosling.pdf)。 しかしその後、この発見は「盗まれた」と言われるようになります。「DNAが2重らせん構造」をしていることを本当に「発見」したのはロザリンド・フランクリンだと言われるようにもなっています。 ワトソンには、ロザリンド・フランクリンの上司だった「モーリス・ウィルキンス(1916-2004)」から クリックには、ロザリンド・フランクリンが書いた「Photograph 51」も記載された論文を査読中だった「マックス・ペルーツ(1914-2002)」から 「Photograph 51」が渡されています。 「Photograph 51」を見せたことに関わるワトソン、クリック、ウィルキンス、マックス4名全員が1962年にノーベル賞を受賞しています。マックスはノーベル化学賞、ほかはノーベル生理学医学賞です。偶然でしょうか? なお、ロザリンド・フランクリンは1958年に38歳で亡くなっています。 この間の事情は「Photograph 51」という戯曲になり、ニコールキッドマンが主演(つまりロザリンド・フランクリン役)、英米で上演されました。そういう事情もあり、一般の方にもロザリンド・フランクリンのことはよく知られるようになりました。それゆえに上述のTシャツデザイナーはロザリンド・フランクリンの名前を、あえて、Tシャツに載せたと思います。 さて話は変わります。今号はそんな「ややこしい」発見の話ではありません。すっきりした素晴らしい「発見」の話です。DNAの「二重らせん構造の撮影に成功した」女性科学者の話です。話は1985年に始まります。 1985年世界最高の走査型電子顕微鏡が鳥取大学に設置される この電子顕微鏡が「肝」です。私は1983年に卒業していますから卒業してからの出来事です。1985年、超高分解能走査型電子顕微鏡が鳥取大学医学部に設置され新聞テレビ等で大きく報道されました。 この超高性能走査型顕微鏡を用いて ・エイズウイルスの写真 ・抗体の写真 ・バクテリオファージの写真 などの撮影に成功し、故田中敬一教授(1926-2019)は世界的に有名になります。これに至るさまざまなことは、岩波新書に田中先生が書いています(文献4)。 これらの写真の中でも特に有名になったのが、田中先生がボローニャ大学開学900年の催しに招かれて講演した時に公開したバクテリオファージの写真です。この講演で、田中先生はこの超高性能走査型顕微鏡で撮影した写真を次々に披露、最後に大腸菌の上にのるバクテリオファージの写真を見せたところで爆発的拍手がおこり、しばらく収まらなかったとあります。 図4:世界で初めて撮影されたバクテリオファージの走査型電子顕微鏡写真 (文献4:「超ミクロ世界への挑戦」203頁より 引用許可を得ています) それだけではありません。 「Congratulations! Bologna (1088-1988)」と書いてある旗をバクテリオファージが持っているように合成したスライドを見せて講演を終了した瞬間、割れんばかりの拍手が鳴り響いて講演は大成功だったと記しています(図5)。格好いいスライドです。評す言葉がありません。生涯に一度でも良いからこういう「知的に格好良い」講演をしたいですね。 図5:ボローニャ大学(1088-1988)の旗を持ったバクテリオファージの走査型電子顕微鏡写真 (文献4:「超ミクロ世界への挑戦」目次部より 引用許可を得ています) 世界最高性能の顕微鏡で見る「試料」を見えるようにしたのが田中敬一先生 世界最高性能の顕微鏡があれば誰でも撮影できるかというと、そんなに単純な話ではありません。詳しい話は、田中先生が著した「超ミクロ世界への挑戦(岩波新書)」にありますが、「試料を見えるようにするのが先」です。走査型電子顕微鏡の黎明期にさまざまな工夫をこらし、「見える試料作り」に成功したのが田中先生です。それゆえに日立がこの機械を鳥取大学に納入し、田中先生一門は様々な試料を見える形にしてそれまでに見えなかったモノ(前述のエイズウイルスの写真などです。注:エイズウイルスはその後管理が厳重になり2度と撮影できないのです)を撮影し次から次に世界をあっと言わせていたのです。 電顕の資料作りは簡単ではありません。手作りの機械、セメダインを用いた機械、試料を処置してたまたま3日放置したらその「3日」が最善手だったとかとにかく様々なことを行ってはじめてようやく見える試料ができたと岩波新書に載っています。 「超ミクロ世界への挑戦(岩波新書)」は絶版になっています。 残念なことに今は絶版ですがアマゾンで古本が安価に購入できます。ぜひお読みください。面白いです。読み始めたら止まらなくなるほど面白いです。ええ? あれ? 本当? なんでこんな? そういう話が満載です。田中敬一先生というと古い自転車に乗って通勤していた姿を思い出します。あの田中敬一先生が、まさか、こんな凄いことを成していたとは思いませんでした。 試験は「しぶかった」田中敬一先生 田中先生の解剖学の試験は厳しくて今でも年に1回くらい夢に出てきます。厳しい口頭試問です。次から次に骨を示し、示された箇所の「日本語名」と「ラテン語名」を答えるという試問です。10分で20問ぐらい、なんとか乗り切れそうかなと思ったのですが最後に出てきたのが「口蓋骨垂直板」でした。 田中先生「そのラテン語名を述べてください」 望月「うーん。。。うーん。。。。そうだ! 「Lamina perpendicularis ossis palatini」というラテン語が不意に頭から湧き出てきて無事進級できました。これが出てこなかったら2次試験に回り、下手をすると落第でした。悪夢でした(笑)。ラテン語なんて書けないですがこれだけは書けるのです(笑)。 DNAの2重らせん構造の撮影に世界で初めて撮影に成功 さてこの鳥取大学の走査型顕微鏡を使って撮影された凄い写真を最後にお目にかけます。田中先生のお弟子さんである「稲賀すみれ先生」が撮影した写真です。1991年、参考文献1. の論文が発表され世界中の研究者をあっと言わせます。題名が 「SEM images of DNA double helix and nucleosomes observed by ultrahigh-resolution scanning electron microscopy」 敢えて訳せば「超高分解能走査型電子顕微鏡によるDNA二重らせんとヌクレオソームの走査型電子顕微鏡像」でしょうか。 DNAの二重らせん構造の写真撮影に世界で初めて成功したのです。この論文の画像を今回紹介しよう思いましたが、版権を持っている雑誌の出版社(イギリス)から許可を得られませんでした。「残念だなあ」と思ったのですが、そうだ!論文の著者の稲賀すみれ先生に直接連絡を取れば論文には載っていない写真を提供して頂けるかもしれないと思い、論文に載っているe-mailアドレスにメールを送って連絡をとりました。断られるかと思いましたが、論文に載っている写真よりきれいなカラー写真を提供して頂きました。と言うわけで拙文を書くのも多少苦労しています(笑)。論文には載っていない写真ですので紹介しても問題無いと思います。 お目にかけましょう。DNAが2重らせん構造をしています(図6、7)。 図6:DNAが2重らせん構造を示していることが解る写真 図7:DNAの二重らせんが途中から左巻きから右巻きに変わっていることが解る写真 (注:図6、7共、稲賀すみれ先生より提供して頂きました) 「世界で初めて撮影されたDNAが本当に二重らせん構造をしていること」を示した写真です。DNAが二重らせん構造していることは一目瞭然でわかりますね。日本は元より世界中に「DNAの二重らせん撮影に成功」と報道され、世界中の科学者を驚かせました。当時の新聞に稲賀先生は「これが見えた時、とても嬉しかった」と答えています。誰も見たことが無いモノを世界で初めて見る喜びは何物にも代えがたいでしょう。 「世界で初めてDNAの2重らせん写真の撮影に成功」したことで稲賀すみれ先生の名前は科学史に残りました。なお左巻きと右巻きの2重らせん構造があると予想されていましたが、この試料では右巻きから左巻きに変わっています。つまりこの論文では「DNAが2重らせん構造をしていることとその2重らせんは右巻き、左巻きがあること」の2つを証明できたのです。 DNAの二重らせん構造の解明はロザリンド・フランクリンが撮影した写真で始まり、稲賀すみれ先生が撮影した写真で締めくくりとなりました。2人の女性科学者がDNAの構造解明に重要な役割を果たしたことになります。 図8:DNAが2重らせん構造の撮影に成功!との報道(稲賀先生よりご提供頂きました) 図9:稲賀すみれ先生(掲載許可を得ています) アメリカ製洗剤ジョイが大切? 最高倍率の走査型電子顕微鏡にDNAを入れれば写真なんて簡単に撮れると思うでしょうが違います。試料は「撮影出来るように工夫」しないと撮影できません。工夫の仕方は教科書に載っていません。「言うは易く行うは難し」です。この写真のDNAはニワトリの赤血球の核の中にあるDNAです。DNAのひもは20オングストローム(1オングストローム=10-10m)、直接電子線を当てると損傷されるので白金の粒子をひもに蒸着すれば「見える」のですが白金の粒子は30オングストロームもあります。それでは白金の粒子の方がDNAを覆ってしまいDNAの状態観察は不可能になってしまいます。要するに「普通の方法」では撮影できないのです。しかし稲賀先生はさまざまな工夫をこらして見ることに成功します。あり得ない様な話です。 その一端をお示しします。 アメリカ製の洗剤ジョイで細胞膜を洗うと細胞内の中味が散らばって出る。細胞膜はリン脂質で出来ているので界面活性剤(洗剤)で洗えば水と一緒になり、流れてしまう。そこまでは私にも解ります。しかし、洗いすぎれば細胞内の成分も一緒に流れてしまう。洗い方は簡単では無いと素人の私にも解ります。その洗い方は「名人芸」でとにもかくにも「気合い」で、DNAが残る洗い方に成功し、その生のDNAにカーボンを蒸着して親水性に処理して細胞内のDNAが2重らせん構造をしている写真が撮れたと文献7.にあります。正直、私には理解不能です。 さまざまな苦労、様々な電子顕微鏡開発、電子顕微鏡研究があって初めて「DNAの二重らせん構造写真」撮影に成功したのでしょう。今回は、その写真をお目にかけました。 【参考文献】 S Inaga , H Osatake, K Tanaka:SEM images of DNA double helix and nucleosomes observed by ultrahigh-resolution scanning electron microscopy J Electron Microsc (Tokyo). 1991 Jun;40(3):181-6. アン・セイヤー 著:「ロザリンド・フランクリンとDNA―ぬすまれた栄光」 草思社(1979年) ブレンダ・マドックス 著: 福岡伸一 (訳):「ダークレディと呼ばれて: 二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実」化学同人(2019年) 超ミクロ世界への挑戦: 生物を80万倍で見る(岩波新書)1989年 ぶらりミクロ散歩――電子顕微鏡で覗く世界(岩波新書)2010年 タマムシの翅はなぜ玉虫色か―電子顕微鏡でのぞく身のまわりの世界(ブルーバックス)1995年 加藤勝美著「日立の頭脳」1991年 講談社 余計な注: 田中敬一先生が東京で講演を成された際にサインをして頂きました。私の宝物です。 謝辞: 最後になりますが、DNAの写真を提供して頂いた稲賀すみれ先生、超ミクロ世界への挑戦に載っているバクテリオファージの走査型電子顕微鏡写真の掲載を許可して頂いた故田中敬一教授の奥様である田中昭子様に厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/12/13 誰も知らない?日野原重明先生の姿 本号の主題に移ります。 皆さんは故日野原重明先生(1911-2017)のことをご存じかと思います.105歳で亡くなる直前までお元気で講演、本の執筆、作曲など八面六臂の活躍をなさっていました.今もお元気なら、新型コロナウイルス感染症にどうやって対処したか興味があります。 地下鉄サリン事件に対する日野原先生の対処 日野原先生は「地下鉄サリン事件」で見事な指揮をとり被害者の治療、救命に当たりました。あり得ないような偶然が重なったのです。 あの事件が起きる前、聖路加病院の建て替え工事がありました。その際日野原先生の提案により東京で大災害が起きた時に対処するため全ての病棟、待合室、礼拝堂に酸素供給ができるような配管がなされていました。「言うは易く行うは難し」です。こういう設備をするとかなり高額な費用がかかります。結果的にこの酸素配管がサリン事件で役に立ったのです。 地下鉄サリン事件で聖路加病院には多くの患者さんが運び込まれました。日野原先生の指示で病院の通常業務はすべて止めて救急治療にあたりました。上記の酸素配管もあり、礼拝堂などを使いほとんど全ての患者さんを受け入れました。なかなかできることでは無いです。 地下鉄サリン事件の前年、松本サリン事件があり信州大学が治療に当たっていました。信州大学の柳澤信夫医師は、地下鉄サリン事件の映像を見て聖路加病院に電話で連絡を取ります。「サリン」が撒かれた可能性があり、解毒剤(PAM)の使用を提案したのです。それを聞いた日野原先生は大げさに言えば日本中からPAMを集めるように指示、大量のPAMが集まり救命に役立ちました。 あり得ないくらい素晴らしい対処です。どれか1つ欠けていたら大勢の死者が出ていたと思います。怖いことです。日野原先生、ご存命なら新型コロナウイルス感染症に対してどのように対処したか考えてしまいます。 日野原先生は実に多くのことを成し遂げています。 人間ドックの創始 看護教育への貢献(聖路加看護大学 学長 理事長) 臨床医教育への貢献:特にベッドサイドでの医師教育の大切さを説く 音楽を医療に取り入れたこと(音楽療法学会の創設) 葉酸の命名者でありビタミンの普及に努める 吹き矢の普及:日本スポーツ吹矢協会最高顧問 吹き矢で呼吸を鍛える 長生きするにはどうしたら良いかを実践 成人病の代わりに「生活習慣病」を提案 禁煙教育の普及に尽力(日本禁煙科学会を創設) アメリカ医学の日本への紹介、普及(戦前はドイツ医学がメイン:1952年アメリカに留学) 聖路加国際病院の医師として多数の患者さんを診療 etc. etc. あまりに多くのことを成しています。私が大学を卒業した頃は、まだ一般の方にはさほど知られていませんでした。よど号事件の飛行機に乗り合わせて北朝鮮まで行った先生くらいしか、認識はなかったと思います。しかし、2001年90歳の時に出版した「生きかた上手」がベストセラーになりそれからは一般の方にも広く知られるようになりました。 徹夜徹夜また徹夜 これは2012年抗加齢学会で1時間の講演をなさった時の写真です。当時、御年101歳。101歳で立って1時間講演をしていました。凄いとしか言いようが無いですね。この時の演題は「どうしたら長生きできるか?」という真面目な講演でした。最新の文献を多数紹介しつつ、ご自身のお考えを話していました。 食べ過ぎるな(1日1食でも充分?) 野菜を食べよう、葉酸を摂ろう、ビタミンを摂ろう タンパク質をたくさん食べよう タバコは論外 年を取ったら毎日の楽しみを見つけよう 歩こう、階段を使おう ご自身も当時3階まではエレベーター、エスカレーターを使わないと仰っていました。 勉強しよう、頭を使おう、などなど。。 95歳までは週に数回徹夜していたそうです。90歳を越えても徹夜、徹夜の日々だったそうです。勉強したり、原稿を書いたり、本を書いたり、作曲をしたり。。あり得ないですね。当時も年に1回アメリカに行って最新医学の勉強をしていると仰っていました。 長寿には「運」も必要 「私(日野原先生)は学生時代結核になり1年休学した。そのために戦争の最前線に送られなかった。戦争当時、聖路加国際病院で働いていた。戦後、この病院はアメリカ人が運営する教会が創設した病院だったので空襲の目標から外れていたことを知った。それゆえに空襲に遭わなかった。「運」が良かった。でも「運」だけでは長生きできない。」とかetc.。。 余談ですがこの講演で診療中に風邪の患者さんから風邪をうつされない方法を話していました。「聴診器を胸に当てる時、決して患者さんの正面から聴診器を当ててはいけない。聴診中に咳をされると風邪がうつる。この年で風邪をうつされると命取りになる」と仰っていました。私もこれは実践しています。この講演当時101歳でしたが「あと5年は予定が一杯でスケジュール帳がいっぱいになっている。だから死ぬわけにはいかない」と仰って笑いをとっていました。 日野原先生が翻訳したオスラー博士の書いた「平静の心」 研修医の頃、日野原先生と仁木久恵先生(聖路加看護大学教授(英語学))が翻訳した「平静の心」読むように先輩医師から勧められました。オスラー医師は世界的に有名な内科医です。そのオスラー医師の講演集です。医療に対する哲学や実践方法が書かれています。今、読み返してみると色々と頷けることが多いです。オスラー医師はリンゲル液のリンガー先生の弟子でした。以前、そのことを紹介しました(記事:016:リンゲル液の発見をもたらした4つの偶然)。 オスラー医師はリンガー医師の弟子だけあって、科学を重視しました。 オスラー医師の残した言葉を2つだけ紹介します。 Medicine is a science of uncertainty and an art of probability. (医学は不確実性の科学であり、確率のアートである) Medicine is an art, based on science. (医学は、科学に基づいた、芸術である) などの言葉を残しています。 私が「平静の心」を読んで心に残ったのは、医師を志すなら 「毎日勉強せよ」 「酒色に溺れてはいけない」 「船には沈没しないように区画室がある。それと同じように 酒色に溺れ無い様にするために毎日“防日区画室”を自分で作って酒色から離れて勉強することが大切だ」 とかそういう言葉です。 今読んでも勉強になる素晴らしい内容の本です。 ここから「砕けた」話になります。 日野原先生は毎週午後8時に東京慈恵会医科大学附属病院5B病棟に現れた 1984年のことです。当時、日野原先生は東京慈恵会医科大学附属病院心臓外科(新井達太教授時代)に患者さんを時々紹介してくださっていました。そして自分の患者さんが慈恵医大心臓外科病棟に入院している間、決まって水曜日の午後8-9時頃、慈恵の病棟を訪れ患者さんを診察してカルテに診察所見、レントゲンの所見、投薬の指示(というか意見)を書いていくのです。当時、73歳です。なかなかできることではありません。 最初に数回お見かけした頃、私は日野原先生の顔を知りませんでしたので日野原先生のことを「自分が紹介した患者さんを診察しに来るどこかの熱心な開業医さん」だと思っていました。「○○さんの所に案内してください」と言って病棟に来られるのです。日野原先生が来られた時、たまたま私しか病棟にいなかったのでいつも私が患者さんのところに案内していました。この「開業医」さんは医師だと解っていたので私の聴診器を貸していました。ある日の夜、先輩の先生と一緒に病棟にいた時、日野原先生がお見えになりました。先輩の先生はその先生に向かって深々とお辞儀をして丁寧に接していました。 「望月、あの先生は聖路加の日野原重明先生だ」 「今度から日野原先生がお見えになったら必ず連絡をするように」 「失礼がないように」 と言われました。 ええええ! とびっくりしました。あの「平静の心」で有名な聖路加の日野原重明先生が夜、ひとりで他病院にまで自分の患者さんの診察に来ていたのです。「凄い」と思いました。今、思うと聴診器にサインでもして頂いていたらとか御著書にサインでも頂いていたらと思います。何にせよ、頭が下がる思いがしました。 夜に患者さんを見舞う理由 後年、夜遅くにでも患者さんを診察に来る理由が記された本(文献4)を読み、その理由がわかりました。日野原先生が京都大学病院で研修を始めたときのことです。最初に担当した16歳の患者さんは重病でした。その患者さんが亡くなる前、決まって日曜日毎に熱発するのでおかしいと思ったら、その16歳の患者さんは「日曜日は日野原先生が来ないから不安で熱が出る」と言っていたのだそうです。それを同僚の医師から聞いた日野原先生はできるだけ患者さんのところに行くことにしようと思いそれを実行していたのです。言うは易く行うは難しです。なかなかできることではありません。 「哲学を持った医師は神に近い」というヒポクラテスの言葉を想起します。 ここからは学問の話です。 日野原重明先生が最初に書いた論文 1943年、日野原先生は心音の研究で京都帝国大学より医学博士号を授かっています。学位論文を紹介しましょう。①の論文がそれです。 『日本循環器病學』6巻4号,1940(第1報)6巻11号,1941(第8報)に載せた論文 この論文を英訳してアメリカの雑誌に投稿しています。 ShigeakiHinohara:Systolic gallop rhythm American Heart Journal Volume 22, Issue 6, December 1941, Pages 726-736 この論文2.が載った日付を見て、一寸、ぎょっとしました。なんと1941年12月に発刊された号に掲載されています。1941年12月は日本軍が真珠湾を攻撃、太平洋戦争が始まった月です。 これが論文のタイトルです。 「Systolic gallop rhythm:収縮期奔馬調律(しゅうしゅくきほんばちょうりつ)」 この雑誌に載っている図です。胸壁と食道にマイクロフォンを置いて心音を記録して分析した論文です。ピアノが趣味だった日野原先生らしい「音」にこだわった論文です。立派な論文です。アメリカ留学をしたことが無かった日本人医師がアメリカの雑誌に投稿していたのです。なかなか出来ないことです。この論文は戦争中でもあり掲載されたかどうかを知る術が無かったそうです。論文が掲載されていたことを知ったのは昭和26年(1951年)に日野原先生が渡米した折のことだったそうです(文献4)。 後に日野原先生は多くの論文を書き、また多くの著書が出版されました。この論文は先生が最初に書いた論文です。「栴檀は双葉より芳し」と言いますが、この論文に後年の日野原先生の活躍の元があると思っています。ご興味がある方は連絡をください。私事になりますがこの「American Heart Journal誌」から論文の査読依頼を受けて数編の査読をしたことがあります。良い思い出です。 色々と日野原先生のことを書き記しましたが、一生懸命患者さんの治療に当たり、色々なことを創始し、そのほとんどが開花し文化勲章も受章。「完璧」な医師人生だった思います。 余談: 日野原先生の京都帝国大学時代の指導教授は、論文にもある眞下俊一(ましもとしかず)先生です。眞下先生は、今、真下と紹介されることが多いのですが間違っています。眞下が正しいのです。京大関係の書類には「眞下」とあります。日野原先生の論文でももちろん「眞下」と記されています。眞下先生は心電図、心音図を研究していました。日本循環器学会の創設者の1人であり、循環器学会の第一回から第四回まで眞下先生が循環器学会の会長を務めています。その眞下先生に不幸が訪れます。昭和20年9月、原爆による人体への被害を調査するため広島に赴き滞在先で枕崎台風がおこした山津波に巻き込まれてお亡くなりになっています。日野原先生が「長生きにも運が必要」と話していたのにはこのような恩師の悲劇も念頭にあったのかも知れません。 【参考文献、資料】 日野原重明「心音の研究」: 第一報:心音並に心雜音の新記録法 日本循環器病學 1940年 6巻 4号 p.117-121 ShigeakiHinohara:Systolic gallop rhythm American Heart Journal Volume 22, Issue 6, December 1941, Pages 726-736 「平静の心 ― オスラー博士講演集」William Osler(著), 日野原 重明、仁木 久恵(翻訳) 医学書院刊 日野原重明著:「幸福な偶然」(セレンディピティ)をつかまえる 2005年 光文社刊 など。。 注: 日野原重明先生が診察に行かないと熱が出る患者さんの事を紹介しましたが、これはストレス性体温上昇(stress-induced hyperthermia;SIH)だったと思います。ストレスなどで心因性に体温が上がる現象です。最近、ストレスによる熱発研究が行われています。そんな概念がまだ無かった頃にこういう現象に自然と気づいていた若き日野原先生はやはり臨床医として超一流だったと思います。 新型コロナウイルス感染症に関する最新情報 「現状」を記録することにある一定の意義があると思っているので、最初に新型コロナウイルス感染症の話題をいくつかお伝えします。 コロナ関連のデータは Our World in Data という電子出版のサイトから引用しています。 コロナの現状(図1、2) 日本は平穏無事です。 現時点(2021-12-03)で東京のコロナ患者発症数は7-30人となっています。2021-12-04は20人です。東京の人口は1400万人、70万人に1人の発症者しかいません。ほぼ収束しています。このままこの状態が続けばいいですね。しかし、欧米は大変なことになっています。例えばデンマークです。いきなり発症数が上昇しています。 図1:2021-11-12のデンマークと日本 100万人辺りの発症数 図2:イギリス ドイツ 日本 100万人当たりの発症数 イギリスもドイツも同様です。つまり欧米は全く収束していないことがわかります。フランスも急増している(1日5万人の新規感染者)と報道されています(2021-12-03)。 新型コロナウイルス感染症の発症数の増減についてはさまざまな論考がなされていますが、今のところ「正解」は無さそうです。いくつか紹介します。 コロナ120日周期説(図3) これまでの日本の発症数を分析すると、ほぼ120日周期で消退を繰り返しています。つまり、2月、6月、10月に底になり、その後増えています。さて今11月後半ですが日本では発症数が増えていません。120日周期が敗れこのまま平坦になってくれればいいですね。 図3 外国からの往来が発症を助長するという説(図4) 日本の第五波は他の波に比してかなり高くなっています。分析するとオリンピック前後で増えています。やはり外国との往来が多いと増えるのでしょうか?東京オリパラの開催日を見てみましょう。 東京五輪:2021年7月23日~8月8日 パラリンピック:2021年8月24日~9月5日 これらの大会に伴い世界中から多くの選手や選手のサポートをする方が日本を訪れました。第5波の高さはこれに関係するかも知れないです。 COVID-19が日本に入ったのは2020年1-2月です。この時期、中国から多くの旅行者が世界中を旅行しました。世界中に中国からの旅行者が散らばったためにCOVID-19を世界に広めたと言われています。 外国からの往来が増えると日本では発症数が増えるのかも知れません。しかし、何時までも鎖国のような状態にしておく訳にはいかないでしょう。どのタイミングで入国を緩和するか、難しい問題です。 図4 ロックダウンすればいいのか?(図5) 厳しいロックダウンをしている国(例えばオーストラリア、ニュージーランド)よりも、日本は発症率が低くなっています。なんでもロックダウンすれば良い訳でも無さそうです。 図5:韓国は日本よりもコロナ発症数が少なかったのにいきなり上昇 韓国は一貫して日本より発症数が抑えられてきました。しかし、ここ1ヵ月急上昇しています。往来の制限を緩くしたからと言われていますが、本当でしょうか? 日本は何故こんなに発症数が低くなったのか? さまざまな説があります。 mRNAワクチン接種率の上昇 マスクの徹底 手洗い(どこにでもアルコール除菌液がある)の徹底 元々日本人はコロナウイルスに対する免疫がある などがその要因だと思います。他国と大きく違うのが2と3だと思います。4ですが、理研からそれを裏付ける論文が最近掲載されました。 Kanako Shimizu etc. :「Identification of TCR repertoires in functionally competent cytotoxic T cells cross-reactive to SARS-CoV-2」 Communications Biology volume 4,Published: 02 December 2021 それによると「日本人の多くに新型コロナウイルス感染症に対するT細胞の既免疫がある」のだそうです。これが本当なら日本が新型コロナウイルス感染症に対して平穏無事なのも「宜なるかな」です(参考:「新型コロナウイルスに殺傷効果を持つ記憶免疫キラーT細胞」理化学研究所)。 この夢のような状態がずっと続き、第6波が来ないと良いですね。感染症は本当に厄介です。始末に負えないです。目に見えないモノ相手は本当に難しいです。 国境の長いトンネルを越えると。。。そこはコロナ禍だった。 新型コロナウイルス感染症は国境が変わるとかなり発症数、発病率、死亡率が違います。これは実に興味深いことです。スウェーデンはコロナ禍が始まった時、マスクは強制せず、ロックダウンもせず、緩い規制だけを行いました。当初、発症数が激増し、周囲の国から批判を浴びました。現在、そのスウェーデンは周囲の国よりもかなりコロナが抑えられています。 スウェーデンは、現時点でもかなり発症が抑制されていますが、デンマーク、フィンランドは何故か激増しつつあります。国境でコロナウイルスが変化するわけでは無いので、「国の対策」でこのような違いが出ているのだと思います。各国のCOVID-19政策担当者はおそらく頭をかかえていると思います。ただし日本は理研の論文が正しいなら「国の対策」以前に何をヤッテモ今のような平穏無事状態だったのかもしれないです。 オミクロン株出現 2021年11月26日、南アフリカ共和国で新たな変異株であるオミクロン株(ギリシア語: όμικρον、英: omicron)が出現しました。オミクロン株についてはまだ不明な点も多いのですが「感染力がデルタ株よりも強い」と予想されています。日本も明日(2021-11-30)から、外国人の新規入国に関して厳しい処置をとることになりました。この処置は30日続くと報道されています。この先どうなるのでしょう。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/11/22 前回の続きです。「かふふ驛」問題に戻ります。 「かふふ」は歴史的仮名遣いです。 昭和21年、今普通に使われている「現代仮名遣い」を文部省(今の文科省)が使うように発令して以来、使われなくなりました。当たり前ですが、教科書、公的文書は基本的に「現代仮名遣い」が使われるようになっています。歴史的仮名遣いは「歴史」という言葉が示すように平安時代から使われている仮名遣いです。例えば、 ちょうちょう=てふてふ あじさい=あぢさゐ いど(井戸)=ゐど おさない(幼い)=をさない かつお(鰹)=かつを 駅名では、 しながわ(品川)=しながは ゆうらくちょう(有楽町)=いうらくちやう しんばし(新橋)=志んばし(鉄道博物館写真で確認) とうきょう(東京)=とうきやう おちゃのみず(お茶の水)=おちやのみづ(鉄道博物館写真で確認) など多数あります。 甲府駅の掲示によると歴史的仮名遣いでは「かふふ」と表記されていたのですね。 それでは「かふふ驛」は間違いではないと思うかもしれません。しかし、文献1の92頁に「昭和2年、駅名はカナで左横書き」に統一することになったが国粋主義者の大臣によってすぐに元の「右ひらがな書き」に戻ったとあります(92頁)。国粋主義者は文章、文字はすべて本来の日本語の読み方である、右から読む事を横書きでも強硬に主張していたのですね。 つまり「かふふ驛」だったことは無いはずです。左書きなら昭和2年に「カフフ驛」が一瞬あったかもしれないですが、 左横書きが正式に用いられる以前(昭和17年以前) 現代仮名遣いが使われる以前(昭和21年以前) なら「驛ふふか」(注:右から読みます)だったはずです。 戦前の駅名標の写真を集めてみました。皆、平仮名で右横書きですね。 皆、右横書きです。 甲府駅はどうだったのでしょう。山梨県立図書館、甲府市役所に問い合わせてみました。こういうことを調べてくれる部署があります。インターネットで申し込むことができます。 以下、山梨県立図書館からの返答です。素晴らしいです。 ――引用終了――――― 山梨県立図書館をご利用いただきありがとうございます。 お問い合わせいただいた件につきまして、回答いたします。 1946(昭和21)年11月7日の読売新聞に下記のような記事がありましたので記載いたします。 「驛名も左書き 新かなづかい」 近く実施される現代かなづかいに即して国鉄の全国4126駅の駅名標示が書き換えられる。主な例は ▽とうきやう(東京)とうきょう▽おほさか(大阪)おうさか▽きやうと(京都)きようと▽てうし(銚子)ちようし▽かふふ(甲府)こうふ▽じふでふ(十條)じゆうじよう 等で、なほ昨年十月から実施中の驛名左書き(約八割完成)も新かなづかいのため再度書替へられる。 ――引用終了――――― とありますので、1946-47年には今の「甲府駅」(左横書き、現代仮名遣い)の看板に変わったのでしょう。事情がよくわかります。 なお、以下の写真が添付されていました。画像は正直です。右後方に駅名標が見えます。 駅名を拡大してみました。 私の予想通り、「ふふか」と書かれています。と言うわけで、現在甲府駅に掲示されている「甲府駅は「かふふ驛」として親しまれた」とあるのは「間違いでは無い」ですが、本来ならば 《「かふふ驛として親しまれた(注:元は「驛ふふか」と表示されていた)》 とでも表示すべきです。 何か不明な事を調べる時、 公的機関は様々な「質問」に真摯に答えてくれる 画像があると説得力が増す(百聞は一見にしかずです) 冒頭に記した「幸福、かふふく」の事を書き忘れそうになりました。「幸福」の歴史的仮名遣いは「かうふく」です。「かふふく」ではないと思います。「かふふく」と記されている文献があるのでしょうか? 色々と調べましたが、ありませんでした。こちらも間違っているのではないでしょうか? 言葉は変遷します。70年前と現在でこんなに違います。言葉を大切にしなければいけません。 【参考文献】 「日本語大博物館 悪魔の文字と闘った人々/紀田順一郎」ジャストシステム刊 『国語施策百年史』(文化庁/[編] ぎょうせい 2006) 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編1』(JTB 1998) 『甲府市史 別編 3 甲府の歴史』(甲府市市史編さん委員会/編集 甲府市 1993) 文献2-4は山梨県立図書館 調査サービス担当者よりご教示頂きました。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/11/08 歴史的仮名遣いとは何か? 前回の続きです。「歴史的仮名遣いとは何か?」というお話でした。 簡単に言うと、平安時代から使われてきた仮名遣いです。どういうふうに仮名が使われてきたかを江戸時代の僧侶であり古典学者だった契沖が『万葉集』、『日本書紀』、『古事記』、『源氏物語』などの古典に使われている仮名遣いを「和字正濫抄(わじしょうらんしょう)」(古典籍総合データベース)に著し、これに準じた仮名遣いが「歴史的仮名遣い」あるいは「旧仮名づかい」です。基本的に太平洋戦争終了まではこの歴史的仮名遣いで文章が書かれていました。 いくつか紹介しましょう。 蠅:はへ 家:いへ 蛙:かへる 敢:あへて etc.興味がある方はご覧ください。 太平洋戦争終了後に、表記と発音とのずれが大きい歴史的仮名遣いは使われなくなりました。今私たちが使っている「現代仮名遣い」にとって変わられました。 詳しくは下記文献1.2.を参照ください。 昭和21年(1946)11月16日、内閣訓令第8号、内閣告示第33号により 「現代かなづかい」実施の件(国立公文書館デジタルアーカイブ) https://www.digital.archives.go.jp/img/1712722 学校教育における「現代仮名遣い」の取扱いについて 文初小第二四一号 昭和六一年七月一日 (文化庁) https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/naikaku/gendaikana/index.html 要するに教科書に使う仮名遣いを現在私たちが使っている「現代仮名遣い」に統一したのです。しかし、今どのような仮名遣いをしようが自由です。丸谷才一のように、あえて、歴史的仮名遣いで文章を書いている人もいます。 甲府駅の話に戻ります。現代仮名遣いでの甲府の表記は「こうふ」、歴史的仮名遣いでの甲府の表記は「かふふ」あるいは「かうふ」です。あれ?それなら「表記が間違っている?」と私が書くのはおかしいではないかと思われる方もいるでしょう。 「かふふ驛」という表記が間違っている明白な証拠を示して論考をしたいと思います。 今私たちが読んでいる日本語で書かれた普通の文庫本、新書類、小説、雑誌、新聞は縦書きです。科学系の教科書は横書き、文系の教科書は縦書き、ビジネス文書は横書きです。 要するに日本は縦書きと横書きが混在しています。縦書きを使っている国は数少ないです。漢字を使っている(いた)国、中国、韓国、日本は縦書きが基本でした。モンゴル文字も縦書きが基本です。今、縦書きがどれくらい残っているのでしょうか? 日本は、明治時代になり開国するまで、蘭学を学んだ人は別にして、一般人は横書きの書物を読んだことはもちろん見たことも無かったと思います。それが明治時代になり、一変します。 日本語の縦書きは右上から、左下に文章が続きます。つまり、右から左に読むのが日本語を読む時の基本です。横書きは、今なら、なんのためらいも無く左→右に書きます。これを「左横書き」と言います。 明治時代に、欧米からの書物が入ってきて困ったことが起きます。英文、独文、仏文すべて「左横書き」です。でも、しかし、日本語は縦書きで、右から左に読んだり書いたりします。これを「右縦書き」と言います。 縦横+左右があり、4通りの書き方があります。 ①右縦書き:今も普通に使われています。 ②左縦書き:モンゴル古代文字は左上から右下に書くそうです(モンゴルの方に確かめました)。縦書きですが、左から右に読んでいくのだそうです。 参考:伝統モンゴル文字のWeb表示(モンゴル語の穴ぐら) ③右横書き:右から左に向かって書きます。アラビア語以外では使われることは少ないですね。しかし、そう遠くない昔、日本でも使われていたのです。 ④左横書き:左から右に横書きします。英独仏西葡蘭露語など、すべて横左書きです。日本の横書き文章も同様です。 の4通りです。少し触れましたが、②以外はすべて普通に明治時代の日本で使われていました。 縦書きしか見たことが無かった日本人は苦労します。欧米系のラテン文字は縦書では読むのに苦労します。 少し遊んでみましょう。川端康成の「雪国」の冒頭を①③④で記してみました。 明治初期にこれを書いて出版するなら ①右縦書き:普通に読めます。 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 夜の底が白くなった。 信号所に汽車が止まった。 ③右横書き(右から左に読む):読めないですね。 ←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←← 。たっあで国雪とるけ抜をルネントい長の境国 ④左横書き: 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 これなら今でも普通に読めますね。 つまり日本語で文を書く方法として現在残っている文章の表記法は縦右書き、横左書きの二つです。 この二つに収斂するまでかなり混乱しています。 下二つは明治時代の辞書です。ラテン文字部分は当たり前ですが、横左書き。和訳部分は縦書きです。辞書を引くのも、辞書を横にしたり縦にしたり、大変だったのですね。 私が持っている大正時代に書かれた内科の教科書も、縦書き、横左書き、横右書きが混在しています。 図1:際實ノ療診科内 著方義川西 右横書きです。読みづらいですね。 図2:普通に右縦書きですが、横文字部分は読みづらいですね 図3:複雑な西欧文字部分は左横書きと右縦書きが混在しています 新聞は終戦時まで横書きは右横書きでした。 縦書きと右縦書き、左横書きが混在しています。右上の食堂の看板は右横書きですが、他の横書きは左横書きですね。 要するに何を言いたいかと言うと明治になり、開国した結果、欧米の文物が大量に日本に入ってきて、それまで「横書き」を見たことが無かった日本人は困ったのですね。だから、日本語は廃止してフランス語を導入しようとしたり、漢字仮名カタカタを廃してローマ字を使おうとか今思うと「トンデモない」ことが提案されたりしています。 縦書き表記は従来通りの右縦書きのままですが、横書きは①右横書きと②左横書きが混在していたのです。現在のような横書きが左横書きとして統一される一端は開戦の翌年(昭和17年)のことです(参考文献1. 184頁)。横書きが左右に分かれて混在したら非能率的だったからです。それでも本格的に左横書きが広まるのは終戦後です。 次回に続きます。 【参考文献】 「日本語大博物館 悪魔の文字と闘った人々/紀田順一郎」ジャストシステム刊 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/10/25 表題のごとく今回は医学と関係ないことを記しますが、医学にも関係する「調べる」ことの大切について考えていただいたら幸いです。何事かを伝えようとする時「調べる」ことはとても重要です。 何かを論ずる時「という」「と言われている」という文章を良く目にしますが、こういう場合は根拠が不明なことがほとんどです。根拠不明な文章を読んだり論じたりするのは時間の無駄です。 先日、世評の高い歴史に関する本を読み始めました。あまり耳にしたことが無い話が満載です。「おお!」と思ったのですが目新しいと著者がいうことのほとんどに「という」「と言われている」と記されています。その根拠は一切書かれていませんでした。途中で読むのを止めました。時間の無駄です。 本論に入る前に少々余計な話を書きますが、この部分は読み飛ばしていただいても構いません。 富士山に登った時に撮影した「雲海に映る影富士+虹」 今夏も天候不順が続きました。急に暑くなったり涼しくなったりと変な天気でした。8月にはなぜか毎週末に雨が降り、夏休みの観光客を当て込んでいた観光地はコロナ禍に加えて「泣き面に蜂」状態だと報道されていました。昨年はコロナ禍で登山禁止だった富士山も今年は登れるようになりましたが、8月は週末毎に雨が降ったため、登山客は例年の4割程度だったそうです(参考:「富士山登山者、山梨県側は一昨年から6割程度減少」YAMAKEI ONLINE)。 写真:雲海に映る影富士+虹 私は時々富士山に登ります。この写真はコロナ出現前の2019年に富士山に登った時に撮影した「雲海に映る影富士+虹」です。とても珍しい光景です。影富士は珍しくないですが「雲海に現れる虹」は見たことがありませんでした。写真を撮った時は7合目の山小屋にいたのですが、その小屋の主人も見たことがないと言っていました。頂上右側の虹がお分かりになりますでしょうか? 虹の下では雨が降っているのでしょうか? 富士登山をすると、毎回ではありませんが、時にかなり美しい風景を見ることができます。 富士山は山梨県と静岡県にまたがってそびえ立っています。 富士山は山梨から見た方がきれいだと山梨の方は言います。富士五湖から一気に山がそびえ立つ様は豪快で山梨側から見た方がきれいだと言います。 一方、静岡の方は静岡から見た方がきれいだと言います。駿河湾から富士山頂までの姿は優雅に見えるので静岡から見た方がきれいだと言います。 さて、どちらがきれいでしょうか? 答えは? 最後に記しました。冗談がわかる人だけ最後を読んでください。 余談終了です。 「かふふ驛」という看板があった? ここからが本題です。 その富士山が見える郷里の甲府に帰った時、甲府駅にこのような掲示があることに気づきました(下の写真参照 点線は筆者)。 甲府駅は「かふふえき」として親しまれたとあります。 写真:「かふふえき」として親しまれていました。 この看板を見れば「かふふ驛」という看板があったと誤解されかねません。これは「間違い」だと思いました。間違いとは穏やかでは無いと思うかも知れません。その辺りを考察したいと思います。 この看板の横には鐘が掲示してあり、そこにも穏やかならざることが書いてあります。 この鐘は「かふふ来の鐘」とあり、「かふふ来」=「幸福」と書いてあります。 本当でしょうか? 答えはこのシリーズの最後に記します。 話を戻します。以前、蝶々の話を紹介した際、「春」と題する安西冬衛の作品を紹介しました。 111:アサギマダラは旅をする 蝶も人の心を「忖度」できるのか?(1) てふてふが一匹 韃靼海峡を渡つて行つた。 この安西冬衛の詩が、ある大学の入学試験に出題され、その試験問題が厳しく批判されていることに気づきました。「桜もさようならも日本語」丸谷才一著(新潮文庫)頁237-238で厳しく批判されています。問題を紹介しましょう。 問題:次の詩は「春」と題する安西冬衛の作品である。 この詩の表記法としてふさわしいものを次の中より一つ選べ。 ① 蝶蝶が一匹韃靼海峡を渡つて行つた ② 蝶蝶が一ぴきダッタン海峡を渡って行った ③ ちょうちょうが一ぴきダッタン海峡を渡って行った ④ ちょうちょうが一匹韃靼海峡を渡って行った ⑤ てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた ⑥ てふてふが一ぴきダッタン海峡を渡つて行つた みなさん、正解が解りますか?本当の事を言うと正解は「無い」のです。問題文が間違っているのです。この詩は昭和4年(1929年)の詩集「軍艦茉莉」に載っている詩歌です。図書館で確認しましたが安西冬衛はこの「てふてふ」の詩の最後に「。」を打っています。どうやら「。」に拘りがありそうです。入試問題には「。」が打ってある設問がありません。ゆえに、この問題には「正解がない」と言っても過言では無いでしょう。 「。」なんかどうでも良いかも知れませんが「モーニング娘。」というグループは「。」を付して「。」に意味を持たせていました。この入試問題は、つまり、雑な出題ですね。 話を戻します。この問題には「詩の表記法としてふさわしいもの」を選べとあります。「ふさわしい」と思うのは作者の感覚を知らないとわからないですね。それは無理な話です。 つまり「この問題を解くにはこの歌を知っていない」とできないということになります。入学試験のためにこのような歌まで知っている必要があるでしょうか? 以下、丸谷才一の批判です。上掲書、頁228からの引用です。一部省略しています。匿名にしてある部分もあります。 ----引用開始------ 安西の詩《春》は現代日本の一行詩のなかで最も高名なもののひとつである。しかしその文字づかひをそつくり覚える事にどういふ意味があるのか、わたしにはわからない。中略。漢字と平仮名、片仮名を混ぜて書くのは日本文の表記の基本だから、その使い分けは大事な心得だ。しかしその使い分けはこの場合安西の感覚と個性と気まぐれに大きくよりかかってゐる。私にはこの感覚と個性と気まぐれが現代日本文明にとってさほど重大な意義を持つとは思へない。 歴史的仮名遣ひと新仮名との区別が日本文化の大問題あることは言ふまでもないが、しかし安西がある詩をどの仮名づかひで書いたかは、入試問題で問ふべきことではなからう。某大学(実名で書いてあるが伏せます)のこの問題は入試問題ではない。アテモノでありクイズである。マークシート方式向きの便宜主義と浅薄な文藝趣味が合体したとき、かういふ愚劣きはまる出題がなされるのだらう。 ----引用終了------ 安西冬衛の原詩を知らないと正解はできません。この詩は昭和4年(1929)に発表されています。昭和4年頃は文章の表記に歴史的仮名遣いが使われていたことを知っていれば、①~④は間違いであることが解ります。 ①~④は「渡って行った」とあり、⑤⑥は「渡つて行つた」とあります。 「つ」が大文字で表記されているので歴史的仮名遣いが使われていることがわかります。ここが解れば正解確率は1/2になります。正解は⑤です。 原詩を再掲します。 てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。 「蝶々」だろうが「ちょうちょう」だろうが「てふてふ」だろうが「韃靼海峡」だろうが「ダッタン海峡」だろうが、どうでも良いことだと私も思います。安西が気まぐれに使った(かもしれない)仮名遣いが後に受験生を苦しめているのです。泉下の安西も嘆いているでしょう。 ちなみに丸谷才一は歴史的仮名遣いを使って小説、評論を書いています。上述の丸谷の文章も歴史的仮名遣いに沿って書かれています。 「文字づかひ」「かういふ」「問ふべき」「よりかかってゐる」「言ふまでもない」すべて歴史的仮名遣いです。 歴史的仮名遣いとは何でしょうか? 簡単に言うと、平安時代から使われてきた仮名遣いです。次回に続きます。 余談:「富士山がどちらから見た方がきれいか?」 どうでもいい話です。きれいさの指標はありません。山梨県(=甲斐(かい)の国)から見た方がきれいか、静岡県(=駿河(するが)の国)から見た方がきれいかと言う議論自体不毛です。 江戸時代の狂歌師太田蜀山人は戯れ歌でこの論争に結論を下しました。もちろん冗談です。どちらがきれいか、江戸時代からあったのでしょう。恐らくそういう議論を苦々しく思っていた蜀山人はそれに関する戯れ歌を作ります。引用します。上手いですね。 「娘子の 裾をめくれば 富士の山 甲斐で見るより 駿河一番」 解る人にはわかる歌です。こういうひねりは面白いですね。意味がわからない方は問い合わせください。 2021年8月29日、富士山の西側を南北に走る中部横断自動車道の山梨―静岡間が全線開通しました。中央自動車道と東名高速道路とが高速道路でつながったのです。山梨県知事は『甲斐国(かいのくに)が「開」の国に』なったと述べています。海無し県の山梨が高速道路で海のある静岡までつながったことを「開かれた」と表現したのでしょう。 これを読んで開高健が中国に行った時のことを思い出しました。彼の国で「開」は本名ですか?ペンネームですか?と何回か聞かれたそうです。これ以上は野暮です。止めます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/09/09 患者さんが助からないと歴史に名は残らない 9月9日は日本では「救急の日」。偶然ですが「世界初の心臓手術成功の日」です。 今回は世界で初めて行われた(成功した)心臓手術を紹介します。本編後半に少しショッキングな写真が載っています。お気をつけください。 世界で初めて心臓手術をした(成功した)のはドイツ人外科医の「Ludwig Wilhelm Carl Rehn(ルートヴィッヒ・レーン)」医師です。1896年9月9日に、この手術は行われました。 患者名:Willhelm Justus(ヴィルヘルム ユスツス)さん、22歳の庭師です。昔はこのように患者名まで報じられたのですね。隔世の感があります。 病歴風に記します。 この患者さん(Willhelm Justusさん)は1896年9月7日、歩行中にナイフで左胸を刺されて路上に倒れた(らしい)。たまたま、通りがかった人が連絡を取ってくれて、救急馬車!でレーン医師が勤めていた Frankfurt State Hospital 病院に搬送された。 この時、おり悪しく、レーン医師は所要で不在でした。 9月9日、レーン医師はこの患者さんを診察します。 レーン医師は、この22歳の患者さんが ナイフで心臓を刺されたこと ナイフで傷ついた心臓から出血していること(注:心臓から出血した血液は心嚢腔に貯留し、心タンポナーデ=心臓圧迫状態という状態になっていたと予想されます。今なら心エコーで簡単に診断できます。) 血圧が下がり、このままでは死亡してしまうこと 血圧が下がって、すでに意識が無くなっていること などから、このままでは死亡してしまうと考えそれなら左胸を開けて損傷を受けている心臓、、つまり心臓の出血部位を糸で縫合止血しようと考えたのです。 「言うは易く行うは難し」です。 失敗すれば、笑いものになるし、下手をすれば職を失うかもしれません。それでも彼は手術を敢行しました。 図1:世界で初めて心臓手術に成功した Frankfurt State Hospitalの写真です。当時の写真です。 当時、外科の常識では心臓の手術は禁忌つまり「心臓の手術は行ってはいけない」とされていました。イギリス人外科医Paget医師とドイツ人外科医Billroth医師の「心臓手術」に対する意見を紹介しましょう。 Stephen Paget (1855?1926) in his book 「Surgery of the Chest」 had stated the belief that cardiac surgery had reached the limits of nature and that any surgeon who went beyond these limits (and operated upon the heart) was sure to lose the acceptance of his colleagues. Theodor Billroth (1829?94) a few years earlier had also declared a fear of cardiac operation, believing that any twitch of the myocardium would dispatch the patient immediately. Paget医師は「心臓の手術は外科医の限界を越えている。心臓手術をする外科医は仲間から受け入れられない」と記し、ビルロート医師は「心臓の筋肉を縫合しても、直ぐに外れるだろう」としています。 レーン医師がナイフによる心臓外傷を負ったこの患者さんを診た1896年はそういう時代でした。 「心臓の手術はしてはいけない」 「心臓手術が成功するわけがない」 が常識でした。 Stephen Paget医師はイギリスの外科医です。がんの転移の研究で有名です。同医師の父はSir James Paget医師で「Paget病」にその名が残っています。ビルロート医師は胃の手術の創始者で今もビルロートの考案した術式は胃切除の基本です。そういう有名外科医達がこぞって心臓手術に反対していた時代だったのです。 レーン医師は、患者さんが ナイフで刺された心臓から出血していて そのために、血圧が下がって意識が無くなっており このままでは死亡してしまうこと を見て取り、それなら左胸を開けて損傷を受けている心臓の出血部位を糸で縫合し、止血しようと考えたのです。 「言うは易く行うは難し」です。 失敗すれば、笑いものになるし、下手をすれば職を失うかも知れません。それでも彼は手術を敢行しました。 下に示す図2、3がこの時の手術図です。 左:図2、右:図3 図3:図2の拡大図です。右心室にナイフによるキズが見えます。 レーン医師は左胸を切開し、第5肋骨を切離して、心膜がよく見えるようにしました。恐らく心膜は損傷した心臓から流出していた血液で緊満していたと思います。その心膜を切開。切開すると心嚢内に貯まっていた血液が大量に流出し、図3の如く心臓に孔が開いていたのがわかったのです。ここに絹糸(けんし)を3針かけて縫合し、止血に成功しました。 「ナイフにより傷つき心臓に開いた孔に、3針目の糸をかけて縛ったら、出血はとまった」とレーン医師は記しています(図4)。 心臓の損傷を縫合して止血した後、胸腔や心嚢内を生理食塩水で良く洗浄、ヨードホルムガーゼを心臓縫合部に巻いて手術を終了しています。患者さんは手術後重篤な膿胸(注:胸の中に膿がたまる病気です。今でもその治療は簡単ではありません)に陥ったのですが(抗生物質など無い時代です)、幸い助かり、無事退院し元の仕事に戻ることができたのです。 手術から6ヵ月後、ベルリンで開かれた外科学会でレーン医師はこの手術の経過を詳しく報告しました。 「心臓を手術しても死なない」 「心臓を縫合することができる」 というニュースは瞬く間に世界中に広まり、世界のあちこちで成功例が報告されるようになりました。心臓外科の幕開けです。レーン医師はその後の10年間に124例の心臓縫合手術を行い、40%は救命できています。素晴らしい成績です。 図4:レーン医師が書いた世界最初の心臓手術成功例の論文です。全文が読みたい方は筆者まで連絡をください。 実はレーン医師が心臓手術を最初に行ったわけではありません。 ノルウェーの外科医 Axel Cappelen は1895年9月4日に、イタリアの外科医 Guido Farina は1896年3月にレーン医師と同様な心臓外傷に対して手術を行っています(文献2、3)。レーン医師が手術を行ったのは1896年9月です。Axel Cappelen 医師、Guido Farina医師の手術より遅いのです。しかし、彼らの手術は成功しませんでした。患者さんはお亡くなりなっています。 つまり、心臓手術に「最初に成功」したのがレーン医師だったのです。心臓が傷ついた場所が良かった(血圧が低い右心室だったのです)のと、手術後に感染を生じても、なんとか、治ったのでレーン医師は医学の歴史に名前が残りました。Axel Cappelen 医師、Guido Farin医師が手術した患者さんが助かったら話は違ったと思います。 心臓外科の教科書にはこのレーン医師の手術のことが必ず載っています。ある教科書にレーン医師の名前を冠した通りがドイツのフランクフルトにあると書いてありました。フランクフルトに行く機会があったら、ぜひ訪れてみたいと思っていました。なかなか行く機会がなく、フランクフルトを訪れる友人に頼んで写真を撮ってきいただきました。図5-1.2がその写真です。図5-1に「Ludwig-Rehn-Stra?e」とあるのが解りますでしょうか? Stra?e= streetです。日本語なら「ルートヴィッヒ・レーン通り」でしょう。 図5-1:Ludwig Rehn 医師の生年と没年(1849-1930)、心臓外科医(Arzt, Herzchirurg. 注:Arzt=医師 Herz=心臓 chirurg?=外科医)と書いてあります。 図5-2:通りの全景です。当たり前ですが何の変哲もない通りですね。 図5-3:フランクフルト駅の対岸にこの通りはあります。 図5-4:図5-3の拡大図です。「ルードヴィッヒ・レーン通り」と記されているのがお分かりになりますでしょうか? 現代でも心臓外傷の治療は容易ではありません。特にナイフ、包丁、刃物による心臓外傷は「即死」することが多いのです。病院に搬送されても、お亡くなりになっていることが多いのです。 私も様々な心臓臓外傷を経験しましたが、一番良く覚えているのは左胸に包丁が刺さっていた患者さんです。包丁は深く刺さっていましたが、患者さんは生きていました。30年も前のことです。デジカメなど無く、刺さっていた状態を示す写真はありません。 普通は左胸に包丁が深く刺さっていたら、左側にある心臓に包丁が刺さって「即死」します。生きて病院に搬送されてきたのが不思議でした。レントゲンを撮ったら凄いことが解りました。この患者さんは「右胸心」といって心臓が右側にあったのです。左胸を刺した犯人は、そんなことは知らずにナイフを心臓がある側(左側)を刺したのです。右胸心は12,000人に1人しか見られない特殊な心臓です。 この左胸を刺された患者さんですが、肺損傷はありましたが、心臓にキズはなく無事救命できて元気に退院しました。刺した犯人は「傷害罪」で逮捕されましたが「殺人罪」にはならなかったのです。色々な意味で思い出深い患者さんです。 図6:「右胸心+包丁刺傷」を「再現」したレントゲン写真 図6は、この「右胸心+包丁刺傷」を「再現」したレントゲン写真です。実物ではありません。30年前のある日、救急治療室で、こんな感じのレントゲンが現像されてきた時、歓声が上がりました。 心臓外傷を実際に手術している写真は、あまり撮影できません。緊急状態だから、そんな余裕があまりないのです。図7は包丁が刺さったまま病院に搬送されてきた患者さんです。おおむね、こういう患者さんが搬送されると「阿鼻叫喚状態」になります。 意識の確認 家族への連絡 警察への連絡 輸血の用意 手術室の用意 執刀医のへ出動要請 麻酔医への連絡 手術室への連絡 手術術式の検討 他に合併症は無いかどうかの確認 感染症の確認(肝炎、syphilis、HIVなど) 家族への説明 などなど、たくさん行うべきことがあります。 こういうときはいつも「Let’s everybody keep cool. Let’s solve the problem.」と思いつつ行動していました(つもりです)。 ※リンク先に手術の写真があります。苦手な方はお気をつけください。 図7-1 図7-2:包丁が心臓に刺さっています 図7-3:心臓に刺さっていた包丁を抜いて損傷を受けた心臓を修復しています こういう場合、今では縫合部位を補強するためにフェルトパッチを使います。図7-3に見える白い布が「フェルトパッチ」です。セーターなどの肘に当てるパッチと同じです。こういうフェルトパッチを使わないで心臓を縫合すると「心臓が裂けます」。糸は細いのでそのまま強い力でしばると心臓の筋肉が裂けてしまいます。心臓が傷ついている時の修復にはパッチ状のモノを使って修復するのが基本です。パッチで糸にかかる力を分散させ筋肉が糸で裂けないようにして止血操作を行います。心臓外科医は、動いている心臓を縫う機会はあまりありません。普通の心臓手術は心臓を止めて行うからです。ビルロート医師が100年前に喝破したように、動いている心臓に不用意に糸をかけると心臓の筋肉が裂けます。そういうわけで、動いている心臓を縫うのは、慎重が上にも慎重な操作が必要です。神経を使います。 それはともかく、この患者さんは元気に退院しました。良かったです。こういう手術の元は、1896年9月9日に行われたLudwig Rehn:ルートヴィッヒ・レーンの手術です。 【参考文献】 Rehn L. Fall von penetrirender Stichverletzung des rechten Ventrikel’s. Leipzig: Zentralblatt fuu¨r Chirurgie, 1896:1048?49 Cappelen A: Vulnus cordis : sutur af hjertet. Norsk Mag Laegevidensk 57:285, 1896 https://apps.dtic.mil/dtic/tr/fulltext/u2/a046830.pdf Alexi-Meskishvili V : Suturing of penetrating wounds to the heart in the nineteenth century: the beginnings of heart surgery. Ann Thorac Surg. 2011 Nov;92(5):1926-31. 私案:9月9日を世界的に「心臓手術の日」と定めよう 日本で9月9日は「救急の日」です。レーン医師は世界で最初に心臓手術に成功した日でもあります。世界で9月9日を「心臓手術の日」と定め、心臓病、心臓手術の啓蒙に努めてはどうでしょうか? 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/08/23 やや旧聞に属しますが故大橋巨泉氏が経営していたカナダの土産物店に関する報道がありました。新型コロナウイルス感染症の影響で閉店(2020年6月)を余儀なくされたとの報道でした。この記事を読んでさまざまなことを思い出しました。 皆さんは、小佐野賢治という名前を聞いたことがあるでしょうか?故田中角栄元首相の「刎頸の友」と言われ「政商」と言われ、ロッキード事件で国会に呼ばれた際に「記憶にございません」を連発したことで記憶に残っている方も多いと思います。後に偽証罪で有罪となっています。一時、極悪人のような報道をされていました。 表題と関係無いと思われるかも知れませんが、しばし、お付き合いください。 「小佐野さんのムームー」 丸谷才一に小佐野賢治氏を好意的に表した随筆があります。 「小佐野さんのムームー」 というタイトルです。タイトルが上手いですね。読もうという気になります。丸谷がこの随筆を書いた当時小佐野賢治氏はマスコミに糾弾されていました。そういう時期に小佐野さんの擁護論を書いています。擁護論の要旨を挙げます。 要旨1:そもそも(小佐野賢治氏のような)商人は、だいたいあくどいことをして金を儲けるものである。会社はなんのためにあるのか、買いたたく、出し抜く、買い占める、賄賂を送る、そういうことをするに当たって「会社のためだ」と自分に言い聞かせて良心を麻痺させるために存在する。小佐野さんはそれを多少派手にやっただけだ。 要旨2:小佐野さんに私(丸谷)が好感を持つのは倫理道徳を説かないことだ。偉くなると「倫理道徳」を説くようになるが、小佐野さんは、一切そういうことをしない。それだけで尊敬したくなる。 そして多分、次の要旨が一番「効いている」のではと思います(笑)。 要旨3:そういう風に小佐野さんに好感を持っていると思っていたら、実は、私(丸谷)は若い頃の小佐野さんに会っていたことを思い出した。サンフランシスコで紀伊国屋書店が開店された際、記念講演に呼ばれ、帰り道ハワイに寄った。紀伊国屋書店創業者の田辺茂一氏や同氏が引き連れてきた銀座のお姐さん達と一緒だったその時、ハワイにホテルをたくさん建てているという「ホテル王」に紹介された。そのホテル王に、すでにあるホテルや建築中のホテルを紹介された。 その時そのホテル王が 「買い物をするなら、私のホテルでしてください。買ってくれるなら割り引きます。1時間後に来ますのでそれまでに買う物を選んでおいてください」 と言ったので銀座のママさん達は随分と広い店内を走り回り、お土産物、特にムームーなどを大量に選び、丸谷はお土産に3着だけムームーを選んだ。1時間後、銘々が商品を選び終わったところで件のホテル王が来た。どれくらい割り引いてくれるかと思ったら、そのホテル王は 「お金はいりません。全部差し上げます」 と言って代金を取らなかった。最初から全部タダと言ってくれればもっとたくさん選んだのにと銀座のママさんが嘆いていた。 後に、この時のホテル王が小佐野賢治氏だとわかった。だからか私(丸谷)は小佐野さんを褒めたくなる。 そういうのが3番目の要旨です。多分、一緒に行った田辺茂一氏、銀座のお姐さん達も小佐野賢治の悪口は言わないだろうし、心密かに応援したと思います。それが小佐野賢治流の「商才」だと丸谷才一が書いています。 3番目が一番「効いている」ような気がするなあと思っていたら、私もナイアガラの滝で同様な経験をしたことを思い出しました。 ナイアガラの滝で同様な経験 以前、アメリカのミシガン大学で「ISHR World Congress」(国際心臓研究学会International Society for Heart Research)という心臓病の学会が開かれました。私はこの学会で初めて英語で発表を行いました。細かい質問をされて冷や汗をかきました。 話は逸れます。この時、ニーリー先生(James R. Neely :1935-1988)の追悼の会が行われました。ニーリー先生はラットの心臓の潅流モデル(working heart model、通称:Neely model ニーリーモデル)を考案し,この潅流モデルは世界中で心筋代謝の研究に使われていました。私もこのニーリーモデルを用いた実験で学位をとりました。 ミシガン大学で行われたニーリー先生追悼会で追悼演説を行ったのはロンドンにある、セントトーマス病院(St Thomas’ Hospital)のハース先生(David J Hearse)でした。ハース先生は、ニーリーモデルを用いた実験で心臓手術時の心筋保護液を考案したことで有名な先生でした。この心筋保護液は「セントトーマス液」として世界中で使われました。市販されるようになり私も使っていました。セントトーマス液を用いて心筋保護を行うと心臓を3時間程度止めても心臓が痛みません。良い心筋保護液です。 それはともかくそのニーリー先生は52歳で亡くなっています。若いですね。心筋梗塞の発作でお亡くなりになっています。まさかそんなに早く「死ぬ」とは思わなかったのでしょう。ニーリー先生はご自身とご自身の考案した実験モデルと一緒に撮影したことが無かった(らしい)のです。 ところが、私はまさに「ニーリーモデルとニーリー先生が一緒に写っている写真」を所持していました。ニーリー先生はお亡くなりになる前年に来日、東京慈恵会医科大学で講演をなさり、ニーリーモデルを使った実験をしていた私たちの実験室にもいらっしゃったのです。その時に、私はニーリー先生に、先生が考案した実験モデルの横に立って頂き、写真を撮っていたのです。そういう写真があるという話をしたら、なんとアメリカで発刊された本「Diabetic heart」に私が撮影した写真が使われることになりました。 写真1:「Diabetic heart」 写真2:「Diabetic heart」に載っている「ニーリー先生が先生の考案した実験モデルの横に立っている写真」 写真3:ニーリー先生と一緒に撮影した若かりし頃の私、同僚、指導医の先生の写真です。 左から、MH先生、ST先生、Neely先生、私) この時に撮影した写真(黄色点線で示す)が「Diabetic heart」に載っています(写真2)。 話を戻します。そのミシガン大学での学会が終わり、ナイアガラの滝を見に行きました。ナイアガラの滝はカナダ、アメリカの国境にあります。遊覧線に乗ると滝のかなり近くまで近づくことができます。壮大な風景でした。遊覧船を下りると辺りは滝しぶきで良く周りが見えません。そこに Cataract! と書かれた看板がありました。Cataractは医療用語で「白内障」だと思っていました。後で調べたら、Cataractは「瀑布(ばくふ)、大滝」の意味が本来で転じて「白内障」という病名にも使われているのだと解りました。白内障が進むと滝の前にいるような感じにしか見えなくなるからでしょう。 ナイアガラの滝観光を終えてお土産を買おうと何件かお土産屋さんを探していたら大橋巨泉の店「OKギフトショップ」が目に入りました。このお店では日本語で買い物ができ、日本円も使えると書いてあり、それならと思い店内に入りました。定番のカナダ土産、メイプルシロップや絵はがきなどを選んでいたら中年の女性店員さんが私のところに来て、 「何かお探しですか? お手伝いします」 「どこから来たのですか?」 「観光ですか?」 などと、話しかけてきました。私が、心臓病の学会でミシガン大学に来たこと、学会が終わったのでナイアガラ観光に来ていることを話したら、「お客さんは心臓の先生なのですね。時間があるなら、私たちの心臓病の相談にのってください」と言って、もう一人女性の従業員を連れてきました。 連れてきた女性は胸痛があり、狭心症を疑われているそうです。ニトロの舌下錠を持っていました。この方の胸痛は狭心症の典型的な症状ではありませんでした。胸がチクチクと痛む程度だそうです。色々と伺ったら、高血圧は無い、高脂血症はない、糖尿病はない、喫煙はしない、太ってもいません。ニトロを舌下したことがあるけれど効かなかったと言っていました。胸痛は運動や睡眠とは関係無い、長くても数十秒しか続かないというような病状でした。この病状から察するに、多分「狭心症」では無いだろうと思い、そのように伝えました。ただし、5分以上胸痛が続くなら、ニトロを舌下した方が良いだろう、そしてニトロが効くなら、その旨をきちんと主治医に伝えた方が良い。できたら、症状が生じた時刻や持続時間をメモして、担当医に渡したら良いと言うような話をしました。 もうお一方は、不整脈を指摘されているとのことでした。数ヵ月に一度、短時間、動悸がするそうです。詳細はよくわからなかったのですが、 「自分で出来る脈の取り方」 「脈の数え方」 を教えて差し上げました。 一日一回、自分で脈を取る習慣をつけると、動悸を感じた時にその動悸の原因が不整脈か不整脈でないかが解る。不整脈では無いなら「脈が早いだけ」でしょうというようなことをお二人に話しました。10-15分くらいお二人と話をしたと思います。それから買物に戻りお土産物をあれこれ選んでレジに持っていきました。全部で200ドル程度でした。支払おうと思ったら、先ほどの女性店員が来て、 店員さん:「お代は要りません」 私 :「え?」 店員さん:「先ほど、病気の話を聞いてくれたので、これは私たちからのプレゼントです」 私 :「なんだか申し訳ないです(もっと買っておけば良かったとせこい考えが……)」 店員さん:「私たちはカナダに住んでいます。アメリカほど医療費は高額では無いけれど、それでもお医者さんに行って相談するだけでも、高額の医療費がかかるのです。お客さんは、私たちのお話を良く聞いてくれてしかも色々と教えてくれました。だから、お代金はいりません」 というようなやりとりがあり、結局、代金は受け取ってもらえませんでした。大橋巨泉の名前を聞くと、この話を思い出します。 丸谷才一の「小佐野さんのムームー」を読み、大橋巨泉の店が新型コロナウイルス感染症で閉店の記事を読み、ナイアガラの滝での小さな出来事を思い出したのです。 アメリカの医療費はべらぼうに高い アメリカの医療費はべらぼうに高いです。アメリカで小児外科医として活躍し「オペのイチロー」とアメリカで称された木村健医師が書いた「アメリカで医者をやるにはわけがある―在米外科医の見た日米事情(草思社刊 1995年)」にもアメリカの高額医療事情が記されています。 インターネットで検索をするとアメリカの医療費が度を越して高額なことが解ります。ちょっと信じられないくらいです。 1. アメリカで盲腸の手術をすると治療費はいくらかかるのか? アメリカで盲腸の手術をすると治療費はいくらかかるのか?(カラパイア) http://karapaia.com/archives/52151258.html 「盲腸の請求書を見てぶったまげた…」アメリカ人のありえない医療費に対する海外の反応(らばQ) http://labaq.com/archives/51814438.html 約600万円 2. 本当?と言いたくなるようなアメリカの桁違いな高額医療費 「もうこんな国いやだ…」アメリカで請求された恐ろしく高額な医療費14例(らばQ) http://labaq.com/archives/51816136.html ・脊柱の手術代金:1200万円 手術代金請求前 ・腹痛で救急外来を受診、モルヒネ投与、採血だけで149万円 など 3. アメリカは論外なくらい高額、カナダも安くはない カナダ(バンクーバー)の医療費 - 海外旅行保険の必要性(価格.com) https://hoken.kakaku.com/insurance/travel/select/cost/canada/ それでもカナダの方が医療費、薬代は安いので、カナダ国境に近い州に住んでいるアメリカ人は、ツアーを組んでカナダまでお薬を買いに行きます。 「ラブ&ドラック」という映画(ジェイク・ギレンホール、アン・ハサウェイ主演の映画です。アメリカの医療事情、お薬の事情がよくわかります。MRさんが主人公の映画です。ちょっとアレな場面も多いのですが、面白い映画です)に「カナダお薬ツアー」が紹介されています。 4. アメリカでは帝王切開でうまれた我が子を抱くだけで4000円 I had to pay $39.35 to hold my baby after he was born. https://imgur.com/e0sVSrc 確かに帝王切開後のスキンシップという項目があります。これが39ドルです。日本でこんな請求をしたら、新聞沙汰です。 5. 70年も前に見つかった薬での「金儲け」が合法化されています。古い薬を使って一日治療すると2000万円もかかるのです。 1日で2,000万円!のお薬~高価薬について(1) https://www.health.ne.jp/library/detail?slug=hcl_column180431&doorSlug=dr 6. アメリカの医療崩壊はここまできた…刑務所で治療を受けるため「1ドル」を銀行強盗(らばQ) http://labaq.com/archives/51843242.html 7. 医療費を払えなくなり、ノーベル賞メダルを売ったアメリカ人ノーベル賞受賞者の話 「今どきのアメリカン・ドリームってのはこういうこと…」あるノーベル賞受賞者の現実がつらい(らばQ) http://labaq.com/archives/51902006.html 私の友人がアメリカに留学していた時のことです。虫垂炎にかかりました。4日ほど入院しました(保険でカバーされたので助かったと言っていました)。入院中、留学先の病院の同僚米国人医師が代わる代わる「お見舞い」に来てくれたそうです。後で請求書の明細を見たら「お見舞い」に来てくれた医師すべてが「診察料」の請求をしていたそうです。 友人の顔色を見て、具合はどうだい?くらいの話ししかしていないのに診察料がかかっているとびっくりしたそうです。つまりアメリカでは簡単な医療行為でもすべてに金額がかかるのですね。カナダは米国よりも医療費は安価ですが、それでも日本人の感覚からするとかなり高額です。ナイアガラの滝でのことがよくわかると思います。 異論はあるでしょうが、日本の医療保険制度は良くできています。これを守るべきだと思います。 注1: 丸谷才一の随筆は寝る前に読むには最適です。文春文庫で随筆選集が2冊出ています。 注2: 小佐野賢治氏の遺族は、同氏の遺産を元に「公益財団法人 小佐野記念財団(http://osano-memorial.or.jp/main/)」を設立、山梨県の生徒、学生を対象にして小中学生作文コンクールや高校生国際交流事業に対する援助をしています。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/07/19 「ニクイ モチヅキ クサイヤツ」 今回は数字にまつわることなど(寄り道が多いです)をお伝えしようと思います。 副題については後述します。 皆さん、電話番号をいくつ覚えていますか? 今は、スマホ全盛の時代です。15歳から69歳のスマホ保有率は2019年の調査で82%に達しています。20代女性では98%です(参考:スマートフォン所有率は94.7%にまで躍進(最新) ガベージニュース)。10年前は10%でした。携帯電話やスマホが普及するにつれて 「電話番号を覚える」 必要が無くなりました。スマホ、携帯に電話番号を登録すれば良いのです。iPhoneなら「誰々に電話」とsiriにしゃべりかけると電話がつながります。良い時代だとつくづく思います。「家の固定電話」を使う機会も減りました。家の固定電話にかかってくるのは、何かの押し売り電話くらいになってしまいました。それも昨今、ほとんどかからなくなってきました。そういう電話は無い方が良いです。固定電話の命脈は、いずれ、尽きるかも知れません。 話は変わります。一昔前は、固定電話しかありませんでした。私は学生時代、いわゆる「学生下宿」に住んだことがあります。部屋が10室、共同トイレ、共同風呂です。電話は大家さんの所にしか無く、電話がかかると取り次いでくれました。午後10時以降は緊急時以外を除いて取り次いでくれません。今考えると実にのんびりとした話です。時間がゆっくりと流れていたような気がします。夜は勉強するか、読書をするか、先輩友人とコンパ(飲み会)をするかそういうことしか楽しみが無かったのです。テレビも無かった(買わなかった)ので、今思うと本当に贅沢な時間を過ごしました。 今、私が大学生になったならスマホで連絡を取ったり、LINE、e-mailで友人とやりとりしたり、ネットサーフィンをしたり、アマプラ、ネトフリで映画を見たりして時間が過ぎて行くと思います。今昔、どっちが良いでしょうか? 以前にも記しましたが、私の下宿は湖山池という湖のほとりにありました。下宿から数分歩くと湖山池です。湖畔は散歩道としては最高でした。下宿から北側に自転車を走らせると数分で日本海に達します。海岸の散歩も気持ちよかったです。つまり、湖と海岸沿いを散歩できるという極めて珍しい場所に住んでいました(図1)。イカ漁が盛んな時期、夜の日本海には、電気を煌々と照らしたイカ釣り船が一列に並び、とてもきれいでした(参考:[鳥取市]王道観光地『白兎海岸』のスピリチュアルな穴場的絶景がコレ 日刊webラズダ)。漁火です。海無し県で育った私は見たことが無い風景で、よく見に行きました。後になって、丁度その頃、日本海側の海岸から北朝鮮による拉致事件が頻発していたと知りました。今思うと、漁火を見に行くのは、かなり危険だったのかもしれないです。 図1:赤枠辺りに住んでいました。湖と日本海の間という極めて珍しい場所です。 話は逸れます。上述の如く、夜には良く本を読みました。最近、その「読書」について考えさせられたことがありました。テレビを見ていたら「ロシアで1番有名な日本人は誰?」という番組をやっていました(2018/9/1:テレビ朝日)。有名な順に、 1位:宮崎駿 2位:村上春樹 3位:北野武 4位:本田圭佑 5位:武内直子(漫画家) 6位:村上隆 7位:安部公房 8位:小島秀夫(ゲームクリエイター) 9位:羽生結弦 10位:栗原小巻 でした。横に説明を書いた5位と8位は私が知らなかった方です。意外なのは7位の安部公房です。羽生結弦より有名でした。 同番組では、ロシアでは小中高大学で徹底的にロシア文学作品(トルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフetc.多数)を読まされる、読まないと進級できないので、必然的にロシア人は読書好きになると言っていました。 図2:ロシアの地下鉄風景 図2は2017年のロシア地下鉄風景です。本を読んでいる人が多いですね。地下鉄内の風景だそうです。日本とは大違いですね(参考:この読書人口の多さ! モスクワ地下鉄に外国人が感嘆 Sputnik 日本)。ただしロシアでもスマホを見ながら地下鉄に乗っている人も、段々、多くなっているそうです。2021年はもっと違った風景になっているかも知れません。 その読書好きのロシア人に広く知られているのが「安部公房(1924 -1993)」です。番組内で「好きな日本人は?」という問いに多くのロシア人が「コーボーアベ!」「コーボーアベは最高」と言っていたのにびっくりしました。安部公房は30年近く前に亡くなっています。それでも、まだ読み継がれて人気があるのですね。番組を見て久しぶりに「砂の女」「箱男」を読み返してみました。やはり面白いですね。8位に入っているゲームクリエイターの小島秀夫氏も「安部公房」について熱く語っています。 全文掲載との要望が多いので、高校2年時に書いた読書感想文コンクール原稿を公開します。実はE3直前に安部公房の「なわ」を36年ぶりに読み直しました。今、36年前の若き自分の強引であまい考察を読んで、歳を重ねる事の意味を再認識してます。 pic.twitter.com/RrE2RY0FHt— 小島秀夫 (@Kojima_Hideo) June 20, 2016 余程、安部公房が好きなのだなと思います。 さて、日本では国語の時間がどんどん減らされ、文学作品が高校の教科書から無くなりつつあります。「高校国語から文学が消える」(伊藤 氏貴(うじたか)(文芸評論家・明治大学准教授).「文藝春秋」2018年11月号)によると、2022年から高校2年、3年の現代文が、 「論理国語」:家電の説明書、PCの説明書などの理解 「文学国語」:いわゆる文学作品を読む の2つに分かれ、受験のためにほとんどの高校で1.の論理国語を選択するだろうと予想されています。夏目漱石、森鴎外、樋口一葉、中島敦、開高健、遠藤周作etc.に触れる機会が少なくなると予想しています。なんだか、とても残念です。 今、日本はロシアと様々な交渉をしています。交渉相手のロシア側が「安部公房」を読み日本側の交渉担当者が安部公房を読んでいない、あるいは知らないなら足元を見られかねないですね。 ごめんなさい。話を今回で話題にしている「数字」に戻します。学生時代、自分の電話を持ったのは3年生の時でした。今思うと、とても懐かしいのですがダイヤル式の電話でした。 図3:ダイヤル式電話 もう、見かけないですね。数字の所に指を入れて右下のフック(金具)のところまで回すのです。市外局番を入れると10回もダイヤルを回す必要があります。面倒ですね。 最初に持った電話番号が ○△□×-29-9318 でした。 家に電話があるとそれだけで少し世界が広がった気がしました。卒業まで、このダイヤル式電話を使っていました。その後、プッシュ式電話になります。いずれにせよ「電話番号を覚えないといけない」時代でした。「語呂合わせ電話番号」がたくさんありました。思いつくままいくつか挙げてみましょう。 ■医療関係 3387:耳鼻科 ミミハナ 1103:産婦人科 ヨイオサン 良いお産 6480:歯科 ムシバナシorムシバゼロ 4456:精神科 ヨイココロ 3387:耳鼻科 ミミハナ 1103:産婦人科 ヨイオサン 良いお産 6480:歯科 ムシバナシorムシバゼロ 4456:精神科 ヨイココロ 4165:内科 良い語呂合わせではないけれど、すぐに覚えることができるのが、ぞろ目ナンバーでしょう。 1111とか2222と言うような番号も人気がありました。古い医療機関では1111が多いですね。ダイヤル回線時代は1111に意味がありました。一番早く回せるからです。 ■その他 ・家庭系 1122:イイフウフ 1188:イイパパ 2247:フウフヨイナカ 0510:ゴトウさん 0310:サトウさん 5963:ゴクロウサン 2525:ニコニコ 4483:ジジバアサン ・企業系 0101:丸井 1010:TOTO 9696:クログロ アデランス 828:ヤズヤ 489-444:ヨヤク シヨウヨ 劇団四季 2:カステラ1番 電話は2番 3時のおやつは文明堂(これはCMで覚えさせたのですね) 0298:ニクヤ 語呂合わせ電話番号は、ほかにも多数あると思います。 今は、繰り返しますが、電話番号を覚える「必要」が無くなりつつあります。 さて、当時、友人とお互いに電話番号を教えあいました。多くの番号を覚えるのは難しいです。なにか良い語呂合わせが無いかな?と思っていました。私の番号は何の変哲もない 「29-9318」です。 「ニク クサイヤ」 くらいしか思いつきません。「ニク クサイヤ」では、ぱっとしませんし覚えてくれません。 しかし、ひらめいたのです(笑)。 2 9 9318 「ニクイ モチヅキ クサイヤツ」 これなら覚えくれるだろうと思いました。友人に伝えると、 「お前にぴったりだ!」 何がぴったりかよくわかりませんがすぐに覚えてくれました。30数年前に使っていた電話番号を今でも覚えているのはこういう語呂合わせがあったからです(くどい注:別にモチヅキのところがサトウでもスズキでもオオヤマでもシマダコジマでも構わないのですが)。 話は変わります。身近な数字と言えば、車のナンバーでしょうか? 自分で最初に購入した車のナンバーは「445」でした。4月に購入したのに、これでは 「445:シガツニシゴウ」 とあまり縁起が良くない番号です。しかしこの車で事故に遭ったことはありませんでした。 当時、自分で車のナンバーは選べませんでした。ですから、 494:シグヨ 49 :シグ 4949:シグシグ 3931:ミグサイ 3396:サンザンクロウ 9633:クロウサンザン 893 :ヤクザ 等の可哀想なナンバーの車が走っていました。最近はお金を払えば自分で車のナンバーを選ぶことができます。ですから、こういうかわいそうなナンバーを見かけることは少なくなりました。逆に面白い番号を見かけることも多くなりました(付録参照ください)。車のナンバーを覚える必要はほとんどありませんから、これらは趣味の様なモノですね。 今、私が乗っている車のナンバーは 「1269」です。 購入したナンバーです。1269なぜかわかりますでしょうか? 最後に、当クリニックの電話番号を記します。 電話:03-6779-8181 語呂合わせがなかなか無いですね。8181:ハイハイ くらいしか思いつきません。 良い語呂合わせがあったらご教示ください。 付録: 語呂合わせ数字を集めてみました。○とあるのは実在(実際に使われている数字という意味です)が確かめられたモノです。 あまり細かいことは気になさらないで楽しんでください。ほかにもたくさんあると思います。 番号 読み 19 いっきゅう 一休 ○ 23 にっさん 日産 ○ 23 にいさん 兄さん ○ 26 じろう 次郎 二郎 ○ 32 サニー ○ 33 さんさん 燦々 ○ 34 ミヨ 美代さん ○ 35 ミコ 巫女 ○ 36 さぶろう 三郎 ○ 38 ミヤ 宮 ○ 39 サンキュー ○ 44 じじ ○ 48 しば 芝 ○ 49 死ぐ × 51 ごういち 剛一 × 53 ゴミ ゴミ収集 ○ 53 ごみ 五味 ○ 53 ごう 剛さん ○ 55 ゴーゴー ○ 56 ごろー ゴロー ○ 58 ごうや 合屋 ゴーヤ ○ 69 ムック ○ 72 ゴルフ好き ○ 73 オロナミンCの日 ○ 78 なは 那覇 ○ 83 ばあさん 婆さん ○ 86 ハロー ○ 86 はちろく 車 ○ 101 遠井 戸井 土肥 トーイ ○ 103 とうさん 父さん 倒産 ○ 105 とうごう 東郷 ○ 110 いとう 伊東 伊藤 ○ 115 いい子 ○ 118 イイハ 良い歯 歯科医 ○ 141 いしい 石井 ○ 148 いしば 石破 ? 168 いろは いろは坂 ○ 175 イナゴ ○ 178 松本市 稲葉 B'z ○ 178 いなば 稲葉 ○ 193 戦 行くさ ○ 223 ふじさん 富士山 ○ 229 にんにく にんにく屋 ○ 229 ニンニク ○ 271 ふない 船井 ○ 284 にわし 庭師 ○ 310 みと 水戸 ○ 318 車 BMW ○ 319 さいく 細工 ○320 車 BMW ○ 345 ミヨコ ○ 345 さあ死ごう × 369 みろく 弥勒 ○ 385 みやこ 都 ○ 392 ミクニ 三国 ○ 394 ミクシィ × 415 良い子 ○ 418 ヨイハ ヨイハ 歯科医 ○ 439 シミック ○ 471 シナイ 竹刀 ○ 475 よなご 米子 ○ 494 しぐよ ? 497 しぐな 死ぐな × 510 ごとう 後藤 五島 ○ 538 ごみや ○ 564 ころし 殺し × 567 ころな コロナ ○ 573 コナミ 紳士服のコナミ ○ 661 むろい 室井 ○ 696 ロクロ ○ 728 なにわ 浪速 難波 ○ 746 なよろ 名寄 ○ 748 なしや 梨屋 ○ 758 なごや 名古屋 ○ 777 スリーセブン ○ 791 なくい 名久井 ○ 794 なくよ 奈良 ○ 810 やとう 箭頭 ? 810 ハト ハート 鳩 ハート心臓 ○ 814 ハイジ ○ 中外製薬 836 ハンサム ○ 839 はっさく 八朔 ○ 846 はしろう 走ろう ○ 873 はなみ 花見 ○ 875 はなこ 花子 ○ 878 はなや 花屋 ○ 885 ややこ ? 891 はくい 羽咋 ○ 891 白衣 ○ 893 ヤクザ ○ 8910 はくと 白兎海岸 ○ 902 クオーツ ○ 910 工藤 くどう ○ 911 車ポルシェ ○ 962 苦労人 ○ 969 くろっく 時計屋 ○ 1003 とうさん せんみつ × 1008 千葉市 千+八 ○ 1014 といし 砥石 ○ 製品ナンバー 1054 とごし 戸越 ○ 1089 とうはく 東伯町 東博 ○ 1103 良いお産 産婦人科 ○ 1107 いいおんな ○ 11月7日:いい女の日 1109 良い奥さん ○ 1110 川口 ○ 1123 いいにっさん 良い日産 ○ 1126 いい 風呂 ○ 1129 良い肉 肉屋さん ○ 1174 いいなし 良い梨 ○ 1185 いいはこ 良い箱 鎌倉 ○ 1187 いいはな 良い花 ○ 1188 イイパパ 良いパパ ○ 1188 イイハハ 良い母 ○ 1192 いいくに 鎌倉 ○ 1213 胃に胃酸 太田胃散 ○ 1241 いによい 胃に良い ○ 胃腸科電話番号 1269 ヨード原子量 ○ 1484 いしばし 石橋 ○ 1625 弘前市 岩木山の標高 ○ 1867 トヨタ 創業年 ○ 2323 ふさふさ カツラ ○ 2918 にくいや ヴィーガン ○ 2983 つくばさん 筑波山 ○ 2984 つくばし つくば市 ○ 3110 さいとう 斎藤 ○ 3153 さいごう 西郷 ○ 3192 さいのくに 彩の国 ○ 3193 さいぐさ 三枝 ○ 3298 ミニクーパー 車 ○ 3376 富士山 ○ 3564 みごろし 見殺し × 3745 みなしご 孤児 × 3749 みなしぐ みな死ぐ × 3910 さくと さく渡 ○ レストラン電話 4483 じじばあさん ○ 4989 しくはっく 四苦八苦 × 5108 ことば 言葉 ○ 株式会社5108(コトバ) 5296 宮崎県 ○ コブクロ出身地 車のナンバー 5296 コブクロ ○ 5502 ゴーゴー 2人 ○ 車のナンバー 5523 ゴーゴー にっさん 日産 ○ 5963 ごくろうさん ご苦労様 ○ 6480 むしばなし 歯科医 ○ 8020 8020運動 ○ 歯科医 8108 ハトヤ ○ 8814 ぱぱいや パパイヤ ○ 8888 パチパチパチパチ ○ 8929 やくにく 焼き肉屋 ○ 8989 はくばく ○ 9696 くろぐろ 黒々 ○ 2120010 ふいに当番 ○ 36-36 ゴルフ好き ○ 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/06/14 偶然、必然。 さて、前回話題にした井伏鱒二の小説「黒い雨」のことです。「黒い雨」は1989年に映画にもなっています。田中好子さんが主人公を演じました。映画を見た方も多いのでは無いでしょうか。その田中好子さんは残念なことに55歳で乳がんのためにお亡くなりになっています(2011/4/21)。さて、さまざまな言語に翻訳され世界中で読まれている「黒い雨」は盗作だと主張する方々がいます(文献1、2、3、4など)。 今回の主題は、それに関する論考です。 話は逸れます。坂本龍馬の名前を知らない人はあまりいないでしょう。坂本龍馬は元々、あまり有名ではありませんでした。日本史の教科書にも記述は少ないか、書かれていないことも多いのです。 司馬遼太郎が、小説「竜馬が行く」を書かなければ、坂本龍馬は有名にはなっていなかったでしょう。高知空港は「高知竜馬空港」になっていなかったと思います。司馬遼太郎は、幕末を主題にした小説を書くに当たり、考えるところがあり(理由は不明)、それまでほとんど陽が当たっていなかった坂本龍馬について資料を集め、何か感ずるところがありそれを小説にしたのだと思います。 以前「日本で一番《危険な》国宝建築を見に行く」を記した時、私の中学校通学路にあった坂本龍馬の「妻」のお墓の話を紹介しました。残念なことに「竜馬が行く」には、このお墓のことは触れられていません。このことは「捨てた」のです。 しかし、随筆ネタとして「余話として」という随筆集に、「竜馬が行く」には書かなかった「坂本龍馬の妻」にまつわるとても興味深い話を紹介しています。司馬遼太郎がある人物を書こうとすると「神保町からその人物に関する資料が無くなる」という伝説があります。その関係の資料を総ざらい司馬遼太郎が購入してしまうのです。伝説ですから、真実かどうか不明です。でもあり得る話だと思います。吉村昭も司馬遼太郎と同様で書こうとしている人物に関する資料を徹底的に収集することで有名でした。司馬遼太郎、吉村昭などの歴史小説を書く人は「歴史に関する論文」を書いているわけではありません。彼らは収集した資料を基に想像力を駆使し、主人公や周囲の人間に喋らせ(もちろん、作り話です)、主人公が活躍した当時のことを描いているのです。本物の歴史学者からしたら噴飯物かもしれないです。 2020年、明智光秀側からの視点でのNHK大河ドラマが放映されました。これまでの視点とは違いました。ただし、明智光秀側から見た資料は少ないので足りないところは想像で補っていました。明智光秀関係の資料などたくさんあるだろうと思うかもしれませんが、負けた方には資料があまり残っていません。当たり前ですが勝った側の資料はたくさん残っています。もちろん勝った側からの視点で書かれた資料です。 「明智光秀は名君でした」 「明智光秀は織田信長を単純に裏切った訳では無いです」 というようなことは、たとえ事実であったとしても、江戸時代には書けなかったと思います。 要するに何を言いたいかと言うと、歴史小説のほとんどは様々な資料を解読し、そこから得られた「感じ」「着想」を文章にしているのだと思います。一般人は、古文書などの資料を読む機会も、読む能力もありませんが、歴史小説家はそういう資料を集め読み解く能力があり物語を作ります。我々は歴史家の書いたものよりも小説家の書いた歴史小説を通して「坂本龍馬」を知り「戦艦武蔵」を知ることができるのです。それが悪いことだとは思えません。 以上、前振りです(長くて申し訳ない)。 井伏鱒二の「黒い雨」を盗作とする人は「黒い雨」は資料(主に「重松日記」)を書き直しただけだと言って批判しています。しかし、私は小説「黒い雨」は盗作では無いと思います。これが盗作なら、全ての歴史小説は「盗作」になってしまうのではないでしょうか? 井伏自身『黒い雨』を収載した井伏鱒二自選全集第六巻の「覚え書」にこの辺りの事情を書いています。紹介します。解りやすくするために整理改変していますが内容は同一です。 井伏は以下のごとく書いています。 「この作品は小説でない、以下の資料を用いて書いたドキュメントである。」 (1)閑間重松の被爆日記 (2)閑間夫人の戦時中の食糧雑記 (3)岩竹博医師の被爆日記 (4)岩竹医師夫人の看護日記 (5)複数被爆者の体験談 (6)家屋疎開勤労奉仕隊数人の体験談、及び各人の解説 によって書いた。 ※筆者注1:閑間重松(しずましげまつ)と書いてありますが重松静馬(しげまつ しずま)氏のことです。 ※筆者注2:岩竹博医師の被爆日記の正式名称は「広島被爆軍医予備員の記録」です。 としています。「黒い雨」は野間文芸賞を受賞していますが、井伏鱒二は受賞の言葉で、 「私は『黒い雨』で二人の人物の手記その他の記録を扱ったが、取材のとき被爆者の有様を話してくれる人たちに共通していることは、初めのうちは原爆の話をしたがらないことであった。もう一つ共通していることは、話しているうちに実感を蘇らせてくると絶句してぐっと息をつまらせることであった。思い出す阿鼻叫喚の光景に圧倒されるのだ。そのつど私は、ノートを取っている自分を浅ましく思った。 要するにこの作品は新聞の切抜、医者のカルテ、手記、記録、人の噂、速記、参考書、ノート、録音などによって書いたものである。ルポルタージュのようなものだから純粋な小説とは云われない。その点、今度の野間賞を受けるについて少し気にかかる」 と書いています。 つまり、井伏鱒二は黒い雨は作家の創作になる空想小説ではないと自ら記しているのです。これから先は「小説か、小説でないか、はそもそも小説とは何か」という難しい話になってしまいます。小説を全て作家の創造物とするなら、歴史小説は「小説」と言えないことになってしまいます。 猪瀬直樹氏は「黒い雨」の6割以上は「重松日記」のリライトだと断じています(文献2)。 私は「黒い雨」と「重松日記」の両方を読んだのですがどちらも「良い」と思います。重なる部分も多いのですが、井伏鱒二の表現方法は独特です。井伏鱒二ならではの表現方法で原爆の悲劇を伝えています。一方「重松日記」は素人が書いたとは思えないほど、冷静に原爆投下後の広島の現状を書き記しています。どちらも素晴らしいと思います。「重松日記」はあまり知られていませんが是非お読みになることをお勧めします。「重松日記」には井伏鱒二から重松氏への手紙も収載されています。興味深いです。 井伏鱒二は広島県の出身ですが、前回も記したように山梨県と縁があり 1944年(昭和19年)7月に今は甲府市となっている山梨県甲運村(今の石和温泉駅と酒折駅の間)に疎開していましたが、1945年(昭和20年)7月広島県福山市外加茂村の生家へ再疎開しています。そして同年8月6日の広島原爆のことを知ったのでしょう。ただし同じ広島県ですが、福山市と広島市は80kmくらい離れていますから、原爆を直接体験した訳では無いでしょう。 戦後も、井伏は、昭和22年まで福山市に止まっています。この滞在中に重松氏と知り合い江戸時代の広島の資料を提供してもらい後にその資料をもとに小説を書いています。それから井伏氏と重松氏は交流が続いたのです。重松氏は日本繊維株式会社広島工場の社員でしたが、重松氏は広島市で原爆に遭い、その被害を後世に伝えようと思い原爆投下後の広島について詳細な日記を書いていたのです。 「記録すること」の大切さがこういうことでも解りますね。 昭和37年になって重松氏は井伏鱒二に原爆当時のことを詳細に記した日記があることを知らせます。重松氏に提供された江戸時代の広島に関する資料を基に井伏鱒二は小説を書き、小説を書くと掲載誌面を重松氏に送っていたので、それと同様自分の書いた原爆日記が井伏鱒二の手によって小説となり広く原爆の被害が知られるようになることを期待したのではないかと思います。 それから3年、井伏鱒二は「黒い雨」を発表したのです。 小説「黒い雨」は広く読まれ、映画にもなり原爆の悲惨さを世界に広めました。重松日記も後に刊行されました。つまり重松氏の当初の目的は達成されたのだと思います。 私は、それで良いのだと思っています。 【参考文献】 猪瀬直樹「ピカレスク 太宰治伝」 猪瀬 直樹 『黒い雨』と井伏鱒二の深層 http://bungeikan.jp/domestic/detail/88/ 豊田清史「『黒い雨』と『重松日記』」 竹山 哲「現代日本文学『盗作疑惑』の研究」 重松静馬「重松日記」筑摩書房 2001年 重要な余話: 私が尊敬している日本文学者で評論家としても活躍した故「板坂元(いたさかげん)」氏は、猪瀬直樹氏のことを批判しています。板坂氏の筆致は冷静ですが辛辣です。猪瀬氏が都知事になるよりもかなり以前のことです。 板坂元著「人生後半のための知的生活入門(PHP文庫)」より引用します(頁121-122)。 *********** 引用開始 *********** “ある雑誌で「ミカドの肖像」の著者(筆者注:猪瀬直樹)が取材の苦労を語っていた。その苦労した例として「バンザイ」についての調べも語られているが、あの箇所(注:つまりミカドの肖像の中にある「バンザイ」についての記述部分)はほとんど私(筆者注:つまり板坂氏)から電話で聞いたことが書かれているだけだ。30分の電話取材が苦労の中に入るのかどうか。” 中略 “そういうことは気にならないが、私のバンザイ調べは20年になる。” 中略 “私がバンザイを調べているのは「一体何時から、両手を挙げてバンザイ」するようになったかそれを調べているのである。明治30数年頃までの写真錦絵では片手しか挙げていないのである。昔の新聞や雑誌の写真、錦絵を20数年収集して、両手のバンザイが普通になったのは何時からかを調べているのである。バンザイを調べるだけでそれくらいかかる。” *********** 引用終了 *********** 言外に強く「ミカドの肖像」の著者を非難しているのです。これに対する猪瀬氏の反論を読んだり聞いたりしたことがありません。これを読んでから、猪瀬氏の著書や言動に対して私の頭の中では「?」が湧くようになりました。猪瀬氏は、後に東京都知事になりました。その後のことは皆さんご承知の通りです。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/05/31 2020年東京五輪開催日まで、あと残り2ヵ月 2020年東京五輪開催日まで、あと残り2ヵ月となりました。今夏(2021年)2020 東京五輪は開催されるでしょうか? 開催、中止の両方から考えてみましょう。 A. 開催派の言い分 ここまで準備して、五輪を開催しなければ、経済が回らない。 ワクチンを打てば、自然にCOVID-19も収まるだろう。 五輪用の施設は作ってしまった。使わないともったいない。 国立競技場、様々な会場、選手村、etc. なによりこの五輪を目指して頑張って来た選手のことを考えて欲しい。開催しないなら選手がかわいそうである。中止派は簡単に中止というが一生に一度となるであろう「東京五輪」を目指してきた選手のことを考えたら開催した方が良いし、開催すべきである。 PCRを徹底して行うから、COVID-19蔓延を予防できる。 選手、監督、コーチは囲い込む「=バブル方式(泡bubbleの膜で囲むからきている)」ので、感染が拡大することは無い。 B. 中止派の言い分 選手村には10000-15000人も宿泊する。この間、COVID-19発症者がずっとゼロになるとは思えない。もし発症すれば選手村は閉村せざるを得なくなる。その時点で五輪は終了となる(だろう)。選手は希望すればホテルでの滞在が許されている(費用を負担できる選手)。そんな選手をバブル方式で囲い込むことができるのか? 選手村も完全に囲い込むことは不能。ましてやホテルを囲い込むことは不能。 注:Jリーグ、プロ野球など、PCRを定期的に行っている競技で、COVID-19発症者、PCR陽性者がゼロになっていないのを見ればわかる。 外国人選手は選手村に直接来るわけではない。随分前に来て日本各地で合宿する(これは怪しくなっています)が、その際の外国人選手の移動はどうするか? 五輪関係者、五輪取材者のホテルは決められたホテル以外は使用できないと言っているが、非現実的。なお多くの関係者が泊まっているホテルでCOVID-19を発症する方が出ればそのホテルは閉鎖となる(だろう)。そうなると大混乱になる。 五輪開催には多くのボランティアが必要だが、ボランティアの方がCOVID-19に罹患したら、誰が治療費用などを負担するのか?もし、不幸なことが起こったらどうするのか? COVID-19のために選手達は充分な練習ができていない。無理して開催する理由がない。テニス、サッカーなどのプロ選手は五輪に参加しないだろう。五輪に来てCOVID-19にかかれば選手生命が絶たれるかもしれないからである。 食事はどうするのか?さまざまな国からさまざまな宗教を信奉する選手が来る。さまざまな宗教に「禁忌食」がある。それに対処するため、大食堂でのビュッフェ形式の食事提供をすることになったと報じられている。しかし、その食堂で食事をした選手が感染したらどうなるのだろう?その選手と同一時間に食べた選手は濃厚接触者となり隔離されるのだろうか? その選手の動線にいた選手、関係者も濃厚接触者となり隔離されるのだろうか? 濃厚接触者には隔離部屋に「弁当」を朝、昼、晩、に届けることになるのだろうか? 灼熱の東京である。食中毒を警戒し、揚げ物などがメインになるだろう。それで選手は喜ぶか? さまざまな宗教に対応した弁当も必要になるだろう。常識的に考えてこれだけでも、ビュッフェ形式の食事提供は危険だと思う。弁当をすべての部屋に配達するのも難しい。。考えれば考えるほど、大変である。 COVID-19を選手or五輪関係者が発症したら、日本がその費用を負担することになっている。もし入院が必要になったら言葉の問題をどうするのか? 英語はまだしも、仏語、独語、ロシア語、タイ語、スワヒリ語、アラビア語…… 通訳を付けることができるのか? 8万人にも及ぶ「大会関係者」をバブル方式で囲い込めるのか? 7月は高齢者ワクチン接種を行っている時期、そういう時期に医療関係者に負担がかかるかもしれない五輪を行って良いのか? などです。「医療」の面から考えると結論は1つです。 議論は尽きません。五輪はどうなるか?もう少しで結論がでます。どちらに決まってもその判断が「正しかったかかどうか」は10年、20年、50年、100年経ってから「歴史」が判決を下すでしょう。 さて前回より続く1964年五輪ユニフォームの話を続けます。 1964年東京五輪のユニフォームのデザインは 山梨県富士川町広報誌より引用(同町より、掲載許可を得ています) 平成28年 広報ふじかわ 12月号(No.81) 前回でも紹介したこの紅白のブレザーは1964年東京五輪の開会式で選手が着用したユニフォームです。紅白の鮮やかさが印象的です。2020東京五輪に採用された開会式用ユニフォームより上等な気がします。 それも当然です。このユニフォームは、選手1人1人を採寸、しかも上質なウール生地(大同毛織製:現 (株)ダイドーリミテッド))を使ったブレザーだったのです。 このユニフォームは巷間、「ヴァンヂャケット(VAN)」の創業者として有名な石津謙介(1911-2005)作と言われていますが、間違いです。間違った事実が広く伝わってしまった事情は「1964東京五輪ユニフォームの謎 消された歴史と太陽の赤光」(文献5)という本に詳しく書かれています。この本は上質なミステリーの謎解きを読んでいるような気分になりますし、科学論文を読んでいるような感じも受けます。「調べるとは何か」「調べることの面白さ」も学べる素晴らしい本です。 この本の著者の安城寿子氏(アンジョウヒサコ:1977-。服飾史家。阪南大学流通学部専任講師。日本オリンピック・アカデミー会員。学習院大学文学部哲学科卒)は博士(学術)でもあります。同氏の学位論文は「近代日本服飾とモードの関係をめぐる歴史的研究」です。 色々と調べるうちに、服飾史という学問があることを初めて知りました。私は日本の服飾についてほとんど知識がありません。なんとなく平安時代の十二単(じゅうにひとえ)とか、呉服、和服とか洋服とか、単語としては知っていますが、衣服の歴史など全く知りません。少し調べてみました。 「世界最古の服」がナショジオに載っています。5000年前の服です。 世界最古のドレス、5000年前のものと判明(ナショナルジオグラフィック) https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/a/022200011/ 「タルカン・ドレス」と呼ばれています。エジプト・カイロ南側の古代墓「タルカン」で見つかったからです。写真を見ればわかりますが、かなりデザイン性が高いです。今、これを復元しても「普通に売れる」と思います。というか、復元して販売して欲しいです。 なお残念なことに日本最古の「服」は不明でした。 話を戻します。1964年五輪ユニフォームは石津謙介デザインではなく、望月靖之デザインであることに気づいた安城氏は、それを証明するため、広範な資料と取材で反論されないよう緻密な分析をしています。読んでいると驚くような事実が次から次に判明していくので、著者も楽しんでいる?ことが伝わってきます。そういう本はこちらも楽しくなります。良本です。 凄いなと思ったのは石津謙介氏自身が書いた「望月靖之デザインの1964年五輪ユニフォームに対する批判文」を発掘したことです。石津謙介氏はあのブレザーは良くないと批判しているのです。しかし、時が経つにつれあのブレザーの評判が良くなり、石津謙介デザインだと言われるようになると、石津氏自身が「アレは私のデザインではない」と言わなくなったのです。 1964年のブレザーは赤色が際立っています。その赤色を決めるのに、資生堂(口紅を作っているので赤色の見本が2000種以上ある)と日本色彩研究所と大同毛織と望月靖之氏が協議して決めたのです。「朱赤」というのだそうです。これを決めるまでの紆余曲折も興味深いです。単に「赤」と言ってもさまざまなのですね。 注:この安城氏の本を読んで、角田房子(著)「碧素・日本ペニシリン物語(1978年)」を思い出しました。角田氏の本も調べに調べて書かれています。角田氏の本をスタンダードにして他のノンフィクションを読むと「薄い調査による内容が薄い」本が多いことがわかります。もちろん安城寿子氏の本は「合格」です。ノンフィクションを本気で書くなら、科学論文なみの調査が必要だと思います。 余計なことを書きすぎました。 話を「黒い雨」関連の話に戻します。毎夏、終戦記念日が近づくと戦争に関する特集報道があります。昨夏(2020年)の白眉は、NHKスペシャル「忘れられた戦後補償」でした。「普通の空襲で障害を生じた方には、一切その補償は無い。無かったし、今後も無い」。そういう報道でした。空襲で足を失った方のインタビューがありました。 「空襲で足を失ったが、それに対する補償は一切無い」 「補償が出るように交渉もしたが、もう諦めている」 虚を突かれた感じでした。米軍による空襲で、日本各地は大きな被害を受けました。亡くなった方、障害を負った方、たくさんいたと思います。その補償が「ゼロ」だと知らなかったです。かなり可哀想な話です。ドイツ、イタリアは空襲被害者にも補償(どの程度か不明)をしていた(る)と報道されています。 日本では、従軍した軍人、軍属の方、その遺族の方にも年金が支払われ、障害を受けた方には十分とは言えないかもしれませんが、補償を受けることができます。しかし、空襲被害を受けた「一般人」は一切補償が受けられないのです。何か変な話です。戦争はまだ続いていると思いました。 しかし、2021年3月14日「空襲等民間戦災障害者に対する特別給付金の支給等に関する法律案」が国会に提出されるという報道がありました。空襲による障害が認定されたら、その方に「一律50万円」が支払われるという法律です。受けた被害、受けた障害に対して、充分とは思えないです。しかし、障害を受け、さまざまなご苦労をなさってきた方々に少しでも補償の手が差しのばされるのは良いことだと思います。現時点(2021-05-19)で、追加の報道がありません。審議はどうなっているのでしょうか? 空襲で障害を負った方は高齢です。少しでも早く、この法案が成立することを望みます。 私の出身地である甲府市も空襲(1945年7月6日夜から7日にかけて)で一面焼け野原になっています。小説「黒い雨」にも甲府の空襲の事が記されています。 なお、米軍による最後の空襲は1945年8月15日に行われました。8月14日から15日に切り替わって直ぐの夜中、埼玉県熊谷市は地方都市にしてはあり得ないような大空襲を受けています。市街地面積の74%が被災しています。最後だから、ありったけの爆弾、焼夷弾を投下したのでしょうか? 8月15日の空襲は熊谷市だけではありません。他にも秋田県土崎港(つちざきみなと)、群馬県伊勢崎市も「最後の空襲」を受けています。 総務省によると、当時秋田県には油田があり、油の貯留所があった土崎港が狙われて空襲を受けたと推定されています。(秋田市における戦災の状況(秋田県):総務省 )。 伊勢崎市は、中島飛行機の部品供給工場があり、それを狙っての空襲だとされています。総務省や伊勢崎市の資料によると、それぞれの空襲で大きな被害を蒙っていることがわかります。 熊谷空襲:死者234人、負傷者3,000人 土崎港空襲:死者250人、負傷者不明 伊勢崎空襲:死者29人、負傷者154人、8,511人が被災 8月15日正午には昭和天皇による「玉音放送」が全国にラジオで放送され、日本は全面降伏しています。その10時間前に「最後の空襲」を行う意味がわかりません。 さて、前回で触れた⼩説「⿊い⾬」は盗作だとする議論があります。⿊い⾬は元本があるからです。でも私は盗作だとは思いません。というような話は次回で。。。 追補: 8/14-8/15の空襲に関してですが、熊谷、秋田の他にもある事がわかりました。ここに追加します。他にもあるかも知れません。ご教示してくださった方に感謝します。 高崎の空襲 8月14日深夜から15日早朝にかけ、B29により繰り返し行われた焼夷弾爆撃でした。 第56回米軍機による高崎の空襲(高崎市) 小田原の空襲 太平洋戦争の最後の日(8月14日)の夜半から早暁にかけ、当地はアメリカ空軍B29爆撃機による焼夷弾爆撃を受けました。 小田原空襲の碑(総務省) 大阪の空襲 敗戦前日の1945年8月14日に数百人の命が奪われた「京橋駅空襲」の慰霊祭が14日、大阪市城東区のJR京橋駅前で営まれた。読経が続くなか、参列した遺族ら約300人が犠牲者に祈りをささげた。 「あたり一面に死体が横たわっていた」 大阪・京橋駅空襲慰霊祭行われる(矢野宏・新聞うずみ火)(アジアプレス・ネットワーク) 山口県光市の空襲 終戦の前日、山口県の軍需工場に米軍による空襲が加えられ、約130人の学徒動員を含む738人が命を落とした。 ピカッと来たらおしまい-終戦前日に空襲、軍需工場で間一髪…仲間ら犠牲、阪大名誉教授「戦争は人を狂わせる」 広島県岩国市の空襲 8月14日の岩国駅一帯の空襲で500人以上が亡くなった。 あの恐怖 忘れられぬ 岩国空襲70年 終戦前日まで9回標的(中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター) 【参考文献】 井伏鱒二:川釣り(岩波文庫) 井伏鱒二:山椒魚(新潮文庫) 井伏鱒二:黒い雨(新潮文庫) ウルシュラ・スティチェック:「世界で読めるヒロシマとナガサキ」県立広島大学人間文化学部紀要 1 4,105-113(2019) 安城寿子:「1964東京五輪ユニフォームの謎 消された歴史と太陽の赤」(光文社新書) 注:良い本です。よく調べてあります。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/04/26 いささか旧聞に属しますが、2021年2月に「「黒い雨」訴訟控訴審が結審 広島高裁、7月14日判決」(日本経済新聞)との報道がなされました。これは、「2020年夏、「黒い雨訴訟」の広島地方裁判所での判決」(参考:NHK 解説委員室)に対して、国、広島県、広島市が控訴していたのですが、その判決が広島高裁で下されるとの報道です。 一審では原告側の勝訴でした。 終戦から、もう76年です。それでも原爆による被害の問題は続いています。原爆による被害者には、原爆被害者対策がとられています。対象となる方は限られています。 直接被爆者 入市者 救護、死体処理にあたった方 胎児 です。このうち、1.の直接被爆者とされるのは、 広島市内 安佐郡祇園町 安芸郡戸坂村のうち、狐爪木 安芸郡中山村のうち、中、落久保、北平原、西平原、寄田 安芸郡府中町のうち、茂陰北 に在住だった方です。 参考:被爆者とは(厚生労働省) 被爆者援護施策の歴史は複雑です。 参考:被爆者援護施策の歴史(厚生労働省) 様々な施策がなされるなか、1976年には原爆直後に降った「黒い雨」を浴びた地域を「特例区域」としました。この「特例区域」に住んでいた住民は無料で健康診断を受けられるようになり、「がん」など原爆に由来すると思われる特定の病気の医療費は原則無料になる「被爆者健康手帳」が交付されるようになったのです。 この「特例区域」は原爆投下直後(昭和20年9月~12月)に広島管区気象台の技師6名が行った調査に基づいて決められました。この調査により「爆心地から北西に19キロ、幅11キロで大雨が降った」と認定され、大雨が降った地域を「特例区域」に指定したのです。 食糧事情も交通事情も悪い終戦直後、たった6名の気象台技師で、しっかりとした「降雨範囲調査」がなされたとは思えないです。原爆投下から35年も経ってから「大雨」が降った「特例区域」が指定された事情も私にはよくわからないです。 1976年、この「特例区域」が指定された時、その区域外でもザーザーと降る「黒い雨」を浴びたと証言する方々が多数いらっしゃいました。そしてこの区域指定に異を唱えたのです。 広島県、広島市は調査を行い。2008年には以下の図の如く、「大雨」「小雨」「推定降雨地域」を定めました。「大雨」とあるのは「特例区域」と重なります。 黒い雨が降った地域(公益財団法人ニッポンドットコム) 広島県、広島市が黒い雨が降ったのはもっと広範囲だったと推定しても「特例区域」は広がらず「特例区域」以外で黒い雨を浴びた方々に援護の手は差しのばされる事がありませんでした。 それが、2012年に始まる「黒い雨訴訟」に通ずるのです。今も続いています。控訴側には、国はもちろんのこと、なぜか「広島県、広島市」も入っています。この辺りまことに難しいです。 「井伏鱒二」のこと、COVID-19治療に使われている「ECMO」の報道を聞いて… この裁判で井伏鱒二の小説「黒い雨」のことを思い出しました。原爆後に降った「黒い雨」の描写があります。黒い雨を浴びた人達がその後がどうなるかを知っているので読んでいると暗澹たる思いになります。この小説は英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ペルシャ語など22の言語に翻訳され世界中で読まれています(文献4)。映画にもなっています。 「井伏鱒二」のこと、そしてCOVID-19治療に使われている「ECMO」の報道を聞いて、あることを思い出しました。「原爆」とは全く関係の無いことです。 ある病院で働いていた時、人工肺を作っている会社の方が新型人工肺の説明に来られました。 心臓の手術をする時、人工心肺という「一時的に心臓と肺の代用をする」機械を使います。その機械に人工肺を使います。人工肺は、静脈血に酸素を付加する装置です。COVID-19重症例治療でも使われているECMOにも人工肺は使われています。右房にもどってくる静脈血に酸素を添加するのがECMOの役割です。 話を戻します。新型人工肺の説明が終わり雑談となりました。説明に来た方の苗字は「依田」でした。「依田」という名前は山梨県の南部にある「富士川町(旧鰍沢町、増穂町)や下部町」に多い名前です。ちなみに私の「望月」という名前も同じ地域に多いのです。もしやと思い、 望月 「依田さんは山梨県出身ですか?」 依田さん「そうです」 望月 「山梨の南の方ですか?」 依田さん「そうです。よくわかりますね。そうか、望月先生も山梨南部の出身ですか?」 望月 「私は甲府生まれですが、祖父の出身は鰍沢町(今は富士川町)です。依田さんはどちらですか?」 依田さん「下部町です」 望月 「依田さんの実家は床屋さんですか?」 依田さん「えええええええ! 確かに実家は床屋ですが、そんなことがなぜ解るのですか?」 望月 「え! 本当に床屋さん? 私が知っている下部町の依田さんは床屋さんしかいないのです。もしかして、お父さんは釣り好きでは?そして床屋さんの屋号は【ヤマメ床】と言うのでは?」 依田さん「参ったなあ、その通りです」 望月 「井伏鱒二のヤマメ床でしょう(笑)。当たりですね。井伏が描写しているヤマメ床の主人の風体と依田さんが似ているから、当てずっぽうに言っただけです」 依田さん「今は、兄がヤマメ床を継いでいます」 昭和43年1月号「俳句」(角川書店)に載っている井伏鱒二が書いた「飯田龍太の釣り」から引用します。 「ヤマメ床といふのは、ヤマメ釣りの上手な床屋である。三十年前、私はヤマメ釣りをはじめた頃、この床屋さんから釣り方を教はつた。私のヤマメ釣の師匠である。釣の技術が堂に入っている。川面を流れていく木の葉をねらって振り込むと、その葉の上に餌が乗っている。それほどの技術を持っている」 とあります。「ヤマメ床」は井伏鱒二の命名です。井伏鱒二の「川釣り」などにもヤマメ床のことが書かれています。 井伏鱒二の小説「山椒魚」が教科書に載っていた(る)ので「山椒魚」をきっかけにしてその著作を読んだ方も多いのではないかと思います。井伏鱒二は戦争中、山梨県の石和(当時温泉は出ていない)に疎開しています。太宰治に甲府の石原家のお嬢さんを紹介、太宰はその方と結婚しています。山梨在住の飯田龍太と交流が深く、戦後も度々山梨を訪れていることなどから、甲府出身の私には身近に感じられたこともあり、井伏鱒二の本はよく読みました。 ちなみに、前回ご紹介した朝日俳壇ですが、拙句が載った同じ日に 「岩魚釣る 鱒二龍太の よき日かな」 加田 怜 という俳句が載っていました。良い俳句ですね。井伏鱒二と山梨在住の俳人飯田龍太が岩魚釣りを楽しんでいる風景が浮かんできます。「黒い雨訴訟」や「ECMO」のことを聞いて、色々なことを思い出しました。 広島、長崎の原爆資料館を見学すると胸が塞がる思いがします。1959年、キューバ革命の英雄「チェゲバラ」は広島を訪問しています。原爆資料館や原爆病院を訪問しています。ゲバラは「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」と言ったと報道されています。医師でもあったチェゲバラは広島市の原爆資料館、原爆病院を見て、何か感じることがあったのではないでしょうか? 毎年8月になると広島,長崎で原爆による犠牲者の慰霊ために平和祈念式典が執り行われます。2016年、オバマ大統領が広島の平和式典に来たのは記憶に新しいですね。アメリカの現職大統領が広島に来るとは思いもよりませんでした。オバマ大統領が広島で献花した後、原爆被害者の手を握り、肩を抱き寄せて慰めていた姿は感動的でした。 それはともかく、なぜ一般市民が生活する市街地(広島、長崎)に原爆を落とさなければならなかったのか、全く納得できません。オバマ大統領も原爆投下について謝罪したわけではありません。米国では「原爆投下は戦争終結のために必要不可欠だった」と言われていますが、納得できる話ではありません。 さて、話は変わります。今夏 2020 東京五輪は開催されるでしょうか? 平成28年 広報ふじかわ 12月号(No.81) 山梨県富士川町の広報より 上に示す赤いブレザーは1964年東京五輪の選手ユニフォームです。今のブレザーよりも格好いいと思います。 「このブレザーがなぜ『山梨県富士川町』の広報に載っているか」などを紹介したいと思います。次回に続きます。 【参考文献】 井伏鱒二「黒い雨」(新潮文庫) ウルシュラ・スティチェック「世界で読めるヒロシマとナガサキ」県立広島大学人間文化学部紀要 14、105-113(2019) 井伏鱒二「遙拝隊長・本日休診」(新潮文庫) 原爆とは関係無いですが、戦争文学の名作だと思っています。 井伏鱒二「川釣り」(岩波文庫) ヤマメ床の記載があります。 井伏鱒二「山椒魚」(新潮文庫) こちらもヤマメ床の記載があります。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/03/08 葉書が余ったので投句してみたら 新型コロナウイルス感染症に対するワクチン接種が始まりました(2021-02-01~)。世界中でさまざまなタイプのワクチン接種が行われ、感染が少しずつ収まっているように感じます。しかし、感染力の強い変異株が出現しています。まだまだ、警戒が必要です。 余談です。いささか旧聞に属する話です。私の作った俳句が2020年8月2日、朝日新聞の「朝日俳壇」に載りました。良い経験をしました。元々、私は俳句を趣味にしている訳ではありません。それがなぜか載ってしまったのです。 経緯を紹介します。父(94歳)は俳句を時々作っています。「朝日俳壇」に載せたいと常々言っていました。それで、父が最近作った俳句を朝日新聞の「俳壇」に投稿してみました。 投句は1枚の葉書に一個の俳句を書きます。父の俳句を3つ書いたところで葉書が余ったので、記念に自分も投句してみました。私は初めてです。 投句したことなどすっかり忘れていたのですが、ある朝通勤途中、携帯電話に朝日新聞社から電話がありました。私の作った俳句が来週の朝日俳壇に載ることが決まったとの連絡でした。投句した俳句に「匂い立つ」という表現があるがそれを旧仮名遣いに改め「匂ひ立つ」として良いかという電話でした。勿論「応」です。残念なことに父の俳句は載りませんでした。載った句を紹介します。うれしいことに選評もありました。 「匂ひ立つ 若さの印 濡れ浴衣」です。選評には「濡れて体が透けんばかり」とあります。 作った場所は足利市です。作った日も解っています。足利花火(かなり有名です、市の中心を流れる渡良瀬川の河川敷で打ち上げるので人気があります)を見に行った時に作った俳句です。この時、花火開始とほぼ同時に猛烈な勢いで雷雨が降り始めました。花火は中止だと思いました。しかし、花火は中止になりませんでした。2時間かけて打ち上げる予定の花火を、雷雨のために、1時間で全ての花火を打ち上げることになったのです。 猛雨でも花火を打ち上げることができると、その時初めて知りました。雷に加えて花火の音も光も凄かったのです。普通の人は雷雨に逃げ惑っていました。私も右往左往していました。しかし、周りにいた浴衣姿の若者はずぶ濡れになりながらも「キャーキャー」騒ぎながら花火を楽しんでいました。ああ,こういうのが「若さの印」なんだなあと思って作った俳句です。 ありがたいことに、色々な感想をいただきました。 私と同じような情景を思った方 夏祭りで御神輿を担いだりして汗をかいている情景を思い描いた方 取り組み後の相撲取りの浴衣を思い起こした方(この句が載った時、相撲が開催されていたからでしょう) 小さな子供達の水あそびの情景を思い起こした方 選者の如く、艶っぽい情景を思い起こした方 色々でした。 「天地わたるブログ」という俳句を選評するブログでも取り上げていただきました。このブログは、朝日俳壇に載った俳句の選評をしています。お二人で選評をなさっているようです。 ***********引用開始*********** ○祭に参加している若い人でしょう。汗か水をかけられて浴衣が濡れて肌が透けて見える。若さいっぱいでいいです。 ●男でも女でもいいですがぼくは「印」を言わないでほしいんです。こういうだめ押しは俳句を薄くしてしまいます。 ○抑制したほうが奥行が出るのですね。 ***********引用終了*********** 俳句、なかなか、むずかしいですね。 俳句は5-7-5 合わせて17文字しかありません。それゆえに表現が限られ、読者によって色々な想像をかき立てるところに「妙味」があるのでしょう。大学時代、同じ下宿だった農学部出身の同級生M君が大阪の朝日新聞で記者をしているので、久しぶりに電話をかけて朝日俳壇について詳しく聞いてみました。彼曰く、 毎日1000通の投句がある 週に一度選句をする 7000通近い葉書を選者4名で読んで、40個の俳句を選ぶ 選者が同じ句を選ぶこともあるので40句未満しか、作品が載らないこともある いずれにせよ、150倍以上の競争率だ 最近は俳句を添削する人気番組がある(「プレバト!!@TBS」?)。今はちょっとした俳句ブームになっている。 手前味噌だが、我が社の「朝日俳壇」は人気が高い。何より歴史がある。 初投稿で載ったのは奇跡に近い。今後も頑張って投句してください。 ということでした。 こういう事情を少しでも知っていれば多分、投句しなかったと思います。要するに私の俳句が朝日俳壇に載ったのは典型的な「ビギナーズラック」だったのです。 投句方法を紹介しましょう。簡単です。葉書1枚に一句を書いて投稿するのです。葉書代1枚63円の楽しみです。色々な人にもっと句作をしてみたらどうかと言われています。いつか詩心が湧くような情景に出会ったら、俳句を作り投句してみます。ちなみに俳句が掲載された後、朝日俳壇から10枚の葉書が送られてきました。これを使って投句しようと思います。 「拙句載る 新聞来たり 目が覚める 朝顔もまた 目が覚める朝」 という短歌を作りました。冴えないですね。 俳句と言えば、松尾芭蕉です。奥の細道を読み返してみました。 「草の戸も 住み替わる代ぞ ひなの家」 「行春や 鳥なき魚の 目はなみだ」千住 「あらたふと 青葉若葉の 日の光」日光 「暫時(しばらく)は 滝に籠るや 夏(げ)の初(はじめ)」日光の裏見の滝 「夏山に 足駄を拝む 首途(かどで)哉」黒羽 「木啄も 庵(いほ)をやぶらず 夏木立」黒羽 「野を横に 馬牽(ひき)むけよ ほととぎす」殺生石 「田一枚 植えて立去る 柳かな」黒羽 「風流の 初やおくの 田植うた」須賀川 「世の人の見付ぬ花や軒の栗」須賀川 「早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺(ずり)」しのぶの里 「笈(おひ)も太刀も 五月にかざれ 紙上り」 「笠島は いづこ五月の ぬかり道」笠島 「桜より 松は二木(ふたき)を 三月越シ(みつきごし)」武隈 「あやめ草(ぐさ) 足にむすばん わらじの緒」宮城野 「夏草や 兵どもが 夢の跡」平泉 「五月雨を 降りのこしてや 光堂」中尊寺 「蚤しらみ 馬の尿する 枕もと」尿前(しとまえ)の関 「涼しさを 我が宿にして ねまるなり」尾花沢 「這ひ出でよ かひがや下の ひきの声」尾花沢 「熱き日を 海にいれたり 最上川」酒田 「まゆはきを俤にして紅粉の花」尾花沢 「閑さや岩にしみ入る蝉の声」山寺 山形県 みな良いですね。情景が浮かんできます。芭蕉の時代、日光も中尊寺も、尾花沢も、「圧倒されるような風景」があったと思います。今は、テレビ、書物、etc.で行く前に想像が付いてしまいます。それでも、行ってみないとわからないことはたくさんあり、行けば詩情がわくのかもしれないです。 なにより、芭蕉の時代はどこに行っても静寂だったと思います。特に山形県にある山寺は静かだったのでしょう。今は違います。多くの観光客で賑わい、場所によっては場違いな音楽を流したりして風情がありません。 酔狂なことですが、私は雪の降る最中に山寺を登ったことがあります。数人しか登っていませんでした。極めて静かでした。芭蕉の時代もかくやと思えるほど静かでした。なお、登るのには特別な長靴が必要です。登り口で貸してくれました。途中、かなり雪が降り始めたので、山寺から見えたであろう冬景色は見えませんでした。残念でした。 閑話休題 俳句とか短歌は、日本の定型詩です。定型詩ですが、中国には五言絶句、五言律詩、七言絶句、七言律詩などの定型詩があります。 「夏草や 兵どもが 夢の跡」の元歌は杜甫(712-770) 『春望』です。五言律詩です。見事な作品です。 国破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心 烽火連三月 家書抵万金 白頭掻短 渾欲不勝簪 日本も中国も 「五」「七」という素数を使っています。中国は「字数」、日本は「音数」で、違いがあります。しかし、どちらも素数であることに違いはありません。そこに何か意味があるのかもしれないと考えていますが、上手く説明する方法がありません。 俳句は、5-7-5=17 和歌は、5-7-5-7-7=31 5、7、17、31、すべて素数です。偶然でしょうか? 俳句、和歌、短歌は素数の文学と言えるかもしれないですね。 それはともかく、俳句に多少興味を持つようになり、句作の本などを買い求めましたが、なかなか思うように俳句を作ることはできません。俳句には「5-7-5」のほかにも幾つかの約束事があるからです。 「季語が必要」で私の思考は止まってしまいます。日本は南北に長く、北海道と沖縄では気候がだいぶ違います。それを一括りにして「季語」と言われても、なんとなく腑に落ちません。というようなことを考えていると、先に進めません。 俳句でも、季語や文字数にとらわれない「自由律俳句」もあります。これが俳句?と言われても、というような「俳句」もあります。 「どうしようもない私が歩いてゐる」 「まっすぐな道でさみしい」 「分け入っても 分け入っても 青い山」 以上、 種田山頭火 「渚白い足出し」 「貧乏して植木鉢並べて居る」 「咳をしても一人」 以上、尾崎放哉 などが有名です。結核で死にそうになっても「一人」だった放哉の死ぬ間際の情景が浮かびます。昨年の朝日俳壇に 「咳をしたら人目」 という句が載っていました。勿論、放哉の歌を真似たのでしょう。 今は 「咳をしたら一人」 になります。 早く、COVID-19が収まって欲しいです。収まれば、あちこちに出かけて句作ができるかもしれないです。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/02/01 この歌に現れているのは 前回より続きます。数年前のことです。古本屋さんで「慈恵医大の創始者、日本最初の医学博士、高木兼寬」と紹介されていた「めくり(注:紙だけ、表具なし)」が展示されていました。それには高木兼寬先生が書いた和歌が流麗な書体で書かれていました。幸い所持した金額で買えるくらいの値段でしたので購入しました(写真)。 このような感じで和紙に書かれた「書」が丸まって輪ゴムで閉じられていました。 この中に入っていた「書」を広げると、前回でも紹介した「書」が入っていましたが、なんて書いてあるのか良くわかりません。「なんとかの上」くらいは読めます。たまたま、私の患者さんに「骨董」や「書」に詳しい方がいらっしゃりこの和歌を解読して頂きました。 左が「書」、右は解読して頂いたものです。「謹書」とあるから高木先生本人の歌ではなく高木先生の上司か皇室の方が詠んだ歌を筆写したのだろうとのことでした。 この書について、その患者さんと知り合いだった栃木県足利市にある日本料理屋さん「文楽」の御主人岡田さんが色々と調べてくださいました。 その結果「明治天皇御集 明治神宮編纂(昭和39年刊)」の中にこの和歌が載っていることがわかりました。明治天皇陛下が明治37年に詠んだ和歌だったのです。明治天皇陛下は、その生涯で約10万首(正確には9万3032首)の和歌を作っています。そのうちの1つだったのです。 何回か声に出して読んでいるうちに、この歌の中に高木(たかき)兼寛先生の名前である「たかき」が入っていることに気づきました。 話は逸れます。 日清日露戦争による脚気による死者数を紹介します。高木先生が行った食事指導の結果は明らかでした。 日清戦争(明治27-8年)において ・陸軍:脚気による病死者4000名 ・海軍:脚気による死亡者 0名 日露戦争(明治37-8年) において ・陸軍:脚気による病死者27800名(注:戦病死者9400名、戦病死者とは「戦闘による死者」) ・海軍:脚気による死亡者は数名 結果は明らかだったのです。海軍は「麦飯」を食べ、陸軍は「白米」を食べていたのです。洋食ではなくて麦飯?と思う方も多いかもしれません。洋食は当時の兵隊さんに嫌われました。洋食だと費用もかかります。洋食から麦飯を主とした食事でも脚気に効果があることがわかり、高木先生は海軍の兵食は麦飯を基本としたモノに変更していたのです。 海軍、陸軍、医学界で論争が起きていました。陸軍、東大は脚気の原因は「脚気菌」であり、脚気菌に罹患して発症すると主張、高木兼寬の兵食改善には「学理がない」と糾弾します。日清日露戦争で明らかに結果が出ていても、森鷗外一派は白米に固執していたのです。酷い話です。 日本各地に少しだけ残っている日露戦争戦没者の忠魂碑の1つです。このような忠魂碑は軍国主義の象徴だとして太平洋戦争後、GHQの指示で多くが廃棄されましたが、少し残っているのです。 裏には戦没者の名前が記されています。時が経ち、名前もよくわかりません。 よく見ると戦没者のほとんどが陸軍の若い兵士です。一番身分の低い「陸軍二等卒」の方がほとんどです。この死者の7割は、海軍にいたなら死ななかった、「脚気」による死者です。それを思うと本当にかわいそうです。病気の診断、治療がいかに大切か、わかります。 和歌の話に戻ります。 この和歌が詠まれた翌年の明治38年に高木(たかき)先生は男爵になっています。 様々な資料から察するに、高木先生の食事指導で海軍での脚気死亡者が激減した事を明治天皇はよく知っていたと思われます(文献10.11.)など。 私は明治天皇が高木先生のことをどう思っていたか、それがこの歌に現れていると私は思うのです。 明治天皇は「たかき」を入れた和歌を作り高木兼寛先生を褒め称えるだけでなく、 《高木を見習え》 と言っているのではないかと思うようになりました。 「雲の上に立ち栄えたる山松の高きにならへ人の心も」という和歌は、 「雲の上に立ち栄えたる様な業績を残した高木(たかき)を見習おうよ」 という寓意をこめて、明治天皇陛下が高木兼寛先生のみならず、陸軍に向かって詠んだ和歌ではないかと思うようになったのです。 吉村昭著「白い航跡」や松田誠先生の高木兼寬先生に関する著書、論文にもこの歌は紹介されていません。松田誠先生にこの書をお目にかけましたがこの和歌は知られていないそうです。明治天皇陛下が直接高木先生を褒め称えた言葉は残っていませんが、この和歌を見れば明治天皇陛下の高木兼寬先生に対する思いがわかるのではないかと思っています。 推測を裏付ける強力な傍証 その後、この和歌が高木兼寬先生に向けられているという私の推測を裏付ける強力な傍証を入手しました。それは実物を見ないと誰も信じてくれない様な「本」です。 色々と調べると、明治天皇陛下は、生前、御自身の和歌が外に漏れることを禁じていたことが解りました。明治天皇陛下の和歌を添削、指導していた高崎正風(歌人、侍従、元薩摩藩士)が時々明治天皇陛下の和歌を新聞などに漏らすことがありそのたびに高崎は明治天皇陛下に叱責されていたそうです(文献1.2.)。 そういうことを知るにつけ、「雲の上~」の和歌も高木兼寛先生向けて作ったなどとは公表されなかったと思います。私は高木先生が「書」にして残しているくらいだから、この和歌は高木先生を褒め称えて作られたのだろうと思っていました。しかし、その私の仮説を確かめる「強力な傍証」を入手したのです。 明治天皇陛下崩御後「明治天皇御集」が編纂され、この中には明治天皇陛下が詠んだ歌の中から1687首が選ばれて出版されました。前回、今回で紹介している「雲の上~」の和歌も掲載されています。この御集で初めて一般人が明治天皇陛下の和歌を知ったのです。その後も明治天皇陛下の和歌は度々出版されています(文献3-8など)。色々な団体、色々な方が10万首の中から良いと思う和歌を選んで出版しているのです。たくさんあります。今でも明治神宮に行くと明治天皇陛下の和歌集(御製集)を購入することができます。 これまでに出版された明治天皇陛下の御製集の中で多分1番読まれたのが明治天皇陛下に殉じた乃木希典を顕彰する「乃木講」の方達が出版した「明治天皇御製百首」だと思います(写真1、この御集は大正6年が初版ですが、昭和7年事典で212版も版を重ねていたことがわかっています。参考文献8)。 私は偶然、「高木兼寛先生が所有」していた乃木講が編んだ「明治天皇御製百首」を入手しました(写真2)。ワイシャツの胸ポケットに入れられるくらいの小さな本です。 写真2には、「東京麻布東鳥居坂 男爵 高木兼寛」の印が押してあります。 高木先生は、鳥居坂に住んでいました。この中の7頁に「雲の上~たかきにならへ~」の和歌が載っています(写真3)。これをもってこの和歌が、明治天皇陛下から高木先生に向けられた和歌だと確実な証明はできませんが、強力な傍証になると思います。これを見つけた時、大げさで無く、感動というか手が震えました。 「明治天皇陛下が高木兼寛先生を褒め称えた(かもしれない)和歌」を紹介させていただきました。いつか「脚気論争」のこと、資生堂と高木兼寬先生の関係なども紹介したいと思います。 【参考文献】 井上通泰『明治天皇御集編纂ニ就テ』教化団体連合会(内務省社会局内)、1927年 打越孝明「明治天皇崩御と御製(上) (下)」『明治聖徳記念学会紀要』第25巻-26巻-、1998年 明治天皇『明治天皇御集 上中下』臨時編纂部編、宮内省、1920年 明治天皇御製謹話(1938年)千葉胤明、明治天皇 明治天皇御集 明治神宮編纂(1964年) わが仰ぎまつる明治天皇御製(1980年)明治神宮、明治神宮崇敬会 やまと心: 明治天皇御製謹註(復刻版・注釈付)佐佐木信綱、 水垣久 明治天皇御製百首 大正六年 乃木講元 刊 乃木講元が出版した御製集は手軽に持ち運べるように工夫されています。タバコと同じくらいの大きさです。高木兼寛先生の所蔵していた御製集は初版です。同書は、延々と版を重ね昭和7年には212版になっています。乃木将軍を信奉する人(主に軍人)の愛読書の1つだったのでしょう。 中山和彦:東京慈恵会の成立を探る―それを支えた慈恵・維新の志士達― 慈恵医大誌2012;127:179-202 吉村昭著「白い航跡」(講談社文庫) 松田誠著「高木兼寬伝」(講談社) 注1:御製:天皇や皇族が詠んだ詩歌、文書 注2::御集:御製を集めた本 注3:この和歌は、高木兼寛先生のことは別にしても、明治天皇陛下の作られた和歌の中でも特に素晴らしいとして様々な本で紹介されています。 「教育勅語と御製」亘理章三郎(著)、「公教育再生」 八木秀次(著)など 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/01/18 今から150年前、日本人が苦しんでいた病気とは? 新年あけましておめでとうございます。昨年末、私共のクリニックは入居していたビルの解体に伴い、一時閉鎖しました。以前の場所から50mくらい離れている場所で2021年1月12日(火)にクリニックを再開しました。今後ともどうかよろしくお願いいたします。 さて、現時点(2021-01-06)で、COVID-19(通称:新型コロナウイルス感染症)は収束の見込みが全く立っていません。COVID-19はどうしたら予防できるか、どういう治療が良いか、全く解っていません。「これだ!」という決定打がありません。 感染症ではありませんが、今から150年も前、日本人が苦しんでいた病気があります。それは「脚気(かっけ)」です。 脚気は「江戸患い」とも言われていました。田舎から江戸に来ると脚気になったからです(注:参照のこと)。COVID-19の原因はSARS-CoV-2というウイルスが原因だと解っていますが、もし解らなかったらCOVID-19は東京に多いので「東京患い」などと言われていた可能性もあります。 さて、その脚気の予防法、治療法を世界で初めて発見し、それを英国の一流医学雑誌に発表した日本人医師がいます。その医師の名前は高木兼寬です。今回、次回はその高木先生にまつわる話です。 南極に「高木岬=Takaki Promontory」という岬があります。日本人が勝手につけた訳ではありません。英国人が日本人医師「高木(Takaki)」に因んでつけてくれたのです。 「高木」は東京慈恵会医科大学の創始者「高木兼寬」先生に由来します。高木兼寬の名は一般にはあまり知られていません。しかし、世界の栄養学者やEBM(Evidence-Based Medicine)研究者で「Takaki」の名を知らない人はいません。 それは高木先生が今日の栄養学の元とも、EBMの元ともなった研究論文を今から100年以上前に「LANCET」に論文を載せたからです。その論文は世界中に広まり、医学の歴史に燦然と輝いています。それが「高木岬」につながります。 高木兼寬は「たかきかねひろ」と読みます。「たかぎ」と呼ぶ方がいます。間違いです。少しだけ寄り道をします。 図1 BARON TAKAKI 著 図1は 1906年(明治39年)5月19日号のLANCETに掲載されている高木兼寬先生の論文冒頭です。ここにBARON TAKAKIと記してあります。「TAKAKI たかき」と御自身で書いています。TAKAKIの横に「F.R.C.S. Eng.」とあります。この意味は後述します。なお、この論文ですが、タイトルは 「The preservation of health amongst the personnel of the Japanese navy and army. 」 日本語に訳すなら「日本の海軍・陸軍の兵士の健康保持法」でしょうか? The Lancet 1906年の5月19日号、5月26日号、6月2日号に Lecture I、II、IIIとして連載されています。 話はさらに横に逸れます。名前は音読みにすることで敬意や親しみが増すことが多いようです。有名な方ほど音読みにされる傾向があります。勿論、全例ではありません。 音読みすると違和感を覚えるような名前は音読みされないでしょう。私の名前は「吉彦」です。訓読みでは“よしひこ”ですが、音読みなら吉は「きち」彦は「げん」なので“きちげん”です。それでは困ります。 音読みが本名よりも広まっている例を少しだけお示ししましょう。 松本清張(本名:まつもときよはる→まつもとせいちょう) 開高健(本名:かいこうたけし→かいこうけん) 福田恆存(本名:ふくだつねあり→ふくだこうそん) 安部公房(本名:あべきみふさ→あべこうぼう) 原敬(本名:はらたかし→はらけい) 菊池寛(本名:きくちひろし→きくちかん) 木戸孝允(本名:きどたかよし→きどこういん) など多数あります。 高木兼寬も同様です。本名は「たかきかねひろ」ですが、「たかきけんかん」と呼称されることも多いのです。話を戻します。 日本の「医学、科学、社会」に、そして世界の「医学」に大きな足跡を残す 皆さんは 「病気を診ずして 病人を診よ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?これは高木先生の言葉です。病気の診断や治療というと「病気」だけを診ることに注力しがちですが、高木先生は「病人を診よ」と言っています。医療の本質を突く深い意味を持つ良い言葉だと思います。しかし、「病人を診よ」は「言うは易く行うは難し」です。しかしこの言葉を胸に医業をなすべきだと思っています。 高木兼寬先生は日本の「医学、科学、社会」に、そして世界の「医学」に大きな足跡を残しました。その一端を紹介します。順不同です。 1.高木先生は日本の医学博士第一号の一人です。1888年(明治21年)5月7日、医学博士号を授与されています。同日、池田謙斎、橋本綱常、三宅秀、大澤謙二の4名も医学博士号を授与されています。全員、医学博士第一号です。 2.高木先生は海軍軍医として「脚気を日本海軍からほぼ根絶」することに成功し、その功により、海軍軍医総監になっています。 3.現代医学の主流となっている「根拠に基づく医療=EBM(Evidence-Based Medicine)」の世界の先駆けとなる臨床試験を行って、その結果を上述のLANCET誌に投稿しています。 4.「軍艦の兵食を、米を主体とした和食から洋食に変更したら脚気が激減した」というのがLANCET誌に掲載された論文の要旨です。「食事で病気が治る可能性」を実証し、きちんとした論文にしたのは高木先生が世界で初めて成したことです。高木先生以前にもビタミンC欠乏で生じる壊血病は果物を食べれば予防され、あるいは治ることは経験的に知られていました。しかし食事の「臨床試験」を長期に亘って行い、医学論文、それも英語で論文にしたのは高木先生が世界初です。 5.日本で最初の「看護学校」を明治18年に創設しています。「慈恵看護専門学校」です。現代まで続いています。高木先生の留学先のセントトーマス病院にはナイチンゲールがいました。二人が接触した記録はありませんが、セントトーマス病院でナイチンゲールが創始した「看護」を実際に見聞きした経験は大きかったと思います。多分、同病院での看護を見て看護学校を作ったのだと思います。ちなみに2番目の看護学校は同志社大学の創設者新島襄が創設した「京都看病婦学校」です。こちらは廃校になってしまいました。 6.高木先生は、セントトーマス病院に留学中(1875-1880)、勉学に優れていたので同病院から13回も表彰され、さらにF.R.C.S. (Fellow of the Royal College of Surgeons:王立外科医師会会員) にもなっています。今でもF.R.C.S.となることは簡単ではありません。今から、140年以上も前に日本から留学した高木先生が英語を勉強しつつ医学を勉強、英国人医学生でもなかなかなれない「F.R.C.S.」になったのです。上述の論文にもBARON TAKAKIの後に「F.R.C.S.」とあります。これが記されていることで解る人(欧米系医師)には高木の優秀さが解るのです。 7.冒頭に記した様に南極に高木先生の名前を冠した岬があります。 英国の南極地名委員会(United Kingdom Antarctic Place-names Committee、UK-APC)が南極の岬や氷河に、ビタミンの研究に多大な寄与をした人の名前を冠しました。1952年のことです。 「エイクマン岬(Point)」 「ホプキンス氷河」 「フンク氷河(Glacier)」 「マッカラム峰(Peak)」 と並んで「高木兼寬」の名を冠した 「高木岬(Takaki Promontory)」 があります。日本人が頼んで命名した訳ではありません。英国の南極地名委員会が命名してくれたのです。 エイクマンとホプキンスはビタミンの発見により、1929年のノーベル生理医学賞を受賞しています。そういう世界的に有名な栄養学者と並んで高木(TAKAKI)の名前もあるのです。日本人として誇らしく、嬉しいことです。高木先生はビタミン発見の元となった論文を書いていたから、このビタミン地名に選ばれたのです。 なお、大変厳しいことを書きますが、高木先生は、和食を洋食にすることでタンパク質摂取量があがり、それで脚気を予防、治療できると論じていますが、これは間違いです。洋食では「野菜」を摂ること、白米を食しないことが肝心な点だったのです。 だからといって高木先生の論文の価値が減じることはありません。なにより、脚気は食事を変えることで「予防できる、発病しても治療できる」ことを示した業績の価値は「高い」のです。 「高木岬」と「久野岬」(日本生理学会) http://physiology.jp/wp-content/uploads/2014/01/071040157.pdf 8.ナイチンゲール型病棟を日本に初めて作っています。今の病院形態(ナースステーションがあり、そこから病棟を見渡せる形)の原型です。セントトーマス病院の病棟(ナイチンゲール設計)を模したのでしょう。 9.福澤諭吉の弟子だった松山棟庵(まつやまとうあん)と共に民間医学団体「成医会」を創設しました。この団体は「患者を研究対象としてみる医風から、患者を人間とみる医療を研究する」ことが目的に結成されました。今から考えると、このような考えは当然の話ですが、当時としては画期的でした。「成医会」は医学校になり、それが東京慈恵会医科大学に発展します。下に銀座にある「成医会」発祥の地の碑を示します。「成医会講習所跡」と記されています。 銀座にある(中央四丁目) 「成医会」発祥の地を示す碑 表は英文ですが、裏には「明治十四年男爵高木兼寛英国医学教授ノ目的ヲモッテコノ地ニ成医会講習所ヲ開設ス コレ東京慈恵会医科大学ノ濫觴ナリ.創立百年ヲ記念シコノ碑ヲ建ツ. 昭和五十五年五月一日 第七代学長 名取禮ニ」とあります。 余談になりますが明治初期、松山棟庵の先生だった福澤諭吉は「慶応医学舎(1873年 - 1880年)」を設立し医者を養成していました。福澤諭吉は大阪の「適塾」出身です。適塾は蘭学の塾です。その出身者で医師になった方も多いのです(大村益次郎、佐野常民、手塚良仙(手塚治虫の曾祖父)、長与専斎など)。福澤は生来「血を見るのが嫌い」で医学の道に進みませんでした。慶應義塾の創生期に私立の医学校としては日本初の慶応医学舎を作ったのは、福澤も医学に関心があったからだと思います。慶応医学舎は閉校しましたが、それから40年後、北里柴三郎を医学部長をとしての慶應義塾大学医学部が作られました。「再出発」ですね。この辺りは文献9(次回に文献を示します)を参照ください。 10.前述の如く、高木先生は脚気が洋食で予防できることを論文に書いて発表、実際、海軍の食事改革をして海軍から脚気をなくしています。 しかし、何が面白くなかったのか、「高木の論には学理がない」と陸軍の軍医でもあった森鷗外は糾弾しはじめました。小説家でもあった森鷗外は華麗、流麗、説得力のある?文章で高木先生の事を攻撃したのです。 「脚気は食事で予防できる。脚気は食事を代えることで治る」 「白米を食べ過ぎると脚気を生じる。麦飯を導入すべし」 「現に食事を代えることで脚気は、ほぼ制圧できているではないか?」 とする一派(高木兼寬先生がその代表的人物)と 「食事で脚気が治るなど学理がない」 「白米は日本古来の伝統食で素晴らしいモノである。それを否定するのは何事か?」 「そもそも脚気は脚気菌で生じる」 「脚気菌を見つけた」 とする一派(森鷗外がその代表的人物)との間で脚気論争が勃発します。後にビタミンが発見され、「脚気はビタミンB1不足により生じること、脚気になってもビタミンB1投与で治ること」がわかり、森鷗外一派の「論」は一掃されましたが、一掃されるまでには紆余曲折があったのです。今でも「森鷗外は間違ったことはしていない」という本を書いている方もいるくらいです。この脚気論争は医学、科学を考える上でとても大切です。別な機会に紹介します。 11.高木は貧しい病者のための「有志共立東京病院」を設立。その成立資金として皇族(有栖川宮家)の援助を受けています。その後も皇族からの御下賜金を頂いて病院を経営していました。その縁でしょうか、今でも東京慈恵会医科大学看護学校の卒業式には女性皇族の方の列席を賜っています。 有栖川宮威仁親王は逝去後、高木兼寬先生に遺品を御下賜しています(写真1-4)。実物を拝見したことがあります。少し解りづらいですが、写真1の左上に「高木兼寬」の名前があり、煙草盆、花瓶、鎌倉塗の卓を送られたのでしょう。それくらい、有栖川宮威仁親王と高木兼寬先生は、交友が深かったのでしょう。 12.高木先生が書いた「上述の3、4、10でも言及した、LANCETに掲載された」論文の内容を少し詳しく紹介します。 この研究は明治16年に日本海軍が行ったニュージーランド、南米航海で多数の脚気病者を出したのが元となっています。その航海で乗組員376名中169人が脚気を発症、25人が死亡しています。海軍の航海でこれだけ病者が出たら、戦争になったら戦えません。高木は翌年(明治17年)、同じ航路を同じ時期に回る予定だった軍艦の食事を、前年の航海で兵隊が食べていた白米を主体とした和食を洋食にしたのです。留学していた英国には脚気はなく、食事の違いで脚気の予防ができるのではないかと考えたのです。 しかし「言うは易く行うは難し」です。洋食に変更するには多額の費用がかかります。反対する軍人も多かったのです。しかし、高木は諦めませんでした。様々な方面に働きかけて、この食事変更案をなんと明治天皇陛下に直接上奏したのです。これが功を奏して、明治天皇陛下の許可が得られ、陛下から多額の費用の援助も受け、高木の食事変更案は実現したのです。 遠洋航海における食事変更の効果は劇的でした。同じ時期、同じ航路を航海したにも関わらず脚気にかかった兵員は数名しかいませんでした。当然、明治天皇からも「絶賛」されたと思いますが、絶賛されたとする直接の証拠はありません。それが本稿の要旨につながります。 13.高木は結婚式を改革しています。今、結婚式には新郎新婦の家族だけでなく新郎新婦の友人が列席するのが普通になっています。これは高木先生が日本で初めて行った「神前結婚式」に由来します。 明治30年(1897年)7月21日に、東京日比谷大神宮(現在の東京大神宮)で高木兼寛先生が媒酌をした「神前結婚式」が執り行われました。高木先生はこの結婚式で新郎新婦の家族、親戚、友人を集めて結婚式を行ったのです。従来家庭だけで行われていた結婚式を今の様な形態の結婚式に変えたのです。 それ以来、今のように多くの人が集い祝福する形の結婚式が広がりました。7月21日はそれ故に「神前結婚式記念日」になっています。高木先生は、英国留学中に見聞きした英国流の結婚式を日本でも行ったのだろうと思います。 14.高木先生は「書家」としても有名でした。これも、今回次回に大きく関係します。下図は明治時代の書家番付です。解りづらいかもしれませんが、向かって左側大名家の左横にある大隈重信の左横9番目に医家「高木兼寬」の名前が見えます。 15.「生命保険会社」の設立に貢献しました。明治時代初期、元海軍主計官の加唐為重(かから ためしげ)氏が日本初の生命保険会社を興そうとしましたが、当時は「生命保険」に社会の理解が得られず難渋していました。加唐は資生堂薬局(海軍の薬局だった)の創業者福原有信に相談、同氏と高木先生の支持を得ることができて、日本で二番目の生命保険会社となる「帝国生命(現朝日生命)」を設立したのです。 以後日本でも「生命保険会社」が多数設立されました。資生堂と高木先生との関係も面白いのですが、長くなるので割愛します。いつかご紹介しましょう。 このように、高木先生は、医学に留まらず、社会や文化に様々な影響を日本社会に与えたのです。 高木兼寬先生に関する本は今でも数多く出版されています。興味がある方は 吉村昭著「白い航跡」(講談社文庫) 松田誠著「高木兼寬伝」(講談社) を読むことをお勧めします。どちらの本も広範な資料を用いて「高木兼寬」の生涯を描いています。 「白い航跡」は小説仕立てで高木を紹介しています。読みやすいです。松田誠先生は東京慈恵会医科大学生化学の名誉教授ですが高木兼寬の研究者としても有名です。高木先生に関する多くの著作、論文があります。その代表作が上述の「高木兼寬伝」です。 いつも前段が長く申し訳ないです(笑)。これまでは前段です。 本稿の主題は、ここからです。数多ある高木兼寬先生のことを書いた本にも紹介されていないことを本稿で紹介します。本稿の一部は慈恵医大新聞にも寄稿しました(2020年2月、3月)。 上述のごとく様々な功績があり、高木先生は明治天皇陛下から「男爵」を賜っています。明治38年(1905年)のことです。その他にも明治天皇陛下が高木先生の功績を賞賛していたであろうことは、多くの資料から推測されていますが、直接高木先生を賞賛した文章などが残っているわけではありません。 しかし、私は先年、偶然、明治天皇陛下が直接高木先生を賞賛したと(思われる)資料を2つ入手しました。最初に見つけた資料は高木兼寬先生の書いた「書」です。 以下、次回へ続く…… 文献は次回に掲載します。 注: 江戸に来ると田舎で食べていた雑穀米ではなく、精製した「白米」を好んで食べるようになったため、江戸で脚気が流行ったのだと推測されます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/12/14 今回はある旅行記を紹介します。 今年はCOVID-19が世界中で流行し、各国でその対応に苦慮しています。国毎でCOVID-19に対する対応がかなり違います。対応に「お国ぶり」が現れています。世界にはさまざまな国があります。 自由が基本的に認められている国と認められていない国 個人情報が国家で厳密に管理されている国と管理されていない国 国家による個人の生活監視が厳しい国と厳しくない国 宗教が国家の根源を成す国と政教分離の国 それぞれの国でコロナに対する対応が違い、「お国ぶり」の違いが際立っています。 「個人の自由、個人のプライバシーを無視してでもCOVID-19を根絶やしにすることを優先する」国もあり、「個人の自由、個人のプライバシーを尊重しつつ緩やかにCOVID-19対策をする」国もあります。その中間の国もあります。 どの国の対策が良いか数年経たないと解らないですね。数年経っても解らないかもしれ ないです。 さて、その「お国ぶり」ですが、33歳の青年が初めてアメリカ、ヨーロッパを旅行した時に見聞きしたこと、感じたことを詳細に記述した本があります。これを読むと「お国ぶりの違い」がよくわかります。 いまさら、アメリカ、ヨーロッパの旅行記なんて読まなくても、こんなことは知っているよと思われるかもしれませんが、しばしお付き合いください。《種明かし》が最後にあります。 その青年の旅行記はかなり長く、私も全部、読んでいるわけではありません。幸い抄録が出版されています。その中からほんの一部を紹介します。抄録の抄録です。 1.アメリカ印象記(最初にアメリカに行った) アメリカ製の機械はデザインが斬新でかつアイデアに富んでいる。 色々な国を旅行してから考えてみると、アメリカ製の機械は粗っぽく、イギリス製の機械の精巧さ、フランス製機械の優美さ、ドイツ製機械の緻密さ、堅牢さには敵わないと思った。 アメリカの政治家は国内の産業を守るために、外国製品を輸入する際には重税を課す。これを保護関税という。さまざまな製品に保護関税を課している。 人種差別がひどい。特に黒人に対する差別は酷すぎる。黒人を動物扱いしている。あまり良いことではないと思った。 どこの都市に行っても植物園、動物園があり「実物」を見せる努力をしている。これは市民や学生に対する「教育」のために設置している。 アメリカでは「ブランド」をとても大切にしている。優れた企業経営者は目先の利益より「ブランド力」を高める努力をしている。 貧富の差が大きい。 さまざまなパーティーが催されているが、それはパーティー券を売ることで成り立っている。 黒人は確かに差別されているが、黒人でも富豪がいる.政治家として一流になって活躍している人がいる。よく観察すると「皮膚の色は知性と関係ない」ということが解った。 アメリカは元々ヨーロッパ人が開墾した土地である。それゆえに「自主と共和」が根付いている。 レディーファーストが基本となっている。夫は妻に明かりを掲げ、靴を履かせている。いささかでも、妻の機嫌を損ねると「身をかがめて詫び」「部屋の外に追い出され」「食事を許されない」こともある。 フィラデルフィアの名前は「友愛」という意味であるが、この都市の市民は温和で活気があって際立って「友愛」に満ちあふれている。良い街だと感じた。 この国の人はとりわけ「聖書」を大切にしている。旅行にも携帯する。聖書に書いてあることが生活の基本となっている。 2.イギリス印象記(アメリカの次にイギリスに行った) イギリスとアメリカは似ているところが多い。アメリカ人は万事大雑把だったが、イギリス人は、何事にも定石を守り緻密に計算を立てて行動する。それゆえにか、イギリスの製品は造りが堅牢で精巧である。これに比して、次に行ったフランスの製品は惚れ惚れするほど美麗であるが英国製品に比して壊れやすかった。 ケンブリッジ大学とオックスフォード大学は他の大学とは別格である。両大学とも都会の喧噪を離れた大学都市にある。一般にイギリスでは高等教育機関は大都市から、かなり離れたところにある。 イギリスはイングラド、スコットランド、アイルランドからなる連合国である。それぞれの国で宗教(キリスト教ではあるが)が違う。イングランドはイギリス国教会、スコットランドはプレスビテリアン(長老派)、アイルランドはローマ・カトリックが多数を占める。 イギリス人は「時は金なり」を信条としていて勤勉である。 ロンドン塔を見学したが、イギリス人は残酷である。気をつけないといけない。 イギリスもアメリカと同様、動物園、植物園、博物館が充実している。「実物」を見るという教育が徹底している。 ロンドンは霧が多く、暗い感じがした。 3.フランス印象記(イギリスからフランスに行った) パリはロンドンよりもずっと「からっと」して過ごしやすい。空気が乾燥して明るい感じがする。イギリスは陰鬱だったと思い知らされた。 ロンドンでは「人は働くことを人生の一義」にしているが、パリでは「人は楽しむことを一義」にしている。 フランスはローマ・カトリックの国である。壮麗な教会が多い。壮麗な教会が多い。あのような壮麗豪華な教会を建てるには,相当な費用と時間がかかったと思う。民衆の生き血を絞って建てたのだろう。一般にプロテスタント国には豪華な教会が少ない。これに比してローマ・カトリックの国には豪華壮麗華美な教会が実に多い。なお、フランスにはあちこちに十字架磔刑像があり辟易した。 フランスは公園がとても多い。日曜日になると公園は遊ぶ人でごった返している。これに比して英米では日曜日は安息日なので基本的には礼拝をして静かに過ごしていた。 フランス人は古いモノを大切に保存する。 フランス製品は、細部まで繊細に作られている。しかし、前述の如く、英国製品に比して壊れやすい。なお、感性がイギリス人とは全く違う。それは建築、造船、紡績に及ぶ。 4.ベルギー印象記(フランスからベルギーに行った) 欧州各地への交通の要である。 強国に囲まれているので軍隊が整備されている。 それ以外、あまり印象はない。 5.オランダ印象記(ベルギーからオランダに行った) オランダには山がない。 どこも低湿地で堤防が張り巡らされている。 少し油断すると水没する土地が多いため水没しないようにさまざまな工夫がなされている。また、水没しないように国民が常時気をつけている。それゆえにオランダ国民は勤勉である。 プロテスタント国である。豪華な教会は少ない。 運河が張り巡らされている。水運が盛んである。 オランダは小資源国である。鉄は作れず、木材はなく、石炭もとれない。それでも国民が勤勉であるがゆえに良質な工業生産物をたくさん作っている。 オランダは絵画が盛んで見るべき絵画が多かった。 オランダにも博物館、植物園、動物園が多い。日本人にとってもなじみのあるシーボルトのコレクションをライデンで見ることができた。 6.ドイツ印象記(オランダからドイツへ行った) ドイツでは工業も農業も盛んである。工業製品は堅牢にできている。 文学が盛んである。 日本人に親しみを持っているドイツ人が多い。 7.ロシア印象記(ドイツからロシアへ行った) ロシアは「田舎」である。ヨーロッパとは違う。洗練されていないと感じた.いわゆるヨーロッパとは違いが大きい。 8.北欧印象記(ロシアからスウェーデン、ノルウェー、デンマークへ) 北欧諸国は ロシアに比して農家も田畑もこざっぱりとしている。 どの国の国民も自主の気概がある。 清潔感にあふれている。 教育が行き届いている。男女分け隔てなく教育が充実している。 1)多くの学問を、理解しやすいように工夫して、教えている。 2)あまり難しい事は教えていない。 注:難しいことを教えると理解できない生徒は勉強を放棄する。一旦、勉強を放棄すると一生害すると考えているからであると聞いた。 3)男女平等である。 4)初等教育は、人生を享受するために必要不可欠と彼らが考えていることを教えている。必要不可欠なこととは (1)国語 (2)文法学 (3)数学 (4)歴史 国史 (5)地理 (6)科学 (7)音楽 (8)図画 の8つである。これに加えて、体育、修身も教えている。 9.イタリア印象記(スウェーデンからスイスを経てイタリアへ行った) イタリア国民は南北で多少違うが基本的に「怠惰」である。 宗教はローマ・カトリックが盛んである。 享楽的で音楽が盛んである。 アルプスを越えてイタリアに入ると土地が肥沃であることがよくわかる。「沃土の民は材にあらず」という諺がイタリアにも通用すると感じた。草木は生い茂り、野に咲く花もきれいである。しかし、街は汚い。清掃が行き届いていない。 「カトリック国には荘厳、華麗、華美な教会が多い」という法則がイタリアにも通用する。イタリア中にそういう荘厳な教会が多くある。大きく華美な教会を作るため、人民に相当な苦役、献金、重税を課したと思われる。良いことではないと思った。その金を国民のために使っていたらどんなにか素晴らしい国が出来ていたであろう。「宗教に必要以上に深入りする」のは国家発展の妨げになるだろう。 イタリアに残る古代ローマ帝国の遺跡、文物を見ると現在の西欧文化の「源(みなもと)」はすべて古代ローマ帝国にあると思われる。古代ローマ帝国滅亡後に「キリスト教が広まった現在のイタリア」と「古代ローマ帝国」とは別物と考えるべきだ。 北イタリアはドイツやフランスと似ていて豊かである。工業も発展している。それに比して、南イタリアは産業に乏しく貧しい。 イタリアには国立の公文書館、古文書館があり、多くの記録が残っている。天正遣欧少年使節の記録も見ることができる。このように記録を大切に保管することは見ならうべきだ。 1840年頃、ヨーロッパで微粒子病という蚕の伝染病が大流行し、フランスやイタリアはで蚕種が全滅した。そのため、日本から蚕種を輸入し、イタリアの養蚕業は復活した。 10.米欧に関する一般的な感想 キリスト教が人びとの生活の基本となっている。 キリスト教は磔(はりつけ)になって死んだ人間が生き返ったことという非合理的な話が元になっている。それを信じている人が多いのは不思議だ。しかし、非合理的であっても「神」を敬う気持ちによって行いを正しくしよう努力している。キリスト教にも沢山宗派がある。ローマ・カトリック、プロテスタント、東方教会、モルモン、英国国教会、etc.多数ある。 キリスト教徒とイスラム教徒との争いが長く続いている。西欧人の中にはユダヤ教徒もいる。要するに彼ら西欧人を理解するには、その因って立つ宗教を把握することが肝要である。日本の宗教と西欧の宗教とは全く違うことを銘記して付き合うべきだ。 「ブランドが大切で、ブランドを作り上げそれを維持することが全ての商業の基本だ」。商業に限らず、何事にも 「ブランド=信用」を築くことが、西欧では一番大切。 ああ、こんなことは知っている。今更だと思うでしょう。 この旅行記は今から約150年前に書かれているのです。 書いたのは「久米 邦武(くめ くにたけ 1839-1931年:91歳没)」です。元佐賀藩士、明治初期の外交官です。岩倉具視欧州使節団(1871-1873年)で「大使随行役」を勤めています。若い頃から「秀才」として知られ、同使節団に随行し、その記録を帰国後に刊行しています。 ただの記録では無いのです。『米欧回覧実記』という記録です。それが全部で100巻!もあります。細大漏らさず、感じたこと、見たことを記しているのです。 この一行の通訳は、新島襄、畠山義成が勤めていました。彼らは英語が堪能であったので英語が通じる国では英語で、それ以外の国では現地で英語が使える人から聞き取りをしたと思われます。 さて、上述の各国印象記ですが、皆さんの思っている印象とあまり変わりないかと思います。実は、我々が今、各国に抱いている印象の「元」は150年前の久米の記録が元になっていると言っても過言ではないと思っています。 欧米の研究家にも注目され、文献6.7.の如く英訳されています。100年以上前の米国、西欧を外国人(久米)の目から見た文献は少なく、これだけ詳しく、しかも絵付きで紹介した文献は皆無でしょう。英訳されたことを機に、この久米邦武の旅行記はもっと広く世界に知られるようになると思います。 細大漏らさずと記しました。科学技術に関する論考も多いのだそうです(文献8.9.)。政治、文化、宗教、経済、科学技術なんでも、実際に見聞きしたことを詳述しています。見たことをそのまま書いているわけではありません。論考をいちいち加えています。なんというか、読めば解りますが、観察力の的確さに圧倒されます。 キリスト教に関する厳しいというか、合理的な記述を読むと、久米邦武は「合理主義者」「リアリスト」であることがわかります。色々な物事を合理的に考えることは、今でもなかなかできることではありません。『米欧回覧実記』を読んでいると、合理的、理性的に考えることの重要性を再認識させられます。 久米邦武は帰国後に『米欧回覧実記』を著し、その功績に対して政府から多額の報奨金を得ます。その資金を元に久米は目黒に広大な土地を取得しました。今もその名残でしょうか、目黒駅前に久米美術館が残っています。この美術館では『米欧回覧実記』関連の事物を見ることができます。 帰国後、久米は歴史学者になり、東京帝国大学教授兼臨時編年史編纂委員を務めますが、「神道ハ祭天ノ古俗」と題する論文を書いて厳しく糾弾され、東京帝国大学を辞職せざるを得なくなっています(余話2)。 しかし、大隈重信が早稲田大学の教授として迎えてくれました。大隈重信も元佐賀藩士で久米邦武と同郷で同年代ですから、その縁でしょう。 いずれにせよ、長々と記しましたが、記録をすることの重要性(記録を廃棄してはいけないですね)、合理的に物事を観察することの重要さを『米欧回覧実記』を読むことで感じ取ることができます。 コロナ禍でも同様です。今、起きていることを記録し、合理的に観察し、コロナ禍から得られた教訓、知見を後世に残す必要があると思います。 それはともかく、とても面白いので、是非文献 1 or 2 をお読みください。 【参考文献】 久米邦武著:大久保 喬樹現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記(角川ソフィア文庫) 久米邦武著:田中 彰現代語訳 岩倉使節団『米欧回覧実記』(岩波現代文庫) 特命全権大使 米欧回覧実記 (1)-(5) 巻(岩波文庫)久米 邦武、田中 彰 現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記 普及版 久米邦武 編著 水澤周 訳・注 米欧亜回覧の会 企画 全5巻(慶應義塾大学出版会) 『米欧回覧実記』の原本はデジタルでも読めます。漢字、カナ交じり文です。文語ですから読みづらいですね。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761502 Marius B Jansen, Kume Kunitake著: 『The Iwakura Embasssy, 1871-1873:A True Account of the Ambassador Extraordinary and Plenipotentiary’s of Observation through the United States of America and Europe』 Routledge (2002) Kume Kunitake (著), Chushichi Tsuzuki (編集), R. Jules Young (編集) 『Japan Rising: The Iwakura Embassy to the USA and Europe』 Cambridge University Press (2009) 髙田 誠二 (著):久米邦武:史学の眼鏡で浮世の景を(ミネルヴァ日本評伝選) 高田 誠二 著:維新の科学精神―『米欧回覧実記』の見た産業技術(朝日選書) 余話1: 「何かを調べるページ」というサイトがあります。岩倉使節団が泊まったホテルを突き止め、現在も残っているホテルを紹介しています。全て高級ホテルです。 余話2: 雑誌『史海』に転載した論文「神道ハ祭天ノ古俗」 「神道は宗教では無い」と記しています。これは問題になったでしょうね。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/11/09 絶縁体であるポリエチレンフィルムの上に置いても電気は流れない? 前回の続きです。 ある日、ある時、超重症の心不全患者さんに人工心臓を装着しました。こういう手術後の患者さんの管理は大変です。毎日、たくさんの処置や検査が必要です。 多くの検査のひとつが「心電図検査」です。心臓の状態を検査するために、毎日3回、心電図を取っていました。心臓の状態が良くなると心電図でもわかります。 皆さんも心電図検査を受けたことがあると思います。普通の心電図検査なら簡単です。数分で終わります。しかし、人工心臓を装着している患者さんの心電図検査は結構大変です。 ※以下に心臓に装着した管の写真があります。血が苦手な方はお気をつけください。 写真1:心臓に装着した管 この管を通して人工心臓に血液を送り、人工心臓から血液を駆出することで心臓は休むことができるのです。 なぜかというと、この写真のように心臓を補助するために、心臓と血管に管が入っています。この管は胸壁を通して、外部の人工心臓につながっています。ここから細菌が入り込み人工心臓に感染することがあるので、それを予防するため、ポリエチレン製のフィルム(通称をサージカルドレープと言います)で覆っていました。 ポリエチレンは絶縁体です。心電図検査に使う電極をこの絶縁体であるポリエチレンフィルムの上に置いても電気は流れない(と思われていた)ので、このポリエチレンフィルムを日に3回剥がし直接患者さんの胸に心電図の電極を付けて心電図記録を行い、再度新しいポリエチレンフィルムを貼るという作業を毎日繰り返していたのです。 看護師さんと一緒に行うのですが結構面倒です。1回の処置に15分くらいかかります。胸には血液が流れる管が数本入っているのでそれらの管に障害が起きないように神経を使っての処置を行います。ドレープを剥がして、患者さんの胸に電極を置いて心電図検査を行うのです。かなり面倒です。ずっと病院に泊まり込んで、そういう処置や追加手術などを行っていました。 ポリエチレンフィルムの上で心電図が記録できた! そういう日々が続いたある日、大学時代に「有機物質にハロゲン化物を添加すると、本来導電性がない有機物質に導電性が出現する」ということを有機化学の授業で習ったのを思い出しました(余話2を参照ください)。上記のポリエチレン製フィルムには2種類あります。 皮膚に糊付けする糊にヨードが含まれている製品 糊にヨードが含まれていない製品 の2種類です。感染予防にはヨードが糊に含まれている方が良いだろうと思って1. の「糊にヨードが含まれている製品」を使っていました。ヨードは「ハロゲン」です。ポリエチレンは、有機物ではありませんが何となく 「ポリエチレンにヨードが含まれているなら電気が通るかも知れない」 と思いつきました。今でも何でこんな突飛も無いことを思いついたのか、良く解りません。 患者さんに害を与える処置では無いので、糊面にヨードが含まれているポリエチレンフィルムの上に心電図の電極を置いて心電図記録を試みました。そうしたら、なんと絶縁体であるはずのポリエチレンフィルムの上で心電図が記録できたのです。 「ええ! 何なんだろう! 凄い!」 と思いました。一緒に心電図を記録していた看護師さんもびっくりしていました。翌日、糊面にヨードが含まれていないポリエチレンフィルムの上に電極を置いて心電図記録を試みました。心電図は全く記録できません。これは面白い現象です。導電性のないポリエチレン製フィルムの糊面にヨードが含まれていると絶縁体であるポリエチレンに導電性が生じるのです。特殊なテスターを借りてフィルムの表裏で電気が通るかどうかを試しました。たしかにヨードを糊面に塗ったポリエチレン製フィルムではわずかながら導電性が生じていることが確認できました。 気合いを入れ、この現象を論文にして「N」という頭文字の雑誌に投稿しましたが掲載不可の知らせが来てがっくり、「S」という頭文字の雑誌に投稿しましたが、こちらも掲載不可でした。 私が発見したことは「特別な現象では無い」というのが掲載不可の理由でした。「N」も「S」も科学者なら憧れの雑誌です。投稿しただけでも良い思い出です。 こういう現象は、化学者には常識なのでしょうが医師には知られていません。 糊面にヨードが含まれているポリエチレン製フィルムの製造元のアメリカの会社に問い合わせましたが「このフィルムにそのような機能があることは知らない」と言われました。 この現象を使えば特殊な状態(人工心臓装着者など)での心電図記録が楽になります。そこでこの発見を「The Annals of Thoracic Surgery」というアメリカ胸部外科協会雑誌に投稿しようと思いました。 この時「ミッション:インポッシブルのテーマ」が頭の中で鳴ったのです。冗談です(笑)。 この論文に載せる心電図は患者さんの心電図である必要は無いので「私自身の心電図」と「私自身の胸をヨード入りポリエチレン製フィルムで覆っている写真」を撮って論文に載せよう、もし論文が掲載されれば「ミッション11」は達成できるかもしれないと思いついたのです。心電図室に赴き臨床検査技師さんに頼んで、 私の心電図(胸部誘導)を普通に記録 私の胸にヨード入りポリエチレン製フィルムを貼り、その上に心電図電極を置いて写真を撮影、引き続きそのフィルムの上に電極を置いて心電図を記録。1の心電図記録と変わりの無い心電図が記録されました。 確認のため、ヨードが入っていないフィルム上に心電図電極を置いた状態は心電図記録を行いましたが記録はできませんでした。 論文を練りに練り、英文をネイティブスピーカーに直してもらい、勇躍、投稿しました。タイトルは [Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram]です。 和訳するなら「ヨードを含有するドレープを用いれば心電図胸部誘導が可能になる」でしょう。実はタイトルを決めるのが一番大変でした。 写真2:この論文を書いたときのタイトル案です。 10数個の題名を考えました。この中から英語が母語であるネイティブスピーカーの方と相談して、タイトルを選びました。 論文に載っている「私の胸」「私の心電図」 論文を投稿してから約1ヵ月「アクセプト(掲載可)」との通知がFAXでアメリカから届きました。アクセプト(掲載可)とされる場合でも通常は色々とコメントがつき、それに沿って論文を修正するのですが、この論文はほぼ修正をしないで載せてくれました。3名の査読者の内、1名からは 「This report from Japan is intriguing.」(この日本からの論文はとても興味深い) というコメントを頂きました。嬉しかったです。論文掲載が決まり、実際に論文が掲載された雑誌が送られてきて、自分の胸と自分の心電図が載っているのを見て「ミッション11終了」と思いました。冗談です。 写真3:論文(文献1)に載っている「私の胸」です。 茶色いのはポリエチレン製フィルムの糊面の糊にヨードが含まれているからです。 図1:同論文に載っている「私の心電図」です。 心臓病の研究者、胸部疾患の研究者は世界中にいますが、自分の「胸」と「心電図」を論文に載せている研究者は多分いないと思います。仮に私が心筋梗塞になっても、インターネットで私が41歳の時の心電図を見ることができますので比較することが可能です。100年後、200年後に私の子孫がいたら、先祖(私)の「胸と心電図」を見ることができます。だから何?という話ですが… ミッション(夢と置き換えても良いです)を持っていて、何か考え思いついたら直ぐに実行してみると良いことがあるかも知れないという良い見本だと自分では思っています。 思いついたら、理屈を考えるよりも直ぐに実験をしたら良いと中谷宇吉郎博士の随筆「立春の卵」に書いてあります。これを読んでいたから、こんな実験を行い、それが論文になったのです。中谷宇吉郎博士に感謝です。今年(2020年)は中谷宇吉郎博士の生誕120周年です。石川県加賀市にある「中谷宇吉郎 雪の科学館」で様々な催しがあります。行ってみたいです。 【参考文献】 Mochizuki Y1, Okamura Y, Iida H, Mori H, Shimada K. [Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram] Ann Thorac Surg. 1999 Apr;67(4):1184-5. ↓全文を読むことができます。 https://www.annalsthoracicsurgery.org/article/S0003-4975(99)00056-9/fulltext 多田富雄:千葉医学特別講演より(千葉医学.85:53-9, 2009) Ishizaka K, Ishizaka T, Hornbrook MM. Physico-Chemical Properties of Human Reaginic Antibody: IV. Presence of a Unique Immunoglobulin as a Carrier of Reaginic Activity. J. Immunol. 1966. 97: 75-85. http://www.jimmunol.org/content/jimmunol/198/1/5.full.pdf(PDF) 中谷宇吉郎随筆集(岩波文庫) 名著です。 「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」公式サイトです。 https://missionimpossible.jp/ 余話1: 2000年のノーベル化学賞は白川英樹先生が受賞しました。「導電性プラスチックの発見」が受賞理由です。「通常は電気を通さない絶縁体のプラスチックにハロゲン化物をドーピングしたら電気が通るようになる事を発見した」事を発見したのですね。どこかで聞いたような話でした。 余話2: 有機物に導電性を加えた論文を調べて見ました。1950年頃から論文になっているのです。日本人研究者の発見です。 有機化合物は絶縁体であり、電気が通るなど考えられていなかった時代に、赤松秀雄先生、井口洋夫先生、松永義夫先生などが、有機物にハロゲンにドーピングすることで導電性が生じることを発見しています。こういう発見がノーベル賞を受賞した白川英樹先生の発見につながったのでしょう。それなら、赤松先生、井口先生、松永先生もノーベル賞を受賞してもおかしくなかったのだと素人の私は愚考します。 何れにしても私が学生時代の1977年頃、一般教養の「有機化学」の講義で多分このことを聞いていて、それを思い出したのです。 Akamatu, Hideo, and Hiroo Inokuchi. "On the Electrical Conductivity of Violanthrone, Iso‐Violanthrone, and Pyranthrone." The Journal of Chemical Physics 18.6 (1950): 810-811. Akamatu, Hideo, and Hiroo Inokuchi. "Photoconductivity of violanthrone." The Journal of Chemical Physics 20.9 (1952): 1481-1483. Akamatu, Hideo, Hiroo Inokuchi, and Yoshio Matsunaga. "Electrical conductivity of the perylene-bromine complex." Nature 173 (1954): 168-169 赤松秀雄(1910-1988):元東京大学理学部教授 井口洋夫(1927-2014):元東京大学理学部教授 豊田理化学研究所に氏を記念したホールがある。文化勲章受章 松永義夫(1929- ):元「北海道大学,熊本大学,神奈川大学」理学部教授 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/10/26 ミッション:インポッシブル 2年前「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」という映画を見に行きました。「スパイ大作戦」というテレビ番組だったのをトム・クルーズが主演にして映画化した「ミッション:インポッシブル」シリーズの第6弾です。 不可能と思われる使命(mission impossible)を命ぜられた主人公のイーサンハント(トム・クルーズ)が仲間達とハイテクを駆使しつつ、ミッションを果たすという映画です。 「さて、君に与えられた使命だが…」とセリフと共に実行不可能と思われる任務(ミッション)の指令が下され、 「例によって君もしくは君のメンバーが捕らえられ、或いは殺されても、当局は一切関知しないからそのつもりで、なおこのテープは自動的に消滅する。成功を祈る」 そしてテープが白い煙と共に消える。そんな場面で始まります。この映画は音楽も有名ですね。少し聞いてみましょう。 『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』本予告(YouTube) 「ミッション:インポッシブル」シリーズの第6弾の題名にある「フォールアウト」ですが原題は「Fallout」です。「Fallout」は「核爆発で地上に降る放射性粒子」だそうです。知りませんでした。 なお「fall out」なら「落ちる、仲違いする」という意味になります。この映画は核爆弾をめぐる物語です、それに加えて主人公が落下するシーンが多く(7000m上空から、ビルから、ヘリコプターからetc.)、おそらくは「fall out」と「fall out」を懸けているのでしょう。撮影当時56歳だったトム・クルーズが全ての危険なスタントシーンを自分で行って撮影したことも話題になりました。7000m上空からのダイビングも自分で何回も行って撮影しています。映画終盤にヘリコプターをトム・クルーズが操縦する場面があります。この場面を撮影するためにヘリコプターの免許をとっただけではなく、凄いのは一人で操縦する資格を得るのに必要な2000時間もヘリコプターを操縦してそういう資格を得たことです。一日8時間操縦しても、250日もかかります。ヘリコプターを操縦するシーンはもちろんのこと、ヘリコプターが回って落ちていくシーンも自分で操縦しています。あり得ないくらい気合いが入っています。こういう映画が面白くないわけがありません。 前段はそれくらいにして。。。。 真面目な?本論に移ります。大方の皆さんは学校(大学、高校etc.)を出て社会人になる時「目標」を立てると思います。何となくでも良いですが「目標」を立てないと何となく時間が過ぎてしまいます。元将棋名人の故升田幸三はプロの棋士を志して家を出た時、母親の物差しの裏に 「この幸三、名人に香車を引いて勝つために大阪に行く」 と書き残しました。升田は将来「名人と対局して香車駒落ちで勝ってやる」と宣言したのです。14歳の時のことです。後に本当に「名人と対局した時に連勝したので、香車を抜いて対局して(つまり、駒落ち)勝ってしまいます。夢を実現したのですね。今、このような厳しいルールは廃止されています。それはともかく、何か目標を定めて努力するのは良いですね。 私も大学卒業時、いくつか目標を立てました。自分に課したミッションです。 外科医として働き始めたので、自分の「ミッション」として 基本的な心臓手術ができるようになりたい 色々な心臓手術がしたい できれば指導的立場で手術ができるようになりたい たくさん手術を手がけたい 成績の良い、質の良い手術をしたい 英語で論文を書いて一流雑誌に掲載されたい 教科書に載るような論文を書きたい 教科書の執筆依頼が来るような外科医になりたい 新しい手術方法を見つけたい 新しい手術器具を作りたい 自分の体(の一部でも)を論文に載せて後世に残したい と思っていました。1-10は外科医を目指すなら、誰しもが思うことですが実はどれもかなり難度の高いミッションです。これらを達成するのに確実な方法論はありません。ミッションのうち1-10はモデルとなる外科医(数名)がいらしてその方々を目指しました。 真面目な「努力」と「運」と「根気」と「小さな知恵」「工夫」の積み重ねが必要です。真面目な話はまた何時か機会のある時にしましょう。 ミッション11は医学の本道とは別な話です。 「さて、君に与えられた使命は君の身体を論文に載せることだ。例によって君もしくは。。。。。」 と言われるわけもなく、なぜこんなことを自分で考えたのか説明しましょう。 「僕の背中は世界一有名」 2018年7月6日、IgEの発見者というか、今日の「アレルギー」と呼ばれる疾患の本体を解明した「石坂公成(いしざかきみしげ)」先生が逝去されました。奥様と共にノーベル賞を受賞するだろうと言われて数十年、ついに受賞することはありませんでしたが、そんなことは関係無く、真に偉大な一生でした。 ちなみに偶然でしょうが、公成はKimishIgEです。名前の最後に「ige=IgE」が入っています。IgEの命名者は石坂先生です。IgEの「E」というアルファベットはこの抗体が紅斑(Erythema)を引き起こすことに由来しているのですが、偶然でしょうか? いずれにせよ、訃報を聞いて、自分は「ミッション11」を達成していたことを思い出したのです。石坂先生に命ぜられたわけではありません。 石坂先生のお弟子さんの一人に東大の名誉教授の故多田富雄先生がいます。多田先生は「抑制(サプレッサー)T細胞の発見」で有名です。また、文筆活動も活発で「免疫の意味論」「寡黙なる巨人」などの随筆もベストセラーになっています。「能」の作者としても有名で、脳死の人を主題にした「無明の井」や朝鮮から強制連行された人を主題とした「望恨歌」などの新作能を書いています。 その多田富雄先生の講義を学生時代に聞く機会がありました。もちろん免疫の話が主題です。その講演で多田先生は、 「僕の背中は世界一有名」 「僕の背中は天皇陛下も見ている」 「僕の背中は世界中どこでも見られる」 「僕の背中は後世に残る」 と仰いました。 石坂夫妻の発表した「IgE発見の論文」にはIgEの活性を試験する方法としてPK反応が用いられていました。PK反応はヒトの背中にIgEを皮下注射してその活性を調べると言う方法です。石坂先生御自身の背中はPK反応を何回もしており、もう注射するところが無かったので部下だった多田富雄先生の背中を用いて試験が行われ、それが論文に載ったのです(文献3:この論文は貴重で、IgE発見の基本となる論文です)。 写真1:文献3に載っている「多田富雄先生の背中」の写真 それを多田先生は「僕の背中は世界一有名」だと言っていたのです。しかし、大変残念なことに、この論文に多田富雄先生の名前は載っていません。当時まだ研究助手だったからでしょう。学生時代、「僕の背中は有名」を聞いて面白く思いました。いつか、私も 「自分の体を論文に載せたい」 と思ったのです。 自分がごく特殊な病気にかかるか、自分の身体を使った実験をしなければ載りません。自分がそんな「特殊な病気」にかかるのは困ります。特殊な実験も嫌です。婦人科に進めばあり得ないし、泌尿器科も嫌ですね。というわけで、時が流れ幾星霜。なんと、それ(=自分の体を論文に載せる)が実現しました。 次回へ続く。 【参考文献】 Mochizuki Y1, Okamura Y, Iida H, Mori H, Shimada K. [Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram] Ann Thorac Surg. 1999 Apr;67(4):1184-5. ↓全文を読むことができます。 https://www.annalsthoracicsurgery.org/article/S0003-4975(99)00056-9/fulltext 多田富雄:千葉医学特別講演より(千葉医学.85:53-9, 2009) Ishizaka K, Ishizaka T, Hornbrook MM. Physico-Chemical Properties of Human Reaginic Antibody: IV. Presence of a Unique Immunoglobulin as a Carrier of Reaginic Activity. J. Immunol. 1966. 97: 75-85. http://www.jimmunol.org/content/jimmunol/198/1/5.full.pdf(PDF) 中谷宇吉郎随筆集(岩波文庫) 名著です。 「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」公式サイトです。 https://missionimpossible.jp/ 余話1: トム・クルーズと言えば、1986年「トップガン」の主人公マーヴェリックを演じて有名になりました。つい最近、“リアル”マーヴェリックと言われた「マケイン元アメリカ上院議員」がお亡くなりになりました。マケインさんは元ジェット戦闘機のパイロットです。ベトナム上空で撃墜され、5年もベトナムに囚われて拷問を受けていたにもかかわらず後にベトナムと米国間の国交樹立に大きな役目を果たした事でも有名です。曲芸的な戦闘機操縦をしていた事でも有名だった事も相まって「マーヴェリック」の愛称で呼ばれていました。最近はトランプ大統領を厳しく非難し、話題を集めていました。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/10/05 ※注意:今回は手術の写真がたくさん出てきます。血が苦手な方はお気をつけください。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 今回はかなり珍しい血管の病気というか、血管外傷について紹介します。血管をナイフで刺されてしまった患者さんの話です。 以下図1を参照しながら、お読みください。 図1 手術途中に呼ばれた救急室、そこで見たモノは… 頚動脈という言葉を聞いたことがあると思います。左右2つの頚動脈があります。左右で少し違いがあります。右の頚動脈は大動脈から出る腕頭動脈という太い血管の枝です。体格にもよりますが、腕頭動脈の長さは5cmくらいあります。「腕」「頭」と称され右手と右頭部右側へ動脈血を送る太い血管です。腕頭動脈は右総頚動脈と右鎖骨下動脈に分かれます。左側には腕頭動脈は無く、大動脈から直接、左総頚動脈と左鎖骨下動脈が分枝します。首に手を当てて触れる動脈は左右の総頚動脈です。右側の総頚動脈より心臓に近い方、つまりかなり奥にあるのが腕頭動脈です。そのため、腕頭動脈の手術は少し難しいのです。幸い腕頭動脈単独の病気はあまりありません。 話は変わります。時々、包丁やナイフなどの刃物で人を刺したりする事件が報道されます。心臓や血管も刃物で損傷を受けることがあります。心臓を刺されて、病院に搬送されてきた方を何人か見ました。ほとんどは即死です。心臓を刺されるとその場で、ほとんどの方はお亡くなりになってしまいます。病院に搬送された時点で死亡している時は手術ではなくて「解剖」に回されることがほとんどです。そのような場合は「事件」ですから、東京都なら監察医務院で司法解剖になり、東京都以外は、各都道府県にある大学の法医学教室での司法解剖を受けることになります。当たり前ですが、刺されたけれど病院に来た時にお亡くなりになっていない場合は、手術の対象になります。 以下本稿の主題に入ります。 上述のごとく、普通は「腕頭動脈」を触れることはできません。10数年前の某月某日、午前9時に私は腹部大動脈瘤の手術を開始しました。腹部の皮膚を少し切開したところで、救急部長のQ先生から電話が入りました。直ちに救急室に来てくれという連絡です。どうやら、血管にキズを負った患者さんが救急車で搬送されてきたようです。しかし、私はすでに手術を開始していたので、一旦は断ったのですが、再三再四救急室に来てくれという連絡が入り、仕方なく、一時手術を止めて、手術室を出て、1階の救急室に向かいました。そこで見たモノは…… ※以下に手術の写真があります。血が苦手な方はお気をつけください。 紫⾊のゴム⼿袋をつけて患者さんの⾸に指を⼊れているというQ救急部⻑の姿でした。救急室内には、救急部の医師、看護師はもちろんのこと、救急隊員や多数の警官がいて騒然としていました。多くの医師が凄い勢いで輸血をしていました。最初は何が何やらわからなかったのですが、皆さんの話を総合すると、どうやらこの患者さんは 二十歳になったばかりの女性であること 早朝から開いている食堂の店員さんであること 開店準備をしていた時に強盗に襲われ体中を刃物で「めった刺し」にされた(らしい)こと 倒れていたところを後から来た店員に発見されたこと 来院時は意識が無かったこと 来院時の血色素量が2.0しか無かったこと(正常は10以上です) 来院時脈が触れなかったこと 瞳孔が散大していること 私が救急室に来た時点でも意識が無いこと 来⽉、結婚式を挙げる予定であること、その結婚相⼿がこの患者さんの⾜元にいること などが解ってきました。確かに体中に大小さまざまな切創(きりきず)がたくさんあり、出血しています。救急部の先生が総出でキズの止血を行っていました。 問題は首に刺さっている救急部長の指です。 Q救急部長に「Q先生の指はどこに入っていて、何をしているのか?」と聞いたら、 Q部長曰く 「来院した時は、首に普通の切り傷があると思っていた」 「点滴ルートを確保し、輸血を行ったところ、今、指で押さえているところの奥から、⾎液がどんどんと湧き出してきた」 「どうやら腕頭動脈が刃物で切られているらしい」 「指で腕頭動脈を圧迫しているが、いつまでも押さえておくわけにはいかない」 「切れた腕頭動脈を修復して欲しい」 とのことでした。 要するにこのQ部長の指先の奥でには刃物で傷つけられている(らしい)腕頭動脈があり、そこからの出血を止めて欲しいということでした。 これは無理だと思いました。修復するには、腕頭動脈周囲を露出しないと修復できません。少しでも指を動かせば大出血します。外傷学の教科書にも載っていないようなシチュエーションです。意識もありません。瞳孔も完全に散大しています。手術をして止血ができたとしても、脳に後遺症が残る可能性も高いのです。 しかも、私は他の人をすでに「執刀」していたのです。心臓から遠いところの血管損傷なら、手術は容易です。しかし、今Q部長が指で押さえているのは、胸の中にある腕頭動脈です(普通は触れない)。 色々と考える間もなく、この腕頭動脈損傷の手術は無理であることをQ部長に伝えました。私と同じで、呼び出されていた整形外科の先生も、脳神経外科の先生も頭を振るばかりです。私は執刀していた手術に戻ろうとしました。そうしたら、この患者さんの足元にいた婚約者の男性が、「なんとしても助けてくれ」「来月結婚するのだから助けてくれ」とすがりついてきました。しかし、無理なモノは無理なのです。この男性に手術ができない理由を説明しました。 「太い動脈が損傷されている。胸の奥深くにある血管であり、この部位の手術は普通でも難しいこと」 「手術をするにはQ部長の指を退かさないといけないが、指を退かしたら大出血すること」 「来院時の血色素量が2.0しかない、つまり一度大量に出血しているので血圧も低く、すでに脳損傷を生じているであろうから、たとえ手術をしても回復は見込めないであろうこと」 などを説明しました。 手術は難しい(できない)と説明しましたが、彼は納得しません。 申し訳ないけれど、あとは救急部の先生にお任せして自分の手術に戻ろうと思ったのです。そうしたら、この男性は患者さんの説明を始めたのです。 「彼女は捨て子だ。孤児院で育てられた」 「彼女の人生で楽しいことはほとんど無かった」 「中学を卒業してからずっと働いていた」 「縁があって俺と付き合うようになって結婚することになった」 「彼女は俺と結婚して初めて家族ができるんだ」 「その結婚が来月だ!」 と言って、だからなんとかして欲しいと、大きな声で何回も懇願するのです。 こういう社会的背景を聞くと「なんとかしてあげたい」と思うのが人情で、私の頭にも感情にもスイッチが入りましたがどうしようもないものはどうしようもないのです。 その場で思いついた手術方法 そうこうしているうちに、他のキズ(大小取りまぜて40箇所くらい)の止血操作や輸血により、血圧が回復してきました。脈も触れるようになってきました。 しかし、刃物で切られている(と思われる)腕頭動脈からの出血を止めないとどうにもなりません。Q救急部長の指を少しだけ外してもらったら、もの凄い勢いで血液が噴出しました。やはり損傷していると思われる腕頭動脈を修復するのは不可能だと思いました。噴出する血液を避けながら体の奥にある動脈の縫合をするのは不可能なのです。 しかし、解決方法が天から降ってきました。ある方法を思いついたのです。いつも行っている心臓手術の方法を応用すれば容易に腕頭動脈に到達できることに気づいたのです。 図2 緑で囲まれている部分は胸部にあります。胸の骨の下にあり、通常は目に触れません。胸骨の下に緑色の部分があるのです。心臓外科医は、この部分の手術を行っています。つまり腕頭動脈に達するには、いつも行っている胸骨正中切開を行えば良いことに気づいたのです。 図3 図3:手術の説明図、というかその場で思いついた手術方法 胸骨を電気ノコギリで縦切りにする正中切開を行い(くどいようですが心臓外科医なら誰でもできる方法です)、腕頭動脈根部を胸部から露出し、腕頭動脈に止血鉗子をかけて血流を遮断し、裂け目からの出血を減少させて、その間に裂け目を修復する。そういう手術です(注:5分くらい、右側の頭部に流れる血流を遮断しても問題ありません)。 図3のような手術をすれば、助かるかもしれない。少なくとも止血はできるかもしれない。 しかし、それを行うには、現在すでに執刀した腹部大動脈瘤の手術を止めなくてはいけません。困ったなと思っていたら、消化器外科の先生方が、腹部大動脈瘤手術のお手伝いを申し出てくれたのです。それで腹部大動脈瘤の手術は遂行できるだろうと言ってくれました。 しかし、私が行おうとしている血管外傷の手術は、いつもの心臓血管外科のスタッフと行うことができません。しかし、折良く、呼吸器外科の先生に連絡がつき一緒に手術ができることになりました。呼吸器外科医ですから、胸部を開けるのは慣れています。助かりました。少なくとも手術はできるだろうと思いました。 そして、図3のような手術を行うことを、麻酔科の先生、手術室の看護師さんに伝え手術準備をして頂きました。平日の午前中でした。通常その時間、手術室はフル稼働しています。この時、折良く手術のキャンセルがあり、一部屋手術室が空いていたのです。物事が進む時は、こういう「運」もあります。 「この患者さんと結婚する予定の方」に手術方法を説明。大きなキズが胸に残るけれど、救命にはこれしか手がないことを説明し、了解して頂きました。そして、Q救急部長に指で止血してもらいながら(最初の写真の状態)、1階の救急室から上階の手術室へ移動しました。 胸部を消毒し、呼吸器外科の先生と一緒に手術を開始しました。胸部の皮膚をまっすぐ切り、胸骨を専用の電気ノコギリで切開し、腕頭動脈の根元を慎重に剥離します。なんとか、腕頭動脈にテープを巻くことができ、テープを補助にして血流遮断鉗子を腕頭動脈にかけて血流を止めました。 ※リンク先に手術の写真があります。苦手な方はお気をつけください。 図4:手術中の写真1 ※リンク先 胸骨正中切開を行い心臓側から腕頭動脈を露出して、テーピングして、腕頭動脈の血流を遮断した時の写真です。 この時点でQ部⻑の指を外してもらいましたが出⾎しませんでした。目論見通り「出血は止まった」のです。刃物で損傷を受けていた⾎管が⾒えました。腕頭動脈は刃物で、きれいに、切れていました。切れている部分の腕頭動脈の末梢側にも血流遮断鉗子をかけて完全に血流を止め、千切れそうになっていた腕頭動脈を、細いポリプロピレン糸を用いて縫合し血流を再開しました。出血は完全に止まりました。一気に血圧が安定しました。 図5:手術中の写真2 ※リンク先 刃物で千切れそうになっていた部分の上下を血管遮断鉗子で血流を止めます。 図6:手術中の写真3 ※リンク先 細いポリプロピレン糸で損傷部を修復したところ、指で持っている青い糸は修復に使用したポリプロピレン糸です。 ほかの部位の止血も、慎重に行い胸骨をワイヤで寄せて胸を閉じ手術は終了しました。手術記録を見直したら、1時間で手術を終えていました。皮膚表面にある多くの切創(刺されてできたキズ)を縫合して、完全に手術が終わったのは、それから1時間くらい経ってからでした。 問題は、手術後に意識が戻るかどうか、あるいは後遺症が残るかどうかです。感染症も心配です。とても、とても心配でした。 しかし、手術後1日目にやや意識が回復し、2日目には完全に意識が回復しました。意識が回復した時の婚約者のものすごく喜んでいる様を見て、少し「うるっと」しました。そして3日目には食事が食べられるようになりました。2ヵ月のリハビリが必要でしたが、あまり大きな障害も残らず退院できました。 なお入院中にこの患者さんは刺した犯人の顔も思い出したのです。たまに食堂に来るお客さんだったのです。早朝の食堂では若い女性店員が一人しか働いていないことを知っていて強盗に入り、レジにあるお金を強奪しようとしたのです。 しかし、店員がお金を渡さなかったので、持っていたナイフでいきなりあちこちを切ったり、刺したりして、レジからお金を盗んだのです。怖い話です。犯人がすぐに見つかったので警察関係の方にとても感謝されました。もし患者さんがお亡くなりになっていたら、犯人は捕まらなかったかもしれず、今もこの犯人は市中をうろついていたかも知れません。 なお、この患者さんは予定より数ヵ月遅れましたが、無事結婚式を挙げることができてお子さんも授かりました。外科医人生の大きな思い出の一つです。 「人生あきらめが肝心」と言われますが「外科医は諦めが悪い方が良い」と思っています。 なお、この方が助かったのはもちろん私だけの力ではありません。 第一発見者の方が素早く救急車を呼んでくれたこと 直ちに現場に駆けつけた救急隊の皆さん 血圧が測れない状態でも輸血路を確保してくれた優秀な救急部の医師、看護師の皆さん 輸血をすぐに用意してくれた輸血部の皆さん 採血データを迅速に出してくれた検査部の皆さん 腕頭動脈からの出血を止めてくれていたQ救急部長 腹部大動脈瘤手術のお手伝いを買って出てくれた消化器外科の先生 一緒に手術をしてくれた呼吸器外科の先生 麻酔を引き受けてくれた麻酔科の先生 手術の補助をしてくれた手術部の看護師さん 手術後の治療を一緒に行ってくれた集中治療部の医師、看護師の皆さん 手術を懇願した「婚約者の熱意」 その他、実に多くの方の助けがあり手術が上手くいったのです。 感謝の意を表明して稿を終わります。 後日談1:Q部長がこの症例を救急医学会に発表したら、大絶賛を受けたそうです。私も行けば良かった。 後日談2:早速論文にしようと思って論文検索をしたら、アメリカでは腕頭動脈の損傷が結構あり、私と同様な方法での修復例が10数例すでに論文になっていました。ですから論文にはなりませんでした。残念です。 後日談3:「先生は犯人からも感謝されて良い」と警察関係の方に言われました。患者さんが死亡していたら、犯人は「殺人罪」となっていたからです。 注:孤児院という言葉は正式名称ではありません。平成10年以降は「児童養護施設」と称されます。 注:個人情報を伏せるため多少の改変をしています。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/09/07 今回は、医学には関係無いことを書きます。泥棒に関することです。 ドロボウに関する成句には色々とあります。 盗人猛々しい 盗人に追い銭 盗人にも三分の理 盗人の隙はあれども守り手の隙がない 人を見たら泥棒と思え 嘘つきは泥棒の始まり などです。 さて、皆さんは泥棒に何かを盗まれたことがあるでしょうか? あるいは、家に泥棒に入られた経験がありますでしょうか? 2020年東京オリンピックのプレゼンテーション(2013年、ブエノスアイレス)で「日本ではお金の入った財布を落としても、それはきっと戻ってくる」と滝川クリステルさんが話したのを覚えている方も多いと思います。 日本は、落とした財布やスマホが戻ってくる確率がとても高い国だと思います。 あらゆる落とし物が戻ってくる国・日本 “地球最後の文明社会”と海外が感嘆(NewSphere) https://newsphere.jp/national/20150222-1/ 東京では、年間33億円のお金が拾われ(落としたり、置き忘れたり)、そのうち24億円が落とし主に戻るそうです。 泥棒も他国に比して極めて少ないです。 上記の出所:社会実情データ図録より引用 http://honkawa2.sakura.ne.jp/2788g.html そんな盗難の少ない日本にも泥棒はいます。私は3回泥棒にあっています。 泥棒にモノを盗まれないためにはどうしたら良いか、泥棒にあったらどうしたら良いか、本稿を読めば多少役立つかもしれません。 私の経験を紹介します。どれも教訓的なドロボウ事象です。 学生時代、下宿で財布から現金が無くなっていました。盗んだ人もわかっています。 10数年前のことです。病院の駐車場に置いていた車の中から鞄を盗まれました。犯人は不明です。 20数年前新橋の料理屋さんで鞄を盗まれました。この事件?が一番、教訓的です。ぜひ、お読みください。 泥棒事象を紹介しましょう。 1.学生時代に財布から現金を盗まれたのはとても悲しい出来事でした。 大学2年生の夏休みのほぼ全て(30数日)を日本で2番目に高い北岳の山頂近くにある「北岳山荘」でアルバイトをして過ごしました。「北岳山荘」は建築家の黒川紀章先生がデザインしたおしゃれな山小屋です。1978年に建てられたときは、そのことでも話題を呼びました。その年に働いたのです。良い経験でした。 山小屋でアルバイトをするとお金を使う場所がないので、丸々アルバイト代が残りました。その山小屋アルバイトで知り合った、今で言うフリーターのT君と仲良くなりました(同い年でした)。T君とは山を下りた後もやりとりを続けていました。 翌年の秋に、T君は関東地方から車を運転して鳥取まで来てくれました。そして車にシュラフなどを積んで九州を2人で旅行しました。泊まるのは車の中でした。今、流行の「車中泊」をしたのです。 九州一円をまわり鳥取まで帰り、私の下宿で一泊して、 T君は関東地方まで帰っていきました。 彼を見送って下宿に帰ったら、 財布に入っていたお金が無くなっていました。九州旅行から帰り、色々と精算をしました。財布の中に1万数千円入っていました。しかし、お財布の中のお札だけ無くなっていたのです。下宿にいたのは、私とT君しかいません。「やられた」のです。 それ以降、T君とは音信不通になってしまいました。帰るガソリン代に事欠いたのでしょうか?とても悲しい話でした。 2.車上荒らしにあったのは、緊急手術の為に呼ばれ、車を病院の駐車場に止めていた時のことです。 病院職員駐車場は、患者さんの駐車場よりも病院から離れた場所にありました。照明も無い暗い駐車場でした。すぐに手術が始まるので、鞄を車の中に置いてそのまま手術室に向かいました。日曜日の夜中でした。 無事、手術が終わりそのまま月曜日の診療が始まるので、車の中に置いてあった鞄を取りに行ったら車のドアが変です。壊れています。あれれ?と思ったら車の中に置いてあったモノが全てなくなっていました。多少の現金の入った財布も鞄に入れていましたが、鞄ごと無くなっていました。「泥棒」です。すぐに近所の交番に行き、被害届を出す相談をしたら交番では届け出ができないとのことです。仕方なく、やや離れたところにある警察署に行って詳しい被害届を書きました。 手術明けで疲れていたのですが、そんなことを言っている場合ではありません。色々と調べられました。私の指紋も採られました。車を調べてくれると思ったら、壊された鍵などを見るだけでした。犯人を捜査してくれると思ったのですが、被害金額が少額でしたので、捜査などしてくれません。 それから数日後、車の中にあった金目の物(と言っても現金と切手だけですが)以外は全て近所の道路にぶちまけてあったと交番から報告がありました。鞄も返ってきましたが、道路上にあったのでボロボロになっていました。 これ以降、車の中には金目の物は絶対に置かないようにしています。 3.今から、20数年前、新橋駅近くの中華料理店で食事をした時のことです。 食後、小用のため席を外しました。自席に戻ったら置いていたカバンがありません。散々、探したのですが出てきませんでした。 意気消沈してアパートに帰りました。中には手術予定が記してある手帳や手術用のノートが入っていました。カバンは革製で買ったばかりでした。 それはともかく、前述の1. 2. の事象と違って、このカバンの中には「金目のもの」は入っていませんでした。しかし私にとっては、とても大切な手術ノートと手帳が入っていました。 写真:当時盗まれた鞄に入っていた「手術メモ」(手術の「勘どころ」が書いてあります) 他人にとっては「無価値」ですが、私にとってはとても大事なメモです。 一応、交番に届け出たのですが「盗まれた」と言ってもまともに取り合ってくれませんでした。大金が入っていたわけではないからです。意気消沈して家に帰りました。そうしたらその晩、 「お前のカバンを“拾った”から取りに来い」 という電話が自宅にかかってきました。 これは「ドロボウ」からの電話だと直感しました。カバンは落としていません。カバンは新橋の中華料理店で私の席に置いていたのです。カバンが勝手に動くわけがありません。「カバンを取りに来い」と言っていますが、ドロボウの家に行くのも怖い話です。それはともかく、ここが一番肝心なのですが、なぜドロボウが私の家の電話番号を知っていたのでしょうか? 実は、私は手帳を開くとすぐに目がつく場所に 「この手帳はわたしにとってとても大切なモノです。拾った方には5000円を差し上げます」 と記し、横に自宅の電話番号を書いておいたのです。 カバンを盗んだ泥棒は、あまり高価では無さそうなカバンを換金するよりも、現金5000円をもらえる方を選んで私のところに電話をかけてきたのだと感づきました。 電話がかかってきたのは、日曜日の夜中でした。誰か一緒に行ってくれる人を探すような時間ではありません。1人で行くのは怖いので、呼ばれた泥棒が住んでいる住居近くにある交番に相談に行きました。しかし、警官は取り合ってくれません。 仕方なしに1人で5000円を持ってドロボウ宅に赴きました。無事、カバンはドロボウ宅に鎮座していました。5000円を渡し(泥棒に追い銭)すんなりとカバンを返してくれるかと思ったら簡単ではありませんでした。「カバンを無くしたのは、お前(望月)に悪いモノが付いているからだ。だから、私(ドロボウ)が信心している宗教に入信しろ、信心したらそういう悪いことは起きない」などと、延々お説教が始まりました。盗人猛々しいとは正にこのことです。 内心「ドロボウがナニヲイウカ」と思っていました。しかしカバンとカバンの中に入っている手帳と手術ノートが大事です。1時間近くドロボウのお説教をおとなしく聞いて無事カバンと共に家に帰りました。お説教を聞いていた1時間本当に長かったです。 仏壇も買えとかなんとかかんとか言われ、話を躱すのに苦労しました。 色々と教訓を得ました。 大切なモノに「この○○はわたしにとってとても大切なモノです。拾った方には5000円を差し上げます」と書いてあると盗まれても返ってくる可能性があることを知ったのは良かったです。それ以降、大切なモノを盗まれたことはありませんが。 なお、こういう場合、警察が頼りにならないことがよくわかりました。皆さんも「他人にとっては無価値でも自分にとってはとても大事なモノ」には、 電話番号(今なら携帯電話の番号) 拾ったら幾ばくかのお金を進呈します(いくらでも良いと思います) と記すことをお試しください。なお、自宅住所は記さない方が安全です。念のため。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/08/17 前回より続きます。「コレラからコロナを考えよう」という主旨で書いています。 前回、スノー医師の主張を受け入れ「1854年9月8日井戸Qは閉鎖され、使われなくなった」と記しました。 その後、スノー医師の予想が当たり、ソーホー街でのコレラ患者は激減しました。 1854年8月28日に始まったソーホー街でのコレラ禍は9月8日に収まったのです。 この間、11日。鮮やかに収束しました。 COVID-19もこのように収束できれば良いのですが、なかなか難しいでしょう。ウイルスはとても「厄介」で複雑です。前々回、チフスの健康保菌者だった「チフスのメアリー」のことを記しました。COVID-19も健康保菌者が問題です。 つい最近出た中国からの論文(文献8)によると、なんと無症状COVID-19保因者の方が、有症状のCOVID-19保因者の方より長くウイルスを排出しているのだそうです。NATURE MEDICINEに掲載された論文です。これがCOVID-19の特徴だとすると、COVID-19の蔓延を止めるのは極めて難しいです。COVID-19が広がるのを防ぐには、韓国、台湾などが行っている「徹底したPCR検査」を行って、無症状COVID-19感染者を見つける必要があるのかもしれません。まだその点議論があり、定まっていません。 歴史には転換点があります。前回紹介した「井戸Qを1854年9月8日に閉鎖したこと」も歴史の転換点の1つです。大きな転換点です。それまでに信じられていた「瘴気説」を覆し、「科学の目」で感染症を征圧した記念日と言っても良いかもしれないです。 なお、スノー医師だけで、この偉業「コレラ患者が激減」が成し遂げられたわけではありません。 ソーホー街の担当をしていたホワイトヘッド副牧師の協力があって、初めてこの偉業は成し遂げられました。スノー医師が仮説(井戸Qの水がコレラの原因)を立て、それをきちんと証明したのがホワイトヘッド副牧師です。 スノー医師の仮説を、その原因まで確かめたホワイトヘッド副牧師 ホワイトヘッド副牧師(Reverend Henry Whitehead:1825-96)は、オックスフォード大学リンカーン校出身で英国国教会に所属していました。大学を出て最初に就職したのが、ロンドンのソーホーにある聖ルカ教会で、そこで副牧師(下級司祭ともいう)となっています。ソーホー街の人びとにとって、彼がこの地にある教会に勤務していたのは僥倖でした。 ちなみに、日本に聖路加国際病院がありますが、聖ルカが由来です。聖ルカは「医師」であったので医師の守護聖人とされています。それゆえに、聖ルカを冠した病院は世界中にあります。つまり医業と関係が深いのです。 ホワイトヘッド副牧師がこの、医業と関係の深い聖ルカ教会に勤務していたのも何かの因縁かもしれません。ホワイトヘッド副牧師は人付き合いが良く、教区の人びとに親しまれていました。後にこれが役立ちます。 さて、そんなホワイトヘッド副牧師の出番は、井戸Qの閉鎖からしばらく経ってからです。ソーホー街のコレラは井戸Qの閉鎖で収束しましたが、井戸水原因説に納得いかない人びとは「瘴気」を探すべく、調査をしていたのです。あちこちの瘴気(匂い)とコレラを関係づけるために、膨大な公的調査をしています。当たり前ですが、まったく見当外れでしたが、「見当外れ」という結果が残っただけ、良かったと愚考します。調べて「記録」したから見当外れであることがわかるのです。一番悪いのは「調べていないこと」、あるいは「調べても記録を残していないこと」です。 今、コロナが流行っています。さまざまな流行原因についての推論、議論、そしてその検証がなされています。リアルタイムにそれを見ていますが、まだ、本当に何が起こっているかわからないです。 コレラの話に戻ります。 とにもかくにも、ソーホー街のコレラは収束しました。それで「良かった、良かった」で終わらなかったのが凄いのです。今でも、何となく事が収まるとよく原因を追及もせずに「良かった、良かった」で終わってしまうことも多いのですが、当時のロンドン市民に感謝しないといけません。 当時のロンドン保健衛生担当者は「瘴気説」です。地元の人びと(ソーホー街教区)は瘴気では説明がつかず、スノー医師の言うこと(井戸水がコレラ蔓延の原因)が正しいかもしれないと思い始めていましたが、ロンドン保健衛生担当者は聞く耳を持たなかったのです。 ソーホー街の教区役員(注:今の日本なら自治会でしょうか?)はスノー医師、ホワイトヘッド副牧師達に声をかけ、自分たちで調査を始めました。日本で自治会がコレラの調査をするでしょうか? まったく想像がつかないです。それだけ、自分達の住んでいる地域に蔓延したコレラに対する恐怖が強かったのかもしれません。 「井戸Qの水を飲んでいた人」は確かにコレラに罹っていた 当初、ホワイトヘッド副牧師は、スノー医師の「コレラ蔓延の原因は井戸水にある」という説に懐疑的だったのです。井戸Qは永らく使われていたし、「井戸Qの水を飲んでいない人びと」もコレラで死んでいたのを教区担当者として見ていたからです(これが間違いだったことが後に判明します)。 ホワイヘッド副牧師は、教会で信者に教えを説くとき、信者を見渡すと何故か独居して貧乏で痩せ衰え困窮していると思われる人が多く生き残っているのに気づいていました。 普通の病気なら、裕福で栄養状態の良い人が生き残る筈なのに、ソーホー街で発生した、この年のコレラは違ったのです。何となく変だと思っていたのです。 教区の調査会(今なら自治会調査会とでもいうのでしょうか?)が始まり、ここがホワイトヘッド副牧師の偉いところなのですが、住民や元住民(コレラが発生してすぐに多くの住民が逃げ出していた)に手紙を書いて調査をしたのです。帰ってきた返事が約500通といいますから、それほど凄い数の手紙を書いたのです。 それでわかったことは 「井戸Qの水を飲んでいた人」は確かにコレラに罹っていた 「井戸Qの水以外の水を飲んでいた人」もコレラに罹っていた の 2点でした。1.はスノー医師の仮説と一致します。2.は一致しません。しかし、ここもホワイトヘッド副牧師の偉いところなのですが、「井戸Qの水を飲んでいないのにコレラに罹った」人の調査をしたのです。その結果、恐ろしいことが判明したのです。「井戸Qの水を飲んでいない」と言っていた家族の話を良く聞いてみると、それら家族の「水汲み仕事」は「子供達の仕事」で、生き残った子供達に聞くと、「井戸Qの水を飲んでいない」と言っていた家族も実際には子供達が「井戸Qの水」を汲んでいました。「井戸Qの水を飲んでいない」と言っていた家族でコレラを発症した人も、実は子供達が汲んできた井戸Qの水を飲んでいたことがわかったのです。 これで、謎が解明されました。 実際にホワイトヘッド副牧師が計算してみると、井戸Qの水を飲んでいなかった人のコレラ発症率は1/10だったのです。 ホワイトヘッド副牧師が見つけた、コレラ井戸Q原因説を裏付ける「証拠」 井戸Qの水が怪しいことは解りましたが、元々ホワイトヘッド副牧師もこの井戸Qの水を好んで飲んでいたのです。井戸Qの水は、澄んでいて人気がありました。その井戸Qの水が、ある日を境にコレラ発症原因になると言われても合点がいきません。しかも井戸Qは、すでにロンドンの舗道委員会が調べていて、壊れてもいないし、井戸水を汚すような汚水が流れ込むような構造ではないことも確かめていたのです。 汚染されていない井戸水が急にコレラの原因になるなら、地下水からコレラの原因が湧き出たのでしょうか? 変です。ホワイトヘッド副牧師は困ってしまいました。スノー医師の言う「コレラ井戸Q原因説」を裏付ける証拠がないのです。 しかし、その「解答」は、なんと、スノー医師の論文から得られたのです。 スノー医師は「コレラ患者の何らかの排泄物が井戸Qに入り込んだ可能性」と「平常時の井戸Qの水は何も問題が無いこと」を論文に記していました。ホワイトヘッド副牧師は「コレラ患者の何らかの排泄物が井戸Qに入り込んだ可能性」を調べるために、原点に戻ってコレラ発症歴を見直しました。 ソーホー街のコレラは、前回紹介したように「1854年8月28日、午前6時、ソーホーブロードストリート40番地に住むルイス家の赤ん坊が嘔吐と下痢をし始めたのが始まり」でした。 ホワイトヘッド副牧師はそのルイス家に赴き、赤ん坊がコレラに罹ったときの状況を母親から聞き出しました。コレラに罹った赤ん坊の便で汚れたおしめを洗った水を井戸Qの横にあった「汚水溜め」に流したことを突き止めたのです。 井戸Qがやはり怪しいと思ったホワイトヘッド副牧師ですが、すでに井戸は調査され、問題無いとされています。ここで普通の人なら止まってしまいますが、彼は普通の人ではなかったのです。 ホワイトヘッド副牧師が悩んでいたちょうどこの時、スノー医師が論文を持ってきました。それには「井戸Qの水は外的要因でコレラの原因物質が入り込んだのではないか?」という推論が書かれていました。 それを読んだホワイトヘッド副牧師は「井戸Q」と井戸Qの側にある「汚水溜め(最初にコレラに罹ったルイス家の赤ん坊のおしめを洗った水を捨てた場所)」との関係に思い至ったのです。そして、これが凄いのですが、実際に汚水溜めと井戸Qの両方を同時に調べたのです。こういうところが、常人と違います。調べたら、恐ろしいことがわかりました。汚水溜めには裂け目があり、貯まった汚染水が井戸Qに染み出していたのです。 これで全ての輪がつながりました。スノー医師の「推論」が確かめられたのです。長年にわたって飲まれていた「井戸Qの水」自体に問題はなかったのです。汚水溜めと井戸Qを結ぶ「裂け目」がソーホー街にコレラが蔓延した原因であり、井戸Qの閉鎖でコレラが収束した要因でした。 汚水溜めの使用を止めて、汚水溜めを修復して、井戸Qに汚水が流れないようにすれば、井戸Qの水は普通に飲めたのです。スノー医師の推論を、その原因まで確かめたホワイトヘッド副牧師の功績は大きいのです。 これは以前も紹介したスノー医師が書いた「コレラによる死亡者をプロットした地図」です。この地図はスノー医師の苦心の賜物です。どこそこに何名と書いていたら平面的で解りづらいので、死亡者の数に応じて黒いマスを増やしたのです。こうすることで、どこでどれだけのコレラ死亡者がいたかが、直感的にわかるようになったのです。平面的理解を立体的に、直感的にわかるような地図を考案したのです。こうすることで井戸Qの側ではコレラ死亡者が多いこと、井戸Qの側だけれど死亡者が少ない施設(救貧院、ビール工場)が誰にでも解るようになったのです。 そしてそれを裏付けたのが、くどいようですが、ホワイトヘッド副牧師です。地元のことを熟知し、皆に好かれていたホワイトヘッド副牧師がいてこそ、「疫学の始まり」である「ソーホー街コレラの収束」が歴史に残ったのです。ホワイトヘッド副牧師は医学を学んだことはありません。だから予断を持たないで冷静に分析できたのかもしれないです。 この文章を書いている時点でCOVID-19の収束はまったく見えません。2020-07-24で世界中のCOVID-19感染者は1500万人を越えています。「コレラからコロナを考えようという」主題で文章を書き始めたのが、2020年の2月でした。現代の「スノー医師」「ホワイトヘッド副牧師」が現れて鮮やかにCOVID-19を収束させて欲しいと心より思いつつ、この主題で検討は終えたいと思います。 個人的には引き続き情報を集めて、検討を続けます。いつの日か笑顔で「COVID-19」の収束について書くことができれば良いなと思っています。 なお、今さまざまな「専門家」の方がCOVID-19について、研究、検討、疫学、治療法の確立、ワクチン開発、治療薬の開発などを行っています。実は「新しく現れた病気の専門家(平たく言えばCOVID-19の予防法、治療法、的確な診断方法など全般に通じている方)」はまだいません。 誰でもできる予防方法をいくつか列挙します。参考になれば幸いです。 COVID-19 誰でもできる予防方法 手を洗う。 コロナウイルス(正確にはSARS-CoV-2)が人体に入る箇所は3つあります。 (1)口 (2)鼻 (3)目 の3箇所です。手をできるだけ口より上に持っていかないことが必要です。もちろん目が痒くなったり、鼻がむずがゆくなったりするでしょう。その際は、きっちりと手の消毒(アルコール or 石けん)を行ってから、手を目や鼻、口元へ持っていきましょう。これだけで随分と違います。 コロナウイルス(SARS-CoV-2)は感染すると唾液に大量に現れます。他人の唾液が自分の目、鼻、口に飛ばないようにすることが必要です。無症状感染者(SARS-CoV-2を排出しているが発症していない)も多いので、自覚症状は無くても自分の唾液が他人に飛ばないようマスクをしましょう。会食するときはできるだけ横並びで食べるようにしましょう。向かい合って食べる場合、唾液が飛ばないように注意しましょう。 糖尿病、高血圧など持病の治療を受けることも必要です。COVID-19はサイトカインストームという全身の反応を起こすと重症化します。血管に障害を生じやすい糖尿病、高血圧などの治療がきちんとなされていない状態でCOVID-19に罹ると重症化しやすいので、現在治療中の方はぜひ主治医と相談してください。 喫煙している方はこれを機会に禁煙をしてください。喫煙者は非喫煙者に比して約2倍、COVID-19に罹りやすく、罹った場合の死亡率も非喫煙者に比して高くなります。 いわゆる「夜の街」では、喫煙、アルコール多飲、唾液が飛びやすいなどの条件が重なりやすいので注意が必要だと思います。 以上です。 1人1人の自覚で予防できることがあります。COVID-19が収まるまで頑張りましょう。 余談 コレラ菌はロベルト・コッホが発見したと思われていましたが、イタリア人医師フィリッポ・パチーニ(Filippo Pacini、1812年-1883年)の方が先にコレラの原因菌を発見し、「Vibrio cholerae」と名付けていました。論文にしたのが1854年です(文献9,10)。1884年にロベルト・コッホがコレラの原因菌を発見する30年前です。1854年はソーホー街でスノー医師、ホワイトヘッド副牧師がコレラを制圧した年でもあります。コレラの歴史で1854年は特別ですね。 コレラ菌の学名は、当初コッホが命名した「Vibrio comma」が使われていましたが、イタリア人医師フィリッポ・パチーニが先に見つけていたことがわかり、現在の正式名称は「Vibrio cholerae」となっています。 ちなみに「Vibrio」とはラテン語で「動き回る」を意味します。コレラ菌はよく動くのです。 パチーニが作ったコレラ菌の標本(University of Florence, Museum of natural History, Biomedical section所蔵)に書いてある言語はイタリア語です。イタリア語の解読についてはフランス在住の言語学者小島剛一氏よりご教示いただきました。氏に拠りますと「判読できない文字があるため正確な翻訳はできませんが、大体次のような内容になる」そうです。なお、「ʃ」は「s」の古い筆記体とのことです。 1.左側の筆記体の文字 Colera →コレラ Aʃiatico →「アジア系の」 Oʃʃerva□□ →観察□□ 2.中央の上の活字 Metodo di Filippo Pacini →フィリッポ・パチーニの手法 3.右側の筆記体の文字 Corroʃioni ʃuperficiali della mucoʃa della parte media de l’inteʃtino tenue →小腸の中央部の粘膜の表層部の浸蝕 【参考文献】 野村裕江 (著)「江戸時代後期における京・江戸間のコレラ病の伝播」地理学報告 79巻 p1~20 スティーヴン・ジョンソン (著)「感染地図」河出書房新社 (2007年刊) Isabel Rosanoff Plesset著Noguchi and His Patrons Fairleigh Dickinson Univ Pr (1980/10/1) 邦訳もあります。 ウェンディ・ムーア (著)、 矢野 真千子 (翻訳)「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」河出文庫、2013年 Frerichs RR et al. Nepalese origin of cholera epidemic in Haiti. Clin Microbiol Infect. 2012 Jun;18(6):E158-63. 石 弘之 「感染症の世界史」角川ソフィア文庫 金森修 「病魔という悪の物語(チフスのメアリー)」ちくまプリマー新書 2006年 Long QXら、Clinical and Immunological Assessment of Asymptomatic SARS-CoV-2 Infections。 Nat Med. 2020 Jun 18. doi: 10.1038/s41591-020-0965-6. Filippo Pacini:Osservazioni microscopiche e deduzioni patologiche sul cholera asiatico. Gaz Med Ital Toscana. 1854; 6: 397-405 D Lippi:The greatest steps towards the discovery of Vibrio cholerae、Clin Microbiol Infect . 2014 Mar;20(3):191-5 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/07/27 45年という短い人生で多種多様なことを成し遂げたスノー医師 前回より続きます。 1854年8月のロンドン、ソーホー街でのコレラを収束させたスノー医師とホワイトヘッド副牧師の話です。 最初にスノー医師を紹介します。 スノー医師は、45年という短い人生で多種多様なことを成し遂げています。苦労人というか、たたき上げです。いわゆるエリートではありません。 スノー医師は、ヨークシャーの労働者の長男として生まれます。14歳の時にニューカッスル・アボン・タインの外科医に弟子入りします、この外科医修行中に1831年のイギリスコレラ禍を体験。コレラを研究する契機になったとされています。 当時のイギリスで「医師」になるには3つの方法がありました。 薬剤師に弟子入りし、薬剤師協会から「医者の処方する薬を処方することや簡単な外科処置を行うことができる」許可を得て医業を開業する方法 薬剤師さん+αのような職業形態があったのですね。 医学校に進学、王立外科医師会の認可を得て「一般開業医」「外科医」の資格を得る方法 大学に進学し、「医学博士」の称号を得て「内科医」の資格を得る方法 の3つです。もちろん3.が一番良いのですが、簡単では無いです。費用もかかります。 スノーは最初に外科医に弟子入り、次に2.を選択、ハンテリアン医学校に進学「薬剤師」と「外科医」の資格を得て、ロンドンでクリニックを開業します。彼は無口で愛想も悪かったのですが、病気の観察力には優れたものがあり、患者さんが多く訪れるようになり、経済的に成功します。 彼はそれだけでは収まらず、26歳から医学論文を書き始め、最初の論文は「LANCET」に掲載されています。以後、10年にわたり毎年平均5編の論文を投稿しています。天然痘、血管病、猩紅熱など内容は多岐にわたっていました。さらに上を目指し、30歳にしてロンドン大学で「医学士」の学位を取得、翌年難関の「医学博士試験」に合格しています。念願の「内科医」の資格を得たのです。1844年のことです。 普通ならここで終わりですが、彼は更に別なことにチャレンジします。それは「麻酔」です。 麻酔は色々とその創始者について言われています。歯科医師であるホーレス・ウェルズ、歯科医師であるウィリアム・T・G・モートン及び、医師のロングです。加えれば、日本人医師華岡青洲も創始者かもしれません。ここでは深入りしません。論文で確かめられるのはクロウフォード・ウィリアムソン・ロング(Crawford Williamson Long、1815年-1878年)です。彼が世界で最初に全身麻酔を行っています。1842年3月30日のことです。ジョージア州ジェファーソンという街でのことです。患者ジェイムズ・M・ベナブルの頸部腫瘤を、エーテルガスを用いた全身麻酔を行って、ロングは切除しました。そのことを後に論文にしています。 その後、エーテル、笑気、クロロホルムなどが「全身麻酔」に使われるようになりました。その全身麻酔の創始期にスノー医師は居合わせたのです。ガスによる全身麻酔は、今でも何故「効くのか」わかっていません。不思議な話です。 それはともかく、当時、様々なガスによる全身麻酔が最初はアメリカから、そして世界中に広まります。そういう時代にスノー医師は「全身麻酔」を積極的に取り入れました。当時、エーテル、笑気、クロロホルムなどのガスが使われましたが、どういう濃度のガスを使えば効果的か不明でした。スノー医師はこの濃度を研究したのです。 スノー医師がなした麻酔学への貢献を挙げます。 エーテルは温度に影響されるので室温とエーテル濃度の関係を明らかにしました。 エーテル濃度を調整する器具を作成しました。 1947年、32歳で世界最初の「麻酔専門医」になっています。 そしてエーテルやクロロホルムも使用した麻酔を英国に広めます。ついには当時のビクトリア女王の出産の麻酔を依頼されるようにまでなっています。凄いですね。 彼は麻酔に関する実験は全て自分を使っていました。自分で自分に麻酔をかけています。危ないですね。彼は自宅に動物をたくさん飼っていました。動物を使って実験し、自分にも様々な濃度の麻酔をかけて、どれくらいで麻酔が効くか、その持続時間はどれくらいか調べていたのですね。意識が無くなる直前に時間を記し、意識が戻った時間を記し、どういう麻酔が1番効くか実験していたのです。彼の学んだハンテリアン医学校の創始者、ジョン・ハンターに似ています。というか、ハンターの教えを忠実に守ったのでしょう。 スノー医師が行ったコレラの「実地調査」と「統計調査」 普通の医師なら、王室に出入りできるようになったら、それで満足します。しかし、彼は満足しません。今度は、徒弟時代に経験した「コレラ」を研究することにしたのです。スノーは「多能」で「勤勉」でした。スノー医師の多能さがロンドン市民を救うことになったのです。 スノー医師が行ったのはコレラの「実地調査」と「統計調査」です。 「実地調査」とはコレラの流行った地域、場所を調べること、その場所の「水道、下水道、ゴミ、etc. 」の状態を調べることです。 「統計調査」とは、コレラの発症人数、多発する地域、多発する季節などを調べることを指します。 ここでも「記録」が物を言います。ロンドンにはそういう調査記録があったのです。 それを分析し、どうやらコレラ患者はロンドン市の南には少ないこと、空気の良い上流階級が住む高地でもコレラが発症することなどから「コレラは水を介して伝染する」と気づき、そのことを1849年に「コレラの伝播様式について」という論文にし、自費出版しています。 麻酔医として働きながらの研究です。凄いことだと思います。元々は「外科医」でそれから「内科医」とない、世界初の「麻酔科専門医」となり、麻酔科医としてとても忙しく働きながら、夜には時間を作ってコレラの研究も行っていたのです。「二兎を追う者は一兎をも得ず」と言いますが、彼には当てはまらなかったのです。 この論文から5年が経った、1854年、ロンドン、ソーホー街でコレラが流行り始めます。 最初は1854年8月28日、午前6時、ソーホーブロードストリート40番地に住むルイス家の赤ん坊が嘔吐と下痢をし始めたのが、コレラの始まりでした。汚れたおしめを洗った水をブロードストリートにある「汚水溜め」に流したのです。こういう「記録」が残っていたのです。この赤ん坊から始まるロンドンソーホー街のコレラの発症状態、発症場所、発症した家族の状態などが記録されていたのです。後にこれが役立ちます。 さて、話は戻ります。 ソーホー街はスノー医師のクリニックのすぐ側です。当然、スノー医師はこれらの「実地調査」を行います。彼の予想に反して、ソーホー街で使っている水はきれいでした。スノー医師も「あれ?おかしい? 水はきれいだ?」と思ったことでしょう。ソーホー街で使われている井戸水を自宅研究所に持ち帰り、顕微鏡で見たりもしていますが、何もわかりませんでした。 しかし、ソーホー街にあったある井戸Q(仮称)に彼は注目します。 ソーホー街にある貧しい人が暮らす救貧院ではコレラが発症していないこと 同じくソーホー街にあるビール工場の職員にはコレラが発症していないこと 「ある井戸Qの水」を飲んでいる人にコレラが多く発症していること 美味しい水と評判だった井戸Qの水を遠くまで届けている家があり、届けた先でコレラが発症していること ビール工場、救貧院には自前の井戸があり、井戸Qを使っていなかったこと などがスノー医師には解ったのです。もとより「コレラは水を介して伝染する」と主張していたスノー医師は、ソーホー街の教区役員会に「井戸Qの使用禁止、井戸Qの閉鎖」を提案。 1854年9月8日、この井戸Qは閉鎖され、使われなくなったのです。 その後、ソーホー街でのコレラ患者は激減したでしょうか?それとも逆に増えたのでしょうか? ホワイトヘッド副牧師の役割はなんだったのでしょう。 以下、次回へ続く。。長くなり、申し訳ないです。 【参考文献】 野村裕江著 「江戸時代後期における京・江戸間のコレラ病の伝播」地理学報告 79巻 p1~20 スティーヴン・ジョンソン (著)「感染地図」河出書房新社 Isabel Rosanoff Plesset著Noguchi and His Patrons Fairleigh Dickinson Univ Pr (1980/10/1) 邦訳もあります。 ウェンディ・ムーア (著), 矢野 真千子 (翻訳)「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」河出文庫 Frerichs RR et al. Nepalese origin of cholera epidemic in Haiti. Clin Microbiol Infect. 2012 Jun;18(6):E158-63. 石弘之「感染症の世界史」角川ソフィア文庫 金森修「病魔という悪の物語(チフスのメアリー)」ちくまプリマー新書 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/07/13 記録の大切さを考えよう 前回より続きます。 病気の広がり、発症要因を探るのが「疫学」です。疫学とは違いますが、皆さんが医療機関を受診すると、以下のようなことを聞かれるかと思います。 最初に「どうしました?どういう症状があるのですか?」と聞かれますね。その後、 いつから症状が出ましたか? どういうときに症状が出ますか? 食事と関係がありますか? 天気、気温などで症状が変わりますか? 痛みが出るなら、どういう痛みですか? 外国旅行をしたことがありますか?あるなら,どこの国でしょうか? 他に、病気の治療を受けていますか? これまでに他の病気にかかったことがありますか? 何か、特別なモノを食べなかったでしょうか? など、根掘り葉掘り話を聞かれると思います。これを「病歴」と言います。 病歴をきちんと聞き出すのが医療の基本です。上記1-7のような「病気の歴史」を聞き出すのが病歴です。オスラー医師(William Osler, 1849- 1919)は、 "Listen to the patient. He is telling you the diagnosis" 「患者さんの言葉を良く聞きなさい。患者さんは、あなたに診断を告げている」 という有名な言葉を残しています。 ノーベル賞受賞者のバーナードラウン医師の著「治せる医師、治せない医師」にも病歴を聞くことの大切さが繰り返し述べられています。 病歴を聞き出すことは「疫学」に似ています。いつから、どのように、どういう時に、を聞き出すのは患者さんを「疫学」していると言っても過言では無いと思います。逆に言えば「疫学とは“病気の病歴”を聞いている」のだと思っています。それには「記録」が必要です。 「記録が語りかける病歴を聞き出すのが疫学だ」 「病気が語りかける病歴を聞き出すのが疫学だ」 とも言えます。 今、様々なことで、「記録」が話題になっています。医師にとって「記録」をしないことはあり得ないので「記録を残す、残さない」という議論自体が不毛だと思っています。ちなみにカルテ(医療記録全般)には5年間の保存義務があります。 病歴には“歴史”の“歴”の字が入っています。さて、歴史とはなんでしょうか? 古くからある記録を紐解いて、その時代に何が起こっていたかを解き明かす学問です。 古くからある記録の内で、わかりやすいのは文字による記録です。文字が無い時代の記録は「当時使われていた道具」でしょう。道具から色々なことを推測できます。 それはともかく、COVID-19が蔓延している今、様々な記録を残すことが必須だと思います。捨てて良い記録などあり得ません。くどいようですが、COVID-19についてわかっていることはまだ少ないのです。わかっていないことを分析するには記録が必要です。今現在起こっていることを丁寧に記録することが将来の分析に必須です。記録がなければ何も考察ができないからです。 前回示した「各国別の死亡率の違い」も、その違いを合理的に説明できる理由がわかるまでは分析を続けることが必要です。 理由が判明するまで、まだ時間がかかりそうです。こういうときは、すべての記録を残すことが基本で、記録が残っていればいくらでも検討できます。記録をしないで、記憶だけで物事の検討、検証はできません。COVID-19のような感染症を考察するには医療記録だけでは足りません。様々な記録が必要です。「どんな記録が必要か必要でないかは後世が判断すること」です。 「健康保菌者」という概念の始まり COVID-19の話から外れます。 記録がいかに大切かを端的に示す例をお示ししましょう。一見すると病気とは関係のない記録が病気の分析治療予防に役立った顕著な例です。これを読めば「どんな記録も必要」ということがわかると思います。 それは「チフスのマリー」と称された「チフス菌保菌者」発見に関する話です。 1906年ニューヨークに隣接するロングアイランド市でチフスが発生しました。この時、チフスの原因を究明したのが衛生工学の専門家ジョージ・ソーパー(George Albert Soper, II 1870-1948)でした。 彼は医学を学んだ専門家ではありません。元は土木技術者です。主に水道関係の専門家でした。水道を整備することで多くの感染症が減ったからでしょうか?彼は衛生の担当者になります。そして1906年当時このチフスの発生原因追求を依頼されています。彼はチフスが発生した家の周囲の水道、河川、湖、周りの土地を徹底的に調べたのですがどこからもチフス菌は発見できません。 ソーパーが次に行ったことは、チフスが発生した家の方からの聞き取り調査です。そこでわかったことは、その家で雇った賄婦メアリー(Mary Mallon、1869-1938)のことでした。メアリーが来てからチフスが発症したのです。 そこでソーパーはメアリーの「職歴」を調査しました。くどいようですが病歴の調査と一緒ですね。メアリーの職歴はきちんと残っていました。彼女は10年間に8家族に雇われ、そのうちなんと7家族でチフスが発症していたのです。 それに気づいたソーパーはメアリーに彼女の糞便、尿、血液を検査することを頼みましたが、これは断られています。これは当然だと思います。いきなり糞便やら尿やらを調べさせろと言われても、びっくりしてしまいますね。 メアリーはチフスを発症していません。彼女は「健康保菌者」だったのです。メアリーは排便後に良く手を洗わないこともあり、その手で調理をしていたので料理にチフス菌が付いて、それを食べた人が「チフス」を発症したのです。 当時、健康保菌者という概念はありません。結局彼女は、その後の生涯のほとんど20数年間をニューヨークの沖合にあった病院で過ごすことになります。 メアリーからすれば、彼女は健康ですので、なぜ幽閉されなければいけないのかわからなかったと思います。かわいそうな話です。彼女は「チフスのメアリー」というあまりありがたくない名前を与えられ、ソーパーと共に医学の歴史に名前が残りました。 この話から色々な教訓が得られると思います。 当時のアメリカの職歴の素晴らしさです。 メアリーの職歴が残っていなければ、チフスはさらに広がっていたことと思います。私がCOVID-19のことで、色々な記録すべてを残すことを提案しているのはこういうことがあるからです。 COVID-19でも話題になっている「健康保菌者」という概念がここから始まりました。 メアリーの時代から100年は経っていますが、今でも健康保菌者をどうしたらいいかと いうのはコンセンサスが得られていません。COVID-19でも同様です。中国や韓国では、 PCRでSARS-CoV-2が陽性だと、症状が出ていない人をホテルなどに強制的に収容しまし た。日本でももちろん同様な措置を取るようにホテルなどを用意しましたが強制力はな くその効果は疑問視されています。PCR検査を「症状が無い人」に行うことにも議論があります。難しい話です。 病気が発症した時、その病気の経過広がりを調べることで病気の原因を発見する可能性があります。 これはよく覚えておいたほうがいいと思います。医療に関係無い方の方がかえって、物事をフラットに見ることができるのかもしれないです。 1854年、ロンドンのソーホーでコレラが流行った時も「記録をとり続けた人」「記録を分析する人」がいて初めて収束しました。とにかく記録がないと何もわからないのです。 さて、1854年8月のロンドン、ソーホー街でのコレラを収束させたスノー医師とホワイトヘッド副牧師の話に移りましょう。 ジョン・スノー医師(John Snow:1813年-1858年:享年45歳) ホワイトヘッド副牧師(Henry Whitehead:1825年 - 1896年:享年60歳) の2人です。 スノー医師とホワイトヘッド副牧師は、育った場所も学歴も職歴もかけ離れています。コレラが無ければ、2人の人生は交差することも無く、医学の歴史に名を残すことも無かったでしょう。 スノー医師ばかり名前が取り上げられますが、ホワイトヘッド副牧師がいて初めてコレラ収束のピースが埋まるのです。 2020年6月16日、TVでスノー医師が紹介されていましたが、やはりホワイトヘッド副牧師は紹介されていなかったと思います。気がついた時はテレビの番組は終わりかけていました。番組はスノー医師を取り上げていたのは確かです。慌てて写真を撮ったのですが、なぜかナイチンゲールの話になっていました。 次回では最初にスノー医師を紹介します。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/06/29 病原性細菌の発見競争の始まり 前回より続きます。 「コレラからコロナを考えよう」という主旨で書いています。 前々回でコッホが細菌を発見し、コッホの4原則を確立したことをお伝えしました。 コッホが細菌により「病気」が生じることを発見してから、ゴールドラッシュのような「病原性細菌の発見競争」が始まり、実に多くの病原性細菌が見つかりました。 少しだけ挙げてみましょう。 炭疽菌:1876年にコッホが発見した病原性細菌です。世界で最初に見つかった「病原性細菌」です。 結核菌:同じくコッホが1882年3月24日に発見(発表)しています。コッホが結核の研究を開始したのは1881年8月18日であり、結核菌の発見の講演を1882年3月24日にを行ったのです。 コレラ菌:本シリーズで扱っている菌です。1883年にコッホが発見、病原性を確かめています。しかし、1854年:イタリア人医師フィリッポ・パチーニが先に発見していたため、現在、コレラ菌の学名はパチーニ医師が命名した「V. cholerae」に改名されました。 腸チフス菌:1880年:カールエルベルトが発見 ジフテリア菌:1883年クレプスE.Klebsが発見、1884年レフラーが培養に成功 破傷風菌:1889年にエミール・フォン・ベーリングと北里柴三郎が培養に成功 赤痢:1898年、志賀潔が発見、赤痢菌の学名は “Shigella”です。「シガ」に由来します。 ペスト:1594年、北里柴三郎とアレクサンドル・イェルサン(Alexandre Yersin)が同時期に香港で発見、北里柴三郎はLancetに論文を投稿、1894年6月14日に掲載。その翌週、アレクサンドル・イェルサンもフランスのパスツール研究所年報に論文を発表。北里柴三郎が本来の第一発見者で、現在ではそれも認められていますが、残念なことにペスト菌の学名はイェルサンの名前が入った「Yersinia pestis」となってしまいました(参考:医療の挑戦者たち(35)ペスト菌の発見4(北里柴三郎)- テルモ株式会社)。 黄色ブドウ球菌:黄色ブドウ球菌(Staphylococcus aureus )は、歴史的にはKoch(1878年)が膿汁中に発見し、Pasteur(1880年)が培養に成功したとされています。 連鎖球菌;1873年にJoseph Listerが、酸乳から「バクテリウム ラクチス」を発見。これが連鎖球菌族発見の嚆矢だとされています。 Joseph Listerは消毒法の発見者です。 ほかにも、数多くの「病原性細菌」が発見されています。今も、発見されています。最近の有名どころでは、なんといっても「ピロリ菌」でしょう。 以下は余談中の余談です。読み飛ばしてください。 結核菌の発見は3月24日です。昔々、仲の良かった女性の誕生日が3月24日でした。その日に彼女と食事を共にしました。 彼女曰く「今日は何の日か覚えている?わかる?」 私「今日はね、、、。 あ、そうだ。コッホが結核菌を発見した日だ!」 彼女「。。。。。。。。。。」 黙ってしまいました。 もちろん、わかっていて、冗談で言ったのですが、しばらく口を利いてもらえませんでした。冗談でも言って良いことと悪いことがある。時と場合によるのです。。皆様も、是非注意を。。 今も昔も変わらない感染症対策 前回で物理の話を書きました。患者さんと接触しない、距離を保つ、密にならないことでCOVID-19の感染を防ぐのです。 図1 図1は1656年にペストがイタリアで流行した時に描かれた医師の姿です。 くちばしのようなものは今でいうマスクですね。ペストに罹患した患者さんを診察する時につけていたのです。患者さんの話を聞く際、あまり近づくと、ペストに感染しやすいと感覚的にわかっていたのでしょう。 また、長いマントのような服も身にまとっています。これは今で言う感染防御衣でしょう。ペストには「腺ペスト」と「肺ペスト」があり、一般にペストというとリンパ管を冒す「腺ペスト」です。腺ペストは、ネズミ→ノミ→人間という経路で感染が広がります。「腺ペスト」にかかった患者さんのリンパ管から漏れる体液からも感染します。 つまり、ノミ、体液から医師の身を守るため、大仰にも思える服が必要だったのです。ペスト菌が発見されたのは、それから300年後のことです。香港で見つかっています。上述しました。 下の写真2は、今回フランスが配っているマスクです、日本のアベノマスクと違い様々な形状のマスクがあるそうです。中には1656年のペストの時に医師がつけているくちばしのような「マスク」に似ているモノもあるようです。 写真2:フランスで配られたマスク 下に今使われている、感染防御衣を示しました。 写真3:感染防御衣 やっていることは300年前と少しも変わりません。というわけで今も昔も似たようなことやっています。 一昔前までは、医療機関で金銭授受をする窓口、鉄道で切符を購入する窓口など、ガラス張りの仕切りがありその下に小さな金銭授受窓口が備えてあるのが普通でした(写真4)。 「結核」を初めとする感染対策、泥棒対策だと言われています。段々とこのような仕切りのある窓口は減り、仕切りがない窓口が普通になってきていました。しかし、COVID-19対策で、窓口にはビニールのすだれが普通になり、金銭やりとりをする部分もアクリル板などで仕切られるようになってきました。以前のカタチに戻りつつあります。この流れは、一時的ではなく恒久的になると予想します。 写真4:国鉄時代の切符窓口 COVID-19とコレラの大きな違い さて、COVID-19の話に戻りましょう。COVID-19はコレラと大きな違いがあります。コレラと違って、国や地域で罹患率、死亡率が大幅に違うのです。 人口あたりの新型コロナウイルス死者数の推移【国別】 (札幌医科大学医学部 附属フロンティア医学研究所 ゲノム医科学部門) https://web.sapmed.ac.jp/canmol/coronavirus/death.html 国内でも罹患率がかなり違います。現時点(2020-06-21)で、岩手県ではCOVID-19に罹った人ゼロです。東京とは随分と違います。 下に各国別の、人口1,000,000人当たりの死亡数(2020-06-10時点)と平均年齢を示します。 国の横にある数字が死亡数、緑文字はその国の平均年齢です。平均年齢はあの有名なCIAのデータです(https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/343rank.html)。こんなデータもCIAは分析しているのですね。 ベルギー:831 (41歳) イギリス:602 (41歳) スペイン:586 (44歳) イタリア:563 (45歳) スウェーデン:475(41歳) フランス:449 (42歳) オランダ:353 (43歳) アメリカ:345 (39歳) カナダ:209 (42歳) ドイツ:105 (47歳) イラン:101 (32歳) ******** 以下、死亡率が低い国を示します ******** イラク:11 (21歳) 日本:7 (47歳) 韓国:5 (43歳) シンガポール:4 (35歳) ニュージーランド:4(37歳) オーストラリア:4 (37歳) 中国:3 (38歳) 香港:3 (45歳) 台湾:0.3 (42歳) モンゴル:0 (29歳) ベトナム:0 (31歳) 日本とベルギーでは100倍以上、台湾とベルギーでは2700倍も死亡率が違います。モンゴル、ベトナムに至っては死亡者ゼロですが、平均年齢が若いからでしょうか? 台湾はCOVID-19発症初期から、徹底した対策をとったことで有名です。最初に、阿鼻叫喚状態だった中国もいつの間にか日本より死亡率が低くなっています。総じて東アジア諸国は低いのです。一方、悲惨なのはヨーロッパと北米です。 COVID-19のように、地域差、国による死亡率が違う病気はあまりありません。この差が出ている原因を探るのが「疫学」の目的の1つです。死亡率に差が生じる原因がわかれば対策をとることができるかもしれません。そこで、今回のCOVID-19死亡率差を説明すべく様々な仮説が唱えられています。 アジア人はCOVID-19に対する免疫力が高いという人種説、地域による気候風土原因説、温度説、湿度説、紫外線の照射量説なども「仮説」として出ています。BCGを継続して接種している国は死亡率が低いのでBCG仮説が有力です。しかし、今のところ、どの説もまだまだ検証が必要です。まだ、この病気が見つかってから、半年も経っていません。わからないことだらけです。いつの日か「これだ!」と言う説が検証され、COVID-19予防、COVID-19治療に役立てば良いですね。 次回は記録がいかに大切かを端的に示す例をお示ししましょう。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/06/08 コレラ菌混じりの糞尿を飲んでしまったロンドン市民 前回の続きです。 ロンドンにコレラが流行した頃、ほとんどの「病気」の原因は不明でした。「コレラ」もコレラと命名されていましたが原因は不明でした。当時、伝染病が流行る原因として以下の2つが考えられていました。 (1)瘴気説:空気中に漂う瘴気(しょうき)が病気を広げるとする説 ヒポクラテス以来、唱えられていた説です。 現代ならば空気感染ですね。あまり知られてはいないですが、空気感染(飛沫核感染)する病気は3つしかありません。結核、水痘、麻疹の3つです。飛沫感染と飛沫核感染(=空気感染)は別物です。COVID-19は飛沫感染だと言われています。 (2)コンタギオン説:病気にかかった患者と接触することで、未知の何かが健常者に乗り移り病気を広げるという説 元はイタリア人科学者、哲学者、医師のジローラモ・フラカストーロ(1478-1553年)が唱えた説です。 病気はある種の何か「contagium vivim, contagium animatum:注:ラテン語 contagiumは病気を伝染するモノ、vivimは生き物、animatumは生き物」によって伝染するという説です。ジローラモは梅毒を「syphilis」と命名、「シフィリスとフランス病」という本を出しています。梅毒がヒトからヒトへと「伝染する」ことがジローラモには解っていたのでしょう。 この2つが考えられていて、以下のような対策が取られていました。 (1)瘴気予防対策 瘴気による病気の伝染対策として「瘴気」に触れないように、空気がきれいな場所に住む。瘴気が蔓延しないように部屋などの換気を良くする。よどんだ空気の中に身を置かないなどが予防法として知られていました。 (2)コンタギオン予防対策 病気にかかった人との接触をできるだけ避ける。病気に罹った人の使ったものを使わない、触らないなどの方法がとられました。 あれ?当時の瘴気予防対策もコンタギオン予防対策も「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)」に対する対策とまったく一緒です。今でも通用する感染症対策です。 しかし、残念なことに「コレラ」にはこれらの対策は無効でした。 1840年代ロンドンでコレラが流行した時、ロンドン衛生責任者「チャドウィック(Chadwick, Sir Edwin:1800-1890)」は「瘴気」がロンドンに蔓延しないように対策を立てました。 チャドウィックはコレラが発症している地域の下水、汚水つまり糞尿から瘴気が立ち上ると考え、下水をテムズ川に大量に押し流したのです。糞尿を大量にテムズ川に流したことでコレラが流行っていた地域の「糞尿の匂い」は消え、同時に「瘴気」も少なくなり、コレラが減ると思われたのですが、ロンドンでは逆にコレラに罹る人が急増したのです。 今ならさしずめコレラが「急増:オーバーシュート」したのです。 さてコレラ急増の原因はなんだったのでしょうか?答は簡単です。現代のように下水を処理してテムズ川に流したわけではありません。糞尿をそのままテムズ川に流したのです。かなり臭かったでしょうね。 当時のロンドンの上水道(つまり飲み水)はテムズ川の水を利用していました。当時、水を消毒するという概念はありません。テムズ川の水をそのまま取水し、それを飲んでいたのです。。 問題は水の採取場所です。当時のロンドンにはいくつか水道会社がありました。そのうち数社は糞尿を流した場所よりも下流でテムズ川の水を採取していたのです。つまりコレラ菌の交じった糞尿混じりの水を飲用に供していたのです。 その結果、ロンドンでコレラが「急増」したのです。当時のロンドン衛生責任者、チャドウィックには何が何だか解らなかったと思います。 図1:手書き図 テムズ川と上下水道 図1は当時のテムズ川の採水場所と下水の廃棄場所を図示してみました。 「ああ、これはひどい」と私たちが思うのは現代に生きる我々には「病原体と病気との関係」が解っているからです。 「病原体と病気との関係」を世界で初めて明らかにしたのは、フランスの化学者ルイパスツールです。 ルイパスツールは「白鳥の首フラスコ」による実験を行い、微生物が腐敗を生じさせることを証明しました。 普通のフラスコに入れた肉汁を一度熱し、そのまま放置すればたちまち肉汁は腐敗します。腐敗した肉汁のなかには微生物がたくさんいるのが観察されていましたが、この微生物がどこから来るのか不明でした。自然に発生するとする説、空気から微生物が運ばれてくるという説があり、どちらが正しいか解っていなかったのです。 そんな時代にパスツールは図2のようなフラスコを作り、中に「肉汁」を入れ、加熱します。 図2:白鳥の首フラスコ この白鳥のような形状をしたフラスコ内の肉汁は加熱後腐敗しなかったのです。つまり空気と接しないと微生物(=細菌)はフラスコ内に入り込めないのですね。これを発表したのが1859年。パスツールは「微生物」とだけ記しています。科学史に残る偉大な発見です。 次に登場したのがドイツ人医師コッホです。コッホが細菌感染症と細菌との関係を明らかにしたのです。 1876年、炭疽症の原因が炭疽菌であることを証明。コッホは結核菌(1882年3月24日)、コレラ菌(1883年)を発見しています。コッホの弟子は、破傷風菌(北里柴三郎)、ジフテリア菌(レフラー)、腸チフス菌(ガフキー)、赤痢菌(志賀潔)など多くの病原菌を発見しています。まさに「コッホの時代」が到来、感染症治療の大きな転換点です。 コッホは「ある微生物」が本当に「病気の原因菌」となっているかどうかの判定するために以下の原則を、1884年に提案します。「コッホの4原則」です。 原則1:ある一定の病気には、一定の微生物が見出されること 原則2:その微生物を分離できること 原則3:分離した微生物を、感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こさせうること 原則4:そしてその病巣部から、同じ微生物が分離されること 以上です。今でも通用する原則です。 次回に続く。いよいよ前々回ご紹介したコレラの流行をたったの10日で止めたスノー医師とホワイトヘッド副牧師が活躍します。 【参考文献】 文献1:野村裕江著 「江戸時代後期における京・江戸間のコレラ病の伝播」 地理学報告 79巻 p1~20 文献2:スティーヴン・ジョンソン(著)「感染地図」河出書房新社 文献3:Isabel Rosanoff Plesset著Noguchi and His Patrons Fairleigh Dickinson Univ Pr (1980/10/1) 邦訳もあります。 文献4:ウェンディ・ムーア(著),「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」河出文庫、2013年 矢野 真千子(翻訳) 文献5:Frerichs RR et al. Nepalese origin of cholera epidemic in Haiti. Clin Microbiol Infect. 2012 Jun;18(6):E158-63. 文献6:石 弘之 「感染症の世界史」洋泉社 2014年 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/05/25 物理と化学で伝染病に立ち向かおう この原稿は、2020年5月10日に書いています。ゴールデンウィーク中の「自粛」が終わり、少しずつ人出が戻っています。日本では段々とCOVID-19の発症数、死亡数が減少しています。早く収束に向かって欲しいですね。 「コレラからコロナを考えよう」という主旨で前回よりお伝えしています。そうしたら、なんと、本稿を書いていた2020年5月4日に、兵庫県丹波市の歴史を調査する「氷上郷土史研究会」の方が、同市内円通寺のふすまや屏風の下張り文書を調べていたら、その中に1877年(明治10)に流行していたコレラに関する県や内務省の通達文書を見つけた」という新聞記事を見つけました(140年前「コレラ」との闘い 通達文書発見、新型コロナと共通点多く 恐怖に震えた日本人 2020/05/04 丹波新聞)。 その「明治10年のコレラに関する通達文書」に “国境に入る他国人を、各一、検査し、コレラ病あるものは、これを適宜に所置すべきである。” “表見、健康の人たりとも、この毒を輸致することあるがゆえに、これを以て、十全の予防法とすること能はず。” と書かれているのだそうです。これはまさに今の 「ロックダウン」「患者隔離」 「無症候SARS-CoV-2ウイルスキャリアが存在することに対する注意」 と一緒です。 本稿を書き始めたとき、まさかこのような資料が出てくるとは思っていませんでした。絶対的予防法、治療法が無い「伝染病」に対する対処法は100年前も今も変わらないことがわかります。 COVID-19の原因ウイルスは「SARS-CoV-2」だとわかっていますが、原因ウイルスがわかっていても根本的な対処法はまだ見つかっていません。 現時点で医学の面から試みられている治療法、予防法は以下のごとくです。 順不同です。さまざまな試みがなされています。 1. ステロイド吸入:オルベスコ® ARDS治療? 2. 抗マラリア薬:ヒドロキシクロロキン:プラケニル® 3. 抗ウイルス薬: (1)ファビピラビル:アビガン® (2)レムデシビル:ベクルリー® (3)オセルタミビル:タミフル® (4)ザナミビル:リレンザ® (5)ロピナビル/リトナビル配合剤(カレトラ®) (6)リバビリン:レベトール®、コペガス® 4. 抗生物質:マクロライド系抗生物質:アジスロマイシン®など 5. 抗寄生虫薬:イベルメクチン:ストロメクトール® 6. 向精神薬:クロルプロマジン:コントミン® など 7. ニコチン:? 機序不明? 8. 膵炎治療薬:ナファモスタット:フサン® 9. 抗IL-6受容体抗体:トシリズマブ(アクテムラ®)、サリルマブ(ケブザラ®) サイトカインストーム治療 10. ビタミンC 11. ビタミンD 12. 漢方: 補中益気湯、十全大補湯 清肺排毒湯=麻杏甘石湯+小柴胡湯加桔梗石膏+胃苓湯 など… 13. ヘパリン:COVID-19の凝固異常に対して投与 14. ステロイド投与:サイトカインストーム ARDS対策 15. シルディナフィル:バイアグラ® NO産生 でARDS予防? 16. BCG接種:COVID-19を予防? 17. ワクチン:各種ワクチンは開発途上 18. γグロブリン製剤投与 19. 回復後患者さんの血清投与:効果あり、ただし、入手困難 20. インターフェロン投与 21. 女性ホルモン投与:エストロゲン、プロゲステロンなど、治験中 22. 人工呼吸器:呼吸不全治療 23. ECMO:呼吸不全治療 これらの単独、併用、さまざまです。一番良いのは「ワクチン」ができることですが、ワクチンの有効性、安全性を確認するには数年かかると思います。ワクチンができても、ワクチンを否定する人々も結構多いので、いずれそれが問題になると予想します。 例えば、世界的テニスプレーヤーのジョコビッチはワクチン否定論者で、COVID-19に対するワクチンができても「受けない」と言っていますね。 テニス界のスーパースターが「反ワクチン派」の悩み明かす 2020/04/24(ローリングストーン ジャパン) ジョコビッチが新型コロナウイルスのワクチン接種義務化に反対の意向 2020/04/21(テニスマガジンONLINE) 他人事ではありません。日本でも子宮頸がん予防ワクチン(HPVワクチン)の接種率が0.6%と先進国の中では最低です。先進国では60-70%の接種率です。日本は先進国なのでしょうか?ほかの「先進国では子宮頸がんが劇的に減っています」が、日本は減っていません。ワクチンについては色々と考えることがあります。 さて、治療法も予防法も確立されていない「COVID-19」の治療、予防はどうしたらよいでしょうか?特に予防はCOVID-19のワクチンができるまでは、どうやら医学の出番はなく、「化学(ばけがく)」と「物理学」を駆使しての予防が有効です。 化学とは大げさですが、石けんやエタノールなどの消毒薬で手や触れた(る)箇所を清潔に保つことを指します。石けんやエタノールはSARS-CoV-2ウイルスの皮膜(エンベロープ)を破壊するのでウイルスとして作用ができなくなります。エンベロープは脂質(油)でできているので界面活性剤である石けん、エタノールで破壊されるのです。 物理学も大げさですが、他人との距離をとる。ソーシャルディスタンス、3密(密接、密封、密集)を避けること、およびマスクで唾液が飛散することを防ぐこと、などすべて物理学の応用です。 きちんとした予防法が確立されるまでは化学、物理の力を頼りましょう。 4月上旬のこと、TVでニューヨークの病院風景を放映していました。次から次にCOVID-19に罹患した患者さんが担ぎ込まれ、人工呼吸器がつけられ、しかしそれでもどんどんお亡くなりになって遺体安置所が一杯になり、冷凍トラックが病院に横付けされ、そのトラックの冷凍庫に御遺体が運ばれています。病院内に安置する場所さえなくなっているのだと思います。 その先はどうするのでしょう。細菌は宿主がお亡くなりになると細菌も死滅します。ウイルスは違います。宿主がお亡くなりなってもウイルスは存します。それ故に遺族の方も最後のお別れができません。志村けんさんがお亡くなりなった時、このことが広く知れ渡りました。 ブラジル、ニューヨークでは重機で掘った穴に御遺体の多くを埋葬しています。 火葬にできないほど多くの方がお亡くなりになっているか、宗教上の理由で火葬を選択しない方も多いのでしょう。 日本の火葬率は99.9%ですが、2018年イギリス火葬協会発行の資料によればアメリカ52%、英国イギリス77%、独62%、仏40%、伊24%、露10%、台湾97%、韓国84%、タイ80% です。なんとなく火葬率が低い国にCOVID-19による死者が多いような気がします。疫学すればなにか解るかもしれません。 いずれにしてもニューヨークやブラジルの土葬風景は現代の風景とは思えないです。以前勤めていた病院で同僚だったK先生が、今、ニューヨークの病院(BI病院)でCOVID-19患者さんの治療に当たっています。「凄惨」としか表現できないそうです。日本は一時的には収束にむかうかもしれませんが、今冬にどうなるか楽観できないです。 さてコレラの話に戻ります。「罹ったら数日で死んでしまう原因不明の病、死病」が流行ったら、戸惑い、逃げ惑うでしょう。逃げても逃げた先で同じ病気が流行るかもしれません。結局どうしたらよいか解らずに右往左往するしかありません。1854年ロンドンがまさにこの状態でした。当時のロンドンもコレラによる死亡者が相次ぎ、屍体運搬馬車に屍体が乗り切らず、馬車の屋根の上に重ねていたのです。現代のニューヨークの風景と一緒です。 次回はこのコレラから感染症について考えていきます。 【参考文献】 文献1:野村裕江著 「江戸時代後期における京・江戸間のコレラ病の伝播」 地理学報告 79巻 p1~20 文献2:スティーヴン・ジョンソン(著)「感染地図」河出書房新社 文献3:Isabel Rosanoff Plesset著Noguchi and His Patrons Fairleigh Dickinson Univ Pr (1980/10/1) 邦訳もあります。 文献4:ウェンディ・ムーア(著),「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」河出文庫、2013年 矢野 真千子(翻訳) 文献5:Frerichs RR et al. Nepalese origin of cholera epidemic in Haiti. Clin Microbiol Infect. 2012 Jun;18(6):E158-63. 文献6:石 弘之 「感染症の世界史」洋泉社 2014年 今(2020年4月)、アマゾンで見たら凄い値段になっていました。どうしたのでしょう。と思ったら、この本を歴史家の磯田道史氏が2020年4月の月刊文藝春秋で紹介したからだと思い至りました。歴史の専門家である磯田氏が感染症を考えるにはこの本が良いと紹介しています。このために古本市場で値段が急騰したのでしょう。幸い、この本は文庫にもなっています(角川ソフィア文庫)。磯田氏が言うように「病原体vs人間」の戦いの歴史の基本を知ることができます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/04/27 今、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界中に広まり大変なことになっています。この感染症の原因ウイルスは「SARS-CoV-2」と命名されました。SARS(severe acute respiratory syndrome)の原因ウイルスは「SARS-CoV」です。名前は似ていますが、「SARS-CoV-2」は「SARS-CoV」の子孫ではありません。別のウイルスです。 それはともかく、今回のCOVID-19を考えるのに最適な映画があります。それは2011年の米国映画「コンテイジョン "Contagion"」(注:contagion=伝染病)です。 Amazon Prime Videoなどで見ることができます。新しい伝染病が出現した時、 どのように対処するのか? どのように対処すべきか? アメリカのCDC(Centers for Disease Control and Prevention:疾病予防管理センター)はどのように伝染病に対処しているか? アメリカのCDCとはそもそも何か? CDCは何をやっているのか? CDCと米軍の関係はどうなっているか? WHOはどうやって関与するか? などがよくわかります。 感染症とは関係無いですが、この映画の俳優陣は豪華です。 マリオン・コティヤール:エディット・ピアフ~愛の讃歌~でアカデミー賞 マット・デイモン:『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』でアカデミー脚本賞 グウィネス・パルトロー:『恋におちたシェイクスピア』でアカデミー賞主演女優賞 ケイト・ウィンスレット:愛を読むひとで アカデミー賞主演女優賞 ローレンス・フィッシュバーン:『TINA ティナ』でアカデミー主演男優賞候補 ジュード・ロウ;『リプリー』でアカデミー助演男優賞候補 多くのアカデミー賞俳優が出演しています。この中の誰かが主人公という訳ではありません。主人公は「病原体」です。映画の最後はかなり衝撃的で見るとかなり「ぎょっ」とします。 今回の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)を予言したような映画です。ぜひご覧ください。 なお、この映画で重要な役割を演じた世界一の美女とも称される女優のグウィネス・パルトローはCOVID-19について注意を呼びかけています。 人類は多種多様な「感染症」に苦しめられてきた 人類は多種多様な「感染症」に苦しめられてきました。病原体に対抗する手段を持っていなかったからです。人類が最初に手にした感染症に対する武器は「ワクチン」でした。 ワクチンの始まりはジェンナーが天然痘予防のために発明した「種痘」です(1796年)。種痘は世界中にあっという間に広まり、ついに1977年に天然痘という人類を苦しめた病が地球上から消えました。素晴らしいことです。人類vs感染症の戦いの歴史で勝ったのはこれだけです。小児麻痺もようやく地球上から消滅しそうですが、まだどうなるか解りません。 ワクチンの次に手にした武器はサルファ剤(プロトンジル)でした。その後もペニシリンを初めとする抗生物質、抗結核薬、抗ウイルス薬、抗寄生虫薬など様々な武器を手にして「感染症」に対峙してきました。 しかし細菌やウイルスは「耐性」や「変異」という武器を手にして人類に刃向かっています。 人口の増加と共に普通では住めなかったような場所に住めるようになったこと、多くの家畜を飼うようになったことから、今度は「人畜共通感染症」という「病(やまい)」に悩まされるようになりました。元々動物にしかいない細菌やウイルスが人間にも感染するようになったのです。SARS-CoV-2も「コウモリ」に元からいるウイルスだと言われています。 話は逸れます。なぜコウモリなのでしょう。いくつか仮説はあります。 コウモリは哺乳類であること(鳥類ではありません) コウモリの個体数は全哺乳類の20%と多いこと コウモリは長生きすること(約30年) コウモリは不潔?なところに生息すること 土地開発に伴い、人類がコウモリと接する機会が多くなったこと などが挙げられます。恐らく上のすべてが関与するのだと思います。 話を戻します。 歴史上、天然痘、ペスト、コレラ、麻疹、マラリア、結核、エイズ、風疹、インフルエンザ(スペイン風邪)etc.多くの感染症により人類は苦しめられてきました。前述の如く、人類はそれに対する治療法、予防法を手に入れて戦ってきました。人類と感染症と戦いに関する物語はたくさんあります。そのほとんどは負け戦の物語です。下図に日本人の平均寿命を示します。 古い時代の日本人の寿命 平均寿命5歳平均余命 時代男女男女 縄文時代14.614.621.922.0 室町時代15.217.323.1 江戸時代40.042.0 ※注:単位は「歳」、江戸時代は14地域の平均 ※資料:鈴木隆雄(1996)「日本人のからだ―健康・身体データ集」 室町時代まで日本人の平均寿命は10代です。折角産まれても様々な感染症にかかり長生きすることはできなかったのです。そんな中、細菌に対して鮮やかな勝利を収めた物語があります。それも「細菌」「ウイルス」が見つかる前の話です。 話はまたまたそれます。 いま1000円札には野口英世の肖像が使われています。細菌学を勉強した時、その教科書に野口英世の名前はありませんでした。野口は「黄熱病」の研究で有名ですが、野口の黄熱病に関する研究や論文はすべて「間違い」です。 黄熱病はウイルスが原因です。野口英世が生きた時代、ウイルスを見ることができる電子顕微鏡はありません。野口に黄熱病ウイルスが見えたわけも無く野口英世の「黄熱病に関する論文すべてが間違っていたこと」がわかっています(文献3)。それゆえに野口英世の黄熱病対策は的外れでした。 事程左様に感染症との戦いは簡単ではありません。野口英世の業績のうち数個は今も評価されています。いずれ野口英世に関しては良い面、悪い面、野口英世の手はどうなっていたか、手の手術は上手くいっていたのか?などを考察したいと思います。 話を戻します。今回次回は、ロンドンで起きたコレラ禍を鮮やかな手法で制圧した物語を紹介します(主に文献2によります)。ロンドンコレラ禍を制圧した手法から「疫学」が発展しました。今にも通じる話です。 コレラがロンドンに蔓延した時 まずコレラのパンデミック史を簡単に紹介します。 コレラは、これまでに解っているだけで7回パンデミック(世界的流行)を起こしています。7回のうち、有名なのは第3回目のパンデミックです。これはロンドンを直撃し、ロンドンで多数の死者がでます。1852年のことです。 ちなみに日本でもコレラは江戸時代、1822年、1858年と2回にわたって大流行しています(文献1)。コレラはかかるとあっという間に死んでしまう病気です。感染すると3-4日で死亡します。日本では、それゆえに「3日コロリ」と称されていました。自分が刻一刻とあの世に近づいていくのを目の当たりにしながら死んでいく病気とも言われます。 コレラはインドに古来より存在したと思われる病気です。コレラと思われる記載がある文献がインドには紀元前からあるので、そのように予測されるのです。 1493年にコロンブス御一行が世界中にあっという間に広めた「病気」と違ってコレラはインドからロンドンにはなかなか広がりませんでした。コレラにかかるとあっという間に死亡するからです。航海中、ずっとコレラにかかっている船員などいなかったのです。しかし東西の往来が進んだ結果、ついに1832年ロンドンにもコレラは上陸、2万人の死者を出しました。 あっという間に死亡する「コレラ」はとても恐ろしい病気です。コレラはコレラ菌(英語:Vibrio cholerae、学名はVibrio cholera pacini Pacini 1854)を含んだ飲食物を摂取することにより発症することがコッホによって明らかになったのは1884年のことです。 さて、第3回コレラパンデミックとなった1854年のコレラ禍がなぜ有名なのでしょうか?それはこの年のロンドンのソーホー街におけるコレラ禍が、ある医師とある副牧師の「共同作業」によりあっという間(2週間)に「収束」したからです。 医師の名前は「ジョンスノー(John Snow、1813-1858)」 副牧師の名前は「ホワイトヘッド(Henry Whitehead、1825-1896)」です。 彼らの共同作業は後に昇華して「疫学」という学問になり、この2人の名前は医学の歴史に燦然として輝いています。疫学は「集団を対象にして統計学を用いて疾病の原因や傾向を明らかにする学問」です。元は伝染病だけが対象でした。今はすべての疾患に「疫学」による分析が行われています。 ジョン・スノーはハンテリアン医学校出身です。ハンテリアン医学校出身ということで何か、思い出しませんか?ハンテリアン医学校はハンター兄弟が起こした学校です。弟のジョン・ハンター(John Hunter、1728-1793)のことは以前紹介しました(参考記事:110:ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない 血管疾患(4))。 ジョン・スノーはハンタ-から直接学んだ訳ではありませんが、ハンテリアン医学校で はジョン・ハンターの教えが伝わっていたと思います(文献4)。その教えは、 「自分の頭で考えよ」 「常に疑問を持ち、自分の頭で考える外科医をそだてることが必要」 「世の定説は、真の知識というより単なる信仰に基づいている。定説を改めようとするのは定説の誤りを認めて得意になりたいからではなく、自分たちの無知を認めて改めるためである」 「確立された教義に疑問を持ち自分の頭で考えよ」 というモノです。ちなみに種痘のジェンナーはジョン・ハンターの家に住み込んで学んだ文字通りの直弟子です。 ジョン・ハンター一門は、実に多くの人を助ける方法を発明、発見しています。元はこのジョン・ハンターの教えが素晴らしいからでしょう。今でも通用する不変的な思考法だと思います。 下図はロンドンのソーホー街のコレラ発症者が住んでいた場所をプロットした地図です。死者が出た家は濃く印されています。 黒い点がコレラを発症した患者が住んでいる(いた)地点です。地図を見ると患者の多い場所と少ない場所がはっきりとわかります。これを冷静に分析した結果、それまでの定説「瘴気(しょうき)によりコレラは伝播する」を覆し、コレラ伝播の予防法を確立、この年以降、ロンドンでコレラの蔓延を防ぐことができるようになったのです。 ジョン・スノーは、ジョン・ハンターの教え通り、「自分の頭で考え確立された定説を覆した」のです。この地図は病気に「正しく」対処することの大切さを教えてくれます。 自分でCOVID-19に関するデータを収集し、疫学してみる COVID-19の原因ウイルスは判明していますが、それでもCOVID-19を封じ込める方法は定まらず、日本も世界も困っています。それを考えるとコレラの原因となる「細菌」が解っていない時代にコレラの流行を防いだ彼らから学ぶことは多いと思います。 COVID-19の発生場所、患者の年令、性別、発生時期、発生した場所の気候etc.を分析すればCOVID-19が流行る原因、流行る地域がわかるかもしれません。 私も集めたデータからCOVID-19を疫学してみました。 私の予測は次の3点です。1.2.はこの原稿を書き始めた時点(2020/3-1の予想)での予想。3.は2020-04-25時点での予想です。 日本ではCOVID-19は大流行しない オーストリア、スイス、フィンランド、イタリア、デンマーク、ドイツ、米国、中近東、南米では大流行する 西アフリカ,中部アフリカで大流行しない の2つです。数年後、この予測が当たったかどうかわかると思います。 皆さんも、自分でCOVID-19に関するデータを収集し、疫学してみることをお勧めします。 2つほど、誰でもできるCOVID-19分析法を紹介しましょう。 COVID-19分析法その1:論文を調べる ちなみにPUBMEDで「novel coronavirus 2020」で検索すると、2020-04-17の時点で1200編の論文が掲載されています。中国からの論文が圧倒的に多いですね。 PUBMED「novel coronavirus 2020」 https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/?term=novel+coronavirus+2020 NEJM、LANCET、NATURE、JAMAなどの雑誌に載っている新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関する情報を読んでみると面白いです。英語でかかれていますが今はGoogle先生の力を借りれば読むことができます。 なお、COVID-19に関する論文の多くは特例によりfree article となっています。つまりタダで読めるのです。こんなことは稀です。一流雑誌に掲載された論文をリアルタイムにタダで読める機会など滅多にありません。ぜひ読んでみてください。 COVID-19分析法その2:国別、発症数を調べる 以下のサイトなどをご覧ください。 COVID-19 Dashboard https://gisanddata.maps.arcgis.com/apps/opsdashboard/index.html#/bda7594740fd40299423467b48e9ecf6 COVID-19 Virus Pandemic https://www.worldometers.info/coronavirus/ こういう資料を見て考えてみましょう。 次回に続く。 大切な余話: コレラなんて古い病気と思うでしょうが、今でもアフリカ、東南アジアでは流行しています。時に大流行をおこします。直近で有名なのは、2010年、ハイチでの大流行でしょう。これは大地震で壊滅したハイチに派遣されたネパールの国連平和維持活動(PKO)部隊が持ち込んだコレラが原因でした。ハイチではそのために70万人が感染し、8000人以上が死亡しています(文献5)。ハイチの人びとにとっては、大地震に加えてコレラが流行り、文字通り「泣き面に蜂」だったと思います。 【参考文献】 文献1:野村裕江(著)「江戸時代後期における京・江戸間のコレラ病の伝播」地理学報告 79巻 p1~20 文献2:スティーヴン・ジョンソン (著)「感染地図」河出書房新社、2007年刊 翻訳は矢野真千子さんです。矢野さんの翻訳本に「外れ」はありません。多分、翻訳しても読むべき本を選んでいるのでしょう。翻訳も日本語として熟れているので読みやすく、すっと頭に入ってきます。本書も同様です。ぜひ、お読みください。 文献3:Isabel Rosanoff Plesset(著)Noguchi and His Patrons Fairleigh Dickinson Univ Pr 、1980/10/1 邦訳もあります。 文献4:ウェンディ・ムーア (著)「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」河出文庫、2013年 矢野 真千子(翻訳) 文献5:Frerichs RR et al. Nepalese origin of cholera epidemic in Haiti. Clin Microbiol Infect. 2012 Jun;18(6):E158-63. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/04/13 前回、前々回に続き、今まで車を運転してきて学んだ色んなことをお話しします。今回は認知症の方に車をぶつけられたこと、救急治療で経験した交通事故のことです。 13:認知症と交通事故 認知症の方に車をぶつけられたことがあります。 細い道での出来事です。細い道なので、ゆっくりと車を走らせていたら、横の道から出てきた車に追突されました。車の後部です。問題はその後でした。 運転していたのは、かなり高齢な方でした。車を降りて、事故について話をしようと思ったのですがまったく普通の会話が成り立ちませんでした。しかもすぐに逃げてしまったのです。 とっさに車のナンバーを記録して、警察に通報しました。警察が調べてくれ運転していた方がわかりました。しかし「事故なんか起こしていない」と言い張っているとのことでした。認知症が進行していて、警官や家族とも会話が成り立たず、困ったそうです。その後、どうなったか知りません。車の損傷は軽微で外傷も負いませんでしたが認知症の方の運転は怖いですね。 日本は高齢化社会が一気に進んでいます。認知症ドライバー対策が必要です。 「認知症の方に免許証を取らせない」ようにすれば良いのではないかと誰しもが考えますが、それは無理です。免許を更新する際に「認知症の診断」はできないのです。当たり前ですが、免許センターには認知症専門医がいるわけではありません。対策は後述します。 なお、話は違いますが運転を止めると認知症が発症することもあります。あるいは認知症が一気に進むという報告もあります。認知症予防のために100歳まで運転できるようにしようと考えている会社、研究者もいます。こういう取り組みは良いですね。 『CAR GRAPHIC』9月号発売 操ることを科学する、MT車特集(Web CG) マツダ神社藤原大明神新春大降臨祭・03(日経ビジネス) 14:心臓病で事故を起こすことも 心臓病で事故を起こした方を2例、診療したことがあります。 Aさん(50代男性)は、階段から転落して私が勤めていた病院に搬送されてきました。 外傷性急性硬膜下血腫で手術を受けました。入院中、心電図モニターで「脈がおかしい」とのことで脳神経外科の先生から相談されました。心電図記録をみると典型的な「2度の房室ブロック」それもモビッツ(Mobitz)型という怖いカタチの房室ブロックです(ちなみに房室ブロックは1度から3度まであります)。 2型房室ブロックの心電図をお目にかけましょう。いきなり心臓が止まるのがわかりますでしょうか? この方は7秒位心臓が止まっています。3秒以上心臓が止まると「意識消失」が生じます。不整脈が原因で意識消失を生じることを「Adams‐Stokes発作」と言います。 この方はトラックの運転手さんでした。よく聞いたら(これが大切)、これまでに何回も交通事故を起こしているとのことでした。幸い人身事故は起きていませんでした。運転中に「Adams‐Stokes発作」が生じていたのです。 こういう方の治療は「ペースメーカー植え込み」です。この方にもペースメーカーを植え込み以降、Adams‐Stokes発作は生じませんでした。ペースメーカーを移植すればこういう病気の方も普通に運転ができます。 Bさん(60代女性)は、あり得ないような交通事故を起こして搬送されてきました。自分が運転する車を自宅駐車場のブロック塀にぶつけ、ブロック塀は倒れてしまいました。それくらいの勢いでぶつけたのです。 救急当番だったので、診察したら脈が変でした。心電図モニターで確認したら「2度の房室ブロック」それもモビッツ(Mobitz)型です。Aさんと一緒です。何度も心臓が止まっていました。 Aさんと違ったのは「永久的ペースメーカー植え込みを拒否したこと」です。頑として、首を振りません。勝手に退院してしまいました。20年くらい前の話です。結局、また事故を起こして搬送されてきました。しかし、また勝手に退院してしまいました。その後は知りません。 今なら「一定の病気に係る免許の可否等の運用基準」(PDF)が定まっているので、警察に通報します。ペースメーカーを入れることを承諾しないなら、免許が失効させられるでしょう。それなら多分、ペースメーカー植え込みを承諾するでしょうね。 なお、さまざまな病気(心臓病、てんかん、大動脈疾患、脳血管疾患)による悲惨な交通事故が報道されます。病気の適切な治療により、このような悲惨な交通事故は、全てでは無いですが、予防が可能です。 15:これまで経験した交通事故の方の診療で一番可哀想だった患者さんのこと 自動車会社の従業員の方の事故です。この方が事故を起こしたわけではありません。お客さんが同社の車に試乗運転をしていた時にブレーキとアクセルを踏み間違え立木に激突、この社員は多発外傷を負い救急搬送されてきました。 運転をしていた女性(60代後半)は軽症でしたが、同乗していた車会社の若い社員の方はほぼ即死状態でした。立木にぶつかったのは助手席側だったのです。奥さん、小さなお子さんと会社の方が駆けつけて来ましたが言葉の掛けようがありませんでした。家族の方の慟哭を今でも思い出します。 「試乗する時は、よく運転操作を習った方が良い」 と思いました。 16:海外での交通事故 ニューヨークで学会があった時に乗ったタクシーが事故を起こしたことがあります。 空港からホテルまでイエローキャブに乗ったのですが、随分と荒い運転をしていました。「怖いなあ」と思ったら、案の定、衝突事故を起こしてしまいました。 ドライバー同士で喧嘩が始まりました。その間、2時間くらいタクシー内で待っていました。とても怖かったです。 こんな「事故」も自分では避けようが無いですね。 「どうしようも無い、避けられないことが交通事故でもある」 そういうことを実感しました。 このようにあれこれと交通事故から考えることがあります。 車は便利です。しかし、さまざまな事故が生じ得ます。自分でできるリスク管理はした方が良いですね。 自分でできるリスク回避をあげてみましょう。 飲酒運転は絶対にしない スピードを出しすぎない 雨の日には慎重に運転を 運転中はスマホの操作をしない 運転中にTVは見ない etc. できることはたくさんあります。皆さんもお考えください。 社会的にできるのでは無いかと思っていることが2つあります。 すべての車に衝突被害軽減ブレーキを義務づける (実際、2021年1月から新車に対してそういう装置の装着が義務づけられます) あえて衝突被害軽減ブレーキの無い車を運転するなら高額の保険金が被害者に降りるような自動車保険の加入を義務づける の2点です。最近のボルボの新車には、全ての車に、衝突被害軽減ブレーキがついています。スウェーデンは交通事故死ゼロを目指しています。「Vision Zero」と言う政策です。ボルボもそれに応じているのですね。 すべての車にそういう装置が付くに数十年かかると思います。技術が進歩すれば、古い車にも簡単にそういう装置を後付けで装着させることもできるようになると思います。そういう社会になることを促進させるために上記2.のような施策をとるべきだと思っています。 政策を変えるのは大変です。夢物語だと思うかも知れませんが身近にそういうことをなさった方がいます。 私の手術した患者さんは家族が悲惨な交通事故(泥酔運転)に巻き込まれたのを機に国の法律を変える運動を全国的に起こして実際に法律が変わりました。 その患者さんはそれまで特別な社会運動をしたことが無い方でした。しかし交通事故を機に「社会を変える必要がある」「このままではまた犠牲者がでる」という強い思いを持ち、全国を行脚して回り、同志を募り、国会議員を動かし法律を変えたのです。 強い思いがあり、行動力があり、説得力があると、社会が変わるかも知れないという良い例です。いつか、ご紹介したいと思います。 2つ医学的な話を追加します。 1:13日の金曜日には交通事故が増えるという医学論文があります。 1)Is Friday the 13th bad for your health? イギリス BMJ. 1993 Dec 18-25;307(6919):1584-6. 13日の金曜日には普通の日に比して52%も事故が増すのだそうです。 2)Traffic deaths and superstition on Friday the 13th. フィンランド Am J Psychiatry. 2002 Dec;159(12):2110-1. 13日の金曜日には男性1.28倍、女性2.25も交通事故が増えるのだそうです。 キリスト教徒は、13日の金曜日に車を運転する時、過度に緊張するのだろうと推論されています。そういうわけで、13日の金曜日にキリスト教徒が多い国に滞在するときは少し注意が必要です。 2:高齢化社会と運転にまつわる大切な話 高齢者の運転操作ミスによる事故が時々報道されます。逆走、アクセルとブレーキの踏み間違え、などです。上述の如く、衝突被害軽減ブレーキ装着者や自動運転が普及すればかなりそういう事故は減ると思います。 しかしMAZDAはマニュアル車が認知症予防になるという仮定?の元にあえてマニュアル車を作り続けています。面白い試みです。マニュアル車だと手と足をずっと動かす必要があります。確かに認知症予防になるのかもしれません。都会では車の運転をする機会が多くありませんが地方では車の運転が死活問題になります。車の運転を止めた途端に認知症が進行することは多くの医師が経験することです。日本認知症予防学会理事長の浦上克哉先生も「運転時認知障害の早期発見による認知症予防と安全運転」と題し日本自動車工業会の雑誌(平成28年10月15日特集 高齢化社会と交通安全:JAMAGAZINE(PDF))でも同様なことを記しています。 認知症と運転関係はこれから吃緊の問題だと思います。 さらに大切?な話: 地域により「Y県ルール」「M市ルール」「NA走り」「Iダッシュ」という独特なルールがありこれらの地域で運転するには特別な注意が必要です。もちろん間違いです。Y県や某M市だけ、道路交通法が違う訳ではありません。しかし、これらの地域で車の運転をする時には注意が必要です。あまり良いことでは無いです。 ブランド総合研究所が2019年に初めて行った住民視点で地域の課題を明らかにする「地域版SDGs調査」によると、 交通マナーが悪いと自分達が思う県は 1位 徳島県 13.5% 2位 香川県 9.6% 2位 福岡県 9.6% 交通マナーが悪いと思うのが少ない県は 1位 鹿児島県 2.3% 2位 青森県 3.0% 3位 長崎県 3.8% です。県で随分と違うのですね。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/03/30 前回に続き、運転から学んだ色んなことをお話しします。人生危機一髪のことがあるものです。 6:車を運転中、二車線の道路で対向車が私の運転する車の前に現れたこと 大学時代2回目に経験した事故です。自分が起こした事故ではありません。 これは衝撃的でした。今でもこの時のことを思い出すと「ぞっと」します。 ある日の夜中に鳥取から米子に向けて車を走らせていた時のことです。真正面から車が向かってくるのに気づきました。私が走っていたのは、もちろん左側の車線です。二車線しか無い国道です。同じ車線を真正面から車が向かって来たのです。どんどん近づいてきます。この場面を今でも、まざまざと、思い出します。 このままなら、正面衝突します。対向車は猛スピードで近づいてきます。私はスピードを落とし、どうするか、考えました(ほんの一瞬のことですが)。左は水田です。右は対向車線です。運良く対向車線に車は走っていませんでした。クラクションを鳴らす余裕もライトをパッシングする余裕もありませんでした。結局、前から向かってくる対向車とぶつかる寸前右にハンドルを切り対向車線に逃げました。対向車は私の車の左をすり抜け、そのまま水田へ落下していきました。 車を止めて、水田に落下した車を見に行きました。運転していた方は車から脱出していました。水田のすぐ脇にあった農家の方が出てきて何やら猛烈に怒鳴っていました。水田に落下した車を運転していた方は泥酔していました。酔っ払い運転をして、さらに眠ってしまって対向車線を走ってしまったのです。この時、学んだのは、 「人生危機一髪のことがある」 そういうことでした。あの時、ハンドルを左に切っていたら、あるいは対向車が私の車に気づいて元の車線に戻ったら、対向車の後ろに車がいたら等、考えると今でも「ぞっと」します。 7:遮断機のない踏切 これは私自身の事故経験ではありませんが、大学時代に経験した「事故」です。 大学時代、湖山池という湖のほとりに下宿していました。ヨットの無料練習所が下宿のすぐ側にあり、時々、ヨット操作の講習を受けていました。その練習所に行く途中に遮断機の無い「踏切」がありました。踏切警報機だけの小さな踏切です。 ある日、悲惨な事故が起きました。ヨット練習所のインストラクターだった女性が運転する車がその踏切で列車と衝突し、そのインストラクターの方はお亡くなりになってしまったのです。それ以後、なんとなく、そこに通わなくなりました。踏切が怖いのです。 「遮断機のない踏切は気を付けよう」 と思いました。 注:遮断機のない踏切は第四種踏切と呼ばれ2021年の統計では日本全国に2000箇所あります。毎年その数は減っていますがそれでも毎年5名程度の死亡事故が起きています。普通の踏切に比して1.7倍くらい事故発生率が高いので、このような遮断機無しの踏切を減らす様な勧告が出ています(参考:第4種踏切道の安全確保に関する実態調査 <結果に基づく勧告>総務省)。 8:高性能スポーツカーでもろくなことが起きない 医師になってからも、交通事故を見たり、交通事故で搬送されてきた患者さんを診たり、自分でも交通事故を起こしたことがあります。いくつかあげます。 千葉県の救急病院の当直明けで家に帰るため京葉道路を東京に向かって走っていた時のことです。 日曜日の早朝です。当直明けで疲れていたので制限時速を守って走っていました。その横を外国製の有名スポーツカーが猛烈なスピードで走り抜けていきました。「危ないな、この先に急カーブがあるのに……」と思いつつ走っていたら、追い越していったスポーツカーが、案の定、事故を起こし逆さまになって転がっていました。多分スピードが出過ぎていたので曲がりきれずに高速道路の壁にぶつかったのです。 事故直後です。今なら絶対にしませんが、高速道路上で車を止め(注:今でも一般道路なら話は別です。救護します)、ドライバーの救護を行おうと思いました。 車を降り、スポーツカーから体が半分飛び出ていたドライバーに声をかけました。応答はありません。顔がこちらを向いているので近づいてよく見たら、顔と体が逆になっていました。多分、即死です。携帯電話などない時代ですから京葉道路を降りて、警察に連絡をしました。この時の体と逆になった「顔」はしばらく忘れられませんでした。この時、学んだのは 「スピードを出しすぎると高性能スポーツカーでもろくなことが起きない」 ということです。 9:冬の橋の上は慎重に 3次救急診療を行っている病院に30年以上勤めました。交通事故を起こして搬送されてきた患者さんをたくさん診ました。冬の交通事故はスリップによる事故が多いのですが、結構な数のスリップ事故が橋の上で生じていることに気づきました。 橋は、当たり前ですが、下が空間です。橋はそのために地表の温度以下になることが稀ならずあります。道路は乾いていると思って走っていても橋の上は違います。橋の上は凍っていることも多いのです。何例か橋の上でスリップして交通事故を起こした方を多数見てから、 「冬に橋の上を運転するときは慎重に運転することが必要」 だと思うようになりました。 10:人生危機一髪のことがある 同僚だった先生の経験談です。 「高速道路で自分の前を走行していた大型トラックのタイヤが外れてそのタイヤが転がってきた」 「タイヤは自分の運転している車に向かってきた」 「とっさに避けたけれど避けきれず、助手席側の車半分が潰れてしまった」 「運転席側だったら自分は死んでいた」 誰にでも「人生危機一髪のことがある」のです。 11:自分で起こした交通事故 恥ずかしい話ですが、1回だけ、自分でも大事故を起こしたことがあります。夏のある日、中央自動車道を走っていた時のことです。 中央自動車道は長いトンネル、曲がったトンネルが多いです。ある長いトンネルに入る前、少し雨が降っていました。当たり前ですがトンネル内は雨が降っていません、水たまりもありません。時速100kmくらいで走っていました。そして、トンネルを出たら、そこは雪国ではなく土砂降りの雨でした。バケツの底をひっくり返したような雨です。おまけに大きな水たまりができていて、水たまりに入った瞬間、突然車のコントロールを失いました。 ハイドロプレーニング現象です。ブレーキも一切、効きませんでした。あっという間に車は、ガンガンガンガンと音を立てながら、右側のガードレールにぶつかりました。 ぶつかっている時、「もうダメだ。もうお終いだ」と思いました。 人生で一番怖かった瞬間です。こういう時、人生が走馬灯のように思い出されると言いますが、正にその通りでした。色んなことが一瞬に思い起こされました。 幸い後続車はありませんでした。衝突してもしばらく車は動いたので路肩に車を寄せて、車を降りてみると車は悲惨なことになっていました。警察に連絡し、事情聴取を受けた後、大破した車はレッカーで移動させられました。体の方は、多少の打撲で済みました。この事故で学んだのは 「長いトンネル前後では気候が急変する事があるのでトンネルを出る時は減速しよう」 「雨の日は慎重な上にも慎重な運転が必要、ハイドロプレーニング現象は怖い」 ということです。 この事故の後1年くらい高速道路を運転することができませんでした。いわゆるPTSD(Post Traumatic Stress Disorder)です。高速道路に乗ろうとすると動悸が生じるのです。仕方なく下道を運転していました。1年くらい経ったらそういうことは生じなくなりました。「時薬」が効いたのです。 12:人生危機一髪のことがある(2回目) 携帯電話を操作していたドライバーに追突されたことがあります。 ある日の夜、交差点で止まっていました。赤信号です。一番前です。そしたら、いきなり車に衝撃が走り、私の車が前に動いたのです。 車の前は普通に左右に車が走っています。右側から来た車にぶつかるかもしれないと思った瞬間、強くブレーキを踏みました。幸いにも車と衝突はしませんでした。いわゆる「お釜を掘られた」のです。 私の車の後ろにぶつかった車を運転していたのは若い女性でした。車から降りてきて、「携帯でメールを打っていたら、間違えてアクセルを踏んでしまった」「誠に申し訳ありません」「警察を呼びます」「保険会社にも連絡します」「車は責任を持って修理します」とやけに正直で手際が良いのです。何のことはない、大きな車会社の社員でした。 赤信号で止まっていて衝突されたのはこれで2回目です。最初は前からそして後ろからも衝突されたのです。 このことから学んだのは 「人生危機一髪のことがある」(くどいですね) 「交差点で信号待ちをしているときはブレーキを強く踏んでいるべきだ」 「車を運転している時はメールをしてはいけない」 そういうことでした。 なお、この事故でいわゆる「鞭打ち損傷(正式病名は外傷性頚部症候群 traumatic cervical syndrome:TCS」になり、2ヵ月くらい苦しみました。幸い後遺障害は残りませんでした。 次回は認知症の方に車をぶつけられたこと、救急治療で経験した交通事故についてお話しします。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/03/16 高速道路の逆走、高齢者の運転による事故、スマホ使用による脇見運転による事故、突然発症した病気(症状含む)による交通事故が話題になっています。今回は、 自分の体験した交通事故 自分の周りで起きた交通事故 救急治療で経験した交通事故 をします。私は20歳から今まで車を運転してきました。運転について色んなことを学びました。多少とも皆様の交通安全に役立つかもしれません。ご笑覧ください。 1:最初に体験した交通事故の記憶 皆さんの物心がついてから「最初の記憶」は何でしょうか?色々あると思います。親との旅行や幼稚園での思い出etc. 比較的平穏な記憶がほとんどだと思いますが、私は違います。 物心がついてからの最初の記憶は「自動車が田んぼに向かって転落していく」シーンです。 今でもスローモーションのように思い出します。事故を起こした場所を今でも覚えています。今でもそこを通ると少し怖いです。 親戚のお兄さんが運転する車の助手席に乗せてもらっていたのですが、急に車が浮いたと思ったら右側の田んぼに車が転落していったのです。4歳頃の話です。ああ!と思ったら、車は田んぼの中でした。助手席に座っていたので膝を強く打ちましたが、大したことは無かったと思います。 事故後のことはよく覚えていませんが、車が転落して水田に落ちるまでの恐怖感と車が水田に落ちていく様子はスローモーションのように今でも、まざまざと思い出します。 2:バイクに轢かれたことがあります 次の交通事故の記憶はバイクに轢かれたことです。これは小学校低学年の時です。 信号待ちをしていたら左折してくるバイクに足を引かれました。幸い大した怪我ではありませんでしたが運転をしていた方が、何度も家に謝りに来たのでそのことをよく思い出します。 3:初めてうっすらと「死」を感じた交通事故 小学校2年生の時、1つ下の学年にいたHJ君一家4人全員が交通事故でお亡くなりになりました。富士スバルラインを降りてくる時に、ブレーキが効かなくなりカーブを曲がりきれず、車が崖から落ちてしまったのです。 富士スバルラインは前回の東京五輪の年(1964年)に開通しました。開通当時の事故です。スバルラインは急カーブがあり急坂もあります。当時の車はブレーキの性能があまり良くなく、長時間ブレーキをかけていると突然ブレーキが効かなくなることがあったのです。だから 「長い時間ブレーキをかける時は「エンジンブレーキ」を使わないといけない」 と父母が話していたのを覚えています。「エンジン付きブレーキ」なるモノがあると思っていました。バイクの免許を取るとき、初めてエンジンブレーキの意味がわかりました。今でも、長い坂道が続く時は意識して「エンジンブレーキ」を使っています。 HJ君の家は近所にあり通学路が一緒で、HJ君の弟や両親も顔見知りでした。そういう一家4人がいきなり全員お亡くなりになりました。この時大げさに言えば「死」とはこういう風なことなのだと“うっすら”思いました。 今でも交通事故の報道があるといつも、ニコニコしていたHJ君を思い出すことがあります。それくらい衝撃的でした。 4:高校時代の友の交通事故死 高校時代は原付のバイクに乗っていました。通学や登山路までの交通手段に使っていたのです。今から40年前、原付バイクは年間200万台も売れていました。今は年間10数万台しか売れていません。1/10以下です(自工会調べ)。 現在、高校生がバイクに乗ることはほとんど禁じられていますが、私たちの高校時代、バイクに乗る高校生は多かったのです。今では考えられませんね。 高校3年生の正月1日の払暁、同級生のFM君はバイクに乗って初詣に出かける途中に車と衝突し、翌日には帰らぬ人となってしまいました。 葬儀が終わり、憔悴しきったFM君のご両親が「お坊さんに書いてもらった小さなお守り」を私たちに渡し、 「FMの代わりにこれを持って、あちこちに行ってください」 「FMが経験できなかった色んな経験をしてください」 と仰って一人一人にお守りを手渡されました。私は今も持ち歩いています。受験の時、国家試験の時、山に登る時、手術をする時、海外に行く時、あの時もこの時もです。 この時にはっきりと「交通事故による死」とはどういうモノかを実感しました。悲しい出来事でした。 話は変わります。東日本大震災の時、車が渋滞して逃げられず津波に巻き込まれる映像を見ながら「バイクがあれば逃げられる」と思っていました。大地震が起きたらバイクで一目散に山の方に逃げれば良いのです。バイクなら渋滞はしません。震災復興の案を東北各県で募集していた時、 「地震や津波が予想される地域で各戸にバイクを配置すべき、津波が起きそうになったらバイクで逃げるべきだ、バイクが運転できないなら、あるいは雪が降る地域なら“バギー”を配置したら良い」 という案を真面目に書いて応募しましたが「没」でした。しかし、今でも、津波が起きる地域ではバイクやバギーの活用を積極的に推し進めるべきだと思っています。 話を戻します。大学時代:2回、交通事故に遭ったことがあります。 大学生時代、父から譲ってもらった車を運転していました。自分で事故を起こした事はなかったのですが、希有な経験をしました。 5:車に乗っていて、正面からぶつけられたこと 大学時代1回目の事故です。 一度は、鳥取県米子駅の交番前の交差点での出来事です。赤信号で一番前に停車していた時のことです。正面から車が私の方に向かってきてそのまま私の車に衝突しました。対向車の運転手は私の車の右側の歩道に立っていた友人に手を振っていたのです。運転手の顔は左を向いていて、正面にある私の車を見ていませんでした。そしてそのまま私の車に衝突したのです。 幸い、そんなにスピードは出ていませんでしたのでケガはしませんでした。しかしそれでも車は結構壊れました。私の車は古い車でしたが相手の車は「スカイラインの新車」で運転していたのは免許取り立ての19歳の青年でした。 後日、車の修理費用について相談をしたら「過失割合は2:8だ。あなたも2割負担すべきだと言われました」。私は赤信号で止まっていたので私に過失は一切ないはずです。交番の前でしたので、事故の一部始終を、警察官が見ていてきちんと調書を書いてくれていたのが役立ち、結局、全て相手が負担して車を修理してくれました。この時、学んだのは 「事故を起こしたら警察官を呼んできちんと処理すべき」 ということです。 次回に続きます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/02/25 ※文章中に医学的な説明をするためキズの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 前回ご紹介した「A. 湿潤治療(キズ、ヤケドの治療)」「B. 切り傷に対して、できるだけ縫合をしない治療」に続いて、今回は以下についてご紹介しましょう。 C. 白癬に対する治療(足白癬、指間白癬) D. 小感染巣(いわゆる膿)に対する特殊ドレーンを用いた治療 E. 帯状疱疹発症後の痛みを軽減する「特殊治療」 C. 白癬に対する治療 いわゆる「水虫」です。梅雨の季節になると一日中、ジメジメします。湿度が高くなり、不快な日々が続きます。梅雨は、特殊な気候ですので(世界的に稀)、日本は四季ではなく、五季あるいは秋雨も入れて六季とした方が良いと唱える方もいます。 それはともかく、梅雨に湿度が高くなると、足に水虫を生じることが多く、難渋します。湿度が高い日本で、通気性の悪い革靴を履けば、湿気を好む白癬菌が増えるのは当然ですね。日本皮膚科学会によると日本人の5人に1人は足白癬があり、10人に1人は爪白癬があるそうです(https://www.dermatol.or.jp/qa/qa10/q06.html)。国民病ですね。 足にできる水虫を足白癬と言います。一旦、足白癬になると治癒は難しいと考えられています。治療として、 抗真菌剤の塗布、投与 足を乾燥させる→無理ですね。大気の湿度が高いからです。 靴下を毎日交換する。これは普通のことです。 靴を毎日、交換する。使わない靴は乾燥させる。 風呂上がりに良く足指を拭いて乾燥させる。 消毒薬に足を付ける。 とにかく、たくさんの治療方法、予防方法がありますが、なかなか治りません。 白癬治療にはまず、白癬かどうかの診断が大切です。 ※リンク先にキズの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 典型的な足指間白癬です。 この部分の皮膚を顕微鏡で検査して、白癬菌がいれば診断できます。この診断は言うは易く行うも易しですが、診断というか見極めが難しいのです。 ここにいるだろうと思っても白癬菌がいないこともあります。見つからない場合3つのことが考えられます。 実は白癬では無い。別な疾患である。 白癬がいない部分の皮膚を採取した。 すでに市販の「水虫治療薬」を使っているので白癬は死滅していた。 等々の理由で、これは白癬だ、水虫だと思っても、白癬菌が出ないことがあるのです。理由1の極めて白癬に似た病気は「汗疱状湿疹(かんぽうじょうしっしん)」です。別名を異汗性湿疹(いかんせいしっしん)、指湿疹(ゆびしっしん)、汗疱(かんぽう)などと呼ばれることもあります。 足底や手掌にかゆみを伴う小水疱が出現するのです。白癬と発疹の形態が酷似しています。プロの皮膚科医でも「足白癬」と「汗疱」の区別を視診だけで付けるのは難しいのです。 両疾患ともに共通することがあります。 治りがたい。治癒しても直ぐに再発する。 発疹のカタチが似ている。 しかし、治療は違います。 白癬には、抗真菌剤を使います。汗疱には、ステロイド剤を使用します。診断を誤ると大変です。 白癬なのに、ステロイド剤を使うと悪化します。汗疱に抗真菌剤を使っても良くなりません。 どうしたらよいのでしょう。「解」はあり、当クリニックではこの両疾患に共通する治療を行っています。どちらの疾患でも治癒します。特に指間白癬、指間汗疱は劇的に良くなり、再発しがたいです。 症例2:60代女性 足指間白癬で長いこと苦しんでいた方です 。 治療4日目の写真では、ほとんど治っています。 症例3:40代男性 繰り返す足指間白癬に対して治療を行いました。 治療開始前と治療7日後の写真です。 さて、治療法です。種々の理由があり、治療原理、実際の治療方法は現時点では未公開とさせてください。 もちろん保険適応ではない治療ではありません。保険で認められている治療Aと治療Bを組み合わせるだけです。安価な治療です。足指間白癬あるいは「汗疱」でお悩みの方はご相談ください。 D. 小感染巣(いわゆる膿)に対する特殊ドレーンを用いた治療 梅雨になると動物による噛み傷、引っかき傷で受診される方が増えます。イヌや猫も湿度が高いとイライラするのでしょうか。もちろん、梅雨以外の季節でも動物によるケガは発症します。 さて、動物に噛まれると高率に創感染を生じます。 よく間違えられるので細菌に関する勉強をしましょう。 「ばい菌がいること」=「感染=人体に悪影響を及ぼす」ではありません。人体には常在菌がいます。常駐する細菌です。よく知られているのが、大腸菌です。大腸の中には大腸菌がいますが「感染」は起こしません。他にも人体には多くの細菌がいて、人体の健康に役立っています。 感染には次の4つを伴います。 痛み 発赤 発熱:局所、全身 腫脹:腫れること この4つを発見したのがケルスス(Celsus:1世紀頃のローマの医師、セルサスとも言います)で、この4つを「ケルススの4徴」と言います。 虫歯を考えれば解りやすいですね。虫歯にはこの4つ、(1)痛み、(2)発熱、(3)腫れ、(4)発赤を伴います。 ケガ、ヤケドをした直後の痛みは別にして、一旦引いた痛みが再燃する時は要注意です。実はキズの痛みが感染によるモノか、キズ自体の痛みかを鑑別することが大切です。感染なら抗生物質投与が必要です。これは医師でないとわからないです。キズの治療経験が豊富な医師なら鑑別することは容易です。なお、一番わかりやすい注意信号は「動かさないでも生じるズキズキとした痛み」です。 キズに異物があると感染しやすくなります。動物の噛み傷、引っかき傷が感染するのは、噛まれた皮膚の下に異物(動物の唾液、ゴミ)が入りやすいからです。感染の治療には異物の除去と膿のドレーナージ(=膿を外に出すこと)が必要です。これまでは小さい化膿巣のドレーナージは不可能であるとされていました。小さい化膿巣に入れて、ドレーナージを行うことができる様な細いドレーンは無かったからです。 しかし、細いナイロン糸を創部に入れて、膿を流出させる方法(=ドレーナージ)が考えられ、糸を用いた様々な「ドレーン」が考案されました。今、私が使っているのは、伊豆下田診療所 所長の細井昌樹先生が考案した「コヨリ状ナイロン糸ドレーン」です。 先端が丸くなっているのでキズ口に入れても痛くないように工夫されています。素晴らしい工夫です。 さらに、世界一細いステンレス線を用いて試作したコヨリ状ドレーンもあります。 さてこれをどう、使うか例示しましょう。 症例4:ネコに指を噛まれて化膿した患者さん 以前なら抗生物質を投与して経過を見ていました。でも治癒には時間がかかります。ドレーンを入れることで治癒は早まります。 局所麻酔をしてナイロン糸ドレーンを挿入します。 毛細管現象による糸により作られた小孔を伝わって膿が外に出ます。膿が体内からでると痛みが軽減します。 一週間程度で完治します。 症例5:下腿を強打し、感染を併発した患者さん 皮膚の表面だけ治癒して、膿がたまることを繰り返していました。 上述のステンレスワイヤードレーンを入れて皮膚が閉じないようにして膿のドレーナージを図っています。膿がたまらないと早期に治癒します。 小さなキズでも、しっかり治療しましょう。 E. 帯状疱疹に起因する痛みを取る(軽減する)治療 帯状疱疹は水痘,帯状疱疹ウイルス(Varicella Zoster virus)によって生じます。水痘は英語でVaricella、帯状疱疹はZosterです。ちなみに口唇に生じるヘルペスは単純ヘルペスウイルス1型(herpes simplex virus-1)により生じます。 症例6-1:50代男性 数日前から強い痛み伴った発疹が胸部にできて来院されました。服が発疹に触るだけで痛いそうです。 診断は容易です。神経に沿って発疹があります。典型的な「帯状疱疹」です。 治療には、抗ウイルス薬の内服が必要です。以前は1日5回内服が必要でしたが、段々と治療薬の改善が進み、1日に1回、または1日に3回服用するお薬を使います。初期治療をしっかりとしないと帯状疱疹後神経痛という後遺症が残り、いつまでも痛みが残ります。 さて、この発疹の痛みを早期に取る治療があります。通常は抗ウイルス薬を服用して数日経たないと、この強い痛みは引きません。 しかし!当クリニックでは「痛みが出ている発疹部分を湿潤治療材料で覆う」という治療をしています。そうすると、嘘のように(と皆さんが仰います)痛みが引きます。 症例6-2:同じ患者さんの1ヵ月後です。痛みはもちろんありません。 もし、帯状疱疹かな?と思ったら是非、相談してください。早ければ早いほど、治療は効果的です。なお、キズの治療とは関係ありませんが、「帯状疱疹予防ワクチン」もあります。ご希望があれば接種します。お問い合わせください。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/02/10 ※文章中に医学的な説明をするためキズ、ヤケドの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 前回ご紹介した「A. 湿潤治療(キズ、ヤケドの治療)」に続いて、今回は「B. 切り傷に対して、できるだけ縫合をしない治療」についてご紹介しましょう。 B. 切り傷に対して、できるだけ縫合をしない治療 包丁やナイフで手を切ってしまったり(=切創、切り傷)、頭や足を硬い場所(コンクリートなど)にぶつけると皮膚が裂けます(=挫創:ざそう)。切創とか挫創は皮膚が断裂している状態です。このような場合、普通は糸(ナイロン、ポリプロピレン、絹糸など)による縫合を行って治療します。 いわゆる「キズを縫う」のが縫合です。縫合を行うには縫合する部分に局所麻酔を行う事が必要です。局所麻酔の注射は最初痛いですね。また、使う糸、縫合箇所によっては縫合により「魚の骨」のようなキズアトが残ります。キズアトができるだけ残らないようにするには「縫合しない」方が良いのです。 外科医としては縫合したいところですが、キズアトを考えると縫合したくないです。今、切創、挫創を縫合しないで治すさまざまな方法が考えられています。当クリニックでも縫合しないでキズを治す方法を行っています。 (1)1つは特殊なテープを用いた方法 (2)毛髪を用いた方法です(頭部の創に限ります) (3)ステンレスワイヤーを用いた治療 最初に(1)の特殊なテープを用いた方法をお目にかけましょう。 ※リンク先にキズの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 症例1:指を包丁で切ってしまった患者さん 縫合します。 切れている部分を特殊なテープで固定します。 1週間ほど、テープで固定を続けると切れていた部分はきれいに治ります。 症例2:指をお皿で切った患者さん テープで固定、治癒しました。 症例3:顔面挫創:左眼の横をぶつけた患者さん テープで固定します。 きれいに治ります。 どこにでもできるわけではありません。曲げたり伸ばしたりする箇所や足底などは適応がありません。 次に「毛髪」を用いた縫合治療です(くどいですが頭部のキズに限ります)。 毛髪縫合症例1:30代男性 つまづいて頭部を家具に強打した患者さん。 頭皮が裂けています。 髪の毛を糸代わりにして結び、特殊な糊(医療用アロンアルファ)で結び目を緩まないようにします。無麻酔で「縫合」が終わります。 きれいに治ります。 毛髪縫合症例2:3歳男児 転んで頭部をコンクリートにぶつけました。 頭皮が裂けています。普通なら、押さえつけて麻酔をして縫合しますが、当院では頭髪を用いて縫合します。 髪の毛を縫合糸代わりにして結び、医療用アロンアルファで結び目を緩まないようにします。もちろん、無麻酔です。ニコニコしながら治療は終わります。 きれいに治ります。一部、髪の毛が少ないように見えますが、結び目の髪の毛を切ったためです。 毛髪縫合症例3 髪の毛が寂しい方でも治療ができます。この方も硬い場所に頭部をぶつけて頭皮が裂けています。普通なら、局所麻酔をして縫合です。 症例1、2と同様な方法で髪の毛縫合を行います。 このようにきれいに治ります。髪の毛縫合を行って、2日は頭皮を洗うことは止めていますが、それ以降は構いません。 こういう頭皮の切り傷は普通なら、縫合するか、医療用のホッチキスで治療します。「髪の毛縫合」は少し難しいです。髪の毛は細いからです。頭皮の切り傷、挫創を髪の毛縫合で治療している医療機関はほぼゼロだと思います。頭皮にケガをしたら相談してください。 ステイプラーで頭皮を縫合しています。 見るだけで痛そうです。これだけ髪の毛があれば、簡単に髪の毛縫合ができます。 ステンレスワイヤーによる治療です。模式図です。 赤字部分が切り傷 キズの横にワイヤー付き特殊絆創膏を置きます。 ワイヤーを巻きます。 傷口が塞がります。 実際の治療例:ガラスの破片で手を誤った切ってしまった患者さん 次回は、 C.白癬に対する治療(足白癬、指間白癬):いわゆる水虫です。 D.小感染巣(いわゆる膿(うみ))に対する特殊ドレーンを用いた治療 を紹介しましょう。足白癬、指間白癬は簡単に治ります。 動物咬傷は高率に感染(化膿)を伴います。そういう場合、威力を発するのが、特殊ドレーンを用いた治療です。 【参考文献】 夏井睦著:傷はぜったい消毒するな (光文社新書) 夏井睦著:さらば消毒とガーゼ 「うるおい治療」が傷を治す 春秋社刊 Hock MO et al. Ann Emerg Med. 2002 Jul;40(1):19-26. A randomized controlled trial comparing the hair apposition technique with tissue glue to standard suturing in scalp lacerations (HAT study). Karaduman S1et al. Am J Emerg Med. 2009 Nov;27(9):1050-5. doi: 10.1016/j.ajem.2008.08.001. Modified hair apposition technique as the primary closure method for scalp lacerations. 【参考サイト】 新しい創傷治療:http://www.wound-treatment.jp/ 夏井睦先生のサイトです。治療方法,治療経過など盛り沢山です。是非、ご覧下さい。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/01/27 ※文章中に医学的な説明をするためキズ、ヤケドの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 正月明けは仕事をするのが辛いですね(この原稿を書いているのはお正月明けです)。今回から数回にわたり私のクリニックで行っている外科的な治療を紹介します。もちろん、どの治療も「保険診療」です。 なお、本稿で紹介するキズ、ヤケドの治療について講演を行います。 本稿をお読みになって、こういう治療についてご興味を持たれた方はいらしてください。 演題名 「“知って安心!湿潤治療の基礎知識”~正しい知識を身につけよう!~」 講師 芝浦スリーワンクリニック 望月吉彦 日時 2020年3月15日(日) 場所 ちよだプラットフォームスクウェア 東京都千代田区神田錦町3-21(地下鉄竹橋駅徒歩2分) 連絡先 第六回モイストケアフォーラム http://moistcare.org/events/2020-moistcareforum.html それはともかく、今回から紹介する項目を挙げます。 A. 湿潤治療(キズ、ヤケドの治療) B. 切り傷に対して、出来るだけ縫合をしない治療 C. 白癬に対する治療(特に足白癬、趾間白癬) D. 小感染巣(いわゆる膿)に対する特殊ドレーンを用いた治療 E. 帯状疱疹発症後の痛みを軽減する「特殊治療」 F. キズを縫う場合があります。その際も6-0 ナイロン糸という細い糸を用いて縫っています。細い糸を使うと縫ったアトがあまり目立たなくなるからです。 今回は、「A. 湿潤治療(キズ、ヤケドの治療)」についてご紹介しましょう。 A.湿潤治療 これまでにも紹介してきた「キズ、ヤケド」の治療です。 傷は消毒しないとキレイに治る ブラジルでも湿潤治療を!(1) ブラジルでも湿潤治療を!(2) 当クリニックでこのような治療を行っていることを知らない方が多いので再度紹介させていただきます。 この湿潤治療の基本は 「キズを乾かさない」 「キズを消毒しない」 で「キズ」を治す方法です。「キズ」とは何でしょうか?キズの原因は様々です。 すり傷 ヤケド 切り傷 その原因は様々です。 このように色々なキズがありますが、 「キズとは皮膚の正常な細胞が損傷を受けた状態」 つまり正常な細胞が失われている状態です。それなら、キズの治療は 「皮膚の正常な細胞が増やすような治療」 をすれば良いのです。つまりそれは「細胞培養」と一緒です。細胞培養を行っているシャーレに 細胞障害性のある消毒液を入れたり 乾燥させたり するでしょうか?しないですね。 そんなことをすれば細胞は死滅してしまうからです。 現在行われている普通の外科処置は キズを良く消毒する 傷口にガーゼを当てて乾燥させる の2つが基本です。10数年前まで、私もそうしていました。 しかし、現「なつい キズとやけどのクリニック」院長の夏井睦(まこと)先生が1996年に考案した「湿潤治療」を知り、夏井先生のキズの治療に関する本を読んだり、実際に夏井先生の行っている治療の見学を行い、その劇的な効果を目の当たりにしてから「湿潤治療」を行うようになりました。 この治療を行うとキズが 早く 痛くなく きれいに(あまりアトが残らず) 治ります。例外があります。低温熱傷と火による高温熱傷です。この2つの熱傷はキズが深くなるので、瘢痕形成や色素沈着を残します。それでも従来治療に比してかなりきれいに治ります。 キズの治療で人生が変わってしまうかもしれません。大げさと言われるかもしれません。しかし、下図のように「湿潤治療」行った場合と行わなかった場合で随分とキズアトが違います。 向かって左側が「真の治癒」で向かって右側は「ニセの治癒」と思っています。右側の女児は、某大病院で普通の消毒+ガーゼの治療を受けています。右側の患者さんと左側の患者さんはどちらも熱傷が手にかかっています。治療で人生が変わると言うのは大げさでしょうか? 顔に熱湯を浴びた患者さんを紹介します。 従来の治療を行っていれば、間違い無く顔に瘢痕が残ります。「瘢痕が残れば人生が変わっただろう」「私の治療経過を使って湿潤治療を広めてください」とこの患者さんは言っていました。 湿潤治療を行うのは簡単です。誰でもできます。しかし、キズの観察は「難しい」かもしれません。どのようなキズの治療をしても「感染」は1%くらい生じます。感染は細菌がキズ口で暴れ出すことです。皮膚には多くの細菌が生息しています。無菌ではありません。細菌が「いること」と「感染」は別物です。「異物」があると感染しやすくなります。異物とは通常体内には無い物です。例えば、砂、木、金属、などです。これらがあると高率に感染を生じます。また、皮下血腫(いわゆる青あざです)も感染の原因になります。 なおほとんどのキズには受傷時からの抗生物質投与は不要です。なぜなら、抗生物質投与は「感染」に対して行う治療で、将来起きるかもしれない「感染」に対しての抗生物質の予防的投与は常在細菌(元から皮膚にある細菌)を壊すので良くありません。 ただし、砂やゴミなどでひどく汚染されたキズの場合、数日投与することがあります。 キズが砂で汚染されている時は破傷風トキソイドワクチンを注射します。牧草地の土壌で汚染されたキズ、破傷風トキソイドワクチンの接種歴が不明な場合は、抗破傷風ヒト免疫グロブリンの投与も行う必要があるかもしれません。なお、破傷風菌は今度1000円札の「顔」になる北里柴三郎が発見しています。 話は戻ります。湿潤治療の基本を示します。 以上です。治療の実際を示します。 外傷とヤケドでは多少治療方法が違います。 本当に消毒しないで良いのでしょうか?とよく聞かれます。 ペニシリンを発見してノーベル賞を受賞したイギリス人医師のフレミングが100年も前に「キズは消毒すると治りが悪いこと」を発見して論文にしています。第一次世界大戦に従軍してキズの治療に当たった時に発見した事を論文にしたのですね 。フレミングについては以前のコラムをご参照下さい。 「ペニシリンの発見及びペニシリンがお薬になる」までのあり得ない偶然の数々の物語(1) 「ペニシリンの発見及びペニシリンがお薬になる」までのあり得ない偶然の数々の物語(2) 「ペニシリンの発見及びペニシリンがお薬になる」までのあり得ない偶然の数々の物語(3) キズの処置方法により治り具合が違っていることを示した論文です。上図の青い矢印部を見てください。Without antiseptic群(antiseptic=消毒薬)、つまり消毒薬を一切使わずキズをただの水で治療した群の治療成績が一番良いのです。この論文の結語に「消毒するのは良くない」と書いてあります。後に、消毒薬はキズの治療には良くないという論文が多数出ています。 しかし、キズの治療には「消毒してガーゼを当てる」のが今でも主流です。というか、それ以外の治療をしているところは極めて少ないのです。なぜ、科学的に正しい治療=湿潤治療が広まらないのか、色々な理由が考えられますが,本稿では深入りしません。 話は変わります。キズの治り方には二通りあることをご存じでしょうか? 浅いキズ=毛孔、汗管が残っているキズ 深いキズ=毛孔、汗管が損傷を受けているキズ 毛孔、汗管が残っていると、毛孔、汗管の孔の中にある表皮細胞が損傷したキズの表面に増殖してキズが治ってきます。 湿潤治療をキズに対して行うとどうなるか。お目にかけましょう。最初に様々なケガの治療です。 ケガの治療例 ※リンク先にキズの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 図10:ケガ治療例(1) 36歳 男性 誤って鉈(なた)で指先を切断してしまいましたが、 14日で治癒。 これは夏井先生の症例です。劇的です。 図11:ケガ治療例(2) 38歳 男性 転倒して顔面にキズを負っています。 キズの部分には湿潤治療材料を当てて治療しました。10日目にはほとんどアトが残っていません。 図12:ケガ治療例(3) 55歳 男性 糖尿病性壊疽の症例です。 足を切断される寸前でした。この方は、もちろん、今はなんともありません。 糖尿病の方は,動脈硬化の進行が早い事(=血流が悪い)、細菌感染を生じやすいことから、小さなキズからでもこのような状態になりやすいのです。糖尿病のコントロールが悪いといくら湿潤治療をしてもこのような糖尿病性壊疽によるキズは治りません。血糖値のコントロールが必要です。 この方は、夏井先生が湿潤治療を行い、私のクリニックで糖質制限による糖尿病のコントロールを行いました。血糖値のコントロールが良くなるとみるみるうちにキズの状態が良くなってきました。糖尿病の方がキズを負った時、よくよく御自身で考えてください。 少し生々しいので写真に加工を加えています。 図13:ケガ治療例(4) 39歳 女性 下腿を強打後に皮下血腫に感染を生じています。 下腿を強打、皮下血腫(いわゆる青あざ)が生じ、その血腫に感染を生じています。来院時、かなりひどい事になっていました。脛骨(向こうずねの骨)が見えていたので、さすがに入院加療を勧めましたが、仕事が忙しくどうしても通院で治療したいとの事で、当院で治療を行いました。普通は入院して筋皮弁移植です。経口抗生物質の投与と水道水によるキズの洗浄、湿潤治療、貯まった膿(うみ)の体外への排出を行いました。3ヵ月で治癒しました。 ヤケドの治療例 ※リンク先にキズの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 図14:ヤケド治療例(1) 1歳男児 1歳男児:お湯によるヤケドです。 1歳男児です。お湯による熱傷です。前述のごとく、お湯によるヤケドは深くなることが少ないのできれいに治ります。水疱膜を全て除去します(これがとても大事です)。水疱膜は壊死した組織ですから感染の原因になります。 20日で治ります。 図15:ヤケド治療例(2) 1歳女児 お湯によるヤケドです。 図16:ヤケド治療例(3) 40代女性 お湯によるヤケドです。 初診時と治療開始後、1週間の写真です。この時点で治療は、ほぼ終了。 半年後の写真です。ほぼヤケドのアトが解らなくなっています。 図17:ヤケド治療例(4) 30代女性 天ぷら油によるヤケドです。 誤って煮えたぎる天ぷら油の中に手を突っ込んでしまったのです。聞いただけで痛そうですね。 1枚目は初診時の写真です。いつものごとく、水泡は全部除去します。 水疱を切除し、2週間で治療は終了しました。 一番下は治療終了後、半年後の写真です。 この手がヤケドを負った手だとわかる人ほとんどいないと思います。良くなった写真だけ掲載していると思われると困るのですが… なお、湿潤治療を行っても「キズアト」が残る場合があります。 湿潤治療開始が遅れた場合:受傷後早期の治療開始が必要です。受傷後1週間以上経過すると、湿潤治療を行っても治りが悪くなります。 永久脱毛箇所のキズ、ヤケドは治りが遅くなります。 上述の如く、浅いキズは毛孔、汗管から治ってきます。永久脱毛をしている箇所は毛孔が傷害されているため、キズの治りが悪くなります。若い女性の下肢のキズですが、湿潤治療を行っても治りが悪い事が続いたときに「永久脱毛」に気づきました。永久脱毛をしても構いませんが、その部位はキズ、ヤケドの治療が遷延すると表下さい。 女性の下肢:構造的に女性の下肢はうっ血しやすいので、血腫が生じやすく、それ故に治りが悪い場合があります。 低温ヤケド:低温という言葉に惑わされるのですが、低温ヤケドは、低温ゆえに深いヤケドになり、治癒が遷延します。それでも治るのですが、ヤケドアトは残ります。 図18:低温ヤケドの例 一見すると大した事が無さそうです。しかしこのような瘢痕を作ります。 湿潤治療を行っても低温ヤケドはアトが残ります。 火によるヤケドも損傷が皮膚深部まで到達しているので、ヤケドアトが残ります。しかし、消毒+ガーゼ治療だと治癒まで時間がかかります。 多数治療例があります。治療経過は患者さんの許可が得られた場合は全て写真に撮ってあります。 湿潤治療を行えば、劇的に良くなります。できるだけ早期に治療を開始すれば 早く、あまり痛くなく、しかもきれいに治ります。キズを負った時、思い出してくだされば幸いです。治療は簡単ですが、治療経過の観察にはやや外科的な知識が必要です。キズを負った時はぜひご相談ください。 次回は「B.切り傷に対して、できるだけ縫合をしない治療」を紹介します。 【参考文献】 夏井睦著:傷はぜったい消毒するな (光文社新書) 夏井睦著:さらば消毒とガーゼ 「うるおい治療」が傷を治す 春秋社刊 Hock MO et al. Ann Emerg Med. 2002 Jul;40(1):19-26. A randomized controlled trial comparing the hair apposition technique with tissue glue to standard suturing in scalp lacerations (HAT study). Karaduman S1et al. Am J Emerg Med. 2009 Nov;27(9):1050-5. doi: 10.1016/j.ajem.2008.08.001. Modified hair apposition technique as the primary closure method for scalp lacerations. 【参考サイト】 新しい創傷治療:http://www.wound-treatment.jp/ 夏井睦先生のサイトです。治療方法,治療経過など盛り沢山です。是非、ご覧下さい。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/01/06 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。 さて、2020年正月第一号は、こんな歌の紹介から初めて見たいと思います。 一休禅師(1394年―1481年:享年87歳)の作った歌です。 「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」 一休の著した『狂雲集(きょううんしゅう)』に載っている歌です。 一休は皮肉めいた言動、機転の利いた言動で有名です。それが故に、とんちの「一休さん」のモデルになったのでしょう。 おめでたい正月に、わざわざ不吉?な歌を詠むのも一休さんらしいですね。一休さんが生きた時代と今はだいぶ違います。一休の生きた1400年頃、日本人の平均寿命は正確にわかりませんが、15歳前後ではないかと推定している研究者もいます(参考文献5)(図録▽平均寿命の歴史的推移(日本と主要国))。そういう時代に正月を迎えられる(=年を重ねられる)のは、普通の人にとっては慶事です。めでたいと喜ぶのが普通ですね。しかし、一休は正月を迎える事は年を取る(=死に近づく)事だとも言っているのです。一休は当時としては異例の長寿者です。長生きをしている間に色々な経験をしたのでこのような事を言うようになったとも推測されます。 西欧世界でも、一休の言った事と同じような事が言い習わされています。 「メメント・モリ」(注:ラテン語 memento mori) →「必ず死が訪れることを忘れるな」「死を忘れるな」です。 さて、正月早々縁起でも無いとお思いでしょうが、一休禅師に倣って「死」について考えて見たいと思います。 突然死例の多くは死因が不明 大動脈瘤(だいどうみゃくりゅう)という病気があります。身体の中にある大動脈が太くなる病気です。大動脈が太くなりすぎると破裂します。アインシュタイン、司馬遼太郎は腹部大動脈瘤破裂で、最近では俳優の阿藤快が胸部大動脈瘤破裂でお亡くなりになっています。 大動脈瘤のほとんどは症状が無いために診断が遅れることがあります。司馬遼太郎が大動脈瘤破裂を起こす直前に書いた随筆を、読み直してみると腹部大動脈瘤がかなり大きくなっていることを示唆している症状があることが解ります。曰く、 「背中が痛い」 「足が時々冷たくなってしびれる」 と書いています。これらは、後から考えると、腹部大動脈瘤がかなり大きくなってきたために生じた症状だと解ります。 大動脈瘤のほとんどは症状が無いと記しましたが、自分にも他人にもわかる「大動脈瘤の症状」があります。それは「大動脈瘤の破裂」です。 東京都監察医務院によると突然死の死因の4番目が大動脈瘤破裂です。破裂した方の何割が病院に来ることができて手術を受けることができるか統計がありません。ほとんどは即死するのではないかと「思います」。「思います」と書いたのは日本では「突然死例の多くは死因が不明」だからです。 今号はその「突然死」について考えて見たいと思います。 大動脈瘤破裂のように時や場所に関わりなく「突然死」する可能性がある病気があります。事故や事件でお亡くなりになることもあります。 「突然死」した場合、死因を明らかにすべく、解剖や検査を行う制度があり、それを監察医制度と言います。 監察医制度が実際に「正常に」機能しているのは東京、大阪、神戸の3都市しかないと言われています。これらの都市で、突然死した場合は監察医がその死因を明らかにするために解剖を行います(後述)。全例ではありません。 それ以外の道府県ではどうかというと、突然死をしても特に事件性が無いと思われる場合、解剖が行われず、「急性心不全」などの病名が付けられて『処理されています(いました?) 』。「急性心不全」は正確には病名ではありません。急にお亡くなりなった状態を表す言葉が急性心不全です。なおあえて、『処理されて(いました?)』と記したのは2018年4月、法律が改正され警察署長の判断で解剖が必要と認めれば監察医務院のない県でも解剖が行えるようになったからです。これを「新法解剖」と言います。しかし、後述の如く、それは簡単ではありません。 それはともかく、学生時代、少数の府県でしか実行されていない「監察医制度」のことを法医学の授業で聞いてから、なにか変だと思っていました。救急治療を行っている病院に勤務していると「突然死」で搬送されてくる患者さんがいます。その多くは持病があり、何らかの治療や投薬を受けていることがほとんどですので「それなりの病名」を付けて死亡診断書が書かれます。持病が明らかで無いのに突然死した方は、前述の如く「急性心不全」という病名を付けられて「処理」されていました(います)。 変ですね。 行政に関すること、法律を変えるのは簡単ではありません。多くの人は、こんなモノだと諦めます。 でも諦めない偉い人はいます。 「死後にCTやMRを行い、死因を明らかにする努力をすべきだ」 「そんなことで良いのか? 東京、大阪、神戸以外で突然死した方の死因はどうでも良いのか?東京、大阪、神戸だって解剖率は高くない、つまり日本は死因不明社会だ」と言い出したのが、現在は国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構QST病院臨床検査室医長の江澤英史先生です。QST病院とは「National Institutes for Quantum and Radiological Science and Technology」から取った略称です。わかりづらいですね。 それはさておき、江澤先生は突然死を含め、実質的に、死因が不明のまま処理されるのはおかしい、それなら「死後にCTやMRを行い、死因を明らかにする努力をすべきだ」と提案したのです。死後にCT、MRを行うのをAi(Autopsy imaging:オートプシーイメージング)と言います(注参照)。 Aiは1999年11月のある日に江澤先生が考えついた概念です。Aiの命名者は江澤先生の同僚だった吉川京燦(よしかわきょうさん)先生です。ちなみに江澤先生は病理解剖を行う病理医で、CTやMRの診断を行う放射線科医ではありません。 ここで、少し「解剖」について説明します。 「解剖」は三つに分類されます。 正常解剖:献体された御遺体を解剖することで医学の基礎を学びます。 病理解剖:病気でお亡くなりになった方の死因、病因を明らかにするために行います。 法医解剖:以下の二つに分かれます。 司法解剖:犯罪性のある死体の死因などを究明するために行われる解剖 注:しかし、警察の死体取扱い件数のほとんどが司法解剖されていないのが現状(法医学専門医の不足、予算不足などの理由により)。 行政解剖:死因がはっきりとしないが犯罪性がないと思われる異状死体に対して、死因の究明を目的として行われる これは東京、大阪、神戸にある監察医務院で行われます。 病気が不明の「変死体」の解剖はつまり法医解剖されることになります。問題は解剖がなされる「率」です。死因がはっきりとしない場合、米国では50%、イギリスでは60%が解剖されています。解剖=死因究明ではありませんが、それでもかなり多くのことが解剖をすることでわかります。 さて、我が日本ではどうでしょう。東京、大阪、神戸には監察医務院があるので、3%前後が解剖されています。しかし、監察医制度が無い道府県において低いところは0.1%しかありません。 私が冒頭で、大動脈瘤破裂で即死するのがどれくらいあるかわからないと記したのは、このように日本は「死因不明社会」だからです。もちろん全例が死因不明ではありません。日本では病院での死亡が8割、2割は死因不明の急死、変死、事故死です。急死した場合、解剖が行われない(9割以上は行われていない)と死因は不明なまま処理されてしまいます。江澤先生は実際に病理解剖を行っていますが、その中で日本は死因不明社会だと気づいたのですね。怖い話ですが、他殺でも体表面に外傷などがないと「急性心不全」で済んでしまうのです。 有名なのは、看護師4人組で男性2名を巧妙な方法で殺した「久留米看護師連続保険金殺人事件」です。殺された一人は空気を静脈から注射して殺害され、もう一人は胃管から大量のアルコールを注入して殺害されています。後に仲間割れするまで、どちらも病死として扱われていました。前者の空気注入による殺害はAiがあれば簡単に死因はわかるので事件として扱われたと思います。このように突然死には「闇」があります。ここでは書けないとてつもなく深い「闇」もあります。 日本はある意味特殊です。日本では 病理解剖ができる医師も、法医解剖ができる医師も極めて少数で、予算も少ない。つまり、病理解剖も法医解剖もほとんど行われていない。 しかし CT、MRの人口当たりの普及率は世界一です。 つまり、解剖はなかなかできないけれど、診断機器はたくさんあるのが日本です。豊富にある診断機器を用いてAiを行えば死因の究明に役立つと江澤英史先生が思いついたのです。それが1999年のことです。同時期に筑波メディカルセンター病院放射線科の塩谷清司先生がAiと概念が重なるPMCT(Post Mortem Computed Tomography:死後CT検査)の研究を始めていました(注:PMCTの創始者は、筑波メディカルセンター病院の救急部長だった大橋教良先生で、1985年のことです)。 江澤先生は塩谷先生とコンビを組んでAiという概念を日本や世界に広め、なんとAi学会まで作っています。 江澤先生は「海堂尊」のペンネームで小説を書いています。「チーム・バチスタの栄光」、「ブラックペアン」などのベストセラーを沢山書いているので知っている方も多いと思います。これらの小説の中で、もちろん、Aiがいかに大事か説いています。医学的なAiに関する著作も多く、これらを読むと海堂尊医師(=江澤英史先生)は「Ai命!」だということがわかります。「ゴーゴーAi」という本には1999年当時、無名の医師だった江澤英史先生が多くの医師、診療放射線技師、そして行政にAiを提案し、苦労をしながらAiという概念を広める様が書かれています。 Ai開始当初、江澤英史先生は文字通り孤軍奮闘でした。初期の頃に孤軍奮闘していた江澤先生をそっと助けてくれたのが、元新潟県知事だった米山隆一先生です(突然、知事を辞職することになってしまいましたが、本書を読む限り良い医師だと思いますし、そもそも辞職する必要など無かったと思っています)。 段々と広まるAi 現時点でまだAiは正式に認定された制度ではありませんが、段々と広まっています。今では突然死の4割にAiを用いた診断が行われるようになり、多くの死因が明らかになってきました。 2014年からは小児の急死、変死例には基本的にAiが導入され、生前に受けた虐待による死亡例が見つかっています。Aiが子供に導入されたことで、虐待の抑止力になるかも知れません。このように、Aiは段々と社会に認知され、社会を変えつつあります。 Aiは画期的な方法です。世界でも類例を見ません。「解剖」という特殊なことは行いません。ちょっと気味が悪いかも知れませんが、ご遺体をCT、MRで検査する、それだけでわかることはたくさんあります。動脈瘤の破裂など簡単に診断ができます。脳梗塞、脳出血などの診断もできます。外傷の診断もできます。利点しか浮かびません。 健康を考える時、死因を分析することはとても大切です。今号でお伝えしたようなことも新年を機に考えて頂ければ幸いです。 あまり不吉なことばかり、新年早々書くのも気が滅入ります。きれいな富士山の写真を掲げて終わりとします。河口湖から撮影した富士山遠景です。 一富士二鷹三茄子と言います。良い夢をご覧下さい。 【参考文献】 海堂尊「死因不明社会―Aiが拓く新しい医療」(ブルーバックス) 海堂尊、 山本 正二「死因不明社会2 なぜAiが必要なのか」 (ブルーバックス) 海堂尊(=江澤英史)「ゴーゴーAi アカデミズム闘争4000日」(講談社) 塩谷清司「死亡時画像 ―歴史と最近の動向―」 http://www.eiken.co.jp/modern_media/backnumber/pdf/MM0710-04.pdf 「日本人のからだ―健康・身体データ集」鈴木隆雄(1996) 朝倉書店 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/12/16 電子カルテ時代に必須のスキルとは 今年も今回が最後です。今年もお読み頂きありがとうございました。 今、多くの病院で電子カルテを導入しています。電子カルテがすべて良いわけではありませんが、一昔前は判じ物のような文字、「他人にはもちろん」後で読もうとしても「自分でも読めない」文字、さらには、いい加減な外国語(主にドイツ語)で書いたカルテを多く見ました。 読めないカルテを読める看護師さん、読めない処方箋が読める薬剤師さんというような特殊技能?の持ち主もいました(います)。 医師はドイツ語でカルテを記していると思われていました。今も、そう思っている方も多いかも知れません。それは「嘘」です(参考記事:『百人一首』は宇都宮が起源?AKB48の起源は平安時代から?)。 「ドイツ語まがい」でカルテを記していました。良いことではありません。ドイツ語で、日本人の患者さんの病状を正確に記すことはできません。 今は電子カルテが普及しつつあります。もちろん、日本語で記載します。というかキーボードで入力します。 厚労省HPより引用 電子カルテは2001年から運用が始まり、段々と使用率が上昇していますが、当初の目標だった400床以上の病院の6割での使用には至っていません。 電子カルテはとても便利ですが大きな問題がいくつかあります。 使っている電子カルテのソフトが違うと病院を移る度にその操作を覚えないといけません。 患者さんを診るより先に電子カルテの使い方を覚えないと働けないので、大変です。紙カルテ時代なら、勤務開始日から診療ができましたが、今は勤務開始前に、電子カルテ操作を覚えないと医療ができません。 自分でカルテを書くのに使った登録辞書、医学辞書が引き継げません。 これは結構悲しいです。病院を移ると数年かけて作った自分なりに工夫した辞書が使えないので不便です。 病院間どうしでのデータのやりとりがオンラインでは、できません。 つまり患者さんのデータのやりとりは未だにデータを印刷して行います。 ちなみにフィンランドの電子カルテネットワークは富士通製で、フィンランド国内で病気になって、かかりつけ医以外に受診しても、それまでの病歴、薬歴、検査歴などがすぐにわかるようになっています。いい加減な治療、いい加減な病歴記載をしていると他の医師に解ってしまいます。それもある意味、良いことだと思います。仲間同士の評価ができます。 それはともかく、日本の電子カルテシステムの将来を考える時期になっていると思いますが、電子カルテを作っている会社はたくさんあり、なかなか前に進まないでしょう。 今回は、電子カルテ入力に必要なスキル、あれば便利なソフトなどをご紹介しようと思います。最初に紹介するのはタッチタイピングです。 「寝ころびながらでも、一週間でタッチタイプができるようになる」 10数年前に勤務していた病院で電子カルテが導入されました。当時、論文を書くのにワープロ(ソフト)を使うようになり、キーボードと画面を何回も見ながら、指でパチパチとゆっくり入力していました。雨だれ式タイピングでした。同僚だった麻酔科のI先生は両手でキーボードを見ずにパソコンの画面だけを見て素早く、タイピングしていました。タッチタイピングをしていたのです。それを見て自分もあのように入力したいと思っていました。映画「ローマの休日」で記者役をしていたグレゴリー・ペックがタッチタイピングをしているのを見て、あれくらい早くキーボードが打てればいいなあと思ったりもしていました。 そんなことを考えていた時に、たまたま、当時東京大学医学部付属病院麻酔科の諏訪邦夫先生が書いた「キーボード革命―情報電子化時代への基本技術(中公新書)」を読み、タッチタイピングの重要性やタッチタイピングの方法論を学びました。 諏訪先生は将来、キーボードでカルテを打つことが普通になる、論文を書くのも同様である、ゆえにタッチタイピングを覚える必要があると繰り返し説いていました。この諏訪先生の本と、もう一冊タッチタイピングの教則本を購入して練習しました。後者のタッチタイピングの教則本はあまりに素晴らしい本だったので、皆に勧めたり、貸したりしてるうちにどこかに行ってしまいました。書名も著者名もわかりません。確か 「寝ころびながらでも、一週間でタッチタイプができるようになる」 というような題名の本でした。タッチタイピングは寝ころびながらあるいは風呂に入りながらでも学べることがこの本でわかりました。キーボードを見ないでの練習が半分、実際のキーボードでの練習が半分というような方法が書いてありました。簡単にその方法を紹介しましょう。 QWERTYキーボードを使う。 通常のキーボードです。左上がQWERTY配列です。 QWERTYキーボードのキーの配列を覚える。 キーの配列を覚えるには、声に出して覚える事が必要、キーボードにある場所を頭に思い浮かべながら、声に出して覚える。 これは寝転びながらでも、お風呂に入ってもできますね。周りに人がいると困りますが… 左上:QWERT (キュー ダブリュー イー アール ティー) 右上:POIUY(ピー オー アイ ユー ワイ) 左中段:ASDFG (エー エス ディー エフ ジー) 右中段:; LKJH (セミコロン エル ケー ジェイ エイチ) 左下段:ZXCVB (ゼット エックス シー ブイ ビー) 右下段:/.,MN(ダイアゴナル ピリオド カンマ エム エヌ) これを数日唱えていたら、たしかに覚えてしまいました。 覚えたら実際にキーボードを操作する。ローマ字入力を覚える。先ず、母音を覚え、次に子音を覚える。 最初はAIUEOを打てるようにする。もちろん、タッチタイピングで入力する。次にKA KI KU KE KO SA SI SU SE SO、、、と打ってみましょう。 そういう方法論でした。 たしかにキーボードの位置を覚え、AIUEOを打てるようになると、段々と打てるようになりました。今なら、タッチタイピング練習ソフトがたくさんあるので、もっと早く覚えることができるかもしれませんが当時、そんな便利なソフトはありませんでした。 しかし、上述の本の記述通りに練習したら、本当に一週間程度で、タッチタイピングができるようになりました。やってはみるモノですね。これができるとキーボードを見ながらポツポツと打つ雨だれ式タイピングが不要なります。首の疲れが格段に減りました。 話は変わりますが、心臓手術には拡大鏡が必要です。拡大鏡は焦点深度が決まっているので、首をあまり動かすことができません。ですから、手術が終わると首が痛くなります。雨だれ式タイピングだと、カルテを書くのに目をPCの画面とキーボードと何回も行き来させる必要があり、首が痛くなります。それが無くなり、首が格段に楽になりました。患者さんの顔を見ながら、カルテを書くこと(打つこと)もできます。タッチタイピングができるようになり、カルテを打ち始めた当時は患者さんが驚いてくれました。 諏訪先生が説くようにタッチタイピングを覚えると良いことばかりでした。というわけで、電子カルテ入力に限らず、タッチタイピングを覚えましょう。一旦覚えると、何時までも使えます。デジタル時代に必須のスキルだと思います。 ここで、余談を少しします。キーボードに慣れてくると、右手だけ、あるいは左手だけで打てる言葉があることに気づきました。 1. 右手だけで打てる言葉(右手側には母音がOとIとUの3つあるので右手だけで打てる単語の方が多いですね、多分) 公共広告機構 koukyoukoukokukikou 19文字 驚異の驚異 kyouinokyoui 12文字 富士急行 hujikyuukou 11文字 藤子不二雄 hujikohujio 11文字 U字工事 yuujikouji 10文字 番外 飛行場の飛行機:hikoujyounohikouki 18文字 2. 左手だけで打てる言葉(左手側には母音が2つ、AとE) 渡良瀬川 watarasegawa 12文字(この川のそばに住んでいたことがあります) 早稲田 waseda 6文字 明後日 asatte 6文字 似たようなことを考える人がいて、右手だけで打てる言葉だけをたくさん採取しています。なぜか左手だけで打てる言葉は採取していません。謎です。 右手だけで打てる言葉の一覧(ニコニコ大百科) 閑話休題、音声入力が段々と発達してもキーボードは残ると思います。そういうわけで、タッチタイピングはこれからも、大学生や社会人にとって必須の技能だと思います。 こんなソフトやこんなモノを使っています さて、今度は電子カルテなどの文章を書くのに私が使っているソフトを紹介します。 1.「ATOK」 https://atok.com/index.html 日本語変換はATOKを用いています。医学辞書が充実していますので愛用しています。MS-IMEは自然な変換がまだまだです。不十分です。最近はGoogle-IMEも使っていますが、使い勝手はATOKに一日の長があります。 注:ATOKには様々な機能があります。あまり知られていないけれど、とても便利な機能を紹介します。 「SHIFT+変換」を用いるとラテン文字入力した後でも、ローマ字入力にすることができるという機能です。 ATOKを使って文字を入力している時、ラテン文字だけ入力後に「SHIFT+変換」を押すとローマ字入力になります。これは,かなり便利です。 asatte →「SHIFT+変換」→明後日と変換されます。もちろん「明後日」のほかにも候補がでます。要するに「SHIFT+変換」と押すと、ローマ字入力になるのです。 2.「Dさんの長押しIME起動2」フリーソフト https://www.vector.co.jp/soft/winnt/util/se410793.html?ds 日本語と英語混じりの文章を書く時に、日本語入力と英語入力の切り替えには何らかのキーボード操作が必要ですが、このソフトがあると、キーの長押しでIMEのOn/Offの切り替えができます(基本的にどのキーでも大丈夫です)。 例えば「動脈瘤は英語でaneurysmと言います」と打つとき、aを打つときにaを長押しするとそれまでの日本語入力が英語入力に変わります。いちいち、別なキーを押す必要がありません。使い慣れると英語と日本語が混じった文書入力が格段に楽になります。このソフトにはおまけの機能があります。それは大文字と小文字の切り替えを、普通は「シフトキー」+「Caps Lockキー」を同時に押す必要がありますが、このソフトを使うと「Caps Lockキー」を押すだけで、大文字と小文字の切り替えができるような設定ができます。これだけでもかなり便利です。 3.「Clibor(クリボー)」フリーソフト https://freesoft-100.com/review/clibor.php これはコピーペーストを多用する文章の入力、及び定型文の入力が多い時に威力を発揮します。 コピーは10000まで登録されます(そんなに使いませんが、、)。 定型文も多数登録できます。 文章を書いていて、多数のコピーペーストが必要な時、このソフトがあると必要コピー箇所を複数コピーしておいて後から必要に応じてペーストができます。実に便利です。このソフトには「FIFOモード」というのが、あり、FIFOモード状態で文章をいくつかコピーして次に何度かペーストするとFIFO状態でコピーした文章が連続してペーストされます。解りづらいですね。実際に使ってみてください。この機能を使った時、大げさに言えば、感動しました。 4.「紙copi」 https://www.kamilabo.jp/ 思いついたことをメモしたり、ウェブページなどからの取り込みが簡単にできます。無料のlite版と有料版があります。まずは無料版で試してみると良いですね。 「紙copi」 は後述の「Dropbox」と連動することができます。自分で使っているパソコンに「紙copi」と「Dropbox」があれば簡単に連動できます。Aというパソコンで「紙copi」で作った文章がBのパソコンでも出てきます。リアルタイムにAとBのパソコン上の紙copiでの文章が変わっていく様を見ていると時代は変わったと思います。良い時代です。 5.「captio」 iPhone、iPadで使えるアプリです。これは思いついたこと、やらなければならないことをiPhoneに入力すると「自分にメールを送ってくれる」のです。音声入力もできるので例えば「○○さんにに電話」「△△さんにメール」と入力すればその内容が登録した(自分のメールアドレス)に送られます。メモ帳が無くても、片言隻語を入力しておけば、自分にはわかりますね。とても重宝します。その場で撮った写真も、以前撮った写真も送れます。とても便利なアプリです。 6.「Dropbox」 これはソフトではありません。オンラインストレージサービスです。書いた文書、撮った写真、音楽などをDropboxに保存しておくと、インターネットがつながる環境にあれば、どこでも自分の「Dropbox」の内容を見ることができます。これは便利です。なお、スマホと連動すれば、紙データや写真をPDF、pngにする機能があります。写真と違い、その紙データ、写真データをスキャンすると自動で切り取ってPDF、pngファイルにして「Dropbox」内の指定したファイルに保存できます。とても便利です。 7.「VoiceTra(ボイストラ)」 https://voicetra.nict.go.jp/ 翻訳アプリです。iPhone、Android両方で使えます。 音声入力できる言語:17 言語翻訳できる言語:27 言語音声出力できる言語:14言語 と多機能です。実際に結構使えます。医療系の用語もかなり高度な言葉も翻訳できます。外国旅行での日常会話なら充分使えると思います。音声でもテキストでも入力ができて、翻訳もできます。 8.「グーグル翻訳」 最近、スマホでもアプリとして使えるようになりました。音声、テキスト入力はもちろん、カメラで撮影した言葉も翻訳できます。外国に行って食事をする際、外国語で書かれたメニューを写真に撮れば翻訳できるそうです(まだ試していません)。つくづく、便利な時代になったと思います。 番外1:キーボード タイピングに必要なのは、良いキーボードです。パソコンを使い始めた時は、パソコン付属のキーボードを使っていました。それで満足していました。しかし、ある病院で放射線科の先生が全員、Realforceというキーボードを使って画像所見を入力していました。何故、このRealforceを皆で使っているかと伺ったら、「打ちやすい」「手の疲れが違う」とのことでした。試し打ちをさせて頂いたら、かなり打ちやすいです。 インターネットで検索するとこのRealforceキーボードはキーボードの中で圧倒的な高評価を得ていることが解り、10年以上前に購入して今も、毎日使っています。高価ですが、10年以上、使えます。腱鞘炎にもなりづらいです。是非、一度試してみて下さい。普通のキーボードと全く違います(REALFORCE:http://www.realforce.co.jp/products/index_office.html)。 私が使っている英字だけの刻印があるシンプルなテンキー付きのキーボードです。これで一日ほぼ、カルテ記載だけで約5000文字を打ちます。 シンプルで使いやすいです。WindowsでもMacintoshでも使えるキーボードが出ています。昔は、筆記用具が大切でした。文章を書く人は、万年筆、鉛筆、ボールペンなどにこだわる方も多かったと思います。キーボード入力をするなら自分の好みのキーボードを見つけるべきだと思います。ここに挙げた「Realforce」以外にも多くのキーボードがあります。自分にあったキーボードを探す時代だと思っています。なお、ドイツ語入力用キーボード、フランス語入力用キーボード、アラビア文字入力用キーボードを見た事があります。様々なキーボードを集めてキーボード博物館を作って展示してくれると嬉しいのですが。。 番外2:耳栓 うるさいと仕事ができませんが、これがあると静かな環境をすぐに作れます。 3M 耳栓 E-A-R プッシュインス ひもなし 318-4000 この耳栓は -30dbです。例えば、電車内はだいたい70dbくらいの騒音ですが、これを使うと40dbくらいに騒音が軽減されます。山小屋での睡眠にも必須です。隣の方がいびきをかくと眠れませんが、これがあると眠れます。 以上、今回はこんなソフトやこんなモノを使っているよという紹介です。 注1:タッチタイピングとは キーボードを見ずにキーを打ってパソコンに正しく入力できる技術のことです。 以前は「ブラインドタッチ」という和製英語を使っていました。現在は「タッチタイピング(Touch Typing)」と言うことが一般的になっています。タッチタイピングとは逆に、キーを見ながら、1つずつキーを打つ方法は「Hunt-and-peck Typing(雨だれ式タイピング)」といいます。Hunt=狩る peck=つつくです。それがなぜ雨だれ式タイピングを意味するようになったかは不明です。 注2: ローマ字入力よりかな漢字入力の方が本来日本語の入力方法だと思いますが、日本語と英語を使う必要がある方はローマ字入力を覚えると便利です。 注3: IME=input method editor、キーボードの組み合わせで英数、日本語、中国語etc.が入力できるようになります。 来年も皆様にとって良い年であることを祈念します。終。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/12/02 なぜ、私がパルスオキシメーター(動脈血酸素飽和度測定器)の紹介にこだわっているかというと、 この機械の測定原理は日本人科学者の青柳卓雄氏が発見していること この機械は世界中で普通に使われ多くの人を助けている医療機器であること この機械の原理は不変なので、心電図と同様100年以上使われると予想されること などがその理由です。 というわけで、前置きはそれくらいにして前回に続き、パルスオキシメーターに関する話題を続けます(注:今回で終了です)。 今回は、 (4)パルスオキシメーターの医療現場での役割 (5)青柳卓雄氏はノーベル賞候補だと言われているがそれは本当か? についての紹介と考察です。 (4)パルスオキシメーターの医療現場での役割 医療現場でどのように使われているか説明しましょう。大きく分けて3つの使い方があります。 診断 呼吸器疾患の治療判定 スポーツ医学への応用 の3つです。これらをご紹介しましょう。 1. 診断 パルスオキシメーターはさまざまな疾患、病態の診断に使われます。例を3つだけ挙げます。 ●低酸素血症の診断 前回お伝えしましたように、パルスオキシメーターは最初に手術室で使われました。全身麻酔をすると呼吸も止まります。呼吸が止まると酸素が全身に行き渡らなくなります。そのため、全身麻酔中には、人工的に肺に空気(酸素)を送りこむ必要があります。これを人工換気と言います。人工換気は麻酔医によってコントロールされます。手術中、患者さんの呼吸は麻酔医の管理下にあります。 何も起きなければ良いのですが、前回ご紹介したように麻酔事故は2000の手術に対して1件くらいの割合で生じていました。原因はさまざまですが、麻酔事故の大きな原因のひとつが低酸素血症でした。 麻酔は、純酸素に笑気をまぜたガス+麻酔ガス、静脈から投与する麻酔薬などを使って行います。酸素を充分に肺に送り込んで人工換気を行えれば良いのですが、酸素を流している管が外れたり、酸素ボンベの酸素がなくなったり、酸素と笑気の配管を間違えたり、麻酔中に喘息発作が生じたり、さまざまな原因で低酸素血症を生じることがあったのです。早期に低酸素血症を検出できないと、体に酸素が回らなくなり、死につながりかねない事故を引き起こします。このような怖い「低酸素血症」の診断を早期に感知することは、パルスオキシメーター開発以前は難しかったのです。 今はリアルタイムでパルスオキシメーターにより動脈血酸素飽和度を測っていますので、少しでも動脈血酸素飽和度が下がれば直ちに判ります。低酸素血症が生じるとアラームが鳴ります。パルスオキシメーターのおかげで今は10万件に1件くらいしか麻酔事故が起きなくなりました。これは「麻酔中の事故予防」という一般の方には目には触れないところでの応用です。集中治療室での人工呼吸器装着中のトラブルによる低酸素血症も激減しました。つまりパルスオキシメーターにより容易に「低酸素血症」が診断できるようになり低酸素血症により引き起こされる疾患が激減したのです。 ●呼吸不全、呼吸器疾患診断への応用 呼吸不全とは息ができにくくなる病気です。この病気の代表格はCOPD(慢性閉塞性肺疾患:chronic obstructive pulmonary disease)です。以前は慢性気管支炎、肺気腫と呼ばれていました。喫煙が、COPDの病因の9割を占めます。 先頃、落語家の桂歌丸さんがこの病気でお亡くなりになりました。桂歌丸師匠は缶ピース60本を50年以上吸っていたそうです。 歌丸さんは晩年、「たばこはもうやめました。あんな苦しい思いをするくらいなら、吸わない方がいい」と言って、COPDという病気や喫煙の危険についての啓発活動をしていました。お亡くなりになった時、呼吸器学会から追悼文が出るくらい喫煙の害について啓蒙をしてくださったのです(日本呼吸器学会「桂 歌丸 師匠を悼んで」)。 COPDの診断には動脈血酸素飽和度の測定が欠かせません。パルスオキシメーターがあれば、外来でも短時間でCOPDを疑うことができます。喫煙をしている方で、平地での動脈血酸素飽和度が90%を割っていたらCOPDを強く疑います。 他にも色々な呼吸器疾患の診断に欠かせません。 「息が苦しい」と訴えてくる患者さんがいます。そういう時、まずパルスオキシメーターで動脈血酸素飽和度を測定します。これが90%以下なら、酸素の投与を行い、酸素飽和度を上昇させてから、病歴を聞き、聴診器を当てて呼吸音を聞き、レントゲンを撮影し……というように診療します。 つい最近も、ある患者さんが「息が苦しい」ということで来院されました。パルスオキシメーターで動脈血酸素飽和度を測定すると80%しかありませんでした。呼吸音は聴診器で聞くと喘息の音に「似た」音を聴取します。喫煙歴はなく、胸部レントゲンで肺野はきれいです。肺炎や気管支炎、COPDではありません。動脈血酸素飽和度が80台だとかなり苦しいですし、危険です。重度の過敏性肺炎を疑い、直ちに大きな病院に入院していただきました。結局、元々肺塞栓(肺動脈に血栓が詰まる病気です)があり、それに加えて、自宅エアコンのダストによって生じていた過敏性肺炎により低酸素血症が生じていたことが解りました。この方は、治療が奏功し元気に活躍しています。 このように呼吸不全が一瞬にしてわかるのです。パルスオキシメーター開発以前、呼吸不全の診断は簡単ではなく、前回もお伝えしたように動脈血の直接採血が必要でした。 今はすべての救急車にパルスオキシメーターが常備されていて救急隊員の方は患者さんのところに到着すると直ちにパルスオキシメーターを指に装着して動脈血酸素飽和度を測ります。 隔世の感があります。 ●睡眠時無呼吸症候群(SAS)の診断への応用 睡眠時無呼吸症候群(SAS)とは睡眠中に呼吸が止まる病気です。睡眠中に呼吸が止まると動脈血酸素飽和度が低下します。パルスオキシメーターを寝ている間に指につけて、睡眠中の動脈血酸素飽和度を測定すれば、どの程度呼吸が止まっているか解析できます。呼吸が止まっている時間、頻度が高ければ治療が必要です。パルスオキシメーター普及以前、SASの診断は難しかったのです。今は、繰り返しますが容易に診断ができます。 SASと診断されないと、睡眠中の低酸素血症により、昼間の眠気や心筋梗塞、脳梗塞の発症率が上がります。SASが簡単に診断できることで多くの方が助かっています。 上記のことだけでなく他にも多くの病気の診断に役立っています。 2. 呼吸器疾患の治療判定 さまざまな呼吸器疾患の「治療判定」にパルスオキシメーターは極めて有用です。桂歌丸師匠は晩年、鼻に酸素吸入用のチューブを付けていました。あれを見ると酸素をどんどん投与すれば良いだろうと思う方も多いと思います。しかし、酸素を大量に(過剰に)投与するとかえって肺に障害が起きます。過剰酸素投与による肺障害を予防するには必要最小限の酸素投与量をを決める必要があります。パルスオキシメーターを用いると必要最小限の酸素の投与量がわかります。 COPDが進行すると大量に酸素を投与しても、動脈血酸素飽和度は上がらなくなります。「一日中、溺れているような気がする」とCOPDが進行した患者さんは言います。怖いことです。 さて、さまざまな疾患の診断に役立つパルスオキシメーターですが、未熟児の治療にも絶大な貢献をしています。あまり知られてはいませんが未熟児網膜症の発症予防に役立っています。 未熟児の網膜血管は文字通り「未熟」です。まだ網膜全体を網膜血管が覆う前に産まれてきます。未熟児は生後、クベースと呼ばれる保育器に入れられ、酸素の投与、温度の管理等が行われます。肺も未熟ですので、酸素投与が必要です。投与する酸素濃度が高すぎると網膜血管が収縮し、未熟児網膜症を引き起こします。このことは1951年から解っていました(文献10)。しかし、当時の医療技術では簡単に動脈血酸素飽和度を測定することができず、投与酸素濃度のコントロールは難しかったのです。未熟児の動脈血を採取すること自体至難の業です。未熟児網膜症を予防するために投与酸素濃度を減らすと、今度は呼吸不全などが生じて死亡率が上昇してしまいました。しかしパルスオキシメーターが簡単に使われるようになり、 未熟児網膜症にならず 呼吸不全も生じない、 動脈血酸素飽和度が段々と解るようになりました。そのおかげで、未熟児網膜症による失明者が激減したのです(文献11、12など多数)。 パルスオキシメーターとは別な話ですが、1968年未熟児網膜症に対する光凝固治療法が、世界に先駆けて天理よろず相談所病院の永田誠医師により開発され(文献13)、世界に広がります。 未熟児網膜症の発症予防には日本発のパルスオキシメーターが使われ世界中の失明したかもしれない患児を救い、不幸にして未熟児網膜症が発症してもその治療には日本で開発された治療が行われ失明を予防しているのです。日本人として誇らしいですね。 3. スポーツ医学への応用 最初に使われたのが、高山登山です。パルスオキシメーターで動脈血酸素飽和度を測りながら登れば安全です。酸素飽和度が低くなれば、酸素を補給すれば良いのです(文献14)。 @富士山頂 これは私自身が富士山頂で200mを速歩で歩いた後に、パルスオキシメーターで測定した動脈血酸素飽和度です。83%と著明に減少しています。かなり苦しいですね。しかし、立ち止まって深呼吸を数分繰り返すと、動脈血酸素飽和度は90%代後半になり息は楽になります。 富士山頂の酸素濃度は13%(平地は21%、エヴェレスト山頂は7%)です。正確に言うと酸素濃度は平地でもエベレスト山頂でも一緒ですが、気圧が違うので取り込める酸素が減るのですね。 映画「エベレスト:2015年」にエベレスト登山でパルスオキシメーターが使われている場面があります。この映画は実話を元にして作られていますが怪談よりも怖い映画でした。 それはともかく、パルスオキシメーターは登山以外のさまざまなスポーツでも使われています。 (5)青柳卓雄氏はノーベル賞に擬せられているが、それは本当か? これは資料がひとつしかありません。文献6に、1997年の初秋、小児麻酔学会で特別講演されたスウェーデンのLindahl医師は「ノーベル賞選考委員の一人だ」と紹介されました。Lindahl先生は講演後に「ノーベル賞に是非推薦したい人がいる。それはパルスオキシメーターの原理を発見した青柳青柳卓雄氏だ」と述べたそうです。 Lindahl氏とは、Karolinska Institute:Department of Physiology and Pharmacology :Sten Lindahl教授のことでしょう。私はもしノーベル賞がパルスオキシメーターに対して授与されるなら受賞するのはパルスオキシメーターの原理を発見した青柳卓雄氏とパルスオキシメーターを臨床使用できるように改良して、世界中に広めたニュー医師(Dr. William New Jr.:1942-2017)だと思っていました。残念なことにニュー医師は2017年にお亡くなりになっています。 ノーベル賞はともかく、世界中で多くの人々を助けている(今後も助ける)パルスオキシメーターですが、最初にこの原理を考えついたのは日本光電の青柳卓雄氏とコニカミノルタの山西昭夫氏です。特許出願は青柳卓雄氏の方が早く出していますし、学会で発表し、論文にもしていますので発明者は青柳卓雄氏ということになっていますし、欧米の教科書にもパルスオキシメーターの原理の発明者は「TAKUKO AOYAGI」であると明記されています。しかし、このパルスオキシメーターが世界に普及するに当たり、山西昭夫さん、コニカミノルタグループの果たした役割は極めて大きかったのです(関連記事:大勢の人を助けている機械は日本で発明されたけれど最初に普及したのは米国(2))。 心電図は1906年に基礎的論文が出されています。それから100年、今も心電図の代わりになる機械はありません。原理は不変だからですパルスオキシメーターもその原理は不変ですので、将来にわたり使い続けられ、多くの人々を病気から救ってくれると思います。 【参考文献】 青柳卓雄et al.:イヤピース・オキシメータの改良 医用電子と生体工学 12(Suppl), 90-91, 1974 注:パルスオキシメーターの原理を期した歴史に残る論文です。日本語です。ぜひご覧ください。 青柳, 卓雄:生体組織透過光の脈動に基づく血中吸光物質濃度の無侵襲測定(脈波分光法)の研究 東京大学 , 博士 (工学) , 乙第11517号 , 1993-12-09 青柳氏は、研究を進めて博士号を取得しています。 Nakajima S, et al.: Performances of new pulse wave earpiece oximeter. Respiration and Circulation 23: 41-45, 1975. 世界で初めて、パルスオキシメーターを臨床応用した論文です。 "Prevention of retinopathy of prematurity in preterm infants through changes in clinical practice and SpO2technology". Acta Paediatrica. 100 (2): 188-92. doi:10.1111/j.1651-2227.2010.02001.x. PMC 3040295・Freely accessible. PMID 20825604. 青柳卓雄「パルスオキシメータの誕生とその理論」:日本臨床麻酔学会誌 日本臨床麻酔学会誌 10(1), 1-11, 1990 血液ガスをめぐる物語:諏訪邦夫著 中外医学社刊 2007年 医療機器の歴史:久保田博南 著 真興交易社刊 2003年 Severinghaus JW, Honda Y. History of blood gas analysis. VII. Pulse oximetry.J Clin Monit. 1987 Apr;3(2):135-8. 中島進、大崎能伸:「旭川医大におけるパルスオキシメーターに関する研究と世界的普及の経過について」 旭川医科大学研究フォーラム. 12 (1) , pp.27 - 33 , 2012-2. Campbell K. Intensive oxygen therapy as a possible cause of retrolental fibroplasia: A clinical approach. Med J Aust 1951 ; 2 : 48-50 .Christina G Anderson MD,et al.「Retinopathy of Prematurity and Pulse Oximetry: A National Survey of Recent Practices」 Journal of Perinatology volume 24, pages 164-168 (2004) 東京女子医科大学 元母子総合医療センター所長・教授 仁志田 博司先生によるパルスオキシメーターが未熟児網膜症発症予防に果たした役割が書かれています。 ↓ 近代新生児医療発展の軌跡 http://h-nishida.com/07shiseijirekishi.html 注:西田先生の発案により山梨県白州町に、難病の子供も泊まれる施設「青空共和国」が建設されています。 永田 誠,小林 裕,福田 潤,他.未熟児網膜症の光凝固による治療.臨眼 1968 ; 22 : 419-27. 関 和俊.「富士山登山における心拍数 ,SpO2 および. 自覚症状スコアの変化」. *川崎医療福祉学会誌 Vol. 17 No. 1 2007 113-119. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/11/18 前回ご紹介したパルスオキシメーターは、動脈血にどれくらい酸素が含まれているか(=動脈血酸素飽和度)を測定できます。 動脈血酸素飽和度の海抜0mで測定するなら95%以上が正常値です。もしその値が90-95%なら軽度呼吸不全、90%以下は呼吸不全を示し酸素の投与を要します。指にパルスオキシメーターを付ければ、10秒程度で動脈血酸素飽和度が測れるのです。 くどいですが、パルスオキシメーター出現以前は、動脈血を採取して酸素飽和度を測定していました。動脈血の採取は、普通の採血と違い熟練を要します。動脈血採血自体が少し難しいのです。動脈血を採取しても、その測定には特殊な大型機械が必要でした。一般のクリニックに置けるような機械ではありません。でも今は違います。簡単に動脈血酸素飽和度を測ることができます。そういう夢のような装置の原理は日本で発表され、試作品が作られました。 今回は、下記(1)~(3)についてご紹介しようと思います。 (1)パルスオキシメーターの原理 (2)パルスオキシメーターが、原理を発見した日本からではなく、なぜアメリカから世界に広がったか? (3)パルスオキシメーターの原理の発見者は青柳卓雄氏であることは世界中の呼吸関連の教科書に載っているが、その元となった論文は日本語で書かれているのに、なぜ欧米の教科書にも引用されているのか? について記します。次回は(1)~(3)に続き、 (4)パルスオキシメーターでどのような病気がわかるのか? (5)青柳卓雄氏はノーベル賞候補だと言われているがそれは本当か? などについてのさまざまなお話を紹介しようと思います。 順を追って説明いたします。 (1)パルスオキシメーターの原理 まずはパルスオキシメーターの原理の説明をしましょう。難解だと思われるでしょうが、原理はシンプルで“美しく”、“エレガント”です。 図1:コニカミノルタ社のサイトから引用です。 (https://www.konicaminolta.jp/healthcare/knowledge/details/principle.html) 血液は「赤い」ですね。これは赤血球の中にあるヘモグロビンという色素の色です。ヘモグロビンは酸素と結合すると「鮮やかな赤色」を示します。いわゆる動脈血の色です。酸素が少ないと「黒っぽく」なります。いわゆる静脈血の色です。採血される血液は黒っぽいですね。これは酸素が少ない静脈血だからです。 さて、動脈血酸素飽和度とは、動脈血の中で酸素と結合しているヘモグロビンがどれくらいあるかを調べることです。簡単に言うと、酸素が多く含まれている動脈血は「赤い」ので赤さの度合いを測定すれば良いのですね。パルスオキシメーターは赤色を発するLED部分とその光をうける部分とでできています。 赤色を発すると記しましたが、実はこの赤色は2種類出ています。 普通の赤い色の光 Red 赤外光 Infra Red(赤外線) の2種類です。1.の普通の赤い色の光は動脈血の色で透過性が変わります。動脈血酸素飽和度が低い黒い血液は、光を通さないのです。一方、2.の赤外光は「黒い血液」も「赤い血液」も同じくらい通します(図1参照)。つまり、1と2の光の通過具合を比較すれば、酸素飽和度が測定できるのです。 図2にその原理を示します。R(Red:普通の赤色)、IR(Infra Red:赤外光)です。 図2:パルスオキシメーターの原理図 図2(左)は酸素を多く含んだ赤い動脈血が流れる指に2色の光を当てた場合です。赤い動脈血は「赤い色」を透します。透すから「赤い」のです。 一方、図2(右)は酸素をあまり多く含まない血液が通る指に2色の光を当てた場合です。酸素をあまり多く含まない血液は「赤い色」を通しません。「赤い色」を透さないので図1に比して黒くなります。 センサーで受ける赤い色=Rと赤外光=IRの比率(R/IR)を感知することができれば、血液の「赤色度」=酸素飽和度がわかることになります。簡単な原理です。青柳卓雄氏自身「こんな旨い話がこんな手近なところにあるとは信じ難いことだった」と記しています(文献5)。 この原理を青柳氏が「1972年」に考えついたのは偶然です。もっと以前でも、もっと後でも不思議はありません。パルスオキシメーターの普及には特殊な機器、電子回路、パソコンのソフトなどが必要でしたが、原理を考えつくのに特殊な機械が必要なわけではなく、何時、その原理が考えつかれても不思議ではありません。パルスオキシメーターの原理を1972から1974年にかけて、日本人研究者が全く別々に発見した「偶然」をとても面白く感じます。 (2)なぜ、日本でなくアメリカで広まったか? 前回簡単に触れましたが、日本光電だけでなく、コニカミノルタでもパルスオキシメーターが開発されていました。コニカミノルタ製のパルスオキシメーターは2つの特色を持っていました。 指で測定できる(日本光電製の試作機は耳朶での測定) デジタルでの表示が出来る(日本光電製の試作機はアナログ) そして、コニカミノルタはパルスオキシメーターをアメリカに持ち込んで臨床試験を行いました。1970年代半ば、コニカミノルタがパルスオキシメーターを持ち込んだ先のひとつがスタンフォード大学の麻酔科でした。 現在、麻酔事故が起きればニュースになりますが、1970年代、麻酔事故は頻繁に起きていて、麻酔事故はニュースになるようなことはあまり無かったと思います。酸素不足やお薬の過剰投与による低酸素血症による麻酔事故が結構起きていたのです。そういう時代でした。スタンフォード大学の麻酔科医師にニュー医師(Dr. William New Jr.:1942-2017)は、この「日本発祥の」パルスオキシメーターを有効に使えば麻酔事故が劇的に減ると気づいたのです。 今から考えると当たり前のことですが、当時この重大事に気づいたのはニュー先生だけでした。多くの日本人の医師も、この機器を使っていましたが、この重大事に気づいた方はいなかったのです。いても、自ら工業化して世界中に広めようと考えた方はいなかったと記す方が正しいかも知れません。 ニュー先生は違います。麻酔科医として働くのを止め、ネルコア社という会社を設立し、このパルスオキシメーターの改良と普及に取り組みます。改良に次ぐ改良を行い、ついに1981年、ネルコア社は自社製のパルスオキシメーターの開発に成功します。とても使いやすい機械でした。 その機械は世界中で売れまくりました。私が医師になって最初に使ったパルスオキシメーターもネルコア社製でした。まだ初期の製品で、かなり高価でしたが、とても使いやすい機械でした。 日本では当時、手術室への導入はあまり進んでいませんでした。本格的に麻酔器に装着され始めたのはおそらく、1980年代後半だと思います。それまで麻酔中の患者さんの動脈血酸素飽和度は、「顔色を見る」か「動脈血を採取しての直接分析」しかありませんでした。 1980年代後半から1990年代にかけて、パルスオキシメーターがほとんどの手術室に配置されるようになり、麻酔科医、外科医、手術スタッフの誰でもリアルタイムに動脈血酸素飽和度を知ることができるようになったのです。これは画期的でした。日本中で麻酔事故が激減したのです。それはアメリカでも世界でも同様です。色々な推定がありますが、おそらくは50分の1に減ったとされています(文献6)。ニュー医師の推測は正しかったのです。 ニュー医師のパルスオキシメーター改良にかける熱意、意思により、この機械が世界中に広まり、多くの患者さんが助かりました。素晴らしいことです。こういう医業と工業を結びつけることを「医工連携」と言います。恐らく、ニュー医師は、医学はもちろん工学にも知識があったのでしょう。日本で、この機械の価値が解った医師も多かったと思います。しかし、職を辞してでも、この機械を改良してやろうと思った日本人医師は皆無だったのが少し残念です。 パルスオキシメーターが普及し始めた当時のことです。患者さんの「顔色」を見て動脈血酸素飽和度を推測!していた麻酔科の先生の一人が「こんな機械(パルスオキシメーターのこと)があると“麻酔科医は患者を見なくなる”」と言って怒っていたのを懐かしく思い出します。もちろん、その先生が間違いです。「顔色で推測した動脈血酸素飽和度」と「パルスオキシメーターで測定した動脈血酸素飽和度」の間には天と地ほどの差があります。比べることができません。今では、パルスオキシメーター無しの麻酔器は考えられません。それは世界中の手術室でも同様です。 (3)パルスオキシメーターの原理の発見者は青柳卓雄氏であることは世界中の呼吸関連の教科書に載っているが、その元となった論文は日本語なのになぜ世界中に広まったのか? ニュー医師が興したネルコア社はアメリカの会社ですので、パルスオキシメーターはアメリカで発明された機械だと思っていました。 ある時、日本光電の方と話す機会があり、原理は日本それも日本光電で考えられたと知りびっくりしました。それから、折節、パルスオキシメーター関連の論文や文献を読むようになったのです。そうしたある時、カリフォルニア大学の麻酔科のセブリングハウス教授と千葉大学生理学本田良行教授がパルスオキシメーターの歴史について記した論文を読む機会がありました(文献8)。 その論文名は「History of blood gas analysis. VII. Pulse oximetry.」です。そのものズバリです。 パルスオキシメーターの原理の発見者は Takuo Aoyagi 氏だと書かれています。前回紹介した「手書きの日本語論文」も紹介されています。恐らく、本田教授が日本語から英語に翻訳して、セブリングハウス教授に紹介したのだと思います。セブリングハウス教授は血液ガス分析の大家ですから、この論文が世界中で引用され、青柳卓雄氏がパルスオキシメーターの原理の発見者であることが世界中に知れ渡りました。セブリングハウス教授に感謝しないといけないですね。 セブリングハウス教授と本田良行教授が、青柳卓雄氏の論文をいかにして発見したかの経緯が(文献9)に詳しく書かれていますので、簡単に紹介しましょう。 1986年、カナダのバンクーバーであった国際生理学会でセブリングハウス教授と本田良行教授が出会います。セブリングハウス教授は当時、米国でそして世界で急速に普及しつつあったパルスオキシメーターの歴史を書くつもりでいるが、どうも日本に「パルスオキシメーターの元」があるらしい、「コニカミノルタの Nakajima が論文を書いているらしい」ので調べて欲しいと本田教授に依頼したのです。 本田教授が調べたら「コニカミノルタの Nakajima」ではなくて、「北大の中島先生が世界で最初のパルスオキシメーターの臨床応用論文」を発表していることがわかりました(文献3)。本田教授から中島先生に連絡が行き、中島先生が使用したパルスオキシメーターは日本光電製であること、その原理は青柳氏が論文にしていることがわかり、それがセブリングハウス教授に伝わり、論文になったのです。実に面白い話です。インターネットでもこの論文は公開されています(http://jairo.nii.ac.jp/0010/00004517)。是非、お読みください。 色々な偶然と、セブリングハウス教授の熱意がなければ、今でも、パルスオキシメーターは米国で最初に発明された機械と誤解されていたかも知れません。 図3 1:心電計+パルスオキシメーター、2:携帯型パルスオキシメーター、3:旧来のパルスオキシメーター どんどん小さくなり、値段も数千円になり、Amazonでも購入できるようになりました。隔世の感があります。 次回に続きます。 【参考文献】 青柳卓雄et al.:イヤピース・オキシメータの改良 医用電子と生体工学 12(Suppl), 90-91, 1974 注:パルスオキシメーターの原理を世界で初めて記した、科学の歴史に残る凄い論文です。 日本語で書かれています。是非お読みください。探せない方は筆者まで連絡をください。 青柳, 卓雄:生体組織透過光の脈動に基づく血中吸光物質濃度の無侵襲測定(脈波分光法)の研究 東京大学 , 博士(工学), 乙第11517号 , 1993-12-09 青柳氏は、研究を進めて博士号を取得しています。 Nakajima S, et al.: Performances of new pulse wave earpiece oximeter. Respiration and Circulation 23: 41-45, 1975. 世界で初めて、パルスオキシメーターを臨床応用した論文です。 "Prevention of retinopathy of prematurity in preterm infants through changes in clinical practice and SpO2 technology". Acta Paediatrica. 100 (2): 188-92. doi:10.1111/j.1651-2227.2010.02001.x. PMC 3040295Freely accessible. PMID 20825604. 青柳卓雄「パルスオキシメータの誕生とその理論」日本臨床麻酔学会誌 日本臨床麻酔学会誌 10(1), 1-11, 1990 血液ガスをめぐる物語:諏訪邦夫(著) 中外医学社 医療機器の歴史:久保田博南(著) 興交易社 Severinghaus JW, Honda Y. History of blood gas analysis. VII. Pulse oximetry.J Clin Monit. 1987 Apr;3(2):135-8. 中島進、大崎能伸「旭川医大におけるパルスオキシメーターに関する研究と世界的普及の経過について」旭川医科大学研究フォーラム. 12(1) , pp.27 - 33 , 2012-2. 余計?な注: 最近パルスオキシメーターで測定不能なことを多々経験するようになりました。爪へ過度な「ネイルアート」が施されているためです。 ネイルアートが施されていると、パルスオキシメーターを装着しても光が透過しないため、測定不能です。 この程度の色のネイルアートなら、赤色光も、赤外光も透過しますので、酸素飽和度の測定が可能です。 しかし、黒いネイルアートを施すと、測定できません。光が指を透過しないからです。少しだけ、このようなことを頭に置いてネイルアートを施してください(手と足は違う色で、または手と足の一方のみネイルアートを施すetc.)。 ま、本当のところ裏技があり、いくらネイルアートを施していても測定はできるのですが、少し面倒です。 ネイルアート、マニキュアとパルスオキシメーターに関する論文は多数出ています。 例:「パルスオキシメータにおけるマニキュア使用と外乱光の影響についての基礎的検討:医科器械学 73(4), 207, 2003-04-01」など。。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/11/05 ノーベル医学生理学は「生理学および医学の分野で最も重要な発見を行った」人物に授与されています。どういう基準で授与されるかは不明です。「重要」の解釈が難しいからです。 ノーベル生理学・医学賞は、ざっくり分けると、 人を含めた生物が生きる仕組み、病気になる仕組みを解明した発見 実際に病気の診断や治療に役立つ診断器具やお薬の開発 の2系統に分かれます。 もちろん1.→2.に行く場合も多いので厳密に分けるのは難しいですね。 今年(2019年)のノーベル医学生理学賞は「細胞の低酸素応答の仕組みの発見」に対して授与されました。これは、1.に該当すると思います。 一般の方にもわかりやすいのは2.の方ですね。実際に人を助けるお薬やさまざまな医療機器の開発はわかりやすいです。例えば、ペニシリンの発見、心臓カテーテル法の開発、CTの開発、MR(核磁気共鳴装置)の開発、ピロリ菌の発見、エイズウイルスの発見 などです。大村智先生、本庶佑先生は2.に該当します。 2.に分類される実際に役立つ方法を開発したノーベル賞受賞者の中には「外科医」が3名います。 血管縫合法を開発したフランス人「アレキシス・カレル」 野口英世の同僚で、野口をノーベル賞に推薦してくれています。今でもカレルの考案した手術法は使われています。 参考:018:カレルの論文の原典翻訳(ドクターズコラム) 精神病に対する前額部大脳神経切断(ロボトミー)を行ったポルトガル人「エガス・モニス」 今、この手術は行われていません。悲惨な結果になったからです。 腎臓移植を世界で最初に行った形成外科医の「ヨセフ・マレー」 もちろん、腎臓移植は世界中で行われています。 の3名です。 なお、カレルは臨床医ではありません。モニスも神経科医で外科医と一緒にロボトミー手術を考案していますが、元は外科医ではありません。純粋な外科医でノーベル賞を受賞したのは形成外科医の「ヨセフ・マレー」医師だけです。 もし次に外科医がノーベル生理学・医学賞を受賞するなら、それは内視鏡手術を考案し世界中に広めたフランスの開業医「フィリップ・ムレ博士(Philippe Mouret, M.D.)」になるだろうと言われていました。しかし、残念なことにムレ博士は2008年にお亡くなりになってしまいました。 閑話休題…… 「人を助ける」お薬、医療器具、手術方法の開発は大変ですが、成功すると、多くの人が助かります。例えば大村智先生の発見したイベルメクチンはさまざまな病気に効果があり、そのおかげで約2億人が助かると言われています。ある意味、助けた人数、助けられる人数が多い薬や機械を開発すると「ノーベル賞」への道が開けることになるかもしれないですね。 今回、次回は、ほとんどの日本人には知られていないけれど、世界中で実に多くの人の命を助けて、今後も将来にわたって多くの人の命を助ける機械の原理の発見者は日本人で、将来ノーベル賞を受賞するかもしれないという話を紹介します。 その方の名前は「青柳 卓雄(あおやぎたくお)」さんです。日本光電工業の技術者です。2015年にはその功績に対して「IEEE Medal for Innovations in Healthcare Technology」を授与されています。受賞理由は「For pioneering contributions to pulse oximetry that have had a profound impact on healthcare.医療に対して極めて重要なインパクトを与えたパルスオキシメーター開発の貢献に対して」というものでした。【注: IEEE アイトリプルイー[Institute of Electrical and Electronics Engineers]米国電気電子学会のことです。】 皆さんも、医療機関で青柳さんがその測定原理を発明した機械を目にしたこともあるかと思います。 その機械の名前を「pulse oximeter=パルスオキシメーター」 と言います。動脈血の酸素飽和度を測定する機械です。 図1:パルスオキシメーターで動脈血酸素飽和度を測定しています。 この方の動脈血酸素飽和度は100%で心拍数は56回/分です。 私が医師になった当時、このような機械はありませんでした。動脈血酸素飽和度を測定するには動脈を穿刺(せんし=刺す)して動脈血を採取しないと調べられませんでした。簡単ではありませんでした。それがいまや簡単に測れます。痛みを伴いません。時代は変わりました。 この機械の測定原理は、1974年のME学会で青柳氏が発表し、論文にしています。日本語で書いています。手書きです(文献1 ←実際にご覧いただけます)。 学会で発表する2年前の1972年にこの原理を発明したと日本光電のホームページ(https://www.nihonkohden.co.jp/information/history_detail.html)で紹介されています。 原理を発見し、特許の申請をしてから、1974年のME学会で発表したのです。用意周到です。先に学会発表をしてこの原理を公表してしまうとそれは「公知の事実」となり特許は成立しません。 パルスオキシメーターの開発当初の出来事を時系列で紹介しましょう。 1972年:青柳卓雄氏が原理を発明 1974年3月29日:特許を出願。タイトルは「光学式血液測定装置」 発明者は、青柳卓雄、岸道男。出願者は「日本光電工業(株)」 1974年4月26日:特許出願の翌月、青柳氏は日本ME学会大会でその原理を発表 それとは前後しますが、 1974年4月24日:パルスオキシメーターの開発を独自に進めていたミノルタカメラ(現コニカミノルタ)の山西昭夫氏が青柳氏とほぼ同様な原理を用いた機械を「オキシメーター」の名前で特許出願。 日を置かずして、日本で2つの全く別な会社の別な研究者が、このパルスオキシメーターの原理を発明したことになるのです。両社は全く技術交流が無かったそうですから不思議な話です。 1975年:日本光電はパルスオキシメーターの実機を発売(耳朶でのみ測定)。 北海道大学出身の外科医中島 進先生がこの機械を使って世界で初めて患者さんへの臨床使用を行っています(文献3)。しかし、当の青柳卓雄氏が異動により当該部署を外れたため、日本光電におけるパルスオキシメーターの開発が一時中断してしまいました。残念な話です。 1977年:コニカミノルタが世界初の指先で測定できるタイプのパルスオキシメーターを商品化。この指先で測定するパルスオキシメーターがデファクトスタンダード(de facto standard)となりました。 大変残念なことに、日本で発明されたこの機械はアメリカで改良されて使いやすくなり、急速に普及したことで製造単価が下がり、アメリカから全世界に普及しました。アメリカで機械の改良がなされたと記しましたが、その部品の多くは日本製でした(http://tech.nikkeibp.co.jp/dm/article/COLUMN/20140713/364980/?ST=nxt_thmdm_new_industry)。何となく悔しい話です。 図2:パルスオキシメーターに必須の赤い色を出すLEDが左側に右側に受光部があります。 アメリカで開発された当初、このLEDと受光部はなんと日本製(スタンレー電気社製)でした。 さてなぜ アメリカでこのような改良が成されたのでしょう。 1974年に青柳氏が書いた日本語の手書き論文が欧米の教科書に取り上げられ、青柳氏がこのパルスオキシメーターの原理の発明者であると紹介されているのはなぜか、英語にしないと認められないと言っているのになぜ日本語の論文が取り上げられているのか? ノーベル賞に推薦されているのは本当か? パルスオキシメーターはどんな病気の診断や治療に使えるのか? など、パルスオキシメーターに関する色々な話題は次回に続きます。 追記: 青柳卓雄(あおやぎたくお)氏は2020年4月18日、老衰のため死去、84歳でした。 生きていればコロナ禍の今頃ノーベル賞の声が高くなったと思います。それはともかく多くの病者を救う機器の原理を考案したのですから、未来永劫受け継がれます。偉大な方でした。合掌。 【参考文献】 青柳卓雄et al.:イヤピース・オキシメータの改良 医用電子と生体工学 12(Suppl), 90-91, 1974 注:パルスオキシメーターの原理を世界で初めて記した、科学の歴史に残る凄い論文です。 日本語で書かれています。是非お読みください。探せない方は筆者まで連絡をください。 青柳, 卓雄:生体組織透過光の脈動に基づく血中吸光物質濃度の無侵襲測定(脈波分光法)の研究 東京大学 , 博士(工学), 乙第11517号 , 1993-12-09 青柳氏は、研究を進めて博士号を取得しています。 Nakajima S, et al.: Performances of new pulse wave earpiece oximeter. Respiration and Circulation 23: 41-45, 1975. 世界で初めて、パルスオキシメーターを臨床応用した論文です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/10/21 文末に「驚愕の写真」があります。 投入堂から「下界」を眺めに 承前、長々と前文を書いてしまいました。話があちこちに飛び、申し訳ありませんでした。実は司馬遼太郎の真似をしたのです(笑)。 さて、国道9号線を東に向かい、一路、投入堂を目指しました。 余談ながら国道の横には高速道路があり、そちらを使った方が少し早く着きます。しかしそれでは味気ないです。前回でも書いたように国道9号線は古くからある道です。風情があり、眺めも良いのです。国道9号線は海沿いの道です。美しい日本海を眺めながらの運転は気持ちが良いです。ただし、人家が多く無いので信号機が少ないのです。一般道を車で長時間運転する際、時々は信号で止まらないと神経が休まらないので疲れますね。 それはともかく国道9号線から倉吉市を通り、鳥取県東伯郡三朝町にある「投入堂」に向かいました。途中、海沿いから山中の道に変わります。山の中の道は、森の緑が実に美しく、この辺りの山間の「豊かさ」を感じます。かなり山奥に入ります。今でも山奥です。この投入堂が作られた当時は、もっと山奥で道も今とは違って細かったでしょう。そんなところにお寺を、お堂をなぜ作ろうかと思ったのが、つくづく不思議です。 そんなことを考えながら、美しい緑を楽しみながらドライブしているうちに投入堂の登山口につきました。今はレンタカーにも「ナビ」が大抵ついているので迷わずに済みます。人生にも「ナビ」があれば迷わないのにと余計なことを思ってしまいます。 駐車場に車を置いて入山口に向かいます(図1、図2参照)。結構急な階段です。最初の難所?です。 図1:国道から入山口までの階段 図2:入山口から国道を見下ろす 投入堂は、前回でも記したように鳥取県東伯郡三朝町にある標高900mの三徳山(みとくさん)に境内を持つ「三佛寺(さんぶつじ)」の一番山奥にある奥院(おくのいん)です。奥院は大切な本尊、お経などお寺の宝物を安置する場所です。投入堂にも大切な仏像が安置されていましたが、それらの仏像は投入堂から移設されて誰でも行ける場所にある「宝物殿」で拝観することができます。 入り口にある急な階段を登り切っていよいよ投入堂に登ろうとしましたが、なんと「一人では登れない規定になっているので、あなた一人での投入堂行きは許可できない」と言われました。雨や雪の日は登れないことは承知していましたが(冬期は閉鎖されています)、「一人で登れない」という規定になっているとは知りませんでした。あとで確認すると確かに投入堂のHPにはそのように書いてあります。 三徳山一帯は本来仏道修行の場所です。細かい規定があり、それに従わないと登れないのです。登山のための靴もお坊さんのチェックが入ります。よかれと思った登山靴でもそれが入山に適していないと判断されると入山できません。靴が無いと登れません。そういう人のために、登山用の草鞋(わらじ)!が用意されています。借りても良いですし、あとで購入もできます。 図3:貸してくれる草鞋です。草鞋は持ち帰ると700円でした。 さて困りました。私の靴は投入堂登山に適している判定されましたが一人で行ったので、登ることができません。受付にいるお坊さんに、どうにかならないだろうかと頼んだのですが、投入堂登山で多くの怪我人(!)や死者(!)が出ているので、「警察のお達し」により、一人での登山は絶対禁止だと言われました。一人だと、転落しても解らないからダメなのだそうです。 途方に暮れていたら、「大丈夫ですよ、1時間も待てばあなたと同じで一人で登りに来る方がいるから一緒に登れば良いです」と言われました。それで待ちました。次から次に投入堂に登るグループがやってきます。グループと一緒なら構わないのではないかと思いその旨を伝えました。しかし、グループと一緒はダメだと言われました。「一人で投入堂に行く(登る)人を待ってください。一人で来た方とあなたが一緒に登れば良いのです。」と言われました。 待つこと小一時間、ようやく受付に一人で投入堂登山に来た方がいます。外国人の女性でした。受付の方が英語で「一人での投入堂登山は禁止されている、幸い、今一人で来て困っている人(私のことです)ので、一緒に登ってはどうか?」と言ってくれました。彼女が「no problem.」と言ってくれました。それで、一緒に登ることになりました。 福岡県に住んでいる米国人でした。日本語がある程度通じるので助かりました。彼女の靴は、投入堂登山に適さないと判断されてしまい彼女は草鞋で登ることになりました。草鞋を履いたことが無いのでとても面白いと言っていました。 図4:草鞋を履くとこんな感じですね。 結構険しい山道です。投入堂に登る山域は修行場ですので「輪袈裟(わげさ)」を首にかけます。登り始めると、いかにも「修行場」という雰囲気が伝わってきます。普通の登山とは何となく感じが違います。登山道には緑が満ち満ちています。本当に気分の良い道です。私の乏しい語彙力では表現が出来ませんが、心地よい中に霊験さを感じます。 図5:途中の風景 図6:鎖場です。 図7:こんなところも登ります。 図8:こんなところもあります(写真掲載の許可を得ています)。 同行の彼女が登れるかどうか心配していましたが、杞憂でした。彼女は随分と軽々と登っていきます。崖道、岩の道をすいすいと登っていきます。聞いたら、アメリカでロッククライミングをやっているとのことでした。 図9:途中、安全を祈願して鐘を突きます。 登ること1.5時間、ようやく投入堂に着きました。途中、かなり危険な箇所もあります。確かに「見に行くのには危険」な建築物だと思います。 図10:投入堂遠景1 図11:投入堂遠景2(岩の一部を削り取り、その上に柱を立てその上に御堂が乗っています。まさに「投げ入れた」としか思えません。) これを見ていると「今から1000年も前にどうしてこのような場所に御堂を作ろうと思い立ったのか?」などと思い、また実際に作ってしまった「人間の不思議さ」や「知恵」に感動します。見ていると不思議な気持ちになれます。1000年経っても朽ち果てずにきちんとしたカタチで建っている理由を素人ながら考えて見ました。 崖の中に埋め込まれるようにして作られている=雨に濡れない 北側を向いている=日光に晒されない 簡単には登れない=悪意を持って壊される可能性が少ない きちんとした維持管理がなされている(定期的にメンテナンスが施されています) などの理由で1000年近く、無事に建っているのでしょう。それでも台風や大地震などを経ても立派に建っているのをみると「健気」だなと思いますし、遠目に見ても、その尊さが解ります。 さあ、ここから投入堂まで最後の「登り」と思ったのですが、なんとそれ以上は進入禁止となっています。 図12:右手に柵があります。 昔は、投入堂まで、登ることができて、投入堂から下界を眺めることができたのです。あとで聞いたら最後の登りで滑り落ちて死人が続出したことと古い投入堂に人が入って荒れる危険性があるために、投入堂管理や研究など特殊な事情が無い限り、投入堂本体には登れないことになってしまったのです。前回、「当時写真に撮らなかったのが返す返すも残念」と書いた理由を解ってくれると思います。とても残念です。しかし、不心得者がいて、火でも使われたら1000年保った御堂も灰燼に帰します。今のように柵で防御した方が良いのだと思っています。 さて帰り道です。途中に国の重要文化財に指定されている室町時代に建てられた「文殊堂」があります。 図13:文殊堂 ここには入ることができます。そして周囲に廊下があり、そこから「下界」を眺めることができます。 図14:文殊堂からの眺め かなり高いところにあり、手すりも無いので怖いのです。しかし、眺めはとても良いです。 さて、この写真図13-14を見て皆さん、何か気づきませんでしょうか?人工物がほとんど見えないのです。今の日本でこのように人工物の無い風景を見ることはほとんどできません。貴重な風景です。 慎重に山を降り、無事、登山を終えることができました。修行終了です。 図15:返却した草履です。洗ってから干して再使用するそうです。 同行してくれた彼女の話です。「草鞋は歩きやすかった」、「もっと危険かと思ったけれど、大して危険とは思わない」、「1000年も前から建っていたとは思えないくらい投入堂はきれいだった」、「アメリカには1000年前の建物は無いのでこういう建築物が残っている日本がうらやましい」、「山陰旅行は楽しい、なぜなら人が少ないから渋滞がない。日本は連休中に出かけると渋滞するが山陰は渋滞しなかった」、「山陰は海も山もきれい」、「食べ物が美味しい」などと言っていました。 最後に、司馬遼太郎が絶賛した「豆腐」を食べようと思いましたが、お客さんが一杯で残念なことにまた食べられませんでした。また、いつか機会があれば再訪しようと思っています。 この随筆の最後に三佛寺の「厄除け祈願」の御札をお目にかけましょう。なんとも絵柄がシュールです。 注1: JALの英文サイトでも投入堂が紹介されていました。 注2: 三徳山三仏寺の公式ホームページ このホームページ内には登山の注意が書いてあります。投入堂に行く方は是非読んでから行ってください。 注3: 昔は投入堂内に入れたという凄い証拠写真を紹介します。昭和11年に撮影された写真です。 今とは隔世の感があります。 この写真は元鳥取県済生会境港総合病院院長稲賀潔先生よりご提供頂きました。稲賀先生の祖父、故稲賀幸元米子医学専門学校の外科教授が撮影した写真です。この写真を撮影した当時(昭和11年)、稲賀幸先生は財団法人米子病院に勤務されており、同病院の職員旅行で撮影されたと伺っています。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/10/07 なぜ「二十世紀梨」が鳥取県で多く栽培されているかもわかる司馬遼太郎の紀行文 昨年、鳥取県に行く機会がありました。5年ごとに開催される大学のラグビー部の同窓会があったのです。 折角行くのだから、久しぶりに色々なところを見ようと思い色々なところに行く計画をしました。 さらに折角行くのだから、司馬遼太郎の「街道をゆく 27 因幡・伯耆のみち(朝日文庫)」を再読しました。鳥取県の東半分は元は因幡国(いなばのくに)、西半分は元は伯耆国(ほうきのくに)です。「因幡・伯耆のみち」と題することで、鳥取県全体を歩いたことを示しています。 「街道をゆく」シリーズは司馬遼太郎が、1971年から腹部大動脈破裂で急逝する1996年まで、日本各地や諸外国を訪れ、訪れた土地の紹介やその土地に行って感じたことなどを記した人気のあるシリーズです。 20年ぶりに読み返しました。内容はほとんど忘れていました。再読してびっくりしました。かなり細かいところを丁寧に調べています。鳥取に行ったきっかけも面白いのです。司馬遼太郎はかかりつけの開業医・安住先生の人柄に興味を抱き、安住先生の出身地だった鳥取を訪れることにしたと記しています。書き出しが素晴らしいです。愛情とユーモアにあふれています。 司馬は「看護師が5人もいる」がゆえに「安住先生のところは儲からない」などと書いています。このように書くと嫌らしいですが、全く嫌みがありません。安住先生の人柄や医師としての力量をそれとなく褒めているのです。こういう書き方は普通の人にはできないです。すっと頭に入る書き出しです。 鳥取に関する調査も行き届いています。ええ?こんなことまでしらべるの?と思うくらいよく調べています。 一例をあげます。鳥取は「二十世紀梨」が有名です。普通の作家なら鳥取に行って梨を食べた。美味しかったくらいで済んでしまうのでしょう。しかし司馬はなぜ「二十世紀梨」が鳥取県で多く栽培されているかを調べています。実は「二十世紀梨」は千葉県で偶然に見つかった特別な梨です。 1888年(明治21年)、千葉県松戸市に住んでいた松戸覚之助氏(13歳)が親戚の家で見つけた梨の苗木を譲り受け、それを実家の梨園で育てたところ10年後に結実したのです。それが始まりです。 この特殊な梨はその美味しさゆえに、他の地域でも栽培が試みられます。千葉から遠い奈良県や鳥取県で栽培されるようになります。しかし、「二十世紀梨」は病気に弱いため育てるのが難しく、なかなか広まりませんでしたが奈良県の農家の方が発明した「梨を紙で包んで病害を防ぐ方法(袋かけ)」を鳥取で広く採用したことにより、二十世紀梨が鳥取で広く作られるようになったのだそうです。 ここまで調べるだけでも凄いですね。普通の作家なら話はそこで終了になるのでしょうが司馬は違います。なぜ他県ではなく、鳥取県だけにそういうこと(袋かけを広く普及させること)ができたかを詳述しています。 司馬は小説を書く時には様々な資料を集め、とことん調べたそうです。司馬が何かを書き始めようとすると古書店から資料が失せる(=司馬が集める)という話があるくらいです。それくらい調べるから彼の小説、随筆、紀行文には厚みがあるので面白いのでしょう。 余談ながら、中学校時代の通学路にあったお寺が司馬遼太郎の随筆「余話として」に取り上げられていて、びっくりしたことがあります。私の通学路にあったお寺「清運寺」にあの坂本龍馬の「いいなづけ」のお墓があると書いてあったのです。 その紹介の仕方が実に「愛」に満ちているのです。なぜ、坂本龍馬と縁もゆかりもない甲府に坂本龍馬の「いいなずけ」のお墓があるのか。よく調べてあります。 写真1:甲府にある「坂本龍馬の許嫁(千葉さな子)のお墓」です 話を戻します。 とにかくよく調べてある「街道をゆく 27因幡・伯耆のみち」は本当に面白い紀行文です。 多くの方が激賞する「三徳山三佛寺投入堂」 さて今回紹介する「三徳山三佛寺投入堂」は「みとくさん さんぶつじ なげいれどう」と読みます。鳥取県中部にある三徳山(標高900m)の断崖絶壁に作られた御堂です。学生時代に登ったことがあります。当時、投入堂の写真を撮っていなかったので今回は写真を撮りたいと思ったのです。しかし、理由は後述しますが、当時写真を撮らなかったのが実に残念でした。 この投入堂については多くの方が激賞しています。中でも建築家 藤森照信氏は彼の「目指す理想建築」の2つのうち1つが「投入堂」だと述べています。藤森氏は投入堂に登りそこから眺めた景色を見て 「日本の山には精霊がいると確信した」 と書いています。 私も学生時代投入堂に登り、そこから見える風景、景色を見て似たような気持ちを懐きました。「ああ、いいなあ」と思ったのです。 「精霊がいる」とは思いませんでしたが、何か清々しい思いをいだきました。その「眺望」をしかし今回見ることはできませんでした。 藤森氏が目指すもう一つの理想建築はポルトガルにある「Nas montanhas de Fafe, Portugal」です。 こちらはまだ想像ができますね。 しかし投入堂はどうやって作ったのか、全く見当がつきません。 同じく建築家の安藤忠雄も「投入堂」の素晴らしさを何度も説いています。「安藤忠雄が語る、子どもの感受性をくすぐるオススメの建築10選」などです。 他にも、五木寛之、磯崎新、土門拳、山下裕二らが「投入堂」を絶賛しています。 彼らが書いた本を読み、写真集を見て、 (1)もう一度行ってみよう、投入堂まで登ってみよう (2)今度はきちんと写真を撮ろう (3)司馬遼太郎が絶賛した豆腐を食べてみよう と思い立ったのです。軽い気持ちでした。 司馬遼太郎は投入堂まで登っていません。「危ないから登るのを諦めた」と書いてあります。代わりに三徳山の山麓で「豆腐を食べてそれが美味しかった」と書いてあります。 学生時代に登った時、「危ない」と思った記憶がありません。また司馬が絶賛している「豆腐」を食べた記憶もありません。 ちなみに「投入堂 危険」と入れて検索すると、 「数年に何人か死者を出している。去年は死者が出なかったが27人もの人が病院送りになってしまった投入堂に参拝した」 「投入堂は伊達じゃない。本当に危険でした」 「舐めてかかったら事故します。 三徳山三佛寺」 「この10年間で3名滑落して死者が出ています」 「投入堂を登っていたらアクシデント勃発。崖から人が転落して、ヘリが出動していた。崖から転落された方は亡くなってしまったらしい。このような転落死は毎年数名出るらしい」 等々「投入堂に関する恐ろしい記事」や「怖い投入堂訪問記」が多数見つかります。 あれれ? 司馬遼太郎が登るのを止めるほど、そしてこんなに死者がでるほど危険だったかな?と思いました。 2016年の「鳥取県中部地震(最大震度6)」のために投入堂への道が崩壊し、クラウドファンディングで資金を募り、無事修復したとのニュースが報じられたことも記憶にありました。 それで今回は「投入堂に登って、お堂から見える景色を写真に撮ろう」と思ったのです。 話は逸れます。 昨秋のある日、羽田から米子鬼太郎空港に行き、その足で境水道を島根県美保関町(みほのせきちょう)に向かい、その美しさで「世界灯台100選」に選ばれている「美保関灯台」に行きました。安定の美しさでした。 写真2:美保関灯台 美保関灯台を出てすぐの所に美保関神社があり、そこの青い色の石畳が有名です。 写真3:石畳がみどり色をしています。きれいです。 久しぶりなので、投入堂登山の安全を祈願するために参詣しました。参詣後、境内にある神社の石製の手すりに刻してある文字を見て、少し感動しました。石に「何何県○○丸名前(船頭)」と刻してあります。 江戸時代、日本海は北前船のルートでした。今なら新幹線や東名高速道路に当たるルートだったのです。荒波を越えて美保関の港にたどり着いた船乗りの方々がこのように航行の安全を祈願して、神社に名前を刻したのでしょう。 なかには航海の途中で命を亡くした方もいらっしゃると思い、そう思うと少し胸が塞がるような思いがしました。 写真4:美保関神社 さて、本論です。 米子市に泊まり少し早起きをして車で投入堂がある鳥取県東伯郡三朝町に向かいました。 途中、国道九号線を通ります。 この道は古来からあり、途上に「後醍醐天皇が隠岐の島から脱出してたどり着いて休憩をとった岩」などの旧跡がたくさんあります。津々浦々にそういう名所があり、いちいち止まっていると本命の「投入堂」にたどり着きません。 写真5:後醍醐天皇が座った石 というわけで、今回は終了です。次回に続きます。 追記1: 「街道をゆく」で取り上げられた「土地」は幸せです。ちなみに宮崎県、静岡県、山梨県、埼玉県、群馬県、千葉県、茨城県、栃木県の8県は訪れていません。関東地方は最後に回る予定だったのだと思います。最後は栃木県佐野市で終わりにするつもりで関東地方は後回しにしたのだろうと思っています。なぜ、栃木県佐野市かは司馬遼太郎ファンなら解ると思います。 追記2: 司馬遼太郎は鳥取市郊外にある「湖山池(こやまいけ)」の辺を通ります。「池」とありますが、実際には「湖」です。 司馬はこの「湖山池」という名称が良くない。なぜ良くないかというと、 重箱読みであること 湖と池という類似の漢字が使われていること から「良くない」のだそうです。私は大学時代、この湖山池の畔に住み、毎日湖山池を眺めて暮らしていましたが、そんなことは考えたことも無かったです。 注記3: 日本各地に国宝建築物があります。無い県もあります。 さて東京には何件? 神奈川には何件? あるでしょう。 参考:国宝建築物一覧(http://shirokokuho.shakunage.net/kokuhokenzobutsu.html) 東京には2件、神奈川には1件です。神奈川県には古都鎌倉がありますが、繰り返された戦争、紛争により古い建物はあまり残っていないのですね。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/9/17 世界中の医療に関する格言 道路を走っていると様々な標語が看板に記されています。 「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」 「あぶないよ よそ見 飛び出し ふざけっこ」 「注意一秒 ケガ一生」 「ぼちぼち 走りなんせー 鳥取路」 「おみやげは 無事故でいいの おとうさん」 「いちごが好きでも 赤なら止まれ」 「赤信号みんなで渡れば怖くない…そういってアイツは先に逝ってしまった」 最近見て、面白かったのは「ドラレコが見ているよ、お父さん」です。例のあおり運転後に高速道路に掲げられていました。 日本はこういう「標語」が好きなのでしょう。俳句、川柳などの影響があるのかもしれません。外国にもあるのでしょうか? 医療に関する標語というか格言も数多くあります。日本だけではなく世界中にもたくさんあります。有名なのはヒポクラテスの『術は長く生は短し』でしょう。ラテン語で“Ars longa,vita brevis.” 英語になると“Art is long, life is short”。“Art”という言葉が使われるので『芸術は長く生は短し』と紹介されることが多いのですが、ヒポクラテスは医師ですからこの場合の「術」は医術だと思います。 とにかく医療に関する格言は数限りなくあり、それに関する本も数多く出版されています(文献参照)。有名どころをいくつか紹介しましょう。 『患者さんの言うことに耳を傾けよ。患者さんはあなた(医師)に診断を語っている』(オスラー) 『医学によって生命は伸びるが、死の手からは医師でも遁れることはできない』(シェイクスピア) 『上医は病を予防し、中医は来たらんとする病に応じ、下医は現実の病を治療する』(中国のことわざ) 『われ包帯し、神これを癒やし給う 』(アンブロワーズ・パレ) 『病気を診ずして病人を診よ』(高木兼寬) 『健康こそもっとも貴重な財産である事を理解すべきである』(ヒポクラテス) 『誰でも長生きしたい、しかし老いたいとは思わない』(俚諺) 『病気を防ぎ、苦痛をやわらげ、病を癒やすことーーーこれが我々の仕事だ』(オスラー) 『手術の途中で、手術方針で迷うことがある。そういう時は、困難で面倒な方法の方が正解であることが多い』(恩師、新井達太先生) 『動脈硬化が起こる前に、態度の硬化が起こる』(Matt Oliver) 『手術室の看護師は外科医の第2の妻である』(Viatceslav Ryndine) 『もっとも重要な凝固因子は外科医である』(Moshe Schein) 『良い手術には“始末”が必要』(恩師、岡村吉隆先生、元和歌山県立医大学長、関西弁で “始末” は片付けること) 『キズは見つけなければ治らない』(フランシスベーコン) 『無知な医師は独善的』(ウィリアムオスラー) 『もともと太っている患者は痩せている患者より早く死ぬ』(ヒポクラテス) 『医療は「癒しの芸術」であり「聞く芸術」である』(バーナード・ラウン) 『病人を少しでも楽にしたいとたゆまず努力してはじめて医師は能力を最大限に発揮できる』(バーナード・ラウン) などなど、たくさんあります。なかには?のつくような格言もありますね。 私もこのような格言を作ってみたいと思っていました。心臓血管外科手術には出血がつきものです。特に人工心肺を使う手術ではヘパリンという抗凝固薬を患者さんに投与しますので一時的に出血しやすい状態になります。様々な心臓血管手術がある中で一番止血に難渋するのが「大動脈解離(だいどうみゃくかいり)」という病気の手術です。大動脈が裂ける怖い病気です。この病気では手術で切開、縫合した箇所のそこかしこから出血が始まることがあります。手術が早く終われるタイプの単純な大動脈解離なら良いのですが、複雑なタイプの大動脈解離だと、縫うところが多数あり止血に難渋します。しつこく根気よく止血作業を続ける事が大切です。わかりづらいでしょうが、本当にあちこちあちこちから出血することがあるのです。出血が続き、止血に難渋して21時間手術をしたこともあります。幸いこの21時間も手術をした患者さんは、しつこく止血作業を繰り返していたら、神様も味方してくれるのか、段々と出血が収まってきて助かりました。 『人間諦めが肝心』などと言われます。しかし元近鉄の投手だった鈴木啓示が説いたように手術の場合も『投げたらあかん』のです。そういうわけで『諦めが悪いのが良い外科医』だと思い、若い外科医にそのことを説いてきました。それが私の考えた第一の「格言」です(笑)。 三つでできた言葉は覚えやすく、忘れ難い 話は全く変わります。皆さんは、「赤尾好夫(1907-1985)」という方をご存じでしょうか?旺文社の創業者で一昔前「赤尾の豆単」という受験用の辞書で一世を風靡しました。2017年鎌倉にあった同氏の旧居跡を利用した「歴史文化交流館」がオープンしたので話題になりました。その赤尾好夫氏は山梨県の出身です。私は高校生の時、甲府で同氏の講演を聴いたことがあります。 赤尾氏の有名な言葉に『人間は忘れる動物である。忘れる以上に覚えることである』という言葉があります。その講演の最初にもその有名な言葉を引用して『だから今日私が話したことも忘れるだろうけれど聴いて面白いと思った言葉はノートに書いておくと良い』と言って講演が始まりました。講演の内容のほとんどは見事に忘れています(笑)。 しかし、その講演の中で、「人間三つまでは覚えられる。だから皆に知られているような言葉は三つでできていることが多い。今日は、三つの勉強法を教える」というような話だったのです。その三つの勉強法は忘れていますが、三つでできた言葉は覚えやすく、忘れ難いということだけは覚えています。いくつか三つの言葉(語)でできている標語というか成句をご紹介しましょう。順不同、思いつくままに。 「来た 見た 勝った(Veni, vidi, vici)」(カエサル) 「来た 見た 購うた」(喜多商店@大阪) 「清く 正しく 美しく」(小林一三:宝塚の創始者) 「作らず 持たず 持ち込まず」(非核三原則) 「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛の辞世) 「エトス パトス ロゴス」(アリストテレス) 「運 鈍 根」(成功の条件 俚諺(りげん;民衆から生まれたことわざ) 「見ざる 言わざる 聞かざる」(日光の三猿) 「神様 仏様 稲尾様」 「危険 汚い きつい」(3K) 「うまい はやい やすい」(吉野家) 「天呼ぶ 地呼ぶ 人が呼ぶ」(仮面ライダー) 「ホップ ステップ ジャンプ」 「日光 結構 もう結構」(戯れ言) 「売り手良し 買い手良し 世間良し」(近江商人) 「食う 寝る 遊ぶ」(日産のCM) 「自由 平等 博愛」(フランス共和国の標語) 「強く 早く 絶え間なく」(心臓マッサージの要点) 「ミッション パッション ハイテンション」(齋藤孝) 「朝は朝星 夜は夜星 昼はうめぼし いただいて」(とび職の方の戯れ言 ※注:「星を戴く」と「ご飯を頂く」をかけています。高級で洒落ている言葉ですね) 「bigger stronger faster」(ステロイドを扱った米国ドキュメンタリー番組の名前) 「スリル スピード サスペンス」(戯れ言) 「巨人 大鵬 卵焼き」 「松 竹 梅」 「金 銀 銅」 「真 善 美」 「ラーメン つけ麺 ぼくイケメン」(狩野英孝) 「いつでも どこでも だれでも」(NHKラジオ体操の標語) まだまだ、たくさんありそうです。 出来が良いのは韻を踏んでいる「来た 見た 勝った(脚韻)」、「危険 汚い きつい(頭韻)」などの語句で、覚えやすいですね。「来た 見た 勝った」はラテン語「Veni, vidi, vici」の翻訳です。ラテン語の原文も脚韻を踏んでいます。 何を言いたいかというと、私もいつか、このような三つの言葉で成る、そしてできたら韻を踏んだ「外科医の標語」を作りたいと思っていました。 手術はいつも、同一チームで同一病院で行えれば良いのですがそうもいきません。他病院で手術をする事もありますしメンバーが変わってしまう年もあります。24時間365日、緊急の患者さんが飛び込んできます。直ちに手術を始めないといけない場合も数多くあります。盆暮れ正月休み関係無しです。つまりどんな状況、どんな環境、どんな病院でも良い手術ができるように訓練することが必要です。 そういうわけで、(例示の最後にある)NHKラジオ体操の標語を少しだけ変えて、良い外科医になるには『いつでも どこでも だれとでも』という標語を考えつき、若い外科医に話をしていました。これは手術や医療に限ったことではありません。どんな仕事でも「いつでも どこでも だれとでも」楽しく、そして効率よく仕事ができれば良いと思っています。 【参考文献】 「医をめぐる言葉の辞典」ジョン デインティス、アマンダ アイザクス(編集)、長野敬(翻訳) 青土社 「医の名言」荒井保男(著) 中央公論社 「外科医へ贈ることば」モーシェ・シャイン(編集)、古瀬彰(翻訳) 注1: 赤尾好夫氏の遺産を元に、奨学金が山梨県の優秀な学生に与えられています。 この制度は同氏の遺志を継ぐべく死後23年にして始まっています。希有な出来事です。 注2: 『いつでも どこでも だれとでも』は、仕事に限った話です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/9/2 Otherwise, this paper from Japan is excellent. 前回より続きます。 勇躍、初めて書いた英文論文を「The Annals of Thoracic Surgery」という雑誌に[再]投稿しました。 それから数ヵ月…… ある朝、医局に行ったら上司の先生から「君はThe Annals of Thoracic Surgeryに投稿したの?」と聞かれました。ここまで書いた通り、あまりに恥ずかしいことばかりを経験していたたので、論文をアメリカの雑誌に投稿したことを伝えていなかったのです。 なぜ、投稿したのが、上司の先生に解ったのかな?と思ったら、「Dr.Mochizukiの論文をアクセプトします(注:アクセプトは雑誌に掲載しますよという意味です)」と記載されたFAXが「The Annals of Thoracic Surgeryの編集部」から夜中に届いていたのです。 「投稿された論文はアクセプトするけれど、コメントが3名の査読者から届いているのでこれらのコメントに対して至急回答するように」との内容も記されていました。論文が「The Annals of Thoracic Surgery」に掲載される!とわかりとてもとても嬉しかったです。しかし、コメントに対する返事が必要です。それも厄介でしたが、とても嬉しいコメント(赤字で示します)が書かれていました。 以下、そのFAXに載っていた査読者のコメントを紹介します。 COMMENTS OF THE REVIEWER (査読者のコメント) ※赤字部分は私が修飾しています。 査読者1.のコメント: The story of the "complex" cardiac myxomas continues. The authors report a case with high circulating interleukin-6 Levels, and they were able to document that the excised tumor contained IL-6. In addition, circulating levels of IL-6 dropped shortly after tumor resection. The manuscript is well written, and is short and to the point I do not suggest any major revisions. I do think that it warrants publication as part of the ongoing story of this subset of patients with cardiac myxomas. 査読者2.のコメント: This paper reports a single case of cardiac myxoma associated with constitutional signs and presence of Interleukin-6 in the serum. Although the case is well presented it does not add any extra information when compared to precedent publications (ref. 2, 3, 5). Important questions are not addressed, such as: does the association myxoma, constitutional signs and high serum Interleukin-6 values induce a rise of recurrence? Can myxoma recurrence be diagnosed on IL-6 dosage? Are constitutional signs due to presence of IL-6 in the serum? This paper simply describes a case report of the well known association myxoma, constitutional signs and presence of Interleukln-6 in the serum. 査読者3.のコメント: It is essentially an interesting case report with good lab data. My only suggestion to the author is that the discussion Is a little long by about 30%.There is some repetition in the thoughts expressed. With a little effort, this could be shortened. Otherwise, this paper from Japan is excellent. It may well be that the figure of the microscopic section should be published in color. 査読者3.の先生はコメントに「this paper from Japan is excellent」と記してくれました。私は狂喜乱舞しました。苦労して一生懸命書いた甲斐がありました。これは、私の人生の中でも嬉しかったことの上位5つに入ります。 ともかく3名の査読者への回答を練りに練って書き、査読者への助言に沿って論文を書き直し、私の論文は無事に胸部心臓外科領域では一流雑誌である“The Annals of Thoracic Surgery”へ掲載されました(文献1)。雑誌と別刷りが送られてきたときは「夢か」と思いました。 しかも、この論文掲載がご縁で心臓外科の教科書(「心臓外科」新井達太編、医学書院刊)の「心臓腫瘍の項」を書かせていただくことにもなりました。 そして、もっと凄いことが私の知らないところで起きていました。なんと朝倉書店の「内科学」の教科書の「心臓腫瘍」の項に、この論文が2版に渡って引用されたのです。 これを教えてくれたのは医学部の学生さんでした。「もしかして、この教科書に引用されている“Mochizuki Y”で始まる論文は、望月先生の論文ですか?」と聞かれたのです。本当に嬉しかったです。私は内科の教科書に論文が引用されていることを知らなかったからです。 この教科書の「心臓腫瘍」の項は、筑波大学の山口巌先生の執筆でした。山口先生は著名な先生ですが、私は面識がありませんでした。ですから、純粋に私の論文を読んで引用して下さったのです。望外の幸せでした。内科を専門とする同僚の先生方からとても羨ましがられました。 写真1:教科書の表紙です 写真2:教科書の中の文章です この論文を読んだ本家本元(Carney complex の提唱者)のCarney先生から、論文の別刷り送付依頼の手紙がきました。ドイツ、オランダ、ベルギー、フランスの先生からも別刷りの送付依頼の手紙をいただきました。その上、この論文を書いてから10年後にアメリカのCornell大学内科のVeugelers先生から、世界中の「Carney complex型の心臓粘液腫」の遺伝子解析研究にお誘いを受けて協同研究をさせていただき、その論文は「Proceedings of the National Academy of Sciences(米国科学アカデミー紀要)」にも掲載されました。 勿論、私の名前もこの論文のauthorのひとりになっています(文献2、余話4を参照ください)。また、この論文を書いたが為に、American journal of cardiologyなどの雑誌から心臓腫瘍に関する「査読依頼」もいただくようになりました。 私が初めて投稿した英文論文は、私が医師になった当時の目標のうち 英文論文を良い雑誌の載せること 教科書を書くこと 教科書に載るような論文を書くこと の3つを実現させてしまいまいした。一粒で3回美味しい論文でした。 あの「バイク便」を思いつかなければ無かった論文です。そう思うと、冷や汗がでます。臨床現場では、珍しい病気に出会わないままに過ぎてしまう医師も多いのですが、私は良い時期(インターロイキンー6が見つかった後)に珍しい症例に出会い幸運でした。 とにかく、この論文を書いた事で、英文論文を書く自分なりの「方法論」を作ったのです。その後もいくつか、英文論文は書きましたが、The Annals of Thoracic Surgeryにはなかなか掲載されませんでした。初めて書いた英文論文が、The Annals of Thoracic Surgeryに載ったのは、僥倖でした。 よく「宝くじは買わないと当選しない」と冗談で言われますが、「論文は書かないと載らない」ですね。そして、どうせ書くなら英文論文の方が良いですね。 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, Mori H, Shimada K.“Interleukin-6 and "complex" cardiac myxoma.” Ann Thorac Surg. 1998 Sep;66(3):931-3. ↓実物を読めます。フリーですので、お時間が有るときにお読みください。 https://www.annalsthoracicsurgery.org/article/S0003-4975(98)00569-4/fulltext Proc Natl Acad Sci U S A. 2004 Sep 28;101(39):14222-7. Epub 2004 Sep 15. Comparative PRKAR1A genotype-phenotype analyses in humans with Carney complex and prkar1a haploinsufficient mice. 余話1: この論文を書いていた当時、私はマッキントッシュのコンピューターを使っていました。投稿論文はWordで書いていたのでデータは残っていますが、そのほかのメモ書きなどはすべて「クラリスワークス」というマッキントッシュ用のソフトで書いていました。 今回、この機会に見直そうとしましたが、ほとんどが読めません。特殊なソフトを使わないと読めそうにありません。とても残念です。 パナソニックのVHSとソニーのβのような話(懐かしい!)ですが、今はマイクロソフト社のWordが世界標準です。当時も全てWordを使って作業していれば良かったです。マッキントッシュのソフトで作った書類は拡張子(.txtや.jpgなど)が付いていませんでしたので、何のソフトで作った書類かわからないのです。実に困った話です。 余話2: 途中でも紹介しましたが、この論文を書いていた時に思いついたのが、付箋(ポストイット)を用いる方法です。参考までに、画像を添付します。ポストイットは便利で、日常生活にも論文作成にも欠かせないですね。 写真3:付箋紙活用例1 写真4:付箋紙活用例2 写真5:付箋紙活用例3 余話3: 「Google Scholar」で検索すると私の書いた論文は、現在まで21編の論文に引用されていることがわかります。 21編の論文中には世界的に有名なメイヨークリニックのHartzell V.Schaff先生の書いた “Surgery For Cardiac Myxomas” という論文もあります。名誉な話です。 以前は、こういうことを調べるのは大変でしたが今は「Google Scholar」があるので簡単にわかります。比較には全くなりませんが、山中伸弥先生が書いたノーベル賞の論文「Induction of pluripotent stem cells from adult human fibroblasts by defined factors」は14,000編の論文に引用されています。桁が違いますね。 余話4: 「Proceedings of the National Academy of Sciences(米国科学アカデミー紀要)」に、著者として名前が載るのも大変な名誉です。インパクトファクターは10点くらいです。 ちなみに、この雑誌は米国では「ピー エヌ エー エス」と呼称します。しかし、日本では何故か「ピーナス」と呼称されています。これは良くないですね!さて、なぜでしょう(笑)。米国人には別なモノを連想させてしまうようです。他人がいないところで、低音で、ゆっくりと「ピーナス」と発音すれば…… 余話5: 締め切りの無い論文投稿は、自分でデッドラインを作らないとダメですね。痛感しました。自分で締め切りを作るのは困難ですが、なにか目標が無いと、だらだらと時間が過ぎてしまいます。とは言え、自分でデッドラインを作るのは難しいですね。 余話6: 米国の一流雑誌に論文が載るのは、ある意味「劇薬」です。というのは、もうすでに発表されているような事を、日本語で、論文を書く意欲が無くなるからです。日本語の論文も、実はとても大切だと後に気づきました。 余話7: アメリカに長く留学していた先生に伺ったら、“Instructions for Authors” の技術的部分(紙質、フォント、紙のサイズなど)はすべて「秘書さん」がやってくれるのだそうです。それを聞いて私はため息がでました。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/08/19 お笑い英文論文投稿 前回より続きます。 色々とありましたが、心臓腫瘍(粘液腫)のインターロイキン-6染色に成功しました。これを日本語で書いて日本語の雑誌に投稿すれば比較的簡単に載りそうです。しかし、折角だから、なんとか英語の論文にしたいと思いました。 世界中には、数多くの英文雑誌があります。NATURE、SCIENCE、CELL、PNASの世界は夢のまた夢の世界です。私の患者さんは珍しい病気ですが、1例の経験しか無いので、そういう有名な雑誌に載ることはあり得ません。色々と考えたあげく、胸部心臓血管外科医にとって「夢」である“Journal of Thoracic and Cardiovascular Surgery”とか“The Annals of Thoracic Surgery”に載せたいと思い至りました。どちらもアメリカの雑誌です。今は変わりましたが、“Journal of Thoracic and Cardiovascular Surgery”には症例報告のような論文は掲載されていませんでした。そう言うわけで、症例報告も掲載される可能性がある“The Annals of Thoracic Surgery”に投稿することにしました。「しました」と言っても、勝手に!自分でそう思っただけで、実際に論文を投稿するためにどうしたらよいか、方法論が全くわかりませんでした。そこで私が最初にやったのが、「医学英語論文の書き方」が書いてある本を読むことでした。いわゆるハウツー本ですね。どのようにしたら英語論文が書けるのか?というような内容の本です。数冊読みました。どの本にも 「書こうとしている論文に価値があるかどうかを検討することが一番大切」 「世界で初めての発見なら、インパクトファクターの高い雑誌に載る可能性がある」 1.も2.も言っていることは、同様です。同じような論文がすでにあるなら、論文が掲載される可能性は低くなります。苦労して、英文論文を書いても同内容の論文があれば、その論文は掲載されません。そういうわけで論文を書く前に図書館で徹底的に論文を探しました。書こうとしている論文と似たような論文があるかどうかを調べたのです。これは1993年頃のことです。「Medline」という医学生物学の論文のデータベースをインターネット上で無料検索出来る様になったのは1997年のことです。それが、皆さま良くご存じの「PubMed(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/)」です。 それまでは「Index Medicus」という書誌雑誌を用いて論文を検索していました。私もこの「Index Medicus」を用いて探しました。これが「言うは易く行うは難し」です。「Index Medicus」はとても厚く重いのです。今、思い出しても、忌々しいというか、途方に暮れたというか…とにかく論文を探すのが大変でした。図書館は夜8時までしか開いていません。病院で手術をして、患者さんの診療を終えて、やっと夜7時頃になって図書館に駆け込んで、とにかく論文を探しました。 「Carney complex(カーニー複合)="complex" cardiac myxoma.」に関する論文 心臓粘液腫とインターロイキン-6に関する論文 を徹底的に収集して、読みました。それらは英文論文がほとんどです。これはかなり厄介でした。でも、読んでいると、使用されている英語はテクニカルタームが似通っているので(内容が同じようなモノですから)、段々と読む速度が速くなりました。約50編ほど、論文を読みました。今は、普通にパソコン、スマホからPubMedが使えるので、論文を調べる時間は飛躍的に短縮されました。良いことですね。当時から考えると夢のような話です。 さて、どうやらこの症例は英文論文にする価値がありそうだと確信しました。それから、悪戦苦闘が始まりました。 まず、英文論文としてどのようなことを書いたら良いか、どのようにして書き始めたら良いか、皆目見当がつきません。幸い、前述のように50編程度の英文論文を読んだので、これらを参考にして論文に書いてあった英語から使えそうな医学表現方法、表記方法を書き出してみました。そして、自分なりに筋立てを考えてみました。主題は「心臓粘液腫がインターロイキン-6を分泌していることを免疫染色法によって証明した」ことです。論文の導入部分にその旨を書き、次に症例の詳細を書き、結果を書き、検討を書き、最後に結論を書くのが論文の流れです。 さて、色々と書いてみました。しかし、当時、とても忙しかったので(年に150-180件の心臓手術をしていた時代です)、なかなか進みませんでした。仕事が終わってから、あるいは手術の待ち時間などのいわゆるすきま時間を使って書いていましたが、それでもなかなか進みません。日本語ではこう思うのですが、英語ではそれが上手に表現できません。ですから、止まってしまうのですね。特に困ったのが「Title」と「Running Head」です。The Annals of Thoracic Surgeryでは「Title」は80 characters、「Running Head」は40 charactersと指定されていました。私は、この“Characters”の意味も最初は解りませんでした。キャラクターって何? これではお話にならないですね。キャラクターは文字数のことです。どうしてもTitleは長くなってしまいます。私は、Titleを先に20個ほど案出しました。散々、悩みましたが「Interleukin-6 and "complex" cardiac myxoma.」としました。そして、Running Headは「IL-6 AND COMPLEX MYXOMA」としました。 この経験を基に思いついたのが、今でも私が実践している「付箋(ポストイット)を用いる方法」です。とにかく思いついたらポストイットに書き留めてノートに貼りつけ、後でそのノートに貼ったポストイットを整理する、そういう方法です(次回の余話2に紹介します、実際の写真付きです)。 そしてなんとか、書き上げて、投稿?したのです(笑)。 (笑) の意味は、この後の波乱万丈をお読みいただければ、すぐに判ります… 「医学英語論文の書き方」という本には書いていないことがありました。それは、各雑誌には「Instructions for Authors(投稿者への案内):投稿規定」があり、それに沿わない原稿は受け付けないということです。あまりにも当然のことですから本には書いていなかったのですね。最近のThe Annals of Thoracic Surgeryの「Instructions for Authors(https://www.annalsthoracicsurgery.org/content/authorinfo)」には、下記のような項目が並んでいます。今は電子投稿ですので以前とは多少、趣が違いますが、書いてある内容は昔も今もほとんど変わっていません。そこには論文に使って良い「字数、フォント、文字のサイズ」など細かいことが決まっています。電子投稿になって変わったのは「紙」の指定が無いことです。後述する如く「紙」には悩まされました。 General Description of Content Manuscript Submission General Information for Formatting Manuscripts Categories of Manuscripts and Word Limits Order of Content With in Manuscripts Title Page Abstract, Graphical/Visual Abstract Text Acknowledgments and Disclosures References Tables Figure Legends Illustrations Supplemental Material Protection of Human and Animal Subjects Conditions for Publication Form Miscellaneous 論文投稿に際してはこれらの項目に細かい規定があり、これに沿わない原稿は「受け取ってもらえません」。 当時の投稿規定です。電子投稿以前の投稿規定です。紙媒体での郵便による投稿です。 とにかくこれをよく読んでこの「Instructions for Authors:投稿規定」に沿って書かれた論文でなければ、そもそも投稿を受け付けてくれないのです。そういう事が当時の私には良く解っていませんでした。 書き上げた英文論文を、意気揚々と投稿したのですが、 「この論文は投稿規定に沿っていない」 「指定している紙を使え」 「英文をnative speakerに見てもらえ」 というような内容の手紙が、私の下に届きました。査読してもらう以前の話でした。今思うと冷や汗が出てきます。論文の受け取りを拒否されても仕方が無かったのですが、投稿先のThe Annals of Thoracic Surgeryの事務担当者が哀れに思ってくれたのか、 「あなたの論文は投稿規定に沿っていないよ、投稿規定通りに書けよ、きちんとした英語で書けよ、それも指定した紙を使って書くようにね」 と幸運にも助言してくれたのだと都合良く解釈しました。投稿した論文はそのままゴミ箱に捨てられても仕方なかったのですが、助言をしてくれたのです。親切な話です。このThe Annals of Thoracic Surgeryの事務担当者にはとても感謝しています。 私が最初に投稿?した英文論文は、有り体に言えば「論文」の体をなしていなかったのです。そもそも「指定している紙」っていったい何のこと何だろうと思って、「Instructions for Authors」を読み直すと確かに論文は「全てletter sizeのwhite opaque bond Paper」に印刷して提出せよと書いてあります。何のことだかよくわからないので、A4の普通紙にプリントして提出していたのです。近所の文房具屋さんに聞いても判りませんでした。銀座の文房具専門の伊東屋さんに聞いて見れば良いと思いつき伊東屋さんの紙売り場に電話してみました。答えは簡単でした。伊東屋の担当者は“white opaque bond Paper”というのは英米で公用文書を書くのに使われる紙であることや、その紙は“白く、不透明で少し厚いボンド紙という紙”であることを、丁寧に教えて下さいました。「伊東屋さんでは購入出来るのでしょうか」と伺ったら、「ええ、勿論です。沢山売っています(笑)」とのことでした。私は直ちにその「white opaque bond Paper」を注文しました。 次に私は書いた英文を「医学英語論文を添削してくれる米国の専門家」を探して読んで頂きました。最初から笑われてしまいました。「モチヅキ先生、この論文はダブルスペースでは無いですね。これでは、そもそもダメです」。そういえば、「Instructions for Authors」に論文は“Manuscripts should be typed double-spaced throughout”と書いてあったのを思い出しました。“double-spaced”の意味がわからないので、ここでも私は普通に印刷してしまっていたのです。double-spacedを調べたら、「1行の文章に2行分の場所(スペース)を確保すること」つまり、行間を1行空けることだと判りました。当時、Wordというソフトで書いていましたが、そういう設定もあったのですね。私はその時、初めて気づいたのでした。 私が英文論文を最初に投稿した時は「Instructions for Authors」をまともに読んでいなかったのです。門前払いされるのも当然ですね。これはいかんと思い「Instructions for Authors」を全て訳出しました。論文本文、図や表の全て、図や表の説明の全て、タイトル、小見出し全てに細かい規定がありました。 必死になって、これらの規定に完璧に沿うように論文の体裁を整えました。この作業に半年くらいを費やしました。英文も全て書き直し、前述の英文専門家に再度読んで頂きました。ここでも一苦労はありました。「a」と「the」の選択、受動態で書くか、能動態で書くか? 実は、この辺りは今でもよく理解できていませんが、何回か書き直しました。自分で言うのも変ですが、修正した論文は最初に自分で書いた英文とは似て非なるものになりました。言っていることは同じですが日本製英語では無くて、英文らしい英語になっていました。そして再度The Annals of Thoracic Surgeryに投稿したのです。先方からは「査読に回します」という素っ気ない返事が返ってきました。 次回、続く。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/07/29 心臓腫瘍が入った特殊容器を2時間以内に届けるには 承前。 当時勤務していた栃木県の病院から、特殊免疫染色を行ってくれる八王子の研究所まで160kmあり、高速道路を使っても、心臓腫瘍が入った特殊容器を2時間以内に届けるのは、ほぼ不可能で諦めてしまいそうになったところまでお伝えしました(参考:「論文を書く」ということ(1))。 心臓腫瘍を摘出してから2時間以内に染色をしないと インターロイキン-6(IL-6)の活性が低下し、免疫染色が出来なくなる可能性があるので、なんとしても2時間以内に届ける必要がありました。この特殊な染色のために米国から抗IL-6 抗体まで注文したので、なんとか免疫染色をしたかったのです。そこでなんとか腫瘍を摘出してから2時間以内に八王子の研究所まで届けることができるような方法を色々と考えました。 夜間 or 休日に手術をする これなら交通渋滞に懸からず、2時間以内に検体を届けることができそうです。しかし、手術スタッフ、麻酔医の賛同は得られそうにありません。 ヘリコプターでの輸送 ヘリコプターで検体を届けられることが解りましたが、そのためにはさまざまな申請が必要です。しかも費用も高いので早々に断念しました。 そういうわけで、私は「特殊免疫染色」を一端は諦めました。しかし、この患者さんの病気である「Carney complex(カーニー複合)」という病気を調べていると、これはとても珍しい病気であることが解りました。当時、日本では数例しか報告がありませんでした。世界でも100例程度です。こういう患者さんに巡り会うのも、ある意味、セレンディピティです。これを生かさない手はありません。内分泌異常、遺伝、皮膚病変etc.とにかく調べまくりました。それを見ていてくれた当時の上司が、手術の執刀医として私を指名してくれました。普通こういう珍しい病気の執刀は教授、准教授が行います。そういう稀な病気の執刀を私に任せてくれたので、さらにやる気が起きました。執刀を任せてくれた当時の上司には今でもとても感謝しています。 とにかく、色々な思いがあり、特殊免疫染色ができないのはとても悔しかったのです。この患者さんの心臓内には腫瘍が2個あります。放置すると合併症が起きるかも知れません。いつまでも手術を延期することはできません。早々に手術日が決まりました。もちろん休日ではありません。 手術日の数日前、手術手順を書き出して色々と考えていたら、自分(望月)なら、検体を2時間以内に栃木から八王子まで届けることができるかもしれないということに思い至りました。以前もお伝えしたように、私は大学時代、大型バイクに乗っていました。バイクなら渋滞があっても2時間以内に届けることができると考えついたのです。 しかし、すでに大型バイクに乗らないようになって、10年が経っていました。上手く運転できるとは思えません。首都高速を走ったこともありません。それより何より手術の執刀をしなければいけません。これも無理、非現実的な話だと思っていたのです。その時、悪魔のような知恵?が私の頭の中に降りてきました(笑)。 「バイク便!」とういうモノがあることを思い出したのです。大学生時代、バイク雑誌を見ていた時にバイクを使った物品輸送を行う仕事が始まり(注:1982年に始まっています)、それを「バイク便」と称し、バイク雑誌にバイク便ライダーの求人が載っていたのを思い出したのです。 この手術を行った1992年当時、インターネットは使えません。ですから、職業別電話帳(懐かしい)でバイク便会社を探して電話をかけてみました。幸い、摘出した心臓腫瘍の輸送を引き受けてくれる会社というか、引き受けてくれるバイクライダーの方がいらして、2時間あれば届けることができるだろうと言ってくれたのです。ライダーの方にすぐに病院に来ていただきました。そのライダーの方に 心臓腫瘍が入っている容器をこの病院から八王子の研究所まで届けて欲しいこと この腫瘍は直径が2cmくらいの球状をしていて、マイナス196度の液体窒素が充填してあるステンレス製容器(一升瓶程度)に入っていること 液体窒素は爆発する危険はないこと 手術日の何時何分くらいに摘出した腫瘍が入った検体容器を病院の入り口に臨床検査技師さんが持ってくるので、病院前に待機して欲しいこと そしてその検体容器を受け取ったら、交通ルールを守りつつ2時間以内に八王子にある研究所まで届けて欲しいこと 以上をお願いしました。実際に使う容器を見せてお願いしました。この容器を手術室から病院の入り口まで届けてくれることを引き受けてくれた臨床検査技師さんにも立ち会ってもらいました。 幸いこの特殊な輸送を快く、このライダーの方が引き受けてくれました。余程なこと(交通事故など)が道路上で起きない限り、検体を受け取ってから2時間以内に八王子まで届けることができると言ってくれたのです。輸送にかかる費用もたいした額ではありませんでした。 手術が始まって1.5時が経過する頃に液体窒素が入った検体容器が手術室に届くように手配しました。手術開始後、それくらいの時間で腫瘍が取れると考えていたのです。当日、手術の手助けをしてくれる看護師さんにそのことを伝えました。そしてその容器を私が合図したら、私の足下に持ってくるようにお願いしました。手術をして腫瘍を摘出したら直ちにその容器に腫瘍を放り込むよう手はずを整えたのです。 摘出した腫瘍を入れた容器は直ちに手術室入り口まで持っていくようにお願いしました。腫瘍が入った容器を手術室入り口で待ってくれている検査技師さんに渡してくれれば、バイク便のライダーに検体容器が渡ります。簡単なリハーサルも行いました。 「しつこい」「くどい」「やりすぎ」と思われるかも知れませんが、それくらいしないと「初めてのこと」は上手くいかないのです(余話参照ください)。 手術日には恩師の新井達太先生(当時、埼玉循環器病センター総長:https://cmic-career.com/dr-column/archive/5)が手術指導のためにいらしてくれました。新井先生も、この特殊な病気(Carney complex)は初めてだと仰っていました。 手術は滞りなく進行しました。無事心臓の中に二つあった腫瘍を摘出しました。心臓腫瘍はもろいので慎重に摘出し、足下に置いた液体窒素が入っている容器に入れました。それを病院入り口で待っているバイク便のライダーに渡してもらいました。腫瘍を摘出したのが午前11時半頃でした。手術は午後3時頃に終了し、八王子の研究所に電話したら、すでに検体は届いていて、特殊染色に取りかかっているとのことでした。そして無事、「抗インターロイキン-6染色」を行うことができたのです。 それがこの写真です(参考文献6)。 腫瘍内にIL-6があれば 抗IL-6抗体 と反応して茶色に染まると言われていました。この写真の茶色の部分がそれに該当する部分です。ここにIL-6があるから染まるのです。「心臓粘液腫に多量のIL-6がある= 腫瘍がIL-6を産生している」と思われる裏付けをこのような染色をして世界へ初めて示すことができたのです。 正確には世界初の発表ではありませんでした。似たようなことを考えついた方がいたのです。ただ、その先生は日本人の先生で、日本語で論文を書いていました。また、この特殊な「Carney complex(カーニー複合)」に伴う心臓腫瘍でこのような染色をしたのは、間違いなく私が世界初でした。 私はこの発見を英語の論文にしたのですが、心臓粘液腫に抗インターロイキン-6染色を行って「英語の論文」にしたのは、私が世界で初めてです。今の時代、英語で論文を書くのはとても大切です。英語でないと世界中の人に、この「発見」を届けることができません。 「バイク便」が無ければ染色はできませんでした。「バイク便」を使うことを思いついて本当に良かったです。今も「バイク便」が走っているのを見かけると当時のことを思い出します。 生まれて初めて英語で論文を書くのは、とてもとてもとても大変でした。 というお話は次回に続きます。 【参考文献】 GARFIELD E.Science. 1955 Jul 15;122(3159):108-11. Citation indexes for science; a new dimension in documentation through association of ideas. Mullis KB, Faloona FA. Specific synthesis of DNA in vitro via a polymerase-catalyzed chain reaction. Methods Enzymol. 1987;155:335-50. Carney JA, Gordon H, Carpenter PC, Shenoy BV, Go VL. The complex of myxomas, spotty pigmentation, and endocrine overactivity. Medicine. 1985;64:270-83. Toshio Hirano, et al. Complementary DNA for a novel human interleukin (BSF-2) that induces B lymphocytes to produce immunoglobulin。Nature 324, 73 - 76 (06 November 1986); doi:10.1038/324073a0 Hirano, T.,et al. Human B cell differentiation factor defined by an anti-peptide antibody and its possible role in autoantibody production. Proc. Natl. Acad. Sci. USA. 84:228-231, 1987. Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, Mori H, Shimada K. Interleukin-6 and "complex" cardiac myxoma.Ann Thorac Surg. 1998 Sep;66(3):931-3. ↓ここに載っています http://www.annalsthoracicsurgery.org/article/S0003-4975(98)00569-4/fulltext Proc Natl Acad Sci U S A. 2004 Sep 28;101(39):14222-7. Epub 2004 Sep 15. Comparative PRKAR1A genotype-phenotype analyses in humans with Carney complex and prkar1a haploinsufficient mice. Veugelers M1, Wilkes D, Burton K, McDermott DA, Song Y, Goldstein MM, La Perle K, Vaughan CJ, O'Hagan A, Bennett KR, Meyer BJ, Legius E, Karttunen M, Norio R, Kaariainen H, Lavyne M, Neau JP, Richter G, Kirali K, Farnsworth A, Stapleton K, Morelli P, Takanashi Y, Bamforth JS, Eitelberger F, Noszian I, Manfroi W, Powers J, Mochizuki Y, Imai T, Ko GT, Driscoll DA, Goldmuntz E, Edelberg JM, Collins A, Eccles D, Irvine AD, McKnight GS, Basson CT. 余話: 手術前にリハーサルを行ったと書きましたが、これは「塀の中の懲りない面々」で有名な作家「安部譲二」の本で読んだことがきっかけです。安部譲二氏によると警察に捕まるかもしれないような悪いことをしようとする際にはアリバイ作りのために悪事を行う予定の日と同じ曜日の日に「麻雀」をするのだそうです。捕まった時、「いやあの時間は誰々と麻雀をしていました。面子は誰々で、誰がどれくらい勝った、負けました。私が上がった手は何々で…」と言い訳するのだそうです。他の面子の方も実際に麻雀をやっているので、アリバイ作りとしては最高だったと書いていました。要するに、「事をなすにはリハーサル」が大切だと書いていました。ま、悪事をするわけではないですが何か新しいこと、面倒なことをするには入念なリハーサル、予習が大切ですね。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/7/16 これまで私のコラムの中で「書き残す必要性」について何度か書いてきました。歴史に残る大発見をしても書き残さないと、それは「無い」ことになってしまいます。 日本人初のノーベル賞は物理学者湯川秀樹博士が受賞しています。ノーベル賞の受賞対象となった湯川博士の中間子理論に関する論文は『日本数学物理学会雑誌』の英文版に掲載されています(https://www.jstage.jst.go.jp/article/ppmsj1919/17/0/17_0_48/_pdf/-char/ja)。 湯川秀樹博士が偉かったのは 「発見した事を英文で書いたこと」 「自分の書いた英文論文が載っている雑誌を世界中の物理学者に送ったこと」 だと思います。『日本数学物理学会記事』の英文版を世界中の大学、研究施設が購読していたとは思えません。それでも湯川秀樹博士は折角の「大発見」を知らせたくて、世界中の物理学者に送ったのでしょう。それが後のノーベル賞につながります。歴史にifは禁物ですが、湯川秀樹博士が 論文を英文で書かず 英文で書いた論文を世界中の研究者に送らなければ 後のノーベル賞受賞は無かったでしょう。これは1934年のことです。今とは随分と時代が違います。 私の周りでも、もったいない話(折角の発見を論文にしなかった)をいくつか聞いています。私も1つだけ、論文にしなかった心残りの手術があります。今もそのことをチマチマと調べています。 それはともかく、今回は私が初めて書いた英語の論文のことを紹介しようと思います。 医師になってしばらく経ってから、いくつか目標を立てました。その内の1つが「インパクトファクターがある雑誌に論文を載せること」でした。「そして何時の日か教科書に引用されるような論文が書ければ良いな」と夢のようなことを考えていました。 少々「インパクトファクター」についてご説明します。 「インパクトファクター」とは? インパクトファクター(impact factor:文献引用影響率:略称は「IF」)とは「科学系雑誌の点数」です。これが高いほど、「レベルが高い雑誌」ということになっています。入学試験における「偏差値」のような指標です。 IFは1955年、アメリカの書誌学者ユージン・ガーフィールド氏(Eugene Garfield:1925-2017)が考案しました(参考文献1)。「科学を定量的に測定する方法 =IFの算出法」を世界で初めて考えついた方です。「科学を定量的に測定する方法」とは少し言い良すぎかもしれません。「科学雑誌に点数をつける方法を考案した」が正しいでしょう。 ここで IFの計算方法について、ごく簡単に説明しましょう。 ある雑誌「Q:仮名」の2016年の IFをどうやって計算するかをお示しします。 「Q」の IF= A / B A = 2014年、2015年に雑誌Qに掲載された論文が2016年中に引用された回数 B = 2014年、2015年に雑誌Qが掲載した論文の数 要するにある雑誌Qに載った論文がどれだけ引用されたかを計算するのですね。価値の高い論文ほど、引用される回数が多くなり、IFも高くなります。 IFのランキングが毎年6月に発表されます。2016年のランキングをお示ししましょう。 ※()内は前年のIFです Nature: 40.137 (38.138) Science: 37.205 (34.661) Cell: 30.410 (28.710) Nature Medicine: 29.886 (30.357) Nature Genetics: 27.959 (31.616) Nature Methods: 25.062 (25.328) Science Translational Medicine: 16.796 (16.264) Journal of Clinical Investigation (JCI): 12.784 (12.575) Nature Communications: 12.124 (11.329) しかし、これはあくまで雑誌の点数であり、雑誌に掲載された論文自体の価値を示しているわけではありません。IFは「研究者の科学者としての実力」と本来は無関係です。IFを考案したガーフィールドさんも、「これは雑誌の評価であり、科学者の評価とは関係が無い」と述べていました。しかし、ガーフィールドさんの思惑とは違ってIFは研究者の評価をするのに使われています。ある研究者の評価をするのに、その研究者の執筆した論文(正確にはその論文が載っている雑誌)のIFの総計が使われたりもします。 「IFは科学者の評価とは関係が無い」ことを示す良い例があります。以前にDNAの画期的な増幅法であるPCR法を考案して、ノーベル化学賞を受賞したキャリー・マリスのことを以前書きました。日本国の皇后陛下(現上皇后陛下美智子様)に向かって『 sweetie! 』と言った、あのハチャメチャなオジサン、キャリー・マリスです。 彼のPCRに関する論文は NATURE や Science のようなIFの高い雑誌には載りませんでした。NATURE、Science へ投稿したのですが、査読者に掲載を拒否されたのです。査読者には理解できないほど「凄い」論文だったのです。そこで、マリスは「Methods Enzymol」という雑誌( IF= 2.0)に論文を投稿し掲載されました。彼がノーベル賞を受賞できたのは論文を英語で書き、IFが付いている雑誌に論文が掲載されたからです。マリスはアメリカ人で英語が母言語です。日本人の私から見ると、それがとてもうらやましいです。 IFの高い雑誌に論文が載ることと研究者の研究レベルとはまた別な話とはいえ、IFの高い雑誌にたくさん論文が載るような研究者は間違いなくハイレベルです。今は、IFの他にも「Google Page Rank」、「Y- Factor」のような別の評価指数も出てきています。いずれは、IFに取って代わるような評価方法が世界標準になるかもしれません。 しかし、どうせ論文を書くなら、IFの高い雑誌に載せてもらった方がいいですね。IFの高い雑誌は読んでいる人も多いからです。でも、「言うは易く行うは難し」です。「Nature」、「Science 」、「Cell」のような雑誌に論文を載せるのは至難の業です。前述のごとく、IFは引用される論文が多くないと高い値にはなりません。「英語で書かれた論文が載る雑誌」以外は、事実上読まれることが少なく、高いIFを得ることは不可能です。 「これができれば世界最初になる」と思いついた! 前置きが長くなりましたが、私も「何時か IFがある雑誌に論文を載せたい」と思うようになりました。しかし、色々な論文を読んでいると、IFのある雑誌に論文を載せるためには少なくとも、以下、二つの条件が最低条件であることが解ってきました。 世界的に見て、新しい発見や新しい知見があることが必要 英語で書くことが必要 どちらもハードルが高いです。特に、私は海外留学を経験しなかったので、英語で論文を書く方法論が一切解らなかったのです。学位論文は日本語で書き、症例報告などいくつかの論文を日本語で書いたことがありましたが、英語で論文を書いたことがありませんでした。そもそも、「世界初の新発見」、「世界初の新知見」がそう簡単には見つかるわけもありません。 もう27年も前のことになります。1992年のことです。私が勤務していた病院の小児科の先生から、「心臓に腫瘍が二つある」「全身に黒子(ほくろ)がある」「高熱が出ている」という15歳の高校生が入院していると連絡がありました。小児科の先生によると、この高校生の病気は「Carney complex(カーニー複合)」ではないかとのことでした。 「Carney complex」は1985年にクリーブランドクリニックのCarney先生が提唱した病気です。 全身に黒子(ほくろ)があること 多発する粘液腫を伴うこと、その粘液腫は主に心臓に発症すること 内分泌異常を伴うことがあること 遺伝性で、家族性に発症することもあること 粘液腫があれば、熱発、関節痛など炎症反応を伴うことが多い などがその特徴です。 恥ずかしながら、私は小児科の先生に教わるまで「Carney complex」という病気があることすら知りませんでしたので、直ちに Carney先生の論文を読みました(参考文献3)。当時、日本でも未だあまり知られていなかった病気です。 丁度その頃、インターロイキン-6 (interleukin-6:以下「 IL-6 」と略)という物質が日本で発見されていました。液性免疫を調節するサイトカインの一種です。1986年大阪大学の平野俊夫先生、岸本忠三先生らが発見しています(参考文献4、NATUREです)。その後、 IL-6 についていろいろなことが解明されていました。そのうちの1つが心臓粘液腫の患者さんに関することでした。心臓に粘液腫がある患者さんは熱が出ることがあります。粘液腫自体が産生するIL-6が体に炎症反応を起こし、そのために熱が出ると推測されていました(参考文献5)。私が受け持った「Carney complex」の患者さんは、高熱を発していました。つまりこの患者さんの場合、 心臓粘液腫が多量の IL-6 を分泌している それゆえに心臓粘液腫腫瘍内には大量のIL-6が存在するだろう という2つのことが予測できました。この患者さんの血中のIL-6濃度の推移や粘液腫中のIL-6を分析することができれば心臓粘液腫とIL-6との関係が今までよりも明確になるだろうと思いついたのです。 話は少し変わります。当時、さまざまな臓器や腫瘍の中に存在する物質を明らかにするために「免疫染色」という方法が開発され、実臨床の場でもこの方法が使われ始めていました。「免疫染色」とは、臓器の中にある(と考えられる)物質に対する抗体を用い蛍光物質で標識して染色する方法です。実際に「臓器の中にある(と考える)物質」があれば、その抗体と反応して蛍光を発するという原理です。たまたま、私はその免疫染色のことを少しだけ勉強していたのです。そして「抗 IL-6 抗体を用いればこの患者さんの心臓粘液腫のIL-6染色ができるのではないか」「これができれば世界最初になる」と思いついたのです。 「免疫染色」は特殊な方法です。どこでもできるわけではありません。色々と探したら、ある検査会社S社の病理部門の方が興味を持ってくださり、抗IL-6 抗体を用意して、私の受け持っている患者さんの心臓腫瘍の IL-6 免疫染色を行ってくださることになったのです。 望外の幸せでした。IL-6 は上述のごとく日本で発見されたので日本で一番研究が進んでいました。詳しく調べてみると、血中IL-6も測定可能ということが判りました。早速、私の患者さんの血中 IL-6 を測ってみました。とても高い値でした。私は、これは「いける!」と考え、本格的に準備を始めました。 しかし、事は簡単ではありませんでした。摘出した腫瘍内のIL-6濃度は腫瘍を常温で放置すれば時間経過と共に急速に低下することが予想されました。IL-6 が別な物質に変化するかもしれません。S社の方々と議論を重ね、IL-6 の変化を防ぐにはー196℃の液体窒素の利用が有効ではないかという結論に至りました。心臓手術をして腫瘍を摘出したら直ちに液体窒素に浸せば、IL-6の変化は最小限に抑えられると考えました。液体窒素を入れる特殊な容器を用意してその中に液体窒素を入れてその容器に摘出した腫瘍を入れれば良いだけです。 ここまでは簡単な話です。 しかし、問題はその後でした。「腫瘍摘出+液体窒素に浸す」作業をしてから、できるだけ早期に免疫染色のための作業を行わないと「きれいに染まらない」可能性があると言われました。できれば腫瘍摘出後2時間以内に作業に取りかかりたいとS社の担当者から連絡がありました。 さて、困りました。当時私が勤めていた病院は栃木県にあり、S社は東京都八王子市にありました。病院から八王子市まで検体を搬送するには電車による輸送か高速道路を使った自動車での輸送しか方法がありません。。病院から最寄りの新幹線駅まで40分かかります。電車による輸送は選択肢から消えました。高速道路なら病院から研究所まで160kmくらいですが、当時は圏央道が無かったため首都高速道路を端から端まで通るルートしか選択肢がありませんでした。首都高速道路は平日の昼間なら確実に渋滞します。2時間で検体を届けるのは不可能です。どう考えても4時間くらいかかりそうです。そこで私は「免疫染色」を一旦、諦めました。 ところが、考えてはみるものですね。2時間で検体を届けることができる方法を思いついたのです。今でも、なんで思いつくことができたのか、自分でも不思議なくらいです。 以下次回へ。 【参考文献】 GARFIELD E.Science. 1955 Jul 15;122(3159):108-11. Citation indexes for science; a new dimension in documentation through association of ideas. Mullis KB, Faloona FA. SpecIFic synthesis of DNA in vitro via a polymerase-catalyzed chain reaction. Methods Enzymol. 1987;155:335-50. Carney JA, Gordon H, Carpenter PC, Shenoy BV, Go VL. The complex of myxomas, spotty pigmentation, and endocrine overactivity. Medicine. 1985;64:270-83. Toshio Hirano, et al. Complementary DNA for a novel human interleukin (BSF-2) that induces B lymphocytes to produce immunoglobulin。Nature 324, 73 - 76 (06 November 1986); doi:10.1038/324073a0 Hirano, T.,et al. Human B cell dIFferentiation factor defined by an anti-peptide antibody and its possible role in autoantibody production. Proc. Natl. Acad. Sci. USA. 84:228-231, 1987. Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, Mori H, Shimada K. Interleukin-6 and "complex" cardiac myxoma.Ann Thorac Surg. 1998 Sep;66(3):931-3. ↓ここに載っています http://www.annalsthoracicsurgery.org/article/S0003-4975(98)00569-4/fulltext Proc Natl Acad Sci U S A. 2004 Sep 28;101(39):14222-7. Epub 2004 Sep 15. Comparative PRKAR1A genotype-phenotype analyses in humans with Carney complex and prkar1a haploinsufficient mice. Veugelers M1, Wilkes D, Burton K, McDermott DA, Song Y, Goldstein MM, La Perle K, Vaughan CJ, O'Hagan A, Bennett KR, Meyer BJ, Legius E, Karttunen M, Norio R, Kaariainen H, Lavyne M, Neau JP, Richter G, Kirali K, Farnsworth A, Stapleton K, Morelli P, Takanashi Y, Bamforth JS, Eitelberger F, Noszian I, Manfroi W, Powers J, Mochizuki Y, Imai T, Ko GT, Driscoll DA, Goldmuntz E, Edelberg JM, Collins A, Eccles D, Irvine AD, McKnight GS, Basson CT. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/7/1 「昆虫学者ではないただのおじさん」元東京大学附属病院 栗田昌裕先生 前回に続き、蝶々のことから「心」のことなどを考えてみたいと思います。 ここで2人目のご紹介です。 元東京大学附属病院で内科医として働いていた栗田昌裕先生(現 群馬パース大学 学長:1951-)も、そういうアサギマダラをマーキングしている方々の一人です。 栗田先生は10数年にわたって、このアサギマダラのマーキングを「昆虫学者ではないただのおじさん(本人の言)」として続けています。 栗田先生が本格的にマーキングを開始したのは、2003年からです。暑い夏にアサギマダラは東北地方に飛来します。特に有名なのが、福島県の裏磐梯にあるグランデコスキー場です。アサギマダラが多数飛来します。ここに群生するヨツバヒヨドリ(四葉鵯: キク科)の蜜がアサギマダラの好物なのです。 栗田先生は、この裏磐梯で「マーキングしたアサギマダラがどこにどれくらい飛んでいくのだろうか?」とか、「再会できるだろうか?」とか考えつつマーキングをしているのだそうです。 そしてなんと、栗田先生は10年で約13万頭のアサギマダラにマーキングしているのです。年間13,000頭です。特に裏磐梯では一夏に1万頭にマーキングすることを目標として、それを苦しみつつ達成(?)しています。単純に一夏=30-40日として、1日300頭くらいのアサギマダラを捕獲してはマーキングすることが必要です。12時間ぶっ続けにマーキング作業をしたとして、1時間に25頭、約2分に一度はアサギマダラを捕獲してはマーキングを繰り返していたことになります。え?え?え?という話です。 栗田先生によると、アサギマダラには24個の魅力があるとのことです。 文献1から一部引用します。アサギマダラには、 旅をする 飛び方が多様(24種の飛び方があり、分類しています) 酔う(スナビキソウを吸蜜中は酔うのだそうです) 強い 賢い 恐れない 速い(2日で740kmの海上移動の記録有り) etc.ほかに17個の「魅力」があると書いています。 書き写していると、頭がクラクラしてきます。栗田先生は、そんな24個の魅力をもったアサギマダラにマーキングしていると、色々と不思議な現象に出会うのだそうです。 夏に裏磐梯でマーキングしたアサギマダラが他所で他人の手で再捕獲されています。全国31箇所で再捕獲されています。遠くは沖縄で再捕獲されています。それは裏磐梯から沖縄まで少なく見積もっても、2000kmも移動していることが確かめられています。 凄いのは栗田先生ご自身で、秋~冬にかけて、休日を最大限に利用して全国各地に赴き、自分でアサギマダラの調査をしていることです。父島、与那国島、台湾、香港、喜界島等々で調査しています。そして、福島県からは遠く離れた土地で、福島県裏磐梯で栗田先生自身がマーキングしたアサギマダラに再会もしているのです。 1回や2回なら、そういうこともあるでしょう。しかし、何回もそういうことが続いているのです。例えば8月にマーキングした個体に9月末に奄美大島で再会、愛知県の三ヶ根山でも2頭に再会、この時は両手に一頭ずつ自分がマーキングしたアサギマダラがいるという「確率を超えた現象」に何回も出会うようになるのです。 元は東大の数学科を出た「数学者」でもある栗田先生にも確率を超えた「何か」が、アサギマダラにはあるのだろうと記しています。以下参考文献1に栗田先生が書いていることです。 “アサギマダラは不思議な能力を持っていると思う。周辺を飛び回るときにそれを感じる。何かを発しているのではないか。私が考えたことをその通りにアサギマダラが実行してくれるように感じる” 今風に言えば、アサギマダラは栗田先生の考えたことを「忖度」しているのかもしれません。なんだかよくわからないですが、奄美大島で再会したい、愛知県で再会したいと思ったら、福島裏磐梯で自身がマーキングした蝶々が飛んでくるのですから、…ま、あり得ないです。忖度しているとしか思えないですね。 “私がアサギマダラを見る時は、一頭一頭見ているのではありません。アサギマダラをくるんでいる雲のようなものを見ています。だからある場所でアサギマダラをマーキングするとその雲がどのように変化しどのような経路を辿り、いつどこに行くのかが見えてきます” とも書いています。要するに普通の人には見えない何かが、栗田先生には見えるのです。 「確率を超えた現象」に何回も遭遇すると、それは「超常現象」として済まされてしまうことがほとんどです。しかし、文献1.2.は写真や他の人の採取データなどで裏付けられています。そうでなかったら「トンデモ本」の類に入っていたかも知れません。NHKをはじめとするTVや新聞などでも紹介されています。これもあり得ないような確率の話ですが、テレビ番組の撮影中にアサギマダラとの再会を果たしています。ですから、他人には解らないような「超常現象」ではないことは確かでしょう。 栗田先生がアサギマダラを追っかけているのか、追っかけられているのか、それが「心」を通わせているからか?とか、考えると、訳がわからなくなります。私には、アサギマダラと栗田先生が「心」を通わせているとしか思えないのですが、さて蝶々に「心」があるのでしょうか?凡人の私には解りません。いずれにせよ、蝶々には色々と面白いことがたくさんありそうです。韃靼海峡をわたったのが「アサギマダラ」か、まだ不明です。ロシア大陸にいるアサギマダラをマーキングしてくれる方がいらっしゃれば、わかることだと思います。 私も質は違いますが「確率を超えた現象」に出会ったことが何度もあります。 いずれ、そういうことも記そうと思っています。 【参考文献】 謎の蝶アサギマダラはなぜ海を渡るのか? 栗田昌裕(著) PHP研究所 謎の蝶 アサギマダラはなぜ未来が読めるのか? 栗田昌裕(著) PHP研究所 両書ともに、極めて興味深いことがたくさんかかれています。お時間あるときに是非、お読みください。なお、本文中の“”内は両書からの引用です。 アサギマダラ 海を渡る蝶の謎 佐藤 英治 (著) 山と溪谷社 (2006年) 別記1: 栗田昌裕先生は上述の如く、毎夏 福島県耶麻郡北塩原村の裏磐梯にあるホテルグランデコに滞在し「旅する蝶:アサギマダラ観察会」を催しています。興味のある方は、訪れてみると良いですね(アサギマダラ観察会)。 この会が催されるようになったきっかけは、一夏ホテルに滞在している「おじさん(=栗田先生)」が捕虫網をもって朝から晩まで蝶々を追っているのを見たホテルの支配人が、声を掛けてきたことから始まっているのだそうです。これも「アサギマダラのお蔭」と栗田先生は記していますが、大の大人が朝から晩まで、一心不乱に蝶々を採取しては、ペンでマーキングしていたら「何をしているのですか?」と聞かない方がおかしいですね。 別記2: 栗田昌裕先生の略称はSRSですが、これは栗田先生御考案になる速読法「SRS(Super Reading System)」から来ています。速読法に関する著書も多いのです。100冊以上、本を書いていらっしゃいます。指回し健康法の考案者でもあります。 別記3: 我が家に飛来した蝶々です。アゲハチョウでしょうか?何度も、私の周囲を旋回していました。夜の蝶には縁がないけれど、昼の蝶々には好かれているのかもしれないと思っていたのですが、違いました。蝶には蝶が好む通り道があり、それを「蝶道」と言います。丁度、私の周りが蝶道になっていたのでしょう。アゲハチョウの仲間は特に蝶道を作る傾向があるのだそうです。 別記4:芝公園とアサギマダラ 私どものクリニックがある浜松町に近い芝公園でアサギマダラ関連の催しが開催されています。 芝公園・生物多様性ガーデンでアサギマダラを見つけよう 芝公園にアサギマダラを呼ぼう! などが、開催されています。ご興味がある方は是非、参加してみてください。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/6/10 ※「忖度(そんたく)」:「他人の心をおしはかる」という意、最近 ある話題で注目の言葉 皆さんは蝶々が好きですか?(余計な注:昼に舞う蝶々です) 冬が終わりGWも終わり、すっかり春めいている筈の今日この頃ですが、春と言うよりすぐに夏になってしまったような感じを受けます。最近は「春」や「秋」と呼べる期間が極端に短くなっているように思えます。 とは言え、今、自然に目を向ける「春」を感じます。山の樹木は匂い立つような緑色になり、草木も生い茂り、花々も一斉に咲きます。花に釣られて蝶々(ちょうちょう)も花から花へと飛び回ります。 今回、次回は血管疾患から離れ、蝶々のことから敷衍(ふえん)して柄にもなく「心」のことなどを考えてみたいと思います。 皆さんは、子供の頃、蝶々が好きでしたか?春になるとさまざまな蝶々が飛び交います。蝶々を採取して標本にしませんでしたか? 蝶々が好きだと公言している方も多いですね。生物学者の福岡伸一、池田清彦、解剖学者の養老孟司、故鳩山邦夫代議士、ファーブル昆虫記の翻訳で有名な奥本大三郎など「蝶」に魅せられた人は多いですね。ここに挙げた方々の蝶への愛情は凄まじいです。 私の勤めていた病院のある先生は蝶の採取が好きで、学会で各地に行く時には必ず蝶採取用の折りたたみ捕虫網を持っていくのが常でした。その先生は捕虫網にもこだわりがあり「志賀昆虫普及社@戸越銀座」というお店の網でないとダメだと仰っていました。何がダメなのか、私にはサッパリわかりません。その先生は、学会に行っているのか、蝶々を採取に行っているのか、良くわかりませんでした(笑)。蝶々が好きで、蝶に魅せられている方は一種独特な感性を持っている方が多いと感じています。小さい時から蝶々に親しむと、独特な感性が養われるのかもしれません。ただし観察個体人数が少ないのでこの仮説が正しいかどうかは不明です。 そんな先生方の中から、蝶に纏わり私が知っている2名の先生をご紹介しながら話を進めます。 「栴檀は双葉より芳し」元鹿児島大学内科学 納光弘先生 まずは、元鹿児島大学内科学の教授で納光弘(おさめ みつひろ)先生です。「HTLV-1関連脊髄症」という病気を発見したことで有名な先生です。納先生は「痛風はビールを飲みながらでも治る!―患者になった専門医が明かす闘病記&克服法(小学館文庫)」の著者としても知られています。さまざまな病気の研究で有名な方です。診療や医学研究の合間に、玄人顔負けの絵を描いたり、人わざとは思えないようなゴルフをしています。 「1日に105ホール回る」「本場リンクスコースで1日に94ホールまわり、大新聞に載る」などと上記のサイトに載っています。 プロを目指してボウリングもしています。ここに、納先生のボウリングのスコアが載っています実に多芸多才な方です。 納先生の書いた論文を読むと、その精緻さに頭がクラクラとします。天才的な先生です。 その納光弘先生が最初に書いた科学論文を紹介しましょう。医学の論文ではありません。「蝶」に関する論文です。「栴檀は双葉より芳し(せんだんは ふたばより かんばし)」と言いますが、当にその言葉が正しいことを体現しているような論文です。著者名に鹿児島市甲南高校2年とあるのが微笑ましいです。文中に出てくる「福田先生」は後述する本も書いている有名な蝶類学者で、そういう人と出会ったのも運が良いですね。この運?は蝶が引き寄せてくれたのかもしれません。何を言っているのか不明だと思いますが、次回まで読んでいただければ、理解していただけると思います。 この論文は、「タイワンツバメシジミ」という蝶が日本でどういう「カタチ」で越冬しているのかを明らかにした立派な論文です。納青年(当時)は「タイワンツバメシジミ」という蝶が鹿児島の土中で幼虫となって越冬していることを発見したのです。鹿児島県昆虫同好会誌「SATSUMA 19号」に載っている論文です。『蝶の履歴書』(福田晴夫著)にもこのことは紹介されているくらい凄い業績です。 納先生には色々と教えていただいたことがあります。その際、この論文の事も伺いました。この論文に書いたことを発見したのは先生が中学生の時で論文にしたのが高校生の時だそうです。ただ、どこにもこの論文は残っていない、納先生の手元にもないとのことでした。私は探せばあるとはずだと考え、ある方法で探したところ、上記の論文が見つかり、納先生に送って差し上げました。喜んでいただきました。いずれにせよ、後に医学においても世界的な発見をした納先生の記念すべき最初の科学論文は、この蝶に関する論文だということになります。この発見に関して、納光弘先生はこう書き記しています。 “だれも越冬状態を見たことがない。こんなアホなことでも初めてのことだと、書いておけば名前が残っていく。ものごとの発見というのは、変だな、不思議だなと思ったら、その原因をさぐる努力をすれば、いずれ原因に到達するのです” やはり、「栴檀は双葉より芳し」ですね。 アサギマダラは旅をする ここからは、本号の主題に移ろうと思います。 最初に、安西冬衛(1898年-1965年)という詩人の「春」という詩を紹介します。 「てふてふが 一匹 韃靼海峡を渡っていった。」 注1:「てふてふ」は、「ちょうちょう」の旧仮名遣い表記です。音読するなら『ちょうちょう』です。 注2:韃靼海峡(だったん:今の間宮海峡、アジア大陸と樺太の間) という「詩」です。詩集『軍艦茉莉』(1927年)に載っています。 韃靼海峡の地図(Wikiより転載) 韃靼海峡(=間宮海峡)は狭いところでは7kmくらいしかありません。蝶々も渡れると思います。後述の如く、蝶々は考えられないほどの距離を飛翔することが解ってきています。数kmくらい飛ぶのは訳もないことです。 さてこの詩で使われている「一匹」がおかしいと言われる方もあるかも知れません。クイズ番組等で「蝶々の数え方」は「頭」を使うのが正しいとされるからです。私は以前から、昆虫の数え方に「頭」を使うのは変だと思っていました。「蝶鳥ウォッチング」というブログ(https://yoda1.exblog.jp/19635989/)で「チョウの数え方、昆虫の数え方 」について学問的な考察がなされているのに気づきました。これを読んで疑問が氷解しました。 以下、同ブログより引用します。 ----引用開始------ 日本動物学会に問い合わせると、以下の説明を公式にいただきました。 「昆虫関係の和文誌論文をいくつかみると、多いものが何「個体」、次が何「頭」です。しかし、厳しく呼称統一されているわけではなく、何「匹」も間違いではないと思います。これが論文ではなく一般向け書物ならば順番は逆になるのではないでしょうか。あまり厳しくルールを決める必要もないのではないかというのが学会関係者の意見でした」 つまり、動物学会でも、学術論文において「頭」にするか、「匹」にするかは、著者の自由であるわけです。 ----引用終了------- TVなどのクイズ番組が間違いなのです。「頭」か「匹」を選ぶのは学術論文でも、どちらでも良いのです。 仮に 「てふてふが 一頭 韃靼海峡を渡っていった。」 としたら何だか情緒が無くなり違和感が残ったと思います。 その韃靼海峡を渡ったとされる蝶々ですが「アサギマダラ」という蝶ではないかとされています。樺太でも見つかるからです。そもそも「か弱そうに見える」蝶々が本当に遠距離を移動するのでしょうか? それについては少なくとも世界で2種類の蝶が何千キロも旅をすることが確かめられています。最初に長距離を飛ぶことがわかったのは北米の「オオカバマダラ(大樺斑・学名:Danaus plexippus、英名Monarch)」という蝶々です。どうやって、蝶々が数千kmも飛ぶかわかったかというと「オオカバマダラを捕獲」して図1にあるようなラベルを付けてから蝶を放つのです。ラベルにはe-mailのアドレスが書いてあります。 図1:ラベルが貼られたオオカバマダラ このラベルが付いた蝶を再捕獲した人が捕獲場所をe-mailで連絡すれば、蝶々がどこかからどこまで、どれくらいの日時で移動したかが、わかるのです。多くの人の努力、観察により、カナダでラベルを貼られたオオカバマダラはメキシコまで移動していることや、時にはイギリスまで移動していることが解ったのです。このオオカバマダラに次いで長距離移動をすることが解ったのは日本の「アサギマダラ(浅葱斑、学名:Parantica sita 英名:Chestnut Tiger)」という蝶です。 図2 アサギマダラ 「浅葱:アサギ」とは青緑色の古称で羽の部分の半透明の水色部分の色です。 このアサギマダラですが、春になると北上し涼しい土地で過ごし、秋には暖かい地方に南下するのです。詩的に書けば「アサギマダラは旅をする」のです。旅をするらしいことがわかったのは1980年頃の話です。全国各地のアサギマダラの愛好家がアサギマダラにマーキングを開始しました。大阪市立自然史博物館の方が「アサギマダラを調べる会」を発足させ、以後、現在に至るまで、マーキングをして、アサギマダラがどのように飛んでいるかを調べています。 図3:マーキングされたアサギマダラ 図3はマーキングされた「アサギマダラ」です。北米の「オオカバマダラ」のラベルとは違います。油性のペンでアサギマダラの羽に字を書き込むのです。キカイとあるのは喜界島のこと、3/28は3月28日、SRSはマーキングした方の略称(例えばこのSRSは栗田昌裕先生です)。このようにアサギマダラの羽にマーキングし、誰かが別な場所でこの蝶を捕獲したら、捕獲場所、捕獲日時をSRSさんに報告する。SRSさんはそれを公開する。Aさん、Bさん、Cさん……がそれぞれそういうことを行ってはじめて、アサギマダラがどれくらいの距離を飛翔するか、わかるというわけです。理屈は簡単ですが、実行するのは大変です。インターネットが普及したお蔭で報告、集計は多少容易になったとは思いますが、それでも蝶にマーキングしてそれを集計するのは大変だと思います。ご興味がある方は「アサギマダラ観察会」に参加してみてください。 以下、次回。 【参考文献】 謎の蝶アサギマダラはなぜ海を渡るのか? 栗田昌裕(著) PHP研究所 謎の蝶 アサギマダラはなぜ未来が読めるのか? 栗田昌裕(著) PHP研究所 両書ともに、極めて興味深いことがたくさんかかれています。お時間あるときに是非、お読みください。なお、本文中の“”内は両書からの引用です。 アサギマダラ 海を渡る蝶の謎 佐藤 英治 (著) 山と溪谷社 (2006年) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2019/5/27 ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない 前回の続きです。世界で初めて足の動脈瘤の治療に成功した外科医「ジョン・ハンター(John Hunter、1728-1793)」、彼は実にさまざまなことを行っています。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 (1)先に医師、解剖医になった兄と共に「解剖教室」をロンドンに開き屍体を集めて授業料をとって人体解剖を教えていました。そんな教室は、世界中でもごく少数でした。今、医学部では、御遺体(尊い献体です)を用いて解剖を行います。その先駆けですね。 (2)生きた犬を開腹して犬の腸にミルクを注ぎました。その結果リンパ管が白く(ミルクの色)なったので、リンパ管は脂肪の通り道であることを証明しました。 (3)ハンターは軍医をしていた時に A.「銃弾摘出術」を行わなかった患者は全例助かっていること B.「銃弾摘出術」を行った患者の死亡率は極めて高いこと の2点に気づき、以降、「銃弾摘出術」を行いませんでした。 このことに示されるように「死亡率が高い」か「不必要」と判断した治療や手術を、ハンターは行わなかったのです。こういう冷静な科学的判断が下せる医師、外科医は当時ほとんどいませんでした。それだけでも凄いことです。 (4)ハンターは、病人を診て、病状を考え、病気を治療する時にはいつも 「観察せよ、記録せよ、推論せよ」 と説いていました。科学的思考の第一歩ですね。 (5)ハンターは自分の頭で考えることの大切さを繰り返し、説いています。曰く、 「自分の頭で考えよ」 「常に疑問を持ち、自分の頭で考える外科医をそだてることが必要」 「世の定説は、真の知識というより単なる信仰に基づいている。定説を改めようとするのは定説の誤りを認めて得意になりたいからでは無く、自分たちの無知を認めて改めるためである」 「確立された教義に疑問を持ち自分の頭で考えよ」 今でも通じる考えですね。でもハンターが生きた時代にこれを説くのは危険でした。「教義」に疑問を持つこと=神への冒涜と捉えられたからです。このために彼の書いたある本が出版されなくなり、大きな業績を他人に譲ることになってしまいました。 (6)ハンターの弟子は文字通り、「綺羅星のごとく」です。種痘で有名なジェンナー、パーキンソン病で有名なパーキンソン(パーキンソンはハンターの講義を詳細にノートテイクしていたのでハンターが何をどのように講義していたかがわかったのです。優秀な生徒はいつでも優秀ですね)、アメリカにハンター流の動脈手術を広めたライト・ポスト、ヘルニア手術を考案したことで有名なアストリー・クーパーなど、多士済々です。 (7)史上初の人工授精を施行し成功。天才的な方法です。詳細をここで書くのは少し憚られますので参考文献をお読みください。 (8)歯の移植に成功。健康な歯を抜いて(もちろん「健康な歯をもった他人」に対価を払って)、虫歯で歯を失った患者に移植しました。一時的に成功を収めたが歯の移植で梅毒が広まることがわかり中止となりました。 (9)墓地から多くの屍体を掘り起こして、「解剖」に「解剖」を重ねた結果、他の医師よりも圧倒的な解剖学の知識を得ました。しかしやったのは壮大な「死体泥棒」ですので、非難も受けています。 (10)珍しい「人体」を標本にして残しています。珍しい体格や奇形を有している人の死体を解剖して標本にしています。特に有名なのはアイルランドの巨人チャールズ・バーン(Charles Byrne 1761-83)の骨格です。バーンは身長が243cmもあり見世物としてロンドンで人気を博していました。巨人症だったのです。死後、ハンターの手で標本にされるのを恐れて、二重三重にハンターの魔手から逃れようとします。しかし、ハンターはさまざまな手段を用いて(倫理的にはあまり良いこととは思えませんが)、ついにバーンの死体を入手し、骨格標本を作ります。今、ロンドンのハンテリアン博物館(参考文献参照)でそれを見ることができます。ただの骨格標本ですが、アメリカ人の脳神経外科医クッシングはこの標本を見ていて、脳のトルコ鞍が異常に拡大していることに気づき巨人症が脳腫瘍によって引き起こされると推論しました。CTが普及するよりずっと以前の話です。見る人が見ればわかるという典型例です。なお、この骨の標本があるおかげでDNAが分析されこの巨人症のバーンさんと遺伝的につながりがある家系が、4家系アイルランドにいらっしゃることがわかりました。そんなことは、ハンターの時代には考えられなかったでしょうが、ある意味、ハンターという希有の収集家のお蔭です。 (11)世界中の色々な動物の剥製を集めたりもしました。時にはマッコウクジラの解剖もしています。色々な動物を飼育して、成長過程や体温を測ったりもしています。犬、鶏、魚、ナメクジ、ウサギ、コイ、マムシ、雄牛、冬眠中の動物、もちろんヒトも含めて体温を測定し「温血動物(=恒温動物)の体温は一定である」ことを確認しています。そんなことは今では常識ですが、世界で最初に発見して、記録したのはハンターです。 (12)広大な屋敷の裏側は「解剖教室」、表側は「医院」にしていました。そのため、後のスティーヴンソンの小説「ジキル氏とハイド氏」のモデルとも言われています。 (13)当時のイギリスでは、梅毒と淋病が猖獗(しょうけつ)を極めていました。原因は当然ながらわかりません。ハンターは仮説を立てます。それは「梅毒と淋病は同一の原因で起きる」のだろうという仮説でした。そう思った彼は淋病の患者から採取した「膿」を健康な被験者のペニスに接種します。なんと無謀なことでしょう。そして被験者の詳細な記録をつけます。この被験者には最初、淋病の症状が現れ、次いで梅毒の症状が現れました。それで淋病と梅毒の原因は同一であるという論文を書きます。この被験者はハンター自身です。なんというか凄いです。もちろん、後にこの仮説は間違っていることがわかりました。ハンターが自分のペニスに接種した膿は、淋病と梅毒の混合感染者の膿だったのです。 注1:梅毒スピロヘータが見つかったのは1905年のことです(ドイツ人原生動物学者シャウディン:Fritz Richard Schaudinnと皮膚科医ホフマンE.Hoffmannが発見。) 注2:淋菌は1879年、ドイツ人医師アルベルト・ナイサー(Albert Ludwig Sigesmund Neisser)が発見、後にナイサーの名前「Neisser」から淋菌は「Neisseria gonorrhoeae」と命名されています。 (14)世界初の自然史博物館を創立し、現在も残っています(参考文献参照)。ハンターが収集した14000点にのぼる標本が展示されています。 (15)ダーウィンより70年も早く進化論を唱えていました。しかし、その内容が当時としては過激で出版が許されなかったのです。当時は聖書の天地創造の記述を文字通りに受け入れていたので、それを覆す進化論はキリスト教的には困った事だったのです。それでジョン・ハンターの書いた動物の進化に関する著作はお蔵入りとなってしまい、ダーウィンが「種の起源」を発表してから2年後にようやくハンターが動物の進化について書いた「博物学、解剖学、生理学、心理学、地質学に関する小論と推察」という本が出版されます。題名だけでもハンターの知識量が半端ないことがわかります。何時も早朝から深夜まで、勉強、講義、診療を繰り返していたそうですので超人的な知力、体力の持ち主だったのでしょう。 (16)フイゴ(鞴)を用いた人工呼吸法を発明、さらに電気ショック(おそらくはライデン瓶による発電?)による蘇生も行っています。2階から転落して心臓が止まった3歳の子供に、電気を流して止まった心臓を蘇生させることにも成功したという記録を残しています。世界初の「除細動器」です。本格的な除細動器が発明される200年も前のことです。 どれ一つとっても凄い仕事で、普通の人なら、一生に1回こういうことを成すことができればそれだけでも賞賛されるような仕事です。 (17)行ったことのほとんどを書き残しています。これは「言うは易く行うは難し」です。 ハンターは、現在の医学から見ると間違ったこと、現在の倫理観からすると「どうかな?」と思うようなこともやっています。しかし、ハンター無くして近代外科は語れないほど、色々なことを成しています。 ハンターのことを色々と読んでいた私にセレンディピティが訪れました。ある大学の文学部の先生が血管の病気で入院されてきました。緊急手術を行い、助かりました。手術後、元気になった時に伺ったら「望月先生はジョン・ハンターを知っていますか?」「私はハンターが生きていた時代のスコットランド英語の研究をしているのです」と仰ったのです。 以前、参考文献1の「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」を読んでいたので、よく知っていますと答えたら、びっくりしていました。私と違い、この先生の専門はハンターの書いた英語そのものを研究することだったのです。色々なことを教えていただきました。本稿にあるハンター関係の図は全てその先生からいただいた資料からとっています。 矢印で示しているのが、膨らんだ動脈=動脈瘤 です。人工血管もなく、血管縫合用の糸も針もない時代に、ハンターは、このような動脈瘤の外科的治療に成功しています。その流れが、なんと日本にも伝わり「世界初の動脈瘤摘出手術に成功」したのは大阪の日本人外科医で、世界的な雑誌に詳細な報告を書いています。現代の世界的な血管外科の教科書(もちろん英語)にも載っています。 というようなお話は次回に。 ※文中に使用したハンテリアン博物館の写真は、ハンテリアン博物館より提供され、同博物館の許可を得て掲載しています。 ※(2019年6月17日追記)記事に間違いがありました。間違いをしてくださる読者はありがたいです。 【参考文献】 解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯(河出文庫)2013年 ウェンディ・ムーア(著)、 矢野 真千子(訳) これは名著です。これを読むまでハンターのことはおぼろげにしか知りませんでした。本書は翻訳が素晴らしいのでとても読みやすいのです。お時間がある時に是非お読みください。しかし、少しだけこの「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」という邦題には疑念があります。原題は「The Knife Man」です。私が邦題を付けるなら「外科医の中の外科医」、「ザ サージャン」、「ザ 外科医」とでもしたでしょう。ジョン・ハンターは単なる解剖医ではありません。現在の外科医の始祖でもあり、当時最高の医師でした。なお、矢野真千子さんの手になる翻訳はすべて、読みやすく、わかりやすいのです。矢野さんは、英語に堪能で日本語にも堪能で、しかも翻訳する本に関する分野を良く勉強していることがわかります。 ハンターの設立した自然史博物館はハンテリアン博物館(Hunterian Museum, Royal College of Surgeons)として現在まで残っています。しかし、2020年秋まで改装のため、閉鎖中です(http://medicalmuseums.org/museum/hunterian-museum/)。私はこの博物館に行ったことがありません。2020年秋以降にロンドンに行く機会があったら是非訪れてみたいです。 ハンターの兄も博物館を作っています。グラスゴーにあります。「The Hunterian」という博物館です(https://www.gla.ac.uk/hunterian/)。 兄弟で博物館を、別々に作ったのですね。珍しい話です。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2019/5/13 血管手術、事始め ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 前回、解体新書(1774年刊)のことをお伝えしました。人体がどうなっているかわからないと、つまり「解剖」がわからないとそもそも病気のことはわかりません。いまでも医学部で学ぶ最初の医学講義は「解剖学」です。 世界で最初に精密な人体解剖図を著したのはアンドレアス・ヴェサリウス(Andreas Vesalius、1514- 1564、現ブリュッセル生)です。ヴェサリウスはパドヴァ大学(現:イタリア)で医学を学びました。当時、解剖というと「ガレノスの解剖」でした(ガレノス:ローマ帝国時代のギリシアの医学者、129−200年?)。 ヴェサリウスは「ガレノスの解剖」に疑問を懐き人体解剖を実際に行い、29歳の時に「De humani corporis fabrica libri septem 」という解剖学書を発表しました(1543年刊)。当時の公用語ラテン語で書かれています。題の英訳は「On the fabric of the human body in seven books」です。日本語では「人体構造論」と翻訳されています。 この本は世界中で「fabrica(ファブリカ)」と言い習わされています。衝撃的な本です。ラテン語で書かれているので内容はわからなくても、図を見ただけでびっくりします。いくつか、お目にかけましょう。写実的でしかも超現実的です。現代でも十分通用する「遊び心」があると思います。 解剖に関する本は今でも、たくさん出版されていますが、この「fabrica」ほど衝撃的な本は無いと思います。特に足を組んで、物思いにふけっている骸骨の図が、私は好きです。おしゃれです。何を悩んでいるのでしょうか? このヴェサリウスの後輩(同じパドヴァ大学で学んだ)が血液循環を発見したハーヴェイです。 ヴェサリウスの人体解剖の教科書が1543年、ハーヴェイの血液循環の発見が1628年です。ハーヴェイは、当然、ヴェサリウスの解剖図で血管走行を学び、血液循環を思いついたのだと思います。しかし「血液が循環すること」がわかったからといって直ちに血管の病気の診断や治療ができるわけではありません。臓器と病気の関係の解明には、他のさまざまな科学の発展が必要でした。ヴェサリウス解剖図から400年以上経った現代でも未だにわからない病気がたくさんあります。 それはともかく、比較的早期から病気の診断が可能であったのは体表面に近い血管の病気です。体表面に近い箇所にある動脈は触れることができます。足の血管が閉塞すれば、脈が触れなくなり、足の血管に動脈瘤ができれば「瘤(こぶ)」は触ればわかります。しかし、それがわかったところで治療方法はありませんでした。 実際の人体に則したヴェサリウスの解剖図を活かして、世界で初めて⾜の動脈瘤の治療に成功した外科医がいます。1785年の事です。天才的な方法で膝窩動脈(膝の裏にある動脈)の動脈瘤(りゅう=こぶ)の治療に成功します。 その外科医の名は「ジョン・ハンター(John Hunter、1728-1793)」です。スコットランド生まれのイギリス人です(注:1707年以降、スコットランド王国はイギリスに併合されています)。 ジョン・ハンターは実にさまざまなことを行っており、ハンター無くして近代外科は語れないほど、色々なことを成しています。 ハンターが行ったお話は次回に。 【参考文献】 解剖の試験異聞…… 某大学医学部で何が起きた…「神経解剖学」追試120人「全員不合格」(産経デジタル) http://www.sankei.com/west/news/140426/wst1404260086-n1.html 産経新聞の記事です。今でも解剖学の試験は大変そうですね。「神経の解剖」はとても大変です。細かい部位まで名前がつけられています。ラテン語!です。覚えるのが大変です。教官が難しい問題を作ろうと思えばいくらでも作れます。某大学の学生さんに心より同情申し上げます。 「De corporis humani fabrica libri septem」Andreas Vesalius(著) ヴェサリウスの原本に付いては邦訳や原著復刻版が出版されています。「Kindle版」まであり400円です。 「De corporis humani fabrica libri septem」の初版本は日本にも数冊あるようです。 ・明治大学図書館(PDF) ・広島経済大学図書館 などです。なぜか、人文系の図書館に所蔵されています。 私も欲しいなと思って探したらなんとこの初版本が売られていることに気づきました。US$ 1,151,629ですけれど(1ドル=115円として計算すると約1億3000万円ですね)。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2019/04/22 「哲学と血液循環の関係(1)」より続きます。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 英国人医師のウィリアムハーヴェイが1628年に「動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究」という本を出版し「血液は体中を循環する」という今では当たり前のことが西欧世界では広く知られるようになりました。 しかし、日本には伝わりませんでした。1628年当時の日本は鎖国をしていたからです。日本で「血液が循環する」と知れ渡ったのは1774年のことです。この年に杉田玄白がプロデュースして出版した「解体新書」の中でハーヴェイの血液循環説が紹介されたのです。 ここで日本での人体解剖の歴史を簡単に振り返ります。小浜藩(今の福井県小浜市)の人々が大きな役割を果たしています。 日本で最初に人体解剖を行ったのは京都の漢方医の山脇東洋です。1754年(宝暦4年)、京都の「六角獄舎」で死刑囚の解剖(当時は腑分け:ふわけと称していました)が行われました。日本初の解剖に5人の医師が立ち会いました。 山脇 東洋(京都の漢方医:1706-1762):やまわき とうよう 小杉 玄適(小浜藩医:1730-1791):こすぎ げんてき 原 松庵(小浜藩医:山脇 東洋 の弟子、生没年不詳) 伊藤 友信(小浜藩医:山脇 東洋 の弟子、生没年不詳) 浅沼 佐盈(山脇 東洋 の弟子、生没年不詳):あさぬま さえい この5名です。当時の京都所司代(知事のような役目)は酒井忠用(さかいただもち)で小浜藩主でした。小浜藩は今の福井県小浜市(おばまし)です。小浜市は、オバマさんがアメリカ大統領に就任した時、少し話題になりました。 酒井忠用は1752年から1756年まで京都所司代を務めました。その在任中の1754年、山脇東洋、小杉玄適らが人体の解剖の申請を京都所司代酒井忠用に提出し、許可されたのです。小杉玄適は酒井忠用の侍医でした。そういう関係もあって解剖が許可されたのでしょう。酒井忠用は「日本で最初に人体解剖を許可した人物」として医学の歴史に名が残りました。 山脇東洋は漢方医でしたが、動物の解剖を手がけていて、どうも人間の臓器は当時の漢方医学で教えられていた「五臓六腑」とは違うのでは無いか?と考えたのだと思います。また、山脇はドイツ人医師ヨーハン・ヴェスリング(Johann Vesling、1598-1649)が1641年に出版した解剖学書「Syntagma anatomicum, publicis dissectionibus, in auditorum usum, diligenter aptatum」を手に入れています。この本はラテン語で書かれていますが、後にオランダ語に翻訳されています。オランダから出島に伝わった同書を何らかの方法で手に入れたのでしょう。この「ヴェスリングの解剖学書」に載っている解剖図は、山脇東洋ら漢方医が習ってきた中国医学の「五臓六腑」の解剖と随分違いました。どちらが正しいかそれを確かめるために人体解剖を行ったのだとされています。山脇東洋はオランダ語を学んでいませんから、ヴェスリングの解剖書の内容はわからなかったと思います。しかしヴェスリングの解剖書に載っている人体解剖図を見ながら、実際に人体解剖を行い、それまでに中国から伝わっていた人体解剖は間違っていることに気づいたのです。 この解剖から5年、1759年山脇東洋はこの解剖を元に「蔵志(ぞうし)」という日本で最初の解剖書を出版します。その図を書いたのが浅沼佐盈(あさぬまさえい)(前述の5番目)です。絵をかける弟子(浅沼)を連れて行った山脇は着眼点が違います。 他の人は何も書き残さなかったので、ほとんど、その名前が残りませんでした。やはり書き残さないと駄目ですね。余談ですが、解剖をされた罪人は「屈嘉(「くつか」あるいは「くつよし」)」という名前でしたが、山脇東洋は「屈嘉」を厚く弔い、「利剣夢覚信士」という戒名を付け京都京極の誓願寺に埋葬しています。「屈嘉」は日本で最初に解剖され、その内臓が記録された人物となりました。 時は流れ、ヴェスリングの解剖書よりもさらに精密な解剖書「ターヘルアナトミア(ドイツ人医師クルムス著した解剖学書のオランダ語訳書)」が日本に伝来します。「ターヘルアナトミア」は江戸にいた小浜藩医の杉田玄白(1733‐1817)や中津藩医の前野良沢(1723-1803)の下にもありました。当時、簡単に手に入るような本ではありません。前野良沢は長崎留学をした時に入手していました。前野良沢は留学当時46歳です。当時なら、隠居してもおかしくない年齢で長崎に留学し、オランダ医学やオランダ語の勉強もしていました。 山脇東洋と一緒に解剖に立ち会った小杉玄適は小浜藩医で同じく小浜藩医だった杉田玄白