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大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/03/08 葉書が余ったので投句してみたら 新型コロナウイルス感染症に対するワクチン接種が始まりました(2021-02-01~)。世界中でさまざまなタイプのワクチン接種が行われ、感染が少しずつ収まっているように感じます。しかし、感染力の強い変異株が出現しています。まだまだ、警戒が必要です。 余談です。いささか旧聞に属する話です。私の作った俳句が2020年8月2日、朝日新聞の「朝日俳壇」に載りました。良い経験をしました。元々、私は俳句を趣味にしている訳ではありません。それがなぜか載ってしまったのです。 経緯を紹介します。父(94歳)は俳句を時々作っています。「朝日俳壇」に載せたいと常々言っていました。それで、父が最近作った俳句を朝日新聞の「俳壇」に投稿してみました。 投句は1枚の葉書に一個の俳句を書きます。父の俳句を3つ書いたところで葉書が余ったので、記念に自分も投句してみました。私は初めてです。 投句したことなどすっかり忘れていたのですが、ある朝通勤途中、携帯電話に朝日新聞社から電話がありました。私の作った俳句が来週の朝日俳壇に載ることが決まったとの連絡でした。投句した俳句に「匂い立つ」という表現があるがそれを旧仮名遣いに改め「匂ひ立つ」として良いかという電話でした。勿論「応」です。残念なことに父の俳句は載りませんでした。載った句を紹介します。うれしいことに選評もありました。 「匂ひ立つ 若さの印 濡れ浴衣」です。選評には「濡れて体が透けんばかり」とあります。 作った場所は足利市です。作った日も解っています。足利花火(かなり有名です、市の中心を流れる渡良瀬川の河川敷で打ち上げるので人気があります)を見に行った時に作った俳句です。この時、花火開始とほぼ同時に猛烈な勢いで雷雨が降り始めました。花火は中止だと思いました。しかし、花火は中止になりませんでした。2時間かけて打ち上げる予定の花火を、雷雨のために、1時間で全ての花火を打ち上げることになったのです。 猛雨でも花火を打ち上げることができると、その時初めて知りました。雷に加えて花火の音も光も凄かったのです。普通の人は雷雨に逃げ惑っていました。私も右往左往していました。しかし、周りにいた浴衣姿の若者はずぶ濡れになりながらも「キャーキャー」騒ぎながら花火を楽しんでいました。ああ,こういうのが「若さの印」なんだなあと思って作った俳句です。 ありがたいことに、色々な感想をいただきました。 私と同じような情景を思った方 夏祭りで御神輿を担いだりして汗をかいている情景を思い描いた方 取り組み後の相撲取りの浴衣を思い起こした方(この句が載った時、相撲が開催されていたからでしょう) 小さな子供達の水あそびの情景を思い起こした方 選者の如く、艶っぽい情景を思い起こした方 色々でした。 「天地わたるブログ」という俳句を選評するブログでも取り上げていただきました。このブログは、朝日俳壇に載った俳句の選評をしています。お二人で選評をなさっているようです。 ***********引用開始*********** ○祭に参加している若い人でしょう。汗か水をかけられて浴衣が濡れて肌が透けて見える。若さいっぱいでいいです。 ●男でも女でもいいですがぼくは「印」を言わないでほしいんです。こういうだめ押しは俳句を薄くしてしまいます。 ○抑制したほうが奥行が出るのですね。 ***********引用終了*********** 俳句、なかなか、むずかしいですね。 俳句は5-7-5 合わせて17文字しかありません。それゆえに表現が限られ、読者によって色々な想像をかき立てるところに「妙味」があるのでしょう。大学時代、同じ下宿だった農学部出身の同級生M君が大阪の朝日新聞で記者をしているので、久しぶりに電話をかけて朝日俳壇について詳しく聞いてみました。彼曰く、 毎日1000通の投句がある 週に一度選句をする 7000通近い葉書を選者4名で読んで、40個の俳句を選ぶ 選者が同じ句を選ぶこともあるので40句未満しか、作品が載らないこともある いずれにせよ、150倍以上の競争率だ 最近は俳句を添削する人気番組がある(「プレバト!!@TBS」?)。今はちょっとした俳句ブームになっている。 手前味噌だが、我が社の「朝日俳壇」は人気が高い。何より歴史がある。 初投稿で載ったのは奇跡に近い。今後も頑張って投句してください。 ということでした。 こういう事情を少しでも知っていれば多分、投句しなかったと思います。要するに私の俳句が朝日俳壇に載ったのは典型的な「ビギナーズラック」だったのです。 投句方法を紹介しましょう。簡単です。葉書1枚に一句を書いて投稿するのです。葉書代1枚63円の楽しみです。色々な人にもっと句作をしてみたらどうかと言われています。いつか詩心が湧くような情景に出会ったら、俳句を作り投句してみます。ちなみに俳句が掲載された後、朝日俳壇から10枚の葉書が送られてきました。これを使って投句しようと思います。 「拙句載る 新聞来たり 目が覚める 朝顔もまた 目が覚める朝」 という短歌を作りました。冴えないですね。 俳句と言えば、松尾芭蕉です。奥の細道を読み返してみました。 「草の戸も 住み替わる代ぞ ひなの家」 「行春や 鳥なき魚の 目はなみだ」千住 「あらたふと 青葉若葉の 日の光」日光 「暫時(しばらく)は 滝に籠るや 夏(げ)の初(はじめ)」日光の裏見の滝 「夏山に 足駄を拝む 首途(かどで)哉」黒羽 「木啄も 庵(いほ)をやぶらず 夏木立」黒羽 「野を横に 馬牽(ひき)むけよ ほととぎす」殺生石 「田一枚 植えて立去る 柳かな」黒羽 「風流の 初やおくの 田植うた」須賀川 「世の人の見付ぬ花や軒の栗」須賀川 「早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺(ずり)」しのぶの里 「笈(おひ)も太刀も 五月にかざれ 紙上り」 「笠島は いづこ五月の ぬかり道」笠島 「桜より 松は二木(ふたき)を 三月越シ(みつきごし)」武隈 「あやめ草(ぐさ) 足にむすばん わらじの緒」宮城野 「夏草や 兵どもが 夢の跡」平泉 「五月雨を 降りのこしてや 光堂」中尊寺 「蚤しらみ 馬の尿する 枕もと」尿前(しとまえ)の関 「涼しさを 我が宿にして ねまるなり」尾花沢 「這ひ出でよ かひがや下の ひきの声」尾花沢 「熱き日を 海にいれたり 最上川」酒田 「まゆはきを俤にして紅粉の花」尾花沢 「閑さや岩にしみ入る蝉の声」山寺 山形県 みな良いですね。情景が浮かんできます。芭蕉の時代、日光も中尊寺も、尾花沢も、「圧倒されるような風景」があったと思います。今は、テレビ、書物、etc.で行く前に想像が付いてしまいます。それでも、行ってみないとわからないことはたくさんあり、行けば詩情がわくのかもしれないです。 なにより、芭蕉の時代はどこに行っても静寂だったと思います。特に山形県にある山寺は静かだったのでしょう。今は違います。多くの観光客で賑わい、場所によっては場違いな音楽を流したりして風情がありません。 酔狂なことですが、私は雪の降る最中に山寺を登ったことがあります。数人しか登っていませんでした。極めて静かでした。芭蕉の時代もかくやと思えるほど静かでした。なお、登るのには特別な長靴が必要です。登り口で貸してくれました。途中、かなり雪が降り始めたので、山寺から見えたであろう冬景色は見えませんでした。残念でした。 閑話休題 俳句とか短歌は、日本の定型詩です。定型詩ですが、中国には五言絶句、五言律詩、七言絶句、七言律詩などの定型詩があります。 「夏草や 兵どもが 夢の跡」の元歌は杜甫(712-770) 『春望』です。五言律詩です。見事な作品です。 国破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心 烽火連三月 家書抵万金 白頭掻短 渾欲不勝簪 日本も中国も 「五」「七」という素数を使っています。中国は「字数」、日本は「音数」で、違いがあります。しかし、どちらも素数であることに違いはありません。そこに何か意味があるのかもしれないと考えていますが、上手く説明する方法がありません。 俳句は、5-7-5=17 和歌は、5-7-5-7-7=31 5、7、17、31、すべて素数です。偶然でしょうか? 俳句、和歌、短歌は素数の文学と言えるかもしれないですね。 それはともかく、俳句に多少興味を持つようになり、句作の本などを買い求めましたが、なかなか思うように俳句を作ることはできません。俳句には「5-7-5」のほかにも幾つかの約束事があるからです。 「季語が必要」で私の思考は止まってしまいます。日本は南北に長く、北海道と沖縄では気候がだいぶ違います。それを一括りにして「季語」と言われても、なんとなく腑に落ちません。というようなことを考えていると、先に進めません。 俳句でも、季語や文字数にとらわれない「自由律俳句」もあります。これが俳句?と言われても、というような「俳句」もあります。 「どうしようもない私が歩いてゐる」 「まっすぐな道でさみしい」 「分け入っても 分け入っても 青い山」 以上、 種田山頭火 「渚白い足出し」 「貧乏して植木鉢並べて居る」 「咳をしても一人」 以上、尾崎放哉 などが有名です。結核で死にそうになっても「一人」だった放哉の死ぬ間際の情景が浮かびます。昨年の朝日俳壇に 「咳をしたら人目」 という句が載っていました。勿論、放哉の歌を真似たのでしょう。 今は 「咳をしたら一人」 になります。 早く、COVID-19が収まって欲しいです。収まれば、あちこちに出かけて句作ができるかもしれないです。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/02/01 この歌に現れているのは 前回より続きます。数年前のことです。古本屋さんで「慈恵医大の創始者、日本最初の医学博士、高木兼寬」と紹介されていた「めくり(注:紙だけ、表具なし)」が展示されていました。それには高木兼寬先生が書いた和歌が流麗な書体で書かれていました。幸い所持した金額で買えるくらいの値段でしたので購入しました(写真)。 このような感じで和紙に書かれた「書」が丸まって輪ゴムで閉じられていました。 この中に入っていた「書」を広げると、前回でも紹介した「書」が入っていましたが、なんて書いてあるのか良くわかりません。「なんとかの上」くらいは読めます。たまたま、私の患者さんに「骨董」や「書」に詳しい方がいらっしゃりこの和歌を解読して頂きました。 左が「書」、右は解読して頂いたものです。「謹書」とあるから高木先生本人の歌ではなく高木先生の上司か皇室の方が詠んだ歌を筆写したのだろうとのことでした。 この書について、その患者さんと知り合いだった栃木県足利市にある日本料理屋さん「文楽」の御主人岡田さんが色々と調べてくださいました。 その結果「明治天皇御集 明治神宮編纂(昭和39年刊)」の中にこの和歌が載っていることがわかりました。明治天皇陛下が明治37年に詠んだ和歌だったのです。明治天皇陛下は、その生涯で約10万首(正確には9万3032首)の和歌を作っています。そのうちの1つだったのです。 何回か声に出して読んでいるうちに、この歌の中に高木(たかき)兼寛先生の名前である「たかき」が入っていることに気づきました。 話は逸れます。 日清日露戦争による脚気による死者数を紹介します。高木先生が行った食事指導の結果は明らかでした。 日清戦争(明治27-8年)において ・陸軍:脚気による病死者4000名 ・海軍:脚気による死亡者 0名 日露戦争(明治37-8年) において ・陸軍:脚気による病死者27800名(注:戦病死者9400名、戦病死者とは「戦闘による死者」) ・海軍:脚気による死亡者は数名 結果は明らかだったのです。海軍は「麦飯」を食べ、陸軍は「白米」を食べていたのです。洋食ではなくて麦飯?と思う方も多いかもしれません。洋食は当時の兵隊さんに嫌われました。洋食だと費用もかかります。洋食から麦飯を主とした食事でも脚気に効果があることがわかり、高木先生は海軍の兵食は麦飯を基本としたモノに変更していたのです。 海軍、陸軍、医学界で論争が起きていました。陸軍、東大は脚気の原因は「脚気菌」であり、脚気菌に罹患して発症すると主張、高木兼寬の兵食改善には「学理がない」と糾弾します。日清日露戦争で明らかに結果が出ていても、森鷗外一派は白米に固執していたのです。酷い話です。 日本各地に少しだけ残っている日露戦争戦没者の忠魂碑の1つです。このような忠魂碑は軍国主義の象徴だとして太平洋戦争後、GHQの指示で多くが廃棄されましたが、少し残っているのです。 裏には戦没者の名前が記されています。時が経ち、名前もよくわかりません。 よく見ると戦没者のほとんどが陸軍の若い兵士です。一番身分の低い「陸軍二等卒」の方がほとんどです。この死者の7割は、海軍にいたなら死ななかった、「脚気」による死者です。それを思うと本当にかわいそうです。病気の診断、治療がいかに大切か、わかります。 和歌の話に戻ります。 この和歌が詠まれた翌年の明治38年に高木(たかき)先生は男爵になっています。 様々な資料から察するに、高木先生の食事指導で海軍での脚気死亡者が激減した事を明治天皇はよく知っていたと思われます(文献10.11.)など。 私は明治天皇が高木先生のことをどう思っていたか、それがこの歌に現れていると私は思うのです。 明治天皇は「たかき」を入れた和歌を作り高木兼寛先生を褒め称えるだけでなく、 《高木を見習え》 と言っているのではないかと思うようになりました。 「雲の上に立ち栄えたる山松の高きにならへ人の心も」という和歌は、 「雲の上に立ち栄えたる様な業績を残した高木(たかき)を見習おうよ」 という寓意をこめて、明治天皇陛下が高木兼寛先生のみならず、陸軍に向かって詠んだ和歌ではないかと思うようになったのです。 吉村昭著「白い航跡」や松田誠先生の高木兼寬先生に関する著書、論文にもこの歌は紹介されていません。松田誠先生にこの書をお目にかけましたがこの和歌は知られていないそうです。明治天皇陛下が直接高木先生を褒め称えた言葉は残っていませんが、この和歌を見れば明治天皇陛下の高木兼寬先生に対する思いがわかるのではないかと思っています。 推測を裏付ける強力な傍証 その後、この和歌が高木兼寬先生に向けられているという私の推測を裏付ける強力な傍証を入手しました。それは実物を見ないと誰も信じてくれない様な「本」です。 色々と調べると、明治天皇陛下は、生前、御自身の和歌が外に漏れることを禁じていたことが解りました。明治天皇陛下の和歌を添削、指導していた高崎正風(歌人、侍従、元薩摩藩士)が時々明治天皇陛下の和歌を新聞などに漏らすことがありそのたびに高崎は明治天皇陛下に叱責されていたそうです(文献1.2.)。 そういうことを知るにつけ、「雲の上~」の和歌も高木兼寛先生向けて作ったなどとは公表されなかったと思います。私は高木先生が「書」にして残しているくらいだから、この和歌は高木先生を褒め称えて作られたのだろうと思っていました。しかし、その私の仮説を確かめる「強力な傍証」を入手したのです。 明治天皇陛下崩御後「明治天皇御集」が編纂され、この中には明治天皇陛下が詠んだ歌の中から1687首が選ばれて出版されました。前回、今回で紹介している「雲の上~」の和歌も掲載されています。この御集で初めて一般人が明治天皇陛下の和歌を知ったのです。その後も明治天皇陛下の和歌は度々出版されています(文献3-8など)。色々な団体、色々な方が10万首の中から良いと思う和歌を選んで出版しているのです。たくさんあります。今でも明治神宮に行くと明治天皇陛下の和歌集(御製集)を購入することができます。 これまでに出版された明治天皇陛下の御製集の中で多分1番読まれたのが明治天皇陛下に殉じた乃木希典を顕彰する「乃木講」の方達が出版した「明治天皇御製百首」だと思います(写真1、この御集は大正6年が初版ですが、昭和7年事典で212版も版を重ねていたことがわかっています。参考文献8)。 私は偶然、「高木兼寛先生が所有」していた乃木講が編んだ「明治天皇御製百首」を入手しました(写真2)。ワイシャツの胸ポケットに入れられるくらいの小さな本です。 写真2には、「東京麻布東鳥居坂 男爵 高木兼寛」の印が押してあります。 高木先生は、鳥居坂に住んでいました。この中の7頁に「雲の上~たかきにならへ~」の和歌が載っています(写真3)。これをもってこの和歌が、明治天皇陛下から高木先生に向けられた和歌だと確実な証明はできませんが、強力な傍証になると思います。これを見つけた時、大げさで無く、感動というか手が震えました。 「明治天皇陛下が高木兼寛先生を褒め称えた(かもしれない)和歌」を紹介させていただきました。いつか「脚気論争」のこと、資生堂と高木兼寬先生の関係なども紹介したいと思います。 【参考文献】 井上通泰『明治天皇御集編纂ニ就テ』教化団体連合会(内務省社会局内)、1927年 打越孝明「明治天皇崩御と御製(上) (下)」『明治聖徳記念学会紀要』第25巻-26巻-、1998年 明治天皇『明治天皇御集 上中下』臨時編纂部編、宮内省、1920年 明治天皇御製謹話(1938年)千葉胤明、明治天皇 明治天皇御集 明治神宮編纂(1964年) わが仰ぎまつる明治天皇御製(1980年)明治神宮、明治神宮崇敬会 やまと心: 明治天皇御製謹註(復刻版・注釈付)佐佐木信綱、 水垣久 明治天皇御製百首 大正六年 乃木講元 刊 乃木講元が出版した御製集は手軽に持ち運べるように工夫されています。タバコと同じくらいの大きさです。高木兼寛先生の所蔵していた御製集は初版です。同書は、延々と版を重ね昭和7年には212版になっています。乃木将軍を信奉する人(主に軍人)の愛読書の1つだったのでしょう。 中山和彦:東京慈恵会の成立を探る―それを支えた慈恵・維新の志士達― 慈恵医大誌2012;127:179-202 吉村昭著「白い航跡」(講談社文庫) 松田誠著「高木兼寬伝」(講談社) 注1:御製:天皇や皇族が詠んだ詩歌、文書 注2::御集:御製を集めた本 注3:この和歌は、高木兼寛先生のことは別にしても、明治天皇陛下の作られた和歌の中でも特に素晴らしいとして様々な本で紹介されています。 「教育勅語と御製」亘理章三郎(著)、「公教育再生」 八木秀次(著)など 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/01/18 今から150年前、日本人が苦しんでいた病気とは? 新年あけましておめでとうございます。昨年末、私共のクリニックは入居していたビルの解体に伴い、一時閉鎖しました。以前の場所から50mくらい離れている場所で2021年1月12日(火)にクリニックを再開しました。今後ともどうかよろしくお願いいたします。 さて、現時点(2021-01-06)で、COVID-19(通称:新型コロナウイルス感染症)は収束の見込みが全く立っていません。COVID-19はどうしたら予防できるか、どういう治療が良いか、全く解っていません。「これだ!」という決定打がありません。 感染症ではありませんが、今から150年も前、日本人が苦しんでいた病気があります。それは「脚気(かっけ)」です。 脚気は「江戸患い」とも言われていました。田舎から江戸に来ると脚気になったからです(注:参照のこと)。COVID-19の原因はSARS-CoV-2というウイルスが原因だと解っていますが、もし解らなかったらCOVID-19は東京に多いので「東京患い」などと言われていた可能性もあります。 さて、その脚気の予防法、治療法を世界で初めて発見し、それを英国の一流医学雑誌に発表した日本人医師がいます。その医師の名前は高木兼寬です。今回、次回はその高木先生にまつわる話です。 南極に「高木岬=Takaki Promontory」という岬があります。日本人が勝手につけた訳ではありません。英国人が日本人医師「高木(Takaki)」に因んでつけてくれたのです。 「高木」は東京慈恵会医科大学の創始者「高木兼寬」先生に由来します。高木兼寬の名は一般にはあまり知られていません。しかし、世界の栄養学者やEBM(Evidence-Based Medicine)研究者で「Takaki」の名を知らない人はいません。 それは高木先生が今日の栄養学の元とも、EBMの元ともなった研究論文を今から100年以上前に「LANCET」に論文を載せたからです。その論文は世界中に広まり、医学の歴史に燦然と輝いています。それが「高木岬」につながります。 高木兼寬は「たかきかねひろ」と読みます。「たかぎ」と呼ぶ方がいます。間違いです。少しだけ寄り道をします。 図1 BARON TAKAKI 著 図1は 1906年(明治39年)5月19日号のLANCETに掲載されている高木兼寬先生の論文冒頭です。ここにBARON TAKAKIと記してあります。「TAKAKI たかき」と御自身で書いています。TAKAKIの横に「F.R.C.S. Eng.」とあります。この意味は後述します。なお、この論文ですが、タイトルは 「The preservation of health amongst the personnel of the Japanese navy and army. 」 日本語に訳すなら「日本の海軍・陸軍の兵士の健康保持法」でしょうか? The Lancet 1906年の5月19日号、5月26日号、6月2日号に Lecture I、II、IIIとして連載されています。 話はさらに横に逸れます。名前は音読みにすることで敬意や親しみが増すことが多いようです。有名な方ほど音読みにされる傾向があります。勿論、全例ではありません。 音読みすると違和感を覚えるような名前は音読みされないでしょう。私の名前は「吉彦」です。訓読みでは“よしひこ”ですが、音読みなら吉は「きち」彦は「げん」なので“きちげん”です。それでは困ります。 音読みが本名よりも広まっている例を少しだけお示ししましょう。 松本清張(本名:まつもときよはる→まつもとせいちょう) 開高健(本名:かいこうたけし→かいこうけん) 福田恆存(本名:ふくだつねあり→ふくだこうそん) 安部公房(本名:あべきみふさ→あべこうぼう) 原敬(本名:はらたかし→はらけい) 菊池寛(本名:きくちひろし→きくちかん) 木戸孝允(本名:きどたかよし→きどこういん) など多数あります。 高木兼寬も同様です。本名は「たかきかねひろ」ですが、「たかきけんかん」と呼称されることも多いのです。話を戻します。 日本の「医学、科学、社会」に、そして世界の「医学」に大きな足跡を残す 皆さんは 「病気を診ずして 病人を診よ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?これは高木先生の言葉です。病気の診断や治療というと「病気」だけを診ることに注力しがちですが、高木先生は「病人を診よ」と言っています。医療の本質を突く深い意味を持つ良い言葉だと思います。しかし、「病人を診よ」は「言うは易く行うは難し」です。しかしこの言葉を胸に医業をなすべきだと思っています。 高木兼寬先生は日本の「医学、科学、社会」に、そして世界の「医学」に大きな足跡を残しました。その一端を紹介します。順不同です。 1.高木先生は日本の医学博士第一号の一人です。1888年(明治21年)5月7日、医学博士号を授与されています。同日、池田謙斎、橋本綱常、三宅秀、大澤謙二の4名も医学博士号を授与されています。全員、医学博士第一号です。 2.高木先生は海軍軍医として「脚気を日本海軍からほぼ根絶」することに成功し、その功により、海軍軍医総監になっています。 3.現代医学の主流となっている「根拠に基づく医療=EBM(Evidence-Based Medicine)」の世界の先駆けとなる臨床試験を行って、その結果を上述のLANCET誌に投稿しています。 4.「軍艦の兵食を、米を主体とした和食から洋食に変更したら脚気が激減した」というのがLANCET誌に掲載された論文の要旨です。「食事で病気が治る可能性」を実証し、きちんとした論文にしたのは高木先生が世界で初めて成したことです。高木先生以前にもビタミンC欠乏で生じる壊血病は果物を食べれば予防され、あるいは治ることは経験的に知られていました。しかし食事の「臨床試験」を長期に亘って行い、医学論文、それも英語で論文にしたのは高木先生が世界初です。 5.日本で最初の「看護学校」を明治18年に創設しています。「慈恵看護専門学校」です。現代まで続いています。高木先生の留学先のセントトーマス病院にはナイチンゲールがいました。二人が接触した記録はありませんが、セントトーマス病院でナイチンゲールが創始した「看護」を実際に見聞きした経験は大きかったと思います。多分、同病院での看護を見て看護学校を作ったのだと思います。ちなみに2番目の看護学校は同志社大学の創設者新島襄が創設した「京都看病婦学校」です。こちらは廃校になってしまいました。 6.高木先生は、セントトーマス病院に留学中(1875-1880)、勉学に優れていたので同病院から13回も表彰され、さらにF.R.C.S. (Fellow of the Royal College of Surgeons:王立外科医師会会員) にもなっています。今でもF.R.C.S.となることは簡単ではありません。今から、140年以上も前に日本から留学した高木先生が英語を勉強しつつ医学を勉強、英国人医学生でもなかなかなれない「F.R.C.S.」になったのです。上述の論文にもBARON TAKAKIの後に「F.R.C.S.」とあります。これが記されていることで解る人(欧米系医師)には高木の優秀さが解るのです。 7.冒頭に記した様に南極に高木先生の名前を冠した岬があります。 英国の南極地名委員会(United Kingdom Antarctic Place-names Committee、UK-APC)が南極の岬や氷河に、ビタミンの研究に多大な寄与をした人の名前を冠しました。1952年のことです。 「エイクマン岬(Point)」 「ホプキンス氷河」 「フンク氷河(Glacier)」 「マッカラム峰(Peak)」 と並んで「高木兼寬」の名を冠した 「高木岬(Takaki Promontory)」 があります。日本人が頼んで命名した訳ではありません。英国の南極地名委員会が命名してくれたのです。 エイクマンとホプキンスはビタミンの発見により、1929年のノーベル生理医学賞を受賞しています。そういう世界的に有名な栄養学者と並んで高木(TAKAKI)の名前もあるのです。日本人として誇らしく、嬉しいことです。高木先生はビタミン発見の元となった論文を書いていたから、このビタミン地名に選ばれたのです。 なお、大変厳しいことを書きますが、高木先生は、和食を洋食にすることでタンパク質摂取量があがり、それで脚気を予防、治療できると論じていますが、これは間違いです。洋食では「野菜」を摂ること、白米を食しないことが肝心な点だったのです。 だからといって高木先生の論文の価値が減じることはありません。なにより、脚気は食事を変えることで「予防できる、発病しても治療できる」ことを示した業績の価値は「高い」のです。 「高木岬」と「久野岬」(日本生理学会) http://physiology.jp/wp-content/uploads/2014/01/071040157.pdf 8.ナイチンゲール型病棟を日本に初めて作っています。今の病院形態(ナースステーションがあり、そこから病棟を見渡せる形)の原型です。セントトーマス病院の病棟(ナイチンゲール設計)を模したのでしょう。 9.福澤諭吉の弟子だった松山棟庵(まつやまとうあん)と共に民間医学団体「成医会」を創設しました。この団体は「患者を研究対象としてみる医風から、患者を人間とみる医療を研究する」ことが目的に結成されました。今から考えると、このような考えは当然の話ですが、当時としては画期的でした。「成医会」は医学校になり、それが東京慈恵会医科大学に発展します。下に銀座にある「成医会」発祥の地の碑を示します。「成医会講習所跡」と記されています。 銀座にある(中央四丁目) 「成医会」発祥の地を示す碑 表は英文ですが、裏には「明治十四年男爵高木兼寛英国医学教授ノ目的ヲモッテコノ地ニ成医会講習所ヲ開設ス コレ東京慈恵会医科大学ノ濫觴ナリ.創立百年ヲ記念シコノ碑ヲ建ツ. 昭和五十五年五月一日 第七代学長 名取禮ニ」とあります。 余談になりますが明治初期、松山棟庵の先生だった福澤諭吉は「慶応医学舎(1873年 - 1880年)」を設立し医者を養成していました。福澤諭吉は大阪の「適塾」出身です。適塾は蘭学の塾です。その出身者で医師になった方も多いのです(大村益次郎、佐野常民、手塚良仙(手塚治虫の曾祖父)、長与専斎など)。福澤は生来「血を見るのが嫌い」で医学の道に進みませんでした。慶應義塾の創生期に私立の医学校としては日本初の慶応医学舎を作ったのは、福澤も医学に関心があったからだと思います。慶応医学舎は閉校しましたが、それから40年後、北里柴三郎を医学部長をとしての慶應義塾大学医学部が作られました。「再出発」ですね。この辺りは文献9(次回に文献を示します)を参照ください。 10.前述の如く、高木先生は脚気が洋食で予防できることを論文に書いて発表、実際、海軍の食事改革をして海軍から脚気をなくしています。 しかし、何が面白くなかったのか、「高木の論には学理がない」と陸軍の軍医でもあった森鷗外は糾弾しはじめました。小説家でもあった森鷗外は華麗、流麗、説得力のある?文章で高木先生の事を攻撃したのです。 「脚気は食事で予防できる。脚気は食事を代えることで治る」 「白米を食べ過ぎると脚気を生じる。麦飯を導入すべし」 「現に食事を代えることで脚気は、ほぼ制圧できているではないか?」 とする一派(高木兼寬先生がその代表的人物)と 「食事で脚気が治るなど学理がない」 「白米は日本古来の伝統食で素晴らしいモノである。それを否定するのは何事か?」 「そもそも脚気は脚気菌で生じる」 「脚気菌を見つけた」 とする一派(森鷗外がその代表的人物)との間で脚気論争が勃発します。後にビタミンが発見され、「脚気はビタミンB1不足により生じること、脚気になってもビタミンB1投与で治ること」がわかり、森鷗外一派の「論」は一掃されましたが、一掃されるまでには紆余曲折があったのです。今でも「森鷗外は間違ったことはしていない」という本を書いている方もいるくらいです。この脚気論争は医学、科学を考える上でとても大切です。別な機会に紹介します。 11.高木は貧しい病者のための「有志共立東京病院」を設立。その成立資金として皇族(有栖川宮家)の援助を受けています。その後も皇族からの御下賜金を頂いて病院を経営していました。その縁でしょうか、今でも東京慈恵会医科大学看護学校の卒業式には女性皇族の方の列席を賜っています。 有栖川宮威仁親王は逝去後、高木兼寬先生に遺品を御下賜しています(写真1-4)。実物を拝見したことがあります。少し解りづらいですが、写真1の左上に「高木兼寬」の名前があり、煙草盆、花瓶、鎌倉塗の卓を送られたのでしょう。それくらい、有栖川宮威仁親王と高木兼寬先生は、交友が深かったのでしょう。 12.高木先生が書いた「上述の3、4、10でも言及した、LANCETに掲載された」論文の内容を少し詳しく紹介します。 この研究は明治16年に日本海軍が行ったニュージーランド、南米航海で多数の脚気病者を出したのが元となっています。その航海で乗組員376名中169人が脚気を発症、25人が死亡しています。海軍の航海でこれだけ病者が出たら、戦争になったら戦えません。高木は翌年(明治17年)、同じ航路を同じ時期に回る予定だった軍艦の食事を、前年の航海で兵隊が食べていた白米を主体とした和食を洋食にしたのです。留学していた英国には脚気はなく、食事の違いで脚気の予防ができるのではないかと考えたのです。 しかし「言うは易く行うは難し」です。洋食に変更するには多額の費用がかかります。反対する軍人も多かったのです。しかし、高木は諦めませんでした。様々な方面に働きかけて、この食事変更案をなんと明治天皇陛下に直接上奏したのです。これが功を奏して、明治天皇陛下の許可が得られ、陛下から多額の費用の援助も受け、高木の食事変更案は実現したのです。 遠洋航海における食事変更の効果は劇的でした。同じ時期、同じ航路を航海したにも関わらず脚気にかかった兵員は数名しかいませんでした。当然、明治天皇からも「絶賛」されたと思いますが、絶賛されたとする直接の証拠はありません。それが本稿の要旨につながります。 13.高木は結婚式を改革しています。今、結婚式には新郎新婦の家族だけでなく新郎新婦の友人が列席するのが普通になっています。これは高木先生が日本で初めて行った「神前結婚式」に由来します。 明治30年(1897年)7月21日に、東京日比谷大神宮(現在の東京大神宮)で高木兼寛先生が媒酌をした「神前結婚式」が執り行われました。高木先生はこの結婚式で新郎新婦の家族、親戚、友人を集めて結婚式を行ったのです。従来家庭だけで行われていた結婚式を今の様な形態の結婚式に変えたのです。 それ以来、今のように多くの人が集い祝福する形の結婚式が広がりました。7月21日はそれ故に「神前結婚式記念日」になっています。高木先生は、英国留学中に見聞きした英国流の結婚式を日本でも行ったのだろうと思います。 14.高木先生は「書家」としても有名でした。これも、今回次回に大きく関係します。下図は明治時代の書家番付です。解りづらいかもしれませんが、向かって左側大名家の左横にある大隈重信の左横9番目に医家「高木兼寬」の名前が見えます。 15.「生命保険会社」の設立に貢献しました。明治時代初期、元海軍主計官の加唐為重(かから ためしげ)氏が日本初の生命保険会社を興そうとしましたが、当時は「生命保険」に社会の理解が得られず難渋していました。加唐は資生堂薬局(海軍の薬局だった)の創業者福原有信に相談、同氏と高木先生の支持を得ることができて、日本で二番目の生命保険会社となる「帝国生命(現朝日生命)」を設立したのです。 以後日本でも「生命保険会社」が多数設立されました。資生堂と高木先生との関係も面白いのですが、長くなるので割愛します。いつかご紹介しましょう。 このように、高木先生は、医学に留まらず、社会や文化に様々な影響を日本社会に与えたのです。 高木兼寬先生に関する本は今でも数多く出版されています。興味がある方は 吉村昭著「白い航跡」(講談社文庫) 松田誠著「高木兼寬伝」(講談社) を読むことをお勧めします。どちらの本も広範な資料を用いて「高木兼寬」の生涯を描いています。 「白い航跡」は小説仕立てで高木を紹介しています。読みやすいです。松田誠先生は東京慈恵会医科大学生化学の名誉教授ですが高木兼寬の研究者としても有名です。高木先生に関する多くの著作、論文があります。その代表作が上述の「高木兼寬伝」です。 いつも前段が長く申し訳ないです(笑)。これまでは前段です。 本稿の主題は、ここからです。数多ある高木兼寬先生のことを書いた本にも紹介されていないことを本稿で紹介します。本稿の一部は慈恵医大新聞にも寄稿しました(2020年2月、3月)。 上述のごとく様々な功績があり、高木先生は明治天皇陛下から「男爵」を賜っています。明治38年(1905年)のことです。その他にも明治天皇陛下が高木先生の功績を賞賛していたであろうことは、多くの資料から推測されていますが、直接高木先生を賞賛した文章などが残っているわけではありません。 しかし、私は先年、偶然、明治天皇陛下が直接高木先生を賞賛したと(思われる)資料を2つ入手しました。最初に見つけた資料は高木兼寬先生の書いた「書」です。 以下、次回へ続く…… 文献は次回に掲載します。 注: 江戸に来ると田舎で食べていた雑穀米ではなく、精製した「白米」を好んで食べるようになったため、江戸で脚気が流行ったのだと推測されます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/12/14 今回はある旅行記を紹介します。 今年はCOVID-19が世界中で流行し、各国でその対応に苦慮しています。国毎でCOVID-19に対する対応がかなり違います。対応に「お国ぶり」が現れています。世界にはさまざまな国があります。 自由が基本的に認められている国と認められていない国 個人情報が国家で厳密に管理されている国と管理されていない国 国家による個人の生活監視が厳しい国と厳しくない国 宗教が国家の根源を成す国と政教分離の国 それぞれの国でコロナに対する対応が違い、「お国ぶり」の違いが際立っています。 「個人の自由、個人のプライバシーを無視してでもCOVID-19を根絶やしにすることを優先する」国もあり、「個人の自由、個人のプライバシーを尊重しつつ緩やかにCOVID-19対策をする」国もあります。その中間の国もあります。 どの国の対策が良いか数年経たないと解らないですね。数年経っても解らないかもしれ ないです。 さて、その「お国ぶり」ですが、33歳の青年が初めてアメリカ、ヨーロッパを旅行した時に見聞きしたこと、感じたことを詳細に記述した本があります。これを読むと「お国ぶりの違い」がよくわかります。 いまさら、アメリカ、ヨーロッパの旅行記なんて読まなくても、こんなことは知っているよと思われるかもしれませんが、しばしお付き合いください。《種明かし》が最後にあります。 その青年の旅行記はかなり長く、私も全部、読んでいるわけではありません。幸い抄録が出版されています。その中からほんの一部を紹介します。抄録の抄録です。 1.アメリカ印象記(最初にアメリカに行った) アメリカ製の機械はデザインが斬新でかつアイデアに富んでいる。 色々な国を旅行してから考えてみると、アメリカ製の機械は粗っぽく、イギリス製の機械の精巧さ、フランス製機械の優美さ、ドイツ製機械の緻密さ、堅牢さには敵わないと思った。 アメリカの政治家は国内の産業を守るために、外国製品を輸入する際には重税を課す。これを保護関税という。さまざまな製品に保護関税を課している。 人種差別がひどい。特に黒人に対する差別は酷すぎる。黒人を動物扱いしている。あまり良いことではないと思った。 どこの都市に行っても植物園、動物園があり「実物」を見せる努力をしている。これは市民や学生に対する「教育」のために設置している。 アメリカでは「ブランド」をとても大切にしている。優れた企業経営者は目先の利益より「ブランド力」を高める努力をしている。 貧富の差が大きい。 さまざまなパーティーが催されているが、それはパーティー券を売ることで成り立っている。 黒人は確かに差別されているが、黒人でも富豪がいる.政治家として一流になって活躍している人がいる。よく観察すると「皮膚の色は知性と関係ない」ということが解った。 アメリカは元々ヨーロッパ人が開墾した土地である。それゆえに「自主と共和」が根付いている。 レディーファーストが基本となっている。夫は妻に明かりを掲げ、靴を履かせている。いささかでも、妻の機嫌を損ねると「身をかがめて詫び」「部屋の外に追い出され」「食事を許されない」こともある。 フィラデルフィアの名前は「友愛」という意味であるが、この都市の市民は温和で活気があって際立って「友愛」に満ちあふれている。良い街だと感じた。 この国の人はとりわけ「聖書」を大切にしている。旅行にも携帯する。聖書に書いてあることが生活の基本となっている。 2.イギリス印象記(アメリカの次にイギリスに行った) イギリスとアメリカは似ているところが多い。アメリカ人は万事大雑把だったが、イギリス人は、何事にも定石を守り緻密に計算を立てて行動する。それゆえにか、イギリスの製品は造りが堅牢で精巧である。これに比して、次に行ったフランスの製品は惚れ惚れするほど美麗であるが英国製品に比して壊れやすかった。 ケンブリッジ大学とオックスフォード大学は他の大学とは別格である。両大学とも都会の喧噪を離れた大学都市にある。一般にイギリスでは高等教育機関は大都市から、かなり離れたところにある。 イギリスはイングラド、スコットランド、アイルランドからなる連合国である。それぞれの国で宗教(キリスト教ではあるが)が違う。イングランドはイギリス国教会、スコットランドはプレスビテリアン(長老派)、アイルランドはローマ・カトリックが多数を占める。 イギリス人は「時は金なり」を信条としていて勤勉である。 ロンドン塔を見学したが、イギリス人は残酷である。気をつけないといけない。 イギリスもアメリカと同様、動物園、植物園、博物館が充実している。「実物」を見るという教育が徹底している。 ロンドンは霧が多く、暗い感じがした。 3.フランス印象記(イギリスからフランスに行った) パリはロンドンよりもずっと「からっと」して過ごしやすい。空気が乾燥して明るい感じがする。イギリスは陰鬱だったと思い知らされた。 ロンドンでは「人は働くことを人生の一義」にしているが、パリでは「人は楽しむことを一義」にしている。 フランスはローマ・カトリックの国である。壮麗な教会が多い。壮麗な教会が多い。あのような壮麗豪華な教会を建てるには,相当な費用と時間がかかったと思う。民衆の生き血を絞って建てたのだろう。一般にプロテスタント国には豪華な教会が少ない。これに比してローマ・カトリックの国には豪華壮麗華美な教会が実に多い。なお、フランスにはあちこちに十字架磔刑像があり辟易した。 フランスは公園がとても多い。日曜日になると公園は遊ぶ人でごった返している。これに比して英米では日曜日は安息日なので基本的には礼拝をして静かに過ごしていた。 フランス人は古いモノを大切に保存する。 フランス製品は、細部まで繊細に作られている。しかし、前述の如く、英国製品に比して壊れやすい。なお、感性がイギリス人とは全く違う。それは建築、造船、紡績に及ぶ。 4.ベルギー印象記(フランスからベルギーに行った) 欧州各地への交通の要である。 強国に囲まれているので軍隊が整備されている。 それ以外、あまり印象はない。 5.オランダ印象記(ベルギーからオランダに行った) オランダには山がない。 どこも低湿地で堤防が張り巡らされている。 少し油断すると水没する土地が多いため水没しないようにさまざまな工夫がなされている。また、水没しないように国民が常時気をつけている。それゆえにオランダ国民は勤勉である。 プロテスタント国である。豪華な教会は少ない。 運河が張り巡らされている。水運が盛んである。 オランダは小資源国である。鉄は作れず、木材はなく、石炭もとれない。それでも国民が勤勉であるがゆえに良質な工業生産物をたくさん作っている。 オランダは絵画が盛んで見るべき絵画が多かった。 オランダにも博物館、植物園、動物園が多い。日本人にとってもなじみのあるシーボルトのコレクションをライデンで見ることができた。 6.ドイツ印象記(オランダからドイツへ行った) ドイツでは工業も農業も盛んである。工業製品は堅牢にできている。 文学が盛んである。 日本人に親しみを持っているドイツ人が多い。 7.ロシア印象記(ドイツからロシアへ行った) ロシアは「田舎」である。ヨーロッパとは違う。洗練されていないと感じた.いわゆるヨーロッパとは違いが大きい。 8.北欧印象記(ロシアからスウェーデン、ノルウェー、デンマークへ) 北欧諸国は ロシアに比して農家も田畑もこざっぱりとしている。 どの国の国民も自主の気概がある。 清潔感にあふれている。 教育が行き届いている。男女分け隔てなく教育が充実している。 1)多くの学問を、理解しやすいように工夫して、教えている。 2)あまり難しい事は教えていない。 注:難しいことを教えると理解できない生徒は勉強を放棄する。一旦、勉強を放棄すると一生害すると考えているからであると聞いた。 3)男女平等である。 4)初等教育は、人生を享受するために必要不可欠と彼らが考えていることを教えている。必要不可欠なこととは (1)国語 (2)文法学 (3)数学 (4)歴史 国史 (5)地理 (6)科学 (7)音楽 (8)図画 の8つである。これに加えて、体育、修身も教えている。 9.イタリア印象記(スウェーデンからスイスを経てイタリアへ行った) イタリア国民は南北で多少違うが基本的に「怠惰」である。 宗教はローマ・カトリックが盛んである。 享楽的で音楽が盛んである。 アルプスを越えてイタリアに入ると土地が肥沃であることがよくわかる。「沃土の民は材にあらず」という諺がイタリアにも通用すると感じた。草木は生い茂り、野に咲く花もきれいである。しかし、街は汚い。清掃が行き届いていない。 「カトリック国には荘厳、華麗、華美な教会が多い」という法則がイタリアにも通用する。イタリア中にそういう荘厳な教会が多くある。大きく華美な教会を作るため、人民に相当な苦役、献金、重税を課したと思われる。良いことではないと思った。その金を国民のために使っていたらどんなにか素晴らしい国が出来ていたであろう。「宗教に必要以上に深入りする」のは国家発展の妨げになるだろう。 イタリアに残る古代ローマ帝国の遺跡、文物を見ると現在の西欧文化の「源(みなもと)」はすべて古代ローマ帝国にあると思われる。古代ローマ帝国滅亡後に「キリスト教が広まった現在のイタリア」と「古代ローマ帝国」とは別物と考えるべきだ。 北イタリアはドイツやフランスと似ていて豊かである。工業も発展している。それに比して、南イタリアは産業に乏しく貧しい。 イタリアには国立の公文書館、古文書館があり、多くの記録が残っている。天正遣欧少年使節の記録も見ることができる。このように記録を大切に保管することは見ならうべきだ。 1840年頃、ヨーロッパで微粒子病という蚕の伝染病が大流行し、フランスやイタリアはで蚕種が全滅した。そのため、日本から蚕種を輸入し、イタリアの養蚕業は復活した。 10.米欧に関する一般的な感想 キリスト教が人びとの生活の基本となっている。 キリスト教は磔(はりつけ)になって死んだ人間が生き返ったことという非合理的な話が元になっている。それを信じている人が多いのは不思議だ。しかし、非合理的であっても「神」を敬う気持ちによって行いを正しくしよう努力している。キリスト教にも沢山宗派がある。ローマ・カトリック、プロテスタント、東方教会、モルモン、英国国教会、etc.多数ある。 キリスト教徒とイスラム教徒との争いが長く続いている。西欧人の中にはユダヤ教徒もいる。要するに彼ら西欧人を理解するには、その因って立つ宗教を把握することが肝要である。日本の宗教と西欧の宗教とは全く違うことを銘記して付き合うべきだ。 「ブランドが大切で、ブランドを作り上げそれを維持することが全ての商業の基本だ」。商業に限らず、何事にも 「ブランド=信用」を築くことが、西欧では一番大切。 ああ、こんなことは知っている。今更だと思うでしょう。 この旅行記は今から約150年前に書かれているのです。 書いたのは「久米 邦武(くめ くにたけ 1839-1931年:91歳没)」です。元佐賀藩士、明治初期の外交官です。岩倉具視欧州使節団(1871-1873年)で「大使随行役」を勤めています。若い頃から「秀才」として知られ、同使節団に随行し、その記録を帰国後に刊行しています。 ただの記録では無いのです。『米欧回覧実記』という記録です。それが全部で100巻!もあります。細大漏らさず、感じたこと、見たことを記しているのです。 この一行の通訳は、新島襄、畠山義成が勤めていました。彼らは英語が堪能であったので英語が通じる国では英語で、それ以外の国では現地で英語が使える人から聞き取りをしたと思われます。 さて、上述の各国印象記ですが、皆さんの思っている印象とあまり変わりないかと思います。実は、我々が今、各国に抱いている印象の「元」は150年前の久米の記録が元になっていると言っても過言ではないと思っています。 欧米の研究家にも注目され、文献6.7.の如く英訳されています。100年以上前の米国、西欧を外国人(久米)の目から見た文献は少なく、これだけ詳しく、しかも絵付きで紹介した文献は皆無でしょう。英訳されたことを機に、この久米邦武の旅行記はもっと広く世界に知られるようになると思います。 細大漏らさずと記しました。科学技術に関する論考も多いのだそうです(文献8.9.)。政治、文化、宗教、経済、科学技術なんでも、実際に見聞きしたことを詳述しています。見たことをそのまま書いているわけではありません。論考をいちいち加えています。なんというか、読めば解りますが、観察力の的確さに圧倒されます。 キリスト教に関する厳しいというか、合理的な記述を読むと、久米邦武は「合理主義者」「リアリスト」であることがわかります。色々な物事を合理的に考えることは、今でもなかなかできることではありません。『米欧回覧実記』を読んでいると、合理的、理性的に考えることの重要性を再認識させられます。 久米邦武は帰国後に『米欧回覧実記』を著し、その功績に対して政府から多額の報奨金を得ます。その資金を元に久米は目黒に広大な土地を取得しました。今もその名残でしょうか、目黒駅前に久米美術館が残っています。この美術館では『米欧回覧実記』関連の事物を見ることができます。 帰国後、久米は歴史学者になり、東京帝国大学教授兼臨時編年史編纂委員を務めますが、「神道ハ祭天ノ古俗」と題する論文を書いて厳しく糾弾され、東京帝国大学を辞職せざるを得なくなっています(余話2)。 しかし、大隈重信が早稲田大学の教授として迎えてくれました。大隈重信も元佐賀藩士で久米邦武と同郷で同年代ですから、その縁でしょう。 いずれにせよ、長々と記しましたが、記録をすることの重要性(記録を廃棄してはいけないですね)、合理的に物事を観察することの重要さを『米欧回覧実記』を読むことで感じ取ることができます。 コロナ禍でも同様です。今、起きていることを記録し、合理的に観察し、コロナ禍から得られた教訓、治験を後世に残す必要があると思います。 それはともかく、とても面白いので、是非文献 1 or 2 をお読みください。 【参考文献】 久米邦武著:大久保 喬樹現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記(角川ソフィア文庫) 久米邦武著:田中 彰現代語訳 岩倉使節団『米欧回覧実記』(岩波現代文庫) 特命全権大使 米欧回覧実記 (1)-(5) 巻(岩波文庫)久米 邦武、田中 彰 現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記 普及版 久米邦武 編著 水澤周 訳・注 米欧亜回覧の会 企画 全5巻(慶應義塾大学出版会) 『米欧回覧実記』の原本はデジタルでも読めます。漢字、カナ交じり文です。文語ですから読みづらいですね。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761502 Marius B Jansen, Kume Kunitake著: 『The Iwakura Embasssy, 1871-1873:A True Account of the Ambassador Extraordinary and Plenipotentiary’s of Observation through the United States of America and Europe』 Routledge (2002) Kume Kunitake (著), Chushichi Tsuzuki (編集), R. Jules Young (編集) 『Japan Rising: The Iwakura Embassy to the USA and Europe』 Cambridge University Press (2009) 髙田 誠二 (著):久米邦武:史学の眼鏡で浮世の景を(ミネルヴァ日本評伝選) 高田 誠二 著:維新の科学精神―『米欧回覧実記』の見た産業技術(朝日選書) 余話1: 「何かを調べるページ」というサイトがあります。岩倉使節団が泊まったホテルを突き止め、現在も残っているホテルを紹介しています。全て高級ホテルです。 余話2: 雑誌『史海』に転載した論文「神道ハ祭天ノ古俗」 「神道は宗教では無い」と記しています。これは問題になったでしょうね。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/11/09 絶縁体であるポリエチレンフィルムの上に置いても電気は流れない? ある日、ある時、超重症の心不全患者さんに人工心臓を装着しました。こういう手術後の患者さんの管理は大変です。毎日、たくさんの処置や検査が必要です。 多くの検査のひとつが「心電図検査」です。心臓の状態を検査するために、毎日3回、心電図を取っていました。心臓の状態が良くなると心電図でもわかります。 皆さんも心電図検査を受けたことがあると思います。普通の心電図検査なら簡単です。数分で終わります。しかし、人工心臓を装着している患者さんの心電図検査は結構大変です。 ※以下に心臓に装着した管の写真があります。血が苦手な方はお気をつけください。 写真1:心臓に装着した管 この管を通して人工心臓に血液を送り、人工心臓から血液を駆出することで心臓は休むことができるのです。 なぜかというと、この写真のように心臓を補助するために、心臓と血管に管が入っています。この管は胸壁を通して、外部の人工心臓につながっています。ここから細菌が入り込み人工心臓に感染することがあるので、それを予防するため、ポリエチレン製のフィルム(通称をサージカルドレープと言います)で覆っていました。 ポリエチレンは絶縁体です。心電図検査に使う電極をこの絶縁体であるポリエチレンフィルムの上に置いても電気は流れない(と思われていた)ので、このポリエチレンフィルムを日に3回剥がし直接患者さんの胸に心電図の電極を付けて心電図記録を行い、再度新しいポリエチレンフィルムを貼るという作業を毎日繰り返していたのです。 看護師さんと一緒に行うのですが結構面倒です。1回の処置に15分くらいかかります。胸には血液が流れる管が数本入っているのでそれらの管に障害が起きないように神経を使っての処置を行います。ドレープを剥がして、患者さんの胸に電極を置いて心電図検査を行うのです。かなり面倒です。ずっと病院に泊まり込んで、そういう処置や追加手術などを行っていました。 ポリエチレンフィルムの上で心電図が記録できた! そういう日々が続いたある日、大学時代に「有機物質にハロゲン化物を添加すると、本来導電性がない有機物質に導電性が出現する」ということを有機化学の授業で習ったのを思い出しました(余話2を参照ください)。上記のポリエチレン製フィルムには2種類あります。 皮膚に糊付けする糊にヨードが含まれている製品 糊にヨードが含まれていない製品 の2種類です。感染予防にはヨードが糊に含まれている方が良いだろうと思って1. の「糊にヨードが含まれている製品」を使っていました。ヨードは「ハロゲン」です。ポリエチレンは、有機物ではありませんが何となく 「ポリエチレンにヨードが含まれているなら電気が通るかも知れない」 と思いつきました。今でも何でこんな突飛も無いことを思いついたのか、良く解りません。 患者さんに害を与える処置では無いので、糊面にヨードが含まれているポリエチレンフィルムの上に心電図の電極を置いて心電図記録を試みました。そうしたら、なんと絶縁体であるはずのポリエチレンフィルムの上で心電図が記録できたのです。 「ええ! 何なんだろう! 凄い!」 と思いました。一緒に心電図を記録していた看護師さんもびっくりしていました。翌日、糊面にヨードが含まれていないポリエチレンフィルムの上に電極を置いて心電図記録を試みました。心電図は全く記録できません。これは面白い現象です。導電性のないポリエチレン製フィルムの糊面にヨードが含まれていると絶縁体であるポリエチレンに導電性が生じるのです。特殊なテスターを借りてフィルムの表裏で電気が通るかどうかを試しました。たしかにヨードを糊面に塗ったポリエチレン製フィルムではわずかながら導電性が生じていることが確認できました。 気合いを入れ、この現象を論文にして「N」という頭文字の雑誌に投稿しましたが掲載不可の知らせが来てがっくり、「S」という頭文字の雑誌に投稿しましたが、こちらも掲載不可でした。 私が発見したことは「特別な現象では無い」というのが掲載不可の理由でした。「N」も「S」も科学者なら憧れの雑誌です。投稿しただけでも良い思い出です。 こういう現象は、化学者には常識なのでしょうが医師には知られていません。 糊面にヨードが含まれているポリエチレン製フィルムの製造元のアメリカの会社に問い合わせましたが「このフィルムにそのような機能があることは知らない」と言われました。 この現象を使えば特殊な状態(人工心臓装着者など)での心電図記録が楽になります。そこでこの発見を「The Annals of Thoracic Surgery」というアメリカ胸部外科協会雑誌に投稿しようと思いました。 この時「ミッション:インポッシブルのテーマ」が頭の中で鳴ったのです。冗談です(笑)。 この論文に載せる心電図は患者さんの心電図である必要は無いので「私自身の心電図」と「私自身の胸をヨード入りポリエチレン製フィルムで覆っている写真」を撮って論文に載せよう、もし論文が掲載されれば「ミッション11」は達成できるかもしれないと思いついたのです。心電図室に赴き臨床検査技師さんに頼んで、 私の心電図(胸部誘導)を普通に記録 私の胸にヨード入りポリエチレン製フィルムを貼り、その上に心電図電極を置いて写真を撮影、引き続きそのフィルムの上に電極を置いて心電図を記録。1の心電図記録と変わりの無い心電図が記録されました。 確認のため、ヨードが入っていないフィルム上に心電図電極を置いた状態は心電図記録を行いましたが記録はできませんでした。 論文を練りに練り、英文をネイティブスピーカーに直してもらい、勇躍、投稿しました。タイトルは [Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram]です。 和訳するなら「ヨードを含有するドレープを用いれば心電図胸部誘導が可能になる」でしょう。実はタイトルを決めるのが一番大変でした。 写真2:この論文を書いたときのタイトル案です。 10数個の題名を考えました。この中から英語が母語であるネイティブスピーカーの方と相談して、タイトルを選びました。 論文に載っている「私の胸」「私の心電図」 論文を投稿してから約1ヵ月「アクセプト(掲載可)」との通知がFAXでアメリカから届きました。アクセプト(掲載可)とされる場合でも通常は色々とコメントがつき、それに沿って論文を修正するのですが、この論文はほぼ修正をしないで載せてくれました。3名の査読者の内、1名からは 「This report from Japan is intriguing.」(この日本からの論文はとても興味深い) というコメントを頂きました。嬉しかったです。論文掲載が決まり、実際に論文が掲載された雑誌が送られてきて、自分の胸と自分の心電図が載っているのを見て「ミッション11終了」と思いました。冗談です。 写真3:論文(文献1)に載っている「私の胸」です。 茶色いのはポリエチレン製フィルムの糊面の糊にヨードが含まれているからです。 図1:同論文に載っている「私の心電図」です。 心臓病の研究者、胸部疾患の研究者は世界中にいますが、自分の「胸」と「心電図」を論文に載せている研究者は多分いないと思います。仮に私が心筋梗塞になっても、インターネットで私が41歳の時の心電図を見ることができますので比較することが可能です。100年後、200年後に私の子孫がいたら、先祖(私)の「胸と心電図」を見ることができます。だから何?という話ですが… ミッション(夢と置き換えても良いです)を持っていて、何か考え思いついたら直ぐに実行してみると良いことがあるかも知れないという良い見本だと自分では思っています。 思いついたら、理屈を考えるよりも直ぐに実験をしたら良いと中谷宇吉郎博士の随筆「立春の卵」に書いてあります。これを読んでいたから、こんな実験を行い、それが論文になったのです。中谷宇吉郎博士に感謝です。今年(2020年)は中谷宇吉郎博士の生誕120周年です。石川県加賀市にある「中谷宇吉郎 雪の科学館」で様々な催しがあります。行ってみたいです。 【参考文献】 Mochizuki Y1, Okamura Y, Iida H, Mori H, Shimada K. [Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram] Ann Thorac Surg. 1999 Apr;67(4):1184-5. ↓全文を読むことができます。 https://www.annalsthoracicsurgery.org/article/S0003-4975(99)00056-9/fulltext 多田富雄:千葉医学特別講演より(千葉医学.85:53-9, 2009) Ishizaka K, Ishizaka T, Hornbrook MM. Physico-Chemical Properties of Human Reaginic Antibody: IV. Presence of a Unique Immunoglobulin as a Carrier of Reaginic Activity. J. Immunol. 1966. 97: 75-85. http://www.jimmunol.org/content/jimmunol/198/1/5.full.pdf(PDF) 中谷宇吉郎随筆集(岩波文庫) 名著です。 「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」公式サイトです。 https://missionimpossible.jp/ 余話1: 2000年のノーベル化学賞は白川英樹先生が受賞しました。「導電性プラスチックの発見」が受賞理由です。「通常は電気を通さない絶縁体のプラスチックにハロゲン化物をドーピングしたら電気が通るようになる事を発見した」事を発見したのですね。どこかで聞いたような話でした。 余話2: 有機物に導電性を加えた論文を調べて見ました。1950年頃から論文になっているのです。日本人研究者の発見です。 有機化合物は絶縁体であり、電気が通るなど考えられていなかった時代に、赤松秀雄先生、井口洋夫先生、松永義夫先生などが、有機物にハロゲンにドーピングすることで導電性が生じることを発見しています。こういう発見がノーベル賞を受賞した白川英樹先生の発見につながったのでしょう。それなら、赤松先生、井口先生、松永先生もノーベル賞を受賞してもおかしくなかったのだと素人の私は愚考します。 何れにしても私が学生時代の1977年頃、一般教養の「有機化学」の講義で多分このことを聞いていて、それを思い出したのです。 Akamatu, Hideo, and Hiroo Inokuchi. "On the Electrical Conductivity of Violanthrone, Iso‐Violanthrone, and Pyranthrone." The Journal of Chemical Physics 18.6 (1950): 810-811. Akamatu, Hideo, and Hiroo Inokuchi. "Photoconductivity of violanthrone." The Journal of Chemical Physics 20.9 (1952): 1481-1483. Akamatu, Hideo, Hiroo Inokuchi, and Yoshio Matsunaga. "Electrical conductivity of the perylene-bromine complex." Nature 173 (1954): 168-169 赤松秀雄(1910-1988):元東京大学理学部教授 井口洋夫(1927-2014):元東京大学理学部教授 豊田理化学研究所に氏を記念したホールがある。文化勲章受章 松永義夫(1929- ):元「北海道大学,熊本大学,神奈川大学」理学部教授 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/10/26 ミッション:インポッシブル 2年前「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」という映画を見に行きました。「スパイ大作戦」というテレビ番組だったのをトム・クルーズが主演にして映画化した「ミッション:インポッシブル」シリーズの第6弾です。 不可能と思われる使命(mission impossible)を命ぜられた主人公のイーサンハント(トム・クルーズ)が仲間達とハイテクを駆使しつつ、ミッションを果たすという映画です。 「さて、君に与えられた使命だが…」とセリフと共に実行不可能と思われる任務(ミッション)の指令が下され、 「例によって君もしくは君のメンバーが捕らえられ、或いは殺されても、当局は一切関知しないからそのつもりで、なおこのテープは自動的に消滅する。成功を祈る」 そしてテープが白い煙と共に消える。そんな場面で始まります。この映画は音楽も有名ですね。少し聞いてみましょう。 『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』本予告(YouTube) 「ミッション:インポッシブル」シリーズの第6弾の題名にある「フォールアウト」ですが原題は「Fallout」です。「Fallout」は「核爆発で地上に降る放射性粒子」だそうです。知りませんでした。 なお「fall out」なら「落ちる、仲違いする」という意味になります。この映画は核爆弾をめぐる物語です、それに加えて主人公が落下するシーンが多く(7000m上空から、ビルから、ヘリコプターからetc.)、おそらくは「fall out」と「fall out」を懸けているのでしょう。撮影当時56歳だったトム・クルーズが全ての危険なスタントシーンを自分で行って撮影したことも話題になりました。7000m上空からのダイビングも自分で何回も行って撮影しています。映画終盤にヘリコプターをトム・クルーズが操縦する場面があります。この場面を撮影するためにヘリコプターの免許をとっただけではなく、凄いのは一人で操縦する資格を得るのに必要な2000時間もヘリコプターを操縦してそういう資格を得たことです。一日8時間操縦しても、250日もかかります。ヘリコプターを操縦するシーンはもちろんのこと、ヘリコプターが回って落ちていくシーンも自分で操縦しています。あり得ないくらい気合いが入っています。こういう映画が面白くないわけがありません。 前段はそれくらいにして。。。。 真面目な?本論に移ります。大方の皆さんは学校(大学、高校etc.)を出て社会人になる時「目標」を立てると思います。何となくでも良いですが「目標」を立てないと何となく時間が過ぎてしまいます。元将棋名人の故升田幸三はプロの棋士を志して家を出た時、母親の物差しの裏に 「この幸三、名人に香車を引いて勝つために大阪に行く」 と書き残しました。升田は将来「名人と対局して香車駒落ちで勝ってやる」と宣言したのです。14歳の時のことです。後に本当に「名人と対局した時に連勝したので、香車を抜いて対局して(つまり、駒落ち)勝ってしまいます。夢を実現したのですね。今、このような厳しいルールは廃止されています。それはともかく、何か目標を定めて努力するのは良いですね。 私も大学卒業時、いくつか目標を立てました。自分に課したミッションです。 外科医として働き始めたので、自分の「ミッション」として 基本的な心臓手術ができるようになりたい 色々な心臓手術がしたい できれば指導的立場で手術ができるようになりたい たくさん手術を手がけたい 成績の良い、質の良い手術をしたい 英語で論文を書いて一流雑誌に掲載されたい 教科書に載るような論文を書きたい 教科書の執筆依頼が来るような外科医になりたい 新しい手術方法を見つけたい 新しい手術器具を作りたい 自分の体(の一部でも)を論文に載せて後世に残したい と思っていました。1-10は外科医を目指すなら、誰しもが思うことですが実はどれもかなり難度の高いミッションです。これらを達成するのに確実な方法論はありません。ミッションのうち1-10はモデルとなる外科医(数名)がいらしてその方々を目指しました。 真面目な「努力」と「運」と「根気」と「小さな知恵」「工夫」の積み重ねが必要です。真面目な話はまた何時か機会のある時にしましょう。 ミッション11は医学の本道とは別な話です。 「さて、君に与えられた使命は君の身体を論文に載せることだ。例によって君もしくは。。。。。」 と言われるわけもなく、なぜこんなことを自分で考えたのか説明しましょう。 「僕の背中は世界一有名」 2018年7月6日、IgEの発見者というか、今日の「アレルギー」と呼ばれる疾患の本体を解明した「石坂公成(いしざかきみしげ)」先生が逝去されました。奥様と共にノーベル賞を受賞するだろうと言われて数十年、ついに受賞することはありませんでしたが、そんなことは関係無く、真に偉大な一生でした。 ちなみに偶然でしょうが、公成はKimishIgEです。名前の最後に「ige=IgE」が入っています。IgEの命名者は石坂先生です。IgEの「E」というアルファベットはこの抗体が紅斑(Erythema)を引き起こすことに由来しているのですが、偶然でしょうか? いずれにせよ、訃報を聞いて、自分は「ミッション11」を達成していたことを思い出したのです。石坂先生に命ぜられたわけではありません。 石坂先生のお弟子さんの一人に東大の名誉教授の故多田富雄先生がいます。多田先生は「抑制(サプレッサー)T細胞の発見」で有名です。また、文筆活動も活発で「免疫の意味論」「寡黙なる巨人」などの随筆もベストセラーになっています。「能」の作者としても有名で、脳死の人を主題にした「無明の井」や朝鮮から強制連行された人を主題とした「望恨歌」などの新作能を書いています。 その多田富雄先生の講義を学生時代に聞く機会がありました。もちろん免疫の話が主題です。その講演で多田先生は、 「僕の背中は世界一有名」 「僕の背中は天皇陛下も見ている」 「僕の背中は世界中どこでも見られる」 「僕の背中は後世に残る」 と仰いました。 石坂夫妻の発表した「IgE発見の論文」にはIgEの活性を試験する方法としてPK反応が用いられていました。PK反応はヒトの背中にIgEを皮下注射してその活性を調べると言う方法です。石坂先生御自身の背中はPK反応を何回もしており、もう注射するところが無かったので部下だった多田富雄先生の背中を用いて試験が行われ、それが論文に載ったのです(文献3:この論文は貴重で、IgE発見の基本となる論文です)。 写真1:文献3に載っている「多田富雄先生の背中」の写真 それを多田先生は「僕の背中は世界一有名」だと言っていたのです。しかし、大変残念なことに、この論文に多田富雄先生の名前は載っていません。当時まだ研究助手だったからでしょう。学生時代、「僕の背中は有名」を聞いて面白く思いました。いつか、私も 「自分の体を論文に載せたい」 と思ったのです。 自分がごく特殊な病気にかかるか、自分の身体を使った実験をしなければ載りません。自分がそんな「特殊な病気」にかかるのは困ります。特殊な実験も嫌です。婦人科に進めばあり得ないし、泌尿器科も嫌ですね。というわけで、時が流れ幾星霜。なんと、それ(=自分の体を論文に載せる)が実現しました。 次回へ続く。 【参考文献】 Mochizuki Y1, Okamura Y, Iida H, Mori H, Shimada K. [Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram] Ann Thorac Surg. 1999 Apr;67(4):1184-5. ↓全文を読むことができます。 https://www.annalsthoracicsurgery.org/article/S0003-4975(99)00056-9/fulltext 多田富雄:千葉医学特別講演より(千葉医学.85:53-9, 2009) Ishizaka K, Ishizaka T, Hornbrook MM. Physico-Chemical Properties of Human Reaginic Antibody: IV. Presence of a Unique Immunoglobulin as a Carrier of Reaginic Activity. J. Immunol. 1966. 97: 75-85. http://www.jimmunol.org/content/jimmunol/198/1/5.full.pdf(PDF) 中谷宇吉郎随筆集(岩波文庫) 名著です。 「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」公式サイトです。 https://missionimpossible.jp/ 余話1: トム・クルーズと言えば、1986年「トップガン」の主人公マーヴェリックを演じて有名になりました。つい最近、“リアル”マーヴェリックと言われた「マケイン元アメリカ上院議員」がお亡くなりになりました。マケインさんは元ジェット戦闘機のパイロットです。ベトナム上空で撃墜され、5年もベトナムに囚われて拷問を受けていたにもかかわらず後にベトナムと米国間の国交樹立に大きな役目を果たした事でも有名です。曲芸的な戦闘機操縦をしていた事でも有名だった事も相まって「マーヴェリック」の愛称で呼ばれていました。最近はトランプ大統領を厳しく非難し、話題を集めていました。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/10/05 ※注意:今回は手術の写真がたくさん出てきます。血が苦手な方はお気をつけください。 今回はかなり珍しい血管の病気というか、血管外傷について紹介します。血管をナイフで刺されてしまった患者さんの話です。 以下図1を参照しながら、お読みください。 図1 手術途中に呼ばれた救急室、そこで見たモノは… 頚動脈という言葉を聞いたことがあると思います。左右2つの頚動脈があります。左右で少し違いがあります。右の頚動脈は大動脈から出る腕頭動脈という太い血管の枝です。体格にもよりますが、腕頭動脈の長さは5cmくらいあります。「腕」「頭」と称され右手と右頭部右側へ動脈血を送る太い血管です。腕頭動脈は右総頚動脈と右鎖骨下動脈に分かれます。左側には腕頭動脈は無く、大動脈から直接、左総頚動脈と左鎖骨下動脈が分枝します。首に手を当てて触れる動脈は左右の総頚動脈です。右側の総頚動脈より心臓に近い方、つまりかなり奥にあるのが腕頭動脈です。そのため、腕頭動脈の手術は少し難しいのです。幸い腕頭動脈単独の病気はあまりありません。 話は変わります。時々、包丁やナイフなどの刃物で人を刺したりする事件が報道されます。心臓や血管も刃物で損傷を受けることがあります。心臓を刺されて、病院に搬送されてきた方を何人か見ました。ほとんどは即死です。心臓を刺されるとその場で、ほとんどの方はお亡くなりになってしまいます。病院に搬送された時点で死亡している時は手術ではなくて「解剖」に回されることがほとんどです。そのような場合は「事件」ですから、東京都なら監察医務院で司法解剖になり、東京都以外は、各都道府県にある大学の法医学教室での司法解剖を受けることになります。当たり前ですが、刺されたけれど病院に来た時にお亡くなりになっていない場合は、手術の対象になります。 以下本稿の主題に入ります。 上述のごとく、普通は「腕頭動脈」を触れることはできません。10数年前の某月某日、午前9時に私は腹部大動脈瘤の手術を開始しました。腹部の皮膚を少し切開したところで、救急部長のQ先生から電話が入りました。直ちに救急室に来てくれという連絡です。どうやら、血管にキズを負った患者さんが救急車で搬送されてきたようです。しかし、私はすでに手術を開始していたので、一旦は断ったのですが、再三再四救急室に来てくれという連絡が入り、仕方なく、一時手術を止めて、手術室を出て、1階の救急室に向かいました。そこで見たモノは…… ※以下に手術の写真があります。血が苦手な方はお気をつけください。 紫⾊のゴム⼿袋をつけて患者さんの⾸に指を⼊れているというQ救急部⻑の姿でした。救急室内には、救急部の医師、看護師はもちろんのこと、救急隊員や多数の警官がいて騒然としていました。多くの医師が凄い勢いで輸血をしていました。最初は何が何やらわからなかったのですが、皆さんの話を総合すると、どうやらこの患者さんは 二十歳になったばかりの女性であること 早朝から開いている食堂の店員さんであること 開店準備をしていた時に強盗に襲われ体中を刃物で「めった刺し」にされた(らしい)こと 倒れていたところを後から来た店員に発見されたこと 来院時は意識が無かったこと 来院時の血色素量が2.0しか無かったこと(正常は10以上です) 来院時脈が触れなかったこと 瞳孔が散大していること 私が救急室に来た時点でも意識が無いこと 来⽉、結婚式を挙げる予定であること、その結婚相⼿がこの患者さんの⾜元にいること などが解ってきました。確かに体中に大小さまざまな切創(きりきず)がたくさんあり、出血しています。救急部の先生が総出でキズの止血を行っていました。 問題は首に刺さっている救急部長の指です。 Q救急部長に「Q先生の指はどこに入っていて、何をしているのか?」と聞いたら、 Q部長曰く 「来院した時は、首に普通の切り傷があると思っていた」 「点滴ルートを確保し、輸血を行ったところ、今、指で押さえているところの奥から、⾎液がどんどんと湧き出してきた」 「どうやら腕頭動脈が刃物で切られているらしい」 「指で腕頭動脈を圧迫しているが、いつまでも押さえておくわけにはいかない」 「切れた腕頭動脈を修復して欲しい」 とのことでした。 要するにこのQ部長の指先の奥でには刃物で傷つけられている(らしい)腕頭動脈があり、そこからの出血を止めて欲しいということでした。 これは無理だと思いました。修復するには、腕頭動脈周囲を露出しないと修復できません。少しでも指を動かせば大出血します。外傷学の教科書にも載っていないようなシチュエーションです。意識もありません。瞳孔も完全に散大しています。手術をして止血ができたとしても、脳に後遺症が残る可能性も高いのです。 しかも、私は他の人をすでに「執刀」していたのです。心臓から遠いところの血管損傷なら、手術は容易です。しかし、今Q部長が指で押さえているのは、胸の中にある腕頭動脈です(普通は触れない)。 色々と考える間もなく、この腕頭動脈損傷の手術は無理であることをQ部長に伝えました。私と同じで、呼び出されていた整形外科の先生も、脳神経外科の先生も頭を振るばかりです。私は執刀していた手術に戻ろうとしました。そうしたら、この患者さんの足元にいた婚約者の男性が、「なんとしても助けてくれ」「来月結婚するのだから助けてくれ」とすがりついてきました。しかし、無理なモノは無理なのです。この男性に手術ができない理由を説明しました。 「太い動脈が損傷されている。胸の奥深くにある血管であり、この部位の手術は普通でも難しいこと」 「手術をするにはQ部長の指を退かさないといけないが、指を退かしたら大出血すること」 「来院時の血色素量が2.0しかない、つまり一度大量に出血しているので血圧も低く、すでに脳損傷を生じているであろうから、たとえ手術をしても回復は見込めないであろうこと」 などを説明しました。 手術は難しい(できない)と説明しましたが、彼は納得しません。 申し訳ないけれど、あとは救急部の先生にお任せして自分の手術に戻ろうと思ったのです。そうしたら、この男性は患者さんの説明を始めたのです。 「彼女は捨て子だ。孤児院で育てられた」 「彼女の人生で楽しいことはほとんど無かった」 「中学を卒業してからずっと働いていた」 「縁があって俺と付き合うようになって結婚することになった」 「彼女は俺と結婚して初めて家族ができるんだ」 「その結婚が来月だ!」 と言って、だからなんとかして欲しいと、大きな声で何回も懇願するのです。 こういう社会的背景を聞くと「なんとかしてあげたい」と思うのが人情で、私の頭にも感情にもスイッチが入りましたがどうしようもないものはどうしようもないのです。 その場で思いついた手術方法 そうこうしているうちに、他のキズ(大小取りまぜて40箇所くらい)の止血操作や輸血により、血圧が回復してきました。脈も触れるようになってきました。 しかし、刃物で切られている(と思われる)腕頭動脈からの出血を止めないとどうにもなりません。Q救急部長の指を少しだけ外してもらったら、もの凄い勢いで血液が噴出しました。やはり損傷していると思われる腕頭動脈を修復するのは不可能だと思いました。噴出する血液を避けながら体の奥にある動脈の縫合をするのは不可能なのです。 しかし、解決方法が天から降ってきました。ある方法を思いついたのです。いつも行っている心臓手術の方法を応用すれば容易に腕頭動脈に到達できることに気づいたのです。 図2 緑で囲まれている部分は胸部にあります。胸の骨の下にあり、通常は目に触れません。胸骨の下に緑色の部分があるのです。心臓外科医は、この部分の手術を行っています。つまり腕頭動脈に達するには、いつも行っている胸骨正中切開を行えば良いことに気づいたのです。 図3 図3:手術の説明図、というかその場で思いついた手術方法 胸骨を電気ノコギリで縦切りにする正中切開を行い(くどいようですが心臓外科医なら誰でもできる方法です)、腕頭動脈根部を胸部から露出し、腕頭動脈に止血鉗子をかけて血流を遮断し、裂け目からの出血を減少させて、その間に裂け目を修復する。そういう手術です(注:5分くらい、右側の頭部に流れる血流を遮断しても問題ありません)。 図3のような手術をすれば、助かるかもしれない。少なくとも止血はできるかもしれない。 しかし、それを行うには、現在すでに執刀した腹部大動脈瘤の手術を止めなくてはいけません。困ったなと思っていたら、消化器外科の先生方が、腹部大動脈瘤手術のお手伝いを申し出てくれたのです。それで腹部大動脈瘤の手術は遂行できるだろうと言ってくれました。 しかし、私が行おうとしている血管外傷の手術は、いつもの心臓血管外科のスタッフと行うことができません。しかし、折良く、呼吸器外科の先生に連絡がつき一緒に手術ができることになりました。呼吸器外科医ですから、胸部を開けるのは慣れています。助かりました。少なくとも手術はできるだろうと思いました。 そして、図3のような手術を行うことを、麻酔科の先生、手術室の看護師さんに伝え手術準備をして頂きました。平日の午前中でした。通常その時間、手術室はフル稼働しています。この時、折良く手術のキャンセルがあり、一部屋手術室が空いていたのです。物事が進む時は、こういう「運」もあります。 「この患者さんと結婚する予定の方」に手術方法を説明。大きなキズが胸に残るけれど、救命にはこれしか手がないことを説明し、了解して頂きました。そして、Q救急部長に指で止血してもらいながら(最初の写真の状態)、1階の救急室から上階の手術室へ移動しました。 胸部を消毒し、呼吸器外科の先生と一緒に手術を開始しました。胸部の皮膚をまっすぐ切り、胸骨を専用の電気ノコギリで切開し、腕頭動脈の根元を慎重に剥離します。なんとか、腕頭動脈にテープを巻くことができ、テープを補助にして血流遮断鉗子を腕頭動脈にかけて血流を止めました。 ※リンク先に手術の写真があります。苦手な方はお気をつけください。 図4:手術中の写真1 胸骨正中切開を行い心臓側から腕頭動脈を露出して、テーピングして、腕頭動脈の血流を遮断した時の写真です。 この時点でQ部⻑の指を外してもらいましたが出⾎しませんでした。目論見通り「出血は止まった」のです。刃物で損傷を受けていた⾎管が⾒えました。腕頭動脈は刃物で、きれいに、切れていました。切れている部分の腕頭動脈の末梢側にも血流遮断鉗子をかけて完全に血流を止め、千切れそうになっていた腕頭動脈を、細いポリプロピレン糸を用いて縫合し血流を再開しました。出血は完全に止まりました。一気に血圧が安定しました。 図5:手術中の写真2 刃物で千切れそうになっていた部分の上下を血管遮断鉗子で血流を止めます。 図6:手術中の写真3 細いポリプロピレン糸で損傷部を修復したところ、指で持っている青い糸は修復に使用したポリプロピレン糸です。 ほかの部位の止血も、慎重に行い胸骨をワイヤで寄せて胸を閉じ手術は終了しました。手術記録を見直したら、1時間で手術を終えていました。皮膚表面にある多くの切創(刺されてできたキズ)を縫合して、完全に手術が終わったのは、それから1時間くらい経ってからでした。 問題は、手術後に意識が戻るかどうか、あるいは後遺症が残るかどうかです。感染症も心配です。とても、とても心配でした。 しかし、手術後1日目にやや意識が回復し、2日目には完全に意識が回復しました。意識が回復した時の婚約者のものすごく喜んでいる様を見て、少し「うるっと」しました。そして3日目には食事が食べられるようになりました。2ヵ月のリハビリが必要でしたが、あまり大きな障害も残らず退院できました。 なお入院中にこの患者さんは刺した犯人の顔も思い出したのです。たまに食堂に来るお客さんだったのです。早朝の食堂では若い女性店員が一人しか働いていないことを知っていて強盗に入り、レジにあるお金を強奪しようとしたのです。 しかし、店員がお金を渡さなかったので、持っていたナイフでいきなりあちこちを切ったり、刺したりして、レジからお金を盗んだのです。怖い話です。犯人がすぐに見つかったので警察関係の方にとても感謝されました。もし患者さんがお亡くなりになっていたら、犯人は捕まらなかったかもしれず、今もこの犯人は市中をうろついていたかも知れません。 なお、この患者さんは予定より数ヵ月遅れましたが、無事結婚式を挙げることができてお子さんも授かりました。外科医人生の大きな思い出の一つです。 「人生あきらめが肝心」と言われますが「外科医は諦めが悪い方が良い」と思っています。 なお、この方が助かったのはもちろん私だけの力ではありません。 第一発見者の方が素早く救急車を呼んでくれたこと 直ちに現場に駆けつけた救急隊の皆さん 血圧が測れない状態でも輸血路を確保してくれた優秀な救急部の医師、看護師の皆さん 輸血をすぐに用意してくれた輸血部の皆さん 採血データを迅速に出してくれた検査部の皆さん 腕頭動脈からの出血を止めてくれていたQ救急部長 腹部大動脈瘤手術のお手伝いを買って出てくれた消化器外科の先生 一緒に手術をしてくれた呼吸器外科の先生 麻酔を引き受けてくれた麻酔科の先生 手術の補助をしてくれた手術部の看護師さん 手術後の治療を一緒に行ってくれた集中治療部の医師、看護師の皆さん 手術を懇願した「婚約者の熱意」 その他、実に多くの方の助けがあり手術が上手くいったのです。 感謝の意を表明して稿を終わります。 後日談1:Q部長がこの症例を救急医学会に発表したら、大絶賛を受けたそうです。私も行けば良かった。 後日談2:早速論文にしようと思って論文検索をしたら、アメリカでは腕頭動脈の損傷が結構あり、私と同様な方法での修復例が10数例すでに論文になっていました。ですから論文にはなりませんでした。残念です。 後日談3:「先生は犯人からも感謝されて良い」と警察関係の方に言われました。患者さんが死亡していたら、犯人は「殺人罪」となっていたからです。 注:孤児院という言葉は正式名称ではありません。平成10年以降は「児童養護施設」と称されます。 注:個人情報を伏せるため多少の改変をしています。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/09/07 今回は、医学には関係無いことを書きます。泥棒に関することです。 ドロボウに関する成句には色々とあります。 盗人猛々しい 盗人に追い銭 盗人にも三分の理 盗人の隙はあれども守り手の隙がない 人を見たら泥棒と思え 嘘つきは泥棒の始まり などです。 さて、皆さんは泥棒に何かを盗まれたことがあるでしょうか? あるいは、家に泥棒に入られた経験がありますでしょうか? 2020年東京オリンピックのプレゼンテーション(2013年、ブエノスアイレス)で「日本ではお金の入った財布を落としても、それはきっと戻ってくる」と滝川クリステルさんが話したのを覚えている方も多いと思います。 日本は、落とした財布やスマホが戻ってくる確率がとても高い国だと思います。 あらゆる落とし物が戻ってくる国・日本 “地球最後の文明社会”と海外が感嘆(NewSphere) https://newsphere.jp/national/20150222-1/ 東京では、年間33億円のお金が拾われ(落としたり、置き忘れたり)、そのうち24億円が落とし主に戻るそうです。 泥棒も他国に比して極めて少ないです。 上記の出所:社会実情データ図録より引用 http://honkawa2.sakura.ne.jp/2788g.html そんな盗難の少ない日本にも泥棒はいます。私は3回泥棒にあっています。 泥棒にモノを盗まれないためにはどうしたら良いか、泥棒にあったらどうしたら良いか、本稿を読めば多少役立つかもしれません。 私の経験を紹介します。どれも教訓的なドロボウ事象です。 学生時代、下宿で財布から現金が無くなっていました。盗んだ人もわかっています。 10数年前のことです。病院の駐車場に置いていた車の中から鞄を盗まれました。犯人は不明です。 20数年前新橋の料理屋さんで鞄を盗まれました。この事件?が一番、教訓的です。ぜひ、お読みください。 泥棒事象を紹介しましょう。 1.学生時代に財布から現金を盗まれたのはとても悲しい出来事でした。 大学2年生の夏休みのほぼ全て(30数日)を日本で2番目に高い北岳の山頂近くにある「北岳山荘」でアルバイトをして過ごしました。「北岳山荘」は建築家の黒川紀章先生がデザインしたおしゃれな山小屋です。1978年に建てられたときは、そのことでも話題を呼びました。その年に働いたのです。良い経験でした。 山小屋でアルバイトをするとお金を使う場所がないので、丸々アルバイト代が残りました。その山小屋アルバイトで知り合った、今で言うフリーターのT君と仲良くなりました(同い年でした)。T君とは山を下りた後もやりとりを続けていました。 翌年の秋に、T君は関東地方から車を運転して鳥取まで来てくれました。そして車にシュラフなどを積んで九州を2人で旅行しました。泊まるのは車の中でした。今、流行の「車中泊」をしたのです。 九州一円をまわり鳥取まで帰り、私の下宿で一泊して、 T君は関東地方まで帰っていきました。 彼を見送って下宿に帰ったら、 財布に入っていたお金が無くなっていました。九州旅行から帰り、色々と精算をしました。財布の中に1万数千円入っていました。しかし、お財布の中のお札だけ無くなっていたのです。下宿にいたのは、私とT君しかいません。「やられた」のです。 それ以降、T君とは音信不通になってしまいました。帰るガソリン代に事欠いたのでしょうか?とても悲しい話でした。 2.車上荒らしにあったのは、緊急手術の為に呼ばれ、車を病院の駐車場に止めていた時のことです。 病院職員駐車場は、患者さんの駐車場よりも病院から離れた場所にありました。照明も無い暗い駐車場でした。すぐに手術が始まるので、鞄を車の中に置いてそのまま手術室に向かいました。日曜日の夜中でした。 無事、手術が終わりそのまま月曜日の診療が始まるので、車の中に置いてあった鞄を取りに行ったら車のドアが変です。壊れています。あれれ?と思ったら車の中に置いてあったモノが全てなくなっていました。多少の現金の入った財布も鞄に入れていましたが、鞄ごと無くなっていました。「泥棒」です。すぐに近所の交番に行き、被害届を出す相談をしたら交番では届け出ができないとのことです。仕方なく、やや離れたところにある警察署に行って詳しい被害届を書きました。 手術明けで疲れていたのですが、そんなことを言っている場合ではありません。色々と調べられました。私の指紋も採られました。車を調べてくれると思ったら、壊された鍵などを見るだけでした。犯人を捜査してくれると思ったのですが、被害金額が少額でしたので、捜査などしてくれません。 それから数日後、車の中にあった金目の物(と言っても現金と切手だけですが)以外は全て近所の道路にぶちまけてあったと交番から報告がありました。鞄も返ってきましたが、道路上にあったのでボロボロになっていました。 これ以降、車の中には金目の物は絶対に置かないようにしています。 3.今から、20数年前、新橋駅近くの中華料理店で食事をした時のことです。 食後、小用のため席を外しました。自席に戻ったら置いていたカバンがありません。散々、探したのですが出てきませんでした。 意気消沈してアパートに帰りました。中には手術予定が記してある手帳や手術用のノートが入っていました。カバンは革製で買ったばかりでした。 それはともかく、前述の1. 2. の事象と違って、このカバンの中には「金目のもの」は入っていませんでした。しかし私にとっては、とても大切な手術ノートと手帳が入っていました。 写真:当時盗まれた鞄に入っていた「手術メモ」(手術の「勘どころ」が書いてあります) 他人にとっては「無価値」ですが、私にとってはとても大事なメモです。 一応、交番に届け出たのですが「盗まれた」と言ってもまともに取り合ってくれませんでした。大金が入っていたわけではないからです。意気消沈して家に帰りました。そうしたらその晩、 「お前のカバンを“拾った”から取りに来い」 という電話が自宅にかかってきました。 これは「ドロボウ」からの電話だと直感しました。カバンは落としていません。カバンは新橋の中華料理店で私の席に置いていたのです。カバンが勝手に動くわけがありません。「カバンを取りに来い」と言っていますが、ドロボウの家に行くのも怖い話です。それはともかく、ここが一番肝心なのですが、なぜドロボウが私の家の電話番号を知っていたのでしょうか? 実は、私は手帳を開くとすぐに目がつく場所に 「この手帳はわたしにとってとても大切なモノです。拾った方には5000円を差し上げます」 と記し、横に自宅の電話番号を書いておいたのです。 カバンを盗んだ泥棒は、あまり高価では無さそうなカバンを換金するよりも、現金5000円をもらえる方を選んで私のところに電話をかけてきたのだと感づきました。 電話がかかってきたのは、日曜日の夜中でした。誰か一緒に行ってくれる人を探すような時間ではありません。1人で行くのは怖いので、呼ばれた泥棒が住んでいる住居近くにある交番に相談に行きました。しかし、警官は取り合ってくれません。 仕方なしに1人で5000円を持ってドロボウ宅に赴きました。無事、カバンはドロボウ宅に鎮座していました。5000円を渡し(泥棒に追い銭)すんなりとカバンを返してくれるかと思ったら簡単ではありませんでした。「カバンを無くしたのは、お前(望月)に悪いモノが付いているからだ。だから、私(ドロボウ)が信心している宗教に入信しろ、信心したらそういう悪いことは起きない」などと、延々お説教が始まりました。盗人猛々しいとは正にこのことです。 内心「ドロボウがナニヲイウカ」と思っていました。しかしカバンとカバンの中に入っている手帳と手術ノートが大事です。1時間近くドロボウのお説教をおとなしく聞いて無事カバンと共に家に帰りました。お説教を聞いていた1時間本当に長かったです。 仏壇も買えとかなんとかかんとか言われ、話を躱すのに苦労しました。 色々と教訓を得ました。 大切なモノに「この○○はわたしにとってとても大切なモノです。拾った方には5000円を差し上げます」と書いてあると盗まれても返ってくる可能性があることを知ったのは良かったです。それ以降、大切なモノを盗まれたことはありませんが。 なお、こういう場合、警察が頼りにならないことがよくわかりました。皆さんも「他人にとっては無価値でも自分にとってはとても大事なモノ」には、 電話番号(今なら携帯電話の番号) 拾ったら幾ばくかのお金を進呈します(いくらでも良いと思います) と記すことをお試しください。なお、自宅住所は記さない方が安全です。念のため。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/08/17 前回より続きます。「コレラからコロナを考えよう」という主旨で書いています。 前回スノー医師の主張を受け入れ「1854年9月8日井戸Qは閉鎖され、使われなくなった」と記しました。 その後、スノー医師の予想が当たり、ソーホー街でのコレラ患者は激減しました。 1854年8月28日に始まったソーホー街でのコレラ禍は9月8日に収まったのです。 この間、11日。鮮やかに収束しました。 COVID-19もこのように収束できれば良いのですが、なかなか難しいでしょう。ウイルスはとても「厄介」で複雑です。前々回、チフスの健康保菌者だった「チフスのメアリー」のことを記しました。COVID-19も健康保菌者が問題です。 つい最近出た中国からの論文(文献8)によると、なんと無症状COVID-19保因者の方が、有症状のCOVID-19保因者の方より長くウイルスを排出しているのだそうです。NATURE MEDICINEに掲載された論文です。これがCOVID-19の特徴だとすると、COVID-19の蔓延を止めるのは極めて難しいです。COVID-19が広がるのを防ぐには、韓国、台湾などが行っている「徹底したPCR検査」を行って、無症状COVID-19感染者を見つける必要があるのかもしれません。まだその点議論があり、定まっていません。 歴史には転換点があります。前回紹介した「井戸Qを1854年9月8日に閉鎖したこと」も歴史の転換点の1つです。大きな転換点です。それまでに信じられていた「瘴気説」を覆し、「科学の目」で感染症を征圧した記念日と言っても良いかもしれないです。 なお、スノー医師だけで、この偉業「コレラ患者が激減」が成し遂げられたわけではありません。 ソーホー街の担当をしていたホワイトヘッド副牧師の協力があって、初めてこの偉業は成し遂げられました。スノー医師が仮説(井戸Qの水がコレラの原因)を立て、それをきちんと証明したのがホワイトヘッド副牧師です。 スノー医師の仮説を、その原因まで確かめたホワイトヘッド副牧師 ホワイトヘッド副牧師(Reverend Henry Whitehead:1825-96)は、オックスフォード大学リンカーン校出身で英国国教会に所属していました。大学を出て最初に就職したのが、ロンドンのソーホーにある聖ルカ教会で、そこで副牧師(下級司祭ともいう)となっています。ソーホー街の人びとにとって、彼がこの地にある教会に勤務していたのは僥倖でした。 ちなみに、日本に聖路加国際病院がありますが、聖ルカが由来です。聖ルカは「医師」であったので医師の守護聖人とされています。それゆえに、聖ルカを冠した病院は世界中にあります。つまり医業と関係が深いのです。 ホワイトヘッド副牧師がこの、医業と関係の深い聖ルカ教会に勤務していたのも何かの因縁かもしれません。ホワイトヘッド副牧師は人付き合いが良く、教区の人びとに親しまれていました。後にこれが役立ちます。 さて、そんなホワイトヘッド副牧師の出番は、井戸Qの閉鎖からしばらく経ってからです。ソーホー街のコレラは井戸Qの閉鎖で収束しましたが、井戸水原因説に納得いかない人びとは「瘴気」を探すべく、調査をしていたのです。あちこちの瘴気(匂い)とコレラを関係づけるために、膨大な公的調査をしています。当たり前ですが、まったく見当外れでしたが、「見当外れ」という結果が残っただけ、良かったと愚考します。調べて「記録」したから見当外れであることがわかるのです。一番悪いのは「調べていないこと」、あるいは「調べても記録を残していないこと」です。 今、コロナが流行っています。さまざまな流行原因についての推論、議論、そしてその検証がなされています。リアルタイムにそれを見ていますが、まだ、本当に何が起こっているかわからないです。 コレラの話に戻ります。 とにもかくにも、ソーホー街のコレラは収束しました。それで「良かった、良かった」で終わらなかったのが凄いのです。今でも、何となく事が収まるとよく原因を追及もせずに「良かった、良かった」で終わってしまうことも多いのですが、当時のロンドン市民に感謝しないといけません。 当時のロンドン保健衛生担当者は「瘴気説」です。地元の人びと(ソーホー街教区)は瘴気では説明がつかず、スノー医師の言うこと(井戸水がコレラ蔓延の原因)が正しいかもしれないと思い始めていましたが、ロンドン保健衛生担当者は聞く耳を持たなかったのです。 ソーホー街の教区役員(注:今の日本なら自治会でしょうか?)はスノー医師、ホワイトヘッド副牧師達に声をかけ、自分たちで調査を始めました。日本で自治会がコレラの調査をするでしょうか? まったく想像がつかないです。それだけ、自分達の住んでいる地域に蔓延したコレラに対する恐怖が強かったのかもしれません。 「井戸Qの水を飲んでいた人」は確かにコレラに罹っていた 当初、ホワイトヘッド副牧師は、スノー医師の「コレラ蔓延の原因は井戸水にある」という説に懐疑的だったのです。井戸Qは永らく使われていたし、「井戸Qの水を飲んでいない人びと」もコレラで死んでいたのを教区担当者として見ていたからです(これが間違いだったことが後に判明します)。 ホワイヘッド副牧師は、教会で信者に教えを説くとき、信者を見渡すと何故か独居して貧乏で痩せ衰え困窮していると思われる人が多く生き残っているのに気づいていました。 普通の病気なら、裕福で栄養状態の良い人が生き残る筈なのに、ソーホー街で発生した、この年のコレラは違ったのです。何となく変だと思っていたのです。 教区の調査会(今なら自治会調査会とでもいうのでしょうか?)が始まり、ここがホワイトヘッド副牧師の偉いところなのですが、住民や元住民(コレラが発生してすぐに多くの住民が逃げ出していた)に手紙を書いて調査をしたのです。帰ってきた返事が約500通といいますから、それほど凄い数の手紙を書いたのです。 それでわかったことは 「井戸Qの水を飲んでいた人」は確かにコレラに罹っていた 「井戸Qの水以外の水を飲んでいた人」もコレラに罹っていた の 2点でした。1.はスノー医師の仮説と一致します。2.は一致しません。しかし、ここもホワイトヘッド副牧師の偉いところなのですが、「井戸Qの水を飲んでいないのにコレラに罹った」人の調査をしたのです。その結果、恐ろしいことが判明したのです。「井戸Qの水を飲んでいない」と言っていた家族の話を良く聞いてみると、それら家族の「水汲み仕事」は「子供達の仕事」で、生き残った子供達に聞くと、「井戸Qの水を飲んでいない」と言っていた家族も実際には子供達が「井戸Qの水」を汲んでいました。「井戸Qの水を飲んでいない」と言っていた家族でコレラを発症した人も、実は子供達が汲んできた井戸Qの水を飲んでいたことがわかったのです。 これで、謎が解明されました。 実際にホワイトヘッド副牧師が計算してみると、井戸Qの水を飲んでいなかった人のコレラ発症率は1/10だったのです。 ホワイトヘッド副牧師が見つけた、コレラ井戸Q原因説を裏付ける「証拠」 井戸Qの水が怪しいことは解りましたが、元々ホワイトヘッド副牧師もこの井戸Qの水を好んで飲んでいたのです。井戸Qの水は、澄んでいて人気がありました。その井戸Qの水が、ある日を境にコレラ発症原因になると言われても合点がいきません。しかも井戸Qは、すでにロンドンの舗道委員会が調べていて、壊れてもいないし、井戸水を汚すような汚水が流れ込むような構造ではないことも確かめていたのです。 汚染されていない井戸水が急にコレラの原因になるなら、地下水からコレラの原因が湧き出たのでしょうか? 変です。ホワイトヘッド副牧師は困ってしまいました。スノー医師の言う「コレラ井戸Q原因説」を裏付ける証拠がないのです。 しかし、その「解答」は、なんと、スノー医師の論文から得られたのです。 スノー医師は「コレラ患者の何らかの排泄物が井戸Qに入り込んだ可能性」と「平常時の井戸Qの水は何も問題が無いこと」を論文に記していました。ホワイトヘッド副牧師は「コレラ患者の何らかの排泄物が井戸Qに入り込んだ可能性」を調べるために、原点に戻ってコレラ発症歴を見直しました。 ソーホー街のコレラは、前回紹介したように「1854年8月28日、午前6時、ソーホーブロードストリート40番地に住むルイス家の赤ん坊が嘔吐と下痢をし始めたのが始まり」でした。 ホワイトヘッド副牧師はそのルイス家に赴き、赤ん坊がコレラに罹ったときの状況を母親から聞き出しました。コレラに罹った赤ん坊の便で汚れたおしめを洗った水を井戸Qの横にあった「汚水溜め」に流したことを突き止めたのです。 井戸Qがやはり怪しいと思ったホワイトヘッド副牧師ですが、すでに井戸は調査され、問題無いとされています。ここで普通の人なら止まってしまいますが、彼は普通の人ではなかったのです。 ホワイトヘッド副牧師が悩んでいたちょうどこの時、スノー医師が論文を持ってきました。それには「井戸Qの水は外的要因でコレラの原因物質が入り込んだのではないか?」という推論が書かれていました。 それを読んだホワイトヘッド副牧師は「井戸Q」と井戸Qの側にある「汚水溜め(最初にコレラに罹ったルイス家の赤ん坊のおしめを洗った水を捨てた場所)」との関係に思い至ったのです。そして、これが凄いのですが、実際に汚水溜めと井戸Qの両方を同時に調べたのです。こういうところが、常人と違います。調べたら、恐ろしいことがわかりました。汚水溜めには裂け目があり、貯まった汚染水が井戸Qに染み出していたのです。 これで全ての輪がつながりました。スノー医師の「推論」が確かめられたのです。長年にわたって飲まれていた「井戸Qの水」自体に問題はなかったのです。汚水溜めと井戸Qを結ぶ「裂け目」がソーホー街にコレラが蔓延した原因であり、井戸Qの閉鎖でコレラが収束した要因でした。 汚水溜めの使用を止めて、汚水溜めを修復して、井戸Qに汚水が流れないようにすれば、井戸Qの水は普通に飲めたのです。スノー医師の推論を、その原因まで確かめたホワイトヘッド副牧師の功績は大きいのです。 これは以前も紹介したスノー医師が書いた「コレラによる死亡者をプロットした地図」です。この地図はスノー医師の苦心の賜物です。どこそこに何名と書いていたら平面的で解りづらいので、死亡者の数に応じて黒いマスを増やしたのです。こうすることで、どこでどれだけのコレラ死亡者がいたかが、直感的にわかるようになったのです。平面的理解を立体的に、直感的にわかるような地図を考案したのです。こうすることで井戸Qの側ではコレラ死亡者が多いこと、井戸Qの側だけれど死亡者が少ない施設(救貧院、ビール工場)が誰にでも解るようになったのです。 そしてそれを裏付けたのが、くどいようですが、ホワイトヘッド副牧師です。地元のことを熟知し、皆に好かれていたホワイトヘッド副牧師がいてこそ、「疫学の始まり」である「ソーホー街コレラの収束」が歴史に残ったのです。ホワイトヘッド副牧師は医学を学んだことはありません。だから予断を持たないで冷静に分析できたのかもしれないです。 この文章を書いている時点でCOVID-19の収束はまったく見えません。2020-07-24で世界中のCOVID-19感染者は1500万人を越えています。「コレラからコロナを考えようという」主題で文章を書き始めたのが、2020年の2月でした。現代の「スノー医師」「ホワイトヘッド副牧師」が現れて鮮やかにCOVID-19を収束させて欲しいと心より思いつつ、この主題で検討は終えたいと思います。 個人的には引き続き情報を集めて、検討を続けます。いつの日か笑顔で「COVID-19」の収束について書くことができれば良いなと思っています。 なお、今さまざまな「専門家」の方がCOVID-19について、研究、検討、疫学、治療法の確立、ワクチン開発、治療薬の開発などを行っています。実は「新しく現れた病気の専門家(平たく言えばCOVID-19の予防法、治療法、的確な診断方法など全般に通じている方)」はまだいません。 誰でもできる予防方法をいくつか列挙します。参考になれば幸いです。 COVID-19 誰でもできる予防方法 手を洗う。 コロナウイルス(正確にはSARS-CoV-2)が人体に入る箇所は3つあります。 (1)口 (2)鼻 (3)目 の3箇所です。手をできるだけ口より上に持っていかないことが必要です。もちろん目が痒くなったり、鼻がむずがゆくなったりするでしょう。その際は、きっちりと手の消毒(アルコール or 石けん)を行ってから、手を目や鼻、口元へ持っていきましょう。これだけで随分と違います。 コロナウイルス(SARS-CoV-2)は感染すると唾液に大量に現れます。他人の唾液が自分の目、鼻、口に飛ばないようにすることが必要です。無症状感染者(SARS-CoV-2を排出しているが発症していない)も多いので、自覚症状は無くても自分の唾液が他人に飛ばないようマスクをしましょう。会食するときはできるだけ横並びで食べるようにしましょう。向かい合って食べる場合、唾液が飛ばないように注意しましょう。 糖尿病、高血圧など持病の治療を受けることも必要です。COVID-19はサイトカインストームという全身の反応を起こすと重症化します。血管に障害を生じやすい糖尿病、高血圧などの治療がきちんとなされていない状態でCOVID-19に罹ると重症化しやすいので、現在治療中の方はぜひ主治医と相談してください。 喫煙している方はこれを機会に禁煙をしてください。喫煙者は非喫煙者に比して約2倍、COVID-19に罹りやすく、罹った場合の死亡率も非喫煙者に比して高くなります。 いわゆる「夜の街」では、喫煙、アルコール多飲、唾液が飛びやすいなどの条件が重なりやすいので注意が必要だと思います。 以上です。 1人1人の自覚で予防できることがあります。COVID-19が収まるまで頑張りましょう。 余談 コレラ菌はロベルト・コッホが発見したと思われていましたが、イタリア人医師フィリッポ・パチーニ(Filippo Pacini、1812年-1883年)の方が先にコレラの原因菌を発見し、「Vibrio cholerae」と名付けていました。論文にしたのが1854年です(文献9,10)。1884年にロベルト・コッホがコレラの原因菌を発見する30年前です。1854年はソーホー街でスノー医師、ホワイトヘッド副牧師がコレラを制圧した年でもあります。コレラの歴史で1854年は特別ですね。 コレラ菌の学名は、当初コッホが命名した「Vibrio comma」が使われていましたが、イタリア人医師フィリッポ・パチーニが先に見つけていたことがわかり、現在の正式名称は「Vibrio cholerae」となっています。 ちなみに「Vibrio」とはラテン語で「動き回る」を意味します。コレラ菌はよく動くのです。 パチーニが作ったコレラ菌の標本(University of Florence, Museum of natural History, Biomedical section所蔵)に書いてある言語はイタリア語です。イタリア語の解読についてはフランス在住の言語学者小島剛一氏よりご教示いただきました。氏に拠りますと「判読できない文字があるため正確な翻訳はできませんが、大体次のような内容になる」そうです。なお、「ʃ」は「s」の古い筆記体とのことです。 1.左側の筆記体の文字 Colera →コレラ Aʃiatico →「アジア系の」 Oʃʃerva□□ →観察□□ 2.中央の上の活字 Metodo di Filippo Pacini →フィリッポ・パチーニの手法 3.右側の筆記体の文字 Corroʃioni ʃuperficiali della mucoʃa della parte media de l’inteʃtino tenue →小腸の中央部の粘膜の表層部の浸蝕 【参考文献】 野村裕江 (著)「江戸時代後期における京・江戸間のコレラ病の伝播」地理学報告 79巻 p1~20 スティーヴン・ジョンソン (著)「感染地図」河出書房新社 (2007年刊) Isabel Rosanoff Plesset著Noguchi and His Patrons Fairleigh Dickinson Univ Pr (1980/10/1) 邦訳もあります。 ウェンディ・ムーア (著)、 矢野 真千子 (翻訳)「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」河出文庫、2013年 Frerichs RR et al. Nepalese origin of cholera epidemic in Haiti. Clin Microbiol Infect. 2012 Jun;18(6):E158-63. 石 弘之 「感染症の世界史」角川ソフィア文庫 金森修 「病魔という悪の物語(チフスのメアリー)」ちくまプリマー新書 2006年 Long QXら、Clinical and Immunological Assessment of Asymptomatic SARS-CoV-2 Infections。 Nat Med. 2020 Jun 18. doi: 10.1038/s41591-020-0965-6. Filippo Pacini:Osservazioni microscopiche e deduzioni patologiche sul cholera asiatico. Gaz Med Ital Toscana. 1854; 6: 397-405 D Lippi:The greatest steps towards the discovery of Vibrio cholerae、Clin Microbiol Infect . 2014 Mar;20(3):191-5 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/07/27 45年という短い人生で多種多様なことを成し遂げたスノー医師 前回より続きます。 1854年8月のロンドン、ソーホー街でのコレラを収束させたスノー医師とホワイトヘッド副牧師の話です。 最初にスノー医師を紹介します。 スノー医師は、45年という短い人生で多種多様なことを成し遂げています。苦労人というか、たたき上げです。いわゆるエリートではありません。 スノー医師は、ヨークシャーの労働者の長男として生まれます。14歳の時にニューカッスル・アボン・タインの外科医に弟子入りします、この外科医修行中に1831年のイギリスコレラ禍を体験。コレラを研究する契機になったとされています。 当時のイギリスで「医師」になるには3つの方法がありました。 薬剤師に弟子入りし、薬剤師協会から「医者の処方する薬を処方することや簡単な外科処置を行うことができる」許可を得て医業を開業する方法 薬剤師さん+αのような職業形態があったのですね。 医学校に進学、王立外科医師会の認可を得て「一般開業医」「外科医」の資格を得る方法 大学に進学し、「医学博士」の称号を得て「内科医」の資格を得る方法 の3つです。もちろん3.が一番良いのですが、簡単では無いです。費用もかかります。 スノーは最初に外科医に弟子入り、次に2.を選択、ハンテリアン医学校に進学「薬剤師」と「外科医」の資格を得て、ロンドンでクリニックを開業します。彼は無口で愛想も悪かったのですが、病気の観察力には優れたものがあり、患者さんが多く訪れるようになり、経済的に成功します。 彼はそれだけでは収まらず、26歳から医学論文を書き始め、最初の論文は「LANCET」に掲載されています。以後、10年にわたり毎年平均5編の論文を投稿しています。天然痘、血管病、猩紅熱など内容は多岐にわたっていました。さらに上を目指し、30歳にしてロンドン大学で「医学士」の学位を取得、翌年難関の「医学博士試験」に合格しています。念願の「内科医」の資格を得たのです。1844年のことです。 普通ならここで終わりですが、彼は更に別なことにチャレンジします。それは「麻酔」です。 麻酔は色々とその創始者について言われています。歯科医師であるホーレス・ウェルズ、歯科医師であるウィリアム・T・G・モートン及び、医師のロングです。加えれば、日本人医師華岡青洲も創始者かもしれません。ここでは深入りしません。論文で確かめられるのはクロウフォード・ウィリアムソン・ロング(Crawford Williamson Long、1815年-1878年)です。彼が世界で最初に全身麻酔を行っています。1842年3月30日のことです。ジョージア州ジェファーソンという街でのことです。患者ジェイムズ・M・ベナブルの頸部腫瘤を、エーテルガスを用いた全身麻酔を行って、ロングは切除しました。そのことを後に論文にしています。 その後、エーテル、笑気、クロロホルムなどが「全身麻酔」に使われるようになりました。その全身麻酔の創始期にスノー医師は居合わせたのです。ガスによる全身麻酔は、今でも何故「効くのか」わかっていません。不思議な話です。 それはともかく、当時、様々なガスによる全身麻酔が最初はアメリカから、そして世界中に広まります。そういう時代にスノー医師は「全身麻酔」を積極的に取り入れました。当時、エーテル、笑気、クロロホルムなどのガスが使われましたが、どういう濃度のガスを使えば効果的か不明でした。スノー医師はこの濃度を研究したのです。 スノー医師がなした麻酔学への貢献を挙げます。 エーテルは温度に影響されるので室温とエーテル濃度の関係を明らかにしました。 エーテル濃度を調整する器具を作成しました。 1947年、32歳で世界最初の「麻酔専門医」になっています。 そしてエーテルやクロロホルムも使用した麻酔を英国に広めます。ついには当時のビクトリア女王の出産の麻酔を依頼されるようにまでなっています。凄いですね。 彼は麻酔に関する実験は全て自分を使っていました。自分で自分に麻酔をかけています。危ないですね。彼は自宅に動物をたくさん飼っていました。動物を使って実験し、自分にも様々な濃度の麻酔をかけて、どれくらいで麻酔が効くか、その持続時間はどれくらいか調べていたのですね。意識が無くなる直前に時間を記し、意識が戻った時間を記し、どういう麻酔が1番効くか実験していたのです。彼の学んだハンテリアン医学校の創始者、ジョン・ハンターに似ています。というか、ハンターの教えを忠実に守ったのでしょう。 スノー医師が行ったコレラの「実地調査」と「統計調査」 普通の医師なら、王室に出入りできるようになったら、それで満足します。しかし、彼は満足しません。今度は、徒弟時代に経験した「コレラ」を研究することにしたのです。スノーは「多能」で「勤勉」でした。スノー医師の多能さがロンドン市民を救うことになったのです。 スノー医師が行ったのはコレラの「実地調査」と「統計調査」です。 「実地調査」とはコレラの流行った地域、場所を調べること、その場所の「水道、下水道、ゴミ、etc. 」の状態を調べることです。 「統計調査」とは、コレラの発症人数、多発する地域、多発する季節などを調べることを指します。 ここでも「記録」が物を言います。ロンドンにはそういう調査記録があったのです。 それを分析し、どうやらコレラ患者はロンドン市の南には少ないこと、空気の良い上流階級が住む高地でもコレラが発症することなどから「コレラは水を介して伝染する」と気づき、そのことを1849年に「コレラの伝播様式について」という論文にし、自費出版しています。 麻酔医として働きながらの研究です。凄いことだと思います。元々は「外科医」でそれから「内科医」とない、世界初の「麻酔科専門医」となり、麻酔科医としてとても忙しく働きながら、夜には時間を作ってコレラの研究も行っていたのです。「二兎を追う者は一兎をも得ず」と言いますが、彼には当てはまらなかったのです。 この論文から5年が経った、1854年、ロンドン、ソーホー街でコレラが流行り始めます。 最初は1854年8月28日、午前6時、ソーホーブロードストリート40番地に住むルイス家の赤ん坊が嘔吐と下痢をし始めたのが、コレラの始まりでした。汚れたおしめを洗った水をブロードストリートにある「汚水溜め」に流したのです。こういう「記録」が残っていたのです。この赤ん坊から始まるロンドンソーホー街のコレラの発症状態、発症場所、発症した家族の状態などが記録されていたのです。後にこれが役立ちます。 さて、話は戻ります。 ソーホー街はスノー医師のクリニックのすぐ側です。当然、スノー医師はこれらの「実地調査」を行います。彼の予想に反して、ソーホー街で使っている水はきれいでした。スノー医師も「あれ?おかしい? 水はきれいだ?」と思ったことでしょう。ソーホー街で使われている井戸水を自宅研究所に持ち帰り、顕微鏡で見たりもしていますが、何もわかりませんでした。 しかし、ソーホー街にあったある井戸Q(仮称)に彼は注目します。 ソーホー街にある貧しい人が暮らす救貧院ではコレラが発症していないこと 同じくソーホー街にあるビール工場の職員にはコレラが発症していないこと 「ある井戸Qの水」を飲んでいる人にコレラが多く発症していること 美味しい水と評判だった井戸Qの水を遠くまで届けている家があり、届けた先でコレラが発症していること ビール工場、救貧院には自前の井戸があり、井戸Qを使っていなかったこと などがスノー医師には解ったのです。もとより「コレラは水を介して伝染する」と主張していたスノー医師は、ソーホー街の教区役員会に「井戸Qの使用禁止、井戸Qの閉鎖」を提案。 1854年9月8日、この井戸Qは閉鎖され、使われなくなったのです。 その後、ソーホー街でのコレラ患者は激減したでしょうか?それとも逆に増えたのでしょうか? ホワイトヘッド副牧師の役割はなんだったのでしょう。 以下、次号続く。。長くなり、申し訳ないです。 【参考文献】 野村裕江著 「江戸時代後期における京・江戸間のコレラ病の伝播」地理学報告 79巻 p1~20 スティーヴン・ジョンソン (著)「感染地図」河出書房新社 Isabel Rosanoff Plesset著Noguchi and His Patrons Fairleigh Dickinson Univ Pr (1980/10/1) 邦訳もあります。 ウェンディ・ムーア (著), 矢野 真千子 (翻訳)「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」河出文庫 Frerichs RR et al. Nepalese origin of cholera epidemic in Haiti. Clin Microbiol Infect. 2012 Jun;18(6):E158-63. 石弘之「感染症の世界史」角川ソフィア文庫 金森修「病魔という悪の物語(チフスのメアリー)」ちくまプリマー新書 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/07/13 記録の大切さを考えよう 病気の広がり、発症要因を探るのが「疫学」です。疫学とは違いますが、皆さんが医療機関を受診すると、以下のようなことを聞かれるかと思います。 最初に「どうしました?どういう症状があるのですか?」と聞かれますね。その後、 いつから症状が出ましたか? どういうときに症状が出ますか? 食事と関係がありますか? 天気、気温などで症状が変わりますか? 痛みが出るなら、どういう痛みですか? 外国旅行をしたことがありますか?あるなら,どこの国でしょうか? 他に、病気の治療を受けていますか? これまでに他の病気にかかったことがありますか? 何か、特別なモノを食べなかったでしょうか? など、根掘り葉掘り話を聞かれると思います。これを「病歴」と言います。 病歴をきちんと聞き出すのが医療の基本です。上記1-7のような「病気の歴史」を聞き出すのが病歴です。オスラー医師(William Osler, 1849- 1919)は、 "Listen to the patient. He is telling you the diagnosis" 「患者さんの言葉を良く聞きなさい。患者さんは、あなたに診断を告げている」 という有名な言葉を残しています。 ノーベル賞受賞者のバーナードラウン医師の著「治せる医師、治せない医師」にも病歴を聞くことの大切さが繰り返し述べられています。 病歴を聞き出すことは「疫学」に似ています。いつから、どのように、どういう時に、を聞き出すのは患者さんを「疫学」していると言っても過言では無いと思います。逆に言えば「疫学とは“病気の病歴”を聞いている」のだと思っています。それには「記録」が必要です。 「記録が語りかける病歴を聞き出すのが疫学だ」 「病気が語りかける病歴を聞き出すのが疫学だ」 とも言えます。 今、様々なことで、「記録」が話題になっています。医師にとって「記録」をしないことはあり得ないので「記録を残す、残さない」という議論自体が不毛だと思っています。ちなみにカルテ(医療記録全般)には5年間の保存義務があります。 病歴には“歴史”の“歴”の字が入っています。さて、歴史とはなんでしょうか? 古くからある記録を紐解いて、その時代に何が起こっていたかを解き明かす学問です。 古くからある記録の内で、わかりやすいのは文字による記録です。文字が無い時代の記録は「当時使われていた道具」でしょう。道具から色々なことを推測できます。 それはともかく、COVID-19が蔓延している今、様々な記録を残すことが必須だと思います。捨てて良い記録などあり得ません。くどいようですが、COVID-19についてわかっていることはまだ少ないのです。わかっていないことを分析するには記録が必要です。今現在起こっていることを丁寧に記録することが将来の分析に必須です。記録がなければ何も考察ができないからです。 前回示した「各国別の死亡率の違い」も、その違いを合理的に説明できる理由がわかるまでは分析を続けることが必要です。 理由が判明するまで、まだ時間がかかりそうです。こういうときは、すべての記録を残すことが基本で、記録が残っていればいくらでも検討できます。記録をしないで、記憶だけで物事の検討、検証はできません。COVID-19のような感染症を考察するには医療記録だけでは足りません。様々な記録が必要です。「どんな記録が必要か必要でないかは後世が判断すること」です。 「健康保菌者」という概念の始まり COVID-19の話から外れます。 記録がいかに大切かを端的に示す例をお示ししましょう。一見すると病気とは関係のない記録が病気の分析治療予防に役立った顕著な例です。これを読めば「どんな記録も必要」ということがわかると思います。 それは「チフスのマリー」と称された「チフス菌保菌者」発見に関する話です。 1906年ニューヨークに隣接するロングアイランド市でチフスが発生しました。この時、チフスの原因を究明したのが衛生工学の専門家ジョージ・ソーパー(George Albert Soper, II 1870-1948)でした。 彼は医学を学んだ専門家ではありません。元は土木技術者です。主に水道関係の専門家でした。水道を整備することで多くの感染症が減ったからでしょうか?彼は衛生の担当者になります。そして1906年当時このチフスの発生原因追求を依頼されています。彼はチフスが発生した家の周囲の水道、河川、湖、周りの土地を徹底的に調べたのですがどこからもチフス菌は発見できません。 ソーパーが次に行ったことは、チフスが発生した家の方からの聞き取り調査です。そこでわかったことは、その家で雇った賄婦メアリー(Mary Mallon、1869-1938)のことでした。メアリーが来てからチフスが発症したのです。 そこでソーパーはメアリーの「職歴」を調査しました。くどいようですが病歴の調査と一緒ですね。メアリーの職歴はきちんと残っていました。彼女は10年間に8家族に雇われ、そのうちなんと7家族でチフスが発症していたのです。 それに気づいたソーパーはメアリーに彼女の糞便、尿、血液を検査することを頼みましたが、これは断られています。これは当然だと思います。いきなり糞便やら尿やらを調べさせろと言われても、びっくりしてしまいますね。 メアリーはチフスを発症していません。彼女は「健康保菌者」だったのです。メアリーは排便後に良く手を洗わないこともあり、その手で調理をしていたので料理にチフス菌が付いて、それを食べた人が「チフス」を発症したのです。 当時、健康保菌者という概念はありません。結局彼女は、その後の生涯のほとんど20数年間をニューヨークの沖合にあった病院で過ごすことになります。 メアリーからすれば、彼女は健康ですので、なぜ幽閉されなければいけないのかわからなかったと思います。かわいそうな話です。彼女は「チフスのメアリー」というあまりありがたくない名前を与えられ、ソーパーと共に医学の歴史に名前が残りました。 この話から色々な教訓が得られると思います。 当時のアメリカの職歴の素晴らしさです。 メアリーの職歴が残っていなければ、チフスはさらに広がっていたことと思います。私がCOVID-19のことで、色々な記録すべてを残すことを提案しているのはこういうことがあるからです。 COVID-19でも話題になっている「健康保菌者」という概念がここから始まりました。 メアリーの時代から100年は経っていますが、今でも健康保菌者をどうしたらいいかと いうのはコンセンサスが得られていません。COVID-19でも同様です。中国や韓国では、 PCRでSARS-CoV-2が陽性だと、症状が出ていない人をホテルなどに強制的に収容しまし た。日本でももちろん同様な措置を取るようにホテルなどを用意しましたが強制力はな くその効果は疑問視されています。PCR検査を「症状が無い人」に行うことにも議論があります。難しい話です。 病気が発症した時、その病気の経過広がりを調べることで病気の原因を発見する可能性があります。 これはよく覚えておいたほうがいいと思います。医療に関係無い方の方がかえって、物事をフラットに見ることができるのかもしれないです。 1854年、ロンドンのソーホーでコレラが流行った時も「記録をとり続けた人」「記録を分析する人」がいて初めて収束しました。とにかく記録がないと何もわからないのです。 さて、1854年8月のロンドン、ソーホー街でのコレラを収束させたスノー医師とホワイトヘッド副牧師の話に移りましょう。 ジョン・スノー医師(John Snow:1813年-1858年:享年45歳) ホワイトヘッド副牧師(Henry Whitehead:1825年 - 1896年:享年60歳) の2人です。 スノー医師とホワイトヘッド副牧師は、育った場所も学歴も職歴もかけ離れています。コレラが無ければ、2人の人生は交差することも無く、医学の歴史に名を残すことも無かったでしょう。 スノー医師ばかり名前が取り上げられますが、ホワイトヘッド副牧師がいて初めてコレラ収束のピースが埋まるのです。 2020年6月16日、TVでスノー医師が紹介されていましたが、やはりホワイトヘッド副牧師は紹介されていなかったと思います。気がついた時はテレビの番組は終わりかけていました。番組はスノー医師を取り上げていたのは確かです。慌てて写真を撮ったのですが、なぜかナイチンゲールの話になっていました。 次回では最初にスノー医師を紹介します。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/06/29 病原性細菌の発見競争の始まり 前回より続きます。 「コレラからコロナを考えよう」という主旨で書いています。 前々回でコッホが細菌を発見し、コッホの4原則を確立したことをお伝えしました。 コッホが細菌により「病気」が生じることを発見してから、ゴールドラッシュのような「病原性細菌の発見競争」が始まり、実に多くの病原性細菌が見つかりました。 少しだけ挙げてみましょう。 炭疽菌:1876年にコッホが発見した病原性細菌です。世界で最初に見つかった「病原性細菌」です。 結核菌:同じくコッホが1882年3月24日に発見(発表)しています。コッホが結核の研究を開始したのは1881年8月18日であり、結核菌の発見の講演を1882年3月24日にを行ったのです。 コレラ菌:本シリーズで扱っている菌です。1883年にコッホが発見、病原性を確かめています。しかし、1854年:イタリア人医師フィリッポ・パチーニが先に発見していたため、現在、コレラ菌の学名はパチーニ医師が命名した「V. cholerae」に改名されました。 腸チフス菌:1880年:カールエルベルトが発見 ジフテリア菌:1883年クレプスE.Klebsが発見、1884年レフラーが培養に成功 破傷風菌:1889年にエミール・フォン・ベーリングと北里柴三郎が培養に成功 赤痢:1898年、志賀潔が発見、赤痢菌の学名は “Shigella”です。「シガ」に由来します。 ペスト:1594年、北里柴三郎とアレクサンドル・イェルサン(Alexandre Yersin)が同時期に香港で発見、北里柴三郎はLancetに論文を投稿、1894年6月14日に掲載。その翌週、アレクサンドル・イェルサンもフランスのパスツール研究所年報に論文を発表。北里柴三郎が本来の第一発見者で、現在ではそれも認められていますが、残念なことにペスト菌の学名はイェルサンの名前が入った「Yersinia pestis」となってしまいました(参考:医療の挑戦者たち(35)ペスト菌の発見4(北里柴三郎)- テルモ株式会社)。 黄色ブドウ球菌:黄色ブドウ球菌(Staphylococcus aureus )は、歴史的にはKoch(1878年)が膿汁中に発見し、Pasteur(1880年)が培養に成功したとされています。 連鎖球菌;1873年にJoseph Listerが、酸乳から「バクテリウム ラクチス」を発見。これが連鎖球菌族発見の嚆矢だとされています。 Joseph Listerは消毒法の発見者です。 ほかにも、数多くの「病原性細菌」が発見されています。今も、発見されています。最近の有名どころでは、なんといっても「ピロリ菌」でしょう。 以下は余談中の余談です。読み飛ばしてください。 結核菌の発見は3月24日です。昔々、仲の良かった女性の誕生日が3月24日でした。その日に彼女と食事を共にしました。 彼女曰く「今日は何の日か覚えている?わかる?」 私「今日はね、、、。 あ、そうだ。コッホが結核菌を発見した日だ!」 彼女「。。。。。。。。。。」 黙ってしまいました。 もちろん、わかっていて、冗談で言ったのですが、しばらく口を利いてもらえませんでした。冗談でも言って良いことと悪いことがある。時と場合によるのです。。皆様も、是非注意を。。 今も昔も変わらない感染症対策 前回で物理の話を書きました。患者さんと接触しない、距離を保つ、密にならないことでCOVID-19の感染を防ぐのです。 図1 図1は1656年にペストがイタリアで流行した時に描かれた医師の姿です。 くちばしのようなものは今でいうマスクですね。ペストに罹患した患者さんを診察する時につけていたのです。患者さんの話を聞く際、あまり近づくと、ペストに感染しやすいと感覚的にわかっていたのでしょう。 また、長いマントのような服も身にまとっています。これは今で言う感染防御衣でしょう。ペストには「腺ペスト」と「肺ペスト」があり、一般にペストというとリンパ管を冒す「腺ペスト」です。腺ペストは、ネズミ→ノミ→人間という経路で感染が広がります。「腺ペスト」にかかった患者さんのリンパ管から漏れる体液からも感染します。 つまり、ノミ、体液から医師の身を守るため、大仰にも思える服が必要だったのです。ペスト菌が発見されたのは、それから300年後のことです。香港で見つかっています。上述しました。 下の写真2は、今回フランスが配っているマスクです、日本のアベノマスクと違い様々な形状のマスクがあるそうです。中には1656年のペストの時に医師がつけているくちばしのような「マスク」に似ているモノもあるようです。 写真2:フランスで配られたマスク 下に今使われている、感染防御衣を示しました。 写真3:感染防御衣 やっていることは300年前と少しも変わりません。というわけで今も昔も似たようなことやっています。 一昔前までは、医療機関で金銭授受をする窓口、鉄道で切符を購入する窓口など、ガラス張りの仕切りがありその下に小さな金銭授受窓口が備えてあるのが普通でした(写真4)。 「結核」を初めとする感染対策、泥棒対策だと言われています。段々とこのような仕切りのある窓口は減り、仕切りがない窓口が普通になってきていました。しかし、COVID-19対策で、窓口にはビニールのすだれが普通になり、金銭やりとりをする部分もアクリル板などで仕切られるようになってきました。以前のカタチに戻りつつあります。この流れは、一時的ではなく恒久的になると予想します。 写真4:国鉄時代の切符窓口 COVID-19とコレラの大きな違い さて、COVID-19の話に戻りましょう。COVID-19はコレラと大きな違いがあります。コレラと違って、国や地域で罹患率、死亡率が大幅に違うのです。 人口あたりの新型コロナウイルス死者数の推移【国別】 (札幌医科大学医学部 附属フロンティア医学研究所 ゲノム医科学部門) https://web.sapmed.ac.jp/canmol/coronavirus/death.html 国内でも罹患率がかなり違います。現時点(2020-06-21)で、岩手県ではCOVID-19に罹った人ゼロです。東京とは随分と違います。 下に各国別の、人口1,000,000人当たりの死亡数(2020-06-10時点)と平均年齢を示します。 国の横にある数字が死亡数、緑文字はその国の平均年齢です。平均年齢はあの有名なCIAのデータです(https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/343rank.html)。こんなデータもCIAは分析しているのですね。 ベルギー:831 (41歳) イギリス:602 (41歳) スペイン:586 (44歳) イタリア:563 (45歳) スウェーデン:475(41歳) フランス:449 (42歳) オランダ:353 (43歳) アメリカ:345 (39歳) カナダ:209 (42歳) ドイツ:105 (47歳) イラン:101 (32歳) ******** 以下、死亡率が低い国を示します ******** イラク:11 (21歳) 日本:7 (47歳) 韓国:5 (43歳) シンガポール:4 (35歳) ニュージーランド:4(37歳) オーストラリア:4 (37歳) 中国:3 (38歳) 香港:3 (45歳) 台湾:0.3 (42歳) モンゴル:0 (29歳) ベトナム:0 (31歳) 日本とベルギーでは100倍以上、台湾とベルギーでは2700倍も死亡率が違います。モンゴル、ベトナムに至っては死亡者ゼロですが、平均年齢が若いからでしょうか? 台湾はCOVID-19発症初期から、徹底した対策をとったことで有名です。最初に、阿鼻叫喚状態だった中国もいつの間にか日本より死亡率が低くなっています。総じて東アジア諸国は低いのです。一方、悲惨なのはヨーロッパと北米です。 COVID-19のように、地域差、国による死亡率が違う病気はあまりありません。この差が出ている原因を探るのが「疫学」の目的の1つです。死亡率に差が生じる原因がわかれば対策をとることができるかもしれません。そこで、今回のCOVID-19死亡率差を説明すべく様々な仮説が唱えられています。 アジア人はCOVID-19に対する免疫力が高いという人種説、地域による気候風土原因説、温度説、湿度説、紫外線の照射量説なども「仮説」として出ています。BCGを継続して接種している国は死亡率が低いのでBCG仮説が有力です。しかし、今のところ、どの説もまだまだ検証が必要です。まだ、この病気が見つかってから、半年も経っていません。わからないことだらけです。いつの日か「これだ!」と言う説が検証され、COVID-19予防、COVID-19治療に役立てば良いですね。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/06/08 コレラ菌混じりの糞尿を飲んでしまったロンドン市民 ロンドンにコレラが流行した頃、ほとんどの「病気」の原因は不明でした。「コレラ」もコレラと命名されていましたが原因は不明でした。当時、伝染病が流行る原因として以下の2つが考えられていました。 (1)瘴気説:空気中に漂う瘴気(しょうき)が病気を広げるとする説 ヒポクラテス以来、唱えられていた説です。 現代ならば空気感染ですね。あまり知られてはいないですが、空気感染(飛沫核感染)する病気は3つしかありません。結核、水痘、麻疹の3つです。飛沫感染と飛沫核感染(=空気感染)は別物です。COVID-19は飛沫感染だと言われています。 (2)コンタギオン説:病気にかかった患者と接触することで、未知の何かが健常者に乗り移り病気を広げるという説 元はイタリア人科学者、哲学者、医師のジローラモ・フラカストーロ(1478-1553年)が唱えた説です。 病気はある種の何か「contagium vivim, contagium animatum:注:ラテン語 contagiumは病気を伝染するモノ、vivimは生き物、animatumは生き物」によって伝染するという説です。ジローラモは梅毒を「syphilis」と命名、「シフィリスとフランス病」という本を出しています。梅毒がヒトからヒトへと「伝染する」ことがジローラモには解っていたのでしょう。 この2つが考えられていて、以下のような対策が取られていました。 (1)瘴気予防対策 瘴気による病気の伝染対策として「瘴気」に触れないように、空気がきれいな場所に住む。瘴気が蔓延しないように部屋などの換気を良くする。よどんだ空気の中に身を置かないなどが予防法として知られていました。 (2)コンタギオン予防対策 病気にかかった人との接触をできるだけ避ける。病気に罹った人の使ったものを使わない、触らないなどの方法がとられました。 あれ?当時の瘴気予防対策もコンタギオン予防対策も「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)」に対する対策とまったく一緒です。今でも通用する感染症対策です。 しかし、残念なことに「コレラ」にはこれらの対策は無効でした。 1840年代ロンドンでコレラが流行した時、ロンドン衛生責任者「チャドウィック(Chadwick, Sir Edwin:1800-1890)」は「瘴気」がロンドンに蔓延しないように対策を立てました。 チャドウィックはコレラが発症している地域の下水、汚水つまり糞尿から瘴気が立ち上ると考え、下水をテムズ川に大量に押し流したのです。糞尿を大量にテムズ川に流したことでコレラが流行っていた地域の「糞尿の匂い」は消え、同時に「瘴気」も少なくなり、コレラが減ると思われたのですが、ロンドンでは逆にコレラに罹る人が急増したのです。 今ならさしずめコレラが「急増:オーバーシュート」したのです。 さてコレラ急増の原因はなんだったのでしょうか?答は簡単です。現代のように下水を処理してテムズ川に流したわけではありません。糞尿をそのままテムズ川に流したのです。かなり臭かったでしょうね。 当時のロンドンの上水道(つまり飲み水)はテムズ川の水を利用していました。当時、水を消毒するという概念はありません。テムズ川の水をそのまま取水し、それを飲んでいたのです。。 問題は水の採取場所です。当時のロンドンにはいくつか水道会社がありました。そのうち数社は糞尿を流した場所よりも下流でテムズ川の水を採取していたのです。つまりコレラ菌の交じった糞尿混じりの水を飲用に供していたのです。 その結果、ロンドンでコレラが「急増」したのです。当時のロンドン衛生責任者、チャドウィックには何が何だか解らなかったと思います。 図1:手書き図 テムズ川と上下水道 図1は当時のテムズ川の採水場所と下水の廃棄場所を図示してみました。 「ああ、これはひどい」と私たちが思うのは現代に生きる我々には「病原体と病気との関係」が解っているからです。 「病原体と病気との関係」を世界で初めて明らかにしたのは、フランスの化学者ルイパスツールです。 ルイパスツールは「白鳥の首フラスコ」による実験を行い、微生物が腐敗を生じさせることを証明しました。 普通のフラスコに入れた肉汁を一度熱し、そのまま放置すればたちまち肉汁は腐敗します。腐敗した肉汁のなかには微生物がたくさんいるのが観察されていましたが、この微生物がどこから来るのか不明でした。自然に発生するとする説、空気から微生物が運ばれてくるという説があり、どちらが正しいか解っていなかったのです。 そんな時代にパスツールは図2のようなフラスコを作り、中に「肉汁」を入れ、加熱します。 図2:白鳥の首フラスコ この白鳥のような形状をしたフラスコ内の肉汁は加熱後腐敗しなかったのです。つまり空気と接しないと微生物(=細菌)はフラスコ内に入り込めないのですね。これを発表したのが1859年。パスツールは「微生物」とだけ記しています。科学史に残る偉大な発見です。 次に登場したのがドイツ人医師コッホです。コッホが細菌感染症と細菌との関係を明らかにしたのです。 1876年、炭疽症の原因が炭疽菌であることを証明。コッホは結核菌(1882年3月24日)、コレラ菌(1883年)を発見しています。コッホの弟子は、破傷風菌(北里柴三郎)、ジフテリア菌(レフラー)、腸チフス菌(ガフキー)、赤痢菌(志賀潔)など多くの病原菌を発見しています。まさに「コッホの時代」が到来、感染症治療の大きな転換点です。 コッホは「ある微生物」が本当に「病気の原因菌」となっているかどうかの判定するために以下の原則を、1884年に提案します。「コッホの4原則」です。 原則1:ある一定の病気には、一定の微生物が見出されること 原則2:その微生物を分離できること 原則3:分離した微生物を、感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こさせうること 原則4:そしてその病巣部から、同じ微生物が分離されること 以上です。今でも通用する原則です。 次回に続く。いよいよ前々回ご紹介したコレラの流行をたったの10日で止めたスノー医師とホワイトヘッド副牧師が活躍します。 【参考文献】 文献1:野村裕江著 「江戸時代後期における京・江戸間のコレラ病の伝播」 地理学報告 79巻 p1~20 文献2:スティーヴン・ジョンソン(著)「感染地図」河出書房新社 文献3:Isabel Rosanoff Plesset著Noguchi and His Patrons Fairleigh Dickinson Univ Pr (1980/10/1) 邦訳もあります。 文献4:ウェンディ・ムーア(著),「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」河出文庫、2013年 矢野 真千子(翻訳) 文献5:Frerichs RR et al. Nepalese origin of cholera epidemic in Haiti. Clin Microbiol Infect. 2012 Jun;18(6):E158-63. 文献6:石 弘之 「感染症の世界史」洋泉社 2014年 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/05/25 物理と化学で伝染病に立ち向かおう この原稿は、2020年5月10日に書いています。ゴールデンウィーク中の「自粛」が終わり、少しずつ人出が戻っています。日本では段々とCOVID-19の発症数、死亡数が減少しています。早く収束に向かって欲しいですね。 「コレラからコロナを考えよう」という主旨で前回よりお伝えしています。そうしたら、なんと、本稿を書いていた2020年5月4日に、兵庫県丹波市の歴史を調査する「氷上郷土史研究会」の方が、同市内円通寺のふすまや屏風の下張り文書を調べていたら、その中に1877年(明治10)に流行していたコレラに関する県や内務省の通達文書を見つけた」という新聞記事を見つけました(140年前「コレラ」との闘い 通達文書発見、新型コロナと共通点多く 恐怖に震えた日本人 2020/05/04 丹波新聞)。 その「明治10年のコレラに関する通達文書」に “国境に入る他国人を、各一、検査し、コレラ病あるものは、これを適宜に所置すべきである。” “表見、健康の人たりとも、この毒を輸致することあるがゆえに、これを以て、十全の予防法とすること能はず。” と書かれているのだそうです。これはまさに今の 「ロックダウン」「患者隔離」 「無症候SARS-CoV-2ウイルスキャリアが存在することに対する注意」 と一緒です。 本稿を書き始めたとき、まさかこのような資料が出てくるとは思っていませんでした。絶対的予防法、治療法が無い「伝染病」に対する対処法は100年前も今も変わらないことがわかります。 COVID-19の原因ウイルスは「SARS-CoV-2」だとわかっていますが、原因ウイルスがわかっていても根本的な対処法はまだ見つかっていません。 現時点で医学の面から試みられている治療法、予防法は以下のごとくです。 順不同です。さまざまな試みがなされています。 1. ステロイド吸入:オルベスコ® ARDS治療? 2. 抗マラリア薬:ヒドロキシクロロキン:プラケニル® 3. 抗ウイルス薬: (1)ファビピラビル:アビガン® (2)レムデシビル:ベクルリー® (3)オセルタミビル:タミフル® (4)ザナミビル:リレンザ® (5)ロピナビル/リトナビル配合剤(カレトラ®) (6)リバビリン:レベトール®、コペガス® 4. 抗生物質:マクロライド系抗生物質:アジスロマイシン®など 5. 抗寄生虫薬:イベルメクチン:ストロメクトール® 6. 向精神薬:クロルプロマジン:コントミン® など 7. ニコチン:? 機序不明? 8. 膵炎治療薬:ナファモスタット:フサン® 9. 抗IL-6受容体抗体:トシリズマブ(アクテムラ®)、サリルマブ(ケブザラ®) サイトカインストーム治療 10. ビタミンC 11. ビタミンD 12. 漢方: 補中益気湯、十全大補湯 清肺排毒湯=麻杏甘石湯+小柴胡湯加桔梗石膏+胃苓湯 など… 13. ヘパリン:COVID-19の凝固異常に対して投与 14. ステロイド投与:サイトカインストーム ARDS対策 15. シルディナフィル:バイアグラ® NO産生 でARDS予防? 16. BCG接種:COVID-19を予防? 17. ワクチン:各種ワクチンは開発途上 18. γグロブリン製剤投与 19. 回復後患者さんの血清投与:効果あり、ただし、入手困難 20. インターフェロン投与 21. 女性ホルモン投与:エストロゲン、プロゲステロンなど、治験中 22. 人工呼吸器:呼吸不全治療 23. ECMO:呼吸不全治療 これらの単独、併用、さまざまです。一番良いのは「ワクチン」ができることですが、ワクチンの有効性、安全性を確認するには数年かかると思います。ワクチンができても、ワクチンを否定する人々も結構多いので、いずれそれが問題になると予想します。 例えば、世界的テニスプレーヤーのジョコビッチはワクチン否定論者で、COVID-19に対するワクチンができても「受けない」と言っていますね。 テニス界のスーパースターが「反ワクチン派」の悩み明かす 2020/04/24(ローリングストーン ジャパン) https://rollingstonejapan.com/articles/detail/33722 ジョコビッチが新型コロナウイルスのワクチン接種義務化に反対の意向 2020/04/21(テニスマガジンONLINE) https://tennismagazine.jp/_ct/17358515 他人事ではありません。日本でも子宮頸がん予防ワクチン(HPVワクチン)の接種率が0.6%と先進国の中では最低です。先進国では60-70%の接種率です。日本は先進国なのでしょうか?ほかの「先進国では子宮頸がんが劇的に減っています」が、日本は減っていません。ワクチンについては色々と考えることがあります。 さて、治療法も予防法も確立されていない「COVID-19」の治療、予防はどうしたらよいでしょうか?特に予防はCOVID-19のワクチンができるまでは、どうやら医学の出番はなく、「化学(ばけがく)」と「物理学」を駆使しての予防が有効です。 化学とは大げさですが、石けんやエタノールなどの消毒薬で手や触れた(る)箇所を清潔に保つことを指します。石けんやエタノールはSARS-CoV-2ウイルスの皮膜(エンベロープ)を破壊するのでウイルスとして作用ができなくなります。エンベロープは脂質(油)でできているので界面活性剤である石けん、エタノールで破壊されるのです。 物理学も大げさですが、他人との距離をとる。ソーシャルディスタンス、3密(密接、密封、密集)を避けること、およびマスクで唾液が飛散することを防ぐこと、などすべて物理学の応用です。 きちんとした予防法が確立されるまでは化学、物理の力を頼りましょう。 4月上旬のこと、TVでニューヨークの病院風景を放映していました。次から次にCOVID-19に罹患した患者さんが担ぎ込まれ、人工呼吸器がつけられ、しかしそれでもどんどんお亡くなりになって遺体安置所が一杯になり、冷凍トラックが病院に横付けされ、そのトラックの冷凍庫に御遺体が運ばれています。病院内に安置する場所さえなくなっているのだと思います。 その先はどうするのでしょう。細菌は宿主がお亡くなりになると細菌も死滅します。ウイルスは違います。宿主がお亡くなりなってもウイルスは存します。それ故に遺族の方も最後のお別れができません。志村けんさんがお亡くなりなった時、このことが広く知れ渡りました。 ブラジル、ニューヨークでは重機で掘った穴に御遺体の多くを埋葬しています。 火葬にできないほど多くの方がお亡くなりになっているか、宗教上の理由で火葬を選択しない方も多いのでしょう。 日本の火葬率は99.9%ですが、2018年イギリス火葬協会発行の資料によればアメリカ52%、英国イギリス77%、独62%、仏40%、伊24%、露10%、台湾97%、韓国84%、タイ80% です。なんとなく火葬率が低い国にCOVID-19による死者が多いような気がします。疫学すればなにか解るかもしれません。 いずれにしてもニューヨークやブラジルの土葬風景は現代の風景とは思えないです。以前勤めていた病院で同僚だったK先生が、今、ニューヨークの病院(BI病院)でCOVID-19患者さんの治療に当たっています。「凄惨」としか表現できないそうです。日本は一時的には収束にむかうかもしれませんが、今冬にどうなるか楽観できないです。 さてコレラの話に戻ります。「罹ったら数日で死んでしまう原因不明の病、死病」が流行ったら、戸惑い、逃げ惑うでしょう。逃げても逃げた先で同じ病気が流行るかもしれません。結局どうしたらよいか解らずに右往左往するしかありません。1854年ロンドンがまさにこの状態でした。当時のロンドンもコレラによる死亡者が相次ぎ、屍体運搬馬車に屍体が乗り切らず、馬車の屋根の上に重ねていたのです。現代のニューヨークの風景と一緒です。 次回はこのコレラから感染症について考えていきます。 【参考文献】 文献1:野村裕江著 「江戸時代後期における京・江戸間のコレラ病の伝播」 地理学報告 79巻 p1~20 文献2:スティーヴン・ジョンソン(著)「感染地図」河出書房新社 文献3:Isabel Rosanoff Plesset著Noguchi and His Patrons Fairleigh Dickinson Univ Pr (1980/10/1) 邦訳もあります。 文献4:ウェンディ・ムーア(著),「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」河出文庫、2013年 矢野 真千子(翻訳) 文献5:Frerichs RR et al. Nepalese origin of cholera epidemic in Haiti. Clin Microbiol Infect. 2012 Jun;18(6):E158-63. 文献6:石 弘之 「感染症の世界史」洋泉社 2014年 今(2020年4月)、アマゾンで見たら凄い値段になっていました。どうしたのでしょう。と思ったら、この本を歴史家の磯田道史氏が2020年4月の月刊文藝春秋で紹介したからだと思い至りました。歴史の専門家である磯田氏が感染症を考えるにはこの本が良いと紹介しています。このために古本市場で値段が急騰したのでしょう。幸い、この本は文庫にもなっています(角川ソフィア文庫)。磯田氏が言うように「病原体vs人間」の戦いの歴史の基本を知ることができます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/04/27 今、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界中に広まり大変なことになっています。この感染症の原因ウイルスは「SARS-CoV-2」と命名されました。SARS(severe acute respiratory syndrome)の原因ウイルスは「SARS-CoV」です。名前は似ていますが、「SARS-CoV-2」は「SARS-CoV」の子孫ではありません。別のウイルスです。 それはともかく、今回のCOVID-19を考えるのに最適な映画があります。それは2011年の米国映画「コンテイジョン "Contagion"」(注:contagion=伝染病)です。 Amazon Prime Videoなどで見ることができます。新しい伝染病が出現した時、 どのように対処するのか? どのように対処すべきか? アメリカのCDC(Centers for Disease Control and Prevention:疾病予防管理センター)はどのように伝染病に対処しているか? アメリカのCDCとはそもそも何か? CDCは何をやっているのか? CDCと米軍の関係はどうなっているか? WHOはどうやって関与するか? などがよくわかります。 感染症とは関係無いですが、この映画の俳優陣は豪華です。 マリオン・コティヤール:エディット・ピアフ~愛の讃歌~でアカデミー賞 マット・デイモン:『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』でアカデミー脚本賞 グウィネス・パルトロー:『恋におちたシェイクスピア』でアカデミー賞主演女優賞 ケイト・ウィンスレット:愛を読むひとで アカデミー賞主演女優賞 ローレンス・フィッシュバーン:『TINA ティナ』でアカデミー主演男優賞候補 ジュード・ロウ;『リプリー』でアカデミー助演男優賞候補 多くのアカデミー賞俳優が出演しています。この中の誰かが主人公という訳ではありません。主人公は「病原体」です。映画の最後はかなり衝撃的で見るとかなり「ぎょっ」とします。 今回の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)を予言したような映画です。ぜひご覧ください。 なお、この映画で重要な役割を演じた世界一の美女とも称される女優のグウィネス・パルトローはCOVID-19について注意を呼びかけています。 人類は多種多様な「感染症」に苦しめられてきた 人類は多種多様な「感染症」に苦しめられてきました。病原体に対抗する手段を持っていなかったからです。人類が最初に手にした感染症に対する武器は「ワクチン」でした。 ワクチンの始まりはジェンナーが天然痘予防のために発明した「種痘」です(1796年)。種痘は世界中にあっという間に広まり、ついに1977年に天然痘という人類を苦しめた病が地球上から消えました。素晴らしいことです。人類vs感染症の戦いの歴史で勝ったのはこれだけです。小児麻痺もようやく地球上から消滅しそうですが、まだどうなるか解りません。 ワクチンの次に手にした武器はサルファ剤(プロトンジル)でした。その後もペニシリンを初めとする抗生物質、抗結核薬、抗ウイルス薬、抗寄生虫薬など様々な武器を手にして「感染症」に対峙してきました。 しかし細菌やウイルスは「耐性」や「変異」という武器を手にして人類に刃向かっています。 人口の増加と共に普通では住めなかったような場所に住めるようになったこと、多くの家畜を飼うようになったことから、今度は「人畜共通感染症」という「病(やまい)」に悩まされるようになりました。元々動物にしかいない細菌やウイルスが人間にも感染するようになったのです。SARS-CoV-2も「コウモリ」に元からいるウイルスだと言われています。 話は逸れます。なぜコウモリなのでしょう。いくつか仮説はあります。 コウモリは哺乳類であること(鳥類ではありません) コウモリの個体数は全哺乳類の20%と多いこと コウモリは長生きすること(約30年) コウモリは不潔?なところに生息すること 土地開発に伴い、人類がコウモリと接する機会が多くなったこと などが挙げられます。恐らく上のすべてが関与するのだと思います。 話を戻します。 歴史上、天然痘、ペスト、コレラ、麻疹、マラリア、結核、エイズ、風疹、インフルエンザ(スペイン風邪)etc.多くの感染症により人類は苦しめられてきました。前述の如く、人類はそれに対する治療法、予防法を手に入れて戦ってきました。人類と感染症と戦いに関する物語はたくさんあります。そのほとんどは負け戦の物語です。下図に日本人の平均寿命を示します。 古い時代の日本人の寿命 平均寿命5歳平均余命 時代男女男女 縄文時代14.614.621.922.0 室町時代15.217.323.1 江戸時代40.042.0 ※注:単位は「歳」、江戸時代は14地域の平均 ※資料:鈴木隆雄(1996)「日本人のからだ―健康・身体データ集」 室町時代まで日本人の平均寿命は10代です。折角産まれても様々な感染症にかかり長生きすることはできなかったのです。そんな中、細菌に対して鮮やかな勝利を収めた物語があります。それも「細菌」「ウイルス」が見つかる前の話です。 話はまたまたそれます。 いま1000円札には野口英世の肖像が使われています。細菌学を勉強した時、その教科書に野口英世の名前はありませんでした。野口は「黄熱病」の研究で有名ですが、野口の黄熱病に関する研究や論文はすべて「間違い」です。 黄熱病はウイルスが原因です。野口英世が生きた時代、ウイルスを見ることができる電子顕微鏡はありません。野口に黄熱病ウイルスが見えたわけも無く野口英世の「黄熱病に関する論文すべてが間違っていたこと」がわかっています(文献3)。それゆえに野口英世の黄熱病対策は的外れでした。 事程左様に感染症との戦いは簡単ではありません。野口英世の業績のうち数個は今も評価されています。いずれ野口英世に関しては良い面、悪い面、野口英世の手はどうなっていたか、手の手術は上手くいっていたのか?などを考察したいと思います。 話を戻します。今回次回は、ロンドンで起きたコレラ禍を鮮やかな手法で制圧した物語を紹介します(主に文献2によります)。ロンドンコレラ禍を制圧した手法から「疫学」が発展しました。今にも通じる話です。 コレラがロンドンに蔓延した時 まずコレラのパンデミック史を簡単に紹介します。 コレラは、これまでに解っているだけで7回パンデミック(世界的流行)を起こしています。7回のうち、有名なのは第3回目のパンデミックです。これはロンドンを直撃し、ロンドンで多数の死者がでます。1852年のことです。 ちなみに日本でもコレラは江戸時代、1822年、1858年と2回にわたって大流行しています(文献1)。コレラはかかるとあっという間に死んでしまう病気です。感染すると3-4日で死亡します。日本では、それゆえに「3日コロリ」と称されていました。自分が刻一刻とあの世に近づいていくのを目の当たりにしながら死んでいく病気とも言われます。 コレラはインドに古来より存在したと思われる病気です。コレラと思われる記載がある文献がインドには紀元前からあるので、そのように予測されるのです。 1493年にコロンブス御一行が世界中にあっという間に広めた「病気」と違ってコレラはインドからロンドンにはなかなか広がりませんでした。コレラにかかるとあっという間に死亡するからです。航海中、ずっとコレラにかかっている船員などいなかったのです。しかし東西の往来が進んだ結果、ついに1832年ロンドンにもコレラは上陸、2万人の死者を出しました。 あっという間に死亡する「コレラ」はとても恐ろしい病気です。コレラはコレラ菌(英語:Vibrio cholerae、学名はVibrio cholera pacini Pacini 1854)を含んだ飲食物を摂取することにより発症することがコッホによって明らかになったのは1884年のことです。 さて、第3回コレラパンデミックとなった1854年のコレラ禍がなぜ有名なのでしょうか?それはこの年のロンドンのソーホー街におけるコレラ禍が、ある医師とある副牧師の「共同作業」によりあっという間(2週間)に「収束」したからです。 医師の名前は「ジョンスノー(John Snow、1813-1858)」 副牧師の名前は「ホワイトヘッド(Henry Whitehead、1825-1896)」です。 彼らの共同作業は後に昇華して「疫学」という学問になり、この2人の名前は医学の歴史に燦然として輝いています。疫学は「集団を対象にして統計学を用いて疾病の原因や傾向を明らかにする学問」です。元は伝染病だけが対象でした。今はすべての疾患に「疫学」による分析が行われています。 ジョン・スノーはハンテリアン医学校出身です。ハンテリアン医学校出身ということで何か、思い出しませんか?ハンテリアン医学校はハンター兄弟が起こした学校です。弟のジョン・ハンター(John Hunter、1728-1793)のことは以前紹介しました(参考記事:110:ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない 血管疾患(4))。 ジョン・スノーはハンタ-から直接学んだ訳ではありませんが、ハンテリアン医学校で はジョン・ハンターの教えが伝わっていたと思います(文献4)。その教えは、 「自分の頭で考えよ」 「常に疑問を持ち、自分の頭で考える外科医をそだてることが必要」 「世の定説は、真の知識というより単なる信仰に基づいている。定説を改めようとするのは定説の誤りを認めて得意になりたいからではなく、自分たちの無知を認めて改めるためである」 「確立された教義に疑問を持ち自分の頭で考えよ」 というモノです。ちなみに種痘のジェンナーはジョン・ハンターの家に住み込んで学んだ文字通りの直弟子です。 ジョン・ハンター一門は、実に多くの人を助ける方法を発明、発見しています。元はこのジョン・ハンターの教えが素晴らしいからでしょう。今でも通用する不変的な思考法だと思います。 下図はロンドンのソーホー街のコレラ発症者が住んでいた場所をプロットした地図です。死者が出た家は濃く印されています。 黒い点がコレラを発症した患者が住んでいる(いた)地点です。地図を見ると患者の多い場所と少ない場所がはっきりとわかります。これを冷静に分析した結果、それまでの定説「瘴気(しょうき)によりコレラは伝播する」を覆し、コレラ伝播の予防法を確立、この年以降、ロンドンでコレラの蔓延を防ぐことができるようになったのです。 ジョン・スノーは、ジョン・ハンターの教え通り、「自分の頭で考え確立された定説を覆した」のです。この地図は病気に「正しく」対処することの大切さを教えてくれます。 自分でCOVID-19に関するデータを収集し、疫学してみる COVID-19の原因ウイルスは判明していますが、それでもCOVID-19を封じ込める方法は定まらず、日本も世界も困っています。それを考えるとコレラの原因となる「細菌」が解っていない時代にコレラの流行を防いだ彼らから学ぶことは多いと思います。 COVID-19の発生場所、患者の年令、性別、発生時期、発生した場所の気候etc.を分析すればCOVID-19が流行る原因、流行る地域がわかるかもしれません。 私も集めたデータからCOVID-19を疫学してみました。 私の予測は次の3点です。1.2.はこの原稿を書き始めた時点(2020/3-1の予想)での予想。3.は2020-04-25時点での予想です。 日本ではCOVID-19は大流行しない オーストリア、スイス、フィンランド、イタリア、デンマーク、ドイツ、米国、中近東、南米では大流行する 西アフリカ,中部アフリカで大流行しない の2つです。数年後、この予測が当たったかどうかわかると思います。 皆さんも、自分でCOVID-19に関するデータを収集し、疫学してみることをお勧めします。 2つほど、誰でもできるCOVID-19分析法を紹介しましょう。 COVID-19分析法その1:論文を調べる ちなみにPUBMEDで「novel coronavirus 2020」で検索すると、2020-04-17の時点で1200編の論文が掲載されています。中国からの論文が圧倒的に多いですね。 PUBMED「novel coronavirus 2020」 https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/?term=novel+coronavirus+2020 NEJM、LANCET、NATURE、JAMAなどの雑誌に載っている新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関する情報を読んでみると面白いです。英語でかかれていますが今はGoogle先生の力を借りれば読むことができます。 なお、COVID-19に関する論文の多くは特例によりfree article となっています。つまりタダで読めるのです。こんなことは稀です。一流雑誌に掲載された論文をリアルタイムにタダで読める機会など滅多にありません。ぜひ読んでみてください。 COVID-19分析法その2:国別、発症数を調べる 以下のサイトなどをご覧ください。 COVID-19 Dashboard https://gisanddata.maps.arcgis.com/apps/opsdashboard/index.html#/bda7594740fd40299423467b48e9ecf6 COVID-19 Virus Pandemic https://www.worldometers.info/coronavirus/ こういう資料を見て考えてみましょう。 次回に続く。 大切な余話: コレラなんて古い病気と思うでしょうが、今でもアフリカ、東南アジアでは流行しています。時に大流行をおこします。直近で有名なのは、2010年、ハイチでの大流行でしょう。これは大地震で壊滅したハイチに派遣されたネパールの国連平和維持活動(PKO)部隊が持ち込んだコレラが原因でした。ハイチではそのために70万人が感染し、8000人以上が死亡しています(文献5)。ハイチの人びとにとっては、大地震に加えてコレラが流行り、文字通り「泣き面に蜂」だったと思います。 【参考文献】 文献1:野村裕江(著)「江戸時代後期における京・江戸間のコレラ病の伝播」地理学報告 79巻 p1~20 文献2:スティーヴン・ジョンソン (著)「感染地図」河出書房新社、2007年刊 翻訳は矢野真千子さんです。矢野さんの翻訳本に「外れ」はありません。多分、翻訳しても読むべき本を選んでいるのでしょう。翻訳も日本語として熟れているので読みやすく、すっと頭に入ってきます。本書も同様です。ぜひ、お読みください。 文献3:Isabel Rosanoff Plesset(著)Noguchi and His Patrons Fairleigh Dickinson Univ Pr 、1980/10/1 邦訳もあります。 文献4:ウェンディ・ムーア (著)「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」河出文庫、2013年 矢野 真千子(翻訳) 文献5:Frerichs RR et al. Nepalese origin of cholera epidemic in Haiti. Clin Microbiol Infect. 2012 Jun;18(6):E158-63. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/04/13 前回、前々回に続き、今まで車を運転してきて学んだ色んなことをお話しします。今回は認知症の方に車をぶつけられたこと、救急治療で経験した交通事故のことです。 13:認知症と交通事故 認知症の方に車をぶつけられたことがあります。 細い道での出来事です。細い道なので、ゆっくりと車を走らせていたら、横の道から出てきた車に追突されました。車の後部です。問題はその後でした。 運転していたのは、かなり高齢な方でした。車を降りて、事故について話をしようと思ったのですがまったく普通の会話が成り立ちませんでした。しかもすぐに逃げてしまったのです。 とっさに車のナンバーを記録して、警察に通報しました。警察が調べてくれ運転していた方がわかりました。しかし「事故なんか起こしていない」と言い張っているとのことでした。認知症が進行していて、警官や家族とも会話が成り立たず、困ったそうです。その後、どうなったか知りません。車の損傷は軽微で外傷も負いませんでしたが認知症の方の運転は怖いですね。 日本は高齢化社会が一気に進んでいます。認知症ドライバー対策が必要です。 「認知症の方に免許証を取らせない」ようにすれば良いのではないかと誰しもが考えますが、それは無理です。免許を更新する際に「認知症の診断」はできないのです。当たり前ですが、免許センターには認知症専門医がいるわけではありません。対策は後述します。 なお、話は違いますが運転を止めると認知症が発症することもあります。あるいは認知症が一気に進むという報告もあります。認知症予防のために100歳まで運転できるようにしようと考えている会社、研究者もいます。こういう取り組みは良いですね。 『CAR GRAPHIC』9月号発売 操ることを科学する、MT車特集(Web CG) マツダ神社藤原大明神新春大降臨祭・03(日経ビジネス) 14:心臓病で事故を起こすことも 心臓病で事故を起こした方を2例、診療したことがあります。 Aさん(50代男性)は、階段から転落して私が勤めていた病院に搬送されてきました。 外傷性急性硬膜下血腫で手術を受けました。入院中、心電図モニターで「脈がおかしい」とのことで脳神経外科の先生から相談されました。心電図記録をみると典型的な「2度の房室ブロック」それもモビッツ(Mobitz)型という怖いカタチの房室ブロックです(ちなみに房室ブロックは1度から3度まであります)。 2型房室ブロックの心電図をお目にかけましょう。いきなり心臓が止まるのがわかりますでしょうか? この方は7秒位心臓が止まっています。3秒以上心臓が止まると「意識消失」が生じます。不整脈が原因で意識消失を生じることを「Adams‐Stokes発作」と言います。 この方はトラックの運転手さんでした。よく聞いたら(これが大切)、これまでに何回も交通事故を起こしているとのことでした。幸い人身事故は起きていませんでした。運転中に「Adams‐Stokes発作」が生じていたのです。 こういう方の治療は「ペースメーカー植え込み」です。この方にもペースメーカーを植え込み以降、Adams‐Stokes発作は生じませんでした。ペースメーカーを移植すればこういう病気の方も普通に運転ができます。 Bさん(60代女性)は、あり得ないような交通事故を起こして搬送されてきました。自分が運転する車を自宅駐車場のブロック塀にぶつけ、ブロック塀は倒れてしまいました。それくらいの勢いでぶつけたのです。 救急当番だったので、診察したら脈が変でした。心電図モニターで確認したら「2度の房室ブロック」それもモビッツ(Mobitz)型です。Aさんと一緒です。何度も心臓が止まっていました。 Aさんと違ったのは「永久的ペースメーカー植え込みを拒否したこと」です。頑として、首を振りません。勝手に退院してしまいました。20年くらい前の話です。結局、また事故を起こして搬送されてきました。しかし、また勝手に退院してしまいました。その後は知りません。 今なら「一定の病気に係る免許の可否等の運用基準」(PDF)が定まっているので、警察に通報します。ペースメーカーを入れることを承諾しないなら、免許が失効させられるでしょう。それなら多分、ペースメーカー植え込みを承諾するでしょうね。 なお、さまざまな病気(心臓病、てんかん、大動脈疾患、脳血管疾患)による悲惨な交通事故が報道されます。病気の適切な治療により、このような悲惨な交通事故は、全てでは無いですが、予防が可能です。 15:これまで経験した交通事故の方の診療で一番可哀想だった患者さんのこと 自動車会社の従業員の方の事故です。この方が事故を起こしたわけではありません。お客さんが同社の車に試乗運転をしていた時にブレーキとアクセルを踏み間違え立木に激突、この社員は多発外傷を負い救急搬送されてきました。 運転をしていた女性(60代後半)は軽症でしたが、同乗していた車会社の若い社員の方はほぼ即死状態でした。立木にぶつかったのは助手席側だったのです。奥さん、小さなお子さんと会社の方が駆けつけて来ましたが言葉の掛けようがありませんでした。家族の方の慟哭を今でも思い出します。 「試乗する時は、よく運転操作を習った方が良い」 と思いました。 16:海外での交通事故 ニューヨークで学会があった時に乗ったタクシーが事故を起こしたことがあります。 空港からホテルまでイエローキャブに乗ったのですが、随分と荒い運転をしていました。「怖いなあ」と思ったら、案の定、衝突事故を起こしてしまいました。 ドライバー同士で喧嘩が始まりました。その間、2時間くらいタクシー内で待っていました。とても怖かったです。 こんな「事故」も自分では避けようが無いですね。 「どうしようも無い、避けられないことが交通事故でもある」 そういうことを実感しました。 このようにあれこれと交通事故から考えることがあります。 車は便利です。しかし、さまざまな事故が生じ得ます。自分でできるリスク管理はした方が良いですね。 自分でできるリスク回避をあげてみましょう。 飲酒運転は絶対にしない スピードを出しすぎない 雨の日には慎重に運転を 運転中はスマホの操作をしない 運転中にTVは見ない etc. できることはたくさんあります。皆さんもお考えください。 社会的にできるのでは無いかと思っていることが2つあります。 すべての車に衝突被害軽減ブレーキを義務づける (実際、2021年1月から新車に対してそういう装置の装着が義務づけられます) あえて衝突被害軽減ブレーキの無い車を運転するなら高額の保険金が被害者に降りるような自動車保険の加入を義務づける の2点です。最近のボルボの新車には、全ての車に、衝突被害軽減ブレーキがついています。スウェーデンは交通事故死ゼロを目指しています。「Vision Zero」と言う政策です。ボルボもそれに応じているのですね。 すべての車にそういう装置が付くに数十年かかると思います。技術が進歩すれば、古い車にも簡単にそういう装置を後付けで装着させることもできるようになると思います。そういう社会になることを促進させるために上記2.のような施策をとるべきだと思っています。 政策を変えるのは大変です。夢物語だと思うかも知れませんが身近にそういうことをなさった方がいます。 私の手術した患者さんは家族が悲惨な交通事故(泥酔運転)に巻き込まれたのを機に国の法律を変える運動を全国的に起こして実際に法律が変わりました。 その患者さんはそれまで特別な社会運動をしたことが無い方でした。しかし交通事故を機に「社会を変える必要がある」「このままではまた犠牲者がでる」という強い思いを持ち、全国を行脚して回り、同志を募り、国会議員を動かし法律を変えたのです。 強い思いがあり、行動力があり、説得力があると、社会が変わるかも知れないという良い例です。いつか、ご紹介したいと思います。 2つ医学的な話を追加します。 1:13日の金曜日には交通事故が増えるという医学論文があります。 1)Is Friday the 13th bad for your health? イギリス BMJ. 1993 Dec 18-25;307(6919):1584-6. 13日の金曜日には普通の日に比して52%も事故が増すのだそうです。 2)Traffic deaths and superstition on Friday the 13th. フィンランド Am J Psychiatry. 2002 Dec;159(12):2110-1. 13日の金曜日には男性1.28倍、女性2.25も交通事故が増えるのだそうです。 キリスト教徒は、13日の金曜日に車を運転する時、過度に緊張するのだろうと推論されています。そういうわけで、13日の金曜日にキリスト教徒が多い国に滞在するときは少し注意が必要です。 2:高齢化社会と運転にまつわる大切な話 高齢者の運転操作ミスによる事故が時々報道されます。逆走、アクセルとブレーキの踏み間違え、などです。上述の如く、衝突被害軽減ブレーキ装着者や自動運転が普及すればかなりそういう事故は減ると思います。 しかしMAZDAはマニュアル車が認知症予防になるという仮定?の元にあえてマニュアル車を作り続けています。面白い試みです。マニュアル車だと手と足をずっと動かす必要があります。確かに認知症予防になるのかもしれません。都会では車の運転をする機会が多くありませんが地方では車の運転が死活問題になります。車の運転を止めた途端に認知症が進行することは多くの医師が経験することです。日本認知症予防学会理事長の浦上克哉先生も「運転時認知障害の早期発見による認知症予防と安全運転」と題し日本自動車工業会の雑誌(平成28年10月15日特集 高齢化社会と交通安全:JAMAGAZINE(PDF))でも同様なことを記しています。 認知症と運転関係はこれから吃緊の問題だと思います。 さらに大切?な話: 地域により「Y県ルール」「M市ルール」「NA走り」「Iダッシュ」という独特なルールがありこれらの地域で運転するには特別な注意が必要です。もちろん間違いです。Y県や某M市だけ、道路交通法が違う訳ではありません。しかし、これらの地域で車の運転をする時には注意が必要です。あまり良いことでは無いです。 ブランド総合研究所が2019年に初めて行った住民視点で地域の課題を明らかにする「地域版SDGs調査」によると、 交通マナーが悪いと自分達が思う県は 1位 徳島県 13.5% 2位 香川県 9.6% 2位 福岡県 9.6% 交通マナーが悪いと思うのが少ない県は 1位 鹿児島県 2.3% 2位 青森県 3.0% 3位 長崎県 3.8% です。県で随分と違うのですね。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/03/30 前回に続き、運転から学んだ色んなことをお話しします。人生危機一髪のことがあるものです。 6:車を運転中、二車線の道路で対向車が私の運転する車の前に現れたこと 大学時代2回目に経験した事故です。自分が起こした事故ではありません。 これは衝撃的でした。今でもこの時のことを思い出すと「ぞっと」します。 ある日の夜中に鳥取から米子に向けて車を走らせていた時のことです。真正面から車が向かってくるのに気づきました。私が走っていたのは、もちろん左側の車線です。二車線しか無い国道です。同じ車線を真正面から車が向かって来たのです。どんどん近づいてきます。この場面を今でも、まざまざと、思い出します。 このままなら、正面衝突します。対向車は猛スピードで近づいてきます。私はスピードを落とし、どうするか、考えました(ほんの一瞬のことですが)。左は水田です。右は対向車線です。運良く対向車線に車は走っていませんでした。クラクションを鳴らす余裕もライトをパッシングする余裕もありませんでした。結局、前から向かってくる対向車とぶつかる寸前右にハンドルを切り対向車線に逃げました。対向車は私の車の左をすり抜け、そのまま水田へ落下していきました。 車を止めて、水田に落下した車を見に行きました。運転していた方は車から脱出していました。水田のすぐ脇にあった農家の方が出てきて何やら猛烈に怒鳴っていました。水田に落下した車を運転していた方は泥酔していました。酔っ払い運転をして、さらに眠ってしまって対向車線を走ってしまったのです。この時、学んだのは、 「人生危機一髪のことがある」 そういうことでした。あの時、ハンドルを左に切っていたら、あるいは対向車が私の車に気づいて元の車線に戻ったら、対向車の後ろに車がいたら等、考えると今でも「ぞっと」します。 7:遮断機のない踏切 これは私自身の事故経験ではありませんが、大学時代に経験した「事故」です。 大学時代、湖山池という湖のほとりに下宿していました。ヨットの無料練習所が下宿のすぐ側にあり、時々、ヨット操作の講習を受けていました。その練習所に行く途中に遮断機の無い「踏切」がありました。踏切警報機だけの小さな踏切です。 ある日、悲惨な事故が起きました。ヨット練習所のインストラクターだった女性が運転する車がその踏切で列車と衝突し、そのインストラクターの方はお亡くなりになってしまったのです。それ以後、なんとなく、そこに通わなくなりました。踏切が怖いのです。 「遮断機のない踏切は気を付けよう」 と思いました。 医師になってからも、交通事故を見たり、交通事故で搬送されてきた患者さんを診たり、自分でも交通事故を起こしたことがあります。いくつかあげます。 8:高性能スポーツカーでもろくなことが起きない 千葉県の救急病院の当直明けで家に帰るため京葉道路を東京に向かって走っていた時のことです。 日曜日の早朝です。当直明けで疲れていたので制限時速を守って走っていました。その横を外国製の有名スポーツカーが猛烈なスピードで走り抜けていきました。「危ないな、この先に急カーブがあるのに……」と思いつつ走っていたら、追い越していったスポーツカーが、案の定、事故を起こし逆さまになって転がっていました。多分スピードが出過ぎていたので曲がりきれずに高速道路の壁にぶつかったのです。 事故直後です。今なら絶対にしませんが、高速道路上で車を止め(注:今でも一般道路なら話は別です。救護します)、ドライバーの救護を行おうと思いました。 車を降り、スポーツカーから体が半分飛び出ていたドライバーに声をかけました。応答はありません。顔がこちらを向いているので近づいてよく見たら、顔と体が逆になっていました。多分、即死です。携帯電話などない時代ですから京葉道路を降りて、警察に連絡をしました。この時の体と逆になった「顔」はしばらく忘れられませんでした。この時、学んだのは 「スピードを出しすぎると高性能スポーツカーでもろくなことが起きない」 ということです。 9:冬の橋の上は慎重に 3次救急診療を行っている病院に30年以上勤めました。交通事故を起こして搬送されてきた患者さんをたくさん診ました。冬の交通事故はスリップによる事故が多いのですが、結構な数のスリップ事故が橋の上で生じていることに気づきました。 橋は、当たり前ですが、下が空間です。橋はそのために地表の温度以下になることが稀ならずあります。道路は乾いていると思って走っていても橋の上は違います。橋の上は凍っていることも多いのです。何例か橋の上でスリップして交通事故を起こした方を多数見てから、 「冬に橋の上を運転するときは慎重に運転することが必要」 だと思うようになりました。 10:人生危機一髪のことがある 同僚だった先生の経験談です。 「高速道路で自分の前を走行していた大型トラックのタイヤが外れてそのタイヤが転がってきた」 「タイヤは自分の運転している車に向かってきた」 「とっさに避けたけれど避けきれず、助手席側の車半分が潰れてしまった」 「運転席側だったら自分は死んでいた」 誰にでも「人生危機一髪のことがある」のです。 11:自分で起こした交通事故 恥ずかしい話ですが、1回だけ、自分でも大事故を起こしたことがあります。夏のある日、中央自動車道を走っていた時のことです。 中央自動車道は長いトンネル、曲がったトンネルが多いです。ある長いトンネルに入る前、少し雨が降っていました。当たり前ですがトンネル内は雨が降っていません、水たまりもありません。時速100kmくらいで走っていました。そして、トンネルを出たら、そこは雪国ではなく土砂降りの雨でした。バケツの底をひっくり返したような雨です。おまけに大きな水たまりができていて、水たまりに入った瞬間、突然車のコントロールを失いました。 ハイドロプレーニング現象です。ブレーキも一切、効きませんでした。あっという間に車は、ガンガンガンガンと音を立てながら、右側のガードレールにぶつかりました。 ぶつかっている時、「もうダメだ。もうお終いだ」と思いました。 人生で一番怖かった瞬間です。こういう時、人生が走馬灯のように思い出されると言いますが、正にその通りでした。色んなことが一瞬に思い起こされました。 幸い後続車はありませんでした。衝突してもしばらく車は動いたので路肩に車を寄せて、車を降りてみると車は悲惨なことになっていました。警察に連絡し、事情聴取を受けた後、大破した車はレッカーで移動させられました。体の方は、多少の打撲で済みました。この事故で学んだのは 「長いトンネル前後では気候が急変する事があるのでトンネルを出る時は減速しよう」 「雨の日は慎重な上にも慎重な運転が必要、ハイドロプレーニング現象は怖い」 ということです。 この事故の後1年くらい高速道路を運転することができませんでした。いわゆるPTSD(Post Traumatic Stress Disorder)です。高速道路に乗ろうとすると動悸が生じるのです。仕方なく下道を運転していました。1年くらい経ったらそういうことは生じなくなりました。「時薬」が効いたのです。 12:人生危機一髪のことがある(2回目) 携帯電話を操作していたドライバーに追突されたことがあります。 ある日の夜、交差点で止まっていました。赤信号です。一番前です。そしたら、いきなり車に衝撃が走り、私の車が前に動いたのです。 車の前は普通に左右に車が走っています。右側から来た車にぶつかるかもしれないと思った瞬間、強くブレーキを踏みました。幸いにも車と衝突はしませんでした。いわゆる「お釜を掘られた」のです。 私の車の後ろにぶつかった車を運転していたのは若い女性でした。車から降りてきて、「携帯でメールを打っていたら、間違えてアクセルを踏んでしまった」「誠に申し訳ありません」「警察を呼びます」「保険会社にも連絡します」「車は責任を持って修理します」とやけに正直で手際が良いのです。何のことはない、大きな車会社の社員でした。 赤信号で止まっていて衝突されたのはこれで2回目です。最初は前からそして後ろからも衝突されたのです。 このことから学んだのは 「人生危機一髪のことがある」(くどいですね) 「交差点で信号待ちをしているときはブレーキを強く踏んでいるべきだ」 「車を運転している時はメールをしてはいけない」 そういうことでした。 なお、この事故でいわゆる「鞭打ち損傷(正式病名は外傷性頚部症候群 traumatic cervical syndrome:TCS」になり、2ヵ月くらい苦しみました。幸い後遺障害は残りませんでした。 次回は認知症の方に車をぶつけられたこと、救急治療で経験した交通事故についてお話しします。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/03/16 高速道路の逆走、高齢者の運転による事故、スマホ使用による脇見運転による事故、突然発症した病気(症状含む)による交通事故が話題になっています。今回は、 自分の体験した交通事故 自分の周りで起きた交通事故 救急治療で経験した交通事故 をします。私は20歳から今まで車を運転してきました。運転について色んなことを学びました。多少とも皆様の交通安全に役立つかもしれません。ご笑覧ください。 1:最初に体験した交通事故の記憶 皆さんの物心がついてから「最初の記憶」は何でしょうか?色々あると思います。親との旅行や幼稚園での思い出etc. 比較的平穏な記憶がほとんどだと思いますが、私は違います。 物心がついてからの最初の記憶は「自動車が田んぼに向かって転落していく」シーンです。 今でもスローモーションのように思い出します。事故を起こした場所を今でも覚えています。今でもそこを通ると少し怖いです。 親戚のお兄さんが運転する車の助手席に乗せてもらっていたのですが、急に車が浮いたと思ったら右側の田んぼに車が転落していったのです。4歳頃の話です。ああ!と思ったら、車は田んぼの中でした。助手席に座っていたので膝を強く打ちましたが、大したことは無かったと思います。 事故後のことはよく覚えていませんが、車が転落して水田に落ちるまでの恐怖感と車が水田に落ちていく様子はスローモーションのように今でも、まざまざと思い出します。 2:バイクに轢かれたことがあります 次の交通事故の記憶はバイクに轢かれたことです。これは小学校低学年の時です。 信号待ちをしていたら左折してくるバイクに足を引かれました。幸い大した怪我ではありませんでしたが運転をしていた方が、何度も家に謝りに来たのでそのことをよく思い出します。 3:初めてうっすらと「死」を感じた交通事故 小学校2年生の時、1つ下の学年にいたHJ君一家4人全員が交通事故でお亡くなりになりました。富士スバルラインを降りてくる時に、ブレーキが効かなくなりカーブを曲がりきれず、車が崖から落ちてしまったのです。 富士スバルラインは前回の東京五輪の年(1964年)に開通しました。開通当時の事故です。スバルラインは急カーブがあり急坂もあります。当時の車はブレーキの性能があまり良くなく、長時間ブレーキをかけていると突然ブレーキが効かなくなることがあったのです。だから 「長い時間ブレーキをかける時は「エンジンブレーキ」を使わないといけない」 と父母が話していたのを覚えています。「エンジン付きブレーキ」なるモノがあると思っていました。バイクの免許を取るとき、初めてエンジンブレーキの意味がわかりました。今でも、長い坂道が続く時は意識して「エンジンブレーキ」を使っています。 HJ君の家は近所にあり通学路が一緒で、HJ君の弟や両親も顔見知りでした。そういう一家4人がいきなり全員お亡くなりになりました。この時大げさに言えば「死」とはこういう風なことなのだと“うっすら”思いました。 今でも交通事故の報道があるといつも、ニコニコしていたHJ君を思い出すことがあります。それくらい衝撃的でした。 4:高校時代の友の交通事故死 高校時代は原付のバイクに乗っていました。通学や登山路までの交通手段に使っていたのです。今から40年前、原付バイクは年間200万台も売れていました。今は年間10数万台しか売れていません。1/10以下です(自工会調べ)。 現在、高校生がバイクに乗ることはほとんど禁じられていますが、私たちの高校時代、バイクに乗る高校生は多かったのです。今では考えられませんね。 高校3年生の正月1日の払暁、同級生のFM君はバイクに乗って初詣に出かける途中に車と衝突し、翌日には帰らぬ人となってしまいました。 葬儀が終わり、憔悴しきったFM君のご両親が「お坊さんに書いてもらった小さなお守り」を私たちに渡し、 「FMの代わりにこれを持って、あちこちに行ってください」 「FMが経験できなかった色んな経験をしてください」 と仰って一人一人にお守りを手渡されました。私は今も持ち歩いています。受験の時、国家試験の時、山に登る時、手術をする時、海外に行く時、あの時もこの時もです。 この時にはっきりと「交通事故による死」とはどういうモノかを実感しました。悲しい出来事でした。 話は変わります。東日本大震災の時、車が渋滞して逃げられず津波に巻き込まれる映像を見ながら「バイクがあれば逃げられる」と思っていました。大地震が起きたらバイクで一目散に山の方に逃げれば良いのです。バイクなら渋滞はしません。震災復興の案を東北各県で募集していた時、 「地震や津波が予想される地域で各戸にバイクを配置すべき、津波が起きそうになったらバイクで逃げるべきだ、バイクが運転できないなら、あるいは雪が降る地域なら“バギー”を配置したら良い」 という案を真面目に書いて応募しましたが「没」でした。しかし、今でも、津波が起きる地域ではバイクやバギーの活用を積極的に推し進めるべきだと思っています。 話を戻します。大学時代:2回、交通事故に遭ったことがあります。 大学生時代、父から譲ってもらった車を運転していました。自分で事故を起こした事はなかったのですが、希有な経験をしました。 5:車に乗っていて、正面からぶつけられたこと 大学時代1回目の事故です。 一度は、鳥取県米子駅の交番前の交差点での出来事です。赤信号で一番前に停車していた時のことです。正面から車が私の方に向かってきてそのまま私の車に衝突しました。対向車の運転手は私の車の右側の歩道に立っていた友人に手を振っていたのです。運転手の顔は左を向いていて、正面にある私の車を見ていませんでした。そしてそのまま私の車に衝突したのです。 幸い、そんなにスピードは出ていませんでしたのでケガはしませんでした。しかしそれでも車は結構壊れました。私の車は古い車でしたが相手の車は「スカイラインの新車」で運転していたのは免許取り立ての19歳の青年でした。 後日、車の修理費用について相談をしたら「過失割合は2:8だ。あなたも2割負担すべきだと言われました」。私は赤信号で止まっていたので私に過失は一切ないはずです。交番の前でしたので、事故の一部始終を、警察官が見ていてきちんと調書を書いてくれていたのが役立ち、結局、全て相手が負担して車を修理してくれました。この時、学んだのは 「事故を起こしたら警察官を呼んできちんと処理すべき」 ということです。 次回に続きます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/02/25 ※文章中に医学的な説明をするためキズの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 前回ご紹介した「A. 湿潤治療(キズ、ヤケドの治療)」「B. 切り傷に対して、できるだけ縫合をしない治療」に続いて、今回は以下についてご紹介しましょう。 C. 白癬に対する治療(足白癬、指間白癬) D. 小感染巣(いわゆる膿)に対する特殊ドレーンを用いた治療 E. 帯状疱疹発症後の痛みを軽減する「特殊治療」 C. 白癬に対する治療 いわゆる「水虫」です。梅雨の季節になると一日中、ジメジメします。湿度が高くなり、不快な日々が続きます。梅雨は、特殊な気候ですので(世界的に稀)、日本は四季ではなく、五季あるいは秋雨も入れて六季とした方が良いと唱える方もいます。 それはともかく、梅雨に湿度が高くなると、足に水虫を生じることが多く、難渋します。湿度が高い日本で、通気性の悪い革靴を履けば、湿気を好む白癬菌が増えるのは当然ですね。日本皮膚科学会によると日本人の5人に1人は足白癬があり、10人に1人は爪白癬があるそうです(https://www.dermatol.or.jp/qa/qa10/q06.html)。国民病ですね。 足にできる水虫を足白癬と言います。一旦、足白癬になると治癒は難しいと考えられています。治療として、 抗真菌剤の塗布、投与 足を乾燥させる→無理ですね。大気の湿度が高いからです。 靴下を毎日交換する。これは普通のことです。 靴を毎日、交換する。使わない靴は乾燥させる。 風呂上がりに良く足指を拭いて乾燥させる。 消毒薬に足を付ける。 とにかく、たくさんの治療方法、予防方法がありますが、なかなか治りません。 白癬治療にはまず、白癬かどうかの診断が大切です。 ※リンク先にキズの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 典型的な足指間白癬です。 この部分の皮膚を顕微鏡で検査して、白癬菌がいれば診断できます。この診断は言うは易く行うも易しですが、診断というか見極めが難しいのです。 ここにいるだろうと思っても白癬菌がいないこともあります。見つからない場合3つのことが考えられます。 実は白癬では無い。別な疾患である。 白癬がいない部分の皮膚を採取した。 すでに市販の「水虫治療薬」を使っているので白癬は死滅していた。 等々の理由で、これは白癬だ、水虫だと思っても、白癬菌が出ないことがあるのです。理由1の極めて白癬に似た病気は「汗疱状湿疹(かんぽうじょうしっしん)」です。別名を異汗性湿疹(いかんせいしっしん)、指湿疹(ゆびしっしん)、汗疱(かんぽう)などと呼ばれることもあります。 足底や手掌にかゆみを伴う小水疱が出現するのです。白癬と発疹の形態が酷似しています。プロの皮膚科医でも「足白癬」と「汗疱」の区別を視診だけで付けるのは難しいのです。 両疾患ともに共通することがあります。 治りがたい。治癒しても直ぐに再発する。 発疹のカタチが似ている。 しかし、治療は違います。 白癬には、抗真菌剤を使います。汗疱には、ステロイド剤を使用します。診断を誤ると大変です。 白癬なのに、ステロイド剤を使うと悪化します。汗疱に抗真菌剤を使っても良くなりません。 どうしたらよいのでしょう。「解」はあり、当クリニックではこの両疾患に共通する治療を行っています。どちらの疾患でも治癒します。特に指間白癬、指間汗疱は劇的に良くなり、再発しがたいです。 症例2:60代女性 足指間白癬で長いこと苦しんでいた方です 。 治療4日目の写真では、ほとんど治っています。 症例3:40代男性 繰り返す足指間白癬に対して治療を行いました。 治療開始前と治療7日後の写真です。 さて、治療法です。種々の理由があり、治療原理、実際の治療方法は現時点では未公開とさせてください。 もちろん保険適応ではない治療ではありません。保険で認められている治療Aと治療Bを組み合わせるだけです。安価な治療です。足指間白癬あるいは「汗疱」でお悩みの方はご相談ください。 D. 小感染巣(いわゆる膿)に対する特殊ドレーンを用いた治療 梅雨になると動物による噛み傷、引っかき傷で受診される方が増えます。イヌや猫も湿度が高いとイライラするのでしょうか。もちろん、梅雨以外の季節でも動物によるケガは発症します。 さて、動物に噛まれると高率に創感染を生じます。 よく間違えられるので細菌に関する勉強をしましょう。 「ばい菌がいること」=「感染=人体に悪影響を及ぼす」ではありません。人体には常在菌がいます。常駐する細菌です。よく知られているのが、大腸菌です。大腸の中には大腸菌がいますが「感染」は起こしません。他にも人体には多くの細菌がいて、人体の健康に役立っています。 感染には次の4つを伴います。 痛み 発赤 発熱:局所、全身 腫脹:腫れること この4つを発見したのがケルスス(Celsus:1世紀頃のローマの医師、セルサスとも言います)で、この4つを「ケルススの4徴」と言います。 虫歯を考えれば解りやすいですね。虫歯にはこの4つ、(1)痛み、(2)発熱、(3)腫れ、(4)発赤を伴います。 ケガ、ヤケドをした直後の痛みは別にして、一旦引いた痛みが再燃する時は要注意です。実はキズの痛みが感染によるモノか、キズ自体の痛みかを鑑別することが大切です。感染なら抗生物質投与が必要です。これは医師でないとわからないです。キズの治療経験が豊富な医師なら鑑別することは容易です。なお、一番わかりやすい注意信号は「動かさないでも生じるズキズキとした痛み」です。 キズに異物があると感染しやすくなります。動物の噛み傷、引っかき傷が感染するのは、噛まれた皮膚の下に異物(動物の唾液、ゴミ)が入りやすいからです。感染の治療には異物の除去と膿のドレーナージ(=膿を外に出すこと)が必要です。これまでは小さい化膿巣のドレーナージは不可能であるとされていました。小さい化膿巣に入れて、ドレーナージを行うことができる様な細いドレーンは無かったからです。 しかし、細いナイロン糸を創部に入れて、膿を流出させる方法(=ドレーナージ)が考えられ、糸を用いた様々な「ドレーン」が考案されました。今、私が使っているのは、伊豆下田診療所 所長の細井昌樹先生が考案した「コヨリ状ナイロン糸ドレーン」です。 先端が丸くなっているのでキズ口に入れても痛くないように工夫されています。素晴らしい工夫です。 さらに、世界一細いステンレス線を用いて試作したコヨリ状ドレーンもあります。 さてこれをどう、使うか例示しましょう。 症例4:ネコに指を噛まれて化膿した患者さん 以前なら抗生物質を投与して経過を見ていました。でも治癒には時間がかかります。ドレーンを入れることで治癒は早まります。 局所麻酔をしてナイロン糸ドレーンを挿入します。 毛細管現象による糸により作られた小孔を伝わって膿が外に出ます。膿が体内からでると痛みが軽減します。 一週間程度で完治します。 症例5:下腿を強打し、感染を併発した患者さん 皮膚の表面だけ治癒して、膿がたまることを繰り返していました。 上述のステンレスワイヤードレーンを入れて皮膚が閉じないようにして膿のドレーナージを図っています。膿がたまらないと早期に治癒します。 小さなキズでも、しっかり治療しましょう。 E. 帯状疱疹に起因する痛みを取る(軽減する)治療 帯状疱疹は水痘,帯状疱疹ウイルス(Varicella Zoster virus)によって生じます。水痘は英語でVaricella、帯状疱疹はZosterです。ちなみに口唇に生じるヘルペスは単純ヘルペスウイルス1型(herpes simplex virus-1)により生じます。 症例6-1:50代男性 数日前から強い痛み伴った発疹が胸部にできて来院されました。服が発疹に触るだけで痛いそうです。 診断は容易です。神経に沿って発疹があります。典型的な「帯状疱疹」です。 治療には、抗ウイルス薬の内服が必要です。以前は1日5回内服が必要でしたが、段々と治療薬の改善が進み、1日に1回、または1日に3回服用するお薬を使います。初期治療をしっかりとしないと帯状疱疹後神経痛という後遺症が残り、いつまでも痛みが残ります。 さて、この発疹の痛みを早期に取る治療があります。通常は抗ウイルス薬を服用して数日経たないと、この強い痛みは引きません。 しかし!当クリニックでは「痛みが出ている発疹部分を湿潤治療材料で覆う」という治療をしています。そうすると、嘘のように(と皆さんが仰います)痛みが引きます。 症例6-2:同じ患者さんの1ヵ月後です。痛みはもちろんありません。 もし、帯状疱疹かな?と思ったら是非、相談してください。早ければ早いほど、治療は効果的です。なお、キズの治療とは関係ありませんが、「帯状疱疹予防ワクチン」もあります。ご希望があれば接種します。お問い合わせください。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/02/10 ※文章中に医学的な説明をするためキズ、ヤケドの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 前回ご紹介した「A. 湿潤治療(キズ、ヤケドの治療)」に続いて、今回は「B. 切り傷に対して、できるだけ縫合をしない治療」についてご紹介しましょう。 B. 切り傷に対して、できるだけ縫合をしない治療 包丁やナイフで手を切ってしまったり(=切創、切り傷)、頭や足を硬い場所(コンクリートなど)にぶつけると皮膚が裂けます(=挫創:ざそう)。切創とか挫創は皮膚が断裂している状態です。このような場合、普通は糸(ナイロン、ポリプロピレン、絹糸など)による縫合を行って治療します。 いわゆる「キズを縫う」のが縫合です。縫合を行うには縫合する部分に局所麻酔を行う事が必要です。局所麻酔の注射は最初痛いですね。また、使う糸、縫合箇所によっては縫合により「魚の骨」のようなキズアトが残ります。キズアトができるだけ残らないようにするには「縫合しない」方が良いのです。 外科医としては縫合したいところですが、キズアトを考えると縫合したくないです。今、切創、挫創を縫合しないで治すさまざまな方法が考えられています。当クリニックでも縫合しないでキズを治す方法を行っています。 (1)1つは特殊なテープを用いた方法 (2)毛髪を用いた方法です(頭部の創に限ります) (3)ステンレスワイヤーを用いた治療 最初に(1)の特殊なテープを用いた方法をお目にかけましょう。 ※リンク先にキズの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 症例1:指を包丁で切ってしまった患者さん 縫合します。 切れている部分を特殊なテープで固定します。 1週間ほど、テープで固定を続けると切れていた部分はきれいに治ります。 症例2:指をお皿で切った患者さん テープで固定、治癒しました。 症例3:顔面挫創:左眼の横をぶつけた患者さん テープで固定します。 きれいに治ります。 どこにでもできるわけではありません。曲げたり伸ばしたりする箇所や足底などは適応がありません。 次に「毛髪」を用いた縫合治療です(くどいですが頭部のキズに限ります)。 毛髪縫合症例1:30代男性 つまづいて頭部を家具に強打した患者さん。 頭皮が裂けています。 髪の毛を糸代わりにして結び、特殊な糊(医療用アロンアルファ)で結び目を緩まないようにします。無麻酔で「縫合」が終わります。 きれいに治ります。 毛髪縫合症例2:3歳男児 転んで頭部をコンクリートにぶつけました。 頭皮が裂けています。普通なら、押さえつけて麻酔をして縫合しますが、当院では頭髪を用いて縫合します。 髪の毛を縫合糸代わりにして結び、医療用アロンアルファで結び目を緩まないようにします。もちろん、無麻酔です。ニコニコしながら治療は終わります。 きれいに治ります。一部、髪の毛が少ないように見えますが、結び目の髪の毛を切ったためです。 毛髪縫合症例3 髪の毛が寂しい方でも治療ができます。この方も硬い場所に頭部をぶつけて頭皮が裂けています。普通なら、局所麻酔をして縫合です。 症例1、2と同様な方法で髪の毛縫合を行います。 このようにきれいに治ります。髪の毛縫合を行って、2日は頭皮を洗うことは止めていますが、それ以降は構いません。 こういう頭皮の切り傷は普通なら、縫合するか、医療用のホッチキスで治療します。「髪の毛縫合」は少し難しいです。髪の毛は細いからです。頭皮の切り傷、挫創を髪の毛縫合で治療している医療機関はほぼゼロだと思います。頭皮にケガをしたら相談してください。 ステイプラーで頭皮を縫合しています。 見るだけで痛そうです。これだけ髪の毛があれば、簡単に髪の毛縫合ができます。 ステンレスワイヤーによる治療です。模式図です。 赤字部分が切り傷 キズの横にワイヤー付き特殊絆創膏を置きます。 ワイヤーを巻きます。 傷口が塞がります。 実際の治療例:ガラスの破片で手を誤った切ってしまった患者さん 次回は、 C.白癬に対する治療(足白癬、指間白癬):いわゆる水虫です。 D.小感染巣(いわゆる膿(うみ))に対する特殊ドレーンを用いた治療 を紹介しましょう。足白癬、指間白癬は簡単に治ります。 動物咬傷は高率に感染(化膿)を伴います。そういう場合、威力を発するのが、特殊ドレーンを用いた治療です。 【参考文献】 夏井睦著:傷はぜったい消毒するな (光文社新書) 夏井睦著:さらば消毒とガーゼ 「うるおい治療」が傷を治す 春秋社刊 Hock MO et al. Ann Emerg Med. 2002 Jul;40(1):19-26. A randomized controlled trial comparing the hair apposition technique with tissue glue to standard suturing in scalp lacerations (HAT study). Karaduman S1et al. Am J Emerg Med. 2009 Nov;27(9):1050-5. doi: 10.1016/j.ajem.2008.08.001. Modified hair apposition technique as the primary closure method for scalp lacerations. 【参考サイト】 新しい創傷治療:http://www.wound-treatment.jp/ 夏井睦先生のサイトです。治療方法,治療経過など盛り沢山です。是非、ご覧下さい。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/01/27 ※文章中に医学的な説明をするためキズ、ヤケドの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 正月明けは仕事をするのが辛いですね(この原稿を書いているのはお正月明けです)。今回から数回にわたり私のクリニックで行っている外科的な治療を紹介します。もちろん、どの治療も「保険診療」です。 なお、本稿で紹介するキズ、ヤケドの治療について講演を行います。 本稿をお読みになって、こういう治療についてご興味を持たれた方はいらしてください。 演題名 「“知って安心!湿潤治療の基礎知識”~正しい知識を身につけよう!~」 講師 芝浦スリーワンクリニック 望月吉彦 日時 2020年3月15日(日) 場所 ちよだプラットフォームスクウェア 東京都千代田区神田錦町3-21(地下鉄竹橋駅徒歩2分) 連絡先 第六回モイストケアフォーラム http://moistcare.org/events/2020-moistcareforum.html それはともかく、今回から紹介する項目を挙げます。 A. 湿潤治療(キズ、ヤケドの治療) B. 切り傷に対して、出来るだけ縫合をしない治療 C. 白癬に対する治療(特に足白癬、趾間白癬) D. 小感染巣(いわゆる膿)に対する特殊ドレーンを用いた治療 E. 帯状疱疹発症後の痛みを軽減する「特殊治療」 F. キズを縫う場合があります。その際も6-0 ナイロン糸という細い糸を用いて縫っています。細い糸を使うと縫ったアトがあまり目立たなくなるからです。 今回は、「A. 湿潤治療(キズ、ヤケドの治療)」についてご紹介しましょう。 A.湿潤治療 これまでにも紹介してきた「キズ、ヤケド」の治療です。 傷は消毒しないとキレイに治る ブラジルでも湿潤治療を!(1) ブラジルでも湿潤治療を!(2) 当クリニックでこのような治療を行っていることを知らない方が多いので再度紹介させていただきます。 この湿潤治療の基本は 「キズを乾かさない」 「キズを消毒しない」 で「キズ」を治す方法です。「キズ」とは何でしょうか?キズの原因は様々です。 すり傷 ヤケド 切り傷 その原因は様々です。 このように色々なキズがありますが、 「キズとは皮膚の正常な細胞が損傷を受けた状態」 つまり正常な細胞が失われている状態です。それなら、キズの治療は 「皮膚の正常な細胞が増やすような治療」 をすれば良いのです。つまりそれは「細胞培養」と一緒です。細胞培養を行っているシャーレに 細胞障害性のある消毒液を入れたり 乾燥させたり するでしょうか?しないですね。 そんなことをすれば細胞は死滅してしまうからです。 現在行われている普通の外科処置は キズを良く消毒する 傷口にガーゼを当てて乾燥させる の2つが基本です。10数年前まで、私もそうしていました。 しかし、現「なつい キズとやけどのクリニック」院長の夏井睦(まこと)先生が1996年に考案した「湿潤治療」を知り、夏井先生のキズの治療に関する本を読んだり、実際に夏井先生の行っている治療の見学を行い、その劇的な効果を目の当たりにしてから「湿潤治療」を行うようになりました。 この治療を行うとキズが 早く 痛くなく きれいに(あまりアトが残らず) 治ります。例外があります。低温熱傷と火による高温熱傷です。この2つの熱傷はキズが深くなるので、瘢痕形成や色素沈着を残します。それでも従来治療に比してかなりきれいに治ります。 キズの治療で人生が変わってしまうかもしれません。大げさと言われるかもしれません。しかし、下図のように「湿潤治療」行った場合と行わなかった場合で随分とキズアトが違います。 向かって左側が「真の治癒」で向かって右側は「ニセの治癒」と思っています。右側の女児は、某大病院で普通の消毒+ガーゼの治療を受けています。右側の患者さんと左側の患者さんはどちらも熱傷が手にかかっています。治療で人生が変わると言うのは大げさでしょうか? 顔に熱湯を浴びた患者さんを紹介します。 従来の治療を行っていれば、間違い無く顔に瘢痕が残ります。「瘢痕が残れば人生が変わっただろう」「私の治療経過を使って湿潤治療を広めてください」とこの患者さんは言っていました。 湿潤治療を行うのは簡単です。誰でもできます。しかし、キズの観察は「難しい」かもしれません。どのようなキズの治療をしても「感染」は1%くらい生じます。感染は細菌がキズ口で暴れ出すことです。皮膚には多くの細菌が生息しています。無菌ではありません。細菌が「いること」と「感染」は別物です。「異物」があると感染しやすくなります。異物とは通常体内には無い物です。例えば、砂、木、金属、などです。これらがあると高率に感染を生じます。また、皮下血腫(いわゆる青あざです)も感染の原因になります。 なおほとんどのキズには受傷時からの抗生物質投与は不要です。なぜなら、抗生物質投与は「感染」に対して行う治療で、将来起きるかもしれない「感染」に対しての抗生物質の予防的投与は常在細菌(元から皮膚にある細菌)を壊すので良くありません。 ただし、砂やゴミなどでひどく汚染されたキズの場合、数日投与することがあります。 キズが砂で汚染されている時は破傷風トキソイドワクチンを注射します。牧草地の土壌で汚染されたキズ、破傷風トキソイドワクチンの接種歴が不明な場合は、抗破傷風ヒト免疫グロブリンの投与も行う必要があるかもしれません。なお、破傷風菌は今度1000円札の「顔」になる北里柴三郎が発見しています。 話は戻ります。湿潤治療の基本を示します。 以上です。治療の実際を示します。 外傷とヤケドでは多少治療方法が違います。 本当に消毒しないで良いのでしょうか?とよく聞かれます。 ペニシリンを発見してノーベル賞を受賞したイギリス人医師のフレミングが100年も前に「キズは消毒すると治りが悪いこと」を発見して論文にしています。第一次世界大戦に従軍してキズの治療に当たった時に発見した事を論文にしたのですね 。フレミングについては以前のコラムをご参照下さい。 「ペニシリンの発見及びペニシリンがお薬になる」までのあり得ない偶然の数々の物語(1) 「ペニシリンの発見及びペニシリンがお薬になる」までのあり得ない偶然の数々の物語(2) 「ペニシリンの発見及びペニシリンがお薬になる」までのあり得ない偶然の数々の物語(3) キズの処置方法により治り具合が違っていることを示した論文です。上図の青い矢印部を見てください。Without antiseptic群(antiseptic=消毒薬)、つまり消毒薬を一切使わずキズをただの水で治療した群の治療成績が一番良いのです。この論文の結語に「消毒するのは良くない」と書いてあります。後に、消毒薬はキズの治療には良くないという論文が多数出ています。 しかし、キズの治療には「消毒してガーゼを当てる」のが今でも主流です。というか、それ以外の治療をしているところは極めて少ないのです。なぜ、科学的に正しい治療=湿潤治療が広まらないのか、色々な理由が考えられますが,本稿では深入りしません。 話は変わります。キズの治り方には二通りあることをご存じでしょうか? 浅いキズ=毛孔、汗管が残っているキズ 深いキズ=毛孔、汗管が損傷を受けているキズ 毛孔、汗管が残っていると、毛孔、汗管の孔の中にある表皮細胞が損傷したキズの表面に増殖してキズが治ってきます。 湿潤治療をキズに対して行うとどうなるか。お目にかけましょう。最初に様々なケガの治療です。 ケガの治療例 ※リンク先にキズの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 図10:ケガ治療例(1) 36歳 男性 誤って鉈(なた)で指先を切断してしまいましたが、 14日で治癒。 これは夏井先生の症例です。劇的です。 図11:ケガ治療例(2) 38歳 男性 転倒して顔面にキズを負っています。 キズの部分には湿潤治療材料を当てて治療しました。10日目にはほとんどアトが残っていません。 図12:ケガ治療例(3) 55歳 男性 糖尿病性壊疽の症例です。 足を切断される寸前でした。この方は、もちろん、今はなんともありません。 糖尿病の方は,動脈硬化の進行が早い事(=血流が悪い)、細菌感染を生じやすいことから、小さなキズからでもこのような状態になりやすいのです。糖尿病のコントロールが悪いといくら湿潤治療をしてもこのような糖尿病性壊疽によるキズは治りません。血糖値のコントロールが必要です。 この方は、夏井先生が湿潤治療を行い、私のクリニックで糖質制限による糖尿病のコントロールを行いました。血糖値のコントロールが良くなるとみるみるうちにキズの状態が良くなってきました。糖尿病の方がキズを負った時、よくよく御自身で考えてください。 少し生々しいので写真に加工を加えています。 図13:ケガ治療例(4) 39歳 女性 下腿を強打後に皮下血腫に感染を生じています。 下腿を強打、皮下血腫(いわゆる青あざ)が生じ、その血腫に感染を生じています。来院時、かなりひどい事になっていました。脛骨(向こうずねの骨)が見えていたので、さすがに入院加療を勧めましたが、仕事が忙しくどうしても通院で治療したいとの事で、当院で治療を行いました。普通は入院して筋皮弁移植です。経口抗生物質の投与と水道水によるキズの洗浄、湿潤治療、貯まった膿(うみ)の体外への排出を行いました。3ヵ月で治癒しました。 ヤケドの治療例 ※リンク先にキズの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 図14:ヤケド治療例(1) 1歳男児 1歳男児:お湯によるヤケドです。 1歳男児です。お湯による熱傷です。前述のごとく、お湯によるヤケドは深くなることが少ないのできれいに治ります。水疱膜を全て除去します(これがとても大事です)。水疱膜は壊死した組織ですから感染の原因になります。 20日で治ります。 図15:ヤケド治療例(2) 1歳女児 お湯によるヤケドです。 図16:ヤケド治療例(3) 40代女性 お湯によるヤケドです。 初診時と治療開始後、1週間の写真です。この時点で治療は、ほぼ終了。 半年後の写真です。ほぼヤケドのアトが解らなくなっています。 図17:ヤケド治療例(4) 30代女性 天ぷら油によるヤケドです。 誤って煮えたぎる天ぷら油の中に手を突っ込んでしまったのです。聞いただけで痛そうですね。 1枚目は初診時の写真です。いつものごとく、水泡は全部除去します。 水疱を切除し、2週間で治療は終了しました。 一番下は治療終了後、半年後の写真です。 この手がヤケドを負った手だとわかる人ほとんどいないと思います。良くなった写真だけ掲載していると思われると困るのですが… なお、湿潤治療を行っても「キズアト」が残る場合があります。 湿潤治療開始が遅れた場合:受傷後早期の治療開始が必要です。受傷後1週間以上経過すると、湿潤治療を行っても治りが悪くなります。 永久脱毛箇所のキズ、ヤケドは治りが遅くなります。 上述の如く、浅いキズは毛孔、汗管から治ってきます。永久脱毛をしている箇所は毛孔が傷害されているため、キズの治りが悪くなります。若い女性の下肢のキズですが、湿潤治療を行っても治りが悪い事が続いたときに「永久脱毛」に気づきました。永久脱毛をしても構いませんが、その部位はキズ、ヤケドの治療が遷延すると表下さい。 女性の下肢:構造的に女性の下肢はうっ血しやすいので、血腫が生じやすく、それ故に治りが悪い場合があります。 低温ヤケド:低温という言葉に惑わされるのですが、低温ヤケドは、低温ゆえに深いヤケドになり、治癒が遷延します。それでも治るのですが、ヤケドアトは残ります。 図18:低温ヤケドの例 一見すると大した事が無さそうです。しかしこのような瘢痕を作ります。 湿潤治療を行っても低温ヤケドはアトが残ります。 火によるヤケドも損傷が皮膚深部まで到達しているので、ヤケドアトが残ります。しかし、消毒+ガーゼ治療だと治癒まで時間がかかります。 多数治療例があります。治療経過は患者さんの許可が得られた場合は全て写真に撮ってあります。 湿潤治療を行えば、劇的に良くなります。できるだけ早期に治療を開始すれば 早く、あまり痛くなく、しかもきれいに治ります。キズを負った時、思い出してくだされば幸いです。治療は簡単ですが、治療経過の観察にはやや外科的な知識が必要です。キズを負った時はぜひご相談ください。 次回は「B.切り傷に対して、できるだけ縫合をしない治療」を紹介します。 【参考文献】 夏井睦著:傷はぜったい消毒するな (光文社新書) 夏井睦著:さらば消毒とガーゼ 「うるおい治療」が傷を治す 春秋社刊 Hock MO et al. Ann Emerg Med. 2002 Jul;40(1):19-26. A randomized controlled trial comparing the hair apposition technique with tissue glue to standard suturing in scalp lacerations (HAT study). Karaduman S1et al. Am J Emerg Med. 2009 Nov;27(9):1050-5. doi: 10.1016/j.ajem.2008.08.001. Modified hair apposition technique as the primary closure method for scalp lacerations. 【参考サイト】 新しい創傷治療:http://www.wound-treatment.jp/ 夏井睦先生のサイトです。治療方法,治療経過など盛り沢山です。是非、ご覧下さい。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/01/06 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。 さて、2020年正月第一号は、こんな歌の紹介から初めて見たいと思います。 一休禅師(1394年―1481年:享年87歳)の作った歌です。 「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」 一休の著した『狂雲集(きょううんしゅう)』に載っている歌です。 一休は皮肉めいた言動、機転の利いた言動で有名です。それが故に、とんちの「一休さん」のモデルになったのでしょう。 おめでたい正月に、わざわざ不吉?な歌を詠むのも一休さんらしいですね。一休さんが生きた時代と今はだいぶ違います。一休の生きた1400年頃、日本人の平均寿命は正確にわかりませんが、15歳前後ではないかと推定している研究者もいます(参考文献5)(図録▽平均寿命の歴史的推移(日本と主要国))。そういう時代に正月を迎えられる(=年を重ねられる)のは、普通の人にとっては慶事です。めでたいと喜ぶのが普通ですね。しかし、一休は正月を迎える事は年を取る(=死に近づく)事だとも言っているのです。一休は当時としては異例の長寿者です。長生きをしている間に色々な経験をしたのでこのような事を言うようになったとも推測されます。 西欧世界でも、一休の言った事と同じような事が言い習わされています。 「メメント・モリ」(注:ラテン語 memento mori) →「必ず死が訪れることを忘れるな」「死を忘れるな」です。 さて、正月早々縁起でも無いとお思いでしょうが、一休禅師に倣って「死」について考えて見たいと思います。 突然死例の多くは死因が不明 大動脈瘤(だいどうみゃくりゅう)という病気があります。身体の中にある大動脈が太くなる病気です。大動脈が太くなりすぎると破裂します。アインシュタイン、司馬遼太郎は腹部大動脈瘤破裂で、最近では俳優の阿藤快が胸部大動脈瘤破裂でお亡くなりになっています。 大動脈瘤のほとんどは症状が無いために診断が遅れることがあります。司馬遼太郎が大動脈瘤破裂を起こす直前に書いた随筆を、読み直してみると腹部大動脈瘤がかなり大きくなっていることを示唆している症状があることが解ります。曰く、 「背中が痛い」 「足が時々冷たくなってしびれる」 と書いています。これらは、後から考えると、腹部大動脈瘤がかなり大きくなってきたために生じた症状だと解ります。 大動脈瘤のほとんどは症状が無いと記しましたが、自分にも他人にもわかる「大動脈瘤の症状」があります。それは「大動脈瘤の破裂」です。 東京都監察医務院によると突然死の死因の4番目が大動脈瘤破裂です。破裂した方の何割が病院に来ることができて手術を受けることができるか統計がありません。ほとんどは即死するのではないかと「思います」。「思います」と書いたのは日本では「突然死例の多くは死因が不明」だからです。 今号はその「突然死」について考えて見たいと思います。 大動脈瘤破裂のように時や場所に関わりなく「突然死」する可能性がある病気があります。事故や事件でお亡くなりになることもあります。 「突然死」した場合、死因を明らかにすべく、解剖や検査を行う制度があり、それを監察医制度と言います。 監察医制度が実際に「正常に」機能しているのは東京、大阪、神戸の3都市しかないと言われています。これらの都市で、突然死した場合は監察医がその死因を明らかにするために解剖を行います(後述)。全例ではありません。 それ以外の道府県ではどうかというと、突然死をしても特に事件性が無いと思われる場合、解剖が行われず、「急性心不全」などの病名が付けられて『処理されています(いました?) 』。「急性心不全」は正確には病名ではありません。急にお亡くなりなった状態を表す言葉が急性心不全です。なおあえて、『処理されて(いました?)』と記したのは2018年4月、法律が改正され警察署長の判断で解剖が必要と認めれば監察医務院のない県でも解剖が行えるようになったからです。これを「新法解剖」と言います。しかし、後述の如く、それは簡単ではありません。 それはともかく、学生時代、少数の府県でしか実行されていない「監察医制度」のことを法医学の授業で聞いてから、なにか変だと思っていました。救急治療を行っている病院に勤務していると「突然死」で搬送されてくる患者さんがいます。その多くは持病があり、何らかの治療や投薬を受けていることがほとんどですので「それなりの病名」を付けて死亡診断書が書かれます。持病が明らかで無いのに突然死した方は、前述の如く「急性心不全」という病名を付けられて「処理」されていました(います)。 変ですね。 行政に関すること、法律を変えるのは簡単ではありません。多くの人は、こんなモノだと諦めます。 でも諦めない偉い人はいます。 「死後にCTやMRを行い、死因を明らかにする努力をすべきだ」 「そんなことで良いのか? 東京、大阪、神戸以外で突然死した方の死因はどうでも良いのか?東京、大阪、神戸だって解剖率は高くない、つまり日本は死因不明社会だ」と言い出したのが、現在は国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構QST病院臨床検査室医長の江澤英史先生です。QST病院とは「National Institutes for Quantum and Radiological Science and Technology」から取った略称です。わかりづらいですね。 それはさておき、江澤先生は突然死を含め、実質的に、死因が不明のまま処理されるのはおかしい、それなら「死後にCTやMRを行い、死因を明らかにする努力をすべきだ」と提案したのです。死後にCT、MRを行うのをAi(Autopsy imaging:オートプシーイメージング)と言います(注参照)。 Aiは1999年11月のある日に江澤先生が考えついた概念です。Aiの命名者は江澤先生の同僚だった吉川京燦(よしかわきょうさん)先生です。ちなみに江澤先生は病理解剖を行う病理医で、CTやMRの診断を行う放射線科医ではありません。 ここで、少し「解剖」について説明します。 「解剖」は三つに分類されます。 正常解剖:献体された御遺体を解剖することで医学の基礎を学びます。 病理解剖:病気でお亡くなりになった方の死因、病因を明らかにするために行います。 法医解剖:以下の二つに分かれます。 司法解剖:犯罪性のある死体の死因などを究明するために行われる解剖 注:しかし、警察の死体取扱い件数のほとんどが司法解剖されていないのが現状(法医学専門医の不足、予算不足などの理由により)。 行政解剖:死因がはっきりとしないが犯罪性がないと思われる異状死体に対して、死因の究明を目的として行われる これは東京、大阪、神戸にある監察医務院で行われます。 病気が不明の「変死体」の解剖はつまり法医解剖されることになります。問題は解剖がなされる「率」です。死因がはっきりとしない場合、米国では50%、イギリスでは60%が解剖されています。解剖=死因究明ではありませんが、それでもかなり多くのことが解剖をすることでわかります。 さて、我が日本ではどうでしょう。東京、大阪、神戸には監察医務院があるので、3%前後が解剖されています。しかし、監察医制度が無い道府県において低いところは0.1%しかありません。 私が冒頭で、大動脈瘤破裂で即死するのがどれくらいあるかわからないと記したのは、このように日本は「死因不明社会」だからです。もちろん全例が死因不明ではありません。日本では病院での死亡が8割、2割は死因不明の急死、変死、事故死です。急死した場合、解剖が行われない(9割以上は行われていない)と死因は不明なまま処理されてしまいます。江澤先生は実際に病理解剖を行っていますが、その中で日本は死因不明社会だと気づいたのですね。怖い話ですが、他殺でも体表面に外傷などがないと「急性心不全」で済んでしまうのです。 有名なのは、看護師4人組で男性2名を巧妙な方法で殺した「久留米看護師連続保険金殺人事件」です。殺された一人は空気を静脈から注射して殺害され、もう一人は胃管から大量のアルコールを注入して殺害されています。後に仲間割れするまで、どちらも病死として扱われていました。前者の空気注入による殺害はAiがあれば簡単に死因はわかるので事件として扱われたと思います。このように突然死には「闇」があります。ここでは書けないとてつもなく深い「闇」もあります。 日本はある意味特殊です。日本では 病理解剖ができる医師も、法医解剖ができる医師も極めて少数で、予算も少ない。つまり、病理解剖も法医解剖もほとんど行われていない。 しかし CT、MRの人口当たりの普及率は世界一です。 つまり、解剖はなかなかできないけれど、診断機器はたくさんあるのが日本です。豊富にある診断機器を用いてAiを行えば死因の究明に役立つと江澤英史先生が思いついたのです。それが1999年のことです。同時期に筑波メディカルセンター病院放射線科の塩谷清司先生がAiと概念が重なるPMCT(Post Mortem Computed Tomography:死後CT検査)の研究を始めていました(注:PMCTの創始者は、筑波メディカルセンター病院の救急部長だった大橋教良先生で、1985年のことです)。 江澤先生は塩谷先生とコンビを組んでAiという概念を日本や世界に広め、なんとAi学会まで作っています。 江澤先生は「海堂尊」のペンネームで小説を書いています。「チーム・バチスタの栄光」、「ブラックペアン」などのベストセラーを沢山書いているので知っている方も多いと思います。これらの小説の中で、もちろん、Aiがいかに大事か説いています。医学的なAiに関する著作も多く、これらを読むと海堂尊医師(=江澤英史先生)は「Ai命!」だということがわかります。「ゴーゴーAi」という本には1999年当時、無名の医師だった江澤英史先生が多くの医師、診療放射線技師、そして行政にAiを提案し、苦労をしながらAiという概念を広める様が書かれています。 Ai開始当初、江澤英史先生は文字通り孤軍奮闘でした。初期の頃に孤軍奮闘していた江澤先生をそっと助けてくれたのが、元新潟県知事だった米山隆一先生です(突然、知事を辞職することになってしまいましたが、本書を読む限り良い医師だと思いますし、そもそも辞職する必要など無かったと思っています)。 段々と広まるAi 現時点でまだAiは正式に認定された制度ではありませんが、段々と広まっています。今では突然死の4割にAiを用いた診断が行われるようになり、多くの死因が明らかになってきました。 2014年からは小児の急死、変死例には基本的にAiが導入され、生前に受けた虐待による死亡例が見つかっています。Aiが子供に導入されたことで、虐待の抑止力になるかも知れません。このように、Aiは段々と社会に認知され、社会を変えつつあります。 Aiは画期的な方法です。世界でも類例を見ません。「解剖」という特殊なことは行いません。ちょっと気味が悪いかも知れませんが、ご遺体をCT、MRで検査する、それだけでわかることはたくさんあります。動脈瘤の破裂など簡単に診断ができます。脳梗塞、脳出血などの診断もできます。外傷の診断もできます。利点しか浮かびません。 健康を考える時、死因を分析することはとても大切です。今号でお伝えしたようなことも新年を機に考えて頂ければ幸いです。 あまり不吉なことばかり、新年早々書くのも気が滅入ります。きれいな富士山の写真を掲げて終わりとします。河口湖から撮影した富士山遠景です。 一富士二鷹三茄子と言います。良い夢をご覧下さい。 【参考文献】 海堂尊「死因不明社会―Aiが拓く新しい医療」(ブルーバックス) 海堂尊、 山本 正二「死因不明社会2 なぜAiが必要なのか」 (ブルーバックス) 海堂尊(=江澤英史)「ゴーゴーAi アカデミズム闘争4000日」(講談社) 塩谷清司「死亡時画像 ―歴史と最近の動向―」 http://www.eiken.co.jp/modern_media/backnumber/pdf/MM0710-04.pdf 「日本人のからだ―健康・身体データ集」鈴木隆雄(1996) 朝倉書店 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/12/16 電子カルテ時代に必須のスキルとは 今年も今回が最後です。今年もお読み頂きありがとうございました。 今、多くの病院で電子カルテを導入しています。電子カルテがすべて良いわけではありませんが、一昔前は判じ物のような文字、「他人にはもちろん」後で読もうとしても「自分でも読めない」文字、さらには、いい加減な外国語(主にドイツ語)で書いたカルテを多く見ました。 読めないカルテを読める看護師さん、読めない処方箋が読める薬剤師さんというような特殊技能?の持ち主もいました(います)。 医師はドイツ語でカルテを記していると思われていました。今も、そう思っている方も多いかも知れません。それは「嘘」です(参考記事:『百人一首』は宇都宮が起源?AKB48の起源は平安時代から?)。 「ドイツ語まがい」でカルテを記していました。良いことではありません。ドイツ語で、日本人の患者さんの病状を正確に記すことはできません。 今は電子カルテが普及しつつあります。もちろん、日本語で記載します。というかキーボードで入力します。 厚労省HPより引用 電子カルテは2001年から運用が始まり、段々と使用率が上昇していますが、当初の目標だった400床以上の病院の6割での使用には至っていません。 電子カルテはとても便利ですが大きな問題がいくつかあります。 使っている電子カルテのソフトが違うと病院を移る度にその操作を覚えないといけません。 患者さんを診るより先に電子カルテの使い方を覚えないと働けないので、大変です。紙カルテ時代なら、勤務開始日から診療ができましたが、今は勤務開始前に、電子カルテ操作を覚えないと医療ができません。 自分でカルテを書くのに使った登録辞書、医学辞書が引き継げません。 これは結構悲しいです。病院を移ると数年かけて作った自分なりに工夫した辞書が使えないので不便です。 病院間どうしでのデータのやりとりがオンラインでは、できません。 つまり患者さんのデータのやりとりは未だにデータを印刷して行います。 ちなみにフィンランドの電子カルテネットワークは富士通製で、フィンランド国内で病気になって、かかりつけ医以外に受診しても、それまでの病歴、薬歴、検査歴などがすぐにわかるようになっています。いい加減な治療、いい加減な病歴記載をしていると他の医師に解ってしまいます。それもある意味、良いことだと思います。仲間同士の評価ができます。 それはともかく、日本の電子カルテシステムの将来を考える時期になっていると思いますが、電子カルテを作っている会社はたくさんあり、なかなか前に進まないでしょう。 今回は、電子カルテ入力に必要なスキル、あれば便利なソフトなどをご紹介しようと思います。最初に紹介するのはタッチタイピングです。 「寝ころびながらでも、一週間でタッチタイプができるようになる」 10数年前に勤務していた病院で電子カルテが導入されました。当時、論文を書くのにワープロ(ソフト)を使うようになり、キーボードと画面を何回も見ながら、指でパチパチとゆっくり入力していました。雨だれ式タイピングでした。同僚だった麻酔科のI先生は両手でキーボードを見ずにパソコンの画面だけを見て素早く、タイピングしていました。タッチタイピングをしていたのです。それを見て自分もあのように入力したいと思っていました。映画「ローマの休日」で記者役をしていたグレゴリー・ペックがタッチタイピングをしているのを見て、あれくらい早くキーボードが打てればいいなあと思ったりもしていました。 そんなことを考えていた時に、たまたま、当時東京大学医学部付属病院麻酔科の諏訪邦夫先生が書いた「キーボード革命―情報電子化時代への基本技術(中公新書)」を読み、タッチタイピングの重要性やタッチタイピングの方法論を学びました。 諏訪先生は将来、キーボードでカルテを打つことが普通になる、論文を書くのも同様である、ゆえにタッチタイピングを覚える必要があると繰り返し説いていました。この諏訪先生の本と、もう一冊タッチタイピングの教則本を購入して練習しました。後者のタッチタイピングの教則本はあまりに素晴らしい本だったので、皆に勧めたり、貸したりしてるうちにどこかに行ってしまいました。書名も著者名もわかりません。確か 「寝ころびながらでも、一週間でタッチタイプができるようになる」 というような題名の本でした。タッチタイピングは寝ころびながらあるいは風呂に入りながらでも学べることがこの本でわかりました。キーボードを見ないでの練習が半分、実際のキーボードでの練習が半分というような方法が書いてありました。簡単にその方法を紹介しましょう。 QWERTYキーボードを使う。 通常のキーボードです。左上がQWERTY配列です。 QWERTYキーボードのキーの配列を覚える。 キーの配列を覚えるには、声に出して覚える事が必要、キーボードにある場所を頭に思い浮かべながら、声に出して覚える。 これは寝転びながらでも、お風呂に入ってもできますね。周りに人がいると困りますが… 左上:QWERT (キュー ダブリュー イー アール ティー) 右上:POIUY(ピー オー アイ ユー ワイ) 左中段:ASDFG (エー エス ディー エフ ジー) 右中段:; LKJH (セミコロン エル ケー ジェイ エイチ) 左下段:ZXCVB (ゼット エックス シー ブイ ビー) 右下段:/.,MN(ダイアゴナル ピリオド カンマ エム エヌ) これを数日唱えていたら、たしかに覚えてしまいました。 覚えたら実際にキーボードを操作する。ローマ字入力を覚える。先ず、母音を覚え、次に子音を覚える。 最初はAIUEOを打てるようにする。もちろん、タッチタイピングで入力する。次にKA KI KU KE KO SA SI SU SE SO、、、と打ってみましょう。 そういう方法論でした。 たしかにキーボードの位置を覚え、AIUEOを打てるようになると、段々と打てるようになりました。今なら、タッチタイピング練習ソフトがたくさんあるので、もっと早く覚えることができるかもしれませんが当時、そんな便利なソフトはありませんでした。 しかし、上述の本の記述通りに練習したら、本当に一週間程度で、タッチタイピングができるようになりました。やってはみるモノですね。これができるとキーボードを見ながらポツポツと打つ雨だれ式タイピングが不要なります。首の疲れが格段に減りました。 話は変わりますが、心臓手術には拡大鏡が必要です。拡大鏡は焦点深度が決まっているので、首をあまり動かすことができません。ですから、手術が終わると首が痛くなります。雨だれ式タイピングだと、カルテを書くのに目をPCの画面とキーボードと何回も行き来させる必要があり、首が痛くなります。それが無くなり、首が格段に楽になりました。患者さんの顔を見ながら、カルテを書くこと(打つこと)もできます。タッチタイピングができるようになり、カルテを打ち始めた当時は患者さんが驚いてくれました。 諏訪先生が説くようにタッチタイピングを覚えると良いことばかりでした。というわけで、電子カルテ入力に限らず、タッチタイピングを覚えましょう。一旦覚えると、何時までも使えます。デジタル時代に必須のスキルだと思います。 ここで、余談を少しします。キーボードに慣れてくると、右手だけ、あるいは左手だけで打てる言葉があることに気づきました。 1. 右手だけで打てる言葉(右手側には母音がOとIとUの3つあるので右手だけで打てる単語の方が多いですね、多分) 公共広告機構 koukyoukoukokukikou 19文字 驚異の驚異 kyouinokyoui 12文字 富士急行 hujikyuukou 11文字 藤子不二雄 hujikohujio 11文字 U字工事 yuujikouji 10文字 番外 飛行場の飛行機:hikoujyounohikouki 18文字 2. 左手だけで打てる言葉(左手側には母音が2つ、AとE) 渡良瀬川 watarasegawa 12文字(この川のそばに住んでいたことがあります) 早稲田 waseda 6文字 明後日 asatte 6文字 似たようなことを考える人がいて、右手だけで打てる言葉だけをたくさん採取しています。なぜか左手だけで打てる言葉は採取していません。謎です。 右手だけで打てる言葉の一覧(ニコニコ大百科) 閑話休題、音声入力が段々と発達してもキーボードは残ると思います。そういうわけで、タッチタイピングはこれからも、大学生や社会人にとって必須の技能だと思います。 こんなソフトやこんなモノを使っています さて、今度は電子カルテなどの文章を書くのに私が使っているソフトを紹介します。 1.「ATOK」 https://atok.com/index.html 日本語変換はATOKを用いています。医学辞書が充実していますので愛用しています。MS-IMEは自然な変換がまだまだです。不十分です。最近はGoogle-IMEも使っていますが、使い勝手はATOKに一日の長があります。 注:ATOKには様々な機能があります。あまり知られていないけれど、とても便利な機能を紹介します。 「SHIFT+変換」を用いるとラテン文字入力した後でも、ローマ字入力にすることができるという機能です。 ATOKを使って文字を入力している時、ラテン文字だけ入力後に「SHIFT+変換」を押すとローマ字入力になります。これは,かなり便利です。 asatte →「SHIFT+変換」→明後日と変換されます。もちろん「明後日」のほかにも候補がでます。要するに「SHIFT+変換」と押すと、ローマ字入力になるのです。 2.「Dさんの長押しIME起動2」フリーソフト https://www.vector.co.jp/soft/winnt/util/se410793.html?ds 日本語と英語混じりの文章を書く時に、日本語入力と英語入力の切り替えには何らかのキーボード操作が必要ですが、このソフトがあると、キーの長押しでIMEのOn/Offの切り替えができます(基本的にどのキーでも大丈夫です)。 例えば「動脈瘤は英語でaneurysmと言います」と打つとき、aを打つときにaを長押しするとそれまでの日本語入力が英語入力に変わります。いちいち、別なキーを押す必要がありません。使い慣れると英語と日本語が混じった文書入力が格段に楽になります。このソフトにはおまけの機能があります。それは大文字と小文字の切り替えを、普通は「シフトキー」+「Caps Lockキー」を同時に押す必要がありますが、このソフトを使うと「Caps Lockキー」を押すだけで、大文字と小文字の切り替えができるような設定ができます。これだけでもかなり便利です。 3.「Clibor(クリボー)」フリーソフト https://freesoft-100.com/review/clibor.php これはコピーペーストを多用する文章の入力、及び定型文の入力が多い時に威力を発揮します。 コピーは10000まで登録されます(そんなに使いませんが、、)。 定型文も多数登録できます。 文章を書いていて、多数のコピーペーストが必要な時、このソフトがあると必要コピー箇所を複数コピーしておいて後から必要に応じてペーストができます。実に便利です。このソフトには「FIFOモード」というのが、あり、FIFOモード状態で文章をいくつかコピーして次に何度かペーストするとFIFO状態でコピーした文章が連続してペーストされます。解りづらいですね。実際に使ってみてください。この機能を使った時、大げさに言えば、感動しました。 4.「紙copi」 https://www.kamilabo.jp/ 思いついたことをメモしたり、ウェブページなどからの取り込みが簡単にできます。無料のlite版と有料版があります。まずは無料版で試してみると良いですね。 「紙copi」 は後述の「Dropbox」と連動することができます。自分で使っているパソコンに「紙copi」と「Dropbox」があれば簡単に連動できます。Aというパソコンで「紙copi」で作った文章がBのパソコンでも出てきます。リアルタイムにAとBのパソコン上の紙copiでの文章が変わっていく様を見ていると時代は変わったと思います。良い時代です。 5.「captio」 iPhone、iPadで使えるアプリです。これは思いついたこと、やらなければならないことをiPhoneに入力すると「自分にメールを送ってくれる」のです。音声入力もできるので例えば「○○さんにに電話」「△△さんにメール」と入力すればその内容が登録した(自分のメールアドレス)に送られます。メモ帳が無くても、片言隻語を入力しておけば、自分にはわかりますね。とても重宝します。その場で撮った写真も、以前撮った写真も送れます。とても便利なアプリです。 6.「Dropbox」 これはソフトではありません。オンラインストレージサービスです。書いた文書、撮った写真、音楽などをDropboxに保存しておくと、インターネットがつながる環境にあれば、どこでも自分の「Dropbox」の内容を見ることができます。これは便利です。なお、スマホと連動すれば、紙データや写真をPDF、pngにする機能があります。写真と違い、その紙データ、写真データをスキャンすると自動で切り取ってPDF、pngファイルにして「Dropbox」内の指定したファイルに保存できます。とても便利です。 7.「VoiceTra(ボイストラ)」 https://voicetra.nict.go.jp/ 翻訳アプリです。iPhone、Android両方で使えます。 音声入力できる言語:17 言語翻訳できる言語:27 言語音声出力できる言語:14言語 と多機能です。実際に結構使えます。医療系の用語もかなり高度な言葉も翻訳できます。外国旅行での日常会話なら充分使えると思います。音声でもテキストでも入力ができて、翻訳もできます。 8.「グーグル翻訳」 最近、スマホでもアプリとして使えるようになりました。音声、テキスト入力はもちろん、カメラで撮影した言葉も翻訳できます。外国に行って食事をする際、外国語で書かれたメニューを写真に撮れば翻訳できるそうです(まだ試していません)。つくづく、便利な時代になったと思います。 番外1:キーボード タイピングに必要なのは、良いキーボードです。パソコンを使い始めた時は、パソコン付属のキーボードを使っていました。それで満足していました。しかし、ある病院で放射線科の先生が全員、Realforceというキーボードを使って画像所見を入力していました。何故、このRealforceを皆で使っているかと伺ったら、「打ちやすい」「手の疲れが違う」とのことでした。試し打ちをさせて頂いたら、かなり打ちやすいです。 インターネットで検索するとこのRealforceキーボードはキーボードの中で圧倒的な高評価を得ていることが解り、10年以上前に購入して今も、毎日使っています。高価ですが、10年以上、使えます。腱鞘炎にもなりづらいです。是非、一度試してみて下さい。普通のキーボードと全く違います(REALFORCE:http://www.realforce.co.jp/products/index_office.html)。 私が使っている英字だけの刻印があるシンプルなテンキー付きのキーボードです。これで一日ほぼ、カルテ記載だけで約5000文字を打ちます。 シンプルで使いやすいです。WindowsでもMacintoshでも使えるキーボードが出ています。昔は、筆記用具が大切でした。文章を書く人は、万年筆、鉛筆、ボールペンなどにこだわる方も多かったと思います。キーボード入力をするなら自分の好みのキーボードを見つけるべきだと思います。ここに挙げた「Realforce」以外にも多くのキーボードがあります。自分にあったキーボードを探す時代だと思っています。なお、ドイツ語入力用キーボード、フランス語入力用キーボード、アラビア文字入力用キーボードを見た事があります。様々なキーボードを集めてキーボード博物館を作って展示してくれると嬉しいのですが。。 番外2:耳栓 うるさいと仕事ができませんが、これがあると静かな環境をすぐに作れます。 3M 耳栓 E-A-R プッシュインス ひもなし 318-4000 この耳栓は -30dbです。例えば、電車内はだいたい70dbくらいの騒音ですが、これを使うと40dbくらいに騒音が軽減されます。山小屋での睡眠にも必須です。隣の方がいびきをかくと眠れませんが、これがあると眠れます。 以上、今回はこんなソフトやこんなモノを使っているよという紹介です。 注1:タッチタイピングとは キーボードを見ずにキーを打ってパソコンに正しく入力できる技術のことです。 以前は「ブラインドタッチ」という和製英語を使っていました。現在は「タッチタイピング(Touch Typing)」と言うことが一般的になっています。タッチタイピングとは逆に、キーを見ながら、1つずつキーを打つ方法は「Hunt-and-peck Typing(雨だれ式タイピング)」といいます。Hunt=狩る peck=つつくです。それがなぜ雨だれ式タイピングを意味するようになったかは不明です。 注2: ローマ字入力よりかな漢字入力の方が本来日本語の入力方法だと思いますが、日本語と英語を使う必要がある方はローマ字入力を覚えると便利です。 注3: IME=input method editor、キーボードの組み合わせで英数、日本語、中国語etc.が入力できるようになります。 来年も皆様にとって良い年であることを祈念します。終。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/12/02 なぜ、私がパルスオキシメーター(動脈血酸素飽和度測定器)の紹介にこだわっているかというと、 この機械の測定原理は日本人科学者の青柳卓雄氏が発見していること この機械は世界中で普通に使われ多くの人を助けている医療機器であること この機械の原理は不変なので、心電図と同様100年以上使われると予想されること などがその理由です。 というわけで、前置きはそれくらいにして前回に続き、パルスオキシメーターに関する話題を続けます(注:今回で終了です)。 今回は、 (4)パルスオキシメーターの医療現場での役割 (5)青柳卓雄氏はノーベル賞候補だと言われているがそれは本当か? についての紹介と考察です。 (4)パルスオキシメーターの医療現場での役割 医療現場でどのように使われているか説明しましょう。大きく分けて3つの使い方があります。 診断 呼吸器疾患の治療判定 スポーツ医学への応用 の3つです。これらをご紹介しましょう。 1. 診断 パルスオキシメーターはさまざまな疾患、病態の診断に使われます。例を3つだけ挙げます。 ●低酸素血症の診断 前回お伝えしましたように、パルスオキシメーターは最初に手術室で使われました。全身麻酔をすると呼吸も止まります。呼吸が止まると酸素が全身に行き渡らなくなります。そのため、全身麻酔中には、人工的に肺に空気(酸素)を送りこむ必要があります。これを人工換気と言います。人工換気は麻酔医によってコントロールされます。手術中、患者さんの呼吸は麻酔医の管理下にあります。 何も起きなければ良いのですが、前回ご紹介したように麻酔事故は2000の手術に対して1件くらいの割合で生じていました。原因はさまざまですが、麻酔事故の大きな原因のひとつが低酸素血症でした。 麻酔は、純酸素に笑気をまぜたガス+麻酔ガス、静脈から投与する麻酔薬などを使って行います。酸素を充分に肺に送り込んで人工換気を行えれば良いのですが、酸素を流している管が外れたり、酸素ボンベの酸素がなくなったり、酸素と笑気の配管を間違えたり、麻酔中に喘息発作が生じたり、さまざまな原因で低酸素血症を生じることがあったのです。早期に低酸素血症を検出できないと、体に酸素が回らなくなり、死につながりかねない事故を引き起こします。このような怖い「低酸素血症」の診断を早期に感知することは、パルスオキシメーター開発以前は難しかったのです。 今はリアルタイムでパルスオキシメーターにより動脈血酸素飽和度を測っていますので、少しでも動脈血酸素飽和度が下がれば直ちに判ります。低酸素血症が生じるとアラームが鳴ります。パルスオキシメーターのおかげで今は10万件に1件くらいしか麻酔事故が起きなくなりました。これは「麻酔中の事故予防」という一般の方には目には触れないところでの応用です。集中治療室での人工呼吸器装着中のトラブルによる低酸素血症も激減しました。つまりパルスオキシメーターにより容易に「低酸素血症」が診断できるようになり低酸素血症により引き起こされる疾患が激減したのです。 ●呼吸不全、呼吸器疾患診断への応用 呼吸不全とは息ができにくくなる病気です。この病気の代表格はCOPD(慢性閉塞性肺疾患:chronic obstructive pulmonary disease)です。以前は慢性気管支炎、肺気腫と呼ばれていました。喫煙が、COPDの病因の9割を占めます。 先頃、落語家の桂歌丸さんがこの病気でお亡くなりになりました。桂歌丸師匠は缶ピース60本を50年以上吸っていたそうです。 歌丸さんは晩年、「たばこはもうやめました。あんな苦しい思いをするくらいなら、吸わない方がいい」と言って、COPDという病気や喫煙の危険についての啓発活動をしていました。お亡くなりになった時、呼吸器学会から追悼文が出るくらい喫煙の害について啓蒙をしてくださったのです(日本呼吸器学会「桂 歌丸 師匠を悼んで」)。 COPDの診断には動脈血酸素飽和度の測定が欠かせません。パルスオキシメーターがあれば、外来でも短時間でCOPDを疑うことができます。喫煙をしている方で、平地での動脈血酸素飽和度が90%を割っていたらCOPDを強く疑います。 他にも色々な呼吸器疾患の診断に欠かせません。 「息が苦しい」と訴えてくる患者さんがいます。そういう時、まずパルスオキシメーターで動脈血酸素飽和度を測定します。これが90%以下なら、酸素の投与を行い、酸素飽和度を上昇させてから、病歴を聞き、聴診器を当てて呼吸音を聞き、レントゲンを撮影し……というように診療します。 つい最近も、ある患者さんが「息が苦しい」ということで来院されました。パルスオキシメーターで動脈血酸素飽和度を測定すると80%しかありませんでした。呼吸音は聴診器で聞くと喘息の音に「似た」音を聴取します。喫煙歴はなく、胸部レントゲンで肺野はきれいです。肺炎や気管支炎、COPDではありません。動脈血酸素飽和度が80台だとかなり苦しいですし、危険です。重度の過敏性肺炎を疑い、直ちに大きな病院に入院していただきました。結局、元々肺塞栓(肺動脈に血栓が詰まる病気です)があり、それに加えて、自宅エアコンのダストによって生じていた過敏性肺炎により低酸素血症が生じていたことが解りました。この方は、治療が奏功し元気に活躍しています。 このように呼吸不全が一瞬にしてわかるのです。パルスオキシメーター開発以前、呼吸不全の診断は簡単ではなく、前回もお伝えしたように動脈血の直接採血が必要でした。 今はすべての救急車にパルスオキシメーターが常備されていて救急隊員の方は患者さんのところに到着すると直ちにパルスオキシメーターを指に装着して動脈血酸素飽和度を測ります。 隔世の感があります。 ●睡眠時無呼吸症候群(SAS)の診断への応用 睡眠時無呼吸症候群(SAS)とは睡眠中に呼吸が止まる病気です。睡眠中に呼吸が止まると動脈血酸素飽和度が低下します。パルスオキシメーターを寝ている間に指につけて、睡眠中の動脈血酸素飽和度を測定すれば、どの程度呼吸が止まっているか解析できます。呼吸が止まっている時間、頻度が高ければ治療が必要です。パルスオキシメーター普及以前、SASの診断は難しかったのです。今は、繰り返しますが容易に診断ができます。 SASと診断されないと、睡眠中の低酸素血症により、昼間の眠気や心筋梗塞、脳梗塞の発症率が上がります。SASが簡単に診断できることで多くの方が助かっています。 上記のことだけでなく他にも多くの病気の診断に役立っています。 2. 呼吸器疾患の治療判定 さまざまな呼吸器疾患の「治療判定」にパルスオキシメーターは極めて有用です。桂歌丸師匠は晩年、鼻に酸素吸入用のチューブを付けていました。あれを見ると酸素をどんどん投与すれば良いだろうと思う方も多いと思います。しかし、酸素を大量に(過剰に)投与するとかえって肺に障害が起きます。過剰酸素投与による肺障害を予防するには必要最小限の酸素投与量をを決める必要があります。パルスオキシメーターを用いると必要最小限の酸素の投与量がわかります。 COPDが進行すると大量に酸素を投与しても、動脈血酸素飽和度は上がらなくなります。「一日中、溺れているような気がする」とCOPDが進行した患者さんは言います。怖いことです。 さて、さまざまな疾患の診断に役立つパルスオキシメーターですが、未熟児の治療にも絶大な貢献をしています。あまり知られてはいませんが未熟児網膜症の発症予防に役立っています。 未熟児の網膜血管は文字通り「未熟」です。まだ網膜全体を網膜血管が覆う前に産まれてきます。未熟児は生後、クベースと呼ばれる保育器に入れられ、酸素の投与、温度の管理等が行われます。肺も未熟ですので、酸素投与が必要です。投与する酸素濃度が高すぎると網膜血管が収縮し、未熟児網膜症を引き起こします。このことは1951年から解っていました(文献10)。しかし、当時の医療技術では簡単に動脈血酸素飽和度を測定することができず、投与酸素濃度のコントロールは難しかったのです。未熟児の動脈血を採取すること自体至難の業です。未熟児網膜症を予防するために投与酸素濃度を減らすと、今度は呼吸不全などが生じて死亡率が上昇してしまいました。しかしパルスオキシメーターが簡単に使われるようになり、 未熟児網膜症にならず 呼吸不全も生じない、 動脈血酸素飽和度が段々と解るようになりました。そのおかげで、未熟児網膜症による失明者が激減したのです(文献11、12など多数)。 パルスオキシメーターとは別な話ですが、1968年未熟児網膜症に対する光凝固治療法が、世界に先駆けて天理よろず相談所病院の永田誠医師により開発され(文献13)、世界に広がります。 未熟児網膜症の発症予防には日本発のパルスオキシメーターが使われ世界中の失明したかもしれない患児を救い、不幸にして未熟児網膜症が発症してもその治療には日本で開発された治療が行われ失明を予防しているのです。日本人として誇らしいですね。 3. スポーツ医学への応用 最初に使われたのが、高山登山です。パルスオキシメーターで動脈血酸素飽和度を測りながら登れば安全です。酸素飽和度が低くなれば、酸素を補給すれば良いのです(文献14)。 @富士山頂 これは私自身が富士山頂で200mを速歩で歩いた後に、パルスオキシメーターで測定した動脈血酸素飽和度です。83%と著明に減少しています。かなり苦しいですね。しかし、立ち止まって深呼吸を数分繰り返すと、動脈血酸素飽和度は90%代後半になり息は楽になります。 富士山頂の酸素濃度は13%(平地は21%、エヴェレスト山頂は7%)です。正確に言うと酸素濃度は平地でもエベレスト山頂でも一緒ですが、気圧が違うので取り込める酸素が減るのですね。 映画「エベレスト:2015年」にエベレスト登山でパルスオキシメーターが使われている場面があります。この映画は実話を元にして作られていますが怪談よりも怖い映画でした。 それはともかく、パルスオキシメーターは登山以外のさまざまなスポーツでも使われています。 (5)青柳卓雄氏はノーベル賞に擬せられているが、それは本当か? これは資料がひとつしかありません。文献6に、1997年の初秋、小児麻酔学会で特別講演されたスウェーデンのLindahl医師は「ノーベル賞選考委員の一人だ」と紹介されました。Lindahl先生は講演後に「ノーベル賞に是非推薦したい人がいる。それはパルスオキシメーターの原理を発見した青柳青柳卓雄氏だ」と述べたそうです。 Lindahl氏とは、Karolinska Institute:Department of Physiology and Pharmacology :Sten Lindahl教授のことでしょう。私はもしノーベル賞がパルスオキシメーターに対して授与されるなら受賞するのはパルスオキシメーターの原理を発見した青柳卓雄氏とパルスオキシメーターを臨床使用できるように改良して、世界中に広めたニュー医師(Dr. William New Jr.:1942-2017)だと思っていました。残念なことにニュー医師は2017年にお亡くなりになっています。 ノーベル賞はともかく、世界中で多くの人々を助けている(今後も助ける)パルスオキシメーターですが、最初にこの原理を考えついたのは日本光電の青柳卓雄氏とコニカミノルタの山西昭夫氏です。特許出願は青柳卓雄氏の方が早く出していますし、学会で発表し、論文にもしていますので発明者は青柳卓雄氏ということになっていますし、欧米の教科書にもパルスオキシメーターの原理の発明者は「TAKUKO AOYAGI」であると明記されています。しかし、このパルスオキシメーターが世界に普及するに当たり、山西昭夫さん、コニカミノルタグループの果たした役割は極めて大きかったのです(関連記事:大勢の人を助けている機械は日本で発明されたけれど最初に普及したのは米国(2))。 心電図は1906年に基礎的論文が出されています。それから100年、今も心電図の代わりになる機械はありません。原理は不変だからですパルスオキシメーターもその原理は不変ですので、将来にわたり使い続けられ、多くの人々を病気から救ってくれると思います。 追記: 青柳卓雄氏は2020年04月18日、老衰のため逝去されました。享年84歳。 青柳さんがその原理を発見したパルスオキシメーターは、これまでもそしてこれからも多くの人を助けることでしょう。 医学の世界に大きな足跡を残した偉大な生涯でした。 ご冥福を心からお祈り申し上げます。 【参考文献】 青柳卓雄et al.:イヤピース・オキシメータの改良 医用電子と生体工学 12(Suppl), 90-91, 1974 注:パルスオキシメーターの原理を期した歴史に残る論文です。日本語です。ぜひご覧ください。 青柳, 卓雄:生体組織透過光の脈動に基づく血中吸光物質濃度の無侵襲測定(脈波分光法)の研究 東京大学 , 博士 (工学) , 乙第11517号 , 1993-12-09 青柳氏は、研究を進めて博士号を取得しています。 Nakajima S, et al.: Performances of new pulse wave earpiece oximeter. Respiration and Circulation 23: 41-45, 1975. 世界で初めて、パルスオキシメーターを臨床応用した論文です。 "Prevention of retinopathy of prematurity in preterm infants through changes in clinical practice and SpO2technology". Acta Paediatrica. 100 (2): 188-92. doi:10.1111/j.1651-2227.2010.02001.x. PMC 3040295・Freely accessible. PMID 20825604. 青柳卓雄「パルスオキシメータの誕生とその理論」:日本臨床麻酔学会誌 日本臨床麻酔学会誌 10(1), 1-11, 1990 血液ガスをめぐる物語:諏訪邦夫著 中外医学社刊 2007年 医療機器の歴史:久保田博南 著 真興交易社刊 2003年 Severinghaus JW, Honda Y. History of blood gas analysis. VII. Pulse oximetry.J Clin Monit. 1987 Apr;3(2):135-8. 中島進、大崎能伸:「旭川医大におけるパルスオキシメーターに関する研究と世界的普及の経過について」 旭川医科大学研究フォーラム. 12 (1) , pp.27 - 33 , 2012-2. Campbell K. Intensive oxygen therapy as a possible cause of retrolental fibroplasia: A clinical approach. Med J Aust 1951 ; 2 : 48-50 .Christina G Anderson MD,et al.「Retinopathy of Prematurity and Pulse Oximetry: A National Survey of Recent Practices」 Journal of Perinatology volume 24, pages 164-168 (2004) 東京女子医科大学 元母子総合医療センター所長・教授 仁志田 博司先生によるパルスオキシメーターが未熟児網膜症発症予防に果たした役割が書かれています。 ↓ 近代新生児医療発展の軌跡 http://h-nishida.com/07shiseijirekishi.html 注:西田先生の発案により山梨県白州町に、難病の子供も泊まれる施設「青空共和国」が建設されています。 永田 誠,小林 裕,福田 潤,他.未熟児網膜症の光凝固による治療.臨眼 1968 ; 22 : 419-27. 関 和俊.「富士山登山における心拍数 ,SpO2 および. 自覚症状スコアの変化」. *川崎医療福祉学会誌 Vol. 17 No. 1 2007 113-119. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/11/18 前回ご紹介したパルスオキシメーターは、動脈血にどれくらい酸素が含まれているか(=動脈血酸素飽和度)を測定できます。 動脈血酸素飽和度の海抜0mで測定するなら95%以上が正常値です。もしその値が90-95%なら軽度呼吸不全、90%以下は呼吸不全を示し酸素の投与を要します。指にパルスオキシメーターを付ければ、10秒程度で動脈血酸素飽和度が測れるのです。 くどいですが、パルスオキシメーター出現以前は、動脈血を採取して酸素飽和度を測定していました。動脈血の採取は、普通の採血と違い熟練を要します。動脈血採血自体が少し難しいのです。動脈血を採取しても、その測定には特殊な大型機械が必要でした。一般のクリニックに置けるような機械ではありません。でも今は違います。簡単に動脈血酸素飽和度を測ることができます。そういう夢のような装置の原理は日本で発表され、試作品が作られました。 今回は、下記(1)~(3)についてご紹介しようと思います。 (1)パルスオキシメーターの原理 (2)パルスオキシメーターが、原理を発見した日本からではなく、なぜアメリカから世界に広がったか? (3)パルスオキシメーターの原理の発見者は青柳卓雄氏であることは世界中の呼吸関連の教科書に載っているが、その元となった論文は日本語で書かれているのに、なぜ欧米の教科書にも引用されているのか? について記します。次回は(1)~(3)に続き、 (4)パルスオキシメーターでどのような病気がわかるのか? (5)青柳卓雄氏はノーベル賞候補だと言われているがそれは本当か? などについてのさまざまなお話を紹介しようと思います。 順を追って説明いたします。 (1)パルスオキシメーターの原理 まずはパルスオキシメーターの原理の説明をしましょう。難解だと思われるでしょうが、原理はシンプルで“美しく”、“エレガント”です。 図1:コニカミノルタ社のサイトから引用です。 (https://www.konicaminolta.jp/healthcare/knowledge/details/principle.html) 血液は「赤い」ですね。これは赤血球の中にあるヘモグロビンという色素の色です。ヘモグロビンは酸素と結合すると「鮮やかな赤色」を示します。いわゆる動脈血の色です。酸素が少ないと「黒っぽく」なります。いわゆる静脈血の色です。採血される血液は黒っぽいですね。これは酸素が少ない静脈血だからです。 さて、動脈血酸素飽和度とは、動脈血の中で酸素と結合しているヘモグロビンがどれくらいあるかを調べることです。簡単に言うと、酸素が多く含まれている動脈血は「赤い」ので赤さの度合いを測定すれば良いのですね。パルスオキシメーターは赤色を発するLED部分とその光をうける部分とでできています。 赤色を発すると記しましたが、実はこの赤色は2種類出ています。 普通の赤い色の光 Red 赤外光 Infra Red(赤外線) の2種類です。1.の普通の赤い色の光は動脈血の色で透過性が変わります。動脈血酸素飽和度が低い黒い血液は、光を通さないのです。一方、2.の赤外光は「黒い血液」も「赤い血液」も同じくらい通します(図1参照)。つまり、1と2の光の通過具合を比較すれば、酸素飽和度が測定できるのです。 図2にその原理を示します。R(Red:普通の赤色)、IR(Infra Red:赤外光)です。 図2:パルスオキシメーターの原理図 図2(左)は酸素を多く含んだ赤い動脈血が流れる指に2色の光を当てた場合です。赤い動脈血は「赤い色」を透します。透すから「赤い」のです。 一方、図2(右)は酸素をあまり多く含まない血液が通る指に2色の光を当てた場合です。酸素をあまり多く含まない血液は「赤い色」を通しません。「赤い色」を透さないので図1に比して黒くなります。 センサーで受ける赤い色=Rと赤外光=IRの比率(R/IR)を感知することができれば、血液の「赤色度」=酸素飽和度がわかることになります。簡単な原理です。青柳卓雄氏自身「こんな旨い話がこんな手近なところにあるとは信じ難いことだった」と記しています(文献5)。 この原理を青柳氏が「1972年」に考えついたのは偶然です。もっと以前でも、もっと後でも不思議はありません。パルスオキシメーターの普及には特殊な機器、電子回路、パソコンのソフトなどが必要でしたが、原理を考えつくのに特殊な機械が必要なわけではなく、何時、その原理が考えつかれても不思議ではありません。パルスオキシメーターの原理を1972から1974年にかけて、日本人研究者が全く別々に発見した「偶然」をとても面白く感じます。 (2)なぜ、日本でなくアメリカで広まったか? 前回簡単に触れましたが、日本光電だけでなく、コニカミノルタでもパルスオキシメーターが開発されていました。コニカミノルタ製のパルスオキシメーターは2つの特色を持っていました。 指で測定できる(日本光電製の試作機は耳朶での測定) デジタルでの表示が出来る(日本光電製の試作機はアナログ) そして、コニカミノルタはパルスオキシメーターをアメリカに持ち込んで臨床試験を行いました。1970年代半ば、コニカミノルタがパルスオキシメーターを持ち込んだ先のひとつがスタンフォード大学の麻酔科でした。 現在、麻酔事故が起きればニュースになりますが、1970年代、麻酔事故は頻繁に起きていて、麻酔事故はニュースになるようなことはあまり無かったと思います。酸素不足やお薬の過剰投与による低酸素血症による麻酔事故が結構起きていたのです。そういう時代でした。スタンフォード大学の麻酔科医師にニュー医師(Dr. William New Jr.:1942-2017)は、この「日本発祥の」パルスオキシメーターを有効に使えば麻酔事故が劇的に減ると気づいたのです。 今から考えると当たり前のことですが、当時この重大事に気づいたのはニュー先生だけでした。多くの日本人の医師も、この機器を使っていましたが、この重大事に気づいた方はいなかったのです。いても、自ら工業化して世界中に広めようと考えた方はいなかったと記す方が正しいかも知れません。 ニュー先生は違います。麻酔科医として働くのを止め、ネルコア社という会社を設立し、このパルスオキシメーターの改良と普及に取り組みます。改良に次ぐ改良を行い、ついに1981年、ネルコア社は自社製のパルスオキシメーターの開発に成功します。とても使いやすい機械でした。 その機械は世界中で売れまくりました。私が医師になって最初に使ったパルスオキシメーターもネルコア社製でした。まだ初期の製品で、かなり高価でしたが、とても使いやすい機械でした。 日本では当時、手術室への導入はあまり進んでいませんでした。本格的に麻酔器に装着され始めたのはおそらく、1980年代後半だと思います。それまで麻酔中の患者さんの動脈血酸素飽和度は、「顔色を見る」か「動脈血を採取しての直接分析」しかありませんでした。 1980年代後半から1990年代にかけて、パルスオキシメーターがほとんどの手術室に配置されるようになり、麻酔科医、外科医、手術スタッフの誰でもリアルタイムに動脈血酸素飽和度を知ることができるようになったのです。これは画期的でした。日本中で麻酔事故が激減したのです。それはアメリカでも世界でも同様です。色々な推定がありますが、おそらくは50分の1に減ったとされています(文献6)。ニュー医師の推測は正しかったのです。 ニュー医師のパルスオキシメーター改良にかける熱意、意思により、この機械が世界中に広まり、多くの患者さんが助かりました。素晴らしいことです。こういう医業と工業を結びつけることを「医工連携」と言います。恐らく、ニュー医師は、医学はもちろん工学にも知識があったのでしょう。日本で、この機械の価値が解った医師も多かったと思います。しかし、職を辞してでも、この機械を改良してやろうと思った日本人医師は皆無だったのが少し残念です。 パルスオキシメーターが普及し始めた当時のことです。患者さんの「顔色」を見て動脈血酸素飽和度を推測!していた麻酔科の先生の一人が「こんな機械(パルスオキシメーターのこと)があると“麻酔科医は患者を見なくなる”」と言って怒っていたのを懐かしく思い出します。もちろん、その先生が間違いです。「顔色で推測した動脈血酸素飽和度」と「パルスオキシメーターで測定した動脈血酸素飽和度」の間には天と地ほどの差があります。比べることができません。今では、パルスオキシメーター無しの麻酔器は考えられません。それは世界中の手術室でも同様です。 (3)パルスオキシメーターの原理の発見者は青柳卓雄氏であることは世界中の呼吸関連の教科書に載っているが、その元となった論文は日本語なのになぜ世界中に広まったのか? ニュー医師が興したネルコア社はアメリカの会社ですので、パルスオキシメーターはアメリカで発明された機械だと思っていました。 ある時、日本光電の方と話す機会があり、原理は日本それも日本光電で考えられたと知りびっくりしました。それから、折節、パルスオキシメーター関連の論文や文献を読むようになったのです。そうしたある時、カリフォルニア大学の麻酔科のセブリングハウス教授と千葉大学生理学本田良行教授がパルスオキシメーターの歴史について記した論文を読む機会がありました(文献8)。 その論文名は「History of blood gas analysis. VII. Pulse oximetry.」です。そのものズバリです。 パルスオキシメーターの原理の発見者は Takuo Aoyagi 氏だと書かれています。前回紹介した「手書きの日本語論文」も紹介されています。恐らく、本田教授が日本語から英語に翻訳して、セブリングハウス教授に紹介したのだと思います。セブリングハウス教授は血液ガス分析の大家ですから、この論文が世界中で引用され、青柳卓雄氏がパルスオキシメーターの原理の発見者であることが世界中に知れ渡りました。セブリングハウス教授に感謝しないといけないですね。 セブリングハウス教授と本田良行教授が、青柳卓雄氏の論文をいかにして発見したかの経緯が(文献9)に詳しく書かれていますので、簡単に紹介しましょう。 1986年、カナダのバンクーバーであった国際生理学会でセブリングハウス教授と本田良行教授が出会います。セブリングハウス教授は当時、米国でそして世界で急速に普及しつつあったパルスオキシメーターの歴史を書くつもりでいるが、どうも日本に「パルスオキシメーターの元」があるらしい、「コニカミノルタの Nakajima が論文を書いているらしい」ので調べて欲しいと本田教授に依頼したのです。 本田教授が調べたら「コニカミノルタの Nakajima」ではなくて、「北大の中島先生が世界で最初のパルスオキシメーターの臨床応用論文」を発表していることがわかりました(文献3)。本田教授から中島先生に連絡が行き、中島先生が使用したパルスオキシメーターは日本光電製であること、その原理は青柳氏が論文にしていることがわかり、それがセブリングハウス教授に伝わり、論文になったのです。実に面白い話です。インターネットでもこの論文は公開されています(http://jairo.nii.ac.jp/0010/00004517)。是非、お読みください。 色々な偶然と、セブリングハウス教授の熱意がなければ、今でも、パルスオキシメーターは米国で最初に発明された機械と誤解されていたかも知れません。 図3 1:心電計+パルスオキシメーター、2:携帯型パルスオキシメーター、3:旧来のパルスオキシメーター どんどん小さくなり、値段も数千円になり、Amazonでも購入できるようになりました。隔世の感があります。 次回に続きます。 【参考文献】 青柳卓雄et al.:イヤピース・オキシメータの改良 医用電子と生体工学 12(Suppl), 90-91, 1974 注:パルスオキシメーターの原理を世界で初めて記した、科学の歴史に残る凄い論文です。 日本語で書かれています。是非お読みください。探せない方は筆者まで連絡をください。 青柳, 卓雄:生体組織透過光の脈動に基づく血中吸光物質濃度の無侵襲測定(脈波分光法)の研究 東京大学 , 博士(工学), 乙第11517号 , 1993-12-09 青柳氏は、研究を進めて博士号を取得しています。 Nakajima S, et al.: Performances of new pulse wave earpiece oximeter. Respiration and Circulation 23: 41-45, 1975. 世界で初めて、パルスオキシメーターを臨床応用した論文です。 "Prevention of retinopathy of prematurity in preterm infants through changes in clinical practice and SpO2 technology". Acta Paediatrica. 100 (2): 188-92. doi:10.1111/j.1651-2227.2010.02001.x. PMC 3040295Freely accessible. PMID 20825604. 青柳卓雄「パルスオキシメータの誕生とその理論」日本臨床麻酔学会誌 日本臨床麻酔学会誌 10(1), 1-11, 1990 血液ガスをめぐる物語:諏訪邦夫(著) 中外医学社 医療機器の歴史:久保田博南(著) 興交易社 Severinghaus JW, Honda Y. History of blood gas analysis. VII. Pulse oximetry.J Clin Monit. 1987 Apr;3(2):135-8. 中島進、大崎能伸「旭川医大におけるパルスオキシメーターに関する研究と世界的普及の経過について」旭川医科大学研究フォーラム. 12(1) , pp.27 - 33 , 2012-2. 余計?な注: 最近パルスオキシメーターで測定不能なことを多々経験するようになりました。爪へ過度な「ネイルアート」が施されているためです。 ネイルアートが施されていると、パルスオキシメーターを装着しても光が透過しないため、測定不能です。 この程度の色のネイルアートなら、赤色光も、赤外光も透過しますので、酸素飽和度の測定が可能です。 しかし、黒いネイルアートを施すと、測定できません。光が指を透過しないからです。少しだけ、このようなことを頭に置いてネイルアートを施してください(手と足は違う色で、または手と足の一方のみネイルアートを施すetc.)。 ま、本当のところ裏技があり、いくらネイルアートを施していても測定はできるのですが、少し面倒です。 ネイルアート、マニキュアとパルスオキシメーターに関する論文は多数出ています。 例:「パルスオキシメータにおけるマニキュア使用と外乱光の影響についての基礎的検討:医科器械学 73(4), 207, 2003-04-01」など。。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/11/05 ノーベル医学生理学は「生理学および医学の分野で最も重要な発見を行った」人物に授与されています。どういう基準で授与されるかは不明です。「重要」の解釈が難しいからです。 ノーベル生理学・医学賞は、ざっくり分けると、 人を含めた生物が生きる仕組み、病気になる仕組みを解明した発見 実際に病気の診断や治療に役立つ診断器具やお薬の開発 の2系統に分かれます。 もちろん1.→2.に行く場合も多いので厳密に分けるのは難しいですね。 今年(2019年)のノーベル医学生理学賞は「細胞の低酸素応答の仕組みの発見」に対して授与されました。これは、1.に該当すると思います。 一般の方にもわかりやすいのは2.の方ですね。実際に人を助けるお薬やさまざまな医療機器の開発はわかりやすいです。例えば、ペニシリンの発見、心臓カテーテル法の開発、CTの開発、MR(核磁気共鳴装置)の開発、ピロリ菌の発見、エイズウイルスの発見 などです。大村智先生、本庶佑先生は2.に該当します。 2.に分類される実際に役立つ方法を開発したノーベル賞受賞者の中には「外科医」が3名います。 血管縫合法を開発したフランス人「アレキシス・カレル」 (野口英世の同僚で、野口をノーベル賞に推薦してくれています。今でもカレルの考案した手術法は使われています。) ↓ https://www.health.ne.jp/library/detail?slug=hcl_column150541&doorSlug=dr 精神病に対する前額部大脳神経切断(ロボトミー)を行ったポルトガル人「エガス・モニス」 (今、この手術は行われていません。悲惨な結果になったからです。) 腎臓移植を世界で最初に行った形成外科医の「ヨセフ・マレー」 (もちろん、腎臓移植は世界中で行われています。) の3名です。 なお、カレルは臨床医ではありません。モニスも神経科医で外科医と一緒にロボトミー手術を考案していますが、元は外科医ではありません。純粋な外科医でノーベル賞を受賞したのは形成外科医の「ヨセフ・マレー」医師だけです。 もし次に外科医がノーベル生理学・医学賞を受賞するなら、それは内視鏡手術を考案し世界中に広めたフランスの開業医「フィリップ・ムレ博士(Philippe Mouret, M.D.)」になるだろうと言われていました。しかし、残念なことにムレ博士は2008年にお亡くなりになってしまいました。 閑話休題…… 「人を助ける」お薬、医療器具、手術方法の開発は大変ですが、成功すると、多くの人が助かります。例えば大村智先生の発見したイベルメクチンはさまざまな病気に効果があり、そのおかげで約2億人が助かると言われています。ある意味、助けた人数、助けられる人数が多い薬や機械を開発すると「ノーベル賞」への道が開けることになるかもしれないですね。 今回、次回は、ほとんどの日本人には知られていないけれど、世界中で実に多くの人の命を助けて、今後も将来にわたって多くの人の命を助ける機械の原理の発見者は日本人で、将来ノーベル賞を受賞するかもしれないという話を紹介します。 その方の名前は「青柳 卓雄(あおやぎたくお)」さんです。日本光電工業の技術者です。2015年にはその功績に対して「IEEE Medal for Innovations in Healthcare Technology」を授与されています。受賞理由は「For pioneering contributions to pulse oximetry that have had a profound impact on healthcare.医療に対して極めて重要なインパクトを与えたパルスオキシメーター開発の貢献に対して」というものでした。【注: IEEE アイトリプルイー[Institute of Electrical and Electronics Engineers]米国電気電子学会のことです。】 皆さんも、医療機関で青柳さんがその測定原理を発明した機械を目にしたこともあるかと思います。 その機械の名前を「pulse oximeter=パルスオキシメーター」 と言います。動脈血の酸素飽和度を測定する機械です。 図1:パルスオキシメーターで動脈血酸素飽和度を測定しています。 この方の動脈血酸素飽和度は100%で心拍数は56回/分です。 私が医師になった当時、このような機械はありませんでした。動脈血酸素飽和度を測定するには動脈を穿刺(せんし=刺す)して動脈血を採取しないと調べられませんでした。簡単ではありませんでした。それがいまや簡単に測れます。痛みを伴いません。時代は変わりました。 この機械の測定原理は、1974年のME学会で青柳氏が発表し、論文にしています。日本語で書いています。手書きです(文献1 ←実際にご覧いただけます)。 学会で発表する2年前の1972年にこの原理を発明したと日本光電のホームページ(https://www.nihonkohden.co.jp/information/history_detail.html)で紹介されています。 原理を発見し、特許の申請をしてから、1974年のME学会で発表したのです。用意周到です。先に学会発表をしてこの原理を公表してしまうとそれは「公知の事実」となり特許は成立しません。 パルスオキシメーターの開発当初の出来事を時系列で紹介しましょう。 1972年:青柳卓雄氏が原理を発明 1974年3月29日:特許を出願。タイトルは「光学式血液測定装置」 発明者は、青柳卓雄、岸道男。出願者は「日本光電工業(株)」 1974年4月26日:特許出願の翌月、青柳氏は日本ME学会大会でその原理を発表 それとは前後しますが、 1974年4月24日:パルスオキシメーターの開発を独自に進めていたミノルタカメラ(現コニカミノルタ)の山西昭夫氏が青柳氏とほぼ同様な原理を用いた機械を「オキシメーター」の名前で特許出願。 日を置かずして、日本で2つの全く別な会社の別な研究者が、このパルスオキシメーターの原理を発明したことになるのです。両社は全く技術交流が無かったそうですから不思議な話です。 1975年:日本光電はパルスオキシメーターの実機を発売(耳朶でのみ測定)。 北海道大学出身の外科医中島 進先生がこの機械を使って世界で初めて患者さんへの臨床使用を行っています(文献3)。しかし、当の青柳卓雄氏が異動により当該部署を外れたため、日本光電におけるパルスオキシメーターの開発が一時中断してしまいました。残念な話です。 1977年:コニカミノルタが世界初の指先で測定できるタイプのパルスオキシメーターを商品化。この指先で測定するパルスオキシメーターがデファクトスタンダード(de facto standard)となりました。 大変残念なことに、日本で発明されたこの機械はアメリカで改良されて使いやすくなり、急速に普及したことで製造単価が下がり、アメリカから全世界に普及しました。アメリカで機械の改良がなされたと記しましたが、その部品の多くは日本製でした(http://tech.nikkeibp.co.jp/dm/article/COLUMN/20140713/364980/?ST=nxt_thmdm_new_industry)。何となく悔しい話です。 図2:パルスオキシメーターに必須の赤い色を出すLEDが左側に右側に受光部があります。 アメリカで開発された当初、このLEDと受光部はなんと日本製(スタンレー電気社製)でした。 さてなぜ アメリカでこのような改良が成されたのでしょう。 1974年に青柳氏が書いた日本語の手書き論文が欧米の教科書に取り上げられ、青柳氏がこのパルスオキシメーターの原理の発明者であると紹介されているのはなぜか、英語にしないと認められないと言っているのになぜ日本語の論文が取り上げられているのか? ノーベル賞に推薦されているのは本当か? パルスオキシメーターはどんな病気の診断や治療に使えるのか? など、パルスオキシメーターに関する色々な話題は次回に続きます。 【参考文献】 青柳卓雄et al.:イヤピース・オキシメータの改良 医用電子と生体工学 12(Suppl), 90-91, 1974 注:パルスオキシメーターの原理を世界で初めて記した、科学の歴史に残る凄い論文です。 日本語で書かれています。是非お読みください。探せない方は筆者まで連絡をください。 青柳, 卓雄:生体組織透過光の脈動に基づく血中吸光物質濃度の無侵襲測定(脈波分光法)の研究 東京大学 , 博士(工学), 乙第11517号 , 1993-12-09 青柳氏は、研究を進めて博士号を取得しています。 Nakajima S, et al.: Performances of new pulse wave earpiece oximeter. Respiration and Circulation 23: 41-45, 1975. 世界で初めて、パルスオキシメーターを臨床応用した論文です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/10/21 投入堂から「下界」を眺めに 承前、長々と前文を書いてしまいました。話があちこちに飛び、申し訳ありませんでした。実は司馬遼太郎の真似をしたのです(笑)。 さて、国道9号線を東に向かい、一路、投入堂を目指しました。 余談ながら国道の横には高速道路があり、そちらを使った方が少し早く着きます。しかしそれでは味気ないです。前回でも書いたように国道9号線は古くからある道です。風情があり、眺めも良いのです。国道9号線は海沿いの道です。美しい日本海を眺めながらの運転は気持ちが良いです。ただし、人家が多く無いので信号機が少ないのです。一般道を車で長時間運転する際、時々は信号で止まらないと神経が休まらないので疲れますね。 それはともかく国道9号線から倉吉市を通り、鳥取県東伯郡三朝町にある「投入堂」に向かいました。途中、海沿いから山中の道に変わります。山の中の道は、森の緑が実に美しく、この辺りの山間の「豊かさ」を感じます。かなり山奥に入ります。今でも山奥です。この投入堂が作られた当時は、もっと山奥で道も今とは違って細かったでしょう。そんなところにお寺を、お堂をなぜ作ろうかと思ったのが、つくづく不思議です。 そんなことを考えながら、美しい緑を楽しみながらドライブしているうちに投入堂の登山口につきました。今はレンタカーにも「ナビ」が大抵ついているので迷わずに済みます。人生にも「ナビ」があれば迷わないのにと余計なことを思ってしまいます。 駐車場に車を置いて入山口に向かいます(図1、図2参照)。結構急な階段です。最初の難所?です。 図1:国道から入山口までの階段 図2:入山口から国道を見下ろす 投入堂は、前回でも記したように鳥取県東伯郡三朝町にある標高900mの三徳山(みとくさん)に境内を持つ「三佛寺(さんぶつじ)」の一番山奥にある奥院(おくのいん)です。奥院は大切な本尊、お経などお寺の宝物を安置する場所です。投入堂にも大切な仏像が安置されていましたが、それらの仏像は投入堂から移設されて誰でも行ける場所にある「宝物殿」で拝観することができます。 入り口にある急な階段を登り切っていよいよ投入堂に登ろうとしましたが、なんと「一人では登れない規定になっているので、あなた一人での投入堂行きは許可できない」と言われました。雨や雪の日は登れないことは承知していましたが(冬期は閉鎖されています)、「一人で登れない」という規定になっているとは知りませんでした。あとで確認すると確かに投入堂のHPにはそのように書いてあります。 三徳山一帯は本来仏道修行の場所です。細かい規定があり、それに従わないと登れないのです。登山のための靴もお坊さんのチェックが入ります。よかれと思った登山靴でもそれが入山に適していないと判断されると入山できません。靴が無いと登れません。そういう人のために、登山用の草鞋(わらじ)!が用意されています。借りても良いですし、あとで購入もできます。 図3:貸してくれる草鞋です。草鞋は持ち帰ると700円でした。 さて困りました。私の靴は投入堂登山に適している判定されましたが一人で行ったので、登ることができません。受付にいるお坊さんに、どうにかならないだろうかと頼んだのですが、投入堂登山で多くの怪我人(!)や死者(!)が出ているので、「警察のお達し」により、一人での登山は絶対禁止だと言われました。一人だと、転落しても解らないからダメなのだそうです。 途方に暮れていたら、「大丈夫ですよ、1時間も待てばあなたと同じで一人で登りに来る方がいるから一緒に登れば良いです」と言われました。それで待ちました。次から次に投入堂に登るグループがやってきます。グループと一緒なら構わないのではないかと思いその旨を伝えました。しかし、グループと一緒はダメだと言われました。「一人で投入堂に行く(登る)人を待ってください。一人で来た方とあなたが一緒に登れば良いのです。」と言われました。 待つこと小一時間、ようやく受付に一人で投入堂登山に来た方がいます。外国人の女性でした。受付の方が英語で「一人での投入堂登山は禁止されている、幸い、今一人で来て困っている人(私のことです)ので、一緒に登ってはどうか?」と言ってくれました。彼女が「no problem.」と言ってくれました。それで、一緒に登ることになりました。 福岡県に住んでいる米国人でした。日本語がある程度通じるので助かりました。彼女の靴は、投入堂登山に適さないと判断されてしまい彼女は草鞋で登ることになりました。草鞋を履いたことが無いのでとても面白いと言っていました。 図4:草鞋を履くとこんな感じですね。 結構険しい山道です。投入堂に登る山域は修行場ですので「輪袈裟(わげさ)」を首にかけます。登り始めると、いかにも「修行場」という雰囲気が伝わってきます。普通の登山とは何となく感じが違います。登山道には緑が満ち満ちています。本当に気分の良い道です。私の乏しい語彙力では表現が出来ませんが、心地よい中に霊験さを感じます。 図5:途中の風景 図6:鎖場です。 図7:こんなところも登ります。 図8:こんなところもあります(写真掲載の許可を得ています)。 同行の彼女が登れるかどうか心配していましたが、杞憂でした。彼女は随分と軽々と登っていきます。崖道、岩の道をすいすいと登っていきます。聞いたら、アメリカでロッククライミングをやっているとのことでした。 図9:途中、安全を祈願して鐘を突きます。 登ること1.5時間、ようやく投入堂に着きました。途中、かなり危険な箇所もあります。確かに「見に行くのには危険」な建築物だと思います。 図10:投入堂遠景1 図11:投入堂遠景2(岩の一部を削り取り、その上に柱を立てその上に御堂が乗っています。まさに「投げ入れた」としか思えません。) これを見ていると「今から1000年も前にどうしてこのような場所に御堂を作ろうと思い立ったのか?」などと思い、また実際に作ってしまった「人間の不思議さ」や「知恵」に感動します。見ていると不思議な気持ちになれます。1000年経っても朽ち果てずにきちんとしたカタチで建っている理由を素人ながら考えて見ました。 崖の中に埋め込まれるようにして作られている=雨に濡れない 北側を向いている=日光に晒されない 簡単には登れない=悪意を持って壊される可能性が少ない きちんとした維持管理がなされている(定期的にメンテナンスが施されています) などの理由で1000年近く、無事に建っているのでしょう。それでも台風や大地震などを経ても立派に建っているのをみると「健気」だなと思いますし、遠目に見ても、その尊さが解ります。 さあ、ここから投入堂まで最後の「登り」と思ったのですが、なんとそれ以上は進入禁止となっています。 図12:右手に柵があります。 昔は、投入堂まで、登ることができて、投入堂から下界を眺めることができたのです。あとで聞いたら最後の登りで滑り落ちて死人が続出したことと古い投入堂に人が入って荒れる危険性があるために、投入堂管理や研究など特殊な事情が無い限り、投入堂本体には登れないことになってしまったのです。前回、「当時写真に撮らなかったのが返す返すも残念」と書いた理由を解ってくれると思います。とても残念です。しかし、不心得者がいて、火でも使われたら1000年保った御堂も灰燼に帰します。今のように柵で防御した方が良いのだと思っています。 さて帰り道です。途中に国の重要文化財に指定されている室町時代に建てられた「文殊堂」があります。 図13:文殊堂 ここには入ることができます。そして周囲に廊下があり、そこから「下界」を眺めることができます。 図14:文殊堂からの眺め かなり高いところにあり、手すりも無いので怖いのです。しかし、眺めはとても良いです。 さて、この写真図13-14を見て皆さん、何か気づきませんでしょうか?人工物がほとんど見えないのです。今の日本でこのように人工物の無い風景を見ることはほとんどできません。貴重な風景です。 慎重に山を降り、無事、登山を終えることができました。修行終了です。 図15:返却した草履です。洗ってから干して再使用するそうです。 同行してくれた彼女の話です。「草鞋は歩きやすかった」、「もっと危険かと思ったけれど、大して危険とは思わない」、「1000年も前から建っていたとは思えないくらい投入堂はきれいだった」、「アメリカには1000年前の建物は無いのでこういう建築物が残っている日本がうらやましい」、「山陰旅行は楽しい、なぜなら人が少ないから渋滞がない。日本は連休中に出かけると渋滞するが山陰は渋滞しなかった」、「山陰は海も山もきれい」、「食べ物が美味しい」などと言っていました。 最後に、司馬遼太郎が絶賛した「豆腐」を食べようと思いましたが、お客さんが一杯で残念なことにまた食べられませんでした。また、いつか機会があれば再訪しようと思っています。 この随筆の最後に三佛寺の「厄除け祈願」の御札をお目にかけましょう。なんとも絵柄がシュールです。 注1: JALの英文サイトでも投入堂が紹介されていました。 注2: 三徳山三仏寺の公式ホームページ このホームページ内には登山の注意が書いてあります。投入堂に行く方は是非読んでから行ってください。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/10/07 なぜ「二十世紀梨」が鳥取県で多く栽培されているかもわかる司馬遼太郎の紀行文 昨年、鳥取県に行く機会がありました。5年ごとに開催される大学のラグビー部の同窓会があったのです。 折角行くのだから、久しぶりに色々なところを見ようと思い色々なところに行く計画をしました。 さらに折角行くのだから、司馬遼太郎の「街道をゆく 27 因幡・伯耆のみち(朝日文庫)」を再読しました。鳥取県の東半分は元は因幡国(いなばのくに)、西半分は元は伯耆国(ほうきのくに)です。「因幡・伯耆のみち」と題することで、鳥取県全体を歩いたことを示しています。 「街道をゆく」シリーズは司馬遼太郎が、1971年から腹部大動脈破裂で急逝する1996年まで、日本各地や諸外国を訪れ、訪れた土地の紹介やその土地に行って感じたことなどを記した人気のあるシリーズです。 20年ぶりに読み返しました。内容はほとんど忘れていました。再読してびっくりしました。かなり細かいところを丁寧に調べています。鳥取に行ったきっかけも面白いのです。司馬遼太郎はかかりつけの開業医・安住先生の人柄に興味を抱き、安住先生の出身地だった鳥取を訪れることにしたと記しています。書き出しが素晴らしいです。愛情とユーモアにあふれています。 司馬は「看護師が5人もいる」がゆえに「安住先生のところは儲からない」などと書いています。このように書くと嫌らしいですが、全く嫌みがありません。安住先生の人柄や医師としての力量をそれとなく褒めているのです。こういう書き方は普通の人にはできないです。すっと頭に入る書き出しです。 鳥取に関する調査も行き届いています。ええ?こんなことまでしらべるの?と思うくらいよく調べています。 一例をあげます。鳥取は「二十世紀梨」が有名です。普通の作家なら鳥取に行って梨を食べた。美味しかったくらいで済んでしまうのでしょう。しかし司馬はなぜ「二十世紀梨」が鳥取県で多く栽培されているかを調べています。実は「二十世紀梨」は千葉県で偶然に見つかった特別な梨です。 1888年(明治21年)、千葉県松戸市に住んでいた松戸覚之助氏(13歳)が親戚の家で見つけた梨の苗木を譲り受け、それを実家の梨園で育てたところ10年後に結実したのです。それが始まりです。 この特殊な梨はその美味しさゆえに、他の地域でも栽培が試みられます。千葉から遠い奈良県や鳥取県で栽培されるようになります。しかし、「二十世紀梨」は病気に弱いため育てるのが難しく、なかなか広まりませんでしたが奈良県の農家の方が発明した「梨を紙で包んで病害を防ぐ方法(袋かけ)」を鳥取で広く採用したことにより、二十世紀梨が鳥取で広く作られるようになったのだそうです。 ここまで調べるだけでも凄いですね。普通の作家なら話はそこで終了になるのでしょうが司馬は違います。なぜ他県ではなく、鳥取県だけにそういうこと(袋かけを広く普及させること)ができたかを詳述しています。 司馬は小説を書く時には様々な資料を集め、とことん調べたそうです。司馬が何かを書き始めようとすると古書店から資料が失せる(=司馬が集める)という話があるくらいです。それくらい調べるから彼の小説、随筆、紀行文には厚みがあるので面白いのでしょう。 余談ながら、中学校時代の通学路にあったお寺が司馬遼太郎の随筆「余話として」に取り上げられていて、びっくりしたことがあります。私の通学路にあったお寺「清運寺」にあの坂本龍馬の「いいなづけ」のお墓があると書いてあったのです。 その紹介の仕方が実に「愛」に満ちているのです。なぜ、坂本龍馬と縁もゆかりもない甲府に坂本龍馬の「いいなずけ」のお墓があるのか。よく調べてあります。 写真1:甲府にある「坂本龍馬の許嫁(千葉さな子)のお墓」です 話を戻します。 とにかくよく調べてある「街道をゆく 27因幡・伯耆のみち」は本当に面白い紀行文です。 多くの方が激賞する「三徳山三佛寺投入堂」 さて今回紹介する「三徳山三佛寺投入堂」は「みとくさん さんぶつじ なげいれどう」と読みます。鳥取県中部にある三徳山(標高900m)の断崖絶壁に作られた御堂です。学生時代に登ったことがあります。当時、投入堂の写真を撮っていなかったので今回は写真を撮りたいと思ったのです。しかし、理由は後述しますが、当時写真を撮らなかったのが実に残念でした。 この投入堂については多くの方が激賞しています。中でも建築家 藤森照信氏は彼の「目指す理想建築」の2つのうち1つが「投入堂」だと述べています。藤森氏は投入堂に登りそこから眺めた景色を見て 「日本の山には精霊がいると確信した」 と書いています。 私も学生時代投入堂に登り、そこから見える風景、景色を見て似たような気持ちを懐きました。「ああ、いいなあ」と思ったのです。 「精霊がいる」とは思いませんでしたが、何か清々しい思いをいだきました。その「眺望」をしかし今回見ることはできませんでした。 藤森氏が目指すもう一つの理想建築はポルトガルにある「Nas montanhas de Fafe, Portugal」です。 こちらはまだ想像ができますね。 しかし投入堂はどうやって作ったのか、全く見当がつきません。 同じく建築家の安藤忠雄も「投入堂」の素晴らしさを何度も説いています。「安藤忠雄が語る、子どもの感受性をくすぐるオススメの建築10選」などです。 他にも、五木寛之、磯崎新、土門拳、山下裕二らが「投入堂」を絶賛しています。 彼らが書いた本を読み、写真集を見て、 (1)もう一度行ってみよう、投入堂まで登ってみよう (2)今度はきちんと写真を撮ろう (3)司馬遼太郎が絶賛した豆腐を食べてみよう と思い立ったのです。軽い気持ちでした。 司馬遼太郎は投入堂まで登っていません。「危ないから登るのを諦めた」と書いてあります。代わりに三徳山の山麓で「豆腐を食べてそれが美味しかった」と書いてあります。 学生時代に登った時、「危ない」と思った記憶がありません。また司馬が絶賛している「豆腐」を食べた記憶もありません。 ちなみに「投入堂 危険」と入れて検索すると、 「数年に何人か死者を出している。去年は死者が出なかったが27人もの人が病院送りになってしまった投入堂に参拝した」 「投入堂は伊達じゃない。本当に危険でした」 「舐めてかかったら事故します。 三徳山三佛寺」 「この10年間で3名滑落して死者が出ています」 「投入堂を登っていたらアクシデント勃発。崖から人が転落して、ヘリが出動していた。崖から転落された方は亡くなってしまったらしい。このような転落死は毎年数名出るらしい」 等々「投入堂に関する恐ろしい記事」や「怖い投入堂訪問記」が多数見つかります。 あれれ? 司馬遼太郎が登るのを止めるほど、そしてこんなに死者がでるほど危険だったかな?と思いました。 2016年の「鳥取県中部地震(最大震度6)」のために投入堂への道が崩壊し、クラウドファンディングで資金を募り、無事修復したとのニュースが報じられたことも記憶にありました。 それで今回は「投入堂に登って、お堂から見える景色を写真に撮ろう」と思ったのです。 話は逸れます。 昨秋のある日、羽田から米子鬼太郎空港に行き、その足で境水道を島根県美保関町(みほのせきちょう)に向かい、その美しさで「世界灯台100選」に選ばれている「美保関灯台」に行きました。安定の美しさでした。 写真2:美保関灯台 美保関灯台を出てすぐの所に美保関神社があり、そこの青い色の石畳が有名です。 写真3:石畳がみどり色をしています。きれいです。 久しぶりなので、投入堂登山の安全を祈願するために参詣しました。参詣後、境内にある神社の石製の手すりに刻してある文字を見て、少し感動しました。石に「何何県○○丸名前(船頭)」と刻してあります。 江戸時代、日本海は北前船のルートでした。今なら新幹線や東名高速道路に当たるルートだったのです。荒波を越えて美保関の港にたどり着いた船乗りの方々がこのように航行の安全を祈願して、神社に名前を刻したのでしょう。 なかには航海の途中で命を亡くした方もいらっしゃると思い、そう思うと少し胸が塞がるような思いがしました。 写真4:美保関神社 さて、本論です。 米子市に泊まり少し早起きをして車で投入堂がある鳥取県東伯郡三朝町に向かいました。 途中、国道九号線を通ります。 この道は古来からあり、途上に「後醍醐天皇が隠岐の島から脱出してたどり着いて休憩をとった岩」などの旧跡がたくさんあります。津々浦々にそういう名所があり、いちいち止まっていると本命の「投入堂」にたどり着きません。 写真5:後醍醐天皇が座った石 というわけで、今回は終了です。次回に続きます。 追記1: 「街道をゆく」で取り上げられた「土地」は幸せです。ちなみに宮崎県、静岡県、山梨県、埼玉県、群馬県、千葉県、茨城県、栃木県の8県は訪れていません。関東地方は最後に回る予定だったのだと思います。最後は栃木県佐野市で終わりにするつもりで関東地方は後回しにしたのだろうと思っています。なぜ、栃木県佐野市かは司馬遼太郎ファンなら解ると思います。 追記2: 司馬遼太郎は鳥取市郊外にある「湖山池(こやまいけ)」の辺を通ります。「池」とありますが、実際には「湖」です。 司馬はこの「湖山池」という名称が良くない。なぜ良くないかというと、 重箱読みであること 湖と池という類似の漢字が使われていること から「良くない」のだそうです。私は大学時代、この湖山池の畔に住み、毎日湖山池を眺めて暮らしていましたが、そんなことは考えたことも無かったです。 注記3: 日本各地に国宝建築物があります。無い県もあります。 さて東京には何件? 神奈川には何件? あるでしょう。 参考:国宝建築物一覧(http://shirokokuho.shakunage.net/kokuhokenzobutsu.html) 東京には2件、神奈川には1件です。神奈川県には古都鎌倉がありますが、繰り返された戦争、紛争により古い建物はあまり残っていないのですね。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/9/17 世界中の医療に関する格言 道路を走っていると様々な標語が看板に記されています。 「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」 「あぶないよ よそ見 飛び出し ふざけっこ」 「注意一秒 ケガ一生」 「ぼちぼち 走りなんせー 鳥取路」 「おみやげは 無事故でいいの おとうさん」 「いちごが好きでも 赤なら止まれ」 「赤信号みんなで渡れば怖くない…そういってアイツは先に逝ってしまった」 最近見て、面白かったのは「ドラレコが見ているよ、お父さん」です。例のあおり運転後に高速道路に掲げられていました。 日本はこういう「標語」が好きなのでしょう。俳句、川柳などの影響があるのかもしれません。外国にもあるのでしょうか? 医療に関する標語というか格言も数多くあります。日本だけではなく世界中にもたくさんあります。有名なのはヒポクラテスの『術は長く生は短し』でしょう。ラテン語で“Ars longa,vita brevis.” 英語になると“Art is long, life is short”。“Art”という言葉が使われるので『芸術は長く生は短し』と紹介されることが多いのですが、ヒポクラテスは医師ですからこの場合の「術」は医術だと思います。 とにかく医療に関する格言は数限りなくあり、それに関する本も数多く出版されています(文献参照)。有名どころをいくつか紹介しましょう。 『患者さんの言うことに耳を傾けよ。患者さんはあなた(医師)に診断を語っている』(オスラー) 『医学によって生命は伸びるが、死の手からは医師でも遁れることはできない』(シェイクスピア) 『上医は病を予防し、中医は来たらんとする病に応じ、下医は現実の病を治療する』(中国のことわざ) 『われ包帯し、神これを癒やし給う 』(アンブロワーズ・パレ) 『病気を診ずして病人を診よ』(高木兼寬) 『健康こそもっとも貴重な財産である事を理解すべきである』(ヒポクラテス) 『誰でも長生きしたい、しかし老いたいとは思わない』(俚諺) 『病気を防ぎ、苦痛をやわらげ、病を癒やすことーーーこれが我々の仕事だ』(オスラー) 『手術の途中で、手術方針で迷うことがある。そういう時は、困難で面倒な方法の方が正解であることが多い』(恩師、新井達太先生) 『動脈硬化が起こる前に、態度の硬化が起こる』(Matt Oliver) 『手術室の看護師は外科医の第2の妻である』(Viatceslav Ryndine) 『もっとも重要な凝固因子は外科医である』(Moshe Schein) 『良い手術には“始末”が必要』(恩師、岡村吉隆先生、元和歌山県立医大学長、関西弁で “始末” は片付けること) 『キズは見つけなければ治らない』(フランシスベーコン) 『無知な医師は独善的』(ウィリアムオスラー) 『もともと太っている患者は痩せている患者より早く死ぬ』(ヒポクラテス) 『医療は「癒しの芸術」であり「聞く芸術」である』(バーナード・ラウン) 『病人を少しでも楽にしたいとたゆまず努力してはじめて医師は能力を最大限に発揮できる』(バーナード・ラウン) などなど、たくさんあります。なかには?のつくような格言もありますね。 私もこのような格言を作ってみたいと思っていました。心臓血管外科手術には出血がつきものです。特に人工心肺を使う手術ではヘパリンという抗凝固薬を患者さんに投与しますので一時的に出血しやすい状態になります。様々な心臓血管手術がある中で一番止血に難渋するのが「大動脈解離(だいどうみゃくかいり)」という病気の手術です。大動脈が裂ける怖い病気です。この病気では手術で切開、縫合した箇所のそこかしこから出血が始まることがあります。手術が早く終われるタイプの単純な大動脈解離なら良いのですが、複雑なタイプの大動脈解離だと、縫うところが多数あり止血に難渋します。しつこく根気よく止血作業を続ける事が大切です。わかりづらいでしょうが、本当にあちこちあちこちから出血することがあるのです。出血が続き、止血に難渋して21時間手術をしたこともあります。幸いこの21時間も手術をした患者さんは、しつこく止血作業を繰り返していたら、神様も味方してくれるのか、段々と出血が収まってきて助かりました。 『人間諦めが肝心』などと言われます。しかし元近鉄の投手だった鈴木啓示が説いたように手術の場合も『投げたらあかん』のです。そういうわけで『諦めが悪いのが良い外科医』だと思い、若い外科医にそのことを説いてきました。それが私の考えた第一の「格言」です(笑)。 三つでできた言葉は覚えやすく、忘れ難い 話は全く変わります。皆さんは、「赤尾好夫(1907-1985)」という方をご存じでしょうか?旺文社の創業者で一昔前「赤尾の豆単」という受験用の辞書で一世を風靡しました。2017年鎌倉にあった同氏の旧居跡を利用した「歴史文化交流館」がオープンしたので話題になりました。その赤尾好夫氏は山梨県の出身です。私は高校生の時、甲府で同氏の講演を聴いたことがあります。 赤尾氏の有名な言葉に『人間は忘れる動物である。忘れる以上に覚えることである』という言葉があります。その講演の最初にもその有名な言葉を引用して『だから今日私が話したことも忘れるだろうけれど聴いて面白いと思った言葉はノートに書いておくと良い』と言って講演が始まりました。講演の内容のほとんどは見事に忘れています(笑)。 しかし、その講演の中で、「人間三つまでは覚えられる。だから皆に知られているような言葉は三つでできていることが多い。今日は、三つの勉強法を教える」というような話だったのです。その三つの勉強法は忘れていますが、三つでできた言葉は覚えやすく、忘れ難いということだけは覚えています。いくつか三つの言葉(語)でできている標語というか成句をご紹介しましょう。順不同、思いつくままに。 「来た 見た 勝った(Veni, vidi, vici)」(カエサル) 「来た 見た 購うた」(喜多商店@大阪) 「清く 正しく 美しく」(小林一三:宝塚の創始者) 「作らず 持たず 持ち込まず」(非核三原則) 「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛の辞世) 「エトス パトス ロゴス」(アリストテレス) 「運 鈍 根」(成功の条件 俚諺(りげん;民衆から生まれたことわざ) 「見ざる 言わざる 聞かざる」(日光の三猿) 「神様 仏様 稲尾様」 「危険 汚い きつい」(3K) 「うまい はやい やすい」(吉野家) 「天呼ぶ 地呼ぶ 人が呼ぶ」(仮面ライダー) 「ホップ ステップ ジャンプ」 「日光 結構 もう結構」(戯れ言) 「売り手良し 買い手良し 世間良し」(近江商人) 「食う 寝る 遊ぶ」(日産のCM) 「自由 平等 博愛」(フランス共和国の標語) 「強く 早く 絶え間なく」(心臓マッサージの要点) 「ミッション パッション ハイテンション」(齋藤孝) 「朝は朝星 夜は夜星 昼はうめぼし いただいて」(とび職の方の戯れ言 ※注:「星を戴く」と「ご飯を頂く」をかけています。高級で洒落ている言葉ですね) 「bigger stronger faster」(ステロイドを扱った米国ドキュメンタリー番組の名前) 「スリル スピード サスペンス」(戯れ言) 「巨人 大鵬 卵焼き」 「松 竹 梅」 「金 銀 銅」 「真 善 美」 「ラーメン つけ麺 ぼくイケメン」(狩野英孝) 「いつでも どこでも だれでも」(NHKラジオ体操の標語) まだまだ、たくさんありそうです。 出来が良いのは韻を踏んでいる「来た 見た 勝った(脚韻)」、「危険 汚い きつい(頭韻)」などの語句で、覚えやすいですね。「来た 見た 勝った」はラテン語「Veni, vidi, vici」の翻訳です。ラテン語の原文も脚韻を踏んでいます。 何を言いたいかというと、私もいつか、このような三つの言葉で成る、そしてできたら韻を踏んだ「外科医の標語」を作りたいと思っていました。 手術はいつも、同一チームで同一病院で行えれば良いのですがそうもいきません。他病院で手術をする事もありますしメンバーが変わってしまう年もあります。24時間365日、緊急の患者さんが飛び込んできます。直ちに手術を始めないといけない場合も数多くあります。盆暮れ正月休み関係無しです。つまりどんな状況、どんな環境、どんな病院でも良い手術ができるように訓練することが必要です。 そういうわけで、(例示の最後にある)NHKラジオ体操の標語を少しだけ変えて、良い外科医になるには『いつでも どこでも だれとでも』という標語を考えつき、若い外科医に話をしていました。これは手術や医療に限ったことではありません。どんな仕事でも「いつでも どこでも だれとでも」楽しく、そして効率よく仕事ができれば良いと思っています。 【参考文献】 「医をめぐる言葉の辞典」ジョン デインティス、アマンダ アイザクス(編集)、長野敬(翻訳) 青土社 「医の名言」荒井保男(著) 中央公論社 「外科医へ贈ることば」モーシェ・シャイン(編集)、古瀬彰(翻訳) 注1: 赤尾好夫氏の遺産を元に、奨学金が山梨県の優秀な学生に与えられています。 この制度は同氏の遺志を継ぐべく死後23年にして始まっています。希有な出来事です。 注2: 『いつでも どこでも だれとでも』は、仕事に限った話です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/9/2 Otherwise, this paper from Japan is excellent. 前回より続きます。 勇躍、初めて書いた英文論文を「The Annals of Thoracic Surgery」という雑誌に[再]投稿しました。 それから数ヵ月…… ある朝、医局に行ったら上司の先生から「君はThe Annals of Thoracic Surgeryに投稿したの?」と聞かれました。ここまで書いた通り、あまりに恥ずかしいことばかりを経験していたたので、論文をアメリカの雑誌に投稿したことを伝えていなかったのです。 なぜ、投稿したのが、上司の先生に解ったのかな?と思ったら、「Dr.Mochizukiの論文をアクセプトします(注:アクセプトは雑誌に掲載しますよという意味です)」と記載されたFAXが「The Annals of Thoracic Surgeryの編集部」から夜中に届いていたのです。 「投稿された論文はアクセプトするけれど、コメントが3名の査読者から届いているのでこれらのコメントに対して至急回答するように」との内容も記されていました。論文が「The Annals of Thoracic Surgery」に掲載される!とわかりとてもとても嬉しかったです。しかし、コメントに対する返事が必要です。それも厄介でしたが、とても嬉しいコメント(赤字で示します)が書かれていました。 以下、そのFAXに載っていた査読者のコメントを紹介します。 COMMENTS OF THE REVIEWER (査読者のコメント) ※赤字部分は私が修飾しています。 査読者1.のコメント: The story of the "complex" cardiac myxomas continues. The authors report a case with high circulating interleukin-6 Levels, and they were able to document that the excised tumor contained IL-6. In addition, circulating levels of IL-6 dropped shortly after tumor resection. The manuscript is well written, and is short and to the point I do not suggest any major revisions. I do think that it warrants publication as part of the ongoing story of this subset of patients with cardiac myxomas. 査読者2.のコメント: This paper reports a single case of cardiac myxoma associated with constitutional signs and presence of Interleukin-6 in the serum. Although the case is well presented it does not add any extra information when compared to precedent publications (ref. 2, 3, 5). Important questions are not addressed, such as: does the association myxoma, constitutional signs and high serum Interleukin-6 values induce a rise of recurrence? Can myxoma recurrence be diagnosed on IL-6 dosage? Are constitutional signs due to presence of IL-6 in the serum? This paper simply describes a case report of the well known association myxoma, constitutional signs and presence of Interleukln-6 in the serum. 査読者3.のコメント: It is essentially an interesting case report with good lab data. My only suggestion to the author is that the discussion Is a little long by about 30%.There is some repetition in the thoughts expressed. With a little effort, this could be shortened. Otherwise, this paper from Japan is excellent. It may well be that the figure of the microscopic section should be published in color. 査読者3.の先生はコメントに「this paper from Japan is excellent」と記してくれました。私は狂喜乱舞しました。苦労して一生懸命書いた甲斐がありました。これは、私の人生の中でも嬉しかったことの上位5つに入ります。 ともかく3名の査読者への回答を練りに練って書き、査読者への助言に沿って論文を書き直し、私の論文は無事に胸部心臓外科領域では一流雑誌である“The Annals of Thoracic Surgery”へ掲載されました(文献1)。雑誌と別刷りが送られてきたときは「夢か」と思いました。 しかも、この論文掲載がご縁で心臓外科の教科書(「心臓外科」新井達太編、医学書院刊)の「心臓腫瘍の項」を書かせていただくことにもなりました。 そして、もっと凄いことが私の知らないところで起きていました。なんと朝倉書店の「内科学」の教科書の「心臓腫瘍」の項に、この論文が2版に渡って引用されたのです。 これを教えてくれたのは医学部の学生さんでした。「もしかして、この教科書に引用されている“Mochizuki Y”で始まる論文は、望月先生の論文ですか?」と聞かれたのです。本当に嬉しかったです。私は内科の教科書に論文が引用されていることを知らなかったからです。 この教科書の「心臓腫瘍」の項は、筑波大学の山口巌先生の執筆でした。山口先生は著名な先生ですが、私は面識がありませんでした。ですから、純粋に私の論文を読んで引用して下さったのです。望外の幸せでした。内科を専門とする同僚の先生方からとても羨ましがられました。 写真1:教科書の表紙です 写真2:教科書の中の文章です この論文を読んだ本家本元(Carney complex の提唱者)のCarney先生から、論文の別刷り送付依頼の手紙がきました。ドイツ、オランダ、ベルギー、フランスの先生からも別刷りの送付依頼の手紙をいただきました。その上、この論文を書いてから10年後にアメリカのCornell大学内科のVeugelers先生から、世界中の「Carney complex型の心臓粘液腫」の遺伝子解析研究にお誘いを受けて協同研究をさせていただき、その論文は「Proceedings of the National Academy of Sciences(米国科学アカデミー紀要)」にも掲載されました。 勿論、私の名前もこの論文のauthorのひとりになっています(文献2、余話4を参照ください)。また、この論文を書いたが為に、American journal of cardiologyなどの雑誌から心臓腫瘍に関する「査読依頼」もいただくようになりました。 私が初めて投稿した英文論文は、私が医師になった当時の目標のうち 英文論文を良い雑誌の載せること 教科書を書くこと 教科書に載るような論文を書くこと の3つを実現させてしまいまいした。一粒で3回美味しい論文でした。 あの「バイク便」を思いつかなければ無かった論文です。そう思うと、冷や汗がでます。臨床現場では、珍しい病気に出会わないままに過ぎてしまう医師も多いのですが、私は良い時期(インターロイキンー6が見つかった後)に珍しい症例に出会い幸運でした。 とにかく、この論文を書いた事で、英文論文を書く自分なりの「方法論」を作ったのです。その後もいくつか、英文論文は書きましたが、The Annals of Thoracic Surgeryにはなかなか掲載されませんでした。初めて書いた英文論文が、The Annals of Thoracic Surgeryに載ったのは、僥倖でした。 よく「宝くじは買わないと当選しない」と冗談で言われますが、「論文は書かないと載らない」ですね。そして、どうせ書くなら英文論文の方が良いですね。 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, Mori H, Shimada K.“Interleukin-6 and "complex" cardiac myxoma.” Ann Thorac Surg. 1998 Sep;66(3):931-3. ↓実物を読めます。フリーですので、お時間が有るときにお読みください。 https://www.annalsthoracicsurgery.org/article/S0003-4975(98)00569-4/fulltext Proc Natl Acad Sci U S A. 2004 Sep 28;101(39):14222-7. Epub 2004 Sep 15. Comparative PRKAR1A genotype-phenotype analyses in humans with Carney complex and prkar1a haploinsufficient mice. 余話1: この論文を書いていた当時、私はマッキントッシュのコンピューターを使っていました。投稿論文はWordで書いていたのでデータは残っていますが、そのほかのメモ書きなどはすべて「クラリスワークス」というマッキントッシュ用のソフトで書いていました。 今回、この機会に見直そうとしましたが、ほとんどが読めません。特殊なソフトを使わないと読めそうにありません。とても残念です。 パナソニックのVHSとソニーのβのような話(懐かしい!)ですが、今はマイクロソフト社のWordが世界標準です。当時も全てWordを使って作業していれば良かったです。マッキントッシュのソフトで作った書類は拡張子(.txtや.jpgなど)が付いていませんでしたので、何のソフトで作った書類かわからないのです。実に困った話です。 余話2: 途中でも紹介しましたが、この論文を書いていた時に思いついたのが、付箋(ポストイット)を用いる方法です。参考までに、画像を添付します。ポストイットは便利で、日常生活にも論文作成にも欠かせないですね。 写真3:付箋紙活用例1 写真4:付箋紙活用例2 写真5:付箋紙活用例3 余話3: 「Google Scholar」で検索すると私の書いた論文は、現在まで21編の論文に引用されていることがわかります。 21編の論文中には世界的に有名なメイヨークリニックのHartzell V.Schaff先生の書いた “Surgery For Cardiac Myxomas” という論文もあります。名誉な話です。 以前は、こういうことを調べるのは大変でしたが今は「Google Scholar」があるので簡単にわかります。比較には全くなりませんが、山中伸弥先生が書いたノーベル賞の論文「Induction of pluripotent stem cells from adult human fibroblasts by defined factors」は14,000編の論文に引用されています。桁が違いますね。 余話4: 「Proceedings of the National Academy of Sciences(米国科学アカデミー紀要)」に、著者として名前が載るのも大変な名誉です。インパクトファクターは10点くらいです。 ちなみに、この雑誌は米国では「ピー エヌ エー エス」と呼称します。しかし、日本では何故か「ピーナス」と呼称されています。これは良くないですね!さて、なぜでしょう(笑)。米国人には別なモノを連想させてしまうようです。他人がいないところで、低音で、ゆっくりと「ピーナス」と発音すれば…… 余話5: 締め切りの無い論文投稿は、自分でデッドラインを作らないとダメですね。痛感しました。自分で締め切りを作るのは困難ですが、なにか目標が無いと、だらだらと時間が過ぎてしまいます。とは言え、自分でデッドラインを作るのは難しいですね。 余話6: 米国の一流雑誌に論文が載るのは、ある意味「劇薬」です。というのは、もうすでに発表されているような事を、日本語で、論文を書く意欲が無くなるからです。日本語の論文も、実はとても大切だと後に気づきました。 余話7: アメリカに長く留学していた先生に伺ったら、“Instructions for Authors” の技術的部分(紙質、フォント、紙のサイズなど)はすべて「秘書さん」がやってくれるのだそうです。それを聞いて私はため息がでました。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/08/19 お笑い英文論文投稿 前回より続きます。 色々とありましたが、心臓腫瘍(粘液腫)のインターロイキン-6染色に成功しました。これを日本語で書いて日本語の雑誌に投稿すれば比較的簡単に載りそうです。しかし、折角だから、なんとか英語の論文にしたいと思いました。 世界中には、数多くの英文雑誌があります。NATURE、SCIENCE、CELL、PNASの世界は夢のまた夢の世界です。私の患者さんは珍しい病気ですが、1例の経験しか無いので、そういう有名な雑誌に載ることはあり得ません。色々と考えたあげく、胸部心臓血管外科医にとって「夢」である“Journal of Thoracic and Cardiovascular Surgery”とか“The Annals of Thoracic Surgery”に載せたいと思い至りました。どちらもアメリカの雑誌です。今は変わりましたが、“Journal of Thoracic and Cardiovascular Surgery”には症例報告のような論文は掲載されていませんでした。そう言うわけで、症例報告も掲載される可能性がある“The Annals of Thoracic Surgery”に投稿することにしました。「しました」と言っても、勝手に!自分でそう思っただけで、実際に論文を投稿するためにどうしたらよいか、方法論が全くわかりませんでした。そこで私が最初にやったのが、「医学英語論文の書き方」が書いてある本を読むことでした。いわゆるハウツー本ですね。どのようにしたら英語論文が書けるのか?というような内容の本です。数冊読みました。どの本にも 「書こうとしている論文に価値があるかどうかを検討することが一番大切」 「世界で初めての発見なら、インパクトファクターの高い雑誌に載る可能性がある」 1.も2.も言っていることは、同様です。同じような論文がすでにあるなら、論文が掲載される可能性は低くなります。苦労して、英文論文を書いても同内容の論文があれば、その論文は掲載されません。そういうわけで論文を書く前に図書館で徹底的に論文を探しました。書こうとしている論文と似たような論文があるかどうかを調べたのです。これは1993年頃のことです。「Medline」という医学生物学の論文のデータベースをインターネット上で無料検索出来る様になったのは1997年のことです。それが、皆さま良くご存じの「PubMed(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/)」です。 それまでは「Index Medicus」という書誌雑誌を用いて論文を検索していました。私もこの「Index Medicus」を用いて探しました。これが「言うは易く行うは難し」です。「Index Medicus」はとても厚く重いのです。今、思い出しても、忌々しいというか、途方に暮れたというか…とにかく論文を探すのが大変でした。図書館は夜8時までしか開いていません。病院で手術をして、患者さんの診療を終えて、やっと夜7時頃になって図書館に駆け込んで、とにかく論文を探しました。 「Carney complex(カーニー複合)="complex" cardiac myxoma.」に関する論文 心臓粘液腫とインターロイキン-6に関する論文 を徹底的に収集して、読みました。それらは英文論文がほとんどです。これはかなり厄介でした。でも、読んでいると、使用されている英語はテクニカルタームが似通っているので(内容が同じようなモノですから)、段々と読む速度が速くなりました。約50編ほど、論文を読みました。今は、普通にパソコン、スマホからPubMedが使えるので、論文を調べる時間は飛躍的に短縮されました。良いことですね。当時から考えると夢のような話です。 さて、どうやらこの症例は英文論文にする価値がありそうだと確信しました。それから、悪戦苦闘が始まりました。 まず、英文論文としてどのようなことを書いたら良いか、どのようにして書き始めたら良いか、皆目見当がつきません。幸い、前述のように50編程度の英文論文を読んだので、これらを参考にして論文に書いてあった英語から使えそうな医学表現方法、表記方法を書き出してみました。そして、自分なりに筋立てを考えてみました。主題は「心臓粘液腫がインターロイキン-6を分泌していることを免疫染色法によって証明した」ことです。論文の導入部分にその旨を書き、次に症例の詳細を書き、結果を書き、検討を書き、最後に結論を書くのが論文の流れです。 さて、色々と書いてみました。しかし、当時、とても忙しかったので(年に150-180件の心臓手術をしていた時代です)、なかなか進みませんでした。仕事が終わってから、あるいは手術の待ち時間などのいわゆるすきま時間を使って書いていましたが、それでもなかなか進みません。日本語ではこう思うのですが、英語ではそれが上手に表現できません。ですから、止まってしまうのですね。特に困ったのが「Title」と「Running Head」です。The Annals of Thoracic Surgeryでは「Title」は80 characters、「Running Head」は40 charactersと指定されていました。私は、この“Characters”の意味も最初は解りませんでした。キャラクターって何? これではお話にならないですね。キャラクターは文字数のことです。どうしてもTitleは長くなってしまいます。私は、Titleを先に20個ほど案出しました。散々、悩みましたが「Interleukin-6 and "complex" cardiac myxoma.」としました。そして、Running Headは「IL-6 AND COMPLEX MYXOMA」としました。 この経験を基に思いついたのが、今でも私が実践している「付箋(ポストイット)を用いる方法」です。とにかく思いついたらポストイットに書き留めてノートに貼りつけ、後でそのノートに貼ったポストイットを整理する、そういう方法です(次回の余話2に紹介します、実際の写真付きです)。 そしてなんとか、書き上げて、投稿?したのです(笑)。 (笑) の意味は、この後の波乱万丈をお読みいただければ、すぐに判ります… 「医学英語論文の書き方」という本には書いていないことがありました。それは、各雑誌には「Instructions for Authors(投稿者への案内):投稿規定」があり、それに沿わない原稿は受け付けないということです。あまりにも当然のことですから本には書いていなかったのですね。最近のThe Annals of Thoracic Surgeryの「Instructions for Authors(https://www.annalsthoracicsurgery.org/content/authorinfo)」には、下記のような項目が並んでいます。今は電子投稿ですので以前とは多少、趣が違いますが、書いてある内容は昔も今もほとんど変わっていません。そこには論文に使って良い「字数、フォント、文字のサイズ」など細かいことが決まっています。電子投稿になって変わったのは「紙」の指定が無いことです。後述する如く「紙」には悩まされました。 General Description of Content Manuscript Submission General Information for Formatting Manuscripts Categories of Manuscripts and Word Limits Order of Content With in Manuscripts Title Page Abstract, Graphical/Visual Abstract Text Acknowledgments and Disclosures References Tables Figure Legends Illustrations Supplemental Material Protection of Human and Animal Subjects Conditions for Publication Form Miscellaneous 論文投稿に際してはこれらの項目に細かい規定があり、これに沿わない原稿は「受け取ってもらえません」。 当時の投稿規定です。電子投稿以前の投稿規定です。紙媒体での郵便による投稿です。 とにかくこれをよく読んでこの「Instructions for Authors:投稿規定」に沿って書かれた論文でなければ、そもそも投稿を受け付けてくれないのです。そういう事が当時の私には良く解っていませんでした。 書き上げた英文論文を、意気揚々と投稿したのですが、 「この論文は投稿規定に沿っていない」 「指定している紙を使え」 「英文をnative speakerに見てもらえ」 というような内容の手紙が、私の下に届きました。査読してもらう以前の話でした。今思うと冷や汗が出てきます。論文の受け取りを拒否されても仕方が無かったのですが、投稿先のThe Annals of Thoracic Surgeryの事務担当者が哀れに思ってくれたのか、 「あなたの論文は投稿規定に沿っていないよ、投稿規定通りに書けよ、きちんとした英語で書けよ、それも指定した紙を使って書くようにね」 と幸運にも助言してくれたのだと都合良く解釈しました。投稿した論文はそのままゴミ箱に捨てられても仕方なかったのですが、助言をしてくれたのです。親切な話です。このThe Annals of Thoracic Surgeryの事務担当者にはとても感謝しています。 私が最初に投稿?した英文論文は、有り体に言えば「論文」の体をなしていなかったのです。そもそも「指定している紙」っていったい何のこと何だろうと思って、「Instructions for Authors」を読み直すと確かに論文は「全てletter sizeのwhite opaque bond Paper」に印刷して提出せよと書いてあります。何のことだかよくわからないので、A4の普通紙にプリントして提出していたのです。近所の文房具屋さんに聞いても判りませんでした。銀座の文房具専門の伊東屋さんに聞いて見れば良いと思いつき伊東屋さんの紙売り場に電話してみました。答えは簡単でした。伊東屋の担当者は“white opaque bond Paper”というのは英米で公用文書を書くのに使われる紙であることや、その紙は“白く、不透明で少し厚いボンド紙という紙”であることを、丁寧に教えて下さいました。「伊東屋さんでは購入出来るのでしょうか」と伺ったら、「ええ、勿論です。沢山売っています(笑)」とのことでした。私は直ちにその「white opaque bond Paper」を注文しました。 次に私は書いた英文を「医学英語論文を添削してくれる米国の専門家」を探して読んで頂きました。最初から笑われてしまいました。「モチヅキ先生、この論文はダブルスペースでは無いですね。これでは、そもそもダメです」。そういえば、「Instructions for Authors」に論文は“Manuscripts should be typed double-spaced throughout”と書いてあったのを思い出しました。“double-spaced”の意味がわからないので、ここでも私は普通に印刷してしまっていたのです。double-spacedを調べたら、「1行の文章に2行分の場所(スペース)を確保すること」つまり、行間を1行空けることだと判りました。当時、Wordというソフトで書いていましたが、そういう設定もあったのですね。私はその時、初めて気づいたのでした。 私が英文論文を最初に投稿した時は「Instructions for Authors」をまともに読んでいなかったのです。門前払いされるのも当然ですね。これはいかんと思い「Instructions for Authors」を全て訳出しました。論文本文、図や表の全て、図や表の説明の全て、タイトル、小見出し全てに細かい規定がありました。 必死になって、これらの規定に完璧に沿うように論文の体裁を整えました。この作業に半年くらいを費やしました。英文も全て書き直し、前述の英文専門家に再度読んで頂きました。ここでも一苦労はありました。「a」と「the」の選択、受動態で書くか、能動態で書くか? 実は、この辺りは今でもよく理解できていませんが、何回か書き直しました。自分で言うのも変ですが、修正した論文は最初に自分で書いた英文とは似て非なるものになりました。言っていることは同じですが日本製英語では無くて、英文らしい英語になっていました。そして再度The Annals of Thoracic Surgeryに投稿したのです。先方からは「査読に回します」という素っ気ない返事が返ってきました。 次回、続く。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/07/29 心臓腫瘍が入った特殊容器を2時間以内に届けるには 承前。 当時勤務していた栃木県の病院から、特殊免疫染色を行ってくれる八王子の研究所まで160kmあり、高速道路を使っても、心臓腫瘍が入った特殊容器を2時間以内に届けるのは、ほぼ不可能で諦めてしまいそうになったところまでお伝えしました(参考:「論文を書く」ということ(1))。 心臓腫瘍を摘出してから2時間以内に染色をしないと インターロイキン-6(IL-6)の活性が低下し、免疫染色が出来なくなる可能性があるので、なんとしても2時間以内に届ける必要がありました。この特殊な染色のために米国から抗IL-6 抗体まで注文したので、なんとか免疫染色をしたかったのです。そこでなんとか腫瘍を摘出してから2時間以内に八王子の研究所まで届けることができるような方法を色々と考えました。 夜間 or 休日に手術をする これなら交通渋滞に懸からず、2時間以内に検体を届けることができそうです。しかし、手術スタッフ、麻酔医の賛同は得られそうにありません。 ヘリコプターでの輸送 ヘリコプターで検体を届けられることが解りましたが、そのためにはさまざまな申請が必要です。しかも費用も高いので早々に断念しました。 そういうわけで、私は「特殊免疫染色」を一端は諦めました。しかし、この患者さんの病気である「Carney complex(カーニー複合)」という病気を調べていると、これはとても珍しい病気であることが解りました。当時、日本では数例しか報告がありませんでした。世界でも100例程度です。こういう患者さんに巡り会うのも、ある意味、セレンディピティです。これを生かさない手はありません。内分泌異常、遺伝、皮膚病変etc.とにかく調べまくりました。それを見ていてくれた当時の上司が、手術の執刀医として私を指名してくれました。普通こういう珍しい病気の執刀は教授、准教授が行います。そういう稀な病気の執刀を私に任せてくれたので、さらにやる気が起きました。執刀を任せてくれた当時の上司には今でもとても感謝しています。 とにかく、色々な思いがあり、特殊免疫染色ができないのはとても悔しかったのです。この患者さんの心臓内には腫瘍が2個あります。放置すると合併症が起きるかも知れません。いつまでも手術を延期することはできません。早々に手術日が決まりました。もちろん休日ではありません。 手術日の数日前、手術手順を書き出して色々と考えていたら、自分(望月)なら、検体を2時間以内に栃木から八王子まで届けることができるかもしれないということに思い至りました。以前もお伝えしたように、私は大学時代、大型バイクに乗っていました。バイクなら渋滞があっても2時間以内に届けることができると考えついたのです。 しかし、すでに大型バイクに乗らないようになって、10年が経っていました。上手く運転できるとは思えません。首都高速を走ったこともありません。それより何より手術の執刀をしなければいけません。これも無理、非現実的な話だと思っていたのです。その時、悪魔のような知恵?が私の頭の中に降りてきました(笑)。 「バイク便!」とういうモノがあることを思い出したのです。大学生時代、バイク雑誌を見ていた時にバイクを使った物品輸送を行う仕事が始まり(注:1982年に始まっています)、それを「バイク便」と称し、バイク雑誌にバイク便ライダーの求人が載っていたのを思い出したのです。 この手術を行った1992年当時、インターネットは使えません。ですから、職業別電話帳(懐かしい)でバイク便会社を探して電話をかけてみました。幸い、摘出した心臓腫瘍の輸送を引き受けてくれる会社というか、引き受けてくれるバイクライダーの方がいらして、2時間あれば届けることができるだろうと言ってくれたのです。ライダーの方にすぐに病院に来ていただきました。そのライダーの方に 心臓腫瘍が入っている容器をこの病院から八王子の研究所まで届けて欲しいこと この腫瘍は直径が2cmくらいの球状をしていて、マイナス196度の液体窒素が充填してあるステンレス製容器(一升瓶程度)に入っていること 液体窒素は爆発する危険はないこと 手術日の何時何分くらいに摘出した腫瘍が入った検体容器を病院の入り口に臨床検査技師さんが持ってくるので、病院前に待機して欲しいこと そしてその検体容器を受け取ったら、交通ルールを守りつつ2時間以内に八王子にある研究所まで届けて欲しいこと 以上をお願いしました。実際に使う容器を見せてお願いしました。この容器を手術室から病院の入り口まで届けてくれることを引き受けてくれた臨床検査技師さんにも立ち会ってもらいました。 幸いこの特殊な輸送を快く、このライダーの方が引き受けてくれました。余程なこと(交通事故など)が道路上で起きない限り、検体を受け取ってから2時間以内に八王子まで届けることができると言ってくれたのです。輸送にかかる費用もたいした額ではありませんでした。 手術が始まって1.5時が経過する頃に液体窒素が入った検体容器が手術室に届くように手配しました。手術開始後、それくらいの時間で腫瘍が取れると考えていたのです。当日、手術の手助けをしてくれる看護師さんにそのことを伝えました。そしてその容器を私が合図したら、私の足下に持ってくるようにお願いしました。手術をして腫瘍を摘出したら直ちにその容器に腫瘍を放り込むよう手はずを整えたのです。 摘出した腫瘍を入れた容器は直ちに手術室入り口まで持っていくようにお願いしました。腫瘍が入った容器を手術室入り口で待ってくれている検査技師さんに渡してくれれば、バイク便のライダーに検体容器が渡ります。簡単なリハーサルも行いました。 「しつこい」「くどい」「やりすぎ」と思われるかも知れませんが、それくらいしないと「初めてのこと」は上手くいかないのです(余話参照ください)。 手術日には恩師の新井達太先生(当時、埼玉循環器病センター総長:https://cmic-career.com/dr-column/archive/5)が手術指導のためにいらしてくれました。新井先生も、この特殊な病気(Carney complex)は初めてだと仰っていました。 手術は滞りなく進行しました。無事心臓の中に二つあった腫瘍を摘出しました。心臓腫瘍はもろいので慎重に摘出し、足下に置いた液体窒素が入っている容器に入れました。それを病院入り口で待っているバイク便のライダーに渡してもらいました。腫瘍を摘出したのが午前11時半頃でした。手術は午後3時頃に終了し、八王子の研究所に電話したら、すでに検体は届いていて、特殊染色に取りかかっているとのことでした。そして無事、「抗インターロイキン-6染色」を行うことができたのです。 それがこの写真です(参考文献6)。 腫瘍内にIL-6があれば 抗IL-6抗体 と反応して茶色に染まると言われていました。この写真の茶色の部分がそれに該当する部分です。ここにIL-6があるから染まるのです。「心臓粘液腫に多量のIL-6がある= 腫瘍がIL-6を産生している」と思われる裏付けをこのような染色をして世界へ初めて示すことができたのです。 正確には世界初の発表ではありませんでした。似たようなことを考えついた方がいたのです。ただ、その先生は日本人の先生で、日本語で論文を書いていました。また、この特殊な「Carney complex(カーニー複合)」に伴う心臓腫瘍でこのような染色をしたのは、間違いなく私が世界初でした。 このお話はまた次回に続きます。私はこの発見を英語の論文にしたのですが、心臓粘液腫に抗インターロイキン-6染色を行って「英語の論文」にしたのは、私が世界で初めてです。今の時代、英語で論文を書くのはとても大切です。英語でないと世界中の人に、この「発見」を届けることができません。 「バイク便」が無ければ染色はできませんでした。「バイク便」を使うことを思いついて本当に良かったです。今も「バイク便」が走っているのを見かけると当時のことを思い出します。 生まれて初めて英語で論文を書くのは、とてもとてもとても大変でした。 というお話は次回に続きます。 【参考文献】 GARFIELD E.Science. 1955 Jul 15;122(3159):108-11. Citation indexes for science; a new dimension in documentation through association of ideas. Mullis KB, Faloona FA. Specific synthesis of DNA in vitro via a polymerase-catalyzed chain reaction. Methods Enzymol. 1987;155:335-50. Carney JA, Gordon H, Carpenter PC, Shenoy BV, Go VL. The complex of myxomas, spotty pigmentation, and endocrine overactivity. Medicine. 1985;64:270-83. Toshio Hirano, et al. Complementary DNA for a novel human interleukin (BSF-2) that induces B lymphocytes to produce immunoglobulin。Nature 324, 73 - 76 (06 November 1986); doi:10.1038/324073a0 Hirano, T.,et al. Human B cell differentiation factor defined by an anti-peptide antibody and its possible role in autoantibody production. Proc. Natl. Acad. Sci. USA. 84:228-231, 1987. Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, Mori H, Shimada K. Interleukin-6 and "complex" cardiac myxoma.Ann Thorac Surg. 1998 Sep;66(3):931-3. ↓ここに載っています http://www.annalsthoracicsurgery.org/article/S0003-4975(98)00569-4/fulltext Proc Natl Acad Sci U S A. 2004 Sep 28;101(39):14222-7. Epub 2004 Sep 15. Comparative PRKAR1A genotype-phenotype analyses in humans with Carney complex and prkar1a haploinsufficient mice. Veugelers M1, Wilkes D, Burton K, McDermott DA, Song Y, Goldstein MM, La Perle K, Vaughan CJ, O'Hagan A, Bennett KR, Meyer BJ, Legius E, Karttunen M, Norio R, Kaariainen H, Lavyne M, Neau JP, Richter G, Kirali K, Farnsworth A, Stapleton K, Morelli P, Takanashi Y, Bamforth JS, Eitelberger F, Noszian I, Manfroi W, Powers J, Mochizuki Y, Imai T, Ko GT, Driscoll DA, Goldmuntz E, Edelberg JM, Collins A, Eccles D, Irvine AD, McKnight GS, Basson CT. 余話: 手術前にリハーサルを行ったと書きましたが、これは「塀の中の懲りない面々」で有名な作家「安部譲二」の本で読んだことがきっかけです。安部譲二氏によると警察に捕まるかもしれないような悪いことをしようとする際にはアリバイ作りのために悪事を行う予定の日と同じ曜日の日に「麻雀」をするのだそうです。捕まった時、「いやあの時間は誰々と麻雀をしていました。面子は誰々で、誰がどれくらい勝った、負けました。私が上がった手は何々で…」と言い訳するのだそうです。他の面子の方も実際に麻雀をやっているので、アリバイ作りとしては最高だったと書いていました。要するに、「事をなすにはリハーサル」が大切だと書いていました。ま、悪事をするわけではないですが何か新しいこと、面倒なことをするには入念なリハーサル、予習が大切ですね。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/7/16 これまで私のコラムの中で「書き残す必要性」について何度か書いてきました。歴史に残る大発見をしても書き残さないと、それは「無い」ことになってしまいます。 日本人初のノーベル賞は物理学者湯川秀樹博士が受賞しています。ノーベル賞の受賞対象となった湯川博士の中間子理論に関する論文は『日本数学物理学会雑誌』の英文版に掲載されています(https://www.jstage.jst.go.jp/article/ppmsj1919/17/0/17_0_48/_pdf/-char/ja)。 湯川秀樹博士が偉かったのは 「発見した事を英文で書いたこと」 「自分の書いた英文論文が載っている雑誌を世界中の物理学者に送ったこと」 だと思います。『日本数学物理学会記事』の英文版を世界中の大学、研究施設が購読していたとは思えません。それでも湯川秀樹博士は折角の「大発見」を知らせたくて、世界中の物理学者に送ったのでしょう。それが後のノーベル賞につながります。歴史にifは禁物ですが、湯川秀樹博士が 論文を英文で書かず 英文で書いた論文を世界中の研究者に送らなければ 後のノーベル賞受賞は無かったでしょう。これは1934年のことです。今とは随分と時代が違います。 私の周りでも、もったいない話(折角の発見を論文にしなかった)をいくつか聞いています。私も1つだけ、論文にしなかった心残りの手術があります。今もそのことをチマチマと調べています。 それはともかく、今回は私が初めて書いた英語の論文のことを紹介しようと思います。 医師になってしばらく経ってから、いくつか目標を立てました。その内の1つが「インパクトファクターがある雑誌に論文を載せること」でした。「そして何時の日か教科書に引用されるような論文が書ければ良いな」と夢のようなことを考えていました。 少々「インパクトファクター」についてご説明します。 「インパクトファクター」とは? インパクトファクター(impact factor:文献引用影響率:略称は「IF」)とは「科学系雑誌の点数」です。これが高いほど、「レベルが高い雑誌」ということになっています。入学試験における「偏差値」のような指標です。 IFは1955年、アメリカの書誌学者ユージン・ガーフィールド氏(Eugene Garfield:1925-2017)が考案しました(参考文献1)。「科学を定量的に測定する方法 =IFの算出法」を世界で初めて考えついた方です。「科学を定量的に測定する方法」とは少し言い良すぎかもしれません。「科学雑誌に点数をつける方法を考案した」が正しいでしょう。 ここで IFの計算方法について、ごく簡単に説明しましょう。 ある雑誌「Q:仮名」の2016年の IFをどうやって計算するかをお示しします。 「Q」の IF= A / B A = 2014年、2015年に雑誌Qに掲載された論文が2016年中に引用された回数 B = 2014年、2015年に雑誌Qが掲載した論文の数 要するにある雑誌Qに載った論文がどれだけ引用されたかを計算するのですね。価値の高い論文ほど、引用される回数が多くなり、IFも高くなります。 IFのランキングが毎年6月に発表されます。2016年のランキングをお示ししましょう。 ※()内は前年のIFです Nature: 40.137 (38.138) Science: 37.205 (34.661) Cell: 30.410 (28.710) Nature Medicine: 29.886 (30.357) Nature Genetics: 27.959 (31.616) Nature Methods: 25.062 (25.328) Science Translational Medicine: 16.796 (16.264) Journal of Clinical Investigation (JCI): 12.784 (12.575) Nature Communications: 12.124 (11.329) しかし、これはあくまで雑誌の点数であり、雑誌に掲載された論文自体の価値を示しているわけではありません。IFは「研究者の科学者としての実力」と本来は無関係です。IFを考案したガーフィールドさんも、「これは雑誌の評価であり、科学者の評価とは関係が無い」と述べていました。しかし、ガーフィールドさんの思惑とは違ってIFは研究者の評価をするのに使われています。ある研究者の評価をするのに、その研究者の執筆した論文(正確にはその論文が載っている雑誌)のIFの総計が使われたりもします。 「IFは科学者の評価とは関係が無い」ことを示す良い例があります。以前にDNAの画期的な増幅法であるPCR法を考案して、ノーベル化学賞を受賞したキャリー・マリスのことを以前書きました。日本国の皇后陛下(現上皇后陛下美智子様)に向かって『 sweetie! 』と言った、あのハチャメチャなオジサン、キャリー・マリスです。 彼のPCRに関する論文は NATURE や Science のようなIFの高い雑誌には載りませんでした。NATURE、Science へ投稿したのですが、査読者に掲載を拒否されたのです。査読者には理解できないほど「凄い」論文だったのです。そこで、マリスは「Methods Enzymol」という雑誌( IF= 2.0)に論文を投稿し掲載されました。彼がノーベル賞を受賞できたのは論文を英語で書き、IFが付いている雑誌に論文が掲載されたからです。マリスはアメリカ人で英語が母言語です。日本人の私から見ると、それがとてもうらやましいです。 IFの高い雑誌に論文が載ることと研究者の研究レベルとはまた別な話とはいえ、IFの高い雑誌にたくさん論文が載るような研究者は間違いなくハイレベルです。今は、IFの他にも「Google Page Rank」、「Y- Factor」のような別の評価指数も出てきています。いずれは、IFに取って代わるような評価方法が世界標準になるかもしれません。 しかし、どうせ論文を書くなら、IFの高い雑誌に載せてもらった方がいいですね。IFの高い雑誌は読んでいる人も多いからです。でも、「言うは易く行うは難し」です。「Nature」、「Science 」、「Cell」のような雑誌に論文を載せるのは至難の業です。前述のごとく、IFは引用される論文が多くないと高い値にはなりません。「英語で書かれた論文が載る雑誌」以外は、事実上読まれることが少なく、高いIFを得ることは不可能です。 「これができれば世界最初になる」と思いついた! 前置きが長くなりましたが、私も「何時か IFがある雑誌に論文を載せたい」と思うようになりました。しかし、色々な論文を読んでいると、IFのある雑誌に論文を載せるためには少なくとも、以下、二つの条件が最低条件であることが解ってきました。 世界的に見て、新しい発見や新しい知見があることが必要 英語で書くことが必要 どちらもハードルが高いです。特に、私は海外留学を経験しなかったので、英語で論文を書く方法論が一切解らなかったのです。学位論文は日本語で書き、症例報告などいくつかの論文を日本語で書いたことがありましたが、英語で論文を書いたことがありませんでした。そもそも、「世界初の新発見」、「世界初の新知見」がそう簡単には見つかるわけもありません。 もう27年も前のことになります。1992年のことです。私が勤務していた病院の小児科の先生から、「心臓に腫瘍が二つある」「全身に黒子(ほくろ)がある」「高熱が出ている」という15歳の高校生が入院していると連絡がありました。小児科の先生によると、この高校生の病気は「Carney complex(カーニー複合)」ではないかとのことでした。 「Carney complex」は1985年にクリーブランドクリニックのCarney先生が提唱した病気です。 全身に黒子(ほくろ)があること 多発する粘液腫を伴うこと、その粘液腫は主に心臓に発症すること 内分泌異常を伴うことがあること 遺伝性で、家族性に発症することもあること 粘液腫があれば、熱発、関節痛など炎症反応を伴うことが多い などがその特徴です。 恥ずかしながら、私は小児科の先生に教わるまで「Carney complex」という病気があることすら知りませんでしたので、直ちに Carney先生の論文を読みました(参考文献3)。当時、日本でも未だあまり知られていなかった病気です。 丁度その頃、インターロイキン-6 (interleukin-6:以下「 IL-6 」と略)という物質が日本で発見されていました。液性免疫を調節するサイトカインの一種です。1986年大阪大学の平野俊夫先生、岸本忠三先生らが発見しています(参考文献4、NATUREです)。その後、 IL-6 についていろいろなことが解明されていました。そのうちの1つが心臓粘液腫の患者さんに関することでした。心臓に粘液腫がある患者さんは熱が出ることがあります。粘液腫自体が産生するIL-6が体に炎症反応を起こし、そのために熱が出ると推測されていました(参考文献5)。私が受け持った「Carney complex」の患者さんは、高熱を発していました。つまりこの患者さんの場合、 心臓粘液腫が多量の IL-6 を分泌している それゆえに心臓粘液腫腫瘍内には大量のIL-6が存在するだろう という2つのことが予測できました。この患者さんの血中のIL-6濃度の推移や粘液腫中のIL-6を分析することができれば心臓粘液腫とIL-6との関係が今までよりも明確になるだろうと思いついたのです。 話は少し変わります。当時、さまざまな臓器や腫瘍の中に存在する物質を明らかにするために「免疫染色」という方法が開発され、実臨床の場でもこの方法が使われ始めていました。「免疫染色」とは、臓器の中にある(と考えられる)物質に対する抗体を用い蛍光物質で標識して染色する方法です。実際に「臓器の中にある(と考える)物質」があれば、その抗体と反応して蛍光を発するという原理です。たまたま、私はその免疫染色のことを少しだけ勉強していたのです。そして「抗 IL-6 抗体を用いればこの患者さんの心臓粘液腫のIL-6染色ができるのではないか」「これができれば世界最初になる」と思いついたのです。 「免疫染色」は特殊な方法です。どこでもできるわけではありません。色々と探したら、ある検査会社S社の病理部門の方が興味を持ってくださり、抗IL-6 抗体を用意して、私の受け持っている患者さんの心臓腫瘍の IL-6 免疫染色を行ってくださることになったのです。 望外の幸せでした。IL-6 は上述のごとく日本で発見されたので日本で一番研究が進んでいました。詳しく調べてみると、血中IL-6も測定可能ということが判りました。早速、私の患者さんの血中 IL-6 を測ってみました。とても高い値でした。私は、これは「いける!」と考え、本格的に準備を始めました。 しかし、事は簡単ではありませんでした。摘出した腫瘍内のIL-6濃度は腫瘍を常温で放置すれば時間経過と共に急速に低下することが予想されました。IL-6 が別な物質に変化するかもしれません。S社の方々と議論を重ね、IL-6 の変化を防ぐにはー196℃の液体窒素の利用が有効ではないかという結論に至りました。心臓手術をして腫瘍を摘出したら直ちに液体窒素に浸せば、IL-6の変化は最小限に抑えられると考えました。液体窒素を入れる特殊な容器を用意してその中に液体窒素を入れてその容器に摘出した腫瘍を入れれば良いだけです。 ここまでは簡単な話です。 しかし、問題はその後でした。「腫瘍摘出+液体窒素に浸す」作業をしてから、できるだけ早期に免疫染色のための作業を行わないと「きれいに染まらない」可能性があると言われました。できれば腫瘍摘出後2時間以内に作業に取りかかりたいとS社の担当者から連絡がありました。 さて、困りました。当時私が勤めていた病院は栃木県にあり、S社は東京都八王子市にありました。病院から八王子市まで検体を搬送するには電車による輸送か高速道路を使った自動車での輸送しか方法がありません。。病院から最寄りの新幹線駅まで40分かかります。電車による輸送は選択肢から消えました。高速道路なら病院から研究所まで160kmくらいですが、当時は圏央道が無かったため首都高速道路を端から端まで通るルートしか選択肢がありませんでした。首都高速道路は平日の昼間なら確実に渋滞します。2時間で検体を届けるのは不可能です。どう考えても4時間くらいかかりそうです。そこで私は「免疫染色」を一旦、諦めました。 ところが、考えてはみるものですね。2時間で検体を届けることができる方法を思いついたのです。今でも、なんで思いつくことができたのか、自分でも不思議なくらいです。 以下次回へ。 【参考文献】 GARFIELD E.Science. 1955 Jul 15;122(3159):108-11. Citation indexes for science; a new dimension in documentation through association of ideas. Mullis KB, Faloona FA. SpecIFic synthesis of DNA in vitro via a polymerase-catalyzed chain reaction. Methods Enzymol. 1987;155:335-50. Carney JA, Gordon H, Carpenter PC, Shenoy BV, Go VL. The complex of myxomas, spotty pigmentation, and endocrine overactivity. Medicine. 1985;64:270-83. Toshio Hirano, et al. Complementary DNA for a novel human interleukin (BSF-2) that induces B lymphocytes to produce immunoglobulin。Nature 324, 73 - 76 (06 November 1986); doi:10.1038/324073a0 Hirano, T.,et al. Human B cell dIFferentiation factor defined by an anti-peptide antibody and its possible role in autoantibody production. Proc. Natl. Acad. Sci. USA. 84:228-231, 1987. Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, Mori H, Shimada K. Interleukin-6 and "complex" cardiac myxoma.Ann Thorac Surg. 1998 Sep;66(3):931-3. ↓ここに載っています http://www.annalsthoracicsurgery.org/article/S0003-4975(98)00569-4/fulltext Proc Natl Acad Sci U S A. 2004 Sep 28;101(39):14222-7. Epub 2004 Sep 15. Comparative PRKAR1A genotype-phenotype analyses in humans with Carney complex and prkar1a haploinsufficient mice. Veugelers M1, Wilkes D, Burton K, McDermott DA, Song Y, Goldstein MM, La Perle K, Vaughan CJ, O'Hagan A, Bennett KR, Meyer BJ, Legius E, Karttunen M, Norio R, Kaariainen H, Lavyne M, Neau JP, Richter G, Kirali K, Farnsworth A, Stapleton K, Morelli P, Takanashi Y, Bamforth JS, Eitelberger F, Noszian I, Manfroi W, Powers J, Mochizuki Y, Imai T, Ko GT, Driscoll DA, Goldmuntz E, Edelberg JM, Collins A, Eccles D, Irvine AD, McKnight GS, Basson CT. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/7/1 「昆虫学者ではないただのおじさん」元東京大学附属病院 栗田昌裕先生 前回に続き、蝶々のことから「心」のことなどを考えてみたいと思います。 ここで2人目のご紹介です。 元東京大学附属病院で内科医として働いていた栗田昌裕先生(現 群馬パース大学 学長:1951-)も、そういうアサギマダラをマーキングしている方々の一人です。 栗田先生は10数年にわたって、このアサギマダラのマーキングを「昆虫学者ではないただのおじさん(本人の言)」として続けています。 栗田先生が本格的にマーキングを開始したのは、2003年からです。暑い夏にアサギマダラは東北地方に飛来します。特に有名なのが、福島県の裏磐梯にあるグランデコスキー場です。アサギマダラが多数飛来します。ここに群生するヨツバヒヨドリ(四葉鵯: キク科)の蜜がアサギマダラの好物なのです。 栗田先生は、この裏磐梯で「マーキングしたアサギマダラがどこにどれくらい飛んでいくのだろうか?」とか、「再会できるだろうか?」とか考えつつマーキングをしているのだそうです。 そしてなんと、栗田先生は10年で約13万頭のアサギマダラにマーキングしているのです。年間13,000頭です。特に裏磐梯では一夏に1万頭にマーキングすることを目標として、それを苦しみつつ達成(?)しています。単純に一夏=30-40日として、1日300頭くらいのアサギマダラを捕獲してはマーキングすることが必要です。12時間ぶっ続けにマーキング作業をしたとして、1時間に25頭、約2分に一度はアサギマダラを捕獲してはマーキングを繰り返していたことになります。え?え?え?という話です。 栗田先生によると、アサギマダラには24個の魅力があるとのことです。 文献1から一部引用します。アサギマダラには、 旅をする 飛び方が多様(24種の飛び方があり、分類しています) 酔う(スナビキソウを吸蜜中は酔うのだそうです) 強い 賢い 恐れない 速い(2日で740kmの海上移動の記録有り) etc.ほかに17個の「魅力」があると書いています。 書き写していると、頭がクラクラしてきます。栗田先生は、そんな24個の魅力をもったアサギマダラにマーキングしていると、色々と不思議な現象に出会うのだそうです。 夏に裏磐梯でマーキングしたアサギマダラが他所で他人の手で再捕獲されています。全国31箇所で再捕獲されています。遠くは沖縄で再捕獲されています。それは裏磐梯から沖縄まで少なく見積もっても、2000kmも移動していることが確かめられています。 凄いのは栗田先生ご自身で、秋~冬にかけて、休日を最大限に利用して全国各地に赴き、自分でアサギマダラの調査をしていることです。父島、与那国島、台湾、香港、喜界島等々で調査しています。そして、福島県からは遠く離れた土地で、福島県裏磐梯で栗田先生自身がマーキングしたアサギマダラに再会もしているのです。 1回や2回なら、そういうこともあるでしょう。しかし、何回もそういうことが続いているのです。例えば8月にマーキングした個体に9月末に奄美大島で再会、愛知県の三ヶ根山でも2頭に再会、この時は両手に一頭ずつ自分がマーキングしたアサギマダラがいるという「確率を超えた現象」に何回も出会うようになるのです。 元は東大の数学科を出た「数学者」でもある栗田先生にも確率を超えた「何か」が、アサギマダラにはあるのだろうと記しています。以下参考文献1に栗田先生が書いていることです。 “アサギマダラは不思議な能力を持っていると思う。周辺を飛び回るときにそれを感じる。何かを発しているのではないか。私が考えたことをその通りにアサギマダラが実行してくれるように感じる” 今風に言えば、アサギマダラは栗田先生の考えたことを「忖度」しているのかもしれません。なんだかよくわからないですが、奄美大島で再会したい、愛知県で再会したいと思ったら、福島裏磐梯で自身がマーキングした蝶々が飛んでくるのですから、…ま、あり得ないです。忖度しているとしか思えないですね。 “私がアサギマダラを見る時は、一頭一頭見ているのではありません。アサギマダラをくるんでいる雲のようなものを見ています。だからある場所でアサギマダラをマーキングするとその雲がどのように変化しどのような経路を辿り、いつどこに行くのかが見えてきます” とも書いています。要するに普通の人には見えない何かが、栗田先生には見えるのです。 「確率を超えた現象」に何回も遭遇すると、それは「超常現象」として済まされてしまうことがほとんどです。しかし、文献1.2.は写真や他の人の採取データなどで裏付けられています。そうでなかったら「トンデモ本」の類に入っていたかも知れません。NHKをはじめとするTVや新聞などでも紹介されています。これもあり得ないような確率の話ですが、テレビ番組の撮影中にアサギマダラとの再会を果たしています。ですから、他人には解らないような「超常現象」ではないことは確かでしょう。 栗田先生がアサギマダラを追っかけているのか、追っかけられているのか、それが「心」を通わせているからか?とか、考えると、訳がわからなくなります。私には、アサギマダラと栗田先生が「心」を通わせているとしか思えないのですが、さて蝶々に「心」があるのでしょうか?凡人の私には解りません。いずれにせよ、蝶々には色々と面白いことがたくさんありそうです。韃靼海峡をわたったのが「アサギマダラ」か、まだ不明です。ロシア大陸にいるアサギマダラをマーキングしてくれる方がいらっしゃれば、わかることだと思います。 私も質は違いますが「確率を超えた現象」に出会ったことが何度もあります。 いずれ、そういうことも記そうと思っています。 【参考文献】 謎の蝶アサギマダラはなぜ海を渡るのか? 栗田昌裕(著) PHP研究所 謎の蝶 アサギマダラはなぜ未来が読めるのか? 栗田昌裕(著) PHP研究所 両書ともに、極めて興味深いことがたくさんかかれています。お時間あるときに是非、お読みください。なお、本文中の“”内は両書からの引用です。 アサギマダラ 海を渡る蝶の謎 佐藤 英治 (著) 山と溪谷社 (2006年) 別記1: 栗田昌裕先生は上述の如く、毎夏 福島県耶麻郡北塩原村の裏磐梯にあるホテルグランデコに滞在し「旅する蝶:アサギマダラ観察会」を催しています。興味のある方は、訪れてみると良いですね(アサギマダラ観察会)。 この会が催されるようになったきっかけは、一夏ホテルに滞在している「おじさん(=栗田先生)」が捕虫網をもって朝から晩まで蝶々を追っているのを見たホテルの支配人が、声を掛けてきたことから始まっているのだそうです。これも「アサギマダラのお蔭」と栗田先生は記していますが、大の大人が朝から晩まで、一心不乱に蝶々を採取しては、ペンでマーキングしていたら「何をしているのですか?」と聞かない方がおかしいですね。 別記2: 栗田昌裕先生の略称はSRSですが、これは栗田先生御考案になる速読法「SRS(Super Reading System)」から来ています。速読法に関する著書も多いのです。100冊以上、本を書いていらっしゃいます。指回し健康法の考案者でもあります。 別記3: 我が家に飛来した蝶々です。アゲハチョウでしょうか?何度も、私の周囲を旋回していました。夜の蝶には縁がないけれど、昼の蝶々には好かれているのかもしれないと思っていたのですが、違いました。蝶には蝶が好む通り道があり、それを「蝶道」と言います。丁度、私の周りが蝶道になっていたのでしょう。アゲハチョウの仲間は特に蝶道を作る傾向があるのだそうです。 別記4:芝公園とアサギマダラ 私どものクリニックがある浜松町に近い芝公園でアサギマダラ関連の催しが開催されています。 芝公園・生物多様性ガーデンでアサギマダラを見つけよう 芝公園にアサギマダラを呼ぼう! などが、開催されています。ご興味がある方は是非、参加してみてください。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/6/10 ※「忖度(そんたく)」:「他人の心をおしはかる」という意、最近 ある話題で注目の言葉 皆さんは蝶々が好きですか?(余計な注:昼に舞う蝶々です) 冬が終わりGWも終わり、すっかり春めいている筈の今日この頃ですが、春と言うよりすぐに夏になってしまったような感じを受けます。最近は「春」や「秋」と呼べる期間が極端に短くなっているように思えます。 とは言え、今、自然に目を向ける「春」を感じます。山の樹木は匂い立つような緑色になり、草木も生い茂り、花々も一斉に咲きます。花に釣られて蝶々(ちょうちょう)も花から花へと飛び回ります。 今回、次回は血管疾患から離れ、蝶々のことから敷衍(ふえん)して柄にもなく「心」のことなどを考えてみたいと思います。 皆さんは、子供の頃、蝶々が好きでしたか?春になるとさまざまな蝶々が飛び交います。蝶々を採取して標本にしませんでしたか? 蝶々が好きだと公言している方も多いですね。生物学者の福岡伸一、池田清彦、解剖学者の養老孟司、故鳩山邦夫代議士、ファーブル昆虫記の翻訳で有名な奥本大三郎など「蝶」に魅せられた人は多いですね。ここに挙げた方々の蝶への愛情は凄まじいです。 私の勤めていた病院のある先生は蝶の採取が好きで、学会で各地に行く時には必ず蝶採取用の折りたたみ捕虫網を持っていくのが常でした。その先生は捕虫網にもこだわりがあり「志賀昆虫普及社@戸越銀座」というお店の網でないとダメだと仰っていました。何がダメなのか、私にはサッパリわかりません。その先生は、学会に行っているのか、蝶々を採取に行っているのか、良くわかりませんでした(笑)。蝶々が好きで、蝶に魅せられている方は一種独特な感性を持っている方が多いと感じています。小さい時から蝶々に親しむと、独特な感性が養われるのかもしれません。ただし観察個体人数が少ないのでこの仮説が正しいかどうかは不明です。 そんな先生方の中から、蝶に纏わり私が知っている2名の先生をご紹介しながら話を進めます。 「栴檀は双葉より芳し」元鹿児島大学内科学 納光弘先生 まずは、元鹿児島大学内科学の教授で納光弘(おさめ みつひろ)先生です。「HTLV-1関連脊髄症」という病気を発見したことで有名な先生です。納先生は「痛風はビールを飲みながらでも治る!―患者になった専門医が明かす闘病記&克服法(小学館文庫)」の著者としても知られています。さまざまな病気の研究で有名な方です。診療や医学研究の合間に、玄人顔負けの絵を描いたり、人わざとは思えないようなゴルフをしています。 「1日に105ホール回る」「本場リンクスコースで1日に94ホールまわり、大新聞に載る」などと上記のサイトに載っています。 プロを目指してボウリングもしています。ここに、納先生のボウリングのスコアが載っています実に多芸多才な方です。 納先生の書いた論文を読むと、その精緻さに頭がクラクラとします。天才的な先生です。 その納光弘先生が最初に書いた科学論文を紹介しましょう。医学の論文ではありません。「蝶」に関する論文です。「栴檀は双葉より芳し(せんだんは ふたばより かんばし)」と言いますが、当にその言葉が正しいことを体現しているような論文です。著者名に鹿児島市甲南高校2年とあるのが微笑ましいです。文中に出てくる「福田先生」は後述する本も書いている有名な蝶類学者で、そういう人と出会ったのも運が良いですね。この運?は蝶が引き寄せてくれたのかもしれません。何を言っているのか不明だと思いますが、次回まで読んでいただければ、理解していただけると思います。 この論文は、「タイワンツバメシジミ」という蝶が日本でどういう「カタチ」で越冬しているのかを明らかにした立派な論文です。納青年(当時)は「タイワンツバメシジミ」という蝶が鹿児島の土中で幼虫となって越冬していることを発見したのです。鹿児島県昆虫同好会誌「SATSUMA 19号」に載っている論文です。『蝶の履歴書』(福田晴夫著)にもこのことは紹介されているくらい凄い業績です。 納先生には色々と教えていただいたことがあります。その際、この論文の事も伺いました。この論文に書いたことを発見したのは先生が中学生の時で論文にしたのが高校生の時だそうです。ただ、どこにもこの論文は残っていない、納先生の手元にもないとのことでした。私は探せばあるとはずだと考え、ある方法で探したところ、上記の論文が見つかり、納先生に送って差し上げました。喜んでいただきました。いずれにせよ、後に医学においても世界的な発見をした納先生の記念すべき最初の科学論文は、この蝶に関する論文だということになります。この発見に関して、納光弘先生はこう書き記しています。 “だれも越冬状態を見たことがない。こんなアホなことでも初めてのことだと、書いておけば名前が残っていく。ものごとの発見というのは、変だな、不思議だなと思ったら、その原因をさぐる努力をすれば、いずれ原因に到達するのです” やはり、「栴檀は双葉より芳し」ですね。 アサギマダラは旅をする ここからは、本号の主題に移ろうと思います。 最初に、安西冬衛(1898年-1965年)という詩人の「春」という詩を紹介します。 「てふてふが 一匹 韃靼海峡を渡っていった。」 注1:「てふてふ」は、「ちょうちょう」の旧仮名遣い表記です。音読するなら『ちょうちょう』です。 注2:韃靼海峡(だったん:今の間宮海峡、アジア大陸と樺太の間) という「詩」です。詩集『軍艦茉莉』(1927年)に載っています。 韃靼海峡の地図(Wikiより転載) 韃靼海峡(=間宮海峡)は狭いところでは7kmくらいしかありません。蝶々も渡れると思います。後述の如く、蝶々は考えられないほどの距離を飛翔することが解ってきています。数kmくらい飛ぶのは訳もないことです。 さてこの詩で使われている「一匹」がおかしいと言われる方もあるかも知れません。クイズ番組等で「蝶々の数え方」は「頭」を使うのが正しいとされるからです。私は以前から、昆虫の数え方に「頭」を使うのは変だと思っていました。「蝶鳥ウォッチング」というブログ(https://yoda1.exblog.jp/19635989/)で「チョウの数え方、昆虫の数え方 」について学問的な考察がなされているのに気づきました。これを読んで疑問が氷解しました。 以下、同ブログより引用します。 ----引用開始------ 日本動物学会に問い合わせると、以下の説明を公式にいただきました。 「昆虫関係の和文誌論文をいくつかみると、多いものが何「個体」、次が何「頭」です。しかし、厳しく呼称統一されているわけではなく、何「匹」も間違いではないと思います。これが論文ではなく一般向け書物ならば順番は逆になるのではないでしょうか。あまり厳しくルールを決める必要もないのではないかというのが学会関係者の意見でした」 つまり、動物学会でも、学術論文において「頭」にするか、「匹」にするかは、著者の自由であるわけです。 ----引用終了------- TVなどのクイズ番組が間違いなのです。「頭」か「匹」を選ぶのは学術論文でも、どちらでも良いのです。 仮に 「てふてふが 一頭 韃靼海峡を渡っていった。」 としたら何だか情緒が無くなり違和感が残ったと思います。 その韃靼海峡を渡ったとされる蝶々ですが「アサギマダラ」という蝶ではないかとされています。樺太でも見つかるからです。そもそも「か弱そうに見える」蝶々が本当に遠距離を移動するのでしょうか? それについては少なくとも世界で2種類の蝶が何千キロも旅をすることが確かめられています。最初に長距離を飛ぶことがわかったのは北米の「オオカバマダラ(大樺斑・学名:Danaus plexippus、英名Monarch)」という蝶々です。どうやって、蝶々が数千kmも飛ぶかわかったかというと「オオカバマダラを捕獲」して図1にあるようなラベルを付けてから蝶を放つのです。ラベルにはe-mailのアドレスが書いてあります。 図1:ラベルが貼られたオオカバマダラ このラベルが付いた蝶を再捕獲した人が捕獲場所をe-mailで連絡すれば、蝶々がどこかからどこまで、どれくらいの日時で移動したかが、わかるのです。多くの人の努力、観察により、カナダでラベルを貼られたオオカバマダラはメキシコまで移動していることや、時にはイギリスまで移動していることが解ったのです。このオオカバマダラに次いで長距離移動をすることが解ったのは日本の「アサギマダラ(浅葱斑、学名:Parantica sita 英名:Chestnut Tiger)」という蝶です。 図2 アサギマダラ 「浅葱:アサギ」とは青緑色の古称で羽の部分の半透明の水色部分の色です。 このアサギマダラですが、春になると北上し涼しい土地で過ごし、秋には暖かい地方に南下するのです。詩的に書けば「アサギマダラは旅をする」のです。旅をするらしいことがわかったのは1980年頃の話です。全国各地のアサギマダラの愛好家がアサギマダラにマーキングを開始しました。大阪市立自然史博物館の方が「アサギマダラを調べる会」を発足させ、以後、現在に至るまで、マーキングをして、アサギマダラがどのように飛んでいるかを調べています。 図3:マーキングされたアサギマダラ 図3はマーキングされた「アサギマダラ」です。北米の「オオカバマダラ」のラベルとは違います。油性のペンでアサギマダラの羽に字を書き込むのです。キカイとあるのは喜界島のこと、3/28は3月28日、SRSはマーキングした方の略称(例えばこのSRSは栗田昌裕先生です)。このようにアサギマダラの羽にマーキングし、誰かが別な場所でこの蝶を捕獲したら、捕獲場所、捕獲日時をSRSさんに報告する。SRSさんはそれを公開する。Aさん、Bさん、Cさん……がそれぞれそういうことを行ってはじめて、アサギマダラがどれくらいの距離を飛翔するか、わかるというわけです。理屈は簡単ですが、実行するのは大変です。インターネットが普及したお蔭で報告、集計は多少容易になったとは思いますが、それでも蝶にマーキングしてそれを集計するのは大変だと思います。ご興味がある方は「アサギマダラ観察会」に参加してみてください。 以下、次回。 【参考文献】 謎の蝶アサギマダラはなぜ海を渡るのか? 栗田昌裕(著) PHP研究所 謎の蝶 アサギマダラはなぜ未来が読めるのか? 栗田昌裕(著) PHP研究所 両書ともに、極めて興味深いことがたくさんかかれています。お時間あるときに是非、お読みください。なお、本文中の“”内は両書からの引用です。 アサギマダラ 海を渡る蝶の謎 佐藤 英治 (著) 山と溪谷社 (2006年) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2019/5/27 ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない 前回の続きです。世界で初めて足の動脈瘤の治療に成功した外科医「ジョン・ハンター(John Hunter、1728-1793)」、彼は実にさまざまなことを行っています。 (1)先に医師、解剖医になった兄と共に「解剖教室」をロンドンに開き屍体を集めて授業料をとって人体解剖を教えていました。そんな教室は、世界中でもごく少数でした。今、医学部では、御遺体(尊い献体です)を用いて解剖を行います。その先駆けですね。 (2)生きた犬を開腹して犬の腸にミルクを注ぎました。その結果リンパ管が白く(ミルクの色)なったので、リンパ管は脂肪の通り道であることを証明しました。 (3)ハンターは軍医をしていた時に A.「銃弾摘出術」を行わなかった患者は全例助かっていること B.「銃弾摘出術」を行った患者の死亡率は極めて高いこと の2点に気づき、以降、「銃弾摘出術」を行いませんでした。 このことに示されるように「死亡率が高い」か「不必要」と判断した治療や手術を、ハンターは行わなかったのです。こういう冷静な科学的判断が下せる医師、外科医は当時ほとんどいませんでした。それだけでも凄いことです。 (4)ハンターは、病人を診て、病状を考え、病気を治療する時にはいつも 「観察せよ、記録せよ、推論せよ」 と説いていました。科学的思考の第一歩ですね。 (5)ハンターは自分の頭で考えることの大切さを繰り返し、説いています。曰く、 「自分の頭で考えよ」 「常に疑問を持ち、自分の頭で考える外科医をそだてることが必要」 「世の定説は、真の知識というより単なる信仰に基づいている。定説を改めようとするのは定説の誤りを認めて得意になりたいからでは無く、自分たちの無知を認めて改めるためである」 「確立された教義に疑問を持ち自分の頭で考えよ」 今でも通じる考えですね。でもハンターが生きた時代にこれを説くのは危険でした。「教義」に疑問を持つこと=神への冒涜と捉えられたからです。このために彼の書いたある本が出版されなくなり、大きな業績を他人に譲ることになってしまいました。 (6)ハンターの弟子は文字通り、「綺羅星のごとく」です。種痘で有名なジェンナー、パーキンソン病で有名なパーキンソン(パーキンソンはハンターの講義を詳細にノートテイクしていたのでハンターが何をどのように講義していたかがわかったのです。優秀な生徒はいつでも優秀ですね)、アメリカにハンター流の動脈手術を広めたライト・ポスト、ヘルニア手術を考案したことで有名なアストリー・クーパーなど、多士済々です。 (7)史上初の人工授精を施行し成功。天才的な方法です。詳細をここで書くのは少し憚られますので参考文献をお読みください。 (8)歯の移植に成功。健康な歯を抜いて(もちろん「健康な歯をもった他人」に対価を払って)、虫歯で歯を失った患者に移植しました。一時的に成功を収めたが歯の移植で梅毒が広まることがわかり中止となりました。 (9)墓地から多くの屍体を掘り起こして、「解剖」に「解剖」を重ねた結果、他の医師よりも圧倒的な解剖学の知識を得ました。しかしやったのは壮大な「死体泥棒」ですので、非難も受けています。 (10)珍しい「人体」を標本にして残しています。珍しい体格や奇形を有している人の死体を解剖して標本にしています。特に有名なのはアイルランドの巨人チャールズ・バーン(Charles Byrne 1761-83)の骨格です。バーンは身長が243cmもあり見世物としてロンドンで人気を博していました。巨人症だったのです。死後、ハンターの手で標本にされるのを恐れて、二重三重にハンターの魔手から逃れようとします。しかし、ハンターはさまざまな手段を用いて(倫理的にはあまり良いこととは思えませんが)、ついにバーンの死体を入手し、骨格標本を作ります。今、ロンドンのハンテリアン博物館(参考文献参照)でそれを見ることができます。ただの骨格標本ですが、アメリカ人の脳神経外科医クッシングはこの標本を見ていて、脳のトルコ鞍が異常に拡大していることに気づき巨人症が脳腫瘍によって引き起こされると推論しました。CTが普及するよりずっと以前の話です。見る人が見ればわかるという典型例です。なお、この骨の標本があるおかげでDNAが分析されこの巨人症のバーンさんと遺伝的につながりがある家系が、4家系アイルランドにいらっしゃることがわかりました。そんなことは、ハンターの時代には考えられなかったでしょうが、ある意味、ハンターという希有の収集家のお蔭です。 (11)世界中の色々な動物の剥製を集めたりもしました。時にはマッコウクジラの解剖もしています。色々な動物を飼育して、成長過程や体温を測ったりもしています。犬、鶏、魚、ナメクジ、ウサギ、コイ、マムシ、雄牛、冬眠中の動物、もちろんヒトも含めて体温を測定し「温血動物(=恒温動物)の体温は一定である」ことを確認しています。そんなことは今では常識ですが、世界で最初に発見して、記録したのはハンターです。 (12)広大な屋敷の裏側は「解剖教室」、表側は「医院」にしていました。そのため、後のスティーヴンソンの小説「ジキル氏とハイド氏」のモデルとも言われています。 (13)当時のイギリスでは、梅毒と淋病が猖獗(しょうけつ)を極めていました。原因は当然ながらわかりません。ハンターは仮説を立てます。それは「梅毒と淋病は同一の原因で起きる」のだろうという仮説でした。そう思った彼は淋病の患者から採取した「膿」を健康な被験者のペニスに接種します。なんと無謀なことでしょう。そして被験者の詳細な記録をつけます。この被験者には最初、淋病の症状が現れ、次いで梅毒の症状が現れました。それで淋病と梅毒の原因は同一であるという論文を書きます。この被験者はハンター自身です。なんというか凄いです。もちろん、後にこの仮説は間違っていることがわかりました。ハンターが自分のペニスに接種した膿は、淋病と梅毒の混合感染者の膿だったのです。 注1:梅毒スピロヘータが見つかったのは1905年のことです(ドイツ人原生動物学者シャウディン:Fritz Richard Schaudinnと皮膚科医ホフマンE.Hoffmannが発見。) 注2:淋菌は1879年、ドイツ人医師アルベルト・ナイサー(Albert Ludwig Sigesmund Neisser)が発見、後にナイサーの名前「Neisser」から淋菌は「Neisseria gonorrhoeae」と命名されています。 (14)世界初の自然史博物館を創立し、現在も残っています(参考文献参照)。ハンターが収集した14000点にのぼる標本が展示されています。 (15)ダーウィンより70年も早く進化論を唱えていました。しかし、その内容が当時としては過激で出版が許されなかったのです。当時は聖書の天地創造の記述を文字通りに受け入れていたので、それを覆す進化論はキリスト教的には困った事だったのです。それでジョン・ハンターの書いた動物の進化に関する著作はお蔵入りとなってしまい、ダーウィンが「種の起源」を発表してから2年後にようやくハンターが動物の進化について書いた「博物学、解剖学、生理学、心理学、地質学に関する小論と推察」という本が出版されます。題名だけでもハンターの知識量が半端ないことがわかります。何時も早朝から深夜まで、勉強、講義、診療を繰り返していたそうですので超人的な知力、体力の持ち主だったのでしょう。 (16)フイゴ(鞴)を用いた人工呼吸法を発明、さらに電気ショック(おそらくはライデン瓶による発電?)による蘇生も行っています。2階から転落して心臓が止まった3歳の子供に、電気を流して止まった心臓を蘇生させることにも成功したという記録を残しています。世界初の「除細動器」です。本格的な除細動器が発明される200年も前のことです。 どれ一つとっても凄い仕事で、普通の人なら、一生に1回こういうことを成すことができればそれだけでも賞賛されるような仕事です。 (17)行ったことのほとんどを書き残しています。これは「言うは易く行うは難し」です。 ハンターは、現在の医学から見ると間違ったこと、現在の倫理観からすると「どうかな?」と思うようなこともやっています。しかし、ハンター無くして近代外科は語れないほど、色々なことを成しています。 ハンターのことを色々と読んでいた私にセレンディピティが訪れました。ある大学の文学部の先生が血管の病気で入院されてきました。緊急手術を行い、助かりました。手術後、元気になった時に伺ったら「望月先生はジョン・ハンターを知っていますか?」「私はハンターが生きていた時代のスコットランド英語の研究をしているのです」と仰ったのです。 以前、参考文献1の「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」を読んでいたので、よく知っていますと答えたら、びっくりしていました。私と違い、この先生の専門はハンターの書いた英語そのものを研究することだったのです。色々なことを教えていただきました。本稿にあるハンター関係の図は全てその先生からいただいた資料からとっています。 矢印で示しているのが、膨らんだ動脈=動脈瘤 です。人工血管もなく、血管縫合用の糸も針もない時代に、ハンターは、このような動脈瘤の外科的治療に成功しています。その流れが、なんと日本にも伝わり「世界初の動脈瘤摘出手術に成功」したのは大阪の日本人外科医で、世界的な雑誌に詳細な報告を書いています。現代の世界的な血管外科の教科書(もちろん英語)にも載っています。 というようなお話は次回に。 ※文中に使用したハンテリアン博物館の写真は、ハンテリアン博物館より提供され、同博物館の許可を得て掲載しています。 ※(2019年6月17日追記)記事に間違いがありました。間違いをしてくださる読者はありがたいです。 【参考文献】 解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯(河出文庫)2013年 ウェンディ・ムーア(著)、 矢野 真千子(訳) これは名著です。これを読むまでハンターのことはおぼろげにしか知りませんでした。本書は翻訳が素晴らしいのでとても読みやすいのです。お時間がある時に是非お読みください。しかし、少しだけこの「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」という邦題には疑念があります。原題は「The Knife Man」です。私が邦題を付けるなら「外科医の中の外科医」、「ザ サージャン」、「ザ 外科医」とでもしたでしょう。ジョン・ハンターは単なる解剖医ではありません。現在の外科医の始祖でもあり、当時最高の医師でした。なお、矢野真千子さんの手になる翻訳はすべて、読みやすく、わかりやすいのです。矢野さんは、英語に堪能で日本語にも堪能で、しかも翻訳する本に関する分野を良く勉強していることがわかります。 ハンターの設立した自然史博物館はハンテリアン博物館(Hunterian Museum, Royal College of Surgeons)として現在まで残っています。しかし、2020年秋まで改装のため、閉鎖中です(http://medicalmuseums.org/museum/hunterian-museum/)。私はこの博物館に行ったことがありません。2020年秋以降にロンドンに行く機会があったら是非訪れてみたいです。 ハンターの兄も博物館を作っています。グラスゴーにあります。「The Hunterian」という博物館です(https://www.gla.ac.uk/hunterian/)。 兄弟で博物館を、別々に作ったのですね。珍しい話です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ 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メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2019/5/13 血管手術、事始め 前回、解体新書(1774年刊)のことをお伝えしました。人体がどうなっているかわからないと、つまり「解剖」がわからないとそもそも病気のことはわかりません。いまでも医学部で学ぶ最初の医学講義は「解剖学」です。 世界で最初に精密な人体解剖図を著したのはアンドレアス・ヴェサリウス(Andreas Vesalius、1514- 1564、現ブリュッセル生)です。ヴェサリウスはパドヴァ大学(現:イタリア)で医学を学びました。当時、解剖というと「ガレノスの解剖」でした(ガレノス:ローマ帝国時代のギリシアの医学者、129−200年?)。 ヴェサリウスは「ガレノスの解剖」に疑問を懐き人体解剖を実際に行い、29歳の時に「De humani corporis fabrica libri septem 」という解剖学書を発表しました(1543年刊)。当時の公用語ラテン語で書かれています。題の英訳は「On the fabric of the human body in seven books」です。日本語では「人体構造論」と翻訳されています。 この本は世界中で「fabrica(ファブリカ)」と言い習わされています。衝撃的な本です。ラテン語で書かれているので内容はわからなくても、図を見ただけでびっくりします。いくつか、お目にかけましょう。写実的でしかも超現実的です。現代でも十分通用する「遊び心」があると思います。 解剖に関する本は今でも、たくさん出版されていますが、この「fabrica」ほど衝撃的な本は無いと思います。特に足を組んで、物思いにふけっている骸骨の図が、私は好きです。おしゃれです。何を悩んでいるのでしょうか? このヴェサリウスの後輩(同じパドヴァ大学で学んだ)が血液循環を発見したハーヴェイです。 ヴェサリウスの人体解剖の教科書が1543年、ハーヴェイの血液循環の発見が1628年です。ハーヴェイは、当然、ヴェサリウスの解剖図で血管走行を学び、血液循環を思いついたのだと思います。しかし「血液が循環すること」がわかったからといって直ちに血管の病気の診断や治療ができるわけではありません。臓器と病気の関係の解明には、他のさまざまな科学の発展が必要でした。ヴェサリウス解剖図から400年以上経った現代でも未だにわからない病気がたくさんあります。 それはともかく、比較的早期から病気の診断が可能であったのは体表面に近い血管の病気です。体表面に近い箇所にある動脈は触れることができます。足の血管が閉塞すれば、脈が触れなくなり、足の血管に動脈瘤ができれば「瘤(こぶ)」は触ればわかります。しかし、それがわかったところで治療方法はありませんでした。 実際の人体に則したヴェサリウスの解剖図を活かして、世界で初めて⾜の動脈瘤の治療に成功した外科医がいます。1785年の事です。天才的な方法で膝窩動脈(膝の裏にある動脈)の動脈瘤(りゅう=こぶ)の治療に成功します。 その外科医の名は「ジョン・ハンター(John Hunter、1728-1793)」です。スコットランド生まれのイギリス人です(注:1707年以降、スコットランド王国はイギリスに併合されています)。 ジョン・ハンターは実にさまざまなことを行っており、ハンター無くして近代外科は語れないほど、色々なことを成しています。 ハンターが行った実にお話は次回に。 【参考文献】 解剖の試験異聞…… 某大学医学部で何が起きた…「神経解剖学」追試120人「全員不合格」(産経デジタル) http://www.sankei.com/west/news/140426/wst1404260086-n1.html 産経新聞の記事です。今でも解剖学の試験は大変そうですね。「神経の解剖」はとても大変です。細かい部位まで名前がつけられています。ラテン語!です。覚えるのが大変です。教官が難しい問題を作ろうと思えばいくらでも作れます。某大学の学生さんに心より同情申し上げます。 「De corporis humani fabrica libri septem」Andreas Vesalius(著) ヴェサリウスの原本に付いては邦訳や原著復刻版が出版されています。「Kindle版」まであり400円です。 「De corporis humani fabrica libri septem」の初版本は日本にも数冊あるようです。 ・明治大学図書館(PDF) ・広島経済大学図書館 などです。なぜか、人文系の図書館に所蔵されています。 私も欲しいなと思って探したらなんとこの初版本が売られていることに気づきました。US$ 1,151,629ですけれど(1ドル=115円として計算すると約1億3000万円ですね)。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2019/04/22 「哲学と血液循環の関係(1)」より続きます。 英国人医師のウィリアムハーヴェイが1628年に「動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究」という本を出版し「血液は体中を循環する」という今では当たり前のことが西欧世界では広く知られるようになりました。 しかし、日本には伝わりませんでした。1628年当時の日本は鎖国をしていたからです。日本で「血液が循環する」と知れ渡ったのは1774年のことです。この年に杉田玄白がプロデュースして出版した「解体新書」の中でハーヴェイの血液循環説が紹介されたのです。 ここで日本での人体解剖の歴史を簡単に振り返ります。小浜藩(今の福井県小浜市)の人々が大きな役割を果たしています。 日本で最初に人体解剖を行ったのは京都の漢方医の山脇東洋です。1754年(宝暦4年)、京都の「六角獄舎」で死刑囚の解剖(当時は腑分け:ふわけと称していました)が行われました。日本初の解剖に5人の医師が立ち会いました。 山脇 東洋(京都の漢方医:1706-1762):やまわき とうよう 小杉 玄適(小浜藩医:1730-1791):こすぎ げんてき 原 松庵(小浜藩医:山脇 東洋 の弟子、生没年不詳) 伊藤 友信(小浜藩医:山脇 東洋 の弟子、生没年不詳) 浅沼 佐盈(山脇 東洋 の弟子、生没年不詳):あさぬま さえい この5名です。当時の京都所司代(知事のような役目)は酒井忠用(さかいただもち)で小浜藩主でした。小浜藩は今の福井県小浜市(おばまし)です。小浜市は、オバマさんがアメリカ大統領に就任した時、少し話題になりました。 酒井忠用は1752年から1756年まで京都所司代を務めました。その在任中の1754年、山脇東洋、小杉玄適らが人体の解剖の申請を京都所司代酒井忠用に提出し、許可されたのです。小杉玄適は酒井忠用の侍医でした。そういう関係もあって解剖が許可されたのでしょう。酒井忠用は「日本で最初に人体解剖を許可した人物」として医学の歴史に名が残りました。 山脇東洋は漢方医でしたが、動物の解剖を手がけていて、どうも人間の臓器は当時の漢方医学で教えられていた「五臓六腑」とは違うのでは無いか?と考えたのだと思います。また、山脇はドイツ人医師ヨーハン・ヴェスリング(Johann Vesling、1598-1649)が1641年に出版した解剖学書「Syntagma anatomicum, publicis dissectionibus, in auditorum usum, diligenter aptatum」を手に入れています。この本はラテン語で書かれていますが、後にオランダ語に翻訳されています。オランダから出島に伝わった同書を何らかの方法で手に入れたのでしょう。この「ヴェスリングの解剖学書」に載っている解剖図は、山脇東洋ら漢方医が習ってきた中国医学の「五臓六腑」の解剖と随分違いました。どちらが正しいかそれを確かめるために人体解剖を行ったのだとされています。山脇東洋はオランダ語を学んでいませんから、ヴェスリングの解剖書の内容はわからなかったと思います。しかしヴェスリングの解剖書に載っている人体解剖図を見ながら、実際に人体解剖を行い、それまでに中国から伝わっていた人体解剖は間違っていることに気づいたのです。 この解剖から5年、1759年山脇東洋はこの解剖を元に「蔵志(ぞうし)」という日本で最初の解剖書を出版します。その図を書いたのが浅沼佐盈(あさぬまさえい)(前述の5番目)です。絵をかける弟子(浅沼)を連れて行った山脇は着眼点が違います。 他の人は何も書き残さなかったので、ほとんど、その名前が残りませんでした。やはり書き残さないと駄目ですね。余談ですが、解剖をされた罪人は「屈嘉(「くつか」あるいは「くつよし」)」という名前でしたが、山脇東洋は「屈嘉」を厚く弔い、「利剣夢覚信士」という戒名を付け京都京極の誓願寺に埋葬しています。「屈嘉」は日本で最初に解剖され、その内臓が記録された人物となりました。 時は流れ、ヴェスリングの解剖書よりもさらに精密な解剖書「ターヘルアナトミア(ドイツ人医師クルムス著した解剖学書のオランダ語訳書)」が日本に伝来します。「ターヘルアナトミア」は江戸にいた小浜藩医の杉田玄白(1733‐1817)や中津藩医の前野良沢(1723-1803)の下にもありました。当時、簡単に手に入るような本ではありません。前野良沢は長崎留学をした時に入手していました。前野良沢は留学当時46歳です。当時なら、隠居してもおかしくない年齢で長崎に留学し、オランダ医学やオランダ語の勉強もしていました。 山脇東洋と一緒に解剖に立ち会った小杉玄適は小浜藩医で同じく小浜藩医だった杉田玄白の同僚でした。小浜藩つながりです。その小杉玄適から人体解剖の重要性を聞かされていた杉田玄白は、同僚の医師 中川淳が借りてきた「ターヘルアナトミア」に載っている解剖図を見て、「ターヘルアナトミア」の価値に気づいたのです。そして小浜藩主に頼み込んで「ターヘルアナトミア」を買い上げてもらい自分で読むことができるようにしていたのです。 小浜藩主酒井忠用が人体解剖を許可し、 その人体解剖に立ち会った小杉玄適と杉田玄白は小浜藩医で同僚だった。 人体解剖に興味があった杉田玄白が「ターヘルアナトミア」を小浜藩に買い上げてもらった。 凄い「小浜藩つながり」です。それが解体新書につながります。 いつかは自分も人体解剖を行いたいと思っていた杉田玄白ですが、たまたま前野良沢と知り合い、1771年3月4日江戸小塚原の刑場で死刑になった罪人の解剖を「ターヘルアナトミア」を参照しながら見学することができたのです。解剖した人体は「ターヘルアナトミア」に描かれている通りだったのです。 そしてこれが凄いのですが、解剖見学の翌日の3月5日、解剖に参加した33歳の杉田玄白・48歳の前野良沢・32歳の中川淳庵が集まり「ターヘルアナトミア」を皆で翻訳することを決めたのです。決断が早いですね! 翻訳と言っても、「オランダ語→日本語辞書」は無く、その作業はほとんど暗号解読のような作業でした。杉田自身はあまりオランダ語が得意ではなく、実質的翻訳者は前野良沢だとされています。 苦節3年、そしてついにそれが1774年の「解体新書」出版につながります。上述のごとく「解体新書」には「ハーヴェイの血液循環説」も紹介されています。 解体新書は、日本初の本格的解剖書(翻訳ですが)です。人体の名前もオランダ語から苦労して翻訳されています。有名なのは「神経」「軟骨」「頭蓋骨」「十二指腸」「処女膜」などです。今でも使われている言葉がこの時に「新造語」されています。 「動脈」は中国語にすでにあった言葉です。静脈は「血脈」と記されています。後に宇田川玄真(1770-1830)の著書「和蘭内景医範提網」に初めて「静脈」という言葉が使われ今でも使われています。「動(どう)」に対して「静(せい)」ということでしょう。血管の性質、実態も表しているとても良い「造語」です。でも、それなら静脈は「せいみゃく」と呼称すべきかもしれません。しかしなぜか「じょうみゃく」と呼ばれ今に至っています。「静」の音読み(中国語読み)は「せい」と「じょう」ですが、「静」を使ったほとんどの熟語は「せい」と呼んでいます。例えば、平静、動静、安静、静寂、静電気etc.「じょう」と読むのは少ないですね。理屈はなく、語呂で「じょうみゃく」と読まれるようになったのでしょうか。 今回の話は、皆さまにはあまり面白くないかと思います。しかし、解剖はとても大切です。そもそも病気が発生する場所が正確にわからないと、病気を明らかにすることができません。解体新書が刊行されてはじめて日本に本格的西洋医学が始まったと言っても過言ではありません。 学生時代、「解剖学」の勉強は大変でした。ラテン語で人体の各部位の名前を覚えるのです。簡単ではありません。悪夢のような勉強でした。どれくらい悪夢かというと今でも解剖の口頭試問の時に質問された「口蓋骨垂直板」のラテン語名を間違って答えた場面を思い出すくらいです。「lamina perpendicularis ossis ethmoidalis」が正解なのですが、「lamina perpendicularis ossis sacri」と間違ってしまい「違います」と言われ、冷や汗をかいたのを思い出すのです。結局、なんとか正解を思い出したのですが、一瞬「落第か?」と思いました。医師になってから残念なことにこの憎き「口蓋骨垂直板」という言葉を使ったことがありません(笑)。 次回から、代表的な血管の病気について、ご紹介しようと思います。 【参考文献】 医学用語の起り(東書選書) 小川鼎三(著) なりたちからわかる!「反=紋切型」医学用語『解体新書』 小川 徳雄、永坂 鉄夫(著) 血液は循環する―ハーヴェイ伝 (世界を動かした人びと) 阿知波五郎(著) 動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究(岩波文庫 青 908-1) ウイリアム・ハーヴェイ(著) 原本はラテン語“Exercitatio Anatomica de Motu Cordis et Sanguinis in Animalibus” 英語なら“An Anatomical Exercise on the Motion of the Heart and Blood in Living Beings” 新装版 解体新書(講談社学術文庫) 杉田玄白ら(翻訳)、酒井シヅ(現代語訳) 冬の鷹(新潮文庫) 吉村昭(著) 前野良沢に焦点を当てて、解体新書の成立過程を解き明かしている歴史小説です。面白いです。 余話1: 杉田玄白が70歳の頃に書いた回想録『形影夜話』(1802年)に「昔の医学書に天然痘や梅毒が書かれていなかったのに、今はずいぶん天然痘や梅毒を診ることが増えた」「毎年1000人あまりの患者を治療するうち、実に700~800人が梅毒である」 と記しています。 梅毒は、今も激増しています。注意が必要です。 余話2: 解体新書には杉田玄白(訳)、中川淳庵(校)、石川玄常(参)、官医・桂川甫周(閲)とあり、実質的翻訳者である前野良沢の名前がありません。前野は不完全な翻訳のまま「解体新書」を出版することに反対したからと言われています。でも完全を目指すより、出版を優先し世の中に「ターヘルアナトミア」を早く広めた杉田玄白も偉かったと思います。 余話3: 「蔵志」の図は漢方医の浅沼佐盈が書いていますが、かなり平面的な絵です。しかし、「解体新書」の図は写実的で迫力があります。こちらはプロの画家「小田野直武(1750-1780)」が画いているのです。小野田直武の描いた「絹本著色不忍池図:けんぽんちゃくしょくしのばずのいけず」という絵は重要文化財になっています。 それくらいの「プロ」ですから、「解体新書」の図が素晴らしいのは当たり前かもしれません。でも元は「ターヘルアナトミア」の図です。模写して手を加えているので、今なら盗用とされて問題となるでしょう。 「蔵志」の図 「解体新書」の図 余話4: 福井県小浜市には杉田玄白の名を冠した公立「杉田玄白記念小浜病院」があります。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/04/08 桜を詠んだ詩歌 今回は血管の話を続けてする予定でしたが、4月でもあり桜についてあれこれ考えて見たいと思います。 桜を見るとさまざまな思いがよぎります。桜の開花する時期は「年度替わりと重なること」や「学校なら入学式と重なる地域も多いこと」から、桜は日本人の琴線に触れるのでしょう。 古来、桜を詠んだ詩歌がたくさんあります。有名な詩歌を古い方から順番に並べてみましょう。 「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし」在原業平(825-880) 「ねがはくは 花のもとにて 春死なむ その如月の望月のころ」西行(1118年-1190) 「しき嶋のやまとごころを 人とはば 朝日に にほふ 山ざくら花」本居宣長(1730~1801)注1 「散る桜 残る桜も 散る桜」良寛和尚(1758-1831) --- これ以降、桜に変化が --- 「貴様と俺とは 同期の桜…」西条八十(1892~1970) 「ハナニアラシノタトエモアルサ サヨナラダケガジンセイダ」※元歌は于武陵(うぶりょう:810- 唐の詩人)の「勧酒」、井伏鱒二(1898-1993)が翻訳。 桜を題材にした歌謡曲もたくさんあります。 「桜坂」(福山雅治) 「桜」(コブクロ) 「さくら」(ケツメイシ) 「さくらんぼ」(大塚愛) など、多数。 江戸時代末期から明治時代にかけて、詠まれる桜の種類が大きく変わります。良寛以降に詠まれる桜は、染井吉野(ソメイヨシノ)が多いと思います。それ以前に詠まれている桜は本居宣長が詠んでいるように山桜だと思います。なぜ、染井吉野に変わったか、それを今回、詳らかにしましょう。 日本中の染井吉野は一本の木から産まれたクローン 東京ではすでに桜は散ってしまいました。しかし、東北、北海道はこれからが見頃です。開花宣言は、各都道府県にある気象台が定めている「標本木」に5~6輪の花が咲いたことを気象台の職員が確認して始めて、宣せられます。 写真1は、東京の標本木です。靖国神社にあります。大阪の標本木は大阪城公園にあります。 写真1:靖国神社の標本木 今、桜並木に植えられている桜の多くは染井吉野です。 染井吉野は江戸時代、染井村の植木屋さんで売り出された品種だそうです(詳細は不明です)。染井村は現在の駒込辺りです。元々、江戸時代~明治初期に染井村の植木屋さんが、 大島桜:大きな花が咲く エドヒガン(という名前の桜):葉っぱが出る前に花が満開になる(注4) そういう特徴を持った2種類の桜を受粉させて種を作り、栽培したところ、現在の染井吉野の元になる桜ができたと言われています。これには異論もあり、偶々できたとも言われています。 私が推測するに、染井村の大きな植木屋さんの庭に大島桜とエドヒガンがあり、受粉して種ができて、その種をまいたら現在の染井吉野の原型となる桜ができたのだと考えています。それを偶々と考えるか、植木屋さんが作ったと考えるかの違いだとおもいます。記録が残っていれば、染井吉野を流行させた植木職人さんの名前は間違い無く後世に残ったと思います。残念ながら記録は残っていません。 それはともかく、折角できたきれいな桜を売り出すにあたり、古代から有名だった奈良の「吉野桜」として売っていたそうです。しかし、本家本元の奈良県の吉野桜とは関係が全くない品種ですから、1900年(明治33年)に「吉野桜」は「染井吉野」と改名させられています。それでも「吉野」が残っています。千葉県にあるのに「東京ディズニーランド」と名付けるようなモノでしょうか? いずれにせよ、きれいなピンク色で大ぶりの花を付ける染井吉野は瞬く間に日本中に広まりました。今、桜並木で見る桜の多くはこの染井吉野です。染井吉野は実生(みしょう)ができません。種から苗木を作ることができないのです。というか、染井吉野は、ほとんどの場合「サクランボ(果実)」が生りません。つまり「種」ができません。そのため、同じ染井吉野を「作る」には接ぎ木という方法が必要です(注2)。 接ぎ木を簡単に説明しましょう。接ぎ木には2つの桜が必要です。1つは大島桜(他の桜でも可)の根元、もう一つは芽のついた染井吉野の枝です。 大島桜を根元で切り、その切り口に染井吉野の枝を植えます。そうすると、概ね2年経過すると染井吉野が生えてくるのです。一種の臓器移植です。このように「人手」を借りないと染井吉野は増えることができません。自然界では自力で繁殖できないのです。それにしても、元の大島桜はどこに行ってしまうのでしょうか。根を貸すだけです。なんだかかわいそうですね。「接ぎ木」を考えついたのは誰か不明です。 そういうわけで、ワシントンのポトマック河畔の桜も、目黒川の桜も、靖国神社の桜も、弘前城の桜も、染井吉野なら遺伝的には同一です。全国各地の染井吉野のDNAを調べた研究がありますが、全て同一でした。つまり、日本中の染井吉野は一本の木から産まれたクローンです。 そのため同一地域に生えている染井吉野は一斉に咲いて、一斉に散ります。そのように個性が無いのが、個性であるとも言えます。桜は、ほかにも多くの品種がありますが、日本でも世界でも染井吉野はその美しさで人気があります。これに対して、野生の桜は同一品種でも少しずつ違いますので、開花時期が微妙に違います。 写真2:染井吉野の桜並木(@東京駅側にある八重洲さくら通り) 写真2は典型的な染井吉野の桜並木です。隣り合わせている桜も対面の桜も桜同士が重なり合うように咲いています。このように「重なり合う」のが染井吉野の特長です。 写真3:船山桜 写真3:染井吉野の仲間:船山桜です。花の真ん中に緑の葉っぱが見えます。 写真4-1:左)船山桜、右)染井吉野 写真4-2:説明図 写真4-1:向かって左が船山桜、右が染井吉野です。花の違いがわかるのと、花がほとんど重なっていないのがわかると思います。写真4-2がその説明図です。ソメイヨシノ同士なら、重なります。実はこのような写真を撮るのは極めて難しいのです。なぜか?それは日本中の桜並木のほとんどが染井吉野並木だからです。染井吉野の中に別の桜を植えてある場所はほとんど無いと思います。偶々、この「船山桜」の咲いている桜並木を散歩していて、この桜が周りの染井吉野と重なり合っていないことに気づきました。 写真5:葉桜になりつつある染井吉野 写真6:別な桜では花も葉も重ならない 写真5:葉桜になりつつある染井吉野を示します。見事に葉が重なっていますね。 写真6:近くに生えていても、別な桜では花も葉も重ならないことを示しています。見事に分かれています。 写真2~6で示したいのは、 染井吉野同士だと花も葉も重なり合う 染井吉野と他の桜では、花も葉も重ならない ということです。染井吉野は全てが同一の遺伝子を持っているので、隣同士になって枝が重なり合っても、それを「非自己」とは認識しません。だからどんどんと重なります。一方、種類が違う桜だとお互い「違う」と認識し合うので、花も葉も重なることが少なくなります。 染井吉野は花も葉も重なり合い、その下を歩くと実に気持ちが良いですね。これはこの染井吉野の長所です。しかし、枝が重なると今度は日照が悪くなります。下にある葉には日光が届かなくなります。そうなると段々と樹勢は衰えてきます。 つまり、近くに染井吉野を植えると、長所が短所に変わる時が早くやってきます。概ね30~40年で染井吉野の樹勢は衰えてきますが、十分に間隔をとって植えると、寿命が延びてきます。この辺りの兼ね合いは難しいですね。一般的に、染井吉野の寿命は60年とされていますが、例えば弘前公園の桜は樹齢が120年を越えて日本最古の染井吉野とされています。上手に育てると寿命が延びるのでしょう。 写真7:靖国神社の銀杏並木 銀杏には雄木(おぎ)と雌木(めぎ)があり、同じところに植えても、葉の色つき具合が違います。つまり、同じように見えても少しずつ違うのです。靖国神社の銀杏には雄木も雌木もあります。多様性があるのですね。 写真8:神宮外苑の銀杏並木 靖国神社とは違って写真8のように揃って同じように咲く銀杏もあります。 「あれ?変だな?何か染井吉野と似ている」と思いませんか? そうです。最近植える銀杏は、ほとんどが雄木になっています。なぜかと言うと、雌木はギンナンが生るので、落ちると酪酸の匂いでとても臭くなるからです。ですから染井吉野と同じ方法で、雄木だけ接ぎ木をして増やしているのです。だからここに見える銀杏は全て、多分、同一の遺伝子を持ったクローン銀杏です。だから一斉に紅葉し、一斉に散ります。 桜の話から、横道にそれてしまいましたが、染井吉野やこの神宮外苑の銀杏のように一斉に咲いて(紅葉して)、一斉に散る方が「きれい」かもしれません。しかし、私は野生の桜や靖国神社の銀杏のように多様性がある方を好みます。色々な人がいた方が面白いのと同様です。同一の遺伝子植物だと、もしある種の病原菌に感染すると一斉に枯れてしまいます(注3)。そういう意味でも多様性が大切です。 「みんなちがって、みんないい」(金子みすず:「わたしと小鳥とすず」より引用)のです。 【参考文献】 ソメイヨシノを知っていますか?(東京都豊島区のHP) https://www.city.toshima.lg.jp/artculture/brand/someyoshino/arekore.html 日比谷花壇 桜だより https://sakura.hibiyakadan.com/page.jsp?id=4808545 注1: 本居宣長は古事記の研究で有名な国文学者ですが、元は小児科医です。小児科医のかたわら、古い文献の研究をしています。凄いですね。この辺りの話は、いつかまた… 注2: 染井吉野は日本に何本、植えられているでしょうか?実際に植えられている本数は数百万本あるでしょうが、皆同一ですから、「1本」が正解かもしれません。アメリカの生物学者リチャード・ドーキンスは「クローンはたくさん生えているように見えるが、同一の巨大生物と考えた方が良い」と記しています。 注3: 欧州でオリーブの木100万本を枯死させた「ピアース菌」(Xylella fastidiosa:キシレラ・ファスティディオーサ)がマヨルカ諸島の「サクラ」の木から見つかっています。もし、染井吉野に病原性が高く、伝播しやすい細菌が感染したらと思うとぞっとします。 注4: 今、山梨県北杜市にある樹齢2000年?とも言われる「山高神代桜(やまたかしんだいざくら)」は4月上旬に満開になります。エドヒガンザクラです。夜に見ると、何となく「恐ろしい」感じがします。 写真9-1:山高神代桜(開花前) 写真9-2:山高神代桜(開花後) 日本三大桜の1つです。ほかは福島県の三春滝桜(みはるたきざくら)と岐阜県の根尾谷淡墨桜(ねおうすずみざくら)です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2019/3/25 このページには、症例を紹介する医学的な資料として、開心術中の写真があります。苦手な方はお気を付けください。 高血圧を放置すると、どうなるか? 段々と暖かい日も増えてきました。 「冬」(寒いと血管が収縮し血圧が上がります)や、日によって気温の変動が大きい「季節の変わり目」には心臓血管疾患が発症することが多くなります。心筋梗塞(しんきんこうそく)、大動脈瘤破裂(だいどうみゃくりゅうはれつ)、大動脈解離(だいどうみゃくかいり)、といった病気です。 今回から数回、血管の病気についてお伝えしようと思います。 最初に「高血圧を放置するとどうなるか?」をお目にかけましょう。 写真1は「大動脈解離」という病気によって血管の内膜が裂けた上行大動脈を示します。 この患者さんは、高血圧未治療の方でした。高血圧によって、大動脈が裂けるのです。 以下、医学的な資料として、開心術中の写真がありますので、ご注意ください。 写真1:大動脈解離により血管の内膜が裂けた上行大動脈 大動脈解離で生じた裂け目 写真2は「大動脈解離(だいどうみゃくかいり)」によって上行大動脈に孔(あな)が開いて大出血を起こしているところです。 この患者さんも、高血圧を放置していた方です。 写真2:大動脈解離により上行大動脈に孔が開く 大動脈破裂部と破裂した大動脈から噴出する血液 高血圧が引き起こす大動脈の病気の多くは発症するまで全く症状がありません。「大動脈解離」は、この写真でお示ししたように動脈の内膜が裂けたり、動脈の破裂を引き起こしたりします。何かの拍子に血圧が高くなるとこのように血管に裂け目が生じます。裂け目が生じるまでは全く症状がありません。 助かった方に聞くと「裂けた瞬間」がわかります。曰く「会議中に怒った時」、「囲碁をしていて悪手を打った瞬間」、「車を暴走させていた時(暴走族の方でした)」、「イラッとした瞬間」、「調理をしていて神経を使っていた時」、「悪いやつを懲らしめようと乗り込んだ時」、「あの時!」というようにハッキリとわかります。要するに血圧が「グッと上がるようなこと」とともに発病しています。それまでこのような病気が発症するとは、誰も思っていません。怖いですね。自分にも他人にも大動脈解離がわかるような症状が生じた時は、写真1、2のような重篤な状態に陥ってしまいます。 「血圧なんて簡単」「血圧なんて、治療の必要があるの?」などと思わずに十分にお気を付けください。 日本が三代将軍家光の時代に、ハーヴェイが「血液が体の中を循環する」ことを発見 それはさておき、今回は「血液の循環」という根源的な話を紹介します。 血液は体中を巡り回ります。これを「循環」と称します。 「循環」は2系統あります。 体中を循環する体循環 肺の中を血液が回る肺循環 の2つです。こんな図を見たことがあるかも知れません。 図1 血液は、 左室 → 動脈 → 末梢血管 → 毛細血管 → 静脈 → 右房 → 右室 → 肺動脈 → 肺静脈 → 左房 → 左室 と流れ、そしてまた 左室 → 動脈 → 末梢血管… と流れます。 赤字部分は酸素に富んだ動脈血が流れ、青字部分は静脈血が流れます。 左室から右房までの血液の流れを「体循環」 右室から左房までの血液の流れが「肺循環」 と言います。今は中学生の理科の授業で習います。 イギリス人医師 ハーヴェイ(William Harvey:1578 - 1657年)が「循環」を発見しました。医学上の大発見です。Harveyは「ハーベー」「ハーベイ」、「ハーヴェイ」、「ハーヴェー」などと表記されますが、本稿では岩波文庫で使われている「ハーヴェイ」を使います。 写真3 ハーヴェイは「血液が体の中を循環する」ということを発見し、「Exercitatio anatomica de motu cordis et sanguinis in animalibus」という本の中でそのことを発表しました(参考文献1)。1628年に刊行されました。原著はラテン語で書かれています。1628年というと、日本は江戸時代で三代将軍家光の時代です。ハーヴェイが「血液が体の中を循環する」ことを発見するまで、血液が体の中を循環するとは考えられていませんでした。 「アリストテレスの哲学」と「血管」 話は全く変わりますが、2003年、日本ハムの監督に就任した「ヒルマン監督」は就任時の記者会見で「ギリシャの哲学者アリストテレスの哲学に沿った野球をやれば勝てるようになる。アリストテレスの精神が野球に必要だ」と語っていました。プロ野球の監督がアリストテレスのことを話していたので、びっくりしました。 ヒルマン監督が指揮を執った2003年の日本ハムのキャッチフレーズはなんとギリシャ語の「Ethos Pathos Logos」でした。ギリシャ語のプロ野球チームのキャッチフレーズなど、前代未聞でしょう。 ヒルマン監督は野球を勝ち抜くためには、 エトス(勝利への精神)ethos パトス(勝利への情熱)pathos ロゴス(勝利こそ意義)logos この3つが必要だと説いていました。 アリストテレスは「人を動かすには、エトス、パトス、ロゴスの3つの要素が必要である」と説いています。これは、アリストテレスの3要素と言われています。ヒルマン監督は、これを伝えたかったのですね。 「プロ野球で勝ち抜くにはアリストテレスの哲学を理解することが必要だ」と言われて、当時の日本ハムの選手は目を白黒させたのでないでしょうか? 日本ハムはこの年(2003年)こそ5位でしたが、「Ethos Pathos Logos」の精神が伝わったせいか、2006年には日本一になっていますし、2007年にもパリーグ優勝をしています。2007年に、ヒルマン監督は勇退しています。 話を戻します。 「アリストテレスの哲学」と「血管」には大いに関係があります。アリストテレスは、血液の流れや血管の役割について詳細な記述をした本を遺しています。 西洋の学問はギリシャ哲学から始まっています。ソクラテスからプラトンへ、プラトンからアリストテレスという流れです(注:ソクラテスの同時代人に医学の祖「ヒポクラテス」がいますが、ヒポクラテスは哲学者ではありません。医師です。また別系統の話になるので今回は触れません)。 アリストテレスの師匠プラトンは「精神」について論じています。目に見えない「精神」だけを論じていました。ですから「プラトニックラブ」はプラトンに由来します。 一方、アリストテレスは目に見えないモノ(精神)だけでは無く、「目に見えるモノ」も観察して「動物誌」「動物部分論」という本を残しています。その中に心臓や血管への考察が書かれています。 ちなみにアリストテレスは、ギリシャのアテネにあるプラトンが作った学園「アカデメイア」で学んでいます。今、「アカデメイア」、「アカデミー」という言葉がよく使われますが、その元がこの「アカデメイア」です。元は「アカデマス(アカデモスとも言う)」という人が所有していた森があった場所に学園を建てたので「アカデメイア」の名前が付いたのです。「佐藤さんの土地」に学校を作ったから、その学校名を「佐藤」としたようなモノですね。 それはさておき、プラトンやアリストテレスが心臓や血管についてどのように考えていたのかをお示しします。 プラトンは「心臓は血液の泉で血液の動きは心臓から起こる」と説いています。部分的には合っています。 アリストテレスは「心臓には魂が宿り、プノイマ(生気とも霊気とも訳されています)を作り、そのプノイマを全身に送り出すために心臓から血液を送り出す」としています。「プノイマ」が大切だったのですね。もちろん、「プノイマ」は実在しません。 プラトンやアリストテレスのこういった考えは、それから400年後のギリシャ人医師「ガレノス」に受け継がれます。ガレノスは膨大な医学論文を残し、後世の医学に多大な影響を与えました。ある部分は正しく、ある部分は間違っています。何しろ紀元後160年頃の話です。間違ったのも仕方ありません。 ガレノスは、心臓、血管、循環については間違った記述をしています。 ガレノスは以下のようなことを説いていました。 血液は循環しない 右室と左室の間には穴が開いていて、右室から左室に血液が流れる 血管自体が収縮して血液が流れる 心臓からはプノイマが出る(アリストテレスも説いていたプノイマですね) これらは全て間違いです。 しかし、これが、後世に伝わり、心臓や血管への基礎概念となっていたのです。このガレノスの考えは1628年、ハーヴェイによって正しい血液循環が示されるまでの間、つまり1400年も信じられていました。ガレノスの時代には人体解剖が許されていませんでした。だから間違ったのも仕方ないでしょう。 次回へ続く。 【参考文献】 動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究 ウイリアム・ハーヴェイ(著) 岩波文庫 原本はラテン語“Exercitatio Anatomica de Motu Cordis et Sanguinis in Animalibus” 英語なら"An Anatomical Exercise on the Motion of the Heart and Blood in Living Beings" この本(岩波文庫版)は絶版となっています。ご興味ある方はAmazonでお買い求め下さい。古本なら買えます。なぜ、この名著が絶版なのかわかりません。もったいない話です。 医学用語の起り 小川 鼎三(著) 東書選書 なりたちからわかる!「反=紋切型」医学用語『解体新書』 小川 徳雄, 永坂 鉄夫(著) 診断と治療社 血液は循環する―ハーベイ伝(世界を動かした人びと) 阿知波五郎(著) 余話1: ヒポクラテスの名言のひとつに「哲学を持った医師は神に近い」という言葉があります。ヒルマン監督は日本ハムファイターズを初めて日本一に導きました。 日本ハムファンにとっては「哲学をもった野球監督は神に近い」と言えるかもしれません。 余話2:古代ギリシャの哲学者、医師一覧 ソクラテス(紀元前469年頃 - 紀元前399年) ヒポクラテス(紀元前460年ごろ - 紀元前370年) プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年) アリストテレス(前 384年 - 前322) ガレノス(129年頃 - 200年頃) ハーヴェイ(1578 - 1657年) 重要な注:フランス在住の言語学者、小島剛一氏より、下記(1)(2)のご指摘があった。 (1)「プノイマ」は、pneumaのことだとすれば、ドイツ語式の読み方が奇異です。ラテン語のpneumaもギリシャ語の πνεῦμα も「プネウマ」と読みます。 望月注:「プノイマ」はpneumaのドイツ語読みだと思います。最近の文献には「プネウマ」と記されているモノも多いのです。本来なら、ギリシャ語の読み方を尊重して、「 プネウマ」と記すべきだと私も思います。本文はあえて変更しません。将来的にギリシャ読みの「プネウマ」が一般的になって欲しいです。 (2)「アカデーメイア」の語源になった固有名詞は、ギリシャ語で Ἀκαδημος と綴りますから、カタカナ転写は「アカデーモス」です。 望月注:ギリシャの地名ですから、本来「アカデーモス」と表記すべきですね。 外国地名の表記は難しいですね。「北京」を日本人はペキンと読みます。ピンイン表記は「Beijing」です。北京在住の中国人はこれを「ペイチン」と発音し、英語圏の人は「ベイジン」と読みます。さて、日本人はこれをなんと読めば良いのでしょう。難しいです。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/2/25 山梨から鳥取に行き、カルチャーショックを受けた経験が… 日本にはいくつ言語があるかご存じでしょうか? 「日本語だけだ」と思っている方が多いのではないでしょうか?実は日本ではさまざまな言語が使われています。 話は逸れます。 大学時代、アメリカに2週間ほど滞在して英語の勉強をする機会を得たことがあります。ネバダ州のリノにあるネバダ大学(University of Nevada, Reno)で研修しました。リノは同じネバダ州にあるラスベガスと並んでカジノで有名な町です。大学のすぐそばにカジノがあります。勉強もしましたが、カジノにも行きました。カジノでは「ブラックジャック」というカードゲーム賭博にハマりました。1回につき1ドル程度の賭け金でのゲームです。やり始めたら結構面白く、どうしたら勝てるかの「研究」にいそしみました。 リノから車で1時間くらいのところに、スキー場で有名なタホ湖(lake Taho)があり、こちらにもカジノがありました。そのタホ湖のカジノで当時大人気だったそのカーペンターズが公演をしているのに気付いた友達がいて、皆で知恵を出し合い稚拙な英語を駆使して(こういうときは必死になります!(笑))、なんとかチケットを入手し、4人で聞きに行きました。良い思い出です。それから数年後、カーペンターズの妹さん(カレン・カーペンター)さんがお亡くなりにるのですが、この時の彼女はとても元気でした。 それはともかく、2週間の英語研修の最後に、修了試験がありました。英文法と英作文です。ここで点数を取らないと英語の単位が取れないので必死でした。英文法の試験は大学入試レベルの問題で比較的簡単でした。しかし、問題は英作文でした。 「ネバダ大学での研修中について考えたことを書け」 という問題でした。内容は自由、制限時間は2時間。 さて?何を書こうか、迷ったのです。ブラックジャック必勝法、ルーレット必勝法、カーペンターズ観劇の思い出、ヨセミテへの小旅行などが脳裡に浮かび上がりました。「必勝法」を書こうと思いましたが、それには数学的に「凝った」表現が必要です。それを英語で書くのは難しいので、諦めました。カーペンターズ観劇の思い出は、一緒に行った友人が書きそうでした。相手は米国人の英語学の教官です。なにか言葉に関することがないかなあと考えていて、思いついたのが、「言語」と「方言」の関係です。 当時、私は大学に入学し、山梨から鳥取に行き「言葉」でカルチャーショックを受けていました。まったく意味がわからない鳥取方言、関西の「言葉」があったのです。同じ言葉でも発音の仕方が、出身地により随分と違います。同級生の大半は西日本の出身です。友達との会話では関西弁が多用され、私には、まったく意味がわからない言葉も多かったのです。 それで試験の小論文に、 「英語は日本語とは違う言語だから、解らないことが多いのが当然だけれど、同じ日本語でも、私の出身地で使っている山梨の方言(甲州弁)と鳥取弁、関西弁には違いがあり、まったく理解できないこともある」 「dialect(方言)とlanguage(言語)の違いはどこにあるのだろう?」 という要旨で小論を書きました。もちろん英語で書いたのです。いま考えてもそれは結構「良い線をいっていた」と思います。最後に、ネバダ大学の英語学の担当教官から試験の講評があり、英作文の上位3名が表彰されることになりました。思いがけないことに、私の書いた小論が、1等賞に選ばれたのです。名前を呼ばれて壇上が上がり、誉め言葉をかけられたと思うのですが、大変残念なことに、なんと言って誉められたかよくわかりませんでした(笑)。19歳の時の出来事です。それ以降、あまり表彰されることもなく過ごしていますので(笑)、今でも思い出すと嬉しいです。 後年、言語に関する本を読むにつけ、「方言と言語の違いは無い」ことがわかりました。 実際、医師になり、東北地方の病院で当直のアルバイトをしたことがあります。その時、地元の人(特にお年を召された方)の言葉がわからず難渋しました。看護師さんの通訳があって初めて診療できました。「方言と言語の違いは無い」ことを実感しました。 「ああ、ネバダ大学で書いたのは間違いなかった」と一人でよろこんでいました。 日本にはいくつ言語がある? さて、そこで本題です。日本語にはいくつ言語があるかという問いは、日本にはいくつ方言があるかという問いと一緒です。私にも実はまったく解りません。 ユネスコ(United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization:国際連合教育科学文化機関)は、日本諸言語のうち、8言語が絶滅の危機に瀕していると警告を発しています。ユネスコの「日本言語」担当者も、当然のことながら、方言も「言語」だと認識しているのです。 消滅の危機にある8つの言語を以下に挙げます。 アイヌ語 八重山語 与那国語 八丈語 奄美語 国頭語 沖縄語 宮古語 の8言語です。ユネスコのサイトに詳細が載っています。興味がある方はご覧ください(UNESCO Atlas of the World's Languages in danger:http://www.unesco.org/languages-atlas/index.php)。 とにかく、日本には言語(方言)が多数あり、世界的にも認められているのですね。一旦消滅した言語を復活させることは、ほとんど不可能です。文法や語彙は残るかもしれませんが、発音の仕方を残そうとすると大変だからです。 写真:パリ、ペールラシューズ墓地にある「シャンポリオンのお墓」 世界には、消滅してしまった有名言語(文字)がたくさんあります。例えば、エジプトのヒエログリフ(hieroglyph、聖刻文字、神聖文字)です。 紀元前までは、多くの人々に普通に使われていました。エジプト各地にある遺物、遺跡には無数のヒエログリフが残っています。しかし、ギリシア文字が使われるようになり、いつの間にか誰もヒエログリフを読めなくなってしまいました。 しかし1822年、フランスのシャンポリオンが言語学と数学を駆使して、ロゼッタストーン(大英博物館に展示されていますね)からヒエログリフを解読に成功します。シャンポリオンは、小さい時から言語の勉強が好きで、17歳の時に書いた論文が絶賛され、19歳にして、フランスの大学の教官になります。20歳になった時には、各種言語(母語フランス語、ラテン語、エジプト古語のコプト語、中国語、ペルシア語など)を「習得」したとされています。シャンポリオンは数学も駆使することができました。語学力があり、数学ができて、初めてヒエログリフの解読ができたのですね。一旦言語が消失すると、それを再度読み解くのがいかに難しいか、ヒエログリフの事例でもわかります。 この辺りの事情は文献1に詳しいです。 日本国内でアイヌ語を不自由なく喋ることができる方は10数名となっています。ユネスコもアイヌ語は「Critically Endangered」(極めて深刻な状態である)と記しています。私はアイヌ語には縁が無いのですが、日本の言語から「アイヌ語」が消滅してしまうのは寂しいです。アイヌ語は使う機会も激減し、言語としての役目を終えつつあるのだと思いますが、それでも、何とかして、後世に残して欲しいです。AIが発達しつつある今日、スパコンなどを使えば、アイヌ語の音韻、文法、語彙、発音を残すことは可能だと思います。後世の人々にもわかるカタチで「アイヌ語を残すこと」こそ「文化」だと思います。 色々と書き連ねましたが、冒頭の「日本にいくつ言語があるか」ですが、「不明」が正解だと思います。 【参考文献】 暗号解読 サイモン・シン(著) 青木薫(訳) 新潮文庫 米国のサイエンスライター「サイモン・シン」と青木薫が組んだ本には「外れ」が無いです。 この本には、旧日本軍の暗号が簡単に解読されてしまった経緯、絶対に解けないと言われたナチス・ドイツの暗号「エニグマ」を解いた天才数学者の話や、太平洋戦争当時、米軍が日本軍に対して使っていた「単純だけれど日本人には絶対に解けない暗号」の話が載っています。米軍が使っていた暗号は「北米大陸先住民の言語(インディアンの使っていた言語)」でした。インディアンの言語も多数ありますが、あまり知られていない、使われなくなっていたインディアンの言葉を暗号として用いていたのですね。もちろん、インディアンを教育して英語を使えるようにして、それらのインディアンを戦争に送り込み、通信をインディアン語でしていたのです。戦争末期まで、日本軍は米軍の暗号(インディアン語)を解読できませんでした。インディアン語を暗号に使おうと思いついた米軍の知力に負けたとも言えます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/2/12 昭和10年から36年間かけた調査で得られたエビデンス 前々回で日本の平均寿命の推移と水道との関係についてお伝えしました。 日本では、水道の蛇口から出る水が飲めます。外国に行くと水道の蛇口から出る水が安心して飲める国が極めて少ないことに気づきます。日本のように水道水が安心して飲める国は30数ヵ国です(参考サイト:アメリカ疾病予防管理センター:https://neomam.com/blog/tap-water/)。水道水が飲めるかどうかは、その国の経済の指標かもしれません。 平均寿命も色々な国の「経済状態」を表す指標です。まだまだ「人生五十年」の国も多いのです。 出典:世界銀行ウェブ「平均寿命、合計(年数)」 経済状態が良いと、平均寿命は上がります。経済状態が上向きになると、インフラの整備が進み、衛生状態は向上し、衛生的な食物も安定して供給されるようになるからです。日本がその良い例です。しかし、経済状態が良ければ、どんどん長寿になるかというとそういうわけでは無さそうです。さまざまな要因が「寿命」に関与します。 その中で「食事が寿命を大きく変えている」ことを、おそらく世界で最初に見出したのが東北大学公衆衛生学教室の近藤正二教授(1893-1977)です。昨今、健康で長生きするための食事に対する研究が数多くなされていますが、その嚆矢が近藤先生の研究です。 近藤先生は昭和10年から36年もかけて、20kgになる重い調査器財を背負いながら、全国各地計990の町村を回り、平均寿命に影響する因子の調査分析を行っています。その成果は「近藤正二著:日本の長寿村・短命村―緑黄野菜・海藻・大豆の食習慣が決める」(1991年 サンロード出版)にまとめられています。 全国津々浦々を周り歩き、日本各地の風俗、習慣に関する多くの書物を著した民俗学者・宮本常一(1907-1981)に通ずるところがあります。 近藤先生は、70歳以上の長寿者が人口に占める割合が高い村を長寿村、低い村を短命村と称しています。 調査開始当初の長寿者率の全国平均は2.5%程度です。ちなみに2014年には18%です。長寿が問題となっている「今」とは隔世の感があります。近藤先生が調査を開始した昭和10年の平均寿命は男性47歳、女性50歳です。調査を終えた昭和46年の平均寿命は男性69歳、女性74歳です。調査中に20歳も平均寿命が伸びています。 近藤先生が、こういう調査を始めたのは、同じ地方、地域でも平均寿命が短い村と長い村があることに気付いたからです。近藤先生は当初、その違いは「労働時間」「飲酒量」「遺伝」「気候」によるものだと予想していたと書いています。しかし、労働時間が多いほど、短命かと思って調べると、同一地方でも重労働地域は長命で、楽な仕事が多い地域は短命でした。労働と言っても、この頃は主に農作業です。体を動かす仕事です。そういう体を使う仕事を長時間する村々の方が、長命だったのです。 飲酒量と寿命との関係も不明だったと書いています。大量飲酒者は「過少申告」しがちです。おそらく調査不能だったのでしょう。 そして、結局「寿命を決めているのは食事である」ことを突き止めました。 色々と調べていくと(くどいようですが、昭和10年-昭和46年にかけての話です)、 「一升めし」をしている村は短命村(注:一升めし=米の大食い) 野菜、大豆、海草を日常的に食べている村は長寿村 米と魚だけ食べて、野菜を食べない村は短命村 長寿村の長寿者は、高齢でも元気で働いている 長寿率は全国平均2.5%だが、低い地域(1%以下)と高い地域(10%)で10倍もの差がある 果物は野菜の代わりにはならない ということがわかりました。 実際に村々に入り込み、食べているモノ、仕事、文化、習慣を調査しているので、説得力があります。この本を読んでいると、日本各地で実に多種多様なモノを食べていることがわかります。ユネスコ無形文化遺産になった「和食」ですが、この「和食」はかなり特殊な料理であることがわかります。 米どころ地帯は、おおむね短命村が多いのですが、米どころ地帯の中にも長寿村があることに着目して調査すると、そういう米どころでにある長寿村では、お米は「商品」であり、自分たちが食べるモノではなかったのです。米どころなのに、米の消費量が少ない村が長寿村だったのです。魚をたくさん食べるであろうと予想される漁村にも短命村と長寿村があり、短命村は魚を大量に売って米を買って、たくさん食べていることがわかりました。 伊勢の海女さんと能登半島の海女さんの違いも面白いです。伊勢の海女さんの方が、圧倒的に高齢になっても元気で働いています。伊勢の海女さんは、経験的に野菜、特にニンジンを食べると潜水しても疲れにくいことに気づいていました。伊勢の海女さんは全員がニンジンをたくさん食べています。伊勢ではあまりお米がとれないので、お米は食べていませんでした。海産物と麦や自分たちの畑でとれる野菜が主な食事でした。そしてこれが面白いのですが、伊勢の海女さんは、御菓子を一切食べないのです。御菓子を食べると潜水した時、息苦しくなるからだそうです。そういう食生活をする伊勢の海女さんは70歳を過ぎても現役の方がたくさんいらっしゃり、最高齢は78歳だったと記しています。 一方、能登の海女さんは、潜水するには「大量の米と魚が必要だ」と言って、米や魚を大量に食していたのです。そのせいか、短命者が多く、50歳で引退する方がほとんどでした。伊勢の海女さんとは大違いです。同一職業でも、食生活で寿命がこんなにちがうという良い例だと思います。 当然、米の産地からは反論が出ます。鳥取県は「米どころ」です。その鳥取県の「米どころの村の中に長命で有名な村がある」と反論されると、近藤先生は、勇躍その村に乗り込みます。そして、その鳥取の長命村では「米をほとんど食べない。食べるのは年に10日だけだ」「米は売るモノで、食べるモノではない」「普段は麦や野菜を食べている」「それは村の方針で、その方針は明治時代に偉い人が決めて、それが文章にして残っていて皆それを守っている」というようなことがわかり、近藤先生をやり込めようとした先生が逆にやり込められています。 実際、行ってみないと本当のところは解らないのでしょう。この辺りは今でも通じると思います。 その他、大豆製品、豆腐、味噌を大量に食している村も長寿ということに気付き、再三再四、それらを食すことの重要性を説いています。 山梨県の鳴沢村は長寿村ですが、1回の食事に塩分の少ない自家製味噌汁を6杯も飲むのが習慣だったそうです。味噌は大豆から作られます。それが、周囲の村々に比して鳴沢村が長寿である原因だろうと分析しています。 近藤先生の調査がすべて正しいとは思いません。30年以上も調査していたら、最初と最後では食生活も随分と違ってきたと思います。しかし「平均寿命」という統計の数字の裏にある様々な事象を調査分析したのは「すごい」と思います。現代のように交通の便が良いわけではありません。重い器財を持ちながら、一人で全国各地を歩いて調査した近藤先生には、心底、すごいと思います。 近藤先生とは違いますが、皆様が健康で長生きできるように少しでも助力できれば良いなと思っています。 注1: 昭和10年から昭和46年にかけての調査です。まだあまり冷蔵、冷凍による流通経路が発達していない時代です。食べているモノは、住んでいる場所、地域で摂れた産物がほとんどです。ですから、冷蔵が必要な肉食のことはあまり調査されていません。あまり食べる習慣も無かったのだろうと推測されます。 注2: 麺類についての記載がありません。これは、なぜか不明です。昔は、あまり麺を食べなかったのでしょうか? 【参考文献】 すべて近藤正二先生の著書、論文、記事です。 日本の長寿村・短命村―緑黄野菜・海藻・大豆の食習慣が決める サンロード出版 白米に食われている人間ども 文芸春秋 1955.8月号 長寿村・短命村旅日記 学校保健研究 1962.11月号 食習慣と長壽 公衆衛生学雑誌 1950.3号 など 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/01/28 今回は「寄生虫」に関わる一人の医師の出世話と食べ物のお話を書いてみたいと思います。 生きるためには食べ物が必要です。日本の場合、宗教にまつわる禁忌食品がほとんどありません。つまり何を食べても良いのですが、「食べたら病気になる」そういう食べ物は避けた方が良いですね。食べ物で人生が終わったり、変わったりするかもしれません。 ある食べ物がある有名な医師の一生、ひいては日本の「医療行政」を変えたのかもしれないというお話をしましょう。 美味しい寒ブナの刺身に… 私が一番尊敬する科学者は、「雪の結晶」の研究で有名な物理学者の中谷宇吉郎博士(1900-1962)です。 「雪は天から送られた手紙である」 「一片の 雪の中にも 千古の 秘密がある 一粒の 芥子に 秋三界が 蔵されるやうに」 「何時までも舞い落ちて来る雪を仰いでいると、 いつの間にか自分の身体が静かに空へ浮き上がって行くような錯覚が起きてくる」 など、数々の詩的でとても素敵な言葉を残したことでも有名です。 その中谷は一時期、健康を害しました。中谷が北海道大学で人工雪の研究をしていた昭和11年のことです(37歳頃)。中谷は胃が痛むようになり、2年間北大を休職して伊豆の伊東温泉で療養に努めます(この折のことは参考文献1.2.3.に詳しいです)。 しかし、なかなか病気の診断がつきません。北大病院、東大病院に入退院を繰り返しますが、診断不明のまま、段々とやせ衰えてきます。当たり前ですが、診断ができなければ治療ができません。そんな中谷は伊東温泉での療養中に科学随筆を書き始めます。そして随筆を通して岩波書店の岩波茂雄社長との親交を深めます。その岩波茂雄が中谷の病状について相談したのが、当時の慶応義塾大学医学部 寄生虫学教室の小泉丹(まこと)教授でした。 小泉教授は、当時慶応義塾大学病院の若手内科医だった、まだ無名の武見太郎医師(1904-1983)に中谷の病状について相談します。武見医師は慶応義塾大医学部の学生時代、小泉教授の寄生虫学教室に出入りし、夏休みには教室員と一緒に日本各地で寄生虫が引き起こす病のフィールドワークも行っていました。そういう関係で余程「できる医師」だと小泉教授から思われていたのでしょう。実際、武見医師は中谷の病気の診断と治療に成功します。 中谷の病気は「肝臓ジストマ症」という病気でした。これは「ジストマ」という寄生虫(肝吸虫)が人間の体内で増殖して発症する病気でした。 武見太郎が後年、中谷宇吉郎の病気のことについて「病気の方は次第に解明されて、結核性のものでないことは確定できたし、肝臓ジストマがたくさんいることもわかり、ほかに腸内寄生虫も発見され、それ等の治療の順序も決めることができた。全身の衰弱がひどいので、肝ジストマの駆除に使うアンチモン剤の使用は小泉教授から慎重にやれと云われたが、これも成功した。次第に症状が消退した。そして全身状態もよくなったことは勿論である」と書き残しています(参考文献4)。 まだ無名時代の若手の武見太郎医師が、当時まだよくその用法用量もわかっていなかったアンチモンを使って中谷の病気を治したのです。 この一件で面白いことがわかります。「面白い」というと語弊があるかもしれませんが、中谷の肝臓ジストマ症の感染の経緯がわかったのです。それはこういうことでした。 入院している中谷宇吉郎の所にお見舞いに来ていた岩波出版社長の「岩波茂雄」は、大変な食通でした。岩波茂雄は、 後に埼玉大学学長や山梨大学学長を歴任する世界的物理学者の「藤岡由夫」 後に文部大臣になる哲学者「安倍能成」 夏目漱石の三四郎のモデルで有名な独文学者「小宮豊隆」 後に岩波書店会長となる「小林勇」 といった面々と中谷同様に親交がありました。いま挙げたこれらの方々全員に症状の軽重はあれ、中谷と同じ「肝臓ジストマ症」の症状があったのです。 食通で知られた岩波茂雄がここに挙げた皆さん+中谷宇吉郎に「美味しい寒ブナの刺身」を振る舞っていたのが皆に「肝臓ジストマ症」が発症した原因だったのです。「寒ブナの刺身」に「ジストマ」という寄生虫がいてそれを食べて、全員が同じ病気にかかった(寄生虫に感染した)のです。 「肝臓ジストマは、私にとって『恩虫』かも知れない」 武見医師は、中谷をはじめ前述の肝臓ジストマ症にかかった方々の治療をしたおかげで、中谷から当時の理化学研究所(以下、「理研」)の所長だった物理学者の仁科芳雄を紹介されます。中谷宇吉郎は理研の研究者でもあったのです。 理研に紹介された若き武見医師は理研の自由闊達な様子に魅了され、それまで勤めていた慶応義塾大学病院内科を辞して理研での研究を始めます。武見医師が34歳のことです。 彼の研究テーマは大きく言えば「医学を科学する方法論の確立」だったというから凄いですね。実際に理研の物理学者の力を借りて国産心電計を作っています(注:世界初の心電計を作りノーベル賞を受賞したアイントホーフェンも医師ですが、その論文は物理学の論文かと見間違うほどです。要するに物理の知識が無いと心電計は作れなかったのです)。理研で放射線を使った実験をしている研究者の白血球減少症の治療に関する研究をして、放射線障害による白血球減少の治療薬を作ったりもしています。理研で色々な研究を手がけました。 武見医師は、理研での研究と並行して、岩波茂雄の紹介で銀座に診療所を開設し、独自の方法を用いて色々な人の治療をしています(週2日だけの診療だったようです)。その患者さんの中に、当時の政界の大物だった牧野伸顕伯爵(吉田茂首相の義父)の知人がいて、その縁で武見医師は牧野伯爵の娘さんと結婚。武見医師は、吉田茂元総理大臣と縁戚になり、世に言う吉田茂人脈に連なったのです。 元より武見医師は医師として研究者として優れていて、それに吉田人脈があり、理研での科学者人脈もあり、「丸善で日本一 洋書を買う」とも言われた勉強家でもありました。 つまり武見太郎医師は、一流の知識人でもあり、一流の科学者でもあり、一流の医師でもあり、政界をはじめとした広い人脈も持っているという希有の「巨人」になっていったのです。 武見は後に日本医師会会長を長年勤めますが、武見と真っ当に対峙できる政治家、官僚、医師はいませんでした。25年も日本医師会々長を務め、厚生行政において官僚と徹底的な対決を辞さなかったために「ケンカ太郎」として有名でした。今では、「武見太郎」と言えばそのことばかり取り上げられますが、実は武見は、簡単にはまとめられないほどさまざまなことを成しています。世界医師会々長も務め、その影響は世界にも広まり、ハーバード大学公衆衛生大学院には「武見国際保健プログラム」があり、今もその下で多くの医学者、科学者が学んでいます。 その武見太郎医師が後年、「肝臓ジストマは、私にとって『恩虫』かも知れない」と書いています(参考文献4)。そうです、中谷宇吉郎が肝臓ジストマ症にかからなければ、武見医師は理研で研究することも無く、吉田茂人脈に連なることも無く、慶応義塾大学出身の優秀な一内科医で終わっていたかもしれません。そう思うと武見太郎医師にとって「肝臓ジストマ様々」だったかもしれません。しかし、学生時代から寄生虫学教室に出入りして寄生虫の勉強をしていたから、ほかの医師には診断できなかった中谷宇吉郎の肝臓ジストマ症を診断できたのだと愚考します。以前にも書いた「チャンスは備えあるところに訪れる」の格言を想起しますね。 ある食べ物とそれに寄生していた寄生虫が一人の医師を日本の医療界の巨人にまでしたのかも知れないというお話でした。 寒ブナや ひとしれずして 医師作り 【参考文献】 中谷宇吉郎全集 岩波書店 中谷宇吉郎随筆集 岩波文庫 中谷宇吉郎雪の物語 雪の科学館 武見太郎回想録 日本経済新聞社 注: 現在、肝臓ジストマ症はビルトリシドR(プラジカンテル)というお薬のたった1回の投与で治ります。武見医師が使った「アンチモン剤」は使われていません。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/01/15 「君が代」の元歌とは? 今年は天皇陛下が退位し、皇太子殿下が即位します。この節目の年を迎えるにあたり「君が代」から日本語を考察してみたいと思います。 「日本語は1000年以上も基本的な文法が変わっていないという世界でも稀な言語」です。本当かな?と思われる方も多いと思います。その代表例として日本人が普通に歌える「1000年以上前に作られた詩歌」を紹介します。それは「君が代」です。こんなに古い歌を現代人が歌えるような言語はほかにありません(注:「君が代」に政治的議論があることは承知していますが、それにつきましては一切の論考をいたしません)。 「君が代」の元歌は、古今和歌集にあります。古今和歌集は醍醐天皇の命により編纂された勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)です。905年に醍醐天皇に奏上されています。その中に「君が代」の元歌があります。 古今和歌集第七 賀歌 343 題知らず 讀人知らず (注:賀歌は御祝いの歌の意味、題は不明、読んだ人も不明です) 「我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔のむすまで」 あれ?ちょっと私たちの知っている「君が代」とは違います。実は、現在の「君が代」と同一の歌詞が現れるのは、「和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)」の鎌倉時代の写本です。 「和漢朗詠集」とは、「古今和歌集」が成立してから約100年経った1018年、平安時代の公卿「藤原公任(ふじわらのきんとう)」が私的に編纂した漢詩・漢文・和歌を集めた詩文集です。その「和漢朗詠集」にも同歌が775番目に載っています。元は古今和歌集と一緒です。当時は、今のような印刷技術はありません。ですから、元の本を書き写したモノが「写本(しゃほん)」として残っています。書き写す時に書き写し間違いあるいは意図的に歌を変更することもあったと思われます。 鎌倉時代の「和漢朗詠集」写本の中に初めて、 「きみが代は 千代にやちよに さざれ石の いはほとなりて こけのむすまで」 という現在の「君が代」に相当する歌(写本)が出てきます。「我が君」が「きみが代」に変わっています。意図的か、書き写し間違いか、今となっては不明です。 当時のベストセラー「和漢朗詠集」 この鎌倉時代の写本は「和漢朗詠集」が最初に編纂されてから、約200年後の安貞2年(1228年:鎌倉時代です)に「書き写され」ています。古今和歌集から、数えると300年も経っています。「君が代」の起源を古今和歌集とすると「君が代」は1100年前に詠まれた歌であることになります。「和漢朗詠集」の鎌倉時代の写本を起源としても800年前に詠まれたことになります。 「和漢朗詠集」は現代ではあまり知られていませんが、平安時代の文学作品(源氏物語、伊勢物語etc.)の中でも圧倒的に人気が高く広く読まれた詩歌集です。なぜ、そんなことがわかるのかというと、くどいようですが、当時は印刷ができませんので手で書き写すしか文章を広める方法が無く、色々な和歌集、源氏物語、伊勢物語etc.などが、書き写されて伝わっています。そうした写本が今もたくさん残されています。その中で「圧倒的」に多くの写本が残されている(=ベストセラー)のが、この「和漢朗詠集」です。なぜ、この「和漢朗詠集」がベストセラーであったか、多少説明をします。 「和漢朗詠集」は「和」=日本、「漢」=中国、「朗」=ほがらかに、「詠」=詩歌をうたうこと。今なら、「日本中国《ほがらか歌集》」とでも言えましょうか?「詠う(うたう)」と言っても現代のように、メロディーをつけて歌を歌うわけではありません。詠うとは「声を長く引き、調子をつけて詩歌を歌う」ことです。今も形をかえて「吟詠」として残っています。 「和漢朗詠集」には当時の日本と中国の流行歌が書かれています。おそらくは誰でも歌えるように使われている漢字には平仮名、片仮名でふり仮名が振られるようになりました(注2)。和漢朗詠集を歌えば自然に漢字の読み方がわかるのですね。だから文字の教科書としても使われたので、ほかの作品よりも広まったのだと思います(注:振り仮名があることで漢字がどう読まれていたかもわかります)。 とにかく多くの写本が作られた結果、「和漢朗詠集」は当時の貴族、そして後には武士を含めたさまざまな階層の人々の共通の「知識」となります。平安時代は元より、鎌倉、室町、江戸、幕末までこの「和漢朗詠集」の写本が広まっていました。ついに欧州にも伝わります。 16世紀、キリスト教布教のために日本に来ていたイエズス会の宣教師が印刷機を持ち込んで教育のために印刷をしたいわゆる「キリシタン版」に「和漢朗詠集」が入って、スペインにも渡っています。現在もスペインのエル・エスコリアル修道院(図書館を兼ねた修道院で世界遺産にもなっています)に残っています。 イエズス会の宣教師が、わざわざ印刷(アジア初のグーテンベルク式印刷機を用いています)するのに選んだくらいです。これも「和漢朗詠集」がいかに当時広く読まれていたかの証左の1つでしょう。 ともかく時代を超えて読み継がれ、歌われていた「和漢朗詠集」に載っていた「君が代」は1000年以上も前から、賀歌(御祝い歌)として普通に歌われ、江戸時代まで広く伝わっていました。 「君が代」が「国歌」に制定されるまで 時を経て「君が代」は明治政府によって「国歌」に制定されます。江戸時代は国歌などありませんでした、しかし、明治維新を機に西欧諸国と交流が始まりました。国家同士のお付き合いをするには儀式が必要です。儀式には国家が付き物だったのです。つまり国歌が無いと、儀式の際に困ったのです。それで「君が代」が国歌に決まったのです。 それも、実はめちゃくちゃな話です。明治2年(1969年)、英国皇太子が世界周遊航海の途中に、日本に立ち寄ることが決まりました。英国皇太子の歓迎儀式で、英国側は国歌「God Save the Queen(国王との時はthe King)」を使うと通告したのに対して、国歌を決めていなかった当時の明治政府は困ってしまい、急遽、皇太子の接待役だった原田宗助(元薩摩藩士)、乙骨太郎乙(おつこつ たろうおつ:元静岡藩士)両名に対して「国歌」を作ることを命じたのです。 両名ともに、英語は得意だったのですが、音楽や詩歌の専門家ではありません。なんだか、この辺り、とても「適当」です。 そしてこの両名が「和漢朗詠集」の「君が代」を国歌として使おうと相談して決まったのです。作曲もある意味とても「適当」です。 歌詞は決まったけれど曲がないので、薩摩藩で当時歌われていた琵琶歌(琵琶法師の奏でる歌)の「蓬莱山」という歌の中にある「君が代」部分の節を元に、当時横浜に駐留していた英国陸軍の軍楽隊長だったフェントンに頼んで、作曲してもらったのが初代「君が代」です。フェントンの楽譜は残っているのですが、歌詞と節がまったく一致しない奇妙なモノで、普通には歌えないですね(注:フェントンは軍楽隊長ですが、作曲の専門家ではありません)。 そのフェントンは、後に明治政府に雇われて、日本の海軍軍楽隊の指導に携わっていましたが明治10年に英国へ帰国してしまいます。彼が帰国するまでは「君が代」の変更はなされていません。フェントンに気を遣ったのだと思います。 しかし、明治12年(1879年)に、ドイツから軍楽教師エッケルトを招請して海軍軍楽隊の指導を受けたのを機にエッケルトはこの曲を手直しします。色々とあり(不明な点が多々あります)、宮内省雅楽課の雅楽師に作曲を依頼します。雅楽師が数点の曲を作り、その中から現行の「君が代」の節回しの曲が選ばれ、それをエッケルトが編曲して楽譜にしたのが、明治13年10月25日のことです。日付入りのエッケルト直筆楽譜が残っています。しかし、エッケルトは編曲をしたので「作曲」は別人です。そして実は君が代の作曲者は不明です。 今では、奥好義(おく よしいさ)と林広季(はやし ひろすえ)の合作だったことが概ね判明しています。「概ね」と申しますのは、表向き現行「君が代」の作者名は林広守(はやし ひろもり)になっているからです。林広守は宮内省雅楽課において奥好義と林広季の上司です。「君が代」候補作選抜にも携わっています。その関係で、名前を出したのでしょう。しかし、林広守は「君が代を作曲していない」と書き残しています。色々と謎が多いですね。 当初「君が代」は主に海軍軍楽隊で演奏されました。海軍が一番、諸外国と交流があったからです。当然、陸軍や文部省は面白くなかったのでしょう。その辺りのことは、参考文献1に詳しいです。興味があれば、ぜひお読みください。 色々な経過を経て「君が代」は広く国歌として歌われるようになりました。色々と「君が代」についての考察はあるでしょうが「国歌としては世界一古い詩歌」を我々が歌っていることは確かです。君が代は作詞者も、作曲家も不明で、選考過程も不明、すべて「曖昧」です。それも何となく日本に似つかわしく思います。 以上、1000年も前の文章が普通に読めるのが日本語の特徴であることが、「君が代」を通してもおわかりになるかと思います。しかし、これは「君が代」だけではありません。和漢朗詠集の和歌のうち、三分の一くらいは現代人でも、普通に読めます。残りの三分の二も、古語辞典があれば読めます。繰り返しますが、日本語は文法がほとんど変わっていないから読めるのです。 注1: 「古今和歌集」は、「和」というのは日本のことですから(大和の和です)、「古きから今風の歌まで集めた日本の歌集」というような意味でしょう。 注2: 国立博物館所蔵の国宝の「和漢朗詠抄」をデジタル画像で見ることができます。良い時代です。 http://www.emuseum.jp/detail/101065/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=49&num=3 現物は読めないので、テキストファイルにしたのがこちらです。 http://j-texts.com/chuko/wakanroah.html 注3: 2010年 春の選抜甲子園大会開会式での国歌斉唱です。高校生の独唱です。1000年も前の「詩」を朗々と、高校生が歌っています。なんとも良い光景だと思います。 https://www.youtube.com/watch?v=nSKUxKsLUNU 注4: 君が代が国歌として法律で定められたのはごく最近(1999年=平成11年)のことです。 【参考文献】 ふしぎな君が代:辻田真佐憲著 幻冬舎新書 和漢朗詠集:角川ソフィア文庫など 古今和歌集:岩波文庫など 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2018/12/25 平均寿命の謎を解いたのは「元は国土交通省の官僚の方です」 今回は、いま話題の「水道」から平均寿命について考えてみたいと思います。日本の平均寿命と水道水とは密接な関係があるのです。 我が国の平均寿命は段々と延びていっています。 2017年の日本人の平均寿命は女性が87.26歳、男性が81.09歳でした。女性は世界2位、男性は世界3位です。ちなみ男女ともに世界一は香港です。日本では女性の方が男性よりも約6歳長生きします。 図1:平均寿命(日本、戦前は完全生命表のみ・不連続、年) 出典:ガベージニュース「日本の平均寿命の推移をグラフ化してみる」 http://www.garbagenews.net/archives/1940398.html 図1のグラフを見ると、男女とも太平洋戦争後に平均寿命はどんどん長くなっていくのがわかります。男性の平均寿命は昭和22年(1947年)には50歳でした。昭和26年(1951年)に60歳、昭和46年(1971年)に70歳、平成25年(2013年)に80歳と延びています。このまま90歳に到達するでしょうか?日本の平均寿命が延びた要因には、 ペニシリン、抗結核薬の等の感染症治療薬の発見と普及 栄養状態の改善 1961年に国民皆保険が開始されたことで医療機関への受診が容易になったこと 生活環境や物流の改善(=インフラの整備が進んだことによる) などが挙げられます。 さまざまな要因が重なりあい、右肩上がりで平均寿命は延びてきました。そろそろ頭打ちだろうと言われています。しかし、私は、特に男性において改善の余地があると思っています。現在、日本男性の喫煙率は約3割です。それが女性並みの1割になれば、もう数歳平均寿命が延びると愚考します。故の無い話ではありません。日本の喫煙者は非喫煙者に比して約10年寿命が短いというデータがあるからです(文献2)。 日本は、平均寿命が延びたことにより、死因が変化してきました。現在の死因は 第1位 がん(31%) 第2位 心疾患(15%) 第3位 脳血管疾患(12%) です。 平均寿命が70歳を超えた頃(1960年代)から癌に対する医療が問題になってきました。また心疾患、脳血管疾患の原因となる糖尿病や高脂血症に対する医療も取り上げられるようになってきたのもこの頃です。それ以前は、癌や糖尿病になる年齢に達する前に死んでいたのですね。あるいは栄養状態が悪かったので糖尿病や高脂血症になる人は少なかったのだと思います。 ちなみに糖尿病学会の設立が昭和33年(1958年)、動脈硬化学会の設立は昭和47年(1974年)です。逆に言えば、それまでは糖尿病も動脈硬化もあまり問題にならなかったのですね。いわゆる「生活習慣病」が発症する前に、感染症が原因でお亡くなりになっていた方が多かったのでしょう。 話は少し戻ります。このように第二次世界大戦後後の平均寿命の延びについては比較的よく知られ、分析もなされています。しかし、それ以前つまり明治時代に健康や寿命に関する統計を取り始めた頃から太平洋戦争までのことはあまり分析されていませんでした。 日本では 明治13年(1881)からは死産統計 明治32年(1899)からは人口動態統計 明治39年(1906)からは死因統計 が記録されるようになりました。その精度も結構高いのです(文献3)。図2は、日本における乳児死亡率、新生児死亡率の年次推移です。 図2:新生児死亡率、乳児死亡率の年次推移 さて、図1と図2を見て何かお気づきになりませんか? 統計を取り始めた当初、平均寿命は少し短くなり、乳児死亡率は上昇しています。しかし、平均寿命は1920年頃を境として長くなり(図1)、乳児死亡率は1920年頃を境として減少しています(図2:黄色い矢印)。これは、医学の世界で「1920年“頃”の謎」とされてきました。 それを解いたのは、なんと医療とは全く関係の無い元国土交通省の官僚だった竹村公太郎さんです。1945年(昭和20年)生まれの方です。2002年に国交省を退職されています。官僚といっても、文系官僚ではなく工学が専門のキャリア技官だった方です。退職して2年後の2004年には「ダムの排砂対策とその施工に関する研究」で工学博士号を取得しています(文献4)。かなりの勉強家なのでしょう。竹村氏は国交省の官僚としてインフラの設計や運営(ダム、河川管理)を担当していました。退職後に専門である「インフラ整備」「地図」の知識を元に日本の文明や日本の歴史を別な観点から読み解いた本を何冊も書いています(後述)。 竹村さんも、図1、図2のグラフを見て、「1920年“頃”の謎」について疑問を抱き厚生労働省の図書館!を度々訪れ、1920年頃に保健衛生の歴史に残るような出来事が無かったかどうかを探したのですが、これといった出来事の記録は無くこの「謎」は解明不能でした。 この「謎」が判然としないまま、考え続けていた竹村さんに、“セレンディピティ”が訪れます。氏が、たまたまお台場で催されていた「東京都水道100周年記念展」を見に行ったときのことです。その展示物の中に「大正10年(1921年)」に「東京市で水道の塩素殺菌が開始される」と書かれたパネルを見つけたのです。そうです!この「塩素殺菌の開始」こそが、この「1920年頃の謎」を解く鍵だったのです。 水道供給自体は、塩素殺菌導入に先立つこと30年前に開始されていました。逆に言えば30年間は殺菌されない水が全国に供給されていたのですね。怖い話です。殺菌されない水を飲んだために平均寿命が低下し乳児死亡率の増加したのだと思います。しかし、1921年以降は塩素によって「殺菌された水が供給」されるようになり、平均寿命は延び、乳児死亡率の著明な低下をもたらしたのですね。 ここに気づくだけでも素晴らしいのですが、竹村さんはさらにいくつかの素晴らしい発見をしています。わかりやすくするために順番にご紹介しましょう。 1. 1921年の水道水の塩素殺菌の開始が、平均寿命の謎を解く鍵だと推測できた しかし、何故1921年に水道水に塩素投与が開始されたのかはわかりませんでした。 「1921年に水道水の塩素殺菌が始まった」 「水道水の塩素殺菌により乳児死亡率は低下し、平均寿命が延びていったのだろう」 「でもなぜ、1921年に塩素殺菌が始まったかわからない」 以上のようなことを機会がある毎にあちこちで披露していたのです(普通の人は、ここまではしないでしょう)。 2. シベリア出兵と液体塩素の関係を知る そういう竹村さんの水道水塩素殺菌開始に関する話を聞いた方の中に「保土谷化学工業株式会社」の方がいらして、1921年の水道水の塩素殺菌開始に関する記事が載っている同社の社史のコピーを竹村さんに送ってくれたのです。その社史には同社が 「陸軍がシベリア出兵(1918年-1921年)に際し毒ガス兵器として液体塩素を開発したが、毒ガスを使うことも無かったのでこの時に余ってしまった液体塩素を水道水の殺菌に転用することになった」 と書かれていたのです。日本軍は1921年10月にシベリアから撤退します。この時に余った「毒ガス用の液体塩素」を水道水に投入したのですね。 これで1921年に水道水への塩素投与開始が開始された理由がわかりました。これだけでも凄いのですが、ここで終わらないのが竹村さんです。毒ガスとして使おうとしたくらい猛毒であるはずの液体塩素を水道水殺菌に使おうと命令を出したのは誰だろう?と考えます。液体塩素は陸軍(=国)のモノです。民間人が勝手に流用することはできません。きっと、衛生や細菌学に造詣が深くしかも地位が高い「政治家」がいて塩素投与の指示を出したのではないかと推測し該当する政治家を探しました。 3. 東京市長 後藤新平が水道水の塩素殺菌開始を命じた? その政治家はおそらく「後藤新平」です。後藤は福島県の須賀川医学校(現存はしていませんが)を卒業した医師です。その後、現在の名古屋大学病院の元となる病院の院長になったり、内務省衛生局で官僚として仕事をしたり、ドイツに留学して細菌学!で医学博士号を得たりしています。後に内務大臣、外務大臣を経て東京市長になります。外務大臣時代にはシベリア出兵作戦にも参加し、シベリアから帰った後、1920年に東京市長(今の東京都知事)になっています。 東京で塩素を水道水に付与して水道水の殺菌を開始する前年に東京市長になったのです。医師であり、細菌学をドイツで学び、シベリア出兵が終了して液体塩素が余っていると知っていた後藤新平が市長だったことが「1920年頃の謎」を解く最後の鍵だったのです。 殺菌された安全な水が東京中に行き渡るにつれて平均寿命が延び出したのです。 後藤新平が塩素を水道水の殺菌に使うよう指示した資料はありませんが、多分竹村さんの推測通りだと思います(文献5)。日本中の水道水の殺菌に塩素が使われるようになり今に至りますが、その始まりにはこのように色々な偶然が積み重なっています。 こういう事実を掘り起こし、調べ尽くす竹村さんの能力は半端ではないですね。何でも良いけれど「専門」があると応用が利くという良い例だと思います。竹村さんは「地形」を見ることで日本史を読み解く本や水力発電所の重要性を説いた本など、多数執筆しています(文献7、8など他にも多数)。ご興味ある方はぜひお読みください。どの本も面白いです。 というような話をしていた私にも、先日、小さな“セレンディピティ”が訪れました。私の患者さんのご主人が竹村公太郎さんと一緒に国土交通省の技官として働いていたのだそうです。世間は広いようで狭く、狭いようで広いですね。 それはともかく「平均寿命に関する1920年“頃”の謎」と「良質な水道水」を考えると「水」それも良質な「水」が、いかに健康にとって大切かがわかりますね。 注:参考文献6によると、1903年、ベルギーにて世界で最初に塩素が公共水道水の消毒に用いられたとのことです。どうやってそれが日本に伝わったのでしょうか? 【参考文献】 厚生労働省「人口動態統計」などからの引用 Sakata R1「Impact of smoking on mortality and life expectancy in Japanese smokers: a prospective cohort study.」 BMJ. 2012 Oct 25;345: 明治後期における死産統計の信頼性と死産率の推計:村越一哲(著)「文化情報学」 : 2004年11巻 1号 頁:1-13 ダムの排砂対策とその施工に関する研究 竹村公太郎(著) 日本文明の謎を解く―21世紀を考えるヒント 竹村公太郎(著) 清流出版刊 「White's Handbook of Chlorination and Alternative Disinfectants」Black & Veatch Corporation Wiley, 2010 日本史の謎は「地形」で解ける 竹村公太郎(著) PHP文庫刊 水力発電が日本を救う 竹村公太郎(著) 東洋経済新報社刊 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2018/12/10 食材を《焼いても発症する》珍しい食中毒 前段が長くなりました。今回の主題である「珍しい食中毒」の話です。食材を《焼いても発症する》珍しい食中毒の話です。 私は子供の頃、サバを食べて全身に発疹が出てからはサバにアレルギーがあるのだと思ってそれ以降は食べませんでした。後年、食中毒の授業でヒスタミン食中毒(アレルギー様食中毒)という病気があることを知り、「ああ、子供の頃のサバを食べて出た発疹はこのヒスタミン食中毒だったのだ」と思い、以降はサバをよく食べるようになりました。 なお「食中毒の授業」を真面目に聞いていると何も食べたくなくなります。色々な食材で色々な食中毒、それも死に至るような食中毒を発症するからです。それはともかく私を苦しめた?この「ヒスタミン食中毒」を紹介しましょう。 ヒスタミンという言葉を聞いたことがあると思います。花粉症の時期には抗ヒスタミン剤を飲んでいる方も多いと思います。アレルギー疾患に罹ると血液中にヒスタミンという物質が増えます。アレルギーの原因となるアレルゲン(花粉など)が体内に入ると、免疫グロブリンE(IgE)と反応し肥満細胞(太った「肥満」とは関係無いです。形状が肥満なのです)からヒスタミンが放出されます。この「ヒスタミン」と食中毒に妙な関係があるのです。 赤身魚(カジキ、マグロ、ブリ、サンマ、イワシ、サバ)の筋肉には、アミノ酸の一種である「ヒスチジン」がたくさん含まれています。厄介なことにこの「ヒスチジン」を「ヒスタミン」に分解する酵素を持つ細菌(海洋にいる細菌の一部や人間の腸内細菌の一部)がいるのです。この菌が「ヒスチジン」をたくさん含む赤身魚に付着すると、ヒスタミン食中毒を起こします。食材を冷蔵庫や冷凍庫に入れておけばこれらの菌は増えません。しかし、《室温》で《一定時間》放置されると「ヒスチジン分解酵素を持つ細菌」は一気に増えます、そして食材の筋肉中の「ヒスチジン」を大量の「ヒスタミン」に変えてしまうのです。 図2 ヒスタミンは厄介なことに、熱を加えても分解しないのです。ヒスタミンが大量にいる食材を焼いても煮ても、ヒスタミン食中毒は起きます。「焼いてあるから大丈夫」ではないのです。ヒスタミンが多い赤身魚を食べると、舌がぴりぴりするような感じや鉄を舐めたような感じがするそうです。 下の写真(写真1、2)はヒスタミン食中毒おこした患者さんに出た発疹です。食べてから30分から1時間くらい経って、こういう赤い発疹が出て吐き気が出たら、このヒスタミン食中毒を疑います。診断は写真のような発疹と、何をいつ食べたかでこの疾患を疑うことができます。確定診断をするには、保健所に届け出ることが必要です。食べた食材を調べなくては「確定診断」はできないのです。 写真1、2 この発疹を生じた患者さん(写真1、2)とたまたま同じ時間帯に同じお店で同じモノを食べて同じような症状を発症して同じ日に来院されました。私は、これは「ヒスタミン食中毒」ではないかと考え保健所に届け出ました。保健所は直ぐに二人が食事をした店に出向き、残っていた食材(焼き魚)を調べました。その結果、焼き魚から高濃度のヒスタミンが検出されたのです。それに加えて、患者さんの血中ヒスタミン濃度も高かったのです。この2人はヒスタミン食中毒と診断されました。保健所の方の話だと、原因となった魚(くどいですが、焼いてある魚)は、焼く前に6~7時間室温で放置されていたのだそうです。冷蔵庫に入れて保存されていれば、菌は繁殖せず、ヒスタミンも増えなかったと思います。 治療は、比較的容易です。抗ヒスタミン剤の投与です。この方ともう一人の方も、抗ヒスタミン剤の点滴を行ったところ、発疹が消失し、症状は軽快しました。 ちなみに、食中毒を出してしまったお店は、数日間の営業停止となりました。営業停止は罰ではありません。その期間中、再発防止に向けて、お店の方への衛生教育や冷蔵(冷凍)設備の改善の期間に充てられるということです。 お魚を冷凍にすると《まずくなる》という方もいらっしゃいます。しかし、以前にも記しましたが、お客さんの安全の方が優先だと思います。冷凍により「お魚の美味しさ」が損なわれることも無さそうです(文献3)。 前述の通り、ヒスタミン食中毒の勉強をした時、私自身の「サバアレルギー症状」はヒスタミン食中毒による症状だったことに気付きました。それまで自分はサバを食べられないと思っていましたが、おそるおそる食べたら体はなんとも無く、とても美味しかったのです。私も普通にサバが食べられるようになりました。 大切な助言: 「食中毒かな?」と思ったときの助言を書きます。 熱が出ていたら、下痢止め、吐き気止めを使わない方が良いです。抗生物質も止めた方が良いですね。原因不明なのに、効くか効かないか解らない抗生物質を投与すると「良い腸内細菌」も死滅して、かえって下痢がひどくなります。熱が出る=感染と考えると、下痢や嘔吐で原因菌を体外に排出するのは良いことなのです。下痢、嘔吐を止めると、体内に原因物質が残ってしまいますね。 このことは重要です。覚えておいてください。ただし、吐瀉物の処理はきちんとしましょう。厚生労働省のノロウイルス感染対策(PDF)を参考にしてください。 【参考文献】 食中毒の現状について(厚生労働省)(PDF) ノロウイルスに関するQ&A(厚生労働省)(PDF) Iwata K, et al. Is the quality of sushi ruined by freezing raw fish and squid? A randomized double-blind trial with sensory evaluation using discrimination testing. Clin Infect Dis. 2015 May 1;60(9):e43-8. 追記1: 2016年7月19日「E型肝炎患者が過去最多に、豚やジビエ肉・内臓を生で食べないで」という報道がありました(新聞各紙)。 厚生労働省の発表では、生の肉を食べることなどで感染するE型肝炎の患者数が、すでに227人に上り過去最多となったと発表しています。やはり生肉は食べない方が良いですね。 追記2: この稿を書いていたら「給食マグロからヒスタミン 山梨の保育所、92人食中毒」(産経新聞 2018年9月29日)という報道があったことに気づきました。食材の保存に問題があったのでしょう。給食だと気を付けようがないですね。しかし、何か食べたあとに「じんま疹」が出たら「ヒスタミン食中毒」かもしれないと覚えておいてください。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2018/11/26 食中毒患者数は日本で2万人程度、アメリカでは? 今回は少し珍しい「食中毒」についてお伝えしようと思います。よく食あたりという言葉を使いますが、「食あたり」=「食中毒」です。ここでは「食中毒」という言葉に統一して使います。 さて、「食中毒」とは何でしょうか? 時折、食堂やホテルで集団食中毒事件が起きます。その原因として、「ブドウ球菌」か「腸炎ビブリオ菌」「ノロウイルス」「O-157」「病原性大腸菌」などが報道されることがあります。しかし、食中毒を引き起こすのは、細菌やウイルスだけではありません。ほかにも色々な原因で食中毒が起きます。列挙します。 食中毒の原因一覧 細菌:ブドウ球菌、サルモネラ菌、カンピロバクター、 病原性大腸菌、ボツリヌス菌など ウイルス:ノロウイルス、ロタウイルス、A型肝炎ウイルス、E型肝炎ウイルスなど 化学物質:ヒスタミンなど 植物毒:キノコの毒、トリカブト毒など 動物毒:フグ、貝毒など 寄生虫、原虫:アニサキス、ジストマ、有鉤嚢虫、無鉤条虫など カビ毒など 年間どのくらいの人数が発症するかというと、日本全体で平成27年22,000人、平成26年19,000人ですから、おおよそ年間2万人程度が食中毒を発症しています。ただし、平成18年は39,000人、平成19年は34,000人です。これはこの時期ノロウイルスによる食中毒が急に増えたためです。このように食中毒は年間2万人程度が発症しますが、死亡者は多くて10名くらいです。 食中毒に罹る患者さんの数は、日本では2万人ということになっていますが、実はもっと多いと思います。 下図は諸外国と日本の食中毒患者数の比較です。アメリカは年間4,800万人です。日本は約2万人です。人口が違うとはいえ、あまりにもその数が違います。ほかの国に比しても少ないですね。 図1:食中毒による患者数各国比較 患者数(人) 入院者数(人) 死亡者数(人) 人口(万人) アメリカ 4,800万(7,600万) 12万8,000(32万5,000) 3,000(5,000) 3億1,500万 フランス 75万 11万3,000 400 6,200万 イギリス 172万 2万2,997 687 6,160万 オーストラリア 540万 1万8,000 120 2,200万 日本 2万802 NA 1 1億2,700万 引用:高橋梯二「日本社会は食の安全に関しグローバル化にどう対応すべきか」(一般財団法人社会文化研究センター補助事業) http://www.agriworld.or.jp/shabunken/hojyojigyo/H25jigyou.pdf アメリカ:Paul S. Mead and others, Food-Related Illness and Death in the United-States, Emerging Infectious Diseases, Vol.5 (5),1999 フランス:Morbidite et mortalite dues aux maladies infectieuses d’origine alimentaire en France, Institut de Velle Sanitaire イギリス:Adakらによる2005年調査(イングランド及びウエールズ) オーストラリア:Food born Illness in Australia, Oz FoodNet 日本:食中毒統計、厚生労働省 2013 年 アメリカの食料は汚染されているのでしょうか?日本がきれいなのでしょうか?実は、食中毒に罹った患者さんの数の算定方法が違うのです。 アメリカの患者数は食中毒に罹った患者さんの《推定値》で、日本の患者数は《届出があった患者さんの人数》です。日本では「医師が食中毒を疑った場合、直ちに最寄りの保健所長にその旨を届け出なければならない(食品衛生法第58条第1項)」と定められています。届け出を怠ると6ヵ月以下の懲役か、3万円以下の罰金などの罰則が課されます。しかし、実際に届け出ることはあまり無いのです。 医師が届け出をサボっているわけではありません。ホテルや旅館、食堂などで大人数の方が同じ食事をした後に発症する食中毒は診断が容易です。同じ場所で同じモノを同じ時間に食べているから、食中毒の症状が出現した場合、かかる医療機関も同一か限られています。同じような食中毒症状を訴える患者さんが複数来院したら食中毒を疑う事は容易です。しかし、あるレストランで細菌に汚染された食材を食べたとしましょう。お客さんはさまざまな場所から来ています。ですから、食中毒を発症しても当然ながら、それぞれ別の病院に受診すると思います。 診察する医師は、食中毒かな?と思っても、届け出ることはほとんどありません。 「食中毒」として届け出るには、《同じ場所》で、《複数人数の方》が、《同様な症状》を《ほぼ同時》に示すことが必要です。つまりホテルなどで一堂に会して同じ物を食べた後に症状が出て医療機関を受診した場合以外は診断が難しいのです。 ですから内心「食中毒かな?」と思っても実際に保健所に「食中毒の疑いがあります」と届け出ることはほとんどありません。届け出た場合でも、疑われる食材が残っていないと診断はできません。ですから、日本の年間食中毒患者数は、実際の患者数よりもかなり少ない?と予想されています。根拠はありませんが、実際に食中毒が出ている患者さんの数は2万人の10倍あるいは100倍くらいはあると思います。 生肉を食べるのは止めた方が良い さて食中毒が疑われた患者さんが来られても、その確定診断のために特殊採血や便の培養をすることはほとんどありません。よほど重症な患者さん以外は内服薬それも整腸剤や胃薬、制吐剤で治ってしまいます。下痢、嘔吐をすることで原因物質(細菌、ウイルス、毒素)が体内から減少して免疫力が勝り、自然治癒することの方が圧倒的に多いからです。 しかし、「死に至る食中毒」もあります。重篤な場合は、入院しての集中治療が必要になります。そういう時は、原因菌、原因ウイルス、原因物質の特定が必要です。原因により治療が違うからです。 食中毒は季節性に変動するのも特徴です。細菌、ウイルスによる食中毒は5月頃から急増します。気温が上がるからです。秋になるとキノコ中毒、冬になるとフグによる食中毒が増えます。寒い季節は細菌による食中毒は減少します。 感染性食中毒予防の基本は、「1.冷凍、冷蔵保存」、「2.加熱」です。予防のために加熱が必要となるとお刺身は食べられないことになります。お刺身は美味しいですよね。日本では長い間、刺身が食べられてきました(生食)。日本には生魚をできるだけ安全に食べられるようにする食文化があり、それに伴う流通経路が発達しています。ですから、多くの方はお刺身を食べると思います。私も食べます。美味しいです。これは文化です。欧米(一部を除き)では、最近まで生魚を食しませんでした。今は多少、食べるようになっていますが、まだ一般的ではないです。 なお魚の刺身を食べるのは構わないと思います(=ほぼ安全だと思います)が、生肉を食べるのは止めた方が良いですね。ユッケに付着していた「腸管出血性大腸菌O(オー)111」が原因による食中毒で多くの方がお亡くなりになった事件がありました(O111は聞き慣れないかもしれません。有名なO-157の仲間です)。 肉は、その処理中に汚染されることがあります。ですから生肉を食べるのは、できるだけ止めた方が良いです。私は、基本的に食しません。食べる生肉は馬刺しくらいです。馬にはサルコシスティス・フェアリーという寄生虫がいることがあり(滅多に無い)、その寄生虫による食中毒の報告もあります。ただし、症状は軽いです。 欧米でも基本的に生肉は食べません。ところがフランスやベルギーなどは別で「タルタル・ステーキ(生の牛肉 または馬肉を、みじん切りにし、オリーブオイル、食塩、コショウで味付けし、 タマネギ、ニンニク、ケッパーを加えたモノ)」という生肉を食べます。しかしイギリスでは絶対に馬肉は食べないのです。これも文化ですね。 次回に続きます。 【参考文献】 食中毒の現状について(厚生労働省)(PDF) ノロウイルスに関するQ&A(厚生労働省)(PDF) Iwata K, et al. Is the quality of sushi ruined by freezing raw fish and squid? A randomized double-blind trial with sensory evaluation using discrimination testing. Clin Infect Dis. 2015 May 1;60(9):e43-8. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2018/11/12 ビジネスクラスでもファーストクラスでも発症します 今回は、震災、豪雨、台風などの天災で避難を余儀なくされた時に多発する病気「エコノミークラス症候群」についてお伝えしようと思います。 今年(2018年)も、北海道、大阪で震災があり、中国地方では豪雨が、大阪は大型台風が来襲して大きな被害がありました。つくづく日本は天災が多いと思いました。 「天災は忘れた頃にやってくる」 これは物理学者の寺田寅彦の警句ですが、最近は 「天災は忘れる間もなくやってくる」 ですね。この寺田寅彦の残した警句は寺田寅彦の残した文章のどこにも見つかりません。寺田寅彦のお弟子さんだった中谷宇吉郎が寺田寅彦の残した文章を隅から隅まで探してもこの文言は見つからず、結局は寺田寅彦の口癖がいつの間にか広まったのだろうと分析しています(中谷宇吉郎随筆集(岩波文庫)より引用)。 それはともかく、さまざまな災厄により車中泊を余儀なくされる場合があります。そういう方に「エコノミークラス症候群」が多発しているとの報道があります。 例えば、「重症エコノミー症候群35人、車中泊?女性多く新たに関連死も…避難長期化で急増の恐れ」(産経新聞:2016年4月25日)などです。 「エコノミークラス症候群」でお亡くなりになっている方もいらっしゃいます。「エコノミークラス症候群」とは、どんな疾患でしょうか? 飛行機のエコノミークラスで旅行する方に多く発症したので、この名前がついています。愛称のようなモノです。正式な病名は「肺血栓塞栓症:はいけっせんそくせんしょう」です。肺動脈に血栓(血のかたまり)が詰まるという怖い病気です。正確に言うと「肺血栓塞栓症」の発症原因はたくさんあり、そのうちの1つが旅行中に長時間同一姿勢を強いられることにより発症する「エコノミークラス症候群」です。別名、「旅行者血栓症」「ロングフライト症候群」などとも称されます。 パリのシャルルドゴール空港でこの「肺血栓塞栓症」がどれくらいの頻度で発症するか調べた報告では、 「飛行距離が2500km未満での発症例はなかった」 「10000km以上では100万人あたり4.77人が発症していた」 のです。つまり、飛行距離と発症率は比例するのです(注:東京‐ニューヨーク間が約10,000kmです)。長時間同一姿勢を強いられるからこの病気が発症するのですね。 肺血栓塞栓症は 最初に下肢深部静脈に血栓ができる 下肢深部静脈に生じた血栓が血流の流れに沿って肺動脈にまで流れ肺動脈を塞ぐ という2つの病態が組み合わさって生じます。 東日本大震災の際、避難所での居住を強いられた方に足の静脈の超音波検査を行ったところ、約10%!もの方に足の静脈に血栓が見つかったとの福島県立医科大学心臓外科の高瀬信弥先生の報告もあります(https://www.fmu.ac.jp/univ/shinsai_ver/1_04takase.html)。 肺血栓塞栓症の第一段階である「最初に深部静脈に血栓ができる」ところまで来ていた方が、避難所への避難者の1割もいたことに驚きます。次の段階である「肺動脈に血栓が詰まる」ところまで進行すれば命の危険を生じるような状態を引き起こします。 肺血栓塞栓症はさまざまな原因で「静脈」というゆっくりと血液が流れる道に血栓(血のかたまり)ができることがその始まりです。「さまざまな原因」と記しましたが、文字通り「さまざま」です。 原因としては、 肥満 寝たきり 手術後の臥床 がん 凝固異常症 脳血管疾患による臥床 長時間の同一姿勢(飛行機、バスなどの長距離移動) 妊娠、出産 などです。 頻度を下に示します。「旅行者血栓症」と書かれているのが、エコノミークラス症候群に相当します。 肺塞栓症研究会の調査から引用 凝固異常以外で足の静脈に血栓ができるのは、「足が動かせない状態」か「足を動かしがたい状態」であることにお気づきでしょうか?普通に足が動かせるなら足の静脈に血栓ができることは稀です。大震災での避難時や飛行機搭乗中の長時間坐位により下肢に血栓ができるのは「足が動かせない」からです。それに加えて震災下では水分補給不足、トイレへのアクセス不による自主的飲水制限による脱水状態や、飛行機内では空気の乾燥による脱水やアルコール摂取、が下肢静脈内の血栓形成を助長します。 原因が何であれ、下肢深部静脈にできた血栓が深部静脈→下大静脈→右房→右室→肺動脈と流れていき、肺動脈を塞ぐようになった状態が「肺血栓塞栓症」です。 肺動脈が閉塞すると右室からの血液は肺動脈より先に流れなくなります。肺動脈に血液が流れないと酸素を体内に取り込むことができなくなり、体に酸素が行き渡らなくなります。さらに進行すると、体の静脈系に血液が貯留し、体に流れる血流が減少し、血圧が低下しショック状態となります。この疾患が発症してから直ちに適切な処置をとらないと命の危険に晒されることになります。 最初は深部静脈に血栓ができることが「肺血栓塞栓症」の始まりだとお伝えしました。下肢の深部静脈に血栓ができると、足が「ぱんぱんに腫れます」診断は容易です。 写真1:左下肢深部静脈に血栓が詰まった状態の足 左下肢が腫れています 写真2:これは非常に珍しい画像です 右手の深部静脈血栓症の方の写真です。右手が腫れているのがわかりますでしょうか? 深部静脈に血栓ができていることが疑われたら、超音波検査を行う必要があります。超音波検査を行えば診断は容易です。ノートパソコン程度の大きさの超音波検査装置もあり、東日本大震災や熊本大震災でも活用されました。今ではiPhoneにつなげる超音波検査装置も開発されています。超音波検査で深部静脈に血栓があることがわかったら、そして肺動脈まで大きな血栓が流れていない段階なら ヘパリンというお薬を使ってそれ以上血栓が作られないようにすること 下肢の血栓が肺動脈に流れないように下大静脈にフィルターを留置すること が大切です。これらの処置を滞りなくできるだけ早期に行うことが必要です。言うは易く行うは難しです。特に震災などでインフラが損傷を受けていると、そういう処置は簡単にできることではありません。それが震災時に肺血栓塞栓症による死亡が多発する要因のひとつです。 肺血栓塞栓症を発症し、ショック状態で搬送されてきた患者さんを診ることもしばしばありました。ショック状態を改善するには緊急で開胸して、人工心肺を装着して心臓を止めて、肺動脈を開けて肺動脈内にある血栓を除去することが必要です。時間との勝負になります。 3人お目にかけます。最初の患者さん(写真3-1、3-2、3-3)は、60代女性です。自宅トイレで倒れていて、救急車にて搬送されてきた患者さんです。肥満を認めます。酸素投与でも動脈血酸素飽和度が上昇しないことから、肺血栓塞栓症が疑われ、CTにて肺動脈内に血栓を認めています(写真3-1)。呼吸不全、血圧低下、ショック状態となったために緊急手術となりました。手術にて肺動脈内の血栓を除去しました(写真3-1、3-2)。 写真3-1:右肺動脈に血栓が詰まっていることを示すCT画像 写真3-2:心臓を止めて、肺動脈を切開して血栓を取り出しているところ 写真3-3:肺動脈内に詰まっていた血栓 この患者さんは、幸い後遺症無く元気に退院していきました。肥満があり、それが原因かと思われました。 次の患者さん(写真4-1、4-2)は60代男性、脳梗塞で入院中に、ショック状態となった方です。肺動脈造影にて肺動脈内に血栓を認めた方です。直ちに手術を行い、肺動脈内の血栓を取り除きました(写真4-2)。 写真4-1:肺動脈内に血栓を認めます 写真4-2:手術で取り出した血栓PA=pulmonary artery 肺動脈のことです 入院中だから助かったのだと思います。脳梗塞によって安静臥床していたことが血栓のできた原因だと思います。 次の患者さんは50代女性です(写真5)。脳の手術後、安静臥床中にショック状態となり救急搬送されてきた患者さんです。CTで肺血栓塞栓症と診断、人工心肺使用下に肺動脈から血栓を取り出しました。 写真5:手術でとりだした肺動脈内に大量に詰まっていた血栓 この方も、無事退院できました。手術後20年になりますが、今でも元気で時折、便りをくださいます。その便りを読むのは医師としてとても嬉しいことです。 とにかくこの病気は診断がついたら、早期の処置、手術が必要です。 ある時、The Annals of Thoracic Surgeryという雑誌を読んでいたら、心臓外科医のレジェンドの一人であるセニング先生が「Left Anterior Thoracotomy for Pulmonary Embolectomy With 29-Year Follow-up」という論文を載せていることに気づきました(文献2)。1998年に掲載された論文です。オーケ・セニング(Åke Senning)先生は、埋め込み型ペースメーカーを世界で最初に臨床応用したことや、大血管転換症の手術を開発し手術名に名前を残している先生です。心臓病を専門とする医師なら知らない人はいません。その有名な先生が症例報告を書いていたのです。当時のセニング先生の年齢は83歳です。その歳で論文を書いて、一流雑誌に症例報告をしているのだから感動しました。 内容は今回でお伝えしている「肺血栓塞栓症」の治療についてです。この論文に載っている患者さんは59歳女性で肺の腫瘍の摘出術後にベッドで安静にしていたら、肺血栓塞栓症を発症、心臓が停止したのです。セニング先生は、人工心肺を装着していては救命できないと判断、ただちに左胸を開けて左肺動脈から肺動脈内の血栓を除去、しばらくしたら心臓が動き出し、この患者さんは大きな障害を起こさずに退院し、それから29年経ち88歳になったが元気に生活している。そういうことを報告した論文でした。論文中、肺血栓塞栓症を生じたらできるだけ早期に肺動脈から血栓を摘出する必要があることを強調していました。セニング先生にとっても、とても印象的な患者さんだったのでしょう。 こういう病気は日本では少ないとされてきましたが、その数は増えています。とは言え、日本で肺塞栓症の発症率は100万人あたり62人、アメリカは100万人当り500人ですから、アメリカの1/8程度です。アメリカは肥満者が多いので、この疾患を発症する方が多いのだと思います。 さて、話は震災時の肺血栓塞栓症の話に戻ります。震災でこの病気が増えるのは上述のごとく、避難所で窮屈な生活を強いられたり、車中泊をしたり、水分摂取が減るからです。そういう災厄に遭ったら、 できるだけ早期に手足を伸ばして寝られる場所を確保すること 水分をできるだけたくさん飲むこと で、この病気を予防することができます。 また、仕事や旅行など、飛行機やバスで長時間移動する機会も多いかと思います。そういう場合も、できるだけ体を動かすことや水分をよく摂ることを心がけてください。 【参考文献】 肺血栓塞栓症および深部静脈血栓症の診断、治療、予防に関するガイドライン(2009年改訂版).日本循環器学会など Senning A. 「Left anterior thoracotomy for pulmonary embolectomy with 29-year follow-up.」 Ann Thorac Surg. 1998 Oct;66(4):1420-1. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2018/10/29 日本語は語彙(ごい)が豊富 今回は日本語の多彩さについて考えていることを書こうと思います。 英語で「一人称」は「I」、フランス語なら「Je」、ドイツ語なら「Ich」です。これに比して、日本語にはたくさんの一人称表現があります。 私、僕、ぼくちゃん、あたし、おれ、俺、あたい、あたくし、あっし、自分、おいら、おいどん、おれっち、それがし、我、吾、吾人、小職、小生、非才、不才、当方、おら、わ、我が輩、拙者、拙僧、拙、etc.(思いつくまま、順不同です)とたくさんあります。 これらを、私たちは、微妙に使い分けています。日本語は、このように言語表現が他言語に比して多彩です。 だから、日本語の小説を翻訳するのは大変だと思います。 「吾輩は猫である」を英語で表現すると 「I am a CAT.」になりますが、それでは、吾輩に込められた“意味合い”が伝わらないと思います。 「吾輩」には、「男性(オス)」で「上から目線」で「滑稽味」が隠されていると思います。それが「I am a CAT.」では伝わりませんね。 それはともかく、日本語表現が多彩になる理由は、語彙(ごい)が豊富だからです。語彙が豊富になる理由は日本語が、 「表音文字」=文字が音を表す。多くの言葉はこれだけで言語が成立しています。代表が英語、独語、フランス語など 「表意文字」=意味をもつ語のそれぞれに対応させた文字、現代では漢字しか残っていない? を微妙に組み合わせているからだと思います。 日本語の表音文字は二種類あります。 「片仮名」と「平仮名」です。「漢字」という表意文字は1種類ですが、以前からお伝えしているように漢字の読み方は「音読み」と「訓読み」の二種類に分かれます。 要するに日本語は表音文字と表意文字の組み合わせで無数の表現ができるので、上述のごとく他言語では「I」「Je」「Ich」で終わってしまう「一人称」にも、日本語には無数の表現があります。無数の表現ができる日本語を用いると、情緒的な文章も論理的な文章も書くことができます。日本語は曖昧(あいまい)だとか、非論理的だという人もいらっしゃいますが、使い方の問題だと思います。 明治時代の文部大臣「森有礼(もりありのり)」が日本語を廃して英語を導入することを提唱したり、太平洋戦争後に志賀直哉が「日本語を廃して、世界一きれいな言語である(と志賀が思う)フランス語に代えよう」という運動をしましたが、そんなことにならないで良かったと私は思います(注:志賀直哉はフランス語ができませんでした。なぜ、こんな突飛も無いことを言い出したのでしょう?)。 また、日本語表記は漢字を捨てて、カタカナだけにしようとか、ローマ字だけにしようという運動もなされたことがあります。カナ、ローマ字ならタイプライターが使えるから便利だという考えが根底にあったのです。しかし、ワープロの普及と共にそういう主張は廃れました。「ワープロガ ナケレバ タイヘンナ コトニ ナッテイタ デショウ。」このくらいならまだ、読解できそうです。しかし、 「この箸は日本の端にある橋を渡ったところに住んでいる波紫(はし)さんが作りました」 のような同音異義語がある文章は正しく表現できません。これをカナだけで書くと、 「コノハシハ ニホンノハシニアルハシ ヲ ワタッタトコロニスンデイル ハシサンガ ツクリマシタ」 これでは何のことやらわかりませんね。 仮に日本の標準言語を英語、フランス語、カナ、ローマ字にしようという運動が100年前に成立していたら、今頃、平安時代から江戸時代に書かれた文章を一切読めなくなっていたと思います。あり得ないと思われるかも知れませんが、100年前には文部大臣がそういうことを主張していたのです。現在も人工言語を作って、自国言語を単純化したり、英語と自国語を並立させたりする施策をとっている国があります。そういう国では古くからある自国語を捨ててしまったことで、自国の古典や歴史的文章が読めなくなっています。 日本語廃止論はいつの時代にも亡霊のようによみがえります。一旦、捨てられた言語は、二度と元には戻りません。多くの「無くなってしまった言語」がそれを証明しています。例えば、ヒエログリフ、マヤ文字などが、その代表でしょう。そんなことは、日本では、あり得ないという方も多いかと思いますが、小学校から「英語教育」が始まり、その時間が長くなりつつあります。おかしい話です。数学者の藤原正彦氏は「一に国語、二に国語、三四がなくて五に算数。あとは十以下」とも言っています(参考文献3)。以前にも紹介したフランス在住の言語学者小島剛一氏は「小学校の英語教育の是非」の中で、 「日本の言語教育で大切なことは、日本語を正しく理解し、まともな日本語で筋道立てて自分の考えを表明する能力を多くの子供に身に着けさせることです。 中略、 下手な英語教育は、日本語を崩壊させるだけです」 と述べています。その通りだと思います。 話は変わります。日本語は論理的な文章を書くにも適していると言うと怪訝な顔をされることあります。英語、フランス語、ドイツ語より、日本語の方が論理を重視というか、論理表現が得意です。いくらでも例証可能ですが、その一つ「住所表記」を例にとって考えてみましょう。 浜松町ビルディングの住所を示すのに、 日本語では「日本国 〒105-0023 東京都港区芝浦1-1-1」と書きます。 英語では 「1-1-1 Shibaura, Minato-ku, Tokyo 105-0023, JAPAN」です。 ドイツ語でもフランス語でもそれは一緒です。 場所がどこにあるかを示すのに、日本語の方が自然です。広い範囲から狭い範囲に順番に進んでいきますから、頭に入りやすいですね。 一方、西欧言語では逆順ですから不便です。郵便配達をする欧米の方は「不便だ」と思っているに違いありません。なぜ、西欧言語が不自由な表記を使っているか不明です。そういうモノだと思っているから、今更変えられないのでしょうね。 どう考えても、日本語の方が「論理的」です。これらの小さな事象をもって、日本語の全てが論理的だとは言えませんが、論理的に書こうと思えばいくらでも書けることは覚えておいて損はないと思います。 また、話が逸れます。 言語とは関係ありませんが、お風呂も日本の方が論理的だと思っています。暖まる湯船があり、身体を洗う場所が別にあります。日本のホテルにある欧米式?の「バス=bath」は実に不便です。洗い場の無い「bath」の「正しい入り方」が未だに私には解りません。誰か、正しく、そして快適な西欧式バスの入り方がわかったらご教示ください。長年の疑問です。西欧ではシャワーだけなのでしょうか?それなら湯船は不要です。身体を湯船で洗ってから湯をためるのでしょうか?それでは寒い季節は辛いですね。長年の謎の一つです。 日本語は多彩な表現ができる 話を戻しましょう。 日本語が他言語に比して、多彩な表現ができるもう一つの証左があります。それは、とにかく多くの言語で書かれた本の翻訳本が次から次に出版されていることです。ノーベル文学賞に選ばれた作品で、これまで日本語に翻訳されていなかった作品は無いと言っても良いくらいです。ノーベル文学賞が決まってからの翻訳ではなくて、それ以前に翻訳されていたという意味です。例えば2015年の受賞者はベラルーシの「スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチさん」ですが、この方の本は既に1984年から日本語に翻訳されて出版されています。2015年のノーベル賞受賞時点までに 6冊も出版されていました。なぜ、こんなにたくさんの翻訳がされていたのか、この方面には暗い私にはよく判りません。かなりマニアックな言語の、マニアックな分野の本も、たくさん翻訳されています。 各種言語がそれなりに翻訳できるのは「日本語の表現能力が高い」ためだと思います。誤解を受けるといけないのですが、ノーベル賞の中で文学賞は価値が無いとは言いませんが、あまり重要だとは思えません。外国の文学はスウェーデン語や英語に翻訳がなされないと賞はもらえません。スウェーデン人文学者以外が受賞する場合、その半分は翻訳者の功績だと思います。暴論でしょうか? また、話は変わります。明治に入り、欧米諸国から色々なことやモノ、科学、文学、etc.が導入されますが、対応できない言葉は全て自前で作ってしまっています。それを「和製漢語」といいます。例えば、「芸術」、「理性」、「技術」、「心理学」、「意識」、「知識」、「概念」、「帰納」、「演繹」、「定義」、「命題」、「分解」、「自由」、「階級」、「人民」、「共和国」、「共産主義」、「革命」、「共和」、「右翼」、「左翼」、「科学」、「哲学」、「進化」、「郵便」、「意識」、「運動」、「野球」、「観念」、「福祉」、「接吻」などです。今では普通に使われるこれらの言葉は明治人が作ったのですね。解らない言葉、対応する言葉が無いのはどんどん作ってしまう。凄いことだと思います。今はあまりそういう努力をせず、何でもカタカナで書くのが流行っています。明治時代もカタカナで通していたら、「野球」も「哲学」もなく、「ベースボール」や「フィロソフィー」という無味乾燥な言葉になっていたかも知れません。これら和製漢語を造語した人達は本当に偉かったと思います。和製漢語は、中国語にもたくさん取り入れられています。例えば、“左翼勢力による共産主義革命によってできた「中華人民共和国」”という表現をしたとします。下線部は全て和製漢語です。「中華人民共和国」という中国の正式名称の7文字中、5文字は日本製です。 今回は、とりとめのない文章になってしまいましたが、何を言いたかったかというと「日本語は融通無碍で、語彙が豊富で、何でも表現でき、表現できない場合は言葉も作ることができる」ということを伝えたかったのです。 【参考文献】 再構築した日本語文法:小島剛一著 ひつじ書房 日本語に主語はいらない:金谷武洋 講談社 祖国とは国語:藤原正彦著 講談社、2003年 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2018/10/09 本日(ほんじつ)は晴天なりと「ジャパン」の関係 前回で音読み、訓読みの由来をご紹介しました。漢字の読み方は難しいですね。以前から、なぜ日本が外国では「ジャパン」と呼ばれているか疑問でした。それを少し読み解いてみようと思います。 我が国の名前ですが、元を正せば、大和地方にあった大和朝廷により国家統一がなされたので「大和」と書いて「やまと」と読ませ、それが国名でした。「大和」を「やまと」と読むのも難しいですね。 その後、大化改新の頃、「東の方(日出ずる方)」を意味する「日本」が国名として使われるようになりました。その「日本」を「やまと」と読ませていた時期もありました。日本武尊(やまとたけるのみこと)が有名ですね。 さらにその後、「日本」は音読み(中国読み)されるようになりました。正確に記すと三つの音読みがありましたが、今は「にほん」、「にっぽん」の二つしか残っていません(後述)。 さて、その二つ「にほん」「にっぽん」です。どちらが正式名称なのでしょうか?これには長らく論議がありました。2009年に当時の岩国哲人衆議院議員が「日本に、二つの読み方(名前)があるのはおかしいのではないか?」と、政府に質したところ、当時の麻生内閣は「ひとまず、どちらでも良い」と閣議決定しました。結局、どちらも正式名称として使って良いことになりました。 皆さんは、この二つの読み方をどのように使い分けていますでしょうか?ちなみに「国」として扱う時の読み方は正式に決まっていて、『大日本帝国』が国名だった時代は「だいにっぽんていこく」と呼ぶのが正式な読み方です。そして今の『日本国』では「にほんこく」が正式呼称です。 それはさておき、オリンピックで「日本ガンバレ」という時は、大抵「ニッポン」が使われます。「ニッポン チャ チャ チャ」、「ビバ!ニッポン!」のように「景気づけ」のような時に「ガンバレニホン」では何となくテンションが下がるような気がします。 一方、そういう景気づけるような話ではない時は、ほぼ「にほん」と呼称することが多いですね。「日本」を冠した病気は日本脳炎、日本住血吸虫症の二つしかありませんが、どちらも「にほん」です。 ちなみに、日本脳炎の原因ウイルスは「日本脳炎ウイルス:Japanese encephalitis virus」で、日本住血吸虫症の原因寄生虫は「Schistosoma japonicum:ラテン名:学名」です(参考文献2参照)。どちらも「ジャパン」が入っています。生物の学名はラテン語が使われます。しかし、ウイルスは生物かどうかも定かで無いため、ラテン名では無くて英語表記がされることが多いです。生物の学名で日本に関係するモノはジャパン系(japonicum、Japanese)の名前が付いていることが多いのですが、朱鷺(トキ)だけはなぜかニッポニアニッポン(Nipponia nippon)です。 なお、日本医師会、日本遺産、日本育英会、日本遺族会、などの団体や機構を示す場合も「にほん」と読むのが普通でしょう。日本外科学会、日本胸部外科学会、日本内科学会など学会名も、すべてを確かめたわけではないですが、ほぼ「にほん」でしょう。前回紹介した言語学者 小島剛一氏によると文化に関する言葉も「にほん」を使うことが多いですね。日本文化、日本料理、日本髪、日本語、日本茶、日本庭園、日本刀 などですね(http://fjii.blog.fc2.com/blog-entry-656.html)。 郵便切手にはNIPPONと記載されていますが、これは、日本が大日本帝国だった1877年(明治10年)に万国郵便連合に加盟した際、国名を切手にローマ字表記することを求められたので、当時の国名「大日本帝国:だいにっぽんていこく」に準じてNIPPONとなったのだと思います。今更、「日本国:にほんこく」になったから、すべての切手を「NIHON」にするのも面倒だから、そのまま使っているのだと思います。 さて、「東京2020オリンピック・パラリンピック」まで、あと残り2年になりました。いつごろから言い始めたのかは忘れましたが、日本代表チームには監督名や愛称を冠するようになりました。「ハリル・ジャパン」、「岡田ジャパン」、「侍ジャパン」、「なでしこジャパン」、「トビウオジャパン」などです。この辺りまでは、皆さんご存じかと思います。そのほかにも、 スマイルジャパン(アイスホッケー日本代表女子) ポセイドンジャパン(水球日本代表男女共) ムササビジャパン(ハンドボール日本代表男子) おりひめジャパン(ハンドボール日本代表女子) クリスタルジャパン(カーリング日本代表女子) マーメイドジャパン(シンクロナイズドスイミング) などがあります。なお、「ニッポン」を使っている競技もあります。 バレーボールは、男子が「龍神NIPPON」女子が「火の鳥NIPPON」です。 でも、ほとんどは「ジャパン」を使っています。私は、以前から「ジャパン」という言い方には疑問を持っていました。 外国で「日本」はなんて呼ばれるのでしょうか? 英米:ジャパン(Japan) フランス語:ジャポン(Japon) ドイツ語:ヤーパン(Japan) イタリア語:ジャッポーネ(Giappone) ロシア語:ヤポーニヤ(Япония) スペイン語:ハポン(Japón) アイルランド語:アン チャパイン(an tSeapáin) ポーランド:ヤポニヤ(Japonia) タイ語:イープン(ญี่ปุ่น) ポルトガル語:ジャポン or ジャパーン(Japão) 中国語:ジーペン(中:Rìběn;日本) 朝鮮語:イルボン(朝:일본;日本) ベトナム語:ニャッバーン(Nhật Bản;日本) スワヒリ語:ジャパニ(Japani) フィンランド語:ヤパニ(Japani) ギリシア語:イアポニア(Iaponia) 切りが無いので止めます。 「にほん」でも「にっぽん」でもありません。ほとんどが「ジャパン」系ですね。これは「昔の中国」での「日本」の読み方が世界中に伝わったからでしょう。マルコポーロの東方見聞録で日本「ジパング」として紹介されています。ジパングの「グ」は「国」の中国での読み方です。ですから、ジパングは「日本国」のことですね。 それはともかく、日本も中国での読み方(=音読み)を取り入れて「にほん」「にっぽん」と呼称し今に至りますが、こちらの読み方は外国には伝わりませんでした。 前回で紹介した「音読み」と「訓読み」という点から、「ジャパン」問題を考察してみましょう。私たちは、普段、訓読みや音読みを意識することはあまりありません。 「日」と「本」について、それぞれの読み方を整理してみます。 「日」の訓読み(日本古来の読み方)は、「ひ」か「か」です。「日」の音読み(中国語読み)は「にち:呉音」か「じつ:漢音」です。呉音と漢音では前者の呉音の方が古く、後者の漢音は遣隋使や遣唐使を通して伝わった読み方です。正式な読み方と称して「正音」ともいいます。実にややこしいですね。 「本」の訓読みは「もと」です。「本」の音読みは「ほん」「ぽん」「ぼん」の3通りあります。「本」については、呉音、漢音の違いはありません。 ですから、本来、「日本」を中国語読みすると、呉音なら「にほん」「にっぽん」に、漢音なら「じっほん」「じっぽん」です。ジャパンもジャポンもジパングも、この「じっぽん」系の言葉です。「本日は晴天なり」と言う時は「本日」は「ほんじつ」と発音します。逆読みすれば、「じつほん」です。その「じっぽん」系の読み方は、日本では駆逐されてしまいました。それはなぜでしょう? 「日葡辞書」(1603~1604:にっぽじしょ:脚注参照)には日本のことを 「Iippon:ジッポン」 「Nifon:にふぉん」 「Nippon:にっぽん」 と3通りの記載があります。少なくともこの辞書が成立した1600年頃、日本はこの3通りに読まれていたのでしょう。それがいつの間にか、後者二つ「Nifon:にふぉん」「Nippon:にっぽん」しか残りませんでした。前述の如く、語頭の「日」を「じつ」と呼ばなくなったからでしょうが、それがいつのことかまったく不明です。 まとめると、日本は、元々は二通りある中国読みで「じっぽん:漢音」と「にほん、にっぽん:呉音」と呼ばれていたのが、現在は「呉音による中国語読み一辺倒」になっているという不思議なお話です。ちなみに、中国語読みは「嫌だ」と言う方もいらっしゃいます。そういう方は、日本のことを「ひのもと」「やまと」と呼称しています。言葉は、難しいですね。 とういうわけで、2020年には、東京でオリンピックが開催されます。 「ガンバレ、ニッポン!」 と唱えるとき、少しだけ今回のお話しも思い出してください。 注:日葡辞書 当時の日本語をポルトガル語、ラテン語で解説した辞典です。性的な言葉はラテン語になっていて、簡単には読めないようになっています。当時も今も使われている多くの言葉がローマ字表記されています。1600年当時の日本の言葉の発音がよくわかります。本物は横にローマ字で「Nifon」とありその横に、ポルトガル語で説明が書いてあります。ポルトガル語がわからないと読めないですね。そういうわけで、私が持っているのは、ポルトガル語を日本語に翻訳した日葡辞書(岩波書店刊)です。読んでいて飽きません。実に面白い辞書です。 【参考文献】 高島俊男(著)「キライな言葉勢揃い(文春文庫)」 など 日本住血吸虫症のウィキペディアの項は凄いです。引用文献が300を越えています。ウィキペディアの有名項目です。どの項目もこれくらい詳しければ良いですね。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2018/09/25 今回から、「日本語」について思うことを書こうと思います。 「はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった。言葉は神と共にあった。万物は言葉によって成り、言葉によらず成ったものはひとつもなかった。 言葉の内に命があり、命は人を照らす光であった。その光は闇の中で輝き、闇が光に打ち勝つことはなかった」(「新約聖書~ヨハネの福音書」より) 私はキリスト教徒ではありませんが、「言葉」については、このヨハネの福音書の説く通りだと思います。医療に携わる中で、日本語について考えたこと、勉強したことなどを書いていこうと思います。 「患者さんの言葉に耳を傾けよ」とは 医療の世界で「言葉」は特に重要です。ノーベル平和賞を受賞したアメリカの循環器内科医バーナード・ラウン(Bernard Lown:1921-)先生が書いた「治せる医師・治せない医師」という本(注1)にも繰り返し、「言葉」の重要性が説かれています。 医療における言葉の重要性を説いた医師はほかにも大勢います。一番有名なのは、19世紀を代表する内科医オスラーが書いた次の言葉でしょう。 “Listen to the patient. He is telling you the diagnosis”(注2) 訳してみましょう。 “患者さんの言葉に耳を傾けよ、患者さんはあなたに診断の手がかりとなる言葉を発している” 最近、この言葉にはもっと深い意味があるのだと思うようになりました。「Listen=聞く」ですが、ただ単に「言葉を聞く」だけでなく、患者さんが発する言葉、患者さんの身体所見などに耳を傾けようと言う寓意も含んでいるのだと思っています。つまり、さらに意訳すると、 “患者さんの発する言葉はもちろん患者さんの発する身体所見や事象に耳を傾けよ。患者さんは、あなたに「診断」の手がかりを発している” とまで言えるのではないかと思っています。いかに医療が進み、医療技術が進み、AIが進んでも、この言葉の重要性は変わらないでしょう。 医師になり、よくよく患者さんの話を聞いていると、段々とオスラー先生の説いたことがわかるようになりました。 司馬遼太郎が「カルテは日本語で書かないと意味が伝わらない、それも“地の言葉”で書かないと、意味が伝わらない」という意味のことを書いていました。司馬は大阪弁で「うじうじして痛いねんで」と言う語感はその通りに書かないと伝わらないと書いています。同感です。 私の恩師 新井達太先生からも、常々「カルテは日本語で、わかりやすく書くよう」に指導されましたので、自分で書くカルテは基本的に日本語で書いてきました。日本人が日本語でカルテを記載するのは当たり前の話だと思います。 私は栃木県でも働いていました。栃木の心臓病の患者さんはよく 「去年は大丈夫だったのに今年は駅の階段を登るのが“こわい”」 などと言います。最初は階段を登るのに恐怖を感じるようになるのだと思っていました。しかし、違ったのです。栃木県では「こわい」は「疲れる」「だるくなる」というような意味でした。言葉は難しいですね。日本人を診察するのに「ドイツ語」や「英語」で書いたカルテでは患者さんの「伝えたいこと」は残らないのです。一昔前は、そういうカルテや判じ物のような文字、他人にも自分でも読めないような文字で書いたカルテを多く見ました。今から思うと不思議です。電子カルテが主流の時代となり少なくとも読めないカルテは、あまり見かけなくなりました。 『音読み』『訓読み』をどうやって決めていた? そんなわけで、医師になってから色々と日本語について考えてきました。私は言語学者でも国語学者ではありませんが、こうした書き物の中でも適当なことを書くつもりはありません。それなりに調べては確証があった(と思われる)ことだけ書きます。「なんだ、『思われる』ってことは、確実なことでは無いのか?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。逃げているわけではありません。例証を挙げます。 『音読み』『訓読み』についてです。 『音読み』は、一般的には中国から伝わった読み方です。“山”を「さん」と発音するのが『音読み』で、“山”に日本語の語彙を当てて「やま」と発音するのが『訓読み』と習ってきました。 『音読み』は中国から伝わった読み方ですが、どの時代の中国から伝わったかで随分と読み方が違います。ですから、音読みも「呉音」「漢音」「唐音」などに分類されます。 「呉音」は六朝(りくちょう)時代の呉の地方の発音が基になっています。 「漢音」は、隋・唐以後で宋*以前の長安地方の発音が基になっています。歴史上の「漢」の国とは時代が違います。 「唐音」は、唐の末期から宋・元・清までの間に日本に伝わった発音で「宋音」とも言います。 *南朝の宋(420~479)ではなく、北宋(960~1127) でも、ちょっと考えてみましょう。「呉音」「漢音」「唐音」などと言うけれど、本当に中国でそのように発音されていたかどうかは、当たり前ですがテープレコーダーなどありませんので、解かりません。では、どうやって決めていたのでしょう?皆さんは、こんなことを考えたことはありませんでしたか?私は、長い間、これが疑問でした。『音読み』とはそういうモノだと思って何となく、覚えていたからです。しかし、ある時、私の年来の疑問はフランス在住の言語学者小島剛一氏(注3)に質問する僥倖を得て氷解しました。以下“”内は氏から教わったことです。 “漢字の音読みは「同音の漢字、仮名、声点などを用いて漢字の読み方を示した資料は多数あります。『妙法蓮華経』『大般若波羅蜜多経』『佛母大孔雀明王経』などは、音注が詳しく付いています。” 音注とは漢字の横に仮名などが書かれていて読み方を示しているのですね。今なら、難しい漢字の上にルビが振ってあるようなモノでしょう。確かに国立国会図書館のデジタルコレクションにある『佛母大孔雀明王経』をみるとカナがふってあります。 冒頭の部分です(図1)、さらにその一部を拡大してみました(図2)。 図1:佛母大孔雀明王経の冒頭 図2:佛母大孔雀明王経の拡大図 少し見てみましょう。 獨は“トク”、覚は“カク”、我は“カ”、皆は“カイ”、敬は“ケイ”、礼は“レイ”、聖は“サイ”、求は“キュウ”とフリガナがふってあります。こういう文献があることで初めて『佛母大孔雀明王経』が日本に伝来した当時の、中国語での読み方、すなわち「音読み」が推測できるのですね。とても興味深いことです。 なお、『佛母大孔雀明王経』の振り仮名には濁点が付いていません。濁点を使用していれば「獨(トク)」は「どく」、「我(カ)」は「が」だったはずです。つまり、完璧な表音文字は存在しないのです。この辺りは、とても難しいです。 こういう文献を研究して、「音読み」が広まったのでしょう。中国から伝わった年代で読み方は違い、それを「呉音」「漢音」「唐音」などと分類したのでしょう。皆さんは、ご存知でしたか?私は長い間知りませんでした。 さらに『音読み』『訓読み』について考えてみましょう。 日本語は「表音文字である“ひらがな”と“カタカナ”」と表意文字である“漢字”が使われます。上述のことと重複するのですが、日本語には表音文字がありますので、1000年近く前の漢文に“カナ”で読み方がふってあると、当時、この漢字がどのように読まれていたかがわかるのです。 しかし、ここが大事ですが、中国語には表音文字がありません。つまり500年前、1000年前の中国で実際にどういう漢字がどういう発音で読まれたかは不明なのだと思います。500年前、1000年前の中国の漢字がどのように発音がされていたかを研究するなら、表音文字を古くから用いている日本で文献を調べるしか無いのだと思います。この辺り、わかる方がいらしたらご教示いただければ幸いです。 現代の中国では、1958年以来、拼音(ピンイン)という発音記号が使われるようになっているので、発音の仕方がわかります。例えば北京の拼音はběijīngです。 というわけで、言語に関して「絶対に確実なこと」を見つけ出すのは至難の業です。しかし、日本語について考えるのは面白いので、数回続けます。以下、次回に続きます。 注1:治せる医師・治せない医師 バーナード ラウン(著) 築地書館 原題は「The Lost Art of Healing: Practicing Compassion in Medicine」 ラウン先生はLGL症候群(Lown-Ganong-Levine syndrome)に名を残しています。 注2:平静の心―オスラー博士講演集 ウィリアム・オスラー(著) 医学書院 ちなみに、オスラー博士は、以前にも紹介しましたが、点滴液の創始者リンガーの元で若い頃学んでいます。 注3:「再構築した日本語文法(ひつじ書房)」「トルコのもう一つの顔(中公新書)」などの著書があります。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2018/09/10 イースター島で見つかった細菌が分泌する「シロリムス」というお薬に新たな作用が見つかり… 今回は、20年前から使われていた薬に新たな作用があることがわかり、最近再び注目されているという話題をお届けします。 以前、冠動脈治療に使う「ステント」に薬剤溶出性ステント(Drug Eluting Stent:DES と略します)が使われているというお話をしました。狭くなった冠動脈をステントで広げても、再度、ステント内で血管内膜が増殖して再狭窄を生じます。それを予防するために、さまざまな薬剤を金属製ステントに塗布して再狭窄予防に使っている、そういうお話でした。 DESに使われる薬剤として最初に用いられたのが「シロリムス」というお薬です。シロリムスは、イースター島の土から見つかった放線菌「ストレプトマイセス・ハイグロスコピクス(Streptomyces hygroscopicus)」が分泌する物質です。 シロリムスは別名をラパマイシン(イースター島の現地名:ラパヌイに由来します)とも言います。シロリムスには、これまでに下に述べる3つの別々な薬効があることが確認されています。 血管内膜増殖抑制:DES(薬剤溶出性ステント)に使われています 免疫抑制:主に腎移植後の拒絶反応予防薬として使われています 抗腫瘍効果:リンパ脈管筋腫症という肺の希少疾患治療薬として使われています シロリムスの構造を少し変えたエベロリムスは抗がん剤として腎細胞癌、再発乳癌などに使われています ひとつの薬剤がさまざまな作用を持つのは凄いことだと思います。そのシロリムスですが、最近、さらに2つのことで脚光を浴びています。 「シロリムスが不老長寿の薬になるかもしれない?」 「シロリムスが神経難病に効くかもしれない?」 の2つです。後者はiPS細胞を用いた「創薬(そうやく=お薬を作る)」と言っても良いかもしれません。 今回は、この2つについて紹介しようと思います。 「不老長寿のお薬」としてのシロリムス 最初は「不老長寿のお薬」としてのシロリムスです。 2009年、NATUREに「シロリムスを投与したマウスは寿命が伸びた」という要旨の論文が載ったのです(文献1)。この論文が発端になり、シロリムスと長寿に関する実験が数多くなされています(文献2.3など)。シロリムスには細胞分裂の速度を弱める働きがあります。それゆえに 血管内膜増殖抑制効果 抗がん剤 としても作用します。シロリムスにより細胞分裂速度が遅くなれば、老化も遅くなるのではないだろうかと予想して実験をしたのが、先に紹介したNATUREの論文です(文献1)。NATUREに載ったこの論文には、人間でいうと60歳に当たるマウスにシロリムスを投与すると寿命が10%延びたとのことです。マウスではなく人間もシロリムスを服用すれば長生きできるのではないかと思うのが「人情」です。しかし、残念ながら人間には使えないと思います。シロリムスには免疫抑制効果もあり、腎移植後の拒絶反応予防薬としても使われています。免疫抑制効果がある薬を服用すると、免疫を抑制するので感染症にかかりやすくなります。シロリムスを服用すれば寿命は延びるかもしれませんが、さまざまな感染症に罹りやすくなると思います。 というわけで現状では人間にシロリムスを投与すれば長寿になる可能性は低そうですが、感染の問題が解決できればどうなるかわかりません。 「神経難病に効くかもしれない」シロリムス さて、今ひとつは「シロリムスが神経難病に効くかもしれない」という話題です。 iPS細胞というと、心筋細胞を作ったり、腎臓細胞を作ったり、血小板を作ったりという「臓器や組織」の再生が話題になりますが、創薬にも使われています。創薬にiPS細胞を用いるに方法として、現在2つの方法があります。 第一の方法は、「iPS細胞を用いて、お薬の安全性試験をするという方法」です。 例えば心臓病の「治療薬A」ができたとします。「治療薬A」が実際に人の心筋細胞のどのような影響を及ぼすのかを試すのは大変なことでした。「in vivo(生体)」での試験は簡単にはできません。生きている人間の心筋細胞に新しい治療薬がどのように効くかを実験するのは危険を伴います。しかし、iPS細胞を使って人間の心筋を作れば「治療薬A」が心筋にどのような作用を及ぼすかを調べるのが比較的容易になると予想されています。iPS細胞があれば心臓、肝臓、腎臓、皮膚などさまざまな細胞が作れるのでお薬の生体内での作用を、検査することができます。夢のある話です。 第二の方法は「iPS細胞を用いて、難病の治療薬を探す方法」です。 世の中には実に多くの病気があります。その中でも特に治療が困難なのは、原因が不明で成長や加齢と共に発症する神経系の難病です。筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう、英語: Amyotrophic lateral sclerosis、略称:ALS)やパーキンソン病、アルツハイマー病などです。 こうした病気になった患者さんから得られたiPS細胞から神経細胞を作ると病的な異常を持つ神経細胞ができることがあります。この病的な異常の発現を阻止するようなお薬を見つける、これが第二の方法です。言うは易く行うは難しです。 お薬は無数にありますからどのお薬が効くかを調べるのは容易ではありません。しらみつぶしのようなアプローチが必要です。 今、この第二の方法を用いて「進行性骨化性線維異形成症(しんこうせい こつかせいせんい いけいせいしょう、Fibrodysplasia Ossificans Progressiva:FOPと略)」という神経難病の発症抑制薬が見つかり、臨床治験が始まりました。 FOPの患者さんは10代で発症し、筋肉が骨に置き換わっていきます。日本では80人の方が、この病気で苦しんでいます。筋肉が骨に置き換わり、動けなくなる、そういう病気です。 このFOP発症を抑制する、あるいは発症しても病気の進行を遅らせるお薬がiPS細胞を用いて探索されていました。7,000種もの化合物が試験され、ついにFOP発症を抑制するかもしれないお薬が発見されました。それがあの「シロリムス」です。再びシロリムスが脚光を浴びることになりました。 2017年8月1日京都大学iPS細胞研究所から、その発見の詳細が公表されました。 FOPにおける骨化を抑える方法の発見です。 http://www.cira.kyoto-u.ac.jp/j/pressrelease/news/170801-091500.html 同日「iPS創薬に向けた世界初の治験を開始が京都大学から発表されています。 http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research/events_news/department/hospital/news/2017/170801_1.html 2017年10月5日から、実際に患者さんへのシロリムスの投与が開始されました。 https://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00372573.html シロリムスが実際にFOPの進行を遅らせることができるかどうかの判定には、まだ長い年月が必要だとは思います。これまで神経系の難病治療は不可能とされてきました。シロリムスがFOPの進行を抑えることができれば間違いなく医学の歴史に残ります。 山中伸弥先生がiPS細胞の作り方を発見し、イースター島の土から見つかった放線菌がシロリムスを分泌することを発見していたことがこうした「創薬」に繋がったのですね。シロリムスがFOPに効くなら(ぜひ効いて欲しいです)、シロリムスには新たな薬効が増えることになります。前述のように不老長寿薬になる可能性もあります。ほかにも薬効が見つかるかもしれません。 このように、ひとつのお薬にまったく違う薬効が見つかるのはとても興味深い話です。 私は、シロリムス発見の源であるイースター島へ行ってみたくなりました。 【参考文献】 Harrison DE, et al. Rapamycin fed late in life extends lifespan in genetically heterogeneous mice. Nature. 2009;460(7253):392-395. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2786175/ Fok WCet al. Mice fed rapamycin have an increase in lifespan associated with major changes in the liver transcriptome.PLoS One. 2014 Jan 7;9(1):e83988. doi: 10.1371/journal.pone.0083988. eCollection 2014. Bitto, Alessandro, et al. "Transient rapamycin treatment can increase lifespan and healthspan in middle-aged mice." Elife 5 (2016): e16351 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/08/27 今から90年前、ニュージーランド ラガーマンの身体測定が日本で行われていた! 2019年9月に日本でラグビーのワールドカップが開催されます。 前回ワールドカップの優勝国はニュージーランドです。チームの愛称が「オールブラックス」です。ユニフォームが黒いからですね。そのオールブラックスに準決勝で、わずか2点差で負けたのが南アフリカです。その南アは3位にもなっています。日本はその南アに予選リーグ勝ったのですから、3位の上、2位の下と言っても良いくらいです(言い過ぎかな)。 これまでに8回、ラグビーワールドカップが開催されていますが、優勝回数を見てみましょう。 優勝3回:ニュージーランド 優勝2回:オーストラリア、南アフリカ 優勝1回:イングランド です。ニュージーランド(=オールブラックス)は強いですね。 ちなみに 他のチームの愛称には以下の様なモノがあります(愛称が無いチームもあります)。 南アフリカは「スプリングボック」(鹿みたいな動物) オーストラリアは「ワラビーズ」(小さなカンガルーのような動物) 日本は「ブレイブブロッサムズ」(勇敢な桜戦士) フランスは「レ・ブルー(Le Blue)」(青いユニフォームに由来) イングランドには、「サクソンズ(Saxons)」(アングロサクソン民族に由来) ウェールズには「レッド・ドラゴンズ」(国旗に書かれたドラゴンに由来) など。 図1:New Zealand大學「ラグビー」選手身體檢査成績 図1は昭和11年(1936年)に書かれた論文です。「New Zealand大學「ラグビー」選手身體檢査成績」という題です。 実はこの論文は再刊行されたモノです。論文が復刊されるなど、とても稀なことです。その経緯です。 昭和62年ニュージーランドオールブラックスが初来日して、日本代表と試合を行いました。当時、この論文の著者である木村潔先生が92歳でご存命でした。そして、この論文(別に英語版もあります)を、日本ラグビー協会に届けてくれたのです。英語版はニュージーランドラグビー協会の方に届けられました。 この論文が掲載されたのは「北野病院業績報告第二巻」です。北野病院は、大阪の実業家「田附政次郎(たづけ まさじろう)」氏が、「京都大学医学部の研究の為に拠出した基金」で建てられた病院で、今でもさまざまな研究部門があることで有名な病院です。 そういう研究心にあふれた病院に勤務していた若き木村先生はレントゲンや心電図なども駆使して、この論文を書いています。当時の大阪の新聞(文献2)には「ランニングやラグビーその他の名選手として知られた木村潔君(木村廉教授の弟)」との記載がありますから、ラグビーも学生時代にやっていたのでしょう(文献3)。 本論文を読んだ日本ラグビー協会医務委員の方が中心となって、本論文を再刊し、全国のラグビーに関係する医療関係者に配ったのです。私も当時、関東ラグビー協会の医務委員をしていたので、一部いただきました。少し内容を紹介しましょう。 この論文には、昭和11年にニュージーランドから、ラグビーの試合をするために遠征してきた大学生の身体所見、レントゲン所見、心電図所見などが書かれています。 図2 例えば、この図2はこの遠征に参加した24名には各選手の名前(!)、年齢、体重、身長、胸囲が記されています。名前が載っています。医学論文に被験者の名前が載っているなど、今なら考えられないですね。 フォワード選手の体重平均が78.1kg。バックスの選手の体重平均が74.6kgです。今なら、日本の強豪高校のラグビーチームの方が大きいでしょう。身長はフォワードが180cm、バックスが177cmです。さすがに大きいですね。胸囲は全員の平均で95cmです。論文中には「日本のラグビーチームも測定して議論したい」と書かれています。 図3 図3には今では、あまり使われていない診断法が書かれています。 アシュナー氏症候(眼を押すと脈がゆっくりになる)の有無とか呼吸性不整脈の有無が「副交感神経が優位になっているかどうかの検査」として行われています。「よく訓練されたスポーツマンではこれらの検査が陽性になると言われているが、実際に検査してみたら、陽性の選手が多かった」と書かれています。 ちょっと面白いのはこのページにある心雑音の有無です。1人だけ心雑音を聴取しています。昭和10年に行われた「竹内氏紀念オープンマラソン」の参加者24名中、7名は心雑音を聴取したのに比べて、ニュージーランド選手は心雑音の聴取率がとても低いと考察しています。 当時、まだペニシリンは開発されていませんので、リウマチ熱の発症も多く、日本ではスポーツ選手でも心雑音を聴取することも多かったのだと思います。 図4:心臓係数 図4には聞き慣れない「心臓係数」という言葉が出てきます。 要するに、レントゲン写真から心臓の大きさを推測しているのです。今ではもちろん使いません。この心臓係数は平均170です。なぜか十種競技は小さく150くらい、一番大きいのはマラソン選手で216などと書かれています。当時、胸部レントゲン写真から、心臓の大きさを推定していたのですね。 図5 図5はそのレントゲン写真です。なんだか、真っ暗でよく解りません。 名前が書いてあるのがおわかり頂けますでしょうか?肺野は皆さんきれいですね。心臓はやや肥大していると思います。 面白いのは心電図です。時間が無くて、全員を撮影できなかったのはまことに遺憾であったと書かれています(心電図記録のことを当時撮影と記述していたことが解ります)。当時、まだ日本にも、世界のどこでも、今のように簡単に計測できる心電図はありませんでした。1回撮影するのに結構時間がかかったのだと思います。それでも10名は記録できています。 まとめが図6です。結構、細かい分析をしています。今でも、こういう分析は結構面倒ですが、木村先生はきちんとした分析をしていると思います。R波が高いが人多いと書かれています。今なら、左室肥大気味と診断できるでしょう。 図6 図7 図7は、その現物です。ここにも名前が記されていますね。結構、きれいに記録されています。 p-p間隔 PQ間隔 QRS間隔 QT間隔 をきちんと計測しています。 今から、90年前の心電図です。これを見られるだけでも、この論文を読む価値があると思います。 以上、紹介してきたように、今から80年前に来日したニュージーランドの大学ラグビー選手の身体計測です。立派な研究です。「スポーツ医学」研究の「さきがけ」のような論文です。 以前も記録することの大切さを記しました。この論文を読んで、その思いを新たにしました。 【参考文献】 木村潔、大岡義秋、藤木正一、澤井観、江口清、松橋昇「New Zealand大學「ラグビー」選手身體檢査成績」 大阪毎日新聞 1931.5.11-1931.7.28(昭和6) 「京大展望/来間恭氏の批判の批判より」 亰都帝國大學新聞 (1928), 89 http://hdl.handle.net/2433/219295 余計な注1: ニュージーランド大学ラグビーの来日はこの1936年から始まり、今も続いています。2015年も5月に来日して、試合をしています。14回目の来日です。今はもちろん飛行機で来ますが、1936年なら船旅で結構大変だったと思います。 余計な注2: このネクタイは、オックスフォード大學ラグビーチームの公式ネクタイです。 1983年オックスブリッジ(オックスフォード大学、ケンブリッジ大学の連合チームをそう称します)が来日して、日本代表と試合をしました。 私は、この試合のドクターを頼まれました。試合終了後にレセプションがあり、そこで知り合ったオックスフォード大学のラディントン選手とバーンズ選手を、試合の無い日に浅草まで案内しました。そのお礼として、帰国する際に彼らが締めていたネクタイをいただいたのです。 ちょっと貴重かもしれません。当時のオックスブリッジに日本代表は負けています。今はもちろん日本代表チームがいくらイギリスとはいえ、大学のチームには負けません。 余計な注3: 今回紹介した論文の最後に「第12回Olympics大会東京ニ決定ノ日脱稿」とありますので、この論文は、昭和11年7月31日に脱稿したことがわかります(同日、ベルリンで開かれていたIOC総会で投票が行われ、1940年に東京でのオリンピック開催が決定しています)。残念な事に、このオリンピックは戦争のために開催されませんでした。 論文にわざわざ「東京ニ決定ノ日脱稿」記していることから、オリンピックが決定した当時の高揚感が感じられます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2018/08/13 ジギタリスが効くことを「世界で初めて」明らかにしたのは誰? ジギタリスというお薬(何回も書きますが、「ジギタリスという植物の葉っぱから得られた薬」です)は、イギリス人医師ウィザリングが、1785年に「An Account of the Foxglove and Some of its Medical Uses: With Practical Remarks on Dropsy and other Diseases.」という本を出版して(参考文献 1)、「Dropsy:=水腫、浮腫、身体のむくみ」という病気にジギタリスが効くことを「世界で初めて」明らかにしたのです。 しかし、ウィザリング医師がこの本を出版する直前に、別の人も「ジギタリスがDropsyに効くことを書いた論文を発表していました。「種の起源」で有名なダーウィン(Charles Robert Darwin:1809-1882)の祖父エラズマス・ダーウィン(Erasmus Darwin, 1731- 1802)です。エラズマス・ダーウィンは1785年1月14日に、「ジギタリスがDropsy(水腫)に効く」という論文を書いて、発表したのです。一方、ウィザリング医師が本を出版したのは1785年7月のことです。 図1:ウィザリング医師の書いたジギタリスに関する本の初版にある出版年 前回、少し触れましたが、ウィザリング医師に水腫の患者さんを紹介した医師の一人がエラズマス・ダーウィン医師でした。ウィザリング医師がジギタリスを用いてDropsy(水腫)に効くのを横目で見ていたエラズマス・ダーウィン医師は、ウィザリング医師よりも先に論文を書いたのです。 "An Account of the Successful Use of Foxglove in Some Dropsies and in Pulmonary Consumption " という論文です(参考文献 2)。 しかもその論文にはウィザリング医師のことはどこにも書いてありません。自分(エラズマス・ダーウィン)が「ジギタリスという植物が水腫の治療薬となりうる」ことを最初に発見したと主張しているのです。 しかし、当時すでにウィザリング医師が「ジギタリスという植物を用いてDropsy(水腫)の治療をしていること」は有名でしたので、「ジギタリス発見」の功績はウィザリング医師に与えられます。ウィザリング医師はその功績により、英国の王立協会、リンネ協会の会員にも選出されます。一方、エラズマス・ダーウィン医師には「優先権を盗もうとした」不名誉な記録が残ってしまったのです。 投与量が多いと副作用が生じ、中毒で亡くなることも…「効くけれど厄介」な薬 それはともかく、当時、ジギタリスという植物の葉っぱを乾燥させて粉末にして飲ませれば、Dropsy(水腫)に効くことだけは解りましたが、その使い方はよくわかっていませんでした。つまり用法や用量が解らないのです。前々回で「猫単位」を紹介しましたが、それはジギタリスの効力判定(力価判定)のためでした。効く量、効く葉っぱがわからなかったから「猫」を利用してジギタリスの効果判定を行ったのです。 投与量が多すぎると副作用が生じ、胸焼け、嘔吐、下痢などの消化器症状に加えて、目の異常も生じます。視力障害(光がないのにチラチラ周りが光って見える・視野が黄色く見える(黄視症:後述の余話を参照))、複視(モノが二重に見える)、不整脈も生じます。重いジギタリス中毒でお亡くなりになることもあります(参考文献3など)。 つまり、ジギタリスは「効くけれど厄介」な薬だったのです。 現在、「ジギタリス葉末」は使われていません。化学合成した「ジゴキシン」というお薬が使われています。ジギタリス投与中はそのジギタリスの血中濃度を測定することが簡単にできます。心電図、血中濃度、身体所見を見て投与すればジギタリス中毒はほとんど生じません。良い時代です。 ジギタリスは今、観賞用植物になっていると記しましたが、一部野生化して野原にも生えています。それを間違って食べると、ジギタリス中毒を生じます。 厚生労働省が発表している「ジギタリス中毒例」を紹介します。 「症例:200○年4月富山県:コンフリー(注:一時健康食品として流行しましたが、今は食品として摂取するのは禁止されています)と間違えてジギタリスの葉6枚をミキサーにかけて飲んだ8時間後に悪心・嘔吐が出現したため、近医を受診し、心臓の刺激伝導系の房室結節の機能が低下した状態であったため、体外式ペースメーカー植え込み術で対処した。 また、悪心、嘔吐のため食欲が全く無かったので点滴で全身管理を行った。翌日娘さんから話を聞き、ジギタリス中毒と診断した。第5病日から食欲が回復し、第12病日にようやく房室ブロックが改善しペースメーカーをはずした。入院日の血中ジギトキシン濃度は、81.6ng/ml、翌日は 72.8ng/ml 第7病日でも 35.0ng/ml と高値を示した。」 出典:厚生労働省「自然毒のリスクプロファイル:高等植物:ジギタリス」 とあります(注:治療域は一桁ですから、10倍以上)。 このようなことは、ウィザリング医師がジギタリスという植物を治療に使い始めた当時、普通に見られたと思います。 心臓病に関する大きな発見により「猫単位」は不要に さて、話は変わります。Dropsy(水腫)は全身がむくむ病気です。 ウィザリング医師がDropsy(水腫)の治療にジギタリスを使用し始めた当時、Dropsy(水腫)の原因は不明でした。 今でこそ、浮腫の原因はたくさんあることが解っています。列挙します。全身性浮腫と局所性浮腫(体の一部が浮腫む場合)の2通りあります。 A. 全身性の浮腫の原因 心原性浮腫:心臓が原因 腎性浮腫:腎機能低下による 内分泌性浮腫:甲状腺機能低下症などによる 肝性浮腫:肝機能障害の末期に生じる 栄養障害性浮腫:ビタミンB1欠乏(=脚気)や低栄養など 薬剤性浮腫:お薬が原因でむくみが生じることがある B.局所性浮腫の原因 血管性浮腫:静脈瘤などが原因 クインケ浮腫:唇や眼瞼が腫れる 炎症性浮腫:けが、やけど、リウマチ 麻痺性浮腫:脳梗塞などで動けなくなる部位が生じるとその部がむくむ 以上、さまざまな原因で体がむくみます。 ウィザリング医師の時代には、こういうことが全く解っていなかったのです。今、お示ししたように「浮腫=水腫」はさまざまです。このなかでもジギタリスが効くのはたった一つです。そうです、「心原性浮腫」にしか効きません。そもそも「水腫」の原因がわからなかったので、Dropsy(水腫)があると「ジギタリス」が投与されていたのです。効く人は心臓に原因があるDropsy(水腫)だけでした。今から思うと、ひどい話です。 その後、心臓病学が発達します。大きい出来事が4つあります。 聴診器の発明: 1816年にフランス人医師ラエネックが発明します。聴診器により、心雑音、呼吸音がわかり、心臓病学が飛躍的に発展します。 X線の発見: 1895年ドイツ人医師レントゲンが発見します。全身がむくむような心臓病の患者さんは心臓が大きい(心肥大)ことが解りました。 心電図の発明: オランダ人医師、アイントホーフェンが1903年に発表、発明しています。 心臓の刺激伝導系の発見: 1906年、日本人医師「田原淳:たわらすなお」により、心臓には電気を伝達する「刺激伝導系(しげきでんどうけい)」があることが示されました。 このような心臓病に関する大きな発見、発明があり、「心臓病が進行してくるとDropsy(水腫)を生じること」がわかるようになりました。英国、フランス、ドイツ、オランダの医師に交じって日本の田原淳先生の大発見も貢献しているのが少し誇らしいですね(田原先生のことは以前にも紹介しました)。 1.の「聴診器の発明」により、弁膜症や心臓に孔が開いている病気、心不全の時の心臓の音が解るようになりました。心不全の時には、呼吸の音も変わります。今でも聴診器は役に立っています。 2.の「X線の発見」は、医学の歴史上の大発見です。心不全になると、(1)心臓が大きくなること、(2)肺に水がたまることが解りました。 3.4.の「心電図と刺激伝導系の発見」が相まって、(1)心臓がどのように動くのか、(2)心臓のはたらきが悪くなると心電図はどう変化するか、なども詳細に解ってきたのです。心電図でジギタリスの効果判定もできるようになりました。 具体的に言うと、ジギタリスを服用すると、心電図に以下のような変化が現れるのです。 (1)ST盆状降下 (2)PQ時間延長 (3)QT時間短縮 図2:ジキリタスによる心電図の変化 ジギタリス投与中の患者さんの心電図にこういう特徴が現れたら、それは「ジギタリスが効いている」証拠なのです。ジギタリスは中毒量になると、房室ブロック、脚ブロックなどを生じます。そういう所見が出たらジギタリス投与は中止です。心電図のお蔭で、ジギタリスの効果判定が容易になり、どうやら「猫単位」は不要になりました。 つまり、以上のような研究が進み、「心臓が原因以外のDropsy(水腫)にはジギタリスは効かない」ことが解り、随分と治療が変わりました。 ジギタリスの葉っぱのうち、何が効いているのか? 一方、ジギタリスの葉っぱのうち、何が効いているのかの研究も進みます。それを発見したのはフランスの薬理学者ナティベユ(Claude Adolphe Nativelle)です。 彼はジギタリスの葉っぱから、純粋な活性成分の結晶の分離に成功します。この成分はジギトキシン(digitoxin)と名付けられます。このdigitoxinはウィザリング医師が用いた「キツネノテブクロ、英語=foxgloveラテン名=Digitalis purpurea」の葉っぱから抽出されました。しかし現在、ジギトキシンは使用されていません。ジギトキシンよりも作用が強いジゴキシンが発見されたからです。ジゴキシンは「ケジギタリス:woolly foxglove:Digitalis lanata」というジギタリスの近縁種から見つかった成分です。ケジギタリスの「ケ」は「毛」です。綿毛が茎や花より目立つので「毛」がついています。 写真:ケジギタリス Digitalis lanata確かに花の周りに綿毛が見えます ジギトキシンは、日本では2005年から販売が中止されていて、日本薬局方からも消失しそうです。 現在、日本で使用できるジギタリス製剤は「ケジギタリス」から抽出されたジゴキシンとメチルジゴキシンの2種類だけです。ところが、ジギトキシンが手に入らなくなったことで、ジギタリス中毒が一時増えました。背景は、次の通りです。 「使用できるジゴキシン」は、腎臓から排泄されます。一方、「(廃止された)ジギトキシン」は、肝臓で代謝されます。腎機能が悪い方には「ジギトキシン」投与が一般的でしたが、ジギトキシンが販売中止となり、腎機能が悪い方にもジゴキシンが投与された結果、ジゴキシン中毒になる方が多発したのです。腎機能が低下している患者さんに対するジゴキシン投与には注意が必要です(用量を抑えて、血中濃度を測定しながら投与すれば中毒が生じることは稀です)。 ジギタリスが心不全患者さんに効くかどうかという研究は、今でも継続されています。古くて新しい課題です。 なかでも有名なのが、1991年から3年をかけて北米で行われた「Digitalis Investigation Group Trail(DIG traial)」という研究です。心不全治療にジギタリスを使った群と使わない群で比較しています。その結果、全死亡率と心臓血管病による死亡率では両群で差は無く、入院率、症状の悪化はジゴキシン投与群で良好でした。 つまり死亡率に差は無くても、少なくともQOLはジゴキシンで改善しそうです。また、この研究ではそれまでの常識が覆るような大発見がありました。「ジゴキシンの血中濃度が、たとえ治療域に入っていても、高いほど死亡率が高いこと」が解ったのです。治療域のジゴキシン血中濃度は0.5-2.0ng/mlとされています。2.0ng/mlを越えるとジギタリス中毒症状が出る恐れがあります。この「DIG traial」で解った血中ジゴキシン濃度と死亡率の関係を示します。 血中濃度 死亡率 1. 0.5~0.8ng/mL 29.9% 2. 0.9~1.1ng/mL 38.8% 3. 1.2ng/mL以上 48.0% 血中濃度が高かった群ほど、死亡率が高かったのです。衝撃的な結果でした。 この研究が行われるまでは、治療域(0.8-2.0)で血中濃度が高い方が治療の成績が良いと思われていました。私も、そう教わっていました。このDIG traial以降、ジギタリスは「低容量の方が、治療成績は良い」という研究結果が多数出ています。ですから私も、ジゴキシンを投与するときは、ジゴキシン血中濃度が 0.5-0.8ng/ml になるようにジゴキシンの投与量を調整しています。 ここまでくるのに、ウィザリング医師の発見から、200年もかかっています。ジギタリスの薬理作用の本体が解ったのが2002年のことです。 お薬のことは、簡単ではありませんね。なお、心不全治療の第一選択は、β-ブロッカーAce阻害薬、ARB、抗アルドステロン剤です。進行してくるとジゴキシンも使います。 猫単位から始まり、ジギタリスの発見とその歴史について3回に渡ってお伝えしてきました。 如何だったでしょうか? 「ジギタリス」は、お薬を考えるのにとても良い材料だと思います。 【参考文献】 Withering, William (1785). An Account of the Foxglove and Some of its Medical Uses: With Practical Remarks on Dropsy and other Diseases. デジタル化されているので下記で読めます。 http://www.gutenberg.org/ebooks/24886?msg=welcome_stranger https://archive.org/stream/mobot31753000722048#page/n11/mode/2up Erasmus Darwin, M. D.:「Account of the Successful Use of Foxglove in Some Dropsies and in Pulmonary Consumption.」 Medical Transactions, Volume 3, 1785, published by the College of Physicians, London. Transaction XVI, pp 255-286 郭 文治ら「ジギタリス葉を誤って食し, ジギタリス中毒となった1例」1993年 42巻 4号 p.983-988 この論文に載っている方は治療の甲斐なく、心室細動でお亡くなりになっています。 余話1: 「ジギタリス中毒」にかかると、回りが黄色く見えるようになります。黄視症と言います。 ゴッホの絵は、黄色が多用されています。そこから、ゴッホは「ジギタリス中毒」だったのではないか?という説を唱える人もいます(Medical Practice vol.22 no6 2005 1009―など)。ゴッホは「てんかん」を患っていました。ゴッホが生きた時代「てんかん治療」にジギタリスが使われていたのです。また、ゴッホの主治医だったガッシュ博士はジギタリス治療を得意としていたので、こういう説が出るのですね。ですから、ゴッホはジギタリス中毒となり、黄視症を患い、周りが皆黄色く見えたのでという話です。 確かにお話としては、面白いですが、ゴッホがジギタリスを服用していたという証拠は残っていません。ガッシュ博士が書いたゴッホの処方箋でも、発見されたら面白いですね。 余話2: ジギタリス中毒は時に死に至ることもあります。「毒薬」としても使われたことがあるのでしょう。色々な小説や映画で「ジギタリスを用いての殺人、自殺」が描かれています。 ネタバレになるので、ジギタリスが「毒」として使われた小説と映画を1個ずつ挙げておきます。 1.アガサクリスティ「死との約束」 2.007 カジノ・ロワイヤル 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2018/07/30 「猫単位」という特殊な単位を考案してまで使われるようになった「ジギタリス」 前回より続きます。前回は、主にジギタリスというお薬についての効力(力価)の評価に猫が使われたという話でした。なぜ、猫だったのでしょうね。猫単位を考えたエグルストン医師は英国人です。紳士の国は犬を大事にするからでしょうか? 猫以外にも、ジギタリスの力価判定には蛙、鳩などが使われていました(文献3)。このように動物を使ってのお薬の効力判定(=力価判定)は「動物単位」と言われていました。今、ほとんど使われていません。 話は変わりますが、今、ジェネリック医薬品が使われています。ジェネリック医薬品は、お薬の本質となる成分は一緒ですが、添加物、製造方法はさまざまです。それゆえに、多少効き目が違うジェネリック医薬品があるのかもしれません。公的には先発品とジェネリック医薬品との間に効力差は無いことになっています。しかし、先発品でないと効かないと仰る患者さんがいます。差があると仰る患者さんは先発品との「違いが解る」センサーがあるのかもしれません。「動物単位」に通じるかもしれません。 前置きが長くなりましたが、今回の主題は「猫単位」という特殊な単位を考案してまで使われるようになった「ジギタリス」というお薬の話です。 「ジギタリス」は「キツネノテブクロ、英語=foxglove、ラテン名=Digitalis purpurea」という植物の葉っぱから作られます。キツネノテブクロは元々日本には無い外来植物です。明治12年(1879年)に、強心薬の原料として使われるために渡来しました。そのキツネノテブクロの葉は、「ジギタリス」という薬名で、日本薬局方第一版(明治19年)に収載されています。 なお、キツネノテブクロは、花がきれいなので、今はもっぱら園芸鑑賞のために育てられています。キツネノテブクロは、植物の中では少し珍しい二年草です。種をまいて、二年目に花が咲き、咲いたら枯れます。 写真1:園芸用のジギタリス各種 さまざまな色の花がありきれいですね。 注:(1)学名:Digitalis purpurea (2)英名:Foxglove、digitalis (3)和名:キツネノテブクロ(狐の手袋) 和名は英名からの翻訳 話を戻します。「ジギタリス」は心不全、不整脈、心不全に伴う足の浮腫の治療薬です。1785年頃から英国で「水腫治療薬」として使われるようになりました。「水腫」とは聞き慣れないですね。今なら、「浮腫」「むくみ」と呼称されるほうが普通でしょう。「水腫」の原因はさまざまですが、ジギタリスが効くのは「心不全が原因の水腫」です。心不全が進行すると水腫が生じます。ひどい水腫が生じるのは心不全の末期です。そのため、当時の「水腫」は死に直結する病(やまい)でした。次回詳述しますが、心臓病のことは当時ほとんど解明されていませんでした。足に「水腫」が出ると程なく死んでしまうのが普通でした。足の水腫がなぜ死に直結するか、全く解らなかったのです。そんな怖い病気だったのです。 そんな中、英国の医師ウィリアム・ウィザリング(William、Withering:1741-1799)はある発見をします。1775年頃、ウィザリング医師は「水腫を患った患者さん」を診察しました。それから1年が経ってもその患者さんは元気にしていました。それを見て「なぜだ?」と思ったのです。繰り返しになりますが、当時「水腫」を発症するとほどなく死んでしまうのが普通のことだったのです。 ウィザリング医師はこの患者さんから色々と話を聞き出します。そしてあることに気づきました。この患者さんはある秘薬を服用していました。イギリス西部のシュロップシャー州の老婆がさまざまな植物を用いて作った「秘薬」でした。この「秘薬」で「水腫」の治療をしていることを聞いたウィザリングは、(ここが偉いのですが!)この老婆の元を訪れて、「秘薬」ついて教えを請います。歴史に名を残すような人はこのあたりが違うのだと思います。 ウィザリング医師はこの老婆が用いている植物のうち「ジギタリス」の葉っぱが一番効きそうだとあたりをつけます。ウィザリングは植物に造詣の深い医師でした。医学史にはあまり書かれていないのですが、ウィザリングは一流の植物学者でした。ウィザリングはエディンバラ大学の出身ですが、その大学の先輩に医師で植物学者だったリチャード・パルトニー(Richard Pulteney、1730-1801)がいます。パルトニーは後年、スウェーデンの植物学者カール・フォン・リンネの著作を紹介した、「A general view of the writings of Linnaeus」(1781年)を著したくらい著名な植物学者です。ウィザリングは、多分、そのパルトニー医師の影響も受けていたので、医師として開業する傍ら、植物の研究をしていたのです。そして、ウィザリング医師も1776年に、 「A Botanical Arrangement of All the Vegetables Naturally Growing in Great Britain: With Descriptions of the Genera and Species, According to the System of the Celebrated Linnaeus. Being an Attempt to Render Them Familiar to Those who are Unacquainted with the Learned Languages. vol 1.2.」 という本を著します。「英国における植物研究の総説及び英国産植物の分類」に関する解説本ですね。この本は植物の分類を世界で初めて行ったリンネの分類法に沿って「英語」で書いています。 わざわざ英語と書いたのは、リンネの書いた「Species plantarum:植物の種誌」という植物分類の本はラテン語で書かれていたので、普通の英国人には読めなかったのです。要するにそのリンネの分類法に基づいた植物研究のことや英国の植物をリンネ流に分類した本をウィザリング医師は、英語で、書いたのです。 この本はベストセラーになり、版を重ねます。それくらいウィザリングは「植物」に精通していたのですね。この本には、もちろん「ジギタリス」も載っています。 話は戻ります。 無名の老婆の秘薬からヒントを得て「ジギタリスが水腫に効く」と思いつき研究すること10年。ウィザリング医師は1785年に「An Account of the Foxglove and Some of its Medical Uses: With Practical Remarks on Dropsy and other Diseases. (Published by M. Swinney for G. G. J. & J. Robinson)」という本を出版します(写真2、文献4)。 写真2:初版本の写真 日本語にするなら「キツネノテブクロという薬草の持つ幾つかの医学的効能の重要性」でしょうか。初版本は、心臓病治療の歴史に残る本ですから、高級外車1台分くらいの額で取引されています。私も持っていますが、それは複製本で2,000円くらいです(笑)。この本は、ウィザリング医師が「ジギタリス」を用いて治療した163名の患者さんについて書かれています(余話4参考)。 もとより、ジギタリスという植物の何が効いているのか?全く解っていない頃の話です。ウィザリング医師はジギタリスのどの部分に「水腫」を治す力があるのか研究しています。花なのか?茎なのか?根なのか? 葉っぱなのか?を検討しています。そして葉っぱに水腫を治す効力があることを確かめます。同時に、どの時期の葉っぱをどのように使えばいいのかも記しています。当時すでに、ジギタリスを投与すると、嘔吐したり、脈がゆっくりになったりすることが記されています。それはジギタリス中毒の初期症状です。ジギタリスは多すぎると、中毒を起こし、少ないと効かないのです。ある意味とても厄介です。 そこで後年、考案されたのが「猫単位」です(前回をご参照ください)。 ジギタリスには興味深い話がたくさんあります。以下、次回に続きます。 【参考文献】 診療寳典 山田豊(著) 明治堂 大正13年(1924年) DIGITALIS DOSAGE CARY EGGLESTON, M.D. Arch Intern Med (Chic). 1915;XVI(1):1-32 「猫単位」をジギタリスの力価判定に使用するように提案した論文です。 ジギタリス葉並びに強心配糖体の毒力検定法に関する実験 猫,鳩,蛙法による成績の比較 戸木田 菊次, 荒蒔 義知 東京大学医学部薬理学教室 日本薬理学雑誌 Vol. 48 (1952) No. 5 P 309-315 Withering, William (1785). An Account of the Foxglove and Some of its Medical Uses: With Practical Remarks on Dropsy and other Diseases. デジタル化されているので下記で読めます。 http://www.gutenberg.org/ebooks/24886?msg=welcome_stranger digitalisがdigitalで読めるというちょっと高級な「だじゃれ」です(後述の「余話1」を参照されたく…笑)。 世界を変えた薬用植物 ノーマン・テイラー(著) 難波恒雄・難波洋子(翻訳) 創元社(1972年):絶版 良い本です。薬用薬物を考える上で必要な基礎知識を得ることが出来ます。再販または再翻訳出版をしてほしいです。 余話1: ジギタリスは英語では「digitalis」と書きますが、その語源はラテン語の「指 (digitus)」です。前出の「写真1」にあるように、ジギタリスの花が指サックに似ていたことから付けられています。いわゆるデジタルも語源は一緒です。カズを指で数えることから、digitalという言葉ができているのですね。 医学用語に「Digital Examination」という言葉があります。略して「ジギタール」ということが多いのですが、これは直腸診のことです。指を肛門から直腸に入れて、直腸を検査する方法です。医師の基本手技の一つです。直腸診をすると直腸の腫瘍、痔疾、前立腺疾患、腹腔内膿瘍などが診断できます。外科医には必須の手技です。 ゴム手袋をして直腸診を行うのが普通ですが、若かりし日にある病院でとても有名な先生(今も外科の教科書に、ある大腸の病気を分類したことで、必ず紹介される有名な先生です。敢えて名を秘します)の「直腸診」を拝見したことがあります。その先生は、ゴム手袋をしないで直腸診をしていました。びっくりしたので、ゴム手袋をしないで直腸診をする理由を聞いたら、「素手で無いと直腸にある出来物が癌なのか良性のポリープなのか区別できない」と言っていました。「素手で直腸診は、私にはできません」と言ったら笑っていました。偉いヒトは違うのでしょう。 余話2: リンネは植物、動物の分類で有名です。 スウェーデンの学者ですが、リンネの分類学を継いでいるのがロンドンリンネ協会です。現天皇陛下は「魚類学への貢献」により同協会の名誉会員になっています。2007年5月29日、同協会で開催されたリンネ誕生300年記念行事において「リンネと日本の分類学 -生誕300年を記念して-」と題した講演をなさっています。 余話3: リンネはそれまで火星のシンボルマーク(戦いの神、マルスのマーク)だった「♂」マークを「雄:オス」のマークとして使っています。 今はそれが普通のことになっています。某サッカーチームのシンボルマークにもなっています。 余話4: ウィザリングが治療した163名患者さんの中には、進化論で有名なダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィン医師(Erasmus Darwin:1731-1802:内科医です)から紹介された患者さんも入っています。エラズマス・ダーウィン医師は、ジギタリスの発見に関して、とんでもないことをしでかしています。 ジギタリスに水腫を治す効力があるのを発見したのは私だ!という論文を書いて、ウィザリング医師の発見を横取りしようと……詳細は次回に。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2018/07/17 「力価:りきか」という言葉をご存じですか? ※猫好きの方は、お読みにならない方が良いです。 普段、お薬には「有効な成分が一定量含まれていること」が当然だと思って、処方しています。例えば「A」というお薬に「血圧を下げる」という効能があるとします。「血圧を下げる」という効能は、「A」というお薬にきちんと「血圧を下げる成分」が入っていないと発揮できません。 化学合成して作るお薬は、製造会社が違っても、あまり効き目が変わらないということになっているのでジェネリック医薬品が認められています※注。 しかし、それでもジェネリックでは効き目が悪いから、元のお薬に変えてくれという方がいらっしゃいます。もしかしたら、同じ薬(ということになっている)のジェネリック医薬品でも製造過程が違うことがあり得るので、製造方法、製造過程により「効き目」が違うのかもしれません。それは本来あってはいけないことです。 ※注:ジェネリック=generic 元は「一般的な、包括的な」という意味を表す形容詞です。 転じて、特許期間の切れたお薬を他社が同一成分の薬を製造販売する際の薬を指す言葉として使われています。 お薬が、厚生労働省の認可を得て製造販売が許可されるためには、 そのお薬が効くか? 効かないか? 同じ効能を持つ他のお薬比べて「効き目」が上回るか? 効くとしたらその投与量はどれくらいか? 副作用が生じるかどうか? 安全性はどうか? などの検査が必要です。当たり前ですが「効かない」と話は始まりません。効き目が良くて、安全性が高い薬が良い薬です。 皆さんは「力価:りきか」という言葉をご存じでしょうか?「力価」はお薬の効力を表します。化学合成したお薬では、成分が同じであれば効き目はあまり変わりません。しかし、生薬は違います。生薬というと、漢方薬が頭に浮かぶ方も多いと思いますが、それだけではありません。生薬とはブリタニカ大辞典によると、 「薬用にする目的をもって植物、鉱物、動物、昆虫、カビ、細菌などの全体あるいは一部、分泌物などをそのまま、あるいは乾燥またはこれに簡単な加工を施したもの。生薬のなかで大部分を占めるのは植物性生薬であり、医薬品の歴史は生薬で始まった。産地、原料の種別、生長度、湿度、光線などにより有効成分が異なる。」 とあります。カビから生まれたペニシリンは生薬です。「生薬」は数多く使われ、病気の治療に役立っています。 生薬の始原は植物です。野に生えている植物をお薬として、つまり「薬草」として使っていたのが、生薬の起源です。ひとつの植物だけで薬効が認められることもありますし、多くの植物を混合して初めて薬効を発揮することもあります。後者の代表が「漢方薬」です。前者の「一つの植物で効く生薬」は分析が進み、効いている成分(物質)がわかり、その物質を化学合成してお薬が作られています。 以前、ご紹介した長井長義先生が「麻黄という植物」から「エフェドリン」を抽出したのがその代表例です。エフェドリンのように成分がはっきりとして、化学合成もできる場合は効力に差はありません。 しかし、効果を発揮する物質が不明で植物をそのまま使う「植物性生薬」は産地により有効成分が変わります。つまり効き目が違います。同じ植物でも有効成分の入り具合が違うのですね。同じ種類のブドウから作られるワインの出来が産地で違うようなものです。 今回から数回、この「有効成分が変わる」部分にまつわる、とても興味深く、しかも大事なお話をしてみたいと思います。 「猫単位」を元にお薬を投与 こんなエピソードから始めたいと思います。 多くの医師、研究者は色々な学会に所属しています。学会で、自分の研究を発表したり、ほかの研究者の発表を聞いたりして勉強します。遠隔地の学会に参加する時は、折角行くのだから、勉強だけではなくて+αで「何か」をしようと企みます(笑)。ここで色々な個性がでます。 企みetc. 学会会場周囲の観光地などの小旅行をする 水族館、動物園に行く 美味しいモノを食べに行く 美味しいお酒を求めに行く 美術館巡りをする 博物館巡りをする 釣りをしに行く 蝶々を採取する さまざまです。 「お前はどうだ?」と言われれば、1.5.6.+学会開催地の「古本屋」巡りをします。その地方独特の「本」を見つけることができるかもしれないからです。 最近はインターネットでの古書売買が普通になったことや新古書店が全国各地にできたためか、面白い本が見つかることが少なくなりました。しかし、古い大学、学校がある街では、時にとても面白い本に出会うことがあります。 今回紹介する本も、そういう旅(学会+α)で見つけた本の中の一冊です。この本で「植物性生薬の有効成分が変わること」を学びました。この本を読むまでは、そんなことは考えたことがありませんでした。新潟で1992年胸部学会があった時に学会場のすぐそばにあった古本屋で買った本です。 その本の名を【診療寳典(しんりょうほうてん)】と言います。 寳は宝の旧字体です。新字体なら「診療宝典」でしょう。古い本です。大正13年(1924年)に出版されています。100年近く前の本です。宝典は「貴重な書物、大切な本、日常用いて便利な内容の本」という意味ですね。現在なら、「今日の治療指針」と「今日の診断指針」(どちらも医学書院刊)を併せたような本です。大阪の開業医だった山田豊先生が、開業して15年、その間に勉強したことをまとめた本です。 写真1:診療寳典 表紙 写真2:値段 写真3:診療寳典の著者、出版社 次に目次をお示しします(写真4.5)。目次は「いろはにほへと順」になっています。「いろは順」に慣れていないと、とても解りづらいですね。 写真4:診療寳典 目次1 写真5:診療寳典 目次2 目次の一部の紹介です。 最初の項目が「陰萎(=ED)の原因と治療」です。ここだけでも、参考になりそうです(笑)。今も陰萎の治療に使われる「ヨヒンビン」が紹介されています。インスリンの製造方法も面白いです。この本が刊行された1924年当時の日本でどうやってインスリンを作っていたか?興味がわきませんか? ちなみに、インスリンの発見は1922年にかけてです。1923年、インスリンの発見に対してノーベル賞が、フレデリック・バンティングとジョン・ジェームズ・リチャード・マクラウドの二人に授与されています。このインスリン製造方法がすでに1924年の日本で読むことができたのです。実際に作れたかどうかは不明です。 このように目次を見るだけでも楽しめます。新潟からの帰り道に楽しみました。この本は現在、国立国会図書館のデジタルライブラリーに収載されていて誰でも読めます(参考文献1)。この本の価値に気づいたどなたかが、デジタル化して残そうと考えたのだと思います。 さて、その本の中に凄い?項目がありました。私が生薬の有効成分や、お薬の力価などについて考えさせられた項目です。 写真6:診療寳典 ヂギタリスの項 旧字体ですので、読みづらいですね。 項目名は「心臓弁膜症代償機失調患者にヂギタリス製剤の用法」とあります。要するに心臓弁膜症患者さんが心不全に陥った時の「ヂギタリス(=ジギタリス)」の投与法が書いてあります。ジギタリスは強心利尿薬で、今でも普通に使われている薬です。 この項をわかりやすく翻案してみます。 “心臓弁膜症患者さんが心不全に陥った時には注射用のジギタリスは用いない。ジギタリスの粉末を経口投与して治療する。さまざまな投与法があるが、私(山田)が推奨する方法は「エグルストン氏法」である(参考文献2)。エグルストン氏法とは、すなわち、「一猫単位(!)」を用いてジギタリスの投与量を決定する方法である。一猫単位とは「体重1キログラム (瓩)の猫に、ジギタリスを注射し致死量を測定し、ミリグラム (瓱)に換算した値」である。エグルストン氏はこの一猫単位に0.0157とポンド(封度)換算した体重とをかけた値を100で割り、その量を1回の連用の極量として用いる” ~以下略~ つまり、 ジギタリスの投与量の目安=(一猫単位×0.0157×ポンド換算した患者さんの体重)/100 として、ジギタリス粉末の投与量を決めていたのですね。 猫単位の件(くだり)を読んで、思わず笑ってしまいました。要するに、猫さんには誠に申し訳ないのですが、ジギタリス粉末を溶かした液を猫に注射して、その致死量から「一猫単位」を求め、その「猫単位」を元にお薬を投与しているのですね。 なんでこんなに面倒くさいことをするのでしょうか?猫がかわいそうではないか?という声が聞こえてきそうです。でも必要だったのです。 ジギタリスというお薬は、今は化学合成されていますが、一昔前まで「ジギタリスという名前の植物の葉っぱ」から作られていました。その「葉っぱ」の持つお薬としての効力は、産地、日当たり具合、採集時刻、乾燥方法などで違うのです。まったく効力がない葉っぱもあれば、効力が極めて強い葉っぱがあったのです。それはワインの出来が畑により、あるいは日当たりにより、降水量、気温、湿度などにより、違ってしまうのと同じようなことでしょう。 ワインなら、美味い不味いで、済むのですが、ジギタリスは量が多すぎると中毒を生じ、死亡してしまうこともあり得ます。逆に量が少ないと効きません。今は化学合成したジギタリスが使えますが、当時は葉っぱから作られていて、産地によりかなり効き目に違いがあったのです。 参考文献3には、某薬品会社が農家に依頼して栽培していたジギタリスの葉っぱを、その農家の方が間違って大量に食べてしまったけれど、何とも無かった(=つまりジギタリスに有効成分がほとんど含まれていなかった)逸話が紹介されています。それくらいジギタリスには「差」があるのですね。 ジギタリスの葉っぱの効力には、産地や収穫時期などさまざまな要因で、差があったのを、「猫単位」なる概念を案出して薬の効力を標準化しようとしたのですね。診療宝典に載っているくらいですから、日本でもこの方法がある程度は広まっていたのだと思います。 ジギタリスの葉っぱに含まれているさまざまな物質のうち、心不全治療に有効な成分(ジギトキシン)が同定されるまで(1962年)、葉っぱの効力測定には、猫単位のほかにもさまざまな方法が考案されています(次回ご紹介します)。 いずれにせよ、100年以上も前に患者さんに良質な医療を提供するために一生懸命お薬の効力を測定しようとした真面目な人々がいたことに畏怖の念を覚えます。 「猫単位」を思い出す度に、測定のために失われた多くの猫さんの命や、自分が今使っている「安全で安定した量が入っているジギタリス」が作られるまでの長い歴史に思い巡らせていると、柄にも無く少し、しんみりとします。 なお、ジギタリスの葉っぱを用いて作った製剤は「ジギタリス葉末」「ジギタリス末」と呼称され、2001年の第14版日本薬局方まで収載されていました。 次回に続きます。 写真7:ジギタリス開花前の全景 写真8:ジギタリスの花1 写真9:ジギタリスの葉 ジギリタスの葉っぱ、これを乾燥させてお薬とします 写真10:ヂギタリス葉末:トンボ商会 昭和20年以前(内藤記念くすり博物館) ※この写真は同博物館のホームページにあり、同協会、同博物館の許可を得て掲載しています。 【参考文献】 診療寳典 山田(著) 明治堂大正13年(1924年) 国立国会図書館のデジタルライブラリーで読めます。お時間があるときに是非。面白いですよ。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935277 DIGITALIS DOSAGE CARY EGGLESTON, M.D. Arch Intern Med (Chic). 1915;XVI(1):1-32 「エグルストン」が考案した「猫単位」の論文です。お読みになりたい方は連絡ください。電子媒体で供覧できるようにしてあります。 『傷寒論』を講義してみた 桜井謙介(著)(2015年) 元シオノギ製薬で生薬を研究していた方が、生薬とは何かについて書いています。名著ですが、入手は困難(私家版)です。ご興味がある方にはお貸しいたします。 世界を変えた薬用植物 ノーマン・テイラー(著), 難波恒雄 難波洋子(翻訳) 創元社(1972年) 良い本です。薬物を考える上で必要な基礎知識を得ることができます。再販または再翻訳出版をしてほしいです。 まったく関係無い余話: ある本屋さんで本を買うために並んでいたら、私の前に並んでいたのが、タレントというかマラソンランナーやオリンピアンとしても有名な「猫ひろし」さんでした。 レジのお姉さんに「ニャー」と言って笑いをとっていました。カンボジアに行く前のことですから、随分昔のことです。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/07/02 研究者の専門領域さえ変え、世界的ベストセラーを生み出した源泉は、「失恋」「怨念」「執念」? 前回は、今から100年以上前に、日本人植物学者 藤井健次郎と結婚するために来日、しかし藤井にはふられてしまい結婚できなかった英国人女性植物学者 マリー・ストープスがその仕返しとして「Love-letters of a Japanese / edited by G.N. Mortlake」(1911年)という藤井との往復ラブレター集を「偽名」で出版したことを紹介しました。 植物学者、化石学者であったストープスがなぜ、後に「Married Love or Love in Marriage」(1918年)という本を書き、「結婚、性生活、避妊、生殖」を専門とする活動家になったのかの理由の第一は「この成就しなかった恋愛」にあったと思います。マリー・ストープスが藤井健次郎と結婚していたら、世界的ベストセラーとなった「Married Love or Love in Marriage」も書かれなかったでしょう。歴史に“if”は禁物ですが、色々と考えさせられます。 マリー・ストープスが「結婚、性生活、避妊、生殖」の専門家になった理由ですが、ほかにも2つあると思います。 2番目の理由は「銀杏の精子を東京で見て生殖に関する不思議を感じた」からだと思っています。彼女が1910年に出版した「A Journal from Japan」での同書にそれに関する記述があります。 図1:A Journal from Japan:1907/09/17(国会図書館蔵) 図1は彼女が書いた「A Journal from Japan(日本日記)」の1907年9月17日の記載です。1907年9月17日の記載に銀杏の精子がゾウリムシのように動いていることを書いています。9月17日の部分だけ以下に翻訳してみます(注:逐語訳ではないです)。 「いよいよ銀杏の精子が泳ぎ出す。私は、銀杏の精子がゾウリムシと同じように繊毛を動かして動くのをみて、研究室で幸せな数時間を過ごした。それにしても、瑞々しい銀杏の種子を切ってみるのは、なんて楽しいの!」 そしてその一年後、次のような記述が残っています。 図2:A Journal from Japan:1908/09/09 この図2は、1908年9月9日に記されています。銀杏の精子が運動していることを生き生きと書いているのです。図1同様に翻訳してみます。 「朝早く、研究所に行くと銀杏の周りに興奮した人々がいた。丁度、銀杏の精子が動き始めたところだった。銀杏の精子は1年の内で1日か2日しか泳がない。だから精子の動く瞬間を捉えるのは容易ではない。一番良いタイミングでも、100個の銀杏を見てもたったの5個しか精子が入っていないこともある。一個しか見つからなくても感謝しなくてはいけないくらい大変なことなの。一日中、研究室で観察して、3個しか見つからないこともある。未熟な花粉管の中ではいくつか見ることができる。けれど、何よりの楽しみは精子が泳いでいるのを見ることで、繊毛が力強く動いているのを見るのは楽しい。」 要するに、前々回で紹介したように東京帝国大学の画工だった平瀬作五郎が1896年9月9日に「イチョウの精子」を発見、その論文はあっという間に世界中に広まり、世界中の植物学者を驚かしていたのです。その一人がマリー・ストープスだったのです。世界で初めて「精子」が観察されたまさにその「東京帝国大学の銀杏」で「精子」を見られるのですからマリー・ストープスが興奮するのもわかります。銀杏の生殖を見て、「生殖」について考えるところがあったのでしょう。それが、後年の「結婚愛」に結びついたと思います。それが、マリー・ストープスが「生殖」の専門家になった理由の2番目だと思っています。 第3の理由は、「ストープスの最初の結婚の失敗に起因」すると思います。 前述のごとく、1911年にマリー・ストープスはゲイツさんと最初の結婚をします。しかし二人の間には子供ができませんでした。妊娠しないことを不審(?)に思ったマリー・ストープスは「大英博物館」に数ヵ月通って、本格的に人間の生殖、妊娠について研究し、夫が「性的不能」であると結論づけます。そして、彼女は1914年にそれを理由に離婚訴訟をおこします。ゲイツさんは、結婚して直ぐに前恋人とのラブレター集を出版した本を読んで、それが原因で「性的不能」になっていたのではないでしょうか? ゲイツさんは、後に別人と再婚して、子供にも恵まれているので「性的不能」は一時的なモノだったのでしょう。 ストープスはゲイツとの離婚後の1918年に実業家で航空機製造業者のHumphrey Verdon Roe(ハンフリー・ヴァードン・ロー)と再婚します。 新しいご主人はストープスが「Married Love or1 Love in Marriage」を出版する際、経済的に援助しました。そして再婚の年に同書を出版、たちまち世界的ベストセラーになります。その後ストープスは「結婚、性生活、避妊、生殖の専門家」として世界的に大活躍したのです。 「藤井健次郎との恋」と「東京帝国大学での精子の発見」がマリー・ストープスを東京に呼び寄せ、そこから世紀を代表する著作が生まれたとも言えます。そう思うと、マリー・ストープスが少し身近に思えます。 余談: 下図はマリー・ストープスを「ふった」藤井健次郎が発見した、銀杏の葉っぱに直接銀杏の実がなる「オハツキイチョウ」の写真です。イチョウの葉に実が付いている変わったイチョウです。世界的にもとても珍しい植物です。山梨県の身延町にあります。 図3:オハツキイチョウ 【注と参考文献】 マリー・ストープスの日本滞在記には細菌学者ロベルト・コッホ(1843-1910)と会ったことも書かれています。 「細菌学で世界的に有名なコッホが東京の私たちの施設に来た。藤井教授は、病気治療のために山に籠もっていたはずなのに、この時だけは山から下りてきた。コッホは太って愛嬌があった。だけどあんまり知的には見えなかった。私の顕微鏡にセットしてあった植物化石の代わりに銀杏の精子を見せた。植物化石にも興味を持っていた。日本人の記者はコッホの一挙手一投足を書いている。もしコッホが富士山の頂上に登ったら、頂上まで電話を持って行って記事を書いてやるぞ!そう思うくらいの執念で記事を書いている。」 Marie Stopes Collection [Marie Stopes:1880-1958] というマリー・ストープスに関するコレクションが何故か日本で売りに出されています。マリー・ストープス研究者の遺品なのでしょうか? 生殖の政治学 荻野美穂(著) 山川出版 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/06/18 100年前の恋愛暴露本 前回、「Married Love or Love in Marriage」(1918年刊)という本を書いて世界的人気作家となったマリー・ストープス(Marie Carmichael Stopes:1880-1958)のことを紹介しました。この本は結婚における「性教育」の本です。著者のマリー・ストープスは植物化石の研究者でした。「結婚」「愛」「家族計画」「性」などの研究をしていたわけではありません。化石を研究していた学者が、なぜ急に過激な性的表現もある本を書くようになったか謎でした。前回もお伝えしましたが、マリー・ストープスは日本に留学していたことがあります。留学先は東京帝国大学農学部です。そこに、この謎を解く鍵が二つあったと思います。 ここで簡単にマリー・ストープスの経歴を紹介しましょう。 1880年に英国エジンバラで生まれ、ロンドンで育ち、University College London に進学し植物学と地質学、地理学の学位を得ています。同大学出身者にはダーウィン、ガンジー、ネルソン・マンデラ、伊藤博文などがいます。ノーベル賞受賞者も29名います。そういう一流の大学で学び、植物の化石研究で有名になりドイツのミュンヘンにある「植物学研究所」に留学、1904年自然科学の博士号を取得します。 このミュンヘンの植物学研究所で日本から留学していた植物学者の「藤井健次郎」に出会います。この出会いが彼女の生涯に影響を及ぼすことになります。マリー・ストープスと藤井は1903年にミュンヘンで出会い、恋に落ちたのです。当時ストープス23歳、藤井37歳です。 1905年、二人は密かに婚約します。婚約をした二人ですが、一旦、お互いの母国に帰国をします。 1907年、マリー・ストープスは英国王立協会から助成金を得て「日本国北海道での化石研究」を目的に来日しています。彼女は単身で日本に来て、東京帝国大学農学部に籍を置き「北海道での白亜紀の被子植物探索調査」を行います。今から100年以上前の北海道で白亜紀の植物化石を採集し研究したのです。当時、若い英国人女性が北海道に赴いて化石の調査をするのはとても大変なことだったと思います。彼女にはかなりの護衛が付いたと記録されています。 北海道だけでなく日本各地も旅行してその紀行文を「A Journal from Japan:日本滞在記」(1910年刊:参考文献1)としてまとめています。また日本文化とりわけ「能」に魅せられ、「Plays of Old Japan: The‘No’」(1913年刊:参考文献2)を出版、「能」を世界で初めて英語で紹介しています。 本業もきちんとこなしています。北海道での植物化石研究を110頁に亘る報告書にまとめています。これは藤井との共著です(参考文献3)。 100年も前に勇敢にも一人で日本に留学し、きちんと科学研究を行いつつ、日本各地を旅行してその見聞を旅行記に書き、「能」という少し特殊な日本文化に関する本まで著すという多芸、多能、異能の女性でした。 しかし、彼女の来日の「真の目的」は植物化石の研究では無く藤井との結婚にあったのです。英国王立協会が「彼女の来日の真の目的」を知ったら驚き呆れたと思います。結婚を約した二人ですが、彼女の来日前から藤井の態度は一変し結婚は成就しませんでした。傷心のマリー・ストープスは1908年に離日しました。ここから、少し怖い話になります。この二人の恋の顛末は、後年、世界中に知れ渡ったのです。マリー・ストープスは藤井健次郎を、決して、許さなかったのです。 その証拠ともいうべき本を紹介しましょう。 写真1:「マリー・ストープスが書いた」ラブレター集国会図書館蔵(参考文献4) 題名が「Love-letters of a Japanese」です。著者は Kenrio Watanabe、編集は G.N.Mortlake とあります。1911年刊行、ロンドンで出版された本です。350頁もある大部の本です。英文タイトルの下に「一日本人の艶書(えんしょ)」と日本語で縦書きで書いてあります。この本は国会図書館に行けば見ることができます。 この本の序文に、この本の内容が書かれています。本書は、 「日本人の Mr.Kenrio Watanabeと英国人 のMs.Mertyl Meredithとの間で交わされたラブレター集」であること 日本からの芸術文化の研究のためにウィーンに留学していた日本人のMr.Watanabeと同じく芸術文化研究のためにウィーンに滞在していた英国人女性Ms.Meredithとが同地で出会い、多数のラブレターを交わす関係になったこと。その二人でやりとりしたラブレターが本書に載っていること 二人が出会った当時Mr.Watanabeは既婚者だったが日本帰国後に離婚し、二人は日本で結婚する予定だったこと Ms.Meredithは、ロンドンから日本に留学したが、 Mr.Watanabeに冷たくされて、結婚できなかったこと などが書かれているとあります。 Mr.Watanabeは、 「自分は感染性のある病気に罹っているから結婚は無理だ」 「欧州人と日本人では “LOVE” に対する違いがあるからから諦めて欲しい」 と言ったと書かれています。本書を読んでいると 英国人女性のMs. Meredith が日本に来ると決まった時点で、Mr.Watanabeは、びっくりして戸惑っている様子がラブレターの内容から読み取れます。 「あれっ?」と思いませんか。誰かと境遇が似ていると思いませんか?実は、この本の「真の著者」はマリー・ストープスだったのです。Mr.Kenrio Watanabe が書いて G.N. Mortlake が編集したと書いてありますがどちらも偽名です。本名でこんな本を書けば、ストープスが「日本に行った本当の目的」が母国の人間に解ってしまいますからデタラメな名前をでっち上げてこの本を出版したのです。ラブレターの日付は書いてありますが、何年に書かれたかは記載がありません。巧妙にカムフラージュしています。なお、このラブレター集の中でMs.Meredith は、 “ロンドンで日本人の Baron Tに会い、日本に行くことを話した。Baron T はとても親切だった” と書いています。 もしかしたら、このT男爵は東京慈恵会医科大学の創始者の高木兼先生かもしれません。マリー・ストープスが日本に来る前年の1906年、高木男爵はロンドンで「脚気の治療」に関する講演をしていますので彼女が高木男爵に会って訪日の相談をした可能性があります。 マリー・ストープスは今から100年以上も前にかなりの危険を冒して日本に来るほど、そして婚約者に振られたら振られた相手との350頁もある「ラブレター集」を書き、しかも当てつけのように表紙に「一日本人の艶書」などとわざわざ日本語で書いて恋の顛末を露わにするほど、非常に情熱的でエネルギッシュだったのだと私は思います。 そのラブレター集ですが内容にはやや疑問があります。藤井から来た手紙は保存してあったとは思いますが、ストープス自身が書いて藤井に出した手紙は控えを取っておいたのでしょうか? E-mailのように出した文章が保存される時代とは違います。もし控えを保存しつつ、ラブレターを出していたならそれはそれで怖いですね。 今でも破局した恋の相手とのラブレター集を勝手に出版されたら困るでしょう。1911年にロンドンで出版されたこの本を謹呈されたであろう「Mr.Kenrio Watanabe = 藤井健次郎氏」は腰を抜かすほどびっくりしたと思います(笑)。 この本が刊行された1911年、ストープスはカナダ人の植物学者 レジノルド・ラグルズ・ゲイツ(Reginald Ruggles Gates)と結婚しているので、恋愛のケリ、気持ちの整理をこの本でつけたかったのかもしれません。可哀想なのは、ストーブスの結婚相手のゲイツさんです。ゲイツさんは結婚してほどなく、奥さんと元カレとの交際を綴った本の出版を知らされます。マリー・ストープスはこの本はフィクションだという説明をした(結果的に嘘)らしいのですが、ゲイツさんはかなりショックだったと書き残しています(参考文献5、なおマリー・ストープスは1958年に死去しています)。 このショックが響いたのかもしれません。結婚して3年後、ゲイツさんはストープスから「性的不能により子供ができないこと」を理由に離婚を申し立てられます。なんだか、ゲイツさんはとてもかわいそうですね。 今はインターネット上でこの「Love-letters of a Japanese」を誰でも読むことができます(文献4参照)。ラブレターの内容は濃くしかも過激です。他人が読むことを念頭に置いていませんので、文章は自由奔放です。気恥ずかしくなるくらいのやりとりです。しかし、他人から見ると実に面白いやりとりです。交際を始めた始めた当初、「Mr.Kenrio Watanabe = 藤井健次郎」は情熱的な恋文を「Ms.Meredith = マリー・ストープス」宛にたくさん書いています。長文です。しかし!「Ms.Meredith」が本当に日本に来ることが決まったとたん「Watanabe」さんは「絵はがき」に申し訳程度の小文を書き添えたような手紙しか出さなくなります。 Ms.Meredith が日本に来るのを好まないような文書も書いています。Ms.Meredith は失望したでしょうね。 以上、マリー・ストープスの「恋」に関する物語です。植物化石学者だったマリー・ストープスが後年、「性」に関する本を書いてそれに関する啓蒙をするようになった原因の一端は「藤井健次郎との恋」にあったのだと思います。それだけではなく、加えて東京で出会ったもう一つの出来事が後の彼女の行動を強く後押ししたと思っています。それは、銀杏に関係する出来事です。 今回は銀杏の話から随分とそれてしまいました。ご紹介したいストープスの話があまりにも興味深く、銀杏と彼女の関係まで辿り着きませんでした。 次回で日本の銀杏とマリー・ストープスとの関係をご紹介しましょう。 【参考文献】 A Journal from Japan(1910)Marie Carmichael Stopes デジタルライブラリーです。 Plays of Old Japan: The‘No’(1913)Marie Carmichael Stopes, Joji Sakurai この本は、ストープスがイギリスに帰国後に著した「能」についての本です。日本に留学していた時、東京帝国理科大学の学長だった櫻井錠二博士に「能」を紹介されて「能」舞台を見るようになり、高じて「能」についての本まで書いてしまったのです。余程「能」が気に入ったのでしょう。本書はその櫻井錠二博士との共著です。西洋世界へ「能」を紹介した最初の本です。ストープスと櫻井錠二はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの同窓生です。櫻井錠二博士は化学者ですが、日本文化にも造詣が深かったのでしょう。この本には、Kindle版があり99円で読むことができます。本書の原本をインターネット上で読むこともできます。良い時代です。 Studies on the Structure and Affinities of Cretaceous Plants.(1909)Marie C. Stopes and K. Fujii 110頁に亘る報告書を二人で書いています。 これもデジタル化されているので読めます。写真付きで詳細な解説です。 Love-letters of a Japanese / edited by G.N. Mortlake(1911) ストープスが“書いた”藤井健次郎との往復艶書集です。他人の艶書(ラブレター)を読む機会はほとんど無いと思います。お時間があるとき、是非、お読みください。思わず顔が赤らんでしまうくらい過激です。 (1) Draft (dated May 27.1962) of essay written by Reginald Ruggles Gates in response to the biography of Marie Stopes by Keith Briant. 東京ウィメンズクラブという婦人団体もストープスが作っています。今も続いています。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/06/04 数多ある「花の咲く」植物のうち、イチョウとソテツは… 前回から引き続き、銀杏に関する話題を続けます。最初に中学校の理科のお復習いです。 植物は、 花が咲かない植物(シダ類、コケ類、藻類など) 花が咲く植物(種子植物) に分かれます。2.の種子植物はさらに、 2-a:裸子植物(らししょくぶつ:マツ、スギ、イチョウ、ソテツなど) 2-b:被子植物(ひししょくぶつ:桜、タンポポ、ツユクサなど) に分かれます。裸子植物と被子植物の違いは胚珠(はいしゅ:種子になる部分)が子房(しぼう:後に果実になる部分)に覆われているかどうかの違いです。難しいですね。 さて、ここからが本題です。 植物の進化をたどると花が咲かない植物(シダ、コケ、藻など)が一番古い植物で、次に裸子植物、一番新しいのが被子植物です。生殖方法は進化とともに変化しています。 コケ類、シダ類、藻類などの原始的植物は精子を放出し、雨水などで精子を泳がせて受精します。「えっ?精子?」と思われるでしょう。花が咲かない植物には雄株(おかぶ)と雌株(めかぶ)があり、雨が降ると雨水が雄株にかかり精子を放出させます。そして精子を多数含んだ雨水は地面を流れて卵子を持つ雌株にたどり着き、運の良い精子が卵子と出会って受精します。この辺りは動物と一緒です。 一方、花の咲く裸子植物、被子植物は「雄しべ」から「雌しべ」へ花粉が届くことで受精します。例外が2例あります。数多ある「花の咲く」植物のうち、イチョウとソテツにだけ精子が見つかっています。植物学上の大発見です。二つとも日本で発見されています。今から100年も前のことです。イチョウの精子は東京小石川植物園のイチョウで発見され(図1)、ソテツの精子は鹿児島県立植物園にあるソテツで発見されたのです。 図1:東京小石川の植物園にある精子が見つかった銀杏 イチョウの精子は元々、東京帝国大学理科大学に画工(植物専門の絵描き)として雇われていた平瀬作五郎が発見したのです。平瀬は作図法の教科書を書いています(図2)。かなり科学的な「絵」が上手だったのだと思います。 図2:平瀬の書いた作図法の教科書 その平瀬が1896年9月9日、銀杏に精子を発見したのです。 銀杏には雄木(おぎ)と雌木(めぎ)があります。ちなみにギンナンの実が生るのは雌木です。銀杏の雄木から花粉が飛ぶのが4月です。花粉は雌木の種子に到達します。種子内に到達した花粉は5ヵ月をかけて花粉管を伸ばします。その花粉管から精子が放出され、精子は自身で繊毛を動かし、自分で泳いで卵細胞に到達し受精します。この過程を平瀬は目撃したのです。 ソテツにも同様な精子があることを発見したのが、平瀬の上司だった池野成一郎です。池野は当時、東京帝国大学理科大学助教授でした。文末に挙げた参考文献1-6は、その平瀬、池野が発表した論文です。文献3はドイツの「植物学中央雑誌」に掲載されています。文献4は、フランス語で東京帝国大学理学部紀要に掲載されています。 平瀬は「銀杏の精子発見」を最初は日本語で後にはドイツ語とフランス語で論文を書いて発表しているのですね。凄いです。画工として働きながら、どのようにしてフランス語やドイツ語を、それも論文が書けるレベルまで勉強したのでしょうか?我が身を省みると言葉もありません。池野もドイツ語で論文を書いています(文献5)。池野、平瀬はさらに英国のAnnals of Botanyにも論文を書いています(文献6)。当たり前ですが、この論文は英語です。 一体、このコンビは何でこんなに超人的なことができたのでしょうか? 今でも、フランス語、ドイツ語、英語で論文を書くのは簡単ではありません。それぞれ単独でも難しいのに、三ヵ国語で書く…… それを100年以上も前に行っていたのですから凄いですね。論文を書くにあたって、彼らに言語指導をした方(外国人?)がいらっしゃったのでしょうか? 西欧言語で書いた論文(これが大事です。日本語で書かれた論文では世界には伝わりません)を発表したことにより「イチョウとソテツに精子が存在すること」が、世界中に瞬く間に伝わったのです。 平瀬はこの大発見を成した後、東京帝国大学を辞して彦根中学校(現・滋賀県立彦根東高校)に移り研究も止めています(その辺りの経緯は文献8に詳しいです)。研究は止めていますが後に「銀杏の精子発見の業績」に対して学士院恩賜賞を受賞しています。東京帝国大学教授になっていた池野成一郎との共同受賞です。1912年のことです。平瀬は大学には進学していませんでしたし、学位も持っていませんでした。そのため、当初受賞は池野教授一人に予定されていたそうです。しかし池野教授が「平瀬が受賞しないなら、私もいらない」と言ったため、平瀬、池野の同時受賞となっています。良い話ですね。文献6-10には平瀬作五郎の生涯、銀杏の精子発見の世界的意義について書かれた文献や、銀杏精子の動画などを挙げています。是非、ご参照ください。 さて、ここで銀杏とは関係無さそうな女性を紹介します。 この女性はイギリスでは知らぬ人はいないくらいの有名人です。名前をMarie Charlotte Carmichael Stopes(1880-1958)と言います。以下、Marie Stopes(マリー・ストープス)と略します。 マリー・ストープスは、1999年に英国ガーディアン紙が行った読者投票 「The Guardian's Woman of the Millennium:ガーディアン紙が選ぶ1000年を代表する女性」において、第一位になっています。彼女が著した本は、ニュートン、シェイクスピア、ダーウィンが著した本に混じって「世界を変えた12冊の本(参考文献12)」に選ばれています。英国ではよく知られている女性です。 マリー・ストープスがなぜ、今もイギリスだけでは無く、世界中に影響を与えているかを簡単に紹介しましょう。彼女が書いた「世界を変えた書物」の題名を示します。 「Married Love or Love in Marriage」(1918年刊)です。ちょうど、100年前に出版されていますね。日本語に訳するなら「結婚愛または結婚における愛」となるでしょう(この本は参考文献11で、Digital libraryにあり誰でも読めます)。 結婚と結婚における愛の話などありふれていると思われる方もいるでしょう。しかし、この本の内容は単純な「愛」の話ではありません。今でも読めば、「これはちょっと」というような話が載っています。下の図3、4のChart1、Chart2は同書内に載っている図です。 図3:ChartⅠ:Curve showing the Periodicity of Recurrence of natural desire in healthy women. Various causes make slight irregularities in the position, size, and duration of the "wave-crests," but the general rhythmic sequence is apparent. 図4:CHART II :Curve showing the depressing effects on the "wave-crests" of fatigue and overwork. Crest a represented only by a feeble and transient up-welling. Shortly before and during the time of the crest a Alpine air restored the vitality of the subject. The increased vitality is shown by the height and number of the apices of this wave-crest. この図を見て「あぁ、これは!?」と思いませんか? そうです。この本は結婚後の性教育の本だったのです。この本は発売後たちまちベストセラーとなります。1924年、日本でも翻訳され、「結婚愛:矢口達:訳」という題で刊行されたのですが、直ちに発禁となってしまいました。後に伏せ字を多用してようやく出版が許可されます。内容は過激ですが、扇情的な記述では無く、科学者として真面目に「性に関する考察」を書いています。それでも結婚後の女性の性生活を扱っているので出版当時はかなり刺激的でした。 このマリー・ストープスですが、日本と少なからぬ関係があります。彼女は前述の平瀬作五郎が銀杏に精子を発見した数年後に化石研究のために来日しています。東京帝国大学に留学したのです。日本から欧米の大学への留学は当時、数多く行われていましたが、その逆は珍しいでしょう。女性の留学も珍しい時代です。英国人女性初の日本への「留学」かもしれません。 私は、化石研究をしていた女性科学者マリー・ストープスが後に世界を驚かすような過激な本を書くに至った遠因は、日本で経験した出来事にあると思っています。それには日本の「銀杏」も関係すると考えています。本邦初の考察?です。次回、その考察を紹介しようと思います。 マリー・ストープスは、東京で細菌学で有名なコッホにも会って会話を交わしています。そのあたりも次回ご紹介しようと思います。 【参考文献】 平瀬作五郎「銀杏/受胎期について」植物学雑誌1894年 平瀬作五郎「銀杏の精虫」植物学雑誌1896年10月20日号 注:予稿はフランス語! Hirase S Untersuchungen über das Verhalten des Pollens von Ginkgo biloba, in Bot. Centraiblatt. LXIX (1897年), 33-35. ドイツ中央植物学雑誌に載せています。当然ドイツ語で書かれています。 Hirase S:Etudes sur la fécondation et l´embryogénie du Ginkgo biloba (second mémoire). J. Coll. Sei. imp. Univ. Tokyo 12: 103-149. 1898年 注:東京帝国大学紀要に載せていますが、なんとフランス語! IKENO, S.: Vorläufige Mittheilung über die Spermatozoiden bei Cycas revolta: Bot. Centralbl., lxix, 1897年, p. I . ドイツの植物学雑誌に載せています。当然、ドイツ語! IKENO, S., and HIRASE, S., Spermatozoids in gymnosperms. Annals of Botany11:344, 345. 1897年. 池野成一郎と平瀬作五郎の両名でイギリスの雑誌に載せています。当たり前ですが英語です。 HISTORY OF DISCOVERY OF SPERMATOZOIDS IN GINKGO BILOBA AND CYCAS REVOLUTA Y. OGURA 1967年 イチョウ精子発見の歴史及びその意義について解説した論文です。 イチョウ精子発見者平瀬作五郎:その業績と周辺 法政大学生命科学部教授・東京大学名誉教授 長田敏行(公益社団法人 日本植物学会) 平瀬作五郎のこと、銀杏の精子発見のことなどが詳述されています。興味がある方は必読です。 「種子の中の海 イチョウの精子と植物の生殖進化」東京シネマ新社 必見です。イチョウの種子内で精子が泳ぐ姿が鮮明に撮影されています。 コケ植物の精子についての動画(NHK) MARRIED LOVE OR LOVE IN MARRIAGE:BY MARIE CARMICHAEL STOPES, Ph.D デジタルライブラリーに所蔵され、誰でも読むことができます。 12 Books That Changed The World: by Melvyn Bragg. Sceptre (2007年刊) この本で紹介されている「世界を変えた12冊の本」を紹介します。 Principia Mathematica(1687)- Isaac Newton Married Love(1918)- Marie Stopes Magna Carta(1215) Book of Rules of Association Football (1863) On the Origin of Species (1859) - Charles Darwin On the Abolition of the Slave Trade (1789) - William Wilberforce in Parliament, immediately printed in several versions A Vindication of the Rights of Woman (1792) - Mary Wollstonecraft Experimental Researches in Electricity (three volumes, 1839, 1844, 1855) by Michael Faraday Patent Specification for Arkwright's Spinning Machine (1769) - Richard Arkwright The King James Bible (1611) - William Tyndale and 54 scholars appointed by the king An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations (1776) - Adam Smith The First Folio (1623) - William Shakespeare 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/05/21 銀杏に青葉が繁る季節になりました。春と秋では随分と葉の様相が違いますね。 写真1:春の銀杏 春の銀杏はいかにも太古の植物という感じがします。木や幹全体にびっしりと葉が生い茂っています。 写真2:秋の銀杏 今回と次回で「銀杏」にまつわる話を紹介しようと思います。今回は命名秘話?、次回は「銀杏と家族計画との関係」をお伝えします。銀杏にはさまざまな「物語」が山のようにあり、興味が尽きません。 絶滅したと思われていた銀杏が「長崎」の地に さて、今回は銀杏にまつわる「世紀の誤記?」についてです。皆さんは「銀杏」という漢字をどのように読むでしょうか?「イチョウ」「ギンナン」が普通の読み方でしょう。「ギンキョウ」とも読めます。しかし、学名は聞いたことも無いような名前です。 ヨーロッパでは銀杏の化石は2億年前の地層に見つかります(=2億年前のヨーロッパでは普通に見られた植物であることがわかります)。しかし、700万年前以降の地層には銀杏の化石は見つからなくなっていました。そのため「銀杏は絶滅した」と思われていました。その「絶滅」した銀杏の木を今は世界中で見ることができます。それゆえに銀杏は「植物のシーラカンス」とも呼ばれています。 銀杏が世界中で植栽できるようになったきっかけは長崎の銀杏にあります。1690年、医師でもあり博物学者でもあったドイツ人のエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)が長崎オランダ商館の出島付き医師として来日、2年間滞在、滞日中植物についてもさまざまなことを調べています。この時の長崎滞在でヨーロッパでは絶滅したと考えられていた「銀杏」が長崎の地で普通に繁殖しているのに気づきました。 なぜ当時の日本で「銀杏」を普通に見ることができたかについては諸説あります。ここでは立ち入りません。参考文献の「イチョウ 奇跡の2億年史:生き残った最古の樹木の物語」などを参照ください。 ケンペルは帰国してから20年後に「Amoenitates Exoticae」(和名=廻国奇観:かいこくきかん)と題したアジア旅行記を著します。この本の中で、ヨーロッパでは絶滅していると思われた「銀杏」を日本では普通に見ることができることを紹介しました(参考文献1)。絶滅したと思われていた銀杏が化石では無く生き残っていたのですから、この本を読んだヨーロッパ中の植物学者はびっくりしました。長崎から銀杏の種がヨーロッパに持ち込まれ、各地に植えられ、今では欧州中で銀杏を見ることができます。博物学者リンネは、「銀杏」のラテン名(学名)を「Ginkgo biloba」と名付けました(図1 緑下線部を参照ください)。 図1:「銀杏」のラテン名(学名)「Ginkgo biloba」 ケンペルは、日本では銀杏のことを「Ginkgo」と呼ぶと書き残していますので、それから取ったのです。「Ginkgo biloba」を普通に読めば「ギンコービロバ」ですね。ビロバ(biloba)はラテン語で「2つの裂片(れつへん or れっぺん)」という意味で、銀杏の葉の形を表しています。葉に切れ目があり2つに分かれているという意味でしょう(図2)。 図2:銀杏の葉 「切れ目」があります。学名のbiloba(二つの裂片)の由来になっています。 しかし「Ginkgo」はなんだか変です。「ギンコー」に相当する日本語なら、銀行か吟行です。ケンペルが来日していた当時に使われていた各種の辞書によると「銀杏」は、「いちょう」や「ぎんなん」と読まれていたことがわかっています。もしかしたら「銀杏」は「ギンコー」と読まれていたのかもしれません。「ギンコー」と読まれていなかったことを証明するのは難しいですね。無いことの証明は難しいからです。それに挑んだ方がいます。 ケンペルが来日していた時代に出版された辞書を筑波大学生物科学系教授の堀輝三(ほりてるみつ)先生と奥様の堀志保美氏が徹底的に調べたところ、当時日本で広く使われていた絵入り辞書2冊に銀杏が「ギンキョー」とも読まれていることを発見しました(参考文献2-4)。そのうちの一冊は、「訓蒙図彙:きんもうずい」と言う絵入り辞書です。大英博物館にあるケンペルコレクションの中にも見つかりました(図2)。 ケンペルは銀杏の読み方を「訓蒙図彙」から学んだのだろうということが推察されます。でもそれは「ギンキョー」です。「ギンコー」ではないです。これに関しては色々な考察がなされました。「印刷工の単純ミス説」、「ケンペルの出身のドイツ語方言原因説」など諸説ありました。2011年に九州大学名誉教授 Wolfgang Michel氏の「Ginkgoの書き間違い」を指摘した論文が出て、この問題に「けり」が付いたと思われます(参考文献5)。 どうやらケンペルが『書き写し間違い』を犯したのが真相のようです。『世紀の書き写し間違い』と言っても過言では無いです。Michel氏は、大英博物館に残っているケンペル自筆の原稿の「Ginnan」の横に「Ginkgo」と書いてあるのを発見します(図3)。ケンペルは日本語を読めませんので、日本人から銀杏の読み方を聞いて書き残したのです。ケンペルに読みを教えた日本人はこの銀杏という植物は日本では「ぎんなん」とか「ぎんきょう」と呼ばれていると教えたのでしょう。「ぎんなん」は正確に「Ginnan」と書き写しています。しかし、「ぎんきょう」は「Ginkgo」となっています。普通に書き写せば、ケンペルはドイツ人ですのでドイツ語なら「Ginkjo」と記したはずです(注:英語ならGinkyoでしょう)。ケンペルはメモを残す際に「j」と「g」を書き間違えたのだろうと、Michel先生は考察しています。 ここからは私の推測です。実はケンペルは正しく「Ginkjo」と書いたつもりだったのかも知れません。筆記体フォントを使って、「Ginkjo」と「Ginkgo」を比較してみましょう。 ゴシック体筆記体 「Ginkjo」「Ginkjo」 「Ginkgo」「Ginkgo」 筆記体だと「Ginkjo」も「Ginkgo」も似ていますね。g の上に[・]が無いので「j」と「g」は区別できますが、この[・]があったか無かったかで、ギンキョーがギンコーになってしまった可能性もあると思います。 何を言いたいかと言うと、ケンペルは正確に「Ginkjo」と書いたつもりだったのが「j」の上に[・]を書き忘れ、そのために「Ginkgo:Ginkgo」と自分でも誤読して、『Amoenitates Exoticae:和名=廻国奇観』を出版してしまったのかもしれません。 ちなみに、Wolfgang Michel先生のホームページには、 「けんぺるの筆記体」 http://wolfgangmichel.web.fc2.com/serv/ek/handwriting/index.html という項目があり、ケンペルが書いた文字の筆記体一覧を見ることができます。この中に、「g」はありますが「i」はありませんでした。あれば比べることができました。 それはともかく、今なら「銀杏」の発音をインターネットで簡単に調べられるかもしれません。あるいは「銀杏」の発音を教えてくれた日本人に手紙やメールで問い合わせれば良いかもしれません。しかし時代が違います。発音の確かめようも無いまま「Ginkgo」として本を出版してしまったのでしょう。 発音は正確に聞いたけれど、書き写す時にうっかりしたために「銀杏」は「Ginkgo」という欧米人にも日本人にも「なじみの無い変な学名」をつけられてしまいました。字を書く時は、できるだけ楷書で正確に書いた方が良いですね。 明治天皇陛下の御製に、 うるはしく かきもかかずも 文字はただ よみやすくこそ あらまほしけれ という和歌があります。 「文字はただよみやすくこそあらまほしけれ=文字は読みやすいのが良いなあ」 とあります。明治天皇陛下も読みにくい文字の判別に四苦八苦していたのでしょう。 今は電子カルテの時代です。パソコン上のカルテを読むのには苦労しません。しかし、以前は手書きのカルテが普通でした。手書きカルテ時代には、どう見ても読めないカルテ、判じ物のようなカルテ、外国語まがいの文字の羅列のカルテ、略号だらけのカルテが実に多く困ったのを思い出します。そのような「他人には読めない」カルテの判読に苦労する度にこの和歌を思い出していました。 話を戻します。いずれにせよ『書き間違った文字』を元に銀杏の学名が決まってしまいました。「Ginkgo(ギンコー)」を訂正させようとする活動もなされていますが、なかなか難しいでしょう。 図3:「訓蒙図彙」に載っている銀杏の説明図 銀杏の横に「ぎんきゃう」と書かれているのが解かります。 旧仮名遣いの「ぎんきゃう」ですから、現代仮名遣いなら「ぎんきょう」でしょう。ややこしいですね。 図4:ケンペルの草稿原稿 「Ginnann」の上に、「Ginkgo」? と書いてあります。これが間違いの元ですね。 銀杏については、明治時代に入って、日本人の「画工」平瀬作五郎が銀杏の生殖に「精子」が関わっていることを発見しました。世界的な大発見です。そのことがきっかけとなり英国から27歳の女性植物学者が来日します。それが、「家族計画」とか「性生活の研究」につながるという話は次回に。 【参考文献】 「世界を旅した博物学者 ケンペル」(長崎大学附属図書館のサイト) Hori, S and Hori, T.(1997)A cultural history of Ginkgo biloba in Japan and the generic name Ginkgo. In: Hori, T. et al.(eds)Ginkgo Biloba-A Global Treasure. From Biology to Medicine. Springer-Verlag Tokyo, pp. 385-411 「日本の巨木イチョウ―写真と資料が語る 23世紀へのメッセージ」内田老鶴圃 堀輝三(著) 「写真と資料が語る総覧・日本の巨樹イチョウ―幹周7m以上22m台までの全巨樹」内田老鶴圃 堀輝三、堀志保美(著) 3.4.を読むと、堀輝三先生は2002年に筑波大学を退官後、日本中の銀杏の巨木を求めて旅をして、その記録を残されているのですね。残念なことに堀輝三先生は2006年に逝去されています。 九州大学名誉教授 Wolfgang Michel氏の「Ginkgo」の書き間違いに関する考察論文 ENGELBERT KAEMPFER FORUM: GINKGO 銀杏に関するありとあらゆる情報を集めたサイトがあります。その名も「THE GINKGO PAGES」です。必見の価値があります。日々更新されています。 THE GINKGO PAGES イチョウの精子と植物の生殖進化の映像です。 http://www.kagakueizo.org/movie/education/128/ 「イチョウ 奇跡の2億年史: 生き残った最古の樹木の物語」河出書房新社 ピーター クレイン(著)、矢野 真千子(翻訳) 号外です。 私の恩師で東京慈恵会医科大学心臓外科の初代主任教授、新井達太先生が本を出版されました。心臓外科黎明期の話、手術にまつわる興味深い話などが数多く載っています。是非、ご一読下さい。 新井達太著:「この道を喜び歩む 」幻冬舎 刊行 表紙にフランス語が書かれています。その内容については本書をお読み下さい。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/05/07 前回、アメリカで2015年にいきなり多くの高価薬が出現し、その中には24時間点滴で投与すると約2,000万円もかかるお薬があることをお話ししました。 これだけの価格が付くなら「夢の新薬」だと思われるでしょう。違います、なんと70年前に合成された古いお薬でした。前回の続きをお話しします。 多くの人命を救っている素晴らしいお薬が… このお薬はウィーン大学薬理学教授のヘリベルト・コンツェット医師(Heribert Konzett:1912-2004)が1941年に合成した「イソプロテレノール(Isoproterenol)」というお薬です(参考文献1.2.)。イソプロテレノールは、あの高峰譲吉が合成に成功したアドレナリンを元にして作られたアドレナリン誘導体の一種です。高峰譲吉のこと、アドレナリンのことはこれまでにも紹介して参りました。 あの「ハーレー」も!三共を興した高峰譲吉 Japanese father of American Biotechnology.~高峰譲吉(3) 高峰と上中に神が降りた日~高峰譲吉(2) イソプロテレノールはそのアドレナリンに2つのメチル基(CH3)が付いた構造をしています(図1、図2参照)。 図1:イソプロテレノールの構造式 右側のCH3がアドレナリンと違います。 図2:アドレナリンの構造式 アドレナリンの受容体(受容体が無いとお薬は作用しません)にはαとβの2種類あり、β受容体はβ1、β2、β3と3種に分かれます。イソプロテレノールはβ1、β2、β3の全てに作用します。心不全、徐脈、気管支喘息の治療などに使われていました。現在はβ1、β2、β3にそれぞれに作用する薬があり、イソプロテレノールの適応疾患は極めて限られていますが、イソプロテレノールはある種の心臓病治療には欠かせない薬です。洞機能不全症候群、房室ブロックといった「脈が遅くなり、心臓が止まってしまうかもしれない」病気の治療に使われます。そういう病気の治療に使われるお薬です。洞機能不全症候群や房室ブロックは重篤になると心臓が停止することがあります。ペースメーカーでの治療が必要になることもあり、ペースメーカー移植までの「つなぎ」として私もよくイソプロテレノールを使いました。こういう病気の患者さんが来院しても、直ちにペースメーカーを入れるわけではありません。症状が重い場合は直ちに一時的ペースメーカーを入れることもありますが、外来受診時や病院に救急搬送された時に、このような疾患が疑われ、脈がゆっくりならイソプロテレノールの点滴をします。イソプロテレノールの点滴を開始すると直ちに脈は早くなります。効果は劇的です。実に良い薬です。多くの人命を救っている素晴らしいお薬です。それは日本でもアメリカでもヨーロッパでも世界中どこでも一緒です。ただし、ここが肝なのですが、長時間、高容量を使用することはありません。長くても数日、短いときは数時間しか使われません。イソプロテレノールは大量に使われることも無く、特許も切れているので、イソプロテレノールでは利潤が出なかったのです。普通の製薬会社は見向きもしないお薬でした。 特許が切れている 製造している会社が少ない 製造権の獲得が容易である 市場規模は限られているが、決して少なくは無い ある種の心臓病治療には欠かせない そういう“特徴”を持ったお薬でした。 この“特徴”に目を付けた人々がいます。そして Valeant Pharmaceuticals という会社が、 イソプロテレノールの製造権を獲得 イソプロテレノールの製造会社を買収 イソプロテレノールを合法的に作れる会社が「Valeant Pharmaceuticals社」だけになった途端、一挙にイソプロテレノールの値段をつり上げたのです(参考文献3)。 数年前まで、イソプロテレノールは1バイアル(0.2mg/mL)あたり40ドル(約4,000円)程度でした。このお薬が2015年には1バイアル(0.2mg/mL)あたり1,472ドル(約16万円)になったのです(Hospitals remain skeptical about Valeant discounts on important heart drugs)。 実に一挙に約40倍にしたのですね。ちなみに日本での価格はたったの226円!です。誤記ではありません。 このお薬を体重80Kgの患者さんに投与する場合の標準的投与量は1時間あたり約1mgです。アメリカなら、1時間に5バイアル=80万円必要です。12時間で約1,000万円!です。24時間なら2,000万円です。オプジーボと違い、開発コストはゼロ、製造方法もわかっています。 この高価薬のおかげで、Valeant Pharmaceuticals社は莫大な利益を上げました。この功績(?)により、この会社の J. Michael Pearson CEOは「The 10 Best Performing CEOs Show What It Takes to Be a Great Manager」の8番にランクされています。因みに1番は、Amazonの創業者の. Jeffrey Bezosです。 イソプロテレノールはある種の疾患の治療には欠かせない治療薬です。ほかに選択肢があまりありません。医師は高価すぎると思いつつも使わざるを得ません。なぜこんなことがまかり通るようになったのでしょう。繰り返しになりますが、アメリカはお薬の値段を製薬企業が自由に決めることができます。普通はライバル企業があるので、お薬は「そこそこ」の値段に落ち着きます。しかし、このイソプロテレノールにはライバル企業が無かったのです。というか、ライバル企業を全て買収して製造権を独占してしまったのです。今から他の企業が、イソプロテレノールの製造権を獲得するのは難しいのでしょう。これぞ、アメリカ!と思ってしまいます。もちろん、皮肉です。当たり前ですが、この状況をアメリカの世論も政府も黙ってはいません。 真似する(?)企業(人)も現れて… このような仕組みで儲けるビジネスモデルは“Valeant Pharmaceuticals' Business Model”と名付けられ、社会問題となっています。アメリカ上院では特別委員会が開かれて糾弾されます(参考文献4.5.)。この特別委員会で糾弾されても、Valeant Pharmaceuticals社はイソプロテレノールの値段を30%下げただけです。Valeant Pharmaceuticals社はイソプロテレノールだけではなく、ニトロプルシド(Nitroprusside)という点滴で使う降圧剤を約2倍に、メトフォルミンという糖尿病治療薬を8倍に値上げしています。イソプロテレノールの値段を吊り上げたのと同様な手法をとっています。 そして、“Valeant Pharmaceuticals' Business Model”を真似する(?)企業(人)も現れました。 (1)コルヒチンという痛風発作の治療薬 一挙に50倍!に値上げ:1錠10セントが1錠5ドルとなりました(日本では1錠7円)。 (2)抗寄生虫薬ピリメタミン(商品名:ダラプリム) 13ドルから750ドルと56倍!に値上げしました。このお薬はマラリアやエイズ治療にも使われています。 これらのご紹介を簡単にしましょう。 (1)のコルヒチンについては、URL Pharmaという会社がコルヒチンの値段を50倍にしました。ハーバード大学のPharmacoepidemiology(薬剤疫学) && Pharmacoeconomics(薬剤経済学)教室のアロンケッセルハイム准教授(Aaron S. Kesselheim)は、2010年のNew England Journal of Medicine誌上で警告を発していましたが(参考文献6)、効き目は無かったようです。 (2)ピリメタミンの値上げを行ったのは Turing Pharmaceuticals社 です。この会社の経営者は、まだ年若いマーティン・シュクレリ(Martin Shkreli:1983-)氏です。ほかのお薬でも同様なことを数多く行っています。 このような手口の商売を非難する人々に対して、シュクレリ氏は、 “If there was a company that was selling an Aston Martin at the price of a bicycle, and we buy that company and we ask to charge Toyota prices, I don't think that that should be a crime.” 訳)アストンマーティンを自転車の値段で売っている企業があるなら、我々がその企業を買収して、トヨタの値段でアストンマーティンを売る。それが犯罪とは思わない と言ったものです。つまり、本来なら高額で売るべきアストンマーティン(=ピリメタミン)をトヨタ値段で売っているのだから、良いだろうと言っているのです。なんだかトヨタが馬鹿にされているようで嫌な感じですね。車に興味が無い方のために申し添えると、アストンマーティン社はイギリスのスポーツカーメーカーで、1番安価な車でも2,000万円します。007のボンドカーのほとんどはアストンマーティン社の車ですね。 それはともかく、余計なことを言ったマーティン・シュクレリ氏には、“The Most Hated Man in America.(アメリカで一番嫌われている人間)”という不名誉な称号が与えられています。なお、シュクレリ氏はお薬の販売とは別件の詐欺容疑で、FBIに逮捕され、裁判中でしたが、冒頭でも紹介したように、 “ついに禁固刑「米国で最も憎まれる男」に禁錮7年 証券詐欺で”という報道が2018年3月10日のAFPで報道されています。 でもお薬の値段をつり上げたことでは捕まったわけではありません。そちらは「合法」だからです。 さて、色々と紹介してきました。さすがの資本主義国家アメリカでもこのような「商売」は尊敬されていません。しかし、法律に違反しているわけでは無いというのが、「薬を法外に値上げしている」彼らの言い分です。マスコミや政府がいくら値段を下げろと言っても聞く耳は持たず、とどのつまり値段はあまり下がっていません。日本なら、厚労省が薬価を決めるのでこのような「非道」なお薬の値上げはあり得ないですね。 前回、今回と、国内外の薬のお話をご紹介し、薬の値段を考えてみました。如何だったでしょうか? 最後になりますが、前回の冒頭で「モノの値段」は、「売り手良し 買い手良し」で決まると書きました。この言葉は、もう一つの成句「世間良し」が加わることで完成します。「売り手良し 買い手良し 世間良し」という言葉です。「三方良し」とも言われます。 この言葉は、商売上手で有名な近江商人の間で使われていました。近江商人の中村治兵衛が70歳の時に幼い跡継ぎに遺言として残した家訓「宗次郎幼主書置(かきおき)」全11条の一節です(参考文献7)。商売繁盛を願うなら「売り手、買い手」の満足だけではなく、世間様への貢献(=社会への貢献)も必要だと説いているのです。今日のCSR(corporate social responsibility:企業の社会的責任)という言葉ができるより遙か昔の江戸時代に、CSRを先取りした商売哲学を説いていたのです。 「世間良し」って良い言葉ですね。古い薬で「売り手」しか満足しないような“あこぎ”な商売をやっている人々に聞かせたいものですね。 【参考文献】 Heribert Konzett (1941). "Neue broncholytisch hochwirksame Körper der Adrenalinreihe". Naunyn-Schmiedebergs Archiv für experimentelle Pathologie und Pharmakologie. 197: 27-40. doi:10.1007/BF01936304. H. Konzett (1981). "On the discovery of isoprenaline". Trends in Pharmacological Sciences. 2: 47-49. doi:10.1016/0165-6147(81)90259-5. Bloomstein DA: Cost Avoidance Utilizing a Batching Process for Isoproterenol. P T. 2016 Sep;41(9):560-1. "Bill Ackman and Valeant Execs Just Got Through One of the Most Brutal Senate Hearings We've Ever Seen", Business Insider, April 27, 2016 "Valeant Pharmaceuticals' Business Model: the Repercussions for Patients and the Health Care System", United States Senate Special Committee on Aging, April 27, 2016, 上院特別委員会でのやりとりを見ることができます https://www.aging.senate.gov/hearings/valeant-pharmaceuticals-business-model-the-repercussions-for-patients-and-the-health-care-system Kesselheim AS, Solomon DH. Incentives for drug development--the curious case of colchicine. N Engl J Med. 2010 Jun 3;362(22):2045-7. doi: 10.1056/NEJMp1003126. Epub 2010 Apr 14. http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMp1003126 「三方良し」の原典が見つかる(AKINDO委員会 1998年9号)(PDF) 余話1: イソプロテレノールが毛包の幹細胞を心筋細胞へ誘導することができるという要旨の論文が2016年に発表されています。 このようにイソプロテレノールは今でも色々な実験にも用いられています。 Isoproterenol directs hair follicle-associated pluripotent (HAP) stem cells to differentiate in vitro to cardiac muscle cells which can be induced to form beating heart-muscle tissue sheets. Yamazaki A, Yashiro M, Mii S, Aki R, Hamada Y, Arakawa N, Kawahara K, Hoffman RM, Amoh Y. Cell Cycle. 2016;15(5):760-5. 余話2: 実は、このような特殊薬ではない糖尿病治療に欠かせない「インスリン」の価格が急上昇して社会問題となっています。 Insulin price spike leaves diabetes patients in crisis アメリカ糖尿病学会も「STAND UP FOR AFFORDABLE INSULIN(適正価格のインスリンが使えるように立ち上がろう)」という運動を起こしています。 STAND UP FOR AFFORDABLE INSULIN インスリンの価格は、インスリンの種類にもよるのですが、8-32倍も上昇しています。 よく使われる長時間作用型インスリン500単位の値段は1987年には170ドル(19.000円)だったのですが、2017年1月時点で1400ドル(150.000円)に上昇しています。インスリン価格急騰の原因は不詳です。誰かがどこかで、「世間良し」に背くような行為をしているのでしょうか。ちなみに、メキシコやカナダでは全ての薬価が安価で、国境を越えてお薬を買いに来るアメリカ人が絶えないそうです。 Mexicans go to the United States for a better quality of life. Americans go to Mexico because they can't afford quality of life. 「メキシコ人はアメリカに行けば生活の質が向上するだろうと思ってアメリカに行く。アメリカ人は、アメリカで生活の質を向上させるには費用がかかりすぎるので、メキシコに行く」。皮肉な話です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/04/16 --「米国で最も憎まれる男」に禁錮7年の判決 証券詐欺で -- という報道が2018年3月10日にありました。「米国で最も憎まれる男」とは厳しい表現ですね。今回から2回連続で「米国で最も憎まれる男(達)」の紹介をします 全ての「モノ」には値段があり 「モノ」の値段は需要と供給で決まります。資本主義の根幹です。江戸時代の近江商人はそれを「売り手良し、買い手良し」と言っていました。今でも通用します。この「枠」に入らないのが、「薬」と「医療機器」です。あまり知られてはいないかもしれませんが、日本では厚生労働省が、 1.医療用医薬品の値段(=薬価) 2.医療機器の値段(=償還価格) を決めています(注:薬局で購入出来る一般用医薬品は別です)。お薬の値段は勝手に企業が決めることはできません。利潤のみを追求してお薬の値段を決められては困るからです。 ここ数年、新しい作用を持つ抗がん剤「オプジーボ」(一般名:ニボルマブ)が各種のがんに対しても使われるようになりました。今までの抗がん剤とは、全く違う作用を持ち「免疫チェックポイント阻害薬」と称されています。このお薬は「効く人にはとても効く(奏効率は、20-30%と言われています)」夢のような抗がん剤です。しかし、オプジーボは値段がとても高いことも話題になりました。 オプジーボに関しては「医学の勝利が国家を滅ぼす:新潮新書:里見 清一著」という本も出版されました(注:里見清一はペンネームです。山崎豊子『白い巨塔』の登場人物から借りています。本職は腫瘍内科の先生です)。この本で里見清一氏は「オプジーボ」を無計画に投与すると、国家財政が破綻しかねないという懸念を表明しています。 オプジーボは確かに高価です。オプジーボの投与を受ける患者さんの体重を仮に60Kgだとすると1回の投与に130万円、2週おきに投与するので、年間約3,600万円です。患者さんがこの金額を全額、支払うわけではありません。日本には「高額療養費制度」があり、患者さんの年収、加入している健康保険により差はありますが、月に20-30万の負担でオプジーボの投与を受けることができます。実際にかかる費用との差額は加入する健康保険や公的資金(基は税金)から支払われます。オプジーボの値段は妥当でしょうか?それは誰にもわかりません。その薬の開発にかかった費用、製造にかかる費用、一定の割合で肺がんが治ってしまう患者さんがいることなどを考えれば、「安い」のかもしれません。 それはともかく、オプジーボの薬価が公的医療保険財政を圧迫するのではという声が相次ぎ、国会でも取り上げられ、ついに中央社会保健医療協議会(中医協)がオプジーボの薬価の引き下げを勧告しました。それを受けてオプジーボの薬価は半額になりました。2017年2月1日のことです。 薬価の改定は2年に1回が原則です。2016年にオプジーボの薬価は決まっています。本来なら、2018年がオプジーボの薬価の改定時期でした。その原則を曲げてまで半額にしたのは、それだけ保険財政への影響を懸念する声が強かったのでしょう。 今、お示ししたように、医療用医薬品の値段は「お国」が決めるのが日本の原則です。日本と同様、EU加盟国やカナダではお薬の値段に政府の規制があります。 今、アメリカでとんでもなく高価なお薬が「出現」し社会問題となっています。 オプジーボは1mgが7,200円ですが、そのお薬はなんと1mgで80万円!もするのです。お薬の種類が違うので単純にmgだけで比較するのは間違っているのですが、それでもびっくりするような値段です。日本と違い、アメリカでは各企業がお薬の値段を勝手に決めることができます。とは言え、普通はライバル企業があり競争原理が働くので、いくら良い薬でも非常識な値段を付けることはできません。 そのアメリカで2015年にいきなり多くの高価薬が出現しました。特に問題となっているのが、前述の1mg80万円、24時間点滴で投与すると約2,000万円もかかるお薬です。そのお薬のことが今回の主題です。これだけの価格が付くなら「夢の新薬」だと思われるでしょう。違います、なんと70年前に合成された古いお薬です。 どういうことなのでしょうか?次回、詳しくご説明します。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/04/02 2018年上半期の芥川賞、直木賞が1月に発表されました。芥川賞受賞作の一つは若竹千佐子(わかたけちさこ)の「おらおらでひとりいぐも」という小説でした。宮澤賢治ファンなら賢治の「永訣の朝」という「詩」をすぐに思い起こすと思います。「永訣の朝」は結核で死に行く賢治の妹トシとの永久の別れを描いています。 “けふのうちに とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ” で始まる悲しい詩です(旧仮名遣いですから「けふ」=「きょう:今日」、「とほく」=「とおく:遠く」、「いっていしまふ」=「行ってしまう」)。 「永訣の朝」の中には(Ora Orade Shitori egumo)という括弧でくくられ、ローマ字で書かれた一節が出てきます。妹トシの言葉として( )でくくられているのです。 死に瀕した賢治の妹トシが「おら おらで しとり えぐも」と語っているかのように記しているのです。標準語で書くと「私は、私で、一人で死んでいくよ」でしょう。 直木賞は、門井慶喜(かどいよしのぶ)の小説「銀河鉄道の父」が受賞しています。宮澤賢治の父についての小説です。奇しくも宮澤賢治に関係する小説が2018年上半期の芥川賞、直木賞に選ばれたのです。今でも宮澤賢治の人気は衰えていないことを示していると思います。 今回は、宮澤賢治と山梨県や八ヶ岳にまつわる話を思い出したので紹介します。私は山梨県出身ですが今回に記すようなこともあり、なんとなく宮澤賢治に親近感を覚えています。 宮澤賢治が書いた手紙73通の鑑定額は… テレビ東京の人気番組「なんでも鑑定団」には実に色々なモノが出て面白いですね。10年くらい前に宮澤賢治が書いた手紙73通がこの番組に出たことがあります。手紙を鑑定団に出したのは、山梨県韮崎市在住の医師、保阪庸夫(ほさかつねお:1927-2016)さんでした。 保阪さんの父親は、保阪嘉内(かない)と言います。嘉内は韮崎市の生まれで、甲府中学(現甲府第一高校)を卒業後、1916年に盛岡高等農林学校に進学、同校の寄宿舎で同室だったのが、宮澤賢治です。学年は賢治が1年上です。1917年、同校の学生4名(宮澤賢治、保阪嘉内、小菅健吉、河本義行)が中心となって校内の文芸誌「アザリア」を刊行します(文末余話4の写真参照)。宮澤賢治が初めて文学作品を発表したのが「アザリア」だったのです。しかし、アザリアは6号で終刊となっています。アザリア5号に保阪嘉内が「おい今だ、今だ、帝室をくつがえすの時は、ナイヒリズム(筆者注:帝室=皇室、ナイヒリズム=ニヒリズム)」という文章を書いて嘉内が退学処分を受けたのがアザリア終刊の遠因だと言われています。 寄宿舎で同室、且つ文芸雑誌を一緒に創刊するほど仲の良かった保阪嘉内に宛てて宮澤賢治が書いた手紙が「なんでも鑑定団」の鑑定に供されたのです。この手紙は宮澤賢治文学を研究する人にとって、とても大切なモノだと思います。「なんでも鑑定団」に手紙を出した保阪庸夫さんは医師ですが、宮澤賢治の研究家でもあり、この73通の手紙とその解説を出版しています。「宮澤賢治友への手紙」(1968年) という本です。 この本の表紙には保坂庸夫、小沢俊郎の名前が挙がっています。しかし、この本は正式には「宮澤賢治(著), 保坂庸夫(編集), 小沢俊郎(編集)」です。宮澤賢治(著)です。この本は1968年に出版されています。宮澤賢治が結核のために没したのが、1933年です。1968年は宮澤賢治が亡くなってから35年です。死後50年を経過していませんので、この手紙の著作権は宮澤家にあり、それゆえに著者が宮澤賢治になっているのです(著作者の死後50年までが著作権の原則的保護期間:著作権法第51条第2項)。 それはともかくこの手紙の内容はかなり「濃い」です。宮澤賢治は日蓮宗に深く帰依し、日蓮宗の信徒団体である「国柱会」に入り、親友だった保阪嘉内にも「国柱会」に入るよう、しつこく、熱烈に勧めています。結局、嘉内は断ります。賢治は嘉内が入信しないとわかったら、次のような手紙を書きよこしています。 「私が友保阪嘉内、私が友保阪嘉内、我を捨てるな」 「保阪さん。今泣きながら書いています。あなた自身のことです。あなたの神は力及びません。」 「そうでなかったら、私はあなたと一緒に最早、一足も行けないのです」 とか、公開を前提にしてはいませんのでかなり書き方が過激です。ラブレターのようにも読めますね。 「私が友○○、私が友○○、我を捨てるな」なんて書いた手紙をもらったら面食らうでしょう(○○に自分の名前を入れてみてください)。でもそういう熱いマグマのような情熱が宮澤賢治にはあり、それが作品にも反映され、今も多くの人々を魅了するのだろうと思います。 この本が出版されてから40年、すでに著作権も切れている宮澤賢治が書いた保阪嘉内宛の手紙73通がなんでも鑑定団に出されたのです。 鑑定額はいくらだったでしょうか?73通の総額がなんと、1億8000万円でした! 生前、2冊しか本が出版されず(「春と修羅」「注文の多い料理店」の2冊)、それもほとんど売れなかった賢治は泉下でびっくりしたのではないでしょうか? 八ヶ岳が出てくる「風野又三郎」と八ヶ岳が出てこない「風の又三郎」 話は代わります。 宮澤賢治の人気作品「風の又三郎」についての話をしましょう。巷間、知れ渡っているのは「風の又三郎」ですが、その元になったのは「風野又三郎」という小説です。現在、書籍となって読まれているのは「風の又三郎」です。しかし「風野又三郎」の方が“圧倒的”に面白いと私は思っています。 「風野又三郎」は主人公の「風の妖精:風野又三郎」が縦横無尽に活躍します。この主人公は、子供には見えるけれど学校の先生には見えない設定になっています。一方「風の又三郎」はかなり真面目な話になっていて、学校の先生にも見える設定になっています。お時間のある時にぜひ、読み比べてください。どちらも著作権が切れているので、青空文庫で読むことができます。 「風の又三郎」 「風野又三郎」 注:「風野又三郎」は所々、原稿が欠けています。草稿だからでしょう。 その「風野又三郎」には唐突に甲州の八ヶ岳が出てきます。サイクルホールという遊びを風野又三郎がするのです。サイクルホールは、風のいたずらのような意味だと思います。 “十人ぐらいでやる時は一番愉快だよ。甲州ではじめた時なんかね。はじめ僕が八ヶ岳の麓の野原でやすんでたろう。曇った日でねえ、すると向うの低い野原だけ不思議に一日、日が照ってね、ちらちらかげろうが上っていたんだ。それでも僕はまあやすんでいた。そして夕方になったんだ。するとあちこちから 『おいサイクルホールをやろうじゃないか。どうもやらなけぁ、いけない様だよ。』ってみんなの云うのが聞えたんだ。” 賢治は岩手の人です。八ヶ岳がいきなり出てくるのは違和感がありますね。 「風の又三郎」の名前は山梨県の清里高原にその元があるという説があります(文献2、3)。 写真:風切りの松がある一帯の全景、風野三郎社など 山梨県北杜市高根町清里に「風切りの松 風の三郎」という大きな松の木があり、その横に小さな祠があり、「風の三郎社」といいます。八ヶ岳の方から吹いてくる強く冷たい北風を「八ヶ岳おろし」と言います。八ヶ岳には「風の神様」がいて風を吹かせている。そういう伝説があります。その風の神様の名前を「三郎」とか「風の三郎」と言っていました。その神様を「風の三郎社」という祠まで作って祀っていたのです。 前述の保坂嘉内は、この松のスケッチを書き残しています。嘉内は地元の八ヶ岳に何回も登っているので、登山途中にここを通ったのでしょう。そして、賢治に八ヶ岳の「風の三郎」の話をしたのだろうと想像されます。何回もその話を嘉内がするので賢治は「保阪さん、またか、また風の三郎の話か」とでも言っていたのでしょう。それが「風の又三郎」に結びついたと想像してもおかしくないでしょう(文献2)。 この風切りの松の木や祠(ほこら)は清里高原にある「そば処清里 北甲斐亭」というおそば屋さんの裏手を5分くらい登ったところにあります。興味がある方は訪れてみてください。 前述のサイクルホールの話ですが、残念なことに原稿を推敲している内に賢治の気が変わったのか「風の又三郎」から八ヶ岳は消えています。 宮澤賢治が八ヶ岳に来ていれば面白いのですが、足跡はありません。 しかし、賢治は “甲斐に行く万世橋の停車場をふっとあわれにおもひけるかな” という歌を詠んでいます。 「Tokioの唱歌」と称する「歌」数編を詠み、保阪嘉内宛の手紙に記しています。その中の一つにこの歌があります。今は新宿駅が始発となる中央本線ですが、以前は万世橋駅(まんせいばしえき)が始発で、保阪嘉内のいる韮崎まで続きます。そう思うとこの歌は恋の歌のようにも思えます。 ※万世橋駅は、中央線の神田駅と御茶ノ水駅の間にあった駅で1943年休止(事実上、廃止)となっています。 話は代わります。 賢治の童話「なめとこ山の熊」の主人公の猟師の名前は “淵沢小十郎” です。山梨県の北杜市にある小淵沢という地名から、思いついたとしか思えません。これも八ヶ岳が好きだった保阪嘉内つながりだろうと思います。 という訳で、八ヶ岳山麓に行く機会があったら、こんな話もあったと思い起こしてくだされば幸いです。 【参考文献】 宮澤賢治友への手紙 宮澤賢治著 筑摩書房 宮澤賢治の青春“ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって 菅原千恵子著 角川文庫 心友―宮澤賢治と保阪嘉内 大明敦著 山梨ふるさと文庫 余話1: 保阪嘉内の甲府中学の同級生に「林髞(はやしたかし)」がいます。条件反射で有名なロシアのパブロフの元で研究し後に慶應義塾大学医学部生理学教授になります。「木々高太郎」の名前で小説も書いて、直木賞を受賞しています。林と保阪は甲府中学時代から仲が良く、それもあって保阪嘉内は甲府中学時代から文学に目覚めていたようです。 余話2: 星が見つかると名前がつけられます。ある小惑星は「Miyazawakenji」と命名され、ある小惑星は「Hosakakanai」と命名されています。宮澤賢治は銀河鉄道の夜という名作を書いているので、小惑星に賢治の名前が付けられたのは自然な話です。 保坂嘉内の名前が小惑星につけられたのはなぜでしょう。賢治の親友だから、名付けられた訳ではありません。嘉内は甲府中学時代にハレー彗星を見て、詳細なスケッチを残していたのです。そのスケッチは天文学的にとても貴重で、それゆえに天文学会が、ある小惑星に「保阪嘉内」の名前をつけてくれたのですね。期せずして、天空に親友同士の名前がついた星が輝いていることになります。何だか詩的で良い話だと思います。 余話3: 八ヶ岳のそばに「茅が岳」という山があります。標高1704mです。中央線からもよく見えますし、中央自動車道からもよく見えます。八ヶ岳に似ているので「ニセ八つ」の異名があります。「日本百名山」に茅が岳は入っていません。しかし、この山で「日本百名山」の著者“深田久弥(ふかだきゅうや、1903-1971)”が亡くなったので、「日本百名山」ファンの間で「茅が岳」は有名です。深田久弥はこの山に登っている時に脳卒中で倒れました。この時に救助に向かったのが、何でも鑑定団に出演した保阪庸夫先生です。携帯電話も無く、ドクターヘリもない時代です。保阪先生が急変した深田久弥の元に着いたのは、脳卒中を発症してから随分と時間が経っていて深田久弥はすでにお亡くなりになっていたそうです。それはともかく、茅が岳は深田久弥が最後に登った山と言うこともあり、人気があり登山口の駐車場は土日祝日になると混雑しています。駐車場から頂上まで3時間あれば登れます。頂上からの眺めはとても良い山です。 余話4: アザリアの中心メンバーの出身県、生年月日、没年、死因を示します。当時の盛岡高等農林学校には全国から学生が集まっていたのですね。お一人を除いて若くしてお亡くなりなっています。 左上:保阪、右上:宮澤左下:小菅、右下:河本 メンバー名出身県生年月日-没年死因 河本義行鳥取県1897年3月21日-1933年7月18日(33才)水死 宮澤賢治岩手県1896年8月27日-1933年9月21日(37才)結核 保阪嘉内山梨県1896年10月18日-1937年3月8日(41才)胃がん 小菅健吉栃木県1897年3月12日-1977年5月30日(80才)肺気腫 保阪嘉内は「アザリア」のメンバーの手紙を全てきれいにスクラップして残していました。なにか感ずるところがあったのでしょう。後年、そのメンバーの一人が没後、人気作家となり、手紙が一通数百万円でやりとりされるようになるとは夢にも思わなかったでしょう。今なら、メールでやりとりするか、またはLINEで会話をするかもしれません。随分と味気ない時代になってしまいました。大切な手紙は、手書きで書きましょう。 余話5: 「雨ニモマケズ」の中に「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」とあります。玄米を1日4合とあります。賢治の時代農作業は重労働でした。一日に4合では少なめだったのです。太平洋戦争中「一日ニ玄米四合」が問題になります。食糧不足で一日玄米四合も食べられなくなったからです。「一日ニ玄米四合」は贅沢だと言うことになり、教科書は「一日ニ玄米三合」と書き換えられています。悲しい話ですね。 余話6: 本稿で紹介した宮澤賢治の73通の手紙全てが、2016年7月9日(土)~8月28日(日)山梨県立文学館で特別展示されたことがあります。私は、見に行きました。本物には、迫力がありました。 賢治の手紙のひとつです。「熱」が感じられますね。 さあ、お仕事、勉強をしっかりやりませう。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2018/03/19 前回、第二次世界大戦が終わり日本に米軍が進駐し、その米軍の間に広まった性病治療にペニシリンが大量に使われたことを紹介しました。性病とは性行為により感染する病気で、その代表格が「梅毒」です。ペニシリンをはじめとした抗生物質が広く使われるようになり、この病気はかなり下火になっていました。しかし、ここ数年、急増しています。 数年前から、新聞、TVなどで、梅毒が急増しているとの報道を度々見聞きするようになりました。例えば、 急増する「梅毒」…20代女性などで増加 放置すると脳や心臓に合併症も 早期検査を(産経新聞 2018/1/23) 梅毒が大流行、42年ぶりの感染拡大 20代女性で急増、厚労省は「危機的な状況」(BuzzFeed Japan 2016/12/19) などです。 多数の報道があります。ここ数年、「指数関数的に」と言っても過言では無いほど「梅毒に罹患する方」が増えています。梅毒は、日本では感染症法における「5類届出伝染病」ですから、診断がついたら保健所にその旨を届け出る義務があります。 その梅毒の届出数が5,000人を越えているのです。実際の患者数は未治療、未診断、無自覚、無届けなどがあり、その10倍や20倍あるいはもっと多いかもしれません。 図1:梅毒患者報告数の年次推移 (厚労省「感染症発生動向調査」より ※平成29年は速報値) コロンブスが持ち帰ったとされる病気 アメリカ大陸の「風土病」だったとされる梅毒は、1493年のコロンブスがアメリカを「発見」したことに伴い、ヨーロッパ中に猛烈な勢いで伝播したとされています。性病予防を行わない男女間の通常の性行為におけるHIV感染率は0.1%程度ですが、梅毒は10%程度と推定されています。つまり同じことをしても梅毒の方が100倍感染しやすいのです。HIVはキスでは感染しませんが、梅毒はキスでも感染します。それくらい梅毒は感染力が強いので世界中にあっという間に広まったのでしょう。 コロンブスと一緒に「アメリカ」まで行った水夫の一人、Juan de Moguer(ファン・デ・モゲール)は、スペインに帰国後典型的な梅毒症状が出現し2年の経過で大動脈瘤破裂により亡くなったとされています。死ぬ直前には進行性麻痺(痴呆)が出現し、英雄だった彼は、悲惨な最後を送っています。 ちなみに、Moguerはモゲールという地名です。Moguer町は優秀な船乗りを数多く輩出していました。Juan de Moguer(ファン・デ・モゲール)は「モゲール町のJuan(ファン)」さんくらいの意味でしょう。コロンブスの航海にはJuanという名前の水夫が8名もいたので、地名で区別をしていたのでしょう。梅毒は後に「鼻がもげる」病気としても有名になります。その病気にヨーロッパで最初に罹ったのが「モゲール町」出身です。日本人にしかわかりませんが、奇遇です。それはともかく、あっという間に梅毒はヨーロッパ中に広まりました。 ポルトガルの探検家、バスコダガマが1498年、インドに到達しインドにも広がります。バスコダガマご一行様は病気も広めてしまったのです。インドから、東南アジア、中国へ、そしてついに、1510年頃(室町時代です)日本に到達します。梅毒は元々日本には無かった病気です。平安時代、鎌倉時代、室町時代初期には梅毒を思わせるような記録や文献が一切ありません。その梅毒は1510年頃、日本にも伝わり(倭寇が中国から持ち帰ったらしい?)、あっという間に日本中に広まります。 なぜ、そんなことがわかるかというと、京都に住んでいた医師「竹田秀慶」が1512年に書いた「月海録」に「唐瘡:とうそう、唐の国から伝来した病気の意」や「琉球瘡:りゅうきゅうそう、琉球伝来の病気の意」という名前で、梅毒にそっくりな症状を持った患者さんのことを記しているからです。それまで目にしたことが無かった病気ですから、竹田秀慶医師は詳細な記録を残したのでしょう。こういう病気の記録があると色々なことがわかります。記録することは大切です。「月海録」以降、「梅毒」を思わせる所見を書いた文章や梅毒における皮疹の図が無数、記録され残っています。1512年に京都で患者さんが見つかっているということは、おそらくその数年前に、日本のどこかに伝わっていたのですね。鉄砲伝来が1543年ですから、それよりも30年前に、新大陸の病気が極東の日本まで到達したのですね。コロンブスの航海が1493年ですから、地球をぐるりと回って、日本に来るまで10数年しかかからなかったとも言えます。 当時は、治療方法も診断方法も無い病気ですから、罹った人はもちろん、医師も苦労します。杉田玄白が晩年に書いた「形影夜話」には「毎年1000人位の患者さんの治療をしたが、そのうち7-800人くらいは梅毒だった。医師として、数万の梅毒患者を診たが、治療の手立てがなかった」と嘆いています。江戸時代に埋葬された骨の研究者は「江戸時代、その人口の約半分は梅毒に感染していた」だろうと推測しています。それくらい広まっていたのですね。 梅毒の原因菌が判明したのは1905年です。ベルリン大学の細菌学者「フリッツ・リヒャルト・シャウディン(Fritz Richard Schaudinn)」とベルリン大学付属シャリテ病院(今もヨーロッパ最大の病院)の皮膚科医Eric Hoffmnn(ホフマン)が梅毒患者の硬性下疳(患部に出来る数cmの硬いしこりにできる潰瘍)からの浸出液中にらせん状の菌(スピロヘータの一種である梅毒トレポネーマ (Treponema pallidum))を発見したのです。 野口英世が梅毒トレポネーマの発見者だと勘違いされている方がいます。野口英世は、死亡した進行性麻痺(痴呆)を発症して亡くなった梅毒患者さんの脳の中に梅毒トレポネーマを発見し、梅毒末期に生じる進行性麻痺(末期梅毒による痴呆)の原因が「梅毒トレポネーマ」であることを証明したのです。これは、「病原菌が痴呆という精神疾患を生じさせることを世界で初めて報告した」野口の素晴らしい業績です。 野口は、梅毒トレポネーマの培養にも成功したという論文を書いていますが、今に至るまで追試に成功していません。こちらの発見は、おそらく間違いだったのでしょう。 それはともかく、梅毒トレポネーマが発見されるまで、梅毒の治療というと、日本でも欧米でも「お祈りをする」か、「加持祈祷をする」くらいしか「手立て」が無かったのです。1905年に原因菌がわかっても治療方法は、なかなかわかりませんでした。しかし、オーストリア人医師ユリウス・ワーグナー=ヤウレック(Julius Wagner-Jauregg: 1857-1940年)は画期的治療法を発見しました。進行した梅毒患者に、マラリアを感染させるという治療です。ヤウレック医師が診ていた「進行した梅毒患者さん」が、マラリアに罹患したところ、梅毒によると思われる症状が軽快したのを見逃さなかったのが、この治療発見の元です。 色々な研究で梅毒トレポネーマは41度で死滅することもわかりました。マラリアによる発熱(多くは42度を越える高熱を発する)で、梅毒トレポネーマが死滅させるという「肉を切らせて骨を断つ」ような治療です。多くの梅毒患者さんにこの「マラリア感染治療」が行われ、効果が認められました。その功績に対して1927年のノーベル医科生理学賞が授与されました。当たり前ですが梅毒は治ったけれどマラリアで死亡してしまう人も多く、勿論、今では行われません。こんなに危うい治療でも「ノーベル賞」が授与されるくらいですから、ペニシリン発見以前には、この病気がいかに人類の脅威だったかがわかります。 この「マラリア感染療法」とほぼ同時期の1910年、医師であり細菌学者であった秦佐八郎とドイツの細菌学者エールリッヒが、ヒ素から梅毒特効薬の「サルバルサン」の開発に成功します。これがいわゆる「化学療法」治療薬第一号です。こちらの方が、本来、ノーベル賞に値すると思います。しかし、サルバルサンはヒ素から出来た化合物で、副作用が多く、梅毒の治療にはあまり使われませんでした。そして、ついに梅毒治療の特効薬である「ペニシリン」が使われるようになり、日本でも梅毒患者を診ることはほとんど無くなりました。 私は、感染してからあまり日が経っていない新鮮感染の梅毒患者さんは数人しか見たことがありません。そういう患者さんは感染症を専門とする先生のところに紹介していますが、最近、その先生の病院では毎週のように、梅毒患者さんの入院や治療依頼があるのだそうです。「10年前にはあり得ない話、いったいどうなっているのだろう」と仰っていました。 近年、爆発的に梅毒が増えている原因ですが、どの報道でもその原因は不明だとされています。しかし、私には、その原因が何となくわかります。グラフ「スマートフォン契約数の推移・予測」(MM総研)と、先ほどの図1の梅毒の患者報告推移と一緒に見てください。平成19年(2007年)にiPhoneが発売され、インターネットの接続が容易になりました。それに少し遅れて、梅毒感染者数が増えているように思えます。いわゆる「出会い系サイト」の出現が、梅毒の急激な増加の原因だと思います。「出会い系」というオブラートに包まれたような言葉で隠されていますが、実態は「買春、売春」です。管理者がいませんので、病気も野放しになっていると推測されます。ゆめゆめ近づいてはいけません。 最後に梅毒という病気について、簡単に症状と病期を記します。「3」という数字がキーワードです。 ペニシリン普及以前、「梅毒の診断ができて、初めて一人前の内科医だ」という言葉があったくらい、多彩な症状を示します。 第1期 そういう関係があってから、3週間後、感染部位に数cmのしこりができます。 しこりは潰瘍になることもあります。多くは鼠径部のリンパ節腫脹および圧痛を認めます。 これらは、自然に治ってしまいますが、感染力はあります。 第2期 それから3ヵ月経つと、病原菌が体中にばらまかれ、皮疹を生じます。 小さなバラの花に似ているので、バラ疹と言われます。小さなバラの花に似ているので、バラ疹と言われます。この発疹も消えたり、できたりします。 第3期 それから3年以上経つと、皮膚や筋肉、骨などにゴムのような腫瘍ができます。 さらに進行すると、進行性麻痺、大動脈瘤を生じます。 診断は、採血でできます。治療は「ペニシリン」です。幸い、未だに「ペニシリン耐性梅毒トレポネーマ」は見つかっていません。ですから、早期に適切な治療がなされると完治します。思い当たるようなことと症状がありましたら、ぜひ検査を受けてください。 なお、予防は、あまり怖いところには近づかない(しない)ことと、フランス語では「capote anglaise(イギリス人の帽子)」、イギリスでは「French letter(フランス人の手紙)」と言われている「モノ」の装着です。 【参考文献】 コロンブスが持ち帰った病気―海を越えるウイルス、細菌、寄生虫 ロバート・S. デソウィッツ(著) 翔泳社 1493――世界を変えた大陸間の「交換」 チャールズ・C. マン(著) 紀伊國屋書店 病が語る日本史(講談社学術文庫) 酒井シヅ(著) 形影夜話(けいえいよわ):杉田玄白著 玄白が70歳の時、1810年に刊行されています。今は、これがPDFで読めます。 Columbus Ships Crew コロンブスと一緒に航海した乗組員の一覧表です。気の毒なJuan de Moguerも入っています。 注1: 梅毒は新大陸(南北アメリカ)から、コロンブスの航海により世界中に広まったとする説が一般的になりつつありますが、元々、コロンブス航海以前から世界中にあったという説もあります。後者は近年の研究で、否定されつつあります。コロンブス航海以前の死亡者の骨をいくら研究しても、梅毒らしい所見が無いからという理由と、梅毒らしい所見を記した文献が無いからです。 注2: 日本名である「梅毒」という名前は、「楊梅(ようばい=ヤマモモ)の実」と梅毒に見られる皮疹が似ていることから、つけられています。確かに似ていますね。 図左:楊梅の実、図右:梅毒による皮疹 注3: 2016年のNature Communications誌に「人間が一夫一婦制であるのは、性感染症対策による」という論旨の論文が掲載されました。先史時代から、基本人類は「一夫一婦制」でした。それはどうやら「乱婚」すると、梅毒をはじめとする性感染症が蔓延し、人口減少につながることが「感覚的」に大昔からわかっていたので、性病蔓延を防ぐ方法として「一夫一婦制」が制度として取られたのだろうという論文です。現代に通じる話を、先史時代に当てはめ、数理学を用いて検討しています。面白いです。 Disease dynamics and costly punishment can foster socially imposed Bauch CT1, McElreath R2. Nat Commun. 2016 Apr 5;7:11219. doi:10.1038/ncomms11219. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2018/03/05 進駐軍がペニシリンを大量に必要とした訳は… ここまで日本におけるペニシリン研究、開発、合成について紹介してまいりました。 今回ではその続きをご紹介して、この日本製ペニシリン「碧素」の話題の結びにいたします。 日本製ペニシリン「碧素:へきそ」の効果はどうだったのでしょうか? 臨床医としてはとても興味があります。きちんとした記録はあまり残っていません。日本で作られた「碧素」は直ちに患者さんに使われました。現天皇、皇后両陛下ご成婚の立役者としても有名な故小泉信三慶応義塾大学塾長が東京空襲で大やけどを負った際の治療にも使われています。その他、多くの感染症の患者さんに使われましたが、系統立てた治療記録は残っていません。戦争の末期の混乱期でそれどころでは無かったのかもしれません。 今回も終戦間近からの時系列的にご紹介してまいりましょう。 ペニシリン委員会の中心だった軍医学校は空襲を避けるために山形に疎開しています。それに伴い、ペニシリン委員会の中心人物の稲垣軍医少佐も山形に赴いています。そういうなか、昭和20年8月6日、広島に原爆が投下されます。 早速、余談になってしまいますが、稲垣は、原爆について1年も前から、軍医学校でその可能性について話をしていたと記録されています。多くの方にあまり知られてはいませんが、当時、原爆を日本も作ろうとしていたのです。理化学研究所の仁科芳雄博士が昭和17年から、原爆製造を目指して研究をしていました。それを稲垣軍医は知っていたのですね。さらに話は横道に逸れますが、雪の研究で有名な物理学者「中谷宇吉郎」博士は、昭和12年すでに原子の力を応用した爆弾が出来ることを予見した文章を残しています。「見える人」には見えるのですね。 広島の原爆被災者の治療にも「碧素」は使われましたが、時期からして十分な量が使われたとは思われません。8月9日には、長崎にも原爆が投下されます。8月10日、稲垣軍医少佐は山形から上京します。そしてすでに敗戦が決まったことを、密かに知り、翌8月11日に「碧素製造に関する秘密特許」を陸海軍大臣の名において申請しました。 敗戦が決まっているのに何故、急いだのか?それについて稲垣は後年、こう書いています。 「戦後、世界貿易における一権益として国産碧素製造技術特許を取っておくことが必要であると思ったからだ。それは、賠償の一助になるかもしれないとも思った」 天皇陛下によるポツダム宣言受諾放送前ですから、随分と目端が利いた話です。そして、後に形は変わりましたが、結果的に稲垣が考えたことが正しかったことが証明されます。 稲垣の目端の良さを表すことがもう一つあります。8月8日、山形の上山駅で多くのソ連人が北海道を目指す列車に乗っているのを見て、ソ連が日本を攻めることにしたので、その前に本州に居るソ連関係者は身の安全のために北海道を経由して樺太に向けて逃げていくところなのかもしれないと思ったそうです。その予想は当たり、翌8月9日、ソ連は対日宣戦布告しました。 8月15日、昭和天皇陛下による「ポツダム宣言受諾」がラジオで放送されます。ついに戦争は終わります。ペニシリン委員会も解散します。 戦争中のペニシリン製造物語はここで終わりますが、ここから戦後のペニシリン製造へと話を続けます。 昭和20年9月初めて日本に米国製ペニシリンが届きました。きちんと精製されたペニシリンは、日本製の「黄色みがかった精製度の低い碧素」と違い、キラキラとした白い結晶で、効果も碧素より数段上でした。梅沢浜夫によると純度は3-5倍だったそうです(梅沢については最後に紹介します)。 しかし、ペニシリン委員会に属した面々は決して負けたとは思わなかったそうです。曰く「物資があれば精製はできた」、「血中ペニシリン濃度を測る方法は日本のディスク法の方が優れていたので、アメリカの雑誌にこの方法が掲載された」etc.と書き残しています。戦争には負けたけれど、物資があればペニシリン製造に関しては負けなかったと自負していた面々が多かったのだと思います。こういう研究者魂は良いですね。 昭和20年のある日、軍医学校の校長だった井深健次らは日本でのペニシリン研究業績と万有製薬が作ったペニシリンをGHQの命令で提出しました。敗戦で、打ちひしがれた日本には産業らしい産業はありませんでしたが、ペニシリン製造があったのです。「青カビがあれば作れるらしい」ということが知れ渡っていたので、製薬会社は勿論のこと、お菓子屋さん、レーヨン屋さん、砂糖屋さんなど様々な企業が、ペニシリンを作ろうとしました。昭和22年、前年に設立された日本ペニシリン協会に正式登録された会社だけでも80数社あったのです。未登録というか、「闇」で作っていた会社もあったかと思われます。 ここは話が多少前後します。昭和21年1月、厚生省(今の厚生労働省)がペニシリンの公定価格を決めます。同年5月に万有製薬が公認製造許可1号を、森永製薬が許可2号を厚生省から交付されます。GHQは東京大学衛生学研究所をペニシリン検定所として定め、単位などを統一します。万有が検定に提出したペニシリン3万単位167本が日本最初の公認ペニシリンでした。ところがその167本の内、なんと107本は「性病向け」に使われたのです。進駐軍(GHQ)は「日本の赤線地帯は戦争より恐ろしい」と言い、その後もペニシリンの大半を「性病治療」に向けたのでした。進駐軍が最もペニシリンを欲していたのです。 ペニシリンを日本で増産するため、昭和21年11月、アメリカからペニシリン研究の権威者の一人であるJ.W.フォスターを招きました。フォスターはこの時、米国でペニシリン生産のために使っていたQ176株を持ってきてくれたのです。覚えていますでしょうか?アメリカのペオリア市でメロンの上に生えていた青カビです。この青カビを用いて、フォスターが教えてくれた深部培養(タンク培養)を用いて、日本での本格的ペニシリン生産が始まります。 フォスターは当時の講演で「このタンク培養はアメリカでも上手く行くまでに3年もかかった。日本ではもっと時間がかかるだろう」と述べています。しかし、結果はそんなにはかからなかったのです。これまでに記してきた如く、ペニシリンへの知識はペニシリン委員会により、全国各地で共有されていたからだと思うのですが、あっという間にタンクが作られます。 大津市の東洋レーヨンでタンク培養が、昭和22年3月に始まったのです。フォスターの講演を聞いてから、たったの4ヵ月しか経っていませんでした。フォスターは大津市の東洋レーヨンでのペニシリン生産の操業開始式に出席し、びっくりしています。それくらいペニシリンに対する知識が普及していたのです。米国の援助もあり、昭和21年には3万単位のペニシリンが月産1万5千本だったのが、同22年には10万単位で6万5千本となり、23年には 25万本となります。 昭和24年、ペニシリン協会の3周年記念講演で、GHQのサムス大佐は「現在、世界の中で、ペニシリンを大量に作れるのは米国、英国、そして日本の3ヵ国しかない。是非、このペニシリンを輸出するように」と述べています。敗戦国だったドイツ、イタリアは勿論、戦勝国だったオランダ、フランス、ソ連でも大量生産はできなかったのです。 そして、昭和25年、朝鮮戦争が勃発したため、ペニシリンの需要が上がり、ついに輸出することになります。 そうです。上記 28. で述べた如く、稲垣の予想が当たったのです。 稲垣克彦先生の写真です(終戦後、警察病院勤務時代) 日本でのペニシリン製造の道を開いた稲垣軍医少佐は、終戦後警察病院で内科医として勤務しています。リウマチの本を書いたりもしていますが、ペニシリンに関しては昭和21年に自らの名前を伏せて「ペニシリン」と題した本を出版しています。しかし、以後はペニシリンに関することからは一切、手を引いています。この辺りの出処進退も潔いですね。 警察病院を退官後は日本橋で開業し、平成15年、92歳でその生涯を終えています。今はほとんど知る人もいないのですが、偉大な生涯でした。 再三、書きますが、キーゼの総説がドイツから届き、彼がそれを読み解いて1年余でペニシリンを作り上げられたのは、彼の指導力の賜物だと思います。医学、薬学、農学、理学、その他、色々なところに目を配り、日本の科学の総力を結集したからこそ戦中戦後の大変な時期にも関わらず短期間に偉大な成果が得られたのだと思います。 日本製ペニシリン「碧素」の話はこれにて結びとさせていただきます。 参考までに: ペニシリン委員会の主立ったメンバーは後に、抗生物質、抗癌剤の分野で活躍します。 その代表が、梅沢浜夫です。梅沢はカナマイシン、ブレオマイシンの発見により、世界中で広く知られています。先般、大村智先生が抗寄生虫薬である「イベルメクチン」の発見に対する業績でノーベル賞を受賞しましたが、イベルメクチンは土壌細菌である放線菌が作る物質です。日本でのこういう研究の「元」は「ペニシリン委員会」だったのだと思います。 現在、平和な日本で、こういう日本の科学力を結集した研究をしようとしても、簡単には進みません。戦時ならではのことだったと思います。 【参考文献】 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン(著), 北村 二朗(訳) 平凡社刊 碧素・日本ペニシリン物語 角田房子(著) 新潮社刊 内容が濃い、凄い本です。是非、新潮新書または新潮文庫で再刊して欲しいですね。 ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル(著), 中山 善之(訳) 佑学社刊 失われてゆく、我々の内なる細菌 マーティン・J・ブレイザー(著) みすず書房刊 水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業:犬丸秀雄関係文書を基にINK科学史研究』266, 2013年, pp. 70-80 深海の使者 吉村昭(著) 文春文庫 中谷宇吉郎全集:1-8巻 岩波書店 抗生物質を求めて 梅沢浜夫 文藝春秋社 くすりの社会誌 西川隆(著) 薬事日報社 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2018/02/19 ペニシリンの大量生産に、日本で初めて、成功したのは御菓子やミルク製品で有名な「森永製菓」 日本で初めて患者さんにペニシリンが使われたのは東北大学病院です。1944年7月、同病院に入院中の敗血症の患者さんに投与されたのです。このペニシリンは劇的に効いて、死の淵にあった患者さんは奇跡的に回復しました。 ここまでが、前回のお話です。 前回に続き、日本におけるペニシリンの研究、開発、合成について時系列で整理していきます。 しかし、思わぬことが原因で研究は一時的に頓挫しました。ペニシリンを産生する青カビは、1944年6月まで、多数見つかっていました。この中から有望な青カビを見つけて、ペニシリンを作ろうとしたのですが、6月になったら、青カビが急にペニシリンを作らなくなってしまったのです。後に分かったのですが、青カビは気温が25度以上になるとペニシリンを作らないのです。つまり6月になり、気温が25度を越えるようになったので青カビはペニシリンを作らなくなったのですね。しかし、9月に入り、気温が下がると、青カビはペニシリンを作り始めたのです。それで一気に研究が進みました。 第6回ペニシリン委員会が1944年10月30日に開かれました。この会議で3種類の青カビが、ペニシリンの大量生産のために使われることが決まりました。 50番(イワタ研究所) 176番(東大農学部藪田教室) 233番(同前) の3種です。 ここまで研究が進んだので「日本でもペニシリンが作れるようになったこと」を公表しました。1994年11月16日のことです。新聞各紙に大きく取り上げられました。稲垣軍医はペニシリンを大量生産するにはどうしたらよいか、そればかり考えていたそうです。お薬の大量生産と実験は別物だからです。宇治科学、三共、帝国臓器などの製薬会社がペニシリンの大量生産に名乗りを上げていました。 しかし、最初に選ばれたのはお薬とは関係の無い乳業会社「森永製菓」でした。森永製菓が選ばれた経緯もあり得ないような話です。 稲垣軍医がペニシリン関連の文献を収集していたことはこれまでにもお伝えしました。その収集した文献の中にエジプトで発行された写真雑誌「パレード」がありました。どういう経緯でエジプトの雑誌が日本に入っていたのでしょうか。興味が尽きませんが、それはさておき、この「パレード誌」の中にどこかの国のペニシリン工場が掲載されていたのです。その工場の写真を見ると、工場内に大きな牛乳瓶の様なモノが林立しており、それがミルクプラントのように見えたのです。それを見て、ペニシリン大量生産にはミルクプラントが利用できるのではないかと、稲垣軍医は考えたのです。 稲垣がパレード誌を読んだのが、1944年11月17日のことです。11月18日には、当時ミルクプラントを持っていた「森永製菓」に連絡をとり、11月19日には、「パレード誌」を持って静岡県三島にある「森永製菓」の工場に赴いています。そして、森永の食品工場でペニシリン大量生産を試みることが決まります。それが11月21日のことです。 稲垣少佐のフットワークの良さというか、着眼点と言うか、面白いです。写真雑誌を見て、それが本当にペニシリンプラントかどうか解らないのに、「何となくミルクプラントに似ているから森永に頼もう」と普通の人は思いつかないと思います。実行力も凄いです。 稲垣は、当時の日本軍が敗戦に次ぐ敗戦状態だったのをうっすらと知っていたから、余計に「早くペニシリンを戦地に届けたかった」と後に述べています。それにしても、エジプトの写真雑誌を見て、文字通り“直ちに”“即日”森永に連絡をして、工場まで見に行く実行力には感服します。それが、結果的に「当たり」だったのです。 森永も偉かったのですね。稲垣軍医の話を聞き、直ちにペニシリン合成のための工場設備を作り上げます。といっても、僅か20坪の小さな工場です。ミルクプラントではありませんでした。森永が持っていたほかの技術を活かして、ペニシリン生産のための設備を数日で作り上げたのです。 20坪の“工場”で、前述の176番株、233番株を使ったペニシリン生産が始まります。終戦前でもう物資が乏しい時代です。元は缶詰工場だった殺菌室を使い、使用済みのシロップ生産用ガラス、ソースを作るのに使ったガラス器具、牛乳からバターとカゼインを取った残りカス「ホエイ」を使った培地など、要するに「廃物利用」をして工場を作ったのです。指導したのは、後にカナマイシンやブレオマイシンの発見で世界的に有名になる梅沢浜夫医師です。 信じがたい話ですが、この工場で12月に入ると、ペニシリン精製液ができたのです。稲垣軍医が、写真雑誌パレードを見てから、2週間しか経っていません。闇雲にやったわけではありません。それまでのペニシリン研究で解っていたことを全て投下したのです。適当に作ったのでは無く、きちんとブドウ球菌に効くのを確かめて作っていたのですから、凄いですね。 森永より一歩遅れて、万有製薬もペニシリン生産を開始します。梅沢の指導を受けて、愛知県岡の製糸工場の設備を用いてペニシリンを作りました。こちらのペニシリンも、指導を受けてから、1ヵ月で製品が完成します。 なお、ペニシリンの製品化に当たり、英語をそのまま使うのは、まかり成らんと言うことで、ペニシリンは「碧素:へきそ」と名付けられました(余話1参照)。 1944年12月23日、第7回ペニシリン委員会が開かれました。その席上、森永製菓と万有製薬が作ったペニシリン精製液とが、披露されました。第1回ペニシリン委員会が発足してから、僅か10ヵ月で、ペニシリンの商業生産ができるようになったのです。 これらのペニシリンは実際に患者さんに投与され劇的な効果を挙げています。たくさんの奇跡的治療例が得られたのです。碧素は全国民が渇望するお薬になりました。物資不足で大変だったと思いますが、両社ともに生産量を上げ、1945年8月にその生産のピークを迎えていました。 1945年8月15日、日本は終戦を迎えます。結局、日本でのペニシリン生産は、太平洋戦争に間に合ったと言えますが、米軍がペニシリンを大量に戦地で使用したのと違い、日本製ペニシリンは戦地では細々としか使われなかったのです。 しかし、他国からの情報が閉ざされた日本で、わずか10ヵ月という短期間で、敗戦国日本が世界で3番目のペニシリンの大量生産に成功したのは誇っても良いことだと思っています。 潜水艦がドイツから、キーゼの総説が載った雑誌を持ってこなければ、アルゼンチンからの「ペニシリン報道」が無ければ、稲垣軍医という稀有のコンダクターがいなければ、効率よくペニシリンを作る青カビを見つけることできなければ、つまりさまざまな偶然が重ならなければ、この偉業はなしえなかったと思います。色々と考えさせられます。 次回が日本製ペニシリン「碧素」のお話の最後です。 戦争が終わったのに、日本ではペニシリンが大量に必要とされるようになりました。何故でしょう?今に通ずる話です。以下、次回に続きます。 図1: 日本製ペニシリン「碧素」です。下の方に森永薬品とあります。碧素と名付けられていますが、碧色(へきしょく≒青緑色)はしていません。碧素をつくるカビが碧色だったので碧素なのです。 注:このペニシリン(碧素)は「公益財団法人 日本感染症医薬品協会」の所蔵物で、現在内藤記念くすり博物館に寄託されています。この写真は同博物館のホームページにあり、同協会、同博物館の許可を得て掲載しています。 こぼれ話1: ペニシリンの製造特許は、ペニシリンを発見したイギリスではなくて、ペニシリン大量生産に成功した米国で出願されて成立しています。その様な話が、日本に伝わる訳も無く、日本製ペニシリンに関する製造特許は「日本帝国陸海軍大臣」を出願人として出すことが決まりました。結局、東京空襲のために軍医学校が山形に疎開したため、この特許話は流れてしまいます。 こぼれ話2: 稲垣軍医少佐は終戦を境にして、ペニシリンとは縁を切り、内科医として活躍します。繰り返しますが、稲垣先生が、いらっしゃらなければ、碧素は作られなかったと思います。碧素に関係した方々は、皆さんそう言っています。今でも新薬開発には、稲垣医師のような優秀なオーガナイザーが必要だと思います。 こぼれ話3: 国産ペニシリンの第一号は森永製菓が作りました。しかし、森永製菓は終戦後暫くしてペニシリンの製造を止めています。地元の雑誌(静岡県三島市の「大場誌」)には、「昭和19年10月三島工場で碧素第一号が完成し12月に軍に納入することになり、昭和20年10月に大場工場をペニシリン製造工場として森永薬品と改称し培養販売を続けた」旨の記載があるそうです。前出の写真にも見えますように、「森永薬品」という会社があったのですね。今は森永グループには製薬会社はありません(参考文献9.)。 【参考文献】 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン(著), 北村 二朗(訳) 平凡社刊 碧素・日本ペニシリン物語 角田房子(著) 新潮社刊 内容が濃い、凄い本です。是非、新潮新書または新潮文庫で再刊して欲しいですね。 ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル(著), 中山 善之(訳) 佑学社刊 失われてゆく、我々の内なる細菌 マーティン・J・ブレイザー(著) みすず書房刊 水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業:犬丸秀雄関係文書を基にINK科学史研究』266, 2013年, pp. 70-80 深海の使者 吉村昭(著) 文春文庫 中谷宇吉郎全集:1-8巻 岩波書店 抗生物質を求めて 梅沢浜夫 文藝春秋社 三島市立図書館ホームページ 「レファレンス事例」 http://tosyokan.city.mishima.shizuoka.jp/referencedetail?4&num=1943115 これは凄いレファレンスです。三島市の図書館の調査能力は素晴らしいです。このリファレンスは公開されています。同リファレンスより抜粋、一部をお示しします。 以下、引用 「まず森永の社史を見、別置「K」and「ペニシリン」でヒットした市史を確認、その後地域資料ではないもので裏付けを得ようと、「ペニシリン」で検索して『碧素・日本ペニシリン物語』を確認。ちなみに大場の森永の薬品工場は、現在の大場駅前にあるコーポラス大場の辺りにあった。森永製菓一〇〇年史』p9年表に「昭和19年11.21 三島工場(食品工場でペニシリン生産研究開始(12.10液体抽出に成功、わが国初の大量生産によるペニシリン「碧素1号」完成)」「昭和20年10.1ペニシリン製造を薬品会社大場工場に移管」、p130に見開き解説あり。 また、『碧素・日本ペニシリン物語』p134にも、三島の森永で日本で初めてペニシリンを製造するに至った経緯が書かれている。<資料最終確認日2012年1月27日> 『大場誌』p222の「森永製菓㈱大場工場」の項に「昭和19年10月三島工場で碧素第一号が完成し12月に軍に納入することになり、20年10月に大場工場をペニシリン製造工場として森永薬品と改称し培養販売を続け」た旨記載あり。また、沼津の微生物科学研究所に、梅沢濱夫記念館があったが、記念館は現在東京の研究所内に移転している(記念館の設計は一高碧素会の浦良一氏)。」 引用終了。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2018/02/05 「2番じゃダメですか?」良いんです! 本当? 1943年8月7日に「ドイツ人医師キーゼが書いたペニシリン関する総説」が掲載されたドイツの雑誌「Klinische Wochenschrift誌」が、日本からドイツに赴いた日本のイ号潜水艦により、同年12月に日本に届けられ、日本におけるペニシリン開発が始まったことを前回でお伝えしました。そして、その中心人物が稲垣軍医少佐でした。 日本製ペニシリン碧素(へきそ)の物語(1) 日本にペニシリン研究の「基」をもたらしたのは、「潜水艦」だった 前回に続き、日本におけるペニシリンの研究、開発、合成について時系列で整理していきます。 第1回ペニシリン委員会が1944年2月1日に開催されました。稲垣少佐が中心となって人選をすすめ、医学部、農学部、理学部など色々な分野の研究者が参加しました。この委員会が最初に行ったのは、日本全国からペニシリンを作る(かもしれない)青カビの菌株を集めることでした。それと並行して世界中から、ペニシリンに関する情報を集めることを、関係方面に依頼もしています(繰り返しますが、戦争のため、日本に西洋の科学情報は殆ど入ってこなくなっていました)。 第2回ペニシリン委員会は1944年3月8日に開かれました。この会合で、ペニシリンの実験に要する資材確保を進めることが決まりました。1944年は終戦の前年です。様々な物資が不足しており、実験のための資材調達が一番の問題でした。しかし、ペニシリン研究のためということで、貴重な資材がかき集められました。 1944年3月23日、東京帝大農学部発酵化学研究助手の棟方博久(むねかた ひろひさ)が「菌株120番が分泌する物質は、5倍希釈でも有効」と報告しています。この報告が本邦初の「ペニシリン」の報告だと思われます。棟方助手は発酵化学が専門の研究者ですから、カビに造詣が深かったのでしょう。ペニシリン委員会が発足して1ヵ月足らずで、ペニシリンを分泌する青カビを見つけたのですね。凄い話です。ほかにも、いくつかの「ペニシリン」を分泌する菌株の報告がありました。一方、後述する如く「こっそり」と研究をしていたグループもありました。 このペニシリン合成に関する研究は、「情報戦」「知的な戦い」だと見抜いていた稲垣少佐は、旧制第一高等学校(現在の東大教養部)の学生を、ペニシリン委員会に「学徒動員」します。色々な言語の文献を翻訳させるためです。この辺りの着想が凄いですね。 ペニシリン委員会発足後、約2000種!の菌株が集められました。次々と培養し、ペニシリン合成の可能性を探りました。その中でも、東京滝野川にあった岩田植物生理化学研究所の「イワタ50番」、東京帝大農学部の「M24番」「H9番」などが比較的有望でした。 同年5月16日、第3回ペニシリン委員会が開かれ、それぞれの菌株の検討が行われますが、「ペニシリンを作る菌株」はあるのですが、「低濃度でも有効に効くペニシリンを作る菌株」は見つかりません。大量生産するには、力価の高い(=少量でも良く効く)ペニシリンを作る菌株を見つけることが、一番大切です。 丁度、日本で第1回ペニシリン委員会が開かれた頃に、ペニシリンの合成に成功したフローリーは英国からソ連に赴き、ペニシリン合成の指導をしています。そういう情報が1944年5月9日、ペニシリン委員会にも、もたらされました。 同年7月4日、第4回ペニシリン委員会が開かれますが、これだ!というような菌株の報告はありませんでしたが、少しずつ結果の良い菌株が得られています。 同年8月19日、前述の「イワタ50番」の菌株が250倍希釈でも有効との報告がありました。ほかの菌株もだんだんと力価が上昇していきます。研究開始、半年ですから凄まじい速さだと思います。目標がわかると研究はしやすいとはいえ、簡単な話ではありません。 同年9月1日 、第5回ペニシリン委員会が開かれます。「イワタ50番」東京帝大農学部の「P176番」「P233番」の菌株が有望視されました。これらの株をまとめて、動物実験、大量生産、臨床治験を行うことが決まりました。集中的に、物資、人材を纏めて研究することになったのです。 同時に、非常に面白いことがペニシリン委員会とは別に密かに進行していました。稲垣少佐は公平な方で例の「キーゼの総説」を全国各地の大学や研究者に送り、その後も資料を送り続けていました。しかし、ペニシリン委員会とは全く別に「ペニシリン合成」を目指した研究者がいたのです。東北大学医学部細菌学研究室の方々です。 東北大学医学部細菌学研究室は1944年9月15日に開かれた東北医学会で、その研究成果をいきなり発表しました。9月17日付の全国紙に「東北大学医学部細菌学研究室は米英の研究を遙かにしのぐ、躍進する万能薬を開発!」と報道されます。しかも、既に臨床使用(患者さんへ投与)して、劇的成果を上げたと報道されました。同大学黒屋政彦教授のグループの研究です。 前述したこととはちょっと、矛盾するのですが、何故か、黒屋教授の元には「キーゼの総説」が届いていませんでした。しかし、ペニシリンを英国のフレミングが発見したことはアルゼンチンからの朝日新聞の報道で知っていました。そして、1929年にフレミングが「ペニシリンの発見を発表した」1929年の「イギリス実験病理学雑誌」が東北大にあったのです(前回を参照ください)。それを元に研究していたのです。この雑誌が東北大学にあったのも「奇跡」だと思います。 東北大学では密かにペニシリンの研究が進められていました。日本初のペニシリン合成に成功したのは、東北大学医学部細菌学研究室です。ペニシリンを分泌する菌株を発見したのは近藤師家治(コンドウ シゲジ)医師です。近藤は東北大学医学部を卒業して間もない研究生でした。驚いたことに黒屋教授に命ぜられたわけではなく一人でこっそりと実験をしていたのです。教授に命ぜられた仕事は昼に行い、夜にこっそりとペニシリンの研究をしていたのです。 近藤はフレミングのペニシリン発見時の逸話を真似て、「シャーレの蓋を開けておいた」のです。そうしたらフレミングのときと同様に「効率よくペニシリンを作り、毒性も低い菌株」がその開けておいたシャーレの培地に生えたのです。あり得ないですが実話です。 この菌株を用いて作ったペニシリンで動物実験から人体への投与まで行っています。凄いバイタリティです。1944年4月に動物実験を行い、同月末には、日本初の「ペニシリンの人体への投与」も行ったとされていますが、カルテで確認できるのは、1944年7月、東北大学外科に入院した敗血症の患者さんへの投与です。この「ペニシリン」は劇的に効いて、死の淵にあった患者さんは奇跡的に回復しました。ほかにもカルテで確認できるのは、同大学の外科、皮膚科での計5例の記録です。何れにせよ、1944年7月、日本で初めてペニシリンが臨床使用されたのです。 ペニシリンに関する情報が日本に入って半年しか経っていない時期の出来事です。戦時でありながらも(戦時だからかもしれませんが)、科学者の研究意欲が盛んで会ったこと、イギリスでの開発方法がおぼろげながらでもわかっていたことも、研究が早く進んだ要因だったと思います。 以下、次回に続きます。 注1: 東北大でのペニシリン研究について、ペニシリン委員会は、かなり面白く無かったと思います。後に東北大学のグループもペニシリン委員会に参加します。戦時ですから、感情よりも、実績が重んじられたのですね。普通なら足の引っ張り合いをするような場面ですね。こういうところは、今でも通じるところがあるのではと思いますが、平時では難しいと思います。 注2: 日本が当時行ったペニシリン研究を「二番煎じ」だから、科学、医学の世界ではあまり意味が無いと思う方がいらっしゃるかもしれません。以前、ある議員さんが「2番ではダメですか?」とやって批判されました。科学の世界で「2番は無価値か?」というと実はそうでも無いのではと私は考えています。日本のペニシリン研究は、科学の世界では、いわゆる「二番煎じ」です。でも私は充分な意義があったと思います。日本は世界で3番目にペニシリンの商業生産に成功し、それにより多くの患者さんが助かりました。また、この研究が元になって研究者が育ち戦後の日本で抗生剤の研究が花開いたとも言えます。このペニシリン研究に携わった優秀な研究者は、後に多くの抗生剤や抗がん剤を発見しています。 少し話は変わりますが雪の研究で有名な物理学者「中谷宇吉郎」は太平洋戦争が始まる前、アメリカ発の「原子力に関する細かい実験に関する論文」が異常に増えていることに気づいていました。中谷は、この膨大な数の論文を読んで、遠からず米国で原子爆弾が作られるであろうことを予見していました。原子爆弾を作るには巨額の費用がかかります。大がかりな装置や多くの専門家も必要です。日本で原爆製造を行うのは無理だからそういう米国発の論文をよく読んで(できれば追試実験をして)、世界から置いてきぼりにならないようにする(=2位でも良い)ことが必要であるとする論考を書いたところ「勇ましい人」に批判されました。でも中谷宇吉郎の態度は当時の「物資や研究資金の乏しい日本にとって必要だった」と思います。冷静で現実的な態度だと思います。 そういう冷静な態度を、ペニシリン研究において、とったのが、稲垣少佐です。稲垣少佐をはじめとするペニシリン委員会の目標は英米のペニシリンと同等の効力を持つペニシリンを大量生産するのが目標であり、ペニシリンに対抗して、ペニシリンよりも強力な抗生物質を作ろう(=1番を目指す)などとは考えていません。それだから、早く目標を達成できたと思います。というわけで、状況が許せば「1番」を目指すのは当然ですが「2番や3番では意味が無い」とは思いません。 【参考文献】 碧素・日本ペニシリン物語 角田房子(著) 新潮社刊 これは凄い本です。徹底的に調べて日本でのペニシリン開発経緯を明らかにしています。これぞノンフィクション!と言っても過言では無いと思います。この本が出版された当時、「碧素」開発に携わった方がまだ、ご存命でしたので、貴重な話が聞けています。今、絶版となっています。ぜひ、再版して欲しいですね。 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン(著), 北村 二朗(訳) 平凡社刊 ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル(著), 中山 善之(訳) 佑学社刊 失われてゆく、我々の内なる細菌 マーティン・J・ブレイザー(著) みすず書房刊 水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業:犬丸秀雄関係文書を基にINK科学史研究』266, 2013年, pp. 70-80 深海の使者 吉村昭(著) 第二次世界大戦中に日独間を密かに航海した潜水艦の物語です。とても面白く、しかし、悲しい物語です。 中谷宇吉郎全集:1-8巻:岩波書店 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2018/01/09 ペニシリン研究の「基」をもたらしたのは「潜水艦」だった ペニシリンの発見から、ペニシリンがお薬として、主に米国で大量生産が可能になるまでの奇跡的な経緯を以前お伝えしました。 「ペニシリンの発見及びペニシリンがお薬になる」までのあり得ない偶然の数々の物語(1) 「ペニシリンの発見及びペニシリンがお薬になる」までのあり得ない偶然の数々の物語(2) 「ペニシリンの発見及びペニシリンがお薬になる」までのあり得ない偶然の数々の物語(3) 「次回から、ある国でペニシリン生成製造がとんでもない早さでなされたことを数回に分けてお伝えしようと思います」と以前に当コラムで書いたのですが、筆者の都合で伸び伸びになってしまいました。お詫び申し上げます。今回からその続きをお伝えしようと思います。 英国、米国に次いでペニシリンの大量生産に成功したのは、なんと、米英との戦争に負けた「日本」でした。日本は高温多湿(特に梅雨時)の時期がありますので「青カビ」が多いからでしょうか、比較的簡単?にペニシリンを作ってしまいます。日本でペニシリンが大量生産されるまでの話も、本家本元には及びませんが、それでも奇跡のような嘘のような話の連続なのです。ただの奇跡ではなく、奇跡を起こす根底にはひとえにまじめに真っ当に努力した人々がいたこともお伝えしようと思います。 以前、お伝えしたようにペニシリンの発見者フレミングはペニシリンの発見を1929年「イギリス実験病理学雑誌」に、そしてペニシリン合成に成功したフローリーとチェインはペニシリンの抗菌力についての論文を1940年「ランセット」に載せています。フローリーとチェインは1943年までにペニシリンに関する論文を数編発表しています。外国で発行された雑誌を日本で簡単に見られる時代ではありません。 日本にペニシリン情報が入ったのが、1943年7月くらいだと推測されています。結構早いですね。記録は残っていないのですが、当時の小泉親彦厚生大臣が「アメリカでどんな感染症にも効く新薬が発見された」と演説したと言われていますが、記録がありません。この演説を聞いていた人の伝聞しか残っていません。 はっきりと記録に残っている「日本にペニシリン情報が伝来した日」は1943年12月21日です。当時32歳で陸軍軍医少佐だった稲垣克彦医師の手にペニシリンの医学情報が渡ったと記録されています。稲垣医師は日本におけるペニシリン開発のキーパーソンです。少しわかりづらいのでまとめます。 1943年8月7日、ドイツで発行されている「Klinische Wochenschrift誌:(日本語に訳すなら臨床週報?)」という医学雑誌にペニシリンに関する論文が掲載されました。 これを書いたのはベルリン大学薬理学教室のマンフレッド・キーゼ博士です。論文のタイトルは、"Chemische Therapie mit Antibakteriellen Stoffen aus Niederen Pilzen under Bakterien"です。当たり前ですがドイツ語で書かれた論文です。英文のタイトルは "Chemical therapy with antibacterial substances from various fungi and bacteria."です。これを以下「キーゼの総説」と略します。この論文が稲垣医師の元にドイツから届いたのです。「キーゼの総説」には「青カビから作られた“ペニシリン”と言う物質が様々な感染症を劇的に治す」と書かれていました。 1943年8月7日にドイツで発行された雑誌が1943年の12月21日の東京にあったのが“奇跡のはじまり”です。当時、欧米と日本は情報が途絶されていました。1941年12月8日、真珠湾攻撃により第二次世界大戦が始まり日本は「情報鎖国状態」となっていたからです。特に科学技術や医学に関する世界の情報は日本に入らなくなっていました。 日本の科学者、医学者は情報を渇望していました。戦争の勝ち負けは「武器、兵力」だけでなく、科学の総力戦の一面もあります。良きにつけ悪しきにつけ戦争を契機として科学は飛躍的発展を遂げることが多いのです。ペニシリンに関しても、同様のことが言えます。戦争が無ければ英国や米国でのペニシリン開発もスムーズには進まなかったと思います。 「情報鎖国」におちいっていた日本ですが、手をこまねいていたわけではありません。最新の科学技術情報を同盟国ドイツから得るために、色々な方法が試されました。その一つがなんと潜水艦です。日本海軍の伊号潜水艦がドイツに行き、様々な軍事や科学に関する情報をドイツから持ち帰ろうと画策したのです。言うは易く行うは難しです。日本から、インド洋、喜望峰、大西洋を航行しドイツに行きまた同じ航路を帰ってくるのです。平和な時代でも大変です。それに加えて途中の洋上には敵国の目が光っています。それをかいくぐる必要があります。結局、5隻の潜水艦が日本から、ドイツに赴いていますが、無事日本に帰ってこられたのはたった1隻です(この辺りは参考文献6が詳しいです)。その一隻によりドイツから日本にペニシリンの情報がもたらされたのです。 それを稲垣軍医が読んだのですね。キーゼの総説を読んでペニシリンの効果にびっくりした稲垣は日本でも直ちにこの「ペニシリン」なるモノを作らないと大変なことになると思ったのです。キーゼ博士の総説はそれくらい、インパクトがあったのですね。当時、ドイツ領になっていたオランダのデルフトでもドイツ政府によるペニシリン研究が始まっていましたが、その研究もこの論文を基に始まっています。 しかし「キーゼの総説」にペニシリンの詳しい作り方が書いてあるわけではありません。どうやら「青カビがペニシリンなる物質を産生しそれが感染症の治療に役立つ」らしいくらいのことしか書いてありません。それでも稲垣は直ちにペニシリンの検討会を組織します。とはいえ研究資材も少なく、簡単に研究が始まったわけではありません。 以下わかりづらいので時系列にします。 なお、上述した1929年にフレミングが「イギリス実験病理学雑誌」に発表した「ペニシリン発見」に関する論文ですが、奇跡的なことに日本にもある大学にもあったのです。この論文を所蔵していたのは日本でただ一つの大学だけでした。このような雑誌が日本に入っていたことも凄いですね。この論文は、英国でもそうであったように、日本でも誰にも省みられてはいませんでした。それは他の諸外国でも同様です。フローリーとチェインが目を付けるまでこの論文は「お蔵入り」していたのです。何れにせよ日本にこの論文があったことはとても重要でした。この論文にはペニシリンの作り方の基礎技術が書かれていたからです。 さて日本でのペニシリン開発の顛末を時系列で記していきます。 1943年8月7日号の「Klinische Wochenschrift誌」に「キーゼの総説」が掲載される。この論文はフレミング、フローリー、チェインの書いた論文の解説です。ドイツにはどうやら中立国から、フレミング、フローリー、チェインの論文が届けられていたのですね。それを読み解いて解説したのが「キーゼの総説」です。何時の時代も情報は大切です。 ベルリンの日本大使館に「科学文献収集」のためだけに日本から赴いていた文部官僚の犬丸秀雄氏(後の東北大学教授)がこの「キーゼの総説」が載っている「Klinische Woch-enschrift誌」を日本からドイツに赴いた日本海軍の伊号潜水艦に積み込みます。そして、同艦は1943年10月5日、ドイツを出発。 注:後に犬丸氏はこの「Klinische Wochenschrift誌」を特に選んだわけでは無い、記憶にも無いと記しています。たまたま、ベルリンの日本大使館に置いてあった雑誌を潜水艦に積み込んだのでしょう。それが後に大きな影響を与えるのだから、何が幸いするかわからないですね。ちなみに犬丸秀雄氏は東京大学法学部出身の文系文部官僚です。1943年からベルリンが陥落する1945年5月まで、ベルリンから西欧の科学情報を日本に様々な方法で送っています。戦後は本業の法学で東北大学教授になったり、アララギ派の歌人として「海表」という歌集を出版したりもしています。要するに科学技術関係とは全く無関係な仕事をしています。多分、医学にはあまり造詣が深くなかったと想像される犬丸氏がたまたまキーゼの総説が載った雑誌を日本に送ったのも“奇跡的出来事”だと思います。 伊号潜水艦はドイツを発ってからちょうど2ヵ月後の1943年12月5日、シンガポールに着きます。そこで多分、科学文献を潜水艦から降ろして飛行機で東京まで運んだと推察されています。何故、そう推察されるかというと、前述の如く、同年12月21日、東京で稲垣少佐は「Klinische Wochenschrift誌」を入手して読んでいますが、同潜水艦が広島の呉に帰還した日が、12月21日ですので日付が合わないのですね。記録には残っていませんが、多分、シンガポールから東京まで飛行機でこの雑誌が運ばれたのだろうと推測されるわけです。 1943年12月21日、「ペニシリンに関するキーゼの総説」を読んだ稲垣少佐はその夜、軍医仲間に同論文を見せました。その中に後年「カナマイシン」を発見して世界的に有名になった梅沢浜夫医師がいました。その梅沢が「キーゼの総説」をドイツ語から日本語に翻訳することになりました。 1944年1月5日、梅沢の翻訳した「キーゼの総説」を稲垣少佐の軍医仲間で回し読みします。 1944年1月27日にイギリス首相チャーチルの肺炎が「ペニシリンという新薬で治癒した(これは誤報で実はサルファ剤で治療されていた)」との記事が朝日新聞で大々的に報じられました。アルゼンチン在住の朝日新聞記者の特ダネでした。アルゼンチンは中立国だったのでそういう情報が入ったのですね。この報道をうけて同日、陸軍軍医学校に対して「直ちにペニシリン研究を始めて同年8月までに研究を完成させよ」という命令が大本営から発せられました。考えて見れば、誤報(ペニシリンとサルファ剤を間違えた)から日本のペニシリン研究が始まったともいえます。これも一つの奇跡でしょう。誤報でなければ、サルファ剤はすでに日本でも作られていたので話題にもならなかったと思います。 ペニシリンを研究するための委員会を作ることが決定され、稲垣少佐が中心となって人選をすすめ、第1回ペニシリン委員会が1944年2月1日に開催されます。 ここから、凄い展開となります。 終戦(1945年8月)まで、残り19ヵ月しかありません。物資も乏しい中、どのように日本でペニシリンを作ったのでしょう。 以下、次回に続きます。 余話1: 第二次世界大戦中の話ですから英語である「ペニシリン」には和名がつけられています。公募して「碧素:へきそ」と名付けられました。命名者は旧制の第一高等学校(後の東大教養部) の学生さんでした。後藤寬さんという方です。この方は後に銀行に勤めていますから医学には全く関係無いのですが日本医学史の片隅に名を残しています。「碧(へき)」は“青い”という意味です。紺碧の空、紺碧の海などの表現がありますね。 余話2: 現在、高脂血症の薬として世界中で広く使われている「スタチン」ですが、その元はペニシリン同様「青カビが分泌する物質」の研究から見つかっています。「京都の米穀店で見つかった青カビ:ペニシリウム・シトリナム(Penicillium citrinum)が産生するML236という物質に含まれる「コンパクチン」からスタチン研究は始まったのです。コンパクチンは世界初のスタチン薬です。これを発見したのは旧三共製薬の遠藤章博士でした。スタチン研究開発の元をたどれば「青カビ」なのです。どういう経緯で「京都の米穀店」の青カビが、旧三共製薬の研究所に運ばれたのでしょうか?この経緯を書いてある本や資料はありませんでした。コンパクチンを分泌する青カビ「ペニシリン・シトリナム」が日本で見つからなければスタチン開発は遅れていたかも知れません。あまり知られていないけれど、高脂血症の特効薬スタチンも青カビが産生する物質から始まったことはもっと知られて良いですね。 【参考文献】 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン(著), 北村 二朗(訳) 平凡社刊 碧素・日本ペニシリン物語 角田房子(著) 新潮社刊 これは凄い本です。徹底的に調べて日本でのペニシリン開発経緯を明らかにしています。何故か絶版となっています。是非、再版して欲しいですね。 ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル(著), 中山 善之(訳) 佑学社刊 失われてゆく、我々の内なる細菌 マーティン・J・ブレイザー著 みすず書房刊 水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業:犬丸秀雄関係文書を基にINK科学史研究」266, 2013年, pp. 70-80 深海の使者 吉村昭(著) 第二次世界大戦中に日独間を密かに航海した潜水艦の物語です。とても面白く、しかし、悲しい物語です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/5/15 お薬を「発見」しても、すぐに使える訳ではありません。良いお薬を発見するのは大切ですが、それを世に出すには、 (1)大量生産ができること (2)安全性を確かめること (3)他の薬との比較 などが必要です。 フレミングは青カビから分泌する物質(ペニシリン)に抗菌作用があることを発見しましたが、それで直ちにペニシリンが世の中で広く使われるようになった訳ではありません。 今回はどのようにしてペニシリンが世の中に出ることができたのかについてのお話です。なお、ペニシリンは今でも現役バリバリのお薬です。経口摂取しても体内への移行性が良いので、今でもグラム陽性球菌感染症にはファーストチョイスです。 重要だった奇跡、米国イリノイ州ペオリアの地 フレミングが諦めたペニシリンの精製にフローリーとチェインが挑戦を開始、1940年に純度0.02%のペニシリンの精製に成功した後、さらに精製技術を上げて、純度は3%まで上げることができたところまで前回ご説明いたしました。 さて、フローリーとチェインは精製した純度3%のペニシリンを、致死量の連鎖球菌を感染させた4匹のマウスに投与してみました。4匹のうち3匹は死にませんでした。ペニシリンを投与していないラットは“致死量の連鎖球菌感染”ですから、全部死亡しています。これは、凄いことなのです。この発見は1940年8月の「ランセット」で「化学療法剤としてのペニシリン:PENICILLIN AS A CHEMOTHERAPEUTIC AGENT」として発表しています(LANCET:Volume 236, No. 6104, p226-228, 24 August 1940)。 翌1941年の夏までに実際に連鎖球菌、ブドウ球菌に感染した患者さんにペニシリンが投与され、劇的な効果を挙げます。その結果もやはり「ランセット」に発表しています。しかし、この論文が掲載された前後、ヨーロッパは大変なことになっていました。 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が始まり、翌1940年5月10日にドイツ軍はヨーロッパ西部へ侵攻6月14日ドイツ軍はパリを占領し、フランスは降伏し、同年8月からドイツ空軍の爆撃機・戦闘機がイギリス本土空爆を開始しています。要するに、フローリーとチェインが実験をしていたイギリスは、戦争に巻き込まれていたのです。 素晴らしい結果を残したペニシリンの精製技術と効果でしたが、戦時下にあってドイツ軍の攻撃を受けていたイギリスではペニシリンの大量生産はできませんでした。そんな余裕は無かったのです。そこで1941年6月フローリーは青カビ(ペニシリンノターツム)を携えてアメリカに渡り大量生産を図ることにしました。アメリカ政府は、フローリーが持ちかけたこのペニシリン大量生産計画に賛成し、全面的な援助をすることを決定し、以後、事態はペニシリン大量生産に向けてどんどん良い方向に進みます。 フローリーは、最初にイリノイ州ペオリア(Peoria, Illinois)にある米国農務省地域研究センターに行きます。そこには農産物から有用な化学物質を作るための大規模実験施設があったのです。 ここでもまた偶然が訪れます。この実験施設では、トウモロコシからデンプン(コーンスターチ)を作る過程でできる「コーン・スティープ・リカー(Corn Steep Liquor)」という液体シロップを実験に用いていました。このコーン・スティープ・リカーを用いて青カビ(ペニシリンノターツム)を培養するとカビの成長が、とてつもなく、早くなったのです。このコーン・スティープ・リカーが大量に使えたので、実験が一気に進みます。 ペニシリンに関する奇跡や偶然について、当時の実験担当者は「ペニシリンに関する奇跡はたくさんある。その中で、一番知られていないけれどとても“重要だった奇跡”は、実験を行った米国イリノイ州ペオリアにあるこの農務省地域研究センターが、カビを培養するのに最適な“コーン・スティープ・リカーを使用できる唯一の場所だった”ことである」と書いているくらいです。 ペニシリンの大量生産を可能にしたのは さらに偶然が続きます。 米軍は世界各地にいる軍隊にペニシリンをたくさん作るカビを捜すため「駐留地の土」を集めるよう指示します。そうして世界各地から集めたカビを片端から検査し、できるだけ大量のペニシリンを作るカビを見つけようとしました。中国の重慶、ケープタウンで見つかったカビは有望だったらしいですが、フレミングが見つけた青カビより良くペニシリンを作るカビは見つからなかったのです。しかし、自国内それも、実験施設のあるイリノイ州ペオリアで、一番効率よくペニシリンを作るカビが見つかったのです。このカビは、ペオリアの主婦が持ち込んだ腐ったメロンに生えていたのです。この主婦の名前はペニシリン発見の歴史に残っています。メアリー・ハントさんという方です。メアリーさんはカビが生えて腐りかけたモノをたくさん研究所に届けていたので「カビのメアリー:Moldy Mary」と呼ばれていました。世界中から、カビを集めていたのに、足下で見つかったという話です。作り話のようです。 いずれにせよ、このカビはフレミングが見つけたカビより3000倍!も多く、ペニシリンを作ることがわかり、このカビを用いた商業生産が可能となったのです。このカビの名前は「ペニシリウム・クリソゲナム(P.chrysogenum)」と名付けられました。というわけで、このペオリアで見つかったペニシリウム・クリソゲナムを用いて、ペニシリンの大量生産が開始されます。1943年後半からペニシリンの生産量は一気に上昇します。1944年6月頃にはアメリカの製薬会社では毎月1,300億単位のペニシリンを作っていました。一方、ペニシリンの発見国であった英国では、毎月数千万単位しかペニシリンを作れませんでした。このことでイギリスは影が薄くなります。そして、製造法の特許問題が起き、後に両国の間で争いが生じます。 元々、ペニシリンの製造を始めたのはイギリスのフローリー、チェインです。チェインは元ユダヤ系ドイツ人でしたので、ドイツでは普通だった「産学連携」を経験しています。ですからペニシリンの製造特許を出そうと提案します。しかし、英国王立協会の会長から「生命を救う薬の製造方法に特許を取ることは倫理的でない」として却下されます。なお、当時の英国での特許に関する法律では「天然物」に対する特許は取ることができませんでした。ですから天然物である「ペニシリン」で特許をとることもできませんでした。 そのため「ペニシリン製造に関する」特許は、アメリカの製薬会社に取られてしまいます。イギリスでペニシリンを商業的に製造しようとすると、アメリカの会社に莫大な特許料を支払わねばならないという変なことになってしまったのです。これだけの発見で特許を取らないなど、今ならあり得ない話でしょう。ペニシリンで懲りた英国は特許に関する法律を改正しています。 こうして、米国ではペニシリンの大量生産に成功したので、1944年後半には米軍全体にペニシリンが行き渡るようになり、それは第二次世界大戦の戦勝要因の一つになります。 第二次世界大戦が終わった年(1945年)のノーベル医科生理学賞は「ペニシリンを発見した」フレミングと「ペニシリン製造方法を確立した」フローリーとチェインの3名に与えられました。戦功の意味もあったと思います。 今回まで3回にわたり、 ペニシリンの発見から商業生産に至るまでに、あり得ないような偶然が10数回も生じていたことをお示ししました。フレミングの実験室階下の青カビ、培養ペトリ皿の蓋を開けたままで休暇をとったタイミング、青カビが生える気温、実験動物のこと、フレミングが実験していた「グラム陽性菌」、米国でのコーンスティープリカー使用、ペニシリンを大量に作る青カビが実験施設のある町で見つかったことetc.文字通り「奇跡」の連続です。お時間があるときに、参考文献1.2.をお読みください。 さて、英国、米国に次いで世界で3番目にペニシリンの大量生産に成功した国はどこだかわかりますか? それはとてもカビが生えやすい国でした。 次回から、その国で、ペニシリン生成、製造が「とんでもない早さ」でなされたことを、数回に分けてお伝えしようと思います。 【参考文献】 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン (著), 北村 二朗 (訳) 平凡社刊 ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル (著), 中山 善之 (訳) 佑学社刊 失われてゆく、我々の内なる細菌 マーティン・J・ブレイザー著 みすず書房刊 他、多数。 追記1: アメリカのミリアド・ジェネティクス社は、同社が保有するBRCA1とBRCA2として知られる2つのがん遺伝子に関する特許を申請していました。しかし、2013年6月にアメリカの最高裁判所でその申請は却下されます。BRCA1とBRCA2は人の遺伝子から見つかったモノだから特許にならないとの判断です。この遺伝子を持つと発がん率が高くなります。それを発見したのが、ミリアド・ジェネティクス社です。でも特許は成立しませんでした。これには議論があるところです。例のアンジェリーナ・ジョリーに見つかった遺伝子はBRCA1です。 追記2: ペニシリンが使われはじめた頃の論文を読むと、ペニシリンを注射すると「ただちに」効いたと書かれています。ペニシリンを打つとすぐに効いたようです。速効性があったのですね。それが、今ではなかなか効きません。細菌が抗生物質に対する耐性を獲得しているからです。抗生物質投与による耐性菌の出現は元々ある細菌叢を変化させてしまうことは、今も、そして将来も大きな問題であり続けると思います。 追記3: 今、使われている薬でも「みるみる間」に効く薬があります。芍薬甘草湯(しゃくやくかんぞうとう)という漢方薬です。足がつっている時に飲むとすぐに効きます。漢方薬というとゆっくりのイメージがありますが、結構、速効性のある漢方薬があります。病気が「すぐに治る」薬がたくさんあれば良いですね。 追記4: 現在、抗生物質が一番多く使われるのは「家畜」です。感染予防をするために使っているのではありません。抗生物質を少量投与することで体重が増加するからです。抗生物質を少量慢性投与すると何故か体重が増えるのです。多くの食肉に少量の抗生剤が与えられています。それも問題になっています。 注:さまざまな実験がなされ、どうやら、抗生物質が腸内細菌叢を変化させ、そのために体重増加が起きているらしいのです。人間も同様だという報告もあります。必要で無い時に、抗生物質を使うと、耐性菌の発現も含め、良いことは無いですね。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/4/3 ロンドンの1928年9月3日は、なぜか、涼しかった… 承前、ペニシリウム・ノターツムという、フレミングの実験室階下で培養されていた青カビが、フレミングのペトリ皿に落ちたという「偶然」の話まで前回お伝えしました。 この青カビがフレミングの実験室の細菌培養用ペトリ皿に落下したのも大変な偶然ですが、さらなる偶然がこの年、フレミングの実験室があったロンドンで起きていたのです。それは「気温」です。 ロンドンの夏は結構涼しいのですが、フレミングのペトリ皿に青カビが落ちたこの年(1928年)のロンドンは例年と違いとても暑かったのです。本来であれば、青カビがペトリ皿で発育できないとされるくらいの暑さだったのです。しかし、フレミングがペトリ皿を開けて旅行に出かけてしまったとされる、まさにその日(1928年9月3日)、気温が下がったのです。気温が下がった日が数日続き、その間に青カビがペトリ皿内で先に発育し、暑さがぶり返すとブドウ球菌が遅れて発育してきたのです。この数日間の気温変化が無ければ、青カビと細菌が一緒に育つことはなく、一緒に育たなければ青カビが分泌する物質(後のペニシリン)について気づく訳もなく、人類のペニシリンの発見にはまだ時間がかかったかもしれません。 後年、青カビとブドウ球菌は一緒に生えないことに気づいた研究者がいて、1928年の気温を調べたら、上述の如くの気温変化があったことがわかり、“こんなことはありえない。この気温変化こそ、ペニシリン発見に至る一連の偶然の中の「偶然」である”と書いています(注:今の様に空調設備がある時代ではない事を留意してください)。 さらに偶然が続きます。 前回も書きましたが、そもそも青カビ周囲のブドウ球菌が死滅していたのを見ても、普通は何も考えずに捨ててしまうと思います。実際にフレミングがこの発見を周りの研究者に見せても彼らはあまり関心を持たなかったのです。しかし、フレミングは「鼻汁に含まれている物質(リゾチーム)で細菌が死滅すること」を発見していましたので、自然界に抗菌物質(=細菌を殺す物質)が存在することを自分で確かめていたのです。ですから青カビ周囲に菌が生えていないのを見て、青カビから「リゾチーム」と同じような抗菌物質が分泌されているのだと確信し、青カビが分泌している物質を追求します。青カビを液体培養し、その抽出液をブドウ球菌が生えている培地に振りかけました。すると、あっという間にブドウ球菌は死滅しました。1000倍程度薄めてもその効果は変わりませんでした。フレミングは、この青カビが分泌する物質を「ペニシリン」と命名しました。しかし、残念なことにフレミングが発見したこの「ペニシリン」は不安定で数週間で、殺菌効果が無くなります。青カビが分泌する物質の本体もよくわかりませんでした。「ペニシリン」はブドウ球菌や連鎖球菌、肺炎球菌、髄膜炎菌の様なグラム陽性菌を死滅させます。フレミングが実験していたのは、まさにそのブドウ球菌でした。ほかのグラム陰性菌(例えば、コレラやペスト、大腸菌)の実験をしていたらペニシリンの効果はわからなかったでしょう。これもある意味、偶然です。 まだ、まだ偶然が続きます。 フレミングは「青カビがペニシリンという物質を分泌すること、ペニシリンはきわめて殺菌力が強いこと」を1929年の「イギリス実験病理学雑誌」に発表します。これが後々、非常に大きな意味を持ちます。フレミングは学会でもこの発見を発表するのですが、こちらは省みられること無く終わってしまっていました(なお、この論文は日本にも届いていました。名古屋大学にです。この論文が日本にあったことが、太平洋戦争のために情報遮断されていた日本におけるペニシリンの研究開発に役立ったのです)。 この論文が雑誌に掲載された1929年のことです。 後にフレミングと一緒にノーベル賞を受賞するフローリーとチェインは、フレミングが1922年に発見した「リゾチーム」に興味を持ち、実験を開始します。1929年1月17日付のフローリーの実験ノートに「リゾチーム」の見出しと、さまざまな臓器抽出物を「フレミング」に送ったという記述があるから、そういうことがわかるのですね。実験ノートは大切です。この3人は、後にノーベル賞を一緒に受賞するのですが、当時はそんなことは夢にも思わなかったでしょうね。 それから9年が経ちます。1938年のことです。フローリーとチェインのチームは「リゾチーム」とは別の抗菌物質を探していました。「リゾチーム」は抗菌力が弱いからです。その時に、偶々!読んだのが、1929年に掲載されたフレミングのペニシリン発見に関する論文でした。「リゾチーム」に続いての抗菌物質ですから「また、フレミング先生か?」とでも思ったかもしれません。 一方、この頃、フレミングは何をやっていたかと言うと、 1. ほかにも抗菌物質を分泌するカビが無いかどうかを捜し続けていました。 注:ほかには見つかりませんでした。 2. ペニシリン・ノターツムという青カビを大切に保存し、小分けし、英国の色々な研究室に配っていた。 注:ほとんどの研究室では無視されています。当たり前です。カビを送られても、困ったでしょう。 その小分けされた青カビは、上述の如く、リゾチーム研究ですでにフレミングと知り合いだった「フローリーとチェイン」が所属する研究室にも届いていました。チェインは、実験助手が、カビが生えている培養フラスコを運んでいるところに遭遇し、「何のカビか?」と問うと助手は「フレミング先生から送られてきたペニシリン・ノターツムという青カビです」と答えたのです。ですから「ペニシリン・ノターツム」の研究を開始しようとしていたフローリーとチェインは、直ちに実験を開始できたのです。こう言うことは、とても大切です。普通は、フレミング先生に依頼状を書いて、送ってもらったりしなければいけません。今なら、秘密保持契約を交わしたり、色々と面倒な手続きが必要でしょう。後に、フローリーとチェインは「我々はペニシリンを研究した。なぜならそのカビが自分の実験室にあったからだ」と書き残しています。 しかし、これは、偶然でしょうか? 私は、偶然半分、必然半分だと思っています。フレミングの真面目さ、丁寧さが、この偶然を生んだと思います。 ここで、当時のフローリーとチェインの立場を紹介します。 1. オーストラリア人でオックスフォード大学の病理、生理学者ハワード・ウォルター・フローリー(Howard Walter Florey, Baron Florey、1898 1968):1935年からオックスフォード大学病理学教授。 2. ユダヤ人の血を引いたために迫害されてナチス・ドイツからイギリスに逃げてきていたドイツ人 生化学者エルンスト・ボリス・チェイン(Ernst Boris Chain:1906-1979):1935年からオックスフォード大学病理学講師。 要するに、1935年から、フローリーとチェインはオックスフォード大学病理学教室で働いていたのです。 フレミングから送られた青カビ「ペニシリン・ノターツム」を利用して、フローリーとチェインは、フレミングが諦めてしまっていた「ペニシリン」の精製に挑戦します。実験すること2年、1940年に純度0.02%のペニシリンの精製に成功しています。それを2匹のマウスに注射します。マウスは死にませんでした。実は、もし、この実験に使われた動物がモルモットだったら、状況は変わっていたと言われています。動物実験の段階で実験終了となっていた可能性が高いのです。ペニシリンは、モルモットにとっては有害物質で、投与すれば、死んでしまったでしょう。使った実験動物がモルモットで、ペニシリン投与により死んでしまったら「毒か?」と思って実験を止めてしまった可能性もあります。マウスを使ったのも、運が良かったのです。これも偶然のひとつでしょう。 フローリーとチェインは、この時点でペニシリンの抗菌力がとても強いことに気づきました。100万倍に薄めても細菌の発育を抑制することがわかったのです。さらに精製技術を上げて、純度を高めることを目指し、0.02%から3%まで上げることができたのです。 今回は、フレミングができなかったペニシリンの精製をフローリーとチェインが成功したところで、終わります。 次回は、この後、フローリーとチェインの成功が、後に国家間の争いにまで発展してしまったというお話を含め、まだまだ続く、ペニシリンに纏わる多くのあり得ないような「偶然」のお話を続けます! 関係無いような、あるような追記 これは健康な8歳男児の手にいるバイキンを培養した写真です。 出典:http://www.microbeworld.org/component/jlibrary/?view=article&id=13867 さまざまなバイキンがいることがわかると思います。 この写真には少なくとも「ブドウ球菌」、「ミクロコッカス」「セラチア菌」「バシラス属」がいて、それぞれの細菌は「色」を持っています。 なんで、こんなことを書くかというと、フレミングの趣味!はこの細菌が持っている色を用いて「絵」を書く事だったのです。そういう「趣味」があったことも、ペニシリンの大発見につながったと思います。残念なことにフレミングが書いた「細菌絵画」は残っていません。バイキンの繁殖する数時間だけ「絵」になったのですね。今なら、デジカメ、スマホで簡単にカラー写真が撮れるので、残すことができると思いますが、カラー写真など夢の時代のことです。 【参考文献】 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン (著), 北村 二朗 (訳) 平凡社刊 碧素・日本ペニシリン物語 角田房子(著) 新潮社刊 ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル (著), 中山 善之 (訳) 佑学社刊 他多数あり。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/2/6 ペニシリンの発見に重なった10数個の「偶然」 北海道以外の日本には、他国では見られない特殊な「梅雨」という「雨期」があります。梅雨時は、じとじとべとべとして、体に負荷がかかります。カビが生えやすいので難渋しますね。ロンドンに行かれた方もあるかと思いますが、ロンドンの夏は湿度が低くとても気持ちが良いです。もちろん、カビも生えづらいのです。そのロンドンで、ある年の夏、繁殖した「カビ」が歴史的大発見につながります。今回から、そのカビにちなんだ話をします。 感染症治療の大きなトピックは、「バイキン」を殺すお薬、化学療法剤ができたことでしょう。 最初は1910年に梅毒の治療薬としてサルバルサンの合成(独:エールリッヒと日本人:秦佐八郎による)です。次は1935年のサルファ剤の合成(独:ドーマク)、そして1928年のフレミング(英国@ロンドン)による「ペニシリンの発見」と続きます。この順番は、お薬として使われるようになった順番です。ペニシリン発見がなんと言っても真打ちでしょう。ペニシリンの発見は、サルファ剤の合成より時期は早かったのですが、フレミングが「ペニシリンの発見」をしてから、この「発見」は無視に近い扱いをされていたのです。そのため、実際にペニシリンが「お薬」として使われるようになったのは1940年のことです。化学療法剤としては、3番目です。サルバルサンは、ヒ素から合成された薬で、副作用も多く、あまり使われませんでした。今では「歴史上」のお薬になっています。もちろん、使われていません。サルファ剤やペニシリンは今も現役で大活躍しているお薬です。 今回から数回にわたって、「ペニシリンの発見からお薬に至るまで」をご紹介いたします。 いまさら、ペニシリンか? 「ペニシリンは、フレミングが実験に使っていた細菌培養皿にたまたまカビが生えて、そのカビ周囲の細菌が死滅していたのに気づき、そこからペニシリンの合成が始まった」 と思われているようです。確かに、そう書いてある本も多いのです。しかし、実際はそんなに単純な話ではありません。「史上最高の偶然」とも言える出来事が次々に起こらなかったら、「ペニシリン発見」も「ペニシリンをお薬にすること」もできなかったのです。それについて、縷々、ご説明しようと思います。 「ペニシリンの発見、および種々の伝染病に対するその治療効果の発見」に対して、1945年のノーベル医科生理学賞が授与されました。受賞したのは、3人です。 1. イギリス人 細菌学者フレミング(1881-1955) 2. オーストラリア人でオックスフォード大学の病理、生理学者フローリー(1898-1968) 3. ユダヤ人の血を引いたために迫害されてナチス・ドイツからイギリスに逃げてきていたドイツ人 生化学者チェイン(1906-1979) フレミング以外の、フローリーとチェインの名はあまり知られていないと思いますが、ペニシリンという「お薬」の合成に成功したのは、実はこの二人なのです。だから3人の受賞なのです。 さて、その「偶然」です。「ペニシリンの発見からお薬に至るまで」には、ペニシリンの発見には、私は少なくとも10数個の「偶然」が重なったと思っています。皆さんもこれからの話をお読みになれば、「そんな事はあり得ない!」と思われるでしょう。 鼻水を垂らしたことから発見へ フレミングはスコットランドに生まれ、1906年イギリスのセントメリー医学校を卒業、卒後第一次世界大戦に従軍します。そして戦闘で負傷した兵士がキズの感染に苦しめられるのを目の当たりにします。そして、そこで、最初の大発見をします。それは「消毒薬は傷に効かないどころか有害で、白血球をも殺してしまうので感染予防にならない」ということを発見したのです。それを論文に書いて、British Journal of Surgeryという雑誌に載せています。1919年の事です(The action of chemical and physiologicalantiseptics in a septic woundという論文名です。参考文献7参照)。 今から、約100年も前に、消毒薬を使うとキズは治りにくくなること(消毒しても、キズの感染予防にならないどころか感染を助長し、キズの治癒を遷延させること)を論文にしています。この論文を読むと、その実験の精緻さに、ため息がでます。フレミングが38歳の時に書いた論文です。 第一次世界大戦が終了し、フレミングは細菌について研究を始めます。1921年11月のことです。最初の偶然が彼を訪れます。フレミングは風邪を引いて鼻水を垂らしていました。その鼻水がある細菌を培養しているペトリ皿に落ちたのです。ちょっと「うっかり屋さん」ですね。さて、その鼻水が落ちたペトリ皿内で、凄いことが起きていました。培養していた細菌が死滅!したのです。 この発見に驚いたフレミングは、細菌混濁液を作り、そこに自分の鼻水を垂らしてみます。そうすると、2分ほどで細菌により濁っていた混濁液が透明の水のように透き通ったのです。細菌が死滅したからです。 鼻汁だけではなく、涙、唾液にも細菌を死滅させる物質が含まれていることを発見します。同僚や研究室の訪問客の鼻水を採取したりもします。自分の助手には目にレモン汁を垂らして涙を流させて(この辺が常人と違う!)実験を行いました。 その結果、ある種の細菌は鼻汁や涙に含まれている物質で死滅することを発見します。これが「リゾチーム(lysozyme)」の発見です。しかし、この「リゾチーム」は病原性の低い菌には効くのですが、強い感染力を持っている菌には効かなかったのです。なお、フレミングはこの時、すでに細菌実験室の責任者でした。もし、彼が実験助手だったなら「鼻水をたらすな」と怒られて、この発見は無かったかもしれないと、彼自身、記しています。 フレミングは1922-1927年にかけてリゾチームに関する論文を5編書いています。ちなみに今も「塩化リゾチーム配合!」と銘打ったかぜ薬が薬局で売られていて、かぜ薬の定番ですね。しかし、フレミングは、発表が下手だったため「何を喋って何を伝えたいのかわからない」と周囲から言われてしまうほどでした。そのため、一時、この大発見は埋もれてしまいます。しかしフレミングの頭の中には、「細菌を殺すような物質が身近にも存在する可能性があること」が強くインプットされます。そして、何千枚ものプレートを用いて、ひたすら細菌を培養し研究します。フレミングは発表こそ下手でしたが、彼の頭脳は冴えわたり、どんなに小さな変化も見逃さなかったと言われています。キズと消毒の関係を見つけたのもその証左でしょう。 夏休みに細菌培養プレートを放置して生えたカビから発見 2番目の大きな偶然がまた彼を訪れます。1928年7月のことです。フレミングは当時、化膿したキズ、感染した皮膚から採取した「黄色ブドウ球菌」の研究をしていたのです。実はこの「ブドウ球菌」も偶然が作用していました。これはとても重要な偶然でした。彼が研究していたのが大腸菌などのグラム陰性菌なら、大発見に至らなかったからです。 フレミングは夏休みをとり1ヵ月ほど実験室を留守にしました。この時、実験に使っていたブドウ球菌を接種した細菌培養用のプレートを50枚ほど実験台に放置したまま出かけていたのです。これも彼が「うっかり屋さん」だったからでしょう。普通、長い間、研究室を留守にするなら細菌培養用のプレートは洗って片付けていくでしょう。でもそれが幸いします。 9月3日に休暇から帰った時、さすがに1ヵ月も放置した細菌培養プレートにはブドウ球菌がたくさん繁殖していました。そのうちの1枚がカビに汚染されていたのです。普通なら、「カビてる! 早く洗え!」とでも言うところです。しかし、そのカビの周囲にブドウ球菌が見当たらないことにフレミングは気付きます(図1参照)。 図1:フレミングのペトリ皿でおこったことを再現した実験写真 青色部分がカビで白い部分がブドウ球菌。 彼は心の中で「ビンゴ!」と叫んだかもしれません(冗談です)。「リゾチーム」研究で、細菌を殺す物質がこの世に存在することに気づいていた(ここ、とても重要です)フレミングは、この発見を見逃しませんでした。カビ周囲の物質がブドウ球菌を殺していると気付いたのです(実際には殺していません、繁殖を抑えていたのです)。 さて、問題のカビです。一般には窓から入ってきたカビが生えたと言われています。このカビの正式名称はペニシリウム ノターツム(Penicillium notatum:現在の正式名称はP. chrysogenum)という青カビです。実はこのカビは珍しいカビでどこにでもいるようなカビではありません。フレミングの研究室の階下に「菌類学研究室」があり、そこでこの[ アオカビ「Penicillium notatum」を育てていた!のです。この研究室では、ある喘息患者の家で生えていたこのアオカビ「Penicillium notatum」を育てていたのです。なぜ?と思われるでしょう。フレミングが勤めていたセントメリー病院の医師が「この患者の喘息の誘因は、この患者の家に生えているアオカビではないか?」と考え、このアオカビをこの「菌類学研究室」で繁殖させて、カビからの抽出物を喘息治療の減感作療法に使っていたのです。このアオカビが大気中に舞い上がり!フレミングのペトリ皿の上に落ちたのです。凄い偶然です。この「菌類学研究室」でこのアオカビを、治療のために、わざわざ繁殖させていなかったら、フレミングのペトリ皿にこのカビは繁殖しなかったでしょう。元はといえば、喘息患者の家にこのカビが生えていて、それが原因の喘息だと考えたこの患者の主治医がいなかったら、そしてこの医師が減感作療法を思いつかなかったら、フレミングのペトリ皿に青カビは、はえなかったでしょう。なお、このアオカビは普通のアオカビではありません。ペニシリンを分泌する能力を持っていたのです! これら一連の偶然だけでも凄いのですが、さらに凄いことがあの年の夏、ロンドンに生じていたのです。 多分、お話ししても「え!本当?作り話ではないの?」と思われるようなことが実際におきていたのです。次回に続きます。 【参考文献】 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン(著), 北村 二朗(訳) 平凡社刊 碧素・日本ペニシリン物語 角田房子 著 新潮社刊 ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル(著), 中山 善之(訳) 佑学社刊 失われてゆく、我々の内なる細菌 マーティン・J・ブレイザー著 みすず書房刊 水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業、犬丸秀雄関係文書を基にINK科学史研究』266, 2013年, pp. 70-80 深海の使者 吉村昭 著 The Action of Chemical and Physiological Antiseptics in a Septic Wound,” in British Journal of Surgery, 7 (1919), 99?129, the Hunterian lecture この論文をお読みになりたい方は、御連絡ください。 他、多数。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/01/22 必死に走ったあの時 今回は「雪と受験」について持論をお伝えしようと思います。2018年1月12日のニュースです。「明日、1月13日、日本海側には積雪増加の恐れ センター試験の移動に影響がでるかもしれない」というニュースが繰り返し流れています。このニュースを聞いて、本原稿を思いつきました。 昨冬(2016-2017年の冬)鳥取や北海道に大雪が降りました。 2016年12月には北海道で大雪が降り、交通網が寸断されました。 2016年12月23日の毎日新聞などの報道です。 「札幌で積雪96センチ、12月は50年ぶり」 この雪で千歳空港は12月22日、23日と閉鎖され、JR北海道の路線も多くが運休となっていました。 2017年2月13-14日の報道です。 「鳥取、34年ぶり記録的大雪 除雪作業進まず」 「鳥取市で記録的大雪影響続く、路線バス運休・臨時休校も」 「今季最強の寒波が居座り、鳥取で34年ぶりに積雪が90センチを超えるなど西日本を中心に記録的な大雪となった」 閑話休題 鳥取には大学時代に住んでいたので大雪の状況がよくわかります。鳥取は普段あまり雪が降ることは無く道路に根雪があることはまれです。しかし、年に数回大雪が降ります。難儀します(しました)。交通が麻痺するからです。 さて私が最初にこの鳥取の「年に数回しか降らない」大雪に苦しめられたのは、なんと受験日のことでした。以下の話は、今から40年前の話です。 当時、国立大学の入試は、一期校、二期校に分けられ二回受験機会がありました。鳥取大学は一期校でした。一期校、二期校とも二日間にわたって入学試験がありました。受験のため、東京駅から寝台列車に乗って鳥取まで行きました。鳥取市には宿が少なく見知らぬ受験生と相部屋で鳥取駅前の旅館に泊まることになりました。同宿の彼は工学部受験生でした。 1日目の受験日、彼と一緒に宿からバスで受験会場だった鳥取大学まで行きました。バスで30分程度の道のりでした。1日目は晴天で何事も無く終わったのです。夜、宿で食事をしていたら、同宿の彼が「今日は1時間近く早く着いたので寒かった(確かに受験会場が開くまで寒かったのです)ので、明日は一本バスを遅らせよう」と提案しました。それに乗った私も悪いのですが、彼の提案にのり、次の日は前日より15分遅いバスに乗ったのです。それでも時間通りに着けば、受験開始45分前には着く予定でした。 その日は雪が降っていました。最初は大したことが無かったのです。しかし、バスに乗ってしばらく経ったら、見たことも無い様な凄い量の雪が降ってきました。前が見えないくらいの雪です。ほどなくバスがノロノロ運転になりました。何回も止まってしまいます。突然の大雪のため、交通が麻痺しだしたのです。どんどん時間が経っていきます。雪が凄い勢いで降っています。 「雪が降る。あなたは来ない♪♪」ではなく、 「雪がふる♪♪♪バスは動かない♪♪♪」状態です。 今でも良く覚えているのですが鳥取市を流れる千代川(せんだいがわ)に架かっている“八千代橋(やちよばし)”という橋の上で受験開始時刻の9時になってしまいました。しかし、バスの中は、なんとなくのんびりしていました。誰かが「この雪なら試験開始が遅れるよ」と言ったからです。私もそう思っていました。しかしそれは「甘かった」のです。 八千代橋から大学まで3kmくらいです。普通なら10分もかからない距離です。大学前のバス停に近づいたら、先に着いたバスから降りた受験生が一気にダッシュしているのが見えました。バスが大学前に着いたら、大学職員が「9時30分に試験会場を閉鎖します。それまでに試験会場に入らないと受験できません!あと5分です!5分です!」と大声で叫んでいました。瞬間、皆、一斉に駆け出しました。 大学の正門から受験会場だった教室まで400mくらいありました。雪で転ばないように注意しつつ、一生懸命走って何とか9時30分前に滑り込みました。数学の試験でした。すでに始まっていました。2時間の試験時間のうちすでに30分経過していました。全速力で走ったので、動悸が止まりません。寒いバスの中に長時間!いたのでトイレに行きたくなりました。これ以上時間を取られるのは問題を解くには困るのですが生理的欲求です。しかたなく手を挙げて小用に行きました。試験官がトイレまでついてきました。試験官に「雪でバスが遅れたのか?」と聞かれました。「そうです。いきなり雪が降ってきてバスが動かなくなりました」と話したら、「鳥取ではそれは普通のこと、用心しないといけないね」と言われました。 トイレに行って、多少、ゆっくりしたためか、動悸も収まりました。試験場に戻り、問題を見たら、私の日頃の行いが良かったせいか、比較的得意な問題ばかりでした。90分で充分解けたのです。 幸い合格して入学したら受験場で私のすぐ後ろだったというN君が声をかけてきて「前の奴(私のことです)が遅刻したので、しめた!」と思っていたと話してくれました。トイレについてきていただいた試験官は歴史学の「河手龍海」教授でした。歴史学の講義が終わったあと「受験の時はトイレまでついてきていただき、ありがとうございました」と挨拶に行ったら、河手先生も覚えていて「良く受かったね」と言われました。というわけで、私の受験は「滑り込みセーフ」だったのです。アブナイ話です。受かったから笑い話で済みますが落ちていたらあるいは試験会場到着が数分遅れ、試験会場に入れなかったらと思うとぞっとします。 雪国の大学を受ける受験生には、 雪が降るとアブナイから、寒くても良いから、少しでも早めに会場に着くこと 天候がおかしいと思ったらバスでは無くてタクシーを利用すること を勧めています。 後年、サッカーのオシム監督が「ライオンに追われているウサギは脚をつったりはしない」と言っていました。まさにあの時、大学正門から受験会場の教室まで走った私がそうでした。 私の大雪と受験の話は、これだけでは終わりません。それから、1年が経ち、今度は弟の受験に付き添って、札幌に行くことになりました。甲府から札幌までの道中です。私は、高校の同級生が北大にいたので、弟が受験している間、彼と「札幌で遊ぼう」と約していたのです。札幌に行くのは初めてでした。弟も初めての札幌で初めての大学受験です。しかし、今度も大雪に苦しめられました。 余裕を持って、受験の2日前に札幌に着く予定にしていました。羽田空港に着いたら「雪のため、札幌行きは本日全便欠航です」と言われました。目の前が真っ暗になりました。今なら、スマホで情報も早く手に入れることができるのでしょうが、当時は、そんなことは不可能でした。この時点でとるべき方法は2つです。 東京で宿泊して次の日の便を待つ 列車で行く の2つでした。飛行機の便は、当たり前ですが、すでに次の日は全便満席でした。飛行機で行くなら、空席待ちをしないといけません。しかも、翌日も天候状況からして、飛ばない可能性が高いと言われました。すぐに国鉄(当時:「JR」は1987年~)の駅に行って、上野から青森行きの切符を購入しました。この時点で上野から青森までは列車が運行されていること、青函連絡船が運航されていること、函館から札幌の列車が通っていることは確認したのです。 寝台列車の切符がとれず、夜行の普通車に乗って一晩かけて青森駅に着き、青函連絡船に乗り、函館までようやく着いたと思ったら、今度は大雪のために函館―札幌間の列車が運休となっていました。万事休すでした。弟が可哀相でした。明日は試験です。繰り返しますが、スマホやインターネットなど無い時代です。情報が入りません。 私は自分のこと(雪が降り、そのために、多くの人間が遅刻しても非情にも入試が行われた)があったので、明日、入試が行われるだろうと思いました。函館から札幌行きのバスも運休です。ふと見たら、タクシーが停まっていました。そうです、タクシーなら行ってくれるかもしれません。 停まっているタクシーに、片端から声をかけましたが、札幌まで行ってくれるタクシーはいませんでした。懇願したら、1台だけ行っても良いと行ってくれたタクシーの運転手さんがいました。料金の交渉をしました。事情を話したら、それは可哀想だからと、大幅に負けてくれたのです。今でもその運転手さんにはとても感謝しています。こうして、弟と二人、函館から札幌まで雪道をタクシーで行ったのです。雪国の運転手さんですから、雪上の運転がとても上手く、凄いスピードで札幌まで連れて行ってくれました。6-7時間かかったと思います。試験前日の夕方に無事、札幌に着いたのです。 ホテルに着いたら「大雪のため、試験は1日延期となった」との連絡が入っていました。ほっとしました。私はもちろん、弟も疲れ果てていたのです。次の日は丸1日ゆっくりと休み、十分な休養を取り、無事受験することができました。弟が受験している間に、高校時代の友達と、小樽、余市、札幌で観光を楽しみました。良い思い出です。弟も合格を果たしましたのでこのドタバタ道中も今では兄弟間での笑い話となりました。 私も弟も、受験時に雪で苦しめられました。しかし、このようなことは本来あってはいけないのです。冬に受験を行うのは不利なことが多すぎます。 何年にもわたって頑張って勉強しても、受験シーズンが真冬では、 受験会場への道のりが雪に左右される可能性がある 雪で転倒する可能性がある(特に雪になれていない受験生) 風邪やインフルエンザにかかる可能性がある というリスクが誰にも付きまとうのです。風邪やインフルエンザに罹患するかどうかと「受験勉強の努力」とは無関係です。インフルエンザにかかり、本来なら、外出してはいけない時期でも受験日が重なるなら無理してでも受験するでしょう。そしてウイルスを試験会場で周囲にばらまきます。今年も、そういうことが多々起きていると考えます。少し考えても不確定要素が極めて多い「真冬」に受験日を設定するのは、どう考えても変です。 そこで「受験は5月下旬~6月上旬に行うようにして、9月入学とすれば良いだろう」というのが私の持論になりました。5月下旬~6月上旬に行えば、 上記1-3の可能性が低くなること 欧米アジアの大学の入学時期は9月が多く、足並みをそろえることが出来るので他国からの留学生を受け入れやすくなること(4月入学は調べた限り日本だけです) 3月一杯は普通に授業が出来るので、今の制度では中途半端に終わる「3年生3学期」がきちんと行われること 卒業式がきちんとしたカタチで行われること 花粉症のピークは過ぎていること など、良いことだらけだと思いませんか? 諸外国の大学の入学の時期を調べてみました。 南半球の国の1-3月は、日本では6-9月に相当します。北半球にある欧米のほとんどの国が9月に新学期が始まります。それから類推すると入学試験時期は6-7月でしょう。日本もそれを見ならった方が良いと思います。 受験改革の提案が、度々、なされますが、受験時期をずらすのが一番重要な受験改革だと思っています。 現在のように、1月-3月という感染症に罹る確率が高く、天候も不安定な時期に人生を決めてしまうかもしれない大切な試験を行う合理的理由があれば、誰か私にご教示下さい(「4月は桜が咲く」からとか、「昔から決まっている」からというのは、非合理的理由です)。 今日(2018年1月12日)日本海側~北海道の大雪報道を聞き、その意を強くしました。それはともかく、受験生の皆さん、体調や天候に気を付けて頑張ってください。 大雪、寒波の報道を聞きながら記しました(2018-01-12)。 2021-01-14の追記: 2020年からCOVID-19が流行っています。「冬」の状況ははかなり悲惨です。私の持論が取り上げられることを希望します。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/12/18 すべての冠疾患治療の恩恵を受け、米国副大統領になった患者さんの物語 前回で冠動脈疾患については終了しようと思っていましたが、最後にちょっとだけお付き合いください。 冠動脈にまつわる診断や治療についてお伝えして参りましたが、これまでに紹介した冠動脈疾患の診断や治療のほぼ全てを受けて、今も元気で活躍している方がいます。それは、チェイニー元米国副大統領です。 そのチェイニー氏が引退後に心臓病治療について書いたのが、ディック・チェイニー、ジョナサン・ライナー共著『心臓』です。同書によると、チェイニー氏はカテーテル、PCIは元より、スタチン投与、β-ブロッカー投与、ARB投与、ICD装着、冠動脈バイパス術、心臓移植など、ありとあらゆる冠動脈治療を受けています。そのような治療を受けつつ、副大統領にまでなり、心臓移植を受けた後も元気で活躍しています。もう少し、生まれるのが早ければその恩恵を受けることはできなかったと思います。ある意味とてもラッキーな人生を送っています。 彼は1941年生まれです。元々、ヘビースモーカーでした。なんと、12歳から煙