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大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2025/03/03 今村均大将と甲府の古守豊甫医師 古守医師は、当院と関係の深い、エミリオ森口医師につながります 前回、旧日本帝国陸軍の今村均大将のことを紹介しました。関連した本を読んでいたら、当院と極めて関係の深いブラジルのエミリオ森口先生の話が出てきました。びっくりしました。世界は広いようで狭いです。 本題です。 今村大将と甲府、山梨とのつながり 前回、今村均大将(以下敬称略)は小児期から旧制中学(甲府中学:現甲府第一高校)の一年生まで山梨で過ごしたことをお伝えしましたが、山梨とのつながりはそれだけではありません。今村は1918年-1921年、英国で日本大使館付き武官補佐官として過ごしました。その帰国船中で禅僧の大森禅戒禅師(1871年-1947年、後に曹洞宗の管長や永平寺七十世貫首となる名僧です)と一緒になります。 大森禅師は当時、現山梨県甲斐市竜王にある慈照寺の住職でした。今村は、帰国後も度々、甲斐市竜王にある慈照寺を訪れ、大森禅師に教えを乞うていました。また、今村はクリスチャンではありませんが、6歳の頃から近所の方に連れられて甲府のキリスト教会の日曜学校に通い始め、それは陸軍士官学校入学前まで続きます。戦地にも聖書を持参していて、「聖書から教えられることが多かった」と自著に記しています。その元は甲府のキリスト教会です。 今村は戦後戦犯として異国の地(ニューギニアの小島マヌス)の監獄で過ごし、昭和29年ようやく東京巣鴨の拘置所に移されました。その今村の下を甲府の古守豊甫医師(1920年-2008年、以下敬称略)が訪れます。古守は軍医としてラバウルで従軍中、一度、今村に会っていますが、今村は兵士7万の大将ですから特に古守のことを覚えていた訳ではありませんでした。古守はニューギニアの小島で苦労をした今村をねぎらいに訪れたのです。今村は訪ねてきてくれた古守との縁を大事にし、以後、甲府を何度も訪れます。今村の言によれば、 「6歳から14歳まで主として甲府で育った」 「甲府は交通の便が良いのと思い出の山河を目にするのも楽しい」 ので度々甲府を訪れたそうです。 「錦町にある裁判所の辺りから談露館(だんろかん)にかけては気品がある町だった」 「太田町には美味い団子屋があった」 などとも述べています。 話はそれますが、談露館は皇室も泊まる甲府の老舗旅館の名前です。私の実家は談露館の隣でした。気品ある町で育ったのですが……(笑) 古守医師のこと 古守は旧甲府中学出身(俳人飯田龍太の同級生です)、長じて東京医科大学に進学、卒業後直ちに軍医としてラバウルに派遣されました。卒業後、すぐに戦地に赴いたので臨床医として未熟だった(と感じた)ので、戦後、東京医科大学に戻り研鑽を積み、博士号を取得後、甲府で内科医院を開業しています。 開業の傍ら、ラバウルでの経験を「南雲詩」と題して出版しています(1963年 金剛出版刊)。この本はラバウルでの経験のみならず、同地で兵士達が書いた和歌や俳句、そして、なにより、この本のタイトルにもなっている同医師が詠んだ漢詩「南雲詩」を紹介しています。 この「南雲詩」は古守が25歳の時に詠んだ漢詩です。凄すぎて評する言葉がありません。 表紙を書いているのは日本画家「望月春江」です。 この本は471頁もあります。序文は今村が書いています。古守の文章は熟れています。章立ても良く読みやすい本です。失礼ながら甲府の一開業医が書いた本とは思えないくらい「本として成熟」しています。読み進むとその「種明かし」が書いてありました。この本は徳富蘇峰の秘書をしていた、そして敏腕編集者としても有名だった、藤谷みさを氏が古守の話をまとめ、本の編集もしたのです。本の完成度が高いのは当然です。藤谷は古守の患者でした。東京の病院から紹介されて甲府まで来て古守の病院に入院して結核の治療を受けていました。様々な縁がありますね。藤谷がまとめたとはいえ、古守の文章は素晴らしいです。 古守医師の本には「おまけ」が付いていた この本には「おまけ」が付いていました。「おまけ」は古守がラバウルまで持って行って、持ち帰った紙です。縦:2cm 横:4cm くらいの紙切れが「こぼれ落ちないような工夫」が施されて本に挟まっています。戦争当時、紙は貴重品です。よほど大事にしていたのだと思います。 前回「古守先生がラバウルまで持って行き、とても大事にしていた紙を私が持っている理由は?」などと記しましたが、これがその答です。 古守医師の世界的な業績とブラジルの森口先生 古守といえば、医療の世界でも有名人です。山梨県上野原市棡原(ゆずりはら)の地が世界有数の健康長寿村であることを見いだし、長生きをするためにはどうしたらよいかを研究をしています。穀物・野菜食が長寿の原因であると考え、それを発表します。「棡原長寿研究」として有名になり、国内外の医師、研究者が古守の下を訪れます。 古守の著書「健康と長寿の道しるべ(1989年 風濤社刊)」に挙げられている研究者を列挙します。 ※肩書きは当時 近藤正二教授(東北大学、長寿学) 鷹觜テル教授(岩手大学、栄養学) 光岡知足教授(理化学研究所・東京大学、腸内細菌学) 阪本寧男教授(京都大学、民族植物学) 加藤肇教授(神戸大学、植物病理学) 平宏和(栄養学) 橘礼吉(石川県立博物館、民俗学) 安孫子昭二博士(東京都埋蔵文化財センター) 松谷暁子博士(東京大学、考古学) 小林央往教授(山口大学、雑草学) 海外からは 森口幸雄教授(リオ・グランデ・ド・スール・カトリック大学、長寿学) WHO調査班 A.シタラム博士(全インド雑穀改良計画) S.パンダ博士(コルカタ大学、植物学) L.カンハスワン博士(ラジャバト大学、環境教育) など様々の分野の方が、古守の元を訪れています。なかに私どものクリニックと縁が深いエミリオ森口先生のお父様の森口幸雄先生の名前が挙がっていました。びっくりしました。こういう思いがけないことを知るのは読書の楽しみの一つですね。 エミリオ森口先生(現:ブラジル、リオグランデ・ド・スル連邦大学大学院教授)に伺ったところ、先生もお父様の森口幸雄先生と共に、度々山梨県上野原市棡原や甲府を訪れていたとのことです。森口幸雄先生は、古守から棡原での研究を聞いて古守医師の唱えている方法をブラジルでも実践。それを様々な学会で報告しています。森口幸雄先生は現在99歳で御元気とのことです。棡原での研究が実を結んでいるのかも知れません。それにしても、まさか古守の本を読んでいて森口先生の名前が出てくるとは思いもよりませんでした。 エミリオ森口先生が撮影した棡原を訪れたお父様の写真です。真ん中のコート姿が森口幸雄先生です。この写真はエミリオ森口先生から頂きました。 結核の治療医だった古守医師が栄養に興味を持ったのはなぜか? 結核診療を主にしていた古守が、なぜ、栄養を考えるようになったのか?その答は上述の書「南雲詩」の中にありました。ラバウルは熱帯にあります。日本軍の兵士は熱帯の暑さに負けるのに対してラバウルの現地民は元気に生活しています。それを不思議に思った古守は、現地人の食事を分析、ラバウルの現地民は脂肪分が30%もある食事を摂っていることに気付き、それをまとめて日本軍に対して「食事にもっと脂肪を増やすこと」を提案しています。 ラバウルで行ったのと同じような栄養分析を、古守が18歳の時に代用教員として過ごした棡原で行ったのが「棡原長寿研究」です。棡原には長寿の方が多いことに気づき食事を分析したのです。この研究に対して「日本医師会最高優功賞」が授与されています。こういう観察ができるのは、一握りの優れた科学者だけです。 今村均大将謹慎室を山梨県韮崎市に移築 今村が逝去してから15年後の1983年、古守は今村が出所後謹慎生活を送っていた三畳の謹慎室が処分されてしまうという知らせを受けました。この貴重な謹慎室を今村と縁がある山梨に移築することを計画。今村の御家族と相談、最終的に、ラバウルで今村の部下だった故中込藤雄氏(1917-2014)の家の敷地内への移築が決まりました。1990(平成2)年5月27日今村均大将謹慎室を東京都世田谷区より山梨県韮崎市に移築、今もきちんと保存されています。 古守は、軍医として、研究者として、開業医として、文筆家として、人として、それぞれ一流の仕事をしています。それだけでなく、角田房子に本を書かせるほどの熱意があります(前回参考)。この「熱」こそ、古守の真骨頂だと思います。古守医師は「超人」だと思っています。生前にお目にかかり、お話しを伺いたかったです。 【参考文献】 角田房子 著:責任 ラバウルの将軍今村均(現在、ちくま文庫)1984年 岩井秀一郎 著:今村 均 敗戦日本の不敗の司令官 (PHP新書)2023年 古守豊甫著:南雲詩(金剛出版)1963年 古守豊甫著:健康と長寿への道しるべ(風濤社)1996年 水木しげる:カランコロン漂泊記(小学館文庫) 文藝春秋 2023年12月号 など 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2025/02/03 名将の話が、なぜか、当クリニックと関係の深いエミリオ森口先生につながります 今回と次回(3月更新分)では、旧日本帝国陸軍の大将だった方を紹介します。その方に関連した本を読んでいたら、当院と関係の深いブラジルのエミリオ森口先生(ブラジル、リオグランデ・ド・スル連邦大学大学院教授)の話が出てきました。びっくりしました。世界は広いようで狭いです。エミリオ森口先生に関するお話は次回で紹介します。 はじめに 本屋さんで岩井 秀一郎著「今村 均 敗戦日本の不敗の司令官」(PHP新書:2023年)という本を見かけました。陸軍大将だった今村均(1886年-1968年)に関する著書は、自著も含め、多数出版されています。雑誌などでも度々、特集が組まれたりします。直近では2023年12月号の文藝春秋に「今村、本間、栗林:旧制中学出身の非主流派は戦場で活躍する」と題されて紹介されていました。 その今村の名前を広く知らしめたのは角田房子(1914年-2010年)が書いた 「責任 ラバウルの将軍今村均」(ちくま文庫) だと思います。 医療に関係無い同書を読んだのは、角田の著書「碧素ペニシリン物語」(新潮社 1978年)がきっかけです。この本は大戦末期、物資も情報も乏しい中、日本全国の医師、科学者、軍人、民間企業人が知恵を絞り、工夫を重ね、あっという間にペニシリン(和名:碧素 へきそ)を作ることに成功、実際に患者さんに投与するまでを書いた物語です。大変残念なことに『碧素ペニシリン物語』は廃刊となっています。名著なのにとても残念です(ペニシリン関係については文末の注をご参照ください)。 同書を読み、角田の行き届いた調査に驚き、同氏の著書を読むようになり、その中の一冊が上掲書「責任 ラバウルの将軍今村均」だったのです。これも名著です。この本が刊行されたのは1984年です。この時、すでに今村は鬼籍に入っていましたが、太平洋戦争時に今村と接していた兵はこの時、60-70代です。角田は今村均と接した元兵士に直接取材しています。今なら、この本を書くことはできません。 本題に戻ります。 角田房子著「責任 ラバウルの将軍今村均」を再読しました。まとめてみます。今の時代に今村大将のことを知るのは色々な意義があると思います。しばしお付き合いください。 今村は心優しい少年だった 今村は、私の故郷 山梨に縁があります。生まれは仙台ですが、裁判官だった父親の転勤で6歳の時に山梨県鰍沢町に移ります(私の本籍はこの鰍沢町(現:富士川町)にあります)。 この地で今村は生涯忘れえない経験をします。それは軽業(サーカスの一種)を演じる子供達にまつわる悲しい思い出です。当時、軽業小屋で、扱き使われていた子供達の多くは捨て子で過酷な環境で過ごしていました。殴られたり、蹴られたりが普通だったのです。鰍沢でそういう可哀想な少年を見た今村少年は心を痛めます。 「かわいそうだ」 そう思ったのです。そういう彼の心情が後年、彼の命を救います。 今村少年は夜尿症だった 今村は夜尿症で苦しめられます。寝小便をして、毎晩のようにお布団を汚すのです。なんとも、親しみがある話です。 小学校の時、宿泊を伴う遠足がありこの悩みを担任の先生に打ち明けると、先生は横に寝てくれ、数時間おきに今村を起こしてくれ、寝小便をしないですんだとあります。この先生のことを終生懐かしみ、尊敬していました。 長じても、夜中に何度もトイレに起きるのは変わらず。昼間眠くて仕方なかったとか、授業中あまりに眠くなるので唐辛子を噛んでいて教官にひどく怒られたことがあったそうです。 陸軍大学校を首席で卒業 小学校は甲府の冨士川小学校(現:善誘館小学校)に進みます。甲府中学(現:山梨県立甲府第一高等学校)に進学するも父親の転勤のため新潟の新発田中学(現:新潟県立新発田高等学校)に転校、その後陸軍士官学校、陸軍大学校を首席で卒業、陸軍の軍人になります。 元々は文学少年で文系の大学を志望していたのですが、新発田中学を卒業後、父親が急逝したので学費のかからない陸軍士官学校に進学。人生、わからないですね。 今村が入学した年の陸軍士官学校には陸軍幼年学校からの学生はいませんでした。異例の年だったのです。この年に陸軍士官学校に入学した全員が今村と一緒で旧制中学出身でした。日露戦争などがあったためです。この学年の陸軍軍人は上掲の2023年12月号の文藝春秋で紹介されているように「旧制中学出身の非主流派は戦場で活躍した」のです。 イギリスに武官として駐在、帰国時に禅の高僧と知り合う 今村は陸軍軍人として出世します。1918年-1921年、英国に滞在、大使館付き武官補佐官として過ごします。帰国途中の船中で慈照寺(山梨県甲斐市竜王)の大森禅戒禅師と出会います。これが後の今村の人生に大きな影響を与えました。大森禅戒禅師は後に「曹洞宗管長・永平寺70世貫首・總持寺独住11世貫首」となる禅の世界では有名な方です。こういう方と巡り会うのも「運」でしょう。今村は終生、陸軍時代も「歎異抄」と「聖書」を携えていましたが、特定の宗教に帰依していた訳ではありません。この辺りも、なんとなく人となりを感じます。 太平洋戦争が勃発、陸軍第16軍司令官に任ぜられる 太平洋戦争がはじまり、今村は司令官として、オランダの植民地だったインドネシアに侵攻、3ヵ月でオランダ軍を撃破しインドネシア占領の責任者になります。占領の際、今村自身も起草者の1人だった戦陣訓にある 「服するは撃たず、従うは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全しとは言い難し」 (拙訳:降伏する敵は攻撃しない。服従する者に対しては慈愛の心で接すべし) に沿って仁政を敷きます。鰍沢で厳しい目に遭っていた軽業小屋の少年を「かわいそうだ」と思っていたくらい、心根の優しい今村は過酷な占領方法をとらなかったのです。しかし、他の占領地の日本軍は、厳しく、暴力的な占領を行っていました。 今村の占領方法は「生ぬるい」と批判され、厳しい占領政策をとるように度々促されますが、「戦陣訓」を盾に占領方法を変えませんでした。東京から今村大将を指導すべくインドネシアに来た日本陸軍指導部も、今村の方法で混乱が生じていないこと、占領地の経済が上手く回っている事などの事情があり、今村を左遷するような事はしていません。 戦後、今村は戦犯として裁かれていますが、死刑にはなっていません。過酷な占領政策をとっていた他占領地の司令官の多くは「死刑」となっています。 「情けは人のためならず」 を地で行っているような話です。 なお、インドネシアのスカルノ(元大統領、日本人にはデヴィ夫人の夫で有名?)は占領軍の今村と親交を結びます。戦後オランダ軍に捕らえられた今村を、スカルノは、救出しようと試みています。これは今村が断っています。潔い話です。 ラバウルの司令官として活躍 インドネシアからラバウルの司令官に任ぜられ異動しています。ラバウルの場所は私もよく知りませんでした。下記、地図を参照してください。日本からは随分と離れています。 ニューブリテン島全部を守っていました。「島」ですが、九州全体とほぼ同じくらいの広さです。これを10万の兵で守るのは大変だったと思います。 航空基地はラバウルだけですが陸軍と海軍でニューブリテン島全体を守っていました。 1942年、今村はラバウル(パプアニューギニアの ニューブリテン島)に司令官として赴任。ここには陸海軍の軍人が10万人もいました(陸軍は7万人)。今村はガダルカナル島の悲劇(餓死者多数)を見ていたので、ニューブリテン島で農作物を作りました。ニューブリテン島に元からある農作物に加え、農業の専門家に相談して日本の農作物も作っていました。これが功を奏し、海軍の補給船が米軍の攻撃により、来なく(来られなく)なっても、陸稲、野菜、etc.を作っていたので、兵は飢えなかったのです。農作業をしつつ、強固な地下要塞を築き(全部で東京-名古屋間と同距離の地下通路を作っていました)、米軍、豪軍と戦い、終戦までラバウルの地を守り抜きました。餓死者はほぼゼロ。戦闘による死者も少なかったのです。名将と讃えられる所以です。漫画家の故水木しげるはラバウルで兵隊生活を送っていましたが、水木は今村から声をかけられた時の印象を「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と述べています。 戦犯となるが自ら申し出て過酷な生活を送る 今村は戦後、インドネシア占領下の事について懲役刑が科され巣鴨の戦犯刑務所に入ります。しかし、巣鴨の刑務所から、自分で志願してニューギニアの小島マヌス(生活環境が劣悪だった)の戦犯刑務所に移っています。巣鴨なら家族にも会えます。差し入れもあります。マヌス島では家族にも会えず、差し入れもありません。 今村が、なぜ、そんな島に移ったかというと、ラバウルで一緒に戦った部下が多数戦犯として同島の戦犯刑務所に入って苦労しているのを見聞きしたからです。自分がマヌスまで行って、苦労している元部下と共に過ごすことを希望したのです。読んでいて「あ り え な い」と思いました。当時の新聞に、マッカーサーが「今村の申し出に真の武士道を初めて見た」と言ったと報じられています。結局、昭和29年の刑期終了までマヌス島で部下と共に過ごしています。ラバウルでも行っていたのと同様に日本から農作物の「種」を持ち込んで農作物を作っていました。作業終了後の夜には元部下に英語や国語などを教えていたとあります。 刑期終了後はさらに凄い さらに凄いのは「刑期終了後」です。東京の自宅の庭に3畳の自称「幽閉小屋」を作り、この部屋で戦死した部下を弔い、生き残った部下を助けるような仕事をしていたのです。家族の話によると「戦争中のことを書いた本を多数出版、その印税で元部下の生活援助をしていた」らしいのです。「援助をしていた」と言わないところに「責任」への考えが現れていると思います。戦争孤児への支援もしていました。死ぬまで自分なりに「責任」をとっていたのです。誰かに聞かせたいですね。 「責任 ラバウルの将軍今村均」を書いたきっかけは甲府の開業医 「責任 ラバウルの将軍今村均」の後書きを読んでびっくりしました。今村について角田が書くきっかけを作ったのはなんと「甲府の病院長、古守豊甫(こもりとよすけ)」だと書いてあります。後書きから当該箇所を抜粋します。 「古守豊甫さんから今村均大将こそ、あなたが書くべき題材」 「古守さんはラバウルの軍医で晩年の今村均と親しかった」 「私(筆者注:角田の事)はすでに阿南惟幾、本間雅晴、甘粕大尉について書いていて、もう陸軍軍人について書くつもりはなかった」 「古守さんから、今村についての血の通った資料が続々と送られてきた」 「資料の中の今村について戦後の部分だけ拾い読みしていたがこういう軍人もいたのかと驚き、彼への関心が急速に高まった」 「今村にのめり込んで3年を費やした」 「その取材中に多くの将校、兵士、軍属といった「赤紙で徴兵された」方と話すことができた。今村のおかげだ」 角田房子が今村均に、どんどん、ひかれていく様子がわかります。 つまり、角田の著書は古守先生無くしては書かれなかったのです。古守先生のことは次回で紹介します。天才とか超人と評しても良い医師です。そして今回、その古守先生の著作を読んでいたら、なんとブラジルの森口先生のことが書かれていました。思わず「えええええ!」と声が出てしまいました。ある医学研究で古守先生が世界的に有名になったこと、森口先生と古守先生の関係、古守先生がラバウルまで持っていってとても大事にしていた「紙」を私が持っている理由などを紹介します。 なお、上記の今村均大将の「3畳の幽閉小屋」は山梨県韮崎市に移築されて現在も残っています。そのことも次回で紹介します。乞うご期待。 注:「
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2024/01/06 めでたい「書き初め」に関する話 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。昔は年齢を数えで表していました。「数え年」ですね。数え年だと、出生時に1歳です(なんとなくこちらの方が正しい?ような気がします)。そして元旦を過ぎると1つ年を取ることになっています。 正月は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし 一休 正月を越すことができたのはめでたいが、一歩、あちらに近づくことになる無常を詠んでいます。一休らしいですね。 さて、正月の風物詩の1つに書き初めがあります。縁起の良い文字を書き初めで書きます。 今回はめでたい「書き初め」に関する話です。 10代の頃から開高健を読み始めました。高校の教科書に彼の「青い月曜日」が載っていて面白かったからです。ちなみに「青い月曜日」で、1番面白く大事な場面は教科書に載っていません(笑)。なお現在、高等学校の国語は文学的な文章を学ぶ「文学国語」と論理的な文章を学ぶ「論理国語」にわけられ選択できるようになっています。大学入試を考えると「論理国語」が重んじられるようになり、文学作品は高校で教えられる機会が少なくなると予想されています。それはかなり寂しい話です。 閑話休題 開高健の作品はほとんど読みました。中に吉行淳之介との対談集があります。 『街に顔があった頃』(吉行淳之介・開高健/著 TBSブリタニカ・ペーパーバックス 1985年:絶版) 昭和20年代後半~40年頃にかけての盛り場の風景を2人で懐かしがって語っています。浅草、銀座、新宿を語り明かしています。 吉行淳之介は、対談の名手として有名で「軽薄対談」「面白半分対談」「恐怖対談」etc.多数の対談集を出版しています。 開高健は吉行淳之介との対談について以下のごとく記しています。 「大兄にはいつも感服させられるけれど、話させ上手、聞き上手であって、また“間”の とりかたが巧みなので、ついつい井戸水がわいてくる。もちろんこれには“人生”の甘い辛いを、したたかに通過しておかねばならないし、たっぷり身銭を切って元金をふりこんでおかなければなるまい。その涙と吐息でふりこんだ元金からあがる利息が、そのようなものが、一言半句のはしばしに顔を覗かせるのである」 井戸水とか、身銭を切って元金をとか、涙と吐息でとか、開高健らしい表現です。真似ようと思ったけれど難しいですね(注:大兄とは吉行淳之介のこと)。 一方、吉行淳之介は開高健との対談について以下のごとく記しています。 「しかし、その相手というのは、博学多識、機知縦横、美味求真にして鯨飲馬食、『もっと遠く!』 『もっと広く!』 『オーパ!』ともっと大声で叫べという、かの「開高健』だと聞いて、承諾する気になった。」 そういう両者の対談です。面白い。絶版になっているのが、残念。二人で何を語り合っているかというと、もっぱら盛り場にまつわる「猥談」です(笑)。よくもまあ、、こんな話を仕入れたナ、相当授業料を払っているナと思って楽しく読めます。 両者の対談で正月の書き初めの話が出てきます。 『街に顔があった頃』に 「名筆で初春を寿ぐ」 という一項があります。 引用します。 前半部省略 吉行 :ウルトラCの演技だな。 開高:それから字を書くのもあります。○○○に墨汁をひたした筆をはさんで……。 吉行:馬という字を逆さに書く……。 開高:私が浅草で見たのでは、続け字で「江戸一代女」。「寿」というのもあった。 吉行:それは、新字体でしょうね(笑)。 開高:もちろん略字で「寿」ですが、最後の点は打ってあった(笑)。古畳に半紙をのせて、四隅をピンで止めて、その上へ□□□が跨って墨痕淋漓、何枚も書く。で、その一枚を千円でもらってきました。 吉行 :もらったのにはワケがありそうだな。 開高: そう。翌日、重役の一人に見せる。「これは、篠田桃江さんではないさる女流の名筆で、莫大なゼニを払って戴いてきましたが、このまま新年の全紙広告に使おうと思います」なんて言ったわけよ。「男の強い手首で書いたみたいで、達筆でしょう」とか念を押してね。すると重役も「女にしてはなかなかすごいなあ」なんて感心するんだワ。 吉行:たしかに名筆には違いないものね。 開高:それからが大変。黒地に白抜きしてみたり、白地に墨のせにしてみたり、アミをかけたり、朝・毎・読、一紙ごとに変えましてね、全紙広告に仕上げてしまった。 全紙いっぱいにたった一字「寿」とおき、 ワキに、「まためぐりくる 王城の春に捧げる この無声歓呼」 などと書いてね。これが元旦、全部に出たわけです。 こっちは宿酔、寝床のなかでよれよれの目で確かめ、ウフフフと陰気な笑い…… こういうダダイズム的反撃をやった。サラリーマンの儚い抵抗ですわ。 これを読んでいて遠い昔のことを思い出しました。大学に入ってすぐの新入生歓迎コンパがあり、その流れで怪しいところに連れて行かれました。怪しいところの女性に「入学祝いに兄ちゃんの名前書いて上げる」と言うので一字だけ書いてくれました。「望」の字です。とっくにどっかに行ってしまいました。残念。それからそういう「芸」は見た事がありません。 閑話休題 開高健は正月元旦の全国紙の新聞を使って“いたずら”をしたのです。何故「寿」という字を選んだのか? サントリーは1963年まで「壽屋」でしたから、正月のめでたさの「寿」と寿の旧字体で社名の「壽」にかけたのだと思います。 ここからが本題です。ある日、この話は本当かな?と思い始めました。 開高健記念会のホームページに開高健の経歴が載っています。それによると、 「1954(昭和29)年 【24歳】2月 寿屋(現・サントリー)に入社、宣伝部員に。」 「1963(昭和38)年 【33歳】10月 サントリー嘱託を退職。」 とあります。サントリーの宣伝部に在職したのは彼が24歳~33歳の時です。その年齢で、大金がかかる正月元旦の新聞紙一面全面広告でいたずらができたのでしょうか?そんな力が開高健にあったのか、疑問に思い始めました。 調べるのは簡単でした。 最初にインターネットで調べてみました。有名な逸話です。いくつかのサイトで「名筆で初春を寿ぐ」を取り上げています。 曰く、 「開高健一流の反骨精神を現した」 「権威を転ばす開高健らしいいたずら」 「開高健一流のシャレである。素晴らしい」 など、開高健のいたずらを賞賛するサイトが多いのです。 開高健のいたずらが本当なら、その特殊技能を用いた「寿」を見てみたいですね。だからナンダという話ですが、酔狂なこと、好きなんです。調べるのは簡単でした。調査は15分で終了しました。 「開高:全紙いっぱいにたった一字「寿」とおき、中略、これが元旦、全部に出たわけです」 とあります。開高がサントリー(元壽屋)に在籍していた時の正月元旦の新聞紙面調べました。1955年正月から1963年正月の新聞を調べれば良いのです。 こういう古い新聞の縮刷版が揃っているのは、国会図書館です。土曜日も開館しています。国会図書館利用には登録利用者カードが必要です。国会図書館では医学論文の検索もできますし、論文コピーもできます。利用しない手はないですね。 マリー・ストープス(Marie Carmichael Stopes:1880-1958)のことを調べたとき、国会図書館に行ったので、ついでに開高健正月のいたずらを調べたのです。 朝日新聞、毎日新聞、読売新聞の縮刷版で元旦の新聞を見てみました。どこにも開高健のいう一面全部を使って掲載した「寿」の広告はありません。 結論:開高健が自慢しているような広告はない。 どこにも無いです。それらしい広告はあります。 1959年1月1日 毎日新聞の広告:完成したばかり(1958年12月23日竣工)の東京タワーの写真があり時代を感じます。 1959年1月1日 朝日新聞と同年1月3日の読売新聞の広告 同じです。 「寿」という字を使った広告はこの2種類しかありせん。開高健が言う元旦の全面広告なら、毎日新聞の広告です。確かに元旦の全面一杯の広告ですが、どうみても活字の「寿」です。朝日新聞、読売新聞の広告も筆で書いた字ではないですね。 というわけで開高健は嘘をついていたことになります。多分、オイタをしようと試みたのは本当でしょう。しかし、さすがに誰か気がついてストップをかけたと愚考します。 この小文を開高健が読んだら 「センセ、小説家言うんは嘘吐きでっせ、センセのようなのを不粋言うんや」と呟かれるかも…… 終 【参考文献】 開高健(小玉武/著 筑摩書房 2017年) 壽屋コピーライター開高健(坪松博之/著 たる出版 2014年) 言葉の落葉 Ⅲ(開高健/著 冨山房 1981年) 新聞広告一〇〇年(下)(朝日新聞社 1978年) やわらかい話 吉行淳之介対談集 (講談社文芸文庫) 注1: 開高健の名コピーを紹介します。 “「人間」らしくやりたいナ トリスを飲んで「人間」らしくやりたいナ 「人間」なんだからナ“ サントリー宣伝部には開高健(芥川賞)、山口瞳(直木賞)がいて名宣伝を多数作っています。 注2: 1934年1月1日 朝日新聞の広告の上は「美智子様」です。時代を感じます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2024/12/09 段々とインフルエンザが流行ってきました。皆様、どうかお気を付けください。さまざまな感染症で人類は苦しめられています。感染症の原因はさまざまです。ビールス(ウイルス)、細菌、真菌、プリオンなどです。原因がわかっても対策は簡単ではありません。 今回は、甲斐の国(現代の山梨県)では戦国時代から江戸時代にかけて、現代でも通用する医療を行っていたかもしれないという話を紹介します。感染症対策も現代と変わりない方法が行われていたことを示す文献も紹介します。 現代に通じる感染症予防方法は甲斐の国で提唱された? コロナ禍で感染拡大を防ぐために「3つの密(密閉・密集・密接)を避けること」が繰り返し、強調されました。 感染症は病原微生物であるビールス(ウイルス)、細菌、寄生虫などに接することで広がります。感染した患者さんは病原微生物を排出(咳、痰、鼻汁、膿、便などから)し、それらと接することで伝染病は次から次に広がります。広がるのを防ぐには3密を防ぐことが必要ですし、死亡率が高い感染症にかかった場合は患者さんを隔離することも必要です。 そんなことは当たり前と思われるでしょうが、この感染症にかかった患者さんを隔離することの必要性を「日本で、そしてもしかしたら世界で最初に文献にして書き残した」のは甲斐の国、市川大門(現在の山梨県西八代郡市川三郷町)の医師、橋本伯壽(はくじゅ:生年不詳-1822年没)です。 橋本は「断毒論(だんどくろん:1809年刊)」という本を著し、伝染病(天然痘・麻疹・梅毒・疥癬など)にかかった患者の隔離の必要性を論じています。橋本曰く、 「患者と接しなければうつらない」 「患者を避ければ免れ避けなければ冒される」 「中国で麻疹が多いのは人口が多いからだ」 「八丈島で麻疹流行は免れた。八丈島は人の往来が禁じられていたからである」 など、今でも通用する論を同書で述べ、実践しています。 感染症予防で世界的に有名なのはジョン・スノー医師(John Snow:1813年-1858年:享年45歳)です。1854年、ロンドンのコレラ禍を見事に収束させました。 伝染病を正しく怖がるにはどうしたらよいか?コレラからコロナを考える https://www.health.ne.jp/library/detail?slug=hcl_column200721&doorSlug=dr https://www.health.ne.jp/library/detail?slug=hcl_column200741&doorSlug=dr https://www.health.ne.jp/library/detail?slug=hcl_column200831&doorSlug=dr ジョン・スノー医師よりもはるか以前、「感染症」の概念がない時代、甲斐の国では世界最先端の伝染病予防方法の恩恵を受けていた人々がいたのです。しかし、残念なことに当時の医学界で橋本の論は受け入れられませんでした。 歴史家の磯田道史が「感染症の日本史(文春新書)」の中で橋本伯壽の「断毒論」を取り上げ、絶賛しています。橋本伯壽が自分の発見を書き残したお蔭で、200年経った今でも我々は彼の思想を知り話題にすることができます。書き残すことは大切ですね。 「断毒論」は、漢文で書かれていて読むことはなかなかできませんでした。しかし、山梨県甲州市在住の故吉岡正和医師が漢文から現代語に翻訳して、「橋本伯壽と断毒論―早く登場しすぎた疫学者(吉岡日新堂刊)」を2018年に出版。おかげで、誰でも読めるようになりました。 コロナ禍前に出版されていました。コロナを予測していたかような時期に出版されました。名著です。ぜひ、お読みください。 甲斐の名医は今もお薬に名前を残す 皆さんは腰痛などで湿布を貼ることがあると思います。「湿布を貼る」と同意味で「トクホンを貼る」という言い方が長いこと、使われていました。今でも使っている方もいらっしゃるかと思います。「トクホン」はホッチキス、デジカメ、タッパーのように商品名が一般名(湿布の代名詞)となっていたのです。 注:ホッチキスの一般名はステイプラー、デジカメ(三洋電機の登録商標)の一般名はデジタルカメラですね。タッパーは一般名がありません。タッパーは米国のアール=サイラス・タッパー(1907-1983)が創業した「タッパーウェア社」の商品です。一般名が付けられないくらい有名になってしまいました。 閑話休題 「トクホン」の名前は戦国時代から江戸初期に甲斐の国で活躍した永田徳本(ながたとくほん:1513?-1630)に由来します。永田徳本は、武田信虎、武田信玄の侍医だったとか、徳川秀忠の重病を治したとか言われていますが、その経歴の詳細は不明です。 「甲斐の徳本」「医聖」「十六文先生(どんな治療でも16文の治療代だったことに由来)」とも言われている伝説の名医です。その名医の名を湿布薬につけたのが製薬会社の鈴木日本堂で、1933年に湿布薬の「トクホン」を販売、ロングセラーになり上述のごとく湿布の代名詞になっています。 しかし、この湿布薬と永田徳本とは無関係です。永田徳本が湿布を考案した訳ではありません。湿布を広めるために名医の名前を借りたのですね。鈴木日本堂は後に「トクホン株式会社」と改名し現在に至ります。泉下の徳本先生もびっくりしているのではないでしょうか? 人名がついたお薬はたくさんあるのでしょうか? 私にはタカジアスターゼ(高峰譲吉に由来)、アーキンZ(大塚明彦に由来)、太田胃散(太田信義に由来)くらいしか思いつきません。 注:湿布薬は日本に特有のお薬です。現代の湿布薬はかなり進んでいます。鎮痛剤を含有していて、それが皮膚から吸収されるような工夫が凝らされています。皮膚からお薬を吸収させるのは簡単ではなく、日本の湿布は世界一優秀で唯一無二のお薬かもしれません。イタリアを除き、湿布は普通の医療現場では使われていません(全世界を調べた訳ではありません。他の国でも湿布が医療機関で使われているならご教示ください)。日本では質が極めて高い湿布薬を普通に使っています。とても良く効きます。 注:湿布の英語は「pain relief patch」です。 信玄の隠し湯によるキズの治療は今でも世界最先端? 山梨県に行くと信玄の隠し湯だったと称している温泉がたくさんあります。下部温泉,西山温泉、赤石温泉、川浦温泉、増富温泉、積翠寺温泉などが知られています。これらの温泉に共通するのは低温(30度前後)で湯量豊富な温泉だということです。低温であることと湯量が豊富であることに意味があります。 皆さんは、キズ、ヤケドを負った時、どうするでしょうか? 消毒薬を塗り、ガーゼを当てるのではないでしょうか? 実はどちらもキズ、ヤケドの治療には適していません。消毒をしない、ガーゼをあてない(乾かさない)、カサブタを作らないとキズは早く、きれいに治ります。湿潤治療という方法です。 私は、武田信玄がこの「湿潤治療」を発見していたのではないか?と思っています。当時、消毒も抗生物質もありません。刀傷を負ったら感染して死亡していたと思います。しかし、受傷早期の出血さえ乗り切って「隠し湯」に一日中入っていれば「湿潤治療」をうけているのと同じことになり、キズはあっという間に治っていたと想像します(隠し湯の温泉は温度が低いので長時間入っていることができます、ここに妙味があります)。 信玄公は、しかし、その治療を秘密にしたと思います。ライバルに知られては困るからです。 以上、想像に過ぎませんが「当たらずと雖も遠からず」だと思います。湿潤治療は現代でも最先端の医療技術です。 湿潤治療例をお目にかけましょう。こういう治療を信玄公はしていたのではないでしょうか? ※リンク先にキズの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 写真:バイクのチェーンに巻き込まれて指を切断 写真:沸騰したお湯が顔にかかる ケガ、ヤケドを負うと、つい反射的に「消毒、ガーゼ」で処置をしがちですが、それをするとキズヤケドの治りが悪くなり、痛みが強くなり、跡が残りやすくなります。キズヤケドを負ったら、ぜひ当院にご相談ください。 余計な夢想、妄想:隠し湯現代版を作りたいと思っています。重症のヤケド、キズの患者さんを湯量豊富でぬるい温泉にいれて治療してみたいです。 余計な注釈:湿潤治療が受けられるのは、日本の医療機関(ただし、0.001%です)だけです。欧米のケガヤケドの治療は「せっせと消毒、ガーゼ貼付」です。 まとめ:上述のように戦国時代後期から江戸時代にかけ甲斐の国には、 永田徳本という「名医」がいた 今に通じる治療法を行っていた?かもしれない「傷を治す名湯」があった 「今に通じる感染症予防法を広く世間に説いた医師」がいた のです。 江戸時代、甲斐の国の人々は、現代にも通じる最先端の医療を受けていた可能性があります。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2024/11/11 患者さんが件の紅麹サプリメントを持ってきた いささか旧聞に属しますが、紅麹サプリメントによる健康被害(腎機能障害)が話題になりました。私もなぜか取材を受けました。 2分頃からです。 取材経緯をお伝えします。当院で高血圧を加療中の患者さんが件の紅麹サプリメントを持ってきました。 「コレを飲んでいた。コレを飲んでいると腎臓が悪くなると報道されている。腎機能を調べて欲しい」とのことでした。採血など検査しましたが、特に問題はなく、腎機能は正常でした。「件の紅麹サプリメント」を見て、少し驚きました。理由は2つ。 話題のサプリメントそのものだったこと いつも通院している方が紅麹サプリメントを飲んでいたこと の2点です。 元々コレステロール値は高くない患者さんです。太ったからコレステロールを下げるサプリメントを飲んだと仰っていました。 少し相談してくれれば良かったのにと思いました。 それはともかく通院している方でこの紅麹サプリメントを服用している方が他にもいらっしゃるかもしれないと思い、「X(旧:Twitter)」に紅麹サプリメントの画像を投稿し、注意を呼びかけました。紅麹サプリメントの名前や製薬会社の名前は書いていません。以下がその投稿画面です。 投稿してから2時間後にテレビ朝日から「取材させて欲しい、それも今日お願いします」との電話が入りました。それで取材を受けて、報道されたのです。「X」には「サプリメントの名前」も「製薬会社の名前」も載せていません。それなのに、どうやって「X」に載せた投稿を探せたのか不思議です。テレビ朝日のインタビュアーや記者の方にそのことを質問したのですが、「ウチには調査部門があり、そこからの情報です」「どうやって調べたかはわからない」とのことでした。画像を用いた検索方法があるらしいです。ある意味、とても怖いですね。 テレビ報道を見た別の患者さんからも連絡がありました。その方も紅麹サプリメントを飲んでいるとのことでした。腎機能を調べましたが、幸に、問題ありませんでした。 小林製薬の紅麹サプリメントによる腎機能障害の原因は、紅麹サプリメント製造工程で青カビが侵入、青カビ由来の「プベルル酸」が腎機能障害を引き起こしたと厚労省が発表しました(2024年9月18日)。「プベルル酸」が交じってしまった紅麹サプリメントに問題があったのであり、紅麹自体に問題があったわけではなかったのです。 「麹」とは さて、「麹」とはそもそも何でしょう。「麹」と「糀」、どちらも読み方は「こうじ」です。味噌、焼酎、日本酒、酢などを作るのに使われていますね。麹は米、大豆、麦、などに穀物麹菌を繁殖させたモノです。麹菌は糸状菌です。カビの一種です。食物に生えて腐らせるカビとは違います。糸状菌といえば、人間の白癬(水虫)やアスペルギルス症を起こすのも糸状菌です。 麹菌は日本国の「国菌」(注:この項についての付記を文末に記載しました) 麹菌は、湿度の高い東アジアや東南アジアにしか生息していません。なかでも日本の麹菌は「コウジキン」と呼称され、国菌となっています。「国旗」は日の丸、「国技」は相撲、「国蝶」はオオムラサキ、「国鳥」はキジ、「国菌」は麹菌です。知りませんでした。「国菌」があるのは、もしかしたら日本だけかもしれないです。それだけ、麹菌は身近で重要と言っても過言ではないかもしれないですね。 注:2006年10月12日に開催された日本醸造学会大会で麹菌(Aspergillus oryzae=アスペルギルス・オリーゼ)が国菌に認定されたそうです。今、日本醸造学会のHPを確認したら、2015年に国菌の定義が一部改訂されていました。国菌に該当する麹菌の定義が書かれていました。 **** 引用開始 **** 国菌に該当する麹菌とは、わが国で醸造及び食品等に汎用されている次の菌をいう。 (1)和名を黄麹菌と称するAspergillus oryzae。 (2)黄麹菌(オリゼー群)に分類されるAspergillus sojae と黄麹菌の白色変異株。 (3)黒麹菌に分類されるAspergillus luchuensis(Aspergillus luchuensis var.awamori)及び黒麹菌の白色変異株である白麹菌Aspergillus luchuensis mut.kawachii(Aspergillus kawachii)。 注 )Aspergillus niger(クロカビ)は、黒麹菌とは異なる菌種であり、麹菌には含めない。 **** 引用終了 **** あれ?紅麹菌は含まれていません。なぜでしょう。 麹菌には様々な種類があります。 黄麹菌:日本古来の麹菌、日本酒、味噌、醤油製造に使われています。 黒麹菌:泡盛製造に使われています。 白麹菌:焼酎造りに使われています。 カツオブシ菌:鰹節造りに使われています。 紅麹菌:中国、台湾原産。豆腐よう作りや、赤色色素として用いられています。 「紅麹」は日本の麹菌ではないのですね。それで日本の国菌から外れているのだと思います。 日本には実に様々な麹菌があり、それを販売する種麹屋さんがあります。なぜか種麹屋のことを「もやし」と呼称します。 http://www2.plala.or.jp/oryzae/oryzae/tanekouji.html それはともかく、「こうじ」には「麹」と「糀」があります。元は「麹」ですが、日本では米を使うので「糀」という漢字も使われるようになったそうですが、この辺り、よくわからないです。 紅麹に関する医学論文 さて、紅麹に関する医学論文を調べてみました。 「麹=red yeast rice」 ×「Cholesterol」 で検索すると、1999年から291編の論文が出版されています。そのほとんどが紅麹サプリメントによりコレステロールが下がるという論文です。副作用も少ないとの論文が多いです。 その中で、腎機能障害に関する論文をさらに調べてみました。 「麹=red yeast rice」 ×「Cholesterol」×「renal failure」で検索しました。 2つしかありません。ドイツ語論文が1つ、デンマーク語論文が1つです。 ドイツ語論文は Rotschimmelreis: Ein bedenkliches Nahrungsergänzungsmittel? 「Red yeast rice: An unsafe food supplement?」 Leitthema Published: 04 January 2017 Volume 60, pages 292–296, (2017) デンマーク語論文は 「Røde gærris som formodet årsag til akut nyreog leversvigt」 [Red yeast rice as the presumed cause of acute kidney and liver failure]. Ugeskr Laeger. 2019 Sep 30;181(40):V02190107. ドイツ語論文は「紅麹が産するモナコリンk(=ロスバスタチン=クレストールR)、つまり、紅麹サプリメントを摂取するのはスタチンを服用するのと同じ、それゆえに横紋筋障害などの重篤な副作用などに注意が必要」という論旨です。デンマーク語論文は実際に「紅麹サプリメント摂取により横紋筋障害、腎不全が生じた一例」の症例報告論文です。 なお、紅麹が産するモナコリンkにコレステロール低下作用があるのを発見したのは故遠藤章先生です。遠藤章先生御自身が書いた紅麹に関する大変興味深い論文が見つかりました。 論文のタイトルは、 「紅麹と紅麹菌をめぐる歴史と最近の動向」(文献1) 国会図書館に所蔵されている同文献を取り寄せました(注:国立国会図書館の利用者カードを持っていると、所蔵している文献をコピーして郵送してくれます。便利で安価な方法です)。 この文献より引用します。 Monascus属(モナスカス)のカビを利用した麹は中国大陸と台湾で古くから生産されている この属のカビが紅色系の色素を生産するため麹は深紅色を呈する Monascus属を一般に紅麹菌と呼ぶのはこのためである 筆者(遠藤章)は微生物の生産する生理活性物質を探索中たまたまMonascus属の一株が強力なコレステロール合成阻害剤(モナコリンと命名)をつくることを発見した それが縁でMonascus属のカビと紅麹に興味をいだくようになった 紅麹は元々中国、香港、台湾で使われていた 下に紅麹がどうやって使われていたかを示す図をこの文献から引用します。 日本で作られている紅麹を用いた醸造食品も紹介されています。 ①紅酒 ②豆腐乳 ③沖縄の豆腐よう など。。 つまりこの遠藤先生の文献にもあるように、紅麹は中国でも日本でも古くから使われていて、なんの問題もなかったのです。小林製薬の紅麹サプリメントが問題になりましたが、サプリメント製造過程で青カビが混入し、この青カビが産生した「プベルル酸」が腎機能障害をおこしたのであり、紅麹自体に罪は無かったことを強調したいです。 終 【参考文献】 遠藤 章:「紅麹と紅麹菌をめぐる歴史と最近の動向」(1985年「発酵と工業」vol43、No.6(頁:545-552)) 遠藤 章:スタチンの誕生(日農医誌 64巻6号 958~965頁 2016.3) 遠藤 章:コレステロール低下薬"スタチン"の発見--誰が,いつ,どこで?( 化学と生物 : 日本農芸化学会会誌 : 生命・食・環境:48(1)-48(6)=554-559:2010.1-2010.6) 追記:「国」+「ナントカ」は誰が決めているか 「国」+「ナントカ」は誰が決めているか、調べてみました。 国旗と国歌は法律で定められています。しかし古い法律ではありません。1999年に定められた「国旗及び国歌に関する法律」に 第1条 国旗は、日章旗とする。第2条 国歌は、君が代とする。 とあります。それまでは「慣習法」で、なんとなく、国旗は「日の丸」国歌は「君が代」でした。 国花:「桜」と「菊」ですが、法律はありません。誰が決めたのかも良くわかりません。 国鳥:「雉(キジ)」ですが、法律はありません。1947年に日本鳥学会が定めています。 国蝶:「オオムラサキ」ですが、法律はありません。1957年に日本昆虫学会が定めています。 国魚:「錦鯉」?「鮎」? 法律はありません。どこかの学会が決めたわけでもありません。 国石:「翡翠(ひすい)」ですが、法律はありません。2016年、日本鉱物科学会が定めています。 国技:「相撲」とされていますが、法律はありません。柔道、弓道、剣道こそ国技だという方もいます。 国酒:「日本酒」と「焼酎」です。2012年に古川元久国家戦略担当大臣(当時)が、日本を代表する酒として日本酒・焼酎を「國酒」としたそうです。 「ENJOY JAPANESE KOKUSHU(國酒を楽しもう)」プロジェクト(国家戦略室) 国色:「白と赤」のセットが国色とされていますが、法律はありません。ちなみに、他国はどうでしょう? ブラジルはカナリアイエロー、オランダはオレンジ、イタリアはブルー、アイルランドは緑、アルゼンチンはスカイブルー、などオリンピックやW杯で見慣れているので、それらの色がそれぞれの国色なのでしょう。日本は競技別で、適当に、色を使っています。「白と赤」を上手にデザインして統一すれば良いのにと思います。 それはともかく、国+「ナントカ」は、なんだか、随分と適当ですね。そのうち国薬とか、誰かが提案しそうです。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2024/09/30 日本は天災が多い国 今年(2024年)は能登半島地震から始まりました。能登の復興には長い年月がかかると思います。私は能登半島に行ったことがありません。いつか、行ってみたいと思います。 日本は天災が多い国です。地震、台風、大雨、洪水など、思いつくまま、挙げてみましょう。 1986年(昭和61年)11月21日、伊豆大島三原山噴火 1991年(平成3年)6月3日、雲仙普賢岳噴火、火砕流 1993年(平成5年)7月、北海道南西沖地震による奥尻島大津波 1995年(平成7年)1月17日5時46分52秒、阪神・淡路大震災 2000年(平成12年)10月6日、平成12年鳥取県西部地震 2000年(〃)有珠山噴火 2000年(〃)三宅島噴火 2008年(平成20年)6月14日、平成20年岩手・宮城内陸地震 2011年(平成23年)3月11日14時46分、東日本大震災 2014年(平成26年)御嶽山噴火 2016年(平成28年)4月14日・16日、熊本地震 2018年(平成30年)西日本豪雨 2018年(〃)北海道地震 2024年(令和6年)1月1日、能登半島地震 注:記載していない災害も多数あります。 日頃から天災(地震、津波、台風、豪雨)に備えておくことが必要です。一昔前から、東海地方に大地震が起こると言われ、静岡県民は防災訓練を小さい頃から受けています。しかし、その東海地方にはほとんど地震が起こっていません。 社会実情データ図録(https://honkawa2.sakura.ne.jp/4331.html)より引用 ここ10年東海地方では大きな地震が起きていません。静岡、愛知、三重、香川の4県は地震空白県と言っても構わないでしょう。地震は「県単位」で起きるわけでは無いので地震空白県に住んでいるから安心というわけではないですが。過去10年、兵庫、大阪、徳島には大きな地震は1回しか起きていませんが、29年前には阪神淡路大震災が起きました。地震が最近起きていないのが良い兆候か、悪い兆候か、わからないですね。地震は「気まぐれ」で「予知不能」です。 「天災は忘れた頃来る」は寺田寅彦の名言とされています。これは寺田のお弟子さんだった中谷宇吉郎の造語です。中谷が新聞に頼まれて師匠だった寺田の言葉として「天災は忘れた頃来る」を引用、それがめぐりめぐって朝日新聞の「1日1訓」に取り入れられ以後、この言葉は寺田寅彦の名言として流布します。しかし、後に中谷が書いていますが、寺田寅彦の著書にこの言葉はありません。似たような内容の言葉があり、それを中谷がわかりやすく改変し、師匠の言葉として紹介したのが発端です。師匠と弟子の素晴らしい合作ですね。 中谷がその辺りを解説しています。 天災は忘れた頃来る 中谷宇吉郎(青空文庫) https://www.aozora.gr.jp/cards/001569/files/53217_49675.html 好きでもない人とキスができるか? “Stayin' Alive”のテンポで心臓マッサージを! さて、「好きでもない人とキスができるか?」です。 のっけから何を言うか?と思われるでしょう。キスは普通、好きな人と交わします。家族と交わすこともあるでしょうが、日本では一般的ではないですね。私は「好きでもなく、家族でもない」方とキスをしたことが2回あります。察しが良い方はわかるでしょう。そうです。心肺停止時の処置です。 2001年の心臓血管外科学会で「心肺蘇生後の心臓手術症例の検討」という演題を発表したことがあります。心臓手術開始前に心臓マッサージをしていた8例のうち、6例は特に後遺障害なく退院できたというのが要旨です。だめだと思っても最後まで心臓マッサージ、人工呼吸を続けることが大切だということを示したつもりです。心臓マッサージ、散々、やりました。集中治療室担当だった初年兵の頃は、年がら年中、心臓マッサージをしていました。厳しく指導されました。ちょっとでも手を抜くと罵倒されました。数分心臓マッサージをすると手が疲れて動かなくなるのです。大きな病院ですと交代してくれる医師、看護師がいるからまだ良いのですが、小さい病院だと延々一人で心臓マッサージをしなければなりません。つらかったです。 「Repair of Lacerated Intrapericardial Inferior Vena Cava After Cardiac Massage」という論文を“Ann Thorac Surg”に発表したこともあります(Ann Thorac Surg. 2011 Oct;92(4):1510-2.)。 これは心肺停止となった男性(心筋梗塞で心室細動)に救急隊員が心臓マッサージを行い、意識が回復、冠動脈造影を行い、心筋梗塞の責任冠動脈をカテーテル治療しました。ここまでは良かったのですが、その後血圧が低下、心嚢腔内に血液が貯留していることがわかり、内科から私ども心臓外科に緊急手術(心臓圧迫解除手術)の依頼が来たのです。 心臓が血液で圧迫されて小さくなっています カテーテル治療後に治療した冠動脈から出血することがあります。心筋梗塞を起こした箇所からしみ出すように出血が生じることもあります。何れも止血は容易です。胸を開け心臓圧迫を解除して、血圧が上がり、やれやれと思って出血点を探そうとしたら……、出血点が見つかりません。 右心房の裏から血液が「じわーっと」湧き出てきます。どこから出血しているのかわかりません。そこで人工心肺を急遽装着(夜中でした)。全身を冷やし(28度まで)、いったん循環停止(30分くらい人工心肺を止め、つまり循環を止めても問題ないです)して、出血している箇所を検したところ、右心房と下大静脈移行部(上からは全く見えない)が裂けていることがわかりました。心臓マッサージで裂けたのだと思います。裂けている箇所の止血を行いました。さてこれで大丈夫と思って加温を開始して心拍を再開したら、止血部が裂けて出血しました。恐怖そのものでした。絶望感に襲われながらも何回か縫合止血操作をおこない、最後に1時間くらい出血部位を圧迫していたら、奇跡的に血が止まりました。この方は、幸い後遺症無く、元気に退院されました。後で調べたら、外傷後(心臓マッサージを含む)の右心房-下大静脈移行部損傷の死亡率は50-100%でした。救命例はほとんど無かったので、“The Annals of Thoracic Surgery”というアメリカの雑誌に投稿、無事掲載されました。 一番大切なのは、心臓マッサージ 話を主題に戻します。 心肺停止と思われる方を見たら直ちに蘇生開始をする必要があります。 一昔前は、心肺蘇生は「ABCD」と教えられてきました。 A(Airway)は「気道の確保」です。 ↓ B(Breathing)は「呼吸」、つまりマウスツーマウスでの人工呼吸です。 ↓ C(Circulation)は「循環」、つまり心臓マッサージです。 ↓ D(Defibrillation)は「除細動」 と習いました。 Aは(Airway) 気道の確保:上図の如く、マウスツーマウスが最初に行うべきことでした。つまり気道を確保して、次に呼吸(人工呼吸)を補助、そして循環(心臓マッサージ)をするのが王道でした。 マウスツーマウスを実施するには、相当勇気が必要です。見知らぬ方のマウスツーマウスなどできないのが普通です。必要な時は以下の写真に示すような人工呼吸用マウスシートという器具を使います。こういう器具を使えば、いくらか気分は楽になります。移動中や車の中、クリニックには常備してあります。幸い、開院してから一度も必要になったことはありません。 黄色い部分を心肺停止している方の口の中に入れて反対側から空気を押し込みます(もちろんマウスツーマウスですよ)。唇どうしが接触することはないので、心理的にはかなり楽です。 人工呼吸用マウスシート (200-500円/個) 長い年月、マウスツーマウスが必須の「ABCD」が蘇生の王道でした。 しかし、2010年、この王道は変わりました。 2010年改定の日本蘇生協議会(Japan Resuscitation Council:JRC)心肺蘇生ガイドラインで、 BLS: Basic Life Support:一次救命処置)の順番が 「A→B→C→D」 から 「C→A→B」に変わったのです。 2020年にもさらなる改訂がありました。2022年からこの改訂にそった蘇生が行われています。2020年のJRC心肺蘇生ガイドラインから最新の心肺蘇生方法を示します。コロナ禍の中での改訂です。大きく変わったのは「蘇生を行う際、無理に人工呼吸をしなくても良い」となったことです。「人工呼吸の技術と意思があれば」人工呼吸をしても良いとあります。蘇生を要した方がコロナ陽性だったら、蘇生をした方にコロナがうつるかもしれせん。そういうこともあり人工呼吸は必須ではなくなったのです。心肺蘇生に人工呼吸が必須でないなら、蘇生に対して少しだけ敷居が低くなります。 なお、人工呼吸をしてもしなくても蘇生率に大きな違いはありません。というか心臓マッサージだけ直ちに行った方が、蘇生後の社会復帰率が高いことが、日本循環器学会の調査(2009年)でわかりました。 日本循環器学会が平成21年までの5年間の1376例を調べた結果、心臓マッサージと人工呼吸を併用した場合には33%の救命率だったのが心臓マッサージだけの場合には41%と高い救命率を示したのです。他にも、人工呼吸を施さなくても蘇生率、社会復帰率は変わらないという論文が多数あります。 一番大切なのは、心臓マッサージです。 心肺蘇生訓練を受けた方も皆さんの中にはいらっしゃることと思います。 アメリカの病院を見学した時、心臓マッサージは「ミスター ルーカス」の仕事ですと冗談交じりに言われました。ルーカスさんという方が、心臓マッサージ担当なのかな?と思ったら、違いました。「ルーカス」と言う名前が付いた自動心臓マッサージ機械が心臓マッサージをしているのです。時は流れ、ルーカス君は日本各地の消防自動車にも配備されるようになりました。 富士市の消防隊です。最初の救急隊員による心臓マッサージが行われその後、ルーカス君(LUCAS3)が心臓マッサージを行っています。段々と広まると思います。それでも人による心臓マッサージは重要です。 乳首と乳首を結んだ中心辺りを押す。 5cm程度押す。 のがコツです。5cm押すと言ってもわからないと思います。「思いっきり」押すくらいで丁度良いです。お年を召された方の心臓マッサージをしていると「肋骨がボキボキと折れる」のを感じます。それくらい押さないと心臓マッサージは有効ではありません(注:肋骨は折れても蘇生に成功したら、後で治療できます)。 そして大事なのが回数です。 1分間に100-120回心臓マッサージを行います。 心臓マッサージの要点 強く押す→約5cm:骨が折れてもかまわないくらい押す 早く押す→100-120/分 絶え間なく押す:休んではいけない。交代者を見つける。 マッサージをするときは心臓の真上から、両肘は曲げずに行います(これ大切)。 心臓マッサージは、1分間に100-120回も行わなければいけないです。この回数を覚えるのに良いのが「Bee Geesの“Stayin' Alive”のテンポ」です。 “Stayin' Alive”のドラム音のテンポに合わせて心臓マッサージを行いましょう。回数感覚を覚えてください。 「キス(人工呼吸)は不要だぜ!キスするのは女房だけだ!“Stayin' Alive”のテンポで心臓マッサージだぜ!よろしく……」と強面のマフィアが言っています。イギリス心臓病協会の動画です。この動画には今号で私が伝えたいことが詰まっています。ぜひご覧ください。 こんな映像もありますが、これは助からないなあ。もっと押さないと駄目。肋骨が折れても大丈夫です。ガンガン押しましょう。あれれと思うくらいガシガシと胸骨を押す感じです。 “Stayin' Alive”→ 「生き続けよう!」という意味です。まさに心臓マッサージのテンポを覚えるのに最適ですね。 心臓マッサージ中にすること 周りの人に助けを乞いましょう。119番に連絡してもらいましょう。 119番に電話すれば、約7-9分で救急車が到着します。それまでの間、頑張って心臓マッサージをしてください。 AEDがあれば取りにいってもらいましょう。日頃からAEDの場所を確認してください。 社内のどこにあるか?通勤途中ではどこにあるか? なお、最近はコンビニにもAEDが設置されています。最近のAEDには自己診断機能が付いています。パッドを貼って、電気的除細動が必要なら、AEDが電気的除細動を行ってくれます。通電するなら、警告がでます。通電するときは心臓マッサージを止めて、手を直接身体に触れないようにすることが必要です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2024/08/05 前回までに以下のうち、1~14まで紹介が終わりました。今回は、15を紹介します。 ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと “子アイントホーフェン”一家のこと 心電図研究のこと アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 終戦そしてオランダに帰国 論文余話 論文余話 このシリーズは本稿で最後になります。長々とお付き合い頂きありがとうございました。 小宮まゆみ著 「敵国人抑留:戦時下の外国民間人」3) にアイントホーフェン医師の子息のことが記されていたのを読み、小宮まゆみ氏に資料を提供して頂いたことが、本論考を起こすきっかけでした。小宮まゆみ氏には、子アイントホーフェンと共に東京で抑留生活を送ったオランダ人が抑留体験記を書き、それが和訳されていることなども教えて頂きました。そしてオランダにNPO法人「日蘭イ対話の会」 という会があることも教えて頂きました。この会は「第二次世界大戦で生じたわだかまりをいつまでも、いつの日か解消したい願ったオランダ人、日本人、インドネシア人」が対話をするための会だそうです。この会は2000年から活動しています。同会の代表 「タンゲナ鈴木由香里さん」を、小宮山まゆみさんから紹介して頂き、タンゲナさんとメールで連絡が取れるようになりました。 タンゲナさんに、“子アイントホーフェン”一家のことなどを伺ってみたところ、(2019年5月)「子アイントホーフェンのお孫さんが、第二次世界大戦中に捕虜として日本で過ごした記録を出版されました(筆者注:多少、改変しています)」との連絡を頂きました。 ↓本論考の元になった本です。 “Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 オランダ語版” “Ineke van der Wal著:「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」2017年 刊 英語版” この本こそ、本論考の底本です。この本が出版されるよりも、かなり以前に私が探究していたら、あるいはこの本がオランダ語だけでの出版なら、“子アイントホーフェン”のお孫さんの書いたこの本と出会うことはなかったでしょう。そうなれば論文を書かなかったと思います。しつこいようですが、研究、探究には「できることは全部やる」ことが大切だと改めて感じました。あきらめずに探究することは大事ですが、「時」を味方にできないと探究はできないとも感じました。 その後、タンゲナさんにお骨折り頂き、Ineke van der Walさんとも連絡を取れるようになり、本論考で上掲の本からの文章の引用、写真の引用許可を頂きました。その経緯を示します。 180:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(8) この論考は著者から正式な許可を得て図版、文章を引用しています。こういうことも、きちんと行う必要があります。様々なことがありました。無事、論文となりました。いつかオランダにあるアイントホーフェン父子の墓を訪れ、この論文を捧げたいと思います。 右が小宮まゆみ様 左がタンゲナ鈴木由香里様です。 コロナ禍により、オランダ在住のタンゲナ鈴木由香里さんは、日本への渡航ができなくなっていました。しかし、コロナが下火になり、来日されました。小宮まゆみ様、タンゲナ鈴木由香里様と共にお目にかかることができました。2022年10月のことです。お二方のご尽力が無ければ論文は書けませんでした。ここに改めて謝意を表します。 完 いつかお読みください(再掲)。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ ■関連記事 172:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(1) 2021年日本不整脈心電学会の学会誌である「心電図」に拙稿が掲載 173:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(2) 小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」について 174:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(3) 「日本電気物語」に記された“子アイントホーフェン”のこと 175:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(4) 「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料について 176:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(5) 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」について 177:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(6) 「心電計の発明者アイントホーフェンの長男(子アイントホーフェン)の日本抑留記」 1. ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと 2. “子アイントホーフェン”一家のこと 3. 心電図研究のこと 4. アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと 5. “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと 6. “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 179:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(7) 7. インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 180:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(8) Ineke van der Wal氏からのe-mail 181:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(9) 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 9. “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? 182:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(10) 10. “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと 11. “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) 184:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(11) 12. “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など 185:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(12) 13. “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 14. 終戦そしてオランダに帰国 186:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(13) 15. 論文余話 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, et al. : Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram. Ann Thorac Surg, 1999 ; 67 : 1184-1185 本橋均:絃の影を追って:W. Einthovenの業績,初版.医歯薬出版,東京,1969 小宮まゆみ:敵国人抑留:戦時下の外国民間人,初版.吉川弘文館,東京,2009 ; 173-176 日本電気株式会社編:日本電気ものがたり,初版.日本電気,東京,1980 ; 157 Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 Ineke van der Wal : The Temple with the Chrysanthemums Dutch Prisoners of War in Tokyo, 1st ed. Independently published, USA, 2017 Snellen, HA : Willem Einthoven(1860-1927)Father of electrocardiography : Life and work, ancestors and contemporaries. Springer, Netherlands, 1995 Einthoven Jr, WF : The string Galvanometer in wireless telegraphy. Proceedings, 1923 ; 26 : numbers 7, 8. Einthoven W, Einthoven WF, Willem van der Horst, et al. : Brownsche Bewegingen van een gespannen snaar. Physica, 1925 ; 5 : 358-360 ノーベル賞委員会:Willem Einthoven - Nobel Lecture - Nobel Prize. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1924/einthoven/lecture/(2021年 2月閲覧) 明治大学平和教育登戸研究所資料館:地域から追う登戸研究所. https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50en.pdf(2021年 2月閲覧) オランダ日本インドネシア対話の会:Deportation to Japan : Search for Clarity. https://sites.google.com/site/dlgnji4nl/programmas/conf08/2gre-en(2021年 2月閲覧) 心電図 Vol. 41 No. 1 2021 13 ) 日野原重明:心電計の歩み.検査法の変遷(Clinical Laboratory編集委員会編).診療新社,大阪,1982 ; 295 聖路加国際病院 100年史編集委員会編:聖路加国際病院の 100年.聖路加国際病院,東京,2002 大蔵省印刷局編:官報 1921年 08月 27日.国立国会図書館デジタルコレクション United States Department of the Army : Pamphlet - Dept. of the Army. Tokyo, 1949 ; 579 War Graves Commission Oegstgeest(Oorlogsgravencomit? Oegstgeest) : Comit? Herdenken en Vieren Oegstgeest. https://www.oorlogsgravenoegstgeest.nl/en/resistance-fighters/einthoven-en(2022年 2月閲覧) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2024/07/22 W杯本番の最中には心筋梗塞などの心血管疾患を発症する方が急増 サッカーW杯(2026年 カナダ、アメリカ、メキシコ)の最終予選が始まります。日本は二次リーグを勝ち抜きました。最終予選は、これまでよりも厳しい試合が続くとおもいます。頑張ってほしいですね。 さてW杯本番の最中には心筋梗塞などの心血管疾患を発症する方が急増します。2006年 ドイツで行われたサッカーW杯での報告です。 Cardiovascular events during World Cup soccer https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/18234752/ 同年同時期に比してW杯の時機は急性の心血管疾患の発病率が倍増しています。興奮するからでしょう。このような報告は多数あります。 特殊な心筋症も発症しやすくなります。この心筋症は「たこつぼ型の左心室形態」を生じるので、「Takotsubo cardiomyopathy」と正式命名されています。元広島市民病院の佐藤光先生が発見者です。 英文論文に「Takotsubo」の名前が載っています。命名者は佐藤先生です。 Kurisu S, Sato H, Kawagoe T, et al : Takotsubo-like left ventricular dysfunction with ST-segment elevation : a novel cardiac syndrome mimicking acute myocardial infarction. Am Heart J 2002 ; 143 : 448-455 おしゃれなネーミングです。急激なストレスにより発症するので「broken-heart syndrome:失恋心筋症」とも称されます。逆にとても楽しい、嬉しいことでも生じます。それを「happy heart syndrome」と称します。何れにせよ、精神、心に大きな負荷がかかると発症します。 “蛸壺や はかなき夢を 夏の月”芭蕉の名句ですが、そのタコも本当に夢を見ているかもしれないという研究が、2023年、Natureに発表されました。 「Wake-like skin patterning and neural activity during octopus sleep」 Nature volume 619, pages 129-134 (2023) 深い睡眠の時、タコは深く眠ると「皮膚には鮮やかな色の輪が点滅する」のだそうです。面白いですね。芭蕉がこのタコの皮膚の点滅を見て、思いついて、俳句を詠んだなら面白いのですが、それはあり得ないでしょう。 W杯における日本人サポーターの「ゴミ拾い」も有名になりました。ゴミを残さないのが日本人という評価が得られたのは良いことだと思います。しかし……私は時々、高速道路を利用します。その際、あまり見たくない光景を目にします。それはインターチェンジ付近の草むらのゴミです。ゴミが大量に捨てられています 。あれを見ると「日本人全員が、きれい好き」ではないことがわかります。 登山家の野口健氏は富士山の清掃活動をしていますが、最近増えているゴミの1つが「尿入りペットボトル」なのだそうです。下記、記事参照ください。 増える「尿入りペットボトル」ポイ捨て 野口健さんが拾った悪意(毎日新聞) https://mainichi.jp/articles/20230316/k00/00m/040/089000c 栃木県足利の渡良瀬川河川敷で行われる花火大会翌日にゴミ清掃ボランティアをしたことがあります。河川敷には大量のゴミが捨てられていました。悲しくなる風景です。W杯を見に行けるような“裕福な”サポーターは時間的にも金銭的にもある程度余裕がある方なのだと思います。つまり、 「恒産無くして恒心無し(孟子)」 「衣食足りて礼節を知る(管仲)」 なのだと思います。 本論です。前回、前々回は「特別号」でした。 医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(10)からの続きになります。 前回までに以下のうち、1~12まで紹介が終わりました。今回は、13、14を紹介します。 ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと “子アイントホーフェン”一家のこと 心電図研究のこと アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 終戦そしてオランダに帰国 論文余話 Ineke van der Wal 著 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」2017年 刊 以下、本文及び他から引用します。 (本書からの引用は著者の許可を得ています)。 囲み内の黒字は本文、青字は拙訳(意訳)です。囲みの下は私の感想、コメントです。 “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 【252頁: “子アイントホーフェン”の葬儀】 After Wim's passing, Dr. Ikeda's assistant arrives first. He is a pleasant young man who speaks English well, but he cannot do anything anymore. Shortly thereafter a Sumitomo official physician comes to diagnose Wim's death. The Japanese all act in the same formal way: They enter the room, they stop and then stand at attention. They then walk to the bed, make a deep bow, stand upright as if to say a prayer, bow again, and then stiffly take some steps back; only then do they turn to the people in the room and start talking. The entire household staff appears. Hirata comes quickly too, as well a as Tanaka. Later in the day several other people from Sumitomo come, some from the lab and some from the department of human affairs. Also an important delegation from the Kempe Tai arrives. The next day goes by in the same way, albeit not as busy because it is the first day of a major air raid. It starts at a quarter past seven in the morning - a time when they have never had 'keikaikeiho' (planes far away) before - and it lasts until a quarter past five in the afternoon. However, it is not constant 'kushukeiho' (air danger alerts) but they are not allowed to burn coals for heat, they can't cook and there are no trams, so no one comes to visit. Later they hear that a carrier ship has ze come so close to Tokyo that small aircraft can reach the city. So far a they have always been attacked by large planes, but this is a completely different type of aircraft. They always come in waves, all in all there ares about 750 aircraft over the city. ウィム(注:ウィム=“子アイントホーフェン”)が亡くなってから、池田先生の助手が到着した。彼は英語が堪能な好青年だが、もう何もできない。その後、住友の産業医が来て、ウィムの死を宣告した。日本人は皆、同じように振舞う。部屋に入り、立ち止まり、整列する。そして、ベッドに向かい、深々とお辞儀をし、祈るように直立し、またお辞儀をして、何歩か下がり、それから部屋の人たちの方を向いて話し始めるのだ。全員が登場した。平田も田中も来た。その後、住友から研究所の者、人事課の者などが何人か来た。憲兵隊からも重要な使者がやってきた。 翌日から大空襲がはじまった。それほど頻繁では無いが、空襲は間断なく続いた。朝7時15分から始まり、午後5時15分まで続くが、この時間帯に「飛行機が遠のく」ということは今までなかった。「空襲警報」が連続して鳴るわけではないが、暖をとるために炭を燃やすことも許されず、料理もできないし、路面電車もないので誰も訪ねてこない。当時、空母が東京に接近し、小型飛行機が到達できるようになったと仄聞した。 これまでは大型機による攻撃ばかりだったが、今回は全く違うタイプの機体だ。いつも波状攻撃をしてくるが、今回は全く違うタイプの飛行機で、全部で750機ほどが上空を飛んでいた。 1945年2月には空襲がひどくなっていた事がわかります。それが同年3月10日の東京大空襲につながるのでしょう。機体の違いなどを冷静に観察している所に興味が湧きます。最初に“子アイントホーフェン”を診に来てくれた医師ですが、もしかしたら日野原重明先生かもしれません。当時、聖路加国際病院で若くて英語が堪能とういうと日野原重明先生を想起しますが、1945年2月、日野原重明先生は海軍に志願して横須賀で訓練を受けていますので、別な先生が来たのかもしれません。なお色々と調べましたが日野原先生は、“子アイントホーフェン”の事を何も書き残していません。 【 226頁:遺体を火葬にして遺骨へ】 Sumitomo asks what Beb wants to do with Wim's body. She knows immediately that Wim should be cremated, so that he does not have to remain in this hostile foreign country. The coffin is supposed to arrive the next day, but because of air raids, it is not delivered until 5 o'clock in the afternoon. It is a simple white wooden coffin made of soft smooth Japanese wood. At first his coffin looks very simple but when they later see other coffins, they realize Wim's one is not so bad. In the coffin they find a mat and pads of rice paper. The Japanese do understand how awkward it will be when Japanese men will place Willem in his coffin, so the Dutch men offer to help. They wrap Wim in a sheet with Beb and Wim's monogram on it and they also put a monogrammed pillow under his head. Then Beb, the four children,and the men from the Lels, Levenbach and Leunis families, place Wim in the coffin. It is placed on trestles in Beb and Wim's bedroom and they cover it with a white silk cloth. 住友は、ベブがウィムの遺体をどうしたいのか、と聞く。彼女はすぐに火葬が良いと思った。火葬にすれば敵国に遺体が残らなくてすむ。棺は翌日届くはずだったが、空襲があったので午後5時になってから届けられた。棺は日本の柔らかい滑らかな木で作られたシンプルな白木の棺だった。最初はとても質素に見えたが、後で他の棺桶見ると、ウィムの棺桶も悪くないと思うようになった。棺の中には、マットと和紙が入っていた。日本人は、日本人がウィムを棺に入れるのがどんなに気まずいかわかっているので、オランダ人は手伝いを申し出た。彼らはベブとウィムのモノグラムが入ったシーツでウィムを包み、モノグラムの枕を頭の下に置いた。そして、ベブと4人の子どもたち、レルス家、レーベンバッハ家、ルーニス家の人たちが、ウィムを棺に入れる。棺はベブとウィムの寝室にある架台の上に置かれ、白いシルクの布で覆われた。 日本人が“子アイントホーフェン”の死に対して、配慮をしていたことがうかがわれます。 【226頁:葬儀の様子】 Meanwhile bouquets arrive from all the families in the house, the staff,the lab, and the president of Sumitomo in Tokyo, Dr. Kadju, altogether about ten bouquets. They are all of the same type: a small bamboo table with legs approximately ten centimeters high with two thick bamboo vases attached on top. In the vases are a few newly budding branches of trees, some carnations and a flowering branch without any leaves but beautiful, entirely unfamiliar flowers, that have a dark red square in the center covered with narrow yellow petals. そうこうしているうちに、家の者、研究所の者、東京の住友の社長であるKADJUから、合わせて10束ほどの花束が届いた。高さ10センチほどの脚のついた小さな竹のテーブルの上に、太い竹の花瓶が2つ付いているもので、どれも同じようなものである。花瓶の中には、芽吹いたばかりの木の枝が数本、カーネーションが数本、葉はないが全く見慣れない美しい花を咲かせる枝が1本入っている。中央の四角い部分は細い黄色の花びらで覆われている。 東京の住友の社長であるKADJUとあるが、多分、日本電気の第4代社長の「梶井剛」のことかと思われます(日本電気は当時「住友通信工業」に改名され、オランダ人捕虜が通勤していたのも「住友通信工業」の研究所)。捕虜であってもその死に際してきちんと花を贈っている、こういうことはもっと広く知られるべきだと思います。 【226頁:葬儀の様子とオランダ人捕虜一行内の確執】 Mrs. Leunis and the girls make a garland of flowers and add three of Tineke's hair ribbons, one red, one white and one blue, in such a way that they look like the Dutch flag. The coffin stays throughout the night and the next day and all the Japanese from the house come back to pay their respects. Suddenly a photographer arrives and takes three pictures. Afterwards he is allowed to photograph all the families in the garden, but for the Einthoven family it is of course too late; they are not a complete family any more. On February 17, at four o'clock in the afternoon, five cars arrive. The first one will carry the coffin, the other four cars will take the group, who have not been outside the compound for a whole year, to the crematorium. Annie Lels cannot go, she is still too ill; The Hasenstab family is not invited. “子アイントホーフェン”夫人と娘たちは花輪を作り、髪のリボンを赤、白、青の3本ずつ、オランダの国旗に見えるように付けた。棺は一晩安置された。翌日には抑留されていた家に関係する日本人全員が弔問に訪れた。その時、突然カメラマンがやってきて、3枚の写真を撮った。その後、庭で家族全員を撮影したが、アイントホーフェン家にとっては、もはや完全な家族ではなかった。遅すぎた。2月17日午後4時、5台の車が到着、最初の車が棺を運び、残りの4台が1年間一度も外に出たことのない一家を火葬場へ運んだ。なお、ハーゼンスタブ一家は招待されていない。 戦争当時の葬儀の様子がわかる描写です。文中最後の「ハーゼンスタブ一家」はドイツ系の一家で、ユダヤ系やオランダ系に対して度々差別発言をして、オランダ人捕虜の中では「嫌われ者」だったのです。 中略 【227頁:骨壺異聞】 Two days later Beb and Henk Lels, accompanied by Takesan and Tanaka, drive to the crematorium to receive the urn with the ashes. The Japanese made an effort to find a beautiful urn, but it is too fancy, dark blue with a lot of gold, not appropriate for Wim, so Beb asks for a simpler urn and they bring a plain white cylindrical one. Jan Leunis calls it later 'so technical'. The urn comes in a box of beautifully finished oak and is carried in a white silk cloth with a knot on top. Beb stuffs the inside of the box later with padding to make sure that the urn won't break during travel. While they are waiting for the Japanese trying to find another urn, they can observe their surroundings. They see more new caskets, many for small children which are brought to a special counter. They calmly admire the Buddha statue displayed in the center alcove and some bright green vases displayed in two side alcoves. In front of the beautiful antique objects stands a messy table and two kitchen chairs - such an unusual contrast. They are taken to a side building where the 'undertaker' awaits them and in the tokonoma, a place of honor, stands the box next to a vase of flowers. The Japanese hand over the box while bowing reverently. Henk carries it to the car, where Beb takes it on her lap. At home, Geo Levenbach and Janch Leunis customize a small table, which came with the funeral, with a neat edge so that the box fits tightly. This way the box has its own place in the bedroom that from now on will be occupied by Tineke and Beb. 2日後、ベブとヘンク・レルスは、竹山と田中を伴って火葬場へ車で向かい、遺灰の入った骨壷を受け取る。日本人は努力して美しい骨壷を探したが、紺色に金をふんだんに使った派手すぎるもので、ウィムにはふさわしくないので、ベブがもっとシンプルな骨壷を頼んだら、白い円筒形の無地のものを持ってきた。ヤン・ルーニスはそれを後で「とてもテクニカル」と呼んでいた。骨壺は美しく仕上げられたオーク材の箱に入っており、結び目のある白い絹の布に包まれて運ばれてきます。ベブは旅行中に骨壷が壊れないように箱の内側に詰め物をいれた。日本人が別の骨壺を探そうとしているのを待つ間、彼らは周囲を観察することができた。小さな子供用の棺も多く、専用のカウンターに運ばれている。中央の床の間に飾られた仏像や、両脇の床の間に飾られた鮮やかな緑の花瓶を静かに眺めた。アンティークの美しいオブジェの前には、雑然としたテーブルと2脚のキッチンチェアが置かれ、なんとも珍しいコントラストをなしていた。その後、一行は横の建物に案内された。 床の間には、花瓶の横に箱が置かれていた。日本人は恭しくお辞儀をしながら骨壺を手渡してくれた。 ヘンクが車まで運び、ベブが膝の上に乗せた。抑留されていた家に帰った。 当時の日本人は、“子アイントホーフェン”のために装飾を施した豪華な骨壺を用意していたのですが、“子アイントホーフェン”一家はそれを拒否してシンプルな骨壺を選んでいます。この辺りの葬儀の様子も興味深いです。その後、空襲が激しくなり、オランダ人捕虜は全員、名古屋郊外に移り、そこで終戦を迎えます。 【342頁:なぜオランダ人捕虜は東京に連れてこられたか?勘違い】 What was the purpose of their stay in Japan? A question that the has posed many times. After the war several attempts are made to answer this question and various theories pass in review. Was the intention to be exchanged for Japanese who were interned in the United States? This is unlikely because the exchange of prisoners of war after mediation by the Swedish or International Red Cross, was halted halfway through 1943. Approximately 2,700 prisoners have been exchanged in this program, including 45 Dutch on Louren?o Marques, an island off the coast of Mozambique. The internees had to be equal in number, gender, education and status. 彼らが日本に滞在した目的は何だったのか?という問いは、何度も投げかけられた。戦後、この問いに答えるためにいくつかの試みがなされ、様々な説が検討された。アメリカに抑留されていた日本人と交換するためだったのだろうか。というのも、捕虜の交換は、スウェーデンや日本が仲介して行われたからだ。スウェーデンや国際赤十字の仲介で行われた捕虜の交換は、1943年の半ばに中止されたからだ。このプログラムでは、モザンビーク沖の島、ルレンソ・マルケス島にいたオランダ人45人を含む約2,700人の捕虜が交換された。被抑留者は、人数、性別、教育、地位が同等であることが条件であった。 オランダ人捕虜一行は、捕虜交換要員になるのではと考えていたのでしょう。実際は違うのですが・・ 日本では大学生がするような計算をしていただけですから・・・ しかし、次項でその目的は明らか?になります。 【342頁:一行の1人が1965年に日本に来ています】 Henk Lels was in Japan in 1965 for a large conference on electronic issues and then tries to obtain more clarity at Sumitomo, but in the usual polite Japanese manner his request is denied. 1965年に来日したヘンク・レルズは、電気に関する大規模会議に出席した後、日本抑留当時のことを、住友商事から、情報を得ようとしたが、慇懃に拒否された。 【343頁:1970年 抑留されていたオランダ人捕虜の1人が来日するも住友の人達とは会えず】 Geo Levenbach tried in 1970 to make direct contact with Sumitomo to find out what the purpose of their stay in Japan was. With his son Frits, Geo had an audience' with Baron Sumitomo. It was not the intention to ask questions or get answers. This was considered a courtesy visit. What Baron Sumitomo was able to tell them, however, was that Wim Einthoven's widow had written a letter that his death was not the fault of Sumitomo, while Geo Levenbach knew for certain that such a letter had never been written. They had to leave again, while constantly bending up and down at the waist. 捕虜として東京に抑留されたジオ・レーベンバッハは1970年、なぜ日本に抑留されたのかを探るため、住友に接触を試みた。息子のフリッツとともに、ジオは住友男爵に謁見した。質問したり、答えを得たりすることは許されず、表敬訪問とみなされた。住友男爵から聞かされたのは、「ウィム・アイントホーフェンの未亡人が、夫の死は住友のせいではないという手紙を書いた」ということだった。ジオ・レーベンバッハはそのような手紙は書かれていないと確信していた。 元オランダ人捕虜の1人が1970年に来日、住友男爵と面会しています。詳細は不明です。1970年当時、生存していたBaron Sumitomoとは恐らく住友 友成(1909 - 1993)元男爵のことだと思います。 【344頁:抑留されていたオランダ人捕虜の1人が2001年に来日】 Paulien Lels manages in 2001, through an informal approach,togain access to NEC. She writes: 'In a huge conference room, at the top of the NEC access to NEC (Nippon Electric Company), part of the Sumitomo group building, a special 'reception committee' of anagement, archivists, former employees and in their midst a hale and hearty old gentleman over 90s old, Mr Osawa, who during the war, was the director of the laboratories, where our fathers had been forced to do their work. Standing perfectly erect and with a forceful voice he welcomed us and discussed a number of papers that had been compiled especially for us and discussed the papers together with us. Clear diagrams showed that people were busy setting up a radar system and that is the honest conclusion: the purpose of our stay in Japan was the development ofradar.' 捕虜の1人だったパウリアン・レルスは2001年、非公式な方法でNECにアクセスすることに成功した。住友グループのNEC(日本電気株式会社)のビルの最上階にある巨大な会議室で、経営陣、記録係、元従業員に面会することが出来た。その中に90歳を超える元気な老紳士、大澤さんがいた。 大澤さんは、戦時中、父たちが強制的に働かされた研究所の所長で、90歳を過ぎた元気なおじいさんだった。彼の証言で、オランダ人捕虜一行は「レーダー研究」に携わっていたことが解った。 オランダ人捕虜一行は「レーダー研究」に携わっていたことになっていますが、ここに出てくる大澤さん(筆者注:大澤壽一氏)自身が「日本電気株式会社編:日本電気ものがたり 東京,1980 」 の中で「敵国人を機密の作業につかせることはできません。別に一室を設けて、そこで計算の仕事を手伝ってもらいました」と書いています(同著:157頁)。Inekeさんの本にある「オランダ人捕虜は大学生がするような計算をさせられていた」という記述と一致します。陸軍はレーダー研究を進めるために遠路はるばるインドネシアからオランダ人捕虜を連れてきたのですが、実際の研究現場では「何もしていない」状態でした。何をか言わんやですね。 終戦そしてオランダに帰国 【239頁:空襲が激しくなり名古屋に移動】 In May 1945 the United States demand from the Japanese authorities,via the Swiss embassy in Tokyo, to immediately transfer the prisoners of war to safer areas. Sumitomo realizes that it is no longer able to guarantee the safety of the Dutch group and decides to transfer the group to the Ministry of the Interior. In early May, Hirata visits the Dutch group to pass on this message, and he uses the occasion to tell worry, it them openly that Holland is truly liberated and adds: 'Don't will not last long.' The desire to return to their families in The Netherlands is sometimes unbearable. 1945年5月、アメリカはスイス大使館を通し、日本政府に対して捕虜の安全な地域への即時移送を要求した。住友は、もはやオランダ人グループの安全を保証することはできないと判断し、内務省への移管を決定した。5月上旬、平田はこのメッセージを伝えるためにオランダ人グループを訪ね、この機会にオランダが本当に解放されたことを公然と伝え、「心配するな、このような抑留は長く続かないだろう」と付け加えた。オランダの家族のもとに帰りたいと思う気持ちは、抑えがたかった。 紹介すると長くなるので略しましたが、オランダ人捕虜は1945年3月10日の東京大空襲を経験しています。その際のことは、かなり詳しく書かれています。興味深いです。それはともかく、空襲が激しくなり、同年5月5日にはドイツが降伏したので、一般市民の知らないところで様々な動きがあったのでしょう。オランダ人一行は、捕虜としてではなく、内務省に移管されています。1945年5月5日、ドイツが降伏した時点でオランダは解放されていたので、そういう事情もあったのでしょう。オランダ人捕虜一行は、名古屋市郊外の石野村(現:豊田市)にある広澤寺と広沢寺に疎開させられたのです。そのお寺の「菊(Chrysanthemums)」がきれいだったので、この本のタイトルに菊を入れていますが、本の主要な内容と「菊」とは関係がありません。なお、お寺での生活はかなり悲惨でした。食糧不足のために蛇や雑草まで食べています。8月15日に終戦となり、オランダ人捕虜一行は名古屋観光ホテルに移り1945年9月4日には名古屋からオーストラリアに向かいました。 “子アイントホーフェン”の遺灰を持ち帰った遺族は、1955年“、父アイントホーフェン”夫妻が眠るグロエン・ケルクエ墓地に遺灰をおさめています。 ライデン近郊のウフストヘースト(oegstgeest)にあるGroene Kerkje cemeteryに父母と共に埋葬されています。下段に“子アイントホーフェン”のことが記されています。 1893年7月17日出生、1945年2月15日、日本にて死す と記されています。 以下続く・・・ 次回は論文には書かなかった、このシリーズの最後です。 いつかお読みください(再掲)。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ ■関連記事 172:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(1) 2021年日本不整脈心電学会の学会誌である「心電図」に拙稿が掲載 173:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(2) 小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」について 174:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(3) 「日本電気物語」に記された“子アイントホーフェン”のこと 175:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(4) 「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料について 176:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(5) 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」について 177:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(6) 「心電計の発明者アイントホーフェンの長男(子アイントホーフェン)の日本抑留記」 1. ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと 2. “子アイントホーフェン”一家のこと 3. 心電図研究のこと 4. アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと 5. “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと 6. “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 179:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(7) 7. インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 180:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(8) Ineke van der Wal氏からのe-mail 181:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(9) 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 9. “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? 182:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(10) 10. “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと 11. “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) 184:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(11) 12. “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など 185:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(12) 13. “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 14. 終戦そしてオランダに帰国 186:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(13) 15. 論文余話 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, et al. : Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram. Ann Thorac Surg, 1999 ; 67 : 1184-1185 本橋均:絃の影を追って:W. Einthovenの業績,初版.医歯薬出版,東京,1969 小宮まゆみ:敵国人抑留:戦時下の外国民間人,初版.吉川弘文館,東京,2009 ; 173-176 日本電気株式会社編:日本電気ものがたり,初版.日本電気,東京,1980 ; 157 Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 Ineke van der Wal : The Temple with the Chrysanthemums Dutch Prisoners of War in Tokyo, 1st ed. Independently published, USA, 2017 Snellen, HA : Willem Einthoven(1860-1927)Father of electrocardiography : Life and work, ancestors and contemporaries. Springer, Netherlands, 1995 Einthoven Jr, WF : The string Galvanometer in wireless telegraphy. Proceedings, 1923 ; 26 : numbers 7, 8. Einthoven W, Einthoven WF, Willem van der Horst, et al. : Brownsche Bewegingen van een gespannen snaar. Physica, 1925 ; 5 : 358-360 ノーベル賞委員会:Willem Einthoven - Nobel Lecture - Nobel Prize. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1924/einthoven/lecture/(2021年 2月閲覧) 明治大学平和教育登戸研究所資料館:地域から追う登戸研究所. https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50en.pdf(2021年 2月閲覧) オランダ日本インドネシア対話の会:Deportation to Japan : Search for Clarity. https://sites.google.com/site/dlgnji4nl/programmas/conf08/2gre-en(2021年 2月閲覧) 心電図 Vol. 41 No. 1 2021 13 ) 日野原重明:心電計の歩み.検査法の変遷(Clinical Laboratory編集委員会編).診療新社,大阪,1982 ; 295 聖路加国際病院 100年史編集委員会編:聖路加国際病院の 100年.聖路加国際病院,東京,2002 大蔵省印刷局編:官報 1921年 08月 27日.国立国会図書館デジタルコレクション United States Department of the Army : Pamphlet - Dept. of the Army. Tokyo, 1949 ; 579 War Graves Commission Oegstgeest(Oorlogsgravencomit? Oegstgeest) : Comit? Herdenken en Vieren Oegstgeest. https://www.oorlogsgravenoegstgeest.nl/en/resistance-fighters/einthoven-en(2022年 2月閲覧) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2024/06/24 この論考「記録を残す、論文を書く」とは少し離れますが、今回は前々回ご紹介した戦時下の聖路加国際病院にて子アイントホーフェン一家の診察を行った池田泰雄先生のこと及び池田泰雄先生と故日野原重明先生との深い関係などを紹介します(12.)。 ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと “子アイントホーフェン”一家のこと 心電図研究のこと アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 終戦そしてオランダに帰国 論文余話 “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など 前回、心電計の開発、発明でノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”に会ったことがある「池田泰雄」医師が戦争末期の聖路加国際病院に在籍、“子アイントホーフェン”の診療に当たったことやその診察室に“父アイントホーフェン”の写真が掲げられていたことを紹介しました(注:聖路加国際病院は、昭和18年に、大東亜中央病院と改称されています。戦後直ちに元の名前に戻っています)。 池田泰雄医師のことを調べたところ、「聖路加国際病院の100 年」 14)に 1939年同院に勤務していた医師の名簿が載っており、その中に「第2内科医長 池田泰雄」とあります。 色々と調べたところ、1898年東京帝国大学医学部から「池田泰雄」名で医学博士号が授与されていることがわかりました。その学位が記載されている官報 15)です。池田泰雄先生の箇所だけ拡大します。 話は逸れますが、この学位記は「大蔵省印刷局編:官報 1921年08月27日」からの引用です。大蔵省印刷局が編集していたのでしょう。 この学位記から察するに、池田先生は東京帝国大学医学部出身でしょう。 戦後、米軍が作った資料16)の中にも、聖路加国際病院に勤務する IKEDA Yasuo の名前を認めます。 この本の579頁に「Ikeda Yasuo」とあります。ちなみに、この本はアメリカ軍が作ったアメリカ人が東京で生活するためのガイドブックです。かなり細々としたことまで書かれています。英語ができる医師もリストアップされていて、その中に以下のような記述があることを発見しました。 「IKEDA Yasuo 医師は 1914 年までドイツに留学し、その後アメリカでも学んだ」と記されています。 池田泰雄先生はドイツ、アメリカに留学したと書かれています。留学時代の事を池田先生が何か書き残していないか探しましたが、見つかりませんでした。1914年、第一次世界大戦がはじまっています。同年8月23日、日本はドイツに宣戦布告していますから、ドイツでの留学生活は、思う様に行かなかった可能性が高いと思います。その辺りの事を記した資料が見つかりました。 1914年発行の神経学雑誌に第一次世界大戦に巻き込まれて進退きわまっている留学生の中に「池田泰雄」の記述があります。残念ながら、これ以上のことはわかりませんでした。池田泰雄先生が“父アイントホーフェン”に面会した時のこと、あるいは“子アイントホーフェン”を診察したことなどを書いた文献や記録があればと思い探しましたが、そのような資料を見つけることはできませんでした。父子アイントホーフェンのサインが入った肖像写真の行方にも興味があるのですが、こちらも不明です。 しかし、論文に「池田泰雄先生のことなど、ご存じの方がいらっしゃればご教示いただければ幸いである」と記したおかげで、戦後の池田泰雄先生のことがわかりました。 ご親族の方(土倉英資様)からメールを頂いたのです。ありがたいことです。そのメールを紹介します。 突然のメール、失礼致します。 貴「心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察」を偶然拝見しました。私は、池田泰雄の連れ合い(池田やま)の妹の子供でございます。伯母は後妻であります(先妻は病死)。伯父泰雄は東京帝国大学医学部の出身で間違いありません。家族は、先妻との間に息子一人(泰矩:やすのり)と二人?の娘がありました。息子は、外科医になり歯科医師と結婚しましたが、早逝してしまいました。その後は、伯母と二人睦まじく暮らしておりました。 聖路加在籍中のことはよく存じません。後に横浜・山手町に居所を定め、長らく伯父は横浜・山手病院に務め、伯母はフェリス女学院大・関東学院大で教鞭をとっておりました。二人とも職住近接でした。私も折に触れて父母などと、自宅を訪問したりしました。伯父は自身の専門外のことに非常に意識が高く、よく父が質問責めにあっておりました。穏やかで優しい人でした。夫婦で近所の、放火で有名になった聖公会の信徒でありました。自宅は、その後に相続をした伯母の弟(母の兄)により教会に遺贈され、聖公会の施設「祈りの家」となっております。 さて、本題でございます。 日野原重明氏の著書の一つの中にこんな記述がありました。望月様のお知りになりたいことには程遠いとは存じますが、それでも些かの手掛かりになればと失礼乍ご紹介致します。 尚、伯父・伯母の生年没年は次の通りです。 池田泰雄 生 1885年(明治)18.09.07 没 1980年(昭和)55.3.30 池田やま 生 1902年(明治)35.5.28 没 1992年(平成)4.3.8 青山墓地に眠っております。 土倉英資 戦後、池田泰雄先生は「横浜・山手病院に勤め」とあります。戦後もお元気で活躍していたのです。なお、この方のメールにも書いてありますが、あの日野原重明先生と池田泰雄先生との重要な関係があることがわかりました。自分でも「誰も知らない?日野原重明先生の姿」というコラムを書いて、日野原先生のことは調べたつもりだったのですが、迂闊にも忘れていました。私が所蔵している日野原先生の本「幸福な偶然をつかまえる(光文社:2005年)」にも同様な記載がありました。そう思って調べなおしたら、日野原重明先生が池田泰雄先生について記している本が複数ありました。両先生の関係がよくわかる箇所を引用します。複数の本からの引用です。 ****** 日野原重明先生のご著書から引用開始 ****** 私(注:日野原先生)は京大YMCAの寮にいたし、長く学生YMCA運動にかかわっていたでしょう。そこへYMCA同盟の総主事の斎藤惣一先生が京都に来られて、「同級生の池田泰雄医長が聖路加で心臓病を専攻している若い医者を求めている。君は心臓病を研究中だそうだが、東京に行かないか」とお誘いがあった。 聖路加国際病院からの話は、そんな時に舞い込んで来ました。聖路加の内科にドイツ語と英語が堪能で外国人の患者を多く診ている池田泰雄先生と、民間では日本で初めて心電図を使用し日本語で不整脈の本を出版した橋本寛敏先生とがおられることは、「実験医報」という病院の臨床医学の雑誌の記事でよく知っていました。 この二人の医長は、東大の稲田龍吉内科教授らと対等に討議しています。そんな記事を読んで、私はこんな病院だったら就職したいと思ったのです。 外国人には心臓疾患を持つ患者が多かったにもかかわらず、池田医長の配下には心臓に明るい医師がいなかった。池田医長は自分の配下に心臓の専門医がほしい、とクリスチャン学生に接することの多いYMCAの斉藤先生に話していたのです。 斉藤先生に聖路加赴任の話をいただくまで、私の人生の選択肢に聖路加は全くありませんでした。話をいただいてから、ほかの医学雑誌で、聖路加では東大定年後に来られた内科の稲田龍吉先生、塩田広重教授先生、そしてロックフェラー財団の第一回フェローとして東大卒業後アメリカに留学された橋本寛敏先生などが出席するカンファレンスをやっているという記事を、強い関心をもって読みました。この記事を読んで、京大閥をはなれ、箱根の山を越える決心を固めました。 「東京へ行く」 ****** 引用終了 ****** つまり、池田泰雄先生が「心臓病を専攻している若い医者を求めた」ことが発端で、京都大学にいた日野原重明先生が東京の聖路加国際病院に移ったのです。当時は京都大学から東京の民間病院への就職など考えられなかった時代です。日野原先生は、戦後、長く聖路加国際病院は元より、日本の医療に深く広く関わり、最晩年まで大活躍なさいました。その元は池田泰雄先生だったのです。人のつながりとは何か? 運とは何か? 色々なことを考えさせられます。 次回続く。 いつかお読みください(再掲)。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ ■関連記事 172:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(1) 2021年日本不整脈心電学会の学会誌である「心電図」に拙稿が掲載 173:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(2) 小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」について 174:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(3) 「日本電気物語」に記された“子アイントホーフェン”のこと 175:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(4) 「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料について 176:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(5) 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」について 177:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(6) 「心電計の発明者アイントホーフェンの長男(子アイントホーフェン)の日本抑留記」 1. ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと 2. “子アイントホーフェン”一家のこと 3. 心電図研究のこと 4. アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと 5. “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと 6. “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 179:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(7) 7. インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 180:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(8) Ineke van der Wal氏からのe-mail 181:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(9) 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 9. “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? 182:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(10) 10. “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと 11. “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) 184:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(11) 12. “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など 185:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(12) 13. “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 14. 終戦そしてオランダに帰国 186:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(13) 15. 論文余話 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, et al. : Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram. Ann Thorac Surg, 1999 ; 67 : 1184-1185 本橋均:絃の影を追って:W. Einthovenの業績,初版.医歯薬出版,東京,1969 小宮まゆみ:敵国人抑留:戦時下の外国民間人,初版.吉川弘文館,東京,2009 ; 173-176 日本電気株式会社編:日本電気ものがたり,初版.日本電気,東京,1980 ; 157 Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 Ineke van der Wal : The Temple with the Chrysanthemums Dutch Prisoners of War in Tokyo, 1st ed. Independently published, USA, 2017 Snellen, HA : Willem Einthoven(1860-1927)Father of electrocardiography : Life and work, ancestors and contemporaries. Springer, Netherlands, 1995 Einthoven Jr, WF : The string Galvanometer in wireless telegraphy. Proceedings, 1923 ; 26 : numbers 7, 8. Einthoven W, Einthoven WF, Willem van der Horst, et al. : Brownsche Bewegingen van een gespannen snaar. Physica, 1925 ; 5 : 358-360 ノーベル賞委員会:Willem Einthoven - Nobel Lecture - Nobel Prize. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1924/einthoven/lecture/(2021年 2月閲覧) 明治大学平和教育登戸研究所資料館:地域から追う登戸研究所. https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50en.pdf(2021年 2月閲覧) オランダ日本インドネシア対話の会:Deportation to Japan : Search for Clarity. https://sites.google.com/site/dlgnji4nl/programmas/conf08/2gre-en(2021年 2月閲覧) 心電図 Vol. 41 No. 1 2021 13 ) 日野原重明:心電計の歩み.検査法の変遷(Clinical Laboratory編集委員会編).診療新社,大阪,1982 ; 295 聖路加国際病院 100年史編集委員会編:聖路加国際病院の 100年.聖路加国際病院,東京,2002 大蔵省印刷局編:官報 1921年 08月 27日.国立国会図書館デジタルコレクション United States Department of the Army : Pamphlet - Dept. of the Army. Tokyo, 1949 ; 579 War Graves Commission Oegstgeest(Oorlogsgravencomit? Oegstgeest) : Comit? Herdenken en Vieren Oegstgeest. https://www.oorlogsgravenoegstgeest.nl/en/resistance-fighters/einthoven-en(2022年 2月閲覧) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2024/06/11 先日、遠藤章先生逝去の報を知り、驚きました。文献から遠藤先生の偉大なご業績をひも解き、追悼とします。 コレステロールを下げるお薬「スタチン」を世界で初めて発見したのは遠藤章先生です。 スタチン発見の経緯などを紹介いたします。 遠藤先生は東北大学農学部を1957年に卒業、三共製薬(現:第一三共)に入社。1966-68年、アメリカのアルバートアインシュタイン大学に留学。留学中と帰国後に2つの仮説を思いついたとあります(文献2など)。 遠藤先生が思いついた2つの仮説 「肝臓のコレステロール合成阻害剤、なかでも HMG-CoA還元酵素阻害剤が、既存のコレステロール吸収阻害剤よりも血中コレステロールがよく下がるのではないか」 「菌類が HMG-CoA 還元酵素を阻害する抗生物質をつくるのではないか」 解説: 肝臓でコレステロールが合成されるときに使われる酵素の一つがHMG-CoA還元酵素(3-Hydroxy-3-methylglutaryl coenzyme-A reductase)です。この酵素の働きを阻害する物質が見つかれば、肝臓でコレステロール合成ができなくなる。そうなれば血中のコレステロール値は低下し、動脈硬化の進行を遅らせることができるのではないかと、遠藤先生は考えたのです。元に戻ります。 上記2つの「仮説」を思いついた遠藤先生は様々な実験、探索を行いました。その一端を紹介します。 1971年:2.の仮説を実証するためHMG-CoA 還元酵素阻害物質の探索を開始します。 三共の中に発酵研究所(有馬洪所長)が作られ「菌類からHMG-CoA 還元酵素阻害物質を見つける」プロジェクトを立ち上げました(1971年から2年間の期限付き)。 1973年7月:コンパクチンの発見。 遠藤先生が菌類の探索を始めてから2年、6000!もの菌種を探索。探索終了間際の1973年7月に青カビ(Penisillium citrinum Pen-51) から ML-236B (コンパクチン)を発見。なお「京都の米屋の米から得たものと書かれているものを見受けますがそれは間違い」とこの青カビを三共に持ち込んだ古谷航平氏が経緯を書いています。少し長くなりますが、引用します(文献11より)。 「私は社内で一人菌をいじっていましたが,本格的に教えを請いたいと思い終業時間後や休暇をとって、しばしばひそかに国立衛生試験所(現:国立医薬品食品衛生研究所)に行って同所の一戸正勝研究員にいろいろと教えてもらっていました」 「消費者に渡る前の各地産の米を国立衛生試験所で検査を行っていました」 「検査後の廃棄するカビが生えたシャーレなどがたくさん置かれていました」 「その中にP. citrinumと思われるカビがありました.P. citrinumは寒天培地中に黄色い色素を出すことは一つの特徴ですが、これは色素を出していませんでした」 「何か変わった株なのではと思いいただて帰りました」 「そのため、その菌株は京都産の米に由来するとわかっているのです。1967年の春だったと記憶しています」 「遠藤さんは帰国し社内での研究を開始しましたが、当初からコレステロールに関する研究であったと思います。そこで、私がいろいろな基質から分離してためておいたカビを彼に提供しました。そのうちの1株が上記のアオカビだったのです」 古谷航平さんが、終業後に国立衛生試験所に行っていたこと、ちょっと変わった青カビを三共に持ち帰らなければコンパクチンは見つからず、スタチン発見は遅れたかもしれないですね。 さて遠藤先生は、当初、このコンパクチンはコレステロール低下作用を持つだろうくらいの認識だったそうですが、ラットにコンパクチンを投与したところ、コレステロール低下作用が認められたため、 1974年6月7日:コンパクチンのコレステロール低下作用について特許出願。論文も直ちに書いています(文献9.10.)。 コンパクチンは、あのペニシリンと一緒で、青カビから発見されています。それゆえ、スタチンは「動脈硬化のペニシリン」とも称されます。 1974-76年:コンパクチンをラットに投与した実験開始。 この世界初のスタチン(HMG-CoA 還元酵素阻害剤)のコンパクチンですが、培養細胞ではコレステロール合成を阻害するのですが、ラットではコレステロールの低下作用が見られませんでした。これはラットのコレステロールが正常だからで、血中コレステロール値が高い雌鶏を使った実験では、コンパクチンでコレステロールが見事に下がりました。その後、コンパクチン投与でサルでも犬でも血中コレステロール値が下がることがわかり、1976年から非臨床試験が開始されます。 1976年:三共はメルクと秘密保持契約をむすびコンパクチンをメルクに提供。 1976年12月:コンパクチンがHMG-CoA還元酵素阻害作用をもつ物質であることを示した論文が掲載される(文献10)。この論文こそ、遠藤先生が世界初のHMG-CoA還元酵素阻害物質(つまりコンパクチン)を発見したことを示す論文です。 1978年2月2日:世界で最初のスタチンによる臨床使用が阪大で行われる。 大阪大学病院の山本章先生から18歳の家族性高脂血症(血中コレステロール値が1000)の方にコンパクチンを投与して治療をしたいという申し出があり、有馬所長と遠藤先生の独断でコンパクチンを山本章先生に提供、山本先生が患者さんに投与したところ、劇的に改善しました。今なら、こんなことはできないでしょうね(文献12)。 1978年8月:しかしラットに超高容量のコンパクチンを投与すると、肝細胞に微細結晶が生じることがわかり、一時実験は中断。後に通常の使用量では問題ないことが解るが、三共はコンパクチンの開発を中止。 1978年11月:メルク社はカビの一種である「アスペルギルス・テレウスAspergillus terreus 」からコンパクチン同族体(=コンパクチンと似た構造と作用をもつ物質の意味)であるメビノリンを発見。 1978年末:遠藤章先生、三共を退職、東京農工大に移る。 1979年2月:遠藤章先生は、紅麹菌(Monascus ruber M1005)が産生する物質にコレステロール低下作用があることを発見、この物質をモナコリンKと命名し、特許出願。1979年2月20日。 1979年6月15日:メルク社はメビノリンの特許出願。 1979年10月:メビノリンとモナコリンKは同一物質と認定され「ロバスタチン」と命名。遠藤先生の方が特許出願は早いのですが、発見した日はメルク社の方が早いのです。そこで「モナコリン=メビノリン=ロバスタチン」の特許は先願特許の国(特許を出願した日を優先する国、米国を除く先進国)では遠藤先生に特許があり、先発明主義(発見日を優先)の国ではメルクにあります。 1979年11月:遠藤章先生は「モナコリン=メビノリン=ロバスタチン」の特許を三共に譲渡。しかし三共はロバスタチンの開発は行わなかった。先願特許の国ではこの物質(ロバスタチン)の特許は三共にあり、そのために、メルクのロスバスタチンの開発が遅れたとあります(文献3)。 1979年:コンパクチンを投与した犬の尿中から、コンパクチンよりも生理活性の高い「プラバスタチン」を三共の辻田代史雄が発見。 1980年6月:プラバスタチンの特許出願。 1987年9月:メルクから「ロバスタチン(商品名:メバコール)」が商業販売開始、これが世界初の商業スタチンです。なお、このお薬は日本では未発売です。 年度不明(1980-1985年頃?):コンパクチンからプラバスタチン合成に必要な物質を作る放線菌(Streptmyces carbophilus)を三共の研究者が発見。この菌は、たまたま、三共の土壌採集グループがオーストラリアの栄養源の少ない土壌を持ち帰りその中から見つかった菌です。この菌はコンパクチンを効率よく水酸化してプラバスタチンを合成することが解り、この菌を用いての工業化に三共が成功。プラバスタチンが世に出たのはこの「菌」が見つかったからだと思います。このことはあまり知られてはいませんが、日本放線菌学会の平成2年度の学会賞を受賞しています。それくらい重要な発見だったと思います(文献5.6.)。 つまり、プラバスタチン合成には二つの菌 「Penisillium citrinum Pen-51(京都産)」:コンパクチンを作る と 「Streptmyces carbophilus(オーストラリア産)」:コンパクチンからプラバスタチンを作る が関与していることがわかります。「コンパクチンを産生する」青カビが、偶然、三共の研究所にあり、「プラバスタチンの工業化に必須」の機能を持つ放線菌を含んだオーストラリアの土が三共にあったとは、言葉にはできないくらいの不思議を感じます。「神様」はどこかにいるのではと思わずにはいられないです。 1989年3月:三共の「プラバスタチン(商品名:メバロチン)」は薬事承認され、同年10月から販売開始されます。世界で二番目に商業販売された「スタチン」です。 多くのスタチンが発見され、世界中で使われるようになりました。そのスタチンの大元は、繰り返しますが、1973年に遠藤章先生が発見した「コンパクチン」です。スタチンは、高脂血症、脂質異常症治療のゴールデンスタンダードとなり、多くの人の命を救います。 遠藤先生の業績を眺めていると、何かを発見すると直ちに、 論文を書いていること 特許を取れそうなら必ず特許をとっていること がわかります。コンパクチンで特許を取っていなかったら、医療の世界、薬の世界だけではなく、大げさに言えば日本経済に影響があったと思います。 そういう大きな功績に対して、世界中から、賞賛を浴び、様々な賞を授けられています。受賞した主な賞を挙げます。 日本国際賞、文化功労者、マスリー賞、アルバート・ラスカー臨床医学研究賞、ガードナー国際賞などを授けられています。ただ1つだけ受賞すべきだった「賞」が無いのが残念ですが、そんな表彰はともかく、これからも多くの人命を救うであろうお薬(スタチン)を発見した偉大な生涯でした。 合掌 【文献】 多数の文献がありますが、代表的なモノを挙げておきます。 文献9.10.こそ、スタチン発見の文献です。リンク先をたどればどなたでも読めます。 遠藤章:「紅麹と紅麹菌をめぐる歴史と最近の動向」(1985年「発酵と工業」vol43、No.6(頁:545-552)) 遠藤章:スタチンの誕生(日農医誌 64巻6号 958~965頁 2016.3) 遠藤章:コレステロール低下薬"スタチン"の発見--誰が,いつ,どこで?( 化学と生物 : 日本農芸化学会会誌 : 生命・食・環境:48(1)-48(6)=554-559:2010.1-2010.6) 原泰史、長岡貞男:革新的な医薬の探索開発過程の事例研究 :メバロチン(JST-N-CASE06) 一橋大学イノベーション研究センター 新井守ら:新コレステロール低下剤プラバスタチンの製造における放線菌の利用(日本放線菌学会誌 4 (2), 95-102, 1990) 芹澤伸記: HMG-CoA還元酵素阻害剤プラバスタチンの二段階醗酵生産の開発:有機合成化学協会誌 55 (4), 334-338, 1997 Kazuo Nakamura: New Aspects of Clinical Trials in Japan EPC:12-15,1999 Kazuo Nakamura:A unique cholesterol-lowering agent that no one had ever had before.Atherosclerosis [Suppl]5:19-20,2004 AKIRA ENDO, MASAO KURODA:CITRININ, AN INHIBITOR OF CHOLESTEROL SYNTHESIS(The Journal of Antibiotics Volume 29 (1976) Issue 8 Article) ↓読めます。 https://doi.org/10.7164/antibiotics.29.841 コンパクチン最初の論文です。 Endo A, Kuroda M, Tanzawa K.:Competitive inhibition of 3-hydroxy-3-methylglutaryl coenzyme A reductase by ML-236A and ML-236B fungal metabolites, having hypocholesterolemic activity. FEBS Lett. 1976 Dec 31;72(2):323-6. doi: 10.1016/0014-5793(76)80996-9. ↓読めます。 https://febs.onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1016/0014-5793%2876%2980996-9 コンパクチン2番目の論文 ここでHMG-CoA還元酵素阻害剤であると示しています。 古谷航平:遠藤先生,ガードナー賞ご受賞,おめでとうございます:化学と生物2018年56巻3号 p.230-231 ↓読めます。 https://doi.org/10.1271/kagakutoseibutsu.56.230 山本 章:元祖スタチン(コンパクチン:ML-236B)の初期臨床開発(回想録):化学と生物2018年56巻3号 p.152-155 https://doi.org/10.1271/kagakutoseibutsu.56.152 世界初のスタチン投与による臨床例に関するお話です。興味深い話がたくさん載っています。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2024/04/22 この長い論考の中で1番伝えたかったこと 長々と「心電計の発明者アイントホーフェンの長男(子アイントホーフェン)の日本抑留記」の紹介をしてきました。まだ、数回続きますが、今回こそ、この長い論考の中で1番伝えたかったことを記しています。 元はと言えば、 1. 本橋均 著「絃の影を追って:W. Einthoven の業績」を読んでいたとき、心電計の改良をアイントホーフェン医師と行っていた同医師の息子さん(本稿では子アイントホーフェンと略)が東京大空襲でお亡くなりになっていたと書かれていたことに興味を持ったのが最初です。20年以上前のことです。それから、「東京大空襲でお亡くなりになっていた子アイントホーフェン」のことについて調べているうちに偶然見つけたのが、 2. 小宮まゆみ 著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」です。同著に「1945年2月 子アイントホーフェンは、東京にて肺炎で死亡」と書いてありました。本橋均の記述とは違います。肺炎でお亡くなりになったのなら、医師が診察している可能性が高く、医師なら「アイントホーフェン」の名前を見て心電計の発明者である父アイントホーフェンのことを想起しなかっただろうかと思い、それに関する資料を探しました。 父アイントホーフェンが心電計の発明でノーベル賞を受賞したのが1924年(大正13年)、日本にアイントホーフェンの原理を用いて作られた心電計が輸入されたのが1911年(明治44年)ですから、昭和20年頃の医師なら、アイントホーフェンの名前を知っているだろうと予想しました。 そして、遂に辿り着いたのが、日本でお亡くなりになった“子アイントホーフェンのお孫さんの “ Ineke van der Wal “さんが書いた子アイントホーフェン一家の日本抑留生活記です。 3. Ineke van der Wal,著「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo:2017年刊」 そして、この本を読んでいて。。 「え??」「あ!!」「本当か?」「予想は当たっていた!」「しかし、残念!」 と声が出ました。それくらいびっくりしました。 前回までに以下のうち、1. - 9.まで紹介が終わりました。今回は10. 11.を紹介します。 ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと “子アイントホーフェン”一家のこと 心電図研究のこと アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 終戦そしてオランダに帰国 論文余話 Ineke van der Wal 著 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」2017年 刊 からの引用です(本書からの引用は著者の許可を得ています)。 “子アイントホーフェン”ら、オランダ人技術者は神奈川県川崎市登戸(のぼりと)で仕事をさせられていました。 そんなある日、子アイントホーフェンの家族は現在も東京築地にある聖路加国際病院で健診、診察を受けることになりました。そこで驚きの出会いが… 以下、本文より引用します。青字は拙訳(意訳)です。 “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと 【204頁:“子アイントホーフェン”は聖路加病院を受診しています】 The hospital they visit is St. Luke's hospital, a former American hospital in Tokyo. Beb goes to the hospital for new glasses, the children go to the dentist there and Wim visits an internist, Dr. Ikeda.! In his office hangs a portrait of Professor Einthoven. Dr. Ikeda has met Professor Einthoven and admires him. He asks Wim if he is related to the Professor and when Wim confirms this, Dr. Ikeda asks Wim to put his signature at the bottom of his father's portrait and he offers Wim all help whenever possible. 彼らが訪れた病院は、元はアメリカ人が運営していた聖路加国際病院だった。“子アイントホーフェン”の奥さんは眼鏡を新調するために、子供たちは歯医者に、そして“子アイントホーフェン”は内科医の池田先生の診察を受けた。その池田先生のオフィスには、アイントホーフェン教授の写真が飾られていた。池田先生は「アイントホーフェン教授(父アイントホーフェン)に会ったことがあり、教授をとても尊敬していると言った。もしかして教授の親戚かどうかと尋ねられた。 “子アイントホーフェン”は「自分はそのアイントホーフェン教授の息子である」と伝えたら、父親の写真の下に“子アイントホーフェン”のサインを書くように頼まれた。そして池田先生は“子アイントホーフェン”にできる限りの手助けをすると申し出てくれた。 本論の核心というか、これを紹介するために、長々と論考を紹介してきたと言っても過言では無いです。様々な出来事が重なり、“子アイントホーフェン”は東京に連れてこられました。そしてその東京で父アイントホーフェンに会ったことがある池田医師に診察を受けたのです。私の予想「“子アイントホーフェン”が東京に連れてこられたなら、診療を担当する医師がアイントホーフェンという名前から父アイントホーフェンに気づいたのではないか」が明確に確かめられました。なんという偶然でしょう。父の写真が掲げられている診察室に入った“子アイントホーフェン”が何を思ったのか書いてありませんが、何となく心強かったと思います。でも、さりげなく書かれているだけです。ちょっと、あっけない書き方です。それには理由があります(後述します)。 “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) 【217頁:“子アイントホーフェン”インフルエンザに罹患】1945年2月のことです。 It is beautiful, freezing weather but on February 1 the weather changes into a very rainy storm type and a flu starts floating around, even the Japanese are affected. Loukie starts first, then Tineke does not feel well. Wim comes home on February 3 after work and doesn't feel good. Two days later Beb is in bed; only Kate and Wink stay healthy. A doctor comes because 13 of the 22 are ill, and he prescribes some medication. All of them are violently ill, but that does not last long. After four days you feel better, but if you're not careful, you can get sick again. On the 7th Wim no longer has a fever and on the morning of the 8th he wants to take a bath. Beb advises against it, but he insists. Wink fires up some briquettes to heat up the bathroom. After bathing Wim goes downstairs to help get the food. Nobody knows when it happens, but in the evening Wim starts shivering and Beb takes his temperature. It is 40.1° C (or 104.1 F), more than he ever had when he had the flu. He complains of pain in his left shoulder and they immediately ask for a doctor. The doctor doesn't come until the 10th (of February) in the afternoon. He pats him here and there and says in his limited English: 'Nothing serious. The fever meanwhile goes down somewhat. In the morning it is 38° C (100.4 F) and in the evening it goes up to 39° C (102.2 F). The doctor is interested in Wim's constipation, which does not mean anything when you stay in bed all day. This reassures Beb even though Wim remains depressed, but the Japanese calm down and no longer listen to Wim's complaint. 1945年2月1日に天気が変わり、大雨が降り、嵐が吹き荒れ、インフルエンザが流行し始めた。日本人もインフルエンザに罹患した。子供達が最初に体調を崩した。2月3日、仕事を終えて帰ってきた“子アイントホーフェン”は体調が悪かった。捕虜22人中13人の体調が悪くなって初めてドクターが来て、なにがしかの薬を処方した。皆、ひどく体調が悪くなったが、長くは続かず回復した。しかし、“子アイントホーフェン”は違っていた。彼も2月7日には解熱して、8日には風呂に入った。入浴後、“子アイントホーフェン”は食べ物を取りに階下に来た。それくらい良くなった。しかし、夕方になると震えだした。体温は40.1度まで上がり、インフルエンザにかかったときよりも高い熱が出た。左肩の痛みを訴えていた。直ちに医師の往診を頼んだが、医師が来たのは2月10日だった。医師は彼のあちこちを触診した。限られた英語で「たいしたことはない」と言った。そうこうしているうちに、熱はいくらか下がってきた。朝は38℃、しかし、夕方は39℃まで上がった。 悲しいことに“子アイントホーフェン”はインフルエンザに罹患、一時、快方に向かうも容態が急変、そして… 【219頁:“子アイントホーフェン”死す】 In February Wim asks the doctor for some drugs other than a laxative maybe a sulfa drug. The doctor completely ignore him, maybe he did not know what he was asking for or there are no drugs left. They get no support from Hirata, who always comes along to their doctor visits. Several days later Wim repeatedly asks if Dr. Ikeda, the doctor who has the portrait of Father Einthoven in his office at St. Luke's hospital, can come. They still ignore him. On the fourth day at noon Wim cannot go to the bathroom. He eats very little, only the soup and the milk taste good to him. He gets a cup because he is ill and Beb also gets one, but she gives hers to Wim. Later he eats a tangerine which was given to him as food for the sick. On the fifth day after he had an aspirin, his temperature is 37.6° C (99 F). This is encouraging although Beb decides to try and feed him hoping to get more food in him that way. Beb is also weak because she just went through a flu attack herself, so she spends lots of time dozing next to Wim in their double bed. Wim doesn't sleep well and wants to drink a lot at night, but when there is another air raid, he asks for the curtains to be opened so that he can see all the searchlights. In February Wim asks the doctor for some drugs other than a laxative A not know what he was asking for or there are no drugs left. They get SAY no support from Hirata, who always comes along to their doctor visits. Several days later Wim repeatedly asks if Dr. Ikeda, the doctor who has the portrait of Father Einthoven in his office at St. Luke's hospital, can come. They still ignore him. On the fourth day at noon Wim cannot go to the bathroom. He eats very little, only the soup and the milk taste good to him. He gets a cup because he is ill and Beb also gets one, but she gives hers to Wim. Later he eats a tangerine which was given to him as food for the sick. On the fifth day after he had an aspirin, his temperature is 37.6° C (99 F). This is encouraging although Beb decides to try and feed him hoping to get more food in him that way. Beb is also weak because she just went through a flu attack herself, so she spends lots of time dozing next to Wim in their double bed. Wim doesn't sleep well and wants to drink a lot at night, but when there is another air raid, he asks for the curtains to be opened so that he can see all the searchlights. “子アイントホーフェン”の病状は進行した。医者に下剤以外の薬(サルファ剤など)を頼んだ。しかし、医者は何を求められているのがわからないのか、それとも、もう薬がないのか、その願いは全く無視された。いつも診察に付き添ってくれる憲兵隊の平田からのサポートはなかった。数日後、“子アイントホーフェン”は、聖路加病院の診察室に父アイントホーフェンの写真を飾っている池田医師に来てもらえないかと何度も頼んだが無視された。再度熱発してから、4日目の昼、ウィムはトイレに行けなくなった。彼はほとんど食べられず、スープとミルクだけ飲んでいた。病人食として渡されたミカンは食べた。アスピリンを飲んで、体温が37.6℃になった。“子アイントホーフェン”の奥さんはもっと食べさせたいと思い、食事を与えてみようと試みた。しかし、彼女もインフルエンザにかかったばかりで弱々しく、ダブルベッドでウィムの隣でうとうとしている時間が多かった。“子アイントホーフェン”はよく眠れなかった。空襲があるとサーチライトが全部見えるようにカーテンを開けてくれと頼んでいた。 【219-220頁:“子アイントホーフェン”奥様の手記】 When I woke up early in the morning, Wim had difficulty breathing; I called softly Bibi' but got no answer and thought to myself, Thank God, he sleeps' and remained quietly beside him. But at six o'clock I got very concerned, and when I turned on the light, I noticed that he was unconscious. He had not drunk any water, so he probably became that way early in the night, because he usually drank three glasses of water. Immediately I went to Henk Lels who quickly got dressed and went to the Kempei guard, who lived in the gate house at the entrance of the yard. He came at once, and by eight o'clock a doctor came, again with Hirata. They tried very hard to reach Dr. Ikeda, but he was sick. He promised to send one of his young employees. The first doctor gave Wim an injection. Wim winced a little but then became very quiet, even though he had been moving his hands a lot. I sat by Wim's side continuously; Loukie sat beside me; the others thought it was too scary. At a quarter to ten he held his breath for a moment, Loukie went downstairs t to see if the doctor was still there and came back with Henk Lels, Katy, Tineke and Wink and while we were all standing around him, and without him opening his eyes and without any discomfort or even a deep sigh, the difficult breathing stopped and our dear, dear Daddy left us. We all gave him a goodbye kiss and could not think about our terrible loss; we only saw his relief from the horrible sufferings he had endured during the last year before he died. It was so quiet and peaceful that we had to be grateful rather than upset or angry. The children felt this very strongly as well.' 早朝に目が覚めると、ウィム(訳注:“子アイントホーフェン”)は息苦しそうにしていた。呼んでも返事がないので、「よかった、寝ている」と思い、静かにそばにいてあげた。しかし、6時頃、心配になって電気をつけると、意識が無かった。いつもはコップ3杯の水を飲んでいたのに水を飲んでいなかった。すぐに子供達を使いとして、兵に連絡をした。8時には医者が来た。また憲兵隊の平田が一緒だった。池田先生と懸命に連絡を取ってもらったが、池田先生は病気に罹っていて来られなかった。最初の医者は、ウィムに注射をした。ウィムは、ちょっと泣いた。手をたくさん動かしていたのに、とても静かになった。私はその横に座り続け、ルーキーは私の横に座った。10時15分頃、彼の「息」が止まった。ルーキーは医者がまだいるかどうか見に階下に行き、ヘンク・エルス、ケイティ、ティネケ、ウィンクを連れて戻ってきました。私たちは皆彼の周りに立っていた。彼が目を開けることもなく、不快感や深いため息もなく、呼吸は止まり、私たちの愛するパパは私たちの元を去ってしまった。私たちは皆、パパにお別れのキスをしたが、私たちのひどい喪失感について考えることはできず、亡くなる前の最後の1年間に耐えたひどい苦しみから解放されたと感じた。あまりに静かで平和だったので、私たちは動揺したり怒ったりするよりも、むしろ感謝しなければならなかったのです(筆者注:ひどい苦しみから解放されたことを感謝したの意味か?)。子どもたちも同様なことを感じていた」。 1945年2月15日、東京白金にて“子アイントホーフェン”は永眠しました。インフルエンザ罹患後の肺炎が死因と思われます。急変後、聖路加病院の池田先生の診察を懇願していましたが、生憎、池田先生自身が病気で伏せっていて往診は叶いませんでした。池田先生についての記述が素っ気ないのはこのためでしょう。医療設備がある聖路加病院に入院していれば助かったかも知れないです。いずれにせよ、“子アイントホーフェン”は空襲のためでなく肺炎で亡くなっていて、その経緯もはっきりとしました。 次回、“子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生のこと、あの日野原重明先生と池田泰雄先生との関係などを紹介します。 いつかお読みください(再掲)。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ ■関連記事 172:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(1) 2021年日本不整脈心電学会の学会誌である「心電図」に拙稿が掲載 173:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(2) 小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」について 174:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(3) 「日本電気物語」に記された“子アイントホーフェン”のこと 175:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(4) 「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料について 176:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(5) 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」について 177:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(6) 「心電計の発明者アイントホーフェンの長男(子アイントホーフェン)の日本抑留記」 1. ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと 2. “子アイントホーフェン”一家のこと 3. 心電図研究のこと 4. アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと 5. “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと 6. “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 179:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(7) 7. インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 180:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(8) Ineke van der Wal氏からのe-mail 181:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(9) 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 9. “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? 182:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(10) 10. “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと 11. “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) 184:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(11) 12. “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, et al. : Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram. Ann Thorac Surg, 1999 ; 67 : 1184-1185 本橋均:絃の影を追って:W. Einthovenの業績,初版.医歯薬出版,東京,1969 小宮まゆみ:敵国人抑留:戦時下の外国民間人,初版.吉川弘文館,東京,2009 ; 173-176 日本電気株式会社編:日本電気ものがたり,初版.日本電気,東京,1980 ; 157 Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 Ineke van der Wal : The Temple with the Chrysanthemums Dutch Prisoners of War in Tokyo, 1st ed. Independently published, USA, 2017 Snellen, HA : Willem Einthoven(1860-1927)Father of electrocardiography : Life and work, ancestors and contemporaries. Springer, Netherlands, 1995 Einthoven Jr, WF : The string Galvanometer in wireless telegraphy. Proceedings, 1923 ; 26 : numbers 7, 8. Einthoven W, Einthoven WF, Willem van der Horst, et al. : Brownsche Bewegingen van een gespannen snaar. Physica, 1925 ; 5 : 358-360 ノーベル賞委員会:Willem Einthoven - Nobel Lecture - Nobel Prize. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1924/einthoven/lecture/(2021年 2月閲覧) 明治大学平和教育登戸研究所資料館:地域から追う登戸研究所. https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50en.pdf(2021年 2月閲覧) オランダ日本インドネシア対話の会:Deportation to Japan : Search for Clarity. https://sites.google.com/site/dlgnji4nl/programmas/conf08/2gre-en(2021年 2月閲覧) 心電図 Vol. 41 No. 1 2021 13 ) 日野原重明:心電計の歩み.検査法の変遷(Clinical Laboratory編集委員会編).診療新社,大阪,1982 ; 295 聖路加国際病院 100年史編集委員会編:聖路加国際病院の 100年.聖路加国際病院,東京,2002 大蔵省印刷局編:官報 1921年 08月 27日.国立国会図書館デジタルコレクション United States Department of the Army : Pamphlet - Dept. of the Army. Tokyo, 1949 ; 579 War Graves Commission Oegstgeest(Oorlogsgravencomit? Oegstgeest) : Comit? Herdenken en Vieren Oegstgeest. https://www.oorlogsgravenoegstgeest.nl/en/resistance-fighters/einthoven-en(2022年 2月閲覧) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2024/03/25 “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 前回は少し横道にそれました。今回は前々回からの続きです。 前々回で“子アイントホーフェン”一行はインドネシアから日本の門司港まで船で移送され、その後門司からから東京まで列車で移動させられ、東京の白金にあった元チリ大使館に幽閉されたところまで紹介しました。その後も実に数奇としか言えないような運命を彼ら一行はたどっています。今回はこのシリーズ⑧の紹介です。 ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと “子アイントホーフェン”一家のこと 心電図研究の事 アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 Ineke van der Wal 著 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」2017年 刊 からの引用です。前回お伝えしたとおり「Ineke van der Wal」さんとメールでやりとりができるようになりました。本書の中にある図、写真は自由にお使いくださいとのことです。 早速本書から引用します。彼らのインドネシアから日本(東京)への道のりが図になっています。 図1:頁173より引用 インデネシアのバンドンから東京まで。今でも充分に長いですね。 注:「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」より引用 以下、本文より引用します。 青字は拙訳(意訳)です。日本に着いた彼らは長い船旅と貧しい食事のため、極度に疲弊していました。 【193頁:住友の社員は疲弊している彼らに帝国ホテルから食事を届けさせた】 Everyone is exhausted and sick. They have lost weight and have hollow, thin faces. The bad food aboard the SS Aramis and the nights on deck have taken their toll and Sumitomo is shocked by their condition. The following days they are served oatmeal with sugar for breakfast, and both lunch and dinner come from the Imperial Hotel. 一行は全員痩せこけ、頬がこけていた。航海中の貧相な食事と甲板での夜の寒さのせいである。住友の社員は彼らの状態にショックを受け、到着翌日から朝食は砂糖入りのオートミールを用意し、昼食、夕食は帝国ホテルから食事を届けさせた。 さすが、住友の社員ですね。この一事をとっても普通の捕虜と違う扱いであったことがわかります。 【194頁:日本人のお手伝いさんも住み込んでいた】 The entire household staff - they all live on the property - Takesan, the housekeeper, the three cooks, Yamposan, Burukawasan and Hyokisan and the two maids Soemidja and Mitsuko, make an appearance. Takesan is a kind of secondary supervisor. She is over 60 and does not have to be as submissive as the young Japanese women. Then they meet Mr. Hirata, their liaison with Sumitomo. He has been in America for four years, 'he had studied English,' so they call him Mr. Hirata and not in the Japanese way with san after his name. Later the whole group is also presented to the representatives of the local authority. Even the children have to show up. We must all bow down and listen to a long speech,' writes Annie, ハウスキーパーの「たけ」さん、料理番の「やんぽ」さん、「ぶるかわ」さん、「ひょっき」さんの3人、女中の「そえみじゃ」と、「みつこ」もなどが生活の手助けをしてくれた。「たけ」さんは副管理人のような存在だった。彼女は60歳を過ぎていた。その後、住友との連絡係である平田に会った。彼はアメリカで4年過ごし、英語も勉強したというので、彼の事は「ヒラタ」さんではなく「ミスター ヒラタ」と呼んでいた。一行は町内会代表者にも紹介された。子供たちもその場に出るように強要された。みんな頭を下げて、長いスピーチを聞かなければならなかった。 日本名が変ですがオランダ人には、そう聞こえたのでしょうね。 【194頁:連続して13日間働くように強制された】 The next day the men are given instructions by a high-ranking officer of Sumitomo. The men will have to work hard (13 consecutive days, the 14th day is free), or otherwise will be severely punished. The men must swear to an oath, which among other things states that they will not try to escape. According to the Geneva Convention, such an oath is not allowed. The men make some money, but that money is not paid out to them. Hirata controls the money and if something needs to be paid, he provides for it. 翌日、住友の幹部から指示があった。13日間連続勤務せよ(14日目は休日)、この命令にしたがわないと厳罰に処するということだった。「逃亡を企てない」という誓約書も書かされた。ジュネーブ条約によれば、このような誓約は許されていない。働けば幾ばくかの給与を支給するがその給与は平田が金を管理し、支払いが必要なものがあれば平田がその金で供与すると言っていた。 軍の命令により、住友の社員もこのような命令をしなければならなかったと思います。オランダ人一行はジュネーブ条約違反だと再三再四、訴えますが、聞き入れられませんでした。 【197頁:帝国ホテルからの食事は止まったけれど】 The food from the Imperial Hotel stops after two weeks and then the schedule of home cooking by the Japanese cooks begins. Sumitomo food stamps for them and also buys food on the black market. In the morning they get oatmeal together with a cup of tea and a slice of bread. At one o'clock it is a mixture of rice with barley, and other grains with some vegetables in a thick sauce and a cup of tea. In the evening the one o'clock lunch dish is repeated, but they also get a bowl of soup beforehand. Everything is tasty, but it's the same every day, there is no meat, hardly any vegetables, no fat, no sugar, and nothing in between. It's not healthy, especially not for growing children. They have been advised to chew the food properly to release the few vitamins, but it is annoying. You're sitting at the table chewing for a long time. Wim turns very skinny and he dreams of macaroni with cheese and tomato, and tasty pastry. 帝国ホテルからの食事の提供は2週間で終わりになり、その後は日本人料理人による家庭料理が供された。住友グループは闇市で食料を買っていた。朝はオートミールと紅茶、パン1枚。午後1時からは、米と麦などの雑穀と野菜の煮物とお茶が出た。夕食は昼食の繰り返しだったが、夕食の前にスープを一杯飲んだ。どれもおいしいのだが、肉はなく、野菜もほとんどなく、脂肪も砂糖もない、つまり何もない。成長期の子供には健康的とは言えない食事だった。ウィムはやせ細り、チーズとトマトの入ったマカロニや、おいしいお菓子を夢見るようになった。 当時の食糧事情がわかります。日本人も似たようなモノしか食べていなかったと思います。闇市から食料を調達したり、住友グループはそれなりに色々と考えていたと思います。 【200頁:住友グループはオランダ人捕虜の事を信用していなかった】 In late April, two cars arrive to fetch the men to be presented to the President of Sumitomo, but after that silence kicks in again. Will this work ever commence? They begin to think that they will serve as exchange material for all those students who were sent to the United States on a scholarship from Sumitomo and who, at the outbreak of the war, were interned by the Americans. If only it were true. These exchanges take place on the island of Lorenzo Marques, an island off the east coast of Africa. But then, at the end of May, a new resident appears at the court, a special Kempe Tai guard Hamaichi Tanaka who will live in the gatehouse with his family. From there he can look out over the group and the gate, which was soon erected after their arrival to prevent them from leaving the site. Tanaka will accompany the men to work; it will happen after all. 4月下旬、2台の車が住友の社長に面会する男たちを迎えに来たが、その後はなんの音沙汰もなかった。日本での仕事?は始まるのだろうか? 住友の奨学金でアメリカに派遣され、開戦と同時にアメリカに抑留された日本人学生たちとの交換材料になるのではないかと考え始めていた。それが本当ならいいのだが。この交渉は、アフリカ東岸に浮かぶ島、ロレンゾ・マルケス島(現:マプト:モザンビークの首都?)で行われていた。5月末、憲兵隊の「たなか はまいち」は家族とともに門番小屋に住むことになった。門番小屋からは、捕虜一行を見渡すことができた。 折角苦労して、インドネシアから連れてこられたのに、直ぐに仕事が始まった訳ではありませんでした。 【200-201頁:ようやく仕事?が始まった】 On June 4, the men go to a ceremonial introduction, as the Japanese call it, in the laboratory to become acquainted with the 'colleagues' with whom they will work. The eighth of June is their first day. At half past seven they leave with a packet of sandwiches for lunch and come home at half past six, tired from hanging on to the handles in crowded trams and trains. The trip to Sumitomo's laboratories at Ikuta Noborito takes an hour and a half. First with a tram to the Dayama station on the beltline, crammed into the tramcar from the beltline to Shinjuku, and then by a suburban train to Noborito. After a ten minutes' walk up a steep hill, they arrive at the laboratory at nine o'clock. Willem and Henk are assigned a room together and the others get a room in another building. Everyone receives a design from the Japanese engineers, but only Wim gets material to actually make something. 生田登戸の住友の研究所で働くことになった。6月8日が初出勤日だった。研究所では日本流の「お披露目会」が行われた。昼食用のサンドイッチを1パック持って7時半に出発し、帰りは満員の電車で吊革につかまって6時半に帰宅、とても疲れた。生田登戸の住友の研究所までは1時間半ほどかかる。まず路面電車で大山駅(ダヤマ駅?:今は無き東京都電の大門駅?)に行き、新宿まで路面電車に押し込まれた。新宿から郊外電車で登戸へ連れて行かれた。登戸駅からは、急な坂道を10分ほど歩いて、9時に研究室に到着した。ウィレムとヘンクは一緒の部屋、他の人は別の建物の一室をあてがわれた。皆、日本人技術者から設計図を受け取るが、実際に物を作る材料はウィムだけが受け取った。 今でも大変そうな通勤です。白金から新宿、新宿から登戸まで毎日通勤、さて彼らは何をしていた(させられていた)のでしょうか。 【201頁:住友グループは信用していなかった? オランダ人はこっそりと高性能ラジオを作り、アメリカの放送を聞いていた】 The Sumitomo engineers know they cannot really trust the Dutch, but they are asked to write long reports for the army, who organized the whole 'show'. In order to type these long reports, it is quickly determined that Corrie Leunis joins them. One day some officers come with a lot of amazement and look at the large pile of paper, which they have produced. I don't think anybody has ever read any of it,' writes Geo Levenbach. They mostly make calculations, and don't perform any practical work. It therefore remains mysterious. Were they brought from Java to do this work? The work signifies little, a college sophomore could do it', according to Beb. Wim has to build a measuring device for vacuum tubes. He creates it in such a way that with a small alteration the device is capable of receiving news from San Francisco. In the evening when they walk to the train, the news is shared, in camouflaged Dutch. At one point they get the impression that Tanaka understands Dutch, although his English is very broken. After a few days of sharing their news, an engineer inspects the 'measuring device', but does not see how it can be changed into a receiver. The next day, however, Wim and Henk are moved to another room. The measuring device is supposed to come later, but that of course never happens. 住友の技術者たちは、オランダ人は信用ならないと思っていた。しかし「オランダ人捕虜という見世物を使った研究」を企図した陸軍のために長い報告書を書くように命令されていた。この長い報告書を書くために、コリー・リューニスが参加することがすぐに決まった。ある日、将校たちがやってきて、彼らが作成した大量の文書を見て驚いていた。「その文書を誰も読んでないようだ」とジオ・レーベンバッハは書いている。オランダ人捕虜はほとんど計算ばかりしていて、実用的な仕事はしていなかった。一体何のために連れてこられたのか、彼らには、謎だった。ベブに言わせれば、「大学2年生でもできる仕事だ」。ウィムは、真空管の測定器を作らなければならなかった。彼は、この装置を少し改造して、サンフランシスコのニュースを受信できるようにした。夕方、電車に乗るとき、そのニュースをオランダ語で伝えた。門番小屋にいた田中の英語はたどたどしいが、オランダ語がわかるような気がする。数日後、日本人の技術者がウィムの作った「測定器」を点検した。その翌日から2人は別の部屋に移されることになり測定器(注:“子アイントホーフェン”が作ったラジオ)を使うことはできなかった。 ここを読んでいて思わず笑ってしまいました。オランダ人、素晴らしい!ラジオを作ってしまった。さすが、“子アイントホーフェン”です。なお、日本軍も凄いです。オランダ語ができることを隠して彼らを見張っていたのですから。 以下、次回に続きます。オランダ人の一行は聖路加病院で健康診断を受けています。本稿のクライマックスとなる出来事が生じます。 いつかお読みください(再掲)。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ ■関連記事 172:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(1) 2021年日本不整脈心電学会の学会誌である「心電図」に拙稿が掲載 173:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(2) 小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」について 174:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(3) 「日本電気物語」に記された“子アイントホーフェン”のこと 175:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(4) 「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料について 176:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(5) 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」について 177:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(6) 「心電計の発明者アイントホーフェンの長男(子アイントホーフェン)の日本抑留記」 1. ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと 2. “子アイントホーフェン”一家のこと 3. 心電図研究のこと 4. アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと 5. “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと 6. “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 179:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(7) 7. インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 180:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(8) Ineke van der Wal氏からのe-mail 181:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(9) 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 9. “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? 182:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(10) 10. “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと 11. “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) 184:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(11) 12. “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など 185:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(12) 13. “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 14. 終戦そしてオランダに帰国 186:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(13) 15. 論文余話 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, et al. : Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram. Ann Thorac Surg, 1999 ; 67 : 1184-1185 本橋均:絃の影を追って:W. Einthovenの業績,初版.医歯薬出版,東京,1969 小宮まゆみ:敵国人抑留:戦時下の外国民間人,初版.吉川弘文館,東京,2009 ; 173-176 日本電気株式会社編:日本電気ものがたり,初版.日本電気,東京,1980 ; 157 Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 Ineke van der Wal : The Temple with the Chrysanthemums Dutch Prisoners of War in Tokyo, 1st ed. Independently published, USA, 2017 Snellen, HA : Willem Einthoven(1860-1927)Father of electrocardiography : Life and work, ancestors and contemporaries. Springer, Netherlands, 1995 Einthoven Jr, WF : The string Galvanometer in wireless telegraphy. Proceedings, 1923 ; 26 : numbers 7, 8. Einthoven W, Einthoven WF, Willem van der Horst, et al. : Brownsche Bewegingen van een gespannen snaar. Physica, 1925 ; 5 : 358-360 ノーベル賞委員会:Willem Einthoven - Nobel Lecture - Nobel Prize. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1924/einthoven/lecture/(2021年 2月閲覧) 明治大学平和教育登戸研究所資料館:地域から追う登戸研究所. https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50en.pdf(2021年 2月閲覧) オランダ日本インドネシア対話の会:Deportation to Japan : Search for Clarity. https://sites.google.com/site/dlgnji4nl/programmas/conf08/2gre-en(2021年 2月閲覧) 心電図 Vol. 41 No. 1 2021 13 ) 日野原重明:心電計の歩み.検査法の変遷(Clinical Laboratory編集委員会編).診療新社,大阪,1982 ; 295 聖路加国際病院 100年史編集委員会編:聖路加国際病院の 100年.聖路加国際病院,東京,2002 大蔵省印刷局編:官報 1921年 08月 27日.国立国会図書館デジタルコレクション United States Department of the Army : Pamphlet - Dept. of the Army. Tokyo, 1949 ; 579 War Graves Commission Oegstgeest(Oorlogsgravencomit? Oegstgeest) : Comit? Herdenken en Vieren Oegstgeest. https://www.oorlogsgravenoegstgeest.nl/en/resistance-fighters/einthoven-en(2022年 2月閲覧) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2024/02/13 Ineke van der Wal氏からのe-mail 本連載の多くをIneke van der Wal氏著 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo 2017年」に拠っています。なかなかわかりづらいことがあり、著者に聞いてみたいことが幾つかありました。しかし、著者はオランダ在住の方です。連絡をする方法がわかりません。著者のe-mailも住所もわかりませんでした。 しかし、色々と考えていたら、日蘭イ対話の会のタンゲナ鈴木由香里さん(オランダ在住)と連絡がつき、鈴木さんがIneke van der Wal氏に出版社を通して連絡をしてくださりました。そして、2022年9月26日、Ineke van der Wal氏から私のところにe-mailが届きました。 「何事も諦めてはいけない」 ですね。 Ineke van der Wal氏からのe-mailです。許可を得て掲載します。 Ineke van der Wal氏は心電計の発明でノーベル生理学医学賞を受賞したアイントホーフェン医師のひ孫に当たる方です。 引用します。 Dear Dr. Mochizuki, It was such an honour to receive your mail and to read your article. The sale of my book in Japan has always surprised me but I now understand that I have you and your column to thank for it. Thank you for your interest in my grandfather. Your kind mail resulted in an internet search which brought me to your website. It looks so well organized and fresh. You will understand that I am unable to read it but the mere thought that a Japanese cardiologist is researching my grandfather’s fate in Japan is moving to me. You lead me to Ms. Mayumi Komiya’s publication “Enemy Prisoners of War” and I tried to find the book but only found a Japanese copy. I did find a book though which used Ms. Komiya’s research so I ordered that one. I am looking forward to reading it, because “there is no greater pleasure than reading a good book” especially about a subject which is close to your heart. Your article was indeed a pleasure to read and I want to thank you for reaching out to me. You persevered and were able to locate me via Dialogue The Netherlands, Japan Indonesia and my publisher in The Netherlands. I would like to add some comments to your article and I hope you don’t mind my doing so: Son Einthoven was managing director of the PTT Radio Laboratory in Bandung. Java 。As you point out in your excellent article, the vacuum string galvanometer was no military secret. What was a military secret though was the fact that Son Einthoven brought the vacuum string galvanometer to Indonesia during WWI. The government of The Netherlands wanted direct wire contact with Indonesia without depending on the services from Great Britain via Singapore. It goes without saying that you can use quotes or illustrations out of my book. I herewith give my consent to you to use all of the contents of my book for your column as long as you mention the title of the book, my name as the author and ‘published via Amazon’. Once again, I want to thank you for your interest in my grandfather and for reaching out to me. Please don’t hesitate to call upon me when I can be of further assistance to you. With kind regards, Ineke van der Wal Granddaughter of Son Einthoven 青字は、拙訳(意訳)です。 メールを受け取りました。望月先生の論文(筆者注:冒頭の論文を英訳して送りました)を読むことができ、とても光栄です。拙著が日本で売れていることに驚いていましたが、先生の書いたコラムのおかげであると気付きました。私の祖父に関心を持っていただき、ありがとうございます。 望月先生のメールを手がかりとして、インターネットで様々検索し、先生のウェブサイトにたどり着きました。 とてもよくまとまっていて、新鮮な印象を受けました。私は読むことができませんが、日本の循環器専門医が祖父の運命を日本で調べているというだけで、感動しました。小宮山まゆみさんの著書「敵性捕虜」を教えていただき、その本を探したのですが、日本語の本しか見つかりませんでした。しかし、小宮さんの研究を利用した本があったので、そちらを注文しました。読むのを楽しみにしています。「良い本を読むこと以上の喜びはない」のですね。それが特に、自分の関心に近いテーマについてなら喜びは増します。 望月先生の記事は実に読み応えがあります。ご連絡くださったことに感謝申し上げます。オランダの出版社や日本インドネシア協会を通じて、私の連絡先を探してくださったことにも感謝します。 望月先生の論文にいくつかコメントを加えたいと思います。 “子アイントホーフェン”はインドネシア、ジャワ島にあるバンドンのPTTラジオ研究所の専務取締役でした。論文で指摘されているように、真空弦検流計は軍事機密ではありませんでした。しかし、第一次世界大戦中に“子アイントホーフェン”がインドネシアに真空弦検流計を持ち込んだことは、軍事的な秘密だったのです。なぜかというとオランダ政府は、イギリスのサービスを介さないで、インドネシアと直接電信連絡を取りたがっていたからです。 先生のコラムに私の著書からの引用は自由です。図版もどうぞご自由にお使い下さい。本のタイトル、著者としての私の名前、そして「Amazonで出版された」ということを明記していただければ、拙著の内容をすべて望月先生のコラムに使用することを承諾します。 改めて、私の祖父に興味を持ち、声をかけてくださったことに感謝します。 また何かお役に立てることがありましたら、遠慮なくお声がけください。 よろしくお願いします。 イネケ・ファン・デル・ヴァル 子アイントホーフェンの孫娘(筆者注:心電図でノーベル生理学医学賞を受賞したアイントホーフェン医師のひ孫) イネケ・ファン・デル・ヴァル 息子アイントホーフェンの孫娘 というありがたいメールを頂戴しました。 本論に入るところですが、次回に延期します。次回は9以降を紹介する予定です。 ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと “子アイントホーフェン”一家のこと 心電図研究のこと アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 終戦そしてオランダに帰国 論文余話 いつかお読みください(再掲)。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ ■関連記事 172:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(1) 2021年日本不整脈心電学会の学会誌である「心電図」に拙稿が掲載 173:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(2) 小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」について 174:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(3) 「日本電気物語」に記された“子アイントホーフェン”のこと 175:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(4) 「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料について 176:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(5) 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」について 177:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(6) 「心電計の発明者アイントホーフェンの長男(子アイントホーフェン)の日本抑留記」 1. ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと 2. “子アイントホーフェン”一家のこと 3. 心電図研究のこと 4. アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと 5. “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと 6. “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 179:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(7) 7. インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 180:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(8) Ineke van der Wal氏からのe-mail 181:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(9) 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 9. “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? 182:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(10) 10. “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと 11. “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) 184:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(11) 12. “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など 185:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(12) 13. “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 14. 終戦そしてオランダに帰国 186:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(13) 15. 論文余話 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, et al. : Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram. Ann Thorac Surg, 1999 ; 67 : 1184-1185 本橋均:絃の影を追って:W. Einthovenの業績,初版.医歯薬出版,東京,1969 小宮まゆみ:敵国人抑留:戦時下の外国民間人,初版.吉川弘文館,東京,2009 ; 173-176 日本電気株式会社編:日本電気ものがたり,初版.日本電気,東京,1980 ; 157 Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 Ineke van der Wal : The Temple with the Chrysanthemums Dutch Prisoners of War in Tokyo, 1st ed. Independently published, USA, 2017 Snellen, HA : Willem Einthoven(1860-1927)Father of electrocardiography : Life and work, ancestors and contemporaries. Springer, Netherlands, 1995 Einthoven Jr, WF : The string Galvanometer in wireless telegraphy. Proceedings, 1923 ; 26 : numbers 7, 8. Einthoven W, Einthoven WF, Willem van der Horst, et al. : Brownsche Bewegingen van een gespannen snaar. Physica, 1925 ; 5 : 358-360 ノーベル賞委員会:Willem Einthoven - Nobel Lecture - Nobel Prize. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1924/einthoven/lecture/(2021年 2月閲覧) 明治大学平和教育登戸研究所資料館:地域から追う登戸研究所. https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50en.pdf(2021年 2月閲覧) オランダ日本インドネシア対話の会:Deportation to Japan : Search for Clarity. https://sites.google.com/site/dlgnji4nl/programmas/conf08/2gre-en(2021年 2月閲覧) 心電図 Vol. 41 No. 1 2021 13 ) 日野原重明:心電計の歩み.検査法の変遷(Clinical Laboratory編集委員会編).診療新社,大阪,1982 ; 295 聖路加国際病院 100年史編集委員会編:聖路加国際病院の 100年.聖路加国際病院,東京,2002 大蔵省印刷局編:官報 1921年 08月 27日.国立国会図書館デジタルコレクション United States Department of the Army : Pamphlet - Dept. of the Army. Tokyo, 1949 ; 579 War Graves Commission Oegstgeest(Oorlogsgravencomit? Oegstgeest) : Comit? Herdenken en Vieren Oegstgeest. https://www.oorlogsgravenoegstgeest.nl/en/resistance-fighters/einthoven-en(2022年 2月閲覧) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2024/02/05 1944年に日本にいた外国人が書いた「日本滞在記」 遅くなりましたが、新年、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。 前回は別な話題でしたので、前々回までのまとめを記します。 まとめ:日本でお亡くなりになった心電計の発明者アイントホーフェン医師の“子アイントホーフェン”が太平洋戦争において日本軍の蘭印(注:今のインドネシア)侵攻により、日本軍の捕虜になったこと、捕虜になったけれど、電話や通信の技術を買われて、インドネシアでの仕事はそのまま行っていたこと、しかし、その仕事内容が日本軍(というか住友通信工業、後の日本電気)に引き継がれてから、その職を解かれ今度は日本に行って「仕事」をするように言われたことまでお伝えしました。日本に行くのは拒否しましたが、拳銃を突きつけられ、家族も人質として日本に行くことになってしまったのです。それからのお話を今回で紹介します。 今回の内容は、1944年に日本にいた外国人(オランダ人)が書いた「日本滞在記」とも言えます。敵国外国人が日本で暮らすとどうなるか? さぞ、ひどい扱いを受けていたのだろうと思っていました。しかし意外に紳士的な扱いを受けています。インドネシアから連れてきた“子アイントホーフェン”の技術力に敬意を表していたから、住友通信工業の社員が紳士だったから、など色々と考えられます。後年、出版された日本電気社史の記録を読むと、どうやら日本電気の上層部は「日本が負ける」と薄々感づいていた節があります。それゆえに、結構、丁寧に接していたのが「真相」だと思います。 Ineke van der Wal 著 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」:2017年 刊 からの引用です。 注:著者のIneke van der Walさんから、著書から引用すること、翻訳して、当コラムで紹介することの許可を得ています。 簡単な翻訳も記します。青字は、拙訳(意訳)です。 【頁169】 Beb, meanwhile, reluctantly tries to prepare for the trip. What should they pack? How much luggage can they carry? How will they get suitcases? What happens to the belongings that are left behind? Where are they going? Will they be able to give the children an education? It is now clear that 4 other families will be going as well, namely, the families Lels, Leunis, Levenbach and Hasenstab. Beb consults with Annie Lels what they will take and when they actually need to be ready, because the date of departure is still kept secret. “子アイントホーフェン”の奥さんのベブは仕方なくインドネシアから日本への旅の準備をはじめた。荷物はどうする?荷物はどれくらい?スーツケースはどうやって手に入れるのか?インドネシアに置いていく荷物はどうなるのか?どこに行くのか?子どもたちに教育を受けさせることができるのだろうか? レルス、ルーニス、レーベンバッハ、ハーゼンスタブという4家族も一緒に行くことが決まっている。ベブはアニー・レルスに、何をもっていくのか、いつまでに準備すればいいのか、相談した。でも出発日もわかっていない…… いきなり、インドネシアから家族を含めて日本に行けと言われ、拒否も出来ずに戸惑っているのがわかります。 【頁171】 On the night of January 24, 1944 the dreaded day has come. The Japanese choose to carry out these kind of transportations at night so that there is as little publicity as possible, but the whole camp knows that the group is leaving. Almost everyone has woken up to say goodbye. It is a heart touching farewell because nobody knows if they will ever see each other again. 1944年1月24日の夜、恐るべき日がやってきた。日本軍は、この移送をできるだけ人目につかないように夜間に行うことにしたが、収容所全体が、グループが出発することを知っていたのでほとんどの人が別れを惜しんで起きてきた。もう二度と会えないと思うと、胸が熱くなる別れだった。 ついに“子アイントホーフェン”一行はインドネシアを出発することになりました。 一行は上述のごとく ①「アイントホーフェン」一家 ②「レルス」家 ③「ルーニス」 一家 ④「レーベンバッハ」 一家 ⑤「ハーゼンスタブ」 一家 です。このうち、ハーゼンスタブ家はドイツ出身でナチスでは無いのですが、他のオランダ人一家と悉く対立します。 それはともかく、彼らはインドネシアから、船で、日本まで移送されました。当時制海権はアメリカが握っていたので、いつ沈没させられてしまってもおかしくない危険な船旅でしたがなんとか日本に辿り着きます。よくも無事に辿り着いたと思います。 【頁189】 On March 25, they finally arrive at the port of Moji, on the southern Japanese island of Kyushu, and they remain all day at anchor. It's a good-sized sea passage, which gives access to the Inland Sea. The coast is crowded and crammed, with many factories, small Japanese houses and a temple with a torii, a Japanese gate. All the passengers have to put their luggage on deck, but there is no news about moving on, so at seven thirty they put the hildren to bed and promptly at 8 PM the guards shout 'lekas, lekas' (quick, quick) and they have to go ashore. The entire harbor is lit up, no black out, no sign of war. They take a small ship to the customs warehouse, and are told to take out all their important papers, which are then stamped. Then they wait, and wait, and wait, with terribly sleepy toddlers and close to 11 o'clock they are suddenly returned to the SS Aramis with the same small boat. After long delays on board they can again go to sleep in their former cabins until six o'clock the next morning. They get an early breakfast, get back onto the small boat, and again go through customs. All the large baggage is put on the dock and must be opened. A courteous English speaking Japanese comes with their Kempe Tai guard, and without looking at the luggage, he declares everything as satisfactory and they can repack again. They are happy to be standing on solid ground. 1944年3月25日、ついに九州の門司港に到着した。船は一日中停泊している。海岸には多くの工場、小さな日本家屋、鳥居のある寺などが所狭しに並んでいる。乗客は全員荷物を甲板に置かなければならないが、先に進む知らせはないので、午後7時半に子供たちを寝かせ、8時になるとすぐに「レカス、レカス」(早く、早く)と警備員が叫び、陸に上がらないといけなくなった。港全体がライトアップされ、停電もなく、戦争の気配もない。小さな船で税関の倉庫に行き、重要書類を全部出すように言われ、それにスタンプを押される。そして、ひどく眠たそうな子供たちを連れて、長い間待った。しかし、11時近くになると、突然、同じ小型船で船に戻された。翌朝6時まで元の船室で眠ることができた。朝食をとり、再び小型船に乗り込み、税関を通る。大きな荷物はすべてドックに置かれ、開けなければならない。英語を話す礼儀正しい日本人が、憲兵隊員を連れてやってきた。しかし彼は荷物を見ることもなく、すべて問題なしと宣言したので、再び荷造りをした。ようやく大地の上に立つことができて嬉しかった。 インドネシアから門司港まで2ヵ月……ようやく日本にたどり着いたのです。憲兵隊、結構いい加減です。 【頁 190-192:門司港から東京へ 列車で移送】 Their destination is a ferry, a huge jam-packed ship with two floors, on which they cross the harbor to Shimonoseki, a port city on the main island of onshu. Upon arrival they walk through a long covered bridge over many railways. It takes them at least twenty minutes to arrive at the station from which their train will leave. They are allowed to sit in the hallway on the ground and wait for the train to leave at nine o'clock in the evening. The train goes to Tokyo. Is that their final destination? Kishida continues to monitor them constantly but Takahashi and Tsutsia go and get some food. The bamboo boxes they bring back contain a ball of rice, some side dishes and of course two neatly wrapped chopsticks. They get a lot of attention and they see masses of traveling Japanese people. Most wear European clothes but there are also women in kimonos that are rarely colored. Many walk on 'getas', the Japanese clogs, a board with two cross pieces of wood underneath and two bands that go between one's toes. They do not yet know that they too will walk on these getas later on. 2階建ての巨大なフェリーに乗って下関に向かった。下関に着くと、鉄道がたくさん通っている長い橋を20分くらいかけて渡った。午後9時に発車する列車を待った。その列車は東京行きだった。そこが彼らの最終目的地なのだろうか。岸田が監視を続ける中、高橋と土屋は食料を調達に行った。持ち帰った竹箱の中には、おにぎりとおかず、そしてもちろんきれいに包装された箸が2本入っていた。大勢の旅行中の日本人を目にした。多くはヨーロッパ風の服装だが、めずらしい色の着物を着た女性もいる。多くの人が下駄を履いて歩いている。下駄は、足の指の間を通す2本のバンドと、その下に2本の横木がついた板である。後に自分たちがこの下駄を履いて歩くようになるとは、夢にも思わなかった。 門司港から下関駅へ、お弁当もきちんと配給されています。 On the train they sit at the front and there is place for everyone. All windows and curtains must be completely shut. That's okay because it is constantly cold. They keep their coats on and wrap themselves up in the blankets and try to get some sleep. The train ride will last 22 hours and they will travel along the Inland sea overnight. That is where the largest naval port of Japan is located, so of course they are not allowed to look outside. The curtains are allowed to be opened fifteen minutes after sunrise and then they get their first impressions of the country of Japan. The train runs along the east coast of the Big Island and they see that the morning is bleak and gray with cities that are also bleak and gray. The cities are in fact Kobe and Osaka with connected neighborhoods with densely built housing. This is what they see for hours on end. It looks like a stressed, overpopulated country. 電車では一番前に座り、みんなの居場所を確保する。窓やカーテンは完全に閉めなければならない。コートを着たまま、毛布にくるまって眠ろうとする。列車は22時間かけて瀬戸内海を一晩かけて移動した。そこは日本最大の軍港があるところだから、もちろん外を見ることは許されない。日の出から15分後にカーテンを開けて、初めて日本という国を見た。荒涼とした灰色の都市を見た。その都市とは、神戸と大阪で、住宅が密集している。何時間も同じような風景を見続けた。人が多すぎてストレスの多い国のように見えた。 下関駅から大阪まで列車で行く。大きな軍港(広島、呉)があるので外を見ることはできなかったとあります。 Sometimes they see green fields with some crops and a multitude of small farmhouses with thatched roofs. There are many fences and hedges, and it seems that everything is hidden, except their little temples along the road. They are served food out of baskets again, but also a few rolls which are very dry but still appreciated. In the afternoon they see Mount Fuji in the istance, the famous holy mountain with its white top and green slopes. Other mountains are also still full of snow, but in the foreground they see the plum trees that already bloom. At six o'clock they pass through the fully lit city of Yokohama after which they reach the main station in Tokyo. They have hardly disembarked when all the lights go out due to an air defense exercise. Part of the group can see where the Japanese guide goes and follows him to the exit, but the Hasenstab family, who are the only ones to have been in Tokyo before, have not seen him and get terribly lost. The Japanese guard is close to a fit. He fears they will escape to their old friends. It is an anxious quarter of an hour for the guide, but then the family is found. Nobody seems to be available to pick up the group, so they are again made to sit in a corner on the ground. The children are terribly sleepy because they did not get enough sleep on the train or on board the ship. The Japanese have to make a phone call and look for contact-persons in the big dark station with only a single tiny emergency light. They wait and wait until 11 o'clock when finally a representative from the Sumitomo company arrives to take them to a station on a beltline. They are told that the train stops only briefly and therefore they need to get on quickly. The three guards go first followed by Henk, Murk, Beb and Tineke, while the Hasenstab family, all five of them, slip inside another door. The door slams shut and the train leaves. The rest of the group remains on the platform with the Sumitomo-man, who speaks only Japanese. Again, the Japanese guards are close to a fit and at the next stop, two of them quickly get off and go back. The first part of the group is instructed to get off at Meguro station and wait for the others. They arrive half an hour later. By then it is March 28. 時々、作物のある緑の野原や、藁葺き屋根の小さな農家がたくさんあるのを見た。塀や垣根が多く、道路沿いの小さな寺院を除いては、塀や垣根で家が隠されているように感じた。籠に入った食事が供され、乾燥したロールケーキも少し出されたが、それでも皆喜んでいた。午後には、白い頂と緑の斜面を持つ有名な聖なる山である富士山が見えた。他の山々もまだ雪に覆われているがすでに花を咲かせた梅の木も見えた。6時過ぎには、すっかり明るくなった横浜の街を抜け、東京駅に到着した。列車を降りて、間もなく、防空演習のため全ての灯りが消えた。一行は日本人ガイドの行き先を確認し、出口までついていくが、唯一東京に来たことのあるハーゼンスタブ一家は、ガイドの姿が見えず、ひどく迷ってしまった。日本人の警備員は、発作に近い状態だ。彼は、彼らが旧友のもとに逃げ込むことを恐れているのだ。日本人警備員にとって不安な25分であったが、その後、一家は発見される。誰も迎えに来ないので、また地べたの隅に座らされる。子供たちは、汽車や船で十分な睡眠をとれなかったので、ひどく眠そうである。日本人は、小さな非常灯が一つしかない真っ暗な駅で、電話をかけ、連絡先を探さなければならなかった。午後11時になってようやく住友通信工業の担当者が来て、山手線の駅まで送ってくれた。 電車はすぐ止まるから、早く乗れ」と言われた。3人の警備員が先に行き、ヘンク、ムルク、ベブ、ティネケと続き、ハーゼンスタブ一家は5人とも別のドアから中に入っていった。 ドアが閉まり、列車は出発する。残りの一行は、日本語しか話せない住友通信工業の男と一緒にホームに残った。ここでも日本人の警備員がピッタリに近く、次の停車駅で、2人がさっさと降りて戻っていく。第一部は目黒駅で降りて、他のメンバーを待つように指示される。30分後、彼らは到着した。そのころには、3月28日になっていた。 大阪から東京まで、途中富士山を見たりしています。なお、この頃すでに灯火管制訓練が行われていたことがわかります。本当に真っ暗になっていたと推測され、興味深いですね。 【頁193-194:日本での生活開始】 To make matters worse it starts to rain. Finally, they turn into a side road and see an illuminated entry but are not allowed to go in. One cannot enter a Japanese house with your shoes on, so all the shoes must be left on the sidewalk before they are allowed to enter the 'Hallowed halls'. The group enters a fairly large, clean but unheated room with a few chairs and many benches on which they can sit and wait. Japanese girls walk to and fro and they ask for tea, which they get; finally, something warm. The group is divided. The Levenbach and Einthoven families remain in the first house, the other families go to a second house in the same yard. The Einthoven family are assigned two rooms on the first floor: one for Wim and Beb and one for the four children. The luggage is not there yet, so they decide to lie down with their clothes on under the silk comforters in European style beds, and they all fall asleep. They sleep late, which is just as well because there is no breakfast. The staff was unable to arrange that this quickly. They get some lunch, which is typical Japanese served from black lacquered pots. Everyone is exhausted and sick. They have lost weight and have hollow, thin faces. The bad food aboard the SS Aramis and the nights on deck have taken their toll and Sumitomo is shocked by their sugar for condition. The following days they are served oatmeal with breakfast, and both lunch and dinner come from the Imperial Hotel. さらに悪いことに、雨が降ってきた。やっとの思いで、道を辿った。ようやく、照明のついた玄関が見えたが中に入ることは許されなかった。日本家屋には靴を履いたままでは入れないので、靴はすべて歩道に置き、それから「玄関」に入ることが許されるのだ。一行はかなり広くて清潔だが暖房のない部屋に入り、そこには数個の椅子と多くのベンチが置いてあった。日本人の女中が行ったり来たりしていた。お茶を頼むと、やっと暖かいものが出てきた。一行は分かれている。レーベンバッハとアイントホーフェンの家族は一軒目に残り、他の家族は同じ庭にある二軒目に行く。アイントホーフェン一家は、1階にウィムとベブの部屋と子供たち4人の部屋の2つが割り当てられた。荷物はまだないので、ヨーロッパ式のベッドにシルクの布団を敷いて、服を着たまま横になることにして、みんな眠ってしまった。朝食がないので、遅くまで寝ていた。昼食は、黒塗りの鍋で出される典型的な日本食である。みんな疲れきって、体調を崩していた。やせ細って、顔がこけていた。インドネシアから日本への航海では不味い食事しか食べられなかった。住友通信工業の社員は彼らの栄養不良状態にショックを受け、翌日から朝食はオートミールが供され、昼食も夕食も帝国ホテルから運ばれてきた。 “子アイントホーフェン”一行は白金にある旧チリ公館に滞在することになったが、航海中の栄養不足が祟り、皆、栄養不良になっていたようであります。幸い、住友電工の社員がそれに気づいて、帝国ホテルから食事が運ばれるようになったとあります。なんとなく、良い話だと思います。捕虜=強制労働、過酷な労働、暴力を振るう日本軍というイメージがありますが、こういう捕虜生活もあったのですね。 さて、彼らは東京で何をさせられたか…… 驚きの次回に続きます。 感想: 欧米人が経験した太平洋戦争中の日本(東京、名古屋)の生活記録は稀だと思います。貴重な記録だと思います。 今回で1~8まで終わりました。 ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと “子アイントホーフェン”一家のこと 心電図研究のこと アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 終戦そしてオランダに帰国 論文余話 いつかお読みください(再掲)。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ ■関連記事 172:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(1) 2021年日本不整脈心電学会の学会誌である「心電図」に拙稿が掲載 173:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(2) 小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」について 174:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(3) 「日本電気物語」に記された“子アイントホーフェン”のこと 175:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(4) 「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料について 176:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(5) 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」について 177:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(6) 「心電計の発明者アイントホーフェンの長男(子アイントホーフェン)の日本抑留記」 1. ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと 2. “子アイントホーフェン”一家のこと 3. 心電図研究のこと 4. アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと 5. “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと 6. “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 179:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(7) 7. インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 180:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(8) Ineke van der Wal氏からのe-mail 181:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(9) 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 9. “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? 182:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(10) 10. “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと 11. “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) 184:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(11) 12. “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など 185:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(12) 13. “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 14. 終戦そしてオランダに帰国 186:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(13) 15. 論文余話 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, et al. : Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram. Ann Thorac Surg, 1999 ; 67 : 1184-1185 本橋均:絃の影を追って:W. Einthovenの業績,初版.医歯薬出版,東京,1969 小宮まゆみ:敵国人抑留:戦時下の外国民間人,初版.吉川弘文館,東京,2009 ; 173-176 日本電気株式会社編:日本電気ものがたり,初版.日本電気,東京,1980 ; 157 Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 Ineke van der Wal : The Temple with the Chrysanthemums Dutch Prisoners of War in Tokyo, 1st ed. Independently published, USA, 2017 Snellen, HA : Willem Einthoven(1860-1927)Father of electrocardiography : Life and work, ancestors and contemporaries. Springer, Netherlands, 1995 Einthoven Jr, WF : The string Galvanometer in wireless telegraphy. Proceedings, 1923 ; 26 : numbers 7, 8. Einthoven W, Einthoven WF, Willem van der Horst, et al. : Brownsche Bewegingen van een gespannen snaar. Physica, 1925 ; 5 : 358-360 ノーベル賞委員会:Willem Einthoven - Nobel Lecture - Nobel Prize. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1924/einthoven/lecture/(2021年 2月閲覧) 明治大学平和教育登戸研究所資料館:地域から追う登戸研究所. https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50en.pdf(2021年 2月閲覧) オランダ日本インドネシア対話の会:Deportation to Japan : Search for Clarity. https://sites.google.com/site/dlgnji4nl/programmas/conf08/2gre-en(2021年 2月閲覧) 心電図 Vol. 41 No. 1 2021 13 ) 日野原重明:心電計の歩み.検査法の変遷(Clinical Laboratory編集委員会編).診療新社,大阪,1982 ; 295 聖路加国際病院 100年史編集委員会編:聖路加国際病院の 100年.聖路加国際病院,東京,2002 大蔵省印刷局編:官報 1921年 08月 27日.国立国会図書館デジタルコレクション United States Department of the Army : Pamphlet - Dept. of the Army. Tokyo, 1949 ; 579 War Graves Commission Oegstgeest(Oorlogsgravencomit? Oegstgeest) : Comit? Herdenken en Vieren Oegstgeest. https://www.oorlogsgravenoegstgeest.nl/en/resistance-fighters/einthoven-en(2022年 2月閲覧) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2023/12/25 日本不整脈心電学会が発行する医学誌「心電図」に論文が掲載 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ 上記論文が掲載された経緯をシリーズで掲載しています。 まだ数回このシリーズを続けますが、年も変わるので、今年、私にとって大きな出来事だったことを紹介します。 2023年1月20日、科学雑誌PLOSONEに 「Bacille Calmette Guerin (BCG) and prevention of types 1 and 2 diabetes: Results of two observational studies」 という論文が載りました。 著者は Hans F. Dias, Yoshihiko Mochizuki, Denise L. Faustman etc 第2著者は私です。 研究施設名 1 . Immunobiology Department, Massachusetts General Hospital and Harvard Medical School, Boston, MA,United States of America 2. Shibaura Three One Clinic, Tokyo, Japan 3. Statistics Department,Massachusetts General Hospital, Boston, Massachusetts, United States of America 1. ハーバード大学医学大学院免疫生物研究室 2. 私どものクリニックである芝浦スリーワンクリニック 3. MGH(ハーバード大学の医学部付属病院の1つです)の統計部門です。 この論文の要旨は一つ、 「結核ワクチンであるBCGで1型糖尿病の発病を予防できる(かもしれない)」 です。 世界で初めてこの事を示した論文です。感染症の専門家でも無く、結核の専門家でもなく、糖尿病の専門家でもない私がBCGと糖尿病に関する研究をハーバード大学の先生方と行う事になった経緯をお示ししようと思います。 元はと言えば心臓血管外科学会系雑誌の査読から 私はBCGに興味があったわけではありません。10数年前、たまたま「膀胱癌治療で用いたBCGが原因の感染性動脈瘤の外科治療」という内容の論文について外科系の学会雑誌から査読の依頼がありました。それまで膀胱癌の治療にBCGが投与されることも知らなかったので、かなり調べました。BCGに関する基礎、臨床、癌治療のことなどです。BCGを勉強するのはとても面白かったので、論文査読後も引き続きBCGに関する論文や記事を収集していました。つまり査読がきっかけで「BCGオタク」となっていたのです。 BCGはさまざまな効果を持ったワクチンです。 文献になっている効能、効果だけ列挙します。 結核予防 ハンセン病予防 肺癌予防 1型糖尿病予防(今回の論文ですね!) 1型糖尿病治療薬(米国で治験中) 多発性硬化症 予防・治療 膀胱癌治療(世界標準治療) COVID-19予防 高齢者の肺炎予防 悪性黒色腫治療に使われる さまざまな自己免疫疾患に対する効果 乳幼児の感染症(結核以外)による死亡率を1/3に減少させる アルツハイマー予防 パーキンソン病予防 川崎病の診断に使われる(川崎病に罹るとBCG痕が赤く腫れる) など、さまざまです。 (注:これらすべてが認められているわけではありません。) ハーバード大学で1型糖尿病治療にBCGを用いているという論文を読んだ 2012年のことです。ハーバード大では1型糖尿病治療にBCGを用いているという論文を読みました。タイトルは 「Proof-of-concept, randomized, controlled clinical trial of Bacillus-Calmette-Guerin for treatment of long-term type 1 diabetes」 BCGを2回接種するとHbA1cが改善するという論文です。なんだかおもしろい研究だなと思っていました。 1型糖尿病について勉強した 1型糖尿病についても少し勉強しました。その際「1型糖尿病は国によって発病率がまったく違う」と昔から話題になっていることに気づきました。10万人当たりの1型糖尿病発病率を比較すると、中国0.6人、日本2.4人、ロシア12.1人、アメリカ23.7人、フィンランド57人(2011年)と各国でかなりちがうのです。ロシアとフィンランドは国境を接していますが、5倍も発病率が違います。この差が生じる原因を追及したロシアとフィンランドとの大規模共同研究があります。 「A six-fold gradient in the incidence of type 1 diabetes at the eastern border of Finland」 しかし、この研究でも、この差を合理的に説明できる因子は発見できませんでした。国境線を境に1型糖尿病発病率が大きく変化するのは、大げさに言えば「医学の謎」の1つでした。 BCGで1型糖尿病を治療した長期成績がハーバード大より発表される 2018年、前述のハーバード大で行っていた「BCGを用いた1型糖尿病治療」の長期成績が論文になりました。タイトルは 「Long-term reduction in hyperglycemia in advanced type 1 diabetes: the value of induced aerobic glycolysis with BCG vaccinations」 この論文を読むと、どうやらBCGを接種した1型糖尿病患者さんは長期にわたり、血糖値が下がりHbA1cも安定化していることがわかります。なぜBCG接種が1型糖尿病に効果があるか、ハーバード大のグループはさまざまな実験を行って「仮説」を立てています。動物実験を繰り返し、動物でBCGが1型糖尿病の治療に有用であることを証明してから、患者さんへのBCG投与を行っています。 「国境線の謎」は「小児期のBCG接種の有無」で説明できるのでは? BCGに関するさまざまな論文を読んでいる時、上述の「国境線を境に1型糖尿病発病率が変わるという謎」は「小児期のBCG接種の有無で説明できるのでは?」と思いつきました。2019年11月のことです。BCGの各国別接種歴はカナダのマギル大学が運営する BCG World Atlas(http://www.bcgatlas.org/index.php)というサイトに詳しいデータがあることを発見、1型糖尿病についてはInternational Diabetes Federationが運営するサイトに各国の1型糖尿病発病率が掲載されていることを発見しました。Excelに、 小児期のBCG接種を長年続けている国を「BCG+」国とし、 小児期のBCG接種を行っていないか、途中で止めた国を「BCG―」国と規定し、 その横に各国の1型糖尿病発病率を入力しました。毎晩少しずつ入力、約1ヵ月で一覧表ができあがり、グラフ化してみました(図1)。棒グラフの横は発病率です。統計学的に有意差が出るなら例の「謎」は解けそうです。グラフにしてみたら一目瞭然です。「BCG+」国では、1型糖尿病発病率が圧倒的に低いのです。 図1:グラフ横の+- はBCG接種歴の有無を示します。 横は発病率、年号が書いてあるのはBCG接種を中止した年です。 棒グラフ横の数字は各国の結核罹病率です。 イタリア、サルディニア島の謎も解明? 図1にイタリアのサルディニア島(四国よりも大きく、人口は165万)の1型糖尿病発病率を記しました。同島の発病率はイタリア本土の3倍も高いのです。人種や食べ物がイタリア本土と変わっているわけではありません。これも1型糖尿病の「謎」の一つでした。イタリアは2011年までBCGを接種しています。サルディニア島のBCG接種状況もイタリア本土と同様なのでしょうか? 思い立って、サルディニア島の保健所とおぼしき役所のメールアドレスを探し当て、「サルディニア島のBCG接種状況を教えてほしい」というメールを送りました。 後日「サルディニア島は、元々結核罹病率が低いため、義務を伴うBCG接種は行ったことは無い。ただし、医療従事者(医師、看護師など)と結核罹患者周囲の人間は除く」との返事が、メールで、サルディニア島保険行担当官から送られてきました。やはりBCG非接種地域では1型糖尿病の発病率が高いと確信しました。 日本BCG研究所に連絡して相談 BCG接種と1型糖尿病発病率との関係についての論文を探しました。私が気づくくらいですから、他にも気づいて研究した論文があるかもしれないと思い、かなり探しましたがありません。日本BCG研究所の研究者の方に相談してみようと思い、研究所に電話をかけたらなんと研究所長の山本三郎先生自らが対応してくださいました。都心に出るついでに私のクリニックにお越し頂けることになりました(注:同研究所は東京都の郊外、清瀬市にあります)。 ありがたいことです。お越しいただいた時、作成した図などをお目にかけて、BCGと1型糖尿病の分析などをお話ししました。山本先生曰く「小児期のBCG接種と1型糖尿病の関係を検討した研究論文は無い。是非研究を続けるように」との心強い励ましの言葉をいただきました。なお、この時、ハーバード大で1型糖尿病の治療に使用しているBCGは日本製のBCG Tokyo 172株であることを教えて頂きました。この「発見」を論文にするには統計学的検定が必要だと言われました。さて、問題は統計学的検定をどうやって行うかです。 注1:その名も「BCG」という本があります。著者の1人が山本三郎先生です。 注2:東京都清瀬市にあるBCG研究所では日本製のBCGを作っています。日本で使われるBCGはもちろんの事、WHOの委託を受けて、ユニセフを通じて毎年BCGを世界中に輸出しています。約100カ国、5000万人分です。なお、BCGを他国に輸出している(できる)のは同研究所のみです。こういうことは、もっと、知られて良いですね。 大学2年生の時、統計学者の宮本良雄先生に習ったノンパラメトリック統計という手法を思い出す BCG接種と1型糖尿病発病率とは一見すると関係ないパラメーターです。こういう事象の検定をしたことはありません。いろいろと考えていたら、学生時代、宮本良雄先生に習ったノンパラメトリック統計という手法を思い出しました。懐かしい話です。ネットで検索したら、どうやら、こういう場合、ノンパラメトリック統計の内「マン・ホイットニーのU検定」を用いれば良さそうだとわかりました。Excelデータを用いて「マン・ホイットニーのU検定」を行うソフトがあり、検定してみました。BCG接種の有無で有意差がありそうです。この検定が正しいかどうかわかりません。そこで、私どものクリニック近隣の大病院で1型糖尿病を研究している先生方にこの結果を送り、意見を求め、検定方法についても教えを乞うべく、お手紙を出しました。しかし、残念なことに返事はいただけませんでした。窮しました。折角集めたデータです。いろいろと考えた末、駄目元で「BCGで1型糖尿病を治療しているハーバード大のDenise先生」に相談しようと思い至りました。Denise先生はBCGと糖尿病に関する緻密な動物実験を長年繰り返しています。1型糖尿病患者さんをBCGで治療しています。そういうDenise先生なら、私が解析したデータに興味を持ってくれるかもしれないと思ったからです。 ハーバード大学Denise Faustman先生にメールを送る 入力したデータ、作ったグラフ、などを添付したメールをハーバード大のDenise先生に送りました。メールアドレスはDenise先生の論文に記されているハーバード大のアドレスです。怪しい人間と思われては困るので心臓外科医時代に書いた英文論文(アメリカの雑誌に掲載された)を添付しました。2021年1月のことです。 メール送付後、2日で返事が返ってきました。返事の一部を供覧します。 「Yoshi! Thanks for reaching out. The data is very interesting.」とあり、その後、 共同研究しましょう もっと詳しいデータを送るように 統計学的検討はMGHの統計部門にやってもらうけど、それで良いか? 今、ハーバードの自分の研究室では、BCGを用いて膀胱癌治療を行った患者さんの中で1型糖尿病を合併している症例を追っている。その解析とDr. Mochizuki の研究と結果を合わせた共同研究論文を書こうと思うが、それでも良いか? という返事が来ました。え??まさか、一緒に検討してくれて、統計学的検定までやってくれるという夢のような話です。 後日、その共同研究論文はハーバード大学の研究室員をファーストオーサーとし、Dr.Mochizukiをセカンドオーサーとするが良いか?とのメールがきました。「夢か」と思いました。 早速データをまとめる 丁度、その頃、COVID-19が世界中で大流行していました。そんな中「COVID-19が少ない地域はBCGを接種している地域である」という仮説が広まりました。そのお蔭でBCG研究に追い風が吹きました。前述の 「BCG World Atlas」ですが、私が調べ始めた2019年頃にはきちんとした記載がない国も多かったのです。 「何時から何時までBCGを接種していたか?」とか「BCG株はどの株を使っていたのか?」などをきちんと報告していない国が半数以上あったのです。しかし、「COVID-19―BCG仮説」の検証のために、多くの研究者が使ったからでしょうか? ある時期を境に一気に内容が充実しました。そのデータを使って作ったのが図2です。「COVID-19―BCG仮説」が広まらなければ、BCGのデータ収集は進まなかったと思います。運も良かったのです。データはかなり集まったのですが、それでも中にはきちんとしたデータを載せていない国も数ヵ国ありました。そういう国には、ハーバード大学医学大学院免疫生物研究室の名前で「BCGのデータ」を開示するように請求してくれました。私どものクリニック名では、絶対に、返事などくれなかったでしょう。 図2:充実したBCGデータで作ったグラフです。 横の棒グラフは、1型糖尿病の発病率を示します。左には国名とBCG接種状況を記しました。 青色は現在全ての小児にBCG接種を義務づけている国 ピンク色は小児期のBCG接種を以前、義務づけていた国(現在は義務づけていない) 緑色は現在も特別な群(結核罹病率が高い地域の小児)だけにBCG接種を義務づけている国 橙色は現在も特別な群(結核罹病率が高い地域の小児)だけにBCG接種を義務づけているが、以前は全ての小児にBCG接種が義務づけられていた国 BCGを長年接種している国(青色)では明らかに1型糖尿病の発病率が低いのです。そういうわけで、増えたデータを図2の如く、整理してDenise先生に送りました。 ハーバード大学では、膀胱癌をBCGで治療した症例の中で1型糖尿病が元々ある患者さんを追跡、分析していた ハーバード大のグループは、元々、膀胱癌をBCGで治療した症例を米国保健データベースから収集分析していました。彼らが行っていたのは 膀胱癌をBCGで治療した症例の内、元々1型糖尿病を発病していた例を検索 BCGで膀胱癌治療後に元々あった1型糖尿病がどうなったか検討 していました。彼らの仮説は 「1型糖尿病があり、膀胱癌を発病しBCGで治療すれば、もともとあった1型糖尿病が改善する」でした。しかし、残念なことに、劇的改善は見られませんでした。なぜかというと、米国では糖尿病治療にメトホルミンを基本的に使います。そのメトホルミンが、なんと、BCGの治療効果を減弱するのだそうです。 Immunometabolic Pathways in BCG-Induced Trained Immunity こういう解析をハーバードで行っている時に私が「BCGは1型糖尿病発病を予防する」というデータを送ったので、「一緒に研究しましょう」ということになったと思います。週に 1回くらい、Denise先生とメールのやりとりをしていましたが、論文をまとめる際に「Dr.Mochizukiが論文で伝えたいこと」を送るように言われ、メールで送りました。 そしてついに、 2021年8月12日 論文をPLOSONEに投稿 したと連絡がありました。私がハーバード大のDenise先生にメールを送ってから、7ヵ月です。彼らの仕事の速さにびっくりしました。なお、検定方法は「マン・ホイットニーのU検定」で行いました。プロ中のプロである「Statistics Department, Massachusetts General Hospital(MGHの統計部門)」の統計学者が解析を行ってくれました。ありがたい話です。 論文に記載しましたが、 BCG接種政策をとっている国では、1型糖尿病の発症率が平均65%減少しています(p<0.0001)。 私の予想通り BCGを長年接種している国と接種していない国では、1型糖尿病発病率に統計学的に有意差があったのです。 しかし…… 査読者の1人が、査読を途中で辞退! 査読結果が来たら、私にも知らせてくれることになっていました、かなり待ってようやく、結果が返ってきました。かなり厳しいコメントが書かれていましたが掲載不可ではありませんでした。Denise先生から査読に対する意見を求められ、私なりに思っていることを書いて送りました。しかし、査読に対する返事をPLOSONE編集部に送ってから半年経っても返事が来ません。 Denise先生は何度もPLOSONEの編集部にメールを送り、査読への回答を催促していました。そうしたら査読者3名の1名が査読を降りてしまい別な査読者を探しているとの連絡が来たそうです。Denise先生、激怒していました。時間が随分とかかりましたが、新たな査読者が選定され、その方の査読が済み、論文の修正が終わりました。そんな中、大騒動?が起きました。 共同研究責任者のハーバード大学のDenise先生が「BCGを接種していればCOVID-19に罹患することは極めて少ないという論文を発表 2022年8月15日、 「Multiple BCG vaccinations for the prevention of COVID-19 and other infectious diseases in type 1 diabetes」と題した論文が、Cell Reports Medicineのオンライン版に載りました。1型糖尿病患者さんにBCGを3回(28日間隔で2回接種を行い、さらに1年後に追加で1回の接種で計3回)接種したところ、COVID-19発病を92%も予防できたとする論文です。筆頭著者は「Denise L Faustman」。前述の如く、Denise先生はBCGを用いて1型糖尿病を治療していました。元々、BCGを接種すると様々な感染症を予防することが知られています。幼児でも老人でもBCGを接種すると様々な感染症に罹る率が劇的に減るのです。 アメリカでは、BCGは一般には接種されていません。Denise先生のグループだけが、BCG接種症例を「持っていた」のです。千載一遇!です。この好機をDenise先生が逃すわけが無かったのです。症例を見つけるのは簡単です。元々、Denise先生が1型糖尿病をBCGで治療している患者を調べたら、1%しかCOVID-19に罹患しませんでしたが、対照群は12.5%も罹患しています。圧倒的な差でした。この論文は世界中で広く読まれ、元々有名な研究者だったDenise先生の名前は、さらに広く知られるようになりました。そんな騒動?があったのですが、論文査読への最終回答は、なかなか来ませんでした。 2022年10月6日、正式にアクセプトとなり、2023年1月20日、出版となる 投稿して1年2ヵ月も経ってから、ようやく正式にアクセプトされ、出版されました。 論文の最後に、論文著者の役割分担が記載されています。 「Author Contributions」 Conceptualization: Denise L. Faustman. Data curation: Yoshihiko Mochizuki. Formal analysis: Hans F. Dias, Yoshihiko Mochizuki, Willem M. Kuhtreiber, Hui Zheng, Denise L. Faustman. Funding acquisition: Denise L. Faustman. Investigation: Willem M. Kuhtreiber, Hiroyuki Takahashi, Denise L. Faustman. Methodology: Hans F. Dias, Willem M. Kuhtreiber, Hiroyuki Takahashi. Project administration: Denise L. Faustman. Supervision: Denise L. Faustman. Validation: Hans F. Dias. Writing - original draft: Hans F. Dias. Writing - review & editing: Willem M. Kuhtreiber, Denise L. Faustman. ありがたいことに、Data curationはYoshihiko Mochizukiがやったと書いてくれています。本当に嬉しいです。見も知らぬ日本の無名クリニックの医師の言に真摯に耳を傾けてくれたDenise先生には、いくら感謝してもしきれないです。 繰り返しますが、この論文の1番の要旨は 「小児期のBCG接種は1型糖尿病の発病を予防する効果がある(であろう)」です。 注:効果があると断言するには、 BCGを新生児期に打っていない地域での治験が必要です。 1. 新生児期にBCGを打った群(数千人?)と 2. 新生児期にBCGを打たない対照群(数千人)を作り、 10数年後に各群のⅠ型糖尿病発病率を比較すれば「断言」できると思います。どこか、そういう治験を行う地域や国が無いでしょうか?費用も時間もかかりますが、やる価値はあると思います。 閑話休題:この研究はちょっとした思いつきから始まりました。研究機関に属していない無名クリニックでも「種」を見つければ、こういう研究ができるのだと思いました。 この論文を読んだある医科大学の元学長からメールを頂きました。 「望月先生、論文を読みました。この論文自体にも価値があります。しかし、この論文の価値は日本だけでなく世界中の小さなクリニックの医師に勇気を与えたことです。小さなクリニックでもこういう研究ができることを示した。そこに価値があると思います」 と言われ、ひとりで舞い上がっていました。開業医にとって日々の臨床が一番大切ですが、なにか研究の「種」を見つけようとするのも悪い話ではないと思っています。 色々と、あきらめないで、良かったと思っています。 この研究はインターネット上のデータしか用いていません。ハーバード大学の先生とはメールでしか、やりとりをしていません。つくづく、時代は変わったと思います。 終 追記:論文が掲載された記念に、古くからの友人で益子在住の陶芸家の外松信彦氏に「BCGマグカップ」を作っていただきました。 素晴らしいマグです。 把手に穴が9個開いています。日本人にはおなじみのBCGハンコ注射を模しています。 (これは外松氏のアイデアです。マグを見るまで知りませんでした。) ハーバード大学医学大学院免疫生物研究室のDenise L. Faustman先生と第一著者のHans F. Diasさんに、このマグカップを送りました。把手の9つは日本独自の「ハンコ型BCG接種」を模していることを説明する文章を添付しました。とても、喜んでくれました。 Denise先生に送った「9つの穴」の英文説明文です。なお、米国でのBCG接種は注射針を用いた普通の皮内接種です。 BCG inoculation in Japan is known as a 'hanko injection'. It uses a tool called a 'tube needle' as shown in the picture. It has nine needles on the end. The vaccination site is fixed as the 'outer left upper arm'. Place a few drops of BCG vaccine solution in the centre of the left upper arm at the vaccination site. Press the tube needle, vertically. Changes at the BCG vaccination site Normally, the needle mark at the vaccination site is white and the surrounding area red from 4 to 6 weeks after vaccination, as shown in the picture below. The nine holes in the handle of the BCG mug represent the nine holes at this vaccination site. 2回打つので皆さんの手には18個の穴の跡があるはずです。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2023/12/18 これを記しているのは2023年11月です。今、日本中で様々なお薬が枯渇しています。 以下のような記事が多数、報道されています。 「大人用の薬を砕いて子ども用に」「病院の9割で治療薬が足りない!」 前例のない「医薬品不足」はどうなる?(デイリー新潮) 解熱鎮痛剤、鎮咳剤(咳止め)、去痰剤(痰を出しやすくする薬)、抗生物質、漢方薬、ビタミン剤、局所麻酔薬、etc. etc. などが払拭しています。お薬は「国の防衛」に関わります。以前、日本製ペニシリンの話を書きました(参考:ペニシリン4:日本製ペニシリン碧素(へきそ)の物語(1))。 日本製ペニシリンを作るべく、奮闘努力したのは、陸軍です。戦争にはお薬が大切だということを敗戦間近の日本軍は理解していたのです。 それから幾星霜。日本は、単独では、ペニシリン(他の抗生物質の多くも)が作れなくなりました。他国の助けがないと作れないのです。高価な軍備を買うよりも基本薬剤を日本で作れるようにすることの方が国防にとって、よほど、大切だと思います。 こんなことを書いていたら朗報が入りました。2023年11月10日の新聞報道です。 手術に欠かせない抗菌薬、30年ぶりに国産化…政府の製造設備への助成で中国依存の脱却図る(読売新聞) やはり危惧していた人が結構いたのでしょう。それにしても、遅すぎます。 弦検流計が脚光を浴びていた時代の話 さて、本論です。 前回、日本でお亡くなりになった心電計の発明者アイントホーフェン医師の“子アイントホーフェン”さんのお孫さんのIneke van der Walさんが、“子アイントホーフェン”の奥様(一緒に日本に抑留されていた)が日本抑留中に書き残した「日記や手紙」を元に日本滞在中のことを本にして出版していると紹介しました。 Ineke van der Wal 著 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」 Independently published (2017/12/3) https://www.amazon.co.jp/Temple-Chrysanthemums-Dutch-Prisoners-Tokyo/dp/1790557763/ref=sr_1_1?qid=1698806025&refinements=p_27%3AIneke+van+der+Wal&s=english-books&sr=1-1&text=Ineke+van+der+Wal この本を紹介します。最初に、アイントホーフェン一家の歴史が書かれています。当時のオランダ人科学者の生活の一端がわかりとても興味深いのですが、本論とは離れるので割愛します。 1902-1904年、“父アイントホーフェン”は 弦検流計(げんけんりゅうけい)を用いて、心電計を作り上げ、心電図の記録に成功します。その後、弦検流計に改良を施し、世界中でこの弦検流計を用いた心電計が販売されるようになりました。 写真1:箱の中の電線が見えるでしょうか? 写真1にアイントホーフェンが作った弦検流計を示します(オランダのBoerhaave museumで見ることができます )。 この箱の中に電線が張ってあります。ここには強力な磁石が置いてあり、磁界が作られています。磁界があり、電線の中を電気が通ると「アンペールの力」が働き、電線が動きます。これを記録したのが心電図です。思いっきり簡単な心電計の原理説明です(笑)。電線の中を通るのは心臓の動きに伴って生じる微弱電気です。これを増幅して他の生体電気から分離して、雑音を減らしてという所にアイントホーフェンの心電計の「妙味」があるのですが、実は私にも良くわかりません。アイントホーフェンの論文は、以前も書きましたが、物理や数学がわからないと理解できないのです。 そういう弦検流計が脚光を浴びていた時代の話です。 以下、 “弦検流計”や“子アイントホーフェン” “子アイントホーフェンが日本にいた理由” “子アイントホーフェンの日本での生活” “子アイントホーフェンとある日本人医師とありえないような出会い” などを上記の 『The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo』から引用します。英文です。簡単な翻訳も記します。 注:著者のIneke van der Walさんから、著書から引用すること、翻訳して当コラムで紹介することの許可を得ています。 On March 24, 1923, Father Willem gives a lecture at the KHMW(Royal Holland Academy of Sciences') entitled The string galvanometer at the service of radio telegraphy' in which he advertises the many advantages of reception by galvanometer versus by telephone. First he speaks about the sensitivity of the galvanometer that can be increased to that of the best telephone. Then he talks about the larger number of words per minute that can be sent. If one sends signals by hand and listens with the ear, the maximum is 25 words per minute. 1923年3月 “父アイントホーフェン”は「電話よりも弦検流計による通信の方が優れている」という講演をした。 Wim gives this lecture himself at the Physiological Laboratory in Leiden on October 22, 1923. In addition to the lectures, father and son also publish various articles about the vacuum string galvanometer and Wim, as agreed with the Ministry, applies for a patent in The Netherlands, Germany, Canada, England, the US and Japan. 1923年10月、“子アイントホーフェン”もライデンで弦検流計に関する講演を行った。アイントホーフェン父子は、弦検流計の箱の中を真空にすることで、心電図記録精度を上げる方法で特許を得た。その方法は、オランダ、ドイツ、カナダ、イギリス、アメリカ、そして日本でも特許を取得した。 後年、“子アイントホーフェン”はその日本に抑留されますが、そんなことになるとは夢にも思わなかったでしょう。 The patents are in the name of The Netherlands Indies. On November 22, 1921, 100,000 guilders is paid to Professor W. Einthoven by the Department of Colonies, following the final report issued by De Groot. As agreed, father and son share this amount. Wim invests his share in London, but affords himself one luxury: the purchase of a sailing boat, the Tineke, a gaff rigged, cabin Yacht, which is docked with Arie in Warmond. その特許によりアイントホーフェン父子は1921年に10万ギルダーを得ている。“子アイントホーフェン”はその資金の一部でヨットを購入した。 (注:当時、1ギルダー≒60円、これは様々な資料からの推測値です。) In October 1924, while he is in the United States, Professor Einthoven receives news that he has been awarded the Nobel Prize in Medicine. He collects the award a year later in Stockholm on December 10, 1925. In his acceptance speech he mentions his son: Engineer W.F. Einthoven has made a model in which the string lies in a vacuum and this is specially suitable for the use of very thin strings' and so testifies about the long collaboration between father and son.Einthoven has made a model in which the string lies in a vacuum and this is specially suitable for the use of very thin strings' and so testifies about the long collaboration between father and son. 1924年10月、渡米中の“父アイントホーフェン”にノーベル生理学・医学賞受賞の知らせが届く。 1年後の1925年12月10日、ストックホルムで受賞。ノーベル賞受賞スピーチの中で、“子アイントホーフェン”との共同研究に触れている。“子アイントホーフェン”は弦が真空の中にあるモデルを作り「そうすることで細い弦を使えるようになり、心電図の記録精度が上がる」と紹介した。 時は流れ…… Father Einthoven undergoes surgery for colon cancer in May 1927 after which he stays bedridden for a long time. On September 28, 1927 Wim's father passes away. He is buried at the Green Church in Oegstgeest, where the family graves of the DeVogel and Einthoven families are located. 1927年5月、“父アイントホーフェン”は結腸癌の手術を受けたが、段々と衰弱し、1927年9月28日、永眠。アイントホーフェン家の墓があるオグストヘスト市のグリーン教会に埋葬された。 The Governor General appoints Wim to Head Engineer on April 5, 1936. Wim becomes head of the Radio Laboratory in Bandung, set up and organized by him, where he also brings the training of radio-technical personnel up to par. Beb writes to her mother: 1937, a few American engineers from the group of scientists who are associated with Professor Albert Einstein visit Bandung. Einstein, friend of Wim's father, is aware of Wim's work in Java. As a token of his appreciation, Einstein sends a book of his own hand with a personal note for Wim. It is a nice gift. The delegation comes with a request to set up a laboratory for experiments with liquid air (compression), but they specify that it must remain strictly confidential. 1936年“子アイントホーフェン”は現インドネシア(当時オランダ領)バンドンに赴任、オランダPTT(post telephone telegram)に就職、後にインドネシアPTT所長となった。そのバンドンに、物理学者アインシュタインと関係があるアメリカの科学者グループが訪れた。アインシュタインは“父アイントホーフェン”の友人であり、“子アイントホーフェン”の業績も知っていたので、アインシュタインはアインシュタインは“子アイントホーフェン”にアインシュタイン直筆サインの入った自著を同封した手紙を送った。(注:1921年にアインシュタインはノーベル賞、1924年に“父アイントホーフェン”もノーベル賞)。 PTTは、日本で言えばNTTとJPが一緒になったような会社でしょう。“子アイントホーフェン”一家はインドネシアでそれなりの職を得て平穏に暮らしていました。しかし、 American naval base at Pearl Harbor is attacked on December 7, 1941 by Japanese planes, and a large part of the US fleet is destroyed. The Japanese empire wants to end Western domination and wants to set matters straight in East-Asia. Caucasian people have to be expelled and Japan must become self-sufficient with the rich raw materials from the Dutch East Indies and Korea. 1941年12月7日(注:日本では12月8日)、日本軍は真珠湾を攻撃、太平洋戦争が始まりました。日本は「白人を追い出し、インドネシア、朝鮮半島の豊富な資源を元にした新たな東アジアを作る」と宣言。 太平洋戦争により、“子アイントホーフェン”一家の平穏は破られました。1941年、日本軍はインドネシアにも侵攻。1942年3月8日、インドネシアのオランダ軍は降伏。インドネシアは日本の統治下に入ったのです。 The radio laboratory staff wonders why the European staff of the laboratory are not sent home, relieved from their duties, and why are the Japanese so lenient with them? In the last half of 1942, they receive an answer to that question. Three Japanese men come to the laboratory, who do not wear a uniform. They are better mannered than the military and speak fairly good English. It seems that they have a higher education. Quite quickly the staff learns that they work for Sumitomo, one of the three largest companies in Japan, and have come to prepare for a takeover of the radio laboratory. Sumitomo is a large company working in the field of electrical engineering and everything associated with it. One of the three men, it appears later, has studied at Harvard University in the US; he is the boss and he is the designated new managing director of the radio laboratory. The two others are an accountant and a manager. インドネシアPTTのスタッフは、なぜヨーロッパのスタッフが帰国させられないのか、職務から解放されないのか、なぜ日本人は彼らに甘いのか、と疑問に思っていた。1942年後半、その疑問に対する答えが返ってくる。研究室にやってきた3人の日本人は、制服を着ていなかった。彼らは軍人よりもマナーが良く、英語もかなり上手だった。どうやら、高等教育を受けているようだ。彼らは日本の3大企業の1つである住友商事の社員で、ラジオ研究所の買収の準備に来たと聞いて、スタッフはすぐに納得した。住友は、電気工学とそれに関連するあらゆる分野に携わる大企業である。この3人のうち、1人はアメリカのハーバード大学に留学したことがあり、その人が責任者として、インドネシアPTTの新しい専務に指名された。他の2人は、会計士と経営者だった。 インドネシアPTTが行っていた業務を止めれば、直ちに通信業務に支障が生じるので、そのまま日本軍はオランダ人PTT職員を働かせていたのでしょう。 Sumitomo also asserts itself in the Tjiboenit camp. All PTT(post telephone telegram) families summoned to move to a separate part of the camp; a fence is built around them, guards are stationed at various points and contact with other internees is prohibited. For many families, this means again dragging furniture to another home. But that is not the worst part, which is the uncertainty about the reason for this camp within a camp. Of course, the Japanese do not reveal the reason for the longest of time. 住友の命令で“子アイントホーフェン”を含めたインドネシアPTTの社員は全員、Tjiboenit campに移送され、その周囲をフェンスで囲まれた一角で過ごすことになり、同じキャンプにいる他のオランダ人との交流は禁じられた。日本軍はその理由を明かさなかった。 オランダ人PTT職員は通信業務に従事していたので、彼らから「最新の情報が漏れる」ことを日本軍は恐れたのでしょう。そしてついに恐れていたことが起きます。 It takes until November 1943, when all sorts of important Japanese people barge into the house of the Einthoven family and demand that the entire family be present. The Japanese tell them that Wim and four of his colleagues will be transferred to Japan to work there on behalf of the Japanese army. Wim angrily refuses and says he will never let this happen voluntarily. In response the Japanese force him to cooperate. One of the Japanese pushes a revolver between Kate's ribs and says that women and children are to be taken along as hostages. Kate stays cool and thinks 'Oh, what a pity, I will never be able to tell anyone, because there is no one who will believe me. 1943年11月、アイントホーフェン家に日本の要人が来訪、他の家族全員の同席を要求した。そして“子アイントホーフェン”とインドネシアPTTの同僚4人は、日本軍のために日本に赴任することを告げられた。“子アイントホーフェン”は「そんなことは絶対にさせない」と怒って拒否したが認められなかった。日本軍人の一人はケイトの肋骨の間に拳銃を押し当て「女性や子供も人質として連れて行く」と言った。 The Dutch try to delay the departure in many ways. A Dutch petition to leave the women and children in Java is rejected. The order comes from the army and nothing can be done about it. The prisoners consider sending a request to the queen to gain time. Each day of delay counts and it cannot be long before the seaway to Japan will be closed. Meanwhile, the danger that they will be torpedoed on the way increases every day. オランダ人は様々な方法で出発を遅らせようと試みた。女性と子供をインドネシアに残すように懇願したが、その願いは却下された。陸軍からの命令なので、どうすることもできなかった。段々、日本への海路が閉ざされつつあり、インドネシアから日本への移送中に乗り込んだ船が魚雷を受ける危険は日に日に増していた。 結局、“子アイントホーフェン”を含めたインドネシアPTTの技術職員はインドネシアから東京に移送されます。危ない旅路でした。 次回に続きます。 いつかお読みください(再掲)。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ ■関連記事 172:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(1) 2021年日本不整脈心電学会の学会誌である「心電図」に拙稿が掲載 173:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(2) 小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」について 174:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(3) 「日本電気物語」に記された“子アイントホーフェン”のこと 175:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(4) 「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料について 176:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(5) 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」について 177:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(6) 「心電計の発明者アイントホーフェンの長男(子アイントホーフェン)の日本抑留記」 1. ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと 2. “子アイントホーフェン”一家のこと 3. 心電図研究のこと 4. アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと 5. “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと 6. “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 179:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(7) 7. インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 180:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(8) Ineke van der Wal氏からのe-mail 181:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(9) 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 9. “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? 182:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(10) 10. “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと 11. “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) 184:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(11) 12. “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など 185:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(12) 13. “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 14. 終戦そしてオランダに帰国 186:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(13) 15. 論文余話 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, et al. : Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram. Ann Thorac Surg, 1999 ; 67 : 1184-1185 本橋均:絃の影を追って:W. Einthovenの業績,初版.医歯薬出版,東京,1969 小宮まゆみ:敵国人抑留:戦時下の外国民間人,初版.吉川弘文館,東京,2009 ; 173-176 日本電気株式会社編:日本電気ものがたり,初版.日本電気,東京,1980 ; 157 Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 Ineke van der Wal : The Temple with the Chrysanthemums Dutch Prisoners of War in Tokyo, 1st ed. Independently published, USA, 2017 Snellen, HA : Willem Einthoven(1860-1927)Father of electrocardiography : Life and work, ancestors and contemporaries. Springer, Netherlands, 1995 Einthoven Jr, WF : The string Galvanometer in wireless telegraphy. Proceedings, 1923 ; 26 : numbers 7, 8. Einthoven W, Einthoven WF, Willem van der Horst, et al. : Brownsche Bewegingen van een gespannen snaar. Physica, 1925 ; 5 : 358-360 ノーベル賞委員会:Willem Einthoven - Nobel Lecture - Nobel Prize. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1924/einthoven/lecture/(2021年 2月閲覧) 明治大学平和教育登戸研究所資料館:地域から追う登戸研究所. https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50en.pdf(2021年 2月閲覧) オランダ日本インドネシア対話の会:Deportation to Japan : Search for Clarity. https://sites.google.com/site/dlgnji4nl/programmas/conf08/2gre-en(2021年 2月閲覧) 心電図 Vol. 41 No. 1 2021 13 ) 日野原重明:心電計の歩み.検査法の変遷(Clinical Laboratory編集委員会編).診療新社,大阪,1982 ; 295 聖路加国際病院 100年史編集委員会編:聖路加国際病院の 100年.聖路加国際病院,東京,2002 大蔵省印刷局編:官報 1921年 08月 27日.国立国会図書館デジタルコレクション United States Department of the Army : Pamphlet - Dept. of the Army. Tokyo, 1949 ; 579 War Graves Commission Oegstgeest(Oorlogsgravencomit? Oegstgeest) : Comit? Herdenken en Vieren Oegstgeest. https://www.oorlogsgravenoegstgeest.nl/en/resistance-fighters/einthoven-en(2022年 2月閲覧) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2023/11/13 COVID-19について考察 以下は2022年6月に記した文章です。 ようやく、COVID-19が収まってきました。COVID-19という呼び方もあまり使われなくなり、現在は「新型コロナウイルス感染症」を使う媒体が多くなっています。オミクロンが主流となり、これで変異は「打ち止め」となって欲しいですね。メジャーリーグやヨーロッパのサッカー、F1などのTVを見るとほとんどの観客はマスクをしていません。EUは各国の往来が「ほぼ自由」です。日本も「観光立国」を掲げるなら早期に「完全開国」して海外からの観光客を呼び入れるべきです。 もし重症化率の高い亜種が出てきたら対策を変えれば良いと思います。感染力は強いけれど重症化率の低いオミクロンが主流となっている今こそ「平常運転」に戻すべきです。 下に示す図は、現時点(2022-06-22)での世界COVID-19累積死亡者数(人口100万対)です。 東アジアは少ないですね。日本、台湾、ニュージーランド、豪州は同じくらいですね。豪州、ニュージーランドは「厳格なロックダウン」を行いました。台湾はPCRを広く実施し、封じ込めを行いました。日本は、ナンチャッテロックダウン(強制力は無い)、ナンチャッテPCR(簡単には受けられなかった)+ワクチン接種(それも強制ではありません)で対処。UK、USA、France、Germany、Sweden、Israelは軒並み日本より死亡者数が多いですね。日本が少ない理由が話題になっています。はっきりとした要因は解りません。数十年後に色々と解るかもしれないし、解らないかもしれないです。 「重症化率の低いオミクロンが主流となっている今こそ「平常運転」に戻すべきです。」と当時書きました。当たっていたと思います。しかし、COVID-19に関する色々なことは、まだ、断定できないことが多いです。 私の予想は「的中」 さて、本論です。 日本でお亡くなりになった“子アイントホーフェン”さんのお孫さんの「Ineke van der Wal」さんが、“子アイントホーフェン”の奥様(一緒に日本に抑留されていた)が日本抑留中に書き残した「日記や手紙」を元に日本滞在中のことを本にして出版していたのです。オランダ語版だけかと思ったら英語版も出版されていることがわかりました。 オランダ語版:De Tempel met de Chrysanten: Krijgsgevangene in Tokio:Ineke van der Wal | 2017/12/3 英語版:The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo:Ineke van der Wal | 2017/12/3 私が読んだのはもちろん英語版です。英語版「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」を翻訳するなら「菊のある寺:東京のオランダ人俘虜収容所」でしょう。少し変です。“子アイントホーフェン”一行が東京で抑留されていたのは元チリ公館です。東京での空襲が激しくなってから彼らは愛知県豊田市の広済寺と広澤寺に移送され終戦を迎えています。広済寺と広澤寺こそ「菊のある寺」です。「菊」がたくさん植えられていたのです。 著者のIneke van der Walさんはなぜ「Chrysanthemums(菊)」をタイトルに入れたのでしょう。これは私の愚考ですが、ルース・ベネディクト著「The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture(邦題:菊と刀)」(1946年刊行)を念頭に置いてタイトルを考えたのだと思います。「菊と刀」はアメリカ人が書いた日本文化論です。 他にも「Chrysanthemum (菊)」をタイトルに入れた日本文化論があります。 Robert Whiting著「The Chrysanthemum and the Bat(邦題:菊とバット)」: The Game Japanese Play(English Edition)」(1977年刊)。 この「菊とバット」は実に面白い本です。「野球」と「Baseball」を対比して日米の文化の違いを浮かび上がらせています。色々と考えるとIneke van der Walさんがタイトルに、抑留体験とはあまり関係の無い「Chrysanthemum(菊)」を入れたのも何となくわかよう様な気がします。 前置きはさておき…… “子アイントホーフェン”が日本に滞在したなら、日本人医師の診察を受けたことが予想されます。診療を受けたなら「アイントホーフェン」の名前に気づいた医師がいなかったかどうか、そういう描写があるかないか、その一点に興味がありました。1924年、“父アイントホーフェン”は心電計の発明でノーベル生理学・医学賞を受賞し一躍有名人となっていました。 ノーベル賞受賞から21年経った1945年の東京で「アイントホーフェン」の名前に気づいた医師がいただろうと、私は、予想したのです。後述しますが、その予想は的中しました。小説を思わせる様な劇的な形での「的中」でした。 この本は358頁もあります。最初に手に取ったとき、読み切れないだろうと思いましたが、あに図らんや、結局最後まで読んでしまいました。それほど面白かったのです。心臓外科、血管外科の英語の教科書は多数読み通しましたが、普通の英文書物を読み通したのは人生初でした。 内容は多岐にわたります。単なる“子アイントホーフェン”の日本滞在記ではありません。 ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと “子アイントホーフェン”一家のこと 心電図研究のこと アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 そしてなんと言っても“子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 Etc. etc.を紹介します。以下次回に続く…… いつかお読みください(再掲)。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ ■関連記事 172:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(1) 2021年日本不整脈心電学会の学会誌である「心電図」に拙稿が掲載 173:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(2) 小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」について 174:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(3) 「日本電気物語」に記された“子アイントホーフェン”のこと 175:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(4) 「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料について 176:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(5) 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」について 177:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(6) 「心電計の発明者アイントホーフェンの長男(子アイントホーフェン)の日本抑留記」 1. ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと 2. “子アイントホーフェン”一家のこと 3. 心電図研究のこと 4. アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと 5. “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと 6. “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 179:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(7) 7. インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 180:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(8) Ineke van der Wal氏からのe-mail 181:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(9) 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 9. “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? 182:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(10) 10. “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと 11. “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) 184:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(11) 12. “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など 185:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(12) 13. “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 14. 終戦そしてオランダに帰国 186:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(13) 15. 論文余話 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, et al. : Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram. Ann Thorac Surg, 1999 ; 67 : 1184-1185 本橋均:絃の影を追って:W. Einthovenの業績,初版.医歯薬出版,東京,1969 小宮まゆみ:敵国人抑留:戦時下の外国民間人,初版.吉川弘文館,東京,2009 ; 173-176 日本電気株式会社編:日本電気ものがたり,初版.日本電気,東京,1980 ; 157 Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 Ineke van der Wal : The Temple with the Chrysanthemums Dutch Prisoners of War in Tokyo, 1st ed. Independently published, USA, 2017 Snellen, HA : Willem Einthoven(1860-1927)Father of electrocardiography : Life and work, ancestors and contemporaries. Springer, Netherlands, 1995 Einthoven Jr, WF : The string Galvanometer in wireless telegraphy. Proceedings, 1923 ; 26 : numbers 7, 8. Einthoven W, Einthoven WF, Willem van der Horst, et al. : Brownsche Bewegingen van een gespannen snaar. Physica, 1925 ; 5 : 358-360 ノーベル賞委員会:Willem Einthoven - Nobel Lecture - Nobel Prize. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1924/einthoven/lecture/(2021年 2月閲覧) 明治大学平和教育登戸研究所資料館:地域から追う登戸研究所. https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50en.pdf(2021年 2月閲覧) オランダ日本インドネシア対話の会:Deportation to Japan : Search for Clarity. https://sites.google.com/site/dlgnji4nl/programmas/conf08/2gre-en(2021年 2月閲覧) 心電図 Vol. 41 No. 1 2021 13 ) 日野原重明:心電計の歩み.検査法の変遷(Clinical Laboratory編集委員会編).診療新社,大阪,1982 ; 295 聖路加国際病院 100年史編集委員会編:聖路加国際病院の 100年.聖路加国際病院,東京,2002 大蔵省印刷局編:官報 1921年 08月 27日.国立国会図書館デジタルコレクション United States Department of the Army : Pamphlet - Dept. of the Army. Tokyo, 1949 ; 579 War Graves Commission Oegstgeest(Oorlogsgravencomit? Oegstgeest) : Comit? Herdenken en Vieren Oegstgeest. https://www.oorlogsgravenoegstgeest.nl/en/resistance-fighters/einthoven-en(2022年 2月閲覧) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2023/10/30 COVID-19について考察 本論の前に少しだけCOVID-19について考察をしたいと思います。 今回のコロナ禍で感じたのは「感染対策には、何らかの方法を用いて全ての医療機関の医療データを収集し分析することが必要」だということです。アメリカには1946年からCDC(Centers for Disease Control and Prevention:アメリカ疾病予防管理センター)があり、コロナのようなパンデミック時には指導的役割を果たします。そのCDCでさえ今回の様な新しい病気の対処に成功したとは思えません。新しい病気への対処は簡単ではないと思います。 今回のコロナ禍でもアメリカのCDCは様々な情報収集を行い分析していると思います。CDCには本部職員だけで8,000人もいます。COVID-19に関する論文は多数発表されています(COVID-19関連で39万もの論文が出版されています@ 2023-10-06(by Pubmed))。そういう論文を分析するだけの部門もCDCにはあります。 2020年3月3日、当時の総理大臣の故安部晋氏は国会答弁で「米国の疾病対策予防センター(Centers for Disease Control and Prevention)のような組織も念頭に置きながら、組織を強化していくことは重要な視点だ」と言っていました。 2023年になり、日本版CDC に関する法案が提出されました。それによると日本版CDCは「国立健康危機管理研究機構」と命名されました(参考:日本版CDC 名称は「国立健康危機管理研究機構」に 法案提出へ(NHK))。 名前はともかく、実効力のある組織になると良いですね。 これからも新しい感染症が出現すると予測します。今回のコロナ禍を正確に分析し、次に備えることが必要だと思います。 上記と関係しますが、「感染症対策にはIT技術を用いた分析が必要」というのが持論です。 日本はITが進んでいると思う方がいるかもしれません。下に令和2年(2020年)に発表された電子カルテの普及率を示します。決して進んでいるとは思えないですね。 1.上記の表を見ても解るとおり日本の電子カルテ普及率は50%を越しました。しかし、未だに、紙の手書きにこだわる医師が多いのです。某大学病院は5年前まで電子カルテを使っていませんでした。それゆえにでしょうか?、その大学病院に患者さんを紹介しても、紹介した患者さんに対する返事が来ることは稀でした。 2.上記の表で1番の問題は「和暦」を使っていることです。令和の時代になって平成20年が2008年で、今から15年前とすぐにわかる方がいらっしゃるでしょうか? 多発する銀行ATM障害も「和暦」が原因の1つだそうです(参考:「1989年5月7日」や「平成3元年」、令和対応トラブルが日本全国で相次ぐ(日経クロステック))。 昭和は12月25日から、平成は1月8日から、始まりました。令和は5月1日から始まりました。和暦だけしか書いてないと年齢を計算するのも面倒です。日本の公的書類は、基本、和暦での記入を求められます。マイナンバーカードも誕生日は和暦で記されています。和暦の「文化、伝統」は尊重しますが、それはそれ、これはこれで、公的文書は全て和暦と西暦を併記すべきだと思います。 3.私は電子カルテを使って20数年になります。電子カルテを使っていると同じ病院で自分の患者さんが他の診療科に受診してもその診療科のカルテも見ることができます。紙カルテだとそれには面倒な手続きが必要です。 4.北欧諸国では、ほぼ全ての医療機関が電子カルテを使っていて、インターネットを介して情報共有ができています。他の医療機関データも見ることができます。データはクラウドにあり、天災や人災で病院のデータが壊れてもクラウドに残っていれば翌日からPCがあれば診療ができます。日本でもクラウド利用の電子カルテシステムも普及し始めましたが、まだまだです。 5.一方、日本は……。言わない方が良いですね。2015年時点ですが、日本○○会の方針は「○○会としては、カルテの電子化は必須とは考えていない」と堂々と宣言しています。だから日本では遅々として医療機関のIT運用が進みません。 6.デンマークは電子カルテがほとんどの医療機関で使われていますが、電子カルテソフトを作っているメーカーがたくさんあり、インターネットでデータを共有できていなかったのです。それを2006年には共通項目だけは見られるようにしています(参考:デンマークの医療の効率化とIT(ジェトロ))。 日本はこの点でも、遅れに遅れています。 7.フィンランドの電子カルテシステムには富士通が開発したシステムが使われています。医療機関同士の情報の共有が可能になっています。 日本もそういうシステムの導入が必要だと思います。日本では別な医療機関に行く度に同じような採血、レントゲン、検査をされます。無駄です。 8.コロナ禍で解ったことは先進国、東南アジア諸国はインターネットで病院間がつながっていて情報共有ができることでした。それらのデータは各国の厚生担当者が瞬時に見ることができます。だから政策決定が早いのです。日本ではCOVID-19関連のデータは診療終了後に医師が入力していました。ネットが使えない医師は、FAXでデータを保健所に送っていました。これは、しかし、罰則規定のない登録です。データ入力は厄介で時間がかかりました。どれくらい正確だったのでしょうか? 9.ほとんどの国で、日本の厚労省に相当する行政機関は、医学知識のある人がコロナに対する施策や情報を発信していました。スウェーデンがその代表ですが毎日、テグネル医師がコロナに対する現状と対策を発表していました。記者の質問にも丁寧に答えていました。テグネル医師はスウェーデン全体の刻々のデータを持っていてそのデータをもとに、記者の質問が終わるまで、時には5-6時間も、毎日質問に答えている様子を見て羨ましく思っていました。一方、日本は、一社一問だけ質問を受け付けるという不思議なルールでの記者会見を行っていました。それも他国に比して、著しく短時間でした。尾身先生は別にして、COVID-19関係の政策説明をするのは医学を勉強したことの無い方です。とても変でした。 「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料 以下、本論です。なお文中の“子アイントホーフェン”とは心電計の発明でノーベル生理学医学賞を受賞した“父アイントホーフェン”の「子」です。なお、名前の読み方は難しいですね。オランダ人の名前はできるだけ、オランダ語での発音を取り入れるべきだとは思いますが、簡単ではないです。 さて、前回で敵国人捕虜に関する研究をしている小宮まゆみ氏から東京で亡くなった「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料を提供して頂いたことを記しました。その資料をお目にかけましょう。なお、話が前後しますが、この中の資料の一部はすでに前回で紹介しました。 小宮さんからのメールには以下のように記されていました。 “子アイントホーフェン”氏を含むオランダ人電気技術者とその家族計22名の日本での生活についての史料としては、 ヘンク・レルス氏の妻アニー氏によって書かれた「アニーの日本抑留日記」があります。 戸田系子さんによって訳されていますが、出版はされていません。それ以外には、 内務省警保局の『外事月報』に掲載されたわずかな記録 日本電気の社史(注:前号で紹介しました) 1945年5月頃にオランダ人技術者たちが東京から移転して収容された愛知県豊田市の広済寺と広澤寺に若干の資料が残っているぐらいです。 従って私がお答えできることは限られています。 筆者注1:ヘンク・レルス氏の妻アニー氏とは下記のレルス家(4名)の中に記されている「Annie Lels-Visser(アニー)」さんのことです。 最初に日本に抑留されたオランダ人一行22名の名簿が記されています。上記の「アニーの日本抑留日記」に記されていた名簿を頂きました。紹介します。ハーゼンシュタブ家だけ、カナ文字の名前がありません。?と思いましたが、次回紹介しますが、このハーゼンシュタブ家はドイツ系で他の家族と交わらなかったのです。それゆえです。 「アニーの日本抑留日記」内に引用されているG・レーフェンバッハ氏の「日本への強制連行の報告」(1980年)にあるアイントホーフェン氏関連部分もコピーしてくださいました。引用します。 レーフェンバッハ氏「日本への強制連行の報告」 8. 一九四五年になると、B29の日本の都市への攻撃は激しくなった。多くの地域が焼け、明らかに多数の人々が酸素不足で死亡した。私達も一度近所が焼けて、庭に焼夷弾が落ちて来た。この鉄の構造物には爆薬が入っており、地面に一メートルの穴を開けるが、幸いなことに宿舎には命中しなかった。焼夷弾の一つが立ち木に当たり、近くの家も火に包まれたことがあり、私達もパケツの水で消火を手伝った。日本人は私達の奮闘振りにびっくりしていたが、私達はみんな、自分達の家が危ないと思って行動しただけだった。翌日どの家族も、かなりの額のお金の入った封筒をお礼として受け取った。 9. 一九四五年二月、激しい空襲のさなか、ヴィム・アイントホーフェン(筆者注:“子アイントホーフェン”のことです)が肺炎のため、何週間か病に臥した後亡くなった。私達は火葬場に付き添い、ベップ・アイントホーフェンは骨壺に入れた遺灰をオランダに持ち帰った。 やはり前回でもお伝えしたように、“子アイントホーフェン”は肺炎でお亡くなりになっていました。 「アニーの日本抑留日記」の“子アイントホーフェン”に関する該当部分もコピーしてくださいました。引用します(筆者注:文中 ヴィム=“子アイントホーフェン”です。なおこの文章の主語はアーニーさんです。下線は強調として私が記しています、ヴィム=“子アイントホーフェン”のことです)。 「アニーの日本抑留日記」 一日中することもないのに、上の部屋に行かなければならないのは、私達にとっても悩みです。全く暖房がないからなのです。練炭で小さな炎を起こす方法を知っているのはヴィムだけです。これでは私達はもうもちそうにありません。静かに座っているのは、寒さで不可能です。それで縫い物や学校の勉強はお手上げですし、どのように、どこで過ごせば良いのでしょうか?私達はちょっと仕事をしては、後は震えながら部屋の中を一日中歩き回っています。 二月十七日 一月の最後の日に、生田からジェオが病気で帰って来ました。インフルエンザです。翌日はヘンクが39.8の熱で、同じ目の午後にムルク、フリッツとルーキーもです。ムルクは夜になってとても熱が高くなり、布団の中でひどくうわごとを言っていました。私もすぐに高い熱が出始めました。翌朝、ヴィムとティネケも病気になったと聞きました。この家で8名の病人です。幸いポーリーンはしばらくは私達の後についてまわっていましたが、少し後の翌日の午から症状が出てきました。さらにベップも次の日から悪くなり、リークも寝付ききましたが、彼は早めに治りました。みんな風邪に似た一種のインフルエンザです。8日にはお風呂を沸かしました。ベップ、ティネケ、ムルク、私とやはりベッドに臥せていたコリー以外が入りましたが、これで良くなった人は本当にお風呂を必要としていた人のはずです。ヴィムはお風呂の後一日だけ熱が下がり、階下に降りて上に食事を運ぶのを手伝いました。ヘンクが治ってから初めて生田に出かけて留守だったので、私達にも持って来てくれました。それがヴィムを見た最後になってしまいました。彼はまた高い熱で苦しみました。14日にヘンクは仕事の後二階に上がり、彼と少し話して心配しながら降りて来たのですが、ヴィムは奇妙な行動をして訳のわからないことをしゃべったのです 。症状が出てからすでに四日間頼んでいたのですが、良い医者は来ませんでした。翌朝早くベップが私達の部屋をノックして、ヘンクにヴィムの意識がずっとないので、すぐに良い医者を呼んで来て欲しいと頼みました。10時半にやっと医者が来た時には、ヴィムはまさに最後の息を引き取った時でした。急性肺炎!――私はこれを他の人が火葬場に行っている間に書いています。医者からまだベッドから出てはいけないと言われて、残念なことにヴィムに最後の敬意を表することができませんでした。その医者はヴィムの時、手遅れになってから来た人です。私達は全員、とても打ちのめされています。現在の状況を考えると、日本人は適切な火葬とそれに伴う全てのことを、とても丁寧に面倒を見てくれています。昨日は空襲警報が早朝から夜遅くまで鳴り続けたので、火葬は一日延期されました。千機のアメリカの飛行機が、東京の郊外や港の上空にいました。高射砲の音が、ヴィムに対する最後のお別れのようにも聞こえました。今日もまた同様で、朝早くから空襲警報が鳴り、三時間毎に上空には飛行機群が来ています。この悲しみの日々に、私達はこれで少し救われるような気がします。 二月十八日 今夜は途切れなく注意報が出ていますが、今は飛行機は他を攻撃している様子です。二階で男性全員(あと二、三日は家にいて良いとのことです。)と女性達でヴィムの亡くなった部屋の片付けをしています。 アーニーさんの文章からもヴィム=“子アイントホーフェン”がインフルエンザによる肺炎で亡くなったことが記されています。なお、色々と興味深いことも書かれています。 1945年の冬は寒かった。まともな暖房が無かった 次から次にインフルエンザに罹患している “子アイントホーフェン”がお亡くなりになった後の記述に「日本人は火葬とそれに伴う全てのことを、とても丁寧に面倒を見てくれています」とあります。多少、こういう箇所に救われます。 東京空襲は次から次に行われていたことがわかります。彼らは“子アイントホーフェン”の死後、空襲を逃れるために名古屋に「疎開」します。 このように色々と“子アイントホーフェン”の死に至る状況が解ってきました。公的記録には内務省警保局の『外事月報』に掲載されたわずかな記録しか無さそうです。私がいくら調べても“子アイントホーフェン”のことが解らなかったのも無理ないことでした。こういう特殊な捕虜の研究者である小宮まゆみ氏のような方でないとこのような事情を解き明かすことができなかったのです。 同氏の紹介で「オランダNPO法人日蘭イ対話の会」という《第二次世界大戦で生まれたわだかまりをいつまでも抱いたままでい続けたくないと願ったオランダ人、日本人、インドネシア人が対話をする会》の代表「タンゲナ鈴木由香里」さんとコンタクトをとることができました。タンゲナさんから貴重な情報を頂きました。 タンゲナさんから「最近エイントホーヴェンさん(筆者注:“子アイントホーフェン”)のお孫さんが、戦時中に日本に抑留された時の記録を出版した」と知らされたのです。 日本でお亡くなりになった“子アイントホーフェン”さんのお孫さんの「Ineke van der Wal」さんが、“子アイントホーフェン”の奥様(日本に抑留されています)が日本抑留中に書き残した「日記や手紙」元に日本滞在中のことを本にして出版していたのです。オランダ語版だけかと思ったら英語版も出版されていることがわかりました。 オランダ語版:De Tempel met de Chrysanten: Krijgsgevangene in Tokio Ineke van der Wal 2017/12/3 英語版:The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo Ineke van der Wal, | 2017/12/3 英語版を入手して、読んでみようと思いました。これが凄い本でした。 以下次回に続く…… 追記: 抑留された22名のうち、2名は詳細な日記をつけていたことが解ります。記録すること、それを残すことは大切ですね。 いつかお読みください(再掲)。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ ■関連記事 172:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(1) 2021年日本不整脈心電学会の学会誌である「心電図」に拙稿が掲載 173:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(2) 小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」について 174:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(3) 「日本電気物語」に記された“子アイントホーフェン”のこと 175:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(4) 「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料について 176:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(5) 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」について 177:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(6) 「心電計の発明者アイントホーフェンの長男(子アイントホーフェン)の日本抑留記」 1. ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと 2. “子アイントホーフェン”一家のこと 3. 心電図研究のこと 4. アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと 5. “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと 6. “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 179:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(7) 7. インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 180:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(8) Ineke van der Wal氏からのe-mail 181:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(9) 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 9. “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? 182:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(10) 10. “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと 11. “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) 184:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(11) 12. “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など 185:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(12) 13. “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 14. 終戦そしてオランダに帰国 186:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(13) 15. 論文余話 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, et al. : Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram. Ann Thorac Surg, 1999 ; 67 : 1184-1185 本橋均:絃の影を追って:W. Einthovenの業績,初版.医歯薬出版,東京,1969 小宮まゆみ:敵国人抑留:戦時下の外国民間人,初版.吉川弘文館,東京,2009 ; 173-176 日本電気株式会社編:日本電気ものがたり,初版.日本電気,東京,1980 ; 157 Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 Ineke van der Wal : The Temple with the Chrysanthemums Dutch Prisoners of War in Tokyo, 1st ed. Independently published, USA, 2017 Snellen, HA : Willem Einthoven(1860-1927)Father of electrocardiography : Life and work, ancestors and contemporaries. Springer, Netherlands, 1995 Einthoven Jr, WF : The string Galvanometer in wireless telegraphy. Proceedings, 1923 ; 26 : numbers 7, 8. Einthoven W, Einthoven WF, Willem van der Horst, et al. : Brownsche Bewegingen van een gespannen snaar. Physica, 1925 ; 5 : 358-360 ノーベル賞委員会:Willem Einthoven - Nobel Lecture - Nobel Prize. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1924/einthoven/lecture/(2021年 2月閲覧) 明治大学平和教育登戸研究所資料館:地域から追う登戸研究所. https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50en.pdf(2021年 2月閲覧) オランダ日本インドネシア対話の会:Deportation to Japan : Search for Clarity. https://sites.google.com/site/dlgnji4nl/programmas/conf08/2gre-en(2021年 2月閲覧) 心電図 Vol. 41 No. 1 2021 13 ) 日野原重明:心電計の歩み.検査法の変遷(Clinical Laboratory編集委員会編).診療新社,大阪,1982 ; 295 聖路加国際病院 100年史編集委員会編:聖路加国際病院の 100年.聖路加国際病院,東京,2002 大蔵省印刷局編:官報 1921年 08月 27日.国立国会図書館デジタルコレクション United States Department of the Army : Pamphlet - Dept. of the Army. Tokyo, 1949 ; 579 War Graves Commission Oegstgeest(Oorlogsgravencomit? Oegstgeest) : Comit? Herdenken en Vieren Oegstgeest. https://www.oorlogsgravenoegstgeest.nl/en/resistance-fighters/einthoven-en(2022年 2月閲覧) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2023/10/16 最近(2023-10月)、COVID-19はなんとなく、収まっているような、収まっていないような感じです。当初の武漢からのビールスによるCOVID-19と今のオミクロンビールスによるCOVID-19とは随分違います。国によってもCOVID-19の重症度が違います。 国が違うだけでこれだけ発症数が違うとは このグラフは2022-03-20時点の100万人当たりのCOVID-19発症数です。 フランスや北欧の国々は概ね並んでいます。一方ワクチン接種を勧め強力な対策をとったとされる韓国はトンデモナイことになっています。インド、インドネシアなど一時人口辺りのCOVID-19死者数が激増した国々は発症数が激減しました。緩い規制、緩い検査体制の日本はというと発症数は半ば位です。色々な仮説が唱えられています。解析には数年、数十年かかるかもしれません。日本もきちんとしたデータを出して科学的な検証をすべきです。 話は変わります。 新人医師は風邪に罹りやすい 「新人医師は風邪に罹りやすい」と医師になったときに脅かされました。本当にその通りでした。救急病院の土日当直アルバイトに行き、多くの発熱患者さんを診療していると、月曜日火曜日頃に体調が悪くなるのです。辛かったです。感冒、風邪、インフルエンザに罹っていたのでしょう。若かったから、解熱剤をのんだりして休まずに働いていました。数年経つと救急病院でアルバイトをしても患者さんから風邪、感冒がうつらないようになりました。多分、様々なウイルス、細菌に対して「免疫」ができたのだと思います。コロナ禍の最中に医師になった方の様々なビールスに対する免疫能(どうやって測定するかは不明ですが)を検査して数年追えば面白い結果が出るかもしれません。 本論にはいります。 戦時下の日本に連れてこられた敵国人捕虜 前回、小宮まゆみ氏が著した「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」という本にインドネシアから日本に連れてこられたオランダ人捕虜がいてその中に「アイントホーフェン」の名前を見いだしたことをお伝えしました。 一部抜粋して再掲します。 「オランダ人は、ジャワ島から連行抑留されたオランダ人電気技術者とその家族だった。W・アイントホーフェン博士はジャワ島バンドンの無線電信局で働いていた。1941年12月に太平洋戦争が勃発し彼らは日本軍に降伏、1943年11月、アイントホーフェンとその同僚は妻子とともに日本に送られることになった。」 とあります。前々回紹介した本橋均著「絃の影を追って:W. Einthoven の業績」の頁104にW. Einthovenは彼の第三子W.F. Einthovenと共に心電計の改良に努めたとあり、前々号で紹介しましたが、同書頁106に「第三子W.F. Einthovenは1945年3月の東京大空襲で亡くなった」とあります。 以下、わかりやすくするために 心電計を発明したアイントホーフェン医師(Willem Einthoven)を “父アイントホーフェン” その第三子(長男)の、電気技術者であり東京で亡くなったアイントホーフェン(Willem Frederik Einthoven, Jr.)を “子アイントホーフェン” と略します。 さて、この先どうやって東京で“子アイントホーフェン”がどのような生活をしていたのか、何が原因で床度お亡くなりになったのかを解明しようと思いました。解明には資料が必要です。2つ方法を考えつきました。 小宮まゆみ氏に手紙を書いて資料をご提供ないし資料入手の方法をご教授頂けるかどうかをお願いする。 小宮まゆみ氏の住所はわかりませんので、出版社(吉川弘文館)宛てに上記依頼を記した手紙を送りました。 小宮まゆみの本で紹介されていたアイントホーフェンのことが記されている「日本電気ものがたり(日本電気株式会社 1980年刊)」を入手すること。 の2つです。最初に入手できたのは「日本電気ものがたり」でした。 立派な「函」に入っていました。 「日本電気物語」に記された子アイントホーフェンのこと 「日本電気ものがたり」は日本電気の社史です。日本電気は1899年(明治32年)に設立されています。この本が刊行されたのは1980年です。創業からの80年にわたる歴史が書かれています。元々日本電気はアメリカから電話を広めるために起こされた会社です。 電気通信関係のことを中心に多くの日本電気関係者が興味深いことを書き記しています。 それはともかく本稿と関係のある記述がいくつか見つかりました。“子アイントホーフェン”を始めとしたオランダ人電気技術者たちは神奈川県川崎市生田にある日本電気の生田研究所で仕事をさせられています。その生田の研究所は 「日本電気の小林正次さんが、1943年5月に訪欧した際、たまたまテレビを見ていた時に上空を飛行機が通り、飛行機が通ることによりテレビ画面が乱れたことから電波探知機開発のヒントを得て、日本電気研究所生田分所の建設が決まった」と書かれています。この研究所では電波探知機(略して電探)、つまりレーダーの研究を行っていたのです。 大所帯の生田研究所 レーダーなどの兵器開発を行っていたこの研究所には1000人以上の日本電気社員が働いていたと書かれています。日本軍もレーダー開発に躍起だったことがわかります。昭和19年頃にあった研究所での出来事の中に私が知りたかったことが書かれていました(同書:頁157-159)。引用します。昭和19年日本電気生田研究所長だった大沢寿一さんという方が記しています。一部、解りやすくするため年号などを追記しています。 引用開始(注:下線は筆者) 「昭和19年から終戦までの一年の間のことですが、3人のオランダ人捕虜を生田の研究所で預かることになりました。なんでもジャワのバンドにあったオランダ国立電波研究所の所長と研究員ということでした。」 「外人の年齢はなかなかわからないものですが、所長のアイント・ベンという人は50歳をこえていたようでした。この三人を生田の研究所に連れて来たのは並木さんという陸軍大佐の担当官でした。その時私が心を打たれたのは、並木さんが捕虜に対する軍人という姿勢をまったく見せないばかりか言葉の端々にも相手に対する敬意と礼節を失わない態度だったことです。」 「急を要する電波兵器開発の細に役立てたいという考えで連れてこられたのですが我々にしてみれば敵国人を機密の作業につかせることはできません。3人のために別に1室を設けてそこで計算の仕事をしてもらいました。」 「並木大佐はその後も三人に面会するために幾度か来所したのですが敬意と親愛の情を持った接し方は初めと変わりませんでした。研究所の責任者が国際感覚と寛容さを兼ね備えた丹羽さんであったことも和やかな雰囲気を作った源だと思います。」 「3人のオランダ人は新宿から登戸まで小田急線できて稲田登戸の駅から生田の山道を歩いて通っていました。雨の中を歩く3人に誰からともなく傘が提供されたこともありました。」 「ところが3人のうちでは最年長だった方が病気になって終戦を待たずに亡くなりました。食糧難から来る体力不足と薬品欠乏のため十分な治療ができないことはその頃は常識でしたからこの死亡事故はやむを得ないものだったと思います。」 「戦後戦争犯罪の問題が起こりました。処罰された人もあると聞き、オランダ人捕虜の死亡事故で丹羽さんが責任を問われはしないかと心配したものです。」 「残された二人のうち一人は終戦の3,4年後に来日し、当時の生活を懐かしがって生田に来てくれました。彼はその頃ベル研究所の研究員になっていました。」 「戦争中の話となるととかく暗いものが多いのですが、並木大佐の誠実な態度と3人の捕虜の勤勉な仕事ぶりを通じて、 《人間はどんな時にも誠意をもって人間として正直に生きることが大切だ》 ということをつくづく感じさせられました。」 文中に「アイント・ベン」とありますが、これは「Einthoven」を英語読みしたのでしょう。このように「日本電気ものがたり」からも“子アイントホーフェン”が神奈川県川崎市生田にあった日本電気研究所で働いていたことが確かめられました。 本論とは関係ないですが、 《並木さんという陸軍大佐が捕虜対する軍人という姿勢をまったく見せないばかりか、言葉の端々にも相手に対する敬意と礼節を失わない態度をとった》 《雨の中を歩く3人に誰からともなく傘が提供された》 などの記述から「真っ当な」日本人もいたことがわかります。 さて、日本電気ものがたりを読み終わった頃、小宮まゆみ氏より資料提供の連絡がありました。まさに求めていたモノがそこにありました。長い間、探し求めていた資料そのものでした。ありがたい話です。何事もやってみないと解らないですね。 以下、次回へ続く。 いつかお読みください(再掲)。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ ■関連記事 172:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(1) 2021年日本不整脈心電学会の学会誌である「心電図」に拙稿が掲載 173:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(2) 小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」について 174:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(3) 「日本電気物語」に記された“子アイントホーフェン”のこと 175:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(4) 「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料について 176:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(5) 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」について 177:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(6) 「心電計の発明者アイントホーフェンの長男(子アイントホーフェン)の日本抑留記」 1. ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと 2. “子アイントホーフェン”一家のこと 3. 心電図研究のこと 4. アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと 5. “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと 6. “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 179:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(7) 7. インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 180:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(8) Ineke van der Wal氏からのe-mail 181:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(9) 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 9. “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? 182:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(10) 10. “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと 11. “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) 184:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(11) 12. “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など 185:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(12) 13. “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 14. 終戦そしてオランダに帰国 186:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(13) 15. 論文余話 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, et al. : Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram. Ann Thorac Surg, 1999 ; 67 : 1184-1185 本橋均:絃の影を追って:W. Einthovenの業績,初版.医歯薬出版,東京,1969 小宮まゆみ:敵国人抑留:戦時下の外国民間人,初版.吉川弘文館,東京,2009 ; 173-176 日本電気株式会社編:日本電気ものがたり,初版.日本電気,東京,1980 ; 157 Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 Ineke van der Wal : The Temple with the Chrysanthemums Dutch Prisoners of War in Tokyo, 1st ed. Independently published, USA, 2017 Snellen, HA : Willem Einthoven(1860-1927)Father of electrocardiography : Life and work, ancestors and contemporaries. Springer, Netherlands, 1995 Einthoven Jr, WF : The string Galvanometer in wireless telegraphy. Proceedings, 1923 ; 26 : numbers 7, 8. Einthoven W, Einthoven WF, Willem van der Horst, et al. : Brownsche Bewegingen van een gespannen snaar. Physica, 1925 ; 5 : 358-360 ノーベル賞委員会:Willem Einthoven - Nobel Lecture - Nobel Prize. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1924/einthoven/lecture/(2021年 2月閲覧) 明治大学平和教育登戸研究所資料館:地域から追う登戸研究所. https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50en.pdf(2021年 2月閲覧) オランダ日本インドネシア対話の会:Deportation to Japan : Search for Clarity. https://sites.google.com/site/dlgnji4nl/programmas/conf08/2gre-en(2021年 2月閲覧) 心電図 Vol. 41 No. 1 2021 13 ) 日野原重明:心電計の歩み.検査法の変遷(Clinical Laboratory編集委員会編).診療新社,大阪,1982 ; 295 聖路加国際病院 100年史編集委員会編:聖路加国際病院の 100年.聖路加国際病院,東京,2002 大蔵省印刷局編:官報 1921年 08月 27日.国立国会図書館デジタルコレクション United States Department of the Army : Pamphlet - Dept. of the Army. Tokyo, 1949 ; 579 War Graves Commission Oegstgeest(Oorlogsgravencomit? Oegstgeest) : Comit? Herdenken en Vieren Oegstgeest. https://www.oorlogsgravenoegstgeest.nl/en/resistance-fighters/einthoven-en(2022年 2月閲覧) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2023/10/02 前回の余話5.をお読みいただけましたでしょうか? ミヤマニガウリの葉が実を守る《温室》を作ることを発見 -91歳自然観察ガイドの10年越しの観察が論文に-(京都大学) https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2020-10-15 ため息が出るほど良い話です。この発見をしたのは91歳で山形県立自然博物館の指導員の長岡信幸(中学校の元教員)さんです。長岡さんの発見を「真摯」に受け止めてそれを論文にして一流科学雑誌に投稿(京都大学の先生方の指導があったと思いますが)、投稿論文の第一著者は91歳の長岡さんです。京都大学は「とても素晴らしいことをした」と思います。こういう場合の多くは大学の研究者が第一著者になり、発見者は「謝辞に名前が載る」くらいになるのが普通です。 「銀杏の精子発見の業績」に対して学士院恩賜賞が贈られたときの東京帝国大学教授池野成一郎と中学の教員だった平瀬作五郎との関係を思い出します。池野は「学士院恩賜賞」は「「銀杏の精子を発見」した平瀬作五郎と一緒でないと受賞しないと言ったそうです。良い話です(参考記事:087:日本の銀杏とイギリスの「家族計画」を結ぶ縁(1)~「銀杏」の話(2))。 論文というと思い出すのは菅原道真の試験点数です。 学問の神様というと「菅原道真」です。全国各地に菅原道真を祀る天満宮があります。天神様。天神社とも言われます。菅原道真は学問に秀でていたので「勉強、学問の神様」ということになっています。さて、その菅原道真ですが彼が受けた試験の問題、回答、試験点数が残っています。「方略試」という試験で今なら、国家公務員採用試験でしょう。 菅原道真が受けたテスト、「方略試」の問題文、答案、評価が載っている資料を探している(レファレンス協同データベース) https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000156767 問題は2問、質問は漢文です。 問1.「明氏族」:翻訳:氏族とは何か明らかにしてください。 問2.「弁地震」:翻訳:地震について論じてください。 問1は特に難問です。氏族について迂闊なことを書くと出世に響くかもしれないです。地震について論じるのは今でも困難です。 成績は出題者の都良香(みやこのよしか)により、「文章は彩を成し、文体には観るべき点が有り、筋道はほぼ整っている」ことなどから、「中の上」と判定されていますが、合格者のほとんどが「中の上」なので、それほど悪い成績ではないのでしょう。それはともかく1000年以上前の試験問題、回答、成績が残っているのは凄いですね。「公的記録が無くなっている」とか、「無くした、見つからない、誤って廃棄した」とかいう報道が多い昨今とは隔世の感があります。 本論に入ります。 目次をチェックしていたら知りたかったことが!!! 小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」歴史文化ライブラリー 吉川弘文館(2009年) という本を偶然発見したことを前回お伝えしました。この本には、太平洋戦争開戦当時日本にいた連合国側の民間外国人342名が強制収容されたこと、開戦後日本が占領した地域にいた外国民間人を日本に送り、様々な仕事に従事させたことが記されています。 最初ざっと立ち読みしました。面白そうなことがたくさん書かれていると気づきました。 山梨県北杜市清里の父ポールラッシュさんも抑留 清里高原を開拓した事や日本にアメフトを紹介したなどで有名なポール・ラッシュ(Paul Rusch 1897 - 1979年)さんも開戦と同時に「捕虜」になっています。ラッシュさんは開戦当時、立教大学の教授でした。英米仏蘭出身の民間人は全員、例外なく強制収容されています。戦争初期には米国などに送還されたり、赤十字の手厚い保護を受けたり、食事や収容所もそれなりに配慮されたり、していた様子がわかります。しかし戦争が進むにつれ食事、宿舎、衛生状態などが段々と悪化しています。なお、イタリアやドイツは日本より先に降参、降参後、イタリア人やドイツ人も「捕虜」となっています。 日米交換船が2回、日英交換船が1回 日米間では2回(1942年6月と1943年9月)、日英間では1回(1942年8月)、民間人捕虜の交換が行われています。そんなことは知りませんでした。 日本軍占領地でも同様なこと(民間人の捕虜収容)を行った 日本軍が占領したベトナム、インドネシアなどでもその地にいた連合国側の外国民間人は強制収容されています。なかでも人数が多かったのはインドネシアで、10万人のオランダ人が強制収容されています。戦争当時、アメリカでは日系アメリカ人約11万人が強制収容所に入れられましたが、それと同じくらいの人数のオランダ人がインドネシアで強制収容されています。 そしてパラパラと目次をチェックしていたら!! 「ジャワから連行されたオランダ人」という見出しがあり読み進めたら、私が知りたかった「心電計を発明してノーベル賞を受賞したアイントホーフェン医師と一緒に心電計を改良していた同医師の息子さんが東京でお亡くなりになった事情」が書かれていました。直ちに買い求めて家に帰って熟読しました。 以下、同書より引用します。 173-176頁からの引用です。全文ではありません。青字は筆者が記しています。 この時期になって、もう一グループの外国人が連行されて、東京に抑留された。インドネシアのジャワ島から連行されたオランダ人技術者の一団である。 この抑留オランダ人については、よほど厳重に秘匿されていたらしく、『外事月報』にはまったく記載がない。 このオランダ人は、ジャワ島から連行抑留されたオランダ人電気技術者とその家族だった。W・アイントホーフェン博士は、オランダ領インドシナ、ジャワ島バンドンの無線電信局で働いていた。一九四一年一二月太平洋戦争が勃発し、開戦の二、三ヵ月後、彼らは日本軍に降伏、一九四三年一一月、アイントホーフェンとその同僚は妻子とともに日本に送られることになった。 1945年2月、一行のリーダーだったアイントホーフェンが肺炎のため死亡した。 抑留生活を証言したポーリン・レルス氏は2001年に来日して開発に協力させられていた秘密兵器とは、レーダーシステムだったということが明らかになったという。 1945年2月 アイントホーフェンは肺炎で死亡 と書かれています。前号で紹介した本橋均先生の著書には 「アイントホーフェンは東京大空襲で死亡」 と書かれていましたが、小宮氏の本には 「1945年2月、一行のリーダーだったアイントホーフェンが肺炎のため死亡した」 とあります。アイントホーフェンと東京で一緒に抑留された方の文章が引用されています。一緒に抑留されていた方の証言の方が正しいでしょう。 以下、次回に続く。 最後に: この小宮氏の「敵国人抑留」を読むと同書は広範な資料と当時を知る多くの当事者、関係者からの聞き書きを基に書かれていることがわかります。歴史を誠実に書くことは正にこういうことだと言うことがわかります。同書から著書の知的迫力を感じます。そういう本は少ないです。ぜひ、お読みください。 いつかお読みください(再掲)。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ ■関連記事 172:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(1) 2021年日本不整脈心電学会の学会誌である「心電図」に拙稿が掲載 173:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(2) 小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」について 174:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(3) 「日本電気物語」に記された“子アイントホーフェン”のこと 175:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(4) 「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料について 176:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(5) 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」について 177:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(6) 「心電計の発明者アイントホーフェンの長男(子アイントホーフェン)の日本抑留記」 1. ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと 2. “子アイントホーフェン”一家のこと 3. 心電図研究のこと 4. アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと 5. “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと 6. “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 179:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(7) 7. インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 180:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(8) Ineke van der Wal氏からのe-mail 181:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(9) 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 9. “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? 182:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(10) 10. “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと 11. “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) 184:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(11) 12. “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など 185:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(12) 13. “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 14. 終戦そしてオランダに帰国 186:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(13) 15. 論文余話 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, et al. : Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram. Ann Thorac Surg, 1999 ; 67 : 1184-1185 本橋均:絃の影を追って:W. Einthovenの業績,初版.医歯薬出版,東京,1969 小宮まゆみ:敵国人抑留:戦時下の外国民間人,初版.吉川弘文館,東京,2009 ; 173-176 日本電気株式会社編:日本電気ものがたり,初版.日本電気,東京,1980 ; 157 Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 Ineke van der Wal : The Temple with the Chrysanthemums Dutch Prisoners of War in Tokyo, 1st ed. Independently published, USA, 2017 Snellen, HA : Willem Einthoven(1860-1927)Father of electrocardiography : Life and work, ancestors and contemporaries. Springer, Netherlands, 1995 Einthoven Jr, WF : The string Galvanometer in wireless telegraphy. Proceedings, 1923 ; 26 : numbers 7, 8. Einthoven W, Einthoven WF, Willem van der Horst, et al. : Brownsche Bewegingen van een gespannen snaar. Physica, 1925 ; 5 : 358-360 ノーベル賞委員会:Willem Einthoven - Nobel Lecture - Nobel Prize. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1924/einthoven/lecture/(2021年 2月閲覧) 明治大学平和教育登戸研究所資料館:地域から追う登戸研究所. https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50en.pdf(2021年 2月閲覧) オランダ日本インドネシア対話の会:Deportation to Japan : Search for Clarity. https://sites.google.com/site/dlgnji4nl/programmas/conf08/2gre-en(2021年 2月閲覧) 心電図 Vol. 41 No. 1 2021 13 ) 日野原重明:心電計の歩み.検査法の変遷(Clinical Laboratory編集委員会編).診療新社,大阪,1982 ; 295 聖路加国際病院 100年史編集委員会編:聖路加国際病院の 100年.聖路加国際病院,東京,2002 大蔵省印刷局編:官報 1921年 08月 27日.国立国会図書館デジタルコレクション United States Department of the Army : Pamphlet - Dept. of the Army. Tokyo, 1949 ; 579 War Graves Commission Oegstgeest(Oorlogsgravencomit? Oegstgeest) : Comit? Herdenken en Vieren Oegstgeest. https://www.oorlogsgravenoegstgeest.nl/en/resistance-fighters/einthoven-en(2022年 2月閲覧) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2023/8/14 2021年日本不整脈心電学会の学会誌である「心電図」に拙稿が掲載されました。この論文を書くに至った経緯、途中経過などを何回かにわけてお示しします。論文を書くに至った経緯の詳細など興味を引かないかもしれませんが、何かの役に立つかもしれません。 どなたでも読めます。お時間があるときにお読みください。医学知識は不要です。気楽にお読み頂ければ幸いです。 このサイトからPDFをダウンロードして頂ければ幸いです。 心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察 心電図 2021年 41巻 1号 p.30-39 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/ 世界中どこの医療機関にもある「心電計」を開発し、世界で初めて心電図の記録に成功したのはオランダ人医師アイントホーフェン(1860-1927)です。以前にも世界で最初に発明された心電計で記録されて「心電図」をお示ししました。再掲します。 これがオランダのライデンにある「ブールハーフェ(Boerhaave)博物館」に展示されているアイントホーフェン医師が世界で初めて作成した心電計で記録に成功した心電図です。 ブールハーフェとは ブールハーフェ(Boerhaave)博物館は、日本語のオランダ旅行のガイドブックには載っていませんでした。しかし、今はインターネットがあります。同博物館のホームページを見て、ライデンにあることがわかりました。さらにライデン駅からの行き方の詳細は、アムステルダムにある観光案内所で教えて頂きました。同博物館には、 ヘイケ・カメルリング・オネス Heike Kamerlingh Onnes(1853-1926) 液体ヘリウム製造装置(1908年):この装置で超伝導を発見。ノーベル物理学賞を受賞 アイントホーフェン医師(1860-1927)がノーベル生理学医学賞を受賞するに至った心電計 ノーベル化学賞第1号授賞者のホッフ Jacobus Henricus van't Hoff 1852-1911 の立体異性体(光学異性体) レーウェンフック Antoni van Leeuwenhoek (1632-1723) の顕微鏡 など、オランダが世界に誇る科学業績を紹介しています。オランダを訪れる機会がありましたら、ぜひ、訪問してください。 余談です。当クリニックが五反田から浜松町に移転し、再開業した日の出来事です。 開業当日、大量吐血している患者さんが受診されました。飲酒後に嘔吐、その後、大量吐血したのです。ブールハーフェ(Boerhaave)症候群を疑いました。この症候群は、食道に異常がないのに嘔吐により食道壁全層が破裂・穿孔する怖い病気です。診断が遅れると死亡します。この方はすぐに近隣の専門病院に紹介、即刻、緊急で内視鏡検査が行われ「ブールハーフェ症候群」と診断され、食道の出血部を止血して事なきを得ました。この病気は放置すると極めて危険な病気です。名前からお分かりになると思いますがブールハーフェ医師が発見した病気です。 救急診療をしている病院に勤めていると年に数名、ブールハーフェ症候群を発症した方が来院されます。ほとんどが大量飲酒後に嘔吐してから発症します。ブールハーフェ(Boerhaave)の名前は、医師以外には日本では知られていませんが、オランダではその名前が自然科学博物館に冠されるほど有名な科学者兼医師です。 論文は早く書いた方が良いが資料が無くて執筆まで20年も 話を元に戻します。心電計の発明でノーベル生理学・医学賞を受賞したアイントホーフェン医師ですが、心電計の改良は息子さんと一緒に行っていました。ノーベル賞の受賞講演でも息子さんと一緒に行っていた改良についても触れています。心電計の改良に大きな役割を果たしたアイントホーフェンの息子さんは戦時下の日本で亡くなっています。そのことに関する論文が上記の論文です。この論考を書くのに20年という月日を要しました。 この論文を書こうと思ったのは1999年 元々、「Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram (Ann Thorac Surg. 1999 Apr;67(4):1184-5.).」という論文をアメリカのThe Annals of Thoracic Surgeryという雑誌に投稿、掲載されたのが心電図を学び直す契機でした。 心電図に関する論文はたくさんあり、教科書も毎月の様に出版されます。それほど、心電図は面白く、未だに新発見があります。 心電計の原理は物理学、数学の世界 しかし、アイントホーフェンが考えついた「心電計の原理」、「心電図を記録する原理」に関する教科書はほとんどありません。アイントホーフェンの書いた心電計に関する論文は数式が多く、あたかも物理学、数学の論文のようです。この「原理」について書かれた教科書は、日本では、私の知る限り、一冊しかありません。 それがこの本です。 本橋均著「絃の影を追って:W. Einthoven の業績」, 初版. 医歯薬出版. 東京, 1969 という本です。この本で著者はアイントホーフェンの論文(主にドイツ語)を読み解き、心電計の原理を解き明かしています。名著です。 アイントホーフェン医師の息子さんは東京大空襲でお亡くなりになっていた この本の文中にアイントホーフェン医師と共同研究をしていた同医師の息子さんのことが少しだけ紹介されていました(同書106頁)。 アイントホーフェンの息子は1945年3月の東京大空襲で亡くなったと書かれています。びっくりしました。それから、この東京大空襲で亡くなったアイントホーフェン医師の息子さんに関して少しずつ調べましたが、何もわかりませんでした。それに関する書籍、論考、レポートなどを探しましたが全く解りませんでした。 八重洲ブックセンターにて大発見? 2018年頃、八重洲ブックセンターで、東京で亡くなったアイントホーフェン医師の息子さんのことを記してある本を見つけました。それがこの本です。 小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」歴史文化ライブラリー 吉川弘文館(2009年)です。 この本を発見できたのはエミリオ森口先生との会話が元に どうしてこの本を見つけられたか、お伝えしましょう。元は私どものクリニックの名に冠してあるエミリオ森口先生との会話から、はじまりました。エミリオ先生は現在、ブラジルにあるクリーニカス・デ・ポルト・アレグレ病院 (Hospital de Clínicas de Porto Alegre)で内科教授を勤められています。脂質代謝が専門です。 エミリオ先生は日系ブラジル人で、毎夏、ブラジル奥地に住む年老いた日系ブラジル人の「巡回診療」を長年(エミリオ先生の父、祖父の代から行っているそうです)なさっています。この活動は日本でも知られるようになり、2021年には社会貢献支援財団から「社会貢献者表彰50周年記念表彰」を受けています。 社会貢献者表彰に日系人医師の森口氏ら(産経ニュース) https://www.sankei.com/article/20210726-YCOLX57X4BIPTHSS3O3ILUUNUE/ そのエミリオ先生ですが、年に1-2回日本に来られます。その時にブラジル移民の方々の苦労話など聞いて「南米移民」に興味を持つようになりました。八重洲ブックセンターには「移民」に関する書籍が集まっているコーナーがあり、そこで本を色々見ていたら上記の「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」という題の本を見つけたのです。あれ?もしかしたら本橋先生の本の中にあった「1945年3月の東京大空襲で亡くなったアイントホーフェン医師の息子」に関することが記されていないかと思い、ページをめくっていたらその中に、「ジャワから連行されたオランダ人」という項があり、アイントホーフェンの名前を見いだしたのです。 え?え??というようなことが書かれていて、この本の記述からアイントホーフェン医師の息子の消息が少しずつわかり始めました。 以下、次回続く。 カルテの余話1: 論文というか記録を残すことはとても大切です。医師はカルテを記します。これはとても大切な記録です。日本では法律でカルテの保存義務年限が5年と決まっています。最初に就職した大学病院には昭和初年頃のカルテも保存してありました。当時、マイクロフィルム化していました。今はどうなっているのでしょう。 100年の余話2: メイヨークリニックには100年以上前のカルテがカルテ保存庫に残っているそうです(メイヨークリニックに留学した先輩から伺いました)。カルテをきちんと書かないと後世の医師に笑われるかもしれないです。今は電子カルテが普及してきました。電子媒体での記録はどうなるのか? とても興味深いです。能う限りなんとかして100年、200年単位で記録が残る方法を模索して欲しいです。 辛い余話3: 医学論文、科学論文を書くのは大切ですが、嘘の論文はいけないです。日本人は一般的に「嘘をつかない」と思われています。本当でしょうか? 数年前、大騒ぎになったSTAP細胞事件は世界中の研究者を巻き込みました。結果的に「追試による検証」ができなかったために論文は取り下げになり責任者は悲痛なことになりました。 ちょっと悲しい余話4: あまり紹介したくないのですが「The Retraction Watch Leaderboard」というサイトがあります。論文撤回数ランキングです。論文撤回とは「投稿して掲載されたが、実は間違っていた、実験はしていなかった、、等々の理由で論文を取り下げること」です。そのランキングトップ10名のうち5名は日本人研究者です(参考:The Retraction Watch Leaderboard)。 一番は184本、二番は172本の論文を撤回しています。数が多すぎて、論評する気にもなれません。まわりは気づかなかったのでしょうか? 不思議です。 とても良い余話5: 最後にとても素晴らしい余話を。近年、私の中では一番「凄い!」と思った科学論文に関する報道です。 京都大学からの発表です。2020年10月15日のことです。 ミヤマニガウリの葉が実を守る《温室》を作ることを発見 -91歳自然観察ガイドの10年越しの観察が論文に-(京都大学) https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2020-10-15 酒井章子京都大学生態学研究センター教授、直江将司森林研究・整備機構森林総合研究所主任研究員、長岡信幸氏らの研究グループは「ミヤマニガウリという植物は秋になると葉が花や実を包み実の成長を促すこと」を明らかにしました。 植物において、葉は光合成のための器官であり、開花や結実のための葉は、これまで知られていませんでした。ミヤマニガウリの葉は、葉緑体も少なく、光合成よりもいわば「温室」として実を守ることに特化した葉だといえます。 この現象は、論文の第一著者の長岡氏によって、2008年に発見されたとあります。長岡氏は、山形県の月山山麓にある県立自然植物園で毎年観察を重ね、葉が寒さから実を守っているのでは、と考えました。相談を受けた酒井教授、直江研究員らが、2018年に長岡氏と調査を行い、ミヤマニガウリ葉の役割が明らかとなりました。この葉っぱによる自然の「温室」は厳しい寒さから花や実を守る一方、花粉媒介を行う昆虫の訪花を妨げます。温室の形成が植物の交配にどのような影響を与えているのかは、今後明らかにされるべき興味深い課題です。 本研究成果は、2020年10月7日に、「Proceedings of the Royal Society B(英国王立協会紀要)」のオンライン版に掲載されました。 望月注: Proceedings of the Royal Society Bはインパクトファクター 5.3 の雑誌です。「B」は Biological Sciencesの略称 ちなみに、Proceedings of the Royal Society Aは「Mathematical, Physical and Engineering Sciences」に関する論文が載ります、インパクトファクターは2.7です。 長岡信幸さん山形県立自然博物園で指導員を務める元中学校の教員で91歳です。91歳で筆頭著者として論文を書いてインパクトファクターを得ています。筆頭著者としてインパクトファクターを得た日本人研究者としては最高齢かも知れません。 自分が世界最初の発見者となるような「本当の発見」に巡り会うことは、ほとんど、ありません。長岡信幸さんのように「身近な発見」をきちんと検証して論文にする。凄いことだと思います。 なんとこんなことを書いていたら、私もある発見をしてアメリカの大学の超有名研究者と研究をすることになり、私の発見は無事論文になりました。後日ご紹介します。 次回は「菅原道真の試験点数は? 満点だったか?」などの話題を含めて雑誌「心電図」に載った論文を書くに至った経緯をさらにお示しします。 ■関連記事 172:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(1) 2021年日本不整脈心電学会の学会誌である「心電図」に拙稿が掲載 173:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(2) 小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」について 174:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(3) 「日本電気物語」に記された“子アイントホーフェン”のこと 175:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(4) 「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料について 176:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(5) 「The Temple with the Chrysanthemums: Dutch Prisoners of War in Tokyo」について 177:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(6) 「心電計の発明者アイントホーフェンの長男(子アイントホーフェン)の日本抑留記」 1. ノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”一家のこと 2. “子アイントホーフェン”一家のこと 3. 心電図研究のこと 4. アイントホーフェン父子は心電計で特許をとり、その特許収入でヨットを購入したこと 5. “子アイントホーフェン”が行ったオランダとインドネシアとの無線通信実験のこと 6. “子アイントホーフェン”が日本に連れてこられた経緯 179:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(7) 7. インドネシアから日本への移送、日本到着後の移送 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 180:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(8) Ineke van der Wal氏からのe-mail 181:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(9) 8. “子アイントホーフェン”一行の日本での生活 9. “子アイントホーフェン”が日本で行っていた実験、研究とは? 182:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(10) 10. “子アイントホーフェン”を東京で診察した日本人医師のこと 11. “子アイントホーフェン”の死因(東京大空襲で亡くなったのか?) 184:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(11) 12. “子アイントホーフェン”を診察した池田泰雄先生と日野原重明先生との関係など 185:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(12) 13. “子アイントホーフェン”の葬儀の様子 14. 終戦そしてオランダに帰国 186:医学雑誌「心電図」に論文を投稿した経緯(13) 15. 論文余話 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, et al. : Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram. Ann Thorac Surg, 1999 ; 67 : 1184-1185 本橋均:絃の影を追って:W. Einthovenの業績,初版.医歯薬出版,東京,1969 小宮まゆみ:敵国人抑留:戦時下の外国民間人,初版.吉川弘文館,東京,2009 ; 173-176 日本電気株式会社編:日本電気ものがたり,初版.日本電気,東京,1980 ; 157 Ineke van der Wal : De Tempel met de Chrysanten : Krijgsgevangene in Tokio, 1st ed. Independently published, Holland, 2017 Ineke van der Wal : The Temple with the Chrysanthemums Dutch Prisoners of War in Tokyo, 1st ed. Independently published, USA, 2017 Snellen, HA : Willem Einthoven(1860-1927)Father of electrocardiography : Life and work, ancestors and contemporaries. Springer, Netherlands, 1995 Einthoven Jr, WF : The string Galvanometer in wireless telegraphy. Proceedings, 1923 ; 26 : numbers 7, 8. Einthoven W, Einthoven WF, Willem van der Horst, et al. : Brownsche Bewegingen van een gespannen snaar. Physica, 1925 ; 5 : 358-360 ノーベル賞委員会:Willem Einthoven - Nobel Lecture - Nobel Prize. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1924/einthoven/lecture/(2021年 2月閲覧) 明治大学平和教育登戸研究所資料館:地域から追う登戸研究所. https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50en.pdf(2021年 2月閲覧) オランダ日本インドネシア対話の会:Deportation to Japan : Search for Clarity. https://sites.google.com/site/dlgnji4nl/programmas/conf08/2gre-en(2021年 2月閲覧) 心電図 Vol. 41 No. 1 2021 13 ) 日野原重明:心電計の歩み.検査法の変遷(Clinical Laboratory編集委員会編).診療新社,大阪,1982 ; 295 聖路加国際病院 100年史編集委員会編:聖路加国際病院の 100年.聖路加国際病院,東京,2002 大蔵省印刷局編:官報 1921年 08月 27日.国立国会図書館デジタルコレクション United States Department of the Army : Pamphlet - Dept. of the Army. Tokyo, 1949 ; 579 War Graves Commission Oegstgeest(Oorlogsgravencomit? Oegstgeest) : Comit? Herdenken en Vieren Oegstgeest. https://www.oorlogsgravenoegstgeest.nl/en/resistance-fighters/einthoven-en(2022年 2月閲覧) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2023/05/22 前回、現在使われている人工血管の原型を開発したDeBakey先生のことをお伝えしました。今回はそのDeBakey先生(Michael Ellis DeBakey 1908 – 2008)の紹介です。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 心臓血管外科学を発展させたDeBakey先生ですが、正式名はMichael Ellis DeBakeyです。 DeBakeyを日本語でなんと発音するか、難しいです。日本語文献でDeBakey は「ドゥベーキー」「ドベーキー」「ドベーキ」などと表記されています。本稿では英語表記とします。 DeBakey先生は両親がレバノンから米国に移住した移民です。レバノンはアラビア語が公用語です。 DeBakey一家の元の名前は「دبغي」 です。 このアラビア語表記をDeBakey先生の両親が「Dabaghi」としています。 これをDeBakey先生が英語でも簡単に読める「DeBakey」に変更したと思います。 DeBakey先生は業績が多すぎて簡単には説明できません。本稿で、主な業績、エピソードを紹介します。 医師なら絶対にDeBakeyの名前を知っています。ある病気の分類にDeBakeyの名前が冠されているからです。心臓血管外科を勉強していると、どの教科書、論文にも彼の書いた「教科書や論文」が多数引用されているのに気づきます。この人は「一人」なのかと思ったほどです。 DeBakey先生の業績 1. タバコと肺がんの関係を明らかにした一人です(1936年、28歳の時に書いた論文)。 2. 第二次世界大戦に軍医として参加。戦闘地域でも適切な医療を受けられるようにMobile Army Surgical Hospital(MASH:移動式軍用外科病院)を創設。戦闘地域でも普通の外科手術が受けられる体制を整えます。 35歳-40歳頃の仕事です。朝鮮戦争時には戦闘地域で通常の外科手術が受けられるようになっていました。 ちなみにこの「MASH」の原型は戦闘地域での「歯科病院」です。戦闘中には虫歯が広がりやすく、虫歯があると著しく戦闘意欲が著しく失われることに気づいた米軍が始めたのが軍隊用の「戦地歯科病院」でした。一旦戦闘が始まると、歯磨きもできずどんどん虫歯が進行するから歯の治療は軍隊に必須でした。一方「日本軍兵士(中公新書)」によると日本軍は歯科治療をほとんど行わなかったので、日本軍の兵士はいつも虫歯で苦しんでいたそうです。彼我の差をこんなところでも感じます。 3. 頚動脈狭窄症に対して血栓内膜除去術を世界で初めて行っています。それまでは診断がついても放置されていた疾患です。頚動脈にこびりついた血栓を除去する手術です。放置すると脳梗塞を高率に発症していましたが、この手術術式が確立されたことで、この病気による、脳梗塞は激減しました。 4. 高齢者および障害者向け公的医療保険の必要性をケネディ大統領に進言、後に米国の高齢者や身体障害者向けの医療制度「Medicare」となっています。 5. アメリカ国立医学図書館(United States National Library of Medicine (NLM))の拡充に尽力、NLMは世界で比すべくもない巨大な医学図書館となっています。貴重な医学書のコレクションでも有名です。文献検索システムの「PubMed」を運営していることでも有名です。お世話になっていない医療関係者はいないでしょう。 6. 冠動脈バイパス術の創始者の一人です。 7. 同種血管(屍体から取った血管)を用いて動脈疾患の手術を多数行っています。おそらく世界一の症例数です(前回記事を参照ください)。 8. ダクロン製人工血管を世界で初めて臨床使用。人工血管の臨床使用は世界で2番目でしたが、DeBakey先生の考案した「ダクロン製人工血管」が人工血管のゴールデンスタンダードになり、今でもそれは続いています。 9. この人工血管を用いて様々な大動脈瘤手術を行っています。腹部大動脈瘤、胸部大動脈瘤、胸腹部大動脈瘤、大動脈解離などの手術を行い素晴らしい成績を残しています。今から50年くらい前に、素晴らしい手術成績を残しています。「凄い」としか言いようがありません。 私が行った、全ての大動脈を人工血管に置換した、患者さんの術後CTです。こういう手術もDeBakey先生の考案した人工血管と手術術式が無ければできません。世界中の大動脈疾患の患者さんがその恩恵を受けています。 10. 大動脈疾患の自然歴を明らかにしています。CTが開発されるまで大動脈瘤の診断は容易ではありませんでした。DeBakey先生はCTが普通に使えて診断が容易になるよりもはるか以前に大動脈疾患の自然歴を明らかにしていたのです。そのお蔭でこのタイプの動脈瘤は手術、このタイプの動脈瘤は経過観察しても良いということがわかり、大動脈の治療レベルは飛躍的に上がりました。 11. 大動脈解離(だいどうみゃくかいり)(注:以前は解離性大動脈瘤と言われていた病気)を研究し、大動脈解離を3つの型に分類、今もDeBakey分類として使われています。この分類を知らないと大動脈解離の治療はできません。大動脈疾患治療の基本中の基本ですので、すべての医師はこの分類を覚える必要があり、必然的にDeBakeyの名前を覚えます。大動脈解離は「型」により治療方針が違います。Ⅰ型、Ⅱ型は緊急手術の必要があります、できるだけ早期に手術をしないと助かりません。DeBakey先生は、大動脈解離に対する基本術式を確立しています。 後年、DeBakey先生自身、DeBakeyⅠ型の大動脈解離を発症しています。 大動脈解離の手術症例を示しましょう。 Ⅰ型の大動脈解離症例です。夜6時に搬送されてきました。手術が終わったのは翌日の午後7時でした。上行大動脈から弓部大動脈全置換を行っています。特殊な血管の病気で血管が薄くもろくて、出血のコントロールに難渋したのです。 12. DeBakey先生が直接指導した外科医は約700人。孫弟子を入れると数千人になるとも言われています。日本人外科医も多数指導を受けています。 13. 生涯の手術件数が6万人を越えています。 14. 90歳まできちんとした手術(良い手術成績を残しています)をしていました。 15. 1996年、88歳の時モスクワに赴きエリツィンロシア大統領の冠動脈バイパス術を行っています。もっとも実際に執刀したのはロシア人外科医です。その外科医と共に日本では“手術” と称されるオペ「operation(作戦)」を一緒に行ったのですね。 16. 世界初の人工心臓を開発、臨床使用への道を開きました。 17. 日本人とも大いに関係があります。DeBakeyの人工心臓の研究には阿久津哲造(1922-2007)、能勢之彦(1932-2011)の両先生が大きな貢献をしています。 18. 米国内で3流大学とみなされていたベイラー医科大学を全米屈指の一流大学にしました。 19. 現在の心臓血管外科は、彼の業績なくして成り立ちません。 20. 98歳まで手術室で指導をしていました。少なくとも90歳で人工弁置換術を行っています。実際にDeBakey先生が90歳の時に手術をしているのを見た先生から話を伺ったことがあります。 21. 世界最大のメディカルセンターであるテキサスメディカルセンターを作り上げています。テキサスメディカルセンターは全米12位のbusiness district(オフィス街)です。49の施設と140の建物が集中しています。DeBakey先生が、この地で医業を始める前に何も無かった土地です。なお、DeBakey先生唯一の「後悔」はこのテキサスメディカルセンター周囲に、人工血管、人工弁、医療器具、人工心臓など彼の考案したさまざまな医療機器を作る会社を誘致しなかったことです。誘致していれば、今の10倍の規模のbusiness districtを作れたと、90歳の時に嘆いていたそうです。 22. 自分が研究し、手術方法を確立した「手術をしないと助からないと彼が分類したタイプの大動脈解離」を97歳の時に発症(2006年)、この年齢でこの病気に対する手術は行われないのが普通で、彼も当初は拒否していましたが、説得されて手術を受けて助かっています。彼の優秀なお弟子さんが手術をしたのですね。大手術を受けて回復した後、「優秀な外科医を育てて良かった。自分の育てた弟子に手術をしてもらって良かった」と書き記しています。言われた外科医も嬉しかったでしょうね。 23. 上記手術を受けて回復した後、アメリカ合衆国議会が国内外の文民に授与する最高位の賞である議会名誉黄金勲章(Congressional Gold Medal)をワシントンのアメリカ議会で授与されています。つまり前年の手術から回復したのですね。 どれ1つとっても「一生モノ」の仕事です。DeBakey先生は多くの手術を毎日のようにこなしつつ、論文を書き、研究をして、ビジネスとして医療オフィス街を作り、弟子を育て、アメリカのVIPのみならず世界中のVIPの主治医を務め、世界中の学会から招待を受けて講演しています。90歳を過ぎても手術を行っていたのです。「人間業」ではないと思います。どうして色々なことを一流のレベルで平行して行えるのか不思議です。 若い時から勤勉で、朝は5時に起き、7時まで勉強、研究、論文を書いた後に、ポルシェで病院まで行き仕事をして6時には家に帰り、夕食後は11時頃まで書斎にこもって仕事をしていたとあります。亡くなる直前まで、そういう生活を続けていたそうです。もちろん、DeBakey先生自身の勤勉さが上述の偉業を成し遂げた原点だとは思います。しかし、お弟子さんの書き残した追悼文を読むと「信頼すると任せて仕事をさせてくれた」とあります。同時に「DeBakey先生から命じられた仕事はいつも期限付きで、期限内に成果が上がらない時は厳しかった」とあります。自分にも他人にも厳しく、任せるところは任せて「医業の本道」を生涯全うした結果が上述のような業績になったのでしょう。なおDeBakeyが生きた時代も良かったのだと思います。 彼が生きた時代には 人工血管の良い材料が発明された 人工心臓の材料となる良い素材が開発された 人工弁の材料なる良い素材が開発された 手術に使う糸や針、手術器具が大幅に改良された DeBakey先生が考案し、彼の名前のついた器具が沢山あります。私も普通によく使っていました。一番よく使ったのがDeBakey鑷子(せっし、ピンセット)です。実に使いやすく持ちやすく、しかも臓器を損傷しない、そういう理想的な鑷子です。 抗生物質が普通に使えるようになった このように、DeBakey先生が生きた時代には、さまざまな素材が開発され、手術に供されるようになったのです。そういう時機にDeBakey先生がいたのは、人類にとって幸せでした。受賞はしませんでしたがノーベル賞の候補にもなっています。その先生も年には勝てず、100歳になる8週間前、99歳でお亡くなりになっています。 DeBakey先生のお墓です。質素ですね。 それにしても素晴らしい仕事を次々と成し遂げています。80歳を越えても次から次に色々なことを始めています。新しい人工心臓製造会社も、80歳を過ぎてから興しています。超人です。真に偉大な生涯でした。 DeBakey先生は偉大すぎて、大部の本でないとその生涯は描けないでしょう。 戯れ言です。日本では以下のような文言の方が「受けます」。DeBakey先生の生涯とは真逆です。。 足利にある「香雲堂本店」という、「最中(もなか)」がとても美味しいことで有名な和菓子屋さんの包装紙です。文章の中にある仕掛けがあります。 私が面白いと思った逸話を紹介したいと思います。 逸話1: 両親はレバノンからアメリカ合衆国ルイジアナ州に来たレバノン移民です。父が薬局を経営し、母は裁縫師でした。後年、DeBakey先生の手術が上手かったのは、母親に習った裁縫技術が役に立っています。いつか紹介したカレル先生もフランスのリヨンの裁縫師に縫い方を習っています。外科医の技術のほとんどは「切る」ことではなくきれいに「縫う」ことです。そういう意味で幸せな一歩を年若い時から身につけていたのでしょう。父親は勉強家で家に本があふれていて、DeBakey先生の身近に学問があったのですね。 逸話2: なぜルイジアナ州だったのでしょう。アメリカ合衆国ルイジアナ州は最南部です。実はこのルイジアナ州には「Cajun country」と呼ばれる地域があります。この地域はフランス出身者が多いのです。レバノンはフランスの植民地だったことがあり、フランス語が公用語の1つです。DeBakey先生の両親もフランス語の読み書きが普通にできたのでこの地域を移民先に選んだのでしょう。日産自動車のカルロス・ゴーン会長はレバノン人、彼はフランスで高等教育を受けています。レバノン人ですからフランス語が普通にできたのですね。 逸話3: 彼にはSelma DeBakey, and Lois DeBakeyという二人の妹がいて、二人ともベイラー医科大学のScientific communication学の教授でした。Scientific communication学とは、「文法的に正しく、しかもわかりやすい英語を用いて文章を書く方法」を教える学問です。このDeBakey先生の妹さん、二人がアメリカでこのような学問を興したと言っても過言ではないくらい有名でした。つまり彼の膨大な著作の影には二人の優秀な妹さんがいたのですね。 DeBakey先生の論文は理路整然としていて、実にわかりやすいのです。凝った表現もなく、わかりやすいので「抄読会」で彼の論文が当たると嬉しかったのを思い出します。他の先生の英語は妙に凝っていたり、辞書に載っていない表現を使ったりしているのですが、DeBakey先生の論文は理路整然としていて読みやすい英語でした。伝えたい内容がDeBakey先生の中にあり、それを上手に表現してくれる妹さんが二人もいたのも、彼の業績が世界的になった1つの大きな要因だと思います。 逸話4: 彼のお弟子さんには優秀な方が多く、なかでも有名なのは次の4名です。破門された方も含まれています。 心臓外科全般:Denton Arthur Cooley先生(1920-2016) 大動脈外科:Ernest Stanley Crawford先生 (1922-1992) 人工心臓、心臓移植:George P. Noon先生 外傷学:Kenneth Mattox 先生(1938-) それぞれの分野で世界のトップです(した)。その上にいて、指導しているのがDeBakey先生です。 この4名の中で、一人、De Bakey先生から破門された先生がいます。Cooley先生(Denton Arthur Cooley )です。 Cooley先生は1960年までDeBakey先生の元で働いていましたが、独立して「Baylor St. Luke's Medical Center」で手術を行い始めます。1962年には自分で基金を募り、The Texas Heart Institute(テキサス心臓研究所)を設立、Baylor St. Luke's Medical Centerを自分の病院として活躍し始めます。DeBakey先生の働くベイラー医科大学メソジスト病院とは通りを隔てたすぐ隣に病院を作ったCooley先生は、それでもベイラー医科大学の教授として教育を行っています。 そんなDeBakey先生とCooley先生の間に大きな溝ができます。1969年4月4日のことです。この日、DeBakey先生はワシントンに出張中で自分の病院にいませんでした。DeBakey先生が不在の日に、Cooley先生は、自分の病院で「世界初の人工心臓移植術」を行ったのです。患者さんの名前は「Mr.Haskell Karp」47歳男性でした。この方は心筋梗塞で心不全を生じ、Cooley先生曰く「やむなく人工心臓を使ったが、それは心臓移植までのつなぎとして使った」そうです。ほどなくして心臓のドナーが現れ、人工心臓を取り外し、心臓移植を行いましたが、残念なことに拒絶反応が生じてこの患者さんはお亡くなりになっています。 出張先で「世界初の人工心臓使用」を聞いたDeBakeyは激怒しました。なぜなら、ベイラー医科大学での人工心臓の主任研究者はDeBakey先生だったからです。DeBakey先生のあずかり知らないところで「人工心臓」が使われたのです。 Cooley先生は「自分達の使った人工心臓はアルゼンチン人外科医のリオッタ先生と共同開発した、DeBakey先生の作っている人工心臓とは違う新しい人工心臓だ」と反論しました。リオッタ先生はDeBakey先生の下で人工心臓開発をしていたのです。それを突かれたリオッタ先生は「休日に自宅ガレージでクーリー先生と共に人工心臓を作っていた」と抗弁しました。 しかし、クーリー先生が“作った”人工心臓はDeBakey先生が作り上げた人工心臓と瓜二つでした。 というわけで、米国外科学会でも問題となり、クーリー先生は「譴責処分」を受けます。そう言うわけで、DeBakey先生から、クーリー先生は破門(ベイラー医科大学の教授職を取り上げられた)されたのです。その後も、このお二人は通りを隔てた病院で手術を多数行い、二人とも驚異的な手術成績を残します。 逸話5: 私はDeBakey先生に、直接習ったことはありませんし、話をしたこともありません。遠くから仰ぎ見る外科医でした。そのDeBakey先生とエレベーターで二人きりになったことがあります。1998年の胸部外科学会に招請されて来日された時のことです。すでに先生は90歳でしたが、1時間の講演をなさっていました。至ってお元気でした。その学会場での出来事です、偶然、エレベーターに乗っていたらDeBakey先生がそのエレベーターに乗ってきました。短時間ですがエレベーター内で、二人きりになりました。ちょっとドキドキしました。今,思うと何か気の利いたことを述べて、学会誌にサインでも頂いておけば良かったと後悔しています。 逸話6: クーリー先生はDeBakeyと対立しましたが、DeBakey先生に勝ると劣らない業績を上げています。 「Texas heart instituge journal 」 最後にDeBakey先生の口癖を紹介しましょう。 「You can never learn enough!」 【参考文献】 DeBakey ME (1991). “The National Library of Medicine. Evolution of a premier information center”. JAMA 266 (9): 1252–8. 能勢之彦, 人工臓器の歴史を語る 世界の巨人たち第二話 : アメリカ人工心臓計画の礎を築いたマイケル・ドベイキー先生 人工臓器 40 (3), 240-248, 2011-12-15 O. H. Frazier, 「Michael E. DeBakey, 1908 to 2008」 J Thorac Cardiovasc Surg . 2008 Oct;136(4):809-11 M E DEBAKEY,「ANEURYSM OF ABDOMINAL AORTA ANALYSIS OF RESULTS OF GRAFT REPLACEMENT THERAPY ONE TO ELEVEN YEARS AFTER OPERATION」Ann Surg. 1964 Oct;160(4):622-39. 川田志明 耳寄りな心臓の話(第13話)『巨星、墜つ!心臓血管外科の厳父』マイケル・ドベイキー(1908-2008) https://www.jhf.or.jp/publish/bunko/13.html Left common carotid artery cannulation for type A aortic dissections. Mochizuki Y, Iida H, Mori H, Yamada Y, Miyoshi S. Tex Heart Inst J. 2003;30(2):128-9. Novel single-stage operation and inflow source: for thoracic aortic aneurysm and limb ischemia. Kawajiri H, Mochizuki Y, Kashima I. Tex Heart Inst J. 2011;38(5):547-8. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2023/4/24 以前、「ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない」というコラムで、血管手術を創始したイギリス人外科医ジョン・ハンター医師の事を紹介しました。当時の血管手術は悪くなった血管を切除する手術で、適応は限られていました。 その後、フランス人医師のカレルが血管手術の基本手術手技を確立、ノーベル賞を受賞しています。しかし、血管手術はなかなか広まりませんでした。良い人工血管がなかったからです。 今回、現在、普通に使われている人工血管の開発史を紹介しようと思います。 ■関連記事 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 人工血管をご存じですか 皆さんは人工血管をご存じでしょうか?血管の手術で使われる医療材料です。その人工血管ですが、実は皆さんの身近にある素材からできています。衣服、布団、登山用品、登山靴などに普通に使われている材料です。以下のような素材です。名前を聞いたことがある方も多いと思います。 テフロン®(ポリテトラフルオロエチレン :polytetrafluoroethylene, 略称 PTFE) ゴアテックス®(延伸テフロン:Expanded polytetrafluoroethylene, 略称 ePTFE) ダクロン®(ポリエチレンテレフタレート: polyethylene terephthalate, 略称 PET) 人工血管をいくつか、お目にかけましょう。 写真1:人工血管各種 写真2:腹部大動脈~両足の動脈用の人工血管 ダクロン®製 写真3:太い大動脈用の人工血管ダクロン®製 人工血管の「直径」がわかるように500円玉(直径26.5mm)を置いてみました。 写真4:ダクロン®製人工血管の内外ある襞(ひだ) 人工血管に「襞(ひだ)」があるのがお変わりになるでしょうか? 写真5:テフロン®製人工血管 これは直径が10mmの人工血管です。襞(ひだ)がありません。 イギリス人外科医、ジョン・ハンターが「まともな血管手術」を創始し、その流れが日本にも伝わるという話を紹介させていただきました。 しかしその後、血管手術はあまり進展しませんでした。痛んだ血管を切除する手術しかできなかったからです。血管(動脈でも静脈でも)を切除すると血流が障害され、臓器障害が生じるので血管切除術が成功するのは一部の血管に限られていました。 以前紹介させていただいた、アレキシス・カレル医師(血管吻合法や臓器移植の業績に対して1912年ノーベル賞を受賞)は、屍体からの血管保存を始めます(文献1)。事故や血管疾患以外の病気でお亡くなりになった方から血管を採取して、保存し、血管の病気の方に使うという方法です。この流れは今でも続き、日本でも屍体から提供していただいた弁膜や血管を保存し、特殊な疾患の治療に使われています(注:同種心臓弁・血管組織移植といいます:英語 homograft)。 屍体から提供を受けた血管を大量に保存していたのがアメリカのテキサス州ヒューストンにあるベイラー医科大学の外科医、DeBakey(ドゥ ベイキー:1908-2008)でした。 DeBakeyとは少し変わった名前です。両親がレバノン出身の移民です。レバノンはアラビア語が公用語で元の表記は دبغي です。アラビア語表記をDeBakey先生の親は「Dabaghi」にして、最後にDeBakeyに変更したのですね( دبغي →Dabaghi→DeBakey)。DeBakey医師のことは、後日、別途紹介します。 人工血管時代の幕開け 話を血管保存に戻します。 1940年代後半、DeBakey先生のグループは世界一の屍体から採取した「血管銀行」を作っていました。テキサス州ヒューストンは大都会(注:人口全米第4位)ですから事故も多く、屍体から採取した血管を大量に貯蔵していました。その採取した血管を使った手術が数多く行われ成績も良好でした。それゆえにDeBakey先生の元には血管疾患を抱えた患者さんが押し寄せ、痛んだ血管を「保存した血管」に交換する手術をうけたのです。多くの手術が行われ、血管銀行で保存していた血管も底を突いてしまいます。手術に使用する血管が足りなくなったのです。 屍体から採取する同種血管には供給に限りがあります。そこで、だれでも考えつくのが「人工血管」です。しかし、人工血管の素材を見つけるのは難しく、なかなか上手くいきませんでした。そんななか、1952年のことです。ニューヨークにあるコロンビア大学の外科医ヴォーヒー(Arthur B. Voorhees Jr:1921-1992)と、ブレイクモア(Arthur Hendley Blakemore:1897-1970)が 「ビニロン“N"で作った人工血管」 を用いて動物実験を手術を行い、良好な成績をおさめました。1954年には、その「ビニロン“N"で使った人工血管」を人体に用いて手術を行いました。死亡率は極めて高い手術でしたが、長期生存例も得られています(18人中10人は長期生存、8人は術中or術後早期に死亡:文献2, 3)。これが世界で最初に行われた人工血管を用いた手術の「成功」例です。人工血管時代の幕開けです。 この成功を見て世界中で「人工血管」の研究が盛んになり、「今月のヒット人工血管」とでも言うほど多くの人工血管が作られ、試されました。ヴォーヒー、ブレイクモア医師が用いたビニロンは、結果的には人工血管には適していませんでした。高価で加工も難しかったからです。 なお、ブレイクモア医師は「セングスターケン・ブレイクモア・チューブ(Sengstaken-Blakemore tube)」に名を残しています。医師なら誰でも知っているこのチューブは食道静脈瘤破裂を予防するためのチューブです。今でも普通に使われています。 人工血管の元になる2つの大きな「進歩」 1950年代半ば、現在も使われている人工血管の元になる2つの大きな「進歩」がありました。どちらも偉大な発見ですが、どちらも「偶然」から得られています。その2つの発見を元にした人工血管が1950年後半にできて以来、ほぼその頃から現在まで人工血管の素材、形状は変わっていません。 この2つの偉大な発見をご紹介しましょう。 一つ目の進歩は前述のDeBakey先生の業績です。DeBakey先生に訪れたセレンディティ(偶然)から産まれた進歩です。DeBakey先生の患者さんに偶然「ボビーソックス」という靴下を作って財を成した実業家のアーサー・ハニッシュ(Arthur Hanisch)という方がいて、この方がDeBakey先生の人工血管製造の手助けをしてくれたのです。 ハニッシュさんは繊維業で財を成し、Stuart Pharmaceutical Companyという製薬会社も経営していました(後にアストラゼネカ社に吸収合併されています)。つまり医療に関心があり、医療知識も豊富でした。ハニッシュさんはDeBakey先生にフィラデルフィア繊維工芸大学(Philadelphia College of Chemistry and Textiles.)のエドマン教授(Thomas Edman)を紹介します。紹介しただけでなく、研究資金援助も行いました。その資金を使ってエドマン教授は、様々な素材を試し、縫い目の無い織り方ができる機械も作っています。 最終的に得られた結論は、人工血管を織る「繊維」は 縫いやすく ほつれが少なく 加工しやすい という特徴を持つポリエステル繊維(ポリエチレンテレフタレート:PET)を使った人工血管です。あのペットボトルのPETです。PETを使って人工血管を作るのが良いという結論でした。 そしてデュポン社のポリエステル繊維「ダクロン®」を用いて織った人工血管製造を提言しました。 人工血管創世記にはDeBakey先生の奥さんが人工血管を作っていました。彼女は裁縫上手だったのです。こういう事も偶然のひとつでしょう。DeBakey先生の手術室の横で、奥さんがデパートで買ってきたダクロン®布をミシンでDeBakey先生の要求する形状、太さの「人工血管」をミシンで作っていたのです。それを消毒して手術に用いていました。ダクロン®製の人工血管は直ちに製品化され今も普通に使われています。つまり「ダクロン®が人工血管製造に適していることの発見」が1番目の大発見です。 DeBakey先生が偶然、 繊維業に詳しく、繊維化学の専門家に知り合いがいる 人工血管開発のための資金を提供してくれる 医薬品開発に関心のある という三拍子揃った患者さんに巡り会わなければ、この発見は随分と遅れたことと思います。 もちろん、裁縫上手な奥さんがいたこともこの発見には必要でした。 人工血管には「襞(ひだ)」がある もう一つの大発見も、またかと思われるかも知れませんが、セレンディティ(偶然)から産まれました。太い血管に使われる人工血管には「襞(ひだ)」がついています。この襞は人工血管には必須です。曲がるストローに似ていますね。 写真6:人工血管の襞 人工血管にこの襞が付いていることで2つの利点が見つかったのです。 折れにくい(曲がりストローと一緒ですね) 人工血管の内側に血管内皮が自然に覆うようになる この2点です。 今では、写真1-4でお示ししたように人工血管に襞があるのが普通です。 写真6の襞付きストローは1937年Joseph B. Friedman(1900-1982)というアメリカの発明家が考えたモノです。“bendable straw" or "bendy straw" “flexible straw"と呼ばれています。こちらの方が人工血管より先に発明され、世の中に出ていたのでこの曲がるストローから人工血管の襞も思いついたと考えるのが普通でしょう。しかし、違います。この襞は偶然の産物です。 前述のヴォーヒー、ブレイクモア医師のビニロンによる人工血管の発表を聞いて、自分も人工血管を作ろうと思い立ったのが、アラバマの外科医のスターリング・エドワード医師(Sterling Edwards:1920-2004)です。彼はChemstrand Corporationの技術者ジェームス・タップ(James Tapp)とともにナイロンを用いた人工血管を作ろうとしていましたが、なかなか上手くいきませんでした。 良い人工血管の条件には、 折れると血流が途絶するので折れ曲がりにくいけれど、適度に曲がること 人工血管の内側に自然な血管内皮ができること の2点が必要です。 そんな条件にあった都合の良い形状の人工血管はなかなか見つかりませんでした。実験を繰り返していたある日、タップさんは少し間違いを犯します。ナイロン製人工血管を、ホルマリン処理を施すためにガラスの管に通しておいたのですが、それを押し出す時、人工血管に襞ができてしまったのです。そうです、写真6の曲がるストローの様な形状の人工血管ができたのです。適度にまがり、折れ曲がって血流が途絶することも無さそうです。しかし、襞があると人工血管の中に血栓ができやすそうですね。普通に考えたら、人工血管の内側は滑らかなほうが良さそうです。しかし、エドワード先生はこのタップさんが“作った"襞のある直径6mmのナイロン製の人工血管をイヌの動脈に移植して実験を行いました。驚いたことに、移植後数日で、襞の部分に血栓ができてその上にきれいな血管内皮ができて内腔がなめらかになったのです。 1954年、この襞付きのナイロン製人工血管を臨床使用して成功しました。足の付け根にある動脈を「襞付き人工血管」に置換したのです。足を曲げても人工血管は折れ曲がらず、血流も良かったのです。 今に至る「人工血管に襞をつけると人工血管内に血管内皮ができやすくなる」という偉大な発見です。当初、エドワード先生、タップさんの考えた人工血管はナイロン製でしたが、ナイロンでは加工が難しく上手くいきませんでした。しかし、テフロン® (デュポン社の商標:正式名はポリテトラフルオロエチレンPolytetrafluoroethylene)を用いて成功します。 DeBakey先生のダクロン®製の人工血管にも「襞」がつくようになり、ほぼ今使っている人工血管と同じモノができたのです。ダクロン®は、繰り返しますが、ポリエチレンテレフタレート、つまりペットボトルのPETと同じです。今使われているテフロン®はテフロンゴアテック社のePTFE(expanded PolyTetraFluoroEthylene)です。ジャケットや靴の素材として有名ですね。いわゆる「ゴアテックス®」です(写真5)。多少は、人工血管を身近に感じられるかと思います。 様々な改良がなされ使いやすくなっている人工血管ですが、その元は1950年代の発見によるというお話でした。 次回は、99歳まで元気で生きて、お亡くなりになる数ヵ月前まで最新型のポルシェを運転し、97歳まで手術をしていた外科医の紹介をしましょう。DeBakey先生のことです。彼なくして人工血管の普及は無く、大血管手術の発展もありませんでした。20世紀最高の外科医です。 【参考文献】 Carrel A. VIII. On the Experimental Surgery of the Thoracic Aorta and Heart. Ann Surg. 1910 Jul;52(1):83?95. 同種血管の論文 ノーベル賞受賞者カレルが書いています。 VOORHEES AB Jr, JARETZKI A 3rd, BLAKEMORE AH. The use of tubes constructed from vinyon "N" cloth in bridging arterial defects. Ann Surg. 1952 Mar;135(3):332-6. Arthur H. Blakemore and Arthur B. Voorhees, Jr :The Use of Tubes Constructed from Vinyon “N" Cloth in Bridging Arterial Defects?Experimental and Clinical :Ann Surg. 1954 Sep; 140(3): 324?333. 世界初の人工血管の臨床使用 DEBAKEY ME, COOLEY DA, CRAWFORD ES, MORRIS GC., Jr :Aneurysms of the thoracic aorta; analysis of 179 patients treated by resection. J Thorac Surg. 1958 Sep;36(3):393?420. DEBAKEY ME, CRAWFORD ES, COOLEY DA, MORRIS GC Jr, ROYSTER TS, ABBOTT WP. ANEURYSM OF ABDOMINAL AORTA ANALYSIS OF RESULTS OF GRAFT REPLACEMENT THERAPY ONE TO ELEVEN YEARS AFTER OPERATION. Ann Surg. 1964 Oct;160:622-39. Edwards WS, Tapp JS. Chemically treated nylon tubes as arterial grafts. Surgery 1955;38:61-76. Edwards WS, Tapp JS. Peripheral artery replacement with chemically treated nylon tubes. Surg Gynecol Obstet 1956;102:443-9. EDWARDS WS, TAPP JS.Surgery. A flexible aortic bifurcation graft of chemically treated nylon. 1957 May;41(5):723-8. JULIAN OC, SU HH, EL ISSA S, LIMA A, LOPEZ-BELIO M. Comparison of flat and crimped dacron taffeta arterial prostheses otherwise identical. Surg Forum. 1958;9:316-9. Edwards WS. Arterial grafts. Arch Surg 1978;113:1225-33. ■関連記事 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2023/02/20 糖尿病治療薬や高脂血症治療薬はある種の感染症に効果がある 現時点(2023-02-07)で、COVID-19の第8波は、新たな感染者が減り、落ち着きつつあるようです。人類は「細菌、ビールス、寄生虫、真菌、プリオン、マイコプラズマ、リケッチア、クラミジア」などが原因となる「感染症」に苦しめられてきました。これからも苦しめられるでしょう。いくつかの感染症には特効薬や著効するワクチンが作られています。しかしほとんどの感染症はいまだに、制御不能です。 感染症治療薬というと、 細菌に対するペニシリン、セフェム系抗生物質、サルファ剤、キノロン契約剤 など多数 結核に対するストレプトマイシン、カナマイシン、リファンピシン、イソニアジド など 抗ウイルス薬:バラシクロビル、タミフル、イナビル など 抗寄生虫薬:イベルメクチン など が挙げられます。病原微生物の数に比して微々たる数しかありません。 世界中でCOVID-19治療薬が開発されていますが、インフルエンザにおけるタミフルのような特効薬は見つかっていません。もっとも日本はタミフルを使いすぎています。全世界のタミフル全使用量のうち、なんと、その75%が日本で使われています。安易に使われ過ぎていると思います。 全世界75%のタミフルを消費する日本人、インフルエンザになる前に知っておくべき薬の話(ITmedia ビジネスオンライン) 日本ではインフルエンザの診断をするのに、イムノクロマト法という特殊な方法を用いた迅速検査キットを普通に使っています(コロナの抗原検査も測定原理は一緒です)。 咽頭粘液を綿棒で採取して検査をします。採取した咽頭粘液を特殊な液に浸し、浸した液をこの検査キットに垂らします。 ある患者さんの検査を示します。この方は、この検査ではA型及びB型のインフルエンザウイルスに同時に感染している事を示します(同時感染は珍しいです)。 C:controlです。ここにスジがでれば検査はきちんと行われていることになります。 B:Bにスジが出ればインフルエンザB型に感染していることを示します。 A:Aにスジが出ればインフルエンザA型に感染していることを示します。 日本では上記の様な検査でインフルエンザ感染が診断されるとタミフルなどの抗インフルエンザ薬が投与されます。実は、この過程は世界でも極めて稀なのです。 ほとんどの国で、高齢者や感染し易い病気に罹っている方は別にして、このようなインフルエンザ検査は行いません。インフルエンザは感冒(風邪)の一種です。「流行性感冒」です。通常、寝ていれば数日で治ります。タミフルなどの抗インフルエンザ薬は解熱するまでの日数を1日早めるだけです。この辺り、議論があるかと思います。 話は変わります。これまで三大感染症と言えば、 1. 結核:150万 2. エイズ:120万人 3. マラリア:44万人 の3つでした。数字は2015年のWHO統計による死者数(世界全体)を示します。 “米ジョンズ・ホプキンズ大の集計によると、新型コロナウイルス感染症による死者が5日、世界全体で70万人を超えた。感染が報告されてから7ヵ月余りで、三大感染症で2番目に死者が多いエイズの昨年の死者数69万人を上回った(2020年08月05日)” と報道されました。この時点で、新型コロナウイルス感染症による死者はエイズ、マラリアを上回っていましたが、最近は死者数が減少しています。また武漢株のような死亡率が高いコロナウイルスが出現すれば、新型コロナウイルス感染症も加えて四大感染症と称されるようになるかもしれません。 結核による死者数は依然として高いままです。結核にはワクチン(BCG)があり、治療薬もたくさんあります。イソニアジド、リファンピシン、ピラジナミド、エタンブトール、ストレプトマイシンなどです。感染者は近年減少していますが、死者数は多いままです。結核は薬だけでなく、社会環境の整備(栄養、上下水道etc. etc.)が必要であることを示していると言っても過言ではないと思います。 「結核菌に感染しても95%は発症しない。結核菌は肺の中で共存している」という説があります。結核蔓延国にはそういう「発症していないけれど結核菌を持っている人」が結構いるのです。発症していないと、結核は診断がつきません。一昔前まで、結核の診断はツベルクリン反応、レントゲン写真、喀痰培養などが用いられました。現在はIGRA(抗原特異的インターフェロン-γ遊離検査 :IGRA:Interferon-Gamma release assay)という検査で鋭敏な結核診断がなされるようになりました。IGRAで陽性だと体内に結核菌がいるか過去に結核に罹患したことを示します。 「日本におけるIGRA(インターフェロンγ遊離試験)の 年代別陽性率に関する検討(Kekkaku Vol. 92, No. 3 : 365_370, 2017)」によると、 20代:2.9 30代:4.7 40代:3.2 50代:3.6 60代:7.1 70代:18.8 80代:26.3 です。高齢者で高いですね。IGRA陽性=結核に罹っていることを示している訳ではありません。 IGRA陽性なら 1. 結核に罹患したことがあるか 2. 結核に罹患しているか 3. 結核菌が休眠状態で体内にいるか のどれかを示します。結核に罹っても発症せず、休眠状態のことも多いのです。なぜ休眠するか?それも良くわかっていません。 最近とても興味深い研究報告があります。皆さんは、 糖尿病治療薬のメトホルミン 高脂血症治療薬のスタチン が結核に効くと思いますか?「効きます」と言われてもにわかには信じがたいでしょう。私もそうでした。 メトホルミンによる結核に対する臨床評価論文の一つを紹介します。 Nicholas R Degner, et al. 「Metformin Use Reverses the Increased Mortality Associated With Diabetes Mellitus During Tuberculosis Treatment:Clinical Infectious Diseases, Volume 66, Issue 2, 6 January 2018, Pages 198–205」 この論文には「糖尿病を合併していると結核の死亡率は約2倍になるが、メトホルミンを服用していると死亡率は高くならない」とあります。なぜメトホルミンという糖尿病治療薬が結核に効くのでしょう? 様々な説があります。メトホルミンによる結核に対する効果に関して様々な論文が出ています。100数編の論文が出版されています(2022-12-17時点)。 メトホルミンには寿命を伸ばすアンチエイジング作用があるとの研究も多数あります。 「メトホルミン」が寿命を延ばす アンチエイジング効果を確かめる試験(糖尿病ネットワーク) 「メトホルミンで糖尿病治療をしていた群ではCOVID-19死亡率が低かった」という論文もあります。 Metformin Use Is Associated With Reduced Mortality in a Diverse Population With COVID-19 and Diabetes メトホルミンは「子宮体癌」にも効くかもしれないとのことで治験が始まっています。 Gynecol Oncol . 2017 Oct;147(1):167-180. 2022/06/30「国立がん研究センター中央病院脳脊髄腫瘍科の成田善孝氏らのグループは2022年6月、悪性脳腫瘍である膠芽腫に対して、標準治療に糖尿病治療薬メトホルミンを併用した場合の安全性と有効性を評価する第2相試験を開始した。」との報道もあります。メトホルミンは万能薬でしょうか? メトホルミンは脳腫瘍の治療にも有用?(国立研究開発法人日本医療研究開発機構) 高脂血症治療薬のスタチンも結核に「効く」という論文が多数あります。 Statin use and risk of tuberculosis: a systemic review of observational studies. Int J Infect Dis . 2020 Apr;93:168-174. Etc. メトホルミンやスタチンは病原微生物を死滅させるような薬ではありません。このようなお薬は宿主(感染を生じているヒト)側の状態を良くさせるという「Host Directed Therapy(HDT)」と言われています。薬剤耐性も生じないか生じにくいだろうと予想されています。 そのうち「スタチンとメトホルミンをのんで結核を治そう」という時代が来るかもしれません。なおメトホルミンやスタチンのように、元々の薬効のほかに別な病気に有効な薬効を見つけることを「ドラッグ ・リポジショニング(drug repositioning)」と言います(注:何か良い日本語による訳語が無いでしょうか)。 注:フランス在住の言語学者小島剛一氏より「想定外薬効開発」が訳語としてはどうでしょうかとの提案がありました。私もそれに賛成です。 いまCOVID-19の治療薬が研究されています。灯台下暗しで、もしかしたらメトホルミンやスタチンのように思わぬところからCOVID-19に効くお薬が見つかるかもしれないです。見つかれば良いですね。 注: COVID-19に対するmRNAワクチン接種が進んでいない国があります。コンゴ民主共和国、イエメン、チャド、ハイチ、ベニン、中央アフリカ共和国などの国の接種率は極めて低いレベルです。どの国も「貧しい」とされている国です。ワクチンを購入する費用がないのです。悲しい話です。 コロナ禍が浮き彫りにするグローバル社会のワクチン格差と不平等(ヒューライツ大阪) 注: COVID-19mRNAワクチンを拒否し、自国製ワクチンを接種している中国のような国もあります。この辺り、本当にどう考えるのか難しいです。 注:結核のワクチンであるBCGにCOVID-19予防効果が? ハーバード大学医学大学院Denise Faustman先生のグループの研究です。 Multiple BCG vaccinations for the prevention of COVID-19 and other infectious diseases in type 1 diabetes(PDF) BCGを3回接種(4週間隔で2回、その翌年に1回)打つと、BCGワクチン接種群のCOVID-19発症者は1%、プラセボ接種群で12.5%と、実にBCGワクチンの感染予防効果は92%という結果です。1型糖尿病の患者さんが対象です。糖尿病の方以外にも効くか? 3回も打てるか? 等々、問題はありますが、良い視点の良い研究だと思います。 注:メトホルミンを投与すると、コロナ後遺症が40%減る という論文が、2023年6月8日にThe Lancet Infectious Diseasesという雑誌に掲載されました。 Outpatient treatment of COVID-19 and incidence of post-COVID-19 condition over 10 months (COVID-OUT): a multicentre, randomised, quadruple-blind, parallel-group, phase 3 trial というタイトルです。アメリカの18の医療機関の共同研究論文です。 ・COVID-19罹患後、早期にメトホルミンを服用するとCOVID-19後遺症発病を40%抑制する ・この効果は患者が肥満している場合に、より効果が高いとの事です。メトホルミン、凄いです。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/12/12 手術をするのは結構大変、大臣室から電話がかかることもある 外科医をやっていると色々な経験をします。滅多に無いことも経験します。いくつか紹介しましょう。最初はとても真面目な話です。 手術は前の晩から始まる 心臓手術前は結構、緊張します。緊張というか集中します。手術は前の晩から始まります。お風呂に入りながら、あるいは寝る前に執刀開始から終了までの手順を頭の中で整理します。 「前の晩に手術手順を頭の中で整理する方法」 を教えてくれたのはO先生です。O先生の手術はいつもテキパキと進み迷うことがありませんでした。どうやったらO先生の様に手際よく手術が出来るのか不思議でした。 「どうしたら先生の様に遅滞なく手術が出来るのですか?」と伺ってみました。 教えてくれたのは「前の晩に手術手順を考えること、患者さんの病状、病態を良く考えること」でした。どんなに小さな手術でも同様なことを繰り返していると聞き、びっくりしました。例えば、冠動脈の手術を執刀するときは、冠動脈造影を繰り返し見て、その映像が頭の中に浮かぶようにする。そしてどこにバイパス吻合をするか頭の中で、きっちりと、考えておく。などなど。。 O先生は後に某大学の学長にもなった偉い方です。そのような先生でもそういう準備をしていると聞き「これは真似しよう」と思いました。 最初のうちは、あれこれ考えて眠れなくなりましたが、段々と慣れてきて自然に手術手順が浮かぶようになりました。実際、行っている外科的操作の、次や次の次に行う外科操作やそのための指示が遅滞なくできるようになりました。外科医も結構大変なのです。 堀内恒夫氏の登板前夜の準備 O先生の話を聞いてから数年後のことです。元ジャイアンツのピッチャー堀内恒夫さんの講演を聞く機会がありました。その講演で堀内さんは「登板日の前夜、相手チームのバッターからどうやってアウトをとるか詳細に検討していた」と話していました。以前対戦したバッターに何を投げたか、結果はどうだったか等々を考え、翌日に投げる球を頭の中で組み立てていたそうです。そういうことの積み重ねが大切だと話していました。 盗塁王の福本豊(元阪急)と日本シリーズで対戦した時の話も面白かったです。福本は当時、盗塁をしまくっていました。圧倒的な盗塁数でした。福本の盗塁記録は「絶対に破れないプロ野球記録」といわれています。その福本選手に日本シリーズで対戦した堀内さんは1回も盗塁を許さなかったのだそうです。それは、森昌彦捕手と盗塁阻止方法を研究し、繰り返し練習したからだと言っていました。ピッチングを考えたり、守備方法を考えたりするのが大切なのですね。前述の手術準備に通じる話だと思って聞いていました。 手術当日は朝1番に患者さんのところに行く 手術当日は朝1番で患者さんのところに行って体調などを確認します。これは結構大切なことです。それから手術室に向かい、病変の確認(超音波の画像、カテーテルの画像などを再度記憶)、人工心肺の確認、麻酔科医師との相談、手術ナースとの打ち合わせ、手術に使う機材の確認などを行います。沢山やることがあります。それでも麻酔が始まるとそういう諸々は終わります。その時間、目を閉じて、再度手術手順の確認を頭の中で行っていました。静かに集中する時間です。 大臣からの電話 TVを見ていたら、昔、手術直前に大臣室から電話がかかってきたことを思い出しました。その元大臣だった方がTVに出ていたのです。その方が大臣を務めていた時のことです。執刀直前、静かに集中している時間にその方から電話がかかってきたのです。 交換台から「A大臣室から電話が入っています。望月先生につなぐように言っています。」と連絡が入りました。手術日は余計な電話はつながないように言ってありますが「大臣からです」と言うので何の用かなと思って電話に出ました。 A大臣の用件は「今日、望月先生が手術するBさんは私の後援会の大切な人だ。手術をしっかりするように、くれぐれもよろしく」とのことでした。手術は予定通り終り何事も無く退院しましたが、その後は1回も大臣から電話はありませんでした。「手術日にA大臣から電話があった」と病院内でちょっとした話題になりました。 余談です。 交換台のお姉さん達に注意(笑) 良かったこと?もあります。大臣からの電話があったおかげで、普段、見たことも話したことも無かった交換台のお姉さん達から声をかけられ、彼女達の忘年会にお呼ばれしました。それでわかったことがあります。交換台の方々は院内院外の恋愛事情を把握しているのです(笑)。謹厳実直を絵に描いたようなあの先生のところには、よくよく、銀座のママさんから電話がかかって長々電話をしているとか、。。怖い怖い。 話を手術に戻します。 怖い筋の方の手術1 怖い筋の偉い方?を手術したこともあります。その患者さんの部屋にはいつも怖そうなお兄さんが病室(個室)にいました。手術前の説明の時には強面の方々が20名程度、勢揃いしました。病院の会議室で手術の説明をしました。映画のような光景でした。手術日前後に怖いお兄さんが「事故でも起こると困るので先生の自宅から家まで、送り迎えをする」と言われましたが、丁重にお断りしました。無事手術が終了して退院。ほっとしました。 怖い筋の方の手術2 緊急で入院してきた別の怖い筋の方、Cさんのことは、今でも忘れません。難しい病気を発症して緊急入院してきました。放置すれば死亡率の高い病気です。救命には手術しか方法がありませんが、極めて難易度が高い手術が必要です。手術死亡率も高い手術です。土曜日の昼頃にいらしたのです。手術をすれば夜中までかかります。怖い筋の方々が、怖い顔をして付き添っています。どうしようか、迷いました。同僚医師も怖い顔の面々を見てビビっていました。 患者さんには正直に「この病気は突然死する可能性が高いことや手術をしても死亡する可能性があること、内科的治療では1週間以内に突然死する可能性が高いこと」などを伝えました。そうしたら、ドスの利いた声で 「悪い奴をやっつけようとしたら急に胸が痛くなった。今、胸が死にそうに痛い。」「このままなら、死んでしまうと素人の俺でもわかる。それくらい痛い。だからスパッとやってくれ。良くなったら悪い奴をやっつける。」 と言ったので手術準備を始めました。着ていた服を全部脱がせたら、私も他の先生も看護師さん達も言葉を失いました。 顔に多数の傷跡があるのは入院してきた時から解っていたのですが、全身が映画や漫画に出てくるその筋の方のようにキズアトだらけでした。キズを縫合したアトが無数にあるのです。こんなに多くのキズアトは、後にも先にも見たことがありません。どうしたのか聞いてみました。 私:「この多数のキズはどうしたのか?」 Cさん:「中学生の頃から、喧嘩してきたから」 私:「沢山あるキズは刃物のキズ?」 Cさん:「そう、喧嘩は最後に刃物を使うからね。この傷はナイフや包丁や日本刀で切られたキズだよ。先生もメスを使うだろう。同じだよ。。」 いやいや、メスを使うのと刃物を使うのは別です。ちなみに皮膚などを切開するのに使う刃物を日本では「メス(mes=オランダ語)」と称しますが、英語では「スカルペル(scalpel)」や「ナイフ(knife)」と称します。私は心臓手術に使う手術用特殊ナイフ(メス)に関する特許を持っています。その特許に準じたメスを作って頂き日本や外国で使ってもらっています。その特許の書類にも「ナイフ」と書かれています。この特許のお蔭で「カンブリア宮殿」という番組に出演しました。クリニックで今、そのビデオの一部を流しています。いつかこのこともお伝えしましょう。 それはさておき 無事、10数時間かかった手術も終りCさんの胸と足にまた「刃物のキズ」が増えてしまいました。元気に退院していきました。色々な人生がありますが「喧嘩に明け暮れる」人生とは無縁でいたいですね。Cさんは、後にちょっとかわいそうなことになりました。折角大手術をして元気になったのにとても残念でした。 ある企業の創業者の方に「先生は偉くなれない」と言われたこと これは私が手術した話ではありません。私が研修医の時、ある大企業の創業者が入院してきました。80歳くらいでした。当時としてはかなり高齢の患者さんです。ご高齢だったので検査から手術まで入院期間が結構長かったのです。そのお蔭で色々な話を伺うことができました。話し好きな方で色々な話をしてくださいました。様々な会社を作った話、ライバル企業に勝つにはどうしたらよいか? 製品開発の話etc。。面白かったです。話題が尽きない方でした。 この方は、毎年ある「島」を貸し切り状態にして茶会を催していました。「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」のような大茶会ですねと言ったら、とても喜んでくれました。退院後に私もその茶会に誘われましたが、時間も無く、残念なことに伺えませんでした。多くの若い女性が茶会に集まると聞いていたので、今でもちょっとだけ悔いています(笑)。 上司の先生が手術を行い、経過は良好で退院が決まった時「羊羹」を頂きました。「珍しい羊羹だから家で開けるように」と言われ、家で開いたら羊羹に加えて高額のお金が添えられていました。羊羹は頂きお金は返しました。その時 「これくらい受け取ってくれ、受け取らないなら先生は偉くなれない」 「気持ちよく受け取って、勉強のために使ってくれ」 「先生なら遊びに使わないだろう」 「受け取ってくれ」 と再三再四、言われました。受け取りませんでした。黙って受け取っておけば「偉く」なったかもしれません(笑)。 他にも ロシア人モデルの御主人のとてつもなく悲しい話 銃で撃たれた方の話 飛行機操縦中に墜落しても助かったロシア人飛行機操縦士の話 某作家の最後 某役者さんの暴言事件 などなど、外科医をしていると色々な経験をします。。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/11/21 少し悲しいお知らせがあります。恩師、新井達太先生が2022年9月15日、逝去されました。 先生は日本の心臓外科学を牽引してきた泰斗です。私は臓外科医を志した時から、医学(心臓血管外科学)のことのみならず、様々の大切なことを先生にお教え頂きました。以下、先生の業績、先生に教わったことなどを紹介いたします。 新井先生は、 「世界的業績が多数」 A型単心室の根治術に世界で初めて成功 日本製人工弁(SAM弁)の開発に成功、多くの患者さんに使われました。臨床応用された日本製人工弁はこの弁だけです。大阪万博の際、未来に残す医療器具の1つに選ばれ(他は聴診器、ファイバースコープ、人工血管)、大阪城の地下に納められ5000年後に開けられることになっているそうです。 ※SAM:Sは榊原仟先生 Aは新井達太先生 Mは人工弁を製造したMERA社(泉工医科工業))の頭文字から名付けられています。 ある種の大血管転位症に対する手術法を開発し、実験をおこないその成果を世界で初めて報告。後にこの手術方法は「標準術式」となります。 等々、多くの業績があります。先生は母校である東京慈恵会医科大学を卒業後、東京女子医科大学心臓血圧研究所にて故榊原仟先生の元で心臓外科の研鑽を積み、上記のような世界的業績を挙げ、母校東京慈恵会医科大学の初代心臓外科主任教授として迎えられました。人工臓器学会長、胸部外科学会長を歴任、日本の心臓外科の発展に大きな功績を残しました。慈恵医大退職後は故郷埼玉県の埼玉県立循環器・呼吸器病センター初代総長となり、埼玉県の医療に多大な貢献をなさいました。 「勉強熱心」 先生は勉強熱心で学会に行くといつも最前列で講演を熱心に聞いていました。先生は「心疾患の診断と手術(南江堂)」という日本を代表する心臓外科の教科書を単著として執筆していましたので、この教科書を適宜更新するために新しい知見の収集に余念がありませんでした。それ故にこの教科書は多くの心臓外科医のバイブルとなっていました。 「学会発表やスピーチが上手」 コロナ禍前、先生は多くの学会でスピーチを頼まれていました。そのスピーチですがいつもきっちりと時間通りに終わるので有名でした(3分、5分、10分etc. 頼まれた時間通りに終わっていました)。 だらだらと長く、いつ終わるとも知れないスピーチを聞くことが多い中で、新井先生のスピーチ時間、スピーチ内容も際立っていました(後にスピーチ内容と時間は奥様が、厳しくチェックしていたと伺いました)。そんな先生ですから、もちろん、学会での講演や発表もきっちりと時間通りに終わっていました。1つの「芸」と言っても過言ではないと思います。また、声を出す練習(合唱など)をなさっていて、いつもよく通る美声で発表をなさっていました。 「学会発表の指導は厳しい」 そんな先生ですから我々が学会発表をする際には厳しいチェックがありました。発表時間を厳守することが基本であり、医局での学会リハーサルで発表時間を超過すると叱られました。時間を守るためには「発表原稿を書いてそれを覚えてくるように」そしてその「原稿を見ないで発表ができるように」指導されていました。厳しい指導でした。言葉遣い、発声の仕方(もごもご言わないで口調をはっきり)の指導もしていました。そういうわけで学会発表よりも医局でのリハーサルの方が厳しかったです。今、思うと「折角発表するのだから、心地よく聞いてもらう」「発表が聴衆に伝わる」ようにとの心遣いだったと思います。 後に独り立ちしてから、多くの学会で発表をしましたが、お教え頂いた通りに原稿は諳んじるまで読み込んでから発表をしました。 「手術が早く、正確」 手術の早さ、正確さは、言葉で伝えることができないくらい凄かったです。とにかく手術が早くスムーズに進むのです。卒業して1-2年目の頃は、その凄さが解りませんでした。しかし、第2、第3助手として段々と手術に参加するようになりその手術に圧倒されました。手術器具の用い方、手さばき、手術用鋏の使い方、糸のかけ方、手術の進め方は言葉には表せないほどスピーディー且つ正確でした。 難しい箇所への針糸をかける時も軽々と運針が進みます。優雅でした。この辺りの技量を伝えることは、言葉では難しいです。段々と手術を覚え、色々な先生と手術をするようになると、メスの持ち方、鋏の使い方、鑷子の使い方、体の使い方で「上手いか下手か」が直ぐにわかる様になりました。手術が上手な外科医は「所作が様になっている」のです。新井先生は、その所作が様になっているのはもちろん、優雅でした。卒業後、新井先生の下で手術を勉強することができたのは私にとって生涯の僥倖でした。 「とても親切でした」 私は、少しでも、新井先生の手術技量に近づきたく先生に直接、色々な質問をしました。今、思うと汗顔の至りですが、ちょっとしたことでも嫌がらずに教えくださいました。手術にはその「ちょっとしたこと」が大切なのです。「新井先生に質問をする」のが実は大変でした。はっきり言って「怖かった」のです。新井先生は、手術が始まると、ほぼ無言でした。 無言のうちにどんどん手術が進みます。手術担当看護師さんも数名は専属でした(今ではあり得ないです)ので、新井先生が手術機械を看護師さんに返すと次に使う手術器具が、次から次に出てきます。そういうわけで、手術が、どんどん進みます。声を交わすのは人工心肺のオンオフの時などに限られています。手術助手の先生も手慣れているので、手術に遅滞がありません。凄い時代でした。 そんな先生ですから気やすく質問することなどできませんでした。しかし、そんなことを言っていると何時まで立っても手術は上達しません。1度、勇を鼓して質問すると気さくに答えてくれました。それからは色々と質問させて頂きました。そういうことがあってから幾星霜、病院は移っても手術の指導にお越し頂き、みっちりと手術指導をして頂いたこともあります。 「迷ったら1番厳しい道をとるべき。それがおおむね正しい」 大きな手術の最中、滅多に無いのですが、時に迷うことがあります。そういう時は「厳しく辛い道が正しいことが多い」「人間は易きに流れることが多い。易きに流れると間違う」。そういうことをいつも仰っていました。 「様々な文章を書くことを好みました」 忙しい先生でしたが、公職を退任後時間がとれるようになり、シミック社の運営するサイトでコラムを連載することが決まりました。先生は、常々「生涯で経験したことを書き残したい」と仰っていたので、丁度良いタイミングでした。 何事にも「時機」が大切ですね。先生はすでに多くの教科書や随筆集も出版されていました。シミック社での連載コラムも文章が上手で、内容も多岐にわたっています。初出の話が多く、毎号楽しみに読ませて頂いていました。毎月毎月、2000-5000文字のコラムを送ってくださいました。もう読めないと思うと寂しいです。これを機会に皆様にも読んで頂ければと思います。 最後のコラムは新井先生の恩師である「榊原仟先生」のことが記されています。今頃、恩師と天国で語らっていることと思います(参照記事:第71話 —心臓外科の恩師・榊原 仟(シゲル)先生—【part3】)。これが最後かと思うと、とても、寂しいです。 「新井先生の大きな悔い」 新井先生、外科医の生涯で唯一の大きな悔いがあり、その「悔い」について色々なところで話したり、文章にして残しています。 それは新しい手術法に関することです。先生は大血管転位症の新しい手術法を考案、実験も行いました。 【新井先生談】 「この実験結果を『弁付きhomograftを用いた右心室- 肺動脈,左心室-肺動脈,左心室 - 大動脈bypassの実験的研究」』と題し総動脈幹症,大血管転移症の臨床に応用できると1964年の第17回日本胸部外科学会にて発表しました。その翌年の1965年,英文で『Bulletin of the Heart Institute, Japan』(女子医大) と、和文で1966年に『胸部外科』 (南江堂)に発表しました。」 「私はSAM弁の臨床成績を報告するために,第15回国際心臓血管学会 (Atlantic City,1967年) に行きました。外国に行くのはその時が初めてでした。その学会の第1席が, Mayo ClinicのRastelli先生の報告でした。 パッと映し出されたスライドの写真を見て私はびっくり仰天しました。それは私が3年前に報告した, 弁付きのhomograft を使って右心室から肺動脈にバイパスした実験内容と全く同じでした。 なぜ3年も経った今ごろ国際学会で報告されるのだろうと虚をつかれた感じでした。」 「英文にはしていたが、世界中で読まれるような雑誌では無かったから、私(新井先生)が3年も先に論文にしていた手術法が今では『Rastelliの手術』となってしまった。それが、かえすがえすも、残念である。」 と仰り、 「何か大きな発見や手術法を思いついたら、一流の英文雑誌に投稿しなさい。」 とことある度に仰っていました。それを聞いていたので私も一流の英文雑誌に数編の論文を載せることができました。臨床外科医が仕事の合間に英文論文を書くのは結構大変です(参照:「論文を書く」ということ(1))。 今、グーグルスカラー(Google Scholar)で自分の論文がどれだけ引用されているかを知ることができます。私が書いた論文もかなり有名な外科医の論文に引用されていることや欧米の教科書に引用されていることがわかります。嬉しい話です。これも「英語で頑張って書いた」からです。 「新井先生の生きがい」 お亡くなりになってから、新井先生の娘さんからメールを頂きました。 “望月先生からコラムのお話をいただき、父は生き甲斐を見つけました。ほとんど1日中2階の書斎に籠ってコラム作成をしておりました。緊急入院する2週間前からは2階へ上がることができなくなっていたのですが、なぜか緊急搬送された日に母と私が家にいない状態の時に2階に上がりコラムを作成していました。きっと、そろそろコラムを提出する時期だと思ったのだと思います。父が緊急搬送されたときに書いていたコラムが残っていました。本当に書いていた途中で苦しくなった、という感じです。” “パソコンの横に張り紙がしており、今後シミックのコラムで書きたいと思っている内容が番号をつけて25近く記載されており、その下にはシミックの担当者の○崎さんの電話番号が記載されています。そして、先生からのコラムを読んでの感想が記載されたメールをプリントアウトして貼付けてあります。 本当にこのコラム執筆が父の生き甲斐だったと思います。ネットで調べるのみならず、YouTubeを見たり、書籍を購入したりしていました。” 89歳から96歳までPCを用いてコラムを書いていたのです。凄いことだと思います。90歳を越えて、きちんとした文章を定期的に書ける方は多く無いと思います。 今、「生きがい」が話題となっていますが、恩師である新井先生にコラムを書くように頼んだ私も恩師の晩年の「生きがい」に関与できたかと思うと、少し、恩返しができたかと思っています。 今年頂いた最後の年賀状です。先生は敬虔なクリスチャンでしたので、毎年、聖書の言葉を年賀状で紹介していました。最後の年賀状は、 「常に喜べ 絶えず祈れ 全てのこと感謝せよ」とありました。 新井達太先生が最後まで書いていたコラムです。文章が上手で、とても読みやすいです。ぜひ、お読みください。 新井 達太 先生のコラム一覧 【参考文献】 新井達太著 「心疾患の診断と手術」南江堂(1974年 刊) 新井達太編著 「心臓外科」医学書院(2005/11/1刊) 新井達太編著 「心臓弁膜症の外科」医学書院(2007/11/1刊) 新井達太著 「この道を喜び歩む」幻冬舎(2018/3/2刊) 新井達太著 「外科医の祈り」メディカルトリビューン(2001/10/1刊) 紹介しきれないくらい多くの論文、業績があります。 このうち、2.と3.は私も一部書かせて頂きました。 3.の「心臓弁膜症の外科」は、現在アマゾンで10万円!近い値段で取引されています。名著です。 余話: あるとき、「病院の警備員がお前(望月)と○○先生は何時も早く来て、遅く帰ると褒めていた」と仰ってくださいました。その警備員の方は新井先生が手術をした患者さんでした。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2022/10/03 大動脈瘤破裂にまつわる真面目な話 今回は胸部大動脈瘤破裂にまつわる話をお伝えしようと思います。 正確に言うと「大動脈瘤が破裂した後のこと」に関する話です。 真面目な話と少し不真面目な話があります。 今から30数年前のことです。当時勤務していた病院に日本を旅行中の東南アジアの方が緊急搬送されてきました。60代後半の男性でした。奥様と一緒に日本を旅行していたのです。来院時、意識がほとんどありませんでした。 奥様は日本人でした。奥様から話を伺うと この患者さんは高血圧の治療中であること、他に病気はないが喫煙歴が長いこと 東京駅で「強い胸痛」を訴えた後、意識が無くなったこと などが判明しました。 心筋梗塞、大動脈瘤破裂などを念頭において検査を行いました。採血、胸部レントゲン、CT検査などを行ったところ、この方は胸部大動脈瘤が破裂して血圧が低下し「ショック状態」となっているということが解りました。 直ちに手術が始まりました。破裂部の大動脈を人工血管に交換して手術が終わりました。「言うは易く行うは難し」です。人工心肺を使った手術です。10時間くらいかかりました。無事手術は終わったのですが、麻酔が覚めるはずの時間になっても患者さんの意識は戻りませんでした。脳のCTを撮影したところ、大きな脳梗塞を認めました。大動脈瘤が破裂して血圧が低くなり、脳梗塞を生じたのだと思います。1ヵ月くらい集中治療室に滞在した後、一般病室の個室に移ることができました。 この方には、成人したお子さんが二人いらして両名共アメリカに住んでいました。一人はアメリカの文系大学を卒業した娘さん、もう一人はアメリカの理系大学に在学中の息子さんでした。 最初にアメリカから病院に駆けつけたのは娘さんでした。娘さんは、胸部大動脈瘤破裂に関する多くの医学論文のコピーを持ってきました。アメリカの大学の図書館で調べてきたのです。娘さんも息子さんも日本語ができました。私の指導医だった先生が娘さん、息子さんに病状を説明しました。 病院に搬送当時、胸部大動脈瘤破裂でショック状態だったこと 手術は成功したが、脳梗塞を生じていること、それも範囲が広い脳梗塞であり、今後も意識が出ない可能性が高いこと いわゆる植物状態になる可能性が高いこと などを説明していました。娘さんは持ってきた論文を広げ、アメリカの病院でも胸部大動脈瘤破裂は死亡率が高く、脳梗塞などの合併症が多いと書いてあると言って、病状や手術については納得してくれました(涙を流しながらでしたが)。 手術後、3ヵ月遷延性意識障害(いわゆる植物状態、英語ではpersistent vegetative state)が続き、ほぼ回復の見込みが無くなりました。帰国するにも手立てがありません。 奥さんと娘さんは病院近くのアパートを借りて、毎日病院に来ては、患者さんに、声をかけていました。我々も、当時遷延性意識障害に対して効果があると言われていたありとあらゆる治療を施したのですが、全く効果がありませんでした。娘さんは日本の図書館で「意識障害を治す治療」に関する論文を探していました。そして我々に色々な治療法を提案してくれました。 外科医は遷延性意識障害の専門家ではありません。娘さんが世界中の「遷延性意識障害治療」に関する論文を探してきてくれるのである意味助かりました。そういうわけで患者さんの家族と一緒に治療法を議論し、日本でも実行可能な治療は取り入れて治療しました。患者さんの家族に治療法を提案されるという希有の事態でした。これは私にとって色々な意味で勉強になりました。今ならインターネットを介して様々な治療法に関する知識を素人の方も入手できますが、当時は簡単ではありませんでした。 当時すでにMedlineがあり、この家族の方々は英語ができるので、Medlineを利用して様々な文献を探してきたのです。しかし、残念なことに、どの治療も功を奏しませんでした。しかし、これは私にとって、とても良い経験でした。 近い将来「患者さんや患者さんの家族が自分達で診断方法や治療方法、治療成績を入手できる時代が来るだろうということ」が予見されたのです。実際に、そういう時代になりました。 やや話は変わります。インターネットでの情報は玉石混淆です。玉が少なく、石が多いのです。玉か石かの見分け方は追記に記しました。参照ください。 話を戻します。今でも英語ができないとMedlineでの文献検索はできませんし医学用語も簡単ではありませんが、翻訳ソフトなどを使ったりすると以前とは比較にならないほど、検索の敷居は低くなっています。そういう時代が直ぐにやってくるであろうことを今から30年以上前、この大動脈瘤が破裂した患者さんの治療を通して学びました。 以上、真面目な話。 不真面目な話 この患者さんは、結局2年近く、遷延性意識障害が続いたまま病院に入院していました。その間、奥様は毎日病院に来て、声をかけ続けていました。娘さんは日本で、外資系多国籍企業に就職し、働きながら病院に来て看病を続けていました。息子さんはアメリカの大学を卒業し、米国の企業に就職し、数ヵ月に一度、来日していました。2年も病院にいらしたので、ご家族とも治療を含めて色々な話をするようになりました。そんな中での話です。 以下は不真面目な話です。読むと不愉快になるかもしれません。ご容赦下さい。 今から記すことは、時効でしょうが、少しguiltyです。 娘さんがある企業に就職した事は前述しました。就職が決まった時、丁度息子さんも来日していて、一家で娘さんの就職祝いをするとのことで、食事に誘われました。普通は入院している患者さんの家族と食事などしません。しかし、入院して1年以上が経過し毎日顔を合わせ、治療法などを相談していたので誘ったのでしょう。私の他に担当だったMH先生と共にご家族と一緒に食事をしました。 食事の際、私は娘さんが就職した「多国籍企業」がどういう仕事をしているのか興味があり質問したところ、娘さんがその企業の入っているビルが食事場所のすぐ近くにあるので「どういう所で、何をやっているかお見せしましょう」というので、当の娘さんと息子さん、私、MH先生の4人でその企業が入っているビルに行きました。娘さんは、その企業の広報部門に就職したので、色々とその企業が行っていることを説明してくれました。 超高層ビルの上層階に、その企業は入居していました。そこから見る東京の夜景はきれいでした。夜、10時を回った頃だと思います。広いスペースに残って働いている社員が数名いました。彼らは米国本社との各種会議があるので、夜中から朝まで残っているのだそうです。多国籍企業の方は大変だと思いましいた。 残って働いている彼ら数名がいるスペースにはなぜか「超高性能天体望遠鏡」が数台置かれているのに気づきました。米国本社との会議の時間待ちをしている間、高層ビルから星を見ているのだと思ったのです。私は中学生の頃天体望遠鏡で月や星を見ることに熱中していた時期がありましたので、彼らが使っている天体望遠鏡がもの凄い性能を持っていることが直ぐに解りました。ガラス窓越しではその高性能が発揮できないなと思いました。それはともかく、望遠鏡に興味があったので、彼らに性能などを聞いていたら、いつの間にか一緒にいた娘さんがいなくなっていました。 女性が周りにいなくなったら彼らは天体望遠鏡を下に向けました。あれれ?と思ったら、彼らがニヤニヤ笑いながら、これを見てみろと言うので見たら「いけない光景」が見えたのです。このビルから1km位のところに有名ホテルがあります。そのホテルの部屋の中の光景が丸見えなのです。まさか遠くから見られているとは思わず、カーテンを開けたままにしている部屋も多かったのです。「色々な光景」が高性能天体望遠鏡のおかげで見えました。 彼らは天体望遠鏡で「天体」ではなくて「ホテルの部屋」を観察していたのです。これは「犯罪行為」です。かなり、嫌な気持ちになりました。世界でも超一流と言われている企業の連中がこんなくだらないことをしているのにびっくりしました。娘さんが、天体望遠鏡のそばにいなくなった理由がこれだったのです。 今でもあのビルを見るとあるいはあの企業の名前を聞くとあのホテルのことを思い出します。あれ以降、ホテルに泊まる時は絶対にカーテンを閉めています。後年、アメリカ人ジャーナリストのゲイタリーズが「The Voyeur's Motel」という本を出版しました。この本とあの風景がダブりました。 大動脈瘤にならないようにするには 話を戻します。2年近く遷延性意識障害が続いた患者さんですが、意識が回復すること無く、最後は肺炎でお亡くなりなりました。大動脈瘤破裂に脳梗塞が合併すると本当に大変です。大動脈瘤にならないようにすれば良いのですね。 それには 高血圧管理 禁煙 体重管理 糖尿病管理 などが必要です。 なお、最近、遷延性意識障害に対してある種の薬物に劇的効果があることが報告されています。今なら、こういう治療も試したかもしれません(追記2 参照ください)。 追記1:玉と石の見分け方 様々な病気の治療法がたくさんインターネットで見つかります。それが真っ当かどうか、見分け方は簡単です。その治療が査読(peer review)のある雑誌の論文になっているかどうかそれが1番大切です。 論文になっていない治療は、査読に通らなかったか(=同業者に認められない)、そもそも論文にしていない(できない)治療です。 インターネットで様々な診断法、治療法を見つけることができますが、論文になっていない治療は効果が無いと思って間違いありません。 注:Peerとは《仲間、同僚》と言う意味ですがこの場合は同業者でしょう。概ね3名で査読をします。要するに同業のプロが認めない論文は査読を通りません。私も様々な医学雑誌(日米欧)を査読をしたことがあります。査読には時間がかかります。投稿してきた論文に関する文献を集め、掲載に値するかどうかを判断するのです。しかも、ただ働きです。真面目に査読をするのは本当に大変です。 注:上記の様なことをあちこちで言ってたり書いていたら、最近いかがわしい治療がいくつか論文になっているのを発見しました。論文が載っている雑誌が査読の無い聞いたことも無いような医学雑誌でした。そういう雑誌を出版する会社があるのですね。困ったことです。 追記2:遷延性意識障害に対する奇妙な治療 今でも遷延性意識障害に対する良い治療はありませんが、にわかには信じがたいような話が2007年に報じられました。睡眠薬の「ゾルピデム」が遷延性意識障害に著効することがあるのだそうです。 Sleeping Pill Wakes Woman After 2 Years in Coma - Consumer Health News | HealthDay https://consumer.healthday.com/cognitive-health-information-26/brain-health-news-80/sleeping-pill-wakes-woman-after-2-years-in-coma-602688.html この記事によると、6年も昏睡状態だった23歳の女性が睡眠薬であるゾルピデム(商品名:マイスリーなど)投与で意識が戻り、歩けるようになったとあります。この治療は南アフリカの看護師さんの発見から始まりました。 交通外傷で脳に重篤な障害が生じ、5年間寝たきりで遷延性意識障害の状態だった南アフリカの24歳の男性が、夜中にマットレスを握りしめているのを見た看護師さんが、苦しそうだから深く眠らせてあげようとゾルピデムを投与したら、なんと投与25分後に座って話せるようになったのだそうです。 睡眠薬は、通常、眠りを誘うお薬です。そういうお薬が意識障害の治療に有用という、にわかには信じがたい話です。それが始まりでゾルピデムを遷延性意識障害の患者さんに投与するという治験が始まりました。治験は続き、肯定的な論文も否定的な論文もあります(文献1-4)。 30数年前、ゾルピデムはありませんでした。今なら、遷延性意識障害となったあの患者さんに投与できるかもしれません。医学の発見は、こういう、思わぬところから起きることがあります。まだこの発見は認められてはいませんが、ある種の遷延性意識障害の患者さんに効果はあるのでしょう。この現象を見逃さなかった看護師さんに敬意を払います。 【参考文献】 Brefel-Courbon C, Payoux P, Ory F, et al. Clinical and imaging evidence of zolpidem effect in hypoxic encephalopathy. Ann Neurol. 2007;62:102–105. Clauss R, Nel W. Drug induced arousal from the permanent vegetative state. NeuroRehabilitation. 2006;21:23–28. Clauss RP, Güldenpfennig WM, Nel HW, Sathekge MM, Venkannagari RR. Extraordinary arousal from semi-comatose state on zolpidem. A case report. S Afr Med J. 2000;90:68–72. Thonnard M, et al.Funct Neurol. 2013 Oct-Dec;28(4):259-64.i: 10.11138/FNeur/2013.28.4.259. Effect of zolpidem in chronic disorders of consciousness: a prospective open-label study. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/09/12 法律の「逃げ道」 前回の続きです。 患者さんのBさんが泣いているのに気づき、話を聞いたところ、「B」さんが退院して家に帰った直後、中学生の娘さんが交通事故でお亡くなりになったことを知りました。 この事故当時(200×年)にはすでに危険運転致死傷罪(2001年)が成立していました。2001年以前はこのような法律はなく、飲酒運転をして死亡事故をおこしても、業務上過失致死罪が適用されていましたが、この法律では長くても5年の懲役しか課すことしかできません。 話は少し前にさかのぼります。1999年の東名高速飲酒運転事故、翌2000年の小池大橋飲酒運転事故を契機に飲酒運転による死亡事故に対して「業務上過失致死罪」しか適応できないこと(=最高でも懲役5年)に強い批判が起きました。結果、飲酒運転で死亡事故を起こしたらもっと重罪に処すべきだと言う世論が上がり、それを受けて2001年に「危険運転致死傷罪」が制定されていました。 この「危険運転致死傷罪」の中に次のような条文があります。 (第二条) 下記の行為を行い、よって人を負傷させた者は15年以下の懲役、人を死亡させた者は1年以上の有期懲役。 1.酩酊運転致死傷罪 アルコール(飲酒)又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させる行為 人を死亡させた者は1年以上の有期懲役、人を負傷させた者は15年以下の懲役とあり、何となく死亡させた方が軽いように思えますが、有期刑の最高は20年、つまり1年以上の有期刑というのは最大で20年までは懲役の可能性があるよということです。わかりづらいですね。 飲酒運転で死亡事故のような重大事故をおこすと、2001年からは危険運転致死傷罪が適用されるようになったのです。業務上過失致死罪なら最高でも5年、しかし、危険運転致死傷罪が適用されるなら最高で20年の懲役が課されます。 5年と20年では大違いですが、この法律には「逃げ道」がありました。 私の患者さんの娘さんの交通事故に話を戻します。飲酒運転をしていた「C」は、上記の罪を知ってか知らずか……ひき逃げ現場から逃走します。6時間後に自首したのですが、すでに血中からアルコールは検出されませんでした。アルコールが検出できないなら「危険運転致死傷罪」は適用できません。「C」と一緒に飲酒をしていた方の証言があっても、アルコール濃度を調べられないと「飲酒運転」とは確定できないからです。 「逃げ得」です。 これが「危険運転致死傷罪」からの「逃げ道」でした。一瞬にして娘さんを奪われた家族の方々の怒りはすさまじかったのですが、飲酒運転をしていたことを示す「証拠」はありません。 「C」が起こした事故で亡くなった2人の遺族は危険運転致死罪の適用を求め、9万人余りの署名を地検に提出しました。しかし地検は危険運転致死罪の適用を見送りました。「ひき逃げ現場までは何事もなく運転していて、正常な運転が困難だったとは言えない」という理由でした。 一審では懲役5年6月。検察は上告します。高裁での判決は一審よりかなり重くなりました。東京高裁は懲役5年6月とした1審地裁判決を破棄、懲役7年を言い渡しました。判決理由にSY裁判長の気持ちがこもっています。 SY裁判長は、 「飲酒運転の発覚を恐れ、衝突に気付いたのに逃走したのは人倫にもとる卑劣な行為。やり場のない怒りに震える遺族の処罰感情は軽視できず、1審の量刑は軽すぎて不当だ」と述べています。 こういう「感情を露わにした」判決はあまり聞いたことがありません。遺族の皆さんの「気持ち」が届いたのでしょう。しかし、くどいですが「危険運転致死罪」の適用はできませんでした。現場から逃げてアルコールが抜けてから出頭したからです。 「逃げ得を許さない」法律の改正 この時点で上述の北海道の交通事故遺族が、この「C」の事件に気づきました。以後、私の患者さんの家族と共に「逃げ得を許さない」法律の改正に向けて行動をはじめました。 冒頭に記した「福岡海の中道大橋飲酒運転事故」には「危険運転致死傷罪」が適用され、20年という長い懲役刑となっています。しかし、一審では「危険運転致死傷罪」が適用されませんでした。それくらい微妙な話です。 北海道江別市の遺族、私の患者さん、福岡海の中道大橋飲酒運転事故の遺族の方々など多くの人々が「逃げ得を許さない法律制定」を訴え続けました。 運動を続けること十数年、遂に2014年5月20日「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律」(自動車運転死傷処罰法)が施行されます。 この法律は「自動車運転過失致死傷罪」と「危険運転致死傷罪」の内容に変更を加え、独立の法律として定められました。社会が動いたのです。素晴らしいことです。 自動車運転死傷処罰法に加えられた新たな規定の中に、「過失運転致死傷アルコール等影響発覚免脱罪」(発覚免脱罪)というものがあります。 発覚免脱罪とは、飲酒や薬物の影響で正常な運転ができないような状況で、自動車事故を起こして人を死傷させた場合、「飲酒等が発覚しないようにする目的で、その場から離れる」といったように飲酒等の発覚を免れる行為をしたケースを処罰するものです。 この法律の制定により「逃げ得」は許されなくなりました。飲酒運転などしない方には関係ないと思われるかも知れません、しかしこの法律が罰するのは飲酒だけではありません。 運転をする際には服用を禁止されている薬物も入っています。薬物の中には睡眠薬、向精神薬はもちろん、花粉症の方によく使われる「抗ヒスタミン薬」も含まれます。お薬の本を読めば「運転は禁」と書いてあるお薬があります。それがこの法律の規定に該当する「薬物」です。 身近なお薬、例えば風邪薬にも「運転は禁」と記されているモノが多いのです。ぜひ、1度ご自分の服用しているお薬が「運転禁止薬物」に該当していないか、見直してみてください。 飲酒運転に対する法律の変遷 長い年月がかかって、現在の法律ができあがっています。まとめます。 1999年の東名高速飲酒運転事故 2000年の小池大橋飲酒運転事故 当時は飲酒運転で死亡事故をおこしても業務上過失致死罪(最高5年の懲役) 」しか科せられなかった。飲酒運転に対して重罰を科すべきだとの世論が起こった。これを受けて 2001年:危険運転致死傷罪が成立(最高20年の懲役) 飲酒運転に重罪が適応されるようになった。しかし、これには抜け道があった(飲酒運転で事故をおこしても現場から逃げてアルコールが抜けてから出頭すると飲酒運転と認定されない)。 2003年:北海道江別市で高校生が飲酒運転(と思われる)によるひき逃げ(運転手は事故現場から逃走) 2006年:海の中道大橋飲酒運転事故(運転手は事故現場から逃走) 200X年:私の患者さんの娘さんの事故(運転手は事故現場から逃走) 飲酒運転事故を起こした運転手が現場から逃走することに対する非難が起こり、遺族が法律を変える運動を起こす。 2014年:「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律」が制定。 これにより「飲酒運転で事故をおこしても現場から逃げると重罪」が科せられることになった。 以上のような努力が実って飲酒運転による死亡事故件数は減少していますが、ゼロにはなっていません。飲酒運転は根絶すべきです。 参考:飲酒運転による死亡事故件数の推移(警察庁ウェブサイト) 「飲んだら乗るな 乗るなら飲むな」 「逃げるは負け」 です。 【参考文献】 北海道交通事故被害者の会 飲酒・ひき逃げ犯の厳罰化を求める署名運動 飲酒運転関係の資料1: 飲酒運転には2種類あります。「酔いの程度」で分類されます。 1. 酒気帯び運転 呼気(吐き出す息のこと)1リットル中のアルコール濃度が0.15mg以上検出された状態での運転 2. 酒酔い運転 アルコールの影響により車両等の正常な運転ができない状態での運転→呼気中のアルコール濃度とは関係がありません。お酒に弱ければアルコール濃度が0.15 mg以下でも酒酔い運転と判断されます。 飲酒運転関係の資料2: 飲酒運転をした際の罰則規定 「車両等を運転した者」が 1.酒酔い運転をした場合 5年以下の懲役又は100万円以下の罰金 2.酒気帯び運転をした場合 3年以下の懲役又は50万円以下の罰金 「車両等を提供した者」 1.(運転者が)酒酔い運転をした場合 5年以下の懲役又は100万円以下の罰金 2.(運転者が)酒気帯び運転をした場合 3年以下の懲役又は50万円以下の罰金 「酒類を提供した者又は同乗した者」 1.(運転者が)酒酔い運転をした場合 3年以下の懲役又は50万円以下の罰金 2.(運転者が)酒気帯び運転をした場合 2年以下の懲役又は30万円以下の罰金 最後に余計な一言: 法律は基本「元号」を用いています。正式な医療文書(公的診断書など)も同様で「元号記載」が基本。現在、大正、昭和、平成、令和が入り乱れています。元号では何年前に病気になったのか? すっと頭に入りません。西暦に統一すべきです。 公的文書の押印廃止で山梨県の印鑑業者は困っています。全国の印鑑の6割を山梨で作っているからです。デジタル化を進めるなら押印廃止よりも公式文書からの元号廃止が先だと思います。なお本文では西暦に統一しています。これを和暦で書いたら、恐らくかなり、時系列がわかりづらい文章になったと思います。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/08/29 福岡 海の中道大橋飲酒運転事故を覚えていますか? 2022年8月、以下のような報道が多数流れました。ご記憶の方も多いかと思います。 福岡市海の中道飲酒運転事故から16年 撲滅へ記憶をつなぐ(FBSニュース) 「海の中道大橋」飲酒運転事故から16年 問われる県民意識(NHK 福岡のニュース) この記事を読み、私の患者さんの「涙」を思い出しました。 最初に上記の記事にある福岡の飲酒運転事故を振り返ってみましょう。2006年8月に起きた自動車事故です。 「A」は大量に酒を飲んだ後、海の中道大橋を猛スピード(推定時速100km)で走っていました。そして、前を走っていた乗用車に追突、追突された乗用車は橋から15mの下の海に転落。転落した車に乗っていた5人家族のうち、両親は助かりましたが、小さな子供3人が亡くなりました。 この事故は「福岡 海の中道大橋飲酒運転事故」と称され、インターネット上で詳細な経過を読むことができます。悲惨です。 「A」は自宅→居酒屋→スナックで飲酒を続けた後、友人を乗せて福岡の繁華街まで移動するために車を運転中に事故をおこしたのです。 「A」は追突して海に落とした車に乗っていた5人を、同乗していた友人と共に、救助すべきでした。そうしていたら幼い3名の命は助かったかも知れません。助かれば「A」に課せられた罪は随分と軽くなったかもしれません。 しかし「A」のやったことは「救助」とは真逆でした。「A」は飲酒していたことを隠すために事故現場から逃走したのです。そして友人に連絡をとり、 「自分の身代わりになってほしい」と懇願→これは当然拒否されています。 「水を持ってきてほしい(アルコール血中濃度を減らそうと考えた)」→友人が水2 L を持ってきてくれたそうです。その水を飲んでいます。念のため申し添えますと飲酒後にいくら水を飲んでも血中のアルコール濃度は、一切、減少しません。水をいくら飲んでも無駄です。 その後、「A」は友人に諭されて事故現場に戻り、事故発生から約50分後に飲酒検知に応じ、翌8月26日朝に逮捕されています。 福岡地方検察庁は2006年9月16日に「A」を 危険運転致死傷罪(注:最高刑 懲役20年) 道路交通法の救護義務違反(ひき逃げ) で福岡地方裁判所へ起訴、懲役25年を求刑しています。 (注:なおこの犯人にお水を飲ませた友人も証拠隠滅の疑いで逮捕されています。飲酒運転と知りながら同乗した32歳の会社員も道路交通法違反(飲酒運転幇助)で逮捕されています。) しかし、福岡地方裁判所の下した結論は予想外に軽い判決でした。 業務上過失致死傷罪(最高刑:懲役5年) 道路交通法違反(酒気帯び運転、ひき逃げ) を適用して懲役7年6ヵ月の判決を言い渡したのです。 検察は控訴、福岡高裁での判決は検察の主張が認められ、 危険運転致死傷罪(最高刑:懲役20年) 道路交通法の救護義務違反(ひき逃げ) の2つが適用され「A」には懲役20年の判決が下り最高裁でも確定しています。 なお、信じがたいことに被害者家族の方は、いわれの無い誹謗中傷を受け福岡で暮らすことができなくなり、今は別な場所でひっそりと暮らしているそうです(参考:福岡3児死亡飲酒事故 きょう15年 遺族が誹謗中傷受け転居 被害者守る仕組み必要:中日新聞Web)。飲酒による交通事故は加害者、被害者、その家族を含め多くの人の人生を変えてしまいます。 ここで少し大きな話をします。 社会というか社会の仕組みや法律を変えるのは大変です。簡単ではないです。私も 「社会を変えよう」 「社会の仕組みを変えよう」 「こういう社会にしたら良い」 と思うことはありますが、実際に行動を起こしたことはありません。 しかし、後述する私の患者さんの「怒り」は社会を変えました。もちろん一人の力ではありません。福岡の事件とも関係します。今回はその話が主題です。 福岡の事件で「A」が事故をおこして最初にやったことは「逃亡」です。飲酒運転で逮捕されるより、酔いをさましてから出頭すれば良いと考えたのでしょう。アルコールや薬物を抜いてから出頭すれば轢き逃げ+危険運転などしか、罪に問われませんでした。変な話です(でした)。 なお「追い飲み」と言って、事故をおこし現場を立ち去り別な場所で飲酒をすれば、それも大量に飲めば「今、飲んだのです。事故当時は飲酒していません」と言い逃れることもできたのです。返す返すも変な話です(でした)。「でした」と記しているのは当時と今では、後述する如く、法律が変わったのです。 福岡の事故は2006年ですが、それより以前2003年に北海道江別市で高校生が飲酒運転(と思われる)によるひき逃げでお亡くなりなりました。この時車を運転していた人は現場から逃げ(つまり引いた高校生の救護をしないで)、酔いが完全に醒めてから逮捕されています。犯人は「懲役2年10月」を課されましたが、飲酒運転(酔いが完全に覚めてから逮捕)にも危険運転(時速50kmで走っていたことになっている)にも問われなかったのです。 この事故の遺族は「逃げ得社会」はおかしいと考え法律を変えるべくさまざまな運動を開始していました(参考文献2)。この運動に、後に私の患者さんも関わることになったのです。 患者さんの「涙」 患者さんの家族の涙を見ること、医師をしていれば稀ならずあります。しかし、患者さん自身の涙を見ることは滅多にありません。ある日の外来診察中のことです。診察予定の方の血圧が異常高値を示していました。この患者さん「B」さんは大動脈瘤に対して手術を行った方でした。かなり珍しい大動脈瘤です。 上行大動脈に血栓があるので慎重が上にも慎重な手術操作が必要です。普通上行大動脈にこのような大きな血栓が形成されることは稀です。極めて稀なことが起こっていました。この手術は特殊な方法を用いないとできません。脳を還流する頚動脈のすぐ側に大きな血栓があります。少し間違えると脳梗塞を生じます。それゆえ普通の胸部大血管手術ではあり得ないような様々な準備を整えてから上行弓部大動脈人工血管置換術を行いました。そういうわけで私にとっても忘れられない患者さんです。 この方の手術を行ったのが200×年2月、経過は良好で退院。順調に経過して何事もなく2月中に退院となりました。手術後の初めての診察日のことです。前述のごとく、血圧があり得ないくらい高いのです。 「Bさんどうしました? 血圧が高いですね。お薬はのんでいますか?」 と聞いたところで、患者さんが泣いているのに気づきました。号泣し始めました。慟哭といっても良いくらいでした。詳しく話を聞いてみました。悲惨な交通事故が起きていました。「B」さんが退院して家に帰った直後、中学生の娘さんが交通事故でお亡くなりになっていたのです。 Bさんの娘さんの身に起こった交通事故 亡くなった娘さんは学校の帰りがてら入院中のお父さんを見舞うために時々病室に来ていました。あの娘さんが亡くなったと思うと私も突然で言葉が出ませんでした。その先の話を聞いたらもっと言葉が出なくなりました。他に私の診療を待っている患者さんもいらしたのですが、そちらの診療は別の医師に任せてBさんのお話をゆっくりと伺いました。話をよく聞いてみると、 Bさんの娘さんは同級生と一緒に自転車で帰宅途中でした。夕方です。その二人の運転する自転車に車が突っ込んだのです。運転していたのは「C」です。 道路から二人が跳ね飛ばされて横たわった箇所まで数十mもあり、警察の捜査で、二人を跳ねた時「C」の自動車は衝突時に時速90kmくらいで走行していたことがわかりました。自転車も走る一般道で90kmあり得ないですね。 二人を跳ねてしまったことに気づいた「C」は、二人を救助すること無く、現場から逃走します。「C」は事故当時酩酊していたのです(推定)。警察に「C」が出頭したのは事故発生から6時間が経過していました。6時間も経つと呼気からアルコールが検出されません。だから飲酒運転を証明することができないのだそうです。 「逃げ得だ」「許せない」と思いました。 「C」と一緒に飲酒をしていた方が見つかったのですが、「C」の事故当時のアルコール濃度はわかりません。 以上、書けば数行ですが、泣きながら、ぽつぽつと話をして下さいました。話を聞き終わったら私も、もらい泣きしそうになりました。掛ける言葉がありませんでした。 「無理しないように」「血圧が上がらないように」「お薬をきちんとのむように」と、月並みな言葉しか出てきませんでした。 次回に続きます。 【参考文献】 北海道交通事故被害者の会 飲酒・ひき逃げ犯の厳罰化を求める署名運動 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/08/01 未だCOVID-19は収まりません。RNAウイルスは変異しやすく対処が難しいです(コロナウイルスもその一種です)。インフルエンザウイルスも代表的なRNAウイルスです。変異します。それゆえに毎年「今冬流行するだろうと予測するインフルエンザウイルスの型」を予測してそれに対応したワクチンを製造します。 少し気が早いかも知れませんが今冬つまり2022-2023年冬に日本で流行ると予想される型は A型株: A/ビクトリア/1/2020(IVR-217)(H1N1) A/ダーウィン/9/2021(SAN-010)(H3N2) B型株: B/プーケット/3073/2013(山形系統) B/オーストリア/1359417/2021(BVR-26)(ビクトリア系統) です(参考:令和4年度インフルエンザHAワクチン製造株の決定について 国立感染症研究所)。 滅多に無いですが、この予想が外れると「インフルエンザワクチンは効き目が悪い」ことになります。 今、南半球でインフルエンザが流行しています。コロナ禍でインフルエンザはほとんど流行りませんでしたが、日本でも今冬は流行ると予想されます。インフルエンザワクチンを受けておきましょう(10月から今冬用のワクチンが供給されます)。 医学の歴史は、当初「感染症と痛みとの戦い」の歴史です。これに関する本はたくさんありますが、以下に挙げる本は「感染と痛み」と医学の戦いに焦点を当てて書かれた本です。 近代医学のあけぼの―外科医の世紀 ユルゲン トールヴァルド(著),小川道雄(翻訳)2007年刊 外科の夜明け(講談社文庫) トールワルド(著), 塩月正雄(翻訳)1977年刊 1.も2.も元本は一緒ですが翻訳者が違います。2.は絶版になっていますが、古本は入手可能です。どちらの本でも構いません、医学に興味がある方はぜひお読みください。 幸いなことに痛みに対しては「麻酔」が確立されましたが、今も全身麻酔が「なぜ効くのか」は解明されていません。それはともかく、感染症に対しても様々な方法、様々な手段を人類は手に入れましたが、未だ完全な対処法はなく、これからも人間は感染症に苦しめられると思います。 指紋の歴史 ここから、本来の指紋の話を始めます(前回はこちら)。 感染症対策として電子マネーが使われるようになっています。お札にコロナウイルスが付着するとお札のやりとりで、手から手へウイルスが伝播します。それゆえにできるだけ、現金に触れないのも感染予防になり得ます。その電子マネーの個人識別には「指紋」が用いられています。指紋は古くて新しい「個人識別方法」です。そして、もちろん、犯罪捜査にも「指紋」は必須です。 指紋の歴史について少し整理します。 古代?: 土器を作るときに、偶然付いた指紋があります。指紋を何かの目的に意図して利用した形跡はありません。 1880年10月: 築地にいたスコットランド人医師ヘンリー・フォールズは指紋のもつ医学的、法医学的な意味に気づいてNATUREに論文を投稿、掲載されました。ヘンリー医師はNATURE投稿前にイギリス人探検家、科学者のゴールトン(ダーウィンの従兄)と指紋について相談しています。 1880年11月: イギリス人博物学者・科学者ハーシェルは1858年から自分がインドに滞在していた時に「指紋を個人識別に使っていたこと」をNATUREで発表。「自分こそヘンリー医師よりも先に指紋を世界で最初に活用した」と主張。これはもちろん築地のフォールズ医師が書いた論文に触発されて書いたのでしょう。 1888年: ヘンリー医師はスコットランドヤードに対して、指紋が犯罪捜査に役立つことを提案。しかし無視されています。 1888年5月: 英国王立協会でゴールトンは「ハーシェルが書いたNATUREの論文を紹介、ハーシェルこそ世界で初めて指紋を個人識別に使うという考えを考案した人物であり、ハーシェルの後にヘンリー医師が指紋についてNATUREに論文を書いた(実際は逆)」と講演。ヘンリー医師が、インドでハーシェルが行っていた指紋認証を知るよしもありません。 確たる証拠はありませんがハーシェルとゴールトンは「組んだ」と推測する本もあります(文献1)。ハーシェルとゴールトンは旧知の間柄です。2人とも英国の上流階級です。そう思われても仕方ないでしょう。ゴールトンはプロの科学者です。「指紋研究」を続けて、ついに指紋に関する本を出版します。 1892年: ゴールトン「Finger Prints.」を出版。 1893年: 個人識別法に関する委員会がイギリスに設置されました。委員長の名前をとってトゥループ委員会と称されました。1894年に報告書が出ます。指紋鑑定を個人識別に使うことが決定されたのです。それには「ゴールトンが見つけた指紋分類」を採用することになったのです。 その決定書には 「ゴールトンの名前と不可分になっている指紋はハーシェルによって最初に提案された」 とあり、ヘンリー医師の名前はありませんでした。ヘンリー医師は憤ります。トゥループ委員長に直談判しますが、無視されます。ヘンリー医師が用いていた指紋分類を用いると計算上17兆も違った指紋を識別できるのですが、ゴールトンが提案していた方法では数十万しかできません。明らかにヘンリー医師の方法が優っています。 1893-1894年頃: ヘンリー医師は、ゴールトンがすでに「Finger Prints.」という本を出版していることに気づきます。しかしこの本には残念なことにヘンリー医師が書いたNATURE論文のことはあまり触れられていませんでした。 1894年10月: ヘンリー医師はNATUREに「指紋による累犯者の識別をめぐって」と言う論文を書き「自分の方が先に指紋について論文を書いた」ことを訴えました。その論文で厳しくゴールトン、ハーシェルのことを非難しました。ゴールトン、ハーシェルの怒りを買い、彼らから反撃されます。 1895年: ゴールトン「Finger Print Directories.」を出版。 1905年: ヘンリー医師「Guide to finger-print identification」を出版。 1909年: ゴールトンは、指紋を始めとする科学研究の業績により「男爵」に叙せられました。1910年ヘンリー医師は当時内務大臣だったあのウィンストン・チャーチル(当時35歳)に「自分の指紋に関する業績も認めてくれる」ように嘆願書を提出しましたが、無視されています。 1911年: ゴールトンは他界。 1912年: ヘンリー医師「Dactylography; Or, the Study of Finger-Prints」を出版。 1915年: ヘンリー医師「How the English fingerprint method arose」を出版。 1916年: ハーシェルは「The Origin of Finger-Printing指紋の起源」を著しますが、ヘンリー医師のことには全く触れませんでした。ヘンリー医師は再度「自分こそ指紋を発見」したとNATUREに投稿しますが、無視され、ハーシェルに「自分の方がインドで指紋を最初に発見した」と反論されます。 1917年: ハーシェル他界。 1930年: ヘンリー医師も他界。ヘンリー医師は亡くなるまでに指紋に関する本を3冊出版しています。それらの本では、かなり詳しく指紋研究、指紋分類etc.のことを書いています(文献3-5)。残念なことにヘンリー医師の「指紋」に関する業績は生前には認められず、彼は失意、困窮の内に亡くなり、彼の子供2名も困窮していました。 1937年: スコットランドの裁判官ジョージ・ウィルトンはヘンリー医師の業績を認める運動を開始、貧しい生活を送っていたヘンリー医師の子供に功労金が支払われるようになり、ヘンリー医師の墓も建てられました。見ている人は見ているのですね。しかし、その後ヘンリー医師の業績を顧みる人もなく、ヘンリー医師の墓はどこにあるのか解らないような状態になっていました。 1978年: 二人のアメリカ人指紋検査官がヘンリー医師の「指紋に関する業績(論文や著書)」に気づき、英国ストーク・オン・トレント市(Stoke-on-Trent)のウルスタントン町(Wolstanton)の共同墓地に埋もれていた墓を探り当て自分たちでお金を出し合って、お墓をきれいに建て直し、今ではウルスタントン町の名所になっています。アメリカ人がイギリス人の業績を掘り起こし顕彰しているのです。良い話ですね。2007年には地元の警察がヘンリー医師の顕彰碑を建てています。 ゴールトンの指紋識別は基本的に単指(1本指)指紋による方法で、どう考えてもヘンリー医師の主張する10本指指紋を用いた方法の方が優れていると、私は、考えていました。しかし、スマホが出現し、話は変わってきました。スマホで使う指紋認証は、普通、単指指紋認証です。単指指紋にも光が当たったのです。10本全ての指をかざして個人識別をしていたら時間がかかります。 つまり、単指指紋識別にも10本指紋識別にもそれぞれ意味があり、それぞれに役割があると、今では考えます。まさか100年以上たってからゴールトンが主張した単指指紋識別が普通に使われるようになるとは思わなかったでしょう。 まとめ 1.イギリス人科学者ハーシェル: 1850年代、インドで指紋を使った個人識別を、世界で最初に、行った。後に指紋は生涯不変であることを証明。 2.ヘンリー医師: 1880年、日本で行った指紋に関する研究をNATUREに発表。10本全ての指で指紋を採取する必要性と犯罪捜査に指紋が役立つことを論文にした。この論文が世界で最初に書かれた指紋に関する論文であり、日本滞在中にこの論文を書いています。 3.イギリス人科学者ゴールトン: 指紋が犯罪捜査に役立つこと、単指指紋も個人識別に役立つことを追求。指紋に関する論文、著作を重ね「指紋の持つ意義」を広く知らしめた。 https://galton.org/fingerprinter.html にゴールトンが書いた指紋に関する論文、一般記事がPDFになって読むことができます。大量にあります。 以下、上記サイトより引用します。 1888 'Personal identification and description.' Nature 38 : 173-7, 201-2 1888 'Personal identification and description.' (revised version) Proceedings of the Royal Institution 12 : 346-60 1889 'Personal identification and description.' Journal of the Anthropological Institute 18 : 177-91 1900 'Identification offices in India and Egypt.' Nineteenth Century 48 : 118-26 1910 'Numeralised profiles for classification and recognition.' Nature 83 : 127-30 1888 Personal Identification Scientific American Supplement 26 (659, August 18) : 10532-3 1888 Personal Identification. Times, The (May 26) : 13c 1890 'The patterns in thumb and finger marks.' Nature 43 : 117-8 1890 'The patterns in thumb and finger marks.' Proceedings of the Royal Society 48 (November 27) : 455-7 1891 Identification by finger tips. Nineteenth Century 30 (August) : 303-11 1891 'Methods of indexing finger-marks.' Nature 44 : 141 1891 'Methods of indexing finger-marks.' Proceedings of the Royal Society 49 (May 28) : 540-48 1891 'The patterns in thumb and finger marks.' Philosophical Transactions of the Royal Society, B 182 : 1-23 1891 'The patterns in thumb and finger marks.' Journal of the Anthropological Institute 20 : 360-1 1892 'Imprints of the Hand, by Dr. Forgeot (exhibited by Francis Galton' Journal of the Anthropological Institute 21 : 282-283 1892 'Finger prints and their registration as a means of personal identification.' Transactions of the Seventh International Congress of Hygiene and Demography 10 : 301-3 1893 'Identification.' [Letter] Nature 48 : 222 1893 'Finger prints in the Indian Army.' Nature 48 : 595 1893 'Recent introduction into the Indian Army of the method of finger-prints for the identification of recruits.' Report of the British Association for the Advancement of Science : 902 1893 'Enlarged finger prints.' Photographic Work (February 10) 1893 'Identification.' [Letter] Times, The (July 7) : 4e 1893 'Payments through telegram by P.O. Savings books.' [Letter] Times, The (December 27) : 7e 1895 'The wonders of a finger print.' Sketch (November 20) 1896 'Les empreintes digitales' Comptes-rendus du IVe Congres International d'Anthropologie Criminelle. Sessions de Geneve : 35-8 1896 'Prints of scars.' [Letter] Nature 53 : 295 1896 Prints of Scars. Scientific American 74 (March 14) : 168 1899 'Finger prints of young children.' Report of the British Association for the Advancement of Science 69 : 868-9 1902 'Finger print evidence.' Nature 66 : 606 1905 [Review of] Guide to Finger Print Identification, Henry Faulds Nature 72 : iv-v Supplement 1909 Identification by finger prints. [Letter] Times, The (January 13) 以上、引用終了。 これらは全て上記のサイトでPDFになっているので誰でも読むことができます。ゴールトンの指紋に関する熱意、思いを感じます。TIMESにも解説を書き、一般人にも啓蒙しています。指紋に関する論文を次から次に書いて発表したゴールトンも「偉い」と思います。 スマホ全盛時代となり指紋が広く使われるようになるとは、ヘンリー医師、ゴールトン、ハーシェルの誰もが思わなかったでしょう。今考えると各々が良い仕事をしたのだと思います。 ヘンリー医師の研究は、繰り返しになりますが、東京築地で行っています。そこに、私は、親しみを覚えます。 築地に行くことがあれば聖路加国際病院の脇にあるヘンリー・ヘンリー医師の顕彰碑をご覧ください。そして今から140年前、東京都大森の縄文土器から「指紋」に気づき、指紋の持つ価値、意味を研究し、そして世界初の「指紋研究論文」をこの地で書き上げてNATUREに投稿したことを思い起こして頂ければ、と思います。 終。 追記: 元警視庁捜査1課長の光真章(みつざねあきら)さんは、指紋だけで無く足紋(足指の指紋)も個人識別に役立つことを提唱しています。足の方が靴を履いているため、そして靴下を履いているため保護され、大震災のような災害時には手よりも足の方が残る確率が高いからだそうです。 その光真章さんはヘンリー・フォールズ医師の眠るイギリスのWolstantonを訪れ、日本に残っていたヘンリー医師の遺品を地元の警察に贈呈しています。良い話です。 【参考文献】 コリン・ビーヴァン著、茂木健訳「指紋を発見した男―ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け」主婦の友社:2005刊 HENRY FAULDS著「Dactylography; Or, the Study of Finger-Prints」1912年刊 HENRY FAULDS著「Guide to finger-print identification」1905年刊 HENRY FAULDS著「How the English fingerprint method arose」1915年 HENRY FAULDS著「Nine Years in Nipon. Sketches of Japanese Life and Manners」1888年 ウェルカム図書館 Wellcome Collection 医学史に関する膨大な資料、文献を所蔵していることで有名です。入場料は無料、コロナ禍で一時閉館していましたが、今は開館しています。予約不要と書いてあります(2022-06-15 確認)。ロンドンにあります。行ってみたい場所の1つです。 Letters of Notable Victorians 2-5は全て、電子化されています。 「Historic Works on Fingerprints」というサイトで読むことができます。 The Project Gutenberg EBook グーテンベルグプロジェクトでも上記文献2.は紹介されています。 S Inaga , H Osatake, K Tanaka:SEM images of DNA double helix and nucleosomes observed by ultrahigh-resolution scanning electron microscopy J Electron Microsc (Tokyo). 1991 Jun;40(3):181-6. アン・セイヤー 著:ロザリンド・フランクリンとDNA―ぬすまれた栄光 草思社(1979/1/1) ブレンダ・マドックス 著: 福岡 伸一 (翻訳):ダークレディと呼ばれて: 二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実 化学同人(2019/9/6) 高野 麻子:「指紋と近代――移動する身体の管理と統治の技法」(みすず書房) 2016年刊 高野 麻子:「指紋法」誕生の軌跡 : 大英帝国のネットワークと移動する身体の管理という「課題」 The History of Practical Application of Fingerprinting : Networks of the British Empire and the "Problem" of Controlling Human Mobilities 東京大学大学院情報学環紀要 -(82), 43-68, 2012-03 Francis Galton :Personal identification and description.' Nature 38 : 173-7, 201-2 1888年 Francis Galton:'Personal identification and description.'(revised version) Proceedings of the Royal Institution 12 : 346-60 1888年 Francis Galton:'Finger print evidence.' Nature 66 : 606,1902年 Henry Faulds[Review of] Guide to Finger Print Identification, Nature 72 : iv-v Supplement 1905年 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/07/11 前回、前々回でも紹介したように1874年に来日したイギリス医師フォールズは日本での診療や日本人医学生への教育の合間に縄文土器を見て指紋が持つ様々な意味に気づき、主に日本人を研究対象として指紋に関する研究を行いその成果を1880年にNATUREに投稿しました。当時の日本人はフォールズ医師の指紋研究に好意的で積極的に参加しています。 前回ご紹介した通り、この論文でフォールズは指紋が 犯罪捜査に役立つこと 個人確認に役立つこと 遺伝関係の確認に役立つこと(親子関係など) などを予測しています。 遺伝関係の確認には、今ではPCRを用いたDNA鑑定がなされ、指紋が果たす役割は終わっているでしょう。しかし、1. 2. は今でも重要な役目を果たしています。スマホ使用時や電子マネーを使う際には指紋認証が求められます。指紋はますますその重要性が増していると言っても過言では無いと思います。 繰り返しますが、この重要な発見の元となったのは日本でのフォールズ医師が行った研究です。しかし、フォールズの存命中は不思議なことに「指紋研究はフォールズとは全く関係の無い別な研究者の業績」とされていました。フォールズの指紋研究は、ある意味盗まれてしまったのです(後述します)。 DNAの二重らせん構造の発見と言えばワトソン(James Dewey Watson:1928-)とクリック(Francis Harry Compton Crick:1916-2004)がなした世紀に残る大発見とされていますが、最近はどうやら旗色が悪いようです。「DNAが二重らせん構造をしていると予想した論文」も「盗まれた」モノだと主張する人がいます(参考:156:DNAが二重らせん構造をしていることを実際に見て撮影したのは日本人研究者)。 それと似たようなことが「指紋研究」にも生じていました。 指紋の話に戻します。 フォールズの指紋研究はその成果を「盗まれた」のです。NATUREに掲載されたフォールズの論文は、ほとんど無視され、成果は横取りされたがゆえにフォールズ医師の業績は評価されていませんでした。つくづく可哀想です。 現在、指紋発見の経緯は細かいところまで明らかになり、フォールズ医師こそ指紋研究の発見者だということになっています。フォールズは存命中に「自分こそ、指紋研究の創始者である」と証明するため、様々な方面へ働きかけ、関係各所に嘆願を行いました。しかしそれは無視され、残念なことに指紋研究は別な研究者が創始し広めたことになっていました。 さて、なぜ、筑地病院のフォールズの指紋研究は、隠され、けなされたのでしょうか。経緯をお示しします。読むと、かなり、悲しくなります。 この辺りの事情の端緒を前々回で紹介しました。端緒はダーウィンへの手紙です。 1. あの進化論で有名なダーウィン宛に手紙 1880年に2月、フォールズ医師(当時東京築地在住)は、雑誌NATUREに論文を投稿する前、あの進化論で有名なダーウィン宛に手紙を書き「指紋研究」への助言、助力を求めています。これが「決定的な悪手」でした。 この手紙は現存します。ロンドンにある「ウェルカム図書館(Wellcome Collection)」に所蔵されています。電子媒体でも公開されています。以下の写真はその現物の写真です。本邦初公開?かも知れません。 なお、同図書館の正式な許可を得て掲載しています(文献11参照)。 図1:上方右側に「Tsukiji hospital Tokio」と記されているのがわかりますでしょうか? 図2 図3 図4 図5 図4、図5はフォールズ医師がダーウィン宛に書いた手紙に同封した指紋、掌紋です。これに示されるように、フォールズ医師は最初から、10本指「全ての指紋」と「掌紋」とを記録しています。これが、後にとても重要な「意味」を持ちます。 さて、本文は筆記体で読めませんが、この手紙の抄録が、なぜか、ケンブリッジ大学の図書館にあったのでそれを引用します。 “私は、ダーウィン先生の本を読んで勉強した医師です。ダーウィン先生なら、私の研究に興味を持ってくださると思い、この手紙をしたためています。私が研究してきたのは、人間の手と指に刻まれている皺と溝についてです。私の研究に、ダーウィン先生、お力を貸してください” 2. ダーウィンの従兄、フランシス・ゴールトン ダーウィンにはこのフォールズ医師の手紙や論文の内容がよくわからなかったのか、従兄のフランシス・ゴールトンに手紙を書き、フォールズ医師の指紋研究のことを知らせます。この手紙も現存します。フォールズの手紙と同じく、ウェルカム図書館に所蔵されています。 ダーウィンの従兄、ゴールトンは指紋研究に全く関係のない人物でした。しかし、それがいつの間にか、、、。 以下、次回へ続く。。。 【参考文献】 コリン・ビーヴァン著、茂木健訳「指紋を発見した男―ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け」主婦の友社:2005刊 HENRY FAULDS著「Dactylography; Or, the Study of Finger-Prints」1912年刊 HENRY FAULDS著「Guide to finger-print identification」1905年刊 HENRY FAULDS著「How the English fingerprint method arose」1915年 HENRY FAULDS著「Nine Years in Nipon. Sketches of Japanese Life and Manners」1888年 ウェルカム図書館 Wellcome Collection 医学史に関する膨大な資料、文献を所蔵していることで有名です。入場料は無料、コロナ禍で一時閉館していましたが、今は開館しています。予約不要と書いてあります(2022-06-15 確認)。ロンドンにあります。行ってみたい場所の1つです。 Letters of Notable Victorians 2-5は全て、電子化されています。 「Historic Works on Fingerprints」というサイトで読むことができます。 The Project Gutenberg EBook グーテンベルグプロジェクトでも上記文献2.は紹介されています。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/06/13 前回より続きます。 同一のDNAを持っている一卵性双生児でも指紋は違います(参考:Identical Twins and Fingerprints)。不思議です。指紋は受精後10-16週で決まります。その間の胎内環境で指紋が違ってくるのです。 なおフォールズ医師の業績を紹介した文献「The Preservation ion of friction ridges(Laura A. Hutchins 著)」に以下の記載があります。 To prove permanence, Faulds and his medical students used various means—razors, pumice stones, sandpaper, acids, and caustics—to remove their friction ridges. As he had hoped, the friction ridges grew back exactly as they had been before. 「指紋が不変である事を証明するために、フォールズ医師と彼の医学生たちは、カミソリ、軽石、紙やすり、酸、苛性剤など様々な手段を使って指紋を取り除いた。フォールズが期待した通り、指紋は元通りになった。」 つまり、指紋を取り除いても皮膚が再生すれば元通りになるのですね。 さて、下の写真は当クリニックで切断指を治療した患者さんの指です。再生した指の指紋と以前の指紋は、多分、同一だと思いますが証明する方法はありません。 (注:当院ではこのような指の再生治療を行っています) さて、前々回で紹介したスコットランド医師ヘンリー・フォールズ(Henry Faulds、1843-1930)が『NATURE』 (1880年10月28日605号)に寄稿した「指紋に関する論文」を紹介します。 この論文を翻訳してみました。古い英語が使われていたりするので間違っているかもしれませんが、大意はあまり変わらないと思います。 手の「指紋」について ヘンリーフォールズ 筑地病院 東京 日本 一年ほど前、日本で発見された先史時代の土器の標本を見ていたら、粘土がまだ柔らかいうちに作られた際に付けられたと思われる指の跡に気づきました。それから「指の跡」に注目するようになりました。残念ながら、古い土器に付いている指紋はどれも曖昧ではっきりとしたものではなく、土器に付いている指紋はあまり参考にはなりませんでした。しかし最近作られた陶器に残っている指の跡は結構はっきりとしていて、それで人間の指紋の特徴を観察することができるようになりました。 最初に猿の指紋の研究をしました。猿の指紋は人間の指紋と似ています。私は後で追求しようと思っていることについて幾つか述べる機会がありましたが、その点については別の手紙で発表するかもしれません。そういう機会があれば良いと思っています。 一方で、キツネザルの興味深い遺伝的関係に光を当てるための追加の手段として、これに関連したキツネザルなどの慎重な研究を提案したいと思います。 私は、日本の人々から多くの指紋を採取しました。現在、他の民族からも採取しているところです。ここで、いくつかの興味深い点を紹介します。 指紋の溝は非常に非対称的な発達を示す人がいます。このような場合、片方の手の指はすべて同じような線の配列をしていますが、もう片方の手ではそのパターンが逆になっています。 私が調べたジブラルタル猿(Macacus innus)にもこのような配列がありました。私がここで検査した数少ないヨーロッパ人にもこのような配列が見られます。 植物観察用レンズは、このような指紋の詳細な特徴を記録するのに役立ちます。 指紋のループが発生しているところでは、一番内側の線は単に切れて突然終わることもあれば、またループが現れて終わることもあります。元の方向に向きを変えて切れ目なくループが続いていることもあります。また鉄道地図の中には分岐点のように合流したり、分岐したりする指紋線もあります。しかし様々な種類の指紋を印刷すると、両手が私たちに与える対称性の一般的な印象と似ているかもしれません。 日本人の場合、両手の親指の線は似たような螺旋状の渦巻きを形成しています。左手の人差し指の指紋線は独特の楕円形の渦巻きを形成していますが、右手の対応する指紋線は右手の人差し指の線とは全く逆の方向を持つ開いたループを形成しています。右の薬指にも楕円形の渦巻きがありますが、対応する左指には開いたループがあります。 特定の掌紋は両手で平行に並んでおり、非常に対称的であり、したがって英国人のそれとはかなり異なっています。 これらの例は両民族の典型的なパターンを示すものではなく、単に観察すべき事実の種類を示すものだと思っています。 私の観察方法は、まず指をよく観察してできるだけ正確に曲線の大まかな傾向をスケッチし、国籍、性別、目と髪の色を記録し、後者の標本を確保することです。私はこれをシダの葉の記録に使う方法である「ネイチャープリンティング」を使って記録することにしました。必要なのは一般的なスレート板や滑らかな板、またはブリキのシートを印刷用インクを非常に薄く均一に広げたものだけです。より強い記録を残したい場合は、しっかりと柔らかく押し付けて、少し湿った紙に転写します。 私はガラス板に指紋の記録を残すことに成功しました。この方法だと非常に繊細な部分まで記録できます。実際にはやや淡いですが、微細な毛穴の細部まで非常によく表現されているのでデモンストレーションには役立つでしょう。色の違うインクを使うことで、2つのパターンを重ね合わせて比較することができます。ガラス記録した指紋は投影装置で表示できるかもしれません。 私は必要に応じて各事件の詳細を記入するための空欄の用紙と、顕微鏡検査のための毛髪の標本を添付したいくつかのアウトラインハンドを用意していました。 それぞれの指先は単独で行うのが最善であり、人々はまれにプロセスに従おうとします。少しのお湯と石鹸でインクを除去します。ベンジンはインク除去に、より効果的です。 これらの無限の品種を通じた遺伝の優勢は、時に非常に印象的でした。 私は親子の間に似た指紋のパターンを発見したことがあります。しかし否定的な結果もあります。親子関係に関して何も証明しないかもしれません。注意を払うことが重要です。 私は、これらのパターンを注意深く研究することがいくつかの点で役立つかもしれないと確信しています。 私がサルに存在することを発見した類似性を他の動物にも拡張できるかもしれません。 これらの類推は更なる分析を認めるかもしれないし、よりよく理解された場合には、民族学的分類に役立つかもしれません。 もしそうなら古代の陶器に見られるものは、歴史的に非常に重要になるかもしれません。しかし、私はこれについて非常に疑わしいです。 ミイラの指は特別な準備をすれば、比較のために結果が得られるかもしれません。しかし、私はそれには懐疑的です。 粘土やガラスなどに血のついた指紋記録が残っていれば、犯罪者を科学的に特定するのに役立つかもしれません。私はすでにそのような2つのケースを経験しています。 1番目のケースでは、脂ぎった指の指紋が、強いアルコールを飲んでいた人間を特定しました。その模様はユニークなもので、私は以前にその人(アルコールを飲んだ人)の指紋記録を入手したことがあったのです(注:どうも教えていた学生が夜中にフォールズの研究室にあったアルコールを飲んでいて、それに気づいたらしい、フォールズ、結構お茶目です)。元の指紋とアルコールグラスの指紋は一致しました。 2番目のケースは、白い壁に残っていた煤けた指の跡が容疑を否定する証拠として使われました(注:犯人の指紋と、指紋が違ったらしい)。 他のケースでは、いくつかの切断された被害者の手だけが発見されたときのように、医学的な法的調査が発生する可能性があります(以前に知られていれば、それらはペニー小説家の標準的なモグラよりも価値ではるかに正確である)。以前に知られていなかった場合には、遺伝学の専門家は、多くの場合にはかなりの確率で、またいくつかの場合には絶対的な精度で親族を決定することができるかもしれません。このような場合、原告はこの原則の範囲を超えていないかもしれません。 認識可能なTichborne型があるかもしれないし、専門家が事件を関連付ける可能性のあるOrton型があるかもしれません。絶対的な同一性は、いくつかの状況では子孫関係を証明するでしょう。 私は、このような一般的な結論に到達してから、私たちが指紋を記録するのと同様、中国の犯罪者の指紋記録が残されていたと聞いたことがあります。しかし、私はまだ、この点についての正確な、あるいは信憑性のある事実を得ることに成功していません。エジプト人は、日本人が現在行っているように、犯罪者の自白を親指の爪で封印していたことが、最近の発見で証明されています。しかし、これは全く別の問題であり、興味深いことに、我々の国イギリス、給仕の女は、同様な方法で封印された手紙にスタンプを押していたのです。 写真の他に重要な犯罪者の指紋の記録を残すことの利点については疑いの余地がありません。昔、中国人が犯罪者の指紋記録を残していたことを知るのは驚くべきことではないと思います。本当にそういう記録を見つけることができたら嬉しいと思います。それは方法の有用性を確認するのに役立つし、蓄積されたかもしれない事実は忍耐強い観察者のための豊かな人類学の宝庫になるでしょう。 以下、次回続く。 【参考文献】 コリン ビーヴァン著、茂木 健訳「指紋を発見した男―ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け」主婦の友社:2005刊 HENRY FAULDS著「Dactylography; Or, the Study of Finger-Prints」1912年刊 HENRY FAULDS著「Guide to finger-print identification」1905年刊 HENRY FAULDS著「How the English fingerprint method arose」1915年 HENRY FAULDS著「Nine Years in Nipon. Sketches of Japanese Life and Manners」1888年 西岡研介著:「噂の眞相」トップ屋稼業 (河出文庫):上述の指紋の話の他にも、あれれ?という話が沢山紹介されています。 2-5は全て、電子化されています。 「Historic Works on Fingerprints」というサイトで読むことができます。 The Project Gutenberg EBook グーテンベルグプロジェクトでも上記文献2.は紹介されています。 https://www.gutenberg.org/files/47911/47911-h/47911-h.htm 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/05/30 前回に引き続き、指紋の話をします。 あっと驚く、縄文人の指紋! が今回の主題です。 今回も写真があります。苦労して入手した写真もあります。かなり珍しい指紋の写真もあります。写真だけでも眺めて楽しんでください。 最初に色々な方の指紋を示します。 当たり前ですが、皆、形が違います。 今回は格調高く世界初の指紋研究を紹介するつもりでしたが、その前に「偉い人」の指紋に関する余話を紹介します。それから本論の「あっと驚く、縄文人の指紋」をお目にかけます。 偉い人の指紋? 最初に「ある偉い人」の指紋にまつわる逸話を紹介します。何十年も前に「偉い方」が要職にあった時のことです。「偉い方」は、「終戦直後、大学時代にあまり褒められたことでは無いことで警察に捕まったことがある」と、ある雑誌で報道されました。こういう時、身に覚えがあれば「放置」して「記憶にありません」で対処するのが1番良いと思います。 誰だって間違いを起こすことがあります。何十年も年、若い時の「微罪」を問われてもどうしようも無いです。こういう時、身に覚えがあるなら放置すべきだと思います。 「記憶にありません」を繰り返していれば大方の人は、事情を察して、それ以上追求しないでしょう。しかし「偉い方」は別な方法をとりました。雑誌の記事は「ねつ造記事だ」と反論、報道した雑誌を訴え裁判になりました。最悪の一手です。一審では、雑誌側の負けとなりました。報道した雑誌には状況証拠、伝聞証拠しか無かったからです。 当たり前ですが、一審で負けた雑誌側は必死になりました。「偉い方」が逃れられないような証拠を探しました。なかなか証拠は見つかりませんでしたが、遂に「偉い方」が学生時代に捕まった際に警察で記録された「指紋番号」を入手したのです。 指紋番号は右手:「12345」、左手:「56789」のように記載されています。指紋の特徴を記載するのに使う番号です。偉い方が逮捕された時の指紋番号と現在の「偉い方」の指紋から得られる指紋番号が一致すれば、逮捕された事実は指紋番号で裏付けられ、訴えられた雑誌が勝ちます。その雑誌は必死になって「あの方」の現在の指紋を探しました。普通は個人の指紋など、公開されていません。 しかし、ついに「偉い方」の指紋を見つけてしまったのです。「偉い方」は手相を見て貰う際に手形を色紙につけて残していたのです。その手形を所持していた方が見つかったのです。その手形に指紋が「ばっちり」写っていて、そこから得られた「偉い方」の指紋番号は「あの方」が大学生時代に捕まった時に記録された指紋番号と同一でした。 ここで少し解説が必要ですね。指紋が一致する他人は今まで見つかっていません。では同一のDNAを持っている一卵性双生児では、どうなのでしょうか? 変わると思いますか? 答えは次回に。 それはともかく、指紋そのものと指紋番号は別です。指紋番号は指紋の記録方法の1つです。この番号が一致する他人はゼロではないのです。とはいえ一致する確率は、現在の指紋番号記録法なら1兆分の1、昔の記録方法でも500-1000万人に一人です。 指紋番号は犯罪捜査などに使われます。終戦直後、写真で指紋写真を撮ることなど簡単にできない時代に「指紋番号」を使って「あの方」の記録を残していた当時の警察に敬意を払います。 さて「あの方」は指紋と指紋番号を突きつけられ逃れようが無く結局、示談になって賠償金無しで裁判は終わりました。 別にそれが直接の原因では無いのですが「偉い方」は要職から去りました。 文献6はこのことを取材した記者の本です。「あの方」の記事の他にもたくさん、興味深いことが書かれています。 指紋を「犯罪捜査」に用いる手法は世界中で使われていますが、それは日本で始まっています。明治時代に東京築地で指紋を研究したフォールズ医師(前回で紹介、明治時代)が書いた論文に指紋で見つけた「お酒泥棒」のことが載っています。 フォールズ医師が所持していたお酒はフォールズ医師の知らぬ間に、時々減っていたのです。フォールズはガラス製のお酒容器に残っていた指紋を用いて犯人を見つけたのです。ガラス容器に残っていたフォールズ医師以外の指紋と彼の教え子の1人の指紋が一致したのです。アルコールを盗んでいたのは彼の教え子だったと「判明」します。これが、多分、世界最初の指紋による犯罪捜査記録だと思います。 なお、指紋を削ってしまえばどうでしょうか? 指紋を消すために指紋を焼いたり、指紋のある皮膚を削ったりしたら大丈夫と考えた犯罪集団がいました。 この件も次回までお考えください。フォールズは、これにも答えを出しています。 図1:ある人の手形です。 図2:同一人物の50数年後の右1指外側の指紋を拡大してみました。 似ているでしょうか?一致するはずです。 なお、この方は犯罪者ではありません。念のため。 図3:公開されているニクソン元米大統領の指紋です。 写真が簡単に撮れるようになると指紋番号による指紋記録法は廃れ このように実写されます。 あっと驚く、縄文人の指紋! さて、ここで凄い指紋をお目にかけようと思います。前回、指紋に関する論文を書いたフォールズ医師は、縄文土器にはあまり鮮明な指紋は残っていないと記していることを紹介しました。私もそう思っていました。しかし、2018年、東京国立博物館で行われた縄文展で指紋が残っている土器が展示されていました。 結構、はっきりとわかる指紋でした。しかし、それは撮影禁止でした。その時そこにいた学芸員の方に縄文時代の指紋が他にもあるかどうか伺ったところ青森県八戸市の是川遺跡に縄文時代の指紋が一番はっきりとわかるモノが展示されていると教えて頂きました。是川遺跡といえば、この縄文展でも展示されていた国宝「合掌土偶」が有名です。ラグビーの五郎丸選手がキックをするときのポーズに似ています。 この合掌土偶が発掘された是川遺跡に縄文時代の指紋が残されているとのことでした。土器に記された指紋ではありません。是川遺跡の遺物は是川縄文館に所蔵されています。指紋の残っている縄文遺物があるかどうか、問い合わせてみました。是川遺跡には完全な形で縄文人の指紋が残されていることが解りました。それをお示しします。 ↓指紋部分を拡大しました 青森県八戸市是川縄文館の所蔵物の写真です。同館の正式な許可を得て掲載しています。 出土場所から、3000年前の遺物だと推定されるそうです。これはケヤキの樹皮に赤と黒の漆(うるし)を塗って補強して使っていた容器の一部です。黒の漆をぬりそれが乾く前に赤い漆を塗っていた時にうっかり指で触ってしまったのでしょう。それゆえに指紋がはっきりと残っています。「しまったあ」と思ったでしょうか。そしてまさか3000年後にそれが人目に晒されるとは思わなかったでしょう。 注1:漆を赤や黒に着色する技術は簡単ではありません。数千年も前の縄文人が漆に着色する技術を持っていた事に驚きます。 注2:東京都東村山市の下宅部遺跡から漆で着色された大量の土器や木製品が出土しています(参考:2.縄文時代の漆:東村山市) 「赤と黒」です。スタンダールに先駆けています。縄文人は土器の造形だけで無く色彩にも「凝っていた」のでしょうか。なお、この指紋に関しては、是川縄文館の学芸員である市川健夫さんの詳しい説明を視聴することができます。 興味がある方は是非、聞いてみてください。 次回に続く。 【参考文献】 コリン ビーヴァン著、茂木 健訳「指紋を発見した男―ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け」主婦の友社:2005刊 HENRY FAULDS著「Dactylography; Or, the Study of Finger-Prints」1912年刊 HENRY FAULDS著「Guide to finger-print identification」1905年刊 HENRY FAULDS著「How the English fingerprint method arose」1915年 HENRY FAULDS著「Nine Years in Nipon. Sketches of Japanese Life and Manners」1888年 西岡研介著:「噂の眞相」トップ屋稼業 (河出文庫):上述の指紋の話の他にも、あれれ?という話が沢山紹介されています。 2-5は全て、電子化されています。 「Historic Works on Fingerprints」というサイトで読むことができます。 The Project Gutenberg EBook グーテンベルグプロジェクトでも上記文献2.は紹介されています。 https://www.gutenberg.org/files/47911/47911-h/47911-h.htm 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/04/18 縄文時代の指紋がきっかけ 年度が替わり勤務先、学校が替わった方も多いかと思います。この季節には桜が付きものです。日本あるいは世界の桜並木の多くはソメイヨシノです。以前もお伝えしましたがソメイヨシノの特徴は2つあります(随筆「桜」雑感)。 同一クローンであること(すべてのソメイヨシノは同じ性質をもった木) 種が生らない(果実ができない) です。1.のために一斉に咲いて一斉に散ります。 ソメイヨシノと同様、コロナも一斉に「散って」欲しいですが無理でしょう。 コロナ禍は収まりません。オミクロンの後にも新株が出現するのでしょうか? 国によっては、ほとんどのコロナ規制を撤廃しています。マスクもワクチンパスポートも不要になっています。 下図はこれまでのCOVID-19による累積死者数(100万人辺り)です。 日本を除いた国々はすでにコロナ規制を撤廃しています。 こちらの図は最近(2022-04-02)2週間の新規患者数(人口100万人辺り)です。日本を含めてスウェーデン、マレーシア、オランダ、デンマーク、ノルウェイは減少傾向にあります。 いずれにしてもCOVID-19に対する対策の違いが浮き彫りになります。こういう統計は、しかし、気を付けないといけないです。病院の数も少なく、検査もできない国は一見するとCOVID-19発症者が少ないと考えられるかもしれないからです。 さて、今回から数回にわけて「指紋」についてお伝えします。 数年前、東京築地にある聖路加国際病院で勉強会があり、ついでに病院周辺を散策しました。良い散歩道があります。この時「指紋研究発症の地」と書かれた碑文(後述)があるのに気づきました。それからこの地で始まった「指紋研究」が気になって色々と調べていたのです。それを紹介します。 スマホを使い始めるまで「指紋」について考えたことはありませんでした。車を運転していてスピード違反で捕まった時に指紋を押させられた記憶があります。それくらいしか指紋を使った(採取された)記憶はありません。しかしスマホを使うようになって「指紋」が身近になりました。スマホを使う際「指紋認証(fingerprint recognition)」が求められる機種があります。指紋は一人一人違うので指紋を用いて個人識別しているのですね。 指紋は他にも様々に使われています。私たちは「指紋」に随分とお世話になっているのです。いくつか例を挙げます。 スマホやパソコン起動時の指紋による認証 電子決済時の指紋認証 ATMの指紋認証 犯罪捜査による指紋の活用 などです。4.は関係ない方が良いですね。私のスマホは個人識別に指紋認証を用いています。顔認証によるスマホもありますが、認証の度にいちいちマスクを取らざるを得ないので、指紋で個人識別ができるスマホの方がコロナの時代には面倒が無いですね(注:最近はマスク越しに顔認証ができる機器もあります)。 私は、つまり、スマホを使う度に指紋を使った個人識別をされていることになります。「指紋がないと生活できない」とも言えます。犯罪捜査にも指紋は必須です。つまり、ある意味私たちの生活は 「指紋によって守られている」 と思います。 今回は写真が多いのですが、苦労して入手した写真もあります。ぜひご覧ください。 いま「指紋による個人識法ができること」や「指紋で犯罪捜査ができること」は世界中で認められています。 その基礎となる指紋研究は、なんと、日本で始まったのです。 明治時代、スコットランドから来日、病院を開設して西洋式医療を広めたりやキリスト教の伝導をしていたスコットランド医師ヘンリー・フォールズ(Henry Faulds、1843年6月1日-1930年3月19日)があの『NATURE』(1880年10月28日605号)に指紋に関する論文を世界に先駆けて発表したのです。フォールズ医師が指紋に興味をもったのは大森貝塚にあった縄文土器に残されていた縄文人の指紋を見たからです。フォールズはそれをきっかけとして指紋に興味を持ち、日本で様々な基礎実験をしてそれをNATUREに投稿したのです。この論文には 指紋を犯罪捜査に使える可能性 両親とその子供の指紋相似性 民族間の指紋の違いを検討したこと などを記しています。 つまり現代に至る様々な「指紋」の活用の端緒は日本で始まったと言っても過言では無いでしょう。フォールズは東京筑地に病院を作りそこで診療をしていました。「筑地病院」です。この病院は、後に米国人医師のルドルフ・トイスラーが買い上げました。それが今の聖路加国際病院の始まりです。その聖路加国際病院のすぐ側にフォールズの旧居跡がありそこに「指紋研究発祥の地」の碑があります。 指紋研究の元は縄文土器 フォールズは大森貝塚を発見したエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse、1838年6月18日-1925年12月20日)と日本で知り合い大森貝塚発掘の手伝いもしています。モースは「縄文、縄紋」の名付け親でもあります。大森貝塚で発掘した土器に独特の縄目模様があることからこの土器を「cord marked pottery(縄目が印された土器)と名付け、それを日本人研究者が翻訳、日本では「縄文」あるいは「縄紋」と称すようになったのです。モースが発掘していた土器に「掌紋や指紋」が残っていることを発見したフォールズはこの掌紋、指紋に興味を抱いたのです。 指紋が付いた縄文土器 そのフォールズが興味を持った指紋付きの縄文土器(大森貝塚でモースが発掘した土器の一部です)を紹介しましょう。これらの土器は全て重要文化財に指定され東京大学総合研究博物館に所蔵されています。公開されていないので見ることはできません。しかし同館のご厚意により許可を得て「指の痕が付いた縄文土器」を皆さんに紹介できることになりました。これらの図版はモースが書いた「大森貝塚(岩波文庫)」(頁98-99)に載っています。しかし文庫では写真が小さくて掌紋、指紋がよくわかりません。同館が所持する土器のデジタルデータで指紋が付いていると思われる場所を拡大してようやく、掌紋、指紋が付いていることがわかります。 土器の写真とモースの書いた図の両方を示します。かなり詳細な部分まで土器を筆写しています。なおモースは両手を同時に使って絵を描くことができたそうです。 東京大学総合研究博物館に残されている縄文土器の写真とモースの描いた土器の図版 東大博物館報告番号BD04-77~87が「大森貝塚(岩波文庫)」図版7に掲載されている土器です。 大森貝塚出土標本データベース この中にある標本番号BD04-77~BD04-97が該当する土器です。示します。 左がモースの書いた図で右がその写真です。 BD04-77: BD04-78: BD04-79: BD04-80: BD04-81: BD04-82: BD04-83:無し BD04-84:無し BD04-85: BD04-86: BD04-87: たしかに指の痕がありますね。BD04-79、BD04-80の2つには、しっかりと指の跡が残っているのがわかります。指紋までは解りませんね。本物を見れば指紋まで解るのだと思います。いずれにしても、縄文土器に付いた指の痕にフォールズは興味を持ち日本で指紋についての広範な実験や観察をしています。 縄文時代の指の跡をお示ししましょう。 フォールズとは関係ありません。2018年東京国立博物館で「縄文―1万年の美の鼓動」と題した縄文土器の特別展が開かれました。日本全国から縄文土器が集められて展示されたのです(普段は各地の博物館でしか見ることができません)。 見学に訪れました。多数の本物の縄文土器が展示されその迫力に圧倒されました。その中に指紋がはっきりと残っている土器が1つだけありました。縄文土器は多数、あっても指紋はほとんど残らないのです。残念な事に写真撮影は不許可でした。 それで、下野栃木県埋蔵文化財センターを訪れる機会があり、その折りに学芸員の方に尋ねてみました。その方によるとやはり縄文土器に指紋はほとんど残っていないとの事でしたが同館所蔵の指の痕跡と思われる土器を見せていただきました。 話は逸れますが、縄文土器の外殻の装飾はよく知られています。 山梨県にある釈迦堂遺跡博物館にある水煙文土器(すいえんもんどき)重文です。 外側は派手ですね。下野栃木県埋蔵文化財センターの方は「こういう土器の内部は見たことが無いでしょう内側に装飾は無いのです」と言って内部を見せて頂きました。内部は文字通り「ツルツル」ですした。凹凸などありません。きれいです。勿論、指紋など残るわけがありませんね。 縄文土器の内側に装飾はない 下野栃木県埋蔵文化財センターの土器の内側です。機械で削ったようにきれいです。これも縄文土器の特徴だそうです。なかなか中を見ることはできないですね。外側の文様は有名ですが、内部のツルツル感はもっと知られて良いと思います。 釈迦堂遺跡博物館@山梨県(中央道釈迦堂PAに併設)に展示されている壺の中もツルツルです。 どういう技術を使ってこんなに「つるつる」にしたのか、全く解らないそうです。簡単では無いことは予想できます。こういうところにも縄文人の情熱を感じます。 フォールズが日本で行った指紋研究 だいぶ話がそれました。縄文土器に残っている縄文人の指の痕跡に刺激を受けて、フォールズ医師は診療の合間に指紋研究を進めます。 陶器を作っているところに行って粘土に指紋をつけています。 でも焼いたら指紋はあまり残らないですね。指紋は1mm程度しか溝が無いから焼いたら残らないのです。 指紋をインクで記録することを考案しています。 ガラス板にインクで指紋を記録すること、そしてガラス板に記録すれば、指紋はランプで投影できることを示しています。 10本の指全てで指紋を記録することを推奨しています。 「日本人」と当時日本に滞在していた「西欧人」の指紋を記録し民族の間に指紋の相違があることを示しています。 親子で指紋の相似性があることを示しています。 指紋は生涯変わらないことを予測しています。 指紋は、様々な方法で削り取っても、元どおりに再生することも示しています。 世界中の研究者に手紙を書いて、指紋を記録して、フォールズの元に送り返すように依頼。ただし、これには反応が無かったようです。 種の起源で有名なダーウィンに手紙を送り、指紋研究の紹介を頼んでいます。 つまりフォールズは、現在、指紋研究で行われている基礎となる研究の殆どを行ったのです。しかし、次号に紹介しますが、1987年まで彼の業績は埋もれてしまいました。フォールズは指紋に関する研究は論文にしてNATUREに投稿、掲載されました。指紋に焦点を当てて書かれた世界初の論文です。しかしフォールズには有力な味方、仲間がいなかったためその業績をかすめ取ってしまった人物が「指紋」の発見者になっていたのです。 うち捨てられていたフォールズ医師の墓を見つけ出し再建したのはアメリカ人指紋捜査官 1987年のことです。フォールズの指紋に関する大業績に気づいたアメリカの指紋捜査官二人が英国中部にあるWolstantonという小さな町の教会共同墓地の「片隅に朽ち果て、埋もれていた」フォールズの墓を見いだし、自分達で費用を捻出して、フォールズの墓を再建したのです。良い話です。 勿論、今ではフォールズこそ指紋研究の創始者であると認められています。 フォールズが集めた日本人の指紋 フォールズは数千人の日本人の指紋を集めています。その一例です。 文献2に載っているフォールズ医師が東京で記録した日本人の指紋と掌紋です。 NATUREの論文によると、日本人は、フォールズ医師の申し出に快く応じてくれたとあります。現代に至る指紋研究の基礎に明治時代の無名の日本人が多大な貢献をしたともいえます。そのフォールズがNATUREに書いた論文を入手したので紹介します。頁右下に HENRY FAULDS Tsukiji Hospital, Tokio, Japan とあります。この論文が、東京で書かれたことが解りますね。 拡大図 この論文を翻訳してみました。次々回で紹介します。 なお次回では、縄文人の指紋がはっきりと解るモノを発見したのでそれも紹介します。乞うご期待です。 注: 交通違反をすると指紋捺印を求められます。今も同様です。交通違反には気を付けましょう。 【参考文献】 コリン ビーヴァン(著)、茂木 健(訳)「指紋を発見した男―ヘンリー・フォールズ医師と犯罪科学捜査の夜明け」主婦の友社 HENRY FAULDS著「Dactylography; Or, the Study of Finger-Prints」1912年 HENRY FAULDS著「Guide to finger-print identification」1905年 HENRY FAULDS著「How the English fingerprint method arose 」1915年 HENRY FAULDS著「Nine Years in Nipon. Sketches of Japanese Life and Manners」1888年 HENRY FAULDS著「Nine Years in Nipon. Sketches of Japanese Life and Manners」1888年 2-5は全て、電子化されています。 「Historic Works on Fingerprints」というサイトで読むことができます。 グーテンベルグプロジェクトでも上記文献2.は紹介されています。 「The Project Gutenberg EBook」 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/03/28 女の人に殴られたり蹴られたあの日。。 ※注意:手術の写真が1ヵ所出てきます。血が苦手な方はお気をつけください。 最近、医師が患者さんに殺される事件が2件起きました。大阪の放火事件と埼玉の猟銃射殺事件です。大阪の放火事件では医師だけでなく多くの患者さんもお亡くなりになりました。お亡くなりになられた多くの方々のご冥福を心からお祈りいたします。これらの事件があり以前私もヒヤッとした事を思い出しました。 ある種の病気は、季節により、発病率が違います。 例えば心臓病や血管の病気の発症率が高いのは、 寒い季節 季節の変わり目 梅雨時 です。梅雨時は湿度に加えて、気温の変化が激しいのがその原因でしょう。 梅雨時は「心」にも影響を及ぼします。以前から悲惨な「無差別殺傷事件」「通り魔事件」は梅雨時から暑い時期にかけて多いと思っています。きちんとした統計資料はありません。いくつか例示しましょう。 深川通り魔殺人事件(1981年 6月17日) 池田小学校事件(2001年6月8日) 秋葉原連続通り魔事件(2008年6月8日) 心斎橋通り魔事件(2012年 6月10日) マツダ本社工場連続殺傷事件(2010年 6月22日) 八王子通り魔事件(2008年 7月22日) 新幹線殺傷事件(2018年6月9日) 川崎市登戸通り魔事件(2019年5月28日) 京都アニメーション放火殺人事件(2019年7月18日) 歌舞伎町ビル火災(2001年9月1日) 新宿西口バス放火事件(1980年8月19日) 全日空61便ハイジャック事件(1999年7月23日) 池袋通り魔殺人事件(1999年9月8日) 下関通り魔殺人事件(1999年9月29日) 5月末-7月末―――夏に多いような気がします。こういう無差別殺傷事件の季節性が解る統計資料があれば良いのですが、調べた範囲ではありませんでした。こういうところにもっと目を向けるべきだと思っています。 もちろん例外はあります。 土浦連続殺傷事件(2008年3月19日、同23日) 北新地ビル放火(2021年12月17日) ふじみ野市の訪問医療医師射殺事件(2022年1月28日) 皆さんは「刑法39条問題」をご存じでしょうか? 刑法第39条 心神喪失者の行為は、罰しない 心神耗弱者(しんしんこうじゃくしゃ)の行為は、その刑を減軽する 心神喪失、心神耗弱とはどういう状態でしょう。大辞泉から引いてみましょう。他の辞書も大同小異です。 心神喪失:精神障害などによって自分の行為の結果について判断する能力を全く欠いている状態。刑法上は処罰されない(大辞泉)。 心神耗弱:心神喪失には至らないが、精神機能の障害により行為の是非を判断する能力や行動を制御する能力がいちじるしく減弱した状態。刑法上は刑が減軽される(大辞泉)。 要するに、心神喪失状態あるいは心神耗弱なら、その者が犯した犯罪は「無罪になる」か「刑が減軽される」のです。心神喪失あるいは心神耗弱に陥っていたかどうかの判定は精神科医が行います。いわゆる「精神鑑定」です。殺傷沙汰があっても「実名」が報道されなくなる場合があります。そのような時は心神喪失や心神耗弱が疑われ「精神鑑定」の対象となっていると考えて間違いがありません。 この精神鑑定の対象になるのは「精神障害者、泥酔状態者・薬物乱用者」です。精神障害者はともかく、泥酔状態、薬物乱用者がこの対象になるのはちょっと納得がいかないですね。心神喪失か心神耗弱かを判断するのは精神鑑定を担当する医師です。つまり、精神鑑定を行う医師によって「罪」が決められると言っても過言ではありません。殺傷事件時に「心身が喪失または耗弱していて善悪の判断ができなかっただろう」と診断されたら殺人を犯しても「無罪」になります。「無罪」になっても、実際にはそういう方を専門に診療する病院に入院することになり、治療も受けられます。 しかし入院の期限は不定です。その先が「闇」になっていて、殺人を犯した方でも「治った」と判断されれば、病院を出て普通に生活ができるようになります。この辺りの実態は全く不明です(参考文献2)。入院した後は「個人情報保護」の厚い壁があり、わからなくなるのです。「罪を憎んで、人を憎まず」といいますが、実際に身内や友人が殺されたら、そんな気持ちにはなれないでしょう。刑法第三十九条に関しては、様々な人々(主に肉親が殺された人)によって、問題が提起されています。様々な本も出版されています。この条文を廃止せよという議論もあるし、残せという反論もあります。 これを題材にした映画もあります。 『39 刑法第三十九条』1999年 主演:鈴木京香 堤真一 予告編 https://www.youtube.com/watch?time_continue=10&v=jXDdrtfgpzc この映画を見ると刑法第三十九条が抱えている問題がよくわかります。 「無差別殺傷事件」には「薬」の問題がつきまといます。ある種のお薬に関する問題です。ある種の抗うつ薬は脳を賦活させます。うつ状態が良くなります。しかし、副作用もあります。そのような抗うつ薬投与の副作用のために、 不眠 軽躁状態 焦燥 不安 易刺激性 攻撃性増加 などの状態に陥ることがあるのです。これを「賦活症候群(Activation Syndrome:アクチベーション・シンドローム)」とも言います。 逆にその抗うつ薬を止めると、止めたことにより、 不眠 幻覚 不安 立ちくらみ めまい 攻撃性増加 "脳への衝撃"感覚 などの症状が現れることがあります。それを「中止後症状」「中止後症候群」と言います。飲んでいても飲むのを止めても「攻撃性増加」があります。 もちろん、どちらの副作用も《必ず出る》訳ではありません。しかし、(1)飲み始めた時にも(2)減量や休薬をする時にも注意が必要な「お薬」なのです。ある精神科医は「無差別殺傷事件」を起こした犯人は全員ある種の「抗うつ薬」を服用していたか服薬歴があったと記し「無差別殺傷事件」これらの抗うつ薬の副作用が原因だと記し、このような薬の投与、中止には慎重が上にも慎重な観察が必要だとしています(「死刑になって死にたいから、殺す」拡大自殺の実行者と車を暴走させる高齢者…その背景にある恐るべき真実 薬物の副作用で人はおかしくなる PRESIDENT Online、参考文献3、4、5など)。 しかしその「投薬開始、投薬中止」に繊細な注意が必要な「抗うつ薬」ですが、「慢性腰痛症」「糖尿病性神経障害に伴う疼痛」「線維筋痛症に伴う疼痛」にも投与されています。 さて、なんで私がこんなことに首を突っ込んでいるかと不思議に思うかも知れません。私もある時まで、このような「抗うつ薬」のことは全く存じ上げていませんでした。心神喪失とか心神耗弱という言葉も知っていましたが、あまり興味がありませんでした。しかし、ある出来事を契機にこのようなことについて、かなり詳しく勉強しました。その出来事を紹介しましょう。 某月某日某病院での外来での話です。梅雨時でした。いつものように外来診療を行っていました。午前の診療が終了し、ほっとしていた時です。ある女性がノックもしないで外来のドアを開けて入ってきました。 「どうしました?」と問う間もなく、いきなり私の頬を平手打ちしたのです。そして私に向かって、 「お前に傷つけられた!」 「一生消えない傷を付けられた!」 と大声で怒鳴りながら、今度はゲンコツで私の顔に殴りかかってきました。次には足で思いっきり私の体全体を蹴り上げました。私には何が何やら解りません。体中のあちこちが痛くてたまりません。女性の暴力とはいえ、力任せです。殴っている方も痛いだろうと、殴られつつ、思っていたのですが、容赦がありません。 何だか全く解らないので殴り返すわけにもいかず、ただ呆然と防御していました。看護師さんは私の横で、もっと呆然としています。私は看護師さんに「何だか解らないけれど警備の人を呼んでくれ」と頼みました。最初は「痴話喧嘩」だと思っていた看護師さんも、あまりにも変なので直ちに警備員に連絡をしてくれました。 警備の人が駆けつけてくれましたが、女性は大暴れしているので簡単には押さえつけることはできませんでした。3人がかりでようやく押さえつけてくれて、暴力は振るえないようになりました。女性は大声で「お前(つまり筆者)に傷つけられた」と騒いでいます。明らかに異常です。話が通じません。 精神科の先生に連絡をとり、診てもらったら、「なんらかの精神疾患で興奮状態になっている」のだろうという話になり、患者さんに鎮静剤を注射してくれました。沈静後に所持品から氏名がわかり精神科に通院歴があることが解りました。しかし、ここ数年、受診しなくなり精神科での治療が中断していた患者さんでした。 私はこの女性の名前を見て直ぐにこの女性は私が、10数年前に、手術した患者さんであることを思い出しました。特殊な心臓疾患あり、症例報告の論文を書いたので覚えていたのです。しかし私が最後にこの方を診察したのは10年以上も前です。手術をしたとき彼女はまだ中学生でした。顔は記憶にありませんでした。 この方の心臓病は特殊でした。自分で心臓に針を刺したのです。それも一度ならず、二度も刺したのです。自分で心臓に針なんて普通は刺せないですね。 この方は、最初は縫い物をしていて、気づいたら針が無くなっていて、胸が痛いので近所の先生にレントゲンを撮ってもらったら縫い針が心臓に刺さっていると診断されて、私が働いていた病院に搬送されてきました。 図1:矢印が針です。 直ちに心臓に刺さっていると思われる針を抜くために開胸しました。 図2:心臓に「裁縫用の縫い針」が刺さっていました。 出血しないようにその周囲に糸をかけて、そっと、抜きました。 図3:心臓に刺さっていた針です。縫い針でした。 なぜ刺さったのか不思議でした。「縫い物をしていて眠ってしまった。目が覚めたら胸が痛くて仕方なかった」とのことでした。いずれにせよ、何事もなく退院していきました。 最初の手術から数ヵ月が経ち、また、この方が病院に搬送されてきました。縫い針が再度胸に入ってしまったのだそうです。 その時のレントゲンが図4です。 図4 写真左側が来院時のレントゲンです。どうやら針の様なモノが胸部の皮下に5本見えます。しかし、どの針も心臓には達していません。これなら簡単な手術でとれそうです。この辺りから「変だ」と思い始めていました。 こんなに何本も何回も縫い針が「間違って入る」ことは考えられません。「自分で刺した」のだろうと思い至りました。患者さんの話はとんちんかんでした。親御さんも、何が起きているのか解らず、戸惑っていました。手術を開始するべく、準備を始めていた時です。患者さんはトイレに行きました。そのまま帰ってきません。看護師さんにトイレを見てきてもらったら「どこにもいません」ということでした。それから病院中を大捜索しました。数時間探しても見つからず、事故があっては困るので警察の方にも来ていただき、さらに捜索を続けたところようやく、かなり病院とは別棟にある事務室のトイレに隠れていた患者さんを見つけました。 患者さんの話は支離滅裂でした。スタッフはもちろん私も捜索でかなり疲れていたのですが、手術準備を再開しました。その時、何となくいやな感じがしたので、もう一度レントゲンを撮影したら、胸に刺さっている針が1本増えていました(図4 右側)。なんということでしょう、しかも増えた針は心臓に刺さっています! 仕方なく、全身麻酔をして開胸しました。 しかし、心臓表面に針は見当たりません。手術室でレントゲンを使った透視を行ったところ、心臓内に入っていることが解りました。動いている心臓から針を抜くのは危険です。心臓を傷つけ、大出血する可能性があります。少し大がかりになりますが、人工心肺を装着して、心臓を止めて針を探して針を抜去しました。 図5:刺さっていた針です。注射針以外は裁縫針です。 白い矢印で示しているのが心臓内に刺さっていた針です。病院内を逃走中にどこからか注射針を手に入れて自分で胸に刺していたのですね。 文献を調べて見ると10数例の「心臓伏針」の症例報告がありました。しかし2回も刺したのは私の症例が初めてでした。学会で発表もして、論文にもしました。 この方は「尖ったモノ」が好きで病院に入院中もずっと避雷針を見つめていました。胸の傷が治る前に精神科の病棟に移りました。その後無事元気に退院してその後は接点がありませんでした。それから10数年が経ち、なぜか執刀医だった私のことを思い出し「キズをつけた」私を殴りつけに来たのです。怖い話です。刃物で襲われたら、どうしようも無かったでしょう。この時に、この事例を傷害事件として届け出るかどうか問題になり、初めて「心神喪失」「心神耗弱」について勉強しました。 今でも、この出来事を思い出すと、ぞっとします。それにしても、殴られた後、とても痛かったです。 【参考文献】 精神障害により繰り返された心臓伏針の1例 望月吉彦et al. :The Japanese journal of thoracic and cardiovascular surgery 46(5), 473-477, 1998 そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫)2006/10/30日垣 隆 著 心神喪失と判定され「無罪」となった方のその後を追った本です。かなり苦労して、本来なら探せない「無罪となった」方から話を聞いています。読んでいると暗澹としてきます。この本だけを読むと「殺しても無罪」というかなり特殊な事がまかり通る法律を変えた方が良いと思うようになりましたが、なかなか難しい問題です。 「治す! うつ病、最新治療 ──薬づけからの脱却」(リーダーズノート編著) SSRI Stories https://ssristories.org SSRIという抗うつ薬にまつわる世界中のニュース、論文が集まっています(2022-03-27 確認済み)。 Hundred Families https://www.hundredfamilies.org/ 英国での精神疾患者による犯罪被害者の遺族(主に殺人)が開設しているサイトです。 どこの国でも、こういう場合、どのように対処すべきなのか議論は尽きないと思います。 追記: 医療関係者が「⼼神喪失者」「⼼神耗弱者」に殺されることが時々、報道されます。実は結構そういうことがあり、いつも⾦属バットを外来の机の下に置いている先⽣もいました。随分前になりますが、同じ病院に勤めていた先⽣は、通勤途中、患者さんに背後から拳銃で撃たれてお亡くなりになりました。怖いことです。 余話:星野仙一監督の思い出 「殴る」「蹴る」で有名なのは野球の故星野仙一監督です。その星野監督1996年、インターネット黎明期に「HOSHINO★EXPRESS」という名前で自分のホームページを作っていました。人気があり、1日6万件のアクセスがあると報じられていました。普通の電話回線でモデムを使っていた頃の話です。 その「HOSHINO★EXPRESS」中には読者から様々な話題を取り上げてコメントするコーナーがありました。そこで駄目元と思い私も「星野監督は鉄拳制裁で有名ですが、選手は萎縮しないでしょうか?」と質問をしてみました。答えが返ってくるとは思わなかったのですが、なんと即刻返事が載りました。 星野監督:「プロ野球選手は、鉄拳制裁程度では萎縮しない。萎縮してプレーが出来無くなるような奴は駄目な選手だ。」とありました(笑)。予想通りでした。 現在も一部記録が残っています。 https://web.archive.org/web/20000229123902/http://www.hoshino.ntc.ne.jp/qa.html 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2022/03/14 ハンターが活躍していた時代、ロンドンで馬車の御者に多発していた職業病とは 前回までイギリス人医師ジョン・ハンター(John Hunter、1728-1793が医学を学んだ時代には、本当の人体臓器の位置や血液の流れなどが、かなりわかってきたことをお示ししました。しかし、臓器の位置や血液の流れがわかっても病気の治療にそれが結びついたわけではありません。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 当時、病気でお亡くなりなった方を解剖することで様々な病気の原因がわかってきました。例えば、胃の辺りに「できもの」があり、次第に食事が摂れなくなり衰弱してお亡くなりなった方を解剖すると胃に腫瘍が見つかり、食事が摂れなくなって死亡した原因は胃に腫瘍ができたからだといったごく初歩的なことが解明されつつあったのです。現代の「病理解剖」です。 このように解剖で病気が解明できるようになったのもハンター医師の功績が大きいのです。ハンターが診ていた患者さんのうち多くの方が死後ハンターによって解剖されることを希望したからです。この辺り、ハンターと患者さんとの関係は「理想的」です。 様々な病気の中で比較的早期から病気の診断が可能であったのは体表面に近い血管の病気です。体表面に近い箇所にある動脈は触れることができます。足の血管が閉塞すれば脈が触れなくなり、足の血管に動脈瘤ができれば「瘤(こぶ)」は触ればわかります。 ハンターが活躍していた時代のロンドンで馬車の御者(ぎょしゃ:馬車に乗って、馬をあやつる者)には、ある職業病が多発していました。その病気は「膝窩動脈瘤(しっかどうみゃくりゅう)」です。膝の裏にある血管が膨れて動脈瘤となる病気です。 なぜ御者だけがこんな病気になるかというと、御者の履いていた膝まで覆うような乗馬用の靴が原因でした。硬い乗馬靴が膝窩動脈に当たって動脈を損傷して動脈瘤を生じさせていたのです。現在なら外傷性動脈瘤に分類されます。 我々がよく見る動脈硬化性の動脈瘤とは原因が違います。足の動脈瘤なんて軽い病気だと思うかもしれません。しかし、動脈が膨れ上がってくると痛みを生じ、やがて破裂して死に至ります。 当時、この乗馬靴が原因の「外傷性膝窩動脈瘤」に対して2つの手術が行われていました。 膝窩動脈瘤の生じた足を切断する 膝窩動脈瘤の中枢側、末梢側の血管をしばって膝窩動脈瘤を切除する この2つの方法です。しかし、どちらの方法を行っても極めて死亡率が高かったのです。本格的な麻酔法が始まったのが1846年のことですから無麻酔で行われています。手術器具などの「消毒」も始まっていません。1.の方法で足を切断しても出血や感染で死亡することも多く、たとえ助かっても片足になってしまいます。2.の方法で動脈を縛っても動脈瘤の近傍で縛るのですから、血管はもろくなっていて出血が止まりません。つまり失血死してしまうのです。どちらの方法も良い方法とは言えません。 前回ご紹介したようにハンターは死亡率の高い手術は行わない主義でした。そういうハンターにとって、1.も2.も良い手術とは思えなかったのでしょう。別の手術を考案します。天才的発想の手術です。 その手術は「膝窩動脈瘤となっている痛んだ血管には触れないで治療する」方法です。膝窩動脈瘤となって弱く脆くなっている血管よりももっと中枢側(心臓に近い側)の健常部分の血管(硬い御者靴で損傷されない部位の血管)を縛る方法です。 当時、こんなことを考えた外科医はいませんでした。動脈を縛ればその先の臓器は「壊死:えし」すると思われていたからです。これは私の推測なのですが、ハンターは数千体の死体を解剖していますので、一部の血管が詰まっても別な道(側副血行路)が生じている、そういう死体を見たのだと思います。 ハンターは手術を行う前に2つの実験をしています。 犬の大腿動脈を露出、血流が見えるまで血管剥いてみる 若い雄鹿の頸動脈を縛り、角がどうなるか観察した この2つの実験をしたのです。 1.は動脈の構造をよく知らないとできません。動脈は内膜、中膜、外膜の3層構造をしています。ハンターは「多分」、動脈の外膜を剥がして中膜と内膜だけにして血流が見えるまで血管壁を薄くしたのです。そして数週間後に改めてこの血管を見てみると元通りになっていたのです。つまり、正常な血管なら損傷を受けても修復することがわかったのです。 2.はどうしてこんなことを思いつくのか常人には理解不能です。鹿の角は頸動脈から供給を受けて大きくなります。 頸動脈を縛れば角の血流は悪くなること、その血流が回復するかどうかの観察が「角なら」容易であることを思いついたのでしょうか?普段から多くの動物を飼育して観察していたから思いついたのでしょうか? 鹿の頚動脈をしばると角(つの)は血流が流れなくなりますので冷たくなりました。しかし、数週間すると元通りの暖かさになり、動脈を縛っていない側、つまり正常側の角の生育と同様な生育を認めたのです。これは縛った血管の周りに側副血行路(バイパス)ができたことを意味します。側副血行路ができていることを血管に色素をいれて確かめています。 このような実験を繰り返し、膝窩動脈瘤よりも中枢側の動脈を結紮(けっさつ)すれば、 膝窩動脈瘤への血流が減ることにより破裂の危険が少なくなること 膝窩動脈より末梢の血流は、数週間すれば側副血行路ができて歩行もできるようになること と確信したと思います。実に合理的、科学的ですね。 実際に手術を行います。手術は公開されました。1785年12月12日のことです。階段式に見学者が手術を見られるようにした「劇場型手術室」で手術を行いました。患者の大腿の内側で膝よりも上の部分の皮膚を切開して大腿動脈を露出し、この動脈を4本の糸を用いて縛ったのです。4本というところが、私は凄いと思います。1本や2本では縛った血管が再開通する可能性がありますが、4本ではまず再開通することはないと思います。さらに用意周到なことにハンターは傷口を閉鎖していません。もし術後、血流途絶による足の壊死が生じそうだったら縛った糸を外すつもりだったのです。わずか5分でこの手術を終わらせています。 この手術を見ていた若きイタリア人外科医パオロ・アサリーニが、この手術の詳細な記録を残しているので細かいところまでわかります。 この手術記録には「ピンセットの柄の部分を用いて大腿動脈だけを露出した」と記されています。私もこの部分の大腿動脈の手術はたくさん行いました。動脈を露出するのは簡単ではありません。大腿動脈の周りには静脈や神経があるからです。今でもハンターの行った手術を5分で行うのは至難の業です。しかし数千体の解剖をしていたハンターには容易だったのでしょう。ちなみにハンター医師が手術に使った大腿内側の部分は特殊な構造をしています。内転筋管と言いますが、ハンター医師に敬意を表して「ハンター管」とも呼ばれています。 この手術も、もちろん、無麻酔で行われています。さぞかし痛かっただろうと思いますが、患者さんにとっては「痛み」よりも「膝窩動脈瘤破裂による死への恐怖」の方が勝っていたのでしょう。 この手術をうけた患者さんの回復は劇的でした。膝窩動脈瘤は小さくなり、痛みを感じないようになり、普通に歩けるようになりました。2年後に別な病気でお亡くなりになりますが、ハンターはいつも通り裏ルートを使ってこの足を手に入れます。きれいに側副血行路ができていました。 この足はロンドンにあるハンテリアン博物館の「P275」という標本となっています。この手術をうけて50年も長生きした方の脚の標本もあります。こちらは「P279」という標本です。どちらも見ることができます(文献2.参照)。 この手術はヨーロッパ中に広まりました。死亡率もそれまでに行われていた手術に比して圧倒的に低かったのです。こういう革新的な手術の話を読んでいると眠れなくなります(笑)。 今でも膝窩動脈瘤の手術は厄介です。手術をするなら痛んだ膝窩動脈に対して、 動脈瘤となっている膝窩動脈を大伏在静脈(足の静脈)で置換するか 人工血管で置換するか ステントグラフト治療を行うか の3択です。私は主に1を行っていました。長期開存率に問題があります。いずれにせよ、良く動く箇所であること、圧迫されやすい箇所であること、日本人特有の「正座」の問題などもあり治療は簡単では無いです。 膝窩動脈瘤を紹介しましょう。外傷性では無く、動脈硬化性です。この部位にできることは稀です。 図1:膝窩動脈瘤は黄色矢印部分 本写真は以下から引用しました。Creative Commonsです。 https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK541115/figure/article-27.image.f5/ 図2:ハンターが行った手術(膝窩動脈の中枢側を4本の糸で縛る)の模式図 動脈瘤よりも中枢側(心臓側)にある動脈をしばれば血流が途絶えて動脈瘤は小さくなります。 図3:今なら膝窩動脈瘤部分を大伏在静脈や人工血管などで置換またはステントグラフト治療 注:黄色部分は代用血管またはステントグラフトを示しています。 図4:このような場所に使われる人工血管です。 わかりづらいですが折れ曲がっても閉塞しないように 血管の周りにプラスチック製のリングが数mmおきに配置されています。 【参考文献】 解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯(河出文庫)2013年 ウェンディ・ムーア著、矢野 真千子(訳) ハンターの設立した自然史博物館はハンテリアン博物館(Hunterian Museum, Royal College of Surgeons)として現在まで残っています。ナチスドイツによるロンドン空襲で標本がかなり損傷してしまいましたが、今でも貴重な標本が多数残っています。今回ご紹介した手術を受けた「歴史的な足」も標本として残っています。現在改装中で2023年に再開する予定だそうです(https://www.rcseng.ac.uk/museums-and-archives/hunterian-museum/)。 追記: このような血管手術が日本にも伝わり、世界最初の動脈瘤切除術は、なんと日本で行われました。この日本で行われた手術は世界を代表する血管外科の教科書にも紹介されています。いつか、ご紹介しましょう。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2022/01/24 20世紀最大の発見とも言われるのが「DNA(デオキシリボ核酸)の二重らせん構造の発見」です。DNAの二重らせん構造を世界で初めて電子顕微鏡で見て撮影に成功した話を紹介します。 その前に少し変わったTシャツをお目にかけましょう。 図1:科学Tシャツ このTシャツには科学史上の重大な発見とその発見者の生年が記されています。読み飛ばしても構いません。 ニュートン:1642 - 1727:重力の発見、微積分法の確立 アインシュタイン:1879 - 1955:一般相対性理論の確率 ガリレオ・ガリレイ:1564 - 1642:望遠鏡 地動説 落体の法則 マックスウェル:1831 - 1879年11月5日:古典電磁気学を確立 ファイマン:1918 - 1988:量子電磁力学、ファインマン・ダイアグラムを考案 フィボナッチ:1170 - 1250頃:フィボナッチ数列の紹介 フレミング:1881 - 1955:ペニシリンの発見 フランクリン:1706 - 1790: 雷が電気であることを発見 バーディーン:1908 - 1991:トランジスタの発明、超伝導に関する理論構築、ノーベル物理学賞を2回受賞した唯一の科学者 アントニオ・メウッチ :1808 - 1889:電話の発明(注:ベルでは無いです) ロザリンド・フランクリン:1920 - 1958:DNAの2重らせん構造の発見 マリーキュリー:1867 - 1934:ラジウムとポロニウムの発見など、ノーベル物理学賞とノーベル化学賞を受賞 ライナスポーリング:1901 - 1994:化学結合の本質を解明、ノーベル化学賞とノーベル平和賞を受賞 メンデレエフ:1834 - 1907:元素周期表の発見 ハイゼンベルグ:1901 - 1976:量子力学への貢献 テスラ:1856- 1943:交流電気方式、無線操縦、蛍光灯の発明 ダーウィン:1809 - 1882:進化論 メンデル:1822 - 1884:メンデルの法則 シュレディンガー:1887 - 1961:波動力学の確立 レオナルド・ダ・ビンチ:1452 - 1519:多数 あれれ? DNAが2重らせん構造をしていることを「発見」したのはご存じ「ワトソンとクリック」では? ワトソンとクリックはこの発見?でノーベル賞を受賞しました。しかしその発見にはさまざまな「疑惑」(後述)が指摘されるようになっています。文献2.3.に詳しいです。ワトソンはロザリンドの死後、彼女に対するひどい悪口を書いています。 そういうこともあり、Tシャツのデザイナーは敢えてDNAの2重らせん構造の発見者をR. FRANKLINとしたのだろうと思います。 クリックはすでに亡くなっていますが、ワトソンは今も生きています。しかし、ある不名誉な理由で表舞台には出られなくなっています。ノーベル賞のメダルも売ってしまいました。本稿の主題とは少し離れますが、このことを少しだけ紹介します。 DNAが2重らせん構造をしていることを最初に発見したのは女性科学者のロザリンド・フランクリン? 図2:「Photograph 51」ロザリンド・フランクリンが撮影したDNA結晶のエックス線解析写真 この写真はBBCニュースが「The most important photo ever taken?」と 書いているくらい重要な写真です。 ロザリンド・フランクリン女史は1950年、ロンドン大学のキングス・カレッジでX線結晶学の研究生活をスタートさせます。 X線結晶学とは「結晶性物質にX線を照射し、その回折から結晶構造を研究する」学問です。物理学の1分野です。1953年、そのロザリンドは、DNAの二重らせん構造の解明につながるX線回折写真の撮影にも成功。「Photograph 51」と名付けます。図2の写真です。 この写真は「ロザリンド・フランクリンが知らない間」に2つのルートでワトソンとクリックに渡り、この写真を見たワトソンとクリックは「DNAが2重らせん構造」をしていると予想、その予想を論文にしてNATUREに掲載されます。 参考:1953年4月25日号のNATURE http://www.crl.nitech.ac.jp/~ida/education/ResearchSeminar/20190215WatsonCrick.pdf https://cellbank.nibiohn.go.jp/legacy/visitercenter/lecture/genetics/watson.pdf ワトソン・クリックの論文の最後にロザリンド・フランクリンへの謝辞があります。 「We have also been stimulated by a knowledge of the general nature of the unpublished experimental results and ideas of Dr. M. H. F. Wilkins, Dr. R. E.Franklin and their co-workers at King’s College, London.」 ロザリンド・フランクリンは自分の撮影した写真が彼らに渡ったことを知りません。NATUREに掲載されたワトソン・クリックの論文の次はなんとロザリンド・フランクリン自身が「Photograph 51」を引用して書いた論文です(http://www.crl.nitech.ac.jp/~ida/education/ResearchSeminar/2019/20200210FranklinGosling.pdf)。 しかしその後、この発見は「盗まれた」と言われるようになります。「DNAが2重らせん構造」をしていることを本当に「発見」したのはロザリンド・フランクリンだと言われるようにもなっています。 ワトソンには、ロザリンド・フランクリンの上司だった「モーリス・ウィルキンス(1916-2004)」から クリックには、ロザリンド・フランクリンが書いた「Photograph 51」も記載された論文を査読中だった「マックス・ペルーツ(1914-2002)」から 「Photograph 51」が渡されています。 「Photograph 51」を見せたことに関わるワトソン、クリック、ウィルキンス、マックス4名全員が1962年にノーベル賞を受賞しています。マックスはノーベル化学賞、ほかはノーベル生理学医学賞です。偶然でしょうか? なお、ロザリンド・フランクリンは1958年に38歳で亡くなっています。 この間の事情は「Photograph 51」という戯曲になり、ニコールキッドマンが主演(つまりロザリンド・フランクリン役)、英米で上演されました。そういう事情もあり、一般の方にもロザリンド・フランクリンのことはよく知られるようになりました。それゆえに上述のTシャツデザイナーはロザリンド・フランクリンの名前を、あえて、Tシャツに載せたと思います。 さて話は変わります。今号はそんな「ややこしい」発見の話ではありません。すっきりした素晴らしい「発見」の話です。DNAの「二重らせん構造の撮影に成功した」女性科学者の話です。話は1985年に始まります。 1985年世界最高の走査型電子顕微鏡が鳥取大学に設置される この電子顕微鏡が「肝」です。私は1983年に卒業していますから卒業してからの出来事です。1985年、超高分解能走査型電子顕微鏡が鳥取大学医学部に設置され新聞テレビ等で大きく報道されました。 この超高性能走査型顕微鏡を用いて ・エイズウイルスの写真 ・抗体の写真 ・バクテリオファージの写真 などの撮影に成功し、故田中敬一教授(1926-2019)は世界的に有名になります。これに至るさまざまなことは、岩波新書に田中先生が書いています(文献4)。 これらの写真の中でも特に有名になったのが、田中先生がボローニャ大学開学900年の催しに招かれて講演した時に公開したバクテリオファージの写真です。この講演で、田中先生はこの超高性能走査型顕微鏡で撮影した写真を次々に披露、最後に大腸菌の上にのるバクテリオファージの写真を見せたところで爆発的拍手がおこり、しばらく収まらなかったとあります。 図4:世界で初めて撮影されたバクテリオファージの走査型電子顕微鏡写真 (文献4:「超ミクロ世界への挑戦」203頁より 引用許可を得ています) それだけではありません。 「Congratulations! Bologna (1088-1988)」と書いてある旗をバクテリオファージが持っているように合成したスライドを見せて講演を終了した瞬間、割れんばかりの拍手が鳴り響いて講演は大成功だったと記しています(図5)。格好いいスライドです。評す言葉がありません。生涯に一度でも良いからこういう「知的に格好良い」講演をしたいですね。 図5:ボローニャ大学(1088-1988)の旗を持ったバクテリオファージの走査型電子顕微鏡写真 (文献4:「超ミクロ世界への挑戦」目次部より 引用許可を得ています) 世界最高性能の顕微鏡で見る「試料」を見えるようにしたのが田中敬一先生 世界最高性能の顕微鏡があれば誰でも撮影できるかというと、そんなに単純な話ではありません。詳しい話は、田中先生が著した「超ミクロ世界への挑戦(岩波新書)」にありますが、「試料を見えるようにするのが先」です。走査型電子顕微鏡の黎明期にさまざまな工夫をこらし、「見える試料作り」に成功したのが田中先生です。それゆえに日立がこの機械を鳥取大学に納入し、田中先生一門は様々な試料を見える形にしてそれまでに見えなかったモノ(前述のエイズウイルスの写真などです。注:エイズウイルスはその後管理が厳重になり2度と撮影できないのです)を撮影し次から次に世界をあっと言わせていたのです。 電顕の資料作りは簡単ではありません。手作りの機械、セメダインを用いた機械、試料を処置してたまたま3日放置したらその「3日」が最善手だったとかとにかく様々なことを行ってはじめてようやく見える試料ができたと岩波新書に載っています。 「超ミクロ世界への挑戦(岩波新書)」は絶版になっています。 残念なことに今は絶版ですがアマゾンで古本が安価に購入できます。ぜひお読みください。面白いです。読み始めたら止まらなくなるほど面白いです。ええ? あれ? 本当? なんでこんな? そういう話が満載です。田中敬一先生というと古い自転車に乗って通勤していた姿を思い出します。あの田中敬一先生が、まさか、こんな凄いことを成していたとは思いませんでした。 試験は「しぶかった」田中敬一先生 田中先生の解剖学の試験は厳しくて今でも年に1回くらい夢に出てきます。厳しい口頭試問です。次から次に骨を示し、示された箇所の「日本語名」と「ラテン語名」を答えるという試問です。10分で20問ぐらい、なんとか乗り切れそうかなと思ったのですが最後に出てきたのが「口蓋骨垂直板」でした。 田中先生「そのラテン語名を述べてください」 望月「うーん。。。うーん。。。。そうだ! 「Lamina perpendicularis ossis palatini」というラテン語が不意に頭から湧き出てきて無事進級できました。これが出てこなかったら2次試験に回り、下手をすると落第でした。悪夢でした(笑)。ラテン語なんて書けないですがこれだけは書けるのです(笑)。 DNAの2重らせん構造の撮影に世界で初めて撮影に成功 さてこの鳥取大学の走査型顕微鏡を使って撮影された凄い写真を最後にお目にかけます。田中先生のお弟子さんである「稲賀すみれ先生」が撮影した写真です。1991年、参考文献1. の論文が発表され世界中の研究者をあっと言わせます。題名が 「SEM images of DNA double helix and nucleosomes observed by ultrahigh-resolution scanning electron microscopy」 敢えて訳せば「超高分解能走査型電子顕微鏡によるDNA二重らせんとヌクレオソームの走査型電子顕微鏡像」でしょうか。 DNAの二重らせん構造の写真撮影に世界で初めて成功したのです。この論文の画像を今回紹介しよう思いましたが、版権を持っている雑誌の出版社(イギリス)から許可を得られませんでした。「残念だなあ」と思ったのですが、そうだ!論文の著者の稲賀すみれ先生に直接連絡を取れば論文には載っていない写真を提供して頂けるかもしれないと思い、論文に載っているe-mailアドレスにメールを送って連絡をとりました。断られるかと思いましたが、論文に載っている写真よりきれいなカラー写真を提供して頂きました。と言うわけで拙文を書くのも多少苦労しています(笑)。論文には載っていない写真ですので紹介しても問題無いと思います。 お目にかけましょう。DNAが2重らせん構造をしています(図6、7)。 図6:DNAが2重らせん構造を示していることが解る写真 図7:DNAの二重らせんが途中から左巻きから右巻きに変わっていることが解る写真 (注:図6、7共、稲賀すみれ先生より提供して頂きました) 「世界で初めて撮影されたDNAが本当に二重らせん構造をしていること」を示した写真です。DNAが二重らせん構造していることは一目瞭然でわかりますね。日本は元より世界中に「DNAの二重らせん撮影に成功」と報道され、世界中の科学者を驚かせました。当時の新聞に稲賀先生は「これが見えた時、とても嬉しかった」と答えています。誰も見たことが無いモノを世界で初めて見る喜びは何物にも代えがたいでしょう。 「世界で初めてDNAの2重らせん写真の撮影に成功」したことで稲賀すみれ先生の名前は科学史に残りました。なお左巻きと右巻きの2重らせん構造があると予想されていましたが、この試料では右巻きから左巻きに変わっています。つまりこの論文では「DNAが2重らせん構造をしていることとその2重らせんは右巻き、左巻きがあること」の2つを証明できたのです。 DNAの二重らせん構造の解明はロザリンド・フランクリンが撮影した写真で始まり、稲賀すみれ先生が撮影した写真で締めくくりとなりました。2人の女性科学者がDNAの構造解明に重要な役割を果たしたことになります。 図8:DNAが2重らせん構造の撮影に成功!との報道(稲賀先生よりご提供頂きました) 図9:稲賀すみれ先生(掲載許可を得ています) アメリカ製洗剤ジョイが大切? 最高倍率の走査型電子顕微鏡にDNAを入れれば写真なんて簡単に撮れると思うでしょうが違います。試料は「撮影出来るように工夫」しないと撮影できません。工夫の仕方は教科書に載っていません。「言うは易く行うは難し」です。この写真のDNAはニワトリの赤血球の核の中にあるDNAです。DNAのひもは20オングストローム(1オングストローム=10-10m)、直接電子線を当てると損傷されるので白金の粒子をひもに蒸着すれば「見える」のですが白金の粒子は30オングストロームもあります。それでは白金の粒子の方がDNAを覆ってしまいDNAの状態観察は不可能になってしまいます。要するに「普通の方法」では撮影できないのです。しかし稲賀先生はさまざまな工夫をこらして見ることに成功します。あり得ない様な話です。 その一端をお示しします。 アメリカ製の洗剤ジョイで細胞膜を洗うと細胞内の中味が散らばって出る。細胞膜はリン脂質で出来ているので界面活性剤(洗剤)で洗えば水と一緒になり、流れてしまう。そこまでは私にも解ります。しかし、洗いすぎれば細胞内の成分も一緒に流れてしまう。洗い方は簡単では無いと素人の私にも解ります。その洗い方は「名人芸」でとにもかくにも「気合い」で、DNAが残る洗い方に成功し、その生のDNAにカーボンを蒸着して親水性に処理して細胞内のDNAが2重らせん構造をしている写真が撮れたと文献7.にあります。正直、私には理解不能です。 さまざまな苦労、様々な電子顕微鏡開発、電子顕微鏡研究があって初めて「DNAの二重らせん構造写真」撮影に成功したのでしょう。今回は、その写真をお目にかけました。 【参考文献】 S Inaga , H Osatake, K Tanaka:SEM images of DNA double helix and nucleosomes observed by ultrahigh-resolution scanning electron microscopy J Electron Microsc (Tokyo). 1991 Jun;40(3):181-6. アン・セイヤー 著:「ロザリンド・フランクリンとDNA―ぬすまれた栄光」 草思社(1979年) ブレンダ・マドックス 著: 福岡伸一 (訳):「ダークレディと呼ばれて: 二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実」化学同人(2019年) 超ミクロ世界への挑戦: 生物を80万倍で見る(岩波新書)1989年 ぶらりミクロ散歩――電子顕微鏡で覗く世界(岩波新書)2010年 タマムシの翅はなぜ玉虫色か―電子顕微鏡でのぞく身のまわりの世界(ブルーバックス)1995年 加藤勝美著「日立の頭脳」1991年 講談社 余計な注: 田中敬一先生が東京で講演を成された際にサインをして頂きました。私の宝物です。 謝辞: 最後になりますが、DNAの写真を提供して頂いた稲賀すみれ先生、超ミクロ世界への挑戦に載っているバクテリオファージの走査型電子顕微鏡写真の掲載を許可して頂いた故田中敬一教授の奥様である田中昭子様に厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/12/13 誰も知らない?日野原重明先生の姿 本号の主題に移ります。 皆さんは故日野原重明先生(1911-2017)のことをご存じかと思います.105歳で亡くなる直前までお元気で講演、本の執筆、作曲など八面六臂の活躍をなさっていました.今もお元気なら、新型コロナウイルス感染症にどうやって対処したか興味があります。 地下鉄サリン事件に対する日野原先生の対処 日野原先生は「地下鉄サリン事件」で見事な指揮をとり被害者の治療、救命に当たりました。あり得ないような偶然が重なったのです。 あの事件が起きる前、聖路加病院の建て替え工事がありました。その際日野原先生の提案により東京で大災害が起きた時に対処するため全ての病棟、待合室、礼拝堂に酸素供給ができるような配管がなされていました。「言うは易く行うは難し」です。こういう設備をするとかなり高額な費用がかかります。結果的にこの酸素配管がサリン事件で役に立ったのです。 地下鉄サリン事件で聖路加病院には多くの患者さんが運び込まれました。日野原先生の指示で病院の通常業務はすべて止めて救急治療にあたりました。上記の酸素配管もあり、礼拝堂などを使いほとんど全ての患者さんを受け入れました。なかなかできることでは無いです。 地下鉄サリン事件の前年、松本サリン事件があり信州大学が治療に当たっていました。信州大学の柳澤信夫医師は、地下鉄サリン事件の映像を見て聖路加病院に電話で連絡を取ります。「サリン」が撒かれた可能性があり、解毒剤(PAM)の使用を提案したのです。それを聞いた日野原先生は大げさに言えば日本中からPAMを集めるように指示、大量のPAMが集まり救命に役立ちました。 あり得ないくらい素晴らしい対処です。どれか1つ欠けていたら大勢の死者が出ていたと思います。怖いことです。日野原先生、ご存命なら新型コロナウイルス感染症に対してどのように対処したか考えてしまいます。 日野原先生は実に多くのことを成し遂げています。 人間ドックの創始 看護教育への貢献(聖路加看護大学 学長 理事長) 臨床医教育への貢献:特にベッドサイドでの医師教育の大切さを説く 音楽を医療に取り入れたこと(音楽療法学会の創設) 葉酸の命名者でありビタミンの普及に努める 吹き矢の普及:日本スポーツ吹矢協会最高顧問 吹き矢で呼吸を鍛える 長生きするにはどうしたら良いかを実践 成人病の代わりに「生活習慣病」を提案 禁煙教育の普及に尽力(日本禁煙科学会を創設) アメリカ医学の日本への紹介、普及(戦前はドイツ医学がメイン:1952年アメリカに留学) 聖路加国際病院の医師として多数の患者さんを診療 etc. etc. あまりに多くのことを成しています。私が大学を卒業した頃は、まだ一般の方にはさほど知られていませんでした。よど号事件の飛行機に乗り合わせて北朝鮮まで行った先生くらいしか、認識はなかったと思います。しかし、2001年90歳の時に出版した「生きかた上手」がベストセラーになりそれからは一般の方にも広く知られるようになりました。 徹夜徹夜また徹夜 これは2012年抗加齢学会で1時間の講演をなさった時の写真です。当時、御年101歳。101歳で立って1時間講演をしていました。凄いとしか言いようが無いですね。この時の演題は「どうしたら長生きできるか?」という真面目な講演でした。最新の文献を多数紹介しつつ、ご自身のお考えを話していました。 食べ過ぎるな(1日1食でも充分?) 野菜を食べよう、葉酸を摂ろう、ビタミンを摂ろう タンパク質をたくさん食べよう タバコは論外 年を取ったら毎日の楽しみを見つけよう 歩こう、階段を使おう ご自身も当時3階まではエレベーター、エスカレーターを使わないと仰っていました。 勉強しよう、頭を使おう、などなど。。 95歳までは週に数回徹夜していたそうです。90歳を越えても徹夜、徹夜の日々だったそうです。勉強したり、原稿を書いたり、本を書いたり、作曲をしたり。。あり得ないですね。当時も年に1回アメリカに行って最新医学の勉強をしていると仰っていました。 長寿には「運」も必要 「私(日野原先生)は学生時代結核になり1年休学した。そのために戦争の最前線に送られなかった。戦争当時、聖路加国際病院で働いていた。戦後、この病院はアメリカ人が運営する教会が創設した病院だったので空襲の目標から外れていたことを知った。それゆえに空襲に遭わなかった。「運」が良かった。でも「運」だけでは長生きできない。」とかetc.。。 余談ですがこの講演で診療中に風邪の患者さんから風邪をうつされない方法を話していました。「聴診器を胸に当てる時、決して患者さんの正面から聴診器を当ててはいけない。聴診中に咳をされると風邪がうつる。この年で風邪をうつされると命取りになる」と仰っていました。私もこれは実践しています。この講演当時101歳でしたが「あと5年は予定が一杯でスケジュール帳がいっぱいになっている。だから死ぬわけにはいかない」と仰って笑いをとっていました。 日野原先生が翻訳したオスラー博士の書いた「平静の心」 研修医の頃、日野原先生と仁木久恵先生(聖路加看護大学教授(英語学))が翻訳した「平静の心」読むように先輩医師から勧められました。オスラー医師は世界的に有名な内科医です。そのオスラー医師の講演集です。医療に対する哲学や実践方法が書かれています。今、読み返してみると色々と頷けることが多いです。オスラー医師はリンゲル液のリンガー先生の弟子でした。以前、そのことを紹介しました(記事:016:リンゲル液の発見をもたらした4つの偶然)。 オスラー医師はリンガー医師の弟子だけあって、科学を重視しました。 オスラー医師の残した言葉を2つだけ紹介します。 Medicine is a science of uncertainty and an art of probability. (医学は不確実性の科学であり、確率のアートである) Medicine is an art, based on science. (医学は、科学に基づいた、芸術である) などの言葉を残しています。 私が「平静の心」を読んで心に残ったのは、医師を志すなら 「毎日勉強せよ」 「酒色に溺れてはいけない」 「船には沈没しないように区画室がある。それと同じように 酒色に溺れ無い様にするために毎日“防日区画室”を自分で作って酒色から離れて勉強することが大切だ」 とかそういう言葉です。 今読んでも勉強になる素晴らしい内容の本です。 ここから「砕けた」話になります。 日野原先生は毎週午後8時に東京慈恵会医科大学附属病院5B病棟に現れた 1984年のことです。当時、日野原先生は東京慈恵会医科大学附属病院心臓外科(新井達太教授時代)に患者さんを時々紹介してくださっていました。そして自分の患者さんが慈恵医大心臓外科病棟に入院している間、決まって水曜日の午後8-9時頃、慈恵の病棟を訪れ患者さんを診察してカルテに診察所見、レントゲンの所見、投薬の指示(というか意見)を書いていくのです。当時、73歳です。なかなかできることではありません。 最初に数回お見かけした頃、私は日野原先生の顔を知りませんでしたので日野原先生のことを「自分が紹介した患者さんを診察しに来るどこかの熱心な開業医さん」だと思っていました。「○○さんの所に案内してください」と言って病棟に来られるのです。日野原先生が来られた時、たまたま私しか病棟にいなかったのでいつも私が患者さんのところに案内していました。この「開業医」さんは医師だと解っていたので私の聴診器を貸していました。ある日の夜、先輩の先生と一緒に病棟にいた時、日野原先生がお見えになりました。先輩の先生はその先生に向かって深々とお辞儀をして丁寧に接していました。 「望月、あの先生は聖路加の日野原重明先生だ」 「今度から日野原先生がお見えになったら必ず連絡をするように」 「失礼がないように」 と言われました。 ええええ! とびっくりしました。あの「平静の心」で有名な聖路加の日野原重明先生が夜、ひとりで他病院にまで自分の患者さんの診察に来ていたのです。「凄い」と思いました。今、思うと聴診器にサインでもして頂いていたらとか御著書にサインでも頂いていたらと思います。何にせよ、頭が下がる思いがしました。 夜に患者さんを見舞う理由 後年、夜遅くにでも患者さんを診察に来る理由が記された本(文献4)を読み、その理由がわかりました。日野原先生が京都大学病院で研修を始めたときのことです。最初に担当した16歳の患者さんは重病でした。その患者さんが亡くなる前、決まって日曜日毎に熱発するのでおかしいと思ったら、その16歳の患者さんは「日曜日は日野原先生が来ないから不安で熱が出る」と言っていたのだそうです。それを同僚の医師から聞いた日野原先生はできるだけ患者さんのところに行くことにしようと思いそれを実行していたのです。言うは易く行うは難しです。なかなかできることではありません。 「哲学を持った医師は神に近い」というヒポクラテスの言葉を想起します。 ここからは学問の話です。 日野原重明先生が最初に書いた論文 1943年、日野原先生は心音の研究で京都帝国大学より医学博士号を授かっています。学位論文を紹介しましょう。①の論文がそれです。 『日本循環器病學』6巻4号,1940(第1報)6巻11号,1941(第8報)に載せた論文 この論文を英訳してアメリカの雑誌に投稿しています。 ShigeakiHinohara:Systolic gallop rhythm American Heart Journal Volume 22, Issue 6, December 1941, Pages 726-736 この論文2.が載った日付を見て、一寸、ぎょっとしました。なんと1941年12月に発刊された号に掲載されています。1941年12月は日本軍が真珠湾を攻撃、太平洋戦争が始まった月です。 これが論文のタイトルです。 「Systolic gallop rhythm:収縮期奔馬調律(しゅうしゅくきほんばちょうりつ)」 この雑誌に載っている図です。胸壁と食道にマイクロフォンを置いて心音を記録して分析した論文です。ピアノが趣味だった日野原先生らしい「音」にこだわった論文です。立派な論文です。アメリカ留学をしたことが無かった日本人医師がアメリカの雑誌に投稿していたのです。なかなか出来ないことです。この論文は戦争中でもあり掲載されたかどうかを知る術が無かったそうです。論文が掲載されていたことを知ったのは昭和26年(1951年)に日野原先生が渡米した折のことだったそうです(文献4)。 後に日野原先生は多くの論文を書き、また多くの著書が出版されました。この論文は先生が最初に書いた論文です。「栴檀は双葉より芳し」と言いますが、この論文に後年の日野原先生の活躍の元があると思っています。ご興味がある方は連絡をください。私事になりますがこの「American Heart Journal誌」から論文の査読依頼を受けて数編の査読をしたことがあります。良い思い出です。 色々と日野原先生のことを書き記しましたが、一生懸命患者さんの治療に当たり、色々なことを創始し、そのほとんどが開花し文化勲章も受章。「完璧」な医師人生だった思います。 余談: 日野原先生の京都帝国大学時代の指導教授は、論文にもある眞下俊一(ましもとしかず)先生です。眞下先生は、今、真下と紹介されることが多いのですが間違っています。眞下が正しいのです。京大関係の書類には「眞下」とあります。日野原先生の論文でももちろん「眞下」と記されています。眞下先生は心電図、心音図を研究していました。日本循環器学会の創設者の1人であり、循環器学会の第一回から第四回まで眞下先生が循環器学会の会長を務めています。その眞下先生に不幸が訪れます。昭和20年9月、原爆による人体への被害を調査するため広島に赴き滞在先で枕崎台風がおこした山津波に巻き込まれてお亡くなりになっています。日野原先生が「長生きにも運が必要」と話していたのにはこのような恩師の悲劇も念頭にあったのかも知れません。 【参考文献、資料】 日野原重明「心音の研究」: 第一報:心音並に心雜音の新記録法 日本循環器病學 1940年 6巻 4号 p.117-121 ShigeakiHinohara:Systolic gallop rhythm American Heart Journal Volume 22, Issue 6, December 1941, Pages 726-736 「平静の心 ― オスラー博士講演集」William Osler(著), 日野原 重明、仁木 久恵(翻訳) 医学書院刊 日野原重明著:「幸福な偶然」(セレンディピティ)をつかまえる 2005年 光文社刊 など。。 注: 日野原重明先生が診察に行かないと熱が出る患者さんの事を紹介しましたが、これはストレス性体温上昇(stress-induced hyperthermia;SIH)だったと思います。ストレスなどで心因性に体温が上がる現象です。最近、ストレスによる熱発研究が行われています。そんな概念がまだ無かった頃にこういう現象に自然と気づいていた若き日野原先生はやはり臨床医として超一流だったと思います。 新型コロナウイルス感染症に関する最新情報 「現状」を記録することにある一定の意義があると思っているので、最初に新型コロナウイルス感染症の話題をいくつかお伝えします。 コロナ関連のデータは Our World in Data という電子出版のサイトから引用しています。 コロナの現状(図1、2) 日本は平穏無事です。 現時点(2021-12-03)で東京のコロナ患者発症数は7-30人となっています。2021-12-04は20人です。東京の人口は1400万人、70万人に1人の発症者しかいません。ほぼ収束しています。このままこの状態が続けばいいですね。しかし、欧米は大変なことになっています。例えばデンマークです。いきなり発症数が上昇しています。 図1:2021-11-12のデンマークと日本 100万人辺りの発症数 図2:イギリス ドイツ 日本 100万人当たりの発症数 イギリスもドイツも同様です。つまり欧米は全く収束していないことがわかります。フランスも急増している(1日5万人の新規感染者)と報道されています(2021-12-03)。 新型コロナウイルス感染症の発症数の増減についてはさまざまな論考がなされていますが、今のところ「正解」は無さそうです。いくつか紹介します。 コロナ120日周期説(図3) これまでの日本の発症数を分析すると、ほぼ120日周期で消退を繰り返しています。つまり、2月、6月、10月に底になり、その後増えています。さて今11月後半ですが日本では発症数が増えていません。120日周期が敗れこのまま平坦になってくれればいいですね。 図3 外国からの往来が発症を助長するという説(図4) 日本の第五波は他の波に比してかなり高くなっています。分析するとオリンピック前後で増えています。やはり外国との往来が多いと増えるのでしょうか?東京オリパラの開催日を見てみましょう。 東京五輪:2021年7月23日~8月8日 パラリンピック:2021年8月24日~9月5日 これらの大会に伴い世界中から多くの選手や選手のサポートをする方が日本を訪れました。第5波の高さはこれに関係するかも知れないです。 COVID-19が日本に入ったのは2020年1-2月です。この時期、中国から多くの旅行者が世界中を旅行しました。世界中に中国からの旅行者が散らばったためにCOVID-19を世界に広めたと言われています。 外国からの往来が増えると日本では発症数が増えるのかも知れません。しかし、何時までも鎖国のような状態にしておく訳にはいかないでしょう。どのタイミングで入国を緩和するか、難しい問題です。 図4 ロックダウンすればいいのか?(図5) 厳しいロックダウンをしている国(例えばオーストラリア、ニュージーランド)よりも、日本は発症率が低くなっています。なんでもロックダウンすれば良い訳でも無さそうです。 図5:韓国は日本よりもコロナ発症数が少なかったのにいきなり上昇 韓国は一貫して日本より発症数が抑えられてきました。しかし、ここ1ヵ月急上昇しています。往来の制限を緩くしたからと言われていますが、本当でしょうか? 日本は何故こんなに発症数が低くなったのか? さまざまな説があります。 mRNAワクチン接種率の上昇 マスクの徹底 手洗い(どこにでもアルコール除菌液がある)の徹底 元々日本人はコロナウイルスに対する免疫がある などがその要因だと思います。他国と大きく違うのが2と3だと思います。4ですが、理研からそれを裏付ける論文が最近掲載されました。 Kanako Shimizu etc. :「Identification of TCR repertoires in functionally competent cytotoxic T cells cross-reactive to SARS-CoV-2」 Communications Biology volume 4,Published: 02 December 2021 それによると「日本人の多くに新型コロナウイルス感染症に対するT細胞の既免疫がある」のだそうです。これが本当なら日本が新型コロナウイルス感染症に対して平穏無事なのも「宜なるかな」です(参考:「新型コロナウイルスに殺傷効果を持つ記憶免疫キラーT細胞」理化学研究所)。 この夢のような状態がずっと続き、第6波が来ないと良いですね。感染症は本当に厄介です。始末に負えないです。目に見えないモノ相手は本当に難しいです。 国境の長いトンネルを越えると。。。そこはコロナ禍だった。 新型コロナウイルス感染症は国境が変わるとかなり発症数、発病率、死亡率が違います。これは実に興味深いことです。スウェーデンはコロナ禍が始まった時、マスクは強制せず、ロックダウンもせず、緩い規制だけを行いました。当初、発症数が激増し、周囲の国から批判を浴びました。現在、そのスウェーデンは周囲の国よりもかなりコロナが抑えられています。 スウェーデンは、現時点でもかなり発症が抑制されていますが、デンマーク、フィンランドは何故か激増しつつあります。国境でコロナウイルスが変化するわけでは無いので、「国の対策」でこのような違いが出ているのだと思います。各国のCOVID-19政策担当者はおそらく頭をかかえていると思います。ただし日本は理研の論文が正しいなら「国の対策」以前に何をヤッテモ今のような平穏無事状態だったのかもしれないです。 オミクロン株出現 2021年11月26日、南アフリカ共和国で新たな変異株であるオミクロン株(ギリシア語: όμικρον、英: omicron)が出現しました。オミクロン株についてはまだ不明な点も多いのですが「感染力がデルタ株よりも強い」と予想されています。日本も明日(2021-11-30)から、外国人の新規入国に関して厳しい処置をとることになりました。この処置は30日続くと報道されています。この先どうなるのでしょう。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/11/22 前回の続きです。「かふふ驛」問題に戻ります。 「かふふ」は歴史的仮名遣いです。 昭和21年、今普通に使われている「現代仮名遣い」を文部省(今の文科省)が使うように発令して以来、使われなくなりました。当たり前ですが、教科書、公的文書は基本的に「現代仮名遣い」が使われるようになっています。歴史的仮名遣いは「歴史」という言葉が示すように平安時代から使われている仮名遣いです。例えば、 ちょうちょう=てふてふ あじさい=あぢさゐ いど(井戸)=ゐど おさない(幼い)=をさない かつお(鰹)=かつを 駅名では、 しながわ(品川)=しながは ゆうらくちょう(有楽町)=いうらくちやう しんばし(新橋)=志んばし(鉄道博物館写真で確認) とうきょう(東京)=とうきやう おちゃのみず(お茶の水)=おちやのみづ(鉄道博物館写真で確認) など多数あります。 甲府駅の掲示によると歴史的仮名遣いでは「かふふ」と表記されていたのですね。 それでは「かふふ驛」は間違いではないと思うかもしれません。しかし、文献1の92頁に「昭和2年、駅名はカナで左横書き」に統一することになったが国粋主義者の大臣によってすぐに元の「右ひらがな書き」に戻ったとあります(92頁)。国粋主義者は文章、文字はすべて本来の日本語の読み方である、右から読む事を横書きでも強硬に主張していたのですね。 つまり「かふふ驛」だったことは無いはずです。左書きなら昭和2年に「カフフ驛」が一瞬あったかもしれないですが、 左横書きが正式に用いられる以前(昭和17年以前) 現代仮名遣いが使われる以前(昭和21年以前) なら「驛ふふか」(注:右から読みます)だったはずです。 戦前の駅名標の写真を集めてみました。皆、平仮名で右横書きですね。 皆、右横書きです。 甲府駅はどうだったのでしょう。山梨県立図書館、甲府市役所に問い合わせてみました。こういうことを調べてくれる部署があります。インターネットで申し込むことができます。 以下、山梨県立図書館からの返答です。素晴らしいです。 ――引用終了――――― 山梨県立図書館をご利用いただきありがとうございます。 お問い合わせいただいた件につきまして、回答いたします。 1946(昭和21)年11月7日の読売新聞に下記のような記事がありましたので記載いたします。 「驛名も左書き 新かなづかい」 近く実施される現代かなづかいに即して国鉄の全国4126駅の駅名標示が書き換えられる。主な例は ▽とうきやう(東京)とうきょう▽おほさか(大阪)おうさか▽きやうと(京都)きようと▽てうし(銚子)ちようし▽かふふ(甲府)こうふ▽じふでふ(十條)じゆうじよう 等で、なほ昨年十月から実施中の驛名左書き(約八割完成)も新かなづかいのため再度書替へられる。 ――引用終了――――― とありますので、1946-47年には今の「甲府駅」(左横書き、現代仮名遣い)の看板に変わったのでしょう。事情がよくわかります。 なお、以下の写真が添付されていました。画像は正直です。右後方に駅名標が見えます。 駅名を拡大してみました。 私の予想通り、「ふふか」と書かれています。と言うわけで、現在甲府駅に掲示されている「甲府駅は「かふふ驛」として親しまれた」とあるのは「間違いでは無い」ですが、本来ならば 《「かふふ驛として親しまれた(注:元は「驛ふふか」と表示されていた)》 とでも表示すべきです。 何か不明な事を調べる時、 公的機関は様々な「質問」に真摯に答えてくれる 画像があると説得力が増す(百聞は一見にしかずです) 冒頭に記した「幸福、かふふく」の事を書き忘れそうになりました。「幸福」の歴史的仮名遣いは「かうふく」です。「かふふく」ではないと思います。「かふふく」と記されている文献があるのでしょうか? 色々と調べましたが、ありませんでした。こちらも間違っているのではないでしょうか? 言葉は変遷します。70年前と現在でこんなに違います。言葉を大切にしなければいけません。 【参考文献】 「日本語大博物館 悪魔の文字と闘った人々/紀田順一郎」ジャストシステム刊 『国語施策百年史』(文化庁/[編] ぎょうせい 2006) 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編1』(JTB 1998) 『甲府市史 別編 3 甲府の歴史』(甲府市市史編さん委員会/編集 甲府市 1993) 文献2-4は山梨県立図書館 調査サービス担当者よりご教示頂きました。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/11/08 歴史的仮名遣いとは何か? 前回の続きです。「歴史的仮名遣いとは何か?」というお話でした。 簡単に言うと、平安時代から使われてきた仮名遣いです。どういうふうに仮名が使われてきたかを江戸時代の僧侶であり古典学者だった契沖が『万葉集』、『日本書紀』、『古事記』、『源氏物語』などの古典に使われている仮名遣いを「和字正濫抄(わじしょうらんしょう)」(古典籍総合データベース)に著し、これに準じた仮名遣いが「歴史的仮名遣い」あるいは「旧仮名づかい」です。基本的に太平洋戦争終了まではこの歴史的仮名遣いで文章が書かれていました。 いくつか紹介しましょう。 蠅:はへ 家:いへ 蛙:かへる 敢:あへて etc.興味がある方はご覧ください。 太平洋戦争終了後に、表記と発音とのずれが大きい歴史的仮名遣いは使われなくなりました。今私たちが使っている「現代仮名遣い」にとって変わられました。 詳しくは下記文献1.2.を参照ください。 昭和21年(1946)11月16日、内閣訓令第8号、内閣告示第33号により 「現代かなづかい」実施の件(国立公文書館デジタルアーカイブ) https://www.digital.archives.go.jp/img/1712722 学校教育における「現代仮名遣い」の取扱いについて 文初小第二四一号 昭和六一年七月一日 (文化庁) https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/naikaku/gendaikana/index.html 要するに教科書に使う仮名遣いを現在私たちが使っている「現代仮名遣い」に統一したのです。しかし、今どのような仮名遣いをしようが自由です。丸谷才一のように、あえて、歴史的仮名遣いで文章を書いている人もいます。 甲府駅の話に戻ります。現代仮名遣いでの甲府の表記は「こうふ」、歴史的仮名遣いでの甲府の表記は「かふふ」あるいは「かうふ」です。あれ?それなら「表記が間違っている?」と私が書くのはおかしいではないかと思われる方もいるでしょう。 「かふふ驛」という表記が間違っている明白な証拠を示して論考をしたいと思います。 今私たちが読んでいる日本語で書かれた普通の文庫本、新書類、小説、雑誌、新聞は縦書きです。科学系の教科書は横書き、文系の教科書は縦書き、ビジネス文書は横書きです。 要するに日本は縦書きと横書きが混在しています。縦書きを使っている国は数少ないです。漢字を使っている(いた)国、中国、韓国、日本は縦書きが基本でした。モンゴル文字も縦書きが基本です。今、縦書きがどれくらい残っているのでしょうか? 日本は、明治時代になり開国するまで、蘭学を学んだ人は別にして、一般人は横書きの書物を読んだことはもちろん見たことも無かったと思います。それが明治時代になり、一変します。 日本語の縦書きは右上から、左下に文章が続きます。つまり、右から左に読むのが日本語を読む時の基本です。横書きは、今なら、なんのためらいも無く左→右に書きます。これを「左横書き」と言います。 明治時代に、欧米からの書物が入ってきて困ったことが起きます。英文、独文、仏文すべて「左横書き」です。でも、しかし、日本語は縦書きで、右から左に読んだり書いたりします。これを「右縦書き」と言います。 縦横+左右があり、4通りの書き方があります。 ①右縦書き:今も普通に使われています。 ②左縦書き:モンゴル古代文字は左上から右下に書くそうです(モンゴルの方に確かめました)。縦書きですが、左から右に読んでいくのだそうです。 参考:伝統モンゴル文字のWeb表示(モンゴル語の穴ぐら) ③右横書き:右から左に向かって書きます。アラビア語以外では使われることは少ないですね。しかし、そう遠くない昔、日本でも使われていたのです。 ④左横書き:左から右に横書きします。英独仏西葡蘭露語など、すべて横左書きです。日本の横書き文章も同様です。 の4通りです。少し触れましたが、②以外はすべて普通に明治時代の日本で使われていました。 縦書きしか見たことが無かった日本人は苦労します。欧米系のラテン文字は縦書では読むのに苦労します。 少し遊んでみましょう。川端康成の「雪国」の冒頭を①③④で記してみました。 明治初期にこれを書いて出版するなら ①右縦書き:普通に読めます。 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 夜の底が白くなった。 信号所に汽車が止まった。 ③右横書き(右から左に読む):読めないですね。 ←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←← 。たっあで国雪とるけ抜をルネントい長の境国 ④左横書き: 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 これなら今でも普通に読めますね。 つまり日本語で文を書く方法として現在残っている文章の表記法は縦右書き、横左書きの二つです。 この二つに収斂するまでかなり混乱しています。 下二つは明治時代の辞書です。ラテン文字部分は当たり前ですが、横左書き。和訳部分は縦書きです。辞書を引くのも、辞書を横にしたり縦にしたり、大変だったのですね。 私が持っている大正時代に書かれた内科の教科書も、縦書き、横左書き、横右書きが混在しています。 図1:際實ノ療診科内 著方義川西 右横書きです。読みづらいですね。 図2:普通に右縦書きですが、横文字部分は読みづらいですね 図3:複雑な西欧文字部分は左横書きと右縦書きが混在しています 新聞は終戦時まで横書きは右横書きでした。 縦書きと右縦書き、左横書きが混在しています。右上の食堂の看板は右横書きですが、他の横書きは左横書きですね。 要するに何を言いたいかと言うと明治になり、開国した結果、欧米の文物が大量に日本に入ってきて、それまで「横書き」を見たことが無かった日本人は困ったのですね。だから、日本語は廃止してフランス語を導入しようとしたり、漢字仮名カタカタを廃してローマ字を使おうとか今思うと「トンデモない」ことが提案されたりしています。 縦書き表記は従来通りの右縦書きのままですが、横書きは①右横書きと②左横書きが混在していたのです。現在のような横書きが左横書きとして統一される一端は開戦の翌年(昭和17年)のことです(参考文献1. 184頁)。横書きが左右に分かれて混在したら非能率的だったからです。それでも本格的に左横書きが広まるのは終戦後です。 次回に続きます。 【参考文献】 「日本語大博物館 悪魔の文字と闘った人々/紀田順一郎」ジャストシステム刊 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/10/25 表題のごとく今回は医学と関係ないことを記しますが、医学にも関係する「調べる」ことの大切について考えていただいたら幸いです。何事かを伝えようとする時「調べる」ことはとても重要です。 何かを論ずる時「という」「と言われている」という文章を良く目にしますが、こういう場合は根拠が不明なことがほとんどです。根拠不明な文章を読んだり論じたりするのは時間の無駄です。 先日、世評の高い歴史に関する本を読み始めました。あまり耳にしたことが無い話が満載です。「おお!」と思ったのですが目新しいと著者がいうことのほとんどに「という」「と言われている」と記されています。その根拠は一切書かれていませんでした。途中で読むのを止めました。時間の無駄です。 本論に入る前に少々余計な話を書きますが、この部分は読み飛ばしていただいても構いません。 富士山に登った時に撮影した「雲海に映る影富士+虹」 今夏も天候不順が続きました。急に暑くなったり涼しくなったりと変な天気でした。8月にはなぜか毎週末に雨が降り、夏休みの観光客を当て込んでいた観光地はコロナ禍に加えて「泣き面に蜂」状態だと報道されていました。昨年はコロナ禍で登山禁止だった富士山も今年は登れるようになりましたが、8月は週末毎に雨が降ったため、登山客は例年の4割程度だったそうです(参考:「富士山登山者、山梨県側は一昨年から6割程度減少」YAMAKEI ONLINE)。 写真:雲海に映る影富士+虹 私は時々富士山に登ります。この写真はコロナ出現前の2019年に富士山に登った時に撮影した「雲海に映る影富士+虹」です。とても珍しい光景です。影富士は珍しくないですが「雲海に現れる虹」は見たことがありませんでした。写真を撮った時は7合目の山小屋にいたのですが、その小屋の主人も見たことがないと言っていました。頂上右側の虹がお分かりになりますでしょうか? 虹の下では雨が降っているのでしょうか? 富士登山をすると、毎回ではありませんが、時にかなり美しい風景を見ることができます。 富士山は山梨県と静岡県にまたがってそびえ立っています。 富士山は山梨から見た方がきれいだと山梨の方は言います。富士五湖から一気に山がそびえ立つ様は豪快で山梨側から見た方がきれいだと言います。 一方、静岡の方は静岡から見た方がきれいだと言います。駿河湾から富士山頂までの姿は優雅に見えるので静岡から見た方がきれいだと言います。 さて、どちらがきれいでしょうか? 答えは? 最後に記しました。冗談がわかる人だけ最後を読んでください。 余談終了です。 「かふふ驛」という看板があった? ここからが本題です。 その富士山が見える郷里の甲府に帰った時、甲府駅にこのような掲示があることに気づきました(下の写真参照 点線は筆者)。 甲府駅は「かふふえき」として親しまれたとあります。 写真:「かふふえき」として親しまれていました。 この看板を見れば「かふふ驛」という看板があったと誤解されかねません。これは「間違い」だと思いました。間違いとは穏やかでは無いと思うかも知れません。その辺りを考察したいと思います。 この看板の横には鐘が掲示してあり、そこにも穏やかならざることが書いてあります。 この鐘は「かふふ来の鐘」とあり、「かふふ来」=「幸福」と書いてあります。 本当でしょうか? 答えはこのシリーズの最後に記します。 話を戻します。以前、蝶々の話を紹介した際、「春」と題する安西冬衛の作品を紹介しました。 111:アサギマダラは旅をする 蝶も人の心を「忖度」できるのか?(1) てふてふが一匹 韃靼海峡を渡つて行つた。 この安西冬衛の詩が、ある大学の入学試験に出題され、その試験問題が厳しく批判されていることに気づきました。「桜もさようならも日本語」丸谷才一著(新潮文庫)頁237-238で厳しく批判されています。問題を紹介しましょう。 問題:次の詩は「春」と題する安西冬衛の作品である。 この詩の表記法としてふさわしいものを次の中より一つ選べ。 ① 蝶蝶が一匹韃靼海峡を渡つて行つた ② 蝶蝶が一ぴきダッタン海峡を渡って行った ③ ちょうちょうが一ぴきダッタン海峡を渡って行った ④ ちょうちょうが一匹韃靼海峡を渡って行った ⑤ てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた ⑥ てふてふが一ぴきダッタン海峡を渡つて行つた みなさん、正解が解りますか?本当の事を言うと正解は「無い」のです。問題文が間違っているのです。この詩は昭和4年(1929年)の詩集「軍艦茉莉」に載っている詩歌です。図書館で確認しましたが安西冬衛はこの「てふてふ」の詩の最後に「。」を打っています。どうやら「。」に拘りがありそうです。入試問題には「。」が打ってある設問がありません。ゆえに、この問題には「正解がない」と言っても過言では無いでしょう。 「。」なんかどうでも良いかも知れませんが「モーニング娘。」というグループは「。」を付して「。」に意味を持たせていました。この入試問題は、つまり、雑な出題ですね。 話を戻します。この問題には「詩の表記法としてふさわしいもの」を選べとあります。「ふさわしい」と思うのは作者の感覚を知らないとわからないですね。それは無理な話です。 つまり「この問題を解くにはこの歌を知っていない」とできないということになります。入学試験のためにこのような歌まで知っている必要があるでしょうか? 以下、丸谷才一の批判です。上掲書、頁228からの引用です。一部省略しています。匿名にしてある部分もあります。 ----引用開始------ 安西の詩《春》は現代日本の一行詩のなかで最も高名なもののひとつである。しかしその文字づかひをそつくり覚える事にどういふ意味があるのか、わたしにはわからない。中略。漢字と平仮名、片仮名を混ぜて書くのは日本文の表記の基本だから、その使い分けは大事な心得だ。しかしその使い分けはこの場合安西の感覚と個性と気まぐれに大きくよりかかってゐる。私にはこの感覚と個性と気まぐれが現代日本文明にとってさほど重大な意義を持つとは思へない。 歴史的仮名遣ひと新仮名との区別が日本文化の大問題あることは言ふまでもないが、しかし安西がある詩をどの仮名づかひで書いたかは、入試問題で問ふべきことではなからう。某大学(実名で書いてあるが伏せます)のこの問題は入試問題ではない。アテモノでありクイズである。マークシート方式向きの便宜主義と浅薄な文藝趣味が合体したとき、かういふ愚劣きはまる出題がなされるのだらう。 ----引用終了------ 安西冬衛の原詩を知らないと正解はできません。この詩は昭和4年(1929)に発表されています。昭和4年頃は文章の表記に歴史的仮名遣いが使われていたことを知っていれば、①~④は間違いであることが解ります。 ①~④は「渡って行った」とあり、⑤⑥は「渡つて行つた」とあります。 「つ」が大文字で表記されているので歴史的仮名遣いが使われていることがわかります。ここが解れば正解確率は1/2になります。正解は⑤です。 原詩を再掲します。 てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。 「蝶々」だろうが「ちょうちょう」だろうが「てふてふ」だろうが「韃靼海峡」だろうが「ダッタン海峡」だろうが、どうでも良いことだと私も思います。安西が気まぐれに使った(かもしれない)仮名遣いが後に受験生を苦しめているのです。泉下の安西も嘆いているでしょう。 ちなみに丸谷才一は歴史的仮名遣いを使って小説、評論を書いています。上述の丸谷の文章も歴史的仮名遣いに沿って書かれています。 「文字づかひ」「かういふ」「問ふべき」「よりかかってゐる」「言ふまでもない」すべて歴史的仮名遣いです。 歴史的仮名遣いとは何でしょうか? 簡単に言うと、平安時代から使われてきた仮名遣いです。次回に続きます。 余談:「富士山がどちらから見た方がきれいか?」 どうでもいい話です。きれいさの指標はありません。山梨県(=甲斐(かい)の国)から見た方がきれいか、静岡県(=駿河(するが)の国)から見た方がきれいかと言う議論自体不毛です。 江戸時代の狂歌師太田蜀山人は戯れ歌でこの論争に結論を下しました。もちろん冗談です。どちらがきれいか、江戸時代からあったのでしょう。恐らくそういう議論を苦々しく思っていた蜀山人はそれに関する戯れ歌を作ります。引用します。上手いですね。 「娘子の 裾をめくれば 富士の山 甲斐で見るより 駿河一番」 解る人にはわかる歌です。こういうひねりは面白いですね。意味がわからない方は問い合わせください。 2021年8月29日、富士山の西側を南北に走る中部横断自動車道の山梨―静岡間が全線開通しました。中央自動車道と東名高速道路とが高速道路でつながったのです。山梨県知事は『甲斐国(かいのくに)が「開」の国に』なったと述べています。海無し県の山梨が高速道路で海のある静岡までつながったことを「開かれた」と表現したのでしょう。 これを読んで開高健が中国に行った時のことを思い出しました。彼の国で「開」は本名ですか?ペンネームですか?と何回か聞かれたそうです。これ以上は野暮です。止めます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/09/09 患者さんが助からないと歴史に名は残らない 9月9日は日本では「救急の日」。偶然ですが「世界初の心臓手術成功の日」です。 今回は世界で初めて行われた(成功した)心臓手術を紹介します。本編後半に少しショッキングな写真が載っています。お気をつけください。 世界で初めて心臓手術をした(成功した)のはドイツ人外科医の「Ludwig Wilhelm Carl Rehn(ルートヴィッヒ・レーン)」医師です。1896年9月9日に、この手術は行われました。 患者名:Willhelm Justus(ヴィルヘルム ユスツス)さん、22歳の庭師です。昔はこのように患者名まで報じられたのですね。隔世の感があります。 病歴風に記します。 この患者さん(Willhelm Justusさん)は1896年9月7日、歩行中にナイフで左胸を刺されて路上に倒れた(らしい)。たまたま、通りがかった人が連絡を取ってくれて、救急馬車!でレーン医師が勤めていた Frankfurt State Hospital 病院に搬送された。 この時、おり悪しく、レーン医師は所要で不在でした。 9月9日、レーン医師はこの患者さんを診察します。 レーン医師は、この22歳の患者さんが ナイフで心臓を刺されたこと ナイフで傷ついた心臓から出血していること(注:心臓から出血した血液は心嚢腔に貯留し、心タンポナーデ=心臓圧迫状態という状態になっていたと予想されます。今なら心エコーで簡単に診断できます。) 血圧が下がり、このままでは死亡してしまうこと 血圧が下がって、すでに意識が無くなっていること などから、このままでは死亡してしまうと考えそれなら左胸を開けて損傷を受けている心臓、、つまり心臓の出血部位を糸で縫合止血しようと考えたのです。 「言うは易く行うは難し」です。 失敗すれば、笑いものになるし、下手をすれば職を失うかもしれません。それでも彼は手術を敢行しました。 図1:世界で初めて心臓手術に成功した Frankfurt State Hospitalの写真です。当時の写真です。 当時、外科の常識では心臓の手術は禁忌つまり「心臓の手術は行ってはいけない」とされていました。イギリス人外科医Paget医師とドイツ人外科医Billroth医師の「心臓手術」に対する意見を紹介しましょう。 Stephen Paget (1855?1926) in his book 「Surgery of the Chest」 had stated the belief that cardiac surgery had reached the limits of nature and that any surgeon who went beyond these limits (and operated upon the heart) was sure to lose the acceptance of his colleagues. Theodor Billroth (1829?94) a few years earlier had also declared a fear of cardiac operation, believing that any twitch of the myocardium would dispatch the patient immediately. Paget医師は「心臓の手術は外科医の限界を越えている。心臓手術をする外科医は仲間から受け入れられない」と記し、ビルロート医師は「心臓の筋肉を縫合しても、直ぐに外れるだろう」としています。 レーン医師がナイフによる心臓外傷を負ったこの患者さんを診た1896年はそういう時代でした。 「心臓の手術はしてはいけない」 「心臓手術が成功するわけがない」 が常識でした。 Stephen Paget医師はイギリスの外科医です。がんの転移の研究で有名です。同医師の父はSir James Paget医師で「Paget病」にその名が残っています。ビルロート医師は胃の手術の創始者で今もビルロートの考案した術式は胃切除の基本です。そういう有名外科医達がこぞって心臓手術に反対していた時代だったのです。 レーン医師は、患者さんが ナイフで刺された心臓から出血していて そのために、血圧が下がって意識が無くなっており このままでは死亡してしまうこと を見て取り、それなら左胸を開けて損傷を受けている心臓の出血部位を糸で縫合し、止血しようと考えたのです。 「言うは易く行うは難し」です。 失敗すれば、笑いものになるし、下手をすれば職を失うかも知れません。それでも彼は手術を敢行しました。 下に示す図2、3がこの時の手術図です。 左:図2、右:図3 図3:図2の拡大図です。右心室にナイフによるキズが見えます。 レーン医師は左胸を切開し、第5肋骨を切離して、心膜がよく見えるようにしました。恐らく心膜は損傷した心臓から流出していた血液で緊満していたと思います。その心膜を切開。切開すると心嚢内に貯まっていた血液が大量に流出し、図3の如く心臓に孔が開いていたのがわかったのです。ここに絹糸(けんし)を3針かけて縫合し、止血に成功しました。 「ナイフにより傷つき心臓に開いた孔に、3針目の糸をかけて縛ったら、出血はとまった」とレーン医師は記しています(図4)。 心臓の損傷を縫合して止血した後、胸腔や心嚢内を生理食塩水で良く洗浄、ヨードホルムガーゼを心臓縫合部に巻いて手術を終了しています。患者さんは手術後重篤な膿胸(注:胸の中に膿がたまる病気です。今でもその治療は簡単ではありません)に陥ったのですが(抗生物質など無い時代です)、幸い助かり、無事退院し元の仕事に戻ることができたのです。 手術から6ヵ月後、ベルリンで開かれた外科学会でレーン医師はこの手術の経過を詳しく報告しました。 「心臓を手術しても死なない」 「心臓を縫合することができる」 というニュースは瞬く間に世界中に広まり、世界のあちこちで成功例が報告されるようになりました。心臓外科の幕開けです。レーン医師はその後の10年間に124例の心臓縫合手術を行い、40%は救命できています。素晴らしい成績です。 図4:レーン医師が書いた世界最初の心臓手術成功例の論文です。全文が読みたい方は筆者まで連絡をください。 実はレーン医師が心臓手術を最初に行ったわけではありません。 ノルウェーの外科医 Axel Cappelen は1895年9月4日に、イタリアの外科医 Guido Farina は1896年3月にレーン医師と同様な心臓外傷に対して手術を行っています(文献2、3)。レーン医師が手術を行ったのは1896年9月です。Axel Cappelen 医師、Guido Farina医師の手術より遅いのです。しかし、彼らの手術は成功しませんでした。患者さんはお亡くなりなっています。 つまり、心臓手術に「最初に成功」したのがレーン医師だったのです。心臓が傷ついた場所が良かった(血圧が低い右心室だったのです)のと、手術後に感染を生じても、なんとか、治ったのでレーン医師は医学の歴史に名前が残りました。Axel Cappelen 医師、Guido Farin医師が手術した患者さんが助かったら話は違ったと思います。 心臓外科の教科書にはこのレーン医師の手術のことが必ず載っています。ある教科書にレーン医師の名前を冠した通りがドイツのフランクフルトにあると書いてありました。フランクフルトに行く機会があったら、ぜひ訪れてみたいと思っていました。なかなか行く機会がなく、フランクフルトを訪れる友人に頼んで写真を撮ってきいただきました。図5-1.2がその写真です。図5-1に「Ludwig-Rehn-Stra?e」とあるのが解りますでしょうか? Stra?e= streetです。日本語なら「ルートヴィッヒ・レーン通り」でしょう。 図5-1:Ludwig Rehn 医師の生年と没年(1849-1930)、心臓外科医(Arzt, Herzchirurg. 注:Arzt=医師 Herz=心臓 chirurg?=外科医)と書いてあります。 図5-2:通りの全景です。当たり前ですが何の変哲もない通りですね。 図5-3:フランクフルト駅の対岸にこの通りはあります。 図5-4:図5-3の拡大図です。「ルードヴィッヒ・レーン通り」と記されているのがお分かりになりますでしょうか? 現代でも心臓外傷の治療は容易ではありません。特にナイフ、包丁、刃物による心臓外傷は「即死」することが多いのです。病院に搬送されても、お亡くなりになっていることが多いのです。 私も様々な心臓臓外傷を経験しましたが、一番良く覚えているのは左胸に包丁が刺さっていた患者さんです。包丁は深く刺さっていましたが、患者さんは生きていました。30年も前のことです。デジカメなど無く、刺さっていた状態を示す写真はありません。 普通は左胸に包丁が深く刺さっていたら、左側にある心臓に包丁が刺さって「即死」します。生きて病院に搬送されてきたのが不思議でした。レントゲンを撮ったら凄いことが解りました。この患者さんは「右胸心」といって心臓が右側にあったのです。左胸を刺した犯人は、そんなことは知らずにナイフを心臓がある側(左側)を刺したのです。右胸心は12,000人に1人しか見られない特殊な心臓です。 この左胸を刺された患者さんですが、肺損傷はありましたが、心臓にキズはなく無事救命できて元気に退院しました。刺した犯人は「傷害罪」で逮捕されましたが「殺人罪」にはならなかったのです。色々な意味で思い出深い患者さんです。 図6:「右胸心+包丁刺傷」を「再現」したレントゲン写真 図6は、この「右胸心+包丁刺傷」を「再現」したレントゲン写真です。実物ではありません。30年前のある日、救急治療室で、こんな感じのレントゲンが現像されてきた時、歓声が上がりました。 心臓外傷を実際に手術している写真は、あまり撮影できません。緊急状態だから、そんな余裕があまりないのです。図7は包丁が刺さったまま病院に搬送されてきた患者さんです。おおむね、こういう患者さんが搬送されると「阿鼻叫喚状態」になります。 意識の確認 家族への連絡 警察への連絡 輸血の用意 手術室の用意 執刀医のへ出動要請 麻酔医への連絡 手術室への連絡 手術術式の検討 他に合併症は無いかどうかの確認 感染症の確認(肝炎、syphilis、HIVなど) 家族への説明 などなど、たくさん行うべきことがあります。 こういうときはいつも「Let’s everybody keep cool. Let’s solve the problem.」と思いつつ行動していました(つもりです)。 ※リンク先に手術の写真があります。苦手な方はお気をつけください。 図7-1 図7-2:包丁が心臓に刺さっています 図7-3:心臓に刺さっていた包丁を抜いて損傷を受けた心臓を修復しています こういう場合、今では縫合部位を補強するためにフェルトパッチを使います。図7-3に見える白い布が「フェルトパッチ」です。セーターなどの肘に当てるパッチと同じです。こういうフェルトパッチを使わないで心臓を縫合すると「心臓が裂けます」。糸は細いのでそのまま強い力でしばると心臓の筋肉が裂けてしまいます。心臓が傷ついている時の修復にはパッチ状のモノを使って修復するのが基本です。パッチで糸にかかる力を分散させ筋肉が糸で裂けないようにして止血操作を行います。心臓外科医は、動いている心臓を縫う機会はあまりありません。普通の心臓手術は心臓を止めて行うからです。ビルロート医師が100年前に喝破したように、動いている心臓に不用意に糸をかけると心臓の筋肉が裂けます。そういうわけで、動いている心臓を縫うのは、慎重が上にも慎重な操作が必要です。神経を使います。 それはともかく、この患者さんは元気に退院しました。良かったです。こういう手術の元は、1896年9月9日に行われたLudwig Rehn:ルートヴィッヒ・レーンの手術です。 【参考文献】 Rehn L. Fall von penetrirender Stichverletzung des rechten Ventrikel’s. Leipzig: Zentralblatt fuu¨r Chirurgie, 1896:1048?49 Cappelen A: Vulnus cordis : sutur af hjertet. Norsk Mag Laegevidensk 57:285, 1896 https://apps.dtic.mil/dtic/tr/fulltext/u2/a046830.pdf Alexi-Meskishvili V : Suturing of penetrating wounds to the heart in the nineteenth century: the beginnings of heart surgery. Ann Thorac Surg. 2011 Nov;92(5):1926-31. 私案:9月9日を世界的に「心臓手術の日」と定めよう 日本で9月9日は「救急の日」です。レーン医師は世界で最初に心臓手術に成功した日でもあります。世界で9月9日を「心臓手術の日」と定め、心臓病、心臓手術の啓蒙に努めてはどうでしょうか? 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/08/23 やや旧聞に属しますが故大橋巨泉氏が経営していたカナダの土産物店に関する報道がありました。新型コロナウイルス感染症の影響で閉店(2020年6月)を余儀なくされたとの報道でした。この記事を読んでさまざまなことを思い出しました。 皆さんは、小佐野賢治という名前を聞いたことがあるでしょうか?故田中角栄元首相の「刎頸の友」と言われ「政商」と言われ、ロッキード事件で国会に呼ばれた際に「記憶にございません」を連発したことで記憶に残っている方も多いと思います。後に偽証罪で有罪となっています。一時、極悪人のような報道をされていました。 表題と関係無いと思われるかも知れませんが、しばし、お付き合いください。 「小佐野さんのムームー」 丸谷才一に小佐野賢治氏を好意的に表した随筆があります。 「小佐野さんのムームー」 というタイトルです。タイトルが上手いですね。読もうという気になります。丸谷がこの随筆を書いた当時小佐野賢治氏はマスコミに糾弾されていました。そういう時期に小佐野さんの擁護論を書いています。擁護論の要旨を挙げます。 要旨1:そもそも(小佐野賢治氏のような)商人は、だいたいあくどいことをして金を儲けるものである。会社はなんのためにあるのか、買いたたく、出し抜く、買い占める、賄賂を送る、そういうことをするに当たって「会社のためだ」と自分に言い聞かせて良心を麻痺させるために存在する。小佐野さんはそれを多少派手にやっただけだ。 要旨2:小佐野さんに私(丸谷)が好感を持つのは倫理道徳を説かないことだ。偉くなると「倫理道徳」を説くようになるが、小佐野さんは、一切そういうことをしない。それだけで尊敬したくなる。 そして多分、次の要旨が一番「効いている」のではと思います(笑)。 要旨3:そういう風に小佐野さんに好感を持っていると思っていたら、実は、私(丸谷)は若い頃の小佐野さんに会っていたことを思い出した。サンフランシスコで紀伊国屋書店が開店された際、記念講演に呼ばれ、帰り道ハワイに寄った。紀伊国屋書店創業者の田辺茂一氏や同氏が引き連れてきた銀座のお姐さん達と一緒だったその時、ハワイにホテルをたくさん建てているという「ホテル王」に紹介された。そのホテル王に、すでにあるホテルや建築中のホテルを紹介された。 その時そのホテル王が 「買い物をするなら、私のホテルでしてください。買ってくれるなら割り引きます。1時間後に来ますのでそれまでに買う物を選んでおいてください」 と言ったので銀座のママさん達は随分と広い店内を走り回り、お土産物、特にムームーなどを大量に選び、丸谷はお土産に3着だけムームーを選んだ。1時間後、銘々が商品を選び終わったところで件のホテル王が来た。どれくらい割り引いてくれるかと思ったら、そのホテル王は 「お金はいりません。全部差し上げます」 と言って代金を取らなかった。最初から全部タダと言ってくれればもっとたくさん選んだのにと銀座のママさんが嘆いていた。 後に、この時のホテル王が小佐野賢治氏だとわかった。だからか私(丸谷)は小佐野さんを褒めたくなる。 そういうのが3番目の要旨です。多分、一緒に行った田辺茂一氏、銀座のお姐さん達も小佐野賢治の悪口は言わないだろうし、心密かに応援したと思います。それが小佐野賢治流の「商才」だと丸谷才一が書いています。 3番目が一番「効いている」ような気がするなあと思っていたら、私もナイアガラの滝で同様な経験をしたことを思い出しました。 ナイアガラの滝で同様な経験 以前、アメリカのミシガン大学で「ISHR World Congress」(国際心臓研究学会International Society for Heart Research)という心臓病の学会が開かれました。私はこの学会で初めて英語で発表を行いました。細かい質問をされて冷や汗をかきました。 話は逸れます。この時、ニーリー先生(James R. Neely :1935-1988)の追悼の会が行われました。ニーリー先生はラットの心臓の潅流モデル(working heart model、通称:Neely model ニーリーモデル)を考案し,この潅流モデルは世界中で心筋代謝の研究に使われていました。私もこのニーリーモデルを用いた実験で学位をとりました。 ミシガン大学で行われたニーリー先生追悼会で追悼演説を行ったのはロンドンにある、セントトーマス病院(St Thomas’ Hospital)のハース先生(David J Hearse)でした。ハース先生は、ニーリーモデルを用いた実験で心臓手術時の心筋保護液を考案したことで有名な先生でした。この心筋保護液は「セントトーマス液」として世界中で使われました。市販されるようになり私も使っていました。セントトーマス液を用いて心筋保護を行うと心臓を3時間程度止めても心臓が痛みません。良い心筋保護液です。 それはともかくそのニーリー先生は52歳で亡くなっています。若いですね。心筋梗塞の発作でお亡くなりになっています。まさかそんなに早く「死ぬ」とは思わなかったのでしょう。ニーリー先生はご自身とご自身の考案した実験モデルと一緒に撮影したことが無かった(らしい)のです。 ところが、私はまさに「ニーリーモデルとニーリー先生が一緒に写っている写真」を所持していました。ニーリー先生はお亡くなりになる前年に来日、東京慈恵会医科大学で講演をなさり、ニーリーモデルを使った実験をしていた私たちの実験室にもいらっしゃったのです。その時に、私はニーリー先生に、先生が考案した実験モデルの横に立って頂き、写真を撮っていたのです。そういう写真があるという話をしたら、なんとアメリカで発刊された本「Diabetic heart」に私が撮影した写真が使われることになりました。 写真1:「Diabetic heart」 写真2:「Diabetic heart」に載っている「ニーリー先生が先生の考案した実験モデルの横に立っている写真」 写真3:ニーリー先生と一緒に撮影した若かりし頃の私、同僚、指導医の先生の写真です。 左から、MH先生、ST先生、Neely先生、私) この時に撮影した写真(黄色点線で示す)が「Diabetic heart」に載っています(写真2)。 話を戻します。そのミシガン大学での学会が終わり、ナイアガラの滝を見に行きました。ナイアガラの滝はカナダ、アメリカの国境にあります。遊覧線に乗ると滝のかなり近くまで近づくことができます。壮大な風景でした。遊覧船を下りると辺りは滝しぶきで良く周りが見えません。そこに Cataract! と書かれた看板がありました。Cataractは医療用語で「白内障」だと思っていました。後で調べたら、Cataractは「瀑布(ばくふ)、大滝」の意味が本来で転じて「白内障」という病名にも使われているのだと解りました。白内障が進むと滝の前にいるような感じにしか見えなくなるからでしょう。 ナイアガラの滝観光を終えてお土産を買おうと何件かお土産屋さんを探していたら大橋巨泉の店「OKギフトショップ」が目に入りました。このお店では日本語で買い物ができ、日本円も使えると書いてあり、それならと思い店内に入りました。定番のカナダ土産、メイプルシロップや絵はがきなどを選んでいたら中年の女性店員さんが私のところに来て、 「何かお探しですか? お手伝いします」 「どこから来たのですか?」 「観光ですか?」 などと、話しかけてきました。私が、心臓病の学会でミシガン大学に来たこと、学会が終わったのでナイアガラ観光に来ていることを話したら、「お客さんは心臓の先生なのですね。時間があるなら、私たちの心臓病の相談にのってください」と言って、もう一人女性の従業員を連れてきました。 連れてきた女性は胸痛があり、狭心症を疑われているそうです。ニトロの舌下錠を持っていました。この方の胸痛は狭心症の典型的な症状ではありませんでした。胸がチクチクと痛む程度だそうです。色々と伺ったら、高血圧は無い、高脂血症はない、糖尿病はない、喫煙はしない、太ってもいません。ニトロを舌下したことがあるけれど効かなかったと言っていました。胸痛は運動や睡眠とは関係無い、長くても数十秒しか続かないというような病状でした。この病状から察するに、多分「狭心症」では無いだろうと思い、そのように伝えました。ただし、5分以上胸痛が続くなら、ニトロを舌下した方が良いだろう、そしてニトロが効くなら、その旨をきちんと主治医に伝えた方が良い。できたら、症状が生じた時刻や持続時間をメモして、担当医に渡したら良いと言うような話をしました。 もうお一方は、不整脈を指摘されているとのことでした。数ヵ月に一度、短時間、動悸がするそうです。詳細はよくわからなかったのですが、 「自分で出来る脈の取り方」 「脈の数え方」 を教えて差し上げました。 一日一回、自分で脈を取る習慣をつけると、動悸を感じた時にその動悸の原因が不整脈か不整脈でないかが解る。不整脈では無いなら「脈が早いだけ」でしょうというようなことをお二人に話しました。10-15分くらいお二人と話をしたと思います。それから買物に戻りお土産物をあれこれ選んでレジに持っていきました。全部で200ドル程度でした。支払おうと思ったら、先ほどの女性店員が来て、 店員さん:「お代は要りません」 私 :「え?」 店員さん:「先ほど、病気の話を聞いてくれたので、これは私たちからのプレゼントです」 私 :「なんだか申し訳ないです(もっと買っておけば良かったとせこい考えが……)」 店員さん:「私たちはカナダに住んでいます。アメリカほど医療費は高額では無いけれど、それでもお医者さんに行って相談するだけでも、高額の医療費がかかるのです。お客さんは、私たちのお話を良く聞いてくれてしかも色々と教えてくれました。だから、お代金はいりません」 というようなやりとりがあり、結局、代金は受け取ってもらえませんでした。大橋巨泉の名前を聞くと、この話を思い出します。 丸谷才一の「小佐野さんのムームー」を読み、大橋巨泉の店が新型コロナウイルス感染症で閉店の記事を読み、ナイアガラの滝での小さな出来事を思い出したのです。 アメリカの医療費はべらぼうに高い アメリカの医療費はべらぼうに高いです。アメリカで小児外科医として活躍し「オペのイチロー」とアメリカで称された木村健医師が書いた「アメリカで医者をやるにはわけがある―在米外科医の見た日米事情(草思社刊 1995年)」にもアメリカの高額医療事情が記されています。 インターネットで検索をするとアメリカの医療費が度を越して高額なことが解ります。ちょっと信じられないくらいです。 1. アメリカで盲腸の手術をすると治療費はいくらかかるのか? アメリカで盲腸の手術をすると治療費はいくらかかるのか?(カラパイア) http://karapaia.com/archives/52151258.html 「盲腸の請求書を見てぶったまげた…」アメリカ人のありえない医療費に対する海外の反応(らばQ) http://labaq.com/archives/51814438.html 約600万円 2. 本当?と言いたくなるようなアメリカの桁違いな高額医療費 「もうこんな国いやだ…」アメリカで請求された恐ろしく高額な医療費14例(らばQ) http://labaq.com/archives/51816136.html ・脊柱の手術代金:1200万円 手術代金請求前 ・腹痛で救急外来を受診、モルヒネ投与、採血だけで149万円 など 3. アメリカは論外なくらい高額、カナダも安くはない カナダ(バンクーバー)の医療費 - 海外旅行保険の必要性(価格.com) https://hoken.kakaku.com/insurance/travel/select/cost/canada/ それでもカナダの方が医療費、薬代は安いので、カナダ国境に近い州に住んでいるアメリカ人は、ツアーを組んでカナダまでお薬を買いに行きます。 「ラブ&ドラック」という映画(ジェイク・ギレンホール、アン・ハサウェイ主演の映画です。アメリカの医療事情、お薬の事情がよくわかります。MRさんが主人公の映画です。ちょっとアレな場面も多いのですが、面白い映画です)に「カナダお薬ツアー」が紹介されています。 4. アメリカでは帝王切開でうまれた我が子を抱くだけで4000円 I had to pay $39.35 to hold my baby after he was born. https://imgur.com/e0sVSrc 確かに帝王切開後のスキンシップという項目があります。これが39ドルです。日本でこんな請求をしたら、新聞沙汰です。 5. 70年も前に見つかった薬での「金儲け」が合法化されています。古い薬を使って一日治療すると2000万円もかかるのです。 1日で2,000万円!のお薬~高価薬について(1) https://www.health.ne.jp/library/detail?slug=hcl_column180431&doorSlug=dr 6. アメリカの医療崩壊はここまできた…刑務所で治療を受けるため「1ドル」を銀行強盗(らばQ) http://labaq.com/archives/51843242.html 7. 医療費を払えなくなり、ノーベル賞メダルを売ったアメリカ人ノーベル賞受賞者の話 「今どきのアメリカン・ドリームってのはこういうこと…」あるノーベル賞受賞者の現実がつらい(らばQ) http://labaq.com/archives/51902006.html 私の友人がアメリカに留学していた時のことです。虫垂炎にかかりました。4日ほど入院しました(保険でカバーされたので助かったと言っていました)。入院中、留学先の病院の同僚米国人医師が代わる代わる「お見舞い」に来てくれたそうです。後で請求書の明細を見たら「お見舞い」に来てくれた医師すべてが「診察料」の請求をしていたそうです。 友人の顔色を見て、具合はどうだい?くらいの話ししかしていないのに診察料がかかっているとびっくりしたそうです。つまりアメリカでは簡単な医療行為でもすべてに金額がかかるのですね。カナダは米国よりも医療費は安価ですが、それでも日本人の感覚からするとかなり高額です。ナイアガラの滝でのことがよくわかると思います。 異論はあるでしょうが、日本の医療保険制度は良くできています。これを守るべきだと思います。 注1: 丸谷才一の随筆は寝る前に読むには最適です。文春文庫で随筆選集が2冊出ています。 注2: 小佐野賢治氏の遺族は、同氏の遺産を元に「公益財団法人 小佐野記念財団(http://osano-memorial.or.jp/main/)」を設立、山梨県の生徒、学生を対象にして小中学生作文コンクールや高校生国際交流事業に対する援助をしています。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/07/19 「ニクイ モチヅキ クサイヤツ」 今回は数字にまつわることなど(寄り道が多いです)をお伝えしようと思います。 副題については後述します。 皆さん、電話番号をいくつ覚えていますか? 今は、スマホ全盛の時代です。15歳から69歳のスマホ保有率は2019年の調査で82%に達しています。20代女性では98%です(参考:スマートフォン所有率は94.7%にまで躍進(最新) ガベージニュース)。10年前は10%でした。携帯電話やスマホが普及するにつれて 「電話番号を覚える」 必要が無くなりました。スマホ、携帯に電話番号を登録すれば良いのです。iPhoneなら「誰々に電話」とsiriにしゃべりかけると電話がつながります。良い時代だとつくづく思います。「家の固定電話」を使う機会も減りました。家の固定電話にかかってくるのは、何かの押し売り電話くらいになってしまいました。それも昨今、ほとんどかからなくなってきました。そういう電話は無い方が良いです。固定電話の命脈は、いずれ、尽きるかも知れません。 話は変わります。一昔前は、固定電話しかありませんでした。私は学生時代、いわゆる「学生下宿」に住んだことがあります。部屋が10室、共同トイレ、共同風呂です。電話は大家さんの所にしか無く、電話がかかると取り次いでくれました。午後10時以降は緊急時以外を除いて取り次いでくれません。今考えると実にのんびりとした話です。時間がゆっくりと流れていたような気がします。夜は勉強するか、読書をするか、先輩友人とコンパ(飲み会)をするかそういうことしか楽しみが無かったのです。テレビも無かった(買わなかった)ので、今思うと本当に贅沢な時間を過ごしました。 今、私が大学生になったならスマホで連絡を取ったり、LINE、e-mailで友人とやりとりしたり、ネットサーフィンをしたり、アマプラ、ネトフリで映画を見たりして時間が過ぎて行くと思います。今昔、どっちが良いでしょうか? 以前にも記しましたが、私の下宿は湖山池という湖のほとりにありました。下宿から数分歩くと湖山池です。湖畔は散歩道としては最高でした。下宿から北側に自転車を走らせると数分で日本海に達します。海岸の散歩も気持ちよかったです。つまり、湖と海岸沿いを散歩できるという極めて珍しい場所に住んでいました(図1)。イカ漁が盛んな時期、夜の日本海には、電気を煌々と照らしたイカ釣り船が一列に並び、とてもきれいでした(参考:[鳥取市]王道観光地『白兎海岸』のスピリチュアルな穴場的絶景がコレ 日刊webラズダ)。漁火です。海無し県で育った私は見たことが無い風景で、よく見に行きました。後になって、丁度その頃、日本海側の海岸から北朝鮮による拉致事件が頻発していたと知りました。今思うと、漁火を見に行くのは、かなり危険だったのかもしれないです。 図1:赤枠辺りに住んでいました。湖と日本海の間という極めて珍しい場所です。 話は逸れます。上述の如く、夜には良く本を読みました。最近、その「読書」について考えさせられたことがありました。テレビを見ていたら「ロシアで1番有名な日本人は誰?」という番組をやっていました(2018/9/1:テレビ朝日)。有名な順に、 1位:宮崎駿 2位:村上春樹 3位:北野武 4位:本田圭佑 5位:武内直子(漫画家) 6位:村上隆 7位:安部公房 8位:小島秀夫(ゲームクリエイター) 9位:羽生結弦 10位:栗原小巻 でした。横に説明を書いた5位と8位は私が知らなかった方です。意外なのは7位の安部公房です。羽生結弦より有名でした。 同番組では、ロシアでは小中高大学で徹底的にロシア文学作品(トルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフetc.多数)を読まされる、読まないと進級できないので、必然的にロシア人は読書好きになると言っていました。 図2:ロシアの地下鉄風景 図2は2017年のロシア地下鉄風景です。本を読んでいる人が多いですね。地下鉄内の風景だそうです。日本とは大違いですね(参考:この読書人口の多さ! モスクワ地下鉄に外国人が感嘆 Sputnik 日本)。ただしロシアでもスマホを見ながら地下鉄に乗っている人も、段々、多くなっているそうです。2021年はもっと違った風景になっているかも知れません。 その読書好きのロシア人に広く知られているのが「安部公房(1924 -1993)」です。番組内で「好きな日本人は?」という問いに多くのロシア人が「コーボーアベ!」「コーボーアベは最高」と言っていたのにびっくりしました。安部公房は30年近く前に亡くなっています。それでも、まだ読み継がれて人気があるのですね。番組を見て久しぶりに「砂の女」「箱男」を読み返してみました。やはり面白いですね。8位に入っているゲームクリエイターの小島秀夫氏も「安部公房」について熱く語っています。 全文掲載との要望が多いので、高校2年時に書いた読書感想文コンクール原稿を公開します。実はE3直前に安部公房の「なわ」を36年ぶりに読み直しました。今、36年前の若き自分の強引であまい考察を読んで、歳を重ねる事の意味を再認識してます。 pic.twitter.com/RrE2RY0FHt— 小島秀夫 (@Kojima_Hideo) June 20, 2016 余程、安部公房が好きなのだなと思います。 さて、日本では国語の時間がどんどん減らされ、文学作品が高校の教科書から無くなりつつあります。「高校国語から文学が消える」(伊藤 氏貴(うじたか)(文芸評論家・明治大学准教授).「文藝春秋」2018年11月号)によると、2022年から高校2年、3年の現代文が、 「論理国語」:家電の説明書、PCの説明書などの理解 「文学国語」:いわゆる文学作品を読む の2つに分かれ、受験のためにほとんどの高校で1.の論理国語を選択するだろうと予想されています。夏目漱石、森鴎外、樋口一葉、中島敦、開高健、遠藤周作etc.に触れる機会が少なくなると予想しています。なんだか、とても残念です。 今、日本はロシアと様々な交渉をしています。交渉相手のロシア側が「安部公房」を読み日本側の交渉担当者が安部公房を読んでいない、あるいは知らないなら足元を見られかねないですね。 ごめんなさい。話を今回で話題にしている「数字」に戻します。学生時代、自分の電話を持ったのは3年生の時でした。今思うと、とても懐かしいのですがダイヤル式の電話でした。 図3:ダイヤル式電話 もう、見かけないですね。数字の所に指を入れて右下のフック(金具)のところまで回すのです。市外局番を入れると10回もダイヤルを回す必要があります。面倒ですね。 最初に持った電話番号が ○△□×-29-9318 でした。 家に電話があるとそれだけで少し世界が広がった気がしました。卒業まで、このダイヤル式電話を使っていました。その後、プッシュ式電話になります。いずれにせよ「電話番号を覚えないといけない」時代でした。「語呂合わせ電話番号」がたくさんありました。思いつくままいくつか挙げてみましょう。 ■医療関係 3387:耳鼻科 ミミハナ 1103:産婦人科 ヨイオサン 良いお産 6480:歯科 ムシバナシorムシバゼロ 4456:精神科 ヨイココロ 3387:耳鼻科 ミミハナ 1103:産婦人科 ヨイオサン 良いお産 6480:歯科 ムシバナシorムシバゼロ 4456:精神科 ヨイココロ 4165:内科 良い語呂合わせではないけれど、すぐに覚えることができるのが、ぞろ目ナンバーでしょう。 1111とか2222と言うような番号も人気がありました。古い医療機関では1111が多いですね。ダイヤル回線時代は1111に意味がありました。一番早く回せるからです。 ■その他 ・家庭系 1122:イイフウフ 1188:イイパパ 2247:フウフヨイナカ 0510:ゴトウさん 0310:サトウさん 5963:ゴクロウサン 2525:ニコニコ 4483:ジジバアサン ・企業系 0101:丸井 1010:TOTO 9696:クログロ アデランス 828:ヤズヤ 489-444:ヨヤク シヨウヨ 劇団四季 2:カステラ1番 電話は2番 3時のおやつは文明堂(これはCMで覚えさせたのですね) 0298:ニクヤ 語呂合わせ電話番号は、ほかにも多数あると思います。 今は、繰り返しますが、電話番号を覚える「必要」が無くなりつつあります。 さて、当時、友人とお互いに電話番号を教えあいました。多くの番号を覚えるのは難しいです。なにか良い語呂合わせが無いかな?と思っていました。私の番号は何の変哲もない 「29-9318」です。 「ニク クサイヤ」 くらいしか思いつきません。「ニク クサイヤ」では、ぱっとしませんし覚えてくれません。 しかし、ひらめいたのです(笑)。 2 9 9318 「ニクイ モチヅキ クサイヤツ」 これなら覚えくれるだろうと思いました。友人に伝えると、 「お前にぴったりだ!」 何がぴったりかよくわかりませんがすぐに覚えてくれました。30数年前に使っていた電話番号を今でも覚えているのはこういう語呂合わせがあったからです(くどい注:別にモチヅキのところがサトウでもスズキでもオオヤマでもシマダコジマでも構わないのですが)。 話は変わります。身近な数字と言えば、車のナンバーでしょうか? 自分で最初に購入した車のナンバーは「445」でした。4月に購入したのに、これでは 「445:シガツニシゴウ」 とあまり縁起が良くない番号です。しかしこの車で事故に遭ったことはありませんでした。 当時、自分で車のナンバーは選べませんでした。ですから、 494:シグヨ 49 :シグ 4949:シグシグ 3931:ミグサイ 3396:サンザンクロウ 9633:クロウサンザン 893 :ヤクザ 等の可哀想なナンバーの車が走っていました。最近はお金を払えば自分で車のナンバーを選ぶことができます。ですから、こういうかわいそうなナンバーを見かけることは少なくなりました。逆に面白い番号を見かけることも多くなりました(付録参照ください)。車のナンバーを覚える必要はほとんどありませんから、これらは趣味の様なモノですね。 今、私が乗っている車のナンバーは 「1269」です。 購入したナンバーです。1269なぜかわかりますでしょうか? 最後に、当クリニックの電話番号を記します。 電話:03-6779-8181 語呂合わせがなかなか無いですね。8181:ハイハイ くらいしか思いつきません。 良い語呂合わせがあったらご教示ください。 付録: 語呂合わせ数字を集めてみました。○とあるのは実在(実際に使われている数字という意味です)が確かめられたモノです。 あまり細かいことは気になさらないで楽しんでください。ほかにもたくさんあると思います。 番号 読み 19 いっきゅう 一休 ○ 23 にっさん 日産 ○ 23 にいさん 兄さん ○ 26 じろう 次郎 二郎 ○ 32 サニー ○ 33 さんさん 燦々 ○ 34 ミヨ 美代さん ○ 35 ミコ 巫女 ○ 36 さぶろう 三郎 ○ 38 ミヤ 宮 ○ 39 サンキュー ○ 44 じじ ○ 48 しば 芝 ○ 49 死ぐ × 51 ごういち 剛一 × 53 ゴミ ゴミ収集 ○ 53 ごみ 五味 ○ 53 ごう 剛さん ○ 55 ゴーゴー ○ 56 ごろー ゴロー ○ 58 ごうや 合屋 ゴーヤ ○ 69 ムック ○ 72 ゴルフ好き ○ 73 オロナミンCの日 ○ 78 なは 那覇 ○ 83 ばあさん 婆さん ○ 86 ハロー ○ 86 はちろく 車 ○ 101 遠井 戸井 土肥 トーイ ○ 103 とうさん 父さん 倒産 ○ 105 とうごう 東郷 ○ 110 いとう 伊東 伊藤 ○ 115 いい子 ○ 118 イイハ 良い歯 歯科医 ○ 141 いしい 石井 ○ 148 いしば 石破 ? 168 いろは いろは坂 ○ 175 イナゴ ○ 178 松本市 稲葉 B'z ○ 178 いなば 稲葉 ○ 193 戦 行くさ ○ 223 ふじさん 富士山 ○ 229 にんにく にんにく屋 ○ 229 ニンニク ○ 271 ふない 船井 ○ 284 にわし 庭師 ○ 310 みと 水戸 ○ 318 車 BMW ○ 319 さいく 細工 ○320 車 BMW ○ 345 ミヨコ ○ 345 さあ死ごう × 369 みろく 弥勒 ○ 385 みやこ 都 ○ 392 ミクニ 三国 ○ 394 ミクシィ × 415 良い子 ○ 418 ヨイハ ヨイハ 歯科医 ○ 439 シミック ○ 471 シナイ 竹刀 ○ 475 よなご 米子 ○ 494 しぐよ ? 497 しぐな 死ぐな × 510 ごとう 後藤 五島 ○ 538 ごみや ○ 564 ころし 殺し × 567 ころな コロナ ○ 573 コナミ 紳士服のコナミ ○ 661 むろい 室井 ○ 696 ロクロ ○ 728 なにわ 浪速 難波 ○ 746 なよろ 名寄 ○ 748 なしや 梨屋 ○ 758 なごや 名古屋 ○ 777 スリーセブン ○ 791 なくい 名久井 ○ 794 なくよ 奈良 ○ 810 やとう 箭頭 ? 810 ハト ハート 鳩 ハート心臓 ○ 814 ハイジ ○ 中外製薬 836 ハンサム ○ 839 はっさく 八朔 ○ 846 はしろう 走ろう ○ 873 はなみ 花見 ○ 875 はなこ 花子 ○ 878 はなや 花屋 ○ 885 ややこ ? 891 はくい 羽咋 ○ 891 白衣 ○ 893 ヤクザ ○ 8910 はくと 白兎海岸 ○ 902 クオーツ ○ 910 工藤 くどう ○ 911 車ポルシェ ○ 962 苦労人 ○ 969 くろっく 時計屋 ○ 1003 とうさん せんみつ × 1008 千葉市 千+八 ○ 1014 といし 砥石 ○ 製品ナンバー 1054 とごし 戸越 ○ 1089 とうはく 東伯町 東博 ○ 1103 良いお産 産婦人科 ○ 1107 いいおんな ○ 11月7日:いい女の日 1109 良い奥さん ○ 1110 川口 ○ 1123 いいにっさん 良い日産 ○ 1126 いい 風呂 ○ 1129 良い肉 肉屋さん ○ 1174 いいなし 良い梨 ○ 1185 いいはこ 良い箱 鎌倉 ○ 1187 いいはな 良い花 ○ 1188 イイパパ 良いパパ ○ 1188 イイハハ 良い母 ○ 1192 いいくに 鎌倉 ○ 1213 胃に胃酸 太田胃散 ○ 1241 いによい 胃に良い ○ 胃腸科電話番号 1269 ヨード原子量 ○ 1484 いしばし 石橋 ○ 1625 弘前市 岩木山の標高 ○ 1867 トヨタ 創業年 ○ 2323 ふさふさ カツラ ○ 2918 にくいや ヴィーガン ○ 2983 つくばさん 筑波山 ○ 2984 つくばし つくば市 ○ 3110 さいとう 斎藤 ○ 3153 さいごう 西郷 ○ 3192 さいのくに 彩の国 ○ 3193 さいぐさ 三枝 ○ 3298 ミニクーパー 車 ○ 3376 富士山 ○ 3564 みごろし 見殺し × 3745 みなしご 孤児 × 3749 みなしぐ みな死ぐ × 3910 さくと さく渡 ○ レストラン電話 4483 じじばあさん ○ 4989 しくはっく 四苦八苦 × 5108 ことば 言葉 ○ 株式会社5108(コトバ) 5296 宮崎県 ○ コブクロ出身地 車のナンバー 5296 コブクロ ○ 5502 ゴーゴー 2人 ○ 車のナンバー 5523 ゴーゴー にっさん 日産 ○ 5963 ごくろうさん ご苦労様 ○ 6480 むしばなし 歯科医 ○ 8020 8020運動 ○ 歯科医 8108 ハトヤ ○ 8814 ぱぱいや パパイヤ ○ 8888 パチパチパチパチ ○ 8929 やくにく 焼き肉屋 ○ 8989 はくばく ○ 9696 くろぐろ 黒々 ○ 2120010 ふいに当番 ○ 36-36 ゴルフ好き ○ 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/06/14 偶然、必然。 さて、前回話題にした井伏鱒二の小説「黒い雨」のことです。「黒い雨」は1989年に映画にもなっています。田中好子さんが主人公を演じました。映画を見た方も多いのでは無いでしょうか。その田中好子さんは残念なことに55歳で乳がんのためにお亡くなりになっています(2011/4/21)。さて、さまざまな言語に翻訳され世界中で読まれている「黒い雨」は盗作だと主張する方々がいます(文献1、2、3、4など)。 今回の主題は、それに関する論考です。 話は逸れます。坂本龍馬の名前を知らない人はあまりいないでしょう。坂本龍馬は元々、あまり有名ではありませんでした。日本史の教科書にも記述は少ないか、書かれていないことも多いのです。 司馬遼太郎が、小説「竜馬が行く」を書かなければ、坂本龍馬は有名にはなっていなかったでしょう。高知空港は「高知竜馬空港」になっていなかったと思います。司馬遼太郎は、幕末を主題にした小説を書くに当たり、考えるところがあり(理由は不明)、それまでほとんど陽が当たっていなかった坂本龍馬について資料を集め、何か感ずるところがありそれを小説にしたのだと思います。 以前「日本で一番《危険な》国宝建築を見に行く」を記した時、私の中学校通学路にあった坂本龍馬の「妻」のお墓の話を紹介しました。残念なことに「竜馬が行く」には、このお墓のことは触れられていません。このことは「捨てた」のです。 しかし、随筆ネタとして「余話として」という随筆集に、「竜馬が行く」には書かなかった「坂本龍馬の妻」にまつわるとても興味深い話を紹介しています。司馬遼太郎がある人物を書こうとすると「神保町からその人物に関する資料が無くなる」という伝説があります。その関係の資料を総ざらい司馬遼太郎が購入してしまうのです。伝説ですから、真実かどうか不明です。でもあり得る話だと思います。吉村昭も司馬遼太郎と同様で書こうとしている人物に関する資料を徹底的に収集することで有名でした。司馬遼太郎、吉村昭などの歴史小説を書く人は「歴史に関する論文」を書いているわけではありません。彼らは収集した資料を基に想像力を駆使し、主人公や周囲の人間に喋らせ(もちろん、作り話です)、主人公が活躍した当時のことを描いているのです。本物の歴史学者からしたら噴飯物かもしれないです。 2020年、明智光秀側からの視点でのNHK大河ドラマが放映されました。これまでの視点とは違いました。ただし、明智光秀側から見た資料は少ないので足りないところは想像で補っていました。明智光秀関係の資料などたくさんあるだろうと思うかもしれませんが、負けた方には資料があまり残っていません。当たり前ですが勝った側の資料はたくさん残っています。もちろん勝った側からの視点で書かれた資料です。 「明智光秀は名君でした」 「明智光秀は織田信長を単純に裏切った訳では無いです」 というようなことは、たとえ事実であったとしても、江戸時代には書けなかったと思います。 要するに何を言いたいかと言うと、歴史小説のほとんどは様々な資料を解読し、そこから得られた「感じ」「着想」を文章にしているのだと思います。一般人は、古文書などの資料を読む機会も、読む能力もありませんが、歴史小説家はそういう資料を集め読み解く能力があり物語を作ります。我々は歴史家の書いたものよりも小説家の書いた歴史小説を通して「坂本龍馬」を知り「戦艦武蔵」を知ることができるのです。それが悪いことだとは思えません。 以上、前振りです(長くて申し訳ない)。 井伏鱒二の「黒い雨」を盗作とする人は「黒い雨」は資料(主に「重松日記」)を書き直しただけだと言って批判しています。しかし、私は小説「黒い雨」は盗作では無いと思います。これが盗作なら、全ての歴史小説は「盗作」になってしまうのではないでしょうか? 井伏自身『黒い雨』を収載した井伏鱒二自選全集第六巻の「覚え書」にこの辺りの事情を書いています。紹介します。解りやすくするために整理改変していますが内容は同一です。 井伏は以下のごとく書いています。 「この作品は小説でない、以下の資料を用いて書いたドキュメントである。」 (1)閑間重松の被爆日記 (2)閑間夫人の戦時中の食糧雑記 (3)岩竹博医師の被爆日記 (4)岩竹医師夫人の看護日記 (5)複数被爆者の体験談 (6)家屋疎開勤労奉仕隊数人の体験談、及び各人の解説 によって書いた。 ※筆者注1:閑間重松(しずましげまつ)と書いてありますが重松静馬(しげまつ しずま)氏のことです。 ※筆者注2:岩竹博医師の被爆日記の正式名称は「広島被爆軍医予備員の記録」です。 としています。「黒い雨」は野間文芸賞を受賞していますが、井伏鱒二は受賞の言葉で、 「私は『黒い雨』で二人の人物の手記その他の記録を扱ったが、取材のとき被爆者の有様を話してくれる人たちに共通していることは、初めのうちは原爆の話をしたがらないことであった。もう一つ共通していることは、話しているうちに実感を蘇らせてくると絶句してぐっと息をつまらせることであった。思い出す阿鼻叫喚の光景に圧倒されるのだ。そのつど私は、ノートを取っている自分を浅ましく思った。 要するにこの作品は新聞の切抜、医者のカルテ、手記、記録、人の噂、速記、参考書、ノート、録音などによって書いたものである。ルポルタージュのようなものだから純粋な小説とは云われない。その点、今度の野間賞を受けるについて少し気にかかる」 と書いています。 つまり、井伏鱒二は黒い雨は作家の創作になる空想小説ではないと自ら記しているのです。これから先は「小説か、小説でないか、はそもそも小説とは何か」という難しい話になってしまいます。小説を全て作家の創造物とするなら、歴史小説は「小説」と言えないことになってしまいます。 猪瀬直樹氏は「黒い雨」の6割以上は「重松日記」のリライトだと断じています(文献2)。 私は「黒い雨」と「重松日記」の両方を読んだのですがどちらも「良い」と思います。重なる部分も多いのですが、井伏鱒二の表現方法は独特です。井伏鱒二ならではの表現方法で原爆の悲劇を伝えています。一方「重松日記」は素人が書いたとは思えないほど、冷静に原爆投下後の広島の現状を書き記しています。どちらも素晴らしいと思います。「重松日記」はあまり知られていませんが是非お読みになることをお勧めします。「重松日記」には井伏鱒二から重松氏への手紙も収載されています。興味深いです。 井伏鱒二は広島県の出身ですが、前回も記したように山梨県と縁があり 1944年(昭和19年)7月に今は甲府市となっている山梨県甲運村(今の石和温泉駅と酒折駅の間)に疎開していましたが、1945年(昭和20年)7月広島県福山市外加茂村の生家へ再疎開しています。そして同年8月6日の広島原爆のことを知ったのでしょう。ただし同じ広島県ですが、福山市と広島市は80kmくらい離れていますから、原爆を直接体験した訳では無いでしょう。 戦後も、井伏は、昭和22年まで福山市に止まっています。この滞在中に重松氏と知り合い江戸時代の広島の資料を提供してもらい後にその資料をもとに小説を書いています。それから井伏氏と重松氏は交流が続いたのです。重松氏は日本繊維株式会社広島工場の社員でしたが、重松氏は広島市で原爆に遭い、その被害を後世に伝えようと思い原爆投下後の広島について詳細な日記を書いていたのです。 「記録すること」の大切さがこういうことでも解りますね。 昭和37年になって重松氏は井伏鱒二に原爆当時のことを詳細に記した日記があることを知らせます。重松氏に提供された江戸時代の広島に関する資料を基に井伏鱒二は小説を書き、小説を書くと掲載誌面を重松氏に送っていたので、それと同様自分の書いた原爆日記が井伏鱒二の手によって小説となり広く原爆の被害が知られるようになることを期待したのではないかと思います。 それから3年、井伏鱒二は「黒い雨」を発表したのです。 小説「黒い雨」は広く読まれ、映画にもなり原爆の悲惨さを世界に広めました。重松日記も後に刊行されました。つまり重松氏の当初の目的は達成されたのだと思います。 私は、それで良いのだと思っています。 【参考文献】 猪瀬直樹「ピカレスク 太宰治伝」 猪瀬 直樹 『黒い雨』と井伏鱒二の深層 http://bungeikan.jp/domestic/detail/88/ 豊田清史「『黒い雨』と『重松日記』」 竹山 哲「現代日本文学『盗作疑惑』の研究」 重松静馬「重松日記」筑摩書房 2001年 重要な余話: 私が尊敬している日本文学者で評論家としても活躍した故「板坂元(いたさかげん)」氏は、猪瀬直樹氏のことを批判しています。板坂氏の筆致は冷静ですが辛辣です。猪瀬氏が都知事になるよりもかなり以前のことです。 板坂元著「人生後半のための知的生活入門(PHP文庫)」より引用します(頁121-122)。 *********** 引用開始 *********** “ある雑誌で「ミカドの肖像」の著者(筆者注:猪瀬直樹)が取材の苦労を語っていた。その苦労した例として「バンザイ」についての調べも語られているが、あの箇所(注:つまりミカドの肖像の中にある「バンザイ」についての記述部分)はほとんど私(筆者注:つまり板坂氏)から電話で聞いたことが書かれているだけだ。30分の電話取材が苦労の中に入るのかどうか。” 中略 “そういうことは気にならないが、私のバンザイ調べは20年になる。” 中略 “私がバンザイを調べているのは「一体何時から、両手を挙げてバンザイ」するようになったかそれを調べているのである。明治30数年頃までの写真錦絵では片手しか挙げていないのである。昔の新聞や雑誌の写真、錦絵を20数年収集して、両手のバンザイが普通になったのは何時からかを調べているのである。バンザイを調べるだけでそれくらいかかる。” *********** 引用終了 *********** 言外に強く「ミカドの肖像」の著者を非難しているのです。これに対する猪瀬氏の反論を読んだり聞いたりしたことがありません。これを読んでから、猪瀬氏の著書や言動に対して私の頭の中では「?」が湧くようになりました。猪瀬氏は、後に東京都知事になりました。その後のことは皆さんご承知の通りです。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/05/31 2020年東京五輪開催日まで、あと残り2ヵ月 2020年東京五輪開催日まで、あと残り2ヵ月となりました。今夏(2021年)2020 東京五輪は開催されるでしょうか? 開催、中止の両方から考えてみましょう。 A. 開催派の言い分 ここまで準備して、五輪を開催しなければ、経済が回らない。 ワクチンを打てば、自然にCOVID-19も収まるだろう。 五輪用の施設は作ってしまった。使わないともったいない。 国立競技場、様々な会場、選手村、etc. なによりこの五輪を目指して頑張って来た選手のことを考えて欲しい。開催しないなら選手がかわいそうである。中止派は簡単に中止というが一生に一度となるであろう「東京五輪」を目指してきた選手のことを考えたら開催した方が良いし、開催すべきである。 PCRを徹底して行うから、COVID-19蔓延を予防できる。 選手、監督、コーチは囲い込む「=バブル方式(泡bubbleの膜で囲むからきている)」ので、感染が拡大することは無い。 B. 中止派の言い分 選手村には10000-15000人も宿泊する。この間、COVID-19発症者がずっとゼロになるとは思えない。もし発症すれば選手村は閉村せざるを得なくなる。その時点で五輪は終了となる(だろう)。選手は希望すればホテルでの滞在が許されている(費用を負担できる選手)。そんな選手をバブル方式で囲い込むことができるのか? 選手村も完全に囲い込むことは不能。ましてやホテルを囲い込むことは不能。 注:Jリーグ、プロ野球など、PCRを定期的に行っている競技で、COVID-19発症者、PCR陽性者がゼロになっていないのを見ればわかる。 外国人選手は選手村に直接来るわけではない。随分前に来て日本各地で合宿する(これは怪しくなっています)が、その際の外国人選手の移動はどうするか? 五輪関係者、五輪取材者のホテルは決められたホテル以外は使用できないと言っているが、非現実的。なお多くの関係者が泊まっているホテルでCOVID-19を発症する方が出ればそのホテルは閉鎖となる(だろう)。そうなると大混乱になる。 五輪開催には多くのボランティアが必要だが、ボランティアの方がCOVID-19に罹患したら、誰が治療費用などを負担するのか?もし、不幸なことが起こったらどうするのか? COVID-19のために選手達は充分な練習ができていない。無理して開催する理由がない。テニス、サッカーなどのプロ選手は五輪に参加しないだろう。五輪に来てCOVID-19にかかれば選手生命が絶たれるかもしれないからである。 食事はどうするのか?さまざまな国からさまざまな宗教を信奉する選手が来る。さまざまな宗教に「禁忌食」がある。それに対処するため、大食堂でのビュッフェ形式の食事提供をすることになったと報じられている。しかし、その食堂で食事をした選手が感染したらどうなるのだろう?その選手と同一時間に食べた選手は濃厚接触者となり隔離されるのだろうか? その選手の動線にいた選手、関係者も濃厚接触者となり隔離されるのだろうか? 濃厚接触者には隔離部屋に「弁当」を朝、昼、晩、に届けることになるのだろうか? 灼熱の東京である。食中毒を警戒し、揚げ物などがメインになるだろう。それで選手は喜ぶか? さまざまな宗教に対応した弁当も必要になるだろう。常識的に考えてこれだけでも、ビュッフェ形式の食事提供は危険だと思う。弁当をすべての部屋に配達するのも難しい。。考えれば考えるほど、大変である。 COVID-19を選手or五輪関係者が発症したら、日本がその費用を負担することになっている。もし入院が必要になったら言葉の問題をどうするのか? 英語はまだしも、仏語、独語、ロシア語、タイ語、スワヒリ語、アラビア語…… 通訳を付けることができるのか? 8万人にも及ぶ「大会関係者」をバブル方式で囲い込めるのか? 7月は高齢者ワクチン接種を行っている時期、そういう時期に医療関係者に負担がかかるかもしれない五輪を行って良いのか? などです。「医療」の面から考えると結論は1つです。 議論は尽きません。五輪はどうなるか?もう少しで結論がでます。どちらに決まってもその判断が「正しかったかかどうか」は10年、20年、50年、100年経ってから「歴史」が判決を下すでしょう。 さて前回より続く1964年五輪ユニフォームの話を続けます。 1964年東京五輪のユニフォームのデザインは 山梨県富士川町広報誌より引用(同町より、掲載許可を得ています) 平成28年 広報ふじかわ 12月号(No.81) 前回でも紹介したこの紅白のブレザーは1964年東京五輪の開会式で選手が着用したユニフォームです。紅白の鮮やかさが印象的です。2020東京五輪に採用された開会式用ユニフォームより上等な気がします。 それも当然です。このユニフォームは、選手1人1人を採寸、しかも上質なウール生地(大同毛織製:現 (株)ダイドーリミテッド))を使ったブレザーだったのです。 このユニフォームは巷間、「ヴァンヂャケット(VAN)」の創業者として有名な石津謙介(1911-2005)作と言われていますが、間違いです。間違った事実が広く伝わってしまった事情は「1964東京五輪ユニフォームの謎 消された歴史と太陽の赤光」(文献5)という本に詳しく書かれています。この本は上質なミステリーの謎解きを読んでいるような気分になりますし、科学論文を読んでいるような感じも受けます。「調べるとは何か」「調べることの面白さ」も学べる素晴らしい本です。 この本の著者の安城寿子氏(アンジョウヒサコ:1977-。服飾史家。阪南大学流通学部専任講師。日本オリンピック・アカデミー会員。学習院大学文学部哲学科卒)は博士(学術)でもあります。同氏の学位論文は「近代日本服飾とモードの関係をめぐる歴史的研究」です。 色々と調べるうちに、服飾史という学問があることを初めて知りました。私は日本の服飾についてほとんど知識がありません。なんとなく平安時代の十二単(じゅうにひとえ)とか、呉服、和服とか洋服とか、単語としては知っていますが、衣服の歴史など全く知りません。少し調べてみました。 「世界最古の服」がナショジオに載っています。5000年前の服です。 世界最古のドレス、5000年前のものと判明(ナショナルジオグラフィック) https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/a/022200011/ 「タルカン・ドレス」と呼ばれています。エジプト・カイロ南側の古代墓「タルカン」で見つかったからです。写真を見ればわかりますが、かなりデザイン性が高いです。今、これを復元しても「普通に売れる」と思います。というか、復元して販売して欲しいです。 なお残念なことに日本最古の「服」は不明でした。 話を戻します。1964年五輪ユニフォームは石津謙介デザインではなく、望月靖之デザインであることに気づいた安城氏は、それを証明するため、広範な資料と取材で反論されないよう緻密な分析をしています。読んでいると驚くような事実が次から次に判明していくので、著者も楽しんでいる?ことが伝わってきます。そういう本はこちらも楽しくなります。良本です。 凄いなと思ったのは石津謙介氏自身が書いた「望月靖之デザインの1964年五輪ユニフォームに対する批判文」を発掘したことです。石津謙介氏はあのブレザーは良くないと批判しているのです。しかし、時が経つにつれあのブレザーの評判が良くなり、石津謙介デザインだと言われるようになると、石津氏自身が「アレは私のデザインではない」と言わなくなったのです。 1964年のブレザーは赤色が際立っています。その赤色を決めるのに、資生堂(口紅を作っているので赤色の見本が2000種以上ある)と日本色彩研究所と大同毛織と望月靖之氏が協議して決めたのです。「朱赤」というのだそうです。これを決めるまでの紆余曲折も興味深いです。単に「赤」と言ってもさまざまなのですね。 注:この安城氏の本を読んで、角田房子(著)「碧素・日本ペニシリン物語(1978年)」を思い出しました。角田氏の本も調べに調べて書かれています。角田氏の本をスタンダードにして他のノンフィクションを読むと「薄い調査による内容が薄い」本が多いことがわかります。もちろん安城寿子氏の本は「合格」です。ノンフィクションを本気で書くなら、科学論文なみの調査が必要だと思います。 余計なことを書きすぎました。 話を「黒い雨」関連の話に戻します。毎夏、終戦記念日が近づくと戦争に関する特集報道があります。昨夏(2020年)の白眉は、NHKスペシャル「忘れられた戦後補償」でした。「普通の空襲で障害を生じた方には、一切その補償は無い。無かったし、今後も無い」。そういう報道でした。空襲で足を失った方のインタビューがありました。 「空襲で足を失ったが、それに対する補償は一切無い」 「補償が出るように交渉もしたが、もう諦めている」 虚を突かれた感じでした。米軍による空襲で、日本各地は大きな被害を受けました。亡くなった方、障害を負った方、たくさんいたと思います。その補償が「ゼロ」だと知らなかったです。かなり可哀想な話です。ドイツ、イタリアは空襲被害者にも補償(どの程度か不明)をしていた(る)と報道されています。 日本では、従軍した軍人、軍属の方、その遺族の方にも年金が支払われ、障害を受けた方には十分とは言えないかもしれませんが、補償を受けることができます。しかし、空襲被害を受けた「一般人」は一切補償が受けられないのです。何か変な話です。戦争はまだ続いていると思いました。 しかし、2021年3月14日「空襲等民間戦災障害者に対する特別給付金の支給等に関する法律案」が国会に提出されるという報道がありました。空襲による障害が認定されたら、その方に「一律50万円」が支払われるという法律です。受けた被害、受けた障害に対して、充分とは思えないです。しかし、障害を受け、さまざまなご苦労をなさってきた方々に少しでも補償の手が差しのばされるのは良いことだと思います。現時点(2021-05-19)で、追加の報道がありません。審議はどうなっているのでしょうか? 空襲で障害を負った方は高齢です。少しでも早く、この法案が成立することを望みます。 私の出身地である甲府市も空襲(1945年7月6日夜から7日にかけて)で一面焼け野原になっています。小説「黒い雨」にも甲府の空襲の事が記されています。 なお、米軍による最後の空襲は1945年8月15日に行われました。8月14日から15日に切り替わって直ぐの夜中、埼玉県熊谷市は地方都市にしてはあり得ないような大空襲を受けています。市街地面積の74%が被災しています。最後だから、ありったけの爆弾、焼夷弾を投下したのでしょうか? 8月15日の空襲は熊谷市だけではありません。他にも秋田県土崎港(つちざきみなと)、群馬県伊勢崎市も「最後の空襲」を受けています。 総務省によると、当時秋田県には油田があり、油の貯留所があった土崎港が狙われて空襲を受けたと推定されています。(秋田市における戦災の状況(秋田県):総務省 )。 伊勢崎市は、中島飛行機の部品供給工場があり、それを狙っての空襲だとされています。総務省や伊勢崎市の資料によると、それぞれの空襲で大きな被害を蒙っていることがわかります。 熊谷空襲:死者234人、負傷者3,000人 土崎港空襲:死者250人、負傷者不明 伊勢崎空襲:死者29人、負傷者154人、8,511人が被災 8月15日正午には昭和天皇による「玉音放送」が全国にラジオで放送され、日本は全面降伏しています。その10時間前に「最後の空襲」を行う意味がわかりません。 さて、前回で触れた⼩説「⿊い⾬」は盗作だとする議論があります。⿊い⾬は元本があるからです。でも私は盗作だとは思いません。というような話は次回で。。。 追補: 8/14-8/15の空襲に関してですが、熊谷、秋田の他にもある事がわかりました。ここに追加します。他にもあるかも知れません。ご教示してくださった方に感謝します。 高崎の空襲 8月14日深夜から15日早朝にかけ、B29により繰り返し行われた焼夷弾爆撃でした。 第56回米軍機による高崎の空襲(高崎市) 小田原の空襲 太平洋戦争の最後の日(8月14日)の夜半から早暁にかけ、当地はアメリカ空軍B29爆撃機による焼夷弾爆撃を受けました。 小田原空襲の碑(総務省) 大阪の空襲 敗戦前日の1945年8月14日に数百人の命が奪われた「京橋駅空襲」の慰霊祭が14日、大阪市城東区のJR京橋駅前で営まれた。読経が続くなか、参列した遺族ら約300人が犠牲者に祈りをささげた。 「あたり一面に死体が横たわっていた」 大阪・京橋駅空襲慰霊祭行われる(矢野宏・新聞うずみ火)(アジアプレス・ネットワーク) 山口県光市の空襲 終戦の前日、山口県の軍需工場に米軍による空襲が加えられ、約130人の学徒動員を含む738人が命を落とした。 ピカッと来たらおしまい-終戦前日に空襲、軍需工場で間一髪…仲間ら犠牲、阪大名誉教授「戦争は人を狂わせる」 広島県岩国市の空襲 8月14日の岩国駅一帯の空襲で500人以上が亡くなった。 あの恐怖 忘れられぬ 岩国空襲70年 終戦前日まで9回標的(中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター) 【参考文献】 井伏鱒二:川釣り(岩波文庫) 井伏鱒二:山椒魚(新潮文庫) 井伏鱒二:黒い雨(新潮文庫) ウルシュラ・スティチェック:「世界で読めるヒロシマとナガサキ」県立広島大学人間文化学部紀要 1 4,105-113(2019) 安城寿子:「1964東京五輪ユニフォームの謎 消された歴史と太陽の赤」(光文社新書) 注:良い本です。よく調べてあります。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/04/26 いささか旧聞に属しますが、2021年2月に「「黒い雨」訴訟控訴審が結審 広島高裁、7月14日判決」(日本経済新聞)との報道がなされました。これは、「2020年夏、「黒い雨訴訟」の広島地方裁判所での判決」(参考:NHK 解説委員室)に対して、国、広島県、広島市が控訴していたのですが、その判決が広島高裁で下されるとの報道です。 一審では原告側の勝訴でした。 終戦から、もう76年です。それでも原爆による被害の問題は続いています。原爆による被害者には、原爆被害者対策がとられています。対象となる方は限られています。 直接被爆者 入市者 救護、死体処理にあたった方 胎児 です。このうち、1.の直接被爆者とされるのは、 広島市内 安佐郡祇園町 安芸郡戸坂村のうち、狐爪木 安芸郡中山村のうち、中、落久保、北平原、西平原、寄田 安芸郡府中町のうち、茂陰北 に在住だった方です。 参考:被爆者とは(厚生労働省) 被爆者援護施策の歴史は複雑です。 参考:被爆者援護施策の歴史(厚生労働省) 様々な施策がなされるなか、1976年には原爆直後に降った「黒い雨」を浴びた地域を「特例区域」としました。この「特例区域」に住んでいた住民は無料で健康診断を受けられるようになり、「がん」など原爆に由来すると思われる特定の病気の医療費は原則無料になる「被爆者健康手帳」が交付されるようになったのです。 この「特例区域」は原爆投下直後(昭和20年9月~12月)に広島管区気象台の技師6名が行った調査に基づいて決められました。この調査により「爆心地から北西に19キロ、幅11キロで大雨が降った」と認定され、大雨が降った地域を「特例区域」に指定したのです。 食糧事情も交通事情も悪い終戦直後、たった6名の気象台技師で、しっかりとした「降雨範囲調査」がなされたとは思えないです。原爆投下から35年も経ってから「大雨」が降った「特例区域」が指定された事情も私にはよくわからないです。 1976年、この「特例区域」が指定された時、その区域外でもザーザーと降る「黒い雨」を浴びたと証言する方々が多数いらっしゃいました。そしてこの区域指定に異を唱えたのです。 広島県、広島市は調査を行い。2008年には以下の図の如く、「大雨」「小雨」「推定降雨地域」を定めました。「大雨」とあるのは「特例区域」と重なります。 黒い雨が降った地域(公益財団法人ニッポンドットコム) 広島県、広島市が黒い雨が降ったのはもっと広範囲だったと推定しても「特例区域」は広がらず「特例区域」以外で黒い雨を浴びた方々に援護の手は差しのばされる事がありませんでした。 それが、2012年に始まる「黒い雨訴訟」に通ずるのです。今も続いています。控訴側には、国はもちろんのこと、なぜか「広島県、広島市」も入っています。この辺りまことに難しいです。 「井伏鱒二」のこと、COVID-19治療に使われている「ECMO」の報道を聞いて… この裁判で井伏鱒二の小説「黒い雨」のことを思い出しました。原爆後に降った「黒い雨」の描写があります。黒い雨を浴びた人達がその後がどうなるかを知っているので読んでいると暗澹たる思いになります。この小説は英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ペルシャ語など22の言語に翻訳され世界中で読まれています(文献4)。映画にもなっています。 「井伏鱒二」のこと、そしてCOVID-19治療に使われている「ECMO」の報道を聞いて、あることを思い出しました。「原爆」とは全く関係の無いことです。 ある病院で働いていた時、人工肺を作っている会社の方が新型人工肺の説明に来られました。 心臓の手術をする時、人工心肺という「一時的に心臓と肺の代用をする」機械を使います。その機械に人工肺を使います。人工肺は、静脈血に酸素を付加する装置です。COVID-19重症例治療でも使われているECMOにも人工肺は使われています。右房にもどってくる静脈血に酸素を添加するのがECMOの役割です。 話を戻します。新型人工肺の説明が終わり雑談となりました。説明に来た方の苗字は「依田」でした。「依田」という名前は山梨県の南部にある「富士川町(旧鰍沢町、増穂町)や下部町」に多い名前です。ちなみに私の「望月」という名前も同じ地域に多いのです。もしやと思い、 望月 「依田さんは山梨県出身ですか?」 依田さん「そうです」 望月 「山梨の南の方ですか?」 依田さん「そうです。よくわかりますね。そうか、望月先生も山梨南部の出身ですか?」 望月 「私は甲府生まれですが、祖父の出身は鰍沢町(今は富士川町)です。依田さんはどちらですか?」 依田さん「下部町です」 望月 「依田さんの実家は床屋さんですか?」 依田さん「えええええええ! 確かに実家は床屋ですが、そんなことがなぜ解るのですか?」 望月 「え! 本当に床屋さん? 私が知っている下部町の依田さんは床屋さんしかいないのです。もしかして、お父さんは釣り好きでは?そして床屋さんの屋号は【ヤマメ床】と言うのでは?」 依田さん「参ったなあ、その通りです」 望月 「井伏鱒二のヤマメ床でしょう(笑)。当たりですね。井伏が描写しているヤマメ床の主人の風体と依田さんが似ているから、当てずっぽうに言っただけです」 依田さん「今は、兄がヤマメ床を継いでいます」 昭和43年1月号「俳句」(角川書店)に載っている井伏鱒二が書いた「飯田龍太の釣り」から引用します。 「ヤマメ床といふのは、ヤマメ釣りの上手な床屋である。三十年前、私はヤマメ釣りをはじめた頃、この床屋さんから釣り方を教はつた。私のヤマメ釣の師匠である。釣の技術が堂に入っている。川面を流れていく木の葉をねらって振り込むと、その葉の上に餌が乗っている。それほどの技術を持っている」 とあります。「ヤマメ床」は井伏鱒二の命名です。井伏鱒二の「川釣り」などにもヤマメ床のことが書かれています。 井伏鱒二の小説「山椒魚」が教科書に載っていた(る)ので「山椒魚」をきっかけにしてその著作を読んだ方も多いのではないかと思います。井伏鱒二は戦争中、山梨県の石和(当時温泉は出ていない)に疎開しています。太宰治に甲府の石原家のお嬢さんを紹介、太宰はその方と結婚しています。山梨在住の飯田龍太と交流が深く、戦後も度々山梨を訪れていることなどから、甲府出身の私には身近に感じられたこともあり、井伏鱒二の本はよく読みました。 ちなみに、前回ご紹介した朝日俳壇ですが、拙句が載った同じ日に 「岩魚釣る 鱒二龍太の よき日かな」 加田 怜 という俳句が載っていました。良い俳句ですね。井伏鱒二と山梨在住の俳人飯田龍太が岩魚釣りを楽しんでいる風景が浮かんできます。「黒い雨訴訟」や「ECMO」のことを聞いて、色々なことを思い出しました。 広島、長崎の原爆資料館を見学すると胸が塞がる思いがします。1959年、キューバ革命の英雄「チェゲバラ」は広島を訪問しています。原爆資料館や原爆病院を訪問しています。ゲバラは「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」と言ったと報道されています。医師でもあったチェゲバラは広島市の原爆資料館、原爆病院を見て、何か感じることがあったのではないでしょうか? 毎年8月になると広島,長崎で原爆による犠牲者の慰霊ために平和祈念式典が執り行われます。2016年、オバマ大統領が広島の平和式典に来たのは記憶に新しいですね。アメリカの現職大統領が広島に来るとは思いもよりませんでした。オバマ大統領が広島で献花した後、原爆被害者の手を握り、肩を抱き寄せて慰めていた姿は感動的でした。 それはともかく、なぜ一般市民が生活する市街地(広島、長崎)に原爆を落とさなければならなかったのか、全く納得できません。オバマ大統領も原爆投下について謝罪したわけではありません。米国では「原爆投下は戦争終結のために必要不可欠だった」と言われていますが、納得できる話ではありません。 さて、話は変わります。今夏 2020 東京五輪は開催されるでしょうか? 平成28年 広報ふじかわ 12月号(No.81) 山梨県富士川町の広報より 上に示す赤いブレザーは1964年東京五輪の選手ユニフォームです。今のブレザーよりも格好いいと思います。 「このブレザーがなぜ『山梨県富士川町』の広報に載っているか」などを紹介したいと思います。次回に続きます。 【参考文献】 井伏鱒二「黒い雨」(新潮文庫) ウルシュラ・スティチェック「世界で読めるヒロシマとナガサキ」県立広島大学人間文化学部紀要 14、105-113(2019) 井伏鱒二「遙拝隊長・本日休診」(新潮文庫) 原爆とは関係無いですが、戦争文学の名作だと思っています。 井伏鱒二「川釣り」(岩波文庫) ヤマメ床の記載があります。 井伏鱒二「山椒魚」(新潮文庫) こちらもヤマメ床の記載があります。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/03/08 葉書が余ったので投句してみたら 新型コロナウイルス感染症に対するワクチン接種が始まりました(2021-02-01~)。世界中でさまざまなタイプのワクチン接種が行われ、感染が少しずつ収まっているように感じます。しかし、感染力の強い変異株が出現しています。まだまだ、警戒が必要です。 余談です。いささか旧聞に属する話です。私の作った俳句が2020年8月2日、朝日新聞の「朝日俳壇」に載りました。良い経験をしました。元々、私は俳句を趣味にしている訳ではありません。それがなぜか載ってしまったのです。 経緯を紹介します。父(94歳)は俳句を時々作っています。「朝日俳壇」に載せたいと常々言っていました。それで、父が最近作った俳句を朝日新聞の「俳壇」に投稿してみました。 投句は1枚の葉書に一個の俳句を書きます。父の俳句を3つ書いたところで葉書が余ったので、記念に自分も投句してみました。私は初めてです。 投句したことなどすっかり忘れていたのですが、ある朝通勤途中、携帯電話に朝日新聞社から電話がありました。私の作った俳句が来週の朝日俳壇に載ることが決まったとの連絡でした。投句した俳句に「匂い立つ」という表現があるがそれを旧仮名遣いに改め「匂ひ立つ」として良いかという電話でした。勿論「応」です。残念なことに父の俳句は載りませんでした。載った句を紹介します。うれしいことに選評もありました。 「匂ひ立つ 若さの印 濡れ浴衣」です。選評には「濡れて体が透けんばかり」とあります。 作った場所は足利市です。作った日も解っています。足利花火(かなり有名です、市の中心を流れる渡良瀬川の河川敷で打ち上げるので人気があります)を見に行った時に作った俳句です。この時、花火開始とほぼ同時に猛烈な勢いで雷雨が降り始めました。花火は中止だと思いました。しかし、花火は中止になりませんでした。2時間かけて打ち上げる予定の花火を、雷雨のために、1時間で全ての花火を打ち上げることになったのです。 猛雨でも花火を打ち上げることができると、その時初めて知りました。雷に加えて花火の音も光も凄かったのです。普通の人は雷雨に逃げ惑っていました。私も右往左往していました。しかし、周りにいた浴衣姿の若者はずぶ濡れになりながらも「キャーキャー」騒ぎながら花火を楽しんでいました。ああ,こういうのが「若さの印」なんだなあと思って作った俳句です。 ありがたいことに、色々な感想をいただきました。 私と同じような情景を思った方 夏祭りで御神輿を担いだりして汗をかいている情景を思い描いた方 取り組み後の相撲取りの浴衣を思い起こした方(この句が載った時、相撲が開催されていたからでしょう) 小さな子供達の水あそびの情景を思い起こした方 選者の如く、艶っぽい情景を思い起こした方 色々でした。 「天地わたるブログ」という俳句を選評するブログでも取り上げていただきました。このブログは、朝日俳壇に載った俳句の選評をしています。お二人で選評をなさっているようです。 ***********引用開始*********** ○祭に参加している若い人でしょう。汗か水をかけられて浴衣が濡れて肌が透けて見える。若さいっぱいでいいです。 ●男でも女でもいいですがぼくは「印」を言わないでほしいんです。こういうだめ押しは俳句を薄くしてしまいます。 ○抑制したほうが奥行が出るのですね。 ***********引用終了*********** 俳句、なかなか、むずかしいですね。 俳句は5-7-5 合わせて17文字しかありません。それゆえに表現が限られ、読者によって色々な想像をかき立てるところに「妙味」があるのでしょう。大学時代、同じ下宿だった農学部出身の同級生M君が大阪の朝日新聞で記者をしているので、久しぶりに電話をかけて朝日俳壇について詳しく聞いてみました。彼曰く、 毎日1000通の投句がある 週に一度選句をする 7000通近い葉書を選者4名で読んで、40個の俳句を選ぶ 選者が同じ句を選ぶこともあるので40句未満しか、作品が載らないこともある いずれにせよ、150倍以上の競争率だ 最近は俳句を添削する人気番組がある(「プレバト!!@TBS」?)。今はちょっとした俳句ブームになっている。 手前味噌だが、我が社の「朝日俳壇」は人気が高い。何より歴史がある。 初投稿で載ったのは奇跡に近い。今後も頑張って投句してください。 ということでした。 こういう事情を少しでも知っていれば多分、投句しなかったと思います。要するに私の俳句が朝日俳壇に載ったのは典型的な「ビギナーズラック」だったのです。 投句方法を紹介しましょう。簡単です。葉書1枚に一句を書いて投稿するのです。葉書代1枚63円の楽しみです。色々な人にもっと句作をしてみたらどうかと言われています。いつか詩心が湧くような情景に出会ったら、俳句を作り投句してみます。ちなみに俳句が掲載された後、朝日俳壇から10枚の葉書が送られてきました。これを使って投句しようと思います。 「拙句載る 新聞来たり 目が覚める 朝顔もまた 目が覚める朝」 という短歌を作りました。冴えないですね。 俳句と言えば、松尾芭蕉です。奥の細道を読み返してみました。 「草の戸も 住み替わる代ぞ ひなの家」 「行春や 鳥なき魚の 目はなみだ」千住 「あらたふと 青葉若葉の 日の光」日光 「暫時(しばらく)は 滝に籠るや 夏(げ)の初(はじめ)」日光の裏見の滝 「夏山に 足駄を拝む 首途(かどで)哉」黒羽 「木啄も 庵(いほ)をやぶらず 夏木立」黒羽 「野を横に 馬牽(ひき)むけよ ほととぎす」殺生石 「田一枚 植えて立去る 柳かな」黒羽 「風流の 初やおくの 田植うた」須賀川 「世の人の見付ぬ花や軒の栗」須賀川 「早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺(ずり)」しのぶの里 「笈(おひ)も太刀も 五月にかざれ 紙上り」 「笠島は いづこ五月の ぬかり道」笠島 「桜より 松は二木(ふたき)を 三月越シ(みつきごし)」武隈 「あやめ草(ぐさ) 足にむすばん わらじの緒」宮城野 「夏草や 兵どもが 夢の跡」平泉 「五月雨を 降りのこしてや 光堂」中尊寺 「蚤しらみ 馬の尿する 枕もと」尿前(しとまえ)の関 「涼しさを 我が宿にして ねまるなり」尾花沢 「這ひ出でよ かひがや下の ひきの声」尾花沢 「熱き日を 海にいれたり 最上川」酒田 「まゆはきを俤にして紅粉の花」尾花沢 「閑さや岩にしみ入る蝉の声」山寺 山形県 みな良いですね。情景が浮かんできます。芭蕉の時代、日光も中尊寺も、尾花沢も、「圧倒されるような風景」があったと思います。今は、テレビ、書物、etc.で行く前に想像が付いてしまいます。それでも、行ってみないとわからないことはたくさんあり、行けば詩情がわくのかもしれないです。 なにより、芭蕉の時代はどこに行っても静寂だったと思います。特に山形県にある山寺は静かだったのでしょう。今は違います。多くの観光客で賑わい、場所によっては場違いな音楽を流したりして風情がありません。 酔狂なことですが、私は雪の降る最中に山寺を登ったことがあります。数人しか登っていませんでした。極めて静かでした。芭蕉の時代もかくやと思えるほど静かでした。なお、登るのには特別な長靴が必要です。登り口で貸してくれました。途中、かなり雪が降り始めたので、山寺から見えたであろう冬景色は見えませんでした。残念でした。 閑話休題 俳句とか短歌は、日本の定型詩です。定型詩ですが、中国には五言絶句、五言律詩、七言絶句、七言律詩などの定型詩があります。 「夏草や 兵どもが 夢の跡」の元歌は杜甫(712-770) 『春望』です。五言律詩です。見事な作品です。 国破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心 烽火連三月 家書抵万金 白頭掻短 渾欲不勝簪 日本も中国も 「五」「七」という素数を使っています。中国は「字数」、日本は「音数」で、違いがあります。しかし、どちらも素数であることに違いはありません。そこに何か意味があるのかもしれないと考えていますが、上手く説明する方法がありません。 俳句は、5-7-5=17 和歌は、5-7-5-7-7=31 5、7、17、31、すべて素数です。偶然でしょうか? 俳句、和歌、短歌は素数の文学と言えるかもしれないですね。 それはともかく、俳句に多少興味を持つようになり、句作の本などを買い求めましたが、なかなか思うように俳句を作ることはできません。俳句には「5-7-5」のほかにも幾つかの約束事があるからです。 「季語が必要」で私の思考は止まってしまいます。日本は南北に長く、北海道と沖縄では気候がだいぶ違います。それを一括りにして「季語」と言われても、なんとなく腑に落ちません。というようなことを考えていると、先に進めません。 俳句でも、季語や文字数にとらわれない「自由律俳句」もあります。これが俳句?と言われても、というような「俳句」もあります。 「どうしようもない私が歩いてゐる」 「まっすぐな道でさみしい」 「分け入っても 分け入っても 青い山」 以上、 種田山頭火 「渚白い足出し」 「貧乏して植木鉢並べて居る」 「咳をしても一人」 以上、尾崎放哉 などが有名です。結核で死にそうになっても「一人」だった放哉の死ぬ間際の情景が浮かびます。昨年の朝日俳壇に 「咳をしたら人目」 という句が載っていました。勿論、放哉の歌を真似たのでしょう。 今は 「咳をしたら一人」 になります。 早く、COVID-19が収まって欲しいです。収まれば、あちこちに出かけて句作ができるかもしれないです。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/02/01 この歌に現れているのは 前回より続きます。数年前のことです。古本屋さんで「慈恵医大の創始者、日本最初の医学博士、高木兼寬」と紹介されていた「めくり(注:紙だけ、表具なし)」が展示されていました。それには高木兼寬先生が書いた和歌が流麗な書体で書かれていました。幸い所持した金額で買えるくらいの値段でしたので購入しました(写真)。 このような感じで和紙に書かれた「書」が丸まって輪ゴムで閉じられていました。 この中に入っていた「書」を広げると、前回でも紹介した「書」が入っていましたが、なんて書いてあるのか良くわかりません。「なんとかの上」くらいは読めます。たまたま、私の患者さんに「骨董」や「書」に詳しい方がいらっしゃりこの和歌を解読して頂きました。 左が「書」、右は解読して頂いたものです。「謹書」とあるから高木先生本人の歌ではなく高木先生の上司か皇室の方が詠んだ歌を筆写したのだろうとのことでした。 この書について、その患者さんと知り合いだった栃木県足利市にある日本料理屋さん「文楽」の御主人岡田さんが色々と調べてくださいました。 その結果「明治天皇御集 明治神宮編纂(昭和39年刊)」の中にこの和歌が載っていることがわかりました。明治天皇陛下が明治37年に詠んだ和歌だったのです。明治天皇陛下は、その生涯で約10万首(正確には9万3032首)の和歌を作っています。そのうちの1つだったのです。 何回か声に出して読んでいるうちに、この歌の中に高木(たかき)兼寛先生の名前である「たかき」が入っていることに気づきました。 話は逸れます。 日清日露戦争による脚気による死者数を紹介します。高木先生が行った食事指導の結果は明らかでした。 日清戦争(明治27-8年)において ・陸軍:脚気による病死者4000名 ・海軍:脚気による死亡者 0名 日露戦争(明治37-8年) において ・陸軍:脚気による病死者27800名(注:戦病死者9400名、戦病死者とは「戦闘による死者」) ・海軍:脚気による死亡者は数名 結果は明らかだったのです。海軍は「麦飯」を食べ、陸軍は「白米」を食べていたのです。洋食ではなくて麦飯?と思う方も多いかもしれません。洋食は当時の兵隊さんに嫌われました。洋食だと費用もかかります。洋食から麦飯を主とした食事でも脚気に効果があることがわかり、高木先生は海軍の兵食は麦飯を基本としたモノに変更していたのです。 海軍、陸軍、医学界で論争が起きていました。陸軍、東大は脚気の原因は「脚気菌」であり、脚気菌に罹患して発症すると主張、高木兼寬の兵食改善には「学理がない」と糾弾します。日清日露戦争で明らかに結果が出ていても、森鷗外一派は白米に固執していたのです。酷い話です。 日本各地に少しだけ残っている日露戦争戦没者の忠魂碑の1つです。このような忠魂碑は軍国主義の象徴だとして太平洋戦争後、GHQの指示で多くが廃棄されましたが、少し残っているのです。 裏には戦没者の名前が記されています。時が経ち、名前もよくわかりません。 よく見ると戦没者のほとんどが陸軍の若い兵士です。一番身分の低い「陸軍二等卒」の方がほとんどです。この死者の7割は、海軍にいたなら死ななかった、「脚気」による死者です。それを思うと本当にかわいそうです。病気の診断、治療がいかに大切か、わかります。 和歌の話に戻ります。 この和歌が詠まれた翌年の明治38年に高木(たかき)先生は男爵になっています。 様々な資料から察するに、高木先生の食事指導で海軍での脚気死亡者が激減した事を明治天皇はよく知っていたと思われます(文献10.11.)など。 私は明治天皇が高木先生のことをどう思っていたか、それがこの歌に現れていると私は思うのです。 明治天皇は「たかき」を入れた和歌を作り高木兼寛先生を褒め称えるだけでなく、 《高木を見習え》 と言っているのではないかと思うようになりました。 「雲の上に立ち栄えたる山松の高きにならへ人の心も」という和歌は、 「雲の上に立ち栄えたる様な業績を残した高木(たかき)を見習おうよ」 という寓意をこめて、明治天皇陛下が高木兼寛先生のみならず、陸軍に向かって詠んだ和歌ではないかと思うようになったのです。 吉村昭著「白い航跡」や松田誠先生の高木兼寬先生に関する著書、論文にもこの歌は紹介されていません。松田誠先生にこの書をお目にかけましたがこの和歌は知られていないそうです。明治天皇陛下が直接高木先生を褒め称えた言葉は残っていませんが、この和歌を見れば明治天皇陛下の高木兼寬先生に対する思いがわかるのではないかと思っています。 推測を裏付ける強力な傍証 その後、この和歌が高木兼寬先生に向けられているという私の推測を裏付ける強力な傍証を入手しました。それは実物を見ないと誰も信じてくれない様な「本」です。 色々と調べると、明治天皇陛下は、生前、御自身の和歌が外に漏れることを禁じていたことが解りました。明治天皇陛下の和歌を添削、指導していた高崎正風(歌人、侍従、元薩摩藩士)が時々明治天皇陛下の和歌を新聞などに漏らすことがありそのたびに高崎は明治天皇陛下に叱責されていたそうです(文献1.2.)。 そういうことを知るにつけ、「雲の上~」の和歌も高木兼寛先生向けて作ったなどとは公表されなかったと思います。私は高木先生が「書」にして残しているくらいだから、この和歌は高木先生を褒め称えて作られたのだろうと思っていました。しかし、その私の仮説を確かめる「強力な傍証」を入手したのです。 明治天皇陛下崩御後「明治天皇御集」が編纂され、この中には明治天皇陛下が詠んだ歌の中から1687首が選ばれて出版されました。前回、今回で紹介している「雲の上~」の和歌も掲載されています。この御集で初めて一般人が明治天皇陛下の和歌を知ったのです。その後も明治天皇陛下の和歌は度々出版されています(文献3-8など)。色々な団体、色々な方が10万首の中から良いと思う和歌を選んで出版しているのです。たくさんあります。今でも明治神宮に行くと明治天皇陛下の和歌集(御製集)を購入することができます。 これまでに出版された明治天皇陛下の御製集の中で多分1番読まれたのが明治天皇陛下に殉じた乃木希典を顕彰する「乃木講」の方達が出版した「明治天皇御製百首」だと思います(写真1、この御集は大正6年が初版ですが、昭和7年事典で212版も版を重ねていたことがわかっています。参考文献8)。 私は偶然、「高木兼寛先生が所有」していた乃木講が編んだ「明治天皇御製百首」を入手しました(写真2)。ワイシャツの胸ポケットに入れられるくらいの小さな本です。 写真2には、「東京麻布東鳥居坂 男爵 高木兼寛」の印が押してあります。 高木先生は、鳥居坂に住んでいました。この中の7頁に「雲の上~たかきにならへ~」の和歌が載っています(写真3)。これをもってこの和歌が、明治天皇陛下から高木先生に向けられた和歌だと確実な証明はできませんが、強力な傍証になると思います。これを見つけた時、大げさで無く、感動というか手が震えました。 「明治天皇陛下が高木兼寛先生を褒め称えた(かもしれない)和歌」を紹介させていただきました。いつか「脚気論争」のこと、資生堂と高木兼寬先生の関係なども紹介したいと思います。 【参考文献】 井上通泰『明治天皇御集編纂ニ就テ』教化団体連合会(内務省社会局内)、1927年 打越孝明「明治天皇崩御と御製(上) (下)」『明治聖徳記念学会紀要』第25巻-26巻-、1998年 明治天皇『明治天皇御集 上中下』臨時編纂部編、宮内省、1920年 明治天皇御製謹話(1938年)千葉胤明、明治天皇 明治天皇御集 明治神宮編纂(1964年) わが仰ぎまつる明治天皇御製(1980年)明治神宮、明治神宮崇敬会 やまと心: 明治天皇御製謹註(復刻版・注釈付)佐佐木信綱、 水垣久 明治天皇御製百首 大正六年 乃木講元 刊 乃木講元が出版した御製集は手軽に持ち運べるように工夫されています。タバコと同じくらいの大きさです。高木兼寛先生の所蔵していた御製集は初版です。同書は、延々と版を重ね昭和7年には212版になっています。乃木将軍を信奉する人(主に軍人)の愛読書の1つだったのでしょう。 中山和彦:東京慈恵会の成立を探る―それを支えた慈恵・維新の志士達― 慈恵医大誌2012;127:179-202 吉村昭著「白い航跡」(講談社文庫) 松田誠著「高木兼寬伝」(講談社) 注1:御製:天皇や皇族が詠んだ詩歌、文書 注2::御集:御製を集めた本 注3:この和歌は、高木兼寛先生のことは別にしても、明治天皇陛下の作られた和歌の中でも特に素晴らしいとして様々な本で紹介されています。 「教育勅語と御製」亘理章三郎(著)、「公教育再生」 八木秀次(著)など 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2021/01/18 今から150年前、日本人が苦しんでいた病気とは? 新年あけましておめでとうございます。昨年末、私共のクリニックは入居していたビルの解体に伴い、一時閉鎖しました。以前の場所から50mくらい離れている場所で2021年1月12日(火)にクリニックを再開しました。今後ともどうかよろしくお願いいたします。 さて、現時点(2021-01-06)で、COVID-19(通称:新型コロナウイルス感染症)は収束の見込みが全く立っていません。COVID-19はどうしたら予防できるか、どういう治療が良いか、全く解っていません。「これだ!」という決定打がありません。 感染症ではありませんが、今から150年も前、日本人が苦しんでいた病気があります。それは「脚気(かっけ)」です。 脚気は「江戸患い」とも言われていました。田舎から江戸に来ると脚気になったからです(注:参照のこと)。COVID-19の原因はSARS-CoV-2というウイルスが原因だと解っていますが、もし解らなかったらCOVID-19は東京に多いので「東京患い」などと言われていた可能性もあります。 さて、その脚気の予防法、治療法を世界で初めて発見し、それを英国の一流医学雑誌に発表した日本人医師がいます。その医師の名前は高木兼寬です。今回、次回はその高木先生にまつわる話です。 南極に「高木岬=Takaki Promontory」という岬があります。日本人が勝手につけた訳ではありません。英国人が日本人医師「高木(Takaki)」に因んでつけてくれたのです。 「高木」は東京慈恵会医科大学の創始者「高木兼寬」先生に由来します。高木兼寬の名は一般にはあまり知られていません。しかし、世界の栄養学者やEBM(Evidence-Based Medicine)研究者で「Takaki」の名を知らない人はいません。 それは高木先生が今日の栄養学の元とも、EBMの元ともなった研究論文を今から100年以上前に「LANCET」に論文を載せたからです。その論文は世界中に広まり、医学の歴史に燦然と輝いています。それが「高木岬」につながります。 高木兼寬は「たかきかねひろ」と読みます。「たかぎ」と呼ぶ方がいます。間違いです。少しだけ寄り道をします。 図1 BARON TAKAKI 著 図1は 1906年(明治39年)5月19日号のLANCETに掲載されている高木兼寬先生の論文冒頭です。ここにBARON TAKAKIと記してあります。「TAKAKI たかき」と御自身で書いています。TAKAKIの横に「F.R.C.S. Eng.」とあります。この意味は後述します。なお、この論文ですが、タイトルは 「The preservation of health amongst the personnel of the Japanese navy and army. 」 日本語に訳すなら「日本の海軍・陸軍の兵士の健康保持法」でしょうか? The Lancet 1906年の5月19日号、5月26日号、6月2日号に Lecture I、II、IIIとして連載されています。 話はさらに横に逸れます。名前は音読みにすることで敬意や親しみが増すことが多いようです。有名な方ほど音読みにされる傾向があります。勿論、全例ではありません。 音読みすると違和感を覚えるような名前は音読みされないでしょう。私の名前は「吉彦」です。訓読みでは“よしひこ”ですが、音読みなら吉は「きち」彦は「げん」なので“きちげん”です。それでは困ります。 音読みが本名よりも広まっている例を少しだけお示ししましょう。 松本清張(本名:まつもときよはる→まつもとせいちょう) 開高健(本名:かいこうたけし→かいこうけん) 福田恆存(本名:ふくだつねあり→ふくだこうそん) 安部公房(本名:あべきみふさ→あべこうぼう) 原敬(本名:はらたかし→はらけい) 菊池寛(本名:きくちひろし→きくちかん) 木戸孝允(本名:きどたかよし→きどこういん) など多数あります。 高木兼寬も同様です。本名は「たかきかねひろ」ですが、「たかきけんかん」と呼称されることも多いのです。話を戻します。 日本の「医学、科学、社会」に、そして世界の「医学」に大きな足跡を残す 皆さんは 「病気を診ずして 病人を診よ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?これは高木先生の言葉です。病気の診断や治療というと「病気」だけを診ることに注力しがちですが、高木先生は「病人を診よ」と言っています。医療の本質を突く深い意味を持つ良い言葉だと思います。しかし、「病人を診よ」は「言うは易く行うは難し」です。しかしこの言葉を胸に医業をなすべきだと思っています。 高木兼寬先生は日本の「医学、科学、社会」に、そして世界の「医学」に大きな足跡を残しました。その一端を紹介します。順不同です。 1.高木先生は日本の医学博士第一号の一人です。1888年(明治21年)5月7日、医学博士号を授与されています。同日、池田謙斎、橋本綱常、三宅秀、大澤謙二の4名も医学博士号を授与されています。全員、医学博士第一号です。 2.高木先生は海軍軍医として「脚気を日本海軍からほぼ根絶」することに成功し、その功により、海軍軍医総監になっています。 3.現代医学の主流となっている「根拠に基づく医療=EBM(Evidence-Based Medicine)」の世界の先駆けとなる臨床試験を行って、その結果を上述のLANCET誌に投稿しています。 4.「軍艦の兵食を、米を主体とした和食から洋食に変更したら脚気が激減した」というのがLANCET誌に掲載された論文の要旨です。「食事で病気が治る可能性」を実証し、きちんとした論文にしたのは高木先生が世界で初めて成したことです。高木先生以前にもビタミンC欠乏で生じる壊血病は果物を食べれば予防され、あるいは治ることは経験的に知られていました。しかし食事の「臨床試験」を長期に亘って行い、医学論文、それも英語で論文にしたのは高木先生が世界初です。 5.日本で最初の「看護学校」を明治18年に創設しています。「慈恵看護専門学校」です。現代まで続いています。高木先生の留学先のセントトーマス病院にはナイチンゲールがいました。二人が接触した記録はありませんが、セントトーマス病院でナイチンゲールが創始した「看護」を実際に見聞きした経験は大きかったと思います。多分、同病院での看護を見て看護学校を作ったのだと思います。ちなみに2番目の看護学校は同志社大学の創設者新島襄が創設した「京都看病婦学校」です。こちらは廃校になってしまいました。 6.高木先生は、セントトーマス病院に留学中(1875-1880)、勉学に優れていたので同病院から13回も表彰され、さらにF.R.C.S. (Fellow of the Royal College of Surgeons:王立外科医師会会員) にもなっています。今でもF.R.C.S.となることは簡単ではありません。今から、140年以上も前に日本から留学した高木先生が英語を勉強しつつ医学を勉強、英国人医学生でもなかなかなれない「F.R.C.S.」になったのです。上述の論文にもBARON TAKAKIの後に「F.R.C.S.」とあります。これが記されていることで解る人(欧米系医師)には高木の優秀さが解るのです。 7.冒頭に記した様に南極に高木先生の名前を冠した岬があります。 英国の南極地名委員会(United Kingdom Antarctic Place-names Committee、UK-APC)が南極の岬や氷河に、ビタミンの研究に多大な寄与をした人の名前を冠しました。1952年のことです。 「エイクマン岬(Point)」 「ホプキンス氷河」 「フンク氷河(Glacier)」 「マッカラム峰(Peak)」 と並んで「高木兼寬」の名を冠した 「高木岬(Takaki Promontory)」 があります。日本人が頼んで命名した訳ではありません。英国の南極地名委員会が命名してくれたのです。 エイクマンとホプキンスはビタミンの発見により、1929年のノーベル生理医学賞を受賞しています。そういう世界的に有名な栄養学者と並んで高木(TAKAKI)の名前もあるのです。日本人として誇らしく、嬉しいことです。高木先生はビタミン発見の元となった論文を書いていたから、このビタミン地名に選ばれたのです。 なお、大変厳しいことを書きますが、高木先生は、和食を洋食にすることでタンパク質摂取量があがり、それで脚気を予防、治療できると論じていますが、これは間違いです。洋食では「野菜」を摂ること、白米を食しないことが肝心な点だったのです。 だからといって高木先生の論文の価値が減じることはありません。なにより、脚気は食事を変えることで「予防できる、発病しても治療できる」ことを示した業績の価値は「高い」のです。 「高木岬」と「久野岬」(日本生理学会) http://physiology.jp/wp-content/uploads/2014/01/071040157.pdf 8.ナイチンゲール型病棟を日本に初めて作っています。今の病院形態(ナースステーションがあり、そこから病棟を見渡せる形)の原型です。セントトーマス病院の病棟(ナイチンゲール設計)を模したのでしょう。 9.福澤諭吉の弟子だった松山棟庵(まつやまとうあん)と共に民間医学団体「成医会」を創設しました。この団体は「患者を研究対象としてみる医風から、患者を人間とみる医療を研究する」ことが目的に結成されました。今から考えると、このような考えは当然の話ですが、当時としては画期的でした。「成医会」は医学校になり、それが東京慈恵会医科大学に発展します。下に銀座にある「成医会」発祥の地の碑を示します。「成医会講習所跡」と記されています。 銀座にある(中央四丁目) 「成医会」発祥の地を示す碑 表は英文ですが、裏には「明治十四年男爵高木兼寛英国医学教授ノ目的ヲモッテコノ地ニ成医会講習所ヲ開設ス コレ東京慈恵会医科大学ノ濫觴ナリ.創立百年ヲ記念シコノ碑ヲ建ツ. 昭和五十五年五月一日 第七代学長 名取禮ニ」とあります。 余談になりますが明治初期、松山棟庵の先生だった福澤諭吉は「慶応医学舎(1873年 - 1880年)」を設立し医者を養成していました。福澤諭吉は大阪の「適塾」出身です。適塾は蘭学の塾です。その出身者で医師になった方も多いのです(大村益次郎、佐野常民、手塚良仙(手塚治虫の曾祖父)、長与専斎など)。福澤は生来「血を見るのが嫌い」で医学の道に進みませんでした。慶應義塾の創生期に私立の医学校としては日本初の慶応医学舎を作ったのは、福澤も医学に関心があったからだと思います。慶応医学舎は閉校しましたが、それから40年後、北里柴三郎を医学部長をとしての慶應義塾大学医学部が作られました。「再出発」ですね。この辺りは文献9(次回に文献を示します)を参照ください。 10.前述の如く、高木先生は脚気が洋食で予防できることを論文に書いて発表、実際、海軍の食事改革をして海軍から脚気をなくしています。 しかし、何が面白くなかったのか、「高木の論には学理がない」と陸軍の軍医でもあった森鷗外は糾弾しはじめました。小説家でもあった森鷗外は華麗、流麗、説得力のある?文章で高木先生の事を攻撃したのです。 「脚気は食事で予防できる。脚気は食事を代えることで治る」 「白米を食べ過ぎると脚気を生じる。麦飯を導入すべし」 「現に食事を代えることで脚気は、ほぼ制圧できているではないか?」 とする一派(高木兼寬先生がその代表的人物)と 「食事で脚気が治るなど学理がない」 「白米は日本古来の伝統食で素晴らしいモノである。それを否定するのは何事か?」 「そもそも脚気は脚気菌で生じる」 「脚気菌を見つけた」 とする一派(森鷗外がその代表的人物)との間で脚気論争が勃発します。後にビタミンが発見され、「脚気はビタミンB1不足により生じること、脚気になってもビタミンB1投与で治ること」がわかり、森鷗外一派の「論」は一掃されましたが、一掃されるまでには紆余曲折があったのです。今でも「森鷗外は間違ったことはしていない」という本を書いている方もいるくらいです。この脚気論争は医学、科学を考える上でとても大切です。別な機会に紹介します。 11.高木は貧しい病者のための「有志共立東京病院」を設立。その成立資金として皇族(有栖川宮家)の援助を受けています。その後も皇族からの御下賜金を頂いて病院を経営していました。その縁でしょうか、今でも東京慈恵会医科大学看護学校の卒業式には女性皇族の方の列席を賜っています。 有栖川宮威仁親王は逝去後、高木兼寬先生に遺品を御下賜しています(写真1-4)。実物を拝見したことがあります。少し解りづらいですが、写真1の左上に「高木兼寬」の名前があり、煙草盆、花瓶、鎌倉塗の卓を送られたのでしょう。それくらい、有栖川宮威仁親王と高木兼寬先生は、交友が深かったのでしょう。 12.高木先生が書いた「上述の3、4、10でも言及した、LANCETに掲載された」論文の内容を少し詳しく紹介します。 この研究は明治16年に日本海軍が行ったニュージーランド、南米航海で多数の脚気病者を出したのが元となっています。その航海で乗組員376名中169人が脚気を発症、25人が死亡しています。海軍の航海でこれだけ病者が出たら、戦争になったら戦えません。高木は翌年(明治17年)、同じ航路を同じ時期に回る予定だった軍艦の食事を、前年の航海で兵隊が食べていた白米を主体とした和食を洋食にしたのです。留学していた英国には脚気はなく、食事の違いで脚気の予防ができるのではないかと考えたのです。 しかし「言うは易く行うは難し」です。洋食に変更するには多額の費用がかかります。反対する軍人も多かったのです。しかし、高木は諦めませんでした。様々な方面に働きかけて、この食事変更案をなんと明治天皇陛下に直接上奏したのです。これが功を奏して、明治天皇陛下の許可が得られ、陛下から多額の費用の援助も受け、高木の食事変更案は実現したのです。 遠洋航海における食事変更の効果は劇的でした。同じ時期、同じ航路を航海したにも関わらず脚気にかかった兵員は数名しかいませんでした。当然、明治天皇からも「絶賛」されたと思いますが、絶賛されたとする直接の証拠はありません。それが本稿の要旨につながります。 13.高木は結婚式を改革しています。今、結婚式には新郎新婦の家族だけでなく新郎新婦の友人が列席するのが普通になっています。これは高木先生が日本で初めて行った「神前結婚式」に由来します。 明治30年(1897年)7月21日に、東京日比谷大神宮(現在の東京大神宮)で高木兼寛先生が媒酌をした「神前結婚式」が執り行われました。高木先生はこの結婚式で新郎新婦の家族、親戚、友人を集めて結婚式を行ったのです。従来家庭だけで行われていた結婚式を今の様な形態の結婚式に変えたのです。 それ以来、今のように多くの人が集い祝福する形の結婚式が広がりました。7月21日はそれ故に「神前結婚式記念日」になっています。高木先生は、英国留学中に見聞きした英国流の結婚式を日本でも行ったのだろうと思います。 14.高木先生は「書家」としても有名でした。これも、今回次回に大きく関係します。下図は明治時代の書家番付です。解りづらいかもしれませんが、向かって左側大名家の左横にある大隈重信の左横9番目に医家「高木兼寬」の名前が見えます。 15.「生命保険会社」の設立に貢献しました。明治時代初期、元海軍主計官の加唐為重(かから ためしげ)氏が日本初の生命保険会社を興そうとしましたが、当時は「生命保険」に社会の理解が得られず難渋していました。加唐は資生堂薬局(海軍の薬局だった)の創業者福原有信に相談、同氏と高木先生の支持を得ることができて、日本で二番目の生命保険会社となる「帝国生命(現朝日生命)」を設立したのです。 以後日本でも「生命保険会社」が多数設立されました。資生堂と高木先生との関係も面白いのですが、長くなるので割愛します。いつかご紹介しましょう。 このように、高木先生は、医学に留まらず、社会や文化に様々な影響を日本社会に与えたのです。 高木兼寬先生に関する本は今でも数多く出版されています。興味がある方は 吉村昭著「白い航跡」(講談社文庫) 松田誠著「高木兼寬伝」(講談社) を読むことをお勧めします。どちらの本も広範な資料を用いて「高木兼寬」の生涯を描いています。 「白い航跡」は小説仕立てで高木を紹介しています。読みやすいです。松田誠先生は東京慈恵会医科大学生化学の名誉教授ですが高木兼寬の研究者としても有名です。高木先生に関する多くの著作、論文があります。その代表作が上述の「高木兼寬伝」です。 いつも前段が長く申し訳ないです(笑)。これまでは前段です。 本稿の主題は、ここからです。数多ある高木兼寬先生のことを書いた本にも紹介されていないことを本稿で紹介します。本稿の一部は慈恵医大新聞にも寄稿しました(2020年2月、3月)。 上述のごとく様々な功績があり、高木先生は明治天皇陛下から「男爵」を賜っています。明治38年(1905年)のことです。その他にも明治天皇陛下が高木先生の功績を賞賛していたであろうことは、多くの資料から推測されていますが、直接高木先生を賞賛した文章などが残っているわけではありません。 しかし、私は先年、偶然、明治天皇陛下が直接高木先生を賞賛したと(思われる)資料を2つ入手しました。最初に見つけた資料は高木兼寬先生の書いた「書」です。 以下、次回へ続く…… 文献は次回に掲載します。 注: 江戸に来ると田舎で食べていた雑穀米ではなく、精製した「白米」を好んで食べるようになったため、江戸で脚気が流行ったのだと推測されます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/12/14 今回はある旅行記を紹介します。 今年はCOVID-19が世界中で流行し、各国でその対応に苦慮しています。国毎でCOVID-19に対する対応がかなり違います。対応に「お国ぶり」が現れています。世界にはさまざまな国があります。 自由が基本的に認められている国と認められていない国 個人情報が国家で厳密に管理されている国と管理されていない国 国家による個人の生活監視が厳しい国と厳しくない国 宗教が国家の根源を成す国と政教分離の国 それぞれの国でコロナに対する対応が違い、「お国ぶり」の違いが際立っています。 「個人の自由、個人のプライバシーを無視してでもCOVID-19を根絶やしにすることを優先する」国もあり、「個人の自由、個人のプライバシーを尊重しつつ緩やかにCOVID-19対策をする」国もあります。その中間の国もあります。 どの国の対策が良いか数年経たないと解らないですね。数年経っても解らないかもしれ ないです。 さて、その「お国ぶり」ですが、33歳の青年が初めてアメリカ、ヨーロッパを旅行した時に見聞きしたこと、感じたことを詳細に記述した本があります。これを読むと「お国ぶりの違い」がよくわかります。 いまさら、アメリカ、ヨーロッパの旅行記なんて読まなくても、こんなことは知っているよと思われるかもしれませんが、しばしお付き合いください。《種明かし》が最後にあります。 その青年の旅行記はかなり長く、私も全部、読んでいるわけではありません。幸い抄録が出版されています。その中からほんの一部を紹介します。抄録の抄録です。 1.アメリカ印象記(最初にアメリカに行った) アメリカ製の機械はデザインが斬新でかつアイデアに富んでいる。 色々な国を旅行してから考えてみると、アメリカ製の機械は粗っぽく、イギリス製の機械の精巧さ、フランス製機械の優美さ、ドイツ製機械の緻密さ、堅牢さには敵わないと思った。 アメリカの政治家は国内の産業を守るために、外国製品を輸入する際には重税を課す。これを保護関税という。さまざまな製品に保護関税を課している。 人種差別がひどい。特に黒人に対する差別は酷すぎる。黒人を動物扱いしている。あまり良いことではないと思った。 どこの都市に行っても植物園、動物園があり「実物」を見せる努力をしている。これは市民や学生に対する「教育」のために設置している。 アメリカでは「ブランド」をとても大切にしている。優れた企業経営者は目先の利益より「ブランド力」を高める努力をしている。 貧富の差が大きい。 さまざまなパーティーが催されているが、それはパーティー券を売ることで成り立っている。 黒人は確かに差別されているが、黒人でも富豪がいる.政治家として一流になって活躍している人がいる。よく観察すると「皮膚の色は知性と関係ない」ということが解った。 アメリカは元々ヨーロッパ人が開墾した土地である。それゆえに「自主と共和」が根付いている。 レディーファーストが基本となっている。夫は妻に明かりを掲げ、靴を履かせている。いささかでも、妻の機嫌を損ねると「身をかがめて詫び」「部屋の外に追い出され」「食事を許されない」こともある。 フィラデルフィアの名前は「友愛」という意味であるが、この都市の市民は温和で活気があって際立って「友愛」に満ちあふれている。良い街だと感じた。 この国の人はとりわけ「聖書」を大切にしている。旅行にも携帯する。聖書に書いてあることが生活の基本となっている。 2.イギリス印象記(アメリカの次にイギリスに行った) イギリスとアメリカは似ているところが多い。アメリカ人は万事大雑把だったが、イギリス人は、何事にも定石を守り緻密に計算を立てて行動する。それゆえにか、イギリスの製品は造りが堅牢で精巧である。これに比して、次に行ったフランスの製品は惚れ惚れするほど美麗であるが英国製品に比して壊れやすかった。 ケンブリッジ大学とオックスフォード大学は他の大学とは別格である。両大学とも都会の喧噪を離れた大学都市にある。一般にイギリスでは高等教育機関は大都市から、かなり離れたところにある。 イギリスはイングラド、スコットランド、アイルランドからなる連合国である。それぞれの国で宗教(キリスト教ではあるが)が違う。イングランドはイギリス国教会、スコットランドはプレスビテリアン(長老派)、アイルランドはローマ・カトリックが多数を占める。 イギリス人は「時は金なり」を信条としていて勤勉である。 ロンドン塔を見学したが、イギリス人は残酷である。気をつけないといけない。 イギリスもアメリカと同様、動物園、植物園、博物館が充実している。「実物」を見るという教育が徹底している。 ロンドンは霧が多く、暗い感じがした。 3.フランス印象記(イギリスからフランスに行った) パリはロンドンよりもずっと「からっと」して過ごしやすい。空気が乾燥して明るい感じがする。イギリスは陰鬱だったと思い知らされた。 ロンドンでは「人は働くことを人生の一義」にしているが、パリでは「人は楽しむことを一義」にしている。 フランスはローマ・カトリックの国である。壮麗な教会が多い。壮麗な教会が多い。あのような壮麗豪華な教会を建てるには,相当な費用と時間がかかったと思う。民衆の生き血を絞って建てたのだろう。一般にプロテスタント国には豪華な教会が少ない。これに比してローマ・カトリックの国には豪華壮麗華美な教会が実に多い。なお、フランスにはあちこちに十字架磔刑像があり辟易した。 フランスは公園がとても多い。日曜日になると公園は遊ぶ人でごった返している。これに比して英米では日曜日は安息日なので基本的には礼拝をして静かに過ごしていた。 フランス人は古いモノを大切に保存する。 フランス製品は、細部まで繊細に作られている。しかし、前述の如く、英国製品に比して壊れやすい。なお、感性がイギリス人とは全く違う。それは建築、造船、紡績に及ぶ。 4.ベルギー印象記(フランスからベルギーに行った) 欧州各地への交通の要である。 強国に囲まれているので軍隊が整備されている。 それ以外、あまり印象はない。 5.オランダ印象記(ベルギーからオランダに行った) オランダには山がない。 どこも低湿地で堤防が張り巡らされている。 少し油断すると水没する土地が多いため水没しないようにさまざまな工夫がなされている。また、水没しないように国民が常時気をつけている。それゆえにオランダ国民は勤勉である。 プロテスタント国である。豪華な教会は少ない。 運河が張り巡らされている。水運が盛んである。 オランダは小資源国である。鉄は作れず、木材はなく、石炭もとれない。それでも国民が勤勉であるがゆえに良質な工業生産物をたくさん作っている。 オランダは絵画が盛んで見るべき絵画が多かった。 オランダにも博物館、植物園、動物園が多い。日本人にとってもなじみのあるシーボルトのコレクションをライデンで見ることができた。 6.ドイツ印象記(オランダからドイツへ行った) ドイツでは工業も農業も盛んである。工業製品は堅牢にできている。 文学が盛んである。 日本人に親しみを持っているドイツ人が多い。 7.ロシア印象記(ドイツからロシアへ行った) ロシアは「田舎」である。ヨーロッパとは違う。洗練されていないと感じた.いわゆるヨーロッパとは違いが大きい。 8.北欧印象記(ロシアからスウェーデン、ノルウェー、デンマークへ) 北欧諸国は ロシアに比して農家も田畑もこざっぱりとしている。 どの国の国民も自主の気概がある。 清潔感にあふれている。 教育が行き届いている。男女分け隔てなく教育が充実している。 1)多くの学問を、理解しやすいように工夫して、教えている。 2)あまり難しい事は教えていない。 注:難しいことを教えると理解できない生徒は勉強を放棄する。一旦、勉強を放棄すると一生害すると考えているからであると聞いた。 3)男女平等である。 4)初等教育は、人生を享受するために必要不可欠と彼らが考えていることを教えている。必要不可欠なこととは (1)国語 (2)文法学 (3)数学 (4)歴史 国史 (5)地理 (6)科学 (7)音楽 (8)図画 の8つである。これに加えて、体育、修身も教えている。 9.イタリア印象記(スウェーデンからスイスを経てイタリアへ行った) イタリア国民は南北で多少違うが基本的に「怠惰」である。 宗教はローマ・カトリックが盛んである。 享楽的で音楽が盛んである。 アルプスを越えてイタリアに入ると土地が肥沃であることがよくわかる。「沃土の民は材にあらず」という諺がイタリアにも通用すると感じた。草木は生い茂り、野に咲く花もきれいである。しかし、街は汚い。清掃が行き届いていない。 「カトリック国には荘厳、華麗、華美な教会が多い」という法則がイタリアにも通用する。イタリア中にそういう荘厳な教会が多くある。大きく華美な教会を作るため、人民に相当な苦役、献金、重税を課したと思われる。良いことではないと思った。その金を国民のために使っていたらどんなにか素晴らしい国が出来ていたであろう。「宗教に必要以上に深入りする」のは国家発展の妨げになるだろう。 イタリアに残る古代ローマ帝国の遺跡、文物を見ると現在の西欧文化の「源(みなもと)」はすべて古代ローマ帝国にあると思われる。古代ローマ帝国滅亡後に「キリスト教が広まった現在のイタリア」と「古代ローマ帝国」とは別物と考えるべきだ。 北イタリアはドイツやフランスと似ていて豊かである。工業も発展している。それに比して、南イタリアは産業に乏しく貧しい。 イタリアには国立の公文書館、古文書館があり、多くの記録が残っている。天正遣欧少年使節の記録も見ることができる。このように記録を大切に保管することは見ならうべきだ。 1840年頃、ヨーロッパで微粒子病という蚕の伝染病が大流行し、フランスやイタリアはで蚕種が全滅した。そのため、日本から蚕種を輸入し、イタリアの養蚕業は復活した。 10.米欧に関する一般的な感想 キリスト教が人びとの生活の基本となっている。 キリスト教は磔(はりつけ)になって死んだ人間が生き返ったことという非合理的な話が元になっている。それを信じている人が多いのは不思議だ。しかし、非合理的であっても「神」を敬う気持ちによって行いを正しくしよう努力している。キリスト教にも沢山宗派がある。ローマ・カトリック、プロテスタント、東方教会、モルモン、英国国教会、etc.多数ある。 キリスト教徒とイスラム教徒との争いが長く続いている。西欧人の中にはユダヤ教徒もいる。要するに彼ら西欧人を理解するには、その因って立つ宗教を把握することが肝要である。日本の宗教と西欧の宗教とは全く違うことを銘記して付き合うべきだ。 「ブランドが大切で、ブランドを作り上げそれを維持することが全ての商業の基本だ」。商業に限らず、何事にも 「ブランド=信用」を築くことが、西欧では一番大切。 ああ、こんなことは知っている。今更だと思うでしょう。 この旅行記は今から約150年前に書かれているのです。 書いたのは「久米 邦武(くめ くにたけ 1839-1931年:91歳没)」です。元佐賀藩士、明治初期の外交官です。岩倉具視欧州使節団(1871-1873年)で「大使随行役」を勤めています。若い頃から「秀才」として知られ、同使節団に随行し、その記録を帰国後に刊行しています。 ただの記録では無いのです。『米欧回覧実記』という記録です。それが全部で100巻!もあります。細大漏らさず、感じたこと、見たことを記しているのです。 この一行の通訳は、新島襄、畠山義成が勤めていました。彼らは英語が堪能であったので英語が通じる国では英語で、それ以外の国では現地で英語が使える人から聞き取りをしたと思われます。 さて、上述の各国印象記ですが、皆さんの思っている印象とあまり変わりないかと思います。実は、我々が今、各国に抱いている印象の「元」は150年前の久米の記録が元になっていると言っても過言ではないと思っています。 欧米の研究家にも注目され、文献6.7.の如く英訳されています。100年以上前の米国、西欧を外国人(久米)の目から見た文献は少なく、これだけ詳しく、しかも絵付きで紹介した文献は皆無でしょう。英訳されたことを機に、この久米邦武の旅行記はもっと広く世界に知られるようになると思います。 細大漏らさずと記しました。科学技術に関する論考も多いのだそうです(文献8.9.)。政治、文化、宗教、経済、科学技術なんでも、実際に見聞きしたことを詳述しています。見たことをそのまま書いているわけではありません。論考をいちいち加えています。なんというか、読めば解りますが、観察力の的確さに圧倒されます。 キリスト教に関する厳しいというか、合理的な記述を読むと、久米邦武は「合理主義者」「リアリスト」であることがわかります。色々な物事を合理的に考えることは、今でもなかなかできることではありません。『米欧回覧実記』を読んでいると、合理的、理性的に考えることの重要性を再認識させられます。 久米邦武は帰国後に『米欧回覧実記』を著し、その功績に対して政府から多額の報奨金を得ます。その資金を元に久米は目黒に広大な土地を取得しました。今もその名残でしょうか、目黒駅前に久米美術館が残っています。この美術館では『米欧回覧実記』関連の事物を見ることができます。 帰国後、久米は歴史学者になり、東京帝国大学教授兼臨時編年史編纂委員を務めますが、「神道ハ祭天ノ古俗」と題する論文を書いて厳しく糾弾され、東京帝国大学を辞職せざるを得なくなっています(余話2)。 しかし、大隈重信が早稲田大学の教授として迎えてくれました。大隈重信も元佐賀藩士で久米邦武と同郷で同年代ですから、その縁でしょう。 いずれにせよ、長々と記しましたが、記録をすることの重要性(記録を廃棄してはいけないですね)、合理的に物事を観察することの重要さを『米欧回覧実記』を読むことで感じ取ることができます。 コロナ禍でも同様です。今、起きていることを記録し、合理的に観察し、コロナ禍から得られた教訓、知見を後世に残す必要があると思います。 それはともかく、とても面白いので、是非文献 1 or 2 をお読みください。 【参考文献】 久米邦武著:大久保 喬樹現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記(角川ソフィア文庫) 久米邦武著:田中 彰現代語訳 岩倉使節団『米欧回覧実記』(岩波現代文庫) 特命全権大使 米欧回覧実記 (1)-(5) 巻(岩波文庫)久米 邦武、田中 彰 現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記 普及版 久米邦武 編著 水澤周 訳・注 米欧亜回覧の会 企画 全5巻(慶應義塾大学出版会) 『米欧回覧実記』の原本はデジタルでも読めます。漢字、カナ交じり文です。文語ですから読みづらいですね。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761502 Marius B Jansen, Kume Kunitake著: 『The Iwakura Embasssy, 1871-1873:A True Account of the Ambassador Extraordinary and Plenipotentiary’s of Observation through the United States of America and Europe』 Routledge (2002) Kume Kunitake (著), Chushichi Tsuzuki (編集), R. Jules Young (編集) 『Japan Rising: The Iwakura Embassy to the USA and Europe』 Cambridge University Press (2009) 髙田 誠二 (著):久米邦武:史学の眼鏡で浮世の景を(ミネルヴァ日本評伝選) 高田 誠二 著:維新の科学精神―『米欧回覧実記』の見た産業技術(朝日選書) 余話1: 「何かを調べるページ」というサイトがあります。岩倉使節団が泊まったホテルを突き止め、現在も残っているホテルを紹介しています。全て高級ホテルです。 余話2: 雑誌『史海』に転載した論文「神道ハ祭天ノ古俗」 「神道は宗教では無い」と記しています。これは問題になったでしょうね。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/11/09 絶縁体であるポリエチレンフィルムの上に置いても電気は流れない? 前回の続きです。 ある日、ある時、超重症の心不全患者さんに人工心臓を装着しました。こういう手術後の患者さんの管理は大変です。毎日、たくさんの処置や検査が必要です。 多くの検査のひとつが「心電図検査」です。心臓の状態を検査するために、毎日3回、心電図を取っていました。心臓の状態が良くなると心電図でもわかります。 皆さんも心電図検査を受けたことがあると思います。普通の心電図検査なら簡単です。数分で終わります。しかし、人工心臓を装着している患者さんの心電図検査は結構大変です。 ※以下に心臓に装着した管の写真があります。血が苦手な方はお気をつけください。 写真1:心臓に装着した管 この管を通して人工心臓に血液を送り、人工心臓から血液を駆出することで心臓は休むことができるのです。 なぜかというと、この写真のように心臓を補助するために、心臓と血管に管が入っています。この管は胸壁を通して、外部の人工心臓につながっています。ここから細菌が入り込み人工心臓に感染することがあるので、それを予防するため、ポリエチレン製のフィルム(通称をサージカルドレープと言います)で覆っていました。 ポリエチレンは絶縁体です。心電図検査に使う電極をこの絶縁体であるポリエチレンフィルムの上に置いても電気は流れない(と思われていた)ので、このポリエチレンフィルムを日に3回剥がし直接患者さんの胸に心電図の電極を付けて心電図記録を行い、再度新しいポリエチレンフィルムを貼るという作業を毎日繰り返していたのです。 看護師さんと一緒に行うのですが結構面倒です。1回の処置に15分くらいかかります。胸には血液が流れる管が数本入っているのでそれらの管に障害が起きないように神経を使っての処置を行います。ドレープを剥がして、患者さんの胸に電極を置いて心電図検査を行うのです。かなり面倒です。ずっと病院に泊まり込んで、そういう処置や追加手術などを行っていました。 ポリエチレンフィルムの上で心電図が記録できた! そういう日々が続いたある日、大学時代に「有機物質にハロゲン化物を添加すると、本来導電性がない有機物質に導電性が出現する」ということを有機化学の授業で習ったのを思い出しました(余話2を参照ください)。上記のポリエチレン製フィルムには2種類あります。 皮膚に糊付けする糊にヨードが含まれている製品 糊にヨードが含まれていない製品 の2種類です。感染予防にはヨードが糊に含まれている方が良いだろうと思って1. の「糊にヨードが含まれている製品」を使っていました。ヨードは「ハロゲン」です。ポリエチレンは、有機物ではありませんが何となく 「ポリエチレンにヨードが含まれているなら電気が通るかも知れない」 と思いつきました。今でも何でこんな突飛も無いことを思いついたのか、良く解りません。 患者さんに害を与える処置では無いので、糊面にヨードが含まれているポリエチレンフィルムの上に心電図の電極を置いて心電図記録を試みました。そうしたら、なんと絶縁体であるはずのポリエチレンフィルムの上で心電図が記録できたのです。 「ええ! 何なんだろう! 凄い!」 と思いました。一緒に心電図を記録していた看護師さんもびっくりしていました。翌日、糊面にヨードが含まれていないポリエチレンフィルムの上に電極を置いて心電図記録を試みました。心電図は全く記録できません。これは面白い現象です。導電性のないポリエチレン製フィルムの糊面にヨードが含まれていると絶縁体であるポリエチレンに導電性が生じるのです。特殊なテスターを借りてフィルムの表裏で電気が通るかどうかを試しました。たしかにヨードを糊面に塗ったポリエチレン製フィルムではわずかながら導電性が生じていることが確認できました。 気合いを入れ、この現象を論文にして「N」という頭文字の雑誌に投稿しましたが掲載不可の知らせが来てがっくり、「S」という頭文字の雑誌に投稿しましたが、こちらも掲載不可でした。 私が発見したことは「特別な現象では無い」というのが掲載不可の理由でした。「N」も「S」も科学者なら憧れの雑誌です。投稿しただけでも良い思い出です。 こういう現象は、化学者には常識なのでしょうが医師には知られていません。 糊面にヨードが含まれているポリエチレン製フィルムの製造元のアメリカの会社に問い合わせましたが「このフィルムにそのような機能があることは知らない」と言われました。 この現象を使えば特殊な状態(人工心臓装着者など)での心電図記録が楽になります。そこでこの発見を「The Annals of Thoracic Surgery」というアメリカ胸部外科協会雑誌に投稿しようと思いました。 この時「ミッション:インポッシブルのテーマ」が頭の中で鳴ったのです。冗談です(笑)。 この論文に載せる心電図は患者さんの心電図である必要は無いので「私自身の心電図」と「私自身の胸をヨード入りポリエチレン製フィルムで覆っている写真」を撮って論文に載せよう、もし論文が掲載されれば「ミッション11」は達成できるかもしれないと思いついたのです。心電図室に赴き臨床検査技師さんに頼んで、 私の心電図(胸部誘導)を普通に記録 私の胸にヨード入りポリエチレン製フィルムを貼り、その上に心電図電極を置いて写真を撮影、引き続きそのフィルムの上に電極を置いて心電図を記録。1の心電図記録と変わりの無い心電図が記録されました。 確認のため、ヨードが入っていないフィルム上に心電図電極を置いた状態は心電図記録を行いましたが記録はできませんでした。 論文を練りに練り、英文をネイティブスピーカーに直してもらい、勇躍、投稿しました。タイトルは [Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram]です。 和訳するなら「ヨードを含有するドレープを用いれば心電図胸部誘導が可能になる」でしょう。実はタイトルを決めるのが一番大変でした。 写真2:この論文を書いたときのタイトル案です。 10数個の題名を考えました。この中から英語が母語であるネイティブスピーカーの方と相談して、タイトルを選びました。 論文に載っている「私の胸」「私の心電図」 論文を投稿してから約1ヵ月「アクセプト(掲載可)」との通知がFAXでアメリカから届きました。アクセプト(掲載可)とされる場合でも通常は色々とコメントがつき、それに沿って論文を修正するのですが、この論文はほぼ修正をしないで載せてくれました。3名の査読者の内、1名からは 「This report from Japan is intriguing.」(この日本からの論文はとても興味深い) というコメントを頂きました。嬉しかったです。論文掲載が決まり、実際に論文が掲載された雑誌が送られてきて、自分の胸と自分の心電図が載っているのを見て「ミッション11終了」と思いました。冗談です。 写真3:論文(文献1)に載っている「私の胸」です。 茶色いのはポリエチレン製フィルムの糊面の糊にヨードが含まれているからです。 図1:同論文に載っている「私の心電図」です。 心臓病の研究者、胸部疾患の研究者は世界中にいますが、自分の「胸」と「心電図」を論文に載せている研究者は多分いないと思います。仮に私が心筋梗塞になっても、インターネットで私が41歳の時の心電図を見ることができますので比較することが可能です。100年後、200年後に私の子孫がいたら、先祖(私)の「胸と心電図」を見ることができます。だから何?という話ですが… ミッション(夢と置き換えても良いです)を持っていて、何か考え思いついたら直ぐに実行してみると良いことがあるかも知れないという良い見本だと自分では思っています。 思いついたら、理屈を考えるよりも直ぐに実験をしたら良いと中谷宇吉郎博士の随筆「立春の卵」に書いてあります。これを読んでいたから、こんな実験を行い、それが論文になったのです。中谷宇吉郎博士に感謝です。今年(2020年)は中谷宇吉郎博士の生誕120周年です。石川県加賀市にある「中谷宇吉郎 雪の科学館」で様々な催しがあります。行ってみたいです。 【参考文献】 Mochizuki Y1, Okamura Y, Iida H, Mori H, Shimada K. [Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram] Ann Thorac Surg. 1999 Apr;67(4):1184-5. ↓全文を読むことができます。 https://www.annalsthoracicsurgery.org/article/S0003-4975(99)00056-9/fulltext 多田富雄:千葉医学特別講演より(千葉医学.85:53-9, 2009) Ishizaka K, Ishizaka T, Hornbrook MM. Physico-Chemical Properties of Human Reaginic Antibody: IV. Presence of a Unique Immunoglobulin as a Carrier of Reaginic Activity. J. Immunol. 1966. 97: 75-85. http://www.jimmunol.org/content/jimmunol/198/1/5.full.pdf(PDF) 中谷宇吉郎随筆集(岩波文庫) 名著です。 「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」公式サイトです。 https://missionimpossible.jp/ 余話1: 2000年のノーベル化学賞は白川英樹先生が受賞しました。「導電性プラスチックの発見」が受賞理由です。「通常は電気を通さない絶縁体のプラスチックにハロゲン化物をドーピングしたら電気が通るようになる事を発見した」事を発見したのですね。どこかで聞いたような話でした。 余話2: 有機物に導電性を加えた論文を調べて見ました。1950年頃から論文になっているのです。日本人研究者の発見です。 有機化合物は絶縁体であり、電気が通るなど考えられていなかった時代に、赤松秀雄先生、井口洋夫先生、松永義夫先生などが、有機物にハロゲンにドーピングすることで導電性が生じることを発見しています。こういう発見がノーベル賞を受賞した白川英樹先生の発見につながったのでしょう。それなら、赤松先生、井口先生、松永先生もノーベル賞を受賞してもおかしくなかったのだと素人の私は愚考します。 何れにしても私が学生時代の1977年頃、一般教養の「有機化学」の講義で多分このことを聞いていて、それを思い出したのです。 Akamatu, Hideo, and Hiroo Inokuchi. "On the Electrical Conductivity of Violanthrone, Iso‐Violanthrone, and Pyranthrone." The Journal of Chemical Physics 18.6 (1950): 810-811. Akamatu, Hideo, and Hiroo Inokuchi. "Photoconductivity of violanthrone." The Journal of Chemical Physics 20.9 (1952): 1481-1483. Akamatu, Hideo, Hiroo Inokuchi, and Yoshio Matsunaga. "Electrical conductivity of the perylene-bromine complex." Nature 173 (1954): 168-169 赤松秀雄(1910-1988):元東京大学理学部教授 井口洋夫(1927-2014):元東京大学理学部教授 豊田理化学研究所に氏を記念したホールがある。文化勲章受章 松永義夫(1929- ):元「北海道大学,熊本大学,神奈川大学」理学部教授 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/10/26 ミッション:インポッシブル 2年前「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」という映画を見に行きました。「スパイ大作戦」というテレビ番組だったのをトム・クルーズが主演にして映画化した「ミッション:インポッシブル」シリーズの第6弾です。 不可能と思われる使命(mission impossible)を命ぜられた主人公のイーサンハント(トム・クルーズ)が仲間達とハイテクを駆使しつつ、ミッションを果たすという映画です。 「さて、君に与えられた使命だが…」とセリフと共に実行不可能と思われる任務(ミッション)の指令が下され、 「例によって君もしくは君のメンバーが捕らえられ、或いは殺されても、当局は一切関知しないからそのつもりで、なおこのテープは自動的に消滅する。成功を祈る」 そしてテープが白い煙と共に消える。そんな場面で始まります。この映画は音楽も有名ですね。少し聞いてみましょう。 『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』本予告(YouTube) 「ミッション:インポッシブル」シリーズの第6弾の題名にある「フォールアウト」ですが原題は「Fallout」です。「Fallout」は「核爆発で地上に降る放射性粒子」だそうです。知りませんでした。 なお「fall out」なら「落ちる、仲違いする」という意味になります。この映画は核爆弾をめぐる物語です、それに加えて主人公が落下するシーンが多く(7000m上空から、ビルから、ヘリコプターからetc.)、おそらくは「fall out」と「fall out」を懸けているのでしょう。撮影当時56歳だったトム・クルーズが全ての危険なスタントシーンを自分で行って撮影したことも話題になりました。7000m上空からのダイビングも自分で何回も行って撮影しています。映画終盤にヘリコプターをトム・クルーズが操縦する場面があります。この場面を撮影するためにヘリコプターの免許をとっただけではなく、凄いのは一人で操縦する資格を得るのに必要な2000時間もヘリコプターを操縦してそういう資格を得たことです。一日8時間操縦しても、250日もかかります。ヘリコプターを操縦するシーンはもちろんのこと、ヘリコプターが回って落ちていくシーンも自分で操縦しています。あり得ないくらい気合いが入っています。こういう映画が面白くないわけがありません。 前段はそれくらいにして。。。。 真面目な?本論に移ります。大方の皆さんは学校(大学、高校etc.)を出て社会人になる時「目標」を立てると思います。何となくでも良いですが「目標」を立てないと何となく時間が過ぎてしまいます。元将棋名人の故升田幸三はプロの棋士を志して家を出た時、母親の物差しの裏に 「この幸三、名人に香車を引いて勝つために大阪に行く」 と書き残しました。升田は将来「名人と対局して香車駒落ちで勝ってやる」と宣言したのです。14歳の時のことです。後に本当に「名人と対局した時に連勝したので、香車を抜いて対局して(つまり、駒落ち)勝ってしまいます。夢を実現したのですね。今、このような厳しいルールは廃止されています。それはともかく、何か目標を定めて努力するのは良いですね。 私も大学卒業時、いくつか目標を立てました。自分に課したミッションです。 外科医として働き始めたので、自分の「ミッション」として 基本的な心臓手術ができるようになりたい 色々な心臓手術がしたい できれば指導的立場で手術ができるようになりたい たくさん手術を手がけたい 成績の良い、質の良い手術をしたい 英語で論文を書いて一流雑誌に掲載されたい 教科書に載るような論文を書きたい 教科書の執筆依頼が来るような外科医になりたい 新しい手術方法を見つけたい 新しい手術器具を作りたい 自分の体(の一部でも)を論文に載せて後世に残したい と思っていました。1-10は外科医を目指すなら、誰しもが思うことですが実はどれもかなり難度の高いミッションです。これらを達成するのに確実な方法論はありません。ミッションのうち1-10はモデルとなる外科医(数名)がいらしてその方々を目指しました。 真面目な「努力」と「運」と「根気」と「小さな知恵」「工夫」の積み重ねが必要です。真面目な話はまた何時か機会のある時にしましょう。 ミッション11は医学の本道とは別な話です。 「さて、君に与えられた使命は君の身体を論文に載せることだ。例によって君もしくは。。。。。」 と言われるわけもなく、なぜこんなことを自分で考えたのか説明しましょう。 「僕の背中は世界一有名」 2018年7月6日、IgEの発見者というか、今日の「アレルギー」と呼ばれる疾患の本体を解明した「石坂公成(いしざかきみしげ)」先生が逝去されました。奥様と共にノーベル賞を受賞するだろうと言われて数十年、ついに受賞することはありませんでしたが、そんなことは関係無く、真に偉大な一生でした。 ちなみに偶然でしょうが、公成はKimishIgEです。名前の最後に「ige=IgE」が入っています。IgEの命名者は石坂先生です。IgEの「E」というアルファベットはこの抗体が紅斑(Erythema)を引き起こすことに由来しているのですが、偶然でしょうか? いずれにせよ、訃報を聞いて、自分は「ミッション11」を達成していたことを思い出したのです。石坂先生に命ぜられたわけではありません。 石坂先生のお弟子さんの一人に東大の名誉教授の故多田富雄先生がいます。多田先生は「抑制(サプレッサー)T細胞の発見」で有名です。また、文筆活動も活発で「免疫の意味論」「寡黙なる巨人」などの随筆もベストセラーになっています。「能」の作者としても有名で、脳死の人を主題にした「無明の井」や朝鮮から強制連行された人を主題とした「望恨歌」などの新作能を書いています。 その多田富雄先生の講義を学生時代に聞く機会がありました。もちろん免疫の話が主題です。その講演で多田先生は、 「僕の背中は世界一有名」 「僕の背中は天皇陛下も見ている」 「僕の背中は世界中どこでも見られる」 「僕の背中は後世に残る」 と仰いました。 石坂夫妻の発表した「IgE発見の論文」にはIgEの活性を試験する方法としてPK反応が用いられていました。PK反応はヒトの背中にIgEを皮下注射してその活性を調べると言う方法です。石坂先生御自身の背中はPK反応を何回もしており、もう注射するところが無かったので部下だった多田富雄先生の背中を用いて試験が行われ、それが論文に載ったのです(文献3:この論文は貴重で、IgE発見の基本となる論文です)。 写真1:文献3に載っている「多田富雄先生の背中」の写真 それを多田先生は「僕の背中は世界一有名」だと言っていたのです。しかし、大変残念なことに、この論文に多田富雄先生の名前は載っていません。当時まだ研究助手だったからでしょう。学生時代、「僕の背中は有名」を聞いて面白く思いました。いつか、私も 「自分の体を論文に載せたい」 と思ったのです。 自分がごく特殊な病気にかかるか、自分の身体を使った実験をしなければ載りません。自分がそんな「特殊な病気」にかかるのは困ります。特殊な実験も嫌です。婦人科に進めばあり得ないし、泌尿器科も嫌ですね。というわけで、時が流れ幾星霜。なんと、それ(=自分の体を論文に載せる)が実現しました。 次回へ続く。 【参考文献】 Mochizuki Y1, Okamura Y, Iida H, Mori H, Shimada K. [Iodine-impregnated drapes enable recording of precordial electrocardiogram] Ann Thorac Surg. 1999 Apr;67(4):1184-5. ↓全文を読むことができます。 https://www.annalsthoracicsurgery.org/article/S0003-4975(99)00056-9/fulltext 多田富雄:千葉医学特別講演より(千葉医学.85:53-9, 2009) Ishizaka K, Ishizaka T, Hornbrook MM. Physico-Chemical Properties of Human Reaginic Antibody: IV. Presence of a Unique Immunoglobulin as a Carrier of Reaginic Activity. J. Immunol. 1966. 97: 75-85. http://www.jimmunol.org/content/jimmunol/198/1/5.full.pdf(PDF) 中谷宇吉郎随筆集(岩波文庫) 名著です。 「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」公式サイトです。 https://missionimpossible.jp/ 余話1: トム・クルーズと言えば、1986年「トップガン」の主人公マーヴェリックを演じて有名になりました。つい最近、“リアル”マーヴェリックと言われた「マケイン元アメリカ上院議員」がお亡くなりになりました。マケインさんは元ジェット戦闘機のパイロットです。ベトナム上空で撃墜され、5年もベトナムに囚われて拷問を受けていたにもかかわらず後にベトナムと米国間の国交樹立に大きな役目を果たした事でも有名です。曲芸的な戦闘機操縦をしていた事でも有名だった事も相まって「マーヴェリック」の愛称で呼ばれていました。最近はトランプ大統領を厳しく非難し、話題を集めていました。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/10/05 ※注意:今回は手術の写真がたくさん出てきます。血が苦手な方はお気をつけください。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 今回はかなり珍しい血管の病気というか、血管外傷について紹介します。血管をナイフで刺されてしまった患者さんの話です。 以下図1を参照しながら、お読みください。 図1 手術途中に呼ばれた救急室、そこで見たモノは… 頚動脈という言葉を聞いたことがあると思います。左右2つの頚動脈があります。左右で少し違いがあります。右の頚動脈は大動脈から出る腕頭動脈という太い血管の枝です。体格にもよりますが、腕頭動脈の長さは5cmくらいあります。「腕」「頭」と称され右手と右頭部右側へ動脈血を送る太い血管です。腕頭動脈は右総頚動脈と右鎖骨下動脈に分かれます。左側には腕頭動脈は無く、大動脈から直接、左総頚動脈と左鎖骨下動脈が分枝します。首に手を当てて触れる動脈は左右の総頚動脈です。右側の総頚動脈より心臓に近い方、つまりかなり奥にあるのが腕頭動脈です。そのため、腕頭動脈の手術は少し難しいのです。幸い腕頭動脈単独の病気はあまりありません。 話は変わります。時々、包丁やナイフなどの刃物で人を刺したりする事件が報道されます。心臓や血管も刃物で損傷を受けることがあります。心臓を刺されて、病院に搬送されてきた方を何人か見ました。ほとんどは即死です。心臓を刺されるとその場で、ほとんどの方はお亡くなりになってしまいます。病院に搬送された時点で死亡している時は手術ではなくて「解剖」に回されることがほとんどです。そのような場合は「事件」ですから、東京都なら監察医務院で司法解剖になり、東京都以外は、各都道府県にある大学の法医学教室での司法解剖を受けることになります。当たり前ですが、刺されたけれど病院に来た時にお亡くなりになっていない場合は、手術の対象になります。 以下本稿の主題に入ります。 上述のごとく、普通は「腕頭動脈」を触れることはできません。10数年前の某月某日、午前9時に私は腹部大動脈瘤の手術を開始しました。腹部の皮膚を少し切開したところで、救急部長のQ先生から電話が入りました。直ちに救急室に来てくれという連絡です。どうやら、血管にキズを負った患者さんが救急車で搬送されてきたようです。しかし、私はすでに手術を開始していたので、一旦は断ったのですが、再三再四救急室に来てくれという連絡が入り、仕方なく、一時手術を止めて、手術室を出て、1階の救急室に向かいました。そこで見たモノは…… ※以下に手術の写真があります。血が苦手な方はお気をつけください。 紫⾊のゴム⼿袋をつけて患者さんの⾸に指を⼊れているというQ救急部⻑の姿でした。救急室内には、救急部の医師、看護師はもちろんのこと、救急隊員や多数の警官がいて騒然としていました。多くの医師が凄い勢いで輸血をしていました。最初は何が何やらわからなかったのですが、皆さんの話を総合すると、どうやらこの患者さんは 二十歳になったばかりの女性であること 早朝から開いている食堂の店員さんであること 開店準備をしていた時に強盗に襲われ体中を刃物で「めった刺し」にされた(らしい)こと 倒れていたところを後から来た店員に発見されたこと 来院時は意識が無かったこと 来院時の血色素量が2.0しか無かったこと(正常は10以上です) 来院時脈が触れなかったこと 瞳孔が散大していること 私が救急室に来た時点でも意識が無いこと 来⽉、結婚式を挙げる予定であること、その結婚相⼿がこの患者さんの⾜元にいること などが解ってきました。確かに体中に大小さまざまな切創(きりきず)がたくさんあり、出血しています。救急部の先生が総出でキズの止血を行っていました。 問題は首に刺さっている救急部長の指です。 Q救急部長に「Q先生の指はどこに入っていて、何をしているのか?」と聞いたら、 Q部長曰く 「来院した時は、首に普通の切り傷があると思っていた」 「点滴ルートを確保し、輸血を行ったところ、今、指で押さえているところの奥から、⾎液がどんどんと湧き出してきた」 「どうやら腕頭動脈が刃物で切られているらしい」 「指で腕頭動脈を圧迫しているが、いつまでも押さえておくわけにはいかない」 「切れた腕頭動脈を修復して欲しい」 とのことでした。 要するにこのQ部長の指先の奥でには刃物で傷つけられている(らしい)腕頭動脈があり、そこからの出血を止めて欲しいということでした。 これは無理だと思いました。修復するには、腕頭動脈周囲を露出しないと修復できません。少しでも指を動かせば大出血します。外傷学の教科書にも載っていないようなシチュエーションです。意識もありません。瞳孔も完全に散大しています。手術をして止血ができたとしても、脳に後遺症が残る可能性も高いのです。 しかも、私は他の人をすでに「執刀」していたのです。心臓から遠いところの血管損傷なら、手術は容易です。しかし、今Q部長が指で押さえているのは、胸の中にある腕頭動脈です(普通は触れない)。 色々と考える間もなく、この腕頭動脈損傷の手術は無理であることをQ部長に伝えました。私と同じで、呼び出されていた整形外科の先生も、脳神経外科の先生も頭を振るばかりです。私は執刀していた手術に戻ろうとしました。そうしたら、この患者さんの足元にいた婚約者の男性が、「なんとしても助けてくれ」「来月結婚するのだから助けてくれ」とすがりついてきました。しかし、無理なモノは無理なのです。この男性に手術ができない理由を説明しました。 「太い動脈が損傷されている。胸の奥深くにある血管であり、この部位の手術は普通でも難しいこと」 「手術をするにはQ部長の指を退かさないといけないが、指を退かしたら大出血すること」 「来院時の血色素量が2.0しかない、つまり一度大量に出血しているので血圧も低く、すでに脳損傷を生じているであろうから、たとえ手術をしても回復は見込めないであろうこと」 などを説明しました。 手術は難しい(できない)と説明しましたが、彼は納得しません。 申し訳ないけれど、あとは救急部の先生にお任せして自分の手術に戻ろうと思ったのです。そうしたら、この男性は患者さんの説明を始めたのです。 「彼女は捨て子だ。孤児院で育てられた」 「彼女の人生で楽しいことはほとんど無かった」 「中学を卒業してからずっと働いていた」 「縁があって俺と付き合うようになって結婚することになった」 「彼女は俺と結婚して初めて家族ができるんだ」 「その結婚が来月だ!」 と言って、だからなんとかして欲しいと、大きな声で何回も懇願するのです。 こういう社会的背景を聞くと「なんとかしてあげたい」と思うのが人情で、私の頭にも感情にもスイッチが入りましたがどうしようもないものはどうしようもないのです。 その場で思いついた手術方法 そうこうしているうちに、他のキズ(大小取りまぜて40箇所くらい)の止血操作や輸血により、血圧が回復してきました。脈も触れるようになってきました。 しかし、刃物で切られている(と思われる)腕頭動脈からの出血を止めないとどうにもなりません。Q救急部長の指を少しだけ外してもらったら、もの凄い勢いで血液が噴出しました。やはり損傷していると思われる腕頭動脈を修復するのは不可能だと思いました。噴出する血液を避けながら体の奥にある動脈の縫合をするのは不可能なのです。 しかし、解決方法が天から降ってきました。ある方法を思いついたのです。いつも行っている心臓手術の方法を応用すれば容易に腕頭動脈に到達できることに気づいたのです。 図2 緑で囲まれている部分は胸部にあります。胸の骨の下にあり、通常は目に触れません。胸骨の下に緑色の部分があるのです。心臓外科医は、この部分の手術を行っています。つまり腕頭動脈に達するには、いつも行っている胸骨正中切開を行えば良いことに気づいたのです。 図3 図3:手術の説明図、というかその場で思いついた手術方法 胸骨を電気ノコギリで縦切りにする正中切開を行い(くどいようですが心臓外科医なら誰でもできる方法です)、腕頭動脈根部を胸部から露出し、腕頭動脈に止血鉗子をかけて血流を遮断し、裂け目からの出血を減少させて、その間に裂け目を修復する。そういう手術です(注:5分くらい、右側の頭部に流れる血流を遮断しても問題ありません)。 図3のような手術をすれば、助かるかもしれない。少なくとも止血はできるかもしれない。 しかし、それを行うには、現在すでに執刀した腹部大動脈瘤の手術を止めなくてはいけません。困ったなと思っていたら、消化器外科の先生方が、腹部大動脈瘤手術のお手伝いを申し出てくれたのです。それで腹部大動脈瘤の手術は遂行できるだろうと言ってくれました。 しかし、私が行おうとしている血管外傷の手術は、いつもの心臓血管外科のスタッフと行うことができません。しかし、折良く、呼吸器外科の先生に連絡がつき一緒に手術ができることになりました。呼吸器外科医ですから、胸部を開けるのは慣れています。助かりました。少なくとも手術はできるだろうと思いました。 そして、図3のような手術を行うことを、麻酔科の先生、手術室の看護師さんに伝え手術準備をして頂きました。平日の午前中でした。通常その時間、手術室はフル稼働しています。この時、折良く手術のキャンセルがあり、一部屋手術室が空いていたのです。物事が進む時は、こういう「運」もあります。 「この患者さんと結婚する予定の方」に手術方法を説明。大きなキズが胸に残るけれど、救命にはこれしか手がないことを説明し、了解して頂きました。そして、Q救急部長に指で止血してもらいながら(最初の写真の状態)、1階の救急室から上階の手術室へ移動しました。 胸部を消毒し、呼吸器外科の先生と一緒に手術を開始しました。胸部の皮膚をまっすぐ切り、胸骨を専用の電気ノコギリで切開し、腕頭動脈の根元を慎重に剥離します。なんとか、腕頭動脈にテープを巻くことができ、テープを補助にして血流遮断鉗子を腕頭動脈にかけて血流を止めました。 ※リンク先に手術の写真があります。苦手な方はお気をつけください。 図4:手術中の写真1 ※リンク先 胸骨正中切開を行い心臓側から腕頭動脈を露出して、テーピングして、腕頭動脈の血流を遮断した時の写真です。 この時点でQ部⻑の指を外してもらいましたが出⾎しませんでした。目論見通り「出血は止まった」のです。刃物で損傷を受けていた⾎管が⾒えました。腕頭動脈は刃物で、きれいに、切れていました。切れている部分の腕頭動脈の末梢側にも血流遮断鉗子をかけて完全に血流を止め、千切れそうになっていた腕頭動脈を、細いポリプロピレン糸を用いて縫合し血流を再開しました。出血は完全に止まりました。一気に血圧が安定しました。 図5:手術中の写真2 ※リンク先 刃物で千切れそうになっていた部分の上下を血管遮断鉗子で血流を止めます。 図6:手術中の写真3 ※リンク先 細いポリプロピレン糸で損傷部を修復したところ、指で持っている青い糸は修復に使用したポリプロピレン糸です。 ほかの部位の止血も、慎重に行い胸骨をワイヤで寄せて胸を閉じ手術は終了しました。手術記録を見直したら、1時間で手術を終えていました。皮膚表面にある多くの切創(刺されてできたキズ)を縫合して、完全に手術が終わったのは、それから1時間くらい経ってからでした。 問題は、手術後に意識が戻るかどうか、あるいは後遺症が残るかどうかです。感染症も心配です。とても、とても心配でした。 しかし、手術後1日目にやや意識が回復し、2日目には完全に意識が回復しました。意識が回復した時の婚約者のものすごく喜んでいる様を見て、少し「うるっと」しました。そして3日目には食事が食べられるようになりました。2ヵ月のリハビリが必要でしたが、あまり大きな障害も残らず退院できました。 なお入院中にこの患者さんは刺した犯人の顔も思い出したのです。たまに食堂に来るお客さんだったのです。早朝の食堂では若い女性店員が一人しか働いていないことを知っていて強盗に入り、レジにあるお金を強奪しようとしたのです。 しかし、店員がお金を渡さなかったので、持っていたナイフでいきなりあちこちを切ったり、刺したりして、レジからお金を盗んだのです。怖い話です。犯人がすぐに見つかったので警察関係の方にとても感謝されました。もし患者さんがお亡くなりになっていたら、犯人は捕まらなかったかもしれず、今もこの犯人は市中をうろついていたかも知れません。 なお、この患者さんは予定より数ヵ月遅れましたが、無事結婚式を挙げることができてお子さんも授かりました。外科医人生の大きな思い出の一つです。 「人生あきらめが肝心」と言われますが「外科医は諦めが悪い方が良い」と思っています。 なお、この方が助かったのはもちろん私だけの力ではありません。 第一発見者の方が素早く救急車を呼んでくれたこと 直ちに現場に駆けつけた救急隊の皆さん 血圧が測れない状態でも輸血路を確保してくれた優秀な救急部の医師、看護師の皆さん 輸血をすぐに用意してくれた輸血部の皆さん 採血データを迅速に出してくれた検査部の皆さん 腕頭動脈からの出血を止めてくれていたQ救急部長 腹部大動脈瘤手術のお手伝いを買って出てくれた消化器外科の先生 一緒に手術をしてくれた呼吸器外科の先生 麻酔を引き受けてくれた麻酔科の先生 手術の補助をしてくれた手術部の看護師さん 手術後の治療を一緒に行ってくれた集中治療部の医師、看護師の皆さん 手術を懇願した「婚約者の熱意」 その他、実に多くの方の助けがあり手術が上手くいったのです。 感謝の意を表明して稿を終わります。 後日談1:Q部長がこの症例を救急医学会に発表したら、大絶賛を受けたそうです。私も行けば良かった。 後日談2:早速論文にしようと思って論文検索をしたら、アメリカでは腕頭動脈の損傷が結構あり、私と同様な方法での修復例が10数例すでに論文になっていました。ですから論文にはなりませんでした。残念です。 後日談3:「先生は犯人からも感謝されて良い」と警察関係の方に言われました。患者さんが死亡していたら、犯人は「殺人罪」となっていたからです。 注:孤児院という言葉は正式名称ではありません。平成10年以降は「児童養護施設」と称されます。 注:個人情報を伏せるため多少の改変をしています。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/09/07 今回は、医学には関係無いことを書きます。泥棒に関することです。 ドロボウに関する成句には色々とあります。 盗人猛々しい 盗人に追い銭 盗人にも三分の理 盗人の隙はあれども守り手の隙がない 人を見たら泥棒と思え 嘘つきは泥棒の始まり などです。 さて、皆さんは泥棒に何かを盗まれたことがあるでしょうか? あるいは、家に泥棒に入られた経験がありますでしょうか? 2020年東京オリンピックのプレゼンテーション(2013年、ブエノスアイレス)で「日本ではお金の入った財布を落としても、それはきっと戻ってくる」と滝川クリステルさんが話したのを覚えている方も多いと思います。 日本は、落とした財布やスマホが戻ってくる確率がとても高い国だと思います。 あらゆる落とし物が戻ってくる国・日本 “地球最後の文明社会”と海外が感嘆(NewSphere) https://newsphere.jp/national/20150222-1/ 東京では、年間33億円のお金が拾われ(落としたり、置き忘れたり)、そのうち24億円が落とし主に戻るそうです。 泥棒も他国に比して極めて少ないです。 上記の出所:社会実情データ図録より引用 http://honkawa2.sakura.ne.jp/2788g.html そんな盗難の少ない日本にも泥棒はいます。私は3回泥棒にあっています。 泥棒にモノを盗まれないためにはどうしたら良いか、泥棒にあったらどうしたら良いか、本稿を読めば多少役立つかもしれません。 私の経験を紹介します。どれも教訓的なドロボウ事象です。 学生時代、下宿で財布から現金が無くなっていました。盗んだ人もわかっています。 10数年前のことです。病院の駐車場に置いていた車の中から鞄を盗まれました。犯人は不明です。 20数年前新橋の料理屋さんで鞄を盗まれました。この事件?が一番、教訓的です。ぜひ、お読みください。 泥棒事象を紹介しましょう。 1.学生時代に財布から現金を盗まれたのはとても悲しい出来事でした。 大学2年生の夏休みのほぼ全て(30数日)を日本で2番目に高い北岳の山頂近くにある「北岳山荘」でアルバイトをして過ごしました。「北岳山荘」は建築家の黒川紀章先生がデザインしたおしゃれな山小屋です。1978年に建てられたときは、そのことでも話題を呼びました。その年に働いたのです。良い経験でした。 山小屋でアルバイトをするとお金を使う場所がないので、丸々アルバイト代が残りました。その山小屋アルバイトで知り合った、今で言うフリーターのT君と仲良くなりました(同い年でした)。T君とは山を下りた後もやりとりを続けていました。 翌年の秋に、T君は関東地方から車を運転して鳥取まで来てくれました。そして車にシュラフなどを積んで九州を2人で旅行しました。泊まるのは車の中でした。今、流行の「車中泊」をしたのです。 九州一円をまわり鳥取まで帰り、私の下宿で一泊して、 T君は関東地方まで帰っていきました。 彼を見送って下宿に帰ったら、 財布に入っていたお金が無くなっていました。九州旅行から帰り、色々と精算をしました。財布の中に1万数千円入っていました。しかし、お財布の中のお札だけ無くなっていたのです。下宿にいたのは、私とT君しかいません。「やられた」のです。 それ以降、T君とは音信不通になってしまいました。帰るガソリン代に事欠いたのでしょうか?とても悲しい話でした。 2.車上荒らしにあったのは、緊急手術の為に呼ばれ、車を病院の駐車場に止めていた時のことです。 病院職員駐車場は、患者さんの駐車場よりも病院から離れた場所にありました。照明も無い暗い駐車場でした。すぐに手術が始まるので、鞄を車の中に置いてそのまま手術室に向かいました。日曜日の夜中でした。 無事、手術が終わりそのまま月曜日の診療が始まるので、車の中に置いてあった鞄を取りに行ったら車のドアが変です。壊れています。あれれ?と思ったら車の中に置いてあったモノが全てなくなっていました。多少の現金の入った財布も鞄に入れていましたが、鞄ごと無くなっていました。「泥棒」です。すぐに近所の交番に行き、被害届を出す相談をしたら交番では届け出ができないとのことです。仕方なく、やや離れたところにある警察署に行って詳しい被害届を書きました。 手術明けで疲れていたのですが、そんなことを言っている場合ではありません。色々と調べられました。私の指紋も採られました。車を調べてくれると思ったら、壊された鍵などを見るだけでした。犯人を捜査してくれると思ったのですが、被害金額が少額でしたので、捜査などしてくれません。 それから数日後、車の中にあった金目の物(と言っても現金と切手だけですが)以外は全て近所の道路にぶちまけてあったと交番から報告がありました。鞄も返ってきましたが、道路上にあったのでボロボロになっていました。 これ以降、車の中には金目の物は絶対に置かないようにしています。 3.今から、20数年前、新橋駅近くの中華料理店で食事をした時のことです。 食後、小用のため席を外しました。自席に戻ったら置いていたカバンがありません。散々、探したのですが出てきませんでした。 意気消沈してアパートに帰りました。中には手術予定が記してある手帳や手術用のノートが入っていました。カバンは革製で買ったばかりでした。 それはともかく、前述の1. 2. の事象と違って、このカバンの中には「金目のもの」は入っていませんでした。しかし私にとっては、とても大切な手術ノートと手帳が入っていました。 写真:当時盗まれた鞄に入っていた「手術メモ」(手術の「勘どころ」が書いてあります) 他人にとっては「無価値」ですが、私にとってはとても大事なメモです。 一応、交番に届け出たのですが「盗まれた」と言ってもまともに取り合ってくれませんでした。大金が入っていたわけではないからです。意気消沈して家に帰りました。そうしたらその晩、 「お前のカバンを“拾った”から取りに来い」 という電話が自宅にかかってきました。 これは「ドロボウ」からの電話だと直感しました。カバンは落としていません。カバンは新橋の中華料理店で私の席に置いていたのです。カバンが勝手に動くわけがありません。「カバンを取りに来い」と言っていますが、ドロボウの家に行くのも怖い話です。それはともかく、ここが一番肝心なのですが、なぜドロボウが私の家の電話番号を知っていたのでしょうか? 実は、私は手帳を開くとすぐに目がつく場所に 「この手帳はわたしにとってとても大切なモノです。拾った方には5000円を差し上げます」 と記し、横に自宅の電話番号を書いておいたのです。 カバンを盗んだ泥棒は、あまり高価では無さそうなカバンを換金するよりも、現金5000円をもらえる方を選んで私のところに電話をかけてきたのだと感づきました。 電話がかかってきたのは、日曜日の夜中でした。誰か一緒に行ってくれる人を探すような時間ではありません。1人で行くのは怖いので、呼ばれた泥棒が住んでいる住居近くにある交番に相談に行きました。しかし、警官は取り合ってくれません。 仕方なしに1人で5000円を持ってドロボウ宅に赴きました。無事、カバンはドロボウ宅に鎮座していました。5000円を渡し(泥棒に追い銭)すんなりとカバンを返してくれるかと思ったら簡単ではありませんでした。「カバンを無くしたのは、お前(望月)に悪いモノが付いているからだ。だから、私(ドロボウ)が信心している宗教に入信しろ、信心したらそういう悪いことは起きない」などと、延々お説教が始まりました。盗人猛々しいとは正にこのことです。 内心「ドロボウがナニヲイウカ」と思っていました。しかしカバンとカバンの中に入っている手帳と手術ノートが大事です。1時間近くドロボウのお説教をおとなしく聞いて無事カバンと共に家に帰りました。お説教を聞いていた1時間本当に長かったです。 仏壇も買えとかなんとかかんとか言われ、話を躱すのに苦労しました。 色々と教訓を得ました。 大切なモノに「この○○はわたしにとってとても大切なモノです。拾った方には5000円を差し上げます」と書いてあると盗まれても返ってくる可能性があることを知ったのは良かったです。それ以降、大切なモノを盗まれたことはありませんが。 なお、こういう場合、警察が頼りにならないことがよくわかりました。皆さんも「他人にとっては無価値でも自分にとってはとても大事なモノ」には、 電話番号(今なら携帯電話の番号) 拾ったら幾ばくかのお金を進呈します(いくらでも良いと思います) と記すことをお試しください。なお、自宅住所は記さない方が安全です。念のため。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/08/17 前回より続きます。「コレラからコロナを考えよう」という主旨で書いています。 前回、スノー医師の主張を受け入れ「1854年9月8日井戸Qは閉鎖され、使われなくなった」と記しました。 その後、スノー医師の予想が当たり、ソーホー街でのコレラ患者は激減しました。 1854年8月28日に始まったソーホー街でのコレラ禍は9月8日に収まったのです。 この間、11日。鮮やかに収束しました。 COVID-19もこのように収束できれば良いのですが、なかなか難しいでしょう。ウイルスはとても「厄介」で複雑です。前々回、チフスの健康保菌者だった「チフスのメアリー」のことを記しました。COVID-19も健康保菌者が問題です。 つい最近出た中国からの論文(文献8)によると、なんと無症状COVID-19保因者の方が、有症状のCOVID-19保因者の方より長くウイルスを排出しているのだそうです。NATURE MEDICINEに掲載された論文です。これがCOVID-19の特徴だとすると、COVID-19の蔓延を止めるのは極めて難しいです。COVID-19が広がるのを防ぐには、韓国、台湾などが行っている「徹底したPCR検査」を行って、無症状COVID-19感染者を見つける必要があるのかもしれません。まだその点議論があり、定まっていません。 歴史には転換点があります。前回紹介した「井戸Qを1854年9月8日に閉鎖したこと」も歴史の転換点の1つです。大きな転換点です。それまでに信じられていた「瘴気説」を覆し、「科学の目」で感染症を征圧した記念日と言っても良いかもしれないです。 なお、スノー医師だけで、この偉業「コレラ患者が激減」が成し遂げられたわけではありません。 ソーホー街の担当をしていたホワイトヘッド副牧師の協力があって、初めてこの偉業は成し遂げられました。スノー医師が仮説(井戸Qの水がコレラの原因)を立て、それをきちんと証明したのがホワイトヘッド副牧師です。 スノー医師の仮説を、その原因まで確かめたホワイトヘッド副牧師 ホワイトヘッド副牧師(Reverend Henry Whitehead:1825-96)は、オックスフォード大学リンカーン校出身で英国国教会に所属していました。大学を出て最初に就職したのが、ロンドンのソーホーにある聖ルカ教会で、そこで副牧師(下級司祭ともいう)となっています。ソーホー街の人びとにとって、彼がこの地にある教会に勤務していたのは僥倖でした。 ちなみに、日本に聖路加国際病院がありますが、聖ルカが由来です。聖ルカは「医師」であったので医師の守護聖人とされています。それゆえに、聖ルカを冠した病院は世界中にあります。つまり医業と関係が深いのです。 ホワイトヘッド副牧師がこの、医業と関係の深い聖ルカ教会に勤務していたのも何かの因縁かもしれません。ホワイトヘッド副牧師は人付き合いが良く、教区の人びとに親しまれていました。後にこれが役立ちます。 さて、そんなホワイトヘッド副牧師の出番は、井戸Qの閉鎖からしばらく経ってからです。ソーホー街のコレラは井戸Qの閉鎖で収束しましたが、井戸水原因説に納得いかない人びとは「瘴気」を探すべく、調査をしていたのです。あちこちの瘴気(匂い)とコレラを関係づけるために、膨大な公的調査をしています。当たり前ですが、まったく見当外れでしたが、「見当外れ」という結果が残っただけ、良かったと愚考します。調べて「記録」したから見当外れであることがわかるのです。一番悪いのは「調べていないこと」、あるいは「調べても記録を残していないこと」です。 今、コロナが流行っています。さまざまな流行原因についての推論、議論、そしてその検証がなされています。リアルタイムにそれを見ていますが、まだ、本当に何が起こっているかわからないです。 コレラの話に戻ります。 とにもかくにも、ソーホー街のコレラは収束しました。それで「良かった、良かった」で終わらなかったのが凄いのです。今でも、何となく事が収まるとよく原因を追及もせずに「良かった、良かった」で終わってしまうことも多いのですが、当時のロンドン市民に感謝しないといけません。 当時のロンドン保健衛生担当者は「瘴気説」です。地元の人びと(ソーホー街教区)は瘴気では説明がつかず、スノー医師の言うこと(井戸水がコレラ蔓延の原因)が正しいかもしれないと思い始めていましたが、ロンドン保健衛生担当者は聞く耳を持たなかったのです。 ソーホー街の教区役員(注:今の日本なら自治会でしょうか?)はスノー医師、ホワイトヘッド副牧師達に声をかけ、自分たちで調査を始めました。日本で自治会がコレラの調査をするでしょうか? まったく想像がつかないです。それだけ、自分達の住んでいる地域に蔓延したコレラに対する恐怖が強かったのかもしれません。 「井戸Qの水を飲んでいた人」は確かにコレラに罹っていた 当初、ホワイトヘッド副牧師は、スノー医師の「コレラ蔓延の原因は井戸水にある」という説に懐疑的だったのです。井戸Qは永らく使われていたし、「井戸Qの水を飲んでいない人びと」もコレラで死んでいたのを教区担当者として見ていたからです(これが間違いだったことが後に判明します)。 ホワイヘッド副牧師は、教会で信者に教えを説くとき、信者を見渡すと何故か独居して貧乏で痩せ衰え困窮していると思われる人が多く生き残っているのに気づいていました。 普通の病気なら、裕福で栄養状態の良い人が生き残る筈なのに、ソーホー街で発生した、この年のコレラは違ったのです。何となく変だと思っていたのです。 教区の調査会(今なら自治会調査会とでもいうのでしょうか?)が始まり、ここがホワイトヘッド副牧師の偉いところなのですが、住民や元住民(コレラが発生してすぐに多くの住民が逃げ出していた)に手紙を書いて調査をしたのです。帰ってきた返事が約500通といいますから、それほど凄い数の手紙を書いたのです。 それでわかったことは 「井戸Qの水を飲んでいた人」は確かにコレラに罹っていた 「井戸Qの水以外の水を飲んでいた人」もコレラに罹っていた の 2点でした。1.はスノー医師の仮説と一致します。2.は一致しません。しかし、ここもホワイトヘッド副牧師の偉いところなのですが、「井戸Qの水を飲んでいないのにコレラに罹った」人の調査をしたのです。その結果、恐ろしいことが判明したのです。「井戸Qの水を飲んでいない」と言っていた家族の話を良く聞いてみると、それら家族の「水汲み仕事」は「子供達の仕事」で、生き残った子供達に聞くと、「井戸Qの水を飲んでいない」と言っていた家族も実際には子供達が「井戸Qの水」を汲んでいました。「井戸Qの水を飲んでいない」と言っていた家族でコレラを発症した人も、実は子供達が汲んできた井戸Qの水を飲んでいたことがわかったのです。 これで、謎が解明されました。 実際にホワイトヘッド副牧師が計算してみると、井戸Qの水を飲んでいなかった人のコレラ発症率は1/10だったのです。 ホワイトヘッド副牧師が見つけた、コレラ井戸Q原因説を裏付ける「証拠」 井戸Qの水が怪しいことは解りましたが、元々ホワイトヘッド副牧師もこの井戸Qの水を好んで飲んでいたのです。井戸Qの水は、澄んでいて人気がありました。その井戸Qの水が、ある日を境にコレラ発症原因になると言われても合点がいきません。しかも井戸Qは、すでにロンドンの舗道委員会が調べていて、壊れてもいないし、井戸水を汚すような汚水が流れ込むような構造ではないことも確かめていたのです。 汚染されていない井戸水が急にコレラの原因になるなら、地下水からコレラの原因が湧き出たのでしょうか? 変です。ホワイトヘッド副牧師は困ってしまいました。スノー医師の言う「コレラ井戸Q原因説」を裏付ける証拠がないのです。 しかし、その「解答」は、なんと、スノー医師の論文から得られたのです。 スノー医師は「コレラ患者の何らかの排泄物が井戸Qに入り込んだ可能性」と「平常時の井戸Qの水は何も問題が無いこと」を論文に記していました。ホワイトヘッド副牧師は「コレラ患者の何らかの排泄物が井戸Qに入り込んだ可能性」を調べるために、原点に戻ってコレラ発症歴を見直しました。 ソーホー街のコレラは、前回紹介したように「1854年8月28日、午前6時、ソーホーブロードストリート40番地に住むルイス家の赤ん坊が嘔吐と下痢をし始めたのが始まり」でした。 ホワイトヘッド副牧師はそのルイス家に赴き、赤ん坊がコレラに罹ったときの状況を母親から聞き出しました。コレラに罹った赤ん坊の便で汚れたおしめを洗った水を井戸Qの横にあった「汚水溜め」に流したことを突き止めたのです。 井戸Qがやはり怪しいと思ったホワイトヘッド副牧師ですが、すでに井戸は調査され、問題無いとされています。ここで普通の人なら止まってしまいますが、彼は普通の人ではなかったのです。 ホワイトヘッド副牧師が悩んでいたちょうどこの時、スノー医師が論文を持ってきました。それには「井戸Qの水は外的要因でコレラの原因物質が入り込んだのではないか?」という推論が書かれていました。 それを読んだホワイトヘッド副牧師は「井戸Q」と井戸Qの側にある「汚水溜め(最初にコレラに罹ったルイス家の赤ん坊のおしめを洗った水を捨てた場所)」との関係に思い至ったのです。そして、これが凄いのですが、実際に汚水溜めと井戸Qの両方を同時に調べたのです。こういうところが、常人と違います。調べたら、恐ろしいことがわかりました。汚水溜めには裂け目があり、貯まった汚染水が井戸Qに染み出していたのです。 これで全ての輪がつながりました。スノー医師の「推論」が確かめられたのです。長年にわたって飲まれていた「井戸Qの水」自体に問題はなかったのです。汚水溜めと井戸Qを結ぶ「裂け目」がソーホー街にコレラが蔓延した原因であり、井戸Qの閉鎖でコレラが収束した要因でした。 汚水溜めの使用を止めて、汚水溜めを修復して、井戸Qに汚水が流れないようにすれば、井戸Qの水は普通に飲めたのです。スノー医師の推論を、その原因まで確かめたホワイトヘッド副牧師の功績は大きいのです。 これは以前も紹介したスノー医師が書いた「コレラによる死亡者をプロットした地図」です。この地図はスノー医師の苦心の賜物です。どこそこに何名と書いていたら平面的で解りづらいので、死亡者の数に応じて黒いマスを増やしたのです。こうすることで、どこでどれだけのコレラ死亡者がいたかが、直感的にわかるようになったのです。平面的理解を立体的に、直感的にわかるような地図を考案したのです。こうすることで井戸Qの側ではコレラ死亡者が多いこと、井戸Qの側だけれど死亡者が少ない施設(救貧院、ビール工場)が誰にでも解るようになったのです。 そしてそれを裏付けたのが、くどいようですが、ホワイトヘッド副牧師です。地元のことを熟知し、皆に好かれていたホワイトヘッド副牧師がいてこそ、「疫学の始まり」である「ソーホー街コレラの収束」が歴史に残ったのです。ホワイトヘッド副牧師は医学を学んだことはありません。だから予断を持たないで冷静に分析できたのかもしれないです。 この文章を書いている時点でCOVID-19の収束はまったく見えません。2020-07-24で世界中のCOVID-19感染者は1500万人を越えています。「コレラからコロナを考えようという」主題で文章を書き始めたのが、2020年の2月でした。現代の「スノー医師」「ホワイトヘッド副牧師」が現れて鮮やかにCOVID-19を収束させて欲しいと心より思いつつ、この主題で検討は終えたいと思います。 個人的には引き続き情報を集めて、検討を続けます。いつの日か笑顔で「COVID-19」の収束について書くことができれば良いなと思っています。 なお、今さまざまな「専門家」の方がCOVID-19について、研究、検討、疫学、治療法の確立、ワクチン開発、治療薬の開発などを行っています。実は「新しく現れた病気の専門家(平たく言えばCOVID-19の予防法、治療法、的確な診断方法など全般に通じている方)」はまだいません。 誰でもできる予防方法をいくつか列挙します。参考になれば幸いです。 COVID-19 誰でもできる予防方法 手を洗う。 コロナウイルス(正確にはSARS-CoV-2)が人体に入る箇所は3つあります。 (1)口 (2)鼻 (3)目 の3箇所です。手をできるだけ口より上に持っていかないことが必要です。もちろん目が痒くなったり、鼻がむずがゆくなったりするでしょう。その際は、きっちりと手の消毒(アルコール or 石けん)を行ってから、手を目や鼻、口元へ持っていきましょう。これだけで随分と違います。 コロナウイルス(SARS-CoV-2)は感染すると唾液に大量に現れます。他人の唾液が自分の目、鼻、口に飛ばないようにすることが必要です。無症状感染者(SARS-CoV-2を排出しているが発症していない)も多いので、自覚症状は無くても自分の唾液が他人に飛ばないようマスクをしましょう。会食するときはできるだけ横並びで食べるようにしましょう。向かい合って食べる場合、唾液が飛ばないように注意しましょう。 糖尿病、高血圧など持病の治療を受けることも必要です。COVID-19はサイトカインストームという全身の反応を起こすと重症化します。血管に障害を生じやすい糖尿病、高血圧などの治療がきちんとなされていない状態でCOVID-19に罹ると重症化しやすいので、現在治療中の方はぜひ主治医と相談してください。 喫煙している方はこれを機会に禁煙をしてください。喫煙者は非喫煙者に比して約2倍、COVID-19に罹りやすく、罹った場合の死亡率も非喫煙者に比して高くなります。 いわゆる「夜の街」では、喫煙、アルコール多飲、唾液が飛びやすいなどの条件が重なりやすいので注意が必要だと思います。 以上です。 1人1人の自覚で予防できることがあります。COVID-19が収まるまで頑張りましょう。 余談 コレラ菌はロベルト・コッホが発見したと思われていましたが、イタリア人医師フィリッポ・パチーニ(Filippo Pacini、1812年-1883年)の方が先にコレラの原因菌を発見し、「Vibrio cholerae」と名付けていました。論文にしたのが1854年です(文献9,10)。1884年にロベルト・コッホがコレラの原因菌を発見する30年前です。1854年はソーホー街でスノー医師、ホワイトヘッド副牧師がコレラを制圧した年でもあります。コレラの歴史で1854年は特別ですね。 コレラ菌の学名は、当初コッホが命名した「Vibrio comma」が使われていましたが、イタリア人医師フィリッポ・パチーニが先に見つけていたことがわかり、現在の正式名称は「Vibrio cholerae」となっています。 ちなみに「Vibrio」とはラテン語で「動き回る」を意味します。コレラ菌はよく動くのです。 パチーニが作ったコレラ菌の標本(University of Florence, Museum of natural History, Biomedical section所蔵)に書いてある言語はイタリア語です。イタリア語の解読についてはフランス在住の言語学者小島剛一氏よりご教示いただきました。氏に拠りますと「判読できない文字があるため正確な翻訳はできませんが、大体次のような内容になる」そうです。なお、「ʃ」は「s」の古い筆記体とのことです。 1.左側の筆記体の文字 Colera →コレラ Aʃiatico →「アジア系の」 Oʃʃerva□□ →観察□□ 2.中央の上の活字 Metodo di Filippo Pacini →フィリッポ・パチーニの手法 3.右側の筆記体の文字 Corroʃioni ʃuperficiali della mucoʃa della parte media de l’inteʃtino tenue →小腸の中央部の粘膜の表層部の浸蝕 【参考文献】 野村裕江 (著)「江戸時代後期における京・江戸間のコレラ病の伝播」地理学報告 79巻 p1~20 スティーヴン・ジョンソン (著)「感染地図」河出書房新社 (2007年刊) Isabel Rosanoff Plesset著Noguchi and His Patrons Fairleigh Dickinson Univ Pr (1980/10/1) 邦訳もあります。 ウェンディ・ムーア (著)、 矢野 真千子 (翻訳)「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」河出文庫、2013年 Frerichs RR et al. Nepalese origin of cholera epidemic in Haiti. Clin Microbiol Infect. 2012 Jun;18(6):E158-63. 石 弘之 「感染症の世界史」角川ソフィア文庫 金森修 「病魔という悪の物語(チフスのメアリー)」ちくまプリマー新書 2006年 Long QXら、Clinical and Immunological Assessment of Asymptomatic SARS-CoV-2 Infections。 Nat Med. 2020 Jun 18. doi: 10.1038/s41591-020-0965-6. Filippo Pacini:Osservazioni microscopiche e deduzioni patologiche sul cholera asiatico. Gaz Med Ital Toscana. 1854; 6: 397-405 D Lippi:The greatest steps towards the discovery of Vibrio cholerae、Clin Microbiol Infect . 2014 Mar;20(3):191-5 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/07/27 45年という短い人生で多種多様なことを成し遂げたスノー医師 前回より続きます。 1854年8月のロンドン、ソーホー街でのコレラを収束させたスノー医師とホワイトヘッド副牧師の話です。 最初にスノー医師を紹介します。 スノー医師は、45年という短い人生で多種多様なことを成し遂げています。苦労人というか、たたき上げです。いわゆるエリートではありません。 スノー医師は、ヨークシャーの労働者の長男として生まれます。14歳の時にニューカッスル・アボン・タインの外科医に弟子入りします、この外科医修行中に1831年のイギリスコレラ禍を体験。コレラを研究する契機になったとされています。 当時のイギリスで「医師」になるには3つの方法がありました。 薬剤師に弟子入りし、薬剤師協会から「医者の処方する薬を処方することや簡単な外科処置を行うことができる」許可を得て医業を開業する方法 薬剤師さん+αのような職業形態があったのですね。 医学校に進学、王立外科医師会の認可を得て「一般開業医」「外科医」の資格を得る方法 大学に進学し、「医学博士」の称号を得て「内科医」の資格を得る方法 の3つです。もちろん3.が一番良いのですが、簡単では無いです。費用もかかります。 スノーは最初に外科医に弟子入り、次に2.を選択、ハンテリアン医学校に進学「薬剤師」と「外科医」の資格を得て、ロンドンでクリニックを開業します。彼は無口で愛想も悪かったのですが、病気の観察力には優れたものがあり、患者さんが多く訪れるようになり、経済的に成功します。 彼はそれだけでは収まらず、26歳から医学論文を書き始め、最初の論文は「LANCET」に掲載されています。以後、10年にわたり毎年平均5編の論文を投稿しています。天然痘、血管病、猩紅熱など内容は多岐にわたっていました。さらに上を目指し、30歳にしてロンドン大学で「医学士」の学位を取得、翌年難関の「医学博士試験」に合格しています。念願の「内科医」の資格を得たのです。1844年のことです。 普通ならここで終わりですが、彼は更に別なことにチャレンジします。それは「麻酔」です。 麻酔は色々とその創始者について言われています。歯科医師であるホーレス・ウェルズ、歯科医師であるウィリアム・T・G・モートン及び、医師のロングです。加えれば、日本人医師華岡青洲も創始者かもしれません。ここでは深入りしません。論文で確かめられるのはクロウフォード・ウィリアムソン・ロング(Crawford Williamson Long、1815年-1878年)です。彼が世界で最初に全身麻酔を行っています。1842年3月30日のことです。ジョージア州ジェファーソンという街でのことです。患者ジェイムズ・M・ベナブルの頸部腫瘤を、エーテルガスを用いた全身麻酔を行って、ロングは切除しました。そのことを後に論文にしています。 その後、エーテル、笑気、クロロホルムなどが「全身麻酔」に使われるようになりました。その全身麻酔の創始期にスノー医師は居合わせたのです。ガスによる全身麻酔は、今でも何故「効くのか」わかっていません。不思議な話です。 それはともかく、当時、様々なガスによる全身麻酔が最初はアメリカから、そして世界中に広まります。そういう時代にスノー医師は「全身麻酔」を積極的に取り入れました。当時、エーテル、笑気、クロロホルムなどのガスが使われましたが、どういう濃度のガスを使えば効果的か不明でした。スノー医師はこの濃度を研究したのです。 スノー医師がなした麻酔学への貢献を挙げます。 エーテルは温度に影響されるので室温とエーテル濃度の関係を明らかにしました。 エーテル濃度を調整する器具を作成しました。 1947年、32歳で世界最初の「麻酔専門医」になっています。 そしてエーテルやクロロホルムも使用した麻酔を英国に広めます。ついには当時のビクトリア女王の出産の麻酔を依頼されるようにまでなっています。凄いですね。 彼は麻酔に関する実験は全て自分を使っていました。自分で自分に麻酔をかけています。危ないですね。彼は自宅に動物をたくさん飼っていました。動物を使って実験し、自分にも様々な濃度の麻酔をかけて、どれくらいで麻酔が効くか、その持続時間はどれくらいか調べていたのですね。意識が無くなる直前に時間を記し、意識が戻った時間を記し、どういう麻酔が1番効くか実験していたのです。彼の学んだハンテリアン医学校の創始者、ジョン・ハンターに似ています。というか、ハンターの教えを忠実に守ったのでしょう。 スノー医師が行ったコレラの「実地調査」と「統計調査」 普通の医師なら、王室に出入りできるようになったら、それで満足します。しかし、彼は満足しません。今度は、徒弟時代に経験した「コレラ」を研究することにしたのです。スノーは「多能」で「勤勉」でした。スノー医師の多能さがロンドン市民を救うことになったのです。 スノー医師が行ったのはコレラの「実地調査」と「統計調査」です。 「実地調査」とはコレラの流行った地域、場所を調べること、その場所の「水道、下水道、ゴミ、etc. 」の状態を調べることです。 「統計調査」とは、コレラの発症人数、多発する地域、多発する季節などを調べることを指します。 ここでも「記録」が物を言います。ロンドンにはそういう調査記録があったのです。 それを分析し、どうやらコレラ患者はロンドン市の南には少ないこと、空気の良い上流階級が住む高地でもコレラが発症することなどから「コレラは水を介して伝染する」と気づき、そのことを1849年に「コレラの伝播様式について」という論文にし、自費出版しています。 麻酔医として働きながらの研究です。凄いことだと思います。元々は「外科医」でそれから「内科医」となり、世界初の「麻酔科専門医」となり、麻酔科医としてとても忙しく働きながら、夜には時間を作ってコレラの研究も行っていたのです。「二兎を追う者は一兎をも得ず」と言いますが、彼には当てはまらなかったのです。 この論文から5年が経った、1854年、ロンドン、ソーホー街でコレラが流行り始めます。 最初は1854年8月28日、午前6時、ソーホーブロードストリート40番地に住むルイス家の赤ん坊が嘔吐と下痢をし始めたのが、コレラの始まりでした。汚れたおしめを洗った水をブロードストリートにある「汚水溜め」に流したのです。こういう「記録」が残っていたのです。この赤ん坊から始まるロンドンソーホー街のコレラの発症状態、発症場所、発症した家族の状態などが記録されていたのです。後にこれが役立ちます。 さて、話は戻ります。 ソーホー街はスノー医師のクリニックのすぐ側です。当然、スノー医師はこれらの「実地調査」を行います。彼の予想に反して、ソーホー街で使っている水はきれいでした。スノー医師も「あれ?おかしい? 水はきれいだ?」と思ったことでしょう。ソーホー街で使われている井戸水を自宅研究所に持ち帰り、顕微鏡で見たりもしていますが、何もわかりませんでした。 しかし、ソーホー街にあったある井戸Q(仮称)に彼は注目します。 ソーホー街にある貧しい人が暮らす救貧院ではコレラが発症していないこと 同じくソーホー街にあるビール工場の職員にはコレラが発症していないこと 「ある井戸Qの水」を飲んでいる人にコレラが多く発症していること 美味しい水と評判だった井戸Qの水を遠くまで届けている家があり、届けた先でコレラが発症していること ビール工場、救貧院には自前の井戸があり、井戸Qを使っていなかったこと などがスノー医師には解ったのです。もとより「コレラは水を介して伝染する」と主張していたスノー医師は、ソーホー街の教区役員会に「井戸Qの使用禁止、井戸Qの閉鎖」を提案。 1854年9月8日、この井戸Qは閉鎖され、使われなくなったのです。 その後、ソーホー街でのコレラ患者は激減したでしょうか?それとも逆に増えたのでしょうか? ホワイトヘッド副牧師の役割はなんだったのでしょう。 以下、次回へ続く。。長くなり、申し訳ないです。 【参考文献】 野村裕江著 「江戸時代後期における京・江戸間のコレラ病の伝播」地理学報告 79巻 p1~20 スティーヴン・ジョンソン (著)「感染地図」河出書房新社 Isabel Rosanoff Plesset著Noguchi and His Patrons Fairleigh Dickinson Univ Pr (1980/10/1) 邦訳もあります。 ウェンディ・ムーア (著), 矢野 真千子 (翻訳)「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」河出文庫 Frerichs RR et al. Nepalese origin of cholera epidemic in Haiti. Clin Microbiol Infect. 2012 Jun;18(6):E158-63. 石弘之「感染症の世界史」角川ソフィア文庫 金森修「病魔という悪の物語(チフスのメアリー)」ちくまプリマー新書 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/07/13 記録の大切さを考えよう 前回より続きます。 病気の広がり、発症要因を探るのが「疫学」です。疫学とは違いますが、皆さんが医療機関を受診すると、以下のようなことを聞かれるかと思います。 最初に「どうしました?どういう症状があるのですか?」と聞かれますね。その後、 いつから症状が出ましたか? どういうときに症状が出ますか? 食事と関係がありますか? 天気、気温などで症状が変わりますか? 痛みが出るなら、どういう痛みですか? 外国旅行をしたことがありますか?あるなら,どこの国でしょうか? 他に、病気の治療を受けていますか? これまでに他の病気にかかったことがありますか? 何か、特別なモノを食べなかったでしょうか? など、根掘り葉掘り話を聞かれると思います。これを「病歴」と言います。 病歴をきちんと聞き出すのが医療の基本です。上記1-7のような「病気の歴史」を聞き出すのが病歴です。オスラー医師(William Osler, 1849- 1919)は、 "Listen to the patient. He is telling you the diagnosis" 「患者さんの言葉を良く聞きなさい。患者さんは、あなたに診断を告げている」 という有名な言葉を残しています。 ノーベル賞受賞者のバーナードラウン医師の著「治せる医師、治せない医師」にも病歴を聞くことの大切さが繰り返し述べられています。 病歴を聞き出すことは「疫学」に似ています。いつから、どのように、どういう時に、を聞き出すのは患者さんを「疫学」していると言っても過言では無いと思います。逆に言えば「疫学とは“病気の病歴”を聞いている」のだと思っています。それには「記録」が必要です。 「記録が語りかける病歴を聞き出すのが疫学だ」 「病気が語りかける病歴を聞き出すのが疫学だ」 とも言えます。 今、様々なことで、「記録」が話題になっています。医師にとって「記録」をしないことはあり得ないので「記録を残す、残さない」という議論自体が不毛だと思っています。ちなみにカルテ(医療記録全般)には5年間の保存義務があります。 病歴には“歴史”の“歴”の字が入っています。さて、歴史とはなんでしょうか? 古くからある記録を紐解いて、その時代に何が起こっていたかを解き明かす学問です。 古くからある記録の内で、わかりやすいのは文字による記録です。文字が無い時代の記録は「当時使われていた道具」でしょう。道具から色々なことを推測できます。 それはともかく、COVID-19が蔓延している今、様々な記録を残すことが必須だと思います。捨てて良い記録などあり得ません。くどいようですが、COVID-19についてわかっていることはまだ少ないのです。わかっていないことを分析するには記録が必要です。今現在起こっていることを丁寧に記録することが将来の分析に必須です。記録がなければ何も考察ができないからです。 前回示した「各国別の死亡率の違い」も、その違いを合理的に説明できる理由がわかるまでは分析を続けることが必要です。 理由が判明するまで、まだ時間がかかりそうです。こういうときは、すべての記録を残すことが基本で、記録が残っていればいくらでも検討できます。記録をしないで、記憶だけで物事の検討、検証はできません。COVID-19のような感染症を考察するには医療記録だけでは足りません。様々な記録が必要です。「どんな記録が必要か必要でないかは後世が判断すること」です。 「健康保菌者」という概念の始まり COVID-19の話から外れます。 記録がいかに大切かを端的に示す例をお示ししましょう。一見すると病気とは関係のない記録が病気の分析治療予防に役立った顕著な例です。これを読めば「どんな記録も必要」ということがわかると思います。 それは「チフスのマリー」と称された「チフス菌保菌者」発見に関する話です。 1906年ニューヨークに隣接するロングアイランド市でチフスが発生しました。この時、チフスの原因を究明したのが衛生工学の専門家ジョージ・ソーパー(George Albert Soper, II 1870-1948)でした。 彼は医学を学んだ専門家ではありません。元は土木技術者です。主に水道関係の専門家でした。水道を整備することで多くの感染症が減ったからでしょうか?彼は衛生の担当者になります。そして1906年当時このチフスの発生原因追求を依頼されています。彼はチフスが発生した家の周囲の水道、河川、湖、周りの土地を徹底的に調べたのですがどこからもチフス菌は発見できません。 ソーパーが次に行ったことは、チフスが発生した家の方からの聞き取り調査です。そこでわかったことは、その家で雇った賄婦メアリー(Mary Mallon、1869-1938)のことでした。メアリーが来てからチフスが発症したのです。 そこでソーパーはメアリーの「職歴」を調査しました。くどいようですが病歴の調査と一緒ですね。メアリーの職歴はきちんと残っていました。彼女は10年間に8家族に雇われ、そのうちなんと7家族でチフスが発症していたのです。 それに気づいたソーパーはメアリーに彼女の糞便、尿、血液を検査することを頼みましたが、これは断られています。これは当然だと思います。いきなり糞便やら尿やらを調べさせろと言われても、びっくりしてしまいますね。 メアリーはチフスを発症していません。彼女は「健康保菌者」だったのです。メアリーは排便後に良く手を洗わないこともあり、その手で調理をしていたので料理にチフス菌が付いて、それを食べた人が「チフス」を発症したのです。 当時、健康保菌者という概念はありません。結局彼女は、その後の生涯のほとんど20数年間をニューヨークの沖合にあった病院で過ごすことになります。 メアリーからすれば、彼女は健康ですので、なぜ幽閉されなければいけないのかわからなかったと思います。かわいそうな話です。彼女は「チフスのメアリー」というあまりありがたくない名前を与えられ、ソーパーと共に医学の歴史に名前が残りました。 この話から色々な教訓が得られると思います。 当時のアメリカの職歴の素晴らしさです。 メアリーの職歴が残っていなければ、チフスはさらに広がっていたことと思います。私がCOVID-19のことで、色々な記録すべてを残すことを提案しているのはこういうことがあるからです。 COVID-19でも話題になっている「健康保菌者」という概念がここから始まりました。 メアリーの時代から100年は経っていますが、今でも健康保菌者をどうしたらいいかと いうのはコンセンサスが得られていません。COVID-19でも同様です。中国や韓国では、 PCRでSARS-CoV-2が陽性だと、症状が出ていない人をホテルなどに強制的に収容しまし た。日本でももちろん同様な措置を取るようにホテルなどを用意しましたが強制力はな くその効果は疑問視されています。PCR検査を「症状が無い人」に行うことにも議論があります。難しい話です。 病気が発症した時、その病気の経過広がりを調べることで病気の原因を発見する可能性があります。 これはよく覚えておいたほうがいいと思います。医療に関係無い方の方がかえって、物事をフラットに見ることができるのかもしれないです。 1854年、ロンドンのソーホーでコレラが流行った時も「記録をとり続けた人」「記録を分析する人」がいて初めて収束しました。とにかく記録がないと何もわからないのです。 さて、1854年8月のロンドン、ソーホー街でのコレラを収束させたスノー医師とホワイトヘッド副牧師の話に移りましょう。 ジョン・スノー医師(John Snow:1813年-1858年:享年45歳) ホワイトヘッド副牧師(Henry Whitehead:1825年 - 1896年:享年60歳) の2人です。 スノー医師とホワイトヘッド副牧師は、育った場所も学歴も職歴もかけ離れています。コレラが無ければ、2人の人生は交差することも無く、医学の歴史に名を残すことも無かったでしょう。 スノー医師ばかり名前が取り上げられますが、ホワイトヘッド副牧師がいて初めてコレラ収束のピースが埋まるのです。 2020年6月16日、TVでスノー医師が紹介されていましたが、やはりホワイトヘッド副牧師は紹介されていなかったと思います。気がついた時はテレビの番組は終わりかけていました。番組はスノー医師を取り上げていたのは確かです。慌てて写真を撮ったのですが、なぜかナイチンゲールの話になっていました。 次回では最初にスノー医師を紹介します。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/06/29 病原性細菌の発見競争の始まり 前回より続きます。 「コレラからコロナを考えよう」という主旨で書いています。 前々回でコッホが細菌を発見し、コッホの4原則を確立したことをお伝えしました。 コッホが細菌により「病気」が生じることを発見してから、ゴールドラッシュのような「病原性細菌の発見競争」が始まり、実に多くの病原性細菌が見つかりました。 少しだけ挙げてみましょう。 炭疽菌:1876年にコッホが発見した病原性細菌です。世界で最初に見つかった「病原性細菌」です。 結核菌:同じくコッホが1882年3月24日に発見(発表)しています。コッホが結核の研究を開始したのは1881年8月18日であり、結核菌の発見の講演を1882年3月24日にを行ったのです。 コレラ菌:本シリーズで扱っている菌です。1883年にコッホが発見、病原性を確かめています。しかし、1854年:イタリア人医師フィリッポ・パチーニが先に発見していたため、現在、コレラ菌の学名はパチーニ医師が命名した「V. cholerae」に改名されました。 腸チフス菌:1880年:カールエルベルトが発見 ジフテリア菌:1883年クレプスE.Klebsが発見、1884年レフラーが培養に成功 破傷風菌:1889年にエミール・フォン・ベーリングと北里柴三郎が培養に成功 赤痢:1898年、志賀潔が発見、赤痢菌の学名は “Shigella”です。「シガ」に由来します。 ペスト:1594年、北里柴三郎とアレクサンドル・イェルサン(Alexandre Yersin)が同時期に香港で発見、北里柴三郎はLancetに論文を投稿、1894年6月14日に掲載。その翌週、アレクサンドル・イェルサンもフランスのパスツール研究所年報に論文を発表。北里柴三郎が本来の第一発見者で、現在ではそれも認められていますが、残念なことにペスト菌の学名はイェルサンの名前が入った「Yersinia pestis」となってしまいました(参考:医療の挑戦者たち(35)ペスト菌の発見4(北里柴三郎)- テルモ株式会社)。 黄色ブドウ球菌:黄色ブドウ球菌(Staphylococcus aureus )は、歴史的にはKoch(1878年)が膿汁中に発見し、Pasteur(1880年)が培養に成功したとされています。 連鎖球菌;1873年にJoseph Listerが、酸乳から「バクテリウム ラクチス」を発見。これが連鎖球菌族発見の嚆矢だとされています。 Joseph Listerは消毒法の発見者です。 ほかにも、数多くの「病原性細菌」が発見されています。今も、発見されています。最近の有名どころでは、なんといっても「ピロリ菌」でしょう。 以下は余談中の余談です。読み飛ばしてください。 結核菌の発見は3月24日です。昔々、仲の良かった女性の誕生日が3月24日でした。その日に彼女と食事を共にしました。 彼女曰く「今日は何の日か覚えている?わかる?」 私「今日はね、、、。 あ、そうだ。コッホが結核菌を発見した日だ!」 彼女「。。。。。。。。。。」 黙ってしまいました。 もちろん、わかっていて、冗談で言ったのですが、しばらく口を利いてもらえませんでした。冗談でも言って良いことと悪いことがある。時と場合によるのです。。皆様も、是非注意を。。 今も昔も変わらない感染症対策 前回で物理の話を書きました。患者さんと接触しない、距離を保つ、密にならないことでCOVID-19の感染を防ぐのです。 図1 図1は1656年にペストがイタリアで流行した時に描かれた医師の姿です。 くちばしのようなものは今でいうマスクですね。ペストに罹患した患者さんを診察する時につけていたのです。患者さんの話を聞く際、あまり近づくと、ペストに感染しやすいと感覚的にわかっていたのでしょう。 また、長いマントのような服も身にまとっています。これは今で言う感染防御衣でしょう。ペストには「腺ペスト」と「肺ペスト」があり、一般にペストというとリンパ管を冒す「腺ペスト」です。腺ペストは、ネズミ→ノミ→人間という経路で感染が広がります。「腺ペスト」にかかった患者さんのリンパ管から漏れる体液からも感染します。 つまり、ノミ、体液から医師の身を守るため、大仰にも思える服が必要だったのです。ペスト菌が発見されたのは、それから300年後のことです。香港で見つかっています。上述しました。 下の写真2は、今回フランスが配っているマスクです、日本のアベノマスクと違い様々な形状のマスクがあるそうです。中には1656年のペストの時に医師がつけているくちばしのような「マスク」に似ているモノもあるようです。 写真2:フランスで配られたマスク 下に今使われている、感染防御衣を示しました。 写真3:感染防御衣 やっていることは300年前と少しも変わりません。というわけで今も昔も似たようなことやっています。 一昔前までは、医療機関で金銭授受をする窓口、鉄道で切符を購入する窓口など、ガラス張りの仕切りがありその下に小さな金銭授受窓口が備えてあるのが普通でした(写真4)。 「結核」を初めとする感染対策、泥棒対策だと言われています。段々とこのような仕切りのある窓口は減り、仕切りがない窓口が普通になってきていました。しかし、COVID-19対策で、窓口にはビニールのすだれが普通になり、金銭やりとりをする部分もアクリル板などで仕切られるようになってきました。以前のカタチに戻りつつあります。この流れは、一時的ではなく恒久的になると予想します。 写真4:国鉄時代の切符窓口 COVID-19とコレラの大きな違い さて、COVID-19の話に戻りましょう。COVID-19はコレラと大きな違いがあります。コレラと違って、国や地域で罹患率、死亡率が大幅に違うのです。 人口あたりの新型コロナウイルス死者数の推移【国別】 (札幌医科大学医学部 附属フロンティア医学研究所 ゲノム医科学部門) https://web.sapmed.ac.jp/canmol/coronavirus/death.html 国内でも罹患率がかなり違います。現時点(2020-06-21)で、岩手県ではCOVID-19に罹った人ゼロです。東京とは随分と違います。 下に各国別の、人口1,000,000人当たりの死亡数(2020-06-10時点)と平均年齢を示します。 国の横にある数字が死亡数、緑文字はその国の平均年齢です。平均年齢はあの有名なCIAのデータです(https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/343rank.html)。こんなデータもCIAは分析しているのですね。 ベルギー:831 (41歳) イギリス:602 (41歳) スペイン:586 (44歳) イタリア:563 (45歳) スウェーデン:475(41歳) フランス:449 (42歳) オランダ:353 (43歳) アメリカ:345 (39歳) カナダ:209 (42歳) ドイツ:105 (47歳) イラン:101 (32歳) ******** 以下、死亡率が低い国を示します ******** イラク:11 (21歳) 日本:7 (47歳) 韓国:5 (43歳) シンガポール:4 (35歳) ニュージーランド:4(37歳) オーストラリア:4 (37歳) 中国:3 (38歳) 香港:3 (45歳) 台湾:0.3 (42歳) モンゴル:0 (29歳) ベトナム:0 (31歳) 日本とベルギーでは100倍以上、台湾とベルギーでは2700倍も死亡率が違います。モンゴル、ベトナムに至っては死亡者ゼロですが、平均年齢が若いからでしょうか? 台湾はCOVID-19発症初期から、徹底した対策をとったことで有名です。最初に、阿鼻叫喚状態だった中国もいつの間にか日本より死亡率が低くなっています。総じて東アジア諸国は低いのです。一方、悲惨なのはヨーロッパと北米です。 COVID-19のように、地域差、国による死亡率が違う病気はあまりありません。この差が出ている原因を探るのが「疫学」の目的の1つです。死亡率に差が生じる原因がわかれば対策をとることができるかもしれません。そこで、今回のCOVID-19死亡率差を説明すべく様々な仮説が唱えられています。 アジア人はCOVID-19に対する免疫力が高いという人種説、地域による気候風土原因説、温度説、湿度説、紫外線の照射量説なども「仮説」として出ています。BCGを継続して接種している国は死亡率が低いのでBCG仮説が有力です。しかし、今のところ、どの説もまだまだ検証が必要です。まだ、この病気が見つかってから、半年も経っていません。わからないことだらけです。いつの日か「これだ!」と言う説が検証され、COVID-19予防、COVID-19治療に役立てば良いですね。 次回は記録がいかに大切かを端的に示す例をお示ししましょう。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/06/08 コレラ菌混じりの糞尿を飲んでしまったロンドン市民 前回の続きです。 ロンドンにコレラが流行した頃、ほとんどの「病気」の原因は不明でした。「コレラ」もコレラと命名されていましたが原因は不明でした。当時、伝染病が流行る原因として以下の2つが考えられていました。 (1)瘴気説:空気中に漂う瘴気(しょうき)が病気を広げるとする説 ヒポクラテス以来、唱えられていた説です。 現代ならば空気感染ですね。あまり知られてはいないですが、空気感染(飛沫核感染)する病気は3つしかありません。結核、水痘、麻疹の3つです。飛沫感染と飛沫核感染(=空気感染)は別物です。COVID-19は飛沫感染だと言われています。 (2)コンタギオン説:病気にかかった患者と接触することで、未知の何かが健常者に乗り移り病気を広げるという説 元はイタリア人科学者、哲学者、医師のジローラモ・フラカストーロ(1478-1553年)が唱えた説です。 病気はある種の何か「contagium vivim, contagium animatum:注:ラテン語 contagiumは病気を伝染するモノ、vivimは生き物、animatumは生き物」によって伝染するという説です。ジローラモは梅毒を「syphilis」と命名、「シフィリスとフランス病」という本を出しています。梅毒がヒトからヒトへと「伝染する」ことがジローラモには解っていたのでしょう。 この2つが考えられていて、以下のような対策が取られていました。 (1)瘴気予防対策 瘴気による病気の伝染対策として「瘴気」に触れないように、空気がきれいな場所に住む。瘴気が蔓延しないように部屋などの換気を良くする。よどんだ空気の中に身を置かないなどが予防法として知られていました。 (2)コンタギオン予防対策 病気にかかった人との接触をできるだけ避ける。病気に罹った人の使ったものを使わない、触らないなどの方法がとられました。 あれ?当時の瘴気予防対策もコンタギオン予防対策も「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)」に対する対策とまったく一緒です。今でも通用する感染症対策です。 しかし、残念なことに「コレラ」にはこれらの対策は無効でした。 1840年代ロンドンでコレラが流行した時、ロンドン衛生責任者「チャドウィック(Chadwick, Sir Edwin:1800-1890)」は「瘴気」がロンドンに蔓延しないように対策を立てました。 チャドウィックはコレラが発症している地域の下水、汚水つまり糞尿から瘴気が立ち上ると考え、下水をテムズ川に大量に押し流したのです。糞尿を大量にテムズ川に流したことでコレラが流行っていた地域の「糞尿の匂い」は消え、同時に「瘴気」も少なくなり、コレラが減ると思われたのですが、ロンドンでは逆にコレラに罹る人が急増したのです。 今ならさしずめコレラが「急増:オーバーシュート」したのです。 さてコレラ急増の原因はなんだったのでしょうか?答は簡単です。現代のように下水を処理してテムズ川に流したわけではありません。糞尿をそのままテムズ川に流したのです。かなり臭かったでしょうね。 当時のロンドンの上水道(つまり飲み水)はテムズ川の水を利用していました。当時、水を消毒するという概念はありません。テムズ川の水をそのまま取水し、それを飲んでいたのです。。 問題は水の採取場所です。当時のロンドンにはいくつか水道会社がありました。そのうち数社は糞尿を流した場所よりも下流でテムズ川の水を採取していたのです。つまりコレラ菌の交じった糞尿混じりの水を飲用に供していたのです。 その結果、ロンドンでコレラが「急増」したのです。当時のロンドン衛生責任者、チャドウィックには何が何だか解らなかったと思います。 図1:手書き図 テムズ川と上下水道 図1は当時のテムズ川の採水場所と下水の廃棄場所を図示してみました。 「ああ、これはひどい」と私たちが思うのは現代に生きる我々には「病原体と病気との関係」が解っているからです。 「病原体と病気との関係」を世界で初めて明らかにしたのは、フランスの化学者ルイパスツールです。 ルイパスツールは「白鳥の首フラスコ」による実験を行い、微生物が腐敗を生じさせることを証明しました。 普通のフラスコに入れた肉汁を一度熱し、そのまま放置すればたちまち肉汁は腐敗します。腐敗した肉汁のなかには微生物がたくさんいるのが観察されていましたが、この微生物がどこから来るのか不明でした。自然に発生するとする説、空気から微生物が運ばれてくるという説があり、どちらが正しいか解っていなかったのです。 そんな時代にパスツールは図2のようなフラスコを作り、中に「肉汁」を入れ、加熱します。 図2:白鳥の首フラスコ この白鳥のような形状をしたフラスコ内の肉汁は加熱後腐敗しなかったのです。つまり空気と接しないと微生物(=細菌)はフラスコ内に入り込めないのですね。これを発表したのが1859年。パスツールは「微生物」とだけ記しています。科学史に残る偉大な発見です。 次に登場したのがドイツ人医師コッホです。コッホが細菌感染症と細菌との関係を明らかにしたのです。 1876年、炭疽症の原因が炭疽菌であることを証明。コッホは結核菌(1882年3月24日)、コレラ菌(1883年)を発見しています。コッホの弟子は、破傷風菌(北里柴三郎)、ジフテリア菌(レフラー)、腸チフス菌(ガフキー)、赤痢菌(志賀潔)など多くの病原菌を発見しています。まさに「コッホの時代」が到来、感染症治療の大きな転換点です。 コッホは「ある微生物」が本当に「病気の原因菌」となっているかどうかの判定するために以下の原則を、1884年に提案します。「コッホの4原則」です。 原則1:ある一定の病気には、一定の微生物が見出されること 原則2:その微生物を分離できること 原則3:分離した微生物を、感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こさせうること 原則4:そしてその病巣部から、同じ微生物が分離されること 以上です。今でも通用する原則です。 次回に続く。いよいよ前々回ご紹介したコレラの流行をたったの10日で止めたスノー医師とホワイトヘッド副牧師が活躍します。 【参考文献】 文献1:野村裕江著 「江戸時代後期における京・江戸間のコレラ病の伝播」 地理学報告 79巻 p1~20 文献2:スティーヴン・ジョンソン(著)「感染地図」河出書房新社 文献3:Isabel Rosanoff Plesset著Noguchi and His Patrons Fairleigh Dickinson Univ Pr (1980/10/1) 邦訳もあります。 文献4:ウェンディ・ムーア(著),「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」河出文庫、2013年 矢野 真千子(翻訳) 文献5:Frerichs RR et al. Nepalese origin of cholera epidemic in Haiti. Clin Microbiol Infect. 2012 Jun;18(6):E158-63. 文献6:石 弘之 「感染症の世界史」洋泉社 2014年 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/05/25 物理と化学で伝染病に立ち向かおう この原稿は、2020年5月10日に書いています。ゴールデンウィーク中の「自粛」が終わり、少しずつ人出が戻っています。日本では段々とCOVID-19の発症数、死亡数が減少しています。早く収束に向かって欲しいですね。 「コレラからコロナを考えよう」という主旨で前回よりお伝えしています。そうしたら、なんと、本稿を書いていた2020年5月4日に、兵庫県丹波市の歴史を調査する「氷上郷土史研究会」の方が、同市内円通寺のふすまや屏風の下張り文書を調べていたら、その中に1877年(明治10)に流行していたコレラに関する県や内務省の通達文書を見つけた」という新聞記事を見つけました(140年前「コレラ」との闘い 通達文書発見、新型コロナと共通点多く 恐怖に震えた日本人 2020/05/04 丹波新聞)。 その「明治10年のコレラに関する通達文書」に “国境に入る他国人を、各一、検査し、コレラ病あるものは、これを適宜に所置すべきである。” “表見、健康の人たりとも、この毒を輸致することあるがゆえに、これを以て、十全の予防法とすること能はず。” と書かれているのだそうです。これはまさに今の 「ロックダウン」「患者隔離」 「無症候SARS-CoV-2ウイルスキャリアが存在することに対する注意」 と一緒です。 本稿を書き始めたとき、まさかこのような資料が出てくるとは思っていませんでした。絶対的予防法、治療法が無い「伝染病」に対する対処法は100年前も今も変わらないことがわかります。 COVID-19の原因ウイルスは「SARS-CoV-2」だとわかっていますが、原因ウイルスがわかっていても根本的な対処法はまだ見つかっていません。 現時点で医学の面から試みられている治療法、予防法は以下のごとくです。 順不同です。さまざまな試みがなされています。 1. ステロイド吸入:オルベスコ® ARDS治療? 2. 抗マラリア薬:ヒドロキシクロロキン:プラケニル® 3. 抗ウイルス薬: (1)ファビピラビル:アビガン® (2)レムデシビル:ベクルリー® (3)オセルタミビル:タミフル® (4)ザナミビル:リレンザ® (5)ロピナビル/リトナビル配合剤(カレトラ®) (6)リバビリン:レベトール®、コペガス® 4. 抗生物質:マクロライド系抗生物質:アジスロマイシン®など 5. 抗寄生虫薬:イベルメクチン:ストロメクトール® 6. 向精神薬:クロルプロマジン:コントミン® など 7. ニコチン:? 機序不明? 8. 膵炎治療薬:ナファモスタット:フサン® 9. 抗IL-6受容体抗体:トシリズマブ(アクテムラ®)、サリルマブ(ケブザラ®) サイトカインストーム治療 10. ビタミンC 11. ビタミンD 12. 漢方: 補中益気湯、十全大補湯 清肺排毒湯=麻杏甘石湯+小柴胡湯加桔梗石膏+胃苓湯 など… 13. ヘパリン:COVID-19の凝固異常に対して投与 14. ステロイド投与:サイトカインストーム ARDS対策 15. シルディナフィル:バイアグラ® NO産生 でARDS予防? 16. BCG接種:COVID-19を予防? 17. ワクチン:各種ワクチンは開発途上 18. γグロブリン製剤投与 19. 回復後患者さんの血清投与:効果あり、ただし、入手困難 20. インターフェロン投与 21. 女性ホルモン投与:エストロゲン、プロゲステロンなど、治験中 22. 人工呼吸器:呼吸不全治療 23. ECMO:呼吸不全治療 これらの単独、併用、さまざまです。一番良いのは「ワクチン」ができることですが、ワクチンの有効性、安全性を確認するには数年かかると思います。ワクチンができても、ワクチンを否定する人々も結構多いので、いずれそれが問題になると予想します。 例えば、世界的テニスプレーヤーのジョコビッチはワクチン否定論者で、COVID-19に対するワクチンができても「受けない」と言っていますね。 テニス界のスーパースターが「反ワクチン派」の悩み明かす 2020/04/24(ローリングストーン ジャパン) ジョコビッチが新型コロナウイルスのワクチン接種義務化に反対の意向 2020/04/21(テニスマガジンONLINE) 他人事ではありません。日本でも子宮頸がん予防ワクチン(HPVワクチン)の接種率が0.6%と先進国の中では最低です。先進国では60-70%の接種率です。日本は先進国なのでしょうか?ほかの「先進国では子宮頸がんが劇的に減っています」が、日本は減っていません。ワクチンについては色々と考えることがあります。 さて、治療法も予防法も確立されていない「COVID-19」の治療、予防はどうしたらよいでしょうか?特に予防はCOVID-19のワクチンができるまでは、どうやら医学の出番はなく、「化学(ばけがく)」と「物理学」を駆使しての予防が有効です。 化学とは大げさですが、石けんやエタノールなどの消毒薬で手や触れた(る)箇所を清潔に保つことを指します。石けんやエタノールはSARS-CoV-2ウイルスの皮膜(エンベロープ)を破壊するのでウイルスとして作用ができなくなります。エンベロープは脂質(油)でできているので界面活性剤である石けん、エタノールで破壊されるのです。 物理学も大げさですが、他人との距離をとる。ソーシャルディスタンス、3密(密接、密封、密集)を避けること、およびマスクで唾液が飛散することを防ぐこと、などすべて物理学の応用です。 きちんとした予防法が確立されるまでは化学、物理の力を頼りましょう。 4月上旬のこと、TVでニューヨークの病院風景を放映していました。次から次にCOVID-19に罹患した患者さんが担ぎ込まれ、人工呼吸器がつけられ、しかしそれでもどんどんお亡くなりになって遺体安置所が一杯になり、冷凍トラックが病院に横付けされ、そのトラックの冷凍庫に御遺体が運ばれています。病院内に安置する場所さえなくなっているのだと思います。 その先はどうするのでしょう。細菌は宿主がお亡くなりになると細菌も死滅します。ウイルスは違います。宿主がお亡くなりなってもウイルスは存します。それ故に遺族の方も最後のお別れができません。志村けんさんがお亡くなりなった時、このことが広く知れ渡りました。 ブラジル、ニューヨークでは重機で掘った穴に御遺体の多くを埋葬しています。 火葬にできないほど多くの方がお亡くなりになっているか、宗教上の理由で火葬を選択しない方も多いのでしょう。 日本の火葬率は99.9%ですが、2018年イギリス火葬協会発行の資料によればアメリカ52%、英国イギリス77%、独62%、仏40%、伊24%、露10%、台湾97%、韓国84%、タイ80% です。なんとなく火葬率が低い国にCOVID-19による死者が多いような気がします。疫学すればなにか解るかもしれません。 いずれにしてもニューヨークやブラジルの土葬風景は現代の風景とは思えないです。以前勤めていた病院で同僚だったK先生が、今、ニューヨークの病院(BI病院)でCOVID-19患者さんの治療に当たっています。「凄惨」としか表現できないそうです。日本は一時的には収束にむかうかもしれませんが、今冬にどうなるか楽観できないです。 さてコレラの話に戻ります。「罹ったら数日で死んでしまう原因不明の病、死病」が流行ったら、戸惑い、逃げ惑うでしょう。逃げても逃げた先で同じ病気が流行るかもしれません。結局どうしたらよいか解らずに右往左往するしかありません。1854年ロンドンがまさにこの状態でした。当時のロンドンもコレラによる死亡者が相次ぎ、屍体運搬馬車に屍体が乗り切らず、馬車の屋根の上に重ねていたのです。現代のニューヨークの風景と一緒です。 次回はこのコレラから感染症について考えていきます。 【参考文献】 文献1:野村裕江著 「江戸時代後期における京・江戸間のコレラ病の伝播」 地理学報告 79巻 p1~20 文献2:スティーヴン・ジョンソン(著)「感染地図」河出書房新社 文献3:Isabel Rosanoff Plesset著Noguchi and His Patrons Fairleigh Dickinson Univ Pr (1980/10/1) 邦訳もあります。 文献4:ウェンディ・ムーア(著),「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」河出文庫、2013年 矢野 真千子(翻訳) 文献5:Frerichs RR et al. Nepalese origin of cholera epidemic in Haiti. Clin Microbiol Infect. 2012 Jun;18(6):E158-63. 文献6:石 弘之 「感染症の世界史」洋泉社 2014年 今(2020年4月)、アマゾンで見たら凄い値段になっていました。どうしたのでしょう。と思ったら、この本を歴史家の磯田道史氏が2020年4月の月刊文藝春秋で紹介したからだと思い至りました。歴史の専門家である磯田氏が感染症を考えるにはこの本が良いと紹介しています。このために古本市場で値段が急騰したのでしょう。幸い、この本は文庫にもなっています(角川ソフィア文庫)。磯田氏が言うように「病原体vs人間」の戦いの歴史の基本を知ることができます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/04/27 今、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界中に広まり大変なことになっています。この感染症の原因ウイルスは「SARS-CoV-2」と命名されました。SARS(severe acute respiratory syndrome)の原因ウイルスは「SARS-CoV」です。名前は似ていますが、「SARS-CoV-2」は「SARS-CoV」の子孫ではありません。別のウイルスです。 それはともかく、今回のCOVID-19を考えるのに最適な映画があります。それは2011年の米国映画「コンテイジョン "Contagion"」(注:contagion=伝染病)です。 Amazon Prime Videoなどで見ることができます。新しい伝染病が出現した時、 どのように対処するのか? どのように対処すべきか? アメリカのCDC(Centers for Disease Control and Prevention:疾病予防管理センター)はどのように伝染病に対処しているか? アメリカのCDCとはそもそも何か? CDCは何をやっているのか? CDCと米軍の関係はどうなっているか? WHOはどうやって関与するか? などがよくわかります。 感染症とは関係無いですが、この映画の俳優陣は豪華です。 マリオン・コティヤール:エディット・ピアフ~愛の讃歌~でアカデミー賞 マット・デイモン:『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』でアカデミー脚本賞 グウィネス・パルトロー:『恋におちたシェイクスピア』でアカデミー賞主演女優賞 ケイト・ウィンスレット:愛を読むひとで アカデミー賞主演女優賞 ローレンス・フィッシュバーン:『TINA ティナ』でアカデミー主演男優賞候補 ジュード・ロウ;『リプリー』でアカデミー助演男優賞候補 多くのアカデミー賞俳優が出演しています。この中の誰かが主人公という訳ではありません。主人公は「病原体」です。映画の最後はかなり衝撃的で見るとかなり「ぎょっ」とします。 今回の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)を予言したような映画です。ぜひご覧ください。 なお、この映画で重要な役割を演じた世界一の美女とも称される女優のグウィネス・パルトローはCOVID-19について注意を呼びかけています。 人類は多種多様な「感染症」に苦しめられてきた 人類は多種多様な「感染症」に苦しめられてきました。病原体に対抗する手段を持っていなかったからです。人類が最初に手にした感染症に対する武器は「ワクチン」でした。 ワクチンの始まりはジェンナーが天然痘予防のために発明した「種痘」です(1796年)。種痘は世界中にあっという間に広まり、ついに1977年に天然痘という人類を苦しめた病が地球上から消えました。素晴らしいことです。人類vs感染症の戦いの歴史で勝ったのはこれだけです。小児麻痺もようやく地球上から消滅しそうですが、まだどうなるか解りません。 ワクチンの次に手にした武器はサルファ剤(プロトンジル)でした。その後もペニシリンを初めとする抗生物質、抗結核薬、抗ウイルス薬、抗寄生虫薬など様々な武器を手にして「感染症」に対峙してきました。 しかし細菌やウイルスは「耐性」や「変異」という武器を手にして人類に刃向かっています。 人口の増加と共に普通では住めなかったような場所に住めるようになったこと、多くの家畜を飼うようになったことから、今度は「人畜共通感染症」という「病(やまい)」に悩まされるようになりました。元々動物にしかいない細菌やウイルスが人間にも感染するようになったのです。SARS-CoV-2も「コウモリ」に元からいるウイルスだと言われています。 話は逸れます。なぜコウモリなのでしょう。いくつか仮説はあります。 コウモリは哺乳類であること(鳥類ではありません) コウモリの個体数は全哺乳類の20%と多いこと コウモリは長生きすること(約30年) コウモリは不潔?なところに生息すること 土地開発に伴い、人類がコウモリと接する機会が多くなったこと などが挙げられます。恐らく上のすべてが関与するのだと思います。 話を戻します。 歴史上、天然痘、ペスト、コレラ、麻疹、マラリア、結核、エイズ、風疹、インフルエンザ(スペイン風邪)etc.多くの感染症により人類は苦しめられてきました。前述の如く、人類はそれに対する治療法、予防法を手に入れて戦ってきました。人類と感染症と戦いに関する物語はたくさんあります。そのほとんどは負け戦の物語です。下図に日本人の平均寿命を示します。 古い時代の日本人の寿命 平均寿命5歳平均余命 時代男女男女 縄文時代14.614.621.922.0 室町時代15.217.323.1 江戸時代40.042.0 ※注:単位は「歳」、江戸時代は14地域の平均 ※資料:鈴木隆雄(1996)「日本人のからだ―健康・身体データ集」 室町時代まで日本人の平均寿命は10代です。折角産まれても様々な感染症にかかり長生きすることはできなかったのです。そんな中、細菌に対して鮮やかな勝利を収めた物語があります。それも「細菌」「ウイルス」が見つかる前の話です。 話はまたまたそれます。 いま1000円札には野口英世の肖像が使われています。細菌学を勉強した時、その教科書に野口英世の名前はありませんでした。野口は「黄熱病」の研究で有名ですが、野口の黄熱病に関する研究や論文はすべて「間違い」です。 黄熱病はウイルスが原因です。野口英世が生きた時代、ウイルスを見ることができる電子顕微鏡はありません。野口に黄熱病ウイルスが見えたわけも無く野口英世の「黄熱病に関する論文すべてが間違っていたこと」がわかっています(文献3)。それゆえに野口英世の黄熱病対策は的外れでした。 事程左様に感染症との戦いは簡単ではありません。野口英世の業績のうち数個は今も評価されています。いずれ野口英世に関しては良い面、悪い面、野口英世の手はどうなっていたか、手の手術は上手くいっていたのか?などを考察したいと思います。 話を戻します。今回次回は、ロンドンで起きたコレラ禍を鮮やかな手法で制圧した物語を紹介します(主に文献2によります)。ロンドンコレラ禍を制圧した手法から「疫学」が発展しました。今にも通じる話です。 コレラがロンドンに蔓延した時 まずコレラのパンデミック史を簡単に紹介します。 コレラは、これまでに解っているだけで7回パンデミック(世界的流行)を起こしています。7回のうち、有名なのは第3回目のパンデミックです。これはロンドンを直撃し、ロンドンで多数の死者がでます。1852年のことです。 ちなみに日本でもコレラは江戸時代、1822年、1858年と2回にわたって大流行しています(文献1)。コレラはかかるとあっという間に死んでしまう病気です。感染すると3-4日で死亡します。日本では、それゆえに「3日コロリ」と称されていました。自分が刻一刻とあの世に近づいていくのを目の当たりにしながら死んでいく病気とも言われます。 コレラはインドに古来より存在したと思われる病気です。コレラと思われる記載がある文献がインドには紀元前からあるので、そのように予測されるのです。 1493年にコロンブス御一行が世界中にあっという間に広めた「病気」と違ってコレラはインドからロンドンにはなかなか広がりませんでした。コレラにかかるとあっという間に死亡するからです。航海中、ずっとコレラにかかっている船員などいなかったのです。しかし東西の往来が進んだ結果、ついに1832年ロンドンにもコレラは上陸、2万人の死者を出しました。 あっという間に死亡する「コレラ」はとても恐ろしい病気です。コレラはコレラ菌(英語:Vibrio cholerae、学名はVibrio cholera pacini Pacini 1854)を含んだ飲食物を摂取することにより発症することがコッホによって明らかになったのは1884年のことです。 さて、第3回コレラパンデミックとなった1854年のコレラ禍がなぜ有名なのでしょうか?それはこの年のロンドンのソーホー街におけるコレラ禍が、ある医師とある副牧師の「共同作業」によりあっという間(2週間)に「収束」したからです。 医師の名前は「ジョンスノー(John Snow、1813-1858)」 副牧師の名前は「ホワイトヘッド(Henry Whitehead、1825-1896)」です。 彼らの共同作業は後に昇華して「疫学」という学問になり、この2人の名前は医学の歴史に燦然として輝いています。疫学は「集団を対象にして統計学を用いて疾病の原因や傾向を明らかにする学問」です。元は伝染病だけが対象でした。今はすべての疾患に「疫学」による分析が行われています。 ジョン・スノーはハンテリアン医学校出身です。ハンテリアン医学校出身ということで何か、思い出しませんか?ハンテリアン医学校はハンター兄弟が起こした学校です。弟のジョン・ハンター(John Hunter、1728-1793)のことは以前紹介しました(参考記事:110:ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない 血管疾患(4))。 ジョン・スノーはハンタ-から直接学んだ訳ではありませんが、ハンテリアン医学校で はジョン・ハンターの教えが伝わっていたと思います(文献4)。その教えは、 「自分の頭で考えよ」 「常に疑問を持ち、自分の頭で考える外科医をそだてることが必要」 「世の定説は、真の知識というより単なる信仰に基づいている。定説を改めようとするのは定説の誤りを認めて得意になりたいからではなく、自分たちの無知を認めて改めるためである」 「確立された教義に疑問を持ち自分の頭で考えよ」 というモノです。ちなみに種痘のジェンナーはジョン・ハンターの家に住み込んで学んだ文字通りの直弟子です。 ジョン・ハンター一門は、実に多くの人を助ける方法を発明、発見しています。元はこのジョン・ハンターの教えが素晴らしいからでしょう。今でも通用する不変的な思考法だと思います。 下図はロンドンのソーホー街のコレラ発症者が住んでいた場所をプロットした地図です。死者が出た家は濃く印されています。 黒い点がコレラを発症した患者が住んでいる(いた)地点です。地図を見ると患者の多い場所と少ない場所がはっきりとわかります。これを冷静に分析した結果、それまでの定説「瘴気(しょうき)によりコレラは伝播する」を覆し、コレラ伝播の予防法を確立、この年以降、ロンドンでコレラの蔓延を防ぐことができるようになったのです。 ジョン・スノーは、ジョン・ハンターの教え通り、「自分の頭で考え確立された定説を覆した」のです。この地図は病気に「正しく」対処することの大切さを教えてくれます。 自分でCOVID-19に関するデータを収集し、疫学してみる COVID-19の原因ウイルスは判明していますが、それでもCOVID-19を封じ込める方法は定まらず、日本も世界も困っています。それを考えるとコレラの原因となる「細菌」が解っていない時代にコレラの流行を防いだ彼らから学ぶことは多いと思います。 COVID-19の発生場所、患者の年令、性別、発生時期、発生した場所の気候etc.を分析すればCOVID-19が流行る原因、流行る地域がわかるかもしれません。 私も集めたデータからCOVID-19を疫学してみました。 私の予測は次の3点です。1.2.はこの原稿を書き始めた時点(2020/3-1の予想)での予想。3.は2020-04-25時点での予想です。 日本ではCOVID-19は大流行しない オーストリア、スイス、フィンランド、イタリア、デンマーク、ドイツ、米国、中近東、南米では大流行する 西アフリカ,中部アフリカで大流行しない の2つです。数年後、この予測が当たったかどうかわかると思います。 皆さんも、自分でCOVID-19に関するデータを収集し、疫学してみることをお勧めします。 2つほど、誰でもできるCOVID-19分析法を紹介しましょう。 COVID-19分析法その1:論文を調べる ちなみにPUBMEDで「novel coronavirus 2020」で検索すると、2020-04-17の時点で1200編の論文が掲載されています。中国からの論文が圧倒的に多いですね。 PUBMED「novel coronavirus 2020」 https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/?term=novel+coronavirus+2020 NEJM、LANCET、NATURE、JAMAなどの雑誌に載っている新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関する情報を読んでみると面白いです。英語でかかれていますが今はGoogle先生の力を借りれば読むことができます。 なお、COVID-19に関する論文の多くは特例によりfree article となっています。つまりタダで読めるのです。こんなことは稀です。一流雑誌に掲載された論文をリアルタイムにタダで読める機会など滅多にありません。ぜひ読んでみてください。 COVID-19分析法その2:国別、発症数を調べる 以下のサイトなどをご覧ください。 COVID-19 Dashboard https://gisanddata.maps.arcgis.com/apps/opsdashboard/index.html#/bda7594740fd40299423467b48e9ecf6 COVID-19 Virus Pandemic https://www.worldometers.info/coronavirus/ こういう資料を見て考えてみましょう。 次回に続く。 大切な余話: コレラなんて古い病気と思うでしょうが、今でもアフリカ、東南アジアでは流行しています。時に大流行をおこします。直近で有名なのは、2010年、ハイチでの大流行でしょう。これは大地震で壊滅したハイチに派遣されたネパールの国連平和維持活動(PKO)部隊が持ち込んだコレラが原因でした。ハイチではそのために70万人が感染し、8000人以上が死亡しています(文献5)。ハイチの人びとにとっては、大地震に加えてコレラが流行り、文字通り「泣き面に蜂」だったと思います。 【参考文献】 文献1:野村裕江(著)「江戸時代後期における京・江戸間のコレラ病の伝播」地理学報告 79巻 p1~20 文献2:スティーヴン・ジョンソン (著)「感染地図」河出書房新社、2007年刊 翻訳は矢野真千子さんです。矢野さんの翻訳本に「外れ」はありません。多分、翻訳しても読むべき本を選んでいるのでしょう。翻訳も日本語として熟れているので読みやすく、すっと頭に入ってきます。本書も同様です。ぜひ、お読みください。 文献3:Isabel Rosanoff Plesset(著)Noguchi and His Patrons Fairleigh Dickinson Univ Pr 、1980/10/1 邦訳もあります。 文献4:ウェンディ・ムーア (著)「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」河出文庫、2013年 矢野 真千子(翻訳) 文献5:Frerichs RR et al. Nepalese origin of cholera epidemic in Haiti. Clin Microbiol Infect. 2012 Jun;18(6):E158-63. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/04/13 前回、前々回に続き、今まで車を運転してきて学んだ色んなことをお話しします。今回は認知症の方に車をぶつけられたこと、救急治療で経験した交通事故のことです。 13:認知症と交通事故 認知症の方に車をぶつけられたことがあります。 細い道での出来事です。細い道なので、ゆっくりと車を走らせていたら、横の道から出てきた車に追突されました。車の後部です。問題はその後でした。 運転していたのは、かなり高齢な方でした。車を降りて、事故について話をしようと思ったのですがまったく普通の会話が成り立ちませんでした。しかもすぐに逃げてしまったのです。 とっさに車のナンバーを記録して、警察に通報しました。警察が調べてくれ運転していた方がわかりました。しかし「事故なんか起こしていない」と言い張っているとのことでした。認知症が進行していて、警官や家族とも会話が成り立たず、困ったそうです。その後、どうなったか知りません。車の損傷は軽微で外傷も負いませんでしたが認知症の方の運転は怖いですね。 日本は高齢化社会が一気に進んでいます。認知症ドライバー対策が必要です。 「認知症の方に免許証を取らせない」ようにすれば良いのではないかと誰しもが考えますが、それは無理です。免許を更新する際に「認知症の診断」はできないのです。当たり前ですが、免許センターには認知症専門医がいるわけではありません。対策は後述します。 なお、話は違いますが運転を止めると認知症が発症することもあります。あるいは認知症が一気に進むという報告もあります。認知症予防のために100歳まで運転できるようにしようと考えている会社、研究者もいます。こういう取り組みは良いですね。 『CAR GRAPHIC』9月号発売 操ることを科学する、MT車特集(Web CG) マツダ神社藤原大明神新春大降臨祭・03(日経ビジネス) 14:心臓病で事故を起こすことも 心臓病で事故を起こした方を2例、診療したことがあります。 Aさん(50代男性)は、階段から転落して私が勤めていた病院に搬送されてきました。 外傷性急性硬膜下血腫で手術を受けました。入院中、心電図モニターで「脈がおかしい」とのことで脳神経外科の先生から相談されました。心電図記録をみると典型的な「2度の房室ブロック」それもモビッツ(Mobitz)型という怖いカタチの房室ブロックです(ちなみに房室ブロックは1度から3度まであります)。 2型房室ブロックの心電図をお目にかけましょう。いきなり心臓が止まるのがわかりますでしょうか? この方は7秒位心臓が止まっています。3秒以上心臓が止まると「意識消失」が生じます。不整脈が原因で意識消失を生じることを「Adams‐Stokes発作」と言います。 この方はトラックの運転手さんでした。よく聞いたら(これが大切)、これまでに何回も交通事故を起こしているとのことでした。幸い人身事故は起きていませんでした。運転中に「Adams‐Stokes発作」が生じていたのです。 こういう方の治療は「ペースメーカー植え込み」です。この方にもペースメーカーを植え込み以降、Adams‐Stokes発作は生じませんでした。ペースメーカーを移植すればこういう病気の方も普通に運転ができます。 Bさん(60代女性)は、あり得ないような交通事故を起こして搬送されてきました。自分が運転する車を自宅駐車場のブロック塀にぶつけ、ブロック塀は倒れてしまいました。それくらいの勢いでぶつけたのです。 救急当番だったので、診察したら脈が変でした。心電図モニターで確認したら「2度の房室ブロック」それもモビッツ(Mobitz)型です。Aさんと一緒です。何度も心臓が止まっていました。 Aさんと違ったのは「永久的ペースメーカー植え込みを拒否したこと」です。頑として、首を振りません。勝手に退院してしまいました。20年くらい前の話です。結局、また事故を起こして搬送されてきました。しかし、また勝手に退院してしまいました。その後は知りません。 今なら「一定の病気に係る免許の可否等の運用基準」(PDF)が定まっているので、警察に通報します。ペースメーカーを入れることを承諾しないなら、免許が失効させられるでしょう。それなら多分、ペースメーカー植え込みを承諾するでしょうね。 なお、さまざまな病気(心臓病、てんかん、大動脈疾患、脳血管疾患)による悲惨な交通事故が報道されます。病気の適切な治療により、このような悲惨な交通事故は、全てでは無いですが、予防が可能です。 15:これまで経験した交通事故の方の診療で一番可哀想だった患者さんのこと 自動車会社の従業員の方の事故です。この方が事故を起こしたわけではありません。お客さんが同社の車に試乗運転をしていた時にブレーキとアクセルを踏み間違え立木に激突、この社員は多発外傷を負い救急搬送されてきました。 運転をしていた女性(60代後半)は軽症でしたが、同乗していた車会社の若い社員の方はほぼ即死状態でした。立木にぶつかったのは助手席側だったのです。奥さん、小さなお子さんと会社の方が駆けつけて来ましたが言葉の掛けようがありませんでした。家族の方の慟哭を今でも思い出します。 「試乗する時は、よく運転操作を習った方が良い」 と思いました。 16:海外での交通事故 ニューヨークで学会があった時に乗ったタクシーが事故を起こしたことがあります。 空港からホテルまでイエローキャブに乗ったのですが、随分と荒い運転をしていました。「怖いなあ」と思ったら、案の定、衝突事故を起こしてしまいました。 ドライバー同士で喧嘩が始まりました。その間、2時間くらいタクシー内で待っていました。とても怖かったです。 こんな「事故」も自分では避けようが無いですね。 「どうしようも無い、避けられないことが交通事故でもある」 そういうことを実感しました。 このようにあれこれと交通事故から考えることがあります。 車は便利です。しかし、さまざまな事故が生じ得ます。自分でできるリスク管理はした方が良いですね。 自分でできるリスク回避をあげてみましょう。 飲酒運転は絶対にしない スピードを出しすぎない 雨の日には慎重に運転を 運転中はスマホの操作をしない 運転中にTVは見ない etc. できることはたくさんあります。皆さんもお考えください。 社会的にできるのでは無いかと思っていることが2つあります。 すべての車に衝突被害軽減ブレーキを義務づける (実際、2021年1月から新車に対してそういう装置の装着が義務づけられます) あえて衝突被害軽減ブレーキの無い車を運転するなら高額の保険金が被害者に降りるような自動車保険の加入を義務づける の2点です。最近のボルボの新車には、全ての車に、衝突被害軽減ブレーキがついています。スウェーデンは交通事故死ゼロを目指しています。「Vision Zero」と言う政策です。ボルボもそれに応じているのですね。 すべての車にそういう装置が付くに数十年かかると思います。技術が進歩すれば、古い車にも簡単にそういう装置を後付けで装着させることもできるようになると思います。そういう社会になることを促進させるために上記2.のような施策をとるべきだと思っています。 政策を変えるのは大変です。夢物語だと思うかも知れませんが身近にそういうことをなさった方がいます。 私の手術した患者さんは家族が悲惨な交通事故(泥酔運転)に巻き込まれたのを機に国の法律を変える運動を全国的に起こして実際に法律が変わりました。 その患者さんはそれまで特別な社会運動をしたことが無い方でした。しかし交通事故を機に「社会を変える必要がある」「このままではまた犠牲者がでる」という強い思いを持ち、全国を行脚して回り、同志を募り、国会議員を動かし法律を変えたのです。 強い思いがあり、行動力があり、説得力があると、社会が変わるかも知れないという良い例です。いつか、ご紹介したいと思います。 2つ医学的な話を追加します。 1:13日の金曜日には交通事故が増えるという医学論文があります。 1)Is Friday the 13th bad for your health? イギリス BMJ. 1993 Dec 18-25;307(6919):1584-6. 13日の金曜日には普通の日に比して52%も事故が増すのだそうです。 2)Traffic deaths and superstition on Friday the 13th. フィンランド Am J Psychiatry. 2002 Dec;159(12):2110-1. 13日の金曜日には男性1.28倍、女性2.25も交通事故が増えるのだそうです。 キリスト教徒は、13日の金曜日に車を運転する時、過度に緊張するのだろうと推論されています。そういうわけで、13日の金曜日にキリスト教徒が多い国に滞在するときは少し注意が必要です。 2:高齢化社会と運転にまつわる大切な話 高齢者の運転操作ミスによる事故が時々報道されます。逆走、アクセルとブレーキの踏み間違え、などです。上述の如く、衝突被害軽減ブレーキ装着者や自動運転が普及すればかなりそういう事故は減ると思います。 しかしMAZDAはマニュアル車が認知症予防になるという仮定?の元にあえてマニュアル車を作り続けています。面白い試みです。マニュアル車だと手と足をずっと動かす必要があります。確かに認知症予防になるのかもしれません。都会では車の運転をする機会が多くありませんが地方では車の運転が死活問題になります。車の運転を止めた途端に認知症が進行することは多くの医師が経験することです。日本認知症予防学会理事長の浦上克哉先生も「運転時認知障害の早期発見による認知症予防と安全運転」と題し日本自動車工業会の雑誌(平成28年10月15日特集 高齢化社会と交通安全:JAMAGAZINE(PDF))でも同様なことを記しています。 認知症と運転関係はこれから吃緊の問題だと思います。 さらに大切?な話: 地域により「Y県ルール」「M市ルール」「NA走り」「Iダッシュ」という独特なルールがありこれらの地域で運転するには特別な注意が必要です。もちろん間違いです。Y県や某M市だけ、道路交通法が違う訳ではありません。しかし、これらの地域で車の運転をする時には注意が必要です。あまり良いことでは無いです。 ブランド総合研究所が2019年に初めて行った住民視点で地域の課題を明らかにする「地域版SDGs調査」によると、 交通マナーが悪いと自分達が思う県は 1位 徳島県 13.5% 2位 香川県 9.6% 2位 福岡県 9.6% 交通マナーが悪いと思うのが少ない県は 1位 鹿児島県 2.3% 2位 青森県 3.0% 3位 長崎県 3.8% です。県で随分と違うのですね。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/03/30 前回に続き、運転から学んだ色んなことをお話しします。人生危機一髪のことがあるものです。 6:車を運転中、二車線の道路で対向車が私の運転する車の前に現れたこと 大学時代2回目に経験した事故です。自分が起こした事故ではありません。 これは衝撃的でした。今でもこの時のことを思い出すと「ぞっと」します。 ある日の夜中に鳥取から米子に向けて車を走らせていた時のことです。真正面から車が向かってくるのに気づきました。私が走っていたのは、もちろん左側の車線です。二車線しか無い国道です。同じ車線を真正面から車が向かって来たのです。どんどん近づいてきます。この場面を今でも、まざまざと、思い出します。 このままなら、正面衝突します。対向車は猛スピードで近づいてきます。私はスピードを落とし、どうするか、考えました(ほんの一瞬のことですが)。左は水田です。右は対向車線です。運良く対向車線に車は走っていませんでした。クラクションを鳴らす余裕もライトをパッシングする余裕もありませんでした。結局、前から向かってくる対向車とぶつかる寸前右にハンドルを切り対向車線に逃げました。対向車は私の車の左をすり抜け、そのまま水田へ落下していきました。 車を止めて、水田に落下した車を見に行きました。運転していた方は車から脱出していました。水田のすぐ脇にあった農家の方が出てきて何やら猛烈に怒鳴っていました。水田に落下した車を運転していた方は泥酔していました。酔っ払い運転をして、さらに眠ってしまって対向車線を走ってしまったのです。この時、学んだのは、 「人生危機一髪のことがある」 そういうことでした。あの時、ハンドルを左に切っていたら、あるいは対向車が私の車に気づいて元の車線に戻ったら、対向車の後ろに車がいたら等、考えると今でも「ぞっと」します。 7:遮断機のない踏切 これは私自身の事故経験ではありませんが、大学時代に経験した「事故」です。 大学時代、湖山池という湖のほとりに下宿していました。ヨットの無料練習所が下宿のすぐ側にあり、時々、ヨット操作の講習を受けていました。その練習所に行く途中に遮断機の無い「踏切」がありました。踏切警報機だけの小さな踏切です。 ある日、悲惨な事故が起きました。ヨット練習所のインストラクターだった女性が運転する車がその踏切で列車と衝突し、そのインストラクターの方はお亡くなりになってしまったのです。それ以後、なんとなく、そこに通わなくなりました。踏切が怖いのです。 「遮断機のない踏切は気を付けよう」 と思いました。 注:遮断機のない踏切は第四種踏切と呼ばれ2021年の統計では日本全国に2000箇所あります。毎年その数は減っていますがそれでも毎年5名程度の死亡事故が起きています。普通の踏切に比して1.7倍くらい事故発生率が高いので、このような遮断機無しの踏切を減らす様な勧告が出ています(参考:第4種踏切道の安全確保に関する実態調査 <結果に基づく勧告>総務省)。 8:高性能スポーツカーでもろくなことが起きない 医師になってからも、交通事故を見たり、交通事故で搬送されてきた患者さんを診たり、自分でも交通事故を起こしたことがあります。いくつかあげます。 千葉県の救急病院の当直明けで家に帰るため京葉道路を東京に向かって走っていた時のことです。 日曜日の早朝です。当直明けで疲れていたので制限時速を守って走っていました。その横を外国製の有名スポーツカーが猛烈なスピードで走り抜けていきました。「危ないな、この先に急カーブがあるのに……」と思いつつ走っていたら、追い越していったスポーツカーが、案の定、事故を起こし逆さまになって転がっていました。多分スピードが出過ぎていたので曲がりきれずに高速道路の壁にぶつかったのです。 事故直後です。今なら絶対にしませんが、高速道路上で車を止め(注:今でも一般道路なら話は別です。救護します)、ドライバーの救護を行おうと思いました。 車を降り、スポーツカーから体が半分飛び出ていたドライバーに声をかけました。応答はありません。顔がこちらを向いているので近づいてよく見たら、顔と体が逆になっていました。多分、即死です。携帯電話などない時代ですから京葉道路を降りて、警察に連絡をしました。この時の体と逆になった「顔」はしばらく忘れられませんでした。この時、学んだのは 「スピードを出しすぎると高性能スポーツカーでもろくなことが起きない」 ということです。 9:冬の橋の上は慎重に 3次救急診療を行っている病院に30年以上勤めました。交通事故を起こして搬送されてきた患者さんをたくさん診ました。冬の交通事故はスリップによる事故が多いのですが、結構な数のスリップ事故が橋の上で生じていることに気づきました。 橋は、当たり前ですが、下が空間です。橋はそのために地表の温度以下になることが稀ならずあります。道路は乾いていると思って走っていても橋の上は違います。橋の上は凍っていることも多いのです。何例か橋の上でスリップして交通事故を起こした方を多数見てから、 「冬に橋の上を運転するときは慎重に運転することが必要」 だと思うようになりました。 10:人生危機一髪のことがある 同僚だった先生の経験談です。 「高速道路で自分の前を走行していた大型トラックのタイヤが外れてそのタイヤが転がってきた」 「タイヤは自分の運転している車に向かってきた」 「とっさに避けたけれど避けきれず、助手席側の車半分が潰れてしまった」 「運転席側だったら自分は死んでいた」 誰にでも「人生危機一髪のことがある」のです。 11:自分で起こした交通事故 恥ずかしい話ですが、1回だけ、自分でも大事故を起こしたことがあります。夏のある日、中央自動車道を走っていた時のことです。 中央自動車道は長いトンネル、曲がったトンネルが多いです。ある長いトンネルに入る前、少し雨が降っていました。当たり前ですがトンネル内は雨が降っていません、水たまりもありません。時速100kmくらいで走っていました。そして、トンネルを出たら、そこは雪国ではなく土砂降りの雨でした。バケツの底をひっくり返したような雨です。おまけに大きな水たまりができていて、水たまりに入った瞬間、突然車のコントロールを失いました。 ハイドロプレーニング現象です。ブレーキも一切、効きませんでした。あっという間に車は、ガンガンガンガンと音を立てながら、右側のガードレールにぶつかりました。 ぶつかっている時、「もうダメだ。もうお終いだ」と思いました。 人生で一番怖かった瞬間です。こういう時、人生が走馬灯のように思い出されると言いますが、正にその通りでした。色んなことが一瞬に思い起こされました。 幸い後続車はありませんでした。衝突してもしばらく車は動いたので路肩に車を寄せて、車を降りてみると車は悲惨なことになっていました。警察に連絡し、事情聴取を受けた後、大破した車はレッカーで移動させられました。体の方は、多少の打撲で済みました。この事故で学んだのは 「長いトンネル前後では気候が急変する事があるのでトンネルを出る時は減速しよう」 「雨の日は慎重な上にも慎重な運転が必要、ハイドロプレーニング現象は怖い」 ということです。 この事故の後1年くらい高速道路を運転することができませんでした。いわゆるPTSD(Post Traumatic Stress Disorder)です。高速道路に乗ろうとすると動悸が生じるのです。仕方なく下道を運転していました。1年くらい経ったらそういうことは生じなくなりました。「時薬」が効いたのです。 12:人生危機一髪のことがある(2回目) 携帯電話を操作していたドライバーに追突されたことがあります。 ある日の夜、交差点で止まっていました。赤信号です。一番前です。そしたら、いきなり車に衝撃が走り、私の車が前に動いたのです。 車の前は普通に左右に車が走っています。右側から来た車にぶつかるかもしれないと思った瞬間、強くブレーキを踏みました。幸いにも車と衝突はしませんでした。いわゆる「お釜を掘られた」のです。 私の車の後ろにぶつかった車を運転していたのは若い女性でした。車から降りてきて、「携帯でメールを打っていたら、間違えてアクセルを踏んでしまった」「誠に申し訳ありません」「警察を呼びます」「保険会社にも連絡します」「車は責任を持って修理します」とやけに正直で手際が良いのです。何のことはない、大きな車会社の社員でした。 赤信号で止まっていて衝突されたのはこれで2回目です。最初は前からそして後ろからも衝突されたのです。 このことから学んだのは 「人生危機一髪のことがある」(くどいですね) 「交差点で信号待ちをしているときはブレーキを強く踏んでいるべきだ」 「車を運転している時はメールをしてはいけない」 そういうことでした。 なお、この事故でいわゆる「鞭打ち損傷(正式病名は外傷性頚部症候群 traumatic cervical syndrome:TCS」になり、2ヵ月くらい苦しみました。幸い後遺障害は残りませんでした。 次回は認知症の方に車をぶつけられたこと、救急治療で経験した交通事故についてお話しします。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/03/16 高速道路の逆走、高齢者の運転による事故、スマホ使用による脇見運転による事故、突然発症した病気(症状含む)による交通事故が話題になっています。今回は、 自分の体験した交通事故 自分の周りで起きた交通事故 救急治療で経験した交通事故 をします。私は20歳から今まで車を運転してきました。運転について色んなことを学びました。多少とも皆様の交通安全に役立つかもしれません。ご笑覧ください。 1:最初に体験した交通事故の記憶 皆さんの物心がついてから「最初の記憶」は何でしょうか?色々あると思います。親との旅行や幼稚園での思い出etc. 比較的平穏な記憶がほとんどだと思いますが、私は違います。 物心がついてからの最初の記憶は「自動車が田んぼに向かって転落していく」シーンです。 今でもスローモーションのように思い出します。事故を起こした場所を今でも覚えています。今でもそこを通ると少し怖いです。 親戚のお兄さんが運転する車の助手席に乗せてもらっていたのですが、急に車が浮いたと思ったら右側の田んぼに車が転落していったのです。4歳頃の話です。ああ!と思ったら、車は田んぼの中でした。助手席に座っていたので膝を強く打ちましたが、大したことは無かったと思います。 事故後のことはよく覚えていませんが、車が転落して水田に落ちるまでの恐怖感と車が水田に落ちていく様子はスローモーションのように今でも、まざまざと思い出します。 2:バイクに轢かれたことがあります 次の交通事故の記憶はバイクに轢かれたことです。これは小学校低学年の時です。 信号待ちをしていたら左折してくるバイクに足を引かれました。幸い大した怪我ではありませんでしたが運転をしていた方が、何度も家に謝りに来たのでそのことをよく思い出します。 3:初めてうっすらと「死」を感じた交通事故 小学校2年生の時、1つ下の学年にいたHJ君一家4人全員が交通事故でお亡くなりになりました。富士スバルラインを降りてくる時に、ブレーキが効かなくなりカーブを曲がりきれず、車が崖から落ちてしまったのです。 富士スバルラインは前回の東京五輪の年(1964年)に開通しました。開通当時の事故です。スバルラインは急カーブがあり急坂もあります。当時の車はブレーキの性能があまり良くなく、長時間ブレーキをかけていると突然ブレーキが効かなくなることがあったのです。だから 「長い時間ブレーキをかける時は「エンジンブレーキ」を使わないといけない」 と父母が話していたのを覚えています。「エンジン付きブレーキ」なるモノがあると思っていました。バイクの免許を取るとき、初めてエンジンブレーキの意味がわかりました。今でも、長い坂道が続く時は意識して「エンジンブレーキ」を使っています。 HJ君の家は近所にあり通学路が一緒で、HJ君の弟や両親も顔見知りでした。そういう一家4人がいきなり全員お亡くなりになりました。この時大げさに言えば「死」とはこういう風なことなのだと“うっすら”思いました。 今でも交通事故の報道があるといつも、ニコニコしていたHJ君を思い出すことがあります。それくらい衝撃的でした。 4:高校時代の友の交通事故死 高校時代は原付のバイクに乗っていました。通学や登山路までの交通手段に使っていたのです。今から40年前、原付バイクは年間200万台も売れていました。今は年間10数万台しか売れていません。1/10以下です(自工会調べ)。 現在、高校生がバイクに乗ることはほとんど禁じられていますが、私たちの高校時代、バイクに乗る高校生は多かったのです。今では考えられませんね。 高校3年生の正月1日の払暁、同級生のFM君はバイクに乗って初詣に出かける途中に車と衝突し、翌日には帰らぬ人となってしまいました。 葬儀が終わり、憔悴しきったFM君のご両親が「お坊さんに書いてもらった小さなお守り」を私たちに渡し、 「FMの代わりにこれを持って、あちこちに行ってください」 「FMが経験できなかった色んな経験をしてください」 と仰って一人一人にお守りを手渡されました。私は今も持ち歩いています。受験の時、国家試験の時、山に登る時、手術をする時、海外に行く時、あの時もこの時もです。 この時にはっきりと「交通事故による死」とはどういうモノかを実感しました。悲しい出来事でした。 話は変わります。東日本大震災の時、車が渋滞して逃げられず津波に巻き込まれる映像を見ながら「バイクがあれば逃げられる」と思っていました。大地震が起きたらバイクで一目散に山の方に逃げれば良いのです。バイクなら渋滞はしません。震災復興の案を東北各県で募集していた時、 「地震や津波が予想される地域で各戸にバイクを配置すべき、津波が起きそうになったらバイクで逃げるべきだ、バイクが運転できないなら、あるいは雪が降る地域なら“バギー”を配置したら良い」 という案を真面目に書いて応募しましたが「没」でした。しかし、今でも、津波が起きる地域ではバイクやバギーの活用を積極的に推し進めるべきだと思っています。 話を戻します。大学時代:2回、交通事故に遭ったことがあります。 大学生時代、父から譲ってもらった車を運転していました。自分で事故を起こした事はなかったのですが、希有な経験をしました。 5:車に乗っていて、正面からぶつけられたこと 大学時代1回目の事故です。 一度は、鳥取県米子駅の交番前の交差点での出来事です。赤信号で一番前に停車していた時のことです。正面から車が私の方に向かってきてそのまま私の車に衝突しました。対向車の運転手は私の車の右側の歩道に立っていた友人に手を振っていたのです。運転手の顔は左を向いていて、正面にある私の車を見ていませんでした。そしてそのまま私の車に衝突したのです。 幸い、そんなにスピードは出ていませんでしたのでケガはしませんでした。しかしそれでも車は結構壊れました。私の車は古い車でしたが相手の車は「スカイラインの新車」で運転していたのは免許取り立ての19歳の青年でした。 後日、車の修理費用について相談をしたら「過失割合は2:8だ。あなたも2割負担すべきだと言われました」。私は赤信号で止まっていたので私に過失は一切ないはずです。交番の前でしたので、事故の一部始終を、警察官が見ていてきちんと調書を書いてくれていたのが役立ち、結局、全て相手が負担して車を修理してくれました。この時、学んだのは 「事故を起こしたら警察官を呼んできちんと処理すべき」 ということです。 次回に続きます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/02/25 ※文章中に医学的な説明をするためキズの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 前回ご紹介した「A. 湿潤治療(キズ、ヤケドの治療)」「B. 切り傷に対して、できるだけ縫合をしない治療」に続いて、今回は以下についてご紹介しましょう。 C. 白癬に対する治療(足白癬、指間白癬) D. 小感染巣(いわゆる膿)に対する特殊ドレーンを用いた治療 E. 帯状疱疹発症後の痛みを軽減する「特殊治療」 C. 白癬に対する治療 いわゆる「水虫」です。梅雨の季節になると一日中、ジメジメします。湿度が高くなり、不快な日々が続きます。梅雨は、特殊な気候ですので(世界的に稀)、日本は四季ではなく、五季あるいは秋雨も入れて六季とした方が良いと唱える方もいます。 それはともかく、梅雨に湿度が高くなると、足に水虫を生じることが多く、難渋します。湿度が高い日本で、通気性の悪い革靴を履けば、湿気を好む白癬菌が増えるのは当然ですね。日本皮膚科学会によると日本人の5人に1人は足白癬があり、10人に1人は爪白癬があるそうです(https://www.dermatol.or.jp/qa/qa10/q06.html)。国民病ですね。 足にできる水虫を足白癬と言います。一旦、足白癬になると治癒は難しいと考えられています。治療として、 抗真菌剤の塗布、投与 足を乾燥させる→無理ですね。大気の湿度が高いからです。 靴下を毎日交換する。これは普通のことです。 靴を毎日、交換する。使わない靴は乾燥させる。 風呂上がりに良く足指を拭いて乾燥させる。 消毒薬に足を付ける。 とにかく、たくさんの治療方法、予防方法がありますが、なかなか治りません。 白癬治療にはまず、白癬かどうかの診断が大切です。 ※リンク先にキズの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 典型的な足指間白癬です。 この部分の皮膚を顕微鏡で検査して、白癬菌がいれば診断できます。この診断は言うは易く行うも易しですが、診断というか見極めが難しいのです。 ここにいるだろうと思っても白癬菌がいないこともあります。見つからない場合3つのことが考えられます。 実は白癬では無い。別な疾患である。 白癬がいない部分の皮膚を採取した。 すでに市販の「水虫治療薬」を使っているので白癬は死滅していた。 等々の理由で、これは白癬だ、水虫だと思っても、白癬菌が出ないことがあるのです。理由1の極めて白癬に似た病気は「汗疱状湿疹(かんぽうじょうしっしん)」です。別名を異汗性湿疹(いかんせいしっしん)、指湿疹(ゆびしっしん)、汗疱(かんぽう)などと呼ばれることもあります。 足底や手掌にかゆみを伴う小水疱が出現するのです。白癬と発疹の形態が酷似しています。プロの皮膚科医でも「足白癬」と「汗疱」の区別を視診だけで付けるのは難しいのです。 両疾患ともに共通することがあります。 治りがたい。治癒しても直ぐに再発する。 発疹のカタチが似ている。 しかし、治療は違います。 白癬には、抗真菌剤を使います。汗疱には、ステロイド剤を使用します。診断を誤ると大変です。 白癬なのに、ステロイド剤を使うと悪化します。汗疱に抗真菌剤を使っても良くなりません。 どうしたらよいのでしょう。「解」はあり、当クリニックではこの両疾患に共通する治療を行っています。どちらの疾患でも治癒します。特に指間白癬、指間汗疱は劇的に良くなり、再発しがたいです。 症例2:60代女性 足指間白癬で長いこと苦しんでいた方です 。 治療4日目の写真では、ほとんど治っています。 症例3:40代男性 繰り返す足指間白癬に対して治療を行いました。 治療開始前と治療7日後の写真です。 さて、治療法です。種々の理由があり、治療原理、実際の治療方法は現時点では未公開とさせてください。 もちろん保険適応ではない治療ではありません。保険で認められている治療Aと治療Bを組み合わせるだけです。安価な治療です。足指間白癬あるいは「汗疱」でお悩みの方はご相談ください。 D. 小感染巣(いわゆる膿)に対する特殊ドレーンを用いた治療 梅雨になると動物による噛み傷、引っかき傷で受診される方が増えます。イヌや猫も湿度が高いとイライラするのでしょうか。もちろん、梅雨以外の季節でも動物によるケガは発症します。 さて、動物に噛まれると高率に創感染を生じます。 よく間違えられるので細菌に関する勉強をしましょう。 「ばい菌がいること」=「感染=人体に悪影響を及ぼす」ではありません。人体には常在菌がいます。常駐する細菌です。よく知られているのが、大腸菌です。大腸の中には大腸菌がいますが「感染」は起こしません。他にも人体には多くの細菌がいて、人体の健康に役立っています。 感染には次の4つを伴います。 痛み 発赤 発熱:局所、全身 腫脹:腫れること この4つを発見したのがケルスス(Celsus:1世紀頃のローマの医師、セルサスとも言います)で、この4つを「ケルススの4徴」と言います。 虫歯を考えれば解りやすいですね。虫歯にはこの4つ、(1)痛み、(2)発熱、(3)腫れ、(4)発赤を伴います。 ケガ、ヤケドをした直後の痛みは別にして、一旦引いた痛みが再燃する時は要注意です。実はキズの痛みが感染によるモノか、キズ自体の痛みかを鑑別することが大切です。感染なら抗生物質投与が必要です。これは医師でないとわからないです。キズの治療経験が豊富な医師なら鑑別することは容易です。なお、一番わかりやすい注意信号は「動かさないでも生じるズキズキとした痛み」です。 キズに異物があると感染しやすくなります。動物の噛み傷、引っかき傷が感染するのは、噛まれた皮膚の下に異物(動物の唾液、ゴミ)が入りやすいからです。感染の治療には異物の除去と膿のドレーナージ(=膿を外に出すこと)が必要です。これまでは小さい化膿巣のドレーナージは不可能であるとされていました。小さい化膿巣に入れて、ドレーナージを行うことができる様な細いドレーンは無かったからです。 しかし、細いナイロン糸を創部に入れて、膿を流出させる方法(=ドレーナージ)が考えられ、糸を用いた様々な「ドレーン」が考案されました。今、私が使っているのは、伊豆下田診療所 所長の細井昌樹先生が考案した「コヨリ状ナイロン糸ドレーン」です。 先端が丸くなっているのでキズ口に入れても痛くないように工夫されています。素晴らしい工夫です。 さらに、世界一細いステンレス線を用いて試作したコヨリ状ドレーンもあります。 さてこれをどう、使うか例示しましょう。 症例4:ネコに指を噛まれて化膿した患者さん 以前なら抗生物質を投与して経過を見ていました。でも治癒には時間がかかります。ドレーンを入れることで治癒は早まります。 局所麻酔をしてナイロン糸ドレーンを挿入します。 毛細管現象による糸により作られた小孔を伝わって膿が外に出ます。膿が体内からでると痛みが軽減します。 一週間程度で完治します。 症例5:下腿を強打し、感染を併発した患者さん 皮膚の表面だけ治癒して、膿がたまることを繰り返していました。 上述のステンレスワイヤードレーンを入れて皮膚が閉じないようにして膿のドレーナージを図っています。膿がたまらないと早期に治癒します。 小さなキズでも、しっかり治療しましょう。 E. 帯状疱疹に起因する痛みを取る(軽減する)治療 帯状疱疹は水痘,帯状疱疹ウイルス(Varicella Zoster virus)によって生じます。水痘は英語でVaricella、帯状疱疹はZosterです。ちなみに口唇に生じるヘルペスは単純ヘルペスウイルス1型(herpes simplex virus-1)により生じます。 症例6-1:50代男性 数日前から強い痛み伴った発疹が胸部にできて来院されました。服が発疹に触るだけで痛いそうです。 診断は容易です。神経に沿って発疹があります。典型的な「帯状疱疹」です。 治療には、抗ウイルス薬の内服が必要です。以前は1日5回内服が必要でしたが、段々と治療薬の改善が進み、1日に1回、または1日に3回服用するお薬を使います。初期治療をしっかりとしないと帯状疱疹後神経痛という後遺症が残り、いつまでも痛みが残ります。 さて、この発疹の痛みを早期に取る治療があります。通常は抗ウイルス薬を服用して数日経たないと、この強い痛みは引きません。 しかし!当クリニックでは「痛みが出ている発疹部分を湿潤治療材料で覆う」という治療をしています。そうすると、嘘のように(と皆さんが仰います)痛みが引きます。 症例6-2:同じ患者さんの1ヵ月後です。痛みはもちろんありません。 もし、帯状疱疹かな?と思ったら是非、相談してください。早ければ早いほど、治療は効果的です。なお、キズの治療とは関係ありませんが、「帯状疱疹予防ワクチン」もあります。ご希望があれば接種します。お問い合わせください。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/02/10 ※文章中に医学的な説明をするためキズ、ヤケドの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 前回ご紹介した「A. 湿潤治療(キズ、ヤケドの治療)」に続いて、今回は「B. 切り傷に対して、できるだけ縫合をしない治療」についてご紹介しましょう。 B. 切り傷に対して、できるだけ縫合をしない治療 包丁やナイフで手を切ってしまったり(=切創、切り傷)、頭や足を硬い場所(コンクリートなど)にぶつけると皮膚が裂けます(=挫創:ざそう)。切創とか挫創は皮膚が断裂している状態です。このような場合、普通は糸(ナイロン、ポリプロピレン、絹糸など)による縫合を行って治療します。 いわゆる「キズを縫う」のが縫合です。縫合を行うには縫合する部分に局所麻酔を行う事が必要です。局所麻酔の注射は最初痛いですね。また、使う糸、縫合箇所によっては縫合により「魚の骨」のようなキズアトが残ります。キズアトができるだけ残らないようにするには「縫合しない」方が良いのです。 外科医としては縫合したいところですが、キズアトを考えると縫合したくないです。今、切創、挫創を縫合しないで治すさまざまな方法が考えられています。当クリニックでも縫合しないでキズを治す方法を行っています。 (1)1つは特殊なテープを用いた方法 (2)毛髪を用いた方法です(頭部の創に限ります) (3)ステンレスワイヤーを用いた治療 最初に(1)の特殊なテープを用いた方法をお目にかけましょう。 ※リンク先にキズの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 症例1:指を包丁で切ってしまった患者さん 縫合します。 切れている部分を特殊なテープで固定します。 1週間ほど、テープで固定を続けると切れていた部分はきれいに治ります。 症例2:指をお皿で切った患者さん テープで固定、治癒しました。 症例3:顔面挫創:左眼の横をぶつけた患者さん テープで固定します。 きれいに治ります。 どこにでもできるわけではありません。曲げたり伸ばしたりする箇所や足底などは適応がありません。 次に「毛髪」を用いた縫合治療です(くどいですが頭部のキズに限ります)。 毛髪縫合症例1:30代男性 つまづいて頭部を家具に強打した患者さん。 頭皮が裂けています。 髪の毛を糸代わりにして結び、特殊な糊(医療用アロンアルファ)で結び目を緩まないようにします。無麻酔で「縫合」が終わります。 きれいに治ります。 毛髪縫合症例2:3歳男児 転んで頭部をコンクリートにぶつけました。 頭皮が裂けています。普通なら、押さえつけて麻酔をして縫合しますが、当院では頭髪を用いて縫合します。 髪の毛を縫合糸代わりにして結び、医療用アロンアルファで結び目を緩まないようにします。もちろん、無麻酔です。ニコニコしながら治療は終わります。 きれいに治ります。一部、髪の毛が少ないように見えますが、結び目の髪の毛を切ったためです。 毛髪縫合症例3 髪の毛が寂しい方でも治療ができます。この方も硬い場所に頭部をぶつけて頭皮が裂けています。普通なら、局所麻酔をして縫合です。 症例1、2と同様な方法で髪の毛縫合を行います。 このようにきれいに治ります。髪の毛縫合を行って、2日は頭皮を洗うことは止めていますが、それ以降は構いません。 こういう頭皮の切り傷は普通なら、縫合するか、医療用のホッチキスで治療します。「髪の毛縫合」は少し難しいです。髪の毛は細いからです。頭皮の切り傷、挫創を髪の毛縫合で治療している医療機関はほぼゼロだと思います。頭皮にケガをしたら相談してください。 ステイプラーで頭皮を縫合しています。 見るだけで痛そうです。これだけ髪の毛があれば、簡単に髪の毛縫合ができます。 ステンレスワイヤーによる治療です。模式図です。 赤字部分が切り傷 キズの横にワイヤー付き特殊絆創膏を置きます。 ワイヤーを巻きます。 傷口が塞がります。 実際の治療例:ガラスの破片で手を誤った切ってしまった患者さん 次回は、 C.白癬に対する治療(足白癬、指間白癬):いわゆる水虫です。 D.小感染巣(いわゆる膿(うみ))に対する特殊ドレーンを用いた治療 を紹介しましょう。足白癬、指間白癬は簡単に治ります。 動物咬傷は高率に感染(化膿)を伴います。そういう場合、威力を発するのが、特殊ドレーンを用いた治療です。 【参考文献】 夏井睦著:傷はぜったい消毒するな (光文社新書) 夏井睦著:さらば消毒とガーゼ 「うるおい治療」が傷を治す 春秋社刊 Hock MO et al. Ann Emerg Med. 2002 Jul;40(1):19-26. A randomized controlled trial comparing the hair apposition technique with tissue glue to standard suturing in scalp lacerations (HAT study). Karaduman S1et al. Am J Emerg Med. 2009 Nov;27(9):1050-5. doi: 10.1016/j.ajem.2008.08.001. Modified hair apposition technique as the primary closure method for scalp lacerations. 【参考サイト】 新しい創傷治療:http://www.wound-treatment.jp/ 夏井睦先生のサイトです。治療方法,治療経過など盛り沢山です。是非、ご覧下さい。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2020/01/27 ※文章中に医学的な説明をするためキズ、ヤケドの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 正月明けは仕事をするのが辛いですね(この原稿を書いているのはお正月明けです)。今回から数回にわたり私のクリニックで行っている外科的な治療を紹介します。もちろん、どの治療も「保険診療」です。 なお、本稿で紹介するキズ、ヤケドの治療について講演を行います。 本稿をお読みになって、こういう治療についてご興味を持たれた方はいらしてください。 演題名 「“知って安心!湿潤治療の基礎知識”~正しい知識を身につけよう!~」 講師 芝浦スリーワンクリニック 望月吉彦 日時 2020年3月15日(日) 場所 ちよだプラットフォームスクウェア 東京都千代田区神田錦町3-21(地下鉄竹橋駅徒歩2分) 連絡先 第六回モイストケアフォーラム http://moistcare.org/events/2020-moistcareforum.html それはともかく、今回から紹介する項目を挙げます。 A. 湿潤治療(キズ、ヤケドの治療) B. 切り傷に対して、出来るだけ縫合をしない治療 C. 白癬に対する治療(特に足白癬、趾間白癬) D. 小感染巣(いわゆる膿)に対する特殊ドレーンを用いた治療 E. 帯状疱疹発症後の痛みを軽減する「特殊治療」 F. キズを縫う場合があります。その際も6-0 ナイロン糸という細い糸を用いて縫っています。細い糸を使うと縫ったアトがあまり目立たなくなるからです。 今回は、「A. 湿潤治療(キズ、ヤケドの治療)」についてご紹介しましょう。 A.湿潤治療 これまでにも紹介してきた「キズ、ヤケド」の治療です。 傷は消毒しないとキレイに治る ブラジルでも湿潤治療を!(1) ブラジルでも湿潤治療を!(2) 当クリニックでこのような治療を行っていることを知らない方が多いので再度紹介させていただきます。 この湿潤治療の基本は 「キズを乾かさない」 「キズを消毒しない」 で「キズ」を治す方法です。「キズ」とは何でしょうか?キズの原因は様々です。 すり傷 ヤケド 切り傷 その原因は様々です。 このように色々なキズがありますが、 「キズとは皮膚の正常な細胞が損傷を受けた状態」 つまり正常な細胞が失われている状態です。それなら、キズの治療は 「皮膚の正常な細胞が増やすような治療」 をすれば良いのです。つまりそれは「細胞培養」と一緒です。細胞培養を行っているシャーレに 細胞障害性のある消毒液を入れたり 乾燥させたり するでしょうか?しないですね。 そんなことをすれば細胞は死滅してしまうからです。 現在行われている普通の外科処置は キズを良く消毒する 傷口にガーゼを当てて乾燥させる の2つが基本です。10数年前まで、私もそうしていました。 しかし、現「なつい キズとやけどのクリニック」院長の夏井睦(まこと)先生が1996年に考案した「湿潤治療」を知り、夏井先生のキズの治療に関する本を読んだり、実際に夏井先生の行っている治療の見学を行い、その劇的な効果を目の当たりにしてから「湿潤治療」を行うようになりました。 この治療を行うとキズが 早く 痛くなく きれいに(あまりアトが残らず) 治ります。例外があります。低温熱傷と火による高温熱傷です。この2つの熱傷はキズが深くなるので、瘢痕形成や色素沈着を残します。それでも従来治療に比してかなりきれいに治ります。 キズの治療で人生が変わってしまうかもしれません。大げさと言われるかもしれません。しかし、下図のように「湿潤治療」行った場合と行わなかった場合で随分とキズアトが違います。 向かって左側が「真の治癒」で向かって右側は「ニセの治癒」と思っています。右側の女児は、某大病院で普通の消毒+ガーゼの治療を受けています。右側の患者さんと左側の患者さんはどちらも熱傷が手にかかっています。治療で人生が変わると言うのは大げさでしょうか? 顔に熱湯を浴びた患者さんを紹介します。 従来の治療を行っていれば、間違い無く顔に瘢痕が残ります。「瘢痕が残れば人生が変わっただろう」「私の治療経過を使って湿潤治療を広めてください」とこの患者さんは言っていました。 湿潤治療を行うのは簡単です。誰でもできます。しかし、キズの観察は「難しい」かもしれません。どのようなキズの治療をしても「感染」は1%くらい生じます。感染は細菌がキズ口で暴れ出すことです。皮膚には多くの細菌が生息しています。無菌ではありません。細菌が「いること」と「感染」は別物です。「異物」があると感染しやすくなります。異物とは通常体内には無い物です。例えば、砂、木、金属、などです。これらがあると高率に感染を生じます。また、皮下血腫(いわゆる青あざです)も感染の原因になります。 なおほとんどのキズには受傷時からの抗生物質投与は不要です。なぜなら、抗生物質投与は「感染」に対して行う治療で、将来起きるかもしれない「感染」に対しての抗生物質の予防的投与は常在細菌(元から皮膚にある細菌)を壊すので良くありません。 ただし、砂やゴミなどでひどく汚染されたキズの場合、数日投与することがあります。 キズが砂で汚染されている時は破傷風トキソイドワクチンを注射します。牧草地の土壌で汚染されたキズ、破傷風トキソイドワクチンの接種歴が不明な場合は、抗破傷風ヒト免疫グロブリンの投与も行う必要があるかもしれません。なお、破傷風菌は今度1000円札の「顔」になる北里柴三郎が発見しています。 話は戻ります。湿潤治療の基本を示します。 以上です。治療の実際を示します。 外傷とヤケドでは多少治療方法が違います。 本当に消毒しないで良いのでしょうか?とよく聞かれます。 ペニシリンを発見してノーベル賞を受賞したイギリス人医師のフレミングが100年も前に「キズは消毒すると治りが悪いこと」を発見して論文にしています。第一次世界大戦に従軍してキズの治療に当たった時に発見した事を論文にしたのですね 。フレミングについては以前のコラムをご参照下さい。 「ペニシリンの発見及びペニシリンがお薬になる」までのあり得ない偶然の数々の物語(1) 「ペニシリンの発見及びペニシリンがお薬になる」までのあり得ない偶然の数々の物語(2) 「ペニシリンの発見及びペニシリンがお薬になる」までのあり得ない偶然の数々の物語(3) キズの処置方法により治り具合が違っていることを示した論文です。上図の青い矢印部を見てください。Without antiseptic群(antiseptic=消毒薬)、つまり消毒薬を一切使わずキズをただの水で治療した群の治療成績が一番良いのです。この論文の結語に「消毒するのは良くない」と書いてあります。後に、消毒薬はキズの治療には良くないという論文が多数出ています。 しかし、キズの治療には「消毒してガーゼを当てる」のが今でも主流です。というか、それ以外の治療をしているところは極めて少ないのです。なぜ、科学的に正しい治療=湿潤治療が広まらないのか、色々な理由が考えられますが,本稿では深入りしません。 話は変わります。キズの治り方には二通りあることをご存じでしょうか? 浅いキズ=毛孔、汗管が残っているキズ 深いキズ=毛孔、汗管が損傷を受けているキズ 毛孔、汗管が残っていると、毛孔、汗管の孔の中にある表皮細胞が損傷したキズの表面に増殖してキズが治ってきます。 湿潤治療をキズに対して行うとどうなるか。お目にかけましょう。最初に様々なケガの治療です。 ケガの治療例 ※リンク先にキズの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 図10:ケガ治療例(1) 36歳 男性 誤って鉈(なた)で指先を切断してしまいましたが、 14日で治癒。 これは夏井先生の症例です。劇的です。 図11:ケガ治療例(2) 38歳 男性 転倒して顔面にキズを負っています。 キズの部分には湿潤治療材料を当てて治療しました。10日目にはほとんどアトが残っていません。 図12:ケガ治療例(3) 55歳 男性 糖尿病性壊疽の症例です。 足を切断される寸前でした。この方は、もちろん、今はなんともありません。 糖尿病の方は,動脈硬化の進行が早い事(=血流が悪い)、細菌感染を生じやすいことから、小さなキズからでもこのような状態になりやすいのです。糖尿病のコントロールが悪いといくら湿潤治療をしてもこのような糖尿病性壊疽によるキズは治りません。血糖値のコントロールが必要です。 この方は、夏井先生が湿潤治療を行い、私のクリニックで糖質制限による糖尿病のコントロールを行いました。血糖値のコントロールが良くなるとみるみるうちにキズの状態が良くなってきました。糖尿病の方がキズを負った時、よくよく御自身で考えてください。 少し生々しいので写真に加工を加えています。 図13:ケガ治療例(4) 39歳 女性 下腿を強打後に皮下血腫に感染を生じています。 下腿を強打、皮下血腫(いわゆる青あざ)が生じ、その血腫に感染を生じています。来院時、かなりひどい事になっていました。脛骨(向こうずねの骨)が見えていたので、さすがに入院加療を勧めましたが、仕事が忙しくどうしても通院で治療したいとの事で、当院で治療を行いました。普通は入院して筋皮弁移植です。経口抗生物質の投与と水道水によるキズの洗浄、湿潤治療、貯まった膿(うみ)の体外への排出を行いました。3ヵ月で治癒しました。 ヤケドの治療例 ※リンク先にキズの写真があります。苦手な方はお気をつけください。 図14:ヤケド治療例(1) 1歳男児 1歳男児:お湯によるヤケドです。 1歳男児です。お湯による熱傷です。前述のごとく、お湯によるヤケドは深くなることが少ないのできれいに治ります。水疱膜を全て除去します(これがとても大事です)。水疱膜は壊死した組織ですから感染の原因になります。 20日で治ります。 図15:ヤケド治療例(2) 1歳女児 お湯によるヤケドです。 図16:ヤケド治療例(3) 40代女性 お湯によるヤケドです。 初診時と治療開始後、1週間の写真です。この時点で治療は、ほぼ終了。 半年後の写真です。ほぼヤケドのアトが解らなくなっています。 図17:ヤケド治療例(4) 30代女性 天ぷら油によるヤケドです。 誤って煮えたぎる天ぷら油の中に手を突っ込んでしまったのです。聞いただけで痛そうですね。 1枚目は初診時の写真です。いつものごとく、水泡は全部除去します。 水疱を切除し、2週間で治療は終了しました。 一番下は治療終了後、半年後の写真です。 この手がヤケドを負った手だとわかる人ほとんどいないと思います。良くなった写真だけ掲載していると思われると困るのですが… なお、湿潤治療を行っても「キズアト」が残る場合があります。 湿潤治療開始が遅れた場合:受傷後早期の治療開始が必要です。受傷後1週間以上経過すると、湿潤治療を行っても治りが悪くなります。 永久脱毛箇所のキズ、ヤケドは治りが遅くなります。 上述の如く、浅いキズは毛孔、汗管から治ってきます。永久脱毛をしている箇所は毛孔が傷害されているため、キズの治りが悪くなります。若い女性の下肢のキズですが、湿潤治療を行っても治りが悪い事が続いたときに「永久脱毛」に気づきました。永久脱毛をしても構いませんが、その部位はキズ、ヤケドの治療が遷延すると表下さい。 女性の下肢:構造的に女性の下肢はうっ血しやすいので、血腫が生じやすく、それ故に治りが悪い場合があります。 低温ヤケド:低温という言葉に惑わされるのですが、低温ヤケドは、低温ゆえに深いヤケドになり、治癒が遷延します。それでも治るのですが、ヤケドアトは残ります。 図18:低温ヤケドの例 一見すると大した事が無さそうです。しかしこのような瘢痕を作ります。 湿潤治療を行っても低温ヤケドはアトが残ります。 火によるヤケドも損傷が皮膚深部まで到達しているので、ヤケドアトが残ります。しかし、消毒+ガーゼ治療だと治癒まで時間がかかります。 多数治療例があります。治療経過は患者さんの許可が得られた場合は全て写真に撮ってあります。 湿潤治療を行えば、劇的に良くなります。できるだけ早期に治療を開始すれば 早く、あまり痛くなく、しかもきれいに治ります。キズを負った時、思い出してくだされば幸いです。治療は簡単ですが、治療経過の観察にはやや外科的な知識が必要です。キズを負った時はぜひご相談ください。 次回は「B.切り傷に対して、できるだけ縫合をしない治療」を紹介します。 【参考文献】 夏井睦著:傷はぜったい消毒するな (光文社新書) 夏井睦著:さらば消毒とガーゼ 「うるおい治療」が傷を治す 春秋社刊 Hock MO et al. Ann Emerg Med. 2002 Jul;40(1):19-26. A randomized controlled trial comparing the hair apposition technique with tissue glue to standard suturing in scalp lacerations (HAT study). Karaduman S1et al. Am J Emerg Med. 2009 Nov;27(9):1050-5. doi: 10.1016/j.ajem.2008.08.001. Modified hair apposition technique as the primary closure method for scalp lacerations. 【参考サイト】 新しい創傷治療:http://www.wound-treatment.jp/ 夏井睦先生のサイトです。治療方法,治療経過など盛り沢山です。是非、ご覧下さい。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2020/01/06 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。 さて、2020年正月第一号は、こんな歌の紹介から初めて見たいと思います。 一休禅師(1394年―1481年:享年87歳)の作った歌です。 「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」 一休の著した『狂雲集(きょううんしゅう)』に載っている歌です。 一休は皮肉めいた言動、機転の利いた言動で有名です。それが故に、とんちの「一休さん」のモデルになったのでしょう。 おめでたい正月に、わざわざ不吉?な歌を詠むのも一休さんらしいですね。一休さんが生きた時代と今はだいぶ違います。一休の生きた1400年頃、日本人の平均寿命は正確にわかりませんが、15歳前後ではないかと推定している研究者もいます(参考文献5)(図録▽平均寿命の歴史的推移(日本と主要国))。そういう時代に正月を迎えられる(=年を重ねられる)のは、普通の人にとっては慶事です。めでたいと喜ぶのが普通ですね。しかし、一休は正月を迎える事は年を取る(=死に近づく)事だとも言っているのです。一休は当時としては異例の長寿者です。長生きをしている間に色々な経験をしたのでこのような事を言うようになったとも推測されます。 西欧世界でも、一休の言った事と同じような事が言い習わされています。 「メメント・モリ」(注:ラテン語 memento mori) →「必ず死が訪れることを忘れるな」「死を忘れるな」です。 さて、正月早々縁起でも無いとお思いでしょうが、一休禅師に倣って「死」について考えて見たいと思います。 突然死例の多くは死因が不明 大動脈瘤(だいどうみゃくりゅう)という病気があります。身体の中にある大動脈が太くなる病気です。大動脈が太くなりすぎると破裂します。アインシュタイン、司馬遼太郎は腹部大動脈瘤破裂で、最近では俳優の阿藤快が胸部大動脈瘤破裂でお亡くなりになっています。 大動脈瘤のほとんどは症状が無いために診断が遅れることがあります。司馬遼太郎が大動脈瘤破裂を起こす直前に書いた随筆を、読み直してみると腹部大動脈瘤がかなり大きくなっていることを示唆している症状があることが解ります。曰く、 「背中が痛い」 「足が時々冷たくなってしびれる」 と書いています。これらは、後から考えると、腹部大動脈瘤がかなり大きくなってきたために生じた症状だと解ります。 大動脈瘤のほとんどは症状が無いと記しましたが、自分にも他人にもわかる「大動脈瘤の症状」があります。それは「大動脈瘤の破裂」です。 東京都監察医務院によると突然死の死因の4番目が大動脈瘤破裂です。破裂した方の何割が病院に来ることができて手術を受けることができるか統計がありません。ほとんどは即死するのではないかと「思います」。「思います」と書いたのは日本では「突然死例の多くは死因が不明」だからです。 今号はその「突然死」について考えて見たいと思います。 大動脈瘤破裂のように時や場所に関わりなく「突然死」する可能性がある病気があります。事故や事件でお亡くなりになることもあります。 「突然死」した場合、死因を明らかにすべく、解剖や検査を行う制度があり、それを監察医制度と言います。 監察医制度が実際に「正常に」機能しているのは東京、大阪、神戸の3都市しかないと言われています。これらの都市で、突然死した場合は監察医がその死因を明らかにするために解剖を行います(後述)。全例ではありません。 それ以外の道府県ではどうかというと、突然死をしても特に事件性が無いと思われる場合、解剖が行われず、「急性心不全」などの病名が付けられて『処理されています(いました?) 』。「急性心不全」は正確には病名ではありません。急にお亡くなりなった状態を表す言葉が急性心不全です。なおあえて、『処理されて(いました?)』と記したのは2018年4月、法律が改正され警察署長の判断で解剖が必要と認めれば監察医務院のない県でも解剖が行えるようになったからです。これを「新法解剖」と言います。しかし、後述の如く、それは簡単ではありません。 それはともかく、学生時代、少数の府県でしか実行されていない「監察医制度」のことを法医学の授業で聞いてから、なにか変だと思っていました。救急治療を行っている病院に勤務していると「突然死」で搬送されてくる患者さんがいます。その多くは持病があり、何らかの治療や投薬を受けていることがほとんどですので「それなりの病名」を付けて死亡診断書が書かれます。持病が明らかで無いのに突然死した方は、前述の如く「急性心不全」という病名を付けられて「処理」されていました(います)。 変ですね。 行政に関すること、法律を変えるのは簡単ではありません。多くの人は、こんなモノだと諦めます。 でも諦めない偉い人はいます。 「死後にCTやMRを行い、死因を明らかにする努力をすべきだ」 「そんなことで良いのか? 東京、大阪、神戸以外で突然死した方の死因はどうでも良いのか?東京、大阪、神戸だって解剖率は高くない、つまり日本は死因不明社会だ」と言い出したのが、現在は国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構QST病院臨床検査室医長の江澤英史先生です。QST病院とは「National Institutes for Quantum and Radiological Science and Technology」から取った略称です。わかりづらいですね。 それはさておき、江澤先生は突然死を含め、実質的に、死因が不明のまま処理されるのはおかしい、それなら「死後にCTやMRを行い、死因を明らかにする努力をすべきだ」と提案したのです。死後にCT、MRを行うのをAi(Autopsy imaging:オートプシーイメージング)と言います(注参照)。 Aiは1999年11月のある日に江澤先生が考えついた概念です。Aiの命名者は江澤先生の同僚だった吉川京燦(よしかわきょうさん)先生です。ちなみに江澤先生は病理解剖を行う病理医で、CTやMRの診断を行う放射線科医ではありません。 ここで、少し「解剖」について説明します。 「解剖」は三つに分類されます。 正常解剖:献体された御遺体を解剖することで医学の基礎を学びます。 病理解剖:病気でお亡くなりになった方の死因、病因を明らかにするために行います。 法医解剖:以下の二つに分かれます。 司法解剖:犯罪性のある死体の死因などを究明するために行われる解剖 注:しかし、警察の死体取扱い件数のほとんどが司法解剖されていないのが現状(法医学専門医の不足、予算不足などの理由により)。 行政解剖:死因がはっきりとしないが犯罪性がないと思われる異状死体に対して、死因の究明を目的として行われる これは東京、大阪、神戸にある監察医務院で行われます。 病気が不明の「変死体」の解剖はつまり法医解剖されることになります。問題は解剖がなされる「率」です。死因がはっきりとしない場合、米国では50%、イギリスでは60%が解剖されています。解剖=死因究明ではありませんが、それでもかなり多くのことが解剖をすることでわかります。 さて、我が日本ではどうでしょう。東京、大阪、神戸には監察医務院があるので、3%前後が解剖されています。しかし、監察医制度が無い道府県において低いところは0.1%しかありません。 私が冒頭で、大動脈瘤破裂で即死するのがどれくらいあるかわからないと記したのは、このように日本は「死因不明社会」だからです。もちろん全例が死因不明ではありません。日本では病院での死亡が8割、2割は死因不明の急死、変死、事故死です。急死した場合、解剖が行われない(9割以上は行われていない)と死因は不明なまま処理されてしまいます。江澤先生は実際に病理解剖を行っていますが、その中で日本は死因不明社会だと気づいたのですね。怖い話ですが、他殺でも体表面に外傷などがないと「急性心不全」で済んでしまうのです。 有名なのは、看護師4人組で男性2名を巧妙な方法で殺した「久留米看護師連続保険金殺人事件」です。殺された一人は空気を静脈から注射して殺害され、もう一人は胃管から大量のアルコールを注入して殺害されています。後に仲間割れするまで、どちらも病死として扱われていました。前者の空気注入による殺害はAiがあれば簡単に死因はわかるので事件として扱われたと思います。このように突然死には「闇」があります。ここでは書けないとてつもなく深い「闇」もあります。 日本はある意味特殊です。日本では 病理解剖ができる医師も、法医解剖ができる医師も極めて少数で、予算も少ない。つまり、病理解剖も法医解剖もほとんど行われていない。 しかし CT、MRの人口当たりの普及率は世界一です。 つまり、解剖はなかなかできないけれど、診断機器はたくさんあるのが日本です。豊富にある診断機器を用いてAiを行えば死因の究明に役立つと江澤英史先生が思いついたのです。それが1999年のことです。同時期に筑波メディカルセンター病院放射線科の塩谷清司先生がAiと概念が重なるPMCT(Post Mortem Computed Tomography:死後CT検査)の研究を始めていました(注:PMCTの創始者は、筑波メディカルセンター病院の救急部長だった大橋教良先生で、1985年のことです)。 江澤先生は塩谷先生とコンビを組んでAiという概念を日本や世界に広め、なんとAi学会まで作っています。 江澤先生は「海堂尊」のペンネームで小説を書いています。「チーム・バチスタの栄光」、「ブラックペアン」などのベストセラーを沢山書いているので知っている方も多いと思います。これらの小説の中で、もちろん、Aiがいかに大事か説いています。医学的なAiに関する著作も多く、これらを読むと海堂尊医師(=江澤英史先生)は「Ai命!」だということがわかります。「ゴーゴーAi」という本には1999年当時、無名の医師だった江澤英史先生が多くの医師、診療放射線技師、そして行政にAiを提案し、苦労をしながらAiという概念を広める様が書かれています。 Ai開始当初、江澤英史先生は文字通り孤軍奮闘でした。初期の頃に孤軍奮闘していた江澤先生をそっと助けてくれたのが、元新潟県知事だった米山隆一先生です(突然、知事を辞職することになってしまいましたが、本書を読む限り良い医師だと思いますし、そもそも辞職する必要など無かったと思っています)。 段々と広まるAi 現時点でまだAiは正式に認定された制度ではありませんが、段々と広まっています。今では突然死の4割にAiを用いた診断が行われるようになり、多くの死因が明らかになってきました。 2014年からは小児の急死、変死例には基本的にAiが導入され、生前に受けた虐待による死亡例が見つかっています。Aiが子供に導入されたことで、虐待の抑止力になるかも知れません。このように、Aiは段々と社会に認知され、社会を変えつつあります。 Aiは画期的な方法です。世界でも類例を見ません。「解剖」という特殊なことは行いません。ちょっと気味が悪いかも知れませんが、ご遺体をCT、MRで検査する、それだけでわかることはたくさんあります。動脈瘤の破裂など簡単に診断ができます。脳梗塞、脳出血などの診断もできます。外傷の診断もできます。利点しか浮かびません。 健康を考える時、死因を分析することはとても大切です。今号でお伝えしたようなことも新年を機に考えて頂ければ幸いです。 あまり不吉なことばかり、新年早々書くのも気が滅入ります。きれいな富士山の写真を掲げて終わりとします。河口湖から撮影した富士山遠景です。 一富士二鷹三茄子と言います。良い夢をご覧下さい。 【参考文献】 海堂尊「死因不明社会―Aiが拓く新しい医療」(ブルーバックス) 海堂尊、 山本 正二「死因不明社会2 なぜAiが必要なのか」 (ブルーバックス) 海堂尊(=江澤英史)「ゴーゴーAi アカデミズム闘争4000日」(講談社) 塩谷清司「死亡時画像 ―歴史と最近の動向―」 http://www.eiken.co.jp/modern_media/backnumber/pdf/MM0710-04.pdf 「日本人のからだ―健康・身体データ集」鈴木隆雄(1996) 朝倉書店 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/12/16 電子カルテ時代に必須のスキルとは 今年も今回が最後です。今年もお読み頂きありがとうございました。 今、多くの病院で電子カルテを導入しています。電子カルテがすべて良いわけではありませんが、一昔前は判じ物のような文字、「他人にはもちろん」後で読もうとしても「自分でも読めない」文字、さらには、いい加減な外国語(主にドイツ語)で書いたカルテを多く見ました。 読めないカルテを読める看護師さん、読めない処方箋が読める薬剤師さんというような特殊技能?の持ち主もいました(います)。 医師はドイツ語でカルテを記していると思われていました。今も、そう思っている方も多いかも知れません。それは「嘘」です(参考記事:『百人一首』は宇都宮が起源?AKB48の起源は平安時代から?)。 「ドイツ語まがい」でカルテを記していました。良いことではありません。ドイツ語で、日本人の患者さんの病状を正確に記すことはできません。 今は電子カルテが普及しつつあります。もちろん、日本語で記載します。というかキーボードで入力します。 厚労省HPより引用 電子カルテは2001年から運用が始まり、段々と使用率が上昇していますが、当初の目標だった400床以上の病院の6割での使用には至っていません。 電子カルテはとても便利ですが大きな問題がいくつかあります。 使っている電子カルテのソフトが違うと病院を移る度にその操作を覚えないといけません。 患者さんを診るより先に電子カルテの使い方を覚えないと働けないので、大変です。紙カルテ時代なら、勤務開始日から診療ができましたが、今は勤務開始前に、電子カルテ操作を覚えないと医療ができません。 自分でカルテを書くのに使った登録辞書、医学辞書が引き継げません。 これは結構悲しいです。病院を移ると数年かけて作った自分なりに工夫した辞書が使えないので不便です。 病院間どうしでのデータのやりとりがオンラインでは、できません。 つまり患者さんのデータのやりとりは未だにデータを印刷して行います。 ちなみにフィンランドの電子カルテネットワークは富士通製で、フィンランド国内で病気になって、かかりつけ医以外に受診しても、それまでの病歴、薬歴、検査歴などがすぐにわかるようになっています。いい加減な治療、いい加減な病歴記載をしていると他の医師に解ってしまいます。それもある意味、良いことだと思います。仲間同士の評価ができます。 それはともかく、日本の電子カルテシステムの将来を考える時期になっていると思いますが、電子カルテを作っている会社はたくさんあり、なかなか前に進まないでしょう。 今回は、電子カルテ入力に必要なスキル、あれば便利なソフトなどをご紹介しようと思います。最初に紹介するのはタッチタイピングです。 「寝ころびながらでも、一週間でタッチタイプができるようになる」 10数年前に勤務していた病院で電子カルテが導入されました。当時、論文を書くのにワープロ(ソフト)を使うようになり、キーボードと画面を何回も見ながら、指でパチパチとゆっくり入力していました。雨だれ式タイピングでした。同僚だった麻酔科のI先生は両手でキーボードを見ずにパソコンの画面だけを見て素早く、タイピングしていました。タッチタイピングをしていたのです。それを見て自分もあのように入力したいと思っていました。映画「ローマの休日」で記者役をしていたグレゴリー・ペックがタッチタイピングをしているのを見て、あれくらい早くキーボードが打てればいいなあと思ったりもしていました。 そんなことを考えていた時に、たまたま、当時東京大学医学部付属病院麻酔科の諏訪邦夫先生が書いた「キーボード革命―情報電子化時代への基本技術(中公新書)」を読み、タッチタイピングの重要性やタッチタイピングの方法論を学びました。 諏訪先生は将来、キーボードでカルテを打つことが普通になる、論文を書くのも同様である、ゆえにタッチタイピングを覚える必要があると繰り返し説いていました。この諏訪先生の本と、もう一冊タッチタイピングの教則本を購入して練習しました。後者のタッチタイピングの教則本はあまりに素晴らしい本だったので、皆に勧めたり、貸したりしてるうちにどこかに行ってしまいました。書名も著者名もわかりません。確か 「寝ころびながらでも、一週間でタッチタイプができるようになる」 というような題名の本でした。タッチタイピングは寝ころびながらあるいは風呂に入りながらでも学べることがこの本でわかりました。キーボードを見ないでの練習が半分、実際のキーボードでの練習が半分というような方法が書いてありました。簡単にその方法を紹介しましょう。 QWERTYキーボードを使う。 通常のキーボードです。左上がQWERTY配列です。 QWERTYキーボードのキーの配列を覚える。 キーの配列を覚えるには、声に出して覚える事が必要、キーボードにある場所を頭に思い浮かべながら、声に出して覚える。 これは寝転びながらでも、お風呂に入ってもできますね。周りに人がいると困りますが… 左上:QWERT (キュー ダブリュー イー アール ティー) 右上:POIUY(ピー オー アイ ユー ワイ) 左中段:ASDFG (エー エス ディー エフ ジー) 右中段:; LKJH (セミコロン エル ケー ジェイ エイチ) 左下段:ZXCVB (ゼット エックス シー ブイ ビー) 右下段:/.,MN(ダイアゴナル ピリオド カンマ エム エヌ) これを数日唱えていたら、たしかに覚えてしまいました。 覚えたら実際にキーボードを操作する。ローマ字入力を覚える。先ず、母音を覚え、次に子音を覚える。 最初はAIUEOを打てるようにする。もちろん、タッチタイピングで入力する。次にKA KI KU KE KO SA SI SU SE SO、、、と打ってみましょう。 そういう方法論でした。 たしかにキーボードの位置を覚え、AIUEOを打てるようになると、段々と打てるようになりました。今なら、タッチタイピング練習ソフトがたくさんあるので、もっと早く覚えることができるかもしれませんが当時、そんな便利なソフトはありませんでした。 しかし、上述の本の記述通りに練習したら、本当に一週間程度で、タッチタイピングができるようになりました。やってはみるモノですね。これができるとキーボードを見ながらポツポツと打つ雨だれ式タイピングが不要なります。首の疲れが格段に減りました。 話は変わりますが、心臓手術には拡大鏡が必要です。拡大鏡は焦点深度が決まっているので、首をあまり動かすことができません。ですから、手術が終わると首が痛くなります。雨だれ式タイピングだと、カルテを書くのに目をPCの画面とキーボードと何回も行き来させる必要があり、首が痛くなります。それが無くなり、首が格段に楽になりました。患者さんの顔を見ながら、カルテを書くこと(打つこと)もできます。タッチタイピングができるようになり、カルテを打ち始めた当時は患者さんが驚いてくれました。 諏訪先生が説くようにタッチタイピングを覚えると良いことばかりでした。というわけで、電子カルテ入力に限らず、タッチタイピングを覚えましょう。一旦覚えると、何時までも使えます。デジタル時代に必須のスキルだと思います。 ここで、余談を少しします。キーボードに慣れてくると、右手だけ、あるいは左手だけで打てる言葉があることに気づきました。 1. 右手だけで打てる言葉(右手側には母音がOとIとUの3つあるので右手だけで打てる単語の方が多いですね、多分) 公共広告機構 koukyoukoukokukikou 19文字 驚異の驚異 kyouinokyoui 12文字 富士急行 hujikyuukou 11文字 藤子不二雄 hujikohujio 11文字 U字工事 yuujikouji 10文字 番外 飛行場の飛行機:hikoujyounohikouki 18文字 2. 左手だけで打てる言葉(左手側には母音が2つ、AとE) 渡良瀬川 watarasegawa 12文字(この川のそばに住んでいたことがあります) 早稲田 waseda 6文字 明後日 asatte 6文字 似たようなことを考える人がいて、右手だけで打てる言葉だけをたくさん採取しています。なぜか左手だけで打てる言葉は採取していません。謎です。 右手だけで打てる言葉の一覧(ニコニコ大百科) 閑話休題、音声入力が段々と発達してもキーボードは残ると思います。そういうわけで、タッチタイピングはこれからも、大学生や社会人にとって必須の技能だと思います。 こんなソフトやこんなモノを使っています さて、今度は電子カルテなどの文章を書くのに私が使っているソフトを紹介します。 1.「ATOK」 https://atok.com/index.html 日本語変換はATOKを用いています。医学辞書が充実していますので愛用しています。MS-IMEは自然な変換がまだまだです。不十分です。最近はGoogle-IMEも使っていますが、使い勝手はATOKに一日の長があります。 注:ATOKには様々な機能があります。あまり知られていないけれど、とても便利な機能を紹介します。 「SHIFT+変換」を用いるとラテン文字入力した後でも、ローマ字入力にすることができるという機能です。 ATOKを使って文字を入力している時、ラテン文字だけ入力後に「SHIFT+変換」を押すとローマ字入力になります。これは,かなり便利です。 asatte →「SHIFT+変換」→明後日と変換されます。もちろん「明後日」のほかにも候補がでます。要するに「SHIFT+変換」と押すと、ローマ字入力になるのです。 2.「Dさんの長押しIME起動2」フリーソフト https://www.vector.co.jp/soft/winnt/util/se410793.html?ds 日本語と英語混じりの文章を書く時に、日本語入力と英語入力の切り替えには何らかのキーボード操作が必要ですが、このソフトがあると、キーの長押しでIMEのOn/Offの切り替えができます(基本的にどのキーでも大丈夫です)。 例えば「動脈瘤は英語でaneurysmと言います」と打つとき、aを打つときにaを長押しするとそれまでの日本語入力が英語入力に変わります。いちいち、別なキーを押す必要がありません。使い慣れると英語と日本語が混じった文書入力が格段に楽になります。このソフトにはおまけの機能があります。それは大文字と小文字の切り替えを、普通は「シフトキー」+「Caps Lockキー」を同時に押す必要がありますが、このソフトを使うと「Caps Lockキー」を押すだけで、大文字と小文字の切り替えができるような設定ができます。これだけでもかなり便利です。 3.「Clibor(クリボー)」フリーソフト https://freesoft-100.com/review/clibor.php これはコピーペーストを多用する文章の入力、及び定型文の入力が多い時に威力を発揮します。 コピーは10000まで登録されます(そんなに使いませんが、、)。 定型文も多数登録できます。 文章を書いていて、多数のコピーペーストが必要な時、このソフトがあると必要コピー箇所を複数コピーしておいて後から必要に応じてペーストができます。実に便利です。このソフトには「FIFOモード」というのが、あり、FIFOモード状態で文章をいくつかコピーして次に何度かペーストするとFIFO状態でコピーした文章が連続してペーストされます。解りづらいですね。実際に使ってみてください。この機能を使った時、大げさに言えば、感動しました。 4.「紙copi」 https://www.kamilabo.jp/ 思いついたことをメモしたり、ウェブページなどからの取り込みが簡単にできます。無料のlite版と有料版があります。まずは無料版で試してみると良いですね。 「紙copi」 は後述の「Dropbox」と連動することができます。自分で使っているパソコンに「紙copi」と「Dropbox」があれば簡単に連動できます。Aというパソコンで「紙copi」で作った文章がBのパソコンでも出てきます。リアルタイムにAとBのパソコン上の紙copiでの文章が変わっていく様を見ていると時代は変わったと思います。良い時代です。 5.「captio」 iPhone、iPadで使えるアプリです。これは思いついたこと、やらなければならないことをiPhoneに入力すると「自分にメールを送ってくれる」のです。音声入力もできるので例えば「○○さんにに電話」「△△さんにメール」と入力すればその内容が登録した(自分のメールアドレス)に送られます。メモ帳が無くても、片言隻語を入力しておけば、自分にはわかりますね。とても重宝します。その場で撮った写真も、以前撮った写真も送れます。とても便利なアプリです。 6.「Dropbox」 これはソフトではありません。オンラインストレージサービスです。書いた文書、撮った写真、音楽などをDropboxに保存しておくと、インターネットがつながる環境にあれば、どこでも自分の「Dropbox」の内容を見ることができます。これは便利です。なお、スマホと連動すれば、紙データや写真をPDF、pngにする機能があります。写真と違い、その紙データ、写真データをスキャンすると自動で切り取ってPDF、pngファイルにして「Dropbox」内の指定したファイルに保存できます。とても便利です。 7.「VoiceTra(ボイストラ)」 https://voicetra.nict.go.jp/ 翻訳アプリです。iPhone、Android両方で使えます。 音声入力できる言語:17 言語翻訳できる言語:27 言語音声出力できる言語:14言語 と多機能です。実際に結構使えます。医療系の用語もかなり高度な言葉も翻訳できます。外国旅行での日常会話なら充分使えると思います。音声でもテキストでも入力ができて、翻訳もできます。 8.「グーグル翻訳」 最近、スマホでもアプリとして使えるようになりました。音声、テキスト入力はもちろん、カメラで撮影した言葉も翻訳できます。外国に行って食事をする際、外国語で書かれたメニューを写真に撮れば翻訳できるそうです(まだ試していません)。つくづく、便利な時代になったと思います。 番外1:キーボード タイピングに必要なのは、良いキーボードです。パソコンを使い始めた時は、パソコン付属のキーボードを使っていました。それで満足していました。しかし、ある病院で放射線科の先生が全員、Realforceというキーボードを使って画像所見を入力していました。何故、このRealforceを皆で使っているかと伺ったら、「打ちやすい」「手の疲れが違う」とのことでした。試し打ちをさせて頂いたら、かなり打ちやすいです。 インターネットで検索するとこのRealforceキーボードはキーボードの中で圧倒的な高評価を得ていることが解り、10年以上前に購入して今も、毎日使っています。高価ですが、10年以上、使えます。腱鞘炎にもなりづらいです。是非、一度試してみて下さい。普通のキーボードと全く違います(REALFORCE:http://www.realforce.co.jp/products/index_office.html)。 私が使っている英字だけの刻印があるシンプルなテンキー付きのキーボードです。これで一日ほぼ、カルテ記載だけで約5000文字を打ちます。 シンプルで使いやすいです。WindowsでもMacintoshでも使えるキーボードが出ています。昔は、筆記用具が大切でした。文章を書く人は、万年筆、鉛筆、ボールペンなどにこだわる方も多かったと思います。キーボード入力をするなら自分の好みのキーボードを見つけるべきだと思います。ここに挙げた「Realforce」以外にも多くのキーボードがあります。自分にあったキーボードを探す時代だと思っています。なお、ドイツ語入力用キーボード、フランス語入力用キーボード、アラビア文字入力用キーボードを見た事があります。様々なキーボードを集めてキーボード博物館を作って展示してくれると嬉しいのですが。。 番外2:耳栓 うるさいと仕事ができませんが、これがあると静かな環境をすぐに作れます。 3M 耳栓 E-A-R プッシュインス ひもなし 318-4000 この耳栓は -30dbです。例えば、電車内はだいたい70dbくらいの騒音ですが、これを使うと40dbくらいに騒音が軽減されます。山小屋での睡眠にも必須です。隣の方がいびきをかくと眠れませんが、これがあると眠れます。 以上、今回はこんなソフトやこんなモノを使っているよという紹介です。 注1:タッチタイピングとは キーボードを見ずにキーを打ってパソコンに正しく入力できる技術のことです。 以前は「ブラインドタッチ」という和製英語を使っていました。現在は「タッチタイピング(Touch Typing)」と言うことが一般的になっています。タッチタイピングとは逆に、キーを見ながら、1つずつキーを打つ方法は「Hunt-and-peck Typing(雨だれ式タイピング)」といいます。Hunt=狩る peck=つつくです。それがなぜ雨だれ式タイピングを意味するようになったかは不明です。 注2: ローマ字入力よりかな漢字入力の方が本来日本語の入力方法だと思いますが、日本語と英語を使う必要がある方はローマ字入力を覚えると便利です。 注3: IME=input method editor、キーボードの組み合わせで英数、日本語、中国語etc.が入力できるようになります。 来年も皆様にとって良い年であることを祈念します。終。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/12/02 なぜ、私がパルスオキシメーター(動脈血酸素飽和度測定器)の紹介にこだわっているかというと、 この機械の測定原理は日本人科学者の青柳卓雄氏が発見していること この機械は世界中で普通に使われ多くの人を助けている医療機器であること この機械の原理は不変なので、心電図と同様100年以上使われると予想されること などがその理由です。 というわけで、前置きはそれくらいにして前回に続き、パルスオキシメーターに関する話題を続けます(注:今回で終了です)。 今回は、 (4)パルスオキシメーターの医療現場での役割 (5)青柳卓雄氏はノーベル賞候補だと言われているがそれは本当か? についての紹介と考察です。 (4)パルスオキシメーターの医療現場での役割 医療現場でどのように使われているか説明しましょう。大きく分けて3つの使い方があります。 診断 呼吸器疾患の治療判定 スポーツ医学への応用 の3つです。これらをご紹介しましょう。 1. 診断 パルスオキシメーターはさまざまな疾患、病態の診断に使われます。例を3つだけ挙げます。 ●低酸素血症の診断 前回お伝えしましたように、パルスオキシメーターは最初に手術室で使われました。全身麻酔をすると呼吸も止まります。呼吸が止まると酸素が全身に行き渡らなくなります。そのため、全身麻酔中には、人工的に肺に空気(酸素)を送りこむ必要があります。これを人工換気と言います。人工換気は麻酔医によってコントロールされます。手術中、患者さんの呼吸は麻酔医の管理下にあります。 何も起きなければ良いのですが、前回ご紹介したように麻酔事故は2000の手術に対して1件くらいの割合で生じていました。原因はさまざまですが、麻酔事故の大きな原因のひとつが低酸素血症でした。 麻酔は、純酸素に笑気をまぜたガス+麻酔ガス、静脈から投与する麻酔薬などを使って行います。酸素を充分に肺に送り込んで人工換気を行えれば良いのですが、酸素を流している管が外れたり、酸素ボンベの酸素がなくなったり、酸素と笑気の配管を間違えたり、麻酔中に喘息発作が生じたり、さまざまな原因で低酸素血症を生じることがあったのです。早期に低酸素血症を検出できないと、体に酸素が回らなくなり、死につながりかねない事故を引き起こします。このような怖い「低酸素血症」の診断を早期に感知することは、パルスオキシメーター開発以前は難しかったのです。 今はリアルタイムでパルスオキシメーターにより動脈血酸素飽和度を測っていますので、少しでも動脈血酸素飽和度が下がれば直ちに判ります。低酸素血症が生じるとアラームが鳴ります。パルスオキシメーターのおかげで今は10万件に1件くらいしか麻酔事故が起きなくなりました。これは「麻酔中の事故予防」という一般の方には目には触れないところでの応用です。集中治療室での人工呼吸器装着中のトラブルによる低酸素血症も激減しました。つまりパルスオキシメーターにより容易に「低酸素血症」が診断できるようになり低酸素血症により引き起こされる疾患が激減したのです。 ●呼吸不全、呼吸器疾患診断への応用 呼吸不全とは息ができにくくなる病気です。この病気の代表格はCOPD(慢性閉塞性肺疾患:chronic obstructive pulmonary disease)です。以前は慢性気管支炎、肺気腫と呼ばれていました。喫煙が、COPDの病因の9割を占めます。 先頃、落語家の桂歌丸さんがこの病気でお亡くなりになりました。桂歌丸師匠は缶ピース60本を50年以上吸っていたそうです。 歌丸さんは晩年、「たばこはもうやめました。あんな苦しい思いをするくらいなら、吸わない方がいい」と言って、COPDという病気や喫煙の危険についての啓発活動をしていました。お亡くなりになった時、呼吸器学会から追悼文が出るくらい喫煙の害について啓蒙をしてくださったのです(日本呼吸器学会「桂 歌丸 師匠を悼んで」)。 COPDの診断には動脈血酸素飽和度の測定が欠かせません。パルスオキシメーターがあれば、外来でも短時間でCOPDを疑うことができます。喫煙をしている方で、平地での動脈血酸素飽和度が90%を割っていたらCOPDを強く疑います。 他にも色々な呼吸器疾患の診断に欠かせません。 「息が苦しい」と訴えてくる患者さんがいます。そういう時、まずパルスオキシメーターで動脈血酸素飽和度を測定します。これが90%以下なら、酸素の投与を行い、酸素飽和度を上昇させてから、病歴を聞き、聴診器を当てて呼吸音を聞き、レントゲンを撮影し……というように診療します。 つい最近も、ある患者さんが「息が苦しい」ということで来院されました。パルスオキシメーターで動脈血酸素飽和度を測定すると80%しかありませんでした。呼吸音は聴診器で聞くと喘息の音に「似た」音を聴取します。喫煙歴はなく、胸部レントゲンで肺野はきれいです。肺炎や気管支炎、COPDではありません。動脈血酸素飽和度が80台だとかなり苦しいですし、危険です。重度の過敏性肺炎を疑い、直ちに大きな病院に入院していただきました。結局、元々肺塞栓(肺動脈に血栓が詰まる病気です)があり、それに加えて、自宅エアコンのダストによって生じていた過敏性肺炎により低酸素血症が生じていたことが解りました。この方は、治療が奏功し元気に活躍しています。 このように呼吸不全が一瞬にしてわかるのです。パルスオキシメーター開発以前、呼吸不全の診断は簡単ではなく、前回もお伝えしたように動脈血の直接採血が必要でした。 今はすべての救急車にパルスオキシメーターが常備されていて救急隊員の方は患者さんのところに到着すると直ちにパルスオキシメーターを指に装着して動脈血酸素飽和度を測ります。 隔世の感があります。 ●睡眠時無呼吸症候群(SAS)の診断への応用 睡眠時無呼吸症候群(SAS)とは睡眠中に呼吸が止まる病気です。睡眠中に呼吸が止まると動脈血酸素飽和度が低下します。パルスオキシメーターを寝ている間に指につけて、睡眠中の動脈血酸素飽和度を測定すれば、どの程度呼吸が止まっているか解析できます。呼吸が止まっている時間、頻度が高ければ治療が必要です。パルスオキシメーター普及以前、SASの診断は難しかったのです。今は、繰り返しますが容易に診断ができます。 SASと診断されないと、睡眠中の低酸素血症により、昼間の眠気や心筋梗塞、脳梗塞の発症率が上がります。SASが簡単に診断できることで多くの方が助かっています。 上記のことだけでなく他にも多くの病気の診断に役立っています。 2. 呼吸器疾患の治療判定 さまざまな呼吸器疾患の「治療判定」にパルスオキシメーターは極めて有用です。桂歌丸師匠は晩年、鼻に酸素吸入用のチューブを付けていました。あれを見ると酸素をどんどん投与すれば良いだろうと思う方も多いと思います。しかし、酸素を大量に(過剰に)投与するとかえって肺に障害が起きます。過剰酸素投与による肺障害を予防するには必要最小限の酸素投与量をを決める必要があります。パルスオキシメーターを用いると必要最小限の酸素の投与量がわかります。 COPDが進行すると大量に酸素を投与しても、動脈血酸素飽和度は上がらなくなります。「一日中、溺れているような気がする」とCOPDが進行した患者さんは言います。怖いことです。 さて、さまざまな疾患の診断に役立つパルスオキシメーターですが、未熟児の治療にも絶大な貢献をしています。あまり知られてはいませんが未熟児網膜症の発症予防に役立っています。 未熟児の網膜血管は文字通り「未熟」です。まだ網膜全体を網膜血管が覆う前に産まれてきます。未熟児は生後、クベースと呼ばれる保育器に入れられ、酸素の投与、温度の管理等が行われます。肺も未熟ですので、酸素投与が必要です。投与する酸素濃度が高すぎると網膜血管が収縮し、未熟児網膜症を引き起こします。このことは1951年から解っていました(文献10)。しかし、当時の医療技術では簡単に動脈血酸素飽和度を測定することができず、投与酸素濃度のコントロールは難しかったのです。未熟児の動脈血を採取すること自体至難の業です。未熟児網膜症を予防するために投与酸素濃度を減らすと、今度は呼吸不全などが生じて死亡率が上昇してしまいました。しかしパルスオキシメーターが簡単に使われるようになり、 未熟児網膜症にならず 呼吸不全も生じない、 動脈血酸素飽和度が段々と解るようになりました。そのおかげで、未熟児網膜症による失明者が激減したのです(文献11、12など多数)。 パルスオキシメーターとは別な話ですが、1968年未熟児網膜症に対する光凝固治療法が、世界に先駆けて天理よろず相談所病院の永田誠医師により開発され(文献13)、世界に広がります。 未熟児網膜症の発症予防には日本発のパルスオキシメーターが使われ世界中の失明したかもしれない患児を救い、不幸にして未熟児網膜症が発症してもその治療には日本で開発された治療が行われ失明を予防しているのです。日本人として誇らしいですね。 3. スポーツ医学への応用 最初に使われたのが、高山登山です。パルスオキシメーターで動脈血酸素飽和度を測りながら登れば安全です。酸素飽和度が低くなれば、酸素を補給すれば良いのです(文献14)。 @富士山頂 これは私自身が富士山頂で200mを速歩で歩いた後に、パルスオキシメーターで測定した動脈血酸素飽和度です。83%と著明に減少しています。かなり苦しいですね。しかし、立ち止まって深呼吸を数分繰り返すと、動脈血酸素飽和度は90%代後半になり息は楽になります。 富士山頂の酸素濃度は13%(平地は21%、エヴェレスト山頂は7%)です。正確に言うと酸素濃度は平地でもエベレスト山頂でも一緒ですが、気圧が違うので取り込める酸素が減るのですね。 映画「エベレスト:2015年」にエベレスト登山でパルスオキシメーターが使われている場面があります。この映画は実話を元にして作られていますが怪談よりも怖い映画でした。 それはともかく、パルスオキシメーターは登山以外のさまざまなスポーツでも使われています。 (5)青柳卓雄氏はノーベル賞に擬せられているが、それは本当か? これは資料がひとつしかありません。文献6に、1997年の初秋、小児麻酔学会で特別講演されたスウェーデンのLindahl医師は「ノーベル賞選考委員の一人だ」と紹介されました。Lindahl先生は講演後に「ノーベル賞に是非推薦したい人がいる。それはパルスオキシメーターの原理を発見した青柳青柳卓雄氏だ」と述べたそうです。 Lindahl氏とは、Karolinska Institute:Department of Physiology and Pharmacology :Sten Lindahl教授のことでしょう。私はもしノーベル賞がパルスオキシメーターに対して授与されるなら受賞するのはパルスオキシメーターの原理を発見した青柳卓雄氏とパルスオキシメーターを臨床使用できるように改良して、世界中に広めたニュー医師(Dr. William New Jr.:1942-2017)だと思っていました。残念なことにニュー医師は2017年にお亡くなりになっています。 ノーベル賞はともかく、世界中で多くの人々を助けている(今後も助ける)パルスオキシメーターですが、最初にこの原理を考えついたのは日本光電の青柳卓雄氏とコニカミノルタの山西昭夫氏です。特許出願は青柳卓雄氏の方が早く出していますし、学会で発表し、論文にもしていますので発明者は青柳卓雄氏ということになっていますし、欧米の教科書にもパルスオキシメーターの原理の発明者は「TAKUKO AOYAGI」であると明記されています。しかし、このパルスオキシメーターが世界に普及するに当たり、山西昭夫さん、コニカミノルタグループの果たした役割は極めて大きかったのです(関連記事:大勢の人を助けている機械は日本で発明されたけれど最初に普及したのは米国(2))。 心電図は1906年に基礎的論文が出されています。それから100年、今も心電図の代わりになる機械はありません。原理は不変だからですパルスオキシメーターもその原理は不変ですので、将来にわたり使い続けられ、多くの人々を病気から救ってくれると思います。 【参考文献】 青柳卓雄et al.:イヤピース・オキシメータの改良 医用電子と生体工学 12(Suppl), 90-91, 1974 注:パルスオキシメーターの原理を期した歴史に残る論文です。日本語です。ぜひご覧ください。 青柳, 卓雄:生体組織透過光の脈動に基づく血中吸光物質濃度の無侵襲測定(脈波分光法)の研究 東京大学 , 博士 (工学) , 乙第11517号 , 1993-12-09 青柳氏は、研究を進めて博士号を取得しています。 Nakajima S, et al.: Performances of new pulse wave earpiece oximeter. Respiration and Circulation 23: 41-45, 1975. 世界で初めて、パルスオキシメーターを臨床応用した論文です。 "Prevention of retinopathy of prematurity in preterm infants through changes in clinical practice and SpO2technology". Acta Paediatrica. 100 (2): 188-92. doi:10.1111/j.1651-2227.2010.02001.x. PMC 3040295・Freely accessible. PMID 20825604. 青柳卓雄「パルスオキシメータの誕生とその理論」:日本臨床麻酔学会誌 日本臨床麻酔学会誌 10(1), 1-11, 1990 血液ガスをめぐる物語:諏訪邦夫著 中外医学社刊 2007年 医療機器の歴史:久保田博南 著 真興交易社刊 2003年 Severinghaus JW, Honda Y. History of blood gas analysis. VII. Pulse oximetry.J Clin Monit. 1987 Apr;3(2):135-8. 中島進、大崎能伸:「旭川医大におけるパルスオキシメーターに関する研究と世界的普及の経過について」 旭川医科大学研究フォーラム. 12 (1) , pp.27 - 33 , 2012-2. Campbell K. Intensive oxygen therapy as a possible cause of retrolental fibroplasia: A clinical approach. Med J Aust 1951 ; 2 : 48-50 .Christina G Anderson MD,et al.「Retinopathy of Prematurity and Pulse Oximetry: A National Survey of Recent Practices」 Journal of Perinatology volume 24, pages 164-168 (2004) 東京女子医科大学 元母子総合医療センター所長・教授 仁志田 博司先生によるパルスオキシメーターが未熟児網膜症発症予防に果たした役割が書かれています。 ↓ 近代新生児医療発展の軌跡 http://h-nishida.com/07shiseijirekishi.html 注:西田先生の発案により山梨県白州町に、難病の子供も泊まれる施設「青空共和国」が建設されています。 永田 誠,小林 裕,福田 潤,他.未熟児網膜症の光凝固による治療.臨眼 1968 ; 22 : 419-27. 関 和俊.「富士山登山における心拍数 ,SpO2 および. 自覚症状スコアの変化」. *川崎医療福祉学会誌 Vol. 17 No. 1 2007 113-119. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/11/18 前回ご紹介したパルスオキシメーターは、動脈血にどれくらい酸素が含まれているか(=動脈血酸素飽和度)を測定できます。 動脈血酸素飽和度の海抜0mで測定するなら95%以上が正常値です。もしその値が90-95%なら軽度呼吸不全、90%以下は呼吸不全を示し酸素の投与を要します。指にパルスオキシメーターを付ければ、10秒程度で動脈血酸素飽和度が測れるのです。 くどいですが、パルスオキシメーター出現以前は、動脈血を採取して酸素飽和度を測定していました。動脈血の採取は、普通の採血と違い熟練を要します。動脈血採血自体が少し難しいのです。動脈血を採取しても、その測定には特殊な大型機械が必要でした。一般のクリニックに置けるような機械ではありません。でも今は違います。簡単に動脈血酸素飽和度を測ることができます。そういう夢のような装置の原理は日本で発表され、試作品が作られました。 今回は、下記(1)~(3)についてご紹介しようと思います。 (1)パルスオキシメーターの原理 (2)パルスオキシメーターが、原理を発見した日本からではなく、なぜアメリカから世界に広がったか? (3)パルスオキシメーターの原理の発見者は青柳卓雄氏であることは世界中の呼吸関連の教科書に載っているが、その元となった論文は日本語で書かれているのに、なぜ欧米の教科書にも引用されているのか? について記します。次回は(1)~(3)に続き、 (4)パルスオキシメーターでどのような病気がわかるのか? (5)青柳卓雄氏はノーベル賞候補だと言われているがそれは本当か? などについてのさまざまなお話を紹介しようと思います。 順を追って説明いたします。 (1)パルスオキシメーターの原理 まずはパルスオキシメーターの原理の説明をしましょう。難解だと思われるでしょうが、原理はシンプルで“美しく”、“エレガント”です。 図1:コニカミノルタ社のサイトから引用です。 (https://www.konicaminolta.jp/healthcare/knowledge/details/principle.html) 血液は「赤い」ですね。これは赤血球の中にあるヘモグロビンという色素の色です。ヘモグロビンは酸素と結合すると「鮮やかな赤色」を示します。いわゆる動脈血の色です。酸素が少ないと「黒っぽく」なります。いわゆる静脈血の色です。採血される血液は黒っぽいですね。これは酸素が少ない静脈血だからです。 さて、動脈血酸素飽和度とは、動脈血の中で酸素と結合しているヘモグロビンがどれくらいあるかを調べることです。簡単に言うと、酸素が多く含まれている動脈血は「赤い」ので赤さの度合いを測定すれば良いのですね。パルスオキシメーターは赤色を発するLED部分とその光をうける部分とでできています。 赤色を発すると記しましたが、実はこの赤色は2種類出ています。 普通の赤い色の光 Red 赤外光 Infra Red(赤外線) の2種類です。1.の普通の赤い色の光は動脈血の色で透過性が変わります。動脈血酸素飽和度が低い黒い血液は、光を通さないのです。一方、2.の赤外光は「黒い血液」も「赤い血液」も同じくらい通します(図1参照)。つまり、1と2の光の通過具合を比較すれば、酸素飽和度が測定できるのです。 図2にその原理を示します。R(Red:普通の赤色)、IR(Infra Red:赤外光)です。 図2:パルスオキシメーターの原理図 図2(左)は酸素を多く含んだ赤い動脈血が流れる指に2色の光を当てた場合です。赤い動脈血は「赤い色」を透します。透すから「赤い」のです。 一方、図2(右)は酸素をあまり多く含まない血液が通る指に2色の光を当てた場合です。酸素をあまり多く含まない血液は「赤い色」を通しません。「赤い色」を透さないので図1に比して黒くなります。 センサーで受ける赤い色=Rと赤外光=IRの比率(R/IR)を感知することができれば、血液の「赤色度」=酸素飽和度がわかることになります。簡単な原理です。青柳卓雄氏自身「こんな旨い話がこんな手近なところにあるとは信じ難いことだった」と記しています(文献5)。 この原理を青柳氏が「1972年」に考えついたのは偶然です。もっと以前でも、もっと後でも不思議はありません。パルスオキシメーターの普及には特殊な機器、電子回路、パソコンのソフトなどが必要でしたが、原理を考えつくのに特殊な機械が必要なわけではなく、何時、その原理が考えつかれても不思議ではありません。パルスオキシメーターの原理を1972から1974年にかけて、日本人研究者が全く別々に発見した「偶然」をとても面白く感じます。 (2)なぜ、日本でなくアメリカで広まったか? 前回簡単に触れましたが、日本光電だけでなく、コニカミノルタでもパルスオキシメーターが開発されていました。コニカミノルタ製のパルスオキシメーターは2つの特色を持っていました。 指で測定できる(日本光電製の試作機は耳朶での測定) デジタルでの表示が出来る(日本光電製の試作機はアナログ) そして、コニカミノルタはパルスオキシメーターをアメリカに持ち込んで臨床試験を行いました。1970年代半ば、コニカミノルタがパルスオキシメーターを持ち込んだ先のひとつがスタンフォード大学の麻酔科でした。 現在、麻酔事故が起きればニュースになりますが、1970年代、麻酔事故は頻繁に起きていて、麻酔事故はニュースになるようなことはあまり無かったと思います。酸素不足やお薬の過剰投与による低酸素血症による麻酔事故が結構起きていたのです。そういう時代でした。スタンフォード大学の麻酔科医師にニュー医師(Dr. William New Jr.:1942-2017)は、この「日本発祥の」パルスオキシメーターを有効に使えば麻酔事故が劇的に減ると気づいたのです。 今から考えると当たり前のことですが、当時この重大事に気づいたのはニュー先生だけでした。多くの日本人の医師も、この機器を使っていましたが、この重大事に気づいた方はいなかったのです。いても、自ら工業化して世界中に広めようと考えた方はいなかったと記す方が正しいかも知れません。 ニュー先生は違います。麻酔科医として働くのを止め、ネルコア社という会社を設立し、このパルスオキシメーターの改良と普及に取り組みます。改良に次ぐ改良を行い、ついに1981年、ネルコア社は自社製のパルスオキシメーターの開発に成功します。とても使いやすい機械でした。 その機械は世界中で売れまくりました。私が医師になって最初に使ったパルスオキシメーターもネルコア社製でした。まだ初期の製品で、かなり高価でしたが、とても使いやすい機械でした。 日本では当時、手術室への導入はあまり進んでいませんでした。本格的に麻酔器に装着され始めたのはおそらく、1980年代後半だと思います。それまで麻酔中の患者さんの動脈血酸素飽和度は、「顔色を見る」か「動脈血を採取しての直接分析」しかありませんでした。 1980年代後半から1990年代にかけて、パルスオキシメーターがほとんどの手術室に配置されるようになり、麻酔科医、外科医、手術スタッフの誰でもリアルタイムに動脈血酸素飽和度を知ることができるようになったのです。これは画期的でした。日本中で麻酔事故が激減したのです。それはアメリカでも世界でも同様です。色々な推定がありますが、おそらくは50分の1に減ったとされています(文献6)。ニュー医師の推測は正しかったのです。 ニュー医師のパルスオキシメーター改良にかける熱意、意思により、この機械が世界中に広まり、多くの患者さんが助かりました。素晴らしいことです。こういう医業と工業を結びつけることを「医工連携」と言います。恐らく、ニュー医師は、医学はもちろん工学にも知識があったのでしょう。日本で、この機械の価値が解った医師も多かったと思います。しかし、職を辞してでも、この機械を改良してやろうと思った日本人医師は皆無だったのが少し残念です。 パルスオキシメーターが普及し始めた当時のことです。患者さんの「顔色」を見て動脈血酸素飽和度を推測!していた麻酔科の先生の一人が「こんな機械(パルスオキシメーターのこと)があると“麻酔科医は患者を見なくなる”」と言って怒っていたのを懐かしく思い出します。もちろん、その先生が間違いです。「顔色で推測した動脈血酸素飽和度」と「パルスオキシメーターで測定した動脈血酸素飽和度」の間には天と地ほどの差があります。比べることができません。今では、パルスオキシメーター無しの麻酔器は考えられません。それは世界中の手術室でも同様です。 (3)パルスオキシメーターの原理の発見者は青柳卓雄氏であることは世界中の呼吸関連の教科書に載っているが、その元となった論文は日本語なのになぜ世界中に広まったのか? ニュー医師が興したネルコア社はアメリカの会社ですので、パルスオキシメーターはアメリカで発明された機械だと思っていました。 ある時、日本光電の方と話す機会があり、原理は日本それも日本光電で考えられたと知りびっくりしました。それから、折節、パルスオキシメーター関連の論文や文献を読むようになったのです。そうしたある時、カリフォルニア大学の麻酔科のセブリングハウス教授と千葉大学生理学本田良行教授がパルスオキシメーターの歴史について記した論文を読む機会がありました(文献8)。 その論文名は「History of blood gas analysis. VII. Pulse oximetry.」です。そのものズバリです。 パルスオキシメーターの原理の発見者は Takuo Aoyagi 氏だと書かれています。前回紹介した「手書きの日本語論文」も紹介されています。恐らく、本田教授が日本語から英語に翻訳して、セブリングハウス教授に紹介したのだと思います。セブリングハウス教授は血液ガス分析の大家ですから、この論文が世界中で引用され、青柳卓雄氏がパルスオキシメーターの原理の発見者であることが世界中に知れ渡りました。セブリングハウス教授に感謝しないといけないですね。 セブリングハウス教授と本田良行教授が、青柳卓雄氏の論文をいかにして発見したかの経緯が(文献9)に詳しく書かれていますので、簡単に紹介しましょう。 1986年、カナダのバンクーバーであった国際生理学会でセブリングハウス教授と本田良行教授が出会います。セブリングハウス教授は当時、米国でそして世界で急速に普及しつつあったパルスオキシメーターの歴史を書くつもりでいるが、どうも日本に「パルスオキシメーターの元」があるらしい、「コニカミノルタの Nakajima が論文を書いているらしい」ので調べて欲しいと本田教授に依頼したのです。 本田教授が調べたら「コニカミノルタの Nakajima」ではなくて、「北大の中島先生が世界で最初のパルスオキシメーターの臨床応用論文」を発表していることがわかりました(文献3)。本田教授から中島先生に連絡が行き、中島先生が使用したパルスオキシメーターは日本光電製であること、その原理は青柳氏が論文にしていることがわかり、それがセブリングハウス教授に伝わり、論文になったのです。実に面白い話です。インターネットでもこの論文は公開されています(http://jairo.nii.ac.jp/0010/00004517)。是非、お読みください。 色々な偶然と、セブリングハウス教授の熱意がなければ、今でも、パルスオキシメーターは米国で最初に発明された機械と誤解されていたかも知れません。 図3 1:心電計+パルスオキシメーター、2:携帯型パルスオキシメーター、3:旧来のパルスオキシメーター どんどん小さくなり、値段も数千円になり、Amazonでも購入できるようになりました。隔世の感があります。 次回に続きます。 【参考文献】 青柳卓雄et al.:イヤピース・オキシメータの改良 医用電子と生体工学 12(Suppl), 90-91, 1974 注:パルスオキシメーターの原理を世界で初めて記した、科学の歴史に残る凄い論文です。 日本語で書かれています。是非お読みください。探せない方は筆者まで連絡をください。 青柳, 卓雄:生体組織透過光の脈動に基づく血中吸光物質濃度の無侵襲測定(脈波分光法)の研究 東京大学 , 博士(工学), 乙第11517号 , 1993-12-09 青柳氏は、研究を進めて博士号を取得しています。 Nakajima S, et al.: Performances of new pulse wave earpiece oximeter. Respiration and Circulation 23: 41-45, 1975. 世界で初めて、パルスオキシメーターを臨床応用した論文です。 "Prevention of retinopathy of prematurity in preterm infants through changes in clinical practice and SpO2 technology". Acta Paediatrica. 100 (2): 188-92. doi:10.1111/j.1651-2227.2010.02001.x. PMC 3040295Freely accessible. PMID 20825604. 青柳卓雄「パルスオキシメータの誕生とその理論」日本臨床麻酔学会誌 日本臨床麻酔学会誌 10(1), 1-11, 1990 血液ガスをめぐる物語:諏訪邦夫(著) 中外医学社 医療機器の歴史:久保田博南(著) 興交易社 Severinghaus JW, Honda Y. History of blood gas analysis. VII. Pulse oximetry.J Clin Monit. 1987 Apr;3(2):135-8. 中島進、大崎能伸「旭川医大におけるパルスオキシメーターに関する研究と世界的普及の経過について」旭川医科大学研究フォーラム. 12(1) , pp.27 - 33 , 2012-2. 余計?な注: 最近パルスオキシメーターで測定不能なことを多々経験するようになりました。爪へ過度な「ネイルアート」が施されているためです。 ネイルアートが施されていると、パルスオキシメーターを装着しても光が透過しないため、測定不能です。 この程度の色のネイルアートなら、赤色光も、赤外光も透過しますので、酸素飽和度の測定が可能です。 しかし、黒いネイルアートを施すと、測定できません。光が指を透過しないからです。少しだけ、このようなことを頭に置いてネイルアートを施してください(手と足は違う色で、または手と足の一方のみネイルアートを施すetc.)。 ま、本当のところ裏技があり、いくらネイルアートを施していても測定はできるのですが、少し面倒です。 ネイルアート、マニキュアとパルスオキシメーターに関する論文は多数出ています。 例:「パルスオキシメータにおけるマニキュア使用と外乱光の影響についての基礎的検討:医科器械学 73(4), 207, 2003-04-01」など。。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/11/05 ノーベル医学生理学は「生理学および医学の分野で最も重要な発見を行った」人物に授与されています。どういう基準で授与されるかは不明です。「重要」の解釈が難しいからです。 ノーベル生理学・医学賞は、ざっくり分けると、 人を含めた生物が生きる仕組み、病気になる仕組みを解明した発見 実際に病気の診断や治療に役立つ診断器具やお薬の開発 の2系統に分かれます。 もちろん1.→2.に行く場合も多いので厳密に分けるのは難しいですね。 今年(2019年)のノーベル医学生理学賞は「細胞の低酸素応答の仕組みの発見」に対して授与されました。これは、1.に該当すると思います。 一般の方にもわかりやすいのは2.の方ですね。実際に人を助けるお薬やさまざまな医療機器の開発はわかりやすいです。例えば、ペニシリンの発見、心臓カテーテル法の開発、CTの開発、MR(核磁気共鳴装置)の開発、ピロリ菌の発見、エイズウイルスの発見 などです。大村智先生、本庶佑先生は2.に該当します。 2.に分類される実際に役立つ方法を開発したノーベル賞受賞者の中には「外科医」が3名います。 血管縫合法を開発したフランス人「アレキシス・カレル」 野口英世の同僚で、野口をノーベル賞に推薦してくれています。今でもカレルの考案した手術法は使われています。 参考:018:カレルの論文の原典翻訳(ドクターズコラム) 精神病に対する前額部大脳神経切断(ロボトミー)を行ったポルトガル人「エガス・モニス」 今、この手術は行われていません。悲惨な結果になったからです。 腎臓移植を世界で最初に行った形成外科医の「ヨセフ・マレー」 もちろん、腎臓移植は世界中で行われています。 の3名です。 なお、カレルは臨床医ではありません。モニスも神経科医で外科医と一緒にロボトミー手術を考案していますが、元は外科医ではありません。純粋な外科医でノーベル賞を受賞したのは形成外科医の「ヨセフ・マレー」医師だけです。 もし次に外科医がノーベル生理学・医学賞を受賞するなら、それは内視鏡手術を考案し世界中に広めたフランスの開業医「フィリップ・ムレ博士(Philippe Mouret, M.D.)」になるだろうと言われていました。しかし、残念なことにムレ博士は2008年にお亡くなりになってしまいました。 閑話休題…… 「人を助ける」お薬、医療器具、手術方法の開発は大変ですが、成功すると、多くの人が助かります。例えば大村智先生の発見したイベルメクチンはさまざまな病気に効果があり、そのおかげで約2億人が助かると言われています。ある意味、助けた人数、助けられる人数が多い薬や機械を開発すると「ノーベル賞」への道が開けることになるかもしれないですね。 今回、次回は、ほとんどの日本人には知られていないけれど、世界中で実に多くの人の命を助けて、今後も将来にわたって多くの人の命を助ける機械の原理の発見者は日本人で、将来ノーベル賞を受賞するかもしれないという話を紹介します。 その方の名前は「青柳 卓雄(あおやぎたくお)」さんです。日本光電工業の技術者です。2015年にはその功績に対して「IEEE Medal for Innovations in Healthcare Technology」を授与されています。受賞理由は「For pioneering contributions to pulse oximetry that have had a profound impact on healthcare.医療に対して極めて重要なインパクトを与えたパルスオキシメーター開発の貢献に対して」というものでした。【注: IEEE アイトリプルイー[Institute of Electrical and Electronics Engineers]米国電気電子学会のことです。】 皆さんも、医療機関で青柳さんがその測定原理を発明した機械を目にしたこともあるかと思います。 その機械の名前を「pulse oximeter=パルスオキシメーター」 と言います。動脈血の酸素飽和度を測定する機械です。 図1:パルスオキシメーターで動脈血酸素飽和度を測定しています。 この方の動脈血酸素飽和度は100%で心拍数は56回/分です。 私が医師になった当時、このような機械はありませんでした。動脈血酸素飽和度を測定するには動脈を穿刺(せんし=刺す)して動脈血を採取しないと調べられませんでした。簡単ではありませんでした。それがいまや簡単に測れます。痛みを伴いません。時代は変わりました。 この機械の測定原理は、1974年のME学会で青柳氏が発表し、論文にしています。日本語で書いています。手書きです(文献1 ←実際にご覧いただけます)。 学会で発表する2年前の1972年にこの原理を発明したと日本光電のホームページ(https://www.nihonkohden.co.jp/information/history_detail.html)で紹介されています。 原理を発見し、特許の申請をしてから、1974年のME学会で発表したのです。用意周到です。先に学会発表をしてこの原理を公表してしまうとそれは「公知の事実」となり特許は成立しません。 パルスオキシメーターの開発当初の出来事を時系列で紹介しましょう。 1972年:青柳卓雄氏が原理を発明 1974年3月29日:特許を出願。タイトルは「光学式血液測定装置」 発明者は、青柳卓雄、岸道男。出願者は「日本光電工業(株)」 1974年4月26日:特許出願の翌月、青柳氏は日本ME学会大会でその原理を発表 それとは前後しますが、 1974年4月24日:パルスオキシメーターの開発を独自に進めていたミノルタカメラ(現コニカミノルタ)の山西昭夫氏が青柳氏とほぼ同様な原理を用いた機械を「オキシメーター」の名前で特許出願。 日を置かずして、日本で2つの全く別な会社の別な研究者が、このパルスオキシメーターの原理を発明したことになるのです。両社は全く技術交流が無かったそうですから不思議な話です。 1975年:日本光電はパルスオキシメーターの実機を発売(耳朶でのみ測定)。 北海道大学出身の外科医中島 進先生がこの機械を使って世界で初めて患者さんへの臨床使用を行っています(文献3)。しかし、当の青柳卓雄氏が異動により当該部署を外れたため、日本光電におけるパルスオキシメーターの開発が一時中断してしまいました。残念な話です。 1977年:コニカミノルタが世界初の指先で測定できるタイプのパルスオキシメーターを商品化。この指先で測定するパルスオキシメーターがデファクトスタンダード(de facto standard)となりました。 大変残念なことに、日本で発明されたこの機械はアメリカで改良されて使いやすくなり、急速に普及したことで製造単価が下がり、アメリカから全世界に普及しました。アメリカで機械の改良がなされたと記しましたが、その部品の多くは日本製でした(http://tech.nikkeibp.co.jp/dm/article/COLUMN/20140713/364980/?ST=nxt_thmdm_new_industry)。何となく悔しい話です。 図2:パルスオキシメーターに必須の赤い色を出すLEDが左側に右側に受光部があります。 アメリカで開発された当初、このLEDと受光部はなんと日本製(スタンレー電気社製)でした。 さてなぜ アメリカでこのような改良が成されたのでしょう。 1974年に青柳氏が書いた日本語の手書き論文が欧米の教科書に取り上げられ、青柳氏がこのパルスオキシメーターの原理の発明者であると紹介されているのはなぜか、英語にしないと認められないと言っているのになぜ日本語の論文が取り上げられているのか? ノーベル賞に推薦されているのは本当か? パルスオキシメーターはどんな病気の診断や治療に使えるのか? など、パルスオキシメーターに関する色々な話題は次回に続きます。 追記: 青柳卓雄(あおやぎたくお)氏は2020年4月18日、老衰のため死去、84歳でした。 生きていればコロナ禍の今頃ノーベル賞の声が高くなったと思います。それはともかく多くの病者を救う機器の原理を考案したのですから、未来永劫受け継がれます。偉大な方でした。合掌。 【参考文献】 青柳卓雄et al.:イヤピース・オキシメータの改良 医用電子と生体工学 12(Suppl), 90-91, 1974 注:パルスオキシメーターの原理を世界で初めて記した、科学の歴史に残る凄い論文です。 日本語で書かれています。是非お読みください。探せない方は筆者まで連絡をください。 青柳, 卓雄:生体組織透過光の脈動に基づく血中吸光物質濃度の無侵襲測定(脈波分光法)の研究 東京大学 , 博士(工学), 乙第11517号 , 1993-12-09 青柳氏は、研究を進めて博士号を取得しています。 Nakajima S, et al.: Performances of new pulse wave earpiece oximeter. Respiration and Circulation 23: 41-45, 1975. 世界で初めて、パルスオキシメーターを臨床応用した論文です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/10/21 文末に「驚愕の写真」があります。 投入堂から「下界」を眺めに 承前、長々と前文を書いてしまいました。話があちこちに飛び、申し訳ありませんでした。実は司馬遼太郎の真似をしたのです(笑)。 さて、国道9号線を東に向かい、一路、投入堂を目指しました。 余談ながら国道の横には高速道路があり、そちらを使った方が少し早く着きます。しかしそれでは味気ないです。前回でも書いたように国道9号線は古くからある道です。風情があり、眺めも良いのです。国道9号線は海沿いの道です。美しい日本海を眺めながらの運転は気持ちが良いです。ただし、人家が多く無いので信号機が少ないのです。一般道を車で長時間運転する際、時々は信号で止まらないと神経が休まらないので疲れますね。 それはともかく国道9号線から倉吉市を通り、鳥取県東伯郡三朝町にある「投入堂」に向かいました。途中、海沿いから山中の道に変わります。山の中の道は、森の緑が実に美しく、この辺りの山間の「豊かさ」を感じます。かなり山奥に入ります。今でも山奥です。この投入堂が作られた当時は、もっと山奥で道も今とは違って細かったでしょう。そんなところにお寺を、お堂をなぜ作ろうかと思ったのが、つくづく不思議です。 そんなことを考えながら、美しい緑を楽しみながらドライブしているうちに投入堂の登山口につきました。今はレンタカーにも「ナビ」が大抵ついているので迷わずに済みます。人生にも「ナビ」があれば迷わないのにと余計なことを思ってしまいます。 駐車場に車を置いて入山口に向かいます(図1、図2参照)。結構急な階段です。最初の難所?です。 図1:国道から入山口までの階段 図2:入山口から国道を見下ろす 投入堂は、前回でも記したように鳥取県東伯郡三朝町にある標高900mの三徳山(みとくさん)に境内を持つ「三佛寺(さんぶつじ)」の一番山奥にある奥院(おくのいん)です。奥院は大切な本尊、お経などお寺の宝物を安置する場所です。投入堂にも大切な仏像が安置されていましたが、それらの仏像は投入堂から移設されて誰でも行ける場所にある「宝物殿」で拝観することができます。 入り口にある急な階段を登り切っていよいよ投入堂に登ろうとしましたが、なんと「一人では登れない規定になっているので、あなた一人での投入堂行きは許可できない」と言われました。雨や雪の日は登れないことは承知していましたが(冬期は閉鎖されています)、「一人で登れない」という規定になっているとは知りませんでした。あとで確認すると確かに投入堂のHPにはそのように書いてあります。 三徳山一帯は本来仏道修行の場所です。細かい規定があり、それに従わないと登れないのです。登山のための靴もお坊さんのチェックが入ります。よかれと思った登山靴でもそれが入山に適していないと判断されると入山できません。靴が無いと登れません。そういう人のために、登山用の草鞋(わらじ)!が用意されています。借りても良いですし、あとで購入もできます。 図3:貸してくれる草鞋です。草鞋は持ち帰ると700円でした。 さて困りました。私の靴は投入堂登山に適している判定されましたが一人で行ったので、登ることができません。受付にいるお坊さんに、どうにかならないだろうかと頼んだのですが、投入堂登山で多くの怪我人(!)や死者(!)が出ているので、「警察のお達し」により、一人での登山は絶対禁止だと言われました。一人だと、転落しても解らないからダメなのだそうです。 途方に暮れていたら、「大丈夫ですよ、1時間も待てばあなたと同じで一人で登りに来る方がいるから一緒に登れば良いです」と言われました。それで待ちました。次から次に投入堂に登るグループがやってきます。グループと一緒なら構わないのではないかと思いその旨を伝えました。しかし、グループと一緒はダメだと言われました。「一人で投入堂に行く(登る)人を待ってください。一人で来た方とあなたが一緒に登れば良いのです。」と言われました。 待つこと小一時間、ようやく受付に一人で投入堂登山に来た方がいます。外国人の女性でした。受付の方が英語で「一人での投入堂登山は禁止されている、幸い、今一人で来て困っている人(私のことです)ので、一緒に登ってはどうか?」と言ってくれました。彼女が「no problem.」と言ってくれました。それで、一緒に登ることになりました。 福岡県に住んでいる米国人でした。日本語がある程度通じるので助かりました。彼女の靴は、投入堂登山に適さないと判断されてしまい彼女は草鞋で登ることになりました。草鞋を履いたことが無いのでとても面白いと言っていました。 図4:草鞋を履くとこんな感じですね。 結構険しい山道です。投入堂に登る山域は修行場ですので「輪袈裟(わげさ)」を首にかけます。登り始めると、いかにも「修行場」という雰囲気が伝わってきます。普通の登山とは何となく感じが違います。登山道には緑が満ち満ちています。本当に気分の良い道です。私の乏しい語彙力では表現が出来ませんが、心地よい中に霊験さを感じます。 図5:途中の風景 図6:鎖場です。 図7:こんなところも登ります。 図8:こんなところもあります(写真掲載の許可を得ています)。 同行の彼女が登れるかどうか心配していましたが、杞憂でした。彼女は随分と軽々と登っていきます。崖道、岩の道をすいすいと登っていきます。聞いたら、アメリカでロッククライミングをやっているとのことでした。 図9:途中、安全を祈願して鐘を突きます。 登ること1.5時間、ようやく投入堂に着きました。途中、かなり危険な箇所もあります。確かに「見に行くのには危険」な建築物だと思います。 図10:投入堂遠景1 図11:投入堂遠景2(岩の一部を削り取り、その上に柱を立てその上に御堂が乗っています。まさに「投げ入れた」としか思えません。) これを見ていると「今から1000年も前にどうしてこのような場所に御堂を作ろうと思い立ったのか?」などと思い、また実際に作ってしまった「人間の不思議さ」や「知恵」に感動します。見ていると不思議な気持ちになれます。1000年経っても朽ち果てずにきちんとしたカタチで建っている理由を素人ながら考えて見ました。 崖の中に埋め込まれるようにして作られている=雨に濡れない 北側を向いている=日光に晒されない 簡単には登れない=悪意を持って壊される可能性が少ない きちんとした維持管理がなされている(定期的にメンテナンスが施されています) などの理由で1000年近く、無事に建っているのでしょう。それでも台風や大地震などを経ても立派に建っているのをみると「健気」だなと思いますし、遠目に見ても、その尊さが解ります。 さあ、ここから投入堂まで最後の「登り」と思ったのですが、なんとそれ以上は進入禁止となっています。 図12:右手に柵があります。 昔は、投入堂まで、登ることができて、投入堂から下界を眺めることができたのです。あとで聞いたら最後の登りで滑り落ちて死人が続出したことと古い投入堂に人が入って荒れる危険性があるために、投入堂管理や研究など特殊な事情が無い限り、投入堂本体には登れないことになってしまったのです。前回、「当時写真に撮らなかったのが返す返すも残念」と書いた理由を解ってくれると思います。とても残念です。しかし、不心得者がいて、火でも使われたら1000年保った御堂も灰燼に帰します。今のように柵で防御した方が良いのだと思っています。 さて帰り道です。途中に国の重要文化財に指定されている室町時代に建てられた「文殊堂」があります。 図13:文殊堂 ここには入ることができます。そして周囲に廊下があり、そこから「下界」を眺めることができます。 図14:文殊堂からの眺め かなり高いところにあり、手すりも無いので怖いのです。しかし、眺めはとても良いです。 さて、この写真図13-14を見て皆さん、何か気づきませんでしょうか?人工物がほとんど見えないのです。今の日本でこのように人工物の無い風景を見ることはほとんどできません。貴重な風景です。 慎重に山を降り、無事、登山を終えることができました。修行終了です。 図15:返却した草履です。洗ってから干して再使用するそうです。 同行してくれた彼女の話です。「草鞋は歩きやすかった」、「もっと危険かと思ったけれど、大して危険とは思わない」、「1000年も前から建っていたとは思えないくらい投入堂はきれいだった」、「アメリカには1000年前の建物は無いのでこういう建築物が残っている日本がうらやましい」、「山陰旅行は楽しい、なぜなら人が少ないから渋滞がない。日本は連休中に出かけると渋滞するが山陰は渋滞しなかった」、「山陰は海も山もきれい」、「食べ物が美味しい」などと言っていました。 最後に、司馬遼太郎が絶賛した「豆腐」を食べようと思いましたが、お客さんが一杯で残念なことにまた食べられませんでした。また、いつか機会があれば再訪しようと思っています。 この随筆の最後に三佛寺の「厄除け祈願」の御札をお目にかけましょう。なんとも絵柄がシュールです。 注1: JALの英文サイトでも投入堂が紹介されていました。 注2: 三徳山三仏寺の公式ホームページ このホームページ内には登山の注意が書いてあります。投入堂に行く方は是非読んでから行ってください。 注3: 昔は投入堂内に入れたという凄い証拠写真を紹介します。昭和11年に撮影された写真です。 今とは隔世の感があります。 この写真は元鳥取県済生会境港総合病院院長稲賀潔先生よりご提供頂きました。稲賀先生の祖父、故稲賀幸元米子医学専門学校の外科教授が撮影した写真です。この写真を撮影した当時(昭和11年)、稲賀幸先生は財団法人米子病院に勤務されており、同病院の職員旅行で撮影されたと伺っています。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/10/07 なぜ「二十世紀梨」が鳥取県で多く栽培されているかもわかる司馬遼太郎の紀行文 昨年、鳥取県に行く機会がありました。5年ごとに開催される大学のラグビー部の同窓会があったのです。 折角行くのだから、久しぶりに色々なところを見ようと思い色々なところに行く計画をしました。 さらに折角行くのだから、司馬遼太郎の「街道をゆく 27 因幡・伯耆のみち(朝日文庫)」を再読しました。鳥取県の東半分は元は因幡国(いなばのくに)、西半分は元は伯耆国(ほうきのくに)です。「因幡・伯耆のみち」と題することで、鳥取県全体を歩いたことを示しています。 「街道をゆく」シリーズは司馬遼太郎が、1971年から腹部大動脈破裂で急逝する1996年まで、日本各地や諸外国を訪れ、訪れた土地の紹介やその土地に行って感じたことなどを記した人気のあるシリーズです。 20年ぶりに読み返しました。内容はほとんど忘れていました。再読してびっくりしました。かなり細かいところを丁寧に調べています。鳥取に行ったきっかけも面白いのです。司馬遼太郎はかかりつけの開業医・安住先生の人柄に興味を抱き、安住先生の出身地だった鳥取を訪れることにしたと記しています。書き出しが素晴らしいです。愛情とユーモアにあふれています。 司馬は「看護師が5人もいる」がゆえに「安住先生のところは儲からない」などと書いています。このように書くと嫌らしいですが、全く嫌みがありません。安住先生の人柄や医師としての力量をそれとなく褒めているのです。こういう書き方は普通の人にはできないです。すっと頭に入る書き出しです。 鳥取に関する調査も行き届いています。ええ?こんなことまでしらべるの?と思うくらいよく調べています。 一例をあげます。鳥取は「二十世紀梨」が有名です。普通の作家なら鳥取に行って梨を食べた。美味しかったくらいで済んでしまうのでしょう。しかし司馬はなぜ「二十世紀梨」が鳥取県で多く栽培されているかを調べています。実は「二十世紀梨」は千葉県で偶然に見つかった特別な梨です。 1888年(明治21年)、千葉県松戸市に住んでいた松戸覚之助氏(13歳)が親戚の家で見つけた梨の苗木を譲り受け、それを実家の梨園で育てたところ10年後に結実したのです。それが始まりです。 この特殊な梨はその美味しさゆえに、他の地域でも栽培が試みられます。千葉から遠い奈良県や鳥取県で栽培されるようになります。しかし、「二十世紀梨」は病気に弱いため育てるのが難しく、なかなか広まりませんでしたが奈良県の農家の方が発明した「梨を紙で包んで病害を防ぐ方法(袋かけ)」を鳥取で広く採用したことにより、二十世紀梨が鳥取で広く作られるようになったのだそうです。 ここまで調べるだけでも凄いですね。普通の作家なら話はそこで終了になるのでしょうが司馬は違います。なぜ他県ではなく、鳥取県だけにそういうこと(袋かけを広く普及させること)ができたかを詳述しています。 司馬は小説を書く時には様々な資料を集め、とことん調べたそうです。司馬が何かを書き始めようとすると古書店から資料が失せる(=司馬が集める)という話があるくらいです。それくらい調べるから彼の小説、随筆、紀行文には厚みがあるので面白いのでしょう。 余談ながら、中学校時代の通学路にあったお寺が司馬遼太郎の随筆「余話として」に取り上げられていて、びっくりしたことがあります。私の通学路にあったお寺「清運寺」にあの坂本龍馬の「いいなづけ」のお墓があると書いてあったのです。 その紹介の仕方が実に「愛」に満ちているのです。なぜ、坂本龍馬と縁もゆかりもない甲府に坂本龍馬の「いいなずけ」のお墓があるのか。よく調べてあります。 写真1:甲府にある「坂本龍馬の許嫁(千葉さな子)のお墓」です 話を戻します。 とにかくよく調べてある「街道をゆく 27因幡・伯耆のみち」は本当に面白い紀行文です。 多くの方が激賞する「三徳山三佛寺投入堂」 さて今回紹介する「三徳山三佛寺投入堂」は「みとくさん さんぶつじ なげいれどう」と読みます。鳥取県中部にある三徳山(標高900m)の断崖絶壁に作られた御堂です。学生時代に登ったことがあります。当時、投入堂の写真を撮っていなかったので今回は写真を撮りたいと思ったのです。しかし、理由は後述しますが、当時写真を撮らなかったのが実に残念でした。 この投入堂については多くの方が激賞しています。中でも建築家 藤森照信氏は彼の「目指す理想建築」の2つのうち1つが「投入堂」だと述べています。藤森氏は投入堂に登りそこから眺めた景色を見て 「日本の山には精霊がいると確信した」 と書いています。 私も学生時代投入堂に登り、そこから見える風景、景色を見て似たような気持ちを懐きました。「ああ、いいなあ」と思ったのです。 「精霊がいる」とは思いませんでしたが、何か清々しい思いをいだきました。その「眺望」をしかし今回見ることはできませんでした。 藤森氏が目指すもう一つの理想建築はポルトガルにある「Nas montanhas de Fafe, Portugal」です。 こちらはまだ想像ができますね。 しかし投入堂はどうやって作ったのか、全く見当がつきません。 同じく建築家の安藤忠雄も「投入堂」の素晴らしさを何度も説いています。「安藤忠雄が語る、子どもの感受性をくすぐるオススメの建築10選」などです。 他にも、五木寛之、磯崎新、土門拳、山下裕二らが「投入堂」を絶賛しています。 彼らが書いた本を読み、写真集を見て、 (1)もう一度行ってみよう、投入堂まで登ってみよう (2)今度はきちんと写真を撮ろう (3)司馬遼太郎が絶賛した豆腐を食べてみよう と思い立ったのです。軽い気持ちでした。 司馬遼太郎は投入堂まで登っていません。「危ないから登るのを諦めた」と書いてあります。代わりに三徳山の山麓で「豆腐を食べてそれが美味しかった」と書いてあります。 学生時代に登った時、「危ない」と思った記憶がありません。また司馬が絶賛している「豆腐」を食べた記憶もありません。 ちなみに「投入堂 危険」と入れて検索すると、 「数年に何人か死者を出している。去年は死者が出なかったが27人もの人が病院送りになってしまった投入堂に参拝した」 「投入堂は伊達じゃない。本当に危険でした」 「舐めてかかったら事故します。 三徳山三佛寺」 「この10年間で3名滑落して死者が出ています」 「投入堂を登っていたらアクシデント勃発。崖から人が転落して、ヘリが出動していた。崖から転落された方は亡くなってしまったらしい。このような転落死は毎年数名出るらしい」 等々「投入堂に関する恐ろしい記事」や「怖い投入堂訪問記」が多数見つかります。 あれれ? 司馬遼太郎が登るのを止めるほど、そしてこんなに死者がでるほど危険だったかな?と思いました。 2016年の「鳥取県中部地震(最大震度6)」のために投入堂への道が崩壊し、クラウドファンディングで資金を募り、無事修復したとのニュースが報じられたことも記憶にありました。 それで今回は「投入堂に登って、お堂から見える景色を写真に撮ろう」と思ったのです。 話は逸れます。 昨秋のある日、羽田から米子鬼太郎空港に行き、その足で境水道を島根県美保関町(みほのせきちょう)に向かい、その美しさで「世界灯台100選」に選ばれている「美保関灯台」に行きました。安定の美しさでした。 写真2:美保関灯台 美保関灯台を出てすぐの所に美保関神社があり、そこの青い色の石畳が有名です。 写真3:石畳がみどり色をしています。きれいです。 久しぶりなので、投入堂登山の安全を祈願するために参詣しました。参詣後、境内にある神社の石製の手すりに刻してある文字を見て、少し感動しました。石に「何何県○○丸名前(船頭)」と刻してあります。 江戸時代、日本海は北前船のルートでした。今なら新幹線や東名高速道路に当たるルートだったのです。荒波を越えて美保関の港にたどり着いた船乗りの方々がこのように航行の安全を祈願して、神社に名前を刻したのでしょう。 なかには航海の途中で命を亡くした方もいらっしゃると思い、そう思うと少し胸が塞がるような思いがしました。 写真4:美保関神社 さて、本論です。 米子市に泊まり少し早起きをして車で投入堂がある鳥取県東伯郡三朝町に向かいました。 途中、国道九号線を通ります。 この道は古来からあり、途上に「後醍醐天皇が隠岐の島から脱出してたどり着いて休憩をとった岩」などの旧跡がたくさんあります。津々浦々にそういう名所があり、いちいち止まっていると本命の「投入堂」にたどり着きません。 写真5:後醍醐天皇が座った石 というわけで、今回は終了です。次回に続きます。 追記1: 「街道をゆく」で取り上げられた「土地」は幸せです。ちなみに宮崎県、静岡県、山梨県、埼玉県、群馬県、千葉県、茨城県、栃木県の8県は訪れていません。関東地方は最後に回る予定だったのだと思います。最後は栃木県佐野市で終わりにするつもりで関東地方は後回しにしたのだろうと思っています。なぜ、栃木県佐野市かは司馬遼太郎ファンなら解ると思います。 追記2: 司馬遼太郎は鳥取市郊外にある「湖山池(こやまいけ)」の辺を通ります。「池」とありますが、実際には「湖」です。 司馬はこの「湖山池」という名称が良くない。なぜ良くないかというと、 重箱読みであること 湖と池という類似の漢字が使われていること から「良くない」のだそうです。私は大学時代、この湖山池の畔に住み、毎日湖山池を眺めて暮らしていましたが、そんなことは考えたことも無かったです。 注記3: 日本各地に国宝建築物があります。無い県もあります。 さて東京には何件? 神奈川には何件? あるでしょう。 参考:国宝建築物一覧(http://shirokokuho.shakunage.net/kokuhokenzobutsu.html) 東京には2件、神奈川には1件です。神奈川県には古都鎌倉がありますが、繰り返された戦争、紛争により古い建物はあまり残っていないのですね。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/9/17 世界中の医療に関する格言 道路を走っていると様々な標語が看板に記されています。 「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」 「あぶないよ よそ見 飛び出し ふざけっこ」 「注意一秒 ケガ一生」 「ぼちぼち 走りなんせー 鳥取路」 「おみやげは 無事故でいいの おとうさん」 「いちごが好きでも 赤なら止まれ」 「赤信号みんなで渡れば怖くない…そういってアイツは先に逝ってしまった」 最近見て、面白かったのは「ドラレコが見ているよ、お父さん」です。例のあおり運転後に高速道路に掲げられていました。 日本はこういう「標語」が好きなのでしょう。俳句、川柳などの影響があるのかもしれません。外国にもあるのでしょうか? 医療に関する標語というか格言も数多くあります。日本だけではなく世界中にもたくさんあります。有名なのはヒポクラテスの『術は長く生は短し』でしょう。ラテン語で“Ars longa,vita brevis.” 英語になると“Art is long, life is short”。“Art”という言葉が使われるので『芸術は長く生は短し』と紹介されることが多いのですが、ヒポクラテスは医師ですからこの場合の「術」は医術だと思います。 とにかく医療に関する格言は数限りなくあり、それに関する本も数多く出版されています(文献参照)。有名どころをいくつか紹介しましょう。 『患者さんの言うことに耳を傾けよ。患者さんはあなた(医師)に診断を語っている』(オスラー) 『医学によって生命は伸びるが、死の手からは医師でも遁れることはできない』(シェイクスピア) 『上医は病を予防し、中医は来たらんとする病に応じ、下医は現実の病を治療する』(中国のことわざ) 『われ包帯し、神これを癒やし給う 』(アンブロワーズ・パレ) 『病気を診ずして病人を診よ』(高木兼寬) 『健康こそもっとも貴重な財産である事を理解すべきである』(ヒポクラテス) 『誰でも長生きしたい、しかし老いたいとは思わない』(俚諺) 『病気を防ぎ、苦痛をやわらげ、病を癒やすことーーーこれが我々の仕事だ』(オスラー) 『手術の途中で、手術方針で迷うことがある。そういう時は、困難で面倒な方法の方が正解であることが多い』(恩師、新井達太先生) 『動脈硬化が起こる前に、態度の硬化が起こる』(Matt Oliver) 『手術室の看護師は外科医の第2の妻である』(Viatceslav Ryndine) 『もっとも重要な凝固因子は外科医である』(Moshe Schein) 『良い手術には“始末”が必要』(恩師、岡村吉隆先生、元和歌山県立医大学長、関西弁で “始末” は片付けること) 『キズは見つけなければ治らない』(フランシスベーコン) 『無知な医師は独善的』(ウィリアムオスラー) 『もともと太っている患者は痩せている患者より早く死ぬ』(ヒポクラテス) 『医療は「癒しの芸術」であり「聞く芸術」である』(バーナード・ラウン) 『病人を少しでも楽にしたいとたゆまず努力してはじめて医師は能力を最大限に発揮できる』(バーナード・ラウン) などなど、たくさんあります。なかには?のつくような格言もありますね。 私もこのような格言を作ってみたいと思っていました。心臓血管外科手術には出血がつきものです。特に人工心肺を使う手術ではヘパリンという抗凝固薬を患者さんに投与しますので一時的に出血しやすい状態になります。様々な心臓血管手術がある中で一番止血に難渋するのが「大動脈解離(だいどうみゃくかいり)」という病気の手術です。大動脈が裂ける怖い病気です。この病気では手術で切開、縫合した箇所のそこかしこから出血が始まることがあります。手術が早く終われるタイプの単純な大動脈解離なら良いのですが、複雑なタイプの大動脈解離だと、縫うところが多数あり止血に難渋します。しつこく根気よく止血作業を続ける事が大切です。わかりづらいでしょうが、本当にあちこちあちこちから出血することがあるのです。出血が続き、止血に難渋して21時間手術をしたこともあります。幸いこの21時間も手術をした患者さんは、しつこく止血作業を繰り返していたら、神様も味方してくれるのか、段々と出血が収まってきて助かりました。 『人間諦めが肝心』などと言われます。しかし元近鉄の投手だった鈴木啓示が説いたように手術の場合も『投げたらあかん』のです。そういうわけで『諦めが悪いのが良い外科医』だと思い、若い外科医にそのことを説いてきました。それが私の考えた第一の「格言」です(笑)。 三つでできた言葉は覚えやすく、忘れ難い 話は全く変わります。皆さんは、「赤尾好夫(1907-1985)」という方をご存じでしょうか?旺文社の創業者で一昔前「赤尾の豆単」という受験用の辞書で一世を風靡しました。2017年鎌倉にあった同氏の旧居跡を利用した「歴史文化交流館」がオープンしたので話題になりました。その赤尾好夫氏は山梨県の出身です。私は高校生の時、甲府で同氏の講演を聴いたことがあります。 赤尾氏の有名な言葉に『人間は忘れる動物である。忘れる以上に覚えることである』という言葉があります。その講演の最初にもその有名な言葉を引用して『だから今日私が話したことも忘れるだろうけれど聴いて面白いと思った言葉はノートに書いておくと良い』と言って講演が始まりました。講演の内容のほとんどは見事に忘れています(笑)。 しかし、その講演の中で、「人間三つまでは覚えられる。だから皆に知られているような言葉は三つでできていることが多い。今日は、三つの勉強法を教える」というような話だったのです。その三つの勉強法は忘れていますが、三つでできた言葉は覚えやすく、忘れ難いということだけは覚えています。いくつか三つの言葉(語)でできている標語というか成句をご紹介しましょう。順不同、思いつくままに。 「来た 見た 勝った(Veni, vidi, vici)」(カエサル) 「来た 見た 購うた」(喜多商店@大阪) 「清く 正しく 美しく」(小林一三:宝塚の創始者) 「作らず 持たず 持ち込まず」(非核三原則) 「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛の辞世) 「エトス パトス ロゴス」(アリストテレス) 「運 鈍 根」(成功の条件 俚諺(りげん;民衆から生まれたことわざ) 「見ざる 言わざる 聞かざる」(日光の三猿) 「神様 仏様 稲尾様」 「危険 汚い きつい」(3K) 「うまい はやい やすい」(吉野家) 「天呼ぶ 地呼ぶ 人が呼ぶ」(仮面ライダー) 「ホップ ステップ ジャンプ」 「日光 結構 もう結構」(戯れ言) 「売り手良し 買い手良し 世間良し」(近江商人) 「食う 寝る 遊ぶ」(日産のCM) 「自由 平等 博愛」(フランス共和国の標語) 「強く 早く 絶え間なく」(心臓マッサージの要点) 「ミッション パッション ハイテンション」(齋藤孝) 「朝は朝星 夜は夜星 昼はうめぼし いただいて」(とび職の方の戯れ言 ※注:「星を戴く」と「ご飯を頂く」をかけています。高級で洒落ている言葉ですね) 「bigger stronger faster」(ステロイドを扱った米国ドキュメンタリー番組の名前) 「スリル スピード サスペンス」(戯れ言) 「巨人 大鵬 卵焼き」 「松 竹 梅」 「金 銀 銅」 「真 善 美」 「ラーメン つけ麺 ぼくイケメン」(狩野英孝) 「いつでも どこでも だれでも」(NHKラジオ体操の標語) まだまだ、たくさんありそうです。 出来が良いのは韻を踏んでいる「来た 見た 勝った(脚韻)」、「危険 汚い きつい(頭韻)」などの語句で、覚えやすいですね。「来た 見た 勝った」はラテン語「Veni, vidi, vici」の翻訳です。ラテン語の原文も脚韻を踏んでいます。 何を言いたいかというと、私もいつか、このような三つの言葉で成る、そしてできたら韻を踏んだ「外科医の標語」を作りたいと思っていました。 手術はいつも、同一チームで同一病院で行えれば良いのですがそうもいきません。他病院で手術をする事もありますしメンバーが変わってしまう年もあります。24時間365日、緊急の患者さんが飛び込んできます。直ちに手術を始めないといけない場合も数多くあります。盆暮れ正月休み関係無しです。つまりどんな状況、どんな環境、どんな病院でも良い手術ができるように訓練することが必要です。 そういうわけで、(例示の最後にある)NHKラジオ体操の標語を少しだけ変えて、良い外科医になるには『いつでも どこでも だれとでも』という標語を考えつき、若い外科医に話をしていました。これは手術や医療に限ったことではありません。どんな仕事でも「いつでも どこでも だれとでも」楽しく、そして効率よく仕事ができれば良いと思っています。 【参考文献】 「医をめぐる言葉の辞典」ジョン デインティス、アマンダ アイザクス(編集)、長野敬(翻訳) 青土社 「医の名言」荒井保男(著) 中央公論社 「外科医へ贈ることば」モーシェ・シャイン(編集)、古瀬彰(翻訳) 注1: 赤尾好夫氏の遺産を元に、奨学金が山梨県の優秀な学生に与えられています。 この制度は同氏の遺志を継ぐべく死後23年にして始まっています。希有な出来事です。 注2: 『いつでも どこでも だれとでも』は、仕事に限った話です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/9/2 Otherwise, this paper from Japan is excellent. 前回より続きます。 勇躍、初めて書いた英文論文を「The Annals of Thoracic Surgery」という雑誌に[再]投稿しました。 それから数ヵ月…… ある朝、医局に行ったら上司の先生から「君はThe Annals of Thoracic Surgeryに投稿したの?」と聞かれました。ここまで書いた通り、あまりに恥ずかしいことばかりを経験していたたので、論文をアメリカの雑誌に投稿したことを伝えていなかったのです。 なぜ、投稿したのが、上司の先生に解ったのかな?と思ったら、「Dr.Mochizukiの論文をアクセプトします(注:アクセプトは雑誌に掲載しますよという意味です)」と記載されたFAXが「The Annals of Thoracic Surgeryの編集部」から夜中に届いていたのです。 「投稿された論文はアクセプトするけれど、コメントが3名の査読者から届いているのでこれらのコメントに対して至急回答するように」との内容も記されていました。論文が「The Annals of Thoracic Surgery」に掲載される!とわかりとてもとても嬉しかったです。しかし、コメントに対する返事が必要です。それも厄介でしたが、とても嬉しいコメント(赤字で示します)が書かれていました。 以下、そのFAXに載っていた査読者のコメントを紹介します。 COMMENTS OF THE REVIEWER (査読者のコメント) ※赤字部分は私が修飾しています。 査読者1.のコメント: The story of the "complex" cardiac myxomas continues. The authors report a case with high circulating interleukin-6 Levels, and they were able to document that the excised tumor contained IL-6. In addition, circulating levels of IL-6 dropped shortly after tumor resection. The manuscript is well written, and is short and to the point I do not suggest any major revisions. I do think that it warrants publication as part of the ongoing story of this subset of patients with cardiac myxomas. 査読者2.のコメント: This paper reports a single case of cardiac myxoma associated with constitutional signs and presence of Interleukin-6 in the serum. Although the case is well presented it does not add any extra information when compared to precedent publications (ref. 2, 3, 5). Important questions are not addressed, such as: does the association myxoma, constitutional signs and high serum Interleukin-6 values induce a rise of recurrence? Can myxoma recurrence be diagnosed on IL-6 dosage? Are constitutional signs due to presence of IL-6 in the serum? This paper simply describes a case report of the well known association myxoma, constitutional signs and presence of Interleukln-6 in the serum. 査読者3.のコメント: It is essentially an interesting case report with good lab data. My only suggestion to the author is that the discussion Is a little long by about 30%.There is some repetition in the thoughts expressed. With a little effort, this could be shortened. Otherwise, this paper from Japan is excellent. It may well be that the figure of the microscopic section should be published in color. 査読者3.の先生はコメントに「this paper from Japan is excellent」と記してくれました。私は狂喜乱舞しました。苦労して一生懸命書いた甲斐がありました。これは、私の人生の中でも嬉しかったことの上位5つに入ります。 ともかく3名の査読者への回答を練りに練って書き、査読者への助言に沿って論文を書き直し、私の論文は無事に胸部心臓外科領域では一流雑誌である“The Annals of Thoracic Surgery”へ掲載されました(文献1)。雑誌と別刷りが送られてきたときは「夢か」と思いました。 しかも、この論文掲載がご縁で心臓外科の教科書(「心臓外科」新井達太編、医学書院刊)の「心臓腫瘍の項」を書かせていただくことにもなりました。 そして、もっと凄いことが私の知らないところで起きていました。なんと朝倉書店の「内科学」の教科書の「心臓腫瘍」の項に、この論文が2版に渡って引用されたのです。 これを教えてくれたのは医学部の学生さんでした。「もしかして、この教科書に引用されている“Mochizuki Y”で始まる論文は、望月先生の論文ですか?」と聞かれたのです。本当に嬉しかったです。私は内科の教科書に論文が引用されていることを知らなかったからです。 この教科書の「心臓腫瘍」の項は、筑波大学の山口巌先生の執筆でした。山口先生は著名な先生ですが、私は面識がありませんでした。ですから、純粋に私の論文を読んで引用して下さったのです。望外の幸せでした。内科を専門とする同僚の先生方からとても羨ましがられました。 写真1:教科書の表紙です 写真2:教科書の中の文章です この論文を読んだ本家本元(Carney complex の提唱者)のCarney先生から、論文の別刷り送付依頼の手紙がきました。ドイツ、オランダ、ベルギー、フランスの先生からも別刷りの送付依頼の手紙をいただきました。その上、この論文を書いてから10年後にアメリカのCornell大学内科のVeugelers先生から、世界中の「Carney complex型の心臓粘液腫」の遺伝子解析研究にお誘いを受けて協同研究をさせていただき、その論文は「Proceedings of the National Academy of Sciences(米国科学アカデミー紀要)」にも掲載されました。 勿論、私の名前もこの論文のauthorのひとりになっています(文献2、余話4を参照ください)。また、この論文を書いたが為に、American journal of cardiologyなどの雑誌から心臓腫瘍に関する「査読依頼」もいただくようになりました。 私が初めて投稿した英文論文は、私が医師になった当時の目標のうち 英文論文を良い雑誌の載せること 教科書を書くこと 教科書に載るような論文を書くこと の3つを実現させてしまいまいした。一粒で3回美味しい論文でした。 あの「バイク便」を思いつかなければ無かった論文です。そう思うと、冷や汗がでます。臨床現場では、珍しい病気に出会わないままに過ぎてしまう医師も多いのですが、私は良い時期(インターロイキンー6が見つかった後)に珍しい症例に出会い幸運でした。 とにかく、この論文を書いた事で、英文論文を書く自分なりの「方法論」を作ったのです。その後もいくつか、英文論文は書きましたが、The Annals of Thoracic Surgeryにはなかなか掲載されませんでした。初めて書いた英文論文が、The Annals of Thoracic Surgeryに載ったのは、僥倖でした。 よく「宝くじは買わないと当選しない」と冗談で言われますが、「論文は書かないと載らない」ですね。そして、どうせ書くなら英文論文の方が良いですね。 【参考文献】 Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, Mori H, Shimada K.“Interleukin-6 and "complex" cardiac myxoma.” Ann Thorac Surg. 1998 Sep;66(3):931-3. ↓実物を読めます。フリーですので、お時間が有るときにお読みください。 https://www.annalsthoracicsurgery.org/article/S0003-4975(98)00569-4/fulltext Proc Natl Acad Sci U S A. 2004 Sep 28;101(39):14222-7. Epub 2004 Sep 15. Comparative PRKAR1A genotype-phenotype analyses in humans with Carney complex and prkar1a haploinsufficient mice. 余話1: この論文を書いていた当時、私はマッキントッシュのコンピューターを使っていました。投稿論文はWordで書いていたのでデータは残っていますが、そのほかのメモ書きなどはすべて「クラリスワークス」というマッキントッシュ用のソフトで書いていました。 今回、この機会に見直そうとしましたが、ほとんどが読めません。特殊なソフトを使わないと読めそうにありません。とても残念です。 パナソニックのVHSとソニーのβのような話(懐かしい!)ですが、今はマイクロソフト社のWordが世界標準です。当時も全てWordを使って作業していれば良かったです。マッキントッシュのソフトで作った書類は拡張子(.txtや.jpgなど)が付いていませんでしたので、何のソフトで作った書類かわからないのです。実に困った話です。 余話2: 途中でも紹介しましたが、この論文を書いていた時に思いついたのが、付箋(ポストイット)を用いる方法です。参考までに、画像を添付します。ポストイットは便利で、日常生活にも論文作成にも欠かせないですね。 写真3:付箋紙活用例1 写真4:付箋紙活用例2 写真5:付箋紙活用例3 余話3: 「Google Scholar」で検索すると私の書いた論文は、現在まで21編の論文に引用されていることがわかります。 21編の論文中には世界的に有名なメイヨークリニックのHartzell V.Schaff先生の書いた “Surgery For Cardiac Myxomas” という論文もあります。名誉な話です。 以前は、こういうことを調べるのは大変でしたが今は「Google Scholar」があるので簡単にわかります。比較には全くなりませんが、山中伸弥先生が書いたノーベル賞の論文「Induction of pluripotent stem cells from adult human fibroblasts by defined factors」は14,000編の論文に引用されています。桁が違いますね。 余話4: 「Proceedings of the National Academy of Sciences(米国科学アカデミー紀要)」に、著者として名前が載るのも大変な名誉です。インパクトファクターは10点くらいです。 ちなみに、この雑誌は米国では「ピー エヌ エー エス」と呼称します。しかし、日本では何故か「ピーナス」と呼称されています。これは良くないですね!さて、なぜでしょう(笑)。米国人には別なモノを連想させてしまうようです。他人がいないところで、低音で、ゆっくりと「ピーナス」と発音すれば…… 余話5: 締め切りの無い論文投稿は、自分でデッドラインを作らないとダメですね。痛感しました。自分で締め切りを作るのは困難ですが、なにか目標が無いと、だらだらと時間が過ぎてしまいます。とは言え、自分でデッドラインを作るのは難しいですね。 余話6: 米国の一流雑誌に論文が載るのは、ある意味「劇薬」です。というのは、もうすでに発表されているような事を、日本語で、論文を書く意欲が無くなるからです。日本語の論文も、実はとても大切だと後に気づきました。 余話7: アメリカに長く留学していた先生に伺ったら、“Instructions for Authors” の技術的部分(紙質、フォント、紙のサイズなど)はすべて「秘書さん」がやってくれるのだそうです。それを聞いて私はため息がでました。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/08/19 お笑い英文論文投稿 前回より続きます。 色々とありましたが、心臓腫瘍(粘液腫)のインターロイキン-6染色に成功しました。これを日本語で書いて日本語の雑誌に投稿すれば比較的簡単に載りそうです。しかし、折角だから、なんとか英語の論文にしたいと思いました。 世界中には、数多くの英文雑誌があります。NATURE、SCIENCE、CELL、PNASの世界は夢のまた夢の世界です。私の患者さんは珍しい病気ですが、1例の経験しか無いので、そういう有名な雑誌に載ることはあり得ません。色々と考えたあげく、胸部心臓血管外科医にとって「夢」である“Journal of Thoracic and Cardiovascular Surgery”とか“The Annals of Thoracic Surgery”に載せたいと思い至りました。どちらもアメリカの雑誌です。今は変わりましたが、“Journal of Thoracic and Cardiovascular Surgery”には症例報告のような論文は掲載されていませんでした。そう言うわけで、症例報告も掲載される可能性がある“The Annals of Thoracic Surgery”に投稿することにしました。「しました」と言っても、勝手に!自分でそう思っただけで、実際に論文を投稿するためにどうしたらよいか、方法論が全くわかりませんでした。そこで私が最初にやったのが、「医学英語論文の書き方」が書いてある本を読むことでした。いわゆるハウツー本ですね。どのようにしたら英語論文が書けるのか?というような内容の本です。数冊読みました。どの本にも 「書こうとしている論文に価値があるかどうかを検討することが一番大切」 「世界で初めての発見なら、インパクトファクターの高い雑誌に載る可能性がある」 1.も2.も言っていることは、同様です。同じような論文がすでにあるなら、論文が掲載される可能性は低くなります。苦労して、英文論文を書いても同内容の論文があれば、その論文は掲載されません。そういうわけで論文を書く前に図書館で徹底的に論文を探しました。書こうとしている論文と似たような論文があるかどうかを調べたのです。これは1993年頃のことです。「Medline」という医学生物学の論文のデータベースをインターネット上で無料検索出来る様になったのは1997年のことです。それが、皆さま良くご存じの「PubMed(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/)」です。 それまでは「Index Medicus」という書誌雑誌を用いて論文を検索していました。私もこの「Index Medicus」を用いて探しました。これが「言うは易く行うは難し」です。「Index Medicus」はとても厚く重いのです。今、思い出しても、忌々しいというか、途方に暮れたというか…とにかく論文を探すのが大変でした。図書館は夜8時までしか開いていません。病院で手術をして、患者さんの診療を終えて、やっと夜7時頃になって図書館に駆け込んで、とにかく論文を探しました。 「Carney complex(カーニー複合)="complex" cardiac myxoma.」に関する論文 心臓粘液腫とインターロイキン-6に関する論文 を徹底的に収集して、読みました。それらは英文論文がほとんどです。これはかなり厄介でした。でも、読んでいると、使用されている英語はテクニカルタームが似通っているので(内容が同じようなモノですから)、段々と読む速度が速くなりました。約50編ほど、論文を読みました。今は、普通にパソコン、スマホからPubMedが使えるので、論文を調べる時間は飛躍的に短縮されました。良いことですね。当時から考えると夢のような話です。 さて、どうやらこの症例は英文論文にする価値がありそうだと確信しました。それから、悪戦苦闘が始まりました。 まず、英文論文としてどのようなことを書いたら良いか、どのようにして書き始めたら良いか、皆目見当がつきません。幸い、前述のように50編程度の英文論文を読んだので、これらを参考にして論文に書いてあった英語から使えそうな医学表現方法、表記方法を書き出してみました。そして、自分なりに筋立てを考えてみました。主題は「心臓粘液腫がインターロイキン-6を分泌していることを免疫染色法によって証明した」ことです。論文の導入部分にその旨を書き、次に症例の詳細を書き、結果を書き、検討を書き、最後に結論を書くのが論文の流れです。 さて、色々と書いてみました。しかし、当時、とても忙しかったので(年に150-180件の心臓手術をしていた時代です)、なかなか進みませんでした。仕事が終わってから、あるいは手術の待ち時間などのいわゆるすきま時間を使って書いていましたが、それでもなかなか進みません。日本語ではこう思うのですが、英語ではそれが上手に表現できません。ですから、止まってしまうのですね。特に困ったのが「Title」と「Running Head」です。The Annals of Thoracic Surgeryでは「Title」は80 characters、「Running Head」は40 charactersと指定されていました。私は、この“Characters”の意味も最初は解りませんでした。キャラクターって何? これではお話にならないですね。キャラクターは文字数のことです。どうしてもTitleは長くなってしまいます。私は、Titleを先に20個ほど案出しました。散々、悩みましたが「Interleukin-6 and "complex" cardiac myxoma.」としました。そして、Running Headは「IL-6 AND COMPLEX MYXOMA」としました。 この経験を基に思いついたのが、今でも私が実践している「付箋(ポストイット)を用いる方法」です。とにかく思いついたらポストイットに書き留めてノートに貼りつけ、後でそのノートに貼ったポストイットを整理する、そういう方法です(次回の余話2に紹介します、実際の写真付きです)。 そしてなんとか、書き上げて、投稿?したのです(笑)。 (笑) の意味は、この後の波乱万丈をお読みいただければ、すぐに判ります… 「医学英語論文の書き方」という本には書いていないことがありました。それは、各雑誌には「Instructions for Authors(投稿者への案内):投稿規定」があり、それに沿わない原稿は受け付けないということです。あまりにも当然のことですから本には書いていなかったのですね。最近のThe Annals of Thoracic Surgeryの「Instructions for Authors(https://www.annalsthoracicsurgery.org/content/authorinfo)」には、下記のような項目が並んでいます。今は電子投稿ですので以前とは多少、趣が違いますが、書いてある内容は昔も今もほとんど変わっていません。そこには論文に使って良い「字数、フォント、文字のサイズ」など細かいことが決まっています。電子投稿になって変わったのは「紙」の指定が無いことです。後述する如く「紙」には悩まされました。 General Description of Content Manuscript Submission General Information for Formatting Manuscripts Categories of Manuscripts and Word Limits Order of Content With in Manuscripts Title Page Abstract, Graphical/Visual Abstract Text Acknowledgments and Disclosures References Tables Figure Legends Illustrations Supplemental Material Protection of Human and Animal Subjects Conditions for Publication Form Miscellaneous 論文投稿に際してはこれらの項目に細かい規定があり、これに沿わない原稿は「受け取ってもらえません」。 当時の投稿規定です。電子投稿以前の投稿規定です。紙媒体での郵便による投稿です。 とにかくこれをよく読んでこの「Instructions for Authors:投稿規定」に沿って書かれた論文でなければ、そもそも投稿を受け付けてくれないのです。そういう事が当時の私には良く解っていませんでした。 書き上げた英文論文を、意気揚々と投稿したのですが、 「この論文は投稿規定に沿っていない」 「指定している紙を使え」 「英文をnative speakerに見てもらえ」 というような内容の手紙が、私の下に届きました。査読してもらう以前の話でした。今思うと冷や汗が出てきます。論文の受け取りを拒否されても仕方が無かったのですが、投稿先のThe Annals of Thoracic Surgeryの事務担当者が哀れに思ってくれたのか、 「あなたの論文は投稿規定に沿っていないよ、投稿規定通りに書けよ、きちんとした英語で書けよ、それも指定した紙を使って書くようにね」 と幸運にも助言してくれたのだと都合良く解釈しました。投稿した論文はそのままゴミ箱に捨てられても仕方なかったのですが、助言をしてくれたのです。親切な話です。このThe Annals of Thoracic Surgeryの事務担当者にはとても感謝しています。 私が最初に投稿?した英文論文は、有り体に言えば「論文」の体をなしていなかったのです。そもそも「指定している紙」っていったい何のこと何だろうと思って、「Instructions for Authors」を読み直すと確かに論文は「全てletter sizeのwhite opaque bond Paper」に印刷して提出せよと書いてあります。何のことだかよくわからないので、A4の普通紙にプリントして提出していたのです。近所の文房具屋さんに聞いても判りませんでした。銀座の文房具専門の伊東屋さんに聞いて見れば良いと思いつき伊東屋さんの紙売り場に電話してみました。答えは簡単でした。伊東屋の担当者は“white opaque bond Paper”というのは英米で公用文書を書くのに使われる紙であることや、その紙は“白く、不透明で少し厚いボンド紙という紙”であることを、丁寧に教えて下さいました。「伊東屋さんでは購入出来るのでしょうか」と伺ったら、「ええ、勿論です。沢山売っています(笑)」とのことでした。私は直ちにその「white opaque bond Paper」を注文しました。 次に私は書いた英文を「医学英語論文を添削してくれる米国の専門家」を探して読んで頂きました。最初から笑われてしまいました。「モチヅキ先生、この論文はダブルスペースでは無いですね。これでは、そもそもダメです」。そういえば、「Instructions for Authors」に論文は“Manuscripts should be typed double-spaced throughout”と書いてあったのを思い出しました。“double-spaced”の意味がわからないので、ここでも私は普通に印刷してしまっていたのです。double-spacedを調べたら、「1行の文章に2行分の場所(スペース)を確保すること」つまり、行間を1行空けることだと判りました。当時、Wordというソフトで書いていましたが、そういう設定もあったのですね。私はその時、初めて気づいたのでした。 私が英文論文を最初に投稿した時は「Instructions for Authors」をまともに読んでいなかったのです。門前払いされるのも当然ですね。これはいかんと思い「Instructions for Authors」を全て訳出しました。論文本文、図や表の全て、図や表の説明の全て、タイトル、小見出し全てに細かい規定がありました。 必死になって、これらの規定に完璧に沿うように論文の体裁を整えました。この作業に半年くらいを費やしました。英文も全て書き直し、前述の英文専門家に再度読んで頂きました。ここでも一苦労はありました。「a」と「the」の選択、受動態で書くか、能動態で書くか? 実は、この辺りは今でもよく理解できていませんが、何回か書き直しました。自分で言うのも変ですが、修正した論文は最初に自分で書いた英文とは似て非なるものになりました。言っていることは同じですが日本製英語では無くて、英文らしい英語になっていました。そして再度The Annals of Thoracic Surgeryに投稿したのです。先方からは「査読に回します」という素っ気ない返事が返ってきました。 次回、続く。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/07/29 心臓腫瘍が入った特殊容器を2時間以内に届けるには 承前。 当時勤務していた栃木県の病院から、特殊免疫染色を行ってくれる八王子の研究所まで160kmあり、高速道路を使っても、心臓腫瘍が入った特殊容器を2時間以内に届けるのは、ほぼ不可能で諦めてしまいそうになったところまでお伝えしました(参考:「論文を書く」ということ(1))。 心臓腫瘍を摘出してから2時間以内に染色をしないと インターロイキン-6(IL-6)の活性が低下し、免疫染色が出来なくなる可能性があるので、なんとしても2時間以内に届ける必要がありました。この特殊な染色のために米国から抗IL-6 抗体まで注文したので、なんとか免疫染色をしたかったのです。そこでなんとか腫瘍を摘出してから2時間以内に八王子の研究所まで届けることができるような方法を色々と考えました。 夜間 or 休日に手術をする これなら交通渋滞に懸からず、2時間以内に検体を届けることができそうです。しかし、手術スタッフ、麻酔医の賛同は得られそうにありません。 ヘリコプターでの輸送 ヘリコプターで検体を届けられることが解りましたが、そのためにはさまざまな申請が必要です。しかも費用も高いので早々に断念しました。 そういうわけで、私は「特殊免疫染色」を一端は諦めました。しかし、この患者さんの病気である「Carney complex(カーニー複合)」という病気を調べていると、これはとても珍しい病気であることが解りました。当時、日本では数例しか報告がありませんでした。世界でも100例程度です。こういう患者さんに巡り会うのも、ある意味、セレンディピティです。これを生かさない手はありません。内分泌異常、遺伝、皮膚病変etc.とにかく調べまくりました。それを見ていてくれた当時の上司が、手術の執刀医として私を指名してくれました。普通こういう珍しい病気の執刀は教授、准教授が行います。そういう稀な病気の執刀を私に任せてくれたので、さらにやる気が起きました。執刀を任せてくれた当時の上司には今でもとても感謝しています。 とにかく、色々な思いがあり、特殊免疫染色ができないのはとても悔しかったのです。この患者さんの心臓内には腫瘍が2個あります。放置すると合併症が起きるかも知れません。いつまでも手術を延期することはできません。早々に手術日が決まりました。もちろん休日ではありません。 手術日の数日前、手術手順を書き出して色々と考えていたら、自分(望月)なら、検体を2時間以内に栃木から八王子まで届けることができるかもしれないということに思い至りました。以前もお伝えしたように、私は大学時代、大型バイクに乗っていました。バイクなら渋滞があっても2時間以内に届けることができると考えついたのです。 しかし、すでに大型バイクに乗らないようになって、10年が経っていました。上手く運転できるとは思えません。首都高速を走ったこともありません。それより何より手術の執刀をしなければいけません。これも無理、非現実的な話だと思っていたのです。その時、悪魔のような知恵?が私の頭の中に降りてきました(笑)。 「バイク便!」とういうモノがあることを思い出したのです。大学生時代、バイク雑誌を見ていた時にバイクを使った物品輸送を行う仕事が始まり(注:1982年に始まっています)、それを「バイク便」と称し、バイク雑誌にバイク便ライダーの求人が載っていたのを思い出したのです。 この手術を行った1992年当時、インターネットは使えません。ですから、職業別電話帳(懐かしい)でバイク便会社を探して電話をかけてみました。幸い、摘出した心臓腫瘍の輸送を引き受けてくれる会社というか、引き受けてくれるバイクライダーの方がいらして、2時間あれば届けることができるだろうと言ってくれたのです。ライダーの方にすぐに病院に来ていただきました。そのライダーの方に 心臓腫瘍が入っている容器をこの病院から八王子の研究所まで届けて欲しいこと この腫瘍は直径が2cmくらいの球状をしていて、マイナス196度の液体窒素が充填してあるステンレス製容器(一升瓶程度)に入っていること 液体窒素は爆発する危険はないこと 手術日の何時何分くらいに摘出した腫瘍が入った検体容器を病院の入り口に臨床検査技師さんが持ってくるので、病院前に待機して欲しいこと そしてその検体容器を受け取ったら、交通ルールを守りつつ2時間以内に八王子にある研究所まで届けて欲しいこと 以上をお願いしました。実際に使う容器を見せてお願いしました。この容器を手術室から病院の入り口まで届けてくれることを引き受けてくれた臨床検査技師さんにも立ち会ってもらいました。 幸いこの特殊な輸送を快く、このライダーの方が引き受けてくれました。余程なこと(交通事故など)が道路上で起きない限り、検体を受け取ってから2時間以内に八王子まで届けることができると言ってくれたのです。輸送にかかる費用もたいした額ではありませんでした。 手術が始まって1.5時が経過する頃に液体窒素が入った検体容器が手術室に届くように手配しました。手術開始後、それくらいの時間で腫瘍が取れると考えていたのです。当日、手術の手助けをしてくれる看護師さんにそのことを伝えました。そしてその容器を私が合図したら、私の足下に持ってくるようにお願いしました。手術をして腫瘍を摘出したら直ちにその容器に腫瘍を放り込むよう手はずを整えたのです。 摘出した腫瘍を入れた容器は直ちに手術室入り口まで持っていくようにお願いしました。腫瘍が入った容器を手術室入り口で待ってくれている検査技師さんに渡してくれれば、バイク便のライダーに検体容器が渡ります。簡単なリハーサルも行いました。 「しつこい」「くどい」「やりすぎ」と思われるかも知れませんが、それくらいしないと「初めてのこと」は上手くいかないのです(余話参照ください)。 手術日には恩師の新井達太先生(当時、埼玉循環器病センター総長:https://cmic-career.com/dr-column/archive/5)が手術指導のためにいらしてくれました。新井先生も、この特殊な病気(Carney complex)は初めてだと仰っていました。 手術は滞りなく進行しました。無事心臓の中に二つあった腫瘍を摘出しました。心臓腫瘍はもろいので慎重に摘出し、足下に置いた液体窒素が入っている容器に入れました。それを病院入り口で待っているバイク便のライダーに渡してもらいました。腫瘍を摘出したのが午前11時半頃でした。手術は午後3時頃に終了し、八王子の研究所に電話したら、すでに検体は届いていて、特殊染色に取りかかっているとのことでした。そして無事、「抗インターロイキン-6染色」を行うことができたのです。 それがこの写真です(参考文献6)。 腫瘍内にIL-6があれば 抗IL-6抗体 と反応して茶色に染まると言われていました。この写真の茶色の部分がそれに該当する部分です。ここにIL-6があるから染まるのです。「心臓粘液腫に多量のIL-6がある= 腫瘍がIL-6を産生している」と思われる裏付けをこのような染色をして世界へ初めて示すことができたのです。 正確には世界初の発表ではありませんでした。似たようなことを考えついた方がいたのです。ただ、その先生は日本人の先生で、日本語で論文を書いていました。また、この特殊な「Carney complex(カーニー複合)」に伴う心臓腫瘍でこのような染色をしたのは、間違いなく私が世界初でした。 私はこの発見を英語の論文にしたのですが、心臓粘液腫に抗インターロイキン-6染色を行って「英語の論文」にしたのは、私が世界で初めてです。今の時代、英語で論文を書くのはとても大切です。英語でないと世界中の人に、この「発見」を届けることができません。 「バイク便」が無ければ染色はできませんでした。「バイク便」を使うことを思いついて本当に良かったです。今も「バイク便」が走っているのを見かけると当時のことを思い出します。 生まれて初めて英語で論文を書くのは、とてもとてもとても大変でした。 というお話は次回に続きます。 【参考文献】 GARFIELD E.Science. 1955 Jul 15;122(3159):108-11. Citation indexes for science; a new dimension in documentation through association of ideas. Mullis KB, Faloona FA. Specific synthesis of DNA in vitro via a polymerase-catalyzed chain reaction. Methods Enzymol. 1987;155:335-50. Carney JA, Gordon H, Carpenter PC, Shenoy BV, Go VL. The complex of myxomas, spotty pigmentation, and endocrine overactivity. Medicine. 1985;64:270-83. Toshio Hirano, et al. Complementary DNA for a novel human interleukin (BSF-2) that induces B lymphocytes to produce immunoglobulin。Nature 324, 73 - 76 (06 November 1986); doi:10.1038/324073a0 Hirano, T.,et al. Human B cell differentiation factor defined by an anti-peptide antibody and its possible role in autoantibody production. Proc. Natl. Acad. Sci. USA. 84:228-231, 1987. Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, Mori H, Shimada K. Interleukin-6 and "complex" cardiac myxoma.Ann Thorac Surg. 1998 Sep;66(3):931-3. ↓ここに載っています http://www.annalsthoracicsurgery.org/article/S0003-4975(98)00569-4/fulltext Proc Natl Acad Sci U S A. 2004 Sep 28;101(39):14222-7. Epub 2004 Sep 15. Comparative PRKAR1A genotype-phenotype analyses in humans with Carney complex and prkar1a haploinsufficient mice. Veugelers M1, Wilkes D, Burton K, McDermott DA, Song Y, Goldstein MM, La Perle K, Vaughan CJ, O'Hagan A, Bennett KR, Meyer BJ, Legius E, Karttunen M, Norio R, Kaariainen H, Lavyne M, Neau JP, Richter G, Kirali K, Farnsworth A, Stapleton K, Morelli P, Takanashi Y, Bamforth JS, Eitelberger F, Noszian I, Manfroi W, Powers J, Mochizuki Y, Imai T, Ko GT, Driscoll DA, Goldmuntz E, Edelberg JM, Collins A, Eccles D, Irvine AD, McKnight GS, Basson CT. 余話: 手術前にリハーサルを行ったと書きましたが、これは「塀の中の懲りない面々」で有名な作家「安部譲二」の本で読んだことがきっかけです。安部譲二氏によると警察に捕まるかもしれないような悪いことをしようとする際にはアリバイ作りのために悪事を行う予定の日と同じ曜日の日に「麻雀」をするのだそうです。捕まった時、「いやあの時間は誰々と麻雀をしていました。面子は誰々で、誰がどれくらい勝った、負けました。私が上がった手は何々で…」と言い訳するのだそうです。他の面子の方も実際に麻雀をやっているので、アリバイ作りとしては最高だったと書いていました。要するに、「事をなすにはリハーサル」が大切だと書いていました。ま、悪事をするわけではないですが何か新しいこと、面倒なことをするには入念なリハーサル、予習が大切ですね。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/7/16 これまで私のコラムの中で「書き残す必要性」について何度か書いてきました。歴史に残る大発見をしても書き残さないと、それは「無い」ことになってしまいます。 日本人初のノーベル賞は物理学者湯川秀樹博士が受賞しています。ノーベル賞の受賞対象となった湯川博士の中間子理論に関する論文は『日本数学物理学会雑誌』の英文版に掲載されています(https://www.jstage.jst.go.jp/article/ppmsj1919/17/0/17_0_48/_pdf/-char/ja)。 湯川秀樹博士が偉かったのは 「発見した事を英文で書いたこと」 「自分の書いた英文論文が載っている雑誌を世界中の物理学者に送ったこと」 だと思います。『日本数学物理学会記事』の英文版を世界中の大学、研究施設が購読していたとは思えません。それでも湯川秀樹博士は折角の「大発見」を知らせたくて、世界中の物理学者に送ったのでしょう。それが後のノーベル賞につながります。歴史にifは禁物ですが、湯川秀樹博士が 論文を英文で書かず 英文で書いた論文を世界中の研究者に送らなければ 後のノーベル賞受賞は無かったでしょう。これは1934年のことです。今とは随分と時代が違います。 私の周りでも、もったいない話(折角の発見を論文にしなかった)をいくつか聞いています。私も1つだけ、論文にしなかった心残りの手術があります。今もそのことをチマチマと調べています。 それはともかく、今回は私が初めて書いた英語の論文のことを紹介しようと思います。 医師になってしばらく経ってから、いくつか目標を立てました。その内の1つが「インパクトファクターがある雑誌に論文を載せること」でした。「そして何時の日か教科書に引用されるような論文が書ければ良いな」と夢のようなことを考えていました。 少々「インパクトファクター」についてご説明します。 「インパクトファクター」とは? インパクトファクター(impact factor:文献引用影響率:略称は「IF」)とは「科学系雑誌の点数」です。これが高いほど、「レベルが高い雑誌」ということになっています。入学試験における「偏差値」のような指標です。 IFは1955年、アメリカの書誌学者ユージン・ガーフィールド氏(Eugene Garfield:1925-2017)が考案しました(参考文献1)。「科学を定量的に測定する方法 =IFの算出法」を世界で初めて考えついた方です。「科学を定量的に測定する方法」とは少し言い良すぎかもしれません。「科学雑誌に点数をつける方法を考案した」が正しいでしょう。 ここで IFの計算方法について、ごく簡単に説明しましょう。 ある雑誌「Q:仮名」の2016年の IFをどうやって計算するかをお示しします。 「Q」の IF= A / B A = 2014年、2015年に雑誌Qに掲載された論文が2016年中に引用された回数 B = 2014年、2015年に雑誌Qが掲載した論文の数 要するにある雑誌Qに載った論文がどれだけ引用されたかを計算するのですね。価値の高い論文ほど、引用される回数が多くなり、IFも高くなります。 IFのランキングが毎年6月に発表されます。2016年のランキングをお示ししましょう。 ※()内は前年のIFです Nature: 40.137 (38.138) Science: 37.205 (34.661) Cell: 30.410 (28.710) Nature Medicine: 29.886 (30.357) Nature Genetics: 27.959 (31.616) Nature Methods: 25.062 (25.328) Science Translational Medicine: 16.796 (16.264) Journal of Clinical Investigation (JCI): 12.784 (12.575) Nature Communications: 12.124 (11.329) しかし、これはあくまで雑誌の点数であり、雑誌に掲載された論文自体の価値を示しているわけではありません。IFは「研究者の科学者としての実力」と本来は無関係です。IFを考案したガーフィールドさんも、「これは雑誌の評価であり、科学者の評価とは関係が無い」と述べていました。しかし、ガーフィールドさんの思惑とは違ってIFは研究者の評価をするのに使われています。ある研究者の評価をするのに、その研究者の執筆した論文(正確にはその論文が載っている雑誌)のIFの総計が使われたりもします。 「IFは科学者の評価とは関係が無い」ことを示す良い例があります。以前にDNAの画期的な増幅法であるPCR法を考案して、ノーベル化学賞を受賞したキャリー・マリスのことを以前書きました。日本国の皇后陛下(現上皇后陛下美智子様)に向かって『 sweetie! 』と言った、あのハチャメチャなオジサン、キャリー・マリスです。 彼のPCRに関する論文は NATURE や Science のようなIFの高い雑誌には載りませんでした。NATURE、Science へ投稿したのですが、査読者に掲載を拒否されたのです。査読者には理解できないほど「凄い」論文だったのです。そこで、マリスは「Methods Enzymol」という雑誌( IF= 2.0)に論文を投稿し掲載されました。彼がノーベル賞を受賞できたのは論文を英語で書き、IFが付いている雑誌に論文が掲載されたからです。マリスはアメリカ人で英語が母言語です。日本人の私から見ると、それがとてもうらやましいです。 IFの高い雑誌に論文が載ることと研究者の研究レベルとはまた別な話とはいえ、IFの高い雑誌にたくさん論文が載るような研究者は間違いなくハイレベルです。今は、IFの他にも「Google Page Rank」、「Y- Factor」のような別の評価指数も出てきています。いずれは、IFに取って代わるような評価方法が世界標準になるかもしれません。 しかし、どうせ論文を書くなら、IFの高い雑誌に載せてもらった方がいいですね。IFの高い雑誌は読んでいる人も多いからです。でも、「言うは易く行うは難し」です。「Nature」、「Science 」、「Cell」のような雑誌に論文を載せるのは至難の業です。前述のごとく、IFは引用される論文が多くないと高い値にはなりません。「英語で書かれた論文が載る雑誌」以外は、事実上読まれることが少なく、高いIFを得ることは不可能です。 「これができれば世界最初になる」と思いついた! 前置きが長くなりましたが、私も「何時か IFがある雑誌に論文を載せたい」と思うようになりました。しかし、色々な論文を読んでいると、IFのある雑誌に論文を載せるためには少なくとも、以下、二つの条件が最低条件であることが解ってきました。 世界的に見て、新しい発見や新しい知見があることが必要 英語で書くことが必要 どちらもハードルが高いです。特に、私は海外留学を経験しなかったので、英語で論文を書く方法論が一切解らなかったのです。学位論文は日本語で書き、症例報告などいくつかの論文を日本語で書いたことがありましたが、英語で論文を書いたことがありませんでした。そもそも、「世界初の新発見」、「世界初の新知見」がそう簡単には見つかるわけもありません。 もう27年も前のことになります。1992年のことです。私が勤務していた病院の小児科の先生から、「心臓に腫瘍が二つある」「全身に黒子(ほくろ)がある」「高熱が出ている」という15歳の高校生が入院していると連絡がありました。小児科の先生によると、この高校生の病気は「Carney complex(カーニー複合)」ではないかとのことでした。 「Carney complex」は1985年にクリーブランドクリニックのCarney先生が提唱した病気です。 全身に黒子(ほくろ)があること 多発する粘液腫を伴うこと、その粘液腫は主に心臓に発症すること 内分泌異常を伴うことがあること 遺伝性で、家族性に発症することもあること 粘液腫があれば、熱発、関節痛など炎症反応を伴うことが多い などがその特徴です。 恥ずかしながら、私は小児科の先生に教わるまで「Carney complex」という病気があることすら知りませんでしたので、直ちに Carney先生の論文を読みました(参考文献3)。当時、日本でも未だあまり知られていなかった病気です。 丁度その頃、インターロイキン-6 (interleukin-6:以下「 IL-6 」と略)という物質が日本で発見されていました。液性免疫を調節するサイトカインの一種です。1986年大阪大学の平野俊夫先生、岸本忠三先生らが発見しています(参考文献4、NATUREです)。その後、 IL-6 についていろいろなことが解明されていました。そのうちの1つが心臓粘液腫の患者さんに関することでした。心臓に粘液腫がある患者さんは熱が出ることがあります。粘液腫自体が産生するIL-6が体に炎症反応を起こし、そのために熱が出ると推測されていました(参考文献5)。私が受け持った「Carney complex」の患者さんは、高熱を発していました。つまりこの患者さんの場合、 心臓粘液腫が多量の IL-6 を分泌している それゆえに心臓粘液腫腫瘍内には大量のIL-6が存在するだろう という2つのことが予測できました。この患者さんの血中のIL-6濃度の推移や粘液腫中のIL-6を分析することができれば心臓粘液腫とIL-6との関係が今までよりも明確になるだろうと思いついたのです。 話は少し変わります。当時、さまざまな臓器や腫瘍の中に存在する物質を明らかにするために「免疫染色」という方法が開発され、実臨床の場でもこの方法が使われ始めていました。「免疫染色」とは、臓器の中にある(と考えられる)物質に対する抗体を用い蛍光物質で標識して染色する方法です。実際に「臓器の中にある(と考える)物質」があれば、その抗体と反応して蛍光を発するという原理です。たまたま、私はその免疫染色のことを少しだけ勉強していたのです。そして「抗 IL-6 抗体を用いればこの患者さんの心臓粘液腫のIL-6染色ができるのではないか」「これができれば世界最初になる」と思いついたのです。 「免疫染色」は特殊な方法です。どこでもできるわけではありません。色々と探したら、ある検査会社S社の病理部門の方が興味を持ってくださり、抗IL-6 抗体を用意して、私の受け持っている患者さんの心臓腫瘍の IL-6 免疫染色を行ってくださることになったのです。 望外の幸せでした。IL-6 は上述のごとく日本で発見されたので日本で一番研究が進んでいました。詳しく調べてみると、血中IL-6も測定可能ということが判りました。早速、私の患者さんの血中 IL-6 を測ってみました。とても高い値でした。私は、これは「いける!」と考え、本格的に準備を始めました。 しかし、事は簡単ではありませんでした。摘出した腫瘍内のIL-6濃度は腫瘍を常温で放置すれば時間経過と共に急速に低下することが予想されました。IL-6 が別な物質に変化するかもしれません。S社の方々と議論を重ね、IL-6 の変化を防ぐにはー196℃の液体窒素の利用が有効ではないかという結論に至りました。心臓手術をして腫瘍を摘出したら直ちに液体窒素に浸せば、IL-6の変化は最小限に抑えられると考えました。液体窒素を入れる特殊な容器を用意してその中に液体窒素を入れてその容器に摘出した腫瘍を入れれば良いだけです。 ここまでは簡単な話です。 しかし、問題はその後でした。「腫瘍摘出+液体窒素に浸す」作業をしてから、できるだけ早期に免疫染色のための作業を行わないと「きれいに染まらない」可能性があると言われました。できれば腫瘍摘出後2時間以内に作業に取りかかりたいとS社の担当者から連絡がありました。 さて、困りました。当時私が勤めていた病院は栃木県にあり、S社は東京都八王子市にありました。病院から八王子市まで検体を搬送するには電車による輸送か高速道路を使った自動車での輸送しか方法がありません。。病院から最寄りの新幹線駅まで40分かかります。電車による輸送は選択肢から消えました。高速道路なら病院から研究所まで160kmくらいですが、当時は圏央道が無かったため首都高速道路を端から端まで通るルートしか選択肢がありませんでした。首都高速道路は平日の昼間なら確実に渋滞します。2時間で検体を届けるのは不可能です。どう考えても4時間くらいかかりそうです。そこで私は「免疫染色」を一旦、諦めました。 ところが、考えてはみるものですね。2時間で検体を届けることができる方法を思いついたのです。今でも、なんで思いつくことができたのか、自分でも不思議なくらいです。 以下次回へ。 【参考文献】 GARFIELD E.Science. 1955 Jul 15;122(3159):108-11. Citation indexes for science; a new dimension in documentation through association of ideas. Mullis KB, Faloona FA. SpecIFic synthesis of DNA in vitro via a polymerase-catalyzed chain reaction. Methods Enzymol. 1987;155:335-50. Carney JA, Gordon H, Carpenter PC, Shenoy BV, Go VL. The complex of myxomas, spotty pigmentation, and endocrine overactivity. Medicine. 1985;64:270-83. Toshio Hirano, et al. Complementary DNA for a novel human interleukin (BSF-2) that induces B lymphocytes to produce immunoglobulin。Nature 324, 73 - 76 (06 November 1986); doi:10.1038/324073a0 Hirano, T.,et al. Human B cell dIFferentiation factor defined by an anti-peptide antibody and its possible role in autoantibody production. Proc. Natl. Acad. Sci. USA. 84:228-231, 1987. Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, Mori H, Shimada K. Interleukin-6 and "complex" cardiac myxoma.Ann Thorac Surg. 1998 Sep;66(3):931-3. ↓ここに載っています http://www.annalsthoracicsurgery.org/article/S0003-4975(98)00569-4/fulltext Proc Natl Acad Sci U S A. 2004 Sep 28;101(39):14222-7. Epub 2004 Sep 15. Comparative PRKAR1A genotype-phenotype analyses in humans with Carney complex and prkar1a haploinsufficient mice. Veugelers M1, Wilkes D, Burton K, McDermott DA, Song Y, Goldstein MM, La Perle K, Vaughan CJ, O'Hagan A, Bennett KR, Meyer BJ, Legius E, Karttunen M, Norio R, Kaariainen H, Lavyne M, Neau JP, Richter G, Kirali K, Farnsworth A, Stapleton K, Morelli P, Takanashi Y, Bamforth JS, Eitelberger F, Noszian I, Manfroi W, Powers J, Mochizuki Y, Imai T, Ko GT, Driscoll DA, Goldmuntz E, Edelberg JM, Collins A, Eccles D, Irvine AD, McKnight GS, Basson CT. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/7/1 「昆虫学者ではないただのおじさん」元東京大学附属病院 栗田昌裕先生 前回に続き、蝶々のことから「心」のことなどを考えてみたいと思います。 ここで2人目のご紹介です。 元東京大学附属病院で内科医として働いていた栗田昌裕先生(現 群馬パース大学 学長:1951-)も、そういうアサギマダラをマーキングしている方々の一人です。 栗田先生は10数年にわたって、このアサギマダラのマーキングを「昆虫学者ではないただのおじさん(本人の言)」として続けています。 栗田先生が本格的にマーキングを開始したのは、2003年からです。暑い夏にアサギマダラは東北地方に飛来します。特に有名なのが、福島県の裏磐梯にあるグランデコスキー場です。アサギマダラが多数飛来します。ここに群生するヨツバヒヨドリ(四葉鵯: キク科)の蜜がアサギマダラの好物なのです。 栗田先生は、この裏磐梯で「マーキングしたアサギマダラがどこにどれくらい飛んでいくのだろうか?」とか、「再会できるだろうか?」とか考えつつマーキングをしているのだそうです。 そしてなんと、栗田先生は10年で約13万頭のアサギマダラにマーキングしているのです。年間13,000頭です。特に裏磐梯では一夏に1万頭にマーキングすることを目標として、それを苦しみつつ達成(?)しています。単純に一夏=30-40日として、1日300頭くらいのアサギマダラを捕獲してはマーキングすることが必要です。12時間ぶっ続けにマーキング作業をしたとして、1時間に25頭、約2分に一度はアサギマダラを捕獲してはマーキングを繰り返していたことになります。え?え?え?という話です。 栗田先生によると、アサギマダラには24個の魅力があるとのことです。 文献1から一部引用します。アサギマダラには、 旅をする 飛び方が多様(24種の飛び方があり、分類しています) 酔う(スナビキソウを吸蜜中は酔うのだそうです) 強い 賢い 恐れない 速い(2日で740kmの海上移動の記録有り) etc.ほかに17個の「魅力」があると書いています。 書き写していると、頭がクラクラしてきます。栗田先生は、そんな24個の魅力をもったアサギマダラにマーキングしていると、色々と不思議な現象に出会うのだそうです。 夏に裏磐梯でマーキングしたアサギマダラが他所で他人の手で再捕獲されています。全国31箇所で再捕獲されています。遠くは沖縄で再捕獲されています。それは裏磐梯から沖縄まで少なく見積もっても、2000kmも移動していることが確かめられています。 凄いのは栗田先生ご自身で、秋~冬にかけて、休日を最大限に利用して全国各地に赴き、自分でアサギマダラの調査をしていることです。父島、与那国島、台湾、香港、喜界島等々で調査しています。そして、福島県からは遠く離れた土地で、福島県裏磐梯で栗田先生自身がマーキングしたアサギマダラに再会もしているのです。 1回や2回なら、そういうこともあるでしょう。しかし、何回もそういうことが続いているのです。例えば8月にマーキングした個体に9月末に奄美大島で再会、愛知県の三ヶ根山でも2頭に再会、この時は両手に一頭ずつ自分がマーキングしたアサギマダラがいるという「確率を超えた現象」に何回も出会うようになるのです。 元は東大の数学科を出た「数学者」でもある栗田先生にも確率を超えた「何か」が、アサギマダラにはあるのだろうと記しています。以下参考文献1に栗田先生が書いていることです。 “アサギマダラは不思議な能力を持っていると思う。周辺を飛び回るときにそれを感じる。何かを発しているのではないか。私が考えたことをその通りにアサギマダラが実行してくれるように感じる” 今風に言えば、アサギマダラは栗田先生の考えたことを「忖度」しているのかもしれません。なんだかよくわからないですが、奄美大島で再会したい、愛知県で再会したいと思ったら、福島裏磐梯で自身がマーキングした蝶々が飛んでくるのですから、…ま、あり得ないです。忖度しているとしか思えないですね。 “私がアサギマダラを見る時は、一頭一頭見ているのではありません。アサギマダラをくるんでいる雲のようなものを見ています。だからある場所でアサギマダラをマーキングするとその雲がどのように変化しどのような経路を辿り、いつどこに行くのかが見えてきます” とも書いています。要するに普通の人には見えない何かが、栗田先生には見えるのです。 「確率を超えた現象」に何回も遭遇すると、それは「超常現象」として済まされてしまうことがほとんどです。しかし、文献1.2.は写真や他の人の採取データなどで裏付けられています。そうでなかったら「トンデモ本」の類に入っていたかも知れません。NHKをはじめとするTVや新聞などでも紹介されています。これもあり得ないような確率の話ですが、テレビ番組の撮影中にアサギマダラとの再会を果たしています。ですから、他人には解らないような「超常現象」ではないことは確かでしょう。 栗田先生がアサギマダラを追っかけているのか、追っかけられているのか、それが「心」を通わせているからか?とか、考えると、訳がわからなくなります。私には、アサギマダラと栗田先生が「心」を通わせているとしか思えないのですが、さて蝶々に「心」があるのでしょうか?凡人の私には解りません。いずれにせよ、蝶々には色々と面白いことがたくさんありそうです。韃靼海峡をわたったのが「アサギマダラ」か、まだ不明です。ロシア大陸にいるアサギマダラをマーキングしてくれる方がいらっしゃれば、わかることだと思います。 私も質は違いますが「確率を超えた現象」に出会ったことが何度もあります。 いずれ、そういうことも記そうと思っています。 【参考文献】 謎の蝶アサギマダラはなぜ海を渡るのか? 栗田昌裕(著) PHP研究所 謎の蝶 アサギマダラはなぜ未来が読めるのか? 栗田昌裕(著) PHP研究所 両書ともに、極めて興味深いことがたくさんかかれています。お時間あるときに是非、お読みください。なお、本文中の“”内は両書からの引用です。 アサギマダラ 海を渡る蝶の謎 佐藤 英治 (著) 山と溪谷社 (2006年) 別記1: 栗田昌裕先生は上述の如く、毎夏 福島県耶麻郡北塩原村の裏磐梯にあるホテルグランデコに滞在し「旅する蝶:アサギマダラ観察会」を催しています。興味のある方は、訪れてみると良いですね(アサギマダラ観察会)。 この会が催されるようになったきっかけは、一夏ホテルに滞在している「おじさん(=栗田先生)」が捕虫網をもって朝から晩まで蝶々を追っているのを見たホテルの支配人が、声を掛けてきたことから始まっているのだそうです。これも「アサギマダラのお蔭」と栗田先生は記していますが、大の大人が朝から晩まで、一心不乱に蝶々を採取しては、ペンでマーキングしていたら「何をしているのですか?」と聞かない方がおかしいですね。 別記2: 栗田昌裕先生の略称はSRSですが、これは栗田先生御考案になる速読法「SRS(Super Reading System)」から来ています。速読法に関する著書も多いのです。100冊以上、本を書いていらっしゃいます。指回し健康法の考案者でもあります。 別記3: 我が家に飛来した蝶々です。アゲハチョウでしょうか?何度も、私の周囲を旋回していました。夜の蝶には縁がないけれど、昼の蝶々には好かれているのかもしれないと思っていたのですが、違いました。蝶には蝶が好む通り道があり、それを「蝶道」と言います。丁度、私の周りが蝶道になっていたのでしょう。アゲハチョウの仲間は特に蝶道を作る傾向があるのだそうです。 別記4:芝公園とアサギマダラ 私どものクリニックがある浜松町に近い芝公園でアサギマダラ関連の催しが開催されています。 芝公園・生物多様性ガーデンでアサギマダラを見つけよう 芝公園にアサギマダラを呼ぼう! などが、開催されています。ご興味がある方は是非、参加してみてください。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/6/10 ※「忖度(そんたく)」:「他人の心をおしはかる」という意、最近 ある話題で注目の言葉 皆さんは蝶々が好きですか?(余計な注:昼に舞う蝶々です) 冬が終わりGWも終わり、すっかり春めいている筈の今日この頃ですが、春と言うよりすぐに夏になってしまったような感じを受けます。最近は「春」や「秋」と呼べる期間が極端に短くなっているように思えます。 とは言え、今、自然に目を向ける「春」を感じます。山の樹木は匂い立つような緑色になり、草木も生い茂り、花々も一斉に咲きます。花に釣られて蝶々(ちょうちょう)も花から花へと飛び回ります。 今回、次回は血管疾患から離れ、蝶々のことから敷衍(ふえん)して柄にもなく「心」のことなどを考えてみたいと思います。 皆さんは、子供の頃、蝶々が好きでしたか?春になるとさまざまな蝶々が飛び交います。蝶々を採取して標本にしませんでしたか? 蝶々が好きだと公言している方も多いですね。生物学者の福岡伸一、池田清彦、解剖学者の養老孟司、故鳩山邦夫代議士、ファーブル昆虫記の翻訳で有名な奥本大三郎など「蝶」に魅せられた人は多いですね。ここに挙げた方々の蝶への愛情は凄まじいです。 私の勤めていた病院のある先生は蝶の採取が好きで、学会で各地に行く時には必ず蝶採取用の折りたたみ捕虫網を持っていくのが常でした。その先生は捕虫網にもこだわりがあり「志賀昆虫普及社@戸越銀座」というお店の網でないとダメだと仰っていました。何がダメなのか、私にはサッパリわかりません。その先生は、学会に行っているのか、蝶々を採取に行っているのか、良くわかりませんでした(笑)。蝶々が好きで、蝶に魅せられている方は一種独特な感性を持っている方が多いと感じています。小さい時から蝶々に親しむと、独特な感性が養われるのかもしれません。ただし観察個体人数が少ないのでこの仮説が正しいかどうかは不明です。 そんな先生方の中から、蝶に纏わり私が知っている2名の先生をご紹介しながら話を進めます。 「栴檀は双葉より芳し」元鹿児島大学内科学 納光弘先生 まずは、元鹿児島大学内科学の教授で納光弘(おさめ みつひろ)先生です。「HTLV-1関連脊髄症」という病気を発見したことで有名な先生です。納先生は「痛風はビールを飲みながらでも治る!―患者になった専門医が明かす闘病記&克服法(小学館文庫)」の著者としても知られています。さまざまな病気の研究で有名な方です。診療や医学研究の合間に、玄人顔負けの絵を描いたり、人わざとは思えないようなゴルフをしています。 「1日に105ホール回る」「本場リンクスコースで1日に94ホールまわり、大新聞に載る」などと上記のサイトに載っています。 プロを目指してボウリングもしています。ここに、納先生のボウリングのスコアが載っています実に多芸多才な方です。 納先生の書いた論文を読むと、その精緻さに頭がクラクラとします。天才的な先生です。 その納光弘先生が最初に書いた科学論文を紹介しましょう。医学の論文ではありません。「蝶」に関する論文です。「栴檀は双葉より芳し(せんだんは ふたばより かんばし)」と言いますが、当にその言葉が正しいことを体現しているような論文です。著者名に鹿児島市甲南高校2年とあるのが微笑ましいです。文中に出てくる「福田先生」は後述する本も書いている有名な蝶類学者で、そういう人と出会ったのも運が良いですね。この運?は蝶が引き寄せてくれたのかもしれません。何を言っているのか不明だと思いますが、次回まで読んでいただければ、理解していただけると思います。 この論文は、「タイワンツバメシジミ」という蝶が日本でどういう「カタチ」で越冬しているのかを明らかにした立派な論文です。納青年(当時)は「タイワンツバメシジミ」という蝶が鹿児島の土中で幼虫となって越冬していることを発見したのです。鹿児島県昆虫同好会誌「SATSUMA 19号」に載っている論文です。『蝶の履歴書』(福田晴夫著)にもこのことは紹介されているくらい凄い業績です。 納先生には色々と教えていただいたことがあります。その際、この論文の事も伺いました。この論文に書いたことを発見したのは先生が中学生の時で論文にしたのが高校生の時だそうです。ただ、どこにもこの論文は残っていない、納先生の手元にもないとのことでした。私は探せばあるとはずだと考え、ある方法で探したところ、上記の論文が見つかり、納先生に送って差し上げました。喜んでいただきました。いずれにせよ、後に医学においても世界的な発見をした納先生の記念すべき最初の科学論文は、この蝶に関する論文だということになります。この発見に関して、納光弘先生はこう書き記しています。 “だれも越冬状態を見たことがない。こんなアホなことでも初めてのことだと、書いておけば名前が残っていく。ものごとの発見というのは、変だな、不思議だなと思ったら、その原因をさぐる努力をすれば、いずれ原因に到達するのです” やはり、「栴檀は双葉より芳し」ですね。 アサギマダラは旅をする ここからは、本号の主題に移ろうと思います。 最初に、安西冬衛(1898年-1965年)という詩人の「春」という詩を紹介します。 「てふてふが 一匹 韃靼海峡を渡っていった。」 注1:「てふてふ」は、「ちょうちょう」の旧仮名遣い表記です。音読するなら『ちょうちょう』です。 注2:韃靼海峡(だったん:今の間宮海峡、アジア大陸と樺太の間) という「詩」です。詩集『軍艦茉莉』(1927年)に載っています。 韃靼海峡の地図(Wikiより転載) 韃靼海峡(=間宮海峡)は狭いところでは7kmくらいしかありません。蝶々も渡れると思います。後述の如く、蝶々は考えられないほどの距離を飛翔することが解ってきています。数kmくらい飛ぶのは訳もないことです。 さてこの詩で使われている「一匹」がおかしいと言われる方もあるかも知れません。クイズ番組等で「蝶々の数え方」は「頭」を使うのが正しいとされるからです。私は以前から、昆虫の数え方に「頭」を使うのは変だと思っていました。「蝶鳥ウォッチング」というブログ(https://yoda1.exblog.jp/19635989/)で「チョウの数え方、昆虫の数え方 」について学問的な考察がなされているのに気づきました。これを読んで疑問が氷解しました。 以下、同ブログより引用します。 ----引用開始------ 日本動物学会に問い合わせると、以下の説明を公式にいただきました。 「昆虫関係の和文誌論文をいくつかみると、多いものが何「個体」、次が何「頭」です。しかし、厳しく呼称統一されているわけではなく、何「匹」も間違いではないと思います。これが論文ではなく一般向け書物ならば順番は逆になるのではないでしょうか。あまり厳しくルールを決める必要もないのではないかというのが学会関係者の意見でした」 つまり、動物学会でも、学術論文において「頭」にするか、「匹」にするかは、著者の自由であるわけです。 ----引用終了------- TVなどのクイズ番組が間違いなのです。「頭」か「匹」を選ぶのは学術論文でも、どちらでも良いのです。 仮に 「てふてふが 一頭 韃靼海峡を渡っていった。」 としたら何だか情緒が無くなり違和感が残ったと思います。 その韃靼海峡を渡ったとされる蝶々ですが「アサギマダラ」という蝶ではないかとされています。樺太でも見つかるからです。そもそも「か弱そうに見える」蝶々が本当に遠距離を移動するのでしょうか? それについては少なくとも世界で2種類の蝶が何千キロも旅をすることが確かめられています。最初に長距離を飛ぶことがわかったのは北米の「オオカバマダラ(大樺斑・学名:Danaus plexippus、英名Monarch)」という蝶々です。どうやって、蝶々が数千kmも飛ぶかわかったかというと「オオカバマダラを捕獲」して図1にあるようなラベルを付けてから蝶を放つのです。ラベルにはe-mailのアドレスが書いてあります。 図1:ラベルが貼られたオオカバマダラ このラベルが付いた蝶を再捕獲した人が捕獲場所をe-mailで連絡すれば、蝶々がどこかからどこまで、どれくらいの日時で移動したかが、わかるのです。多くの人の努力、観察により、カナダでラベルを貼られたオオカバマダラはメキシコまで移動していることや、時にはイギリスまで移動していることが解ったのです。このオオカバマダラに次いで長距離移動をすることが解ったのは日本の「アサギマダラ(浅葱斑、学名:Parantica sita 英名:Chestnut Tiger)」という蝶です。 図2 アサギマダラ 「浅葱:アサギ」とは青緑色の古称で羽の部分の半透明の水色部分の色です。 このアサギマダラですが、春になると北上し涼しい土地で過ごし、秋には暖かい地方に南下するのです。詩的に書けば「アサギマダラは旅をする」のです。旅をするらしいことがわかったのは1980年頃の話です。全国各地のアサギマダラの愛好家がアサギマダラにマーキングを開始しました。大阪市立自然史博物館の方が「アサギマダラを調べる会」を発足させ、以後、現在に至るまで、マーキングをして、アサギマダラがどのように飛んでいるかを調べています。 図3:マーキングされたアサギマダラ 図3はマーキングされた「アサギマダラ」です。北米の「オオカバマダラ」のラベルとは違います。油性のペンでアサギマダラの羽に字を書き込むのです。キカイとあるのは喜界島のこと、3/28は3月28日、SRSはマーキングした方の略称(例えばこのSRSは栗田昌裕先生です)。このようにアサギマダラの羽にマーキングし、誰かが別な場所でこの蝶を捕獲したら、捕獲場所、捕獲日時をSRSさんに報告する。SRSさんはそれを公開する。Aさん、Bさん、Cさん……がそれぞれそういうことを行ってはじめて、アサギマダラがどれくらいの距離を飛翔するか、わかるというわけです。理屈は簡単ですが、実行するのは大変です。インターネットが普及したお蔭で報告、集計は多少容易になったとは思いますが、それでも蝶にマーキングしてそれを集計するのは大変だと思います。ご興味がある方は「アサギマダラ観察会」に参加してみてください。 以下、次回。 【参考文献】 謎の蝶アサギマダラはなぜ海を渡るのか? 栗田昌裕(著) PHP研究所 謎の蝶 アサギマダラはなぜ未来が読めるのか? 栗田昌裕(著) PHP研究所 両書ともに、極めて興味深いことがたくさんかかれています。お時間あるときに是非、お読みください。なお、本文中の“”内は両書からの引用です。 アサギマダラ 海を渡る蝶の謎 佐藤 英治 (著) 山と溪谷社 (2006年) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2019/5/27 ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない 前回の続きです。世界で初めて足の動脈瘤の治療に成功した外科医「ジョン・ハンター(John Hunter、1728-1793)」、彼は実にさまざまなことを行っています。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 (1)先に医師、解剖医になった兄と共に「解剖教室」をロンドンに開き屍体を集めて授業料をとって人体解剖を教えていました。そんな教室は、世界中でもごく少数でした。今、医学部では、御遺体(尊い献体です)を用いて解剖を行います。その先駆けですね。 (2)生きた犬を開腹して犬の腸にミルクを注ぎました。その結果リンパ管が白く(ミルクの色)なったので、リンパ管は脂肪の通り道であることを証明しました。 (3)ハンターは軍医をしていた時に A.「銃弾摘出術」を行わなかった患者は全例助かっていること B.「銃弾摘出術」を行った患者の死亡率は極めて高いこと の2点に気づき、以降、「銃弾摘出術」を行いませんでした。 このことに示されるように「死亡率が高い」か「不必要」と判断した治療や手術を、ハンターは行わなかったのです。こういう冷静な科学的判断が下せる医師、外科医は当時ほとんどいませんでした。それだけでも凄いことです。 (4)ハンターは、病人を診て、病状を考え、病気を治療する時にはいつも 「観察せよ、記録せよ、推論せよ」 と説いていました。科学的思考の第一歩ですね。 (5)ハンターは自分の頭で考えることの大切さを繰り返し、説いています。曰く、 「自分の頭で考えよ」 「常に疑問を持ち、自分の頭で考える外科医をそだてることが必要」 「世の定説は、真の知識というより単なる信仰に基づいている。定説を改めようとするのは定説の誤りを認めて得意になりたいからでは無く、自分たちの無知を認めて改めるためである」 「確立された教義に疑問を持ち自分の頭で考えよ」 今でも通じる考えですね。でもハンターが生きた時代にこれを説くのは危険でした。「教義」に疑問を持つこと=神への冒涜と捉えられたからです。このために彼の書いたある本が出版されなくなり、大きな業績を他人に譲ることになってしまいました。 (6)ハンターの弟子は文字通り、「綺羅星のごとく」です。種痘で有名なジェンナー、パーキンソン病で有名なパーキンソン(パーキンソンはハンターの講義を詳細にノートテイクしていたのでハンターが何をどのように講義していたかがわかったのです。優秀な生徒はいつでも優秀ですね)、アメリカにハンター流の動脈手術を広めたライト・ポスト、ヘルニア手術を考案したことで有名なアストリー・クーパーなど、多士済々です。 (7)史上初の人工授精を施行し成功。天才的な方法です。詳細をここで書くのは少し憚られますので参考文献をお読みください。 (8)歯の移植に成功。健康な歯を抜いて(もちろん「健康な歯をもった他人」に対価を払って)、虫歯で歯を失った患者に移植しました。一時的に成功を収めたが歯の移植で梅毒が広まることがわかり中止となりました。 (9)墓地から多くの屍体を掘り起こして、「解剖」に「解剖」を重ねた結果、他の医師よりも圧倒的な解剖学の知識を得ました。しかしやったのは壮大な「死体泥棒」ですので、非難も受けています。 (10)珍しい「人体」を標本にして残しています。珍しい体格や奇形を有している人の死体を解剖して標本にしています。特に有名なのはアイルランドの巨人チャールズ・バーン(Charles Byrne 1761-83)の骨格です。バーンは身長が243cmもあり見世物としてロンドンで人気を博していました。巨人症だったのです。死後、ハンターの手で標本にされるのを恐れて、二重三重にハンターの魔手から逃れようとします。しかし、ハンターはさまざまな手段を用いて(倫理的にはあまり良いこととは思えませんが)、ついにバーンの死体を入手し、骨格標本を作ります。今、ロンドンのハンテリアン博物館(参考文献参照)でそれを見ることができます。ただの骨格標本ですが、アメリカ人の脳神経外科医クッシングはこの標本を見ていて、脳のトルコ鞍が異常に拡大していることに気づき巨人症が脳腫瘍によって引き起こされると推論しました。CTが普及するよりずっと以前の話です。見る人が見ればわかるという典型例です。なお、この骨の標本があるおかげでDNAが分析されこの巨人症のバーンさんと遺伝的につながりがある家系が、4家系アイルランドにいらっしゃることがわかりました。そんなことは、ハンターの時代には考えられなかったでしょうが、ある意味、ハンターという希有の収集家のお蔭です。 (11)世界中の色々な動物の剥製を集めたりもしました。時にはマッコウクジラの解剖もしています。色々な動物を飼育して、成長過程や体温を測ったりもしています。犬、鶏、魚、ナメクジ、ウサギ、コイ、マムシ、雄牛、冬眠中の動物、もちろんヒトも含めて体温を測定し「温血動物(=恒温動物)の体温は一定である」ことを確認しています。そんなことは今では常識ですが、世界で最初に発見して、記録したのはハンターです。 (12)広大な屋敷の裏側は「解剖教室」、表側は「医院」にしていました。そのため、後のスティーヴンソンの小説「ジキル氏とハイド氏」のモデルとも言われています。 (13)当時のイギリスでは、梅毒と淋病が猖獗(しょうけつ)を極めていました。原因は当然ながらわかりません。ハンターは仮説を立てます。それは「梅毒と淋病は同一の原因で起きる」のだろうという仮説でした。そう思った彼は淋病の患者から採取した「膿」を健康な被験者のペニスに接種します。なんと無謀なことでしょう。そして被験者の詳細な記録をつけます。この被験者には最初、淋病の症状が現れ、次いで梅毒の症状が現れました。それで淋病と梅毒の原因は同一であるという論文を書きます。この被験者はハンター自身です。なんというか凄いです。もちろん、後にこの仮説は間違っていることがわかりました。ハンターが自分のペニスに接種した膿は、淋病と梅毒の混合感染者の膿だったのです。 注1:梅毒スピロヘータが見つかったのは1905年のことです(ドイツ人原生動物学者シャウディン:Fritz Richard Schaudinnと皮膚科医ホフマンE.Hoffmannが発見。) 注2:淋菌は1879年、ドイツ人医師アルベルト・ナイサー(Albert Ludwig Sigesmund Neisser)が発見、後にナイサーの名前「Neisser」から淋菌は「Neisseria gonorrhoeae」と命名されています。 (14)世界初の自然史博物館を創立し、現在も残っています(参考文献参照)。ハンターが収集した14000点にのぼる標本が展示されています。 (15)ダーウィンより70年も早く進化論を唱えていました。しかし、その内容が当時としては過激で出版が許されなかったのです。当時は聖書の天地創造の記述を文字通りに受け入れていたので、それを覆す進化論はキリスト教的には困った事だったのです。それでジョン・ハンターの書いた動物の進化に関する著作はお蔵入りとなってしまい、ダーウィンが「種の起源」を発表してから2年後にようやくハンターが動物の進化について書いた「博物学、解剖学、生理学、心理学、地質学に関する小論と推察」という本が出版されます。題名だけでもハンターの知識量が半端ないことがわかります。何時も早朝から深夜まで、勉強、講義、診療を繰り返していたそうですので超人的な知力、体力の持ち主だったのでしょう。 (16)フイゴ(鞴)を用いた人工呼吸法を発明、さらに電気ショック(おそらくはライデン瓶による発電?)による蘇生も行っています。2階から転落して心臓が止まった3歳の子供に、電気を流して止まった心臓を蘇生させることにも成功したという記録を残しています。世界初の「除細動器」です。本格的な除細動器が発明される200年も前のことです。 どれ一つとっても凄い仕事で、普通の人なら、一生に1回こういうことを成すことができればそれだけでも賞賛されるような仕事です。 (17)行ったことのほとんどを書き残しています。これは「言うは易く行うは難し」です。 ハンターは、現在の医学から見ると間違ったこと、現在の倫理観からすると「どうかな?」と思うようなこともやっています。しかし、ハンター無くして近代外科は語れないほど、色々なことを成しています。 ハンターのことを色々と読んでいた私にセレンディピティが訪れました。ある大学の文学部の先生が血管の病気で入院されてきました。緊急手術を行い、助かりました。手術後、元気になった時に伺ったら「望月先生はジョン・ハンターを知っていますか?」「私はハンターが生きていた時代のスコットランド英語の研究をしているのです」と仰ったのです。 以前、参考文献1の「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」を読んでいたので、よく知っていますと答えたら、びっくりしていました。私と違い、この先生の専門はハンターの書いた英語そのものを研究することだったのです。色々なことを教えていただきました。本稿にあるハンター関係の図は全てその先生からいただいた資料からとっています。 矢印で示しているのが、膨らんだ動脈=動脈瘤 です。人工血管もなく、血管縫合用の糸も針もない時代に、ハンターは、このような動脈瘤の外科的治療に成功しています。その流れが、なんと日本にも伝わり「世界初の動脈瘤摘出手術に成功」したのは大阪の日本人外科医で、世界的な雑誌に詳細な報告を書いています。現代の世界的な血管外科の教科書(もちろん英語)にも載っています。 というようなお話は次回に。 ※文中に使用したハンテリアン博物館の写真は、ハンテリアン博物館より提供され、同博物館の許可を得て掲載しています。 ※(2019年6月17日追記)記事に間違いがありました。間違いをしてくださる読者はありがたいです。 【参考文献】 解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯(河出文庫)2013年 ウェンディ・ムーア(著)、 矢野 真千子(訳) これは名著です。これを読むまでハンターのことはおぼろげにしか知りませんでした。本書は翻訳が素晴らしいのでとても読みやすいのです。お時間がある時に是非お読みください。しかし、少しだけこの「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」という邦題には疑念があります。原題は「The Knife Man」です。私が邦題を付けるなら「外科医の中の外科医」、「ザ サージャン」、「ザ 外科医」とでもしたでしょう。ジョン・ハンターは単なる解剖医ではありません。現在の外科医の始祖でもあり、当時最高の医師でした。なお、矢野真千子さんの手になる翻訳はすべて、読みやすく、わかりやすいのです。矢野さんは、英語に堪能で日本語にも堪能で、しかも翻訳する本に関する分野を良く勉強していることがわかります。 ハンターの設立した自然史博物館はハンテリアン博物館(Hunterian Museum, Royal College of Surgeons)として現在まで残っています。しかし、2020年秋まで改装のため、閉鎖中です(http://medicalmuseums.org/museum/hunterian-museum/)。私はこの博物館に行ったことがありません。2020年秋以降にロンドンに行く機会があったら是非訪れてみたいです。 ハンターの兄も博物館を作っています。グラスゴーにあります。「The Hunterian」という博物館です(https://www.gla.ac.uk/hunterian/)。 兄弟で博物館を、別々に作ったのですね。珍しい話です。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2019/5/13 血管手術、事始め ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 前回、解体新書(1774年刊)のことをお伝えしました。人体がどうなっているかわからないと、つまり「解剖」がわからないとそもそも病気のことはわかりません。いまでも医学部で学ぶ最初の医学講義は「解剖学」です。 世界で最初に精密な人体解剖図を著したのはアンドレアス・ヴェサリウス(Andreas Vesalius、1514- 1564、現ブリュッセル生)です。ヴェサリウスはパドヴァ大学(現:イタリア)で医学を学びました。当時、解剖というと「ガレノスの解剖」でした(ガレノス:ローマ帝国時代のギリシアの医学者、129−200年?)。 ヴェサリウスは「ガレノスの解剖」に疑問を懐き人体解剖を実際に行い、29歳の時に「De humani corporis fabrica libri septem 」という解剖学書を発表しました(1543年刊)。当時の公用語ラテン語で書かれています。題の英訳は「On the fabric of the human body in seven books」です。日本語では「人体構造論」と翻訳されています。 この本は世界中で「fabrica(ファブリカ)」と言い習わされています。衝撃的な本です。ラテン語で書かれているので内容はわからなくても、図を見ただけでびっくりします。いくつか、お目にかけましょう。写実的でしかも超現実的です。現代でも十分通用する「遊び心」があると思います。 解剖に関する本は今でも、たくさん出版されていますが、この「fabrica」ほど衝撃的な本は無いと思います。特に足を組んで、物思いにふけっている骸骨の図が、私は好きです。おしゃれです。何を悩んでいるのでしょうか? このヴェサリウスの後輩(同じパドヴァ大学で学んだ)が血液循環を発見したハーヴェイです。 ヴェサリウスの人体解剖の教科書が1543年、ハーヴェイの血液循環の発見が1628年です。ハーヴェイは、当然、ヴェサリウスの解剖図で血管走行を学び、血液循環を思いついたのだと思います。しかし「血液が循環すること」がわかったからといって直ちに血管の病気の診断や治療ができるわけではありません。臓器と病気の関係の解明には、他のさまざまな科学の発展が必要でした。ヴェサリウス解剖図から400年以上経った現代でも未だにわからない病気がたくさんあります。 それはともかく、比較的早期から病気の診断が可能であったのは体表面に近い血管の病気です。体表面に近い箇所にある動脈は触れることができます。足の血管が閉塞すれば、脈が触れなくなり、足の血管に動脈瘤ができれば「瘤(こぶ)」は触ればわかります。しかし、それがわかったところで治療方法はありませんでした。 実際の人体に則したヴェサリウスの解剖図を活かして、世界で初めて⾜の動脈瘤の治療に成功した外科医がいます。1785年の事です。天才的な方法で膝窩動脈(膝の裏にある動脈)の動脈瘤(りゅう=こぶ)の治療に成功します。 その外科医の名は「ジョン・ハンター(John Hunter、1728-1793)」です。スコットランド生まれのイギリス人です(注:1707年以降、スコットランド王国はイギリスに併合されています)。 ジョン・ハンターは実にさまざまなことを行っており、ハンター無くして近代外科は語れないほど、色々なことを成しています。 ハンターが行ったお話は次回に。 【参考文献】 解剖の試験異聞…… 某大学医学部で何が起きた…「神経解剖学」追試120人「全員不合格」(産経デジタル) http://www.sankei.com/west/news/140426/wst1404260086-n1.html 産経新聞の記事です。今でも解剖学の試験は大変そうですね。「神経の解剖」はとても大変です。細かい部位まで名前がつけられています。ラテン語!です。覚えるのが大変です。教官が難しい問題を作ろうと思えばいくらでも作れます。某大学の学生さんに心より同情申し上げます。 「De corporis humani fabrica libri septem」Andreas Vesalius(著) ヴェサリウスの原本に付いては邦訳や原著復刻版が出版されています。「Kindle版」まであり400円です。 「De corporis humani fabrica libri septem」の初版本は日本にも数冊あるようです。 ・明治大学図書館(PDF) ・広島経済大学図書館 などです。なぜか、人文系の図書館に所蔵されています。 私も欲しいなと思って探したらなんとこの初版本が売られていることに気づきました。US$ 1,151,629ですけれど(1ドル=115円として計算すると約1億3000万円ですね)。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2019/04/22 「哲学と血液循環の関係(1)」より続きます。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 英国人医師のウィリアムハーヴェイが1628年に「動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究」という本を出版し「血液は体中を循環する」という今では当たり前のことが西欧世界では広く知られるようになりました。 しかし、日本には伝わりませんでした。1628年当時の日本は鎖国をしていたからです。日本で「血液が循環する」と知れ渡ったのは1774年のことです。この年に杉田玄白がプロデュースして出版した「解体新書」の中でハーヴェイの血液循環説が紹介されたのです。 ここで日本での人体解剖の歴史を簡単に振り返ります。小浜藩(今の福井県小浜市)の人々が大きな役割を果たしています。 日本で最初に人体解剖を行ったのは京都の漢方医の山脇東洋です。1754年(宝暦4年)、京都の「六角獄舎」で死刑囚の解剖(当時は腑分け:ふわけと称していました)が行われました。日本初の解剖に5人の医師が立ち会いました。 山脇 東洋(京都の漢方医:1706-1762):やまわき とうよう 小杉 玄適(小浜藩医:1730-1791):こすぎ げんてき 原 松庵(小浜藩医:山脇 東洋 の弟子、生没年不詳) 伊藤 友信(小浜藩医:山脇 東洋 の弟子、生没年不詳) 浅沼 佐盈(山脇 東洋 の弟子、生没年不詳):あさぬま さえい この5名です。当時の京都所司代(知事のような役目)は酒井忠用(さかいただもち)で小浜藩主でした。小浜藩は今の福井県小浜市(おばまし)です。小浜市は、オバマさんがアメリカ大統領に就任した時、少し話題になりました。 酒井忠用は1752年から1756年まで京都所司代を務めました。その在任中の1754年、山脇東洋、小杉玄適らが人体の解剖の申請を京都所司代酒井忠用に提出し、許可されたのです。小杉玄適は酒井忠用の侍医でした。そういう関係もあって解剖が許可されたのでしょう。酒井忠用は「日本で最初に人体解剖を許可した人物」として医学の歴史に名が残りました。 山脇東洋は漢方医でしたが、動物の解剖を手がけていて、どうも人間の臓器は当時の漢方医学で教えられていた「五臓六腑」とは違うのでは無いか?と考えたのだと思います。また、山脇はドイツ人医師ヨーハン・ヴェスリング(Johann Vesling、1598-1649)が1641年に出版した解剖学書「Syntagma anatomicum, publicis dissectionibus, in auditorum usum, diligenter aptatum」を手に入れています。この本はラテン語で書かれていますが、後にオランダ語に翻訳されています。オランダから出島に伝わった同書を何らかの方法で手に入れたのでしょう。この「ヴェスリングの解剖学書」に載っている解剖図は、山脇東洋ら漢方医が習ってきた中国医学の「五臓六腑」の解剖と随分違いました。どちらが正しいかそれを確かめるために人体解剖を行ったのだとされています。山脇東洋はオランダ語を学んでいませんから、ヴェスリングの解剖書の内容はわからなかったと思います。しかしヴェスリングの解剖書に載っている人体解剖図を見ながら、実際に人体解剖を行い、それまでに中国から伝わっていた人体解剖は間違っていることに気づいたのです。 この解剖から5年、1759年山脇東洋はこの解剖を元に「蔵志(ぞうし)」という日本で最初の解剖書を出版します。その図を書いたのが浅沼佐盈(あさぬまさえい)(前述の5番目)です。絵をかける弟子(浅沼)を連れて行った山脇は着眼点が違います。 他の人は何も書き残さなかったので、ほとんど、その名前が残りませんでした。やはり書き残さないと駄目ですね。余談ですが、解剖をされた罪人は「屈嘉(「くつか」あるいは「くつよし」)」という名前でしたが、山脇東洋は「屈嘉」を厚く弔い、「利剣夢覚信士」という戒名を付け京都京極の誓願寺に埋葬しています。「屈嘉」は日本で最初に解剖され、その内臓が記録された人物となりました。 時は流れ、ヴェスリングの解剖書よりもさらに精密な解剖書「ターヘルアナトミア(ドイツ人医師クルムス著した解剖学書のオランダ語訳書)」が日本に伝来します。「ターヘルアナトミア」は江戸にいた小浜藩医の杉田玄白(1733‐1817)や中津藩医の前野良沢(1723-1803)の下にもありました。当時、簡単に手に入るような本ではありません。前野良沢は長崎留学をした時に入手していました。前野良沢は留学当時46歳です。当時なら、隠居してもおかしくない年齢で長崎に留学し、オランダ医学やオランダ語の勉強もしていました。 山脇東洋と一緒に解剖に立ち会った小杉玄適は小浜藩医で同じく小浜藩医だった杉田玄白の同僚でした。小浜藩つながりです。その小杉玄適から人体解剖の重要性を聞かされていた杉田玄白は、同僚の医師 中川淳が借りてきた「ターヘルアナトミア」に載っている解剖図を見て、「ターヘルアナトミア」の価値に気づいたのです。そして小浜藩主に頼み込んで「ターヘルアナトミア」を買い上げてもらい自分で読むことができるようにしていたのです。 小浜藩主酒井忠用が人体解剖を許可し、 その人体解剖に立ち会った小杉玄適と杉田玄白は小浜藩医で同僚だった。 人体解剖に興味があった杉田玄白が「ターヘルアナトミア」を小浜藩に買い上げてもらった。 凄い「小浜藩つながり」です。それが解体新書につながります。 いつかは自分も人体解剖を行いたいと思っていた杉田玄白ですが、たまたま前野良沢と知り合い、1771年3月4日江戸小塚原の刑場で死刑になった罪人の解剖を「ターヘルアナトミア」を参照しながら見学することができたのです。解剖した人体は「ターヘルアナトミア」に描かれている通りだったのです。 そしてこれが凄いのですが、解剖見学の翌日の3月5日、解剖に参加した33歳の杉田玄白・48歳の前野良沢・32歳の中川淳庵が集まり「ターヘルアナトミア」を皆で翻訳することを決めたのです。決断が早いですね! 翻訳と言っても、「オランダ語→日本語辞書」は無く、その作業はほとんど暗号解読のような作業でした。杉田自身はあまりオランダ語が得意ではなく、実質的翻訳者は前野良沢だとされています。 苦節3年、そしてついにそれが1774年の「解体新書」出版につながります。上述のごとく「解体新書」には「ハーヴェイの血液循環説」も紹介されています。 解体新書は、日本初の本格的解剖書(翻訳ですが)です。人体の名前もオランダ語から苦労して翻訳されています。有名なのは「神経」「軟骨」「頭蓋骨」「十二指腸」「処女膜」などです。今でも使われている言葉がこの時に「新造語」されています。 「動脈」は中国語にすでにあった言葉です。静脈は「血脈」と記されています。後に宇田川玄真(1770-1830)の著書「和蘭内景医範提網」に初めて「静脈」という言葉が使われ今でも使われています。「動(どう)」に対して「静(せい)」ということでしょう。血管の性質、実態も表しているとても良い「造語」です。でも、それなら静脈は「せいみゃく」と呼称すべきかもしれません。しかしなぜか「じょうみゃく」と呼ばれ今に至っています。「静」の音読み(中国語読み)は「せい」と「じょう」ですが、「静」を使ったほとんどの熟語は「せい」と呼んでいます。例えば、平静、動静、安静、静寂、静電気etc.「じょう」と読むのは少ないですね。理屈はなく、語呂で「じょうみゃく」と読まれるようになったのでしょうか。 今回の話は、皆さまにはあまり面白くないかと思います。しかし、解剖はとても大切です。そもそも病気が発生する場所が正確にわからないと、病気を明らかにすることができません。解体新書が刊行されてはじめて日本に本格的西洋医学が始まったと言っても過言ではありません。 学生時代、「解剖学」の勉強は大変でした。ラテン語で人体の各部位の名前を覚えるのです。簡単ではありません。悪夢のような勉強でした。どれくらい悪夢かというと今でも解剖の口頭試問の時に質問された「口蓋骨垂直板」のラテン語名を間違って答えた場面を思い出すくらいです。「lamina perpendicularis ossis ethmoidalis」が正解なのですが、「lamina perpendicularis ossis sacri」と間違ってしまい「違います」と言われ、冷や汗をかいたのを思い出すのです。結局、なんとか正解を思い出したのですが、一瞬「落第か?」と思いました。医師になってから残念なことにこの憎き「口蓋骨垂直板」という言葉を使ったことがありません(笑)。 次回から、代表的な血管の病気について、ご紹介しようと思います。 【参考文献】 医学用語の起り(東書選書) 小川鼎三(著) なりたちからわかる!「反=紋切型」医学用語『解体新書』 小川 徳雄、永坂 鉄夫(著) 血液は循環する―ハーヴェイ伝 (世界を動かした人びと) 阿知波五郎(著) 動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究(岩波文庫 青 908-1) ウイリアム・ハーヴェイ(著) 原本はラテン語“Exercitatio Anatomica de Motu Cordis et Sanguinis in Animalibus” 英語なら“An Anatomical Exercise on the Motion of the Heart and Blood in Living Beings” 新装版 解体新書(講談社学術文庫) 杉田玄白ら(翻訳)、酒井シヅ(現代語訳) 冬の鷹(新潮文庫) 吉村昭(著) 前野良沢に焦点を当てて、解体新書の成立過程を解き明かしている歴史小説です。面白いです。 余話1: 杉田玄白が70歳の頃に書いた回想録『形影夜話』(1802年)に「昔の医学書に天然痘や梅毒が書かれていなかったのに、今はずいぶん天然痘や梅毒を診ることが増えた」「毎年1000人あまりの患者を治療するうち、実に700~800人が梅毒である」 と記しています。 梅毒は、今も激増しています。注意が必要です。 余話2: 解体新書には杉田玄白(訳)、中川淳庵(校)、石川玄常(参)、官医・桂川甫周(閲)とあり、実質的翻訳者である前野良沢の名前がありません。前野は不完全な翻訳のまま「解体新書」を出版することに反対したからと言われています。でも完全を目指すより、出版を優先し世の中に「ターヘルアナトミア」を早く広めた杉田玄白も偉かったと思います。 余話3: 「蔵志」の図は漢方医の浅沼佐盈が書いていますが、かなり平面的な絵です。しかし、「解体新書」の図は写実的で迫力があります。こちらはプロの画家「小田野直武(1750-1780)」が画いているのです。小野田直武の描いた「絹本著色不忍池図:けんぽんちゃくしょくしのばずのいけず」という絵は重要文化財になっています。 それくらいの「プロ」ですから、「解体新書」の図が素晴らしいのは当たり前かもしれません。でも元は「ターヘルアナトミア」の図です。模写して手を加えているので、今なら盗用とされて問題となるでしょう。 「蔵志」の図 「解体新書」の図 余話4: 福井県小浜市には杉田玄白の名を冠した公立「杉田玄白記念小浜病院」があります。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 106:血管疾患(1)哲学と血液循環の関係 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/04/08 桜を詠んだ詩歌 今回は血管の話を続けてする予定でしたが、4月でもあり桜についてあれこれ考えて見たいと思います。 桜を見るとさまざまな思いがよぎります。桜の開花する時期は「年度替わりと重なること」や「学校なら入学式と重なる地域も多いこと」から、桜は日本人の琴線に触れるのでしょう。 古来、桜を詠んだ詩歌がたくさんあります。有名な詩歌を古い方から順番に並べてみましょう。 「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし」在原業平(825-880) 「ねがはくは 花のもとにて 春死なむ その如月の望月のころ」西行(1118年-1190) 「しき嶋のやまとごころを 人とはば 朝日に にほふ 山ざくら花」本居宣長(1730~1801)注1 「散る桜 残る桜も 散る桜」良寛和尚(1758-1831) --- これ以降、桜に変化が --- 「貴様と俺とは 同期の桜…」西条八十(1892~1970) 「ハナニアラシノタトエモアルサ サヨナラダケガジンセイダ」※元歌は于武陵(うぶりょう:810- 唐の詩人)の「勧酒」、井伏鱒二(1898-1993)が翻訳。 桜を題材にした歌謡曲もたくさんあります。 「桜坂」(福山雅治) 「桜」(コブクロ) 「さくら」(ケツメイシ) 「さくらんぼ」(大塚愛) など、多数。 江戸時代末期から明治時代にかけて、詠まれる桜の種類が大きく変わります。良寛以降に詠まれる桜は、染井吉野(ソメイヨシノ)が多いと思います。それ以前に詠まれている桜は本居宣長が詠んでいるように山桜だと思います。なぜ、染井吉野に変わったか、それを今回、詳らかにしましょう。 日本中の染井吉野は一本の木から産まれたクローン 東京ではすでに桜は散ってしまいました。しかし、東北、北海道はこれからが見頃です。開花宣言は、各都道府県にある気象台が定めている「標本木」に5~6輪の花が咲いたことを気象台の職員が確認して始めて、宣せられます。 写真1は、東京の標本木です。靖国神社にあります。大阪の標本木は大阪城公園にあります。 写真1:靖国神社の標本木 今、桜並木に植えられている桜の多くは染井吉野です。 染井吉野は江戸時代、染井村の植木屋さんで売り出された品種だそうです(詳細は不明です)。染井村は現在の駒込辺りです。元々、江戸時代~明治初期に染井村の植木屋さんが、 大島桜:大きな花が咲く エドヒガン(という名前の桜):葉っぱが出る前に花が満開になる(注4) そういう特徴を持った2種類の桜を受粉させて種を作り、栽培したところ、現在の染井吉野の元になる桜ができたと言われています。これには異論もあり、偶々できたとも言われています。 私が推測するに、染井村の大きな植木屋さんの庭に大島桜とエドヒガンがあり、受粉して種ができて、その種をまいたら現在の染井吉野の原型となる桜ができたのだと考えています。それを偶々と考えるか、植木屋さんが作ったと考えるかの違いだとおもいます。記録が残っていれば、染井吉野を流行させた植木職人さんの名前は間違い無く後世に残ったと思います。残念ながら記録は残っていません。 それはともかく、折角できたきれいな桜を売り出すにあたり、古代から有名だった奈良の「吉野桜」として売っていたそうです。しかし、本家本元の奈良県の吉野桜とは関係が全くない品種ですから、1900年(明治33年)に「吉野桜」は「染井吉野」と改名させられています。それでも「吉野」が残っています。千葉県にあるのに「東京ディズニーランド」と名付けるようなモノでしょうか? いずれにせよ、きれいなピンク色で大ぶりの花を付ける染井吉野は瞬く間に日本中に広まりました。今、桜並木で見る桜の多くはこの染井吉野です。染井吉野は実生(みしょう)ができません。種から苗木を作ることができないのです。というか、染井吉野は、ほとんどの場合「サクランボ(果実)」が生りません。つまり「種」ができません。そのため、同じ染井吉野を「作る」には接ぎ木という方法が必要です(注2)。 接ぎ木を簡単に説明しましょう。接ぎ木には2つの桜が必要です。1つは大島桜(他の桜でも可)の根元、もう一つは芽のついた染井吉野の枝です。 大島桜を根元で切り、その切り口に染井吉野の枝を植えます。そうすると、概ね2年経過すると染井吉野が生えてくるのです。一種の臓器移植です。このように「人手」を借りないと染井吉野は増えることができません。自然界では自力で繁殖できないのです。それにしても、元の大島桜はどこに行ってしまうのでしょうか。根を貸すだけです。なんだかかわいそうですね。「接ぎ木」を考えついたのは誰か不明です。 そういうわけで、ワシントンのポトマック河畔の桜も、目黒川の桜も、靖国神社の桜も、弘前城の桜も、染井吉野なら遺伝的には同一です。全国各地の染井吉野のDNAを調べた研究がありますが、全て同一でした。つまり、日本中の染井吉野は一本の木から産まれたクローンです。 そのため同一地域に生えている染井吉野は一斉に咲いて、一斉に散ります。そのように個性が無いのが、個性であるとも言えます。桜は、ほかにも多くの品種がありますが、日本でも世界でも染井吉野はその美しさで人気があります。これに対して、野生の桜は同一品種でも少しずつ違いますので、開花時期が微妙に違います。 写真2:染井吉野の桜並木(@東京駅側にある八重洲さくら通り) 写真2は典型的な染井吉野の桜並木です。隣り合わせている桜も対面の桜も桜同士が重なり合うように咲いています。このように「重なり合う」のが染井吉野の特長です。 写真3:船山桜 写真3:染井吉野の仲間:船山桜です。花の真ん中に緑の葉っぱが見えます。 写真4-1:左)船山桜、右)染井吉野 写真4-2:説明図 写真4-1:向かって左が船山桜、右が染井吉野です。花の違いがわかるのと、花がほとんど重なっていないのがわかると思います。写真4-2がその説明図です。ソメイヨシノ同士なら、重なります。実はこのような写真を撮るのは極めて難しいのです。なぜか?それは日本中の桜並木のほとんどが染井吉野並木だからです。染井吉野の中に別の桜を植えてある場所はほとんど無いと思います。偶々、この「船山桜」の咲いている桜並木を散歩していて、この桜が周りの染井吉野と重なり合っていないことに気づきました。 写真5:葉桜になりつつある染井吉野 写真6:別な桜では花も葉も重ならない 写真5:葉桜になりつつある染井吉野を示します。見事に葉が重なっていますね。 写真6:近くに生えていても、別な桜では花も葉も重ならないことを示しています。見事に分かれています。 写真2~6で示したいのは、 染井吉野同士だと花も葉も重なり合う 染井吉野と他の桜では、花も葉も重ならない ということです。染井吉野は全てが同一の遺伝子を持っているので、隣同士になって枝が重なり合っても、それを「非自己」とは認識しません。だからどんどんと重なります。一方、種類が違う桜だとお互い「違う」と認識し合うので、花も葉も重なることが少なくなります。 染井吉野は花も葉も重なり合い、その下を歩くと実に気持ちが良いですね。これはこの染井吉野の長所です。しかし、枝が重なると今度は日照が悪くなります。下にある葉には日光が届かなくなります。そうなると段々と樹勢は衰えてきます。 つまり、近くに染井吉野を植えると、長所が短所に変わる時が早くやってきます。概ね30~40年で染井吉野の樹勢は衰えてきますが、十分に間隔をとって植えると、寿命が延びてきます。この辺りの兼ね合いは難しいですね。一般的に、染井吉野の寿命は60年とされていますが、例えば弘前公園の桜は樹齢が120年を越えて日本最古の染井吉野とされています。上手に育てると寿命が延びるのでしょう。 写真7:靖国神社の銀杏並木 銀杏には雄木(おぎ)と雌木(めぎ)があり、同じところに植えても、葉の色つき具合が違います。つまり、同じように見えても少しずつ違うのです。靖国神社の銀杏には雄木も雌木もあります。多様性があるのですね。 写真8:神宮外苑の銀杏並木 靖国神社とは違って写真8のように揃って同じように咲く銀杏もあります。 「あれ?変だな?何か染井吉野と似ている」と思いませんか? そうです。最近植える銀杏は、ほとんどが雄木になっています。なぜかと言うと、雌木はギンナンが生るので、落ちると酪酸の匂いでとても臭くなるからです。ですから染井吉野と同じ方法で、雄木だけ接ぎ木をして増やしているのです。だからここに見える銀杏は全て、多分、同一の遺伝子を持ったクローン銀杏です。だから一斉に紅葉し、一斉に散ります。 桜の話から、横道にそれてしまいましたが、染井吉野やこの神宮外苑の銀杏のように一斉に咲いて(紅葉して)、一斉に散る方が「きれい」かもしれません。しかし、私は野生の桜や靖国神社の銀杏のように多様性がある方を好みます。色々な人がいた方が面白いのと同様です。同一の遺伝子植物だと、もしある種の病原菌に感染すると一斉に枯れてしまいます(注3)。そういう意味でも多様性が大切です。 「みんなちがって、みんないい」(金子みすず:「わたしと小鳥とすず」より引用)のです。 【参考文献】 ソメイヨシノを知っていますか?(東京都豊島区のHP) https://www.city.toshima.lg.jp/artculture/brand/someyoshino/arekore.html 日比谷花壇 桜だより https://sakura.hibiyakadan.com/page.jsp?id=4808545 注1: 本居宣長は古事記の研究で有名な国文学者ですが、元は小児科医です。小児科医のかたわら、古い文献の研究をしています。凄いですね。この辺りの話は、いつかまた… 注2: 染井吉野は日本に何本、植えられているでしょうか?実際に植えられている本数は数百万本あるでしょうが、皆同一ですから、「1本」が正解かもしれません。アメリカの生物学者リチャード・ドーキンスは「クローンはたくさん生えているように見えるが、同一の巨大生物と考えた方が良い」と記しています。 注3: 欧州でオリーブの木100万本を枯死させた「ピアース菌」(Xylella fastidiosa:キシレラ・ファスティディオーサ)がマヨルカ諸島の「サクラ」の木から見つかっています。もし、染井吉野に病原性が高く、伝播しやすい細菌が感染したらと思うとぞっとします。 注4: 今、山梨県北杜市にある樹齢2000年?とも言われる「山高神代桜(やまたかしんだいざくら)」は4月上旬に満開になります。エドヒガンザクラです。夜に見ると、何となく「恐ろしい」感じがします。 写真9-1:山高神代桜(開花前) 写真9-2:山高神代桜(開花後) 日本三大桜の1つです。ほかは福島県の三春滝桜(みはるたきざくら)と岐阜県の根尾谷淡墨桜(ねおうすずみざくら)です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2019/3/25 このページには、症例を紹介する医学的な資料として、開心術中の写真があります。苦手な方はお気を付けください。 高血圧を放置すると、どうなるか? 段々と暖かい日も増えてきました。 「冬」(寒いと血管が収縮し血圧が上がります)や、日によって気温の変動が大きい「季節の変わり目」には心臓血管疾患が発症することが多くなります。心筋梗塞(しんきんこうそく)、大動脈瘤破裂(だいどうみゃくりゅうはれつ)、大動脈解離(だいどうみゃくかいり)、といった病気です。 今回から数回、血管の病気についてお伝えしようと思います。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 最初に「高血圧を放置するとどうなるか?」をお目にかけましょう。 写真1は「大動脈解離」という病気によって血管の内膜が裂けた上行大動脈を示します。 この患者さんは、高血圧未治療の方でした。高血圧によって、大動脈が裂けるのです。 以下、医学的な資料として、開心術中の写真がありますので、ご注意ください。 写真1:大動脈解離により血管の内膜が裂けた上行大動脈 大動脈解離で生じた裂け目 写真2は「大動脈解離(だいどうみゃくかいり)」によって上行大動脈に孔(あな)が開いて大出血を起こしているところです。 この患者さんも、高血圧を放置していた方です。 写真2:大動脈解離により上行大動脈に孔が開く 大動脈破裂部と破裂した大動脈から噴出する血液 高血圧が引き起こす大動脈の病気の多くは発症するまで全く症状がありません。「大動脈解離」は、この写真でお示ししたように動脈の内膜が裂けたり、動脈の破裂を引き起こしたりします。何かの拍子に血圧が高くなるとこのように血管に裂け目が生じます。裂け目が生じるまでは全く症状がありません。 助かった方に聞くと「裂けた瞬間」がわかります。曰く「会議中に怒った時」、「囲碁をしていて悪手を打った瞬間」、「車を暴走させていた時(暴走族の方でした)」、「イラッとした瞬間」、「調理をしていて神経を使っていた時」、「悪いやつを懲らしめようと乗り込んだ時」、「あの時!」というようにハッキリとわかります。要するに血圧が「グッと上がるようなこと」とともに発病しています。それまでこのような病気が発症するとは、誰も思っていません。怖いですね。自分にも他人にも大動脈解離がわかるような症状が生じた時は、写真1、2のような重篤な状態に陥ってしまいます。 「血圧なんて簡単」「血圧なんて、治療の必要があるの?」などと思わずに十分にお気を付けください。 日本が三代将軍家光の時代に、ハーヴェイが「血液が体の中を循環する」ことを発見 それはさておき、今回は「血液の循環」という根源的な話を紹介します。 血液は体中を巡り回ります。これを「循環」と称します。 「循環」は2系統あります。 体中を循環する体循環 肺の中を血液が回る肺循環 の2つです。こんな図を見たことがあるかも知れません。 図1 血液は、 左室 → 動脈 → 末梢血管 → 毛細血管 → 静脈 → 右房 → 右室 → 肺動脈 → 肺静脈 → 左房 → 左室 と流れ、そしてまた 左室 → 動脈 → 末梢血管… と流れます。 赤字部分は酸素に富んだ動脈血が流れ、青字部分は静脈血が流れます。 左室から右房までの血液の流れを「体循環」 右室から左房までの血液の流れが「肺循環」 と言います。今は中学生の理科の授業で習います。 イギリス人医師 ハーヴェイ(William Harvey:1578 - 1657年)が「循環」を発見しました。医学上の大発見です。Harveyは「ハーベー」「ハーベイ」、「ハーヴェイ」、「ハーヴェー」などと表記されますが、本稿では岩波文庫で使われている「ハーヴェイ」を使います。 写真3 ハーヴェイは「血液が体の中を循環する」ということを発見し、「Exercitatio anatomica de motu cordis et sanguinis in animalibus」という本の中でそのことを発表しました(参考文献1)。1628年に刊行されました。原著はラテン語で書かれています。1628年というと、日本は江戸時代で三代将軍家光の時代です。ハーヴェイが「血液が体の中を循環する」ことを発見するまで、血液が体の中を循環するとは考えられていませんでした。 「アリストテレスの哲学」と「血管」 話は全く変わりますが、2003年、日本ハムの監督に就任した「ヒルマン監督」は就任時の記者会見で「ギリシャの哲学者アリストテレスの哲学に沿った野球をやれば勝てるようになる。アリストテレスの精神が野球に必要だ」と語っていました。プロ野球の監督がアリストテレスのことを話していたので、びっくりしました。 ヒルマン監督が指揮を執った2003年の日本ハムのキャッチフレーズはなんとギリシャ語の「Ethos Pathos Logos」でした。ギリシャ語のプロ野球チームのキャッチフレーズなど、前代未聞でしょう。 ヒルマン監督は野球を勝ち抜くためには、 エトス(勝利への精神)ethos パトス(勝利への情熱)pathos ロゴス(勝利こそ意義)logos この3つが必要だと説いていました。 アリストテレスは「人を動かすには、エトス、パトス、ロゴスの3つの要素が必要である」と説いています。これは、アリストテレスの3要素と言われています。ヒルマン監督は、これを伝えたかったのですね。 「プロ野球で勝ち抜くにはアリストテレスの哲学を理解することが必要だ」と言われて、当時の日本ハムの選手は目を白黒させたのでないでしょうか? 日本ハムはこの年(2003年)こそ5位でしたが、「Ethos Pathos Logos」の精神が伝わったせいか、2006年には日本一になっていますし、2007年にもパリーグ優勝をしています。2007年に、ヒルマン監督は勇退しています。 話を戻します。 「アリストテレスの哲学」と「血管」には大いに関係があります。アリストテレスは、血液の流れや血管の役割について詳細な記述をした本を遺しています。 西洋の学問はギリシャ哲学から始まっています。ソクラテスからプラトンへ、プラトンからアリストテレスという流れです(注:ソクラテスの同時代人に医学の祖「ヒポクラテス」がいますが、ヒポクラテスは哲学者ではありません。医師です。また別系統の話になるので今回は触れません)。 アリストテレスの師匠プラトンは「精神」について論じています。目に見えない「精神」だけを論じていました。ですから「プラトニックラブ」はプラトンに由来します。 一方、アリストテレスは目に見えないモノ(精神)だけでは無く、「目に見えるモノ」も観察して「動物誌」「動物部分論」という本を残しています。その中に心臓や血管への考察が書かれています。 ちなみにアリストテレスは、ギリシャのアテネにあるプラトンが作った学園「アカデメイア」で学んでいます。今、「アカデメイア」、「アカデミー」という言葉がよく使われますが、その元がこの「アカデメイア」です。元は「アカデマス(アカデモスとも言う)」という人が所有していた森があった場所に学園を建てたので「アカデメイア」の名前が付いたのです。「佐藤さんの土地」に学校を作ったから、その学校名を「佐藤」としたようなモノですね。 それはさておき、プラトンやアリストテレスが心臓や血管についてどのように考えていたのかをお示しします。 プラトンは「心臓は血液の泉で血液の動きは心臓から起こる」と説いています。部分的には合っています。 アリストテレスは「心臓には魂が宿り、プノイマ(生気とも霊気とも訳されています)を作り、そのプノイマを全身に送り出すために心臓から血液を送り出す」としています。「プノイマ」が大切だったのですね。もちろん、「プノイマ」は実在しません。 プラトンやアリストテレスのこういった考えは、それから400年後のギリシャ人医師「ガレノス」に受け継がれます。ガレノスは膨大な医学論文を残し、後世の医学に多大な影響を与えました。ある部分は正しく、ある部分は間違っています。何しろ紀元後160年頃の話です。間違ったのも仕方ありません。 ガレノスは、心臓、血管、循環については間違った記述をしています。 ガレノスは以下のようなことを説いていました。 血液は循環しない 右室と左室の間には穴が開いていて、右室から左室に血液が流れる 血管自体が収縮して血液が流れる 心臓からはプノイマが出る(アリストテレスも説いていたプノイマですね) これらは全て間違いです。 しかし、これが、後世に伝わり、心臓や血管への基礎概念となっていたのです。このガレノスの考えは1628年、ハーヴェイによって正しい血液循環が示されるまでの間、つまり1400年も信じられていました。ガレノスの時代には人体解剖が許されていませんでした。だから間違ったのも仕方ないでしょう。 次回へ続く。 【参考文献】 動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究 ウイリアム・ハーヴェイ(著) 岩波文庫 原本はラテン語“Exercitatio Anatomica de Motu Cordis et Sanguinis in Animalibus” 英語なら"An Anatomical Exercise on the Motion of the Heart and Blood in Living Beings" この本(岩波文庫版)は絶版となっています。ご興味ある方はAmazonでお買い求め下さい。古本なら買えます。なぜ、この名著が絶版なのかわかりません。もったいない話です。 医学用語の起り 小川 鼎三(著) 東書選書 なりたちからわかる!「反=紋切型」医学用語『解体新書』 小川 徳雄, 永坂 鉄夫(著) 診断と治療社 血液は循環する―ハーベイ伝(世界を動かした人びと) 阿知波五郎(著) 余話1: ヒポクラテスの名言のひとつに「哲学を持った医師は神に近い」という言葉があります。ヒルマン監督は日本ハムファイターズを初めて日本一に導きました。 日本ハムファンにとっては「哲学をもった野球監督は神に近い」と言えるかもしれません。 余話2:古代ギリシャの哲学者、医師一覧 ソクラテス(紀元前469年頃 - 紀元前399年) ヒポクラテス(紀元前460年ごろ - 紀元前370年) プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年) アリストテレス(前 384年 - 前322) ガレノス(129年頃 - 200年頃) ハーヴェイ(1578 - 1657年) 重要な注:フランス在住の言語学者、小島剛一氏より、下記(1)(2)のご指摘があった。 (1)「プノイマ」は、pneumaのことだとすれば、ドイツ語式の読み方が奇異です。ラテン語のpneumaもギリシャ語の πνεῦμα も「プネウマ」と読みます。 望月注:「プノイマ」はpneumaのドイツ語読みだと思います。最近の文献には「プネウマ」と記されているモノも多いのです。本来なら、ギリシャ語の読み方を尊重して、「 プネウマ」と記すべきだと私も思います。本文はあえて変更しません。将来的にギリシャ読みの「プネウマ」が一般的になって欲しいです。 (2)「アカデーメイア」の語源になった固有名詞は、ギリシャ語で Ἀκαδημος と綴りますから、カタカナ転写は「アカデーモス」です。 望月注:ギリシャの地名ですから、本来「アカデーモス」と表記すべきですね。 外国地名の表記は難しいですね。「北京」を日本人はペキンと読みます。ピンイン表記は「Beijing」です。北京在住の中国人はこれを「ペイチン」と発音し、英語圏の人は「ベイジン」と読みます。さて、日本人はこれをなんと読めば良いのでしょう。難しいです。 ■関連記事 170:血管疾患(7)人工血管誕生 157:血管疾患(6)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(2) 139:血管疾患(5)血管外傷 ナイフでめった刺しにされて 110:血管疾患(4)ジョン・ハンター無くして近代外科は語れない(1) 109:血管疾患(3)血管手術事始め 108:血管疾患(2)福井県小浜市と血液循環の密かな関係 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/2/25 山梨から鳥取に行き、カルチャーショックを受けた経験が… 日本にはいくつ言語があるかご存じでしょうか? 「日本語だけだ」と思っている方が多いのではないでしょうか?実は日本ではさまざまな言語が使われています。 話は逸れます。 大学時代、アメリカに2週間ほど滞在して英語の勉強をする機会を得たことがあります。ネバダ州のリノにあるネバダ大学(University of Nevada, Reno)で研修しました。リノは同じネバダ州にあるラスベガスと並んでカジノで有名な町です。大学のすぐそばにカジノがあります。勉強もしましたが、カジノにも行きました。カジノでは「ブラックジャック」というカードゲーム賭博にハマりました。1回につき1ドル程度の賭け金でのゲームです。やり始めたら結構面白く、どうしたら勝てるかの「研究」にいそしみました。 リノから車で1時間くらいのところに、スキー場で有名なタホ湖(lake Taho)があり、こちらにもカジノがありました。そのタホ湖のカジノで当時大人気だったそのカーペンターズが公演をしているのに気付いた友達がいて、皆で知恵を出し合い稚拙な英語を駆使して(こういうときは必死になります!(笑))、なんとかチケットを入手し、4人で聞きに行きました。良い思い出です。それから数年後、カーペンターズの妹さん(カレン・カーペンター)さんがお亡くなりにるのですが、この時の彼女はとても元気でした。 それはともかく、2週間の英語研修の最後に、修了試験がありました。英文法と英作文です。ここで点数を取らないと英語の単位が取れないので必死でした。英文法の試験は大学入試レベルの問題で比較的簡単でした。しかし、問題は英作文でした。 「ネバダ大学での研修中について考えたことを書け」 という問題でした。内容は自由、制限時間は2時間。 さて?何を書こうか、迷ったのです。ブラックジャック必勝法、ルーレット必勝法、カーペンターズ観劇の思い出、ヨセミテへの小旅行などが脳裡に浮かび上がりました。「必勝法」を書こうと思いましたが、それには数学的に「凝った」表現が必要です。それを英語で書くのは難しいので、諦めました。カーペンターズ観劇の思い出は、一緒に行った友人が書きそうでした。相手は米国人の英語学の教官です。なにか言葉に関することがないかなあと考えていて、思いついたのが、「言語」と「方言」の関係です。 当時、私は大学に入学し、山梨から鳥取に行き「言葉」でカルチャーショックを受けていました。まったく意味がわからない鳥取方言、関西の「言葉」があったのです。同じ言葉でも発音の仕方が、出身地により随分と違います。同級生の大半は西日本の出身です。友達との会話では関西弁が多用され、私には、まったく意味がわからない言葉も多かったのです。 それで試験の小論文に、 「英語は日本語とは違う言語だから、解らないことが多いのが当然だけれど、同じ日本語でも、私の出身地で使っている山梨の方言(甲州弁)と鳥取弁、関西弁には違いがあり、まったく理解できないこともある」 「dialect(方言)とlanguage(言語)の違いはどこにあるのだろう?」 という要旨で小論を書きました。もちろん英語で書いたのです。いま考えてもそれは結構「良い線をいっていた」と思います。最後に、ネバダ大学の英語学の担当教官から試験の講評があり、英作文の上位3名が表彰されることになりました。思いがけないことに、私の書いた小論が、1等賞に選ばれたのです。名前を呼ばれて壇上が上がり、誉め言葉をかけられたと思うのですが、大変残念なことに、なんと言って誉められたかよくわかりませんでした(笑)。19歳の時の出来事です。それ以降、あまり表彰されることもなく過ごしていますので(笑)、今でも思い出すと嬉しいです。 後年、言語に関する本を読むにつけ、「方言と言語の違いは無い」ことがわかりました。 実際、医師になり、東北地方の病院で当直のアルバイトをしたことがあります。その時、地元の人(特にお年を召された方)の言葉がわからず難渋しました。看護師さんの通訳があって初めて診療できました。「方言と言語の違いは無い」ことを実感しました。 「ああ、ネバダ大学で書いたのは間違いなかった」と一人でよろこんでいました。 日本にはいくつ言語がある? さて、そこで本題です。日本語にはいくつ言語があるかという問いは、日本にはいくつ方言があるかという問いと一緒です。私にも実はまったく解りません。 ユネスコ(United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization:国際連合教育科学文化機関)は、日本諸言語のうち、8言語が絶滅の危機に瀕していると警告を発しています。ユネスコの「日本言語」担当者も、当然のことながら、方言も「言語」だと認識しているのです。 消滅の危機にある8つの言語を以下に挙げます。 アイヌ語 八重山語 与那国語 八丈語 奄美語 国頭語 沖縄語 宮古語 の8言語です。ユネスコのサイトに詳細が載っています。興味がある方はご覧ください(UNESCO Atlas of the World's Languages in danger:http://www.unesco.org/languages-atlas/index.php)。 とにかく、日本には言語(方言)が多数あり、世界的にも認められているのですね。一旦消滅した言語を復活させることは、ほとんど不可能です。文法や語彙は残るかもしれませんが、発音の仕方を残そうとすると大変だからです。 写真:パリ、ペールラシューズ墓地にある「シャンポリオンのお墓」 世界には、消滅してしまった有名言語(文字)がたくさんあります。例えば、エジプトのヒエログリフ(hieroglyph、聖刻文字、神聖文字)です。 紀元前までは、多くの人々に普通に使われていました。エジプト各地にある遺物、遺跡には無数のヒエログリフが残っています。しかし、ギリシア文字が使われるようになり、いつの間にか誰もヒエログリフを読めなくなってしまいました。 しかし1822年、フランスのシャンポリオンが言語学と数学を駆使して、ロゼッタストーン(大英博物館に展示されていますね)からヒエログリフを解読に成功します。シャンポリオンは、小さい時から言語の勉強が好きで、17歳の時に書いた論文が絶賛され、19歳にして、フランスの大学の教官になります。20歳になった時には、各種言語(母語フランス語、ラテン語、エジプト古語のコプト語、中国語、ペルシア語など)を「習得」したとされています。シャンポリオンは数学も駆使することができました。語学力があり、数学ができて、初めてヒエログリフの解読ができたのですね。一旦言語が消失すると、それを再度読み解くのがいかに難しいか、ヒエログリフの事例でもわかります。 この辺りの事情は文献1に詳しいです。 日本国内でアイヌ語を不自由なく喋ることができる方は10数名となっています。ユネスコもアイヌ語は「Critically Endangered」(極めて深刻な状態である)と記しています。私はアイヌ語には縁が無いのですが、日本の言語から「アイヌ語」が消滅してしまうのは寂しいです。アイヌ語は使う機会も激減し、言語としての役目を終えつつあるのだと思いますが、それでも、何とかして、後世に残して欲しいです。AIが発達しつつある今日、スパコンなどを使えば、アイヌ語の音韻、文法、語彙、発音を残すことは可能だと思います。後世の人々にもわかるカタチで「アイヌ語を残すこと」こそ「文化」だと思います。 色々と書き連ねましたが、冒頭の「日本にいくつ言語があるか」ですが、「不明」が正解だと思います。 【参考文献】 暗号解読 サイモン・シン(著) 青木薫(訳) 新潮文庫 米国のサイエンスライター「サイモン・シン」と青木薫が組んだ本には「外れ」が無いです。 この本には、旧日本軍の暗号が簡単に解読されてしまった経緯、絶対に解けないと言われたナチス・ドイツの暗号「エニグマ」を解いた天才数学者の話や、太平洋戦争当時、米軍が日本軍に対して使っていた「単純だけれど日本人には絶対に解けない暗号」の話が載っています。米軍が使っていた暗号は「北米大陸先住民の言語(インディアンの使っていた言語)」でした。インディアンの言語も多数ありますが、あまり知られていない、使われなくなっていたインディアンの言葉を暗号として用いていたのですね。もちろん、インディアンを教育して英語を使えるようにして、それらのインディアンを戦争に送り込み、通信をインディアン語でしていたのです。戦争末期まで、日本軍は米軍の暗号(インディアン語)を解読できませんでした。インディアン語を暗号に使おうと思いついた米軍の知力に負けたとも言えます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/2/12 昭和10年から36年間かけた調査で得られたエビデンス 前々回で日本の平均寿命の推移と水道との関係についてお伝えしました。 日本では、水道の蛇口から出る水が飲めます。外国に行くと水道の蛇口から出る水が安心して飲める国が極めて少ないことに気づきます。日本のように水道水が安心して飲める国は30数ヵ国です(参考サイト:アメリカ疾病予防管理センター:https://neomam.com/blog/tap-water/)。水道水が飲めるかどうかは、その国の経済の指標かもしれません。 平均寿命も色々な国の「経済状態」を表す指標です。まだまだ「人生五十年」の国も多いのです。 出典:世界銀行ウェブ「平均寿命、合計(年数)」 経済状態が良いと、平均寿命は上がります。経済状態が上向きになると、インフラの整備が進み、衛生状態は向上し、衛生的な食物も安定して供給されるようになるからです。日本がその良い例です。しかし、経済状態が良ければ、どんどん長寿になるかというとそういうわけでは無さそうです。さまざまな要因が「寿命」に関与します。 その中で「食事が寿命を大きく変えている」ことを、おそらく世界で最初に見出したのが東北大学公衆衛生学教室の近藤正二教授(1893-1977)です。昨今、健康で長生きするための食事に対する研究が数多くなされていますが、その嚆矢が近藤先生の研究です。 近藤先生は昭和10年から36年もかけて、20kgになる重い調査器財を背負いながら、全国各地計990の町村を回り、平均寿命に影響する因子の調査分析を行っています。その成果は「近藤正二著:日本の長寿村・短命村―緑黄野菜・海藻・大豆の食習慣が決める」(1991年 サンロード出版)にまとめられています。 全国津々浦々を周り歩き、日本各地の風俗、習慣に関する多くの書物を著した民俗学者・宮本常一(1907-1981)に通ずるところがあります。 近藤先生は、70歳以上の長寿者が人口に占める割合が高い村を長寿村、低い村を短命村と称しています。 調査開始当初の長寿者率の全国平均は2.5%程度です。ちなみに2014年には18%です。長寿が問題となっている「今」とは隔世の感があります。近藤先生が調査を開始した昭和10年の平均寿命は男性47歳、女性50歳です。調査を終えた昭和46年の平均寿命は男性69歳、女性74歳です。調査中に20歳も平均寿命が伸びています。 近藤先生が、こういう調査を始めたのは、同じ地方、地域でも平均寿命が短い村と長い村があることに気付いたからです。近藤先生は当初、その違いは「労働時間」「飲酒量」「遺伝」「気候」によるものだと予想していたと書いています。しかし、労働時間が多いほど、短命かと思って調べると、同一地方でも重労働地域は長命で、楽な仕事が多い地域は短命でした。労働と言っても、この頃は主に農作業です。体を動かす仕事です。そういう体を使う仕事を長時間する村々の方が、長命だったのです。 飲酒量と寿命との関係も不明だったと書いています。大量飲酒者は「過少申告」しがちです。おそらく調査不能だったのでしょう。 そして、結局「寿命を決めているのは食事である」ことを突き止めました。 色々と調べていくと(くどいようですが、昭和10年-昭和46年にかけての話です)、 「一升めし」をしている村は短命村(注:一升めし=米の大食い) 野菜、大豆、海草を日常的に食べている村は長寿村 米と魚だけ食べて、野菜を食べない村は短命村 長寿村の長寿者は、高齢でも元気で働いている 長寿率は全国平均2.5%だが、低い地域(1%以下)と高い地域(10%)で10倍もの差がある 果物は野菜の代わりにはならない ということがわかりました。 実際に村々に入り込み、食べているモノ、仕事、文化、習慣を調査しているので、説得力があります。この本を読んでいると、日本各地で実に多種多様なモノを食べていることがわかります。ユネスコ無形文化遺産になった「和食」ですが、この「和食」はかなり特殊な料理であることがわかります。 米どころ地帯は、おおむね短命村が多いのですが、米どころ地帯の中にも長寿村があることに着目して調査すると、そういう米どころでにある長寿村では、お米は「商品」であり、自分たちが食べるモノではなかったのです。米どころなのに、米の消費量が少ない村が長寿村だったのです。魚をたくさん食べるであろうと予想される漁村にも短命村と長寿村があり、短命村は魚を大量に売って米を買って、たくさん食べていることがわかりました。 伊勢の海女さんと能登半島の海女さんの違いも面白いです。伊勢の海女さんの方が、圧倒的に高齢になっても元気で働いています。伊勢の海女さんは、経験的に野菜、特にニンジンを食べると潜水しても疲れにくいことに気づいていました。伊勢の海女さんは全員がニンジンをたくさん食べています。伊勢ではあまりお米がとれないので、お米は食べていませんでした。海産物と麦や自分たちの畑でとれる野菜が主な食事でした。そしてこれが面白いのですが、伊勢の海女さんは、御菓子を一切食べないのです。御菓子を食べると潜水した時、息苦しくなるからだそうです。そういう食生活をする伊勢の海女さんは70歳を過ぎても現役の方がたくさんいらっしゃり、最高齢は78歳だったと記しています。 一方、能登の海女さんは、潜水するには「大量の米と魚が必要だ」と言って、米や魚を大量に食していたのです。そのせいか、短命者が多く、50歳で引退する方がほとんどでした。伊勢の海女さんとは大違いです。同一職業でも、食生活で寿命がこんなにちがうという良い例だと思います。 当然、米の産地からは反論が出ます。鳥取県は「米どころ」です。その鳥取県の「米どころの村の中に長命で有名な村がある」と反論されると、近藤先生は、勇躍その村に乗り込みます。そして、その鳥取の長命村では「米をほとんど食べない。食べるのは年に10日だけだ」「米は売るモノで、食べるモノではない」「普段は麦や野菜を食べている」「それは村の方針で、その方針は明治時代に偉い人が決めて、それが文章にして残っていて皆それを守っている」というようなことがわかり、近藤先生をやり込めようとした先生が逆にやり込められています。 実際、行ってみないと本当のところは解らないのでしょう。この辺りは今でも通じると思います。 その他、大豆製品、豆腐、味噌を大量に食している村も長寿ということに気付き、再三再四、それらを食すことの重要性を説いています。 山梨県の鳴沢村は長寿村ですが、1回の食事に塩分の少ない自家製味噌汁を6杯も飲むのが習慣だったそうです。味噌は大豆から作られます。それが、周囲の村々に比して鳴沢村が長寿である原因だろうと分析しています。 近藤先生の調査がすべて正しいとは思いません。30年以上も調査していたら、最初と最後では食生活も随分と違ってきたと思います。しかし「平均寿命」という統計の数字の裏にある様々な事象を調査分析したのは「すごい」と思います。現代のように交通の便が良いわけではありません。重い器財を持ちながら、一人で全国各地を歩いて調査した近藤先生には、心底、すごいと思います。 近藤先生とは違いますが、皆様が健康で長生きできるように少しでも助力できれば良いなと思っています。 注1: 昭和10年から昭和46年にかけての調査です。まだあまり冷蔵、冷凍による流通経路が発達していない時代です。食べているモノは、住んでいる場所、地域で摂れた産物がほとんどです。ですから、冷蔵が必要な肉食のことはあまり調査されていません。あまり食べる習慣も無かったのだろうと推測されます。 注2: 麺類についての記載がありません。これは、なぜか不明です。昔は、あまり麺を食べなかったのでしょうか? 【参考文献】 すべて近藤正二先生の著書、論文、記事です。 日本の長寿村・短命村―緑黄野菜・海藻・大豆の食習慣が決める サンロード出版 白米に食われている人間ども 文芸春秋 1955.8月号 長寿村・短命村旅日記 学校保健研究 1962.11月号 食習慣と長壽 公衆衛生学雑誌 1950.3号 など 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/01/28 今回は「寄生虫」に関わる一人の医師の出世話と食べ物のお話を書いてみたいと思います。 生きるためには食べ物が必要です。日本の場合、宗教にまつわる禁忌食品がほとんどありません。つまり何を食べても良いのですが、「食べたら病気になる」そういう食べ物は避けた方が良いですね。食べ物で人生が終わったり、変わったりするかもしれません。 ある食べ物がある有名な医師の一生、ひいては日本の「医療行政」を変えたのかもしれないというお話をしましょう。 美味しい寒ブナの刺身に… 私が一番尊敬する科学者は、「雪の結晶」の研究で有名な物理学者の中谷宇吉郎博士(1900-1962)です。 「雪は天から送られた手紙である」 「一片の 雪の中にも 千古の 秘密がある 一粒の 芥子に 秋三界が 蔵されるやうに」 「何時までも舞い落ちて来る雪を仰いでいると、 いつの間にか自分の身体が静かに空へ浮き上がって行くような錯覚が起きてくる」 など、数々の詩的でとても素敵な言葉を残したことでも有名です。 その中谷は一時期、健康を害しました。中谷が北海道大学で人工雪の研究をしていた昭和11年のことです(37歳頃)。中谷は胃が痛むようになり、2年間北大を休職して伊豆の伊東温泉で療養に努めます(この折のことは参考文献1.2.3.に詳しいです)。 しかし、なかなか病気の診断がつきません。北大病院、東大病院に入退院を繰り返しますが、診断不明のまま、段々とやせ衰えてきます。当たり前ですが、診断ができなければ治療ができません。そんな中谷は伊東温泉での療養中に科学随筆を書き始めます。そして随筆を通して岩波書店の岩波茂雄社長との親交を深めます。その岩波茂雄が中谷の病状について相談したのが、当時の慶応義塾大学医学部 寄生虫学教室の小泉丹(まこと)教授でした。 小泉教授は、当時慶応義塾大学病院の若手内科医だった、まだ無名の武見太郎医師(1904-1983)に中谷の病状について相談します。武見医師は慶応義塾大医学部の学生時代、小泉教授の寄生虫学教室に出入りし、夏休みには教室員と一緒に日本各地で寄生虫が引き起こす病のフィールドワークも行っていました。そういう関係で余程「できる医師」だと小泉教授から思われていたのでしょう。実際、武見医師は中谷の病気の診断と治療に成功します。 中谷の病気は「肝臓ジストマ症」という病気でした。これは「ジストマ」という寄生虫(肝吸虫)が人間の体内で増殖して発症する病気でした。 武見太郎が後年、中谷宇吉郎の病気のことについて「病気の方は次第に解明されて、結核性のものでないことは確定できたし、肝臓ジストマがたくさんいることもわかり、ほかに腸内寄生虫も発見され、それ等の治療の順序も決めることができた。全身の衰弱がひどいので、肝ジストマの駆除に使うアンチモン剤の使用は小泉教授から慎重にやれと云われたが、これも成功した。次第に症状が消退した。そして全身状態もよくなったことは勿論である」と書き残しています(参考文献4)。 まだ無名時代の若手の武見太郎医師が、当時まだよくその用法用量もわかっていなかったアンチモンを使って中谷の病気を治したのです。 この一件で面白いことがわかります。「面白い」というと語弊があるかもしれませんが、中谷の肝臓ジストマ症の感染の経緯がわかったのです。それはこういうことでした。 入院している中谷宇吉郎の所にお見舞いに来ていた岩波出版社長の「岩波茂雄」は、大変な食通でした。岩波茂雄は、 後に埼玉大学学長や山梨大学学長を歴任する世界的物理学者の「藤岡由夫」 後に文部大臣になる哲学者「安倍能成」 夏目漱石の三四郎のモデルで有名な独文学者「小宮豊隆」 後に岩波書店会長となる「小林勇」 といった面々と中谷同様に親交がありました。いま挙げたこれらの方々全員に症状の軽重はあれ、中谷と同じ「肝臓ジストマ症」の症状があったのです。 食通で知られた岩波茂雄がここに挙げた皆さん+中谷宇吉郎に「美味しい寒ブナの刺身」を振る舞っていたのが皆に「肝臓ジストマ症」が発症した原因だったのです。「寒ブナの刺身」に「ジストマ」という寄生虫がいてそれを食べて、全員が同じ病気にかかった(寄生虫に感染した)のです。 「肝臓ジストマは、私にとって『恩虫』かも知れない」 武見医師は、中谷をはじめ前述の肝臓ジストマ症にかかった方々の治療をしたおかげで、中谷から当時の理化学研究所(以下、「理研」)の所長だった物理学者の仁科芳雄を紹介されます。中谷宇吉郎は理研の研究者でもあったのです。 理研に紹介された若き武見医師は理研の自由闊達な様子に魅了され、それまで勤めていた慶応義塾大学病院内科を辞して理研での研究を始めます。武見医師が34歳のことです。 彼の研究テーマは大きく言えば「医学を科学する方法論の確立」だったというから凄いですね。実際に理研の物理学者の力を借りて国産心電計を作っています(注:世界初の心電計を作りノーベル賞を受賞したアイントホーフェンも医師ですが、その論文は物理学の論文かと見間違うほどです。要するに物理の知識が無いと心電計は作れなかったのです)。理研で放射線を使った実験をしている研究者の白血球減少症の治療に関する研究をして、放射線障害による白血球減少の治療薬を作ったりもしています。理研で色々な研究を手がけました。 武見医師は、理研での研究と並行して、岩波茂雄の紹介で銀座に診療所を開設し、独自の方法を用いて色々な人の治療をしています(週2日だけの診療だったようです)。その患者さんの中に、当時の政界の大物だった牧野伸顕伯爵(吉田茂首相の義父)の知人がいて、その縁で武見医師は牧野伯爵の娘さんと結婚。武見医師は、吉田茂元総理大臣と縁戚になり、世に言う吉田茂人脈に連なったのです。 元より武見医師は医師として研究者として優れていて、それに吉田人脈があり、理研での科学者人脈もあり、「丸善で日本一 洋書を買う」とも言われた勉強家でもありました。 つまり武見太郎医師は、一流の知識人でもあり、一流の科学者でもあり、一流の医師でもあり、政界をはじめとした広い人脈も持っているという希有の「巨人」になっていったのです。 武見は後に日本医師会会長を長年勤めますが、武見と真っ当に対峙できる政治家、官僚、医師はいませんでした。25年も日本医師会々長を務め、厚生行政において官僚と徹底的な対決を辞さなかったために「ケンカ太郎」として有名でした。今では、「武見太郎」と言えばそのことばかり取り上げられますが、実は武見は、簡単にはまとめられないほどさまざまなことを成しています。世界医師会々長も務め、その影響は世界にも広まり、ハーバード大学公衆衛生大学院には「武見国際保健プログラム」があり、今もその下で多くの医学者、科学者が学んでいます。 その武見太郎医師が後年、「肝臓ジストマは、私にとって『恩虫』かも知れない」と書いています(参考文献4)。そうです、中谷宇吉郎が肝臓ジストマ症にかからなければ、武見医師は理研で研究することも無く、吉田茂人脈に連なることも無く、慶応義塾大学出身の優秀な一内科医で終わっていたかもしれません。そう思うと武見太郎医師にとって「肝臓ジストマ様々」だったかもしれません。しかし、学生時代から寄生虫学教室に出入りして寄生虫の勉強をしていたから、ほかの医師には診断できなかった中谷宇吉郎の肝臓ジストマ症を診断できたのだと愚考します。以前にも書いた「チャンスは備えあるところに訪れる」の格言を想起しますね。 ある食べ物とそれに寄生していた寄生虫が一人の医師を日本の医療界の巨人にまでしたのかも知れないというお話でした。 寒ブナや ひとしれずして 医師作り 【参考文献】 中谷宇吉郎全集 岩波書店 中谷宇吉郎随筆集 岩波文庫 中谷宇吉郎雪の物語 雪の科学館 武見太郎回想録 日本経済新聞社 注: 現在、肝臓ジストマ症はビルトリシドR(プラジカンテル)というお薬のたった1回の投与で治ります。武見医師が使った「アンチモン剤」は使われていません。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2019/01/15 「君が代」の元歌とは? 今年は天皇陛下が退位し、皇太子殿下が即位します。この節目の年を迎えるにあたり「君が代」から日本語を考察してみたいと思います。 「日本語は1000年以上も基本的な文法が変わっていないという世界でも稀な言語」です。本当かな?と思われる方も多いと思います。その代表例として日本人が普通に歌える「1000年以上前に作られた詩歌」を紹介します。それは「君が代」です。こんなに古い歌を現代人が歌えるような言語はほかにありません(注:「君が代」に政治的議論があることは承知していますが、それにつきましては一切の論考をいたしません)。 「君が代」の元歌は、古今和歌集にあります。古今和歌集は醍醐天皇の命により編纂された勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)です。905年に醍醐天皇に奏上されています。その中に「君が代」の元歌があります。 古今和歌集第七 賀歌 343 題知らず 讀人知らず (注:賀歌は御祝いの歌の意味、題は不明、読んだ人も不明です) 「我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔のむすまで」 あれ?ちょっと私たちの知っている「君が代」とは違います。実は、現在の「君が代」と同一の歌詞が現れるのは、「和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)」の鎌倉時代の写本です。 「和漢朗詠集」とは、「古今和歌集」が成立してから約100年経った1018年、平安時代の公卿「藤原公任(ふじわらのきんとう)」が私的に編纂した漢詩・漢文・和歌を集めた詩文集です。その「和漢朗詠集」にも同歌が775番目に載っています。元は古今和歌集と一緒です。当時は、今のような印刷技術はありません。ですから、元の本を書き写したモノが「写本(しゃほん)」として残っています。書き写す時に書き写し間違いあるいは意図的に歌を変更することもあったと思われます。 鎌倉時代の「和漢朗詠集」写本の中に初めて、 「きみが代は 千代にやちよに さざれ石の いはほとなりて こけのむすまで」 という現在の「君が代」に相当する歌(写本)が出てきます。「我が君」が「きみが代」に変わっています。意図的か、書き写し間違いか、今となっては不明です。 当時のベストセラー「和漢朗詠集」 この鎌倉時代の写本は「和漢朗詠集」が最初に編纂されてから、約200年後の安貞2年(1228年:鎌倉時代です)に「書き写され」ています。古今和歌集から、数えると300年も経っています。「君が代」の起源を古今和歌集とすると「君が代」は1100年前に詠まれた歌であることになります。「和漢朗詠集」の鎌倉時代の写本を起源としても800年前に詠まれたことになります。 「和漢朗詠集」は現代ではあまり知られていませんが、平安時代の文学作品(源氏物語、伊勢物語etc.)の中でも圧倒的に人気が高く広く読まれた詩歌集です。なぜ、そんなことがわかるのかというと、くどいようですが、当時は印刷ができませんので手で書き写すしか文章を広める方法が無く、色々な和歌集、源氏物語、伊勢物語etc.などが、書き写されて伝わっています。そうした写本が今もたくさん残されています。その中で「圧倒的」に多くの写本が残されている(=ベストセラー)のが、この「和漢朗詠集」です。なぜ、この「和漢朗詠集」がベストセラーであったか、多少説明をします。 「和漢朗詠集」は「和」=日本、「漢」=中国、「朗」=ほがらかに、「詠」=詩歌をうたうこと。今なら、「日本中国《ほがらか歌集》」とでも言えましょうか?「詠う(うたう)」と言っても現代のように、メロディーをつけて歌を歌うわけではありません。詠うとは「声を長く引き、調子をつけて詩歌を歌う」ことです。今も形をかえて「吟詠」として残っています。 「和漢朗詠集」には当時の日本と中国の流行歌が書かれています。おそらくは誰でも歌えるように使われている漢字には平仮名、片仮名でふり仮名が振られるようになりました(注2)。和漢朗詠集を歌えば自然に漢字の読み方がわかるのですね。だから文字の教科書としても使われたので、ほかの作品よりも広まったのだと思います(注:振り仮名があることで漢字がどう読まれていたかもわかります)。 とにかく多くの写本が作られた結果、「和漢朗詠集」は当時の貴族、そして後には武士を含めたさまざまな階層の人々の共通の「知識」となります。平安時代は元より、鎌倉、室町、江戸、幕末までこの「和漢朗詠集」の写本が広まっていました。ついに欧州にも伝わります。 16世紀、キリスト教布教のために日本に来ていたイエズス会の宣教師が印刷機を持ち込んで教育のために印刷をしたいわゆる「キリシタン版」に「和漢朗詠集」が入って、スペインにも渡っています。現在もスペインのエル・エスコリアル修道院(図書館を兼ねた修道院で世界遺産にもなっています)に残っています。 イエズス会の宣教師が、わざわざ印刷(アジア初のグーテンベルク式印刷機を用いています)するのに選んだくらいです。これも「和漢朗詠集」がいかに当時広く読まれていたかの証左の1つでしょう。 ともかく時代を超えて読み継がれ、歌われていた「和漢朗詠集」に載っていた「君が代」は1000年以上も前から、賀歌(御祝い歌)として普通に歌われ、江戸時代まで広く伝わっていました。 「君が代」が「国歌」に制定されるまで 時を経て「君が代」は明治政府によって「国歌」に制定されます。江戸時代は国歌などありませんでした、しかし、明治維新を機に西欧諸国と交流が始まりました。国家同士のお付き合いをするには儀式が必要です。儀式には国家が付き物だったのです。つまり国歌が無いと、儀式の際に困ったのです。それで「君が代」が国歌に決まったのです。 それも、実はめちゃくちゃな話です。明治2年(1969年)、英国皇太子が世界周遊航海の途中に、日本に立ち寄ることが決まりました。英国皇太子の歓迎儀式で、英国側は国歌「God Save the Queen(国王との時はthe King)」を使うと通告したのに対して、国歌を決めていなかった当時の明治政府は困ってしまい、急遽、皇太子の接待役だった原田宗助(元薩摩藩士)、乙骨太郎乙(おつこつ たろうおつ:元静岡藩士)両名に対して「国歌」を作ることを命じたのです。 両名ともに、英語は得意だったのですが、音楽や詩歌の専門家ではありません。なんだか、この辺り、とても「適当」です。 そしてこの両名が「和漢朗詠集」の「君が代」を国歌として使おうと相談して決まったのです。作曲もある意味とても「適当」です。 歌詞は決まったけれど曲がないので、薩摩藩で当時歌われていた琵琶歌(琵琶法師の奏でる歌)の「蓬莱山」という歌の中にある「君が代」部分の節を元に、当時横浜に駐留していた英国陸軍の軍楽隊長だったフェントンに頼んで、作曲してもらったのが初代「君が代」です。フェントンの楽譜は残っているのですが、歌詞と節がまったく一致しない奇妙なモノで、普通には歌えないですね(注:フェントンは軍楽隊長ですが、作曲の専門家ではありません)。 そのフェントンは、後に明治政府に雇われて、日本の海軍軍楽隊の指導に携わっていましたが明治10年に英国へ帰国してしまいます。彼が帰国するまでは「君が代」の変更はなされていません。フェントンに気を遣ったのだと思います。 しかし、明治12年(1879年)に、ドイツから軍楽教師エッケルトを招請して海軍軍楽隊の指導を受けたのを機にエッケルトはこの曲を手直しします。色々とあり(不明な点が多々あります)、宮内省雅楽課の雅楽師に作曲を依頼します。雅楽師が数点の曲を作り、その中から現行の「君が代」の節回しの曲が選ばれ、それをエッケルトが編曲して楽譜にしたのが、明治13年10月25日のことです。日付入りのエッケルト直筆楽譜が残っています。しかし、エッケルトは編曲をしたので「作曲」は別人です。そして実は君が代の作曲者は不明です。 今では、奥好義(おく よしいさ)と林広季(はやし ひろすえ)の合作だったことが概ね判明しています。「概ね」と申しますのは、表向き現行「君が代」の作者名は林広守(はやし ひろもり)になっているからです。林広守は宮内省雅楽課において奥好義と林広季の上司です。「君が代」候補作選抜にも携わっています。その関係で、名前を出したのでしょう。しかし、林広守は「君が代を作曲していない」と書き残しています。色々と謎が多いですね。 当初「君が代」は主に海軍軍楽隊で演奏されました。海軍が一番、諸外国と交流があったからです。当然、陸軍や文部省は面白くなかったのでしょう。その辺りのことは、参考文献1に詳しいです。興味があれば、ぜひお読みください。 色々な経過を経て「君が代」は広く国歌として歌われるようになりました。色々と「君が代」についての考察はあるでしょうが「国歌としては世界一古い詩歌」を我々が歌っていることは確かです。君が代は作詞者も、作曲家も不明で、選考過程も不明、すべて「曖昧」です。それも何となく日本に似つかわしく思います。 以上、1000年も前の文章が普通に読めるのが日本語の特徴であることが、「君が代」を通してもおわかりになるかと思います。しかし、これは「君が代」だけではありません。和漢朗詠集の和歌のうち、三分の一くらいは現代人でも、普通に読めます。残りの三分の二も、古語辞典があれば読めます。繰り返しますが、日本語は文法がほとんど変わっていないから読めるのです。 注1: 「古今和歌集」は、「和」というのは日本のことですから(大和の和です)、「古きから今風の歌まで集めた日本の歌集」というような意味でしょう。 注2: 国立博物館所蔵の国宝の「和漢朗詠抄」をデジタル画像で見ることができます。良い時代です。 http://www.emuseum.jp/detail/101065/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=49&num=3 現物は読めないので、テキストファイルにしたのがこちらです。 http://j-texts.com/chuko/wakanroah.html 注3: 2010年 春の選抜甲子園大会開会式での国歌斉唱です。高校生の独唱です。1000年も前の「詩」を朗々と、高校生が歌っています。なんとも良い光景だと思います。 https://www.youtube.com/watch?v=nSKUxKsLUNU 注4: 君が代が国歌として法律で定められたのはごく最近(1999年=平成11年)のことです。 【参考文献】 ふしぎな君が代:辻田真佐憲著 幻冬舎新書 和漢朗詠集:角川ソフィア文庫など 古今和歌集:岩波文庫など 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2018/12/25 平均寿命の謎を解いたのは「元は国土交通省の官僚の方です」 今回は、いま話題の「水道」から平均寿命について考えてみたいと思います。日本の平均寿命と水道水とは密接な関係があるのです。 我が国の平均寿命は段々と延びていっています。 2017年の日本人の平均寿命は女性が87.26歳、男性が81.09歳でした。女性は世界2位、男性は世界3位です。ちなみ男女ともに世界一は香港です。日本では女性の方が男性よりも約6歳長生きします。 図1:平均寿命(日本、戦前は完全生命表のみ・不連続、年) 出典:ガベージニュース「日本の平均寿命の推移をグラフ化してみる」 http://www.garbagenews.net/archives/1940398.html 図1のグラフを見ると、男女とも太平洋戦争後に平均寿命はどんどん長くなっていくのがわかります。男性の平均寿命は昭和22年(1947年)には50歳でした。昭和26年(1951年)に60歳、昭和46年(1971年)に70歳、平成25年(2013年)に80歳と延びています。このまま90歳に到達するでしょうか?日本の平均寿命が延びた要因には、 ペニシリン、抗結核薬の等の感染症治療薬の発見と普及 栄養状態の改善 1961年に国民皆保険が開始されたことで医療機関への受診が容易になったこと 生活環境や物流の改善(=インフラの整備が進んだことによる) などが挙げられます。 さまざまな要因が重なりあい、右肩上がりで平均寿命は延びてきました。そろそろ頭打ちだろうと言われています。しかし、私は、特に男性において改善の余地があると思っています。現在、日本男性の喫煙率は約3割です。それが女性並みの1割になれば、もう数歳平均寿命が延びると愚考します。故の無い話ではありません。日本の喫煙者は非喫煙者に比して約10年寿命が短いというデータがあるからです(文献2)。 日本は、平均寿命が延びたことにより、死因が変化してきました。現在の死因は 第1位 がん(31%) 第2位 心疾患(15%) 第3位 脳血管疾患(12%) です。 平均寿命が70歳を超えた頃(1960年代)から癌に対する医療が問題になってきました。また心疾患、脳血管疾患の原因となる糖尿病や高脂血症に対する医療も取り上げられるようになってきたのもこの頃です。それ以前は、癌や糖尿病になる年齢に達する前に死んでいたのですね。あるいは栄養状態が悪かったので糖尿病や高脂血症になる人は少なかったのだと思います。 ちなみに糖尿病学会の設立が昭和33年(1958年)、動脈硬化学会の設立は昭和47年(1974年)です。逆に言えば、それまでは糖尿病も動脈硬化もあまり問題にならなかったのですね。いわゆる「生活習慣病」が発症する前に、感染症が原因でお亡くなりになっていた方が多かったのでしょう。 話は少し戻ります。このように第二次世界大戦後後の平均寿命の延びについては比較的よく知られ、分析もなされています。しかし、それ以前つまり明治時代に健康や寿命に関する統計を取り始めた頃から太平洋戦争までのことはあまり分析されていませんでした。 日本では 明治13年(1881)からは死産統計 明治32年(1899)からは人口動態統計 明治39年(1906)からは死因統計 が記録されるようになりました。その精度も結構高いのです(文献3)。図2は、日本における乳児死亡率、新生児死亡率の年次推移です。 図2:新生児死亡率、乳児死亡率の年次推移 さて、図1と図2を見て何かお気づきになりませんか? 統計を取り始めた当初、平均寿命は少し短くなり、乳児死亡率は上昇しています。しかし、平均寿命は1920年頃を境として長くなり(図1)、乳児死亡率は1920年頃を境として減少しています(図2:黄色い矢印)。これは、医学の世界で「1920年“頃”の謎」とされてきました。 それを解いたのは、なんと医療とは全く関係の無い元国土交通省の官僚だった竹村公太郎さんです。1945年(昭和20年)生まれの方です。2002年に国交省を退職されています。官僚といっても、文系官僚ではなく工学が専門のキャリア技官だった方です。退職して2年後の2004年には「ダムの排砂対策とその施工に関する研究」で工学博士号を取得しています(文献4)。かなりの勉強家なのでしょう。竹村氏は国交省の官僚としてインフラの設計や運営(ダム、河川管理)を担当していました。退職後に専門である「インフラ整備」「地図」の知識を元に日本の文明や日本の歴史を別な観点から読み解いた本を何冊も書いています(後述)。 竹村さんも、図1、図2のグラフを見て、「1920年“頃”の謎」について疑問を抱き厚生労働省の図書館!を度々訪れ、1920年頃に保健衛生の歴史に残るような出来事が無かったかどうかを探したのですが、これといった出来事の記録は無くこの「謎」は解明不能でした。 この「謎」が判然としないまま、考え続けていた竹村さんに、“セレンディピティ”が訪れます。氏が、たまたまお台場で催されていた「東京都水道100周年記念展」を見に行ったときのことです。その展示物の中に「大正10年(1921年)」に「東京市で水道の塩素殺菌が開始される」と書かれたパネルを見つけたのです。そうです!この「塩素殺菌の開始」こそが、この「1920年頃の謎」を解く鍵だったのです。 水道供給自体は、塩素殺菌導入に先立つこと30年前に開始されていました。逆に言えば30年間は殺菌されない水が全国に供給されていたのですね。怖い話です。殺菌されない水を飲んだために平均寿命が低下し乳児死亡率の増加したのだと思います。しかし、1921年以降は塩素によって「殺菌された水が供給」されるようになり、平均寿命は延び、乳児死亡率の著明な低下をもたらしたのですね。 ここに気づくだけでも素晴らしいのですが、竹村さんはさらにいくつかの素晴らしい発見をしています。わかりやすくするために順番にご紹介しましょう。 1. 1921年の水道水の塩素殺菌の開始が、平均寿命の謎を解く鍵だと推測できた しかし、何故1921年に水道水に塩素投与が開始されたのかはわかりませんでした。 「1921年に水道水の塩素殺菌が始まった」 「水道水の塩素殺菌により乳児死亡率は低下し、平均寿命が延びていったのだろう」 「でもなぜ、1921年に塩素殺菌が始まったかわからない」 以上のようなことを機会がある毎にあちこちで披露していたのです(普通の人は、ここまではしないでしょう)。 2. シベリア出兵と液体塩素の関係を知る そういう竹村さんの水道水塩素殺菌開始に関する話を聞いた方の中に「保土谷化学工業株式会社」の方がいらして、1921年の水道水の塩素殺菌開始に関する記事が載っている同社の社史のコピーを竹村さんに送ってくれたのです。その社史には同社が 「陸軍がシベリア出兵(1918年-1921年)に際し毒ガス兵器として液体塩素を開発したが、毒ガスを使うことも無かったのでこの時に余ってしまった液体塩素を水道水の殺菌に転用することになった」 と書かれていたのです。日本軍は1921年10月にシベリアから撤退します。この時に余った「毒ガス用の液体塩素」を水道水に投入したのですね。 これで1921年に水道水への塩素投与開始が開始された理由がわかりました。これだけでも凄いのですが、ここで終わらないのが竹村さんです。毒ガスとして使おうとしたくらい猛毒であるはずの液体塩素を水道水殺菌に使おうと命令を出したのは誰だろう?と考えます。液体塩素は陸軍(=国)のモノです。民間人が勝手に流用することはできません。きっと、衛生や細菌学に造詣が深くしかも地位が高い「政治家」がいて塩素投与の指示を出したのではないかと推測し該当する政治家を探しました。 3. 東京市長 後藤新平が水道水の塩素殺菌開始を命じた? その政治家はおそらく「後藤新平」です。後藤は福島県の須賀川医学校(現存はしていませんが)を卒業した医師です。その後、現在の名古屋大学病院の元となる病院の院長になったり、内務省衛生局で官僚として仕事をしたり、ドイツに留学して細菌学!で医学博士号を得たりしています。後に内務大臣、外務大臣を経て東京市長になります。外務大臣時代にはシベリア出兵作戦にも参加し、シベリアから帰った後、1920年に東京市長(今の東京都知事)になっています。 東京で塩素を水道水に付与して水道水の殺菌を開始する前年に東京市長になったのです。医師であり、細菌学をドイツで学び、シベリア出兵が終了して液体塩素が余っていると知っていた後藤新平が市長だったことが「1920年頃の謎」を解く最後の鍵だったのです。 殺菌された安全な水が東京中に行き渡るにつれて平均寿命が延び出したのです。 後藤新平が塩素を水道水の殺菌に使うよう指示した資料はありませんが、多分竹村さんの推測通りだと思います(文献5)。日本中の水道水の殺菌に塩素が使われるようになり今に至りますが、その始まりにはこのように色々な偶然が積み重なっています。 こういう事実を掘り起こし、調べ尽くす竹村さんの能力は半端ではないですね。何でも良いけれど「専門」があると応用が利くという良い例だと思います。竹村さんは「地形」を見ることで日本史を読み解く本や水力発電所の重要性を説いた本など、多数執筆しています(文献7、8など他にも多数)。ご興味ある方はぜひお読みください。どの本も面白いです。 というような話をしていた私にも、先日、小さな“セレンディピティ”が訪れました。私の患者さんのご主人が竹村公太郎さんと一緒に国土交通省の技官として働いていたのだそうです。世間は広いようで狭く、狭いようで広いですね。 それはともかく「平均寿命に関する1920年“頃”の謎」と「良質な水道水」を考えると「水」それも良質な「水」が、いかに健康にとって大切かがわかりますね。 注:参考文献6によると、1903年、ベルギーにて世界で最初に塩素が公共水道水の消毒に用いられたとのことです。どうやってそれが日本に伝わったのでしょうか? 【参考文献】 厚生労働省「人口動態統計」などからの引用 Sakata R1「Impact of smoking on mortality and life expectancy in Japanese smokers: a prospective cohort study.」 BMJ. 2012 Oct 25;345: 明治後期における死産統計の信頼性と死産率の推計:村越一哲(著)「文化情報学」 : 2004年11巻 1号 頁:1-13 ダムの排砂対策とその施工に関する研究 竹村公太郎(著) 日本文明の謎を解く―21世紀を考えるヒント 竹村公太郎(著) 清流出版刊 「White's Handbook of Chlorination and Alternative Disinfectants」Black & Veatch Corporation Wiley, 2010 日本史の謎は「地形」で解ける 竹村公太郎(著) PHP文庫刊 水力発電が日本を救う 竹村公太郎(著) 東洋経済新報社刊 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2018/12/10 食材を《焼いても発症する》珍しい食中毒 前段が長くなりました。今回の主題である「珍しい食中毒」の話です。食材を《焼いても発症する》珍しい食中毒の話です。 私は子供の頃、サバを食べて全身に発疹が出てからはサバにアレルギーがあるのだと思ってそれ以降は食べませんでした。後年、食中毒の授業でヒスタミン食中毒(アレルギー様食中毒)という病気があることを知り、「ああ、子供の頃のサバを食べて出た発疹はこのヒスタミン食中毒だったのだ」と思い、以降はサバをよく食べるようになりました。 なお「食中毒の授業」を真面目に聞いていると何も食べたくなくなります。色々な食材で色々な食中毒、それも死に至るような食中毒を発症するからです。それはともかく私を苦しめた?この「ヒスタミン食中毒」を紹介しましょう。 ヒスタミンという言葉を聞いたことがあると思います。花粉症の時期には抗ヒスタミン剤を飲んでいる方も多いと思います。アレルギー疾患に罹ると血液中にヒスタミンという物質が増えます。アレルギーの原因となるアレルゲン(花粉など)が体内に入ると、免疫グロブリンE(IgE)と反応し肥満細胞(太った「肥満」とは関係無いです。形状が肥満なのです)からヒスタミンが放出されます。この「ヒスタミン」と食中毒に妙な関係があるのです。 赤身魚(カジキ、マグロ、ブリ、サンマ、イワシ、サバ)の筋肉には、アミノ酸の一種である「ヒスチジン」がたくさん含まれています。厄介なことにこの「ヒスチジン」を「ヒスタミン」に分解する酵素を持つ細菌(海洋にいる細菌の一部や人間の腸内細菌の一部)がいるのです。この菌が「ヒスチジン」をたくさん含む赤身魚に付着すると、ヒスタミン食中毒を起こします。食材を冷蔵庫や冷凍庫に入れておけばこれらの菌は増えません。しかし、《室温》で《一定時間》放置されると「ヒスチジン分解酵素を持つ細菌」は一気に増えます、そして食材の筋肉中の「ヒスチジン」を大量の「ヒスタミン」に変えてしまうのです。 図2 ヒスタミンは厄介なことに、熱を加えても分解しないのです。ヒスタミンが大量にいる食材を焼いても煮ても、ヒスタミン食中毒は起きます。「焼いてあるから大丈夫」ではないのです。ヒスタミンが多い赤身魚を食べると、舌がぴりぴりするような感じや鉄を舐めたような感じがするそうです。 下の写真(写真1、2)はヒスタミン食中毒おこした患者さんに出た発疹です。食べてから30分から1時間くらい経って、こういう赤い発疹が出て吐き気が出たら、このヒスタミン食中毒を疑います。診断は写真のような発疹と、何をいつ食べたかでこの疾患を疑うことができます。確定診断をするには、保健所に届け出ることが必要です。食べた食材を調べなくては「確定診断」はできないのです。 写真1、2 この発疹を生じた患者さん(写真1、2)とたまたま同じ時間帯に同じお店で同じモノを食べて同じような症状を発症して同じ日に来院されました。私は、これは「ヒスタミン食中毒」ではないかと考え保健所に届け出ました。保健所は直ぐに二人が食事をした店に出向き、残っていた食材(焼き魚)を調べました。その結果、焼き魚から高濃度のヒスタミンが検出されたのです。それに加えて、患者さんの血中ヒスタミン濃度も高かったのです。この2人はヒスタミン食中毒と診断されました。保健所の方の話だと、原因となった魚(くどいですが、焼いてある魚)は、焼く前に6~7時間室温で放置されていたのだそうです。冷蔵庫に入れて保存されていれば、菌は繁殖せず、ヒスタミンも増えなかったと思います。 治療は、比較的容易です。抗ヒスタミン剤の投与です。この方ともう一人の方も、抗ヒスタミン剤の点滴を行ったところ、発疹が消失し、症状は軽快しました。 ちなみに、食中毒を出してしまったお店は、数日間の営業停止となりました。営業停止は罰ではありません。その期間中、再発防止に向けて、お店の方への衛生教育や冷蔵(冷凍)設備の改善の期間に充てられるということです。 お魚を冷凍にすると《まずくなる》という方もいらっしゃいます。しかし、以前にも記しましたが、お客さんの安全の方が優先だと思います。冷凍により「お魚の美味しさ」が損なわれることも無さそうです(文献3)。 前述の通り、ヒスタミン食中毒の勉強をした時、私自身の「サバアレルギー症状」はヒスタミン食中毒による症状だったことに気付きました。それまで自分はサバを食べられないと思っていましたが、おそるおそる食べたら体はなんとも無く、とても美味しかったのです。私も普通にサバが食べられるようになりました。 大切な助言: 「食中毒かな?」と思ったときの助言を書きます。 熱が出ていたら、下痢止め、吐き気止めを使わない方が良いです。抗生物質も止めた方が良いですね。原因不明なのに、効くか効かないか解らない抗生物質を投与すると「良い腸内細菌」も死滅して、かえって下痢がひどくなります。熱が出る=感染と考えると、下痢や嘔吐で原因菌を体外に排出するのは良いことなのです。下痢、嘔吐を止めると、体内に原因物質が残ってしまいますね。 このことは重要です。覚えておいてください。ただし、吐瀉物の処理はきちんとしましょう。厚生労働省のノロウイルス感染対策(PDF)を参考にしてください。 【参考文献】 食中毒の現状について(厚生労働省)(PDF) ノロウイルスに関するQ&A(厚生労働省)(PDF) Iwata K, et al. Is the quality of sushi ruined by freezing raw fish and squid? A randomized double-blind trial with sensory evaluation using discrimination testing. Clin Infect Dis. 2015 May 1;60(9):e43-8. 追記1: 2016年7月19日「E型肝炎患者が過去最多に、豚やジビエ肉・内臓を生で食べないで」という報道がありました(新聞各紙)。 厚生労働省の発表では、生の肉を食べることなどで感染するE型肝炎の患者数が、すでに227人に上り過去最多となったと発表しています。やはり生肉は食べない方が良いですね。 追記2: この稿を書いていたら「給食マグロからヒスタミン 山梨の保育所、92人食中毒」(産経新聞 2018年9月29日)という報道があったことに気づきました。食材の保存に問題があったのでしょう。給食だと気を付けようがないですね。しかし、何か食べたあとに「じんま疹」が出たら「ヒスタミン食中毒」かもしれないと覚えておいてください。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2018/11/26 食中毒患者数は日本で2万人程度、アメリカでは? 今回は少し珍しい「食中毒」についてお伝えしようと思います。よく食あたりという言葉を使いますが、「食あたり」=「食中毒」です。ここでは「食中毒」という言葉に統一して使います。 さて、「食中毒」とは何でしょうか? 時折、食堂やホテルで集団食中毒事件が起きます。その原因として、「ブドウ球菌」か「腸炎ビブリオ菌」「ノロウイルス」「O-157」「病原性大腸菌」などが報道されることがあります。しかし、食中毒を引き起こすのは、細菌やウイルスだけではありません。ほかにも色々な原因で食中毒が起きます。列挙します。 食中毒の原因一覧 細菌:ブドウ球菌、サルモネラ菌、カンピロバクター、 病原性大腸菌、ボツリヌス菌など ウイルス:ノロウイルス、ロタウイルス、A型肝炎ウイルス、E型肝炎ウイルスなど 化学物質:ヒスタミンなど 植物毒:キノコの毒、トリカブト毒など 動物毒:フグ、貝毒など 寄生虫、原虫:アニサキス、ジストマ、有鉤嚢虫、無鉤条虫など カビ毒など 年間どのくらいの人数が発症するかというと、日本全体で平成27年22,000人、平成26年19,000人ですから、おおよそ年間2万人程度が食中毒を発症しています。ただし、平成18年は39,000人、平成19年は34,000人です。これはこの時期ノロウイルスによる食中毒が急に増えたためです。このように食中毒は年間2万人程度が発症しますが、死亡者は多くて10名くらいです。 食中毒に罹る患者さんの数は、日本では2万人ということになっていますが、実はもっと多いと思います。 下図は諸外国と日本の食中毒患者数の比較です。アメリカは年間4,800万人です。日本は約2万人です。人口が違うとはいえ、あまりにもその数が違います。ほかの国に比しても少ないですね。 図1:食中毒による患者数各国比較 患者数(人) 入院者数(人) 死亡者数(人) 人口(万人) アメリカ 4,800万(7,600万) 12万8,000(32万5,000) 3,000(5,000) 3億1,500万 フランス 75万 11万3,000 400 6,200万 イギリス 172万 2万2,997 687 6,160万 オーストラリア 540万 1万8,000 120 2,200万 日本 2万802 NA 1 1億2,700万 引用:高橋梯二「日本社会は食の安全に関しグローバル化にどう対応すべきか」(一般財団法人社会文化研究センター補助事業) http://www.agriworld.or.jp/shabunken/hojyojigyo/H25jigyou.pdf アメリカ:Paul S. Mead and others, Food-Related Illness and Death in the United-States, Emerging Infectious Diseases, Vol.5 (5),1999 フランス:Morbidite et mortalite dues aux maladies infectieuses d’origine alimentaire en France, Institut de Velle Sanitaire イギリス:Adakらによる2005年調査(イングランド及びウエールズ) オーストラリア:Food born Illness in Australia, Oz FoodNet 日本:食中毒統計、厚生労働省 2013 年 アメリカの食料は汚染されているのでしょうか?日本がきれいなのでしょうか?実は、食中毒に罹った患者さんの数の算定方法が違うのです。 アメリカの患者数は食中毒に罹った患者さんの《推定値》で、日本の患者数は《届出があった患者さんの人数》です。日本では「医師が食中毒を疑った場合、直ちに最寄りの保健所長にその旨を届け出なければならない(食品衛生法第58条第1項)」と定められています。届け出を怠ると6ヵ月以下の懲役か、3万円以下の罰金などの罰則が課されます。しかし、実際に届け出ることはあまり無いのです。 医師が届け出をサボっているわけではありません。ホテルや旅館、食堂などで大人数の方が同じ食事をした後に発症する食中毒は診断が容易です。同じ場所で同じモノを同じ時間に食べているから、食中毒の症状が出現した場合、かかる医療機関も同一か限られています。同じような食中毒症状を訴える患者さんが複数来院したら食中毒を疑う事は容易です。しかし、あるレストランで細菌に汚染された食材を食べたとしましょう。お客さんはさまざまな場所から来ています。ですから、食中毒を発症しても当然ながら、それぞれ別の病院に受診すると思います。 診察する医師は、食中毒かな?と思っても、届け出ることはほとんどありません。 「食中毒」として届け出るには、《同じ場所》で、《複数人数の方》が、《同様な症状》を《ほぼ同時》に示すことが必要です。つまりホテルなどで一堂に会して同じ物を食べた後に症状が出て医療機関を受診した場合以外は診断が難しいのです。 ですから内心「食中毒かな?」と思っても実際に保健所に「食中毒の疑いがあります」と届け出ることはほとんどありません。届け出た場合でも、疑われる食材が残っていないと診断はできません。ですから、日本の年間食中毒患者数は、実際の患者数よりもかなり少ない?と予想されています。根拠はありませんが、実際に食中毒が出ている患者さんの数は2万人の10倍あるいは100倍くらいはあると思います。 生肉を食べるのは止めた方が良い さて食中毒が疑われた患者さんが来られても、その確定診断のために特殊採血や便の培養をすることはほとんどありません。よほど重症な患者さん以外は内服薬それも整腸剤や胃薬、制吐剤で治ってしまいます。下痢、嘔吐をすることで原因物質(細菌、ウイルス、毒素)が体内から減少して免疫力が勝り、自然治癒することの方が圧倒的に多いからです。 しかし、「死に至る食中毒」もあります。重篤な場合は、入院しての集中治療が必要になります。そういう時は、原因菌、原因ウイルス、原因物質の特定が必要です。原因により治療が違うからです。 食中毒は季節性に変動するのも特徴です。細菌、ウイルスによる食中毒は5月頃から急増します。気温が上がるからです。秋になるとキノコ中毒、冬になるとフグによる食中毒が増えます。寒い季節は細菌による食中毒は減少します。 感染性食中毒予防の基本は、「1.冷凍、冷蔵保存」、「2.加熱」です。予防のために加熱が必要となるとお刺身は食べられないことになります。お刺身は美味しいですよね。日本では長い間、刺身が食べられてきました(生食)。日本には生魚をできるだけ安全に食べられるようにする食文化があり、それに伴う流通経路が発達しています。ですから、多くの方はお刺身を食べると思います。私も食べます。美味しいです。これは文化です。欧米(一部を除き)では、最近まで生魚を食しませんでした。今は多少、食べるようになっていますが、まだ一般的ではないです。 なお魚の刺身を食べるのは構わないと思います(=ほぼ安全だと思います)が、生肉を食べるのは止めた方が良いですね。ユッケに付着していた「腸管出血性大腸菌O(オー)111」が原因による食中毒で多くの方がお亡くなりになった事件がありました(O111は聞き慣れないかもしれません。有名なO-157の仲間です)。 肉は、その処理中に汚染されることがあります。ですから生肉を食べるのは、できるだけ止めた方が良いです。私は、基本的に食しません。食べる生肉は馬刺しくらいです。馬にはサルコシスティス・フェアリーという寄生虫がいることがあり(滅多に無い)、その寄生虫による食中毒の報告もあります。ただし、症状は軽いです。 欧米でも基本的に生肉は食べません。ところがフランスやベルギーなどは別で「タルタル・ステーキ(生の牛肉 または馬肉を、みじん切りにし、オリーブオイル、食塩、コショウで味付けし、 タマネギ、ニンニク、ケッパーを加えたモノ)」という生肉を食べます。しかしイギリスでは絶対に馬肉は食べないのです。これも文化ですね。 次回に続きます。 【参考文献】 食中毒の現状について(厚生労働省)(PDF) ノロウイルスに関するQ&A(厚生労働省)(PDF) Iwata K, et al. Is the quality of sushi ruined by freezing raw fish and squid? A randomized double-blind trial with sensory evaluation using discrimination testing. Clin Infect Dis. 2015 May 1;60(9):e43-8. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2018/11/12 ビジネスクラスでもファーストクラスでも発症します 今回は、震災、豪雨、台風などの天災で避難を余儀なくされた時に多発する病気「エコノミークラス症候群」についてお伝えしようと思います。 今年(2018年)も、北海道、大阪で震災があり、中国地方では豪雨が、大阪は大型台風が来襲して大きな被害がありました。つくづく日本は天災が多いと思いました。 「天災は忘れた頃にやってくる」 これは物理学者の寺田寅彦の警句ですが、最近は 「天災は忘れる間もなくやってくる」 ですね。この寺田寅彦の残した警句は寺田寅彦の残した文章のどこにも見つかりません。寺田寅彦のお弟子さんだった中谷宇吉郎が寺田寅彦の残した文章を隅から隅まで探してもこの文言は見つからず、結局は寺田寅彦の口癖がいつの間にか広まったのだろうと分析しています(中谷宇吉郎随筆集(岩波文庫)より引用)。 それはともかく、さまざまな災厄により車中泊を余儀なくされる場合があります。そういう方に「エコノミークラス症候群」が多発しているとの報道があります。 例えば、「重症エコノミー症候群35人、車中泊?女性多く新たに関連死も…避難長期化で急増の恐れ」(産経新聞:2016年4月25日)などです。 「エコノミークラス症候群」でお亡くなりになっている方もいらっしゃいます。「エコノミークラス症候群」とは、どんな疾患でしょうか? 飛行機のエコノミークラスで旅行する方に多く発症したので、この名前がついています。愛称のようなモノです。正式な病名は「肺血栓塞栓症:はいけっせんそくせんしょう」です。肺動脈に血栓(血のかたまり)が詰まるという怖い病気です。正確に言うと「肺血栓塞栓症」の発症原因はたくさんあり、そのうちの1つが旅行中に長時間同一姿勢を強いられることにより発症する「エコノミークラス症候群」です。別名、「旅行者血栓症」「ロングフライト症候群」などとも称されます。 パリのシャルルドゴール空港でこの「肺血栓塞栓症」がどれくらいの頻度で発症するか調べた報告では、 「飛行距離が2500km未満での発症例はなかった」 「10000km以上では100万人あたり4.77人が発症していた」 のです。つまり、飛行距離と発症率は比例するのです(注:東京‐ニューヨーク間が約10,000kmです)。長時間同一姿勢を強いられるからこの病気が発症するのですね。 肺血栓塞栓症は 最初に下肢深部静脈に血栓ができる 下肢深部静脈に生じた血栓が血流の流れに沿って肺動脈にまで流れ肺動脈を塞ぐ という2つの病態が組み合わさって生じます。 東日本大震災の際、避難所での居住を強いられた方に足の静脈の超音波検査を行ったところ、約10%!もの方に足の静脈に血栓が見つかったとの福島県立医科大学心臓外科の高瀬信弥先生の報告もあります(https://www.fmu.ac.jp/univ/shinsai_ver/1_04takase.html)。 肺血栓塞栓症の第一段階である「最初に深部静脈に血栓ができる」ところまで来ていた方が、避難所への避難者の1割もいたことに驚きます。次の段階である「肺動脈に血栓が詰まる」ところまで進行すれば命の危険を生じるような状態を引き起こします。 肺血栓塞栓症はさまざまな原因で「静脈」というゆっくりと血液が流れる道に血栓(血のかたまり)ができることがその始まりです。「さまざまな原因」と記しましたが、文字通り「さまざま」です。 原因としては、 肥満 寝たきり 手術後の臥床 がん 凝固異常症 脳血管疾患による臥床 長時間の同一姿勢(飛行機、バスなどの長距離移動) 妊娠、出産 などです。 頻度を下に示します。「旅行者血栓症」と書かれているのが、エコノミークラス症候群に相当します。 肺塞栓症研究会の調査から引用 凝固異常以外で足の静脈に血栓ができるのは、「足が動かせない状態」か「足を動かしがたい状態」であることにお気づきでしょうか?普通に足が動かせるなら足の静脈に血栓ができることは稀です。大震災での避難時や飛行機搭乗中の長時間坐位により下肢に血栓ができるのは「足が動かせない」からです。それに加えて震災下では水分補給不足、トイレへのアクセス不による自主的飲水制限による脱水状態や、飛行機内では空気の乾燥による脱水やアルコール摂取、が下肢静脈内の血栓形成を助長します。 原因が何であれ、下肢深部静脈にできた血栓が深部静脈→下大静脈→右房→右室→肺動脈と流れていき、肺動脈を塞ぐようになった状態が「肺血栓塞栓症」です。 肺動脈が閉塞すると右室からの血液は肺動脈より先に流れなくなります。肺動脈に血液が流れないと酸素を体内に取り込むことができなくなり、体に酸素が行き渡らなくなります。さらに進行すると、体の静脈系に血液が貯留し、体に流れる血流が減少し、血圧が低下しショック状態となります。この疾患が発症してから直ちに適切な処置をとらないと命の危険に晒されることになります。 最初は深部静脈に血栓ができることが「肺血栓塞栓症」の始まりだとお伝えしました。下肢の深部静脈に血栓ができると、足が「ぱんぱんに腫れます」診断は容易です。 写真1:左下肢深部静脈に血栓が詰まった状態の足 左下肢が腫れています 写真2:これは非常に珍しい画像です 右手の深部静脈血栓症の方の写真です。右手が腫れているのがわかりますでしょうか? 深部静脈に血栓ができていることが疑われたら、超音波検査を行う必要があります。超音波検査を行えば診断は容易です。ノートパソコン程度の大きさの超音波検査装置もあり、東日本大震災や熊本大震災でも活用されました。今ではiPhoneにつなげる超音波検査装置も開発されています。超音波検査で深部静脈に血栓があることがわかったら、そして肺動脈まで大きな血栓が流れていない段階なら ヘパリンというお薬を使ってそれ以上血栓が作られないようにすること 下肢の血栓が肺動脈に流れないように下大静脈にフィルターを留置すること が大切です。これらの処置を滞りなくできるだけ早期に行うことが必要です。言うは易く行うは難しです。特に震災などでインフラが損傷を受けていると、そういう処置は簡単にできることではありません。それが震災時に肺血栓塞栓症による死亡が多発する要因のひとつです。 肺血栓塞栓症を発症し、ショック状態で搬送されてきた患者さんを診ることもしばしばありました。ショック状態を改善するには緊急で開胸して、人工心肺を装着して心臓を止めて、肺動脈を開けて肺動脈内にある血栓を除去することが必要です。時間との勝負になります。 3人お目にかけます。最初の患者さん(写真3-1、3-2、3-3)は、60代女性です。自宅トイレで倒れていて、救急車にて搬送されてきた患者さんです。肥満を認めます。酸素投与でも動脈血酸素飽和度が上昇しないことから、肺血栓塞栓症が疑われ、CTにて肺動脈内に血栓を認めています(写真3-1)。呼吸不全、血圧低下、ショック状態となったために緊急手術となりました。手術にて肺動脈内の血栓を除去しました(写真3-1、3-2)。 写真3-1:右肺動脈に血栓が詰まっていることを示すCT画像 写真3-2:心臓を止めて、肺動脈を切開して血栓を取り出しているところ 写真3-3:肺動脈内に詰まっていた血栓 この患者さんは、幸い後遺症無く元気に退院していきました。肥満があり、それが原因かと思われました。 次の患者さん(写真4-1、4-2)は60代男性、脳梗塞で入院中に、ショック状態となった方です。肺動脈造影にて肺動脈内に血栓を認めた方です。直ちに手術を行い、肺動脈内の血栓を取り除きました(写真4-2)。 写真4-1:肺動脈内に血栓を認めます 写真4-2:手術で取り出した血栓PA=pulmonary artery 肺動脈のことです 入院中だから助かったのだと思います。脳梗塞によって安静臥床していたことが血栓のできた原因だと思います。 次の患者さんは50代女性です(写真5)。脳の手術後、安静臥床中にショック状態となり救急搬送されてきた患者さんです。CTで肺血栓塞栓症と診断、人工心肺使用下に肺動脈から血栓を取り出しました。 写真5:手術でとりだした肺動脈内に大量に詰まっていた血栓 この方も、無事退院できました。手術後20年になりますが、今でも元気で時折、便りをくださいます。その便りを読むのは医師としてとても嬉しいことです。 とにかくこの病気は診断がついたら、早期の処置、手術が必要です。 ある時、The Annals of Thoracic Surgeryという雑誌を読んでいたら、心臓外科医のレジェンドの一人であるセニング先生が「Left Anterior Thoracotomy for Pulmonary Embolectomy With 29-Year Follow-up」という論文を載せていることに気づきました(文献2)。1998年に掲載された論文です。オーケ・セニング(Åke Senning)先生は、埋め込み型ペースメーカーを世界で最初に臨床応用したことや、大血管転換症の手術を開発し手術名に名前を残している先生です。心臓病を専門とする医師なら知らない人はいません。その有名な先生が症例報告を書いていたのです。当時のセニング先生の年齢は83歳です。その歳で論文を書いて、一流雑誌に症例報告をしているのだから感動しました。 内容は今回でお伝えしている「肺血栓塞栓症」の治療についてです。この論文に載っている患者さんは59歳女性で肺の腫瘍の摘出術後にベッドで安静にしていたら、肺血栓塞栓症を発症、心臓が停止したのです。セニング先生は、人工心肺を装着していては救命できないと判断、ただちに左胸を開けて左肺動脈から肺動脈内の血栓を除去、しばらくしたら心臓が動き出し、この患者さんは大きな障害を起こさずに退院し、それから29年経ち88歳になったが元気に生活している。そういうことを報告した論文でした。論文中、肺血栓塞栓症を生じたらできるだけ早期に肺動脈から血栓を摘出する必要があることを強調していました。セニング先生にとっても、とても印象的な患者さんだったのでしょう。 こういう病気は日本では少ないとされてきましたが、その数は増えています。とは言え、日本で肺塞栓症の発症率は100万人あたり62人、アメリカは100万人当り500人ですから、アメリカの1/8程度です。アメリカは肥満者が多いので、この疾患を発症する方が多いのだと思います。 さて、話は震災時の肺血栓塞栓症の話に戻ります。震災でこの病気が増えるのは上述のごとく、避難所で窮屈な生活を強いられたり、車中泊をしたり、水分摂取が減るからです。そういう災厄に遭ったら、 できるだけ早期に手足を伸ばして寝られる場所を確保すること 水分をできるだけたくさん飲むこと で、この病気を予防することができます。 また、仕事や旅行など、飛行機やバスで長時間移動する機会も多いかと思います。そういう場合も、できるだけ体を動かすことや水分をよく摂ることを心がけてください。 【参考文献】 肺血栓塞栓症および深部静脈血栓症の診断、治療、予防に関するガイドライン(2009年改訂版).日本循環器学会など Senning A. 「Left anterior thoracotomy for pulmonary embolectomy with 29-year follow-up.」 Ann Thorac Surg. 1998 Oct;66(4):1420-1. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2018/10/29 日本語は語彙(ごい)が豊富 前回に続き、日本語について考えていきます。今回は日本語の多彩さについて考えていることを書こうと思います。 英語で「一人称」は「I」、フランス語なら「Je」、ドイツ語なら「Ich」です。これに比して、日本語にはたくさんの一人称表現があります。 私、僕、ぼくちゃん、あたし、おれ、俺、あたい、あたくし、あっし、自分、おいら、おいどん、おれっち、それがし、我、吾、吾人、小職、小生、非才、不才、当方、おら、わ、我が輩、拙者、拙僧、拙、etc.(思いつくまま、順不同です)とたくさんあります。 これらを、私たちは、微妙に使い分けています。日本語は、このように言語表現が他言語に比して多彩です。 だから、日本語の小説を翻訳するのは大変だと思います。 「吾輩は猫である」を英語で表現すると 「I am a CAT.」になりますが、それでは、吾輩に込められた“意味合い”が伝わらないと思います。 「吾輩」には、「男性(オス)」で「上から目線」で「滑稽味」が隠されていると思います。それが「I am a CAT.」では伝わりませんね。 それはともかく、日本語表現が多彩になる理由は、語彙(ごい)が豊富だからです。語彙が豊富になる理由は日本語が、 「表音文字」=文字が音を表す。多くの言葉はこれだけで言語が成立しています。代表が英語、独語、フランス語など 「表意文字」=意味をもつ語のそれぞれに対応させた文字、現代では漢字しか残っていない? を微妙に組み合わせているからだと思います。 日本語の表音文字は二種類あります。 「片仮名」と「平仮名」です。「漢字」という表意文字は1種類ですが、以前からお伝えしているように漢字の読み方は「音読み」と「訓読み」の二種類に分かれます。 要するに日本語は表音文字と表意文字の組み合わせで無数の表現ができるので、上述のごとく他言語では「I」「Je」「Ich」で終わってしまう「一人称」にも、日本語には無数の表現があります。無数の表現ができる日本語を用いると、情緒的な文章も論理的な文章も書くことができます。日本語は曖昧(あいまい)だとか、非論理的だという人もいらっしゃいますが、使い方の問題だと思います。 明治時代の文部大臣「森有礼(もりありのり)」が日本語を廃して英語を導入することを提唱したり、太平洋戦争後に志賀直哉が「日本語を廃して、世界一きれいな言語である(と志賀が思う)フランス語に代えよう」という運動をしましたが、そんなことにならないで良かったと私は思います(注:志賀直哉はフランス語ができませんでした。なぜ、こんな突飛も無いことを言い出したのでしょう?)。 また、日本語表記は漢字を捨てて、カタカナだけにしようとか、ローマ字だけにしようという運動もなされたことがあります。カナ、ローマ字ならタイプライターが使えるから便利だという考えが根底にあったのです。しかし、ワープロの普及と共にそういう主張は廃れました。「ワープロガ ナケレバ タイヘンナ コトニ ナッテイタ デショウ。」このくらいならまだ、読解できそうです。しかし、 「この箸は日本の端にある橋を渡ったところに住んでいる波紫(はし)さんが作りました」 のような同音異義語がある文章は正しく表現できません。これをカナだけで書くと、 「コノハシハ ニホンノハシニアルハシ ヲ ワタッタトコロニスンデイル ハシサンガ ツクリマシタ」 これでは何のことやらわかりませんね。 仮に日本の標準言語を英語、フランス語、カナ、ローマ字にしようという運動が100年前に成立していたら、今頃、平安時代から江戸時代に書かれた文章を一切読めなくなっていたと思います。あり得ないと思われるかも知れませんが、100年前には文部大臣がそういうことを主張していたのです。現在も人工言語を作って、自国言語を単純化したり、英語と自国語を並立させたりする施策をとっている国があります。そういう国では古くからある自国語を捨ててしまったことで、自国の古典や歴史的文章が読めなくなっています。 日本語廃止論はいつの時代にも亡霊のようによみがえります。一旦、捨てられた言語は、二度と元には戻りません。多くの「無くなってしまった言語」がそれを証明しています。例えば、ヒエログリフ、マヤ文字などが、その代表でしょう。そんなことは、日本では、あり得ないという方も多いかと思いますが、小学校から「英語教育」が始まり、その時間が長くなりつつあります。おかしい話です。数学者の藤原正彦氏は「一に国語、二に国語、三四がなくて五に算数。あとは十以下」とも言っています(参考文献3)。以前にも紹介したフランス在住の言語学者小島剛一氏は「小学校の英語教育の是非」の中で、 「日本の言語教育で大切なことは、日本語を正しく理解し、まともな日本語で筋道立てて自分の考えを表明する能力を多くの子供に身に着けさせることです。 中略、 下手な英語教育は、日本語を崩壊させるだけです」 と述べています。その通りだと思います。 話は変わります。日本語は論理的な文章を書くにも適していると言うと怪訝な顔をされることあります。英語、フランス語、ドイツ語より、日本語の方が論理を重視というか、論理表現が得意です。いくらでも例証可能ですが、その一つ「住所表記」を例にとって考えてみましょう。 浜松町ビルディングの住所を示すのに、 日本語では「日本国 〒105-0023 東京都港区芝浦1-1-1」と書きます。 英語では 「1-1-1 Shibaura, Minato-ku, Tokyo 105-0023, JAPAN」です。 ドイツ語でもフランス語でもそれは一緒です。 場所がどこにあるかを示すのに、日本語の方が自然です。広い範囲から狭い範囲に順番に進んでいきますから、頭に入りやすいですね。 一方、西欧言語では逆順ですから不便です。郵便配達をする欧米の方は「不便だ」と思っているに違いありません。なぜ、西欧言語が不自由な表記を使っているか不明です。そういうモノだと思っているから、今更変えられないのでしょうね。 どう考えても、日本語の方が「論理的」です。これらの小さな事象をもって、日本語の全てが論理的だとは言えませんが、論理的に書こうと思えばいくらでも書けることは覚えておいて損はないと思います。 また、話が逸れます。 言語とは関係ありませんが、お風呂も日本の方が論理的だと思っています。暖まる湯船があり、身体を洗う場所が別にあります。日本のホテルにある欧米式?の「バス=bath」は実に不便です。洗い場の無い「bath」の「正しい入り方」が未だに私には解りません。誰か、正しく、そして快適な西欧式バスの入り方がわかったらご教示ください。長年の疑問です。西欧ではシャワーだけなのでしょうか?それなら湯船は不要です。身体を湯船で洗ってから湯をためるのでしょうか?それでは寒い季節は辛いですね。長年の謎の一つです。 日本語は多彩な表現ができる 話を戻しましょう。 日本語が他言語に比して、多彩な表現ができるもう一つの証左があります。それは、とにかく多くの言語で書かれた本の翻訳本が次から次に出版されていることです。ノーベル文学賞に選ばれた作品で、これまで日本語に翻訳されていなかった作品は無いと言っても良いくらいです。ノーベル文学賞が決まってからの翻訳ではなくて、それ以前に翻訳されていたという意味です。例えば2015年の受賞者はベラルーシの「スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチさん」ですが、この方の本は既に1984年から日本語に翻訳されて出版されています。2015年のノーベル賞受賞時点までに 6冊も出版されていました。なぜ、こんなにたくさんの翻訳がされていたのか、この方面には暗い私にはよく判りません。かなりマニアックな言語の、マニアックな分野の本も、たくさん翻訳されています。 各種言語がそれなりに翻訳できるのは「日本語の表現能力が高い」ためだと思います。誤解を受けるといけないのですが、ノーベル賞の中で文学賞は価値が無いとは言いませんが、あまり重要だとは思えません。外国の文学はスウェーデン語や英語に翻訳がなされないと賞はもらえません。スウェーデン人文学者以外が受賞する場合、その半分は翻訳者の功績だと思います。暴論でしょうか? また、話は変わります。明治に入り、欧米諸国から色々なことやモノ、科学、文学、etc.が導入されますが、対応できない言葉は全て自前で作ってしまっています。それを「和製漢語」といいます。例えば、「芸術」、「理性」、「技術」、「心理学」、「意識」、「知識」、「概念」、「帰納」、「演繹」、「定義」、「命題」、「分解」、「自由」、「階級」、「人民」、「共和国」、「共産主義」、「革命」、「共和」、「右翼」、「左翼」、「科学」、「哲学」、「進化」、「郵便」、「意識」、「運動」、「野球」、「観念」、「福祉」、「接吻」などです。今では普通に使われるこれらの言葉は明治人が作ったのですね。解らない言葉、対応する言葉が無いのはどんどん作ってしまう。凄いことだと思います。今はあまりそういう努力をせず、何でもカタカナで書くのが流行っています。明治時代もカタカナで通していたら、「野球」も「哲学」もなく、「ベースボール」や「フィロソフィー」という無味乾燥な言葉になっていたかも知れません。これら和製漢語を造語した人達は本当に偉かったと思います。和製漢語は、中国語にもたくさん取り入れられています。例えば、“左翼勢力による共産主義革命によってできた「中華人民共和国」”という表現をしたとします。下線部は全て和製漢語です。「中華人民共和国」という中国の正式名称の7文字中、5文字は日本製です。 今回は、とりとめのない文章になってしまいましたが、何を言いたかったかというと「日本語は融通無碍で、語彙が豊富で、何でも表現でき、表現できない場合は言葉も作ることができる」ということを伝えたかったのです。 【参考文献】 再構築した日本語文法:小島剛一著 ひつじ書房 日本語に主語はいらない:金谷武洋 講談社 祖国とは国語:藤原正彦著 講談社、2003年 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2018/10/09 本日(ほんじつ)は晴天なりと「ジャパン」の関係 前回で音読み、訓読みの由来をご紹介しました。漢字の読み方は難しいですね。以前から、なぜ日本が外国では「ジャパン」と呼ばれているか疑問でした。それを少し読み解いてみようと思います。 我が国の名前ですが、元を正せば、大和地方にあった大和朝廷により国家統一がなされたので「大和」と書いて「やまと」と読ませ、それが国名でした。「大和」を「やまと」と読むのも難しいですね。 その後、大化改新の頃、「東の方(日出ずる方)」を意味する「日本」が国名として使われるようになりました。その「日本」を「やまと」と読ませていた時期もありました。日本武尊(やまとたけるのみこと)が有名ですね。 さらにその後、「日本」は音読み(中国読み)されるようになりました。正確に記すと三つの音読みがありましたが、今は「にほん」、「にっぽん」の二つしか残っていません(後述)。 さて、その二つ「にほん」「にっぽん」です。どちらが正式名称なのでしょうか?これには長らく論議がありました。2009年に当時の岩国哲人衆議院議員が「日本に、二つの読み方(名前)があるのはおかしいのではないか?」と、政府に質したところ、当時の麻生内閣は「ひとまず、どちらでも良い」と閣議決定しました。結局、どちらも正式名称として使って良いことになりました。 皆さんは、この二つの読み方をどのように使い分けていますでしょうか?ちなみに「国」として扱う時の読み方は正式に決まっていて、『大日本帝国』が国名だった時代は「だいにっぽんていこく」と呼ぶのが正式な読み方です。そして今の『日本国』では「にほんこく」が正式呼称です。 それはさておき、オリンピックで「日本ガンバレ」という時は、大抵「ニッポン」が使われます。「ニッポン チャ チャ チャ」、「ビバ!ニッポン!」のように「景気づけ」のような時に「ガンバレニホン」では何となくテンションが下がるような気がします。 一方、そういう景気づけるような話ではない時は、ほぼ「にほん」と呼称することが多いですね。「日本」を冠した病気は日本脳炎、日本住血吸虫症の二つしかありませんが、どちらも「にほん」です。 ちなみに、日本脳炎の原因ウイルスは「日本脳炎ウイルス:Japanese encephalitis virus」で、日本住血吸虫症の原因寄生虫は「Schistosoma japonicum:ラテン名:学名」です(参考文献2参照)。どちらも「ジャパン」が入っています。生物の学名はラテン語が使われます。しかし、ウイルスは生物かどうかも定かで無いため、ラテン名では無くて英語表記がされることが多いです。生物の学名で日本に関係するモノはジャパン系(japonicum、Japanese)の名前が付いていることが多いのですが、朱鷺(トキ)だけはなぜかニッポニアニッポン(Nipponia nippon)です。 なお、日本医師会、日本遺産、日本育英会、日本遺族会、などの団体や機構を示す場合も「にほん」と読むのが普通でしょう。日本外科学会、日本胸部外科学会、日本内科学会など学会名も、すべてを確かめたわけではないですが、ほぼ「にほん」でしょう。前回紹介した言語学者 小島剛一氏によると文化に関する言葉も「にほん」を使うことが多いですね。日本文化、日本料理、日本髪、日本語、日本茶、日本庭園、日本刀 などですね(http://fjii.blog.fc2.com/blog-entry-656.html)。 郵便切手にはNIPPONと記載されていますが、これは、日本が大日本帝国だった1877年(明治10年)に万国郵便連合に加盟した際、国名を切手にローマ字表記することを求められたので、当時の国名「大日本帝国:だいにっぽんていこく」に準じてNIPPONとなったのだと思います。今更、「日本国:にほんこく」になったから、すべての切手を「NIHON」にするのも面倒だから、そのまま使っているのだと思います。 さて、「東京2020オリンピック・パラリンピック」まで、あと残り2年になりました。いつごろから言い始めたのかは忘れましたが、日本代表チームには監督名や愛称を冠するようになりました。「ハリル・ジャパン」、「岡田ジャパン」、「侍ジャパン」、「なでしこジャパン」、「トビウオジャパン」などです。この辺りまでは、皆さんご存じかと思います。そのほかにも、 スマイルジャパン(アイスホッケー日本代表女子) ポセイドンジャパン(水球日本代表男女共) ムササビジャパン(ハンドボール日本代表男子) おりひめジャパン(ハンドボール日本代表女子) クリスタルジャパン(カーリング日本代表女子) マーメイドジャパン(シンクロナイズドスイミング) などがあります。なお、「ニッポン」を使っている競技もあります。 バレーボールは、男子が「龍神NIPPON」女子が「火の鳥NIPPON」です。 でも、ほとんどは「ジャパン」を使っています。私は、以前から「ジャパン」という言い方には疑問を持っていました。 外国で「日本」はなんて呼ばれるのでしょうか? 英米:ジャパン(Japan) フランス語:ジャポン(Japon) ドイツ語:ヤーパン(Japan) イタリア語:ジャッポーネ(Giappone) ロシア語:ヤポーニヤ(Япония) スペイン語:ハポン(Japón) アイルランド語:アン チャパイン(an tSeapáin) ポーランド:ヤポニヤ(Japonia) タイ語:イープン(ญี่ปุ่น) ポルトガル語:ジャポン or ジャパーン(Japão) 中国語:ジーペン(中:Rìběn;日本) 朝鮮語:イルボン(朝:일본;日本) ベトナム語:ニャッバーン(Nhật Bản;日本) スワヒリ語:ジャパニ(Japani) フィンランド語:ヤパニ(Japani) ギリシア語:イアポニア(Iaponia) 切りが無いので止めます。 「にほん」でも「にっぽん」でもありません。ほとんどが「ジャパン」系ですね。これは「昔の中国」での「日本」の読み方が世界中に伝わったからでしょう。マルコポーロの東方見聞録で日本「ジパング」として紹介されています。ジパングの「グ」は「国」の中国での読み方です。ですから、ジパングは「日本国」のことですね。 それはともかく、日本も中国での読み方(=音読み)を取り入れて「にほん」「にっぽん」と呼称し今に至りますが、こちらの読み方は外国には伝わりませんでした。 前回で紹介した「音読み」と「訓読み」という点から、「ジャパン」問題を考察してみましょう。私たちは、普段、訓読みや音読みを意識することはあまりありません。 「日」と「本」について、それぞれの読み方を整理してみます。 「日」の訓読み(日本古来の読み方)は、「ひ」か「か」です。「日」の音読み(中国語読み)は「にち:呉音」か「じつ:漢音」です。呉音と漢音では前者の呉音の方が古く、後者の漢音は遣隋使や遣唐使を通して伝わった読み方です。正式な読み方と称して「正音」ともいいます。実にややこしいですね。 「本」の訓読みは「もと」です。「本」の音読みは「ほん」「ぽん」「ぼん」の3通りあります。「本」については、呉音、漢音の違いはありません。 ですから、本来、「日本」を中国語読みすると、呉音なら「にほん」「にっぽん」に、漢音なら「じっほん」「じっぽん」です。ジャパンもジャポンもジパングも、この「じっぽん」系の言葉です。「本日は晴天なり」と言う時は「本日」は「ほんじつ」と発音します。逆読みすれば、「じつほん」です。その「じっぽん」系の読み方は、日本では駆逐されてしまいました。それはなぜでしょう? 「日葡辞書」(1603~1604:にっぽじしょ:脚注参照)には日本のことを 「Iippon:ジッポン」 「Nifon:にふぉん」 「Nippon:にっぽん」 と3通りの記載があります。少なくともこの辞書が成立した1600年頃、日本はこの3通りに読まれていたのでしょう。それがいつの間にか、後者二つ「Nifon:にふぉん」「Nippon:にっぽん」しか残りませんでした。前述の如く、語頭の「日」を「じつ」と呼ばなくなったからでしょうが、それがいつのことかまったく不明です。 まとめると、日本は、元々は二通りある中国読みで「じっぽん:漢音」と「にほん、にっぽん:呉音」と呼ばれていたのが、現在は「呉音による中国語読み一辺倒」になっているという不思議なお話です。ちなみに、中国語読みは「嫌だ」と言う方もいらっしゃいます。そういう方は、日本のことを「ひのもと」「やまと」と呼称しています。言葉は、難しいですね。 とういうわけで、2020年には、東京でオリンピックが開催されます。 「ガンバレ、ニッポン!」 と唱えるとき、少しだけ今回のお話しも思い出してください。 次回は日本語の多彩さについて考えていることを書こうと思います。 注:日葡辞書 当時の日本語をポルトガル語、ラテン語で解説した辞典です。性的な言葉はラテン語になっていて、簡単には読めないようになっています。当時も今も使われている多くの言葉がローマ字表記されています。1600年当時の日本の言葉の発音がよくわかります。本物は横にローマ字で「Nifon」とありその横に、ポルトガル語で説明が書いてあります。ポルトガル語がわからないと読めないですね。そういうわけで、私が持っているのは、ポルトガル語を日本語に翻訳した日葡辞書(岩波書店刊)です。読んでいて飽きません。実に面白い辞書です。 【参考文献】 高島俊男(著)「キライな言葉勢揃い(文春文庫)」 など 日本住血吸虫症のウィキペディアの項は凄いです。引用文献が300を越えています。ウィキペディアの有名項目です。どの項目もこれくらい詳しければ良いですね。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生 更新日:2018/09/25 今回から、「日本語」について思うことを書こうと思います。 「はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった。言葉は神と共にあった。万物は言葉によって成り、言葉によらず成ったものはひとつもなかった。 言葉の内に命があり、命は人を照らす光であった。その光は闇の中で輝き、闇が光に打ち勝つことはなかった」(「新約聖書~ヨハネの福音書」より) 私はキリスト教徒ではありませんが、「言葉」については、このヨハネの福音書の説く通りだと思います。医療に携わる中で、日本語について考えたこと、勉強したことなどを書いていこうと思います。 「患者さんの言葉に耳を傾けよ」とは 医療の世界で「言葉」は特に重要です。ノーベル平和賞を受賞したアメリカの循環器内科医バーナード・ラウン(Bernard Lown:1921-)先生が書いた「治せる医師・治せない医師」という本(注1)にも繰り返し、「言葉」の重要性が説かれています。 医療における言葉の重要性を説いた医師はほかにも大勢います。一番有名なのは、19世紀を代表する内科医オスラーが書いた次の言葉でしょう。 “Listen to the patient. He is telling you the diagnosis”(注2) 訳してみましょう。 “患者さんの言葉に耳を傾けよ、患者さんはあなたに診断の手がかりとなる言葉を発している” 最近、この言葉にはもっと深い意味があるのだと思うようになりました。「Listen=聞く」ですが、ただ単に「言葉を聞く」だけでなく、患者さんが発する言葉、患者さんの身体所見などに耳を傾けようと言う寓意も含んでいるのだと思っています。つまり、さらに意訳すると、 “患者さんの発する言葉はもちろん患者さんの発する身体所見や事象に耳を傾けよ。患者さんは、あなたに「診断」の手がかりを発している” とまで言えるのではないかと思っています。いかに医療が進み、医療技術が進み、AIが進んでも、この言葉の重要性は変わらないでしょう。 医師になり、よくよく患者さんの話を聞いていると、段々とオスラー先生の説いたことがわかるようになりました。 司馬遼太郎が「カルテは日本語で書かないと意味が伝わらない、それも“地の言葉”で書かないと、意味が伝わらない」という意味のことを書いていました。司馬は大阪弁で「うじうじして痛いねんで」と言う語感はその通りに書かないと伝わらないと書いています。同感です。 私の恩師 新井達太先生からも、常々「カルテは日本語で、わかりやすく書くよう」に指導されましたので、自分で書くカルテは基本的に日本語で書いてきました。日本人が日本語でカルテを記載するのは当たり前の話だと思います。 私は栃木県でも働いていました。栃木の心臓病の患者さんはよく 「去年は大丈夫だったのに今年は駅の階段を登るのが“こわい”」 などと言います。最初は階段を登るのに恐怖を感じるようになるのだと思っていました。しかし、違ったのです。栃木県では「こわい」は「疲れる」「だるくなる」というような意味でした。言葉は難しいですね。日本人を診察するのに「ドイツ語」や「英語」で書いたカルテでは患者さんの「伝えたいこと」は残らないのです。一昔前は、そういうカルテや判じ物のような文字、他人にも自分でも読めないような文字で書いたカルテを多く見ました。今から思うと不思議です。電子カルテが主流の時代となり少なくとも読めないカルテは、あまり見かけなくなりました。 『音読み』『訓読み』をどうやって決めていた? そんなわけで、医師になってから色々と日本語について考えてきました。私は言語学者でも国語学者ではありませんが、こうした書き物の中でも適当なことを書くつもりはありません。それなりに調べては確証があった(と思われる)ことだけ書きます。「なんだ、『思われる』ってことは、確実なことでは無いのか?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。逃げているわけではありません。例証を挙げます。 『音読み』『訓読み』についてです。 『音読み』は、一般的には中国から伝わった読み方です。“山”を「さん」と発音するのが『音読み』で、“山”に日本語の語彙を当てて「やま」と発音するのが『訓読み』と習ってきました。 『音読み』は中国から伝わった読み方ですが、どの時代の中国から伝わったかで随分と読み方が違います。ですから、音読みも「呉音」「漢音」「唐音」などに分類されます。 「呉音」は六朝(りくちょう)時代の呉の地方の発音が基になっています。 「漢音」は、隋・唐以後で宋*以前の長安地方の発音が基になっています。歴史上の「漢」の国とは時代が違います。 「唐音」は、唐の末期から宋・元・清までの間に日本に伝わった発音で「宋音」とも言います。 *南朝の宋(420~479)ではなく、北宋(960~1127) でも、ちょっと考えてみましょう。「呉音」「漢音」「唐音」などと言うけれど、本当に中国でそのように発音されていたかどうかは、当たり前ですがテープレコーダーなどありませんので、解かりません。では、どうやって決めていたのでしょう?皆さんは、こんなことを考えたことはありませんでしたか?私は、長い間、これが疑問でした。『音読み』とはそういうモノだと思って何となく、覚えていたからです。しかし、ある時、私の年来の疑問はフランス在住の言語学者小島剛一氏(注3)に質問する僥倖を得て氷解しました。以下“”内は氏から教わったことです。 “漢字の音読みは「同音の漢字、仮名、声点などを用いて漢字の読み方を示した資料は多数あります。『妙法蓮華経』『大般若波羅蜜多経』『佛母大孔雀明王経』などは、音注が詳しく付いています。” 音注とは漢字の横に仮名などが書かれていて読み方を示しているのですね。今なら、難しい漢字の上にルビが振ってあるようなモノでしょう。確かに国立国会図書館のデジタルコレクションにある『佛母大孔雀明王経』をみるとカナがふってあります。 冒頭の部分です(図1)、さらにその一部を拡大してみました(図2)。 図1:佛母大孔雀明王経の冒頭 図2:佛母大孔雀明王経の拡大図 少し見てみましょう。 獨は“トク”、覚は“カク”、我は“カ”、皆は“カイ”、敬は“ケイ”、礼は“レイ”、聖は“サイ”、求は“キュウ”とフリガナがふってあります。こういう文献があることで初めて『佛母大孔雀明王経』が日本に伝来した当時の、中国語での読み方、すなわち「音読み」が推測できるのですね。とても興味深いことです。 なお、『佛母大孔雀明王経』の振り仮名には濁点が付いていません。濁点を使用していれば「獨(トク)」は「どく」、「我(カ)」は「が」だったはずです。つまり、完璧な表音文字は存在しないのです。この辺りは、とても難しいです。 こういう文献を研究して、「音読み」が広まったのでしょう。中国から伝わった年代で読み方は違い、それを「呉音」「漢音」「唐音」などと分類したのでしょう。皆さんは、ご存知でしたか?私は長い間知りませんでした。 さらに『音読み』『訓読み』について考えてみましょう。 日本語は「表音文字である“ひらがな”と“カタカナ”」と表意文字である“漢字”が使われます。上述のことと重複するのですが、日本語には表音文字がありますので、1000年近く前の漢文に“カナ”で読み方がふってあると、当時、この漢字がどのように読まれていたかがわかるのです。 しかし、ここが大事ですが、中国語には表音文字がありません。つまり500年前、1000年前の中国で実際にどういう漢字がどういう発音で読まれたかは不明なのだと思います。500年前、1000年前の中国の漢字がどのように発音がされていたかを研究するなら、表音文字を古くから用いている日本で文献を調べるしか無いのだと思います。この辺り、わかる方がいらしたらご教示いただければ幸いです。 現代の中国では、1958年以来、拼音(ピンイン)という発音記号が使われるようになっているので、発音の仕方がわかります。例えば北京の拼音はběijīngです。 というわけで、言語に関して「絶対に確実なこと」を見つけ出すのは至難の業です。しかし、日本語について考えるのは面白いので、数回続けます。次回に続きます。 注1:治せる医師・治せない医師 バーナード ラウン(著) 築地書館 原題は「The Lost Art of Healing: Practicing Compassion in Medicine」 ラウン先生はLGL症候群(Lown-Ganong-Levine syndrome)に名を残しています。 注2:平静の心―オスラー博士講演集 ウィリアム・オスラー(著) 医学書院 ちなみに、オスラー博士は、以前にも紹介しましたが、点滴液の創始者リンガーの元で若い頃学んでいます。 注3:「再構築した日本語文法(ひつじ書房)」「トルコのもう一つの顔(中公新書)」などの著書があります。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生 更新日:2018/09/10 イースター島で見つかった細菌が分泌する「シロリムス」というお薬に新たな作用が見つかり… 今回は、20年前から使われていた薬に新たな作用があることがわかり、最近再び注目されているという話題をお届けします。 以前、冠動脈治療に使う「ステント」に薬剤溶出性ステント(Drug Eluting Stent:DES と略します)が使われているというお話をしました。狭くなった冠動脈をステントで広げても、再度、ステント内で血管内膜が増殖して再狭窄を生じます。それを予防するために、さまざまな薬剤を金属製ステントに塗布して再狭窄予防に使っている、そういうお話でした。 DESに使われる薬剤として最初に用いられたのが「シロリムス」というお薬です。シロリムスは、イースター島の土から見つかった放線菌「ストレプトマイセス・ハイグロスコピクス(Streptomyces hygroscopicus)」が分泌する物質です。 シロリムスは別名をラパマイシン(イースター島の現地名:ラパヌイに由来します)とも言います。シロリムスには、これまでに下に述べる3つの別々な薬効があることが確認されています。 血管内膜増殖抑制:DES(薬剤溶出性ステント)に使われています 免疫抑制:主に腎移植後の拒絶反応予防薬として使われています 抗腫瘍効果:リンパ脈管筋腫症という肺の希少疾患治療薬として使われています シロリムスの構造を少し変えたエベロリムスは抗がん剤として腎細胞癌、再発乳癌などに使われています ひとつの薬剤がさまざまな作用を持つのは凄いことだと思います。そのシロリムスですが、最近、さらに2つのことで脚光を浴びています。 「シロリムスが不老長寿の薬になるかもしれない?」 「シロリムスが神経難病に効くかもしれない?」 の2つです。後者はiPS細胞を用いた「創薬(そうやく=お薬を作る)」と言っても良いかもしれません。 今回は、この2つについて紹介しようと思います。 「不老長寿のお薬」としてのシロリムス 最初は「不老長寿のお薬」としてのシロリムスです。 2009年、NATUREに「シロリムスを投与したマウスは寿命が伸びた」という要旨の論文が載ったのです(文献1)。この論文が発端になり、シロリムスと長寿に関する実験が数多くなされています(文献2.3など)。シロリムスには細胞分裂の速度を弱める働きがあります。それゆえに 血管内膜増殖抑制効果 抗がん剤 としても作用します。シロリムスにより細胞分裂速度が遅くなれば、老化も遅くなるのではないだろうかと予想して実験をしたのが、先に紹介したNATUREの論文です(文献1)。NATUREに載ったこの論文には、人間でいうと60歳に当たるマウスにシロリムスを投与すると寿命が10%延びたとのことです。マウスではなく人間もシロリムスを服用すれば長生きできるのではないかと思うのが「人情」です。しかし、残念ながら人間には使えないと思います。シロリムスには免疫抑制効果もあり、腎移植後の拒絶反応予防薬としても使われています。免疫抑制効果がある薬を服用すると、免疫を抑制するので感染症にかかりやすくなります。シロリムスを服用すれば寿命は延びるかもしれませんが、さまざまな感染症に罹りやすくなると思います。 というわけで現状では人間にシロリムスを投与すれば長寿になる可能性は低そうですが、感染の問題が解決できればどうなるかわかりません。 「神経難病に効くかもしれない」シロリムス さて、今ひとつは「シロリムスが神経難病に効くかもしれない」という話題です。 iPS細胞というと、心筋細胞を作ったり、腎臓細胞を作ったり、血小板を作ったりという「臓器や組織」の再生が話題になりますが、創薬にも使われています。創薬にiPS細胞を用いるに方法として、現在2つの方法があります。 第一の方法は、「iPS細胞を用いて、お薬の安全性試験をするという方法」です。 例えば心臓病の「治療薬A」ができたとします。「治療薬A」が実際に人の心筋細胞のどのような影響を及ぼすのかを試すのは大変なことでした。「in vivo(生体)」での試験は簡単にはできません。生きている人間の心筋細胞に新しい治療薬がどのように効くかを実験するのは危険を伴います。しかし、iPS細胞を使って人間の心筋を作れば「治療薬A」が心筋にどのような作用を及ぼすかを調べるのが比較的容易になると予想されています。iPS細胞があれば心臓、肝臓、腎臓、皮膚などさまざまな細胞が作れるのでお薬の生体内での作用を、検査することができます。夢のある話です。 第二の方法は「iPS細胞を用いて、難病の治療薬を探す方法」です。 世の中には実に多くの病気があります。その中でも特に治療が困難なのは、原因が不明で成長や加齢と共に発症する神経系の難病です。筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう、英語: Amyotrophic lateral sclerosis、略称:ALS)やパーキンソン病、アルツハイマー病などです。 こうした病気になった患者さんから得られたiPS細胞から神経細胞を作ると病的な異常を持つ神経細胞ができることがあります。この病的な異常の発現を阻止するようなお薬を見つける、これが第二の方法です。言うは易く行うは難しです。 お薬は無数にありますからどのお薬が効くかを調べるのは容易ではありません。しらみつぶしのようなアプローチが必要です。 今、この第二の方法を用いて「進行性骨化性線維異形成症(しんこうせい こつかせいせんい いけいせいしょう、Fibrodysplasia Ossificans Progressiva:FOPと略)」という神経難病の発症抑制薬が見つかり、臨床治験が始まりました。 FOPの患者さんは10代で発症し、筋肉が骨に置き換わっていきます。日本では80人の方が、この病気で苦しんでいます。筋肉が骨に置き換わり、動けなくなる、そういう病気です。 このFOP発症を抑制する、あるいは発症しても病気の進行を遅らせるお薬がiPS細胞を用いて探索されていました。7,000種もの化合物が試験され、ついにFOP発症を抑制するかもしれないお薬が発見されました。それがあの「シロリムス」です。再びシロリムスが脚光を浴びることになりました。 2017年8月1日京都大学iPS細胞研究所から、その発見の詳細が公表されました。 FOPにおける骨化を抑える方法の発見です。 http://www.cira.kyoto-u.ac.jp/j/pressrelease/news/170801-091500.html 同日「iPS創薬に向けた世界初の治験を開始が京都大学から発表されています。 http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research/events_news/department/hospital/news/2017/170801_1.html 2017年10月5日から、実際に患者さんへのシロリムスの投与が開始されました。 https://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00372573.html シロリムスが実際にFOPの進行を遅らせることができるかどうかの判定には、まだ長い年月が必要だとは思います。これまで神経系の難病治療は不可能とされてきました。シロリムスがFOPの進行を抑えることができれば間違いなく医学の歴史に残ります。 山中伸弥先生がiPS細胞の作り方を発見し、イースター島の土から見つかった放線菌がシロリムスを分泌することを発見していたことがこうした「創薬」に繋がったのですね。シロリムスがFOPに効くなら(ぜひ効いて欲しいです)、シロリムスには新たな薬効が増えることになります。前述のように不老長寿薬になる可能性もあります。ほかにも薬効が見つかるかもしれません。 このように、ひとつのお薬にまったく違う薬効が見つかるのはとても興味深い話です。 私は、シロリムス発見の源であるイースター島へ行ってみたくなりました。 【参考文献】 Harrison DE, et al. Rapamycin fed late in life extends lifespan in genetically heterogeneous mice. Nature. 2009;460(7253):392-395. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2786175/ Fok WCet al. Mice fed rapamycin have an increase in lifespan associated with major changes in the liver transcriptome.PLoS One. 2014 Jan 7;9(1):e83988. doi: 10.1371/journal.pone.0083988. eCollection 2014. Bitto, Alessandro, et al. "Transient rapamycin treatment can increase lifespan and healthspan in middle-aged mice." Elife 5 (2016): e16351 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/08/27 今から90年前、ニュージーランド ラガーマンの身体測定が日本で行われていた! 2019年9月に日本でラグビーのワールドカップが開催されます。 前回ワールドカップの優勝国はニュージーランドです。チームの愛称が「オールブラックス」です。ユニフォームが黒いからですね。そのオールブラックスに準決勝で、わずか2点差で負けたのが南アフリカです。その南アは3位にもなっています。日本はその南アに予選リーグ勝ったのですから、3位の上、2位の下と言っても良いくらいです(言い過ぎかな)。 これまでに8回、ラグビーワールドカップが開催されていますが、優勝回数を見てみましょう。 優勝3回:ニュージーランド 優勝2回:オーストラリア、南アフリカ 優勝1回:イングランド です。ニュージーランド(=オールブラックス)は強いですね。 ちなみに 他のチームの愛称には以下の様なモノがあります(愛称が無いチームもあります)。 南アフリカは「スプリングボック」(鹿みたいな動物) オーストラリアは「ワラビーズ」(小さなカンガルーのような動物) 日本は「ブレイブブロッサムズ」(勇敢な桜戦士) フランスは「レ・ブルー(Les bleus)」(青いユニフォームに由来) イングランドには、「サクソンズ(Saxons)」(アングロサクソン民族に由来) ウェールズには「レッド・ドラゴンズ」(国旗に書かれたドラゴンに由来) など。 図1:New Zealand大學「ラグビー」選手身體檢査成績 図1は昭和11年(1936年)に書かれた論文です。「New Zealand大學「ラグビー」選手身體檢査成績」という題です。 実はこの論文は再刊行されたモノです。論文が復刊されるなど、とても稀なことです。その経緯です。 昭和62年ニュージーランドオールブラックスが初来日して、日本代表と試合を行いました。当時、この論文の著者である木村潔先生が92歳でご存命でした。そして、この論文(別に英語版もあります)を、日本ラグビー協会に届けてくれたのです。英語版はニュージーランドラグビー協会の方に届けられました。 この論文が掲載されたのは「北野病院業績報告第二巻」です。北野病院は、大阪の実業家「田附政次郎(たづけ まさじろう)」氏が、「京都大学医学部の研究の為に拠出した基金」で建てられた病院で、今でもさまざまな研究部門があることで有名な病院です。 そういう研究心にあふれた病院に勤務していた若き木村先生はレントゲンや心電図なども駆使して、この論文を書いています。当時の大阪の新聞(文献2)には「ランニングやラグビーその他の名選手として知られた木村潔君(木村廉教授の弟)」との記載がありますから、ラグビーも学生時代にやっていたのでしょう(文献3)。 本論文を読んだ日本ラグビー協会医務委員の方が中心となって、本論文を再刊し、全国のラグビーに関係する医療関係者に配ったのです。私も当時、関東ラグビー協会の医務委員をしていたので、一部いただきました。少し内容を紹介しましょう。 この論文には、昭和11年にニュージーランドから、ラグビーの試合をするために遠征してきた大学生の身体所見、レントゲン所見、心電図所見などが書かれています。 図2 例えば、この図2はこの遠征に参加した24名には各選手の名前(!)、年齢、体重、身長、胸囲が記されています。名前が載っています。医学論文に被験者の名前が載っているなど、今なら考えられないですね。 フォワード選手の体重平均が78.1kg。バックスの選手の体重平均が74.6kgです。今なら、日本の強豪高校のラグビーチームの方が大きいでしょう。身長はフォワードが180cm、バックスが177cmです。さすがに大きいですね。胸囲は全員の平均で95cmです。論文中には「日本のラグビーチームも測定して議論したい」と書かれています。 図3 図3には今では、あまり使われていない診断法が書かれています。 アシュナー氏症候(眼を押すと脈がゆっくりになる)の有無とか呼吸性不整脈の有無が「副交感神経が優位になっているかどうかの検査」として行われています。「よく訓練されたスポーツマンではこれらの検査が陽性になると言われているが、実際に検査してみたら、陽性の選手が多かった」と書かれています。 ちょっと面白いのはこのページにある心雑音の有無です。1人だけ心雑音を聴取しています。昭和10年に行われた「竹内氏紀念オープンマラソン」の参加者24名中、7名は心雑音を聴取したのに比べて、ニュージーランド選手は心雑音の聴取率がとても低いと考察しています。 当時、まだペニシリンは開発されていませんので、リウマチ熱の発症も多く、日本ではスポーツ選手でも心雑音を聴取することも多かったのだと思います。 図4:心臓係数 図4には聞き慣れない「心臓係数」という言葉が出てきます。 要するに、レントゲン写真から心臓の大きさを推測しているのです。今ではもちろん使いません。この心臓係数は平均170です。なぜか十種競技は小さく150くらい、一番大きいのはマラソン選手で216などと書かれています。当時、胸部レントゲン写真から、心臓の大きさを推定していたのですね。 図5 図5はそのレントゲン写真です。なんだか、真っ暗でよく解りません。 名前が書いてあるのがおわかり頂けますでしょうか?肺野は皆さんきれいですね。心臓はやや肥大していると思います。 面白いのは心電図です。時間が無くて、全員を撮影できなかったのはまことに遺憾であったと書かれています(心電図記録のことを当時撮影と記述していたことが解ります)。当時、まだ日本にも、世界のどこでも、今のように簡単に計測できる心電図はありませんでした。1回撮影するのに結構時間がかかったのだと思います。それでも10名は記録できています。 まとめが図6です。結構、細かい分析をしています。今でも、こういう分析は結構面倒ですが、木村先生はきちんとした分析をしていると思います。R波が高いが人多いと書かれています。今なら、左室肥大気味と診断できるでしょう。 図6 図7 図7は、その現物です。ここにも名前が記されていますね。結構、きれいに記録されています。 p-p間隔 PQ間隔 QRS間隔 QT間隔 をきちんと計測しています。 今から、90年前の心電図です。これを見られるだけでも、この論文を読む価値があると思います。 以上、紹介してきたように、今から80年前に来日したニュージーランドの大学ラグビー選手の身体計測です。立派な研究です。「スポーツ医学」研究の「さきがけ」のような論文です。 以前も記録することの大切さを記しました。この論文を読んで、その思いを新たにしました。 【参考文献】 木村潔、大岡義秋、藤木正一、澤井観、江口清、松橋昇「New Zealand大學「ラグビー」選手身體檢査成績」 大阪毎日新聞 1931.5.11-1931.7.28(昭和6) 「京大展望/来間恭氏の批判の批判より」 亰都帝國大學新聞 (1928), 89 http://hdl.handle.net/2433/219295 余計な注1: ニュージーランド大学ラグビーの来日はこの1936年から始まり、今も続いています。2015年も5月に来日して、試合をしています。14回目の来日です。今はもちろん飛行機で来ますが、1936年なら船旅で結構大変だったと思います。 余計な注2: このネクタイは、オックスフォード大學ラグビーチームの公式ネクタイです。 1983年オックスブリッジ(オックスフォード大学、ケンブリッジ大学の連合チームをそう称します)が来日して、日本代表と試合をしました。 私は、この試合のドクターを頼まれました。試合終了後にレセプションがあり、そこで知り合ったオックスフォード大学のラディントン選手とバーンズ選手を、試合の無い日に浅草まで案内しました。そのお礼として、帰国する際に彼らが締めていたネクタイをいただいたのです。 ちょっと貴重かもしれません。当時のオックスブリッジに日本代表は負けています。今はもちろん日本代表チームがいくらイギリスとはいえ、大学のチームには負けません。 余計な注3: 今回紹介した論文の最後に「第12回Olympics大会東京ニ決定ノ日脱稿」とありますので、この論文は、昭和11年7月31日に脱稿したことがわかります(同日、ベルリンで開かれていたIOC総会で投票が行われ、1940年に東京でのオリンピック開催が決定しています)。残念な事に、このオリンピックは戦争のために開催されませんでした。 論文にわざわざ「東京ニ決定ノ日脱稿」記していることから、オリンピックが決定した当時の高揚感が感じられます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2018/08/13 ジギタリスが効くことを「世界で初めて」明らかにしたのは誰? ジギタリスというお薬(何回も書きますが、「ジギタリスという植物の葉っぱから得られた薬」です)は、イギリス人医師ウィザリングが、1785年に「An Account of the Foxglove and Some of its Medical Uses: With Practical Remarks on Dropsy and other Diseases.」という本を出版して(参考文献 1)、「Dropsy:=水腫、浮腫、身体のむくみ」という病気にジギタリスが効くことを「世界で初めて」明らかにしたのです。 しかし、ウィザリング医師がこの本を出版する直前に、別の人も「ジギタリスがDropsyに効くことを書いた論文を発表していました。「種の起源」で有名なダーウィン(Charles Robert Darwin:1809-1882)の祖父エラズマス・ダーウィン(Erasmus Darwin, 1731- 1802)です。エラズマス・ダーウィンは1785年1月14日に、「ジギタリスがDropsy(水腫)に効く」という論文を書いて、発表したのです。一方、ウィザリング医師が本を出版したのは1785年7月のことです。 図1:ウィザリング医師の書いたジギタリスに関する本の初版にある出版年 前回、少し触れましたが、ウィザリング医師に水腫の患者さんを紹介した医師の一人がエラズマス・ダーウィン医師でした。ウィザリング医師がジギタリスを用いてDropsy(水腫)に効くのを横目で見ていたエラズマス・ダーウィン医師は、ウィザリング医師よりも先に論文を書いたのです。 "An Account of the Successful Use of Foxglove in Some Dropsies and in Pulmonary Consumption " という論文です(参考文献 2)。 しかもその論文にはウィザリング医師のことはどこにも書いてありません。自分(エラズマス・ダーウィン)が「ジギタリスという植物が水腫の治療薬となりうる」ことを最初に発見したと主張しているのです。 しかし、当時すでにウィザリング医師が「ジギタリスという植物を用いてDropsy(水腫)の治療をしていること」は有名でしたので、「ジギタリス発見」の功績はウィザリング医師に与えられます。ウィザリング医師はその功績により、英国の王立協会、リンネ協会の会員にも選出されます。一方、エラズマス・ダーウィン医師には「優先権を盗もうとした」不名誉な記録が残ってしまったのです。 投与量が多いと副作用が生じ、中毒で亡くなることも…「効くけれど厄介」な薬 それはともかく、当時、ジギタリスという植物の葉っぱを乾燥させて粉末にして飲ませれば、Dropsy(水腫)に効くことだけは解りましたが、その使い方はよくわかっていませんでした。つまり用法や用量が解らないのです。前々回で「猫単位」を紹介しましたが、それはジギタリスの効力判定(力価判定)のためでした。効く量、効く葉っぱがわからなかったから「猫」を利用してジギタリスの効果判定を行ったのです。 投与量が多すぎると副作用が生じ、胸焼け、嘔吐、下痢などの消化器症状に加えて、目の異常も生じます。視力障害(光がないのにチラチラ周りが光って見える・視野が黄色く見える(黄視症:後述の余話を参照))、複視(モノが二重に見える)、不整脈も生じます。重いジギタリス中毒でお亡くなりになることもあります(参考文献3など)。 つまり、ジギタリスは「効くけれど厄介」な薬だったのです。 現在、「ジギタリス葉末」は使われていません。化学合成した「ジゴキシン」というお薬が使われています。ジギタリス投与中はそのジギタリスの血中濃度を測定することが簡単にできます。心電図、血中濃度、身体所見を見て投与すればジギタリス中毒はほとんど生じません。良い時代です。 ジギタリスは今、観賞用植物になっていると記しましたが、一部野生化して野原にも生えています。それを間違って食べると、ジギタリス中毒を生じます。 厚生労働省が発表している「ジギタリス中毒例」を紹介します。 「症例:200○年4月富山県:コンフリー(注:一時健康食品として流行しましたが、今は食品として摂取するのは禁止されています)と間違えてジギタリスの葉6枚をミキサーにかけて飲んだ8時間後に悪心・嘔吐が出現したため、近医を受診し、心臓の刺激伝導系の房室結節の機能が低下した状態であったため、体外式ペースメーカー植え込み術で対処した。 また、悪心、嘔吐のため食欲が全く無かったので点滴で全身管理を行った。翌日娘さんから話を聞き、ジギタリス中毒と診断した。第5病日から食欲が回復し、第12病日にようやく房室ブロックが改善しペースメーカーをはずした。入院日の血中ジギトキシン濃度は、81.6ng/ml、翌日は 72.8ng/ml 第7病日でも 35.0ng/ml と高値を示した。」 出典:厚生労働省「自然毒のリスクプロファイル:高等植物:ジギタリス」 とあります(注:治療域は一桁ですから、10倍以上)。 このようなことは、ウィザリング医師がジギタリスという植物を治療に使い始めた当時、普通に見られたと思います。 心臓病に関する大きな発見により「猫単位」は不要に さて、話は変わります。Dropsy(水腫)は全身がむくむ病気です。 ウィザリング医師がDropsy(水腫)の治療にジギタリスを使用し始めた当時、Dropsy(水腫)の原因は不明でした。 今でこそ、浮腫の原因はたくさんあることが解っています。列挙します。全身性浮腫と局所性浮腫(体の一部が浮腫む場合)の2通りあります。 A. 全身性の浮腫の原因 心原性浮腫:心臓が原因 腎性浮腫:腎機能低下による 内分泌性浮腫:甲状腺機能低下症などによる 肝性浮腫:肝機能障害の末期に生じる 栄養障害性浮腫:ビタミンB1欠乏(=脚気)や低栄養など 薬剤性浮腫:お薬が原因でむくみが生じることがある B.局所性浮腫の原因 血管性浮腫:静脈瘤などが原因 クインケ浮腫:唇や眼瞼が腫れる 炎症性浮腫:けが、やけど、リウマチ 麻痺性浮腫:脳梗塞などで動けなくなる部位が生じるとその部がむくむ 以上、さまざまな原因で体がむくみます。 ウィザリング医師の時代には、こういうことが全く解っていなかったのです。今、お示ししたように「浮腫=水腫」はさまざまです。このなかでもジギタリスが効くのはたった一つです。そうです、「心原性浮腫」にしか効きません。そもそも「水腫」の原因がわからなかったので、Dropsy(水腫)があると「ジギタリス」が投与されていたのです。効く人は心臓に原因があるDropsy(水腫)だけでした。今から思うと、ひどい話です。 その後、心臓病学が発達します。大きい出来事が4つあります。 聴診器の発明: 1816年にフランス人医師ラエネックが発明します。聴診器により、心雑音、呼吸音がわかり、心臓病学が飛躍的に発展します。 X線の発見: 1895年ドイツ人医師レントゲンが発見します。全身がむくむような心臓病の患者さんは心臓が大きい(心肥大)ことが解りました。 心電図の発明: オランダ人医師、アイントホーフェンが1903年に発表、発明しています。 心臓の刺激伝導系の発見: 1906年、日本人医師「田原淳:たわらすなお」により、心臓には電気を伝達する「刺激伝導系(しげきでんどうけい)」があることが示されました。 このような心臓病に関する大きな発見、発明があり、「心臓病が進行してくるとDropsy(水腫)を生じること」がわかるようになりました。英国、フランス、ドイツ、オランダの医師に交じって日本の田原淳先生の大発見も貢献しているのが少し誇らしいですね(田原先生のことは以前にも紹介しました)。 1.の「聴診器の発明」により、弁膜症や心臓に孔が開いている病気、心不全の時の心臓の音が解るようになりました。心不全の時には、呼吸の音も変わります。今でも聴診器は役に立っています。 2.の「X線の発見」は、医学の歴史上の大発見です。心不全になると、(1)心臓が大きくなること、(2)肺に水がたまることが解りました。 3.4.の「心電図と刺激伝導系の発見」が相まって、(1)心臓がどのように動くのか、(2)心臓のはたらきが悪くなると心電図はどう変化するか、なども詳細に解ってきたのです。心電図でジギタリスの効果判定もできるようになりました。 具体的に言うと、ジギタリスを服用すると、心電図に以下のような変化が現れるのです。 (1)ST盆状降下 (2)PQ時間延長 (3)QT時間短縮 図2:ジキリタスによる心電図の変化 ジギタリス投与中の患者さんの心電図にこういう特徴が現れたら、それは「ジギタリスが効いている」証拠なのです。ジギタリスは中毒量になると、房室ブロック、脚ブロックなどを生じます。そういう所見が出たらジギタリス投与は中止です。心電図のお蔭で、ジギタリスの効果判定が容易になり、どうやら「猫単位」は不要になりました。 つまり、以上のような研究が進み、「心臓が原因以外のDropsy(水腫)にはジギタリスは効かない」ことが解り、随分と治療が変わりました。 ジギタリスの葉っぱのうち、何が効いているのか? 一方、ジギタリスの葉っぱのうち、何が効いているのかの研究も進みます。それを発見したのはフランスの薬理学者ナティベユ(Claude Adolphe Nativelle)です。 彼はジギタリスの葉っぱから、純粋な活性成分の結晶の分離に成功します。この成分はジギトキシン(digitoxin)と名付けられます。このdigitoxinはウィザリング医師が用いた「キツネノテブクロ、英語=foxgloveラテン名=Digitalis purpurea」の葉っぱから抽出されました。しかし現在、ジギトキシンは使用されていません。ジギトキシンよりも作用が強いジゴキシンが発見されたからです。ジゴキシンは「ケジギタリス:woolly foxglove:Digitalis lanata」というジギタリスの近縁種から見つかった成分です。ケジギタリスの「ケ」は「毛」です。綿毛が茎や花より目立つので「毛」がついています。 写真:ケジギタリス Digitalis lanata確かに花の周りに綿毛が見えます ジギトキシンは、日本では2005年から販売が中止されていて、日本薬局方からも消失しそうです。 現在、日本で使用できるジギタリス製剤は「ケジギタリス」から抽出されたジゴキシンとメチルジゴキシンの2種類だけです。ところが、ジギトキシンが手に入らなくなったことで、ジギタリス中毒が一時増えました。背景は、次の通りです。 「使用できるジゴキシン」は、腎臓から排泄されます。一方、「(廃止された)ジギトキシン」は、肝臓で代謝されます。腎機能が悪い方には「ジギトキシン」投与が一般的でしたが、ジギトキシンが販売中止となり、腎機能が悪い方にもジゴキシンが投与された結果、ジゴキシン中毒になる方が多発したのです。腎機能が低下している患者さんに対するジゴキシン投与には注意が必要です(用量を抑えて、血中濃度を測定しながら投与すれば中毒が生じることは稀です)。 ジギタリスが心不全患者さんに効くかどうかという研究は、今でも継続されています。古くて新しい課題です。 なかでも有名なのが、1991年から3年をかけて北米で行われた「Digitalis Investigation Group Trail(DIG traial)」という研究です。心不全治療にジギタリスを使った群と使わない群で比較しています。その結果、全死亡率と心臓血管病による死亡率では両群で差は無く、入院率、症状の悪化はジゴキシン投与群で良好でした。 つまり死亡率に差は無くても、少なくともQOLはジゴキシンで改善しそうです。また、この研究ではそれまでの常識が覆るような大発見がありました。「ジゴキシンの血中濃度が、たとえ治療域に入っていても、高いほど死亡率が高いこと」が解ったのです。治療域のジゴキシン血中濃度は0.5-2.0ng/mlとされています。2.0ng/mlを越えるとジギタリス中毒症状が出る恐れがあります。この「DIG traial」で解った血中ジゴキシン濃度と死亡率の関係を示します。 血中濃度 死亡率 1. 0.5~0.8ng/mL 29.9% 2. 0.9~1.1ng/mL 38.8% 3. 1.2ng/mL以上 48.0% 血中濃度が高かった群ほど、死亡率が高かったのです。衝撃的な結果でした。 この研究が行われるまでは、治療域(0.8-2.0)で血中濃度が高い方が治療の成績が良いと思われていました。私も、そう教わっていました。このDIG traial以降、ジギタリスは「低容量の方が、治療成績は良い」という研究結果が多数出ています。ですから私も、ジゴキシンを投与するときは、ジゴキシン血中濃度が 0.5-0.8ng/ml になるようにジゴキシンの投与量を調整しています。 ここまでくるのに、ウィザリング医師の発見から、200年もかかっています。ジギタリスの薬理作用の本体が解ったのが2002年のことです。 お薬のことは、簡単ではありませんね。なお、心不全治療の第一選択は、β-ブロッカーAce阻害薬、ARB、抗アルドステロン剤です。進行してくるとジゴキシンも使います。 猫単位から始まり、ジギタリスの発見とその歴史について3回に渡ってお伝えしてきました。 如何だったでしょうか? 「ジギタリス」は、お薬を考えるのにとても良い材料だと思います。 【参考文献】 Withering, William (1785). An Account of the Foxglove and Some of its Medical Uses: With Practical Remarks on Dropsy and other Diseases. デジタル化されているので下記で読めます。 http://www.gutenberg.org/ebooks/24886?msg=welcome_stranger https://archive.org/stream/mobot31753000722048#page/n11/mode/2up Erasmus Darwin, M. D.:「Account of the Successful Use of Foxglove in Some Dropsies and in Pulmonary Consumption.」 Medical Transactions, Volume 3, 1785, published by the College of Physicians, London. Transaction XVI, pp 255-286 郭 文治ら「ジギタリス葉を誤って食し, ジギタリス中毒となった1例」1993年 42巻 4号 p.983-988 この論文に載っている方は治療の甲斐なく、心室細動でお亡くなりになっています。 余話1: 「ジギタリス中毒」にかかると、回りが黄色く見えるようになります。黄視症と言います。 ゴッホの絵は、黄色が多用されています。そこから、ゴッホは「ジギタリス中毒」だったのではないか?という説を唱える人もいます(Medical Practice vol.22 no6 2005 1009―など)。ゴッホは「てんかん」を患っていました。ゴッホが生きた時代「てんかん治療」にジギタリスが使われていたのです。また、ゴッホの主治医だったガッシュ博士はジギタリス治療を得意としていたので、こういう説が出るのですね。ですから、ゴッホはジギタリス中毒となり、黄視症を患い、周りが皆黄色く見えたのでという話です。 確かにお話としては、面白いですが、ゴッホがジギタリスを服用していたという証拠は残っていません。ガッシュ博士が書いたゴッホの処方箋でも、発見されたら面白いですね。 余話2: ジギタリス中毒は時に死に至ることもあります。「毒薬」としても使われたことがあるのでしょう。色々な小説や映画で「ジギタリスを用いての殺人、自殺」が描かれています。 ネタバレになるので、ジギタリスが「毒」として使われた小説と映画を1個ずつ挙げておきます。 1.アガサクリスティ「死との約束」 2.007 カジノ・ロワイヤル 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2018/07/30 「猫単位」という特殊な単位を考案してまで使われるようになった「ジギタリス」 前回より続きます。前回は、主にジギタリスというお薬についての効力(力価)の評価に猫が使われたという話でした。なぜ、猫だったのでしょうね。猫単位を考えたエグルストン医師は英国人です。紳士の国は犬を大事にするからでしょうか? 猫以外にも、ジギタリスの力価判定には蛙、鳩などが使われていました(文献3)。このように動物を使ってのお薬の効力判定(=力価判定)は「動物単位」と言われていました。今、ほとんど使われていません。 話は変わりますが、今、ジェネリック医薬品が使われています。ジェネリック医薬品は、お薬の本質となる成分は一緒ですが、添加物、製造方法はさまざまです。それゆえに、多少効き目が違うジェネリック医薬品があるのかもしれません。公的には先発品とジェネリック医薬品との間に効力差は無いことになっています。しかし、先発品でないと効かないと仰る患者さんがいます。差があると仰る患者さんは先発品との「違いが解る」センサーがあるのかもしれません。「動物単位」に通じるかもしれません。 前置きが長くなりましたが、今回の主題は「猫単位」という特殊な単位を考案してまで使われるようになった「ジギタリス」というお薬の話です。 「ジギタリス」は「キツネノテブクロ、英語=foxglove、ラテン名=Digitalis purpurea」という植物の葉っぱから作られます。キツネノテブクロは元々日本には無い外来植物です。明治12年(1879年)に、強心薬の原料として使われるために渡来しました。そのキツネノテブクロの葉は、「ジギタリス」という薬名で、日本薬局方第一版(明治19年)に収載されています。 なお、キツネノテブクロは、花がきれいなので、今はもっぱら園芸鑑賞のために育てられています。キツネノテブクロは、植物の中では少し珍しい二年草です。種をまいて、二年目に花が咲き、咲いたら枯れます。 写真1:園芸用のジギタリス各種 さまざまな色の花がありきれいですね。 注:(1)学名:Digitalis purpurea (2)英名:Foxglove、digitalis (3)和名:キツネノテブクロ(狐の手袋) 和名は英名からの翻訳 話を戻します。「ジギタリス」は心不全、不整脈、心不全に伴う足の浮腫の治療薬です。1785年頃から英国で「水腫治療薬」として使われるようになりました。「水腫」とは聞き慣れないですね。今なら、「浮腫」「むくみ」と呼称されるほうが普通でしょう。「水腫」の原因はさまざまですが、ジギタリスが効くのは「心不全が原因の水腫」です。心不全が進行すると水腫が生じます。ひどい水腫が生じるのは心不全の末期です。そのため、当時の「水腫」は死に直結する病(やまい)でした。次回詳述しますが、心臓病のことは当時ほとんど解明されていませんでした。足に「水腫」が出ると程なく死んでしまうのが普通でした。足の水腫がなぜ死に直結するか、全く解らなかったのです。そんな怖い病気だったのです。 そんな中、英国の医師ウィリアム・ウィザリング(William、Withering:1741-1799)はある発見をします。1775年頃、ウィザリング医師は「水腫を患った患者さん」を診察しました。それから1年が経ってもその患者さんは元気にしていました。それを見て「なぜだ?」と思ったのです。繰り返しになりますが、当時「水腫」を発症するとほどなく死んでしまうのが普通のことだったのです。 ウィザリング医師はこの患者さんから色々と話を聞き出します。そしてあることに気づきました。この患者さんはある秘薬を服用していました。イギリス西部のシュロップシャー州の老婆がさまざまな植物を用いて作った「秘薬」でした。この「秘薬」で「水腫」の治療をしていることを聞いたウィザリングは、(ここが偉いのですが!)この老婆の元を訪れて、「秘薬」ついて教えを請います。歴史に名を残すような人はこのあたりが違うのだと思います。 ウィザリング医師はこの老婆が用いている植物のうち「ジギタリス」の葉っぱが一番効きそうだとあたりをつけます。ウィザリングは植物に造詣の深い医師でした。医学史にはあまり書かれていないのですが、ウィザリングは一流の植物学者でした。ウィザリングはエディンバラ大学の出身ですが、その大学の先輩に医師で植物学者だったリチャード・パルトニー(Richard Pulteney、1730-1801)がいます。パルトニーは後年、スウェーデンの植物学者カール・フォン・リンネの著作を紹介した、「A general view of the writings of Linnaeus」(1781年)を著したくらい著名な植物学者です。ウィザリングは、多分、そのパルトニー医師の影響も受けていたので、医師として開業する傍ら、植物の研究をしていたのです。そして、ウィザリング医師も1776年に、 「A Botanical Arrangement of All the Vegetables Naturally Growing in Great Britain: With Descriptions of the Genera and Species, According to the System of the Celebrated Linnaeus. Being an Attempt to Render Them Familiar to Those who are Unacquainted with the Learned Languages. vol 1.2.」 という本を著します。「英国における植物研究の総説及び英国産植物の分類」に関する解説本ですね。この本は植物の分類を世界で初めて行ったリンネの分類法に沿って「英語」で書いています。 わざわざ英語と書いたのは、リンネの書いた「Species plantarum:植物の種誌」という植物分類の本はラテン語で書かれていたので、普通の英国人には読めなかったのです。要するにそのリンネの分類法に基づいた植物研究のことや英国の植物をリンネ流に分類した本をウィザリング医師は、英語で、書いたのです。 この本はベストセラーになり、版を重ねます。それくらいウィザリングは「植物」に精通していたのですね。この本には、もちろん「ジギタリス」も載っています。 話は戻ります。 無名の老婆の秘薬からヒントを得て「ジギタリスが水腫に効く」と思いつき研究すること10年。ウィザリング医師は1785年に「An Account of the Foxglove and Some of its Medical Uses: With Practical Remarks on Dropsy and other Diseases. (Published by M. Swinney for G. G. J. & J. Robinson)」という本を出版します(写真2、文献4)。 写真2:初版本の写真 日本語にするなら「キツネノテブクロという薬草の持つ幾つかの医学的効能の重要性」でしょうか。初版本は、心臓病治療の歴史に残る本ですから、高級外車1台分くらいの額で取引されています。私も持っていますが、それは複製本で2,000円くらいです(笑)。この本は、ウィザリング医師が「ジギタリス」を用いて治療した163名の患者さんについて書かれています(余話4参考)。 もとより、ジギタリスという植物の何が効いているのか?全く解っていない頃の話です。ウィザリング医師はジギタリスのどの部分に「水腫」を治す力があるのか研究しています。花なのか?茎なのか?根なのか? 葉っぱなのか?を検討しています。そして葉っぱに水腫を治す効力があることを確かめます。同時に、どの時期の葉っぱをどのように使えばいいのかも記しています。当時すでに、ジギタリスを投与すると、嘔吐したり、脈がゆっくりになったりすることが記されています。それはジギタリス中毒の初期症状です。ジギタリスは多すぎると、中毒を起こし、少ないと効かないのです。ある意味とても厄介です。 そこで後年、考案されたのが「猫単位」です(前回をご参照ください)。 ジギタリスには興味深い話がたくさんあります。以下、次回に続きます。 【参考文献】 診療寳典 山田豊(著) 明治堂 大正13年(1924年) DIGITALIS DOSAGE CARY EGGLESTON, M.D. Arch Intern Med (Chic). 1915;XVI(1):1-32 「猫単位」をジギタリスの力価判定に使用するように提案した論文です。 ジギタリス葉並びに強心配糖体の毒力検定法に関する実験 猫,鳩,蛙法による成績の比較 戸木田 菊次, 荒蒔 義知 東京大学医学部薬理学教室 日本薬理学雑誌 Vol. 48 (1952) No. 5 P 309-315 Withering, William (1785). An Account of the Foxglove and Some of its Medical Uses: With Practical Remarks on Dropsy and other Diseases. デジタル化されているので下記で読めます。 http://www.gutenberg.org/ebooks/24886?msg=welcome_stranger digitalisがdigitalで読めるというちょっと高級な「だじゃれ」です(後述の「余話1」を参照されたく…笑)。 世界を変えた薬用植物 ノーマン・テイラー(著) 難波恒雄・難波洋子(翻訳) 創元社(1972年):絶版 良い本です。薬用薬物を考える上で必要な基礎知識を得ることが出来ます。再販または再翻訳出版をしてほしいです。 余話1: ジギタリスは英語では「digitalis」と書きますが、その語源はラテン語の「指 (digitus)」です。前出の「写真1」にあるように、ジギタリスの花が指サックに似ていたことから付けられています。いわゆるデジタルも語源は一緒です。カズを指で数えることから、digitalという言葉ができているのですね。 医学用語に「Digital Examination」という言葉があります。略して「ジギタール」ということが多いのですが、これは直腸診のことです。指を肛門から直腸に入れて、直腸を検査する方法です。医師の基本手技の一つです。直腸診をすると直腸の腫瘍、痔疾、前立腺疾患、腹腔内膿瘍などが診断できます。外科医には必須の手技です。 ゴム手袋をして直腸診を行うのが普通ですが、若かりし日にある病院でとても有名な先生(今も外科の教科書に、ある大腸の病気を分類したことで、必ず紹介される有名な先生です。敢えて名を秘します)の「直腸診」を拝見したことがあります。その先生は、ゴム手袋をしないで直腸診をしていました。びっくりしたので、ゴム手袋をしないで直腸診をする理由を聞いたら、「素手で無いと直腸にある出来物が癌なのか良性のポリープなのか区別できない」と言っていました。「素手で直腸診は、私にはできません」と言ったら笑っていました。偉いヒトは違うのでしょう。 余話2: リンネは植物、動物の分類で有名です。 スウェーデンの学者ですが、リンネの分類学を継いでいるのがロンドンリンネ協会です。現天皇陛下は「魚類学への貢献」により同協会の名誉会員になっています。2007年5月29日、同協会で開催されたリンネ誕生300年記念行事において「リンネと日本の分類学 -生誕300年を記念して-」と題した講演をなさっています。 余話3: リンネはそれまで火星のシンボルマーク(戦いの神、マルスのマーク)だった「♂」マークを「雄:オス」のマークとして使っています。 今はそれが普通のことになっています。某サッカーチームのシンボルマークにもなっています。 余話4: ウィザリングが治療した163名患者さんの中には、進化論で有名なダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィン医師(Erasmus Darwin:1731-1802:内科医です)から紹介された患者さんも入っています。エラズマス・ダーウィン医師は、ジギタリスの発見に関して、とんでもないことをしでかしています。 ジギタリスに水腫を治す効力があるのを発見したのは私だ!という論文を書いて、ウィザリング医師の発見を横取りしようと……詳細は次回に。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2018/07/17 「力価:りきか」という言葉をご存じですか? ※猫好きの方は、お読みにならない方が良いです。 普段、お薬には「有効な成分が一定量含まれていること」が当然だと思って、処方しています。例えば「A」というお薬に「血圧を下げる」という効能があるとします。「血圧を下げる」という効能は、「A」というお薬にきちんと「血圧を下げる成分」が入っていないと発揮できません。 化学合成して作るお薬は、製造会社が違っても、あまり効き目が変わらないということになっているのでジェネリック医薬品が認められています※注。 しかし、それでもジェネリックでは効き目が悪いから、元のお薬に変えてくれという方がいらっしゃいます。もしかしたら、同じ薬(ということになっている)のジェネリック医薬品でも製造過程が違うことがあり得るので、製造方法、製造過程により「効き目」が違うのかもしれません。それは本来あってはいけないことです。 ※注:ジェネリック=generic 元は「一般的な、包括的な」という意味を表す形容詞です。 転じて、特許期間の切れたお薬を他社が同一成分の薬を製造販売する際の薬を指す言葉として使われています。 お薬が、厚生労働省の認可を得て製造販売が許可されるためには、 そのお薬が効くか? 効かないか? 同じ効能を持つ他のお薬比べて「効き目」が上回るか? 効くとしたらその投与量はどれくらいか? 副作用が生じるかどうか? 安全性はどうか? などの検査が必要です。当たり前ですが「効かない」と話は始まりません。効き目が良くて、安全性が高い薬が良い薬です。 皆さんは「力価:りきか」という言葉をご存じでしょうか?「力価」はお薬の効力を表します。化学合成したお薬では、成分が同じであれば効き目はあまり変わりません。しかし、生薬は違います。生薬というと、漢方薬が頭に浮かぶ方も多いと思いますが、それだけではありません。生薬とはブリタニカ大辞典によると、 「薬用にする目的をもって植物、鉱物、動物、昆虫、カビ、細菌などの全体あるいは一部、分泌物などをそのまま、あるいは乾燥またはこれに簡単な加工を施したもの。生薬のなかで大部分を占めるのは植物性生薬であり、医薬品の歴史は生薬で始まった。産地、原料の種別、生長度、湿度、光線などにより有効成分が異なる。」 とあります。カビから生まれたペニシリンは生薬です。「生薬」は数多く使われ、病気の治療に役立っています。 生薬の始原は植物です。野に生えている植物をお薬として、つまり「薬草」として使っていたのが、生薬の起源です。ひとつの植物だけで薬効が認められることもありますし、多くの植物を混合して初めて薬効を発揮することもあります。後者の代表が「漢方薬」です。前者の「一つの植物で効く生薬」は分析が進み、効いている成分(物質)がわかり、その物質を化学合成してお薬が作られています。 以前、ご紹介した長井長義先生が「麻黄という植物」から「エフェドリン」を抽出したのがその代表例です。エフェドリンのように成分がはっきりとして、化学合成もできる場合は効力に差はありません。 しかし、効果を発揮する物質が不明で植物をそのまま使う「植物性生薬」は産地により有効成分が変わります。つまり効き目が違います。同じ植物でも有効成分の入り具合が違うのですね。同じ種類のブドウから作られるワインの出来が産地で違うようなものです。 今回から数回、この「有効成分が変わる」部分にまつわる、とても興味深く、しかも大事なお話をしてみたいと思います。 「猫単位」を元にお薬を投与 こんなエピソードから始めたいと思います。 多くの医師、研究者は色々な学会に所属しています。学会で、自分の研究を発表したり、ほかの研究者の発表を聞いたりして勉強します。遠隔地の学会に参加する時は、折角行くのだから、勉強だけではなくて+αで「何か」をしようと企みます(笑)。ここで色々な個性がでます。 企みetc. 学会会場周囲の観光地などの小旅行をする 水族館、動物園に行く 美味しいモノを食べに行く 美味しいお酒を求めに行く 美術館巡りをする 博物館巡りをする 釣りをしに行く 蝶々を採取する さまざまです。 「お前はどうだ?」と言われれば、1.5.6.+学会開催地の「古本屋」巡りをします。その地方独特の「本」を見つけることができるかもしれないからです。 最近はインターネットでの古書売買が普通になったことや新古書店が全国各地にできたためか、面白い本が見つかることが少なくなりました。しかし、古い大学、学校がある街では、時にとても面白い本に出会うことがあります。 今回紹介する本も、そういう旅(学会+α)で見つけた本の中の一冊です。この本で「植物性生薬の有効成分が変わること」を学びました。この本を読むまでは、そんなことは考えたことがありませんでした。新潟で1992年胸部学会があった時に学会場のすぐそばにあった古本屋で買った本です。 その本の名を【診療寳典(しんりょうほうてん)】と言います。 寳は宝の旧字体です。新字体なら「診療宝典」でしょう。古い本です。大正13年(1924年)に出版されています。100年近く前の本です。宝典は「貴重な書物、大切な本、日常用いて便利な内容の本」という意味ですね。現在なら、「今日の治療指針」と「今日の診断指針」(どちらも医学書院刊)を併せたような本です。大阪の開業医だった山田豊先生が、開業して15年、その間に勉強したことをまとめた本です。 写真1:診療寳典 表紙 写真2:値段 写真3:診療寳典の著者、出版社 次に目次をお示しします(写真4.5)。目次は「いろはにほへと順」になっています。「いろは順」に慣れていないと、とても解りづらいですね。 写真4:診療寳典 目次1 写真5:診療寳典 目次2 目次の一部の紹介です。 最初の項目が「陰萎(=ED)の原因と治療」です。ここだけでも、参考になりそうです(笑)。今も陰萎の治療に使われる「ヨヒンビン」が紹介されています。インスリンの製造方法も面白いです。この本が刊行された1924年当時の日本でどうやってインスリンを作っていたか?興味がわきませんか? ちなみに、インスリンの発見は1922年にかけてです。1923年、インスリンの発見に対してノーベル賞が、フレデリック・バンティングとジョン・ジェームズ・リチャード・マクラウドの二人に授与されています。このインスリン製造方法がすでに1924年の日本で読むことができたのです。実際に作れたかどうかは不明です。 このように目次を見るだけでも楽しめます。新潟からの帰り道に楽しみました。この本は現在、国立国会図書館のデジタルライブラリーに収載されていて誰でも読めます(参考文献1)。この本の価値に気づいたどなたかが、デジタル化して残そうと考えたのだと思います。 さて、その本の中に凄い?項目がありました。私が生薬の有効成分や、お薬の力価などについて考えさせられた項目です。 写真6:診療寳典 ヂギタリスの項 旧字体ですので、読みづらいですね。 項目名は「心臓弁膜症代償機失調患者にヂギタリス製剤の用法」とあります。要するに心臓弁膜症患者さんが心不全に陥った時の「ヂギタリス(=ジギタリス)」の投与法が書いてあります。ジギタリスは強心利尿薬で、今でも普通に使われている薬です。 この項をわかりやすく翻案してみます。 “心臓弁膜症患者さんが心不全に陥った時には注射用のジギタリスは用いない。ジギタリスの粉末を経口投与して治療する。さまざまな投与法があるが、私(山田)が推奨する方法は「エグルストン氏法」である(参考文献2)。エグルストン氏法とは、すなわち、「一猫単位(!)」を用いてジギタリスの投与量を決定する方法である。一猫単位とは「体重1キログラム (瓩)の猫に、ジギタリスを注射し致死量を測定し、ミリグラム (瓱)に換算した値」である。エグルストン氏はこの一猫単位に0.0157とポンド(封度)換算した体重とをかけた値を100で割り、その量を1回の連用の極量として用いる” ~以下略~ つまり、 ジギタリスの投与量の目安=(一猫単位×0.0157×ポンド換算した患者さんの体重)/100 として、ジギタリス粉末の投与量を決めていたのですね。 猫単位の件(くだり)を読んで、思わず笑ってしまいました。要するに、猫さんには誠に申し訳ないのですが、ジギタリス粉末を溶かした液を猫に注射して、その致死量から「一猫単位」を求め、その「猫単位」を元にお薬を投与しているのですね。 なんでこんなに面倒くさいことをするのでしょうか?猫がかわいそうではないか?という声が聞こえてきそうです。でも必要だったのです。 ジギタリスというお薬は、今は化学合成されていますが、一昔前まで「ジギタリスという名前の植物の葉っぱ」から作られていました。その「葉っぱ」の持つお薬としての効力は、産地、日当たり具合、採集時刻、乾燥方法などで違うのです。まったく効力がない葉っぱもあれば、効力が極めて強い葉っぱがあったのです。それはワインの出来が畑により、あるいは日当たりにより、降水量、気温、湿度などにより、違ってしまうのと同じようなことでしょう。 ワインなら、美味い不味いで、済むのですが、ジギタリスは量が多すぎると中毒を生じ、死亡してしまうこともあり得ます。逆に量が少ないと効きません。今は化学合成したジギタリスが使えますが、当時は葉っぱから作られていて、産地によりかなり効き目に違いがあったのです。 参考文献3には、某薬品会社が農家に依頼して栽培していたジギタリスの葉っぱを、その農家の方が間違って大量に食べてしまったけれど、何とも無かった(=つまりジギタリスに有効成分がほとんど含まれていなかった)逸話が紹介されています。それくらいジギタリスには「差」があるのですね。 ジギタリスの葉っぱの効力には、産地や収穫時期などさまざまな要因で、差があったのを、「猫単位」なる概念を案出して薬の効力を標準化しようとしたのですね。診療宝典に載っているくらいですから、日本でもこの方法がある程度は広まっていたのだと思います。 ジギタリスの葉っぱに含まれているさまざまな物質のうち、心不全治療に有効な成分(ジギトキシン)が同定されるまで(1962年)、葉っぱの効力測定には、猫単位のほかにもさまざまな方法が考案されています(次回ご紹介します)。 いずれにせよ、100年以上も前に患者さんに良質な医療を提供するために一生懸命お薬の効力を測定しようとした真面目な人々がいたことに畏怖の念を覚えます。 「猫単位」を思い出す度に、測定のために失われた多くの猫さんの命や、自分が今使っている「安全で安定した量が入っているジギタリス」が作られるまでの長い歴史に思い巡らせていると、柄にも無く少し、しんみりとします。 なお、ジギタリスの葉っぱを用いて作った製剤は「ジギタリス葉末」「ジギタリス末」と呼称され、2001年の第14版日本薬局方まで収載されていました。 次回に続きます。 写真7:ジギタリス開花前の全景 写真8:ジギタリスの花1 写真9:ジギタリスの葉 ジギリタスの葉っぱ、これを乾燥させてお薬とします 写真10:ヂギタリス葉末:トンボ商会 昭和20年以前(内藤記念くすり博物館) ※この写真は同博物館のホームページにあり、同協会、同博物館の許可を得て掲載しています。 【参考文献】 診療寳典 山田(著) 明治堂大正13年(1924年) 国立国会図書館のデジタルライブラリーで読めます。お時間があるときに是非。面白いですよ。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935277 DIGITALIS DOSAGE CARY EGGLESTON, M.D. Arch Intern Med (Chic). 1915;XVI(1):1-32 「エグルストン」が考案した「猫単位」の論文です。お読みになりたい方は連絡ください。電子媒体で供覧できるようにしてあります。 『傷寒論』を講義してみた 桜井謙介(著)(2015年) 元シオノギ製薬で生薬を研究していた方が、生薬とは何かについて書いています。名著ですが、入手は困難(私家版)です。ご興味がある方にはお貸しいたします。 世界を変えた薬用植物 ノーマン・テイラー(著), 難波恒雄 難波洋子(翻訳) 創元社(1972年) 良い本です。薬物を考える上で必要な基礎知識を得ることができます。再販または再翻訳出版をしてほしいです。 まったく関係無い余話: ある本屋さんで本を買うために並んでいたら、私の前に並んでいたのが、タレントというかマラソンランナーやオリンピアンとしても有名な「猫ひろし」さんでした。 レジのお姉さんに「ニャー」と言って笑いをとっていました。カンボジアに行く前のことですから、随分昔のことです。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/07/02 研究者の専門領域さえ変え、世界的ベストセラーを生み出した源泉は、「失恋」「怨念」「執念」? 前回は、今から100年以上前に、日本人植物学者 藤井健次郎と結婚するために来日、しかし藤井にはふられてしまい結婚できなかった英国人女性植物学者 マリー・ストープスがその仕返しとして「Love-letters of a Japanese / edited by G.N. Mortlake」(1911年)という藤井との往復ラブレター集を「偽名」で出版したことを紹介しました。 植物学者、化石学者であったストープスがなぜ、後に「Married Love or Love in Marriage」(1918年)という本を書き、「結婚、性生活、避妊、生殖」を専門とする活動家になったのかの理由の第一は「この成就しなかった恋愛」にあったと思います。マリー・ストープスが藤井健次郎と結婚していたら、世界的ベストセラーとなった「Married Love or Love in Marriage」も書かれなかったでしょう。歴史に“if”は禁物ですが、色々と考えさせられます。 マリー・ストープスが「結婚、性生活、避妊、生殖」の専門家になった理由ですが、ほかにも2つあると思います。 2番目の理由は「銀杏の精子を東京で見て生殖に関する不思議を感じた」からだと思っています。彼女が1910年に出版した「A Journal from Japan」での同書にそれに関する記述があります。 図1:A Journal from Japan:1907/09/17(国会図書館蔵) 図1は彼女が書いた「A Journal from Japan(日本日記)」の1907年9月17日の記載です。1907年9月17日の記載に銀杏の精子がゾウリムシのように動いていることを書いています。9月17日の部分だけ以下に翻訳してみます(注:逐語訳ではないです)。 「いよいよ銀杏の精子が泳ぎ出す。私は、銀杏の精子がゾウリムシと同じように繊毛を動かして動くのをみて、研究室で幸せな数時間を過ごした。それにしても、瑞々しい銀杏の種子を切ってみるのは、なんて楽しいの!」 そしてその一年後、次のような記述が残っています。 図2:A Journal from Japan:1908/09/09 この図2は、1908年9月9日に記されています。銀杏の精子が運動していることを生き生きと書いているのです。図1同様に翻訳してみます。 「朝早く、研究所に行くと銀杏の周りに興奮した人々がいた。丁度、銀杏の精子が動き始めたところだった。銀杏の精子は1年の内で1日か2日しか泳がない。だから精子の動く瞬間を捉えるのは容易ではない。一番良いタイミングでも、100個の銀杏を見てもたったの5個しか精子が入っていないこともある。一個しか見つからなくても感謝しなくてはいけないくらい大変なことなの。一日中、研究室で観察して、3個しか見つからないこともある。未熟な花粉管の中ではいくつか見ることができる。けれど、何よりの楽しみは精子が泳いでいるのを見ることで、繊毛が力強く動いているのを見るのは楽しい。」 要するに、前々回で紹介したように東京帝国大学の画工だった平瀬作五郎が1896年9月9日に「イチョウの精子」を発見、その論文はあっという間に世界中に広まり、世界中の植物学者を驚かしていたのです。その一人がマリー・ストープスだったのです。世界で初めて「精子」が観察されたまさにその「東京帝国大学の銀杏」で「精子」を見られるのですからマリー・ストープスが興奮するのもわかります。銀杏の生殖を見て、「生殖」について考えるところがあったのでしょう。それが、後年の「結婚愛」に結びついたと思います。それが、マリー・ストープスが「生殖」の専門家になった理由の2番目だと思っています。 第3の理由は、「ストープスの最初の結婚の失敗に起因」すると思います。 前述のごとく、1911年にマリー・ストープスはゲイツさんと最初の結婚をします。しかし二人の間には子供ができませんでした。妊娠しないことを不審(?)に思ったマリー・ストープスは「大英博物館」に数ヵ月通って、本格的に人間の生殖、妊娠について研究し、夫が「性的不能」であると結論づけます。そして、彼女は1914年にそれを理由に離婚訴訟をおこします。ゲイツさんは、結婚して直ぐに前恋人とのラブレター集を出版した本を読んで、それが原因で「性的不能」になっていたのではないでしょうか? ゲイツさんは、後に別人と再婚して、子供にも恵まれているので「性的不能」は一時的なモノだったのでしょう。 ストープスはゲイツとの離婚後の1918年に実業家で航空機製造業者のHumphrey Verdon Roe(ハンフリー・ヴァードン・ロー)と再婚します。 新しいご主人はストープスが「Married Love or1 Love in Marriage」を出版する際、経済的に援助しました。そして再婚の年に同書を出版、たちまち世界的ベストセラーになります。その後ストープスは「結婚、性生活、避妊、生殖の専門家」として世界的に大活躍したのです。 「藤井健次郎との恋」と「東京帝国大学での精子の発見」がマリー・ストープスを東京に呼び寄せ、そこから世紀を代表する著作が生まれたとも言えます。そう思うと、マリー・ストープスが少し身近に思えます。 余談: 下図はマリー・ストープスを「ふった」藤井健次郎が発見した、銀杏の葉っぱに直接銀杏の実がなる「オハツキイチョウ」の写真です。イチョウの葉に実が付いている変わったイチョウです。世界的にもとても珍しい植物です。山梨県の身延町にあります。 図3:オハツキイチョウ 【注と参考文献】 マリー・ストープスの日本滞在記には細菌学者ロベルト・コッホ(1843-1910)と会ったことも書かれています。 「細菌学で世界的に有名なコッホが東京の私たちの施設に来た。藤井教授は、病気治療のために山に籠もっていたはずなのに、この時だけは山から下りてきた。コッホは太って愛嬌があった。だけどあんまり知的には見えなかった。私の顕微鏡にセットしてあった植物化石の代わりに銀杏の精子を見せた。植物化石にも興味を持っていた。日本人の記者はコッホの一挙手一投足を書いている。もしコッホが富士山の頂上に登ったら、頂上まで電話を持って行って記事を書いてやるぞ!そう思うくらいの執念で記事を書いている。」 Marie Stopes Collection [Marie Stopes:1880-1958] というマリー・ストープスに関するコレクションが何故か日本で売りに出されています。マリー・ストープス研究者の遺品なのでしょうか? 生殖の政治学 荻野美穂(著) 山川出版 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/06/18 100年前の恋愛暴露本 前回、「Married Love or Love in Marriage」(1918年刊)という本を書いて世界的人気作家となったマリー・ストープス(Marie Carmichael Stopes:1880-1958)のことを紹介しました。この本は結婚における「性教育」の本です。著者のマリー・ストープスは植物化石の研究者でした。「結婚」「愛」「家族計画」「性」などの研究をしていたわけではありません。化石を研究していた学者が、なぜ急に過激な性的表現もある本を書くようになったか謎でした。前回もお伝えしましたが、マリー・ストープスは日本に留学していたことがあります。留学先は東京帝国大学農学部です。そこに、この謎を解く鍵が二つあったと思います。 ここで簡単にマリー・ストープスの経歴を紹介しましょう。 1880年に英国エジンバラで生まれ、ロンドンで育ち、University College London に進学し植物学と地質学、地理学の学位を得ています。同大学出身者にはダーウィン、ガンジー、ネルソン・マンデラ、伊藤博文などがいます。ノーベル賞受賞者も29名います。そういう一流の大学で学び、植物の化石研究で有名になりドイツのミュンヘンにある「植物学研究所」に留学、1904年自然科学の博士号を取得します。 このミュンヘンの植物学研究所で日本から留学していた植物学者の「藤井健次郎」に出会います。この出会いが彼女の生涯に影響を及ぼすことになります。マリー・ストープスと藤井は1903年にミュンヘンで出会い、恋に落ちたのです。当時ストープス23歳、藤井37歳です。 1905年、二人は密かに婚約します。婚約をした二人ですが、一旦、お互いの母国に帰国をします。 1907年、マリー・ストープスは英国王立協会から助成金を得て「日本国北海道での化石研究」を目的に来日しています。彼女は単身で日本に来て、東京帝国大学農学部に籍を置き「北海道での白亜紀の被子植物探索調査」を行います。今から100年以上前の北海道で白亜紀の植物化石を採集し研究したのです。当時、若い英国人女性が北海道に赴いて化石の調査をするのはとても大変なことだったと思います。彼女にはかなりの護衛が付いたと記録されています。 北海道だけでなく日本各地も旅行してその紀行文を「A Journal from Japan:日本滞在記」(1910年刊:参考文献1)としてまとめています。また日本文化とりわけ「能」に魅せられ、「Plays of Old Japan: The‘No’」(1913年刊:参考文献2)を出版、「能」を世界で初めて英語で紹介しています。 本業もきちんとこなしています。北海道での植物化石研究を110頁に亘る報告書にまとめています。これは藤井との共著です(参考文献3)。 100年も前に勇敢にも一人で日本に留学し、きちんと科学研究を行いつつ、日本各地を旅行してその見聞を旅行記に書き、「能」という少し特殊な日本文化に関する本まで著すという多芸、多能、異能の女性でした。 しかし、彼女の来日の「真の目的」は植物化石の研究では無く藤井との結婚にあったのです。英国王立協会が「彼女の来日の真の目的」を知ったら驚き呆れたと思います。結婚を約した二人ですが、彼女の来日前から藤井の態度は一変し結婚は成就しませんでした。傷心のマリー・ストープスは1908年に離日しました。ここから、少し怖い話になります。この二人の恋の顛末は、後年、世界中に知れ渡ったのです。マリー・ストープスは藤井健次郎を、決して、許さなかったのです。 その証拠ともいうべき本を紹介しましょう。 写真1:「マリー・ストープスが書いた」ラブレター集国会図書館蔵(参考文献4) 題名が「Love-letters of a Japanese」です。著者は Kenrio Watanabe、編集は G.N.Mortlake とあります。1911年刊行、ロンドンで出版された本です。350頁もある大部の本です。英文タイトルの下に「一日本人の艶書(えんしょ)」と日本語で縦書きで書いてあります。この本は国会図書館に行けば見ることができます。 この本の序文に、この本の内容が書かれています。本書は、 「日本人の Mr.Kenrio Watanabeと英国人 のMs.Mertyl Meredithとの間で交わされたラブレター集」であること 日本からの芸術文化の研究のためにウィーンに留学していた日本人のMr.Watanabeと同じく芸術文化研究のためにウィーンに滞在していた英国人女性Ms.Meredithとが同地で出会い、多数のラブレターを交わす関係になったこと。その二人でやりとりしたラブレターが本書に載っていること 二人が出会った当時Mr.Watanabeは既婚者だったが日本帰国後に離婚し、二人は日本で結婚する予定だったこと Ms.Meredithは、ロンドンから日本に留学したが、 Mr.Watanabeに冷たくされて、結婚できなかったこと などが書かれているとあります。 Mr.Watanabeは、 「自分は感染性のある病気に罹っているから結婚は無理だ」 「欧州人と日本人では “LOVE” に対する違いがあるからから諦めて欲しい」 と言ったと書かれています。本書を読んでいると 英国人女性のMs. Meredith が日本に来ると決まった時点で、Mr.Watanabeは、びっくりして戸惑っている様子がラブレターの内容から読み取れます。 「あれっ?」と思いませんか。誰かと境遇が似ていると思いませんか?実は、この本の「真の著者」はマリー・ストープスだったのです。Mr.Kenrio Watanabe が書いて G.N. Mortlake が編集したと書いてありますがどちらも偽名です。本名でこんな本を書けば、ストープスが「日本に行った本当の目的」が母国の人間に解ってしまいますからデタラメな名前をでっち上げてこの本を出版したのです。ラブレターの日付は書いてありますが、何年に書かれたかは記載がありません。巧妙にカムフラージュしています。なお、このラブレター集の中でMs.Meredith は、 “ロンドンで日本人の Baron Tに会い、日本に行くことを話した。Baron T はとても親切だった” と書いています。 もしかしたら、このT男爵は東京慈恵会医科大学の創始者の高木兼先生かもしれません。マリー・ストープスが日本に来る前年の1906年、高木男爵はロンドンで「脚気の治療」に関する講演をしていますので彼女が高木男爵に会って訪日の相談をした可能性があります。 マリー・ストープスは今から100年以上も前にかなりの危険を冒して日本に来るほど、そして婚約者に振られたら振られた相手との350頁もある「ラブレター集」を書き、しかも当てつけのように表紙に「一日本人の艶書」などとわざわざ日本語で書いて恋の顛末を露わにするほど、非常に情熱的でエネルギッシュだったのだと私は思います。 そのラブレター集ですが内容にはやや疑問があります。藤井から来た手紙は保存してあったとは思いますが、ストープス自身が書いて藤井に出した手紙は控えを取っておいたのでしょうか? E-mailのように出した文章が保存される時代とは違います。もし控えを保存しつつ、ラブレターを出していたならそれはそれで怖いですね。 今でも破局した恋の相手とのラブレター集を勝手に出版されたら困るでしょう。1911年にロンドンで出版されたこの本を謹呈されたであろう「Mr.Kenrio Watanabe = 藤井健次郎氏」は腰を抜かすほどびっくりしたと思います(笑)。 この本が刊行された1911年、ストープスはカナダ人の植物学者 レジノルド・ラグルズ・ゲイツ(Reginald Ruggles Gates)と結婚しているので、恋愛のケリ、気持ちの整理をこの本でつけたかったのかもしれません。可哀想なのは、ストーブスの結婚相手のゲイツさんです。ゲイツさんは結婚してほどなく、奥さんと元カレとの交際を綴った本の出版を知らされます。マリー・ストープスはこの本はフィクションだという説明をした(結果的に嘘)らしいのですが、ゲイツさんはかなりショックだったと書き残しています(参考文献5、なおマリー・ストープスは1958年に死去しています)。 このショックが響いたのかもしれません。結婚して3年後、ゲイツさんはストープスから「性的不能により子供ができないこと」を理由に離婚を申し立てられます。なんだか、ゲイツさんはとてもかわいそうですね。 今はインターネット上でこの「Love-letters of a Japanese」を誰でも読むことができます(文献4参照)。ラブレターの内容は濃くしかも過激です。他人が読むことを念頭に置いていませんので、文章は自由奔放です。気恥ずかしくなるくらいのやりとりです。しかし、他人から見ると実に面白いやりとりです。交際を始めた始めた当初、「Mr.Kenrio Watanabe = 藤井健次郎」は情熱的な恋文を「Ms.Meredith = マリー・ストープス」宛にたくさん書いています。長文です。しかし!「Ms.Meredith」が本当に日本に来ることが決まったとたん「Watanabe」さんは「絵はがき」に申し訳程度の小文を書き添えたような手紙しか出さなくなります。 Ms.Meredith が日本に来るのを好まないような文書も書いています。Ms.Meredith は失望したでしょうね。 以上、マリー・ストープスの「恋」に関する物語です。植物化石学者だったマリー・ストープスが後年、「性」に関する本を書いてそれに関する啓蒙をするようになった原因の一端は「藤井健次郎との恋」にあったのだと思います。それだけではなく、加えて東京で出会ったもう一つの出来事が後の彼女の行動を強く後押ししたと思っています。それは、銀杏に関係する出来事です。 今回は銀杏の話から随分とそれてしまいました。ご紹介したいストープスの話があまりにも興味深く、銀杏と彼女の関係まで辿り着きませんでした。 次回で日本の銀杏とマリー・ストープスとの関係をご紹介しましょう。 【参考文献】 A Journal from Japan(1910)Marie Carmichael Stopes デジタルライブラリーです。 Plays of Old Japan: The‘No’(1913)Marie Carmichael Stopes, Joji Sakurai この本は、ストープスがイギリスに帰国後に著した「能」についての本です。日本に留学していた時、東京帝国理科大学の学長だった櫻井錠二博士に「能」を紹介されて「能」舞台を見るようになり、高じて「能」についての本まで書いてしまったのです。余程「能」が気に入ったのでしょう。本書はその櫻井錠二博士との共著です。西洋世界へ「能」を紹介した最初の本です。ストープスと櫻井錠二はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの同窓生です。櫻井錠二博士は化学者ですが、日本文化にも造詣が深かったのでしょう。この本には、Kindle版があり99円で読むことができます。本書の原本をインターネット上で読むこともできます。良い時代です。 Studies on the Structure and Affinities of Cretaceous Plants.(1909)Marie C. Stopes and K. Fujii 110頁に亘る報告書を二人で書いています。 これもデジタル化されているので読めます。写真付きで詳細な解説です。 Love-letters of a Japanese / edited by G.N. Mortlake(1911) ストープスが“書いた”藤井健次郎との往復艶書集です。他人の艶書(ラブレター)を読む機会はほとんど無いと思います。お時間があるとき、是非、お読みください。思わず顔が赤らんでしまうくらい過激です。 (1) Draft (dated May 27.1962) of essay written by Reginald Ruggles Gates in response to the biography of Marie Stopes by Keith Briant. 東京ウィメンズクラブという婦人団体もストープスが作っています。今も続いています。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/06/04 数多ある「花の咲く」植物のうち、イチョウとソテツは… 前回から引き続き、銀杏に関する話題を続けます。最初に中学校の理科のお復習いです。 植物は、 花が咲かない植物(シダ類、コケ類、藻類など) 花が咲く植物(種子植物) に分かれます。2.の種子植物はさらに、 2-a:裸子植物(らししょくぶつ:マツ、スギ、イチョウ、ソテツなど) 2-b:被子植物(ひししょくぶつ:桜、タンポポ、ツユクサなど) に分かれます。裸子植物と被子植物の違いは胚珠(はいしゅ:種子になる部分)が子房(しぼう:後に果実になる部分)に覆われているかどうかの違いです。難しいですね。 さて、ここからが本題です。 植物の進化をたどると花が咲かない植物(シダ、コケ、藻など)が一番古い植物で、次に裸子植物、一番新しいのが被子植物です。生殖方法は進化とともに変化しています。 コケ類、シダ類、藻類などの原始的植物は精子を放出し、雨水などで精子を泳がせて受精します。「えっ?精子?」と思われるでしょう。花が咲かない植物には雄株(おかぶ)と雌株(めかぶ)があり、雨が降ると雨水が雄株にかかり精子を放出させます。そして精子を多数含んだ雨水は地面を流れて卵子を持つ雌株にたどり着き、運の良い精子が卵子と出会って受精します。この辺りは動物と一緒です。 一方、花の咲く裸子植物、被子植物は「雄しべ」から「雌しべ」へ花粉が届くことで受精します。例外が2例あります。数多ある「花の咲く」植物のうち、イチョウとソテツにだけ精子が見つかっています。植物学上の大発見です。二つとも日本で発見されています。今から100年も前のことです。イチョウの精子は東京小石川植物園のイチョウで発見され(図1)、ソテツの精子は鹿児島県立植物園にあるソテツで発見されたのです。 図1:東京小石川の植物園にある精子が見つかった銀杏 イチョウの精子は元々、東京帝国大学理科大学に画工(植物専門の絵描き)として雇われていた平瀬作五郎が発見したのです。平瀬は作図法の教科書を書いています(図2)。かなり科学的な「絵」が上手だったのだと思います。 図2:平瀬の書いた作図法の教科書 その平瀬が1896年9月9日、銀杏に精子を発見したのです。 銀杏には雄木(おぎ)と雌木(めぎ)があります。ちなみにギンナンの実が生るのは雌木です。銀杏の雄木から花粉が飛ぶのが4月です。花粉は雌木の種子に到達します。種子内に到達した花粉は5ヵ月をかけて花粉管を伸ばします。その花粉管から精子が放出され、精子は自身で繊毛を動かし、自分で泳いで卵細胞に到達し受精します。この過程を平瀬は目撃したのです。 ソテツにも同様な精子があることを発見したのが、平瀬の上司だった池野成一郎です。池野は当時、東京帝国大学理科大学助教授でした。文末に挙げた参考文献1-6は、その平瀬、池野が発表した論文です。文献3はドイツの「植物学中央雑誌」に掲載されています。文献4は、フランス語で東京帝国大学理学部紀要に掲載されています。 平瀬は「銀杏の精子発見」を最初は日本語で後にはドイツ語とフランス語で論文を書いて発表しているのですね。凄いです。画工として働きながら、どのようにしてフランス語やドイツ語を、それも論文が書けるレベルまで勉強したのでしょうか?我が身を省みると言葉もありません。池野もドイツ語で論文を書いています(文献5)。池野、平瀬はさらに英国のAnnals of Botanyにも論文を書いています(文献6)。当たり前ですが、この論文は英語です。 一体、このコンビは何でこんなに超人的なことができたのでしょうか? 今でも、フランス語、ドイツ語、英語で論文を書くのは簡単ではありません。それぞれ単独でも難しいのに、三ヵ国語で書く…… それを100年以上も前に行っていたのですから凄いですね。論文を書くにあたって、彼らに言語指導をした方(外国人?)がいらっしゃったのでしょうか? 西欧言語で書いた論文(これが大事です。日本語で書かれた論文では世界には伝わりません)を発表したことにより「イチョウとソテツに精子が存在すること」が、世界中に瞬く間に伝わったのです。 平瀬はこの大発見を成した後、東京帝国大学を辞して彦根中学校(現・滋賀県立彦根東高校)に移り研究も止めています(その辺りの経緯は文献8に詳しいです)。研究は止めていますが後に「銀杏の精子発見の業績」に対して学士院恩賜賞を受賞しています。東京帝国大学教授になっていた池野成一郎との共同受賞です。1912年のことです。平瀬は大学には進学していませんでしたし、学位も持っていませんでした。そのため、当初受賞は池野教授一人に予定されていたそうです。しかし池野教授が「平瀬が受賞しないなら、私もいらない」と言ったため、平瀬、池野の同時受賞となっています。良い話ですね。文献6-10には平瀬作五郎の生涯、銀杏の精子発見の世界的意義について書かれた文献や、銀杏精子の動画などを挙げています。是非、ご参照ください。 さて、ここで銀杏とは関係無さそうな女性を紹介します。 この女性はイギリスでは知らぬ人はいないくらいの有名人です。名前をMarie Charlotte Carmichael Stopes(1880-1958)と言います。以下、Marie Stopes(マリー・ストープス)と略します。 マリー・ストープスは、1999年に英国ガーディアン紙が行った読者投票 「The Guardian's Woman of the Millennium:ガーディアン紙が選ぶ1000年を代表する女性」において、第一位になっています。彼女が著した本は、ニュートン、シェイクスピア、ダーウィンが著した本に混じって「世界を変えた12冊の本(参考文献12)」に選ばれています。英国ではよく知られている女性です。 マリー・ストープスがなぜ、今もイギリスだけでは無く、世界中に影響を与えているかを簡単に紹介しましょう。彼女が書いた「世界を変えた書物」の題名を示します。 「Married Love or Love in Marriage」(1918年刊)です。ちょうど、100年前に出版されていますね。日本語に訳するなら「結婚愛または結婚における愛」となるでしょう(この本は参考文献11で、Digital libraryにあり誰でも読めます)。 結婚と結婚における愛の話などありふれていると思われる方もいるでしょう。しかし、この本の内容は単純な「愛」の話ではありません。今でも読めば、「これはちょっと」というような話が載っています。下の図3、4のChart1、Chart2は同書内に載っている図です。 図3:ChartⅠ:Curve showing the Periodicity of Recurrence of natural desire in healthy women. Various causes make slight irregularities in the position, size, and duration of the "wave-crests," but the general rhythmic sequence is apparent. 図4:CHART II :Curve showing the depressing effects on the "wave-crests" of fatigue and overwork. Crest a represented only by a feeble and transient up-welling. Shortly before and during the time of the crest a Alpine air restored the vitality of the subject. The increased vitality is shown by the height and number of the apices of this wave-crest. この図を見て「あぁ、これは!?」と思いませんか? そうです。この本は結婚後の性教育の本だったのです。この本は発売後たちまちベストセラーとなります。1924年、日本でも翻訳され、「結婚愛:矢口達:訳」という題で刊行されたのですが、直ちに発禁となってしまいました。後に伏せ字を多用してようやく出版が許可されます。内容は過激ですが、扇情的な記述では無く、科学者として真面目に「性に関する考察」を書いています。それでも結婚後の女性の性生活を扱っているので出版当時はかなり刺激的でした。 このマリー・ストープスですが、日本と少なからぬ関係があります。彼女は前述の平瀬作五郎が銀杏に精子を発見した数年後に化石研究のために来日しています。東京帝国大学に留学したのです。日本から欧米の大学への留学は当時、数多く行われていましたが、その逆は珍しいでしょう。女性の留学も珍しい時代です。英国人女性初の日本への「留学」かもしれません。 私は、化石研究をしていた女性科学者マリー・ストープスが後に世界を驚かすような過激な本を書くに至った遠因は、日本で経験した出来事にあると思っています。それには日本の「銀杏」も関係すると考えています。本邦初の考察?です。次回、その考察を紹介しようと思います。 マリー・ストープスは、東京で細菌学で有名なコッホにも会って会話を交わしています。そのあたりも次回ご紹介しようと思います。 【参考文献】 平瀬作五郎「銀杏/受胎期について」植物学雑誌1894年 平瀬作五郎「銀杏の精虫」植物学雑誌1896年10月20日号 注:予稿はフランス語! Hirase S Untersuchungen über das Verhalten des Pollens von Ginkgo biloba, in Bot. Centraiblatt. LXIX (1897年), 33-35. ドイツ中央植物学雑誌に載せています。当然ドイツ語で書かれています。 Hirase S:Etudes sur la fécondation et l´embryogénie du Ginkgo biloba (second mémoire). J. Coll. Sei. imp. Univ. Tokyo 12: 103-149. 1898年 注:東京帝国大学紀要に載せていますが、なんとフランス語! IKENO, S.: Vorläufige Mittheilung über die Spermatozoiden bei Cycas revolta: Bot. Centralbl., lxix, 1897年, p. I . ドイツの植物学雑誌に載せています。当然、ドイツ語! IKENO, S., and HIRASE, S., Spermatozoids in gymnosperms. Annals of Botany11:344, 345. 1897年. 池野成一郎と平瀬作五郎の両名でイギリスの雑誌に載せています。当たり前ですが英語です。 HISTORY OF DISCOVERY OF SPERMATOZOIDS IN GINKGO BILOBA AND CYCAS REVOLUTA Y. OGURA 1967年 イチョウ精子発見の歴史及びその意義について解説した論文です。 イチョウ精子発見者平瀬作五郎:その業績と周辺 法政大学生命科学部教授・東京大学名誉教授 長田敏行(公益社団法人 日本植物学会) 平瀬作五郎のこと、銀杏の精子発見のことなどが詳述されています。興味がある方は必読です。 「種子の中の海 イチョウの精子と植物の生殖進化」東京シネマ新社 必見です。イチョウの種子内で精子が泳ぐ姿が鮮明に撮影されています。 コケ植物の精子についての動画(NHK) MARRIED LOVE OR LOVE IN MARRIAGE:BY MARIE CARMICHAEL STOPES, Ph.D デジタルライブラリーに所蔵され、誰でも読むことができます。 12 Books That Changed The World: by Melvyn Bragg. Sceptre (2007年刊) この本で紹介されている「世界を変えた12冊の本」を紹介します。 Principia Mathematica(1687)- Isaac Newton Married Love(1918)- Marie Stopes Magna Carta(1215) Book of Rules of Association Football (1863) On the Origin of Species (1859) - Charles Darwin On the Abolition of the Slave Trade (1789) - William Wilberforce in Parliament, immediately printed in several versions A Vindication of the Rights of Woman (1792) - Mary Wollstonecraft Experimental Researches in Electricity (three volumes, 1839, 1844, 1855) by Michael Faraday Patent Specification for Arkwright's Spinning Machine (1769) - Richard Arkwright The King James Bible (1611) - William Tyndale and 54 scholars appointed by the king An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations (1776) - Adam Smith The First Folio (1623) - William Shakespeare 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/05/21 銀杏に青葉が繁る季節になりました。春と秋では随分と葉の様相が違いますね。 写真1:春の銀杏 春の銀杏はいかにも太古の植物という感じがします。木や幹全体にびっしりと葉が生い茂っています。 写真2:秋の銀杏 今回と次回で「銀杏」にまつわる話を紹介しようと思います。今回は命名秘話?、次回は「銀杏と家族計画との関係」をお伝えします。銀杏にはさまざまな「物語」が山のようにあり、興味が尽きません。 絶滅したと思われていた銀杏が「長崎」の地に さて、今回は銀杏にまつわる「世紀の誤記?」についてです。皆さんは「銀杏」という漢字をどのように読むでしょうか?「イチョウ」「ギンナン」が普通の読み方でしょう。「ギンキョウ」とも読めます。しかし、学名は聞いたことも無いような名前です。 ヨーロッパでは銀杏の化石は2億年前の地層に見つかります(=2億年前のヨーロッパでは普通に見られた植物であることがわかります)。しかし、700万年前以降の地層には銀杏の化石は見つからなくなっていました。そのため「銀杏は絶滅した」と思われていました。その「絶滅」した銀杏の木を今は世界中で見ることができます。それゆえに銀杏は「植物のシーラカンス」とも呼ばれています。 銀杏が世界中で植栽できるようになったきっかけは長崎の銀杏にあります。1690年、医師でもあり博物学者でもあったドイツ人のエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)が長崎オランダ商館の出島付き医師として来日、2年間滞在、滞日中植物についてもさまざまなことを調べています。この時の長崎滞在でヨーロッパでは絶滅したと考えられていた「銀杏」が長崎の地で普通に繁殖しているのに気づきました。 なぜ当時の日本で「銀杏」を普通に見ることができたかについては諸説あります。ここでは立ち入りません。参考文献の「イチョウ 奇跡の2億年史:生き残った最古の樹木の物語」などを参照ください。 ケンペルは帰国してから20年後に「Amoenitates Exoticae」(和名=廻国奇観:かいこくきかん)と題したアジア旅行記を著します。この本の中で、ヨーロッパでは絶滅していると思われた「銀杏」を日本では普通に見ることができることを紹介しました(参考文献1)。絶滅したと思われていた銀杏が化石では無く生き残っていたのですから、この本を読んだヨーロッパ中の植物学者はびっくりしました。長崎から銀杏の種がヨーロッパに持ち込まれ、各地に植えられ、今では欧州中で銀杏を見ることができます。博物学者リンネは、「銀杏」のラテン名(学名)を「Ginkgo biloba」と名付けました(図1 緑下線部を参照ください)。 図1:「銀杏」のラテン名(学名)「Ginkgo biloba」 ケンペルは、日本では銀杏のことを「Ginkgo」と呼ぶと書き残していますので、それから取ったのです。「Ginkgo biloba」を普通に読めば「ギンコービロバ」ですね。ビロバ(biloba)はラテン語で「2つの裂片(れつへん or れっぺん)」という意味で、銀杏の葉の形を表しています。葉に切れ目があり2つに分かれているという意味でしょう(図2)。 図2:銀杏の葉 「切れ目」があります。学名のbiloba(二つの裂片)の由来になっています。 しかし「Ginkgo」はなんだか変です。「ギンコー」に相当する日本語なら、銀行か吟行です。ケンペルが来日していた当時に使われていた各種の辞書によると「銀杏」は、「いちょう」や「ぎんなん」と読まれていたことがわかっています。もしかしたら「銀杏」は「ギンコー」と読まれていたのかもしれません。「ギンコー」と読まれていなかったことを証明するのは難しいですね。無いことの証明は難しいからです。それに挑んだ方がいます。 ケンペルが来日していた時代に出版された辞書を筑波大学生物科学系教授の堀輝三(ほりてるみつ)先生と奥様の堀志保美氏が徹底的に調べたところ、当時日本で広く使われていた絵入り辞書2冊に銀杏が「ギンキョー」とも読まれていることを発見しました(参考文献2-4)。そのうちの一冊は、「訓蒙図彙:きんもうずい」と言う絵入り辞書です。大英博物館にあるケンペルコレクションの中にも見つかりました(図2)。 ケンペルは銀杏の読み方を「訓蒙図彙」から学んだのだろうということが推察されます。でもそれは「ギンキョー」です。「ギンコー」ではないです。これに関しては色々な考察がなされました。「印刷工の単純ミス説」、「ケンペルの出身のドイツ語方言原因説」など諸説ありました。2011年に九州大学名誉教授 Wolfgang Michel氏の「Ginkgoの書き間違い」を指摘した論文が出て、この問題に「けり」が付いたと思われます(参考文献5)。 どうやらケンペルが『書き写し間違い』を犯したのが真相のようです。『世紀の書き写し間違い』と言っても過言では無いです。Michel氏は、大英博物館に残っているケンペル自筆の原稿の「Ginnan」の横に「Ginkgo」と書いてあるのを発見します(図3)。ケンペルは日本語を読めませんので、日本人から銀杏の読み方を聞いて書き残したのです。ケンペルに読みを教えた日本人はこの銀杏という植物は日本では「ぎんなん」とか「ぎんきょう」と呼ばれていると教えたのでしょう。「ぎんなん」は正確に「Ginnan」と書き写しています。しかし、「ぎんきょう」は「Ginkgo」となっています。普通に書き写せば、ケンペルはドイツ人ですのでドイツ語なら「Ginkjo」と記したはずです(注:英語ならGinkyoでしょう)。ケンペルはメモを残す際に「j」と「g」を書き間違えたのだろうと、Michel先生は考察しています。 ここからは私の推測です。実はケンペルは正しく「Ginkjo」と書いたつもりだったのかも知れません。筆記体フォントを使って、「Ginkjo」と「Ginkgo」を比較してみましょう。 ゴシック体筆記体 「Ginkjo」「Ginkjo」 「Ginkgo」「Ginkgo」 筆記体だと「Ginkjo」も「Ginkgo」も似ていますね。g の上に[・]が無いので「j」と「g」は区別できますが、この[・]があったか無かったかで、ギンキョーがギンコーになってしまった可能性もあると思います。 何を言いたいかと言うと、ケンペルは正確に「Ginkjo」と書いたつもりだったのが「j」の上に[・]を書き忘れ、そのために「Ginkgo:Ginkgo」と自分でも誤読して、『Amoenitates Exoticae:和名=廻国奇観』を出版してしまったのかもしれません。 ちなみに、Wolfgang Michel先生のホームページには、 「けんぺるの筆記体」 http://wolfgangmichel.web.fc2.com/serv/ek/handwriting/index.html という項目があり、ケンペルが書いた文字の筆記体一覧を見ることができます。この中に、「g」はありますが「i」はありませんでした。あれば比べることができました。 それはともかく、今なら「銀杏」の発音をインターネットで簡単に調べられるかもしれません。あるいは「銀杏」の発音を教えてくれた日本人に手紙やメールで問い合わせれば良いかもしれません。しかし時代が違います。発音の確かめようも無いまま「Ginkgo」として本を出版してしまったのでしょう。 発音は正確に聞いたけれど、書き写す時にうっかりしたために「銀杏」は「Ginkgo」という欧米人にも日本人にも「なじみの無い変な学名」をつけられてしまいました。字を書く時は、できるだけ楷書で正確に書いた方が良いですね。 明治天皇陛下の御製に、 うるはしく かきもかかずも 文字はただ よみやすくこそ あらまほしけれ という和歌があります。 「文字はただよみやすくこそあらまほしけれ=文字は読みやすいのが良いなあ」 とあります。明治天皇陛下も読みにくい文字の判別に四苦八苦していたのでしょう。 今は電子カルテの時代です。パソコン上のカルテを読むのには苦労しません。しかし、以前は手書きのカルテが普通でした。手書きカルテ時代には、どう見ても読めないカルテ、判じ物のようなカルテ、外国語まがいの文字の羅列のカルテ、略号だらけのカルテが実に多く困ったのを思い出します。そのような「他人には読めない」カルテの判読に苦労する度にこの和歌を思い出していました。 話を戻します。いずれにせよ『書き間違った文字』を元に銀杏の学名が決まってしまいました。「Ginkgo(ギンコー)」を訂正させようとする活動もなされていますが、なかなか難しいでしょう。 図3:「訓蒙図彙」に載っている銀杏の説明図 銀杏の横に「ぎんきゃう」と書かれているのが解かります。 旧仮名遣いの「ぎんきゃう」ですから、現代仮名遣いなら「ぎんきょう」でしょう。ややこしいですね。 図4:ケンペルの草稿原稿 「Ginnann」の上に、「Ginkgo」? と書いてあります。これが間違いの元ですね。 銀杏については、明治時代に入って、日本人の「画工」平瀬作五郎が銀杏の生殖に「精子」が関わっていることを発見しました。世界的な大発見です。そのことがきっかけとなり英国から27歳の女性植物学者が来日します。それが、「家族計画」とか「性生活の研究」につながるという話は次回に。 【参考文献】 「世界を旅した博物学者 ケンペル」(長崎大学附属図書館のサイト) Hori, S and Hori, T.(1997)A cultural history of Ginkgo biloba in Japan and the generic name Ginkgo. In: Hori, T. et al.(eds)Ginkgo Biloba-A Global Treasure. From Biology to Medicine. Springer-Verlag Tokyo, pp. 385-411 「日本の巨木イチョウ―写真と資料が語る 23世紀へのメッセージ」内田老鶴圃 堀輝三(著) 「写真と資料が語る総覧・日本の巨樹イチョウ―幹周7m以上22m台までの全巨樹」内田老鶴圃 堀輝三、堀志保美(著) 3.4.を読むと、堀輝三先生は2002年に筑波大学を退官後、日本中の銀杏の巨木を求めて旅をして、その記録を残されているのですね。残念なことに堀輝三先生は2006年に逝去されています。 九州大学名誉教授 Wolfgang Michel氏の「Ginkgo」の書き間違いに関する考察論文 ENGELBERT KAEMPFER FORUM: GINKGO 銀杏に関するありとあらゆる情報を集めたサイトがあります。その名も「THE GINKGO PAGES」です。必見の価値があります。日々更新されています。 THE GINKGO PAGES イチョウの精子と植物の生殖進化の映像です。 http://www.kagakueizo.org/movie/education/128/ 「イチョウ 奇跡の2億年史: 生き残った最古の樹木の物語」河出書房新社 ピーター クレイン(著)、矢野 真千子(翻訳) 号外です。 私の恩師で東京慈恵会医科大学心臓外科の初代主任教授、新井達太先生が本を出版されました。心臓外科黎明期の話、手術にまつわる興味深い話などが数多く載っています。是非、ご一読下さい。 新井達太著:「この道を喜び歩む 」幻冬舎 刊行 表紙にフランス語が書かれています。その内容については本書をお読み下さい。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/05/07 前回、アメリカで2015年にいきなり多くの高価薬が出現し、その中には24時間点滴で投与すると約2,000万円もかかるお薬があることをお話ししました。 これだけの価格が付くなら「夢の新薬」だと思われるでしょう。違います、なんと70年前に合成された古いお薬でした。前回の続きをお話しします。 多くの人命を救っている素晴らしいお薬が… このお薬はウィーン大学薬理学教授のヘリベルト・コンツェット医師(Heribert Konzett:1912-2004)が1941年に合成した「イソプロテレノール(Isoproterenol)」というお薬です(参考文献1.2.)。イソプロテレノールは、あの高峰譲吉が合成に成功したアドレナリンを元にして作られたアドレナリン誘導体の一種です。高峰譲吉のこと、アドレナリンのことはこれまでにも紹介して参りました。 あの「ハーレー」も!三共を興した高峰譲吉 Japanese father of American Biotechnology.~高峰譲吉(3) 高峰と上中に神が降りた日~高峰譲吉(2) イソプロテレノールはそのアドレナリンに2つのメチル基(CH3)が付いた構造をしています(図1、図2参照)。 図1:イソプロテレノールの構造式 右側のCH3がアドレナリンと違います。 図2:アドレナリンの構造式 アドレナリンの受容体(受容体が無いとお薬は作用しません)にはαとβの2種類あり、β受容体はβ1、β2、β3と3種に分かれます。イソプロテレノールはβ1、β2、β3の全てに作用します。心不全、徐脈、気管支喘息の治療などに使われていました。現在はβ1、β2、β3にそれぞれに作用する薬があり、イソプロテレノールの適応疾患は極めて限られていますが、イソプロテレノールはある種の心臓病治療には欠かせない薬です。洞機能不全症候群、房室ブロックといった「脈が遅くなり、心臓が止まってしまうかもしれない」病気の治療に使われます。そういう病気の治療に使われるお薬です。洞機能不全症候群や房室ブロックは重篤になると心臓が停止することがあります。ペースメーカーでの治療が必要になることもあり、ペースメーカー移植までの「つなぎ」として私もよくイソプロテレノールを使いました。こういう病気の患者さんが来院しても、直ちにペースメーカーを入れるわけではありません。症状が重い場合は直ちに一時的ペースメーカーを入れることもありますが、外来受診時や病院に救急搬送された時に、このような疾患が疑われ、脈がゆっくりならイソプロテレノールの点滴をします。イソプロテレノールの点滴を開始すると直ちに脈は早くなります。効果は劇的です。実に良い薬です。多くの人命を救っている素晴らしいお薬です。それは日本でもアメリカでもヨーロッパでも世界中どこでも一緒です。ただし、ここが肝なのですが、長時間、高容量を使用することはありません。長くても数日、短いときは数時間しか使われません。イソプロテレノールは大量に使われることも無く、特許も切れているので、イソプロテレノールでは利潤が出なかったのです。普通の製薬会社は見向きもしないお薬でした。 特許が切れている 製造している会社が少ない 製造権の獲得が容易である 市場規模は限られているが、決して少なくは無い ある種の心臓病治療には欠かせない そういう“特徴”を持ったお薬でした。 この“特徴”に目を付けた人々がいます。そして Valeant Pharmaceuticals という会社が、 イソプロテレノールの製造権を獲得 イソプロテレノールの製造会社を買収 イソプロテレノールを合法的に作れる会社が「Valeant Pharmaceuticals社」だけになった途端、一挙にイソプロテレノールの値段をつり上げたのです(参考文献3)。 数年前まで、イソプロテレノールは1バイアル(0.2mg/mL)あたり40ドル(約4,000円)程度でした。このお薬が2015年には1バイアル(0.2mg/mL)あたり1,472ドル(約16万円)になったのです(Hospitals remain skeptical about Valeant discounts on important heart drugs)。 実に一挙に約40倍にしたのですね。ちなみに日本での価格はたったの226円!です。誤記ではありません。 このお薬を体重80Kgの患者さんに投与する場合の標準的投与量は1時間あたり約1mgです。アメリカなら、1時間に5バイアル=80万円必要です。12時間で約1,000万円!です。24時間なら2,000万円です。オプジーボと違い、開発コストはゼロ、製造方法もわかっています。 この高価薬のおかげで、Valeant Pharmaceuticals社は莫大な利益を上げました。この功績(?)により、この会社の J. Michael Pearson CEOは「The 10 Best Performing CEOs Show What It Takes to Be a Great Manager」の8番にランクされています。因みに1番は、Amazonの創業者の. Jeffrey Bezosです。 イソプロテレノールはある種の疾患の治療には欠かせない治療薬です。ほかに選択肢があまりありません。医師は高価すぎると思いつつも使わざるを得ません。なぜこんなことがまかり通るようになったのでしょう。繰り返しになりますが、アメリカはお薬の値段を製薬企業が自由に決めることができます。普通はライバル企業があるので、お薬は「そこそこ」の値段に落ち着きます。しかし、このイソプロテレノールにはライバル企業が無かったのです。というか、ライバル企業を全て買収して製造権を独占してしまったのです。今から他の企業が、イソプロテレノールの製造権を獲得するのは難しいのでしょう。これぞ、アメリカ!と思ってしまいます。もちろん、皮肉です。当たり前ですが、この状況をアメリカの世論も政府も黙ってはいません。 真似する(?)企業(人)も現れて… このような仕組みで儲けるビジネスモデルは“Valeant Pharmaceuticals' Business Model”と名付けられ、社会問題となっています。アメリカ上院では特別委員会が開かれて糾弾されます(参考文献4.5.)。この特別委員会で糾弾されても、Valeant Pharmaceuticals社はイソプロテレノールの値段を30%下げただけです。Valeant Pharmaceuticals社はイソプロテレノールだけではなく、ニトロプルシド(Nitroprusside)という点滴で使う降圧剤を約2倍に、メトフォルミンという糖尿病治療薬を8倍に値上げしています。イソプロテレノールの値段を吊り上げたのと同様な手法をとっています。 そして、“Valeant Pharmaceuticals' Business Model”を真似する(?)企業(人)も現れました。 (1)コルヒチンという痛風発作の治療薬 一挙に50倍!に値上げ:1錠10セントが1錠5ドルとなりました(日本では1錠7円)。 (2)抗寄生虫薬ピリメタミン(商品名:ダラプリム) 13ドルから750ドルと56倍!に値上げしました。このお薬はマラリアやエイズ治療にも使われています。 これらのご紹介を簡単にしましょう。 (1)のコルヒチンについては、URL Pharmaという会社がコルヒチンの値段を50倍にしました。ハーバード大学のPharmacoepidemiology(薬剤疫学) && Pharmacoeconomics(薬剤経済学)教室のアロンケッセルハイム准教授(Aaron S. Kesselheim)は、2010年のNew England Journal of Medicine誌上で警告を発していましたが(参考文献6)、効き目は無かったようです。 (2)ピリメタミンの値上げを行ったのは Turing Pharmaceuticals社 です。この会社の経営者は、まだ年若いマーティン・シュクレリ(Martin Shkreli:1983-)氏です。ほかのお薬でも同様なことを数多く行っています。 このような手口の商売を非難する人々に対して、シュクレリ氏は、 “If there was a company that was selling an Aston Martin at the price of a bicycle, and we buy that company and we ask to charge Toyota prices, I don't think that that should be a crime.” 訳)アストンマーティンを自転車の値段で売っている企業があるなら、我々がその企業を買収して、トヨタの値段でアストンマーティンを売る。それが犯罪とは思わない と言ったものです。つまり、本来なら高額で売るべきアストンマーティン(=ピリメタミン)をトヨタ値段で売っているのだから、良いだろうと言っているのです。なんだかトヨタが馬鹿にされているようで嫌な感じですね。車に興味が無い方のために申し添えると、アストンマーティン社はイギリスのスポーツカーメーカーで、1番安価な車でも2,000万円します。007のボンドカーのほとんどはアストンマーティン社の車ですね。 それはともかく、余計なことを言ったマーティン・シュクレリ氏には、“The Most Hated Man in America.(アメリカで一番嫌われている人間)”という不名誉な称号が与えられています。なお、シュクレリ氏はお薬の販売とは別件の詐欺容疑で、FBIに逮捕され、裁判中でしたが、冒頭でも紹介したように、 “ついに禁固刑「米国で最も憎まれる男」に禁錮7年 証券詐欺で”という報道が2018年3月10日のAFPで報道されています。 でもお薬の値段をつり上げたことでは捕まったわけではありません。そちらは「合法」だからです。 さて、色々と紹介してきました。さすがの資本主義国家アメリカでもこのような「商売」は尊敬されていません。しかし、法律に違反しているわけでは無いというのが、「薬を法外に値上げしている」彼らの言い分です。マスコミや政府がいくら値段を下げろと言っても聞く耳は持たず、とどのつまり値段はあまり下がっていません。日本なら、厚労省が薬価を決めるのでこのような「非道」なお薬の値上げはあり得ないですね。 前回、今回と、国内外の薬のお話をご紹介し、薬の値段を考えてみました。如何だったでしょうか? 最後になりますが、前回の冒頭で「モノの値段」は、「売り手良し 買い手良し」で決まると書きました。この言葉は、もう一つの成句「世間良し」が加わることで完成します。「売り手良し 買い手良し 世間良し」という言葉です。「三方良し」とも言われます。 この言葉は、商売上手で有名な近江商人の間で使われていました。近江商人の中村治兵衛が70歳の時に幼い跡継ぎに遺言として残した家訓「宗次郎幼主書置(かきおき)」全11条の一節です(参考文献7)。商売繁盛を願うなら「売り手、買い手」の満足だけではなく、世間様への貢献(=社会への貢献)も必要だと説いているのです。今日のCSR(corporate social responsibility:企業の社会的責任)という言葉ができるより遙か昔の江戸時代に、CSRを先取りした商売哲学を説いていたのです。 「世間良し」って良い言葉ですね。古い薬で「売り手」しか満足しないような“あこぎ”な商売をやっている人々に聞かせたいものですね。 【参考文献】 Heribert Konzett (1941). "Neue broncholytisch hochwirksame Körper der Adrenalinreihe". Naunyn-Schmiedebergs Archiv für experimentelle Pathologie und Pharmakologie. 197: 27-40. doi:10.1007/BF01936304. H. Konzett (1981). "On the discovery of isoprenaline". Trends in Pharmacological Sciences. 2: 47-49. doi:10.1016/0165-6147(81)90259-5. Bloomstein DA: Cost Avoidance Utilizing a Batching Process for Isoproterenol. P T. 2016 Sep;41(9):560-1. "Bill Ackman and Valeant Execs Just Got Through One of the Most Brutal Senate Hearings We've Ever Seen", Business Insider, April 27, 2016 "Valeant Pharmaceuticals' Business Model: the Repercussions for Patients and the Health Care System", United States Senate Special Committee on Aging, April 27, 2016, 上院特別委員会でのやりとりを見ることができます https://www.aging.senate.gov/hearings/valeant-pharmaceuticals-business-model-the-repercussions-for-patients-and-the-health-care-system Kesselheim AS, Solomon DH. Incentives for drug development--the curious case of colchicine. N Engl J Med. 2010 Jun 3;362(22):2045-7. doi: 10.1056/NEJMp1003126. Epub 2010 Apr 14. http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMp1003126 「三方良し」の原典が見つかる(AKINDO委員会 1998年9号)(PDF) 余話1: イソプロテレノールが毛包の幹細胞を心筋細胞へ誘導することができるという要旨の論文が2016年に発表されています。 このようにイソプロテレノールは今でも色々な実験にも用いられています。 Isoproterenol directs hair follicle-associated pluripotent (HAP) stem cells to differentiate in vitro to cardiac muscle cells which can be induced to form beating heart-muscle tissue sheets. Yamazaki A, Yashiro M, Mii S, Aki R, Hamada Y, Arakawa N, Kawahara K, Hoffman RM, Amoh Y. Cell Cycle. 2016;15(5):760-5. 余話2: 実は、このような特殊薬ではない糖尿病治療に欠かせない「インスリン」の価格が急上昇して社会問題となっています。 Insulin price spike leaves diabetes patients in crisis アメリカ糖尿病学会も「STAND UP FOR AFFORDABLE INSULIN(適正価格のインスリンが使えるように立ち上がろう)」という運動を起こしています。 STAND UP FOR AFFORDABLE INSULIN インスリンの価格は、インスリンの種類にもよるのですが、8-32倍も上昇しています。 よく使われる長時間作用型インスリン500単位の値段は1987年には170ドル(19.000円)だったのですが、2017年1月時点で1400ドル(150.000円)に上昇しています。インスリン価格急騰の原因は不詳です。誰かがどこかで、「世間良し」に背くような行為をしているのでしょうか。ちなみに、メキシコやカナダでは全ての薬価が安価で、国境を越えてお薬を買いに来るアメリカ人が絶えないそうです。 Mexicans go to the United States for a better quality of life. Americans go to Mexico because they can't afford quality of life. 「メキシコ人はアメリカに行けば生活の質が向上するだろうと思ってアメリカに行く。アメリカ人は、アメリカで生活の質を向上させるには費用がかかりすぎるので、メキシコに行く」。皮肉な話です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/04/16 --「米国で最も憎まれる男」に禁錮7年の判決 証券詐欺で -- という報道が2018年3月10日にありました。「米国で最も憎まれる男」とは厳しい表現ですね。今回から2回連続で「米国で最も憎まれる男(達)」の紹介をします 全ての「モノ」には値段があり 「モノ」の値段は需要と供給で決まります。資本主義の根幹です。江戸時代の近江商人はそれを「売り手良し、買い手良し」と言っていました。今でも通用します。この「枠」に入らないのが、「薬」と「医療機器」です。あまり知られてはいないかもしれませんが、日本では厚生労働省が、 1.医療用医薬品の値段(=薬価) 2.医療機器の値段(=償還価格) を決めています(注:薬局で購入出来る一般用医薬品は別です)。お薬の値段は勝手に企業が決めることはできません。利潤のみを追求してお薬の値段を決められては困るからです。 ここ数年、新しい作用を持つ抗がん剤「オプジーボ」(一般名:ニボルマブ)が各種のがんに対しても使われるようになりました。今までの抗がん剤とは、全く違う作用を持ち「免疫チェックポイント阻害薬」と称されています。このお薬は「効く人にはとても効く(奏効率は、20-30%と言われています)」夢のような抗がん剤です。しかし、オプジーボは値段がとても高いことも話題になりました。 オプジーボに関しては「医学の勝利が国家を滅ぼす:新潮新書:里見 清一著」という本も出版されました(注:里見清一はペンネームです。山崎豊子『白い巨塔』の登場人物から借りています。本職は腫瘍内科の先生です)。この本で里見清一氏は「オプジーボ」を無計画に投与すると、国家財政が破綻しかねないという懸念を表明しています。 オプジーボは確かに高価です。オプジーボの投与を受ける患者さんの体重を仮に60Kgだとすると1回の投与に130万円、2週おきに投与するので、年間約3,600万円です。患者さんがこの金額を全額、支払うわけではありません。日本には「高額療養費制度」があり、患者さんの年収、加入している健康保険により差はありますが、月に20-30万の負担でオプジーボの投与を受けることができます。実際にかかる費用との差額は加入する健康保険や公的資金(基は税金)から支払われます。オプジーボの値段は妥当でしょうか?それは誰にもわかりません。その薬の開発にかかった費用、製造にかかる費用、一定の割合で肺がんが治ってしまう患者さんがいることなどを考えれば、「安い」のかもしれません。 それはともかく、オプジーボの薬価が公的医療保険財政を圧迫するのではという声が相次ぎ、国会でも取り上げられ、ついに中央社会保健医療協議会(中医協)がオプジーボの薬価の引き下げを勧告しました。それを受けてオプジーボの薬価は半額になりました。2017年2月1日のことです。 薬価の改定は2年に1回が原則です。2016年にオプジーボの薬価は決まっています。本来なら、2018年がオプジーボの薬価の改定時期でした。その原則を曲げてまで半額にしたのは、それだけ保険財政への影響を懸念する声が強かったのでしょう。 今、お示ししたように、医療用医薬品の値段は「お国」が決めるのが日本の原則です。日本と同様、EU加盟国やカナダではお薬の値段に政府の規制があります。 今、アメリカでとんでもなく高価なお薬が「出現」し社会問題となっています。 オプジーボは1mgが7,200円ですが、そのお薬はなんと1mgで80万円!もするのです。お薬の種類が違うので単純にmgだけで比較するのは間違っているのですが、それでもびっくりするような値段です。日本と違い、アメリカでは各企業がお薬の値段を勝手に決めることができます。とは言え、普通はライバル企業があり競争原理が働くので、いくら良い薬でも非常識な値段を付けることはできません。 そのアメリカで2015年にいきなり多くの高価薬が出現しました。特に問題となっているのが、前述の1mg80万円、24時間点滴で投与すると約2,000万円もかかるお薬です。そのお薬のことが今回の主題です。これだけの価格が付くなら「夢の新薬」だと思われるでしょう。違います、なんと70年前に合成された古いお薬です。 どういうことなのでしょうか?次回、詳しくご説明します。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/04/02 2018年上半期の芥川賞、直木賞が1月に発表されました。芥川賞受賞作の一つは若竹千佐子(わかたけちさこ)の「おらおらでひとりいぐも」という小説でした。宮澤賢治ファンなら賢治の「永訣の朝」という「詩」をすぐに思い起こすと思います。「永訣の朝」は結核で死に行く賢治の妹トシとの永久の別れを描いています。 “けふのうちに とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ” で始まる悲しい詩です(旧仮名遣いですから「けふ」=「きょう:今日」、「とほく」=「とおく:遠く」、「いっていしまふ」=「行ってしまう」)。 「永訣の朝」の中には(Ora Orade Shitori egumo)という括弧でくくられ、ローマ字で書かれた一節が出てきます。妹トシの言葉として( )でくくられているのです。 死に瀕した賢治の妹トシが「おら おらで しとり えぐも」と語っているかのように記しているのです。標準語で書くと「私は、私で、一人で死んでいくよ」でしょう。 直木賞は、門井慶喜(かどいよしのぶ)の小説「銀河鉄道の父」が受賞しています。宮澤賢治の父についての小説です。奇しくも宮澤賢治に関係する小説が2018年上半期の芥川賞、直木賞に選ばれたのです。今でも宮澤賢治の人気は衰えていないことを示していると思います。 今回は、宮澤賢治と山梨県や八ヶ岳にまつわる話を思い出したので紹介します。私は山梨県出身ですが今回に記すようなこともあり、なんとなく宮澤賢治に親近感を覚えています。 宮澤賢治が書いた手紙73通の鑑定額は… テレビ東京の人気番組「なんでも鑑定団」には実に色々なモノが出て面白いですね。10年くらい前に宮澤賢治が書いた手紙73通がこの番組に出たことがあります。手紙を鑑定団に出したのは、山梨県韮崎市在住の医師、保阪庸夫(ほさかつねお:1927-2016)さんでした。 保阪さんの父親は、保阪嘉内(かない)と言います。嘉内は韮崎市の生まれで、甲府中学(現甲府第一高校)を卒業後、1916年に盛岡高等農林学校に進学、同校の寄宿舎で同室だったのが、宮澤賢治です。学年は賢治が1年上です。1917年、同校の学生4名(宮澤賢治、保阪嘉内、小菅健吉、河本義行)が中心となって校内の文芸誌「アザリア」を刊行します(文末余話4の写真参照)。宮澤賢治が初めて文学作品を発表したのが「アザリア」だったのです。しかし、アザリアは6号で終刊となっています。アザリア5号に保阪嘉内が「おい今だ、今だ、帝室をくつがえすの時は、ナイヒリズム(筆者注:帝室=皇室、ナイヒリズム=ニヒリズム)」という文章を書いて嘉内が退学処分を受けたのがアザリア終刊の遠因だと言われています。 寄宿舎で同室、且つ文芸雑誌を一緒に創刊するほど仲の良かった保阪嘉内に宛てて宮澤賢治が書いた手紙が「なんでも鑑定団」の鑑定に供されたのです。この手紙は宮澤賢治文学を研究する人にとって、とても大切なモノだと思います。「なんでも鑑定団」に手紙を出した保阪庸夫さんは医師ですが、宮澤賢治の研究家でもあり、この73通の手紙とその解説を出版しています。「宮澤賢治友への手紙」(1968年) という本です。 この本の表紙には保坂庸夫、小沢俊郎の名前が挙がっています。しかし、この本は正式には「宮澤賢治(著), 保坂庸夫(編集), 小沢俊郎(編集)」です。宮澤賢治(著)です。この本は1968年に出版されています。宮澤賢治が結核のために没したのが、1933年です。1968年は宮澤賢治が亡くなってから35年です。死後50年を経過していませんので、この手紙の著作権は宮澤家にあり、それゆえに著者が宮澤賢治になっているのです(著作者の死後50年までが著作権の原則的保護期間:著作権法第51条第2項)。 それはともかくこの手紙の内容はかなり「濃い」です。宮澤賢治は日蓮宗に深く帰依し、日蓮宗の信徒団体である「国柱会」に入り、親友だった保阪嘉内にも「国柱会」に入るよう、しつこく、熱烈に勧めています。結局、嘉内は断ります。賢治は嘉内が入信しないとわかったら、次のような手紙を書きよこしています。 「私が友保阪嘉内、私が友保阪嘉内、我を捨てるな」 「保阪さん。今泣きながら書いています。あなた自身のことです。あなたの神は力及びません。」 「そうでなかったら、私はあなたと一緒に最早、一足も行けないのです」 とか、公開を前提にしてはいませんのでかなり書き方が過激です。ラブレターのようにも読めますね。 「私が友○○、私が友○○、我を捨てるな」なんて書いた手紙をもらったら面食らうでしょう(○○に自分の名前を入れてみてください)。でもそういう熱いマグマのような情熱が宮澤賢治にはあり、それが作品にも反映され、今も多くの人々を魅了するのだろうと思います。 この本が出版されてから40年、すでに著作権も切れている宮澤賢治が書いた保阪嘉内宛の手紙73通がなんでも鑑定団に出されたのです。 鑑定額はいくらだったでしょうか?73通の総額がなんと、1億8000万円でした! 生前、2冊しか本が出版されず(「春と修羅」「注文の多い料理店」の2冊)、それもほとんど売れなかった賢治は泉下でびっくりしたのではないでしょうか? 八ヶ岳が出てくる「風野又三郎」と八ヶ岳が出てこない「風の又三郎」 話は代わります。 宮澤賢治の人気作品「風の又三郎」についての話をしましょう。巷間、知れ渡っているのは「風の又三郎」ですが、その元になったのは「風野又三郎」という小説です。現在、書籍となって読まれているのは「風の又三郎」です。しかし「風野又三郎」の方が“圧倒的”に面白いと私は思っています。 「風野又三郎」は主人公の「風の妖精:風野又三郎」が縦横無尽に活躍します。この主人公は、子供には見えるけれど学校の先生には見えない設定になっています。一方「風の又三郎」はかなり真面目な話になっていて、学校の先生にも見える設定になっています。お時間のある時にぜひ、読み比べてください。どちらも著作権が切れているので、青空文庫で読むことができます。 「風の又三郎」 「風野又三郎」 注:「風野又三郎」は所々、原稿が欠けています。草稿だからでしょう。 その「風野又三郎」には唐突に甲州の八ヶ岳が出てきます。サイクルホールという遊びを風野又三郎がするのです。サイクルホールは、風のいたずらのような意味だと思います。 “十人ぐらいでやる時は一番愉快だよ。甲州ではじめた時なんかね。はじめ僕が八ヶ岳の麓の野原でやすんでたろう。曇った日でねえ、すると向うの低い野原だけ不思議に一日、日が照ってね、ちらちらかげろうが上っていたんだ。それでも僕はまあやすんでいた。そして夕方になったんだ。するとあちこちから 『おいサイクルホールをやろうじゃないか。どうもやらなけぁ、いけない様だよ。』ってみんなの云うのが聞えたんだ。” 賢治は岩手の人です。八ヶ岳がいきなり出てくるのは違和感がありますね。 「風の又三郎」の名前は山梨県の清里高原にその元があるという説があります(文献2、3)。 写真:風切りの松がある一帯の全景、風野三郎社など 山梨県北杜市高根町清里に「風切りの松 風の三郎」という大きな松の木があり、その横に小さな祠があり、「風の三郎社」といいます。八ヶ岳の方から吹いてくる強く冷たい北風を「八ヶ岳おろし」と言います。八ヶ岳には「風の神様」がいて風を吹かせている。そういう伝説があります。その風の神様の名前を「三郎」とか「風の三郎」と言っていました。その神様を「風の三郎社」という祠まで作って祀っていたのです。 前述の保坂嘉内は、この松のスケッチを書き残しています。嘉内は地元の八ヶ岳に何回も登っているので、登山途中にここを通ったのでしょう。そして、賢治に八ヶ岳の「風の三郎」の話をしたのだろうと想像されます。何回もその話を嘉内がするので賢治は「保阪さん、またか、また風の三郎の話か」とでも言っていたのでしょう。それが「風の又三郎」に結びついたと想像してもおかしくないでしょう(文献2)。 この風切りの松の木や祠(ほこら)は清里高原にある「そば処清里 北甲斐亭」というおそば屋さんの裏手を5分くらい登ったところにあります。興味がある方は訪れてみてください。 前述のサイクルホールの話ですが、残念なことに原稿を推敲している内に賢治の気が変わったのか「風の又三郎」から八ヶ岳は消えています。 宮澤賢治が八ヶ岳に来ていれば面白いのですが、足跡はありません。 しかし、賢治は “甲斐に行く万世橋の停車場をふっとあわれにおもひけるかな” という歌を詠んでいます。 「Tokioの唱歌」と称する「歌」数編を詠み、保阪嘉内宛の手紙に記しています。その中の一つにこの歌があります。今は新宿駅が始発となる中央本線ですが、以前は万世橋駅(まんせいばしえき)が始発で、保阪嘉内のいる韮崎まで続きます。そう思うとこの歌は恋の歌のようにも思えます。 ※万世橋駅は、中央線の神田駅と御茶ノ水駅の間にあった駅で1943年休止(事実上、廃止)となっています。 話は代わります。 賢治の童話「なめとこ山の熊」の主人公の猟師の名前は “淵沢小十郎” です。山梨県の北杜市にある小淵沢という地名から、思いついたとしか思えません。これも八ヶ岳が好きだった保阪嘉内つながりだろうと思います。 という訳で、八ヶ岳山麓に行く機会があったら、こんな話もあったと思い起こしてくだされば幸いです。 【参考文献】 宮澤賢治友への手紙 宮澤賢治著 筑摩書房 宮澤賢治の青春“ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって 菅原千恵子著 角川文庫 心友―宮澤賢治と保阪嘉内 大明敦著 山梨ふるさと文庫 余話1: 保阪嘉内の甲府中学の同級生に「林髞(はやしたかし)」がいます。条件反射で有名なロシアのパブロフの元で研究し後に慶應義塾大学医学部生理学教授になります。「木々高太郎」の名前で小説も書いて、直木賞を受賞しています。林と保阪は甲府中学時代から仲が良く、それもあって保阪嘉内は甲府中学時代から文学に目覚めていたようです。 余話2: 星が見つかると名前がつけられます。ある小惑星は「Miyazawakenji」と命名され、ある小惑星は「Hosakakanai」と命名されています。宮澤賢治は銀河鉄道の夜という名作を書いているので、小惑星に賢治の名前が付けられたのは自然な話です。 保坂嘉内の名前が小惑星につけられたのはなぜでしょう。賢治の親友だから、名付けられた訳ではありません。嘉内は甲府中学時代にハレー彗星を見て、詳細なスケッチを残していたのです。そのスケッチは天文学的にとても貴重で、それゆえに天文学会が、ある小惑星に「保阪嘉内」の名前をつけてくれたのですね。期せずして、天空に親友同士の名前がついた星が輝いていることになります。何だか詩的で良い話だと思います。 余話3: 八ヶ岳のそばに「茅が岳」という山があります。標高1704mです。中央線からもよく見えますし、中央自動車道からもよく見えます。八ヶ岳に似ているので「ニセ八つ」の異名があります。「日本百名山」に茅が岳は入っていません。しかし、この山で「日本百名山」の著者“深田久弥(ふかだきゅうや、1903-1971)”が亡くなったので、「日本百名山」ファンの間で「茅が岳」は有名です。深田久弥はこの山に登っている時に脳卒中で倒れました。この時に救助に向かったのが、何でも鑑定団に出演した保阪庸夫先生です。携帯電話も無く、ドクターヘリもない時代です。保阪先生が急変した深田久弥の元に着いたのは、脳卒中を発症してから随分と時間が経っていて深田久弥はすでにお亡くなりになっていたそうです。それはともかく、茅が岳は深田久弥が最後に登った山と言うこともあり、人気があり登山口の駐車場は土日祝日になると混雑しています。駐車場から頂上まで3時間あれば登れます。頂上からの眺めはとても良い山です。 余話4: アザリアの中心メンバーの出身県、生年月日、没年、死因を示します。当時の盛岡高等農林学校には全国から学生が集まっていたのですね。お一人を除いて若くしてお亡くなりなっています。 左上:保阪、右上:宮澤左下:小菅、右下:河本 メンバー名出身県生年月日-没年死因 河本義行鳥取県1897年3月21日-1933年7月18日(33才)水死 宮澤賢治岩手県1896年8月27日-1933年9月21日(37才)結核 保阪嘉内山梨県1896年10月18日-1937年3月8日(41才)胃がん 小菅健吉栃木県1897年3月12日-1977年5月30日(80才)肺気腫 保阪嘉内は「アザリア」のメンバーの手紙を全てきれいにスクラップして残していました。なにか感ずるところがあったのでしょう。後年、そのメンバーの一人が没後、人気作家となり、手紙が一通数百万円でやりとりされるようになるとは夢にも思わなかったでしょう。今なら、メールでやりとりするか、またはLINEで会話をするかもしれません。随分と味気ない時代になってしまいました。大切な手紙は、手書きで書きましょう。 余話5: 「雨ニモマケズ」の中に「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」とあります。玄米を1日4合とあります。賢治の時代農作業は重労働でした。一日に4合では少なめだったのです。太平洋戦争中「一日ニ玄米四合」が問題になります。食糧不足で一日玄米四合も食べられなくなったからです。「一日ニ玄米四合」は贅沢だと言うことになり、教科書は「一日ニ玄米三合」と書き換えられています。悲しい話ですね。 余話6: 本稿で紹介した宮澤賢治の73通の手紙全てが、2016年7月9日(土)~8月28日(日)山梨県立文学館で特別展示されたことがあります。私は、見に行きました。本物には、迫力がありました。 賢治の手紙のひとつです。「熱」が感じられますね。 さあ、お仕事、勉強をしっかりやりませう。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2018/03/19 前回、第二次世界大戦が終わり日本に米軍が進駐し、その米軍の間に広まった性病治療にペニシリンが大量に使われたことを紹介しました。性病とは性行為により感染する病気で、その代表格が「梅毒」です。ペニシリンをはじめとした抗生物質が広く使われるようになり、この病気はかなり下火になっていました。しかし、ここ数年、急増しています。 数年前から、新聞、TVなどで、梅毒が急増しているとの報道を度々見聞きするようになりました。例えば、 急増する「梅毒」…20代女性などで増加 放置すると脳や心臓に合併症も 早期検査を(産経新聞 2018/1/23) 梅毒が大流行、42年ぶりの感染拡大 20代女性で急増、厚労省は「危機的な状況」(BuzzFeed Japan 2016/12/19) などです。 多数の報道があります。ここ数年、「指数関数的に」と言っても過言では無いほど「梅毒に罹患する方」が増えています。梅毒は、日本では感染症法における「5類届出伝染病」ですから、診断がついたら保健所にその旨を届け出る義務があります。 その梅毒の届出数が5,000人を越えているのです。実際の患者数は未治療、未診断、無自覚、無届けなどがあり、その10倍や20倍あるいはもっと多いかもしれません。 図1:梅毒患者報告数の年次推移 (厚労省「感染症発生動向調査」より ※平成29年は速報値) コロンブスが持ち帰ったとされる病気 アメリカ大陸の「風土病」だったとされる梅毒は、1493年のコロンブスがアメリカを「発見」したことに伴い、ヨーロッパ中に猛烈な勢いで伝播したとされています。性病予防を行わない男女間の通常の性行為におけるHIV感染率は0.1%程度ですが、梅毒は10%程度と推定されています。つまり同じことをしても梅毒の方が100倍感染しやすいのです。HIVはキスでは感染しませんが、梅毒はキスでも感染します。それくらい梅毒は感染力が強いので世界中にあっという間に広まったのでしょう。 コロンブスと一緒に「アメリカ」まで行った水夫の一人、Juan de Moguer(ファン・デ・モゲール)は、スペインに帰国後典型的な梅毒症状が出現し2年の経過で大動脈瘤破裂により亡くなったとされています。死ぬ直前には進行性麻痺(痴呆)が出現し、英雄だった彼は、悲惨な最後を送っています。 ちなみに、Moguerはモゲールという地名です。Moguer町は優秀な船乗りを数多く輩出していました。Juan de Moguer(ファン・デ・モゲール)は「モゲール町のJuan(ファン)」さんくらいの意味でしょう。コロンブスの航海にはJuanという名前の水夫が8名もいたので、地名で区別をしていたのでしょう。梅毒は後に「鼻がもげる」病気としても有名になります。その病気にヨーロッパで最初に罹ったのが「モゲール町」出身です。日本人にしかわかりませんが、奇遇です。それはともかく、あっという間に梅毒はヨーロッパ中に広まりました。 ポルトガルの探検家、バスコダガマが1498年、インドに到達しインドにも広がります。バスコダガマご一行様は病気も広めてしまったのです。インドから、東南アジア、中国へ、そしてついに、1510年頃(室町時代です)日本に到達します。梅毒は元々日本には無かった病気です。平安時代、鎌倉時代、室町時代初期には梅毒を思わせるような記録や文献が一切ありません。その梅毒は1510年頃、日本にも伝わり(倭寇が中国から持ち帰ったらしい?)、あっという間に日本中に広まります。 なぜ、そんなことがわかるかというと、京都に住んでいた医師「竹田秀慶」が1512年に書いた「月海録」に「唐瘡:とうそう、唐の国から伝来した病気の意」や「琉球瘡:りゅうきゅうそう、琉球伝来の病気の意」という名前で、梅毒にそっくりな症状を持った患者さんのことを記しているからです。それまで目にしたことが無かった病気ですから、竹田秀慶医師は詳細な記録を残したのでしょう。こういう病気の記録があると色々なことがわかります。記録することは大切です。「月海録」以降、「梅毒」を思わせる所見を書いた文章や梅毒における皮疹の図が無数、記録され残っています。1512年に京都で患者さんが見つかっているということは、おそらくその数年前に、日本のどこかに伝わっていたのですね。鉄砲伝来が1543年ですから、それよりも30年前に、新大陸の病気が極東の日本まで到達したのですね。コロンブスの航海が1493年ですから、地球をぐるりと回って、日本に来るまで10数年しかかからなかったとも言えます。 当時は、治療方法も診断方法も無い病気ですから、罹った人はもちろん、医師も苦労します。杉田玄白が晩年に書いた「形影夜話」には「毎年1000人位の患者さんの治療をしたが、そのうち7-800人くらいは梅毒だった。医師として、数万の梅毒患者を診たが、治療の手立てがなかった」と嘆いています。江戸時代に埋葬された骨の研究者は「江戸時代、その人口の約半分は梅毒に感染していた」だろうと推測しています。それくらい広まっていたのですね。 梅毒の原因菌が判明したのは1905年です。ベルリン大学の細菌学者「フリッツ・リヒャルト・シャウディン(Fritz Richard Schaudinn)」とベルリン大学付属シャリテ病院(今もヨーロッパ最大の病院)の皮膚科医Eric Hoffmnn(ホフマン)が梅毒患者の硬性下疳(患部に出来る数cmの硬いしこりにできる潰瘍)からの浸出液中にらせん状の菌(スピロヘータの一種である梅毒トレポネーマ (Treponema pallidum))を発見したのです。 野口英世が梅毒トレポネーマの発見者だと勘違いされている方がいます。野口英世は、死亡した進行性麻痺(痴呆)を発症して亡くなった梅毒患者さんの脳の中に梅毒トレポネーマを発見し、梅毒末期に生じる進行性麻痺(末期梅毒による痴呆)の原因が「梅毒トレポネーマ」であることを証明したのです。これは、「病原菌が痴呆という精神疾患を生じさせることを世界で初めて報告した」野口の素晴らしい業績です。 野口は、梅毒トレポネーマの培養にも成功したという論文を書いていますが、今に至るまで追試に成功していません。こちらの発見は、おそらく間違いだったのでしょう。 それはともかく、梅毒トレポネーマが発見されるまで、梅毒の治療というと、日本でも欧米でも「お祈りをする」か、「加持祈祷をする」くらいしか「手立て」が無かったのです。1905年に原因菌がわかっても治療方法は、なかなかわかりませんでした。しかし、オーストリア人医師ユリウス・ワーグナー=ヤウレック(Julius Wagner-Jauregg: 1857-1940年)は画期的治療法を発見しました。進行した梅毒患者に、マラリアを感染させるという治療です。ヤウレック医師が診ていた「進行した梅毒患者さん」が、マラリアに罹患したところ、梅毒によると思われる症状が軽快したのを見逃さなかったのが、この治療発見の元です。 色々な研究で梅毒トレポネーマは41度で死滅することもわかりました。マラリアによる発熱(多くは42度を越える高熱を発する)で、梅毒トレポネーマが死滅させるという「肉を切らせて骨を断つ」ような治療です。多くの梅毒患者さんにこの「マラリア感染治療」が行われ、効果が認められました。その功績に対して1927年のノーベル医科生理学賞が授与されました。当たり前ですが梅毒は治ったけれどマラリアで死亡してしまう人も多く、勿論、今では行われません。こんなに危うい治療でも「ノーベル賞」が授与されるくらいですから、ペニシリン発見以前には、この病気がいかに人類の脅威だったかがわかります。 この「マラリア感染療法」とほぼ同時期の1910年、医師であり細菌学者であった秦佐八郎とドイツの細菌学者エールリッヒが、ヒ素から梅毒特効薬の「サルバルサン」の開発に成功します。これがいわゆる「化学療法」治療薬第一号です。こちらの方が、本来、ノーベル賞に値すると思います。しかし、サルバルサンはヒ素から出来た化合物で、副作用が多く、梅毒の治療にはあまり使われませんでした。そして、ついに梅毒治療の特効薬である「ペニシリン」が使われるようになり、日本でも梅毒患者を診ることはほとんど無くなりました。 私は、感染してからあまり日が経っていない新鮮感染の梅毒患者さんは数人しか見たことがありません。そういう患者さんは感染症を専門とする先生のところに紹介していますが、最近、その先生の病院では毎週のように、梅毒患者さんの入院や治療依頼があるのだそうです。「10年前にはあり得ない話、いったいどうなっているのだろう」と仰っていました。 近年、爆発的に梅毒が増えている原因ですが、どの報道でもその原因は不明だとされています。しかし、私には、その原因が何となくわかります。グラフ「スマートフォン契約数の推移・予測」(MM総研)と、先ほどの図1の梅毒の患者報告推移と一緒に見てください。平成19年(2007年)にiPhoneが発売され、インターネットの接続が容易になりました。それに少し遅れて、梅毒感染者数が増えているように思えます。いわゆる「出会い系サイト」の出現が、梅毒の急激な増加の原因だと思います。「出会い系」というオブラートに包まれたような言葉で隠されていますが、実態は「買春、売春」です。管理者がいませんので、病気も野放しになっていると推測されます。ゆめゆめ近づいてはいけません。 最後に梅毒という病気について、簡単に症状と病期を記します。「3」という数字がキーワードです。 ペニシリン普及以前、「梅毒の診断ができて、初めて一人前の内科医だ」という言葉があったくらい、多彩な症状を示します。 第1期 そういう関係があってから、3週間後、感染部位に数cmのしこりができます。 しこりは潰瘍になることもあります。多くは鼠径部のリンパ節腫脹および圧痛を認めます。 これらは、自然に治ってしまいますが、感染力はあります。 第2期 それから3ヵ月経つと、病原菌が体中にばらまかれ、皮疹を生じます。 小さなバラの花に似ているので、バラ疹と言われます。小さなバラの花に似ているので、バラ疹と言われます。この発疹も消えたり、できたりします。 第3期 それから3年以上経つと、皮膚や筋肉、骨などにゴムのような腫瘍ができます。 さらに進行すると、進行性麻痺、大動脈瘤を生じます。 診断は、採血でできます。治療は「ペニシリン」です。幸い、未だに「ペニシリン耐性梅毒トレポネーマ」は見つかっていません。ですから、早期に適切な治療がなされると完治します。思い当たるようなことと症状がありましたら、ぜひ検査を受けてください。 なお、予防は、あまり怖いところには近づかない(しない)ことと、フランス語では「capote anglaise(イギリス人の帽子)」、イギリスでは「French letter(フランス人の手紙)」と言われている「モノ」の装着です。 【参考文献】 コロンブスが持ち帰った病気―海を越えるウイルス、細菌、寄生虫 ロバート・S. デソウィッツ(著) 翔泳社 1493――世界を変えた大陸間の「交換」 チャールズ・C. マン(著) 紀伊國屋書店 病が語る日本史(講談社学術文庫) 酒井シヅ(著) 形影夜話(けいえいよわ):杉田玄白著 玄白が70歳の時、1810年に刊行されています。今は、これがPDFで読めます。 Columbus Ships Crew コロンブスと一緒に航海した乗組員の一覧表です。気の毒なJuan de Moguerも入っています。 注1: 梅毒は新大陸(南北アメリカ)から、コロンブスの航海により世界中に広まったとする説が一般的になりつつありますが、元々、コロンブス航海以前から世界中にあったという説もあります。後者は近年の研究で、否定されつつあります。コロンブス航海以前の死亡者の骨をいくら研究しても、梅毒らしい所見が無いからという理由と、梅毒らしい所見を記した文献が無いからです。 注2: 日本名である「梅毒」という名前は、「楊梅(ようばい=ヤマモモ)の実」と梅毒に見られる皮疹が似ていることから、つけられています。確かに似ていますね。 図左:楊梅の実、図右:梅毒による皮疹 注3: 2016年のNature Communications誌に「人間が一夫一婦制であるのは、性感染症対策による」という論旨の論文が掲載されました。先史時代から、基本人類は「一夫一婦制」でした。それはどうやら「乱婚」すると、梅毒をはじめとする性感染症が蔓延し、人口減少につながることが「感覚的」に大昔からわかっていたので、性病蔓延を防ぐ方法として「一夫一婦制」が制度として取られたのだろうという論文です。現代に通じる話を、先史時代に当てはめ、数理学を用いて検討しています。面白いです。 Disease dynamics and costly punishment can foster socially imposed Bauch CT1, McElreath R2. Nat Commun. 2016 Apr 5;7:11219. doi:10.1038/ncomms11219. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2018/03/05 進駐軍がペニシリンを大量に必要とした訳は… ここまで日本におけるペニシリン研究、開発、合成について紹介してまいりました。 今回ではその続きをご紹介して、この日本製ペニシリン「碧素」の話題の結びにいたします。 日本製ペニシリン「碧素:へきそ」の効果はどうだったのでしょうか? 臨床医としてはとても興味があります。きちんとした記録はあまり残っていません。日本で作られた「碧素」は直ちに患者さんに使われました。現天皇、皇后両陛下ご成婚の立役者としても有名な故小泉信三慶応義塾大学塾長が東京空襲で大やけどを負った際の治療にも使われています。その他、多くの感染症の患者さんに使われましたが、系統立てた治療記録は残っていません。戦争の末期の混乱期でそれどころでは無かったのかもしれません。 今回も終戦間近からの時系列的にご紹介してまいりましょう。 ペニシリン委員会の中心だった軍医学校は空襲を避けるために山形に疎開しています。それに伴い、ペニシリン委員会の中心人物の稲垣軍医少佐も山形に赴いています。そういうなか、昭和20年8月6日、広島に原爆が投下されます。 早速、余談になってしまいますが、稲垣は、原爆について1年も前から、軍医学校でその可能性について話をしていたと記録されています。多くの方にあまり知られてはいませんが、当時、原爆を日本も作ろうとしていたのです。理化学研究所の仁科芳雄博士が昭和17年から、原爆製造を目指して研究をしていました。それを稲垣軍医は知っていたのですね。さらに話は横道に逸れますが、雪の研究で有名な物理学者「中谷宇吉郎」博士は、昭和12年すでに原子の力を応用した爆弾が出来ることを予見した文章を残しています。「見える人」には見えるのですね。 広島の原爆被災者の治療にも「碧素」は使われましたが、時期からして十分な量が使われたとは思われません。8月9日には、長崎にも原爆が投下されます。8月10日、稲垣軍医少佐は山形から上京します。そしてすでに敗戦が決まったことを、密かに知り、翌8月11日に「碧素製造に関する秘密特許」を陸海軍大臣の名において申請しました。 敗戦が決まっているのに何故、急いだのか?それについて稲垣は後年、こう書いています。 「戦後、世界貿易における一権益として国産碧素製造技術特許を取っておくことが必要であると思ったからだ。それは、賠償の一助になるかもしれないとも思った」 天皇陛下によるポツダム宣言受諾放送前ですから、随分と目端が利いた話です。そして、後に形は変わりましたが、結果的に稲垣が考えたことが正しかったことが証明されます。 稲垣の目端の良さを表すことがもう一つあります。8月8日、山形の上山駅で多くのソ連人が北海道を目指す列車に乗っているのを見て、ソ連が日本を攻めることにしたので、その前に本州に居るソ連関係者は身の安全のために北海道を経由して樺太に向けて逃げていくところなのかもしれないと思ったそうです。その予想は当たり、翌8月9日、ソ連は対日宣戦布告しました。 8月15日、昭和天皇陛下による「ポツダム宣言受諾」がラジオで放送されます。ついに戦争は終わります。ペニシリン委員会も解散します。 戦争中のペニシリン製造物語はここで終わりますが、ここから戦後のペニシリン製造へと話を続けます。 昭和20年9月初めて日本に米国製ペニシリンが届きました。きちんと精製されたペニシリンは、日本製の「黄色みがかった精製度の低い碧素」と違い、キラキラとした白い結晶で、効果も碧素より数段上でした。梅沢浜夫によると純度は3-5倍だったそうです(梅沢については最後に紹介します)。 しかし、ペニシリン委員会に属した面々は決して負けたとは思わなかったそうです。曰く「物資があれば精製はできた」、「血中ペニシリン濃度を測る方法は日本のディスク法の方が優れていたので、アメリカの雑誌にこの方法が掲載された」etc.と書き残しています。戦争には負けたけれど、物資があればペニシリン製造に関しては負けなかったと自負していた面々が多かったのだと思います。こういう研究者魂は良いですね。 昭和20年のある日、軍医学校の校長だった井深健次らは日本でのペニシリン研究業績と万有製薬が作ったペニシリンをGHQの命令で提出しました。敗戦で、打ちひしがれた日本には産業らしい産業はありませんでしたが、ペニシリン製造があったのです。「青カビがあれば作れるらしい」ということが知れ渡っていたので、製薬会社は勿論のこと、お菓子屋さん、レーヨン屋さん、砂糖屋さんなど様々な企業が、ペニシリンを作ろうとしました。昭和22年、前年に設立された日本ペニシリン協会に正式登録された会社だけでも80数社あったのです。未登録というか、「闇」で作っていた会社もあったかと思われます。 ここは話が多少前後します。昭和21年1月、厚生省(今の厚生労働省)がペニシリンの公定価格を決めます。同年5月に万有製薬が公認製造許可1号を、森永製薬が許可2号を厚生省から交付されます。GHQは東京大学衛生学研究所をペニシリン検定所として定め、単位などを統一します。万有が検定に提出したペニシリン3万単位167本が日本最初の公認ペニシリンでした。ところがその167本の内、なんと107本は「性病向け」に使われたのです。進駐軍(GHQ)は「日本の赤線地帯は戦争より恐ろしい」と言い、その後もペニシリンの大半を「性病治療」に向けたのでした。進駐軍が最もペニシリンを欲していたのです。 ペニシリンを日本で増産するため、昭和21年11月、アメリカからペニシリン研究の権威者の一人であるJ.W.フォスターを招きました。フォスターはこの時、米国でペニシリン生産のために使っていたQ176株を持ってきてくれたのです。覚えていますでしょうか?アメリカのペオリア市でメロンの上に生えていた青カビです。この青カビを用いて、フォスターが教えてくれた深部培養(タンク培養)を用いて、日本での本格的ペニシリン生産が始まります。 フォスターは当時の講演で「このタンク培養はアメリカでも上手く行くまでに3年もかかった。日本ではもっと時間がかかるだろう」と述べています。しかし、結果はそんなにはかからなかったのです。これまでに記してきた如く、ペニシリンへの知識はペニシリン委員会により、全国各地で共有されていたからだと思うのですが、あっという間にタンクが作られます。 大津市の東洋レーヨンでタンク培養が、昭和22年3月に始まったのです。フォスターの講演を聞いてから、たったの4ヵ月しか経っていませんでした。フォスターは大津市の東洋レーヨンでのペニシリン生産の操業開始式に出席し、びっくりしています。それくらいペニシリンに対する知識が普及していたのです。米国の援助もあり、昭和21年には3万単位のペニシリンが月産1万5千本だったのが、同22年には10万単位で6万5千本となり、23年には 25万本となります。 昭和24年、ペニシリン協会の3周年記念講演で、GHQのサムス大佐は「現在、世界の中で、ペニシリンを大量に作れるのは米国、英国、そして日本の3ヵ国しかない。是非、このペニシリンを輸出するように」と述べています。敗戦国だったドイツ、イタリアは勿論、戦勝国だったオランダ、フランス、ソ連でも大量生産はできなかったのです。 そして、昭和25年、朝鮮戦争が勃発したため、ペニシリンの需要が上がり、ついに輸出することになります。 そうです。上記 28. で述べた如く、稲垣の予想が当たったのです。 稲垣克彦先生の写真です(終戦後、警察病院勤務時代) 日本でのペニシリン製造の道を開いた稲垣軍医少佐は、終戦後警察病院で内科医として勤務しています。リウマチの本を書いたりもしていますが、ペニシリンに関しては昭和21年に自らの名前を伏せて「ペニシリン」と題した本を出版しています。筆和会編、日本医書出版社、昭和21年に刊行されています。しかし、以後はペニシリンに関することからは一切、手を引いています。この辺りの出処進退も潔いですね。 警察病院を退官後は日本橋で開業し、2004年2月4日、92歳でその生涯を終えています。今はほとんど知る人もいないのですが、偉大な生涯でした。 再三、書きますが、キーゼの総説がドイツから届き、彼がそれを読み解いて1年余でペニシリンを作り上げられたのは、彼の指導力の賜物だと思います。医学、薬学、農学、理学、その他、色々なところに目を配り、日本の科学の総力を結集したからこそ戦中戦後の大変な時期にも関わらず短期間に偉大な成果が得られたのだと思います。 日本製ペニシリン「碧素」の話はこれにて結びとさせていただきます。 参考までに: ペニシリン委員会の主立ったメンバーは後に、抗生物質、抗癌剤の分野で活躍します。 その代表が、梅沢浜夫です。梅沢はカナマイシン、ブレオマイシンの発見により、世界中で広く知られています。先般、大村智先生が抗寄生虫薬である「イベルメクチン」の発見に対する業績でノーベル賞を受賞しましたが、イベルメクチンは土壌細菌である放線菌が作る物質です。日本でのこういう研究の「元」は「ペニシリン委員会」だったのだと思います。 現在、平和な日本で、こういう日本の科学力を結集した研究をしようとしても、簡単には進みません。戦時ならではのことだったと思います。 【参考文献】 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン(著), 北村 二朗(訳) 平凡社刊 碧素・日本ペニシリン物語 角田房子(著) 新潮社刊 内容が濃い、凄い本です。是非、新潮新書または新潮文庫で再刊して欲しいですね。 ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル(著), 中山 善之(訳) 佑学社刊 失われてゆく、我々の内なる細菌 マーティン・J・ブレイザー(著) みすず書房刊 水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業:犬丸秀雄関係文書を基にINK科学史研究』266, 2013年, pp. 70-80 深海の使者 吉村昭(著) 文春文庫 中谷宇吉郎全集:1-8巻 岩波書店 抗生物質を求めて 梅沢浜夫 文藝春秋社 くすりの社会誌 西川隆(著) 薬事日報社 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2018/02/19 ペニシリンの大量生産に、日本で初めて、成功したのは御菓子やミルク製品で有名な「森永製菓」 日本で初めて患者さんにペニシリンが使われたのは東北大学病院です。1944年7月、同病院に入院中の敗血症の患者さんに投与されたのです。このペニシリンは劇的に効いて、死の淵にあった患者さんは奇跡的に回復しました。 ここまでが、前回のお話です。 前回に続き、日本におけるペニシリンの研究、開発、合成について時系列で整理していきます。 しかし、思わぬことが原因で研究は一時的に頓挫しました。ペニシリンを産生する青カビは、1944年6月まで、多数見つかっていました。この中から有望な青カビを見つけて、ペニシリンを作ろうとしたのですが、6月になったら、青カビが急にペニシリンを作らなくなってしまったのです。後に分かったのですが、青カビは気温が25度以上になるとペニシリンを作らないのです。つまり6月になり、気温が25度を越えるようになったので青カビはペニシリンを作らなくなったのですね。しかし、9月に入り、気温が下がると、青カビはペニシリンを作り始めたのです。それで一気に研究が進みました。 第6回ペニシリン委員会が1944年10月30日に開かれました。この会議で3種類の青カビが、ペニシリンの大量生産のために使われることが決まりました。 50番(イワタ研究所) 176番(東大農学部藪田教室) 233番(同前) の3種です。 ここまで研究が進んだので「日本でもペニシリンが作れるようになったこと」を公表しました。1994年11月16日のことです。新聞各紙に大きく取り上げられました。稲垣軍医はペニシリンを大量生産するにはどうしたらよいか、そればかり考えていたそうです。お薬の大量生産と実験は別物だからです。宇治科学、三共、帝国臓器などの製薬会社がペニシリンの大量生産に名乗りを上げていました。 しかし、最初に選ばれたのはお薬とは関係の無い乳業会社「森永製菓」でした。森永製菓が選ばれた経緯もあり得ないような話です。 稲垣軍医がペニシリン関連の文献を収集していたことはこれまでにもお伝えしました。その収集した文献の中にエジプトで発行された写真雑誌「パレード」がありました。どういう経緯でエジプトの雑誌が日本に入っていたのでしょうか。興味が尽きませんが、それはさておき、この「パレード誌」の中にどこかの国のペニシリン工場が掲載されていたのです。その工場の写真を見ると、工場内に大きな牛乳瓶の様なモノが林立しており、それがミルクプラントのように見えたのです。それを見て、ペニシリン大量生産にはミルクプラントが利用できるのではないかと、稲垣軍医は考えたのです。 稲垣がパレード誌を読んだのが、1944年11月17日のことです。11月18日には、当時ミルクプラントを持っていた「森永製菓」に連絡をとり、11月19日には、「パレード誌」を持って静岡県三島にある「森永製菓」の工場に赴いています。そして、森永の食品工場でペニシリン大量生産を試みることが決まります。それが11月21日のことです。 稲垣少佐のフットワークの良さというか、着眼点と言うか、面白いです。写真雑誌を見て、それが本当にペニシリンプラントかどうか解らないのに、「何となくミルクプラントに似ているから森永に頼もう」と普通の人は思いつかないと思います。実行力も凄いです。 稲垣は、当時の日本軍が敗戦に次ぐ敗戦状態だったのをうっすらと知っていたから、余計に「早くペニシリンを戦地に届けたかった」と後に述べています。それにしても、エジプトの写真雑誌を見て、文字通り“直ちに”“即日”森永に連絡をして、工場まで見に行く実行力には感服します。それが、結果的に「当たり」だったのです。 森永も偉かったのですね。稲垣軍医の話を聞き、直ちにペニシリン合成のための工場設備を作り上げます。といっても、僅か20坪の小さな工場です。ミルクプラントではありませんでした。森永が持っていたほかの技術を活かして、ペニシリン生産のための設備を数日で作り上げたのです。 20坪の“工場”で、前述の176番株、233番株を使ったペニシリン生産が始まります。終戦前でもう物資が乏しい時代です。元は缶詰工場だった殺菌室を使い、使用済みのシロップ生産用ガラス、ソースを作るのに使ったガラス器具、牛乳からバターとカゼインを取った残りカス「ホエイ」を使った培地など、要するに「廃物利用」をして工場を作ったのです。指導したのは、後にカナマイシンやブレオマイシンの発見で世界的に有名になる梅沢浜夫医師です。 信じがたい話ですが、この工場で12月に入ると、ペニシリン精製液ができたのです。稲垣軍医が、写真雑誌パレードを見てから、2週間しか経っていません。闇雲にやったわけではありません。それまでのペニシリン研究で解っていたことを全て投下したのです。適当に作ったのでは無く、きちんとブドウ球菌に効くのを確かめて作っていたのですから、凄いですね。 森永より一歩遅れて、萬有製薬もペニシリン生産を開始します。梅沢の指導を受けて、愛知県岡の製糸工場の設備を用いてペニシリンを作りました。こちらのペニシリンも、指導を受けてから、1ヵ月で製品が完成します。 なお、ペニシリンの製品化に当たり、英語をそのまま使うのは、まかり成らんと言うことで、ペニシリンは「碧素:へきそ」と名付けられました(余話1参照)。 1944年12月23日、第7回ペニシリン委員会が開かれました。その席上、森永製菓と萬有製薬が作ったペニシリン精製液とが、披露されました。第1回ペニシリン委員会が発足してから、僅か10ヵ月で、ペニシリンの商業生産ができるようになったのです。 これらのペニシリンは実際に患者さんに投与され劇的な効果を挙げています。たくさんの奇跡的治療例が得られたのです。碧素は全国民が渇望するお薬になりました。物資不足で大変だったと思いますが、両社ともに生産量を上げ、1945年8月にその生産のピークを迎えていました。 1945年8月15日、日本は終戦を迎えます。結局、日本でのペニシリン生産は、太平洋戦争に間に合ったと言えますが、米軍がペニシリンを大量に戦地で使用したのと違い、日本製ペニシリンは戦地では細々としか使われなかったのです。 しかし、他国からの情報が閉ざされた日本で、わずか10ヵ月という短期間で、敗戦国日本が世界で3番目のペニシリンの大量生産に成功したのは誇っても良いことだと思っています。 潜水艦がドイツから、キーゼの総説が載った雑誌を持ってこなければ、アルゼンチンからの「ペニシリン報道」が無ければ、稲垣軍医という稀有のコンダクターがいなければ、効率よくペニシリンを作る青カビを見つけることできなければ、つまりさまざまな偶然が重ならなければ、この偉業はなしえなかったと思います。色々と考えさせられます。 次回が日本製ペニシリン「碧素」のお話の最後です。 戦争が終わったのに、日本ではペニシリンが大量に必要とされるようになりました。何故でしょう?今に通ずる話です。以下、次回に続きます。 図1: 日本製ペニシリン「碧素」です。下の方に森永薬品とあります。碧素と名付けられていますが、碧色(へきしょく≒青緑色)はしていません。碧素をつくるカビが碧色だったので碧素なのです。 注:このペニシリン(碧素)は「公益財団法人 日本感染症医薬品協会」の所蔵物で、現在内藤記念くすり博物館に寄託されています。この写真は同博物館のホームページにあり、同協会、同博物館の許可を得て掲載しています。 こぼれ話1: ペニシリンの製造特許は、ペニシリンを発見したイギリスではなくて、ペニシリン大量生産に成功した米国で出願されて成立しています。その様な話が、日本に伝わる訳も無く、日本製ペニシリンに関する製造特許は「日本帝国陸海軍大臣」を出願人として出すことが決まりました。結局、東京空襲のために軍医学校が山形に疎開したため、この特許話は流れてしまいます。 こぼれ話2: 稲垣軍医少佐は終戦を境にして、ペニシリンとは縁を切り、内科医として活躍します。繰り返しますが、稲垣先生が、いらっしゃらなければ、碧素は作られなかったと思います。碧素に関係した方々は、皆さんそう言っています。今でも新薬開発には、稲垣医師のような優秀なオーガナイザーが必要だと思います。 こぼれ話3: 国産ペニシリンの第一号は森永製菓が作りました。しかし、森永製菓は終戦後暫くしてペニシリンの製造を止めています。地元の雑誌(静岡県三島市の「大場誌」)には、「昭和19年10月三島工場で碧素第一号が完成し12月に軍に納入することになり、昭和20年10月に大場工場をペニシリン製造工場として森永薬品と改称し培養販売を続けた」旨の記載があるそうです。前出の写真にも見えますように、「森永薬品」という会社があったのですね。今は森永グループには製薬会社はありません(参考文献9.)。 【参考文献】 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン(著), 北村 二朗(訳) 平凡社刊 碧素・日本ペニシリン物語 角田房子(著) 新潮社刊 内容が濃い、凄い本です。是非、新潮新書または新潮文庫で再刊して欲しいですね。 ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル(著), 中山 善之(訳) 佑学社刊 失われてゆく、我々の内なる細菌 マーティン・J・ブレイザー(著) みすず書房刊 水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業:犬丸秀雄関係文書を基にINK科学史研究』266, 2013年, pp. 70-80 深海の使者 吉村昭(著) 文春文庫 中谷宇吉郎全集:1-8巻 岩波書店 抗生物質を求めて 梅沢浜夫 文藝春秋社 三島市立図書館ホームページ 「レファレンス事例」 http://tosyokan.city.mishima.shizuoka.jp/referencedetail?4&num=1943115 これは凄いレファレンスです。三島市の図書館の調査能力は素晴らしいです。このリファレンスは公開されています。同リファレンスより抜粋、一部をお示しします。 以下、引用 「まず森永の社史を見、別置「K」and「ペニシリン」でヒットした市史を確認、その後地域資料ではないもので裏付けを得ようと、「ペニシリン」で検索して『碧素・日本ペニシリン物語』を確認。ちなみに大場の森永の薬品工場は、現在の大場駅前にあるコーポラス大場の辺りにあった。森永製菓一〇〇年史』p9年表に「昭和19年11.21 三島工場(食品工場でペニシリン生産研究開始(12.10液体抽出に成功、わが国初の大量生産によるペニシリン「碧素1号」完成)」「昭和20年10.1ペニシリン製造を薬品会社大場工場に移管」、p130に見開き解説あり。 また、『碧素・日本ペニシリン物語』p134にも、三島の森永で日本で初めてペニシリンを製造するに至った経緯が書かれている。<資料最終確認日2012年1月27日> 『大場誌』p222の「森永製菓㈱大場工場」の項に「昭和19年10月三島工場で碧素第一号が完成し12月に軍に納入することになり、20年10月に大場工場をペニシリン製造工場として森永薬品と改称し培養販売を続け」た旨記載あり。また、沼津の微生物科学研究所に、梅沢濱夫記念館があったが、記念館は現在東京の研究所内に移転している(記念館の設計は一高碧素会の浦良一氏)。」 引用終了。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2018/02/05 「2番じゃダメですか?」良いんです! 本当? 1943年8月7日に「ドイツ人医師キーゼが書いたペニシリン関する総説」が掲載されたドイツの雑誌「Klinische Wochenschrift誌」が、日本からドイツに赴いた日本のイ号潜水艦により、同年12月に日本に届けられ、日本におけるペニシリン開発が始まったことを前回でお伝えしました。そして、その中心人物が稲垣軍医少佐でした。 前回に続き、日本におけるペニシリンの研究、開発、合成について時系列で整理していきます。 第1回ペニシリン委員会が1944年2月1日に開催されました。稲垣少佐が中心となって人選をすすめ、医学部、農学部、理学部など色々な分野の研究者が参加しました。この委員会が最初に行ったのは、日本全国からペニシリンを作る(かもしれない)青カビの菌株を集めることでした。それと並行して世界中から、ペニシリンに関する情報を集めることを、関係方面に依頼もしています(繰り返しますが、戦争のため、日本に西洋の科学情報は殆ど入ってこなくなっていました)。 第2回ペニシリン委員会は1944年3月8日に開かれました。この会合で、ペニシリンの実験に要する資材確保を進めることが決まりました。1944年は終戦の前年です。様々な物資が不足しており、実験のための資材調達が一番の問題でした。しかし、ペニシリン研究のためということで、貴重な資材がかき集められました。 1944年3月23日、東京帝大農学部発酵化学研究助手の棟方博久(むねかた ひろひさ)が「菌株120番が分泌する物質は、5倍希釈でも有効」と報告しています。この報告が本邦初の「ペニシリン」の報告だと思われます。棟方助手は発酵化学が専門の研究者ですから、カビに造詣が深かったのでしょう。ペニシリン委員会が発足して1ヵ月足らずで、ペニシリンを分泌する青カビを見つけたのですね。凄い話です。ほかにも、いくつかの「ペニシリン」を分泌する菌株の報告がありました。一方、後述する如く「こっそり」と研究をしていたグループもありました。 このペニシリン合成に関する研究は、「情報戦」「知的な戦い」だと見抜いていた稲垣少佐は、旧制第一高等学校(現在の東大教養部)の学生を、ペニシリン委員会に「学徒動員」します。色々な言語の文献を翻訳させるためです。この辺りの着想が凄いですね。 ペニシリン委員会発足後、約2000種!の菌株が集められました。次々と培養し、ペニシリン合成の可能性を探りました。その中でも、東京滝野川にあった岩田植物生理化学研究所の「イワタ50番」、東京帝大農学部の「M24番」「H9番」などが比較的有望でした。 同年5月16日、第3回ペニシリン委員会が開かれ、それぞれの菌株の検討が行われますが、「ペニシリンを作る菌株」はあるのですが、「低濃度でも有効に効くペニシリンを作る菌株」は見つかりません。大量生産するには、力価の高い(=少量でも良く効く)ペニシリンを作る菌株を見つけることが、一番大切です。 丁度、日本で第1回ペニシリン委員会が開かれた頃に、ペニシリンの合成に成功したフローリーは英国からソ連に赴き、ペニシリン合成の指導をしています。そういう情報が1944年5月9日、ペニシリン委員会にも、もたらされました。 同年7月4日、第4回ペニシリン委員会が開かれますが、これだ!というような菌株の報告はありませんでしたが、少しずつ結果の良い菌株が得られています。 同年8月19日、前述の「イワタ50番」の菌株が250倍希釈でも有効との報告がありました。ほかの菌株もだんだんと力価が上昇していきます。研究開始、半年ですから凄まじい速さだと思います。目標がわかると研究はしやすいとはいえ、簡単な話ではありません。 同年9月1日 、第5回ペニシリン委員会が開かれます。「イワタ50番」東京帝大農学部の「P176番」「P233番」の菌株が有望視されました。これらの株をまとめて、動物実験、大量生産、臨床治験を行うことが決まりました。集中的に、物資、人材を纏めて研究することになったのです。 同時に、非常に面白いことがペニシリン委員会とは別に密かに進行していました。稲垣少佐は公平な方で例の「キーゼの総説」を全国各地の大学や研究者に送り、その後も資料を送り続けていました。しかし、ペニシリン委員会とは全く別に「ペニシリン合成」を目指した研究者がいたのです。東北大学医学部細菌学研究室の方々です。 東北大学医学部細菌学研究室は1944年9月15日に開かれた東北医学会で、その研究成果をいきなり発表しました。9月17日付の全国紙に「東北大学医学部細菌学研究室は米英の研究を遙かにしのぐ、躍進する万能薬を開発!」と報道されます。しかも、既に臨床使用(患者さんへ投与)して、劇的成果を上げたと報道されました。同大学黒屋政彦教授のグループの研究です。 前述したこととはちょっと、矛盾するのですが、何故か、黒屋教授の元には「キーゼの総説」が届いていませんでした。しかし、ペニシリンを英国のフレミングが発見したことはアルゼンチンからの朝日新聞の報道で知っていました。そして、1929年にフレミングが「ペニシリンの発見を発表した」1929年の「イギリス実験病理学雑誌」が東北大にあったのです(前回を参照ください)。それを元に研究していたのです。この雑誌が東北大学にあったのも「奇跡」だと思います。 東北大学では密かにペニシリンの研究が進められていました。日本初のペニシリン合成に成功したのは、東北大学医学部細菌学研究室です。ペニシリンを分泌する菌株を発見したのは近藤師家治(コンドウ シゲジ)医師です。近藤は東北大学医学部を卒業して間もない研究生でした。驚いたことに黒屋教授に命ぜられたわけではなく一人でこっそりと実験をしていたのです。教授に命ぜられた仕事は昼に行い、夜にこっそりとペニシリンの研究をしていたのです。 近藤はフレミングのペニシリン発見時の逸話を真似て、「シャーレの蓋を開けておいた」のです。そうしたらフレミングのときと同様に「効率よくペニシリンを作り、毒性も低い菌株」がその開けておいたシャーレの培地に生えたのです。あり得ないですが実話です。 この菌株を用いて作ったペニシリンで動物実験から人体への投与まで行っています。凄いバイタリティです。1944年4月に動物実験を行い、同月末には、日本初の「ペニシリンの人体への投与」も行ったとされていますが、カルテで確認できるのは、1944年7月、東北大学外科に入院した敗血症の患者さんへの投与です。この「ペニシリン」は劇的に効いて、死の淵にあった患者さんは奇跡的に回復しました。ほかにもカルテで確認できるのは、同大学の外科、皮膚科での計5例の記録です。何れにせよ、1944年7月、日本で初めてペニシリンが臨床使用されたのです。 ペニシリンに関する情報が日本に入って半年しか経っていない時期の出来事です。戦時でありながらも(戦時だからかもしれませんが)、科学者の研究意欲が盛んで会ったこと、イギリスでの開発方法がおぼろげながらでもわかっていたことも、研究が早く進んだ要因だったと思います。 以下、次回に続きます。 注1: 東北大でのペニシリン研究について、ペニシリン委員会は、かなり面白く無かったと思います。後に東北大学のグループもペニシリン委員会に参加します。戦時ですから、感情よりも、実績が重んじられたのですね。普通なら足の引っ張り合いをするような場面ですね。こういうところは、今でも通じるところがあるのではと思いますが、平時では難しいと思います。 注2: 日本が当時行ったペニシリン研究を「二番煎じ」だから、科学、医学の世界ではあまり意味が無いと思う方がいらっしゃるかもしれません。以前、ある議員さんが「2番ではダメですか?」とやって批判されました。科学の世界で「2番は無価値か?」というと実はそうでも無いのではと私は考えています。日本のペニシリン研究は、科学の世界では、いわゆる「二番煎じ」です。でも私は充分な意義があったと思います。日本は世界で3番目にペニシリンの商業生産に成功し、それにより多くの患者さんが助かりました。また、この研究が元になって研究者が育ち戦後の日本で抗生剤の研究が花開いたとも言えます。このペニシリン研究に携わった優秀な研究者は、後に多くの抗生剤や抗がん剤を発見しています。 少し話は変わりますが雪の研究で有名な物理学者「中谷宇吉郎」は太平洋戦争が始まる前、アメリカ発の「原子力に関する細かい実験に関する論文」が異常に増えていることに気づいていました。中谷は、この膨大な数の論文を読んで、遠からず米国で原子爆弾が作られるであろうことを予見していました。原子爆弾を作るには巨額の費用がかかります。大がかりな装置や多くの専門家も必要です。日本で原爆製造を行うのは無理だからそういう米国発の論文をよく読んで(できれば追試実験をして)、世界から置いてきぼりにならないようにする(=2位でも良い)ことが必要であるとする論考を書いたところ「勇ましい人」に批判されました。でも中谷宇吉郎の態度は当時の「物資や研究資金の乏しい日本にとって必要だった」と思います。冷静で現実的な態度だと思います。 そういう冷静な態度を、ペニシリン研究において、とったのが、稲垣少佐です。稲垣少佐をはじめとするペニシリン委員会の目標は英米のペニシリンと同等の効力を持つペニシリンを大量生産するのが目標であり、ペニシリンに対抗して、ペニシリンよりも強力な抗生物質を作ろう(=1番を目指す)などとは考えていません。それだから、早く目標を達成できたと思います。というわけで、状況が許せば「1番」を目指すのは当然ですが「2番や3番では意味が無い」とは思いません。 【参考文献】 碧素・日本ペニシリン物語 角田房子(著) 新潮社刊 これは凄い本です。徹底的に調べて日本でのペニシリン開発経緯を明らかにしています。これぞノンフィクション!と言っても過言では無いと思います。この本が出版された当時、「碧素」開発に携わった方がまだ、ご存命でしたので、貴重な話が聞けています。今、絶版となっています。ぜひ、再版して欲しいですね。 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン(著), 北村 二朗(訳) 平凡社刊 ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル(著), 中山 善之(訳) 佑学社刊 失われてゆく、我々の内なる細菌 マーティン・J・ブレイザー(著) みすず書房刊 水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業:犬丸秀雄関係文書を基にINK科学史研究』266, 2013年, pp. 70-80 深海の使者 吉村昭(著) 第二次世界大戦中に日独間を密かに航海した潜水艦の物語です。とても面白く、しかし、悲しい物語です。 中谷宇吉郎全集:1-8巻:岩波書店 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2018/01/09 ペニシリン研究の「基」をもたらしたのは「潜水艦」だった ペニシリンの発見から、ペニシリンがお薬として、主に米国で大量生産が可能になるまでの奇跡的な経緯を以前お伝えしました。 「ペニシリンの発見及びペニシリンがお薬になる」までのあり得ない偶然の数々の物語(1) 「ペニシリンの発見及びペニシリンがお薬になる」までのあり得ない偶然の数々の物語(2) 「ペニシリンの発見及びペニシリンがお薬になる」までのあり得ない偶然の数々の物語(3) 「次回から、ある国でペニシリン生成製造がとんでもない早さでなされたことを数回に分けてお伝えしようと思います」と以前に当コラムで書いたのですが、筆者の都合で伸び伸びになってしまいました。お詫び申し上げます。今回からその続きをお伝えしようと思います。 英国、米国に次いでペニシリンの大量生産に成功したのは、なんと、米英との戦争に負けた「日本」でした。日本は高温多湿(特に梅雨時)の時期がありますので「青カビ」が多いからでしょうか、比較的簡単?にペニシリンを作ってしまいます。日本でペニシリンが大量生産されるまでの話も、本家本元には及びませんが、それでも奇跡のような嘘のような話の連続なのです。ただの奇跡ではなく、奇跡を起こす根底にはひとえにまじめに真っ当に努力した人々がいたこともお伝えしようと思います。 以前、お伝えしたようにペニシリンの発見者フレミングはペニシリンの発見を1929年「イギリス実験病理学雑誌」に、そしてペニシリン合成に成功したフローリーとチェインはペニシリンの抗菌力についての論文を1940年「ランセット」に載せています。フローリーとチェインは1943年までにペニシリンに関する論文を数編発表しています。外国で発行された雑誌を日本で簡単に見られる時代ではありません。 日本にペニシリン情報が入ったのが、1943年7月くらいだと推測されています。結構早いですね。記録は残っていないのですが、当時の小泉親彦厚生大臣が「アメリカでどんな感染症にも効く新薬が発見された」と演説したと言われていますが、記録がありません。この演説を聞いていた人の伝聞しか残っていません。 はっきりと記録に残っている「日本にペニシリン情報が伝来した日」は1943年12月21日です。当時32歳で陸軍軍医少佐だった稲垣克彦医師の手にペニシリンの医学情報が渡ったと記録されています。稲垣医師は日本におけるペニシリン開発のキーパーソンです。少しわかりづらいのでまとめます。 1943年8月7日、ドイツで発行されている「Klinische Wochenschrift誌:(日本語に訳すなら臨床週報?)」という医学雑誌にペニシリンに関する論文が掲載されました。 これを書いたのはベルリン大学薬理学教室のマンフレッド・キーゼ博士です。論文のタイトルは、"Chemische Therapie mit Antibakteriellen Stoffen aus Niederen Pilzen under Bakterien"です。当たり前ですがドイツ語で書かれた論文です。英文のタイトルは "Chemical therapy with antibacterial substances from various fungi and bacteria."です。これを以下「キーゼの総説」と略します。この論文が稲垣医師の元にドイツから届いたのです。「キーゼの総説」には「青カビから作られた“ペニシリン”と言う物質が様々な感染症を劇的に治す」と書かれていました。 1943年8月7日にドイツで発行された雑誌が1943年の12月21日の東京にあったのが“奇跡のはじまり”です。当時、欧米と日本は情報が途絶されていました。1941年12月8日、真珠湾攻撃により第二次世界大戦が始まり日本は「情報鎖国状態」となっていたからです。特に科学技術や医学に関する世界の情報は日本に入らなくなっていました。 日本の科学者、医学者は情報を渇望していました。戦争の勝ち負けは「武器、兵力」だけでなく、科学の総力戦の一面もあります。良きにつけ悪しきにつけ戦争を契機として科学は飛躍的発展を遂げることが多いのです。ペニシリンに関しても、同様のことが言えます。戦争が無ければ英国や米国でのペニシリン開発もスムーズには進まなかったと思います。 「情報鎖国」におちいっていた日本ですが、手をこまねいていたわけではありません。最新の科学技術情報を同盟国ドイツから得るために、色々な方法が試されました。その一つがなんと潜水艦です。日本海軍の伊号潜水艦がドイツに行き、様々な軍事や科学に関する情報をドイツから持ち帰ろうと画策したのです。言うは易く行うは難しです。日本から、インド洋、喜望峰、大西洋を航行しドイツに行きまた同じ航路を帰ってくるのです。平和な時代でも大変です。それに加えて途中の洋上には敵国の目が光っています。それをかいくぐる必要があります。結局、5隻の潜水艦が日本から、ドイツに赴いていますが、無事日本に帰ってこられたのはたった1隻です(この辺りは参考文献6が詳しいです)。その一隻によりドイツから日本にペニシリンの情報がもたらされたのです。 それを稲垣軍医が読んだのですね。キーゼの総説を読んでペニシリンの効果にびっくりした稲垣は日本でも直ちにこの「ペニシリン」なるモノを作らないと大変なことになると思ったのです。キーゼ博士の総説はそれくらい、インパクトがあったのですね。当時、ドイツ領になっていたオランダのデルフトでもドイツ政府によるペニシリン研究が始まっていましたが、その研究もこの論文を基に始まっています。 しかし「キーゼの総説」にペニシリンの詳しい作り方が書いてあるわけではありません。どうやら「青カビがペニシリンなる物質を産生しそれが感染症の治療に役立つ」らしいくらいのことしか書いてありません。それでも稲垣は直ちにペニシリンの検討会を組織します。とはいえ研究資材も少なく、簡単に研究が始まったわけではありません。 以下わかりづらいので時系列にします。 なお、上述した1929年にフレミングが「イギリス実験病理学雑誌」に発表した「ペニシリン発見」に関する論文ですが、奇跡的なことに日本にもある大学にもあったのです。この論文を所蔵していたのは日本でただ一つの大学だけでした。このような雑誌が日本に入っていたことも凄いですね。この論文は、英国でもそうであったように、日本でも誰にも省みられてはいませんでした。それは他の諸外国でも同様です。フローリーとチェインが目を付けるまでこの論文は「お蔵入り」していたのです。何れにせよ日本にこの論文があったことはとても重要でした。この論文にはペニシリンの作り方の基礎技術が書かれていたからです。 さて日本でのペニシリン開発の顛末を時系列で記していきます。 1943年8月7日号の「Klinische Wochenschrift誌」に「キーゼの総説」が掲載される。この論文はフレミング、フローリー、チェインの書いた論文の解説です。ドイツにはどうやら中立国から、フレミング、フローリー、チェインの論文が届けられていたのですね。それを読み解いて解説したのが「キーゼの総説」です。何時の時代も情報は大切です。 ベルリンの日本大使館に「科学文献収集」のためだけに日本から赴いていた文部官僚の犬丸秀雄氏(後の東北大学教授)がこの「キーゼの総説」が載っている「Klinische Woch-enschrift誌」を日本からドイツに赴いた日本海軍の伊号潜水艦に積み込みます。そして、同艦は1943年10月5日、ドイツを出発。 注:後に犬丸氏はこの「Klinische Wochenschrift誌」を特に選んだわけでは無い、記憶にも無いと記しています。たまたま、ベルリンの日本大使館に置いてあった雑誌を潜水艦に積み込んだのでしょう。それが後に大きな影響を与えるのだから、何が幸いするかわからないですね。ちなみに犬丸秀雄氏は東京大学法学部出身の文系文部官僚です。1943年からベルリンが陥落する1945年5月まで、ベルリンから西欧の科学情報を日本に様々な方法で送っています。戦後は本業の法学で東北大学教授になったり、アララギ派の歌人として「海表」という歌集を出版したりもしています。要するに科学技術関係とは全く無関係な仕事をしています。多分、医学にはあまり造詣が深くなかったと想像される犬丸氏がたまたまキーゼの総説が載った雑誌を日本に送ったのも“奇跡的出来事”だと思います。 伊号潜水艦はドイツを発ってからちょうど2ヵ月後の1943年12月5日、シンガポールに着きます。そこで多分、科学文献を潜水艦から降ろして飛行機で東京まで運んだと推察されています。何故、そう推察されるかというと、前述の如く、同年12月21日、東京で稲垣少佐は「Klinische Wochenschrift誌」を入手して読んでいますが、同潜水艦が広島の呉に帰還した日が、12月21日ですので日付が合わないのですね。記録には残っていませんが、多分、シンガポールから東京まで飛行機でこの雑誌が運ばれたのだろうと推測されるわけです。 1943年12月21日、「ペニシリンに関するキーゼの総説」を読んだ稲垣少佐はその夜、軍医仲間に同論文を見せました。その中に後年「カナマイシン」を発見して世界的に有名になった梅沢浜夫医師がいました。その梅沢が「キーゼの総説」をドイツ語から日本語に翻訳することになりました。 1944年1月5日、梅沢の翻訳した「キーゼの総説」を稲垣少佐の軍医仲間で回し読みします。 1944年1月27日にイギリス首相チャーチルの肺炎が「ペニシリンという新薬で治癒した(これは誤報で実はサルファ剤で治療されていた)」との記事が朝日新聞で大々的に報じられました。アルゼンチン在住の朝日新聞記者の特ダネでした。アルゼンチンは中立国だったのでそういう情報が入ったのですね。この報道をうけて同日、陸軍軍医学校に対して「直ちにペニシリン研究を始めて同年8月までに研究を完成させよ」という命令が大本営から発せられました。考えて見れば、誤報(ペニシリンとサルファ剤を間違えた)から日本のペニシリン研究が始まったともいえます。これも一つの奇跡でしょう。誤報でなければ、サルファ剤はすでに日本でも作られていたので話題にもならなかったと思います。 ペニシリンを研究するための委員会を作ることが決定され、稲垣少佐が中心となって人選をすすめ、第1回ペニシリン委員会が1944年2月1日に開催されます。 ここから、凄い展開となります。 終戦(1945年8月)まで、残り19ヵ月しかありません。物資も乏しい中、どのように日本でペニシリンを作ったのでしょう。 以下、次回に続きます。 余話1: 第二次世界大戦中の話ですから英語である「ペニシリン」には和名がつけられています。公募して「碧素:へきそ」と名付けられました。命名者は旧制の第一高等学校(後の東大教養部) の学生さんでした。後藤寬さんという方です。この方は後に銀行に勤めていますから医学には全く関係無いのですが日本医学史の片隅に名を残しています。「碧(へき)」は“青い”という意味です。紺碧の空、紺碧の海などの表現がありますね。 余話2: 現在、高脂血症の薬として世界中で広く使われている「スタチン」ですが、その元はペニシリン同様「青カビが分泌する物質」の研究から見つかっています。「京都の米穀店で見つかった青カビ:ペニシリウム・シトリナム(Penicillium citrinum)が産生するML236という物質に含まれる「コンパクチン」からスタチン研究は始まったのです。コンパクチンは世界初のスタチン薬です。これを発見したのは旧三共製薬の遠藤章博士でした。スタチン研究開発の元をたどれば「青カビ」なのです。どういう経緯で「京都の米穀店」の青カビが、旧三共製薬の研究所に運ばれたのでしょうか?この経緯を書いてある本や資料はありませんでした。コンパクチンを分泌する青カビ「ペニシリン・シトリナム」が日本で見つからなければスタチン開発は遅れていたかも知れません。あまり知られていないけれど、高脂血症の特効薬スタチンも青カビが産生する物質から始まったことはもっと知られて良いですね。 【参考文献】 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン(著), 北村 二朗(訳) 平凡社刊 碧素・日本ペニシリン物語 角田房子(著) 新潮社刊 これは凄い本です。徹底的に調べて日本でのペニシリン開発経緯を明らかにしています。何故か絶版となっています。是非、再版して欲しいですね。 ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル(著), 中山 善之(訳) 佑学社刊 失われてゆく、我々の内なる細菌 マーティン・J・ブレイザー著 みすず書房刊 水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業:犬丸秀雄関係文書を基にINK科学史研究」266, 2013年, pp. 70-80 深海の使者 吉村昭(著) 第二次世界大戦中に日独間を密かに航海した潜水艦の物語です。とても面白く、しかし、悲しい物語です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/5/15 お薬を「発見」しても、すぐに使える訳ではありません。良いお薬を発見するのは大切ですが、それを世に出すには、 (1)大量生産ができること (2)安全性を確かめること (3)他の薬との比較 などが必要です。 フレミングは青カビから分泌する物質(ペニシリン)に抗菌作用があることを発見しましたが、それで直ちにペニシリンが世の中で広く使われるようになった訳ではありません。 今回はどのようにしてペニシリンが世の中に出ることができたのかについてのお話です。なお、ペニシリンは今でも現役バリバリのお薬です。経口摂取しても体内への移行性が良いので、今でもグラム陽性球菌感染症にはファーストチョイスです。 重要だった奇跡、米国イリノイ州ペオリアの地 フレミングが諦めたペニシリンの精製にフローリーとチェインが挑戦を開始、1940年に純度0.02%のペニシリンの精製に成功した後、さらに精製技術を上げて、純度は3%まで上げることができたところまで前回ご説明いたしました。 さて、フローリーとチェインは精製した純度3%のペニシリンを、致死量の連鎖球菌を感染させた4匹のマウスに投与してみました。4匹のうち3匹は死にませんでした。ペニシリンを投与していないラットは“致死量の連鎖球菌感染”ですから、全部死亡しています。これは、凄いことなのです。この発見は1940年8月の「ランセット」で「化学療法剤としてのペニシリン:PENICILLIN AS A CHEMOTHERAPEUTIC AGENT」として発表しています(LANCET:Volume 236, No. 6104, p226-228, 24 August 1940)。 翌1941年の夏までに実際に連鎖球菌、ブドウ球菌に感染した患者さんにペニシリンが投与され、劇的な効果を挙げます。その結果もやはり「ランセット」に発表しています。しかし、この論文が掲載された前後、ヨーロッパは大変なことになっていました。 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が始まり、翌1940年5月10日にドイツ軍はヨーロッパ西部へ侵攻6月14日ドイツ軍はパリを占領し、フランスは降伏し、同年8月からドイツ空軍の爆撃機・戦闘機がイギリス本土空爆を開始しています。要するに、フローリーとチェインが実験をしていたイギリスは、戦争に巻き込まれていたのです。 素晴らしい結果を残したペニシリンの精製技術と効果でしたが、戦時下にあってドイツ軍の攻撃を受けていたイギリスではペニシリンの大量生産はできませんでした。そんな余裕は無かったのです。そこで1941年6月フローリーは青カビ(ペニシリンノターツム)を携えてアメリカに渡り大量生産を図ることにしました。アメリカ政府は、フローリーが持ちかけたこのペニシリン大量生産計画に賛成し、全面的な援助をすることを決定し、以後、事態はペニシリン大量生産に向けてどんどん良い方向に進みます。 フローリーは、最初にイリノイ州ペオリア(Peoria, Illinois)にある米国農務省地域研究センターに行きます。そこには農産物から有用な化学物質を作るための大規模実験施設があったのです。 ここでもまた偶然が訪れます。この実験施設では、トウモロコシからデンプン(コーンスターチ)を作る過程でできる「コーン・スティープ・リカー(Corn Steep Liquor)」という液体シロップを実験に用いていました。このコーン・スティープ・リカーを用いて青カビ(ペニシリンノターツム)を培養するとカビの成長が、とてつもなく、早くなったのです。このコーン・スティープ・リカーが大量に使えたので、実験が一気に進みます。 ペニシリンに関する奇跡や偶然について、当時の実験担当者は「ペニシリンに関する奇跡はたくさんある。その中で、一番知られていないけれどとても“重要だった奇跡”は、実験を行った米国イリノイ州ペオリアにあるこの農務省地域研究センターが、カビを培養するのに最適な“コーン・スティープ・リカーを使用できる唯一の場所だった”ことである」と書いているくらいです。 ペニシリンの大量生産を可能にしたのは さらに偶然が続きます。 米軍は世界各地にいる軍隊にペニシリンをたくさん作るカビを捜すため「駐留地の土」を集めるよう指示します。そうして世界各地から集めたカビを片端から検査し、できるだけ大量のペニシリンを作るカビを見つけようとしました。中国の重慶、ケープタウンで見つかったカビは有望だったらしいですが、フレミングが見つけた青カビより良くペニシリンを作るカビは見つからなかったのです。しかし、自国内それも、実験施設のあるイリノイ州ペオリアで、一番効率よくペニシリンを作るカビが見つかったのです。このカビは、ペオリアの主婦が持ち込んだ腐ったメロンに生えていたのです。この主婦の名前はペニシリン発見の歴史に残っています。メアリー・ハントさんという方です。メアリーさんはカビが生えて腐りかけたモノをたくさん研究所に届けていたので「カビのメアリー:Moldy Mary」と呼ばれていました。世界中から、カビを集めていたのに、足下で見つかったという話です。作り話のようです。 いずれにせよ、このカビはフレミングが見つけたカビより3000倍!も多く、ペニシリンを作ることがわかり、このカビを用いた商業生産が可能となったのです。このカビの名前は「ペニシリウム・クリソゲナム(P.chrysogenum)」と名付けられました。というわけで、このペオリアで見つかったペニシリウム・クリソゲナムを用いて、ペニシリンの大量生産が開始されます。1943年後半からペニシリンの生産量は一気に上昇します。1944年6月頃にはアメリカの製薬会社では毎月1,300億単位のペニシリンを作っていました。一方、ペニシリンの発見国であった英国では、毎月数千万単位しかペニシリンを作れませんでした。このことでイギリスは影が薄くなります。そして、製造法の特許問題が起き、後に両国の間で争いが生じます。 元々、ペニシリンの製造を始めたのはイギリスのフローリー、チェインです。チェインは元ユダヤ系ドイツ人でしたので、ドイツでは普通だった「産学連携」を経験しています。ですからペニシリンの製造特許を出そうと提案します。しかし、英国王立協会の会長から「生命を救う薬の製造方法に特許を取ることは倫理的でない」として却下されます。なお、当時の英国での特許に関する法律では「天然物」に対する特許は取ることができませんでした。ですから天然物である「ペニシリン」で特許をとることもできませんでした。 そのため「ペニシリン製造に関する」特許は、アメリカの製薬会社に取られてしまいます。イギリスでペニシリンを商業的に製造しようとすると、アメリカの会社に莫大な特許料を支払わねばならないという変なことになってしまったのです。これだけの発見で特許を取らないなど、今ならあり得ない話でしょう。ペニシリンで懲りた英国は特許に関する法律を改正しています。 こうして、米国ではペニシリンの大量生産に成功したので、1944年後半には米軍全体にペニシリンが行き渡るようになり、それは第二次世界大戦の戦勝要因の一つになります。 第二次世界大戦が終わった年(1945年)のノーベル医科生理学賞は「ペニシリンを発見した」フレミングと「ペニシリン製造方法を確立した」フローリーとチェインの3名に与えられました。戦功の意味もあったと思います。 今回まで3回にわたり、 ペニシリンの発見から商業生産に至るまでに、あり得ないような偶然が10数回も生じていたことをお示ししました。フレミングの実験室階下の青カビ、培養ペトリ皿の蓋を開けたままで休暇をとったタイミング、青カビが生える気温、実験動物のこと、フレミングが実験していた「グラム陽性菌」、米国でのコーンスティープリカー使用、ペニシリンを大量に作る青カビが実験施設のある町で見つかったことetc.文字通り「奇跡」の連続です。お時間があるときに、参考文献1.2.をお読みください。 さて、英国、米国に次いで世界で3番目にペニシリンの大量生産に成功した国はどこだかわかりますか? それはとてもカビが生えやすい国でした。 次回から、その国で、ペニシリン生成、製造が「とんでもない早さ」でなされたことを、数回に分けてお伝えしようと思います。 【参考文献】 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン (著), 北村 二朗 (訳) 平凡社刊 ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル (著), 中山 善之 (訳) 佑学社刊 失われてゆく、我々の内なる細菌 マーティン・J・ブレイザー著 みすず書房刊 他、多数。 追記1: アメリカのミリアド・ジェネティクス社は、同社が保有するBRCA1とBRCA2として知られる2つのがん遺伝子に関する特許を申請していました。しかし、2013年6月にアメリカの最高裁判所でその申請は却下されます。BRCA1とBRCA2は人の遺伝子から見つかったモノだから特許にならないとの判断です。この遺伝子を持つと発がん率が高くなります。それを発見したのが、ミリアド・ジェネティクス社です。でも特許は成立しませんでした。これには議論があるところです。例のアンジェリーナ・ジョリーに見つかった遺伝子はBRCA1です。 追記2: ペニシリンが使われはじめた頃の論文を読むと、ペニシリンを注射すると「ただちに」効いたと書かれています。ペニシリンを打つとすぐに効いたようです。速効性があったのですね。それが、今ではなかなか効きません。細菌が抗生物質に対する耐性を獲得しているからです。抗生物質投与による耐性菌の出現は元々ある細菌叢を変化させてしまうことは、今も、そして将来も大きな問題であり続けると思います。 追記3: 今、使われている薬でも「みるみる間」に効く薬があります。芍薬甘草湯(しゃくやくかんぞうとう)という漢方薬です。足がつっている時に飲むとすぐに効きます。漢方薬というとゆっくりのイメージがありますが、結構、速効性のある漢方薬があります。病気が「すぐに治る」薬がたくさんあれば良いですね。 追記4: 現在、抗生物質が一番多く使われるのは「家畜」です。感染予防をするために使っているのではありません。抗生物質を少量投与することで体重が増加するからです。抗生物質を少量慢性投与すると何故か体重が増えるのです。多くの食肉に少量の抗生剤が与えられています。それも問題になっています。 注:さまざまな実験がなされ、どうやら、抗生物質が腸内細菌叢を変化させ、そのために体重増加が起きているらしいのです。人間も同様だという報告もあります。必要で無い時に、抗生物質を使うと、耐性菌の発現も含め、良いことは無いですね。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/4/3 ロンドンの1928年9月3日は、なぜか、涼しかった… 承前、ペニシリウム・ノターツムという、フレミングの実験室階下で培養されていた青カビが、フレミングのペトリ皿に落ちたという「偶然」の話まで前回お伝えしました。 この青カビがフレミングの実験室の細菌培養用ペトリ皿に落下したのも大変な偶然ですが、さらなる偶然がこの年、フレミングの実験室があったロンドンで起きていたのです。それは「気温」です。 ロンドンの夏は結構涼しいのですが、フレミングのペトリ皿に青カビが落ちたこの年(1928年)のロンドンは例年と違いとても暑かったのです。本来であれば、青カビがペトリ皿で発育できないとされるくらいの暑さだったのです。しかし、フレミングがペトリ皿を開けて旅行に出かけてしまったとされる、まさにその日(1928年9月3日)、気温が下がったのです。気温が下がった日が数日続き、その間に青カビがペトリ皿内で先に発育し、暑さがぶり返すとブドウ球菌が遅れて発育してきたのです。この数日間の気温変化が無ければ、青カビと細菌が一緒に育つことはなく、一緒に育たなければ青カビが分泌する物質(後のペニシリン)について気づく訳もなく、人類のペニシリンの発見にはまだ時間がかかったかもしれません。 後年、青カビとブドウ球菌は一緒に生えないことに気づいた研究者がいて、1928年の気温を調べたら、上述の如くの気温変化があったことがわかり、“こんなことはありえない。この気温変化こそ、ペニシリン発見に至る一連の偶然の中の「偶然」である”と書いています(注:今の様に空調設備がある時代ではない事を留意してください)。 さらに偶然が続きます。 前回も書きましたが、そもそも青カビ周囲のブドウ球菌が死滅していたのを見ても、普通は何も考えずに捨ててしまうと思います。実際にフレミングがこの発見を周りの研究者に見せても彼らはあまり関心を持たなかったのです。しかし、フレミングは「鼻汁に含まれている物質(リゾチーム)で細菌が死滅すること」を発見していましたので、自然界に抗菌物質(=細菌を殺す物質)が存在することを自分で確かめていたのです。ですから青カビ周囲に菌が生えていないのを見て、青カビから「リゾチーム」と同じような抗菌物質が分泌されているのだと確信し、青カビが分泌している物質を追求します。青カビを液体培養し、その抽出液をブドウ球菌が生えている培地に振りかけました。すると、あっという間にブドウ球菌は死滅しました。1000倍程度薄めてもその効果は変わりませんでした。フレミングは、この青カビが分泌する物質を「ペニシリン」と命名しました。しかし、残念なことにフレミングが発見したこの「ペニシリン」は不安定で数週間で、殺菌効果が無くなります。青カビが分泌する物質の本体もよくわかりませんでした。「ペニシリン」はブドウ球菌や連鎖球菌、肺炎球菌、髄膜炎菌の様なグラム陽性菌を死滅させます。フレミングが実験していたのは、まさにそのブドウ球菌でした。ほかのグラム陰性菌(例えば、コレラやペスト、大腸菌)の実験をしていたらペニシリンの効果はわからなかったでしょう。これもある意味、偶然です。 まだ、まだ偶然が続きます。 フレミングは「青カビがペニシリンという物質を分泌すること、ペニシリンはきわめて殺菌力が強いこと」を1929年の「イギリス実験病理学雑誌」に発表します。これが後々、非常に大きな意味を持ちます。フレミングは学会でもこの発見を発表するのですが、こちらは省みられること無く終わってしまっていました(なお、この論文は日本にも届いていました。名古屋大学にです。この論文が日本にあったことが、太平洋戦争のために情報遮断されていた日本におけるペニシリンの研究開発に役立ったのです)。 この論文が雑誌に掲載された1929年のことです。 後にフレミングと一緒にノーベル賞を受賞するフローリーとチェインは、フレミングが1922年に発見した「リゾチーム」に興味を持ち、実験を開始します。1929年1月17日付のフローリーの実験ノートに「リゾチーム」の見出しと、さまざまな臓器抽出物を「フレミング」に送ったという記述があるから、そういうことがわかるのですね。実験ノートは大切です。この3人は、後にノーベル賞を一緒に受賞するのですが、当時はそんなことは夢にも思わなかったでしょうね。 それから9年が経ちます。1938年のことです。フローリーとチェインのチームは「リゾチーム」とは別の抗菌物質を探していました。「リゾチーム」は抗菌力が弱いからです。その時に、偶々!読んだのが、1929年に掲載されたフレミングのペニシリン発見に関する論文でした。「リゾチーム」に続いての抗菌物質ですから「また、フレミング先生か?」とでも思ったかもしれません。 一方、この頃、フレミングは何をやっていたかと言うと、 1. ほかにも抗菌物質を分泌するカビが無いかどうかを捜し続けていました。 注:ほかには見つかりませんでした。 2. ペニシリン・ノターツムという青カビを大切に保存し、小分けし、英国の色々な研究室に配っていた。 注:ほとんどの研究室では無視されています。当たり前です。カビを送られても、困ったでしょう。 その小分けされた青カビは、上述の如く、リゾチーム研究ですでにフレミングと知り合いだった「フローリーとチェイン」が所属する研究室にも届いていました。チェインは、実験助手が、カビが生えている培養フラスコを運んでいるところに遭遇し、「何のカビか?」と問うと助手は「フレミング先生から送られてきたペニシリン・ノターツムという青カビです」と答えたのです。ですから「ペニシリン・ノターツム」の研究を開始しようとしていたフローリーとチェインは、直ちに実験を開始できたのです。こう言うことは、とても大切です。普通は、フレミング先生に依頼状を書いて、送ってもらったりしなければいけません。今なら、秘密保持契約を交わしたり、色々と面倒な手続きが必要でしょう。後に、フローリーとチェインは「我々はペニシリンを研究した。なぜならそのカビが自分の実験室にあったからだ」と書き残しています。 しかし、これは、偶然でしょうか? 私は、偶然半分、必然半分だと思っています。フレミングの真面目さ、丁寧さが、この偶然を生んだと思います。 ここで、当時のフローリーとチェインの立場を紹介します。 1. オーストラリア人でオックスフォード大学の病理、生理学者ハワード・ウォルター・フローリー(Howard Walter Florey, Baron Florey、1898 1968):1935年からオックスフォード大学病理学教授。 2. ユダヤ人の血を引いたために迫害されてナチス・ドイツからイギリスに逃げてきていたドイツ人 生化学者エルンスト・ボリス・チェイン(Ernst Boris Chain:1906-1979):1935年からオックスフォード大学病理学講師。 要するに、1935年から、フローリーとチェインはオックスフォード大学病理学教室で働いていたのです。 フレミングから送られた青カビ「ペニシリン・ノターツム」を利用して、フローリーとチェインは、フレミングが諦めてしまっていた「ペニシリン」の精製に挑戦します。実験すること2年、1940年に純度0.02%のペニシリンの精製に成功しています。それを2匹のマウスに注射します。マウスは死にませんでした。実は、もし、この実験に使われた動物がモルモットだったら、状況は変わっていたと言われています。動物実験の段階で実験終了となっていた可能性が高いのです。ペニシリンは、モルモットにとっては有害物質で、投与すれば、死んでしまったでしょう。使った実験動物がモルモットで、ペニシリン投与により死んでしまったら「毒か?」と思って実験を止めてしまった可能性もあります。マウスを使ったのも、運が良かったのです。これも偶然のひとつでしょう。 フローリーとチェインは、この時点でペニシリンの抗菌力がとても強いことに気づきました。100万倍に薄めても細菌の発育を抑制することがわかったのです。さらに精製技術を上げて、純度を高めることを目指し、0.02%から3%まで上げることができたのです。 今回は、フレミングができなかったペニシリンの精製をフローリーとチェインが成功したところで、終わります。 次回は、この後、フローリーとチェインの成功が、後に国家間の争いにまで発展してしまったというお話を含め、まだまだ続く、ペニシリンに纏わる多くのあり得ないような「偶然」のお話を続けます! 関係無いような、あるような追記 これは健康な8歳男児の手にいるバイキンを培養した写真です。 出典:http://www.microbeworld.org/component/jlibrary/?view=article&id=13867 さまざまなバイキンがいることがわかると思います。 この写真には少なくとも「ブドウ球菌」、「ミクロコッカス」「セラチア菌」「バシラス属」がいて、それぞれの細菌は「色」を持っています。 なんで、こんなことを書くかというと、フレミングの趣味!はこの細菌が持っている色を用いて「絵」を書く事だったのです。そういう「趣味」があったことも、ペニシリンの大発見につながったと思います。残念なことにフレミングが書いた「細菌絵画」は残っていません。バイキンの繁殖する数時間だけ「絵」になったのですね。今なら、デジカメ、スマホで簡単にカラー写真が撮れるので、残すことができると思いますが、カラー写真など夢の時代のことです。 【参考文献】 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン (著), 北村 二朗 (訳) 平凡社刊 碧素・日本ペニシリン物語 角田房子(著) 新潮社刊 ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル (著), 中山 善之 (訳) 佑学社刊 他多数あり。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/2/6 ペニシリンの発見に重なった10数個の「偶然」 北海道以外の日本には、他国では見られない特殊な「梅雨」という「雨期」があります。梅雨時は、じとじとべとべとして、体に負荷がかかります。カビが生えやすいので難渋しますね。ロンドンに行かれた方もあるかと思いますが、ロンドンの夏は湿度が低くとても気持ちが良いです。もちろん、カビも生えづらいのです。そのロンドンで、ある年の夏、繁殖した「カビ」が歴史的大発見につながります。今回から、そのカビにちなんだ話をします。 感染症治療の大きなトピックは、「バイキン」を殺すお薬、化学療法剤ができたことでしょう。 最初は1910年に梅毒の治療薬としてサルバルサンの合成(独:エールリッヒと日本人:秦佐八郎による)です。次は1935年のサルファ剤の合成(独:ドーマク)、そして1928年のフレミング(英国@ロンドン)による「ペニシリンの発見」と続きます。この順番は、お薬として使われるようになった順番です。ペニシリン発見がなんと言っても真打ちでしょう。ペニシリンの発見は、サルファ剤の合成より時期は早かったのですが、フレミングが「ペニシリンの発見」をしてから、この「発見」は無視に近い扱いをされていたのです。そのため、実際にペニシリンが「お薬」として使われるようになったのは1940年のことです。化学療法剤としては、3番目です。サルバルサンは、ヒ素から合成された薬で、副作用も多く、あまり使われませんでした。今では「歴史上」のお薬になっています。もちろん、使われていません。サルファ剤やペニシリンは今も現役で大活躍しているお薬です。 今回から数回にわたって、「ペニシリンの発見からお薬に至るまで」をご紹介いたします。 いまさら、ペニシリンか? 「ペニシリンは、フレミングが実験に使っていた細菌培養皿にたまたまカビが生えて、そのカビ周囲の細菌が死滅していたのに気づき、そこからペニシリンの合成が始まった」 と思われているようです。確かに、そう書いてある本も多いのです。しかし、実際はそんなに単純な話ではありません。「史上最高の偶然」とも言える出来事が次々に起こらなかったら、「ペニシリン発見」も「ペニシリンをお薬にすること」もできなかったのです。それについて、縷々、ご説明しようと思います。 「ペニシリンの発見、および種々の伝染病に対するその治療効果の発見」に対して、1945年のノーベル医科生理学賞が授与されました。受賞したのは、3人です。 1. イギリス人 細菌学者フレミング(1881-1955) 2. オーストラリア人でオックスフォード大学の病理、生理学者フローリー(1898-1968) 3. ユダヤ人の血を引いたために迫害されてナチス・ドイツからイギリスに逃げてきていたドイツ人 生化学者チェイン(1906-1979) フレミング以外の、フローリーとチェインの名はあまり知られていないと思いますが、ペニシリンという「お薬」の合成に成功したのは、実はこの二人なのです。だから3人の受賞なのです。 さて、その「偶然」です。「ペニシリンの発見からお薬に至るまで」には、ペニシリンの発見には、私は少なくとも10数個の「偶然」が重なったと思っています。皆さんもこれからの話をお読みになれば、「そんな事はあり得ない!」と思われるでしょう。 鼻水を垂らしたことから発見へ フレミングはスコットランドに生まれ、1906年イギリスのセントメリー医学校を卒業、卒後第一次世界大戦に従軍します。そして戦闘で負傷した兵士がキズの感染に苦しめられるのを目の当たりにします。そして、そこで、最初の大発見をします。それは「消毒薬は傷に効かないどころか有害で、白血球をも殺してしまうので感染予防にならない」ということを発見したのです。それを論文に書いて、British Journal of Surgeryという雑誌に載せています。1919年の事です(The action of chemical and physiologicalantiseptics in a septic woundという論文名です。参考文献7参照)。 今から、約100年も前に、消毒薬を使うとキズは治りにくくなること(消毒しても、キズの感染予防にならないどころか感染を助長し、キズの治癒を遷延させること)を論文にしています。この論文を読むと、その実験の精緻さに、ため息がでます。フレミングが38歳の時に書いた論文です。 第一次世界大戦が終了し、フレミングは細菌について研究を始めます。1921年11月のことです。最初の偶然が彼を訪れます。フレミングは風邪を引いて鼻水を垂らしていました。その鼻水がある細菌を培養しているペトリ皿に落ちたのです。ちょっと「うっかり屋さん」ですね。さて、その鼻水が落ちたペトリ皿内で、凄いことが起きていました。培養していた細菌が死滅!したのです。 この発見に驚いたフレミングは、細菌混濁液を作り、そこに自分の鼻水を垂らしてみます。そうすると、2分ほどで細菌により濁っていた混濁液が透明の水のように透き通ったのです。細菌が死滅したからです。 鼻汁だけではなく、涙、唾液にも細菌を死滅させる物質が含まれていることを発見します。同僚や研究室の訪問客の鼻水を採取したりもします。自分の助手には目にレモン汁を垂らして涙を流させて(この辺が常人と違う!)実験を行いました。 その結果、ある種の細菌は鼻汁や涙に含まれている物質で死滅することを発見します。これが「リゾチーム(lysozyme)」の発見です。しかし、この「リゾチーム」は病原性の低い菌には効くのですが、強い感染力を持っている菌には効かなかったのです。なお、フレミングはこの時、すでに細菌実験室の責任者でした。もし、彼が実験助手だったなら「鼻水をたらすな」と怒られて、この発見は無かったかもしれないと、彼自身、記しています。 フレミングは1922-1927年にかけてリゾチームに関する論文を5編書いています。ちなみに今も「塩化リゾチーム配合!」と銘打ったかぜ薬が薬局で売られていて、かぜ薬の定番ですね。しかし、フレミングは、発表が下手だったため「何を喋って何を伝えたいのかわからない」と周囲から言われてしまうほどでした。そのため、一時、この大発見は埋もれてしまいます。しかしフレミングの頭の中には、「細菌を殺すような物質が身近にも存在する可能性があること」が強くインプットされます。そして、何千枚ものプレートを用いて、ひたすら細菌を培養し研究します。フレミングは発表こそ下手でしたが、彼の頭脳は冴えわたり、どんなに小さな変化も見逃さなかったと言われています。キズと消毒の関係を見つけたのもその証左でしょう。 夏休みに細菌培養プレートを放置して生えたカビから発見 2番目の大きな偶然がまた彼を訪れます。1928年7月のことです。フレミングは当時、化膿したキズ、感染した皮膚から採取した「黄色ブドウ球菌」の研究をしていたのです。実はこの「ブドウ球菌」も偶然が作用していました。これはとても重要な偶然でした。彼が研究していたのが大腸菌などのグラム陰性菌なら、大発見に至らなかったからです。 フレミングは夏休みをとり1ヵ月ほど実験室を留守にしました。この時、実験に使っていたブドウ球菌を接種した細菌培養用のプレートを50枚ほど実験台に放置したまま出かけていたのです。これも彼が「うっかり屋さん」だったからでしょう。普通、長い間、研究室を留守にするなら細菌培養用のプレートは洗って片付けていくでしょう。でもそれが幸いします。 9月3日に休暇から帰った時、さすがに1ヵ月も放置した細菌培養プレートにはブドウ球菌がたくさん繁殖していました。そのうちの1枚がカビに汚染されていたのです。普通なら、「カビてる! 早く洗え!」とでも言うところです。しかし、そのカビの周囲にブドウ球菌が見当たらないことにフレミングは気付きます(図1参照)。 図1:フレミングのペトリ皿でおこったことを再現した実験写真 青色部分がカビで白い部分がブドウ球菌。 彼は心の中で「ビンゴ!」と叫んだかもしれません(冗談です)。「リゾチーム」研究で、細菌を殺す物質がこの世に存在することに気づいていた(ここ、とても重要です)フレミングは、この発見を見逃しませんでした。カビ周囲の物質がブドウ球菌を殺していると気付いたのです(実際には殺していません、繁殖を抑えていたのです)。 さて、問題のカビです。一般には窓から入ってきたカビが生えたと言われています。このカビの正式名称はペニシリウム ノターツム(Penicillium notatum:現在の正式名称はP. chrysogenum)という青カビです。実はこのカビは珍しいカビでどこにでもいるようなカビではありません。フレミングの研究室の階下に「菌類学研究室」があり、そこでこの[ アオカビ「Penicillium notatum」を育てていた!のです。この研究室では、ある喘息患者の家で生えていたこのアオカビ「Penicillium notatum」を育てていたのです。なぜ?と思われるでしょう。フレミングが勤めていたセントメリー病院の医師が「この患者の喘息の誘因は、この患者の家に生えているアオカビではないか?」と考え、このアオカビをこの「菌類学研究室」で繁殖させて、カビからの抽出物を喘息治療の減感作療法に使っていたのです。このアオカビが大気中に舞い上がり!フレミングのペトリ皿の上に落ちたのです。凄い偶然です。この「菌類学研究室」でこのアオカビを、治療のために、わざわざ繁殖させていなかったら、フレミングのペトリ皿にこのカビは繁殖しなかったでしょう。元はといえば、喘息患者の家にこのカビが生えていて、それが原因の喘息だと考えたこの患者の主治医がいなかったら、そしてこの医師が減感作療法を思いつかなかったら、フレミングのペトリ皿に青カビは、はえなかったでしょう。なお、このアオカビは普通のアオカビではありません。ペニシリンを分泌する能力を持っていたのです! これら一連の偶然だけでも凄いのですが、さらに凄いことがあの年の夏、ロンドンに生じていたのです。 多分、お話ししても「え!本当?作り話ではないの?」と思われるようなことが実際におきていたのです。次回に続きます。 【参考文献】 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン(著), 北村 二朗(訳) 平凡社刊 碧素・日本ペニシリン物語 角田房子 著 新潮社刊 ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル(著), 中山 善之(訳) 佑学社刊 失われてゆく、我々の内なる細菌 マーティン・J・ブレイザー著 みすず書房刊 水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業、犬丸秀雄関係文書を基にINK科学史研究』266, 2013年, pp. 70-80 深海の使者 吉村昭 著 The Action of Chemical and Physiological Antiseptics in a Septic Wound,” in British Journal of Surgery, 7 (1919), 99?129, the Hunterian lecture この論文をお読みになりたい方は、御連絡ください。 他、多数。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2018/01/22 必死に走ったあの時 今回は「雪と受験」について持論をお伝えしようと思います。2018年1月12日のニュースです。「明日、1月13日、日本海側には積雪増加の恐れ センター試験の移動に影響がでるかもしれない」というニュースが繰り返し流れています。このニュースを聞いて、本原稿を思いつきました。 昨冬(2016-2017年の冬)鳥取や北海道に大雪が降りました。 2016年12月には北海道で大雪が降り、交通網が寸断されました。 2016年12月23日の毎日新聞などの報道です。 「札幌で積雪96センチ、12月は50年ぶり」 この雪で千歳空港は12月22日、23日と閉鎖され、JR北海道の路線も多くが運休となっていました。 2017年2月13-14日の報道です。 「鳥取、34年ぶり記録的大雪 除雪作業進まず」 「鳥取市で記録的大雪影響続く、路線バス運休・臨時休校も」 「今季最強の寒波が居座り、鳥取で34年ぶりに積雪が90センチを超えるなど西日本を中心に記録的な大雪となった」 閑話休題 鳥取には大学時代に住んでいたので大雪の状況がよくわかります。鳥取は普段あまり雪が降ることは無く道路に根雪があることはまれです。しかし、年に数回大雪が降ります。難儀します(しました)。交通が麻痺するからです。 さて私が最初にこの鳥取の「年に数回しか降らない」大雪に苦しめられたのは、なんと受験日のことでした。以下の話は、今から40年前の話です。 当時、国立大学の入試は、一期校、二期校に分けられ二回受験機会がありました。鳥取大学は一期校でした。一期校、二期校とも二日間にわたって入学試験がありました。受験のため、東京駅から寝台列車に乗って鳥取まで行きました。鳥取市には宿が少なく見知らぬ受験生と相部屋で鳥取駅前の旅館に泊まることになりました。同宿の彼は工学部受験生でした。 1日目の受験日、彼と一緒に宿からバスで受験会場だった鳥取大学まで行きました。バスで30分程度の道のりでした。1日目は晴天で何事も無く終わったのです。夜、宿で食事をしていたら、同宿の彼が「今日は1時間近く早く着いたので寒かった(確かに受験会場が開くまで寒かったのです)ので、明日は一本バスを遅らせよう」と提案しました。それに乗った私も悪いのですが、彼の提案にのり、次の日は前日より15分遅いバスに乗ったのです。それでも時間通りに着けば、受験開始45分前には着く予定でした。 その日は雪が降っていました。最初は大したことが無かったのです。しかし、バスに乗ってしばらく経ったら、見たことも無い様な凄い量の雪が降ってきました。前が見えないくらいの雪です。ほどなくバスがノロノロ運転になりました。何回も止まってしまいます。突然の大雪のため、交通が麻痺しだしたのです。どんどん時間が経っていきます。雪が凄い勢いで降っています。 「雪が降る。あなたは来ない♪♪」ではなく、 「雪がふる♪♪♪バスは動かない♪♪♪」状態です。 今でも良く覚えているのですが鳥取市を流れる千代川(せんだいがわ)に架かっている“八千代橋(やちよばし)”という橋の上で受験開始時刻の9時になってしまいました。しかし、バスの中は、なんとなくのんびりしていました。誰かが「この雪なら試験開始が遅れるよ」と言ったからです。私もそう思っていました。しかしそれは「甘かった」のです。 八千代橋から大学まで3kmくらいです。普通なら10分もかからない距離です。大学前のバス停に近づいたら、先に着いたバスから降りた受験生が一気にダッシュしているのが見えました。バスが大学前に着いたら、大学職員が「9時30分に試験会場を閉鎖します。それまでに試験会場に入らないと受験できません!あと5分です!5分です!」と大声で叫んでいました。瞬間、皆、一斉に駆け出しました。 大学の正門から受験会場だった教室まで400mくらいありました。雪で転ばないように注意しつつ、一生懸命走って何とか9時30分前に滑り込みました。数学の試験でした。すでに始まっていました。2時間の試験時間のうちすでに30分経過していました。全速力で走ったので、動悸が止まりません。寒いバスの中に長時間!いたのでトイレに行きたくなりました。これ以上時間を取られるのは問題を解くには困るのですが生理的欲求です。しかたなく手を挙げて小用に行きました。試験官がトイレまでついてきました。試験官に「雪でバスが遅れたのか?」と聞かれました。「そうです。いきなり雪が降ってきてバスが動かなくなりました」と話したら、「鳥取ではそれは普通のこと、用心しないといけないね」と言われました。 トイレに行って、多少、ゆっくりしたためか、動悸も収まりました。試験場に戻り、問題を見たら、私の日頃の行いが良かったせいか、比較的得意な問題ばかりでした。90分で充分解けたのです。 幸い合格して入学したら受験場で私のすぐ後ろだったというN君が声をかけてきて「前の奴(私のことです)が遅刻したので、しめた!」と思っていたと話してくれました。トイレについてきていただいた試験官は歴史学の「河手龍海」教授でした。歴史学の講義が終わったあと「受験の時はトイレまでついてきていただき、ありがとうございました」と挨拶に行ったら、河手先生も覚えていて「良く受かったね」と言われました。というわけで、私の受験は「滑り込みセーフ」だったのです。アブナイ話です。受かったから笑い話で済みますが落ちていたらあるいは試験会場到着が数分遅れ、試験会場に入れなかったらと思うとぞっとします。 雪国の大学を受ける受験生には、 雪が降るとアブナイから、寒くても良いから、少しでも早めに会場に着くこと 天候がおかしいと思ったらバスでは無くてタクシーを利用すること を勧めています。 後年、サッカーのオシム監督が「ライオンに追われているウサギは脚をつったりはしない」と言っていました。まさにあの時、大学正門から受験会場の教室まで走った私がそうでした。 私の大雪と受験の話は、これだけでは終わりません。それから、1年が経ち、今度は弟の受験に付き添って、札幌に行くことになりました。甲府から札幌までの道中です。私は、高校の同級生が北大にいたので、弟が受験している間、彼と「札幌で遊ぼう」と約していたのです。札幌に行くのは初めてでした。弟も初めての札幌で初めての大学受験です。しかし、今度も大雪に苦しめられました。 余裕を持って、受験の2日前に札幌に着く予定にしていました。羽田空港に着いたら「雪のため、札幌行きは本日全便欠航です」と言われました。目の前が真っ暗になりました。今なら、スマホで情報も早く手に入れることができるのでしょうが、当時は、そんなことは不可能でした。この時点でとるべき方法は2つです。 東京で宿泊して次の日の便を待つ 列車で行く の2つでした。飛行機の便は、当たり前ですが、すでに次の日は全便満席でした。飛行機で行くなら、空席待ちをしないといけません。しかも、翌日も天候状況からして、飛ばない可能性が高いと言われました。すぐに国鉄(当時:「JR」は1987年~)の駅に行って、上野から青森行きの切符を購入しました。この時点で上野から青森までは列車が運行されていること、青函連絡船が運航されていること、函館から札幌の列車が通っていることは確認したのです。 寝台列車の切符がとれず、夜行の普通車に乗って一晩かけて青森駅に着き、青函連絡船に乗り、函館までようやく着いたと思ったら、今度は大雪のために函館―札幌間の列車が運休となっていました。万事休すでした。弟が可哀相でした。明日は試験です。繰り返しますが、スマホやインターネットなど無い時代です。情報が入りません。 私は自分のこと(雪が降り、そのために、多くの人間が遅刻しても非情にも入試が行われた)があったので、明日、入試が行われるだろうと思いました。函館から札幌行きのバスも運休です。ふと見たら、タクシーが停まっていました。そうです、タクシーなら行ってくれるかもしれません。 停まっているタクシーに、片端から声をかけましたが、札幌まで行ってくれるタクシーはいませんでした。懇願したら、1台だけ行っても良いと行ってくれたタクシーの運転手さんがいました。料金の交渉をしました。事情を話したら、それは可哀想だからと、大幅に負けてくれたのです。今でもその運転手さんにはとても感謝しています。こうして、弟と二人、函館から札幌まで雪道をタクシーで行ったのです。雪国の運転手さんですから、雪上の運転がとても上手く、凄いスピードで札幌まで連れて行ってくれました。6-7時間かかったと思います。試験前日の夕方に無事、札幌に着いたのです。 ホテルに着いたら「大雪のため、試験は1日延期となった」との連絡が入っていました。ほっとしました。私はもちろん、弟も疲れ果てていたのです。次の日は丸1日ゆっくりと休み、十分な休養を取り、無事受験することができました。弟が受験している間に、高校時代の友達と、小樽、余市、札幌で観光を楽しみました。良い思い出です。弟も合格を果たしましたのでこのドタバタ道中も今では兄弟間での笑い話となりました。 私も弟も、受験時に雪で苦しめられました。しかし、このようなことは本来あってはいけないのです。冬に受験を行うのは不利なことが多すぎます。 何年にもわたって頑張って勉強しても、受験シーズンが真冬では、 受験会場への道のりが雪に左右される可能性がある 雪で転倒する可能性がある(特に雪になれていない受験生) 風邪やインフルエンザにかかる可能性がある というリスクが誰にも付きまとうのです。風邪やインフルエンザに罹患するかどうかと「受験勉強の努力」とは無関係です。インフルエンザにかかり、本来なら、外出してはいけない時期でも受験日が重なるなら無理してでも受験するでしょう。そしてウイルスを試験会場で周囲にばらまきます。今年も、そういうことが多々起きていると考えます。少し考えても不確定要素が極めて多い「真冬」に受験日を設定するのは、どう考えても変です。 そこで「受験は5月下旬~6月上旬に行うようにして、9月入学とすれば良いだろう」というのが私の持論になりました。5月下旬~6月上旬に行えば、 上記1-3の可能性が低くなること 欧米アジアの大学の入学時期は9月が多く、足並みをそろえることが出来るので他国からの留学生を受け入れやすくなること(4月入学は調べた限り日本だけです) 3月一杯は普通に授業が出来るので、今の制度では中途半端に終わる「3年生3学期」がきちんと行われること 卒業式がきちんとしたカタチで行われること 花粉症のピークは過ぎていること など、良いことだらけだと思いませんか? 諸外国の大学の入学の時期を調べてみました。 南半球の国の1-3月は、日本では6-9月に相当します。北半球にある欧米のほとんどの国が9月に新学期が始まります。それから類推すると入学試験時期は6-7月でしょう。日本もそれを見ならった方が良いと思います。 受験改革の提案が、度々、なされますが、受験時期をずらすのが一番重要な受験改革だと思っています。 現在のように、1月-3月という感染症に罹る確率が高く、天候も不安定な時期に人生を決めてしまうかもしれない大切な試験を行う合理的理由があれば、誰か私にご教示下さい(「4月は桜が咲く」からとか、「昔から決まっている」からというのは、非合理的理由です)。 今日(2018年1月12日)日本海側~北海道の大雪報道を聞き、その意を強くしました。それはともかく、受験生の皆さん、体調や天候に気を付けて頑張ってください。 大雪、寒波の報道を聞きながら記しました(2018-01-12)。 2021-01-14の追記: 2020年からCOVID-19が流行っています。「冬」の状況ははかなり悲惨です。私の持論が取り上げられることを希望します。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/12/18 すべての冠疾患治療の恩恵を受け、米国副大統領になった患者さんの物語 前回で冠動脈疾患については終了しようと思っていましたが、最後にちょっとだけお付き合いください。 冠動脈にまつわる診断や治療についてお伝えして参りましたが、これまでに紹介した冠動脈疾患の診断や治療のほぼ全てを受けて、今も元気で活躍している方がいます。それは、チェイニー元米国副大統領です。 そのチェイニー氏が引退後に心臓病治療について書いたのが、ディック・チェイニー、ジョナサン・ライナー共著『心臓』です。同書によると、チェイニー氏はカテーテル、PCIは元より、スタチン投与、β-ブロッカー投与、ARB投与、ICD装着、冠動脈バイパス術、心臓移植など、ありとあらゆる冠動脈治療を受けています。そのような治療を受けつつ、副大統領にまでなり、心臓移植を受けた後も元気で活躍しています。もう少し、生まれるのが早ければその恩恵を受けることはできなかったと思います。ある意味とてもラッキーな人生を送っています。 彼は1941年生まれです。元々、ヘビースモーカーでした。なんと、12歳から煙草を吸っていた!と自ら書いています。彼が高校生だった頃、米国では高校生(!)の喫煙率が50%だったのです。周りにたくさん喫煙者がいたので、喫煙が特に悪いことだとは思わなかったそうです。 28歳でホワイトハウス入りして、34歳で大統領補佐官になります。ホワイトハウス内では当時、喫煙が普通でした。また、大統領専用ヘリコプターのマークが入ったマッチがあり、それを用いて大統領の紋章が入った煙草に火をつけて吸うのが「格好良い」とされていた時代です。隔世の感があります。日本でも同様に、菊の紋章入りの煙草があり、「恩賜のたばこ」と呼ばれ、珍重されていました。健康増進法が制定されたこともあり、2006年に廃止され、今は「恩賜の金平糖」になっているそうです。1回食べてみたいですね。 それはともかく、チェイニー氏の話にもどします。彼は37歳の時、下院議員選挙に立候補します。その選挙運動中に、心筋梗塞を発症します。1978年のことです。下壁梗塞を起こし、夜中に意識が無くなり病院に搬送されています。下壁梗塞というのは右冠動脈の閉塞で起きるのです。右冠動脈の閉塞は心臓を動かす元の電気信号を発する洞結節や房室結節への血流低下をおこし、心拍数が遅くなったり、ひどいと心臓が止まってしまうこともあります。つまり、チェイニー氏は下壁梗塞で心拍低下、血圧低下などを生じて、意識消失したのだと思います。氏は当時、高脂血症も指摘されていました。この時のデータを元に、以前ご紹介したフラミングハムスタディに基づいた心筋梗塞の10年における発症予測率は8.2%で、37歳の男性にしてはかなり悪かったのです。 ※心筋梗塞の発症予測率はこのサイトで簡易計算ができます。皆様も一度、ご自分の心筋梗塞発症予測率を計算してみてください。 Framingham Coronary Heart Disease Risk Score 運が良いとしか言いようが無いのですが、選挙運動中に心筋梗塞になったことを公表した結果、知名度が上昇し、選挙に圧勝します。それまでは不利だと思われていたのに、正直に病気を告白したことが反って良かったのです。 それからの彼の病歴は物凄く長いのです。カルテの病歴風に記載すると、 1941年生まれ 男性。エール大学を二度退学し、ワイオミング大学を卒業。20代の時、2回も飲酒運転で逮捕されたことがある。 冠疾患危険因子 1.高血圧(+) 2.高脂血症(+) 3.肥満(+) 4.喫煙(+) 5.糖尿病(-) 6.家族歴(+:父も冠動脈バイパス術を受けている) 1978年 最初の心筋梗塞、この時、意識消失。その後下院議員に当選。 1979年 1回目のカテーテル検査を施行、冠動脈に2箇所狭窄あり。 1984年 2回目の心筋梗塞で7日の入院。 1987年 狭心症発作を生じ、ニトログリセリンを舌下したが、血圧が低下して意識消失。同年、2回目のカテーテル施行。カテーテル施行中に3回も心室細動(心停止状態)となり、3回電気ショック(DC)を施行。この年に奇しくも、世界で最初のスタチン製剤(高脂血症治療薬)であるロバスタチン(商品名:メバコール)が発売され、チェイニー氏はメバコール投与を受け高脂血症は著明に改善した(LDLが163から、65まで改善)。 注1:日本製のプラバスタチン(日本での商品名:メバロチン、米国での商品名:プラバコール)は、日本では1989年に米国では1991年に発売開始。 注2:プラバスタチンは世界初のスタチン製剤。当時、三共製薬の遠藤章先生が世界初めて合成に成功、ただし、商品化はロバスタチンに先を越された。 1988年 3回目の心筋梗塞を発症。冠動脈バイパス術を受ける(4枝バイパス)。術後4ヵ月でスキーを楽しむ。 1989-1993年 国防長官に就任(父ブッシュ大統領に任命される)。 1995年 ハリバートン社CEOに就任。 2000年11月 4回目の心筋梗塞を発症、カテーテルを施行。初めて、PCI治療を受ける。 翌月、副大統領に就任(子ブッシュ大統領時)。 2001年3月 5回目の心筋梗塞、2回目のPCIを受ける。 2001年6月 ホルター心電図にて心室細動を生じていることがわかり、植え込み型除細動器(ICD)を移植。 2001年9月11日 航空機によるテロが勃発(ニューヨークのワールドトレードセンターなど)。 2005年 膝窩動脈瘤が見つかり、ステントグラフト治療を受ける。 2006年 痛風発作を起こして、インドメタシンを投与されたが、その副作用で心不全になる。 2009年 副大統領を退任。同年12月9日、車を運転中に意識消失を生じるもICDが作動して意識が戻る。心不全症状が強くなり、β-ブロッカー、ACE阻害薬、利尿剤の投与を受けるも次第に心不全が進行。 2010年7月 心不全が進行し、左心補助人工心臓(LVAD)を移植される。LVAD装着しても旅行や釣りを行う。移植待機リストに登録。 2012年3月 心臓移植を受ける。そして、今も元気に暮らしている。 トランプ大統領候補への支持をいち早く表明してニュースになったりもしていました。 こんな風に重要ポイントだけの病歴を抜き出して書くと素っ気ないし、簡単そうに見えます。しかし、これまで皆様に紹介したとおり、冠疾患の診断や治療は、文字通り、年々歳々、進歩してきました。その成果を、リアルタイムで甘受してきたのが、チェイニー氏です。皆さんは、治療を受けた患者さんの話を聞くことはあまり無いと思います。私ども医師は、患者さんの話(病歴)を聞くことが診断や治療の第一歩です。米国の有名な内科医オスラー(1849-1919)の言葉に "Listen to the patient. He is telling you the diagnosis" 「患者さんの言うことを良く聞きなさい。患者さんはあなた(医師)に診断の手かがりとなることを話しているのです」 という有名な言葉があります。 この本を読むと、素晴らしい病歴を聞いているようで、実に面白いのです。時々の、政治に対する感想も入ります。それに加えて主治医(ライナー医師)から見たチェイニー氏の様子や実際に行った治療や診断法についてその歴史を交えて描いているのですから面白くないわけがありません。ある意味、チェイニー氏と共同作業で書いた「究極のカルテ」とも言えます。それも完璧なカルテです。苦しかったことや重職にあったときのストレスや報道に対する意見などが正直に書いてあり清々しい感じを受けます。両者ともにそれぞれの分野でトップレベルまで上り詰めていますので、記述もそれなりに「深い」のです。アメリカの医療事情の細かい部分やホワイトハウス内の医療事情も解かります。副大統領という、あまり知られていない仕事のことも書かれています。心臓病に興味がある方は、是非、お読みください。 チェイニー氏は、自分でも書いていますが、 「この35年間、心臓の治療を受けてきたので、心臓病治療の発展の恩恵(新薬、診断法、治療装置、手術など)に与ったことがとてもよくわかる。今は、心臓移植を受けたお蔭で、20kgの飼料を持ってピックアップトラックに乗せることもできる。孫と遊ぶこともできる。自分は、この時代に生まれてラッキーだった。」 そうしみじみと記しています。そうです、今、正にこの時代に生きているのは、とてもラッキーなのです。 どうか、そういう良い時代に生きていると思いつつ、心臓を労るような生活をなさり、冠疾患に罹らないようにしましょう。 今回で冠疾患にまつわるお話は終了とします。長い間、お読みいただき有り難うございました。 ICD:模式図(セント・ジュード・メディカル株式会社のサイトより) 植え込み型人工心臓の模式図(国立循環器病センターのサイトより) 左心室から血液を人工心臓に導き、人工心臓から上行大動脈に血液を拍出する。人工心臓も小型化され、人工心臓の工藤も電池で出来る様になり、人工心臓を装着して歩行や外出、仕事も出来る様なレベルまで進んでいる。 チェイニー氏 近影 注: 医師として興味深いのは、 1987年、彼にスタチンが投与されてから12年間にわたり心臓発作を生じていないということです。 それまでの10年で3回も心筋梗塞を発症し、3割も心機能が低下していたのに、スタチン投与後に発作は生じなくなっています。そのスタチンは日本発(遠藤章先生の発見)のお薬です。 職務と発作との関係です。 最初の選挙の時や副大統領就任直前に発作が起きています。やはり、ストレスが強いのでしょう。 「煙草を、最初の発作が起きた時にきっぱりと止めて良かった」とも書いています。 止めなかったら、間違いなく早死にしていただろうと述べています。 【参考文献】 ディック・チェイニー、ジョナサン・ライナー共著『心臓』 国書刊行会 2014年11月刊 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/12/04 冠動脈疾患の追補:極めて珍しい心筋梗塞合併症に対する「世界初」の治療に成功! ※文章中に医学的な説明をするための血液の塊の写真があります。苦手な方はお気をつけください。 前回に続き、冠動脈疾患の話をします。今回は「冠動脈疾患の追補」として、珍しい患者さんをお目に掛けようと思います。 私が行った「極めて特殊な病気」に対する「世界初の治療成功例」(注1)です。「世界初なんて 嘘だろう?」と思われるかもしれませんが、ちゃんと論文を書いて米国の『The Annals of Thoracic Surgery』という心臓血管外科領域では結構高いインパクトファクター(注2)をもっている雑誌に載せました。 論文を書く時に散々調べ、査読者のreviewも受けているので、「世界初」は間違いないと思っています。ちなみに症例報告は、世界初から世界で10例目くらいまでは、インパクトファクターが付くような有名な雑誌に載りますが、それ以降はよほど特殊な事が無いと、インパクトファクターが高い雑誌には載りません。当たり前ですが、「二番煎じ」より「初」に価値があるのです。 「世界初」を多くの科学者、医師、研究者が狙っています。 例えば、医学者であれば、 世界で初めて新しい病気を見つける。例:川崎病、高安病、小口病、橋本病など 世界で初めての診断方法、診断装置を考案、開発する。例:聴診器、心カテーテル、CT、MR、胃カメラ、など 世界で初めての手術方法を考案する。例:ベントール手術、Konnno手術、内視鏡手術 ビルロート法 世界で初めての手術に使う器具を開発する。例:ペアン鉗子、コッヘル鉗子、メッチェンバウム鋏など 世界で初めて使われる人工臓器を考案、開発する。例:人工弁、人工心臓、人工腎臓、ペースメーカーなど 世界で初めて「ある病気」の治療に成功する。:そのために、お薬や手術を考案したり、開発したりする 世界で初めて、病気の経過についての新しい知見を発見する まあ、こんなことができたら良いなと夢想するのです。 幸いというか、なんと言うか、このうち 2、3、4、6、7の事項について、私はこれまで論文を書いたり、開発したり、特許を取得したりと稀有な経験をして参りました。5回は「世界初」に巡り会っています。ある意味、とても「運が良い」のです。残念ながら1と5には、今のところ、縁がありません。 それはともかく、本当に「世界初」だと確かめるのは結構大変です。「世界初」だと思っていても、実は報告されていたり同じような報告や研究があったりするとかなり「がっかり」します。そういうことの方が圧倒的に多いのです。 今から、書くのは、そういう中で、6に分類される「ある病気」の治療に世界で初めて成功した、という話です。これも例の「偶然」です。 某年某月某日の夜のことです。 患者さんは71歳男性です。家でいつものようにチェーンスモーキング(!)をしながら大量飲酒をしていました。毎日のように午後8時頃には泥酔して家人と喧嘩をするような生活を送っていたそうです。その日も、泥酔し、いつもの喧嘩が始まったのだそうです。喧嘩の最中、急に意識がなくなったそうです(家族談)。 119番に電話、救急隊が到着したところ、意識は無く脈も触れないので「心停止」と判断され、直ちに心臓マッサージが開始されました(救急隊の記録による)。近隣のA病院に搬送されましたが、救急車内でも心臓マッサージが続けられていました。幸い、心拍は再開し、意識がうっすらと回復しました。 A病院で記録した心電図から心筋梗塞が疑われました。心エコー検査にて心臓周囲に血液が大量に貯まっていることがわかりました。こういう状態を「心タンポナーデ状態」と言います。この状態を引き起こすのは、心臓病以外では大動脈疾患でも生じることがあります。その診断には造影CTが必須であるため、その時に撮影したCTが図1です。 図1 図1の赤い点線で囲まれた部分が心臓です。その周囲に黄色い矢印で示している帯状の部分があります。これが心臓の周りに貯まった“血液”です。正確に言うと“血液”とはCTではわかりません。何らかの“液体”が貯まっていることがわかるというのが正確な話です。なお青い矢印は下大静脈が右心房に流入する部分を示しています(手術時にここから出血していることがわかりました)。 心臓の周りにある血液が心臓を圧迫しているのがわかります。以前ご説明した「心筋梗塞による心破裂」が疑われ、直ちに搬送先のA病院で心カテーテル検査が行われ右冠動脈の狭窄が認められ、右冠動脈領域の心筋梗塞が原因で「心筋梗塞による心破裂」が生じているという診断が下されました。心臓そのものは、“心膜”という強い繊維性結合組織の膜で包まれています。心臓から血液が心破裂により漏れ出ると心臓と心膜の間に貯まります。血液が貯まると心臓は圧迫されて、血圧が下がります。ですから、心破裂の場合は、破裂部を修復しないとどんどん血圧が下がって死に至るのです。 この患者さんの場合も直ちに心臓圧迫状態の解除と心臓破裂部の修復が必要と判断され、午前2時にA病院から私の勤務していた病院に緊急手術のために搬送されてきました。A病院での心カテーテル検査結果、CT、心エコー検査を見直しましたが、やはり「心筋梗塞による心破裂」だと思い、直ちに心タンポナーデ解除術、心破裂修復術を行うこととしました。 ただし、実は少しだけ疑念がありました。心破裂にしてはCPK(クレアチンキナーゼ)という心筋梗塞が生じた時に上昇する酵素の値があまり上がっていないのです。また、「右」冠動脈による心筋梗塞だということも、少しだけ「変」でした。左冠動脈領域の方が心破裂を生じることが多いのです。 以上の2点が少しだけ疑問でした。それでも高度の心タンポナーデ状態(心臓の高度圧迫状態)ということに変わりはないですから、タンポナーデ状態をできるだけ早く解除しないと、血圧がどんどんと下がり大変なことになります。 午前3時45分に手術を開始しました。胸骨正中切開術を行い、心臓に到達します。前述のごとく心臓は心膜で覆われています。この患者さん心膜の下には心臓から出血した血液が貯まっているため、心膜は緊満していました。心膜を少しずつ切開していきました。そうすると心膜内にある心臓周囲の血液が少しずつ出てきます。それに伴い、血圧は70くらいから100まで上がりました。心膜の切開を広げて心臓周囲の血液を全て取り除きました。この場合もゆっくりと血液を取り除きます。性急に、乱暴に、血液を取り除くと血圧が一気に上昇して、心破裂部位からの出血が増加します。この辺りは慎重に手術を進めることが必要です。 こうして血液を取り除くと心臓破裂部が見えてくるはずでした。しかし、この患者さんの心臓には心破裂部が見当たりませんでした。その代わりに黒い静脈血が「じわーっ」と心臓の下の方から湧き出てきました。血液は赤い血(動脈血)と黒い血(静脈血)に分かれます。黒い血は静脈からの出血を意味します。余談ですが、動脈圧は、いわゆる血圧です、100mmHgくらいですから、水柱に換算すると、136cmに相当します。ですから、動脈に孔(あな)が開くと一気に1mくらい血液が噴出しますので、動脈からの出血部位を見つけるのは比較的容易です。一方静脈圧は5-10cm水柱程度の圧しかありませんので、静脈からの出血は「じわーっ」と滲みだしてきます。静脈からの出血は滲み出るような出血ですから、どこから出血しているか解らないこともあります。それに加えて静脈は壁が薄いことなどから、その止血には難渋することが結構あります。 さて、この患者さんです。心臓の下側から、黒い血が湧きでてきました。「え?え?え? あれ? 心破裂なら赤い血が出るはず? え? 何でこんなに静脈から出血するの?」と思っている間もなく、どんどん黒い血液が湧きでてくるのです。一時戻った血圧もまた下がり始めました。とっさに血が出ている当たりを、ガーゼで抑えて一時的に止血を試みました。出血している (と思しき) 箇所を抑えながら、良く確認しました。なんと心臓の下側、心臓の右房からさらに下方の下大静脈に3本の裂け目があり、そこから出血していたのが判明したのです。さすがに一度に3箇所も止血はできません(図2参照)。 図2:手術図 左下に裂け目が3本書いてあるのが裂け目のあった場所です。 いつもなら写真を撮るのですが、さすがにこの時はその余裕はありませんでした。 ※以下、医学的な説明をするための血液の塊の写真があります。苦手な方はお気をつけください。 図3:心臓周囲に貯まって心臓を圧迫していた「血液」の一部 ぞっとしました。このままではどうしようもない。一箇所なら、糸を用いて縫合止血操作が可能ですが、同時に3箇所も止血操作を行うのは不可能です。心臓の表面ではなく、奥深くにある下大静脈部分からの出血です。下大静脈からの出血を止めるのは極めて難しいのです。どこの教科書にもこういう場合の止血方法は書いてありません。結局、人工心肺を装着して止血を行うことにしました。人工心肺を用いて、一時的に低体温状態にして循環を停止させて、止血縫合術を行ったのです。人工心肺をつけるのは、いつもであれば心臓手術操作と一緒ですから簡単です。しかし、普通なら脱血するためのカニューレを挿入する場所にまさにその出血点が三つあるのです。ちょっと工夫を凝らして別の箇所から脱血するためのカニューレを下大静脈内に入れてから、ありとあらゆる止血操作を行いました。 こうして3本の裂け目を何とか修復し、出血が無いことを確認して人工心肺から離脱することができたのです。ところが、止血操作を行った箇所が一部裂けて(前述の通り、静脈は脆く弱いのでそういうことがあります)、また出血が起こりました。今度も(説明は省きますが)「秘術、秘技」を尽くしました。「禁断の奥義=根性止血術」を使おうか?と思った寸前、神のご加護か?日頃の行いが良かったのか?出血が止まり、ようやく無事手術を終えることができました。 手術中から「何故、こんなところから出血するのか?」ずっと考えていました。そして、ハタと思い当たったのです。いつか読んだ文献に「心臓マッサージによる心破裂」という項があったのを思い出したのです。この患者さんは倒れた自宅から最初に収容された病院まで長い時間、救急隊による強い心臓マッサージを受けています。そのために、下大静脈に裂け目が入り、そこから出血したのです。心筋梗塞による「心破裂」ではなく、心臓マッサージによる「下大静脈損傷」だったのです。心臓マッサージによる心破裂は、ほぼ助からないと書いてあったことも、うっすらと思い出しました。元より、心臓マッサージを要するような心臓の状態は「重篤」です。この患者さんも心停止を来たしていたのです。弱った心臓に強く心臓マッサージを行えば、心臓(この場合は下大静脈ですが)に亀裂が入ることもあり、「助からない」のが通り相場だったのです。 手術後は結構大変でした。患者さんはヘビースモーカーだったので、術後に肺炎を併発もしました。その他、色々な合併症を起こしつつも、幸いにもこの患者さんは何の後遺症も無く、無事に「アルコール中毒者の治療病棟」に移りました。そして、酒も煙草も止めて無事退院することになりました。 Medlineで調べに調べました。結局、この患者さんが、「心臓マッサージによる下大静脈損傷」の世界初成功例であることを確信し、論文にして無事掲載されました。良かったです。 このような難しい病気の治療はそもそも、 一生懸命(下大静脈が裂けるほど)心臓マッサージを行った救急救命士の方の努力 夜中にもかかわらず、適切な診断をして私どもに紹介してくれた前医 直ちに手術体制を整えてくれた多くの手術部の看護師さん 早朝にもかかわらず、快く麻酔をしてくれた麻酔医の方々 人工心肺を、数分で、準備してくれた臨床工学士さん こういう治療の流れが滞りなく行ったので治療が上手く行ったのです。 心底、良かったと思っています。 次回で最後です。すべての冠疾患治療の恩恵を受け、米国副大統領になった患者さんの物語をします。 注1: The Annals of Thoracic Surgery: Repair of Lacerated Intrapericardial Inferior Vena Cava After Cardiac Massage 注2: インパクトファクター(impact factor)とは、その雑誌に掲載された論文がどのくらい引用されたかの指標です。 The Annals of Thoracic Surgeryという雑誌は4.01です。 参考までに、有名どころの雑誌のインパクトファクターを記しておきます。 <総合科学誌> Nature (42.4) Science (31.5) Nature Communications (10.7) Proceeding National Academy of Science (9.8) Scientific Reports (5.1) Plos One (3.5) <医学誌> New England Journal of Medicine (54.4) Lancet (39.2) Nature Medicine (28.1) Lancet Oncology (24.7) Lancet Neurology (21.8) Lancet Infectious Diseases (19.4) Journal of Clinical Oncology (17.9) PLoS Medicine (14.0) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2017/11/20 晩秋となり、段々と冬の足音が聞こえてくる季節になりました。この季節になると思い出すのが高校時代の「強歩大会」です。 「強歩大会」とか、「強行遠足」とか呼称される長距離遠足があることをご存じでしょうか?私の故郷山梨県甲府市の県立甲府第一高校は「強行遠足」で全国的に有名です。何が有名かというとその距離です。なんと105kmの遠足!です。これは男子の距離です。女子は41kmです。 参考:甲府から小諸までは八ヶ岳の横を通っていきます(コースはイメージです) この距離を24時間で歩く(or 走る)のです。大正13年から始まっています。今年(平成29年)で第91回目です。これが日本初の「強行遠足」だとされています(参考文献1)。 私もこの105km強行遠足に参加したかったのです。理由は後述します。しかし、当時の山梨県内の公立高校入試は「総合選抜制度」という制度があり、受験生が勝手に高校を選ぶことができませんでした。私の進学した県立甲府南高校と県立甲府第一高校は、総合選抜制度の対象となっていてどちらに進学するかは「くじ引き」(!)でした。私の同級生は甲府第一高校のすぐ前に家があったのですが、家から10kmも離れている甲府南高校へ進学せざるを得ませんでした。実に不合理な制度でした。創立してまだ日が浅かった我が母校(甲府南高校)にはプールも無く、図書館も貧弱でした。我が母校は当時創立11年、甲府第一高校は創立90年、その差は極めて大きかったのです。現在は総合選抜制度は解消されていて、受験生は自由に受験することができるそうです。うらやましいです。 教育環境はともかく、くじ引きで甲府第一高校に進むことができず「105km 24時間強行遠足」に出場できないという不満が代々あったのでしょう。私が入学した頃には、我が母校でも強行遠足が行われるようになっていました。母校のそれは、「強歩大会」という名前でした。距離は46.2kmで時間は8時間でしたが、女子も同距離です。母校のある甲府市からJR身延線の身延駅までがコースです。いわゆる「身延道(みのぶみち)」でした。大変景色の良い富士川沿いのコースでした。 図1:当時のコース図 46kmを8時間ですから、概ね時速6kmで行けば到達します。簡単だと思う方も多い方と思います。しかし、途中に2回の峠越えがあり、そんなに簡単では無さそうでした。 話はややそれます。 私は高校に入学し山岳部に入りました。中学時代あまり運動をしなかったので、高校時代は少し運動をしようと思ったのです。しかし、サッカー、野球、テニス等の運動部は中学時代からやっていないと難しそうです。そこで、中学時代には無い「山岳部」を選択したのです。少しだけ山登りをして楽しもうと思ったのですが、それはとんでもない間違いでした。上級生が二人しかいませんでした。だから「楽な運動部」だと思ったのが間違いの元でした。私が入った山岳部は高校総体(インターハイ)山岳部門の優勝を目指していたのです。最初の山行(≒登山)がゴールデンウィークの鳳凰三山登山でした。それまで、たいして高い山に登っていなかったので大変でした。 「高校総体山岳部門って何?」と聞かれたことも多いのですが、別に早さを競う訳ではありません。ただし、制限時間内に登れないと失格になります。色々なことを競い合って点がつきます。例えば天気図を書いたり、地図で現在地を示したり、テントの張り方、etc.そういうことで採点される競技です。 顧問のK先生の指導は大変厳しいものでした。高校総体で優勝するようなチームを作ると宣言していたわけですから。大変な部(活動)に入ってしまっていたのです。毎日5-10kmは走らされ、土日は毎週登山をしていました。成績が落ちたら登山を親から止められそうでしたので、そこは私も適当(?)に勉強もしていました。 話を戻しますが、あの難しそうなコース(図1)を配した我が母校の強行遠足の日が近づいてきました。10月でした。運動部員は、当然、皆が1番を目指しています。特に陸上部、野球部、サッカー部の連中は気合いが入っていました。歩くことが基本であった山岳部の私は、全く見当もつきませんでした。46kmも一度に歩いたことも走ったことも無いからです。周りでは、去年の1番は誰々でとか、2番は誰とか、今年は誰が1番になりそうだとか、強行遠足が近づくとそういう話題でもちきりでした。 私の思い出の品、図2を示します。「強歩大会検印カード」と印刷されているのがわかりますでしょうか? 図2:1年時 強歩大会記録 これは私が高校一年生の時の強歩大会「記録」です。46kmのコースの途中、全部で10箇所の検印所兼休憩所がありました。そこを通過すると判子を押してもらえます。順位が早いと順位を記した数字の判子を押してもらえます。懐かしいです。少し見づらいですが、母校を出発して24km地点の「岩間(いわま)」という検印所で私は全体の7番!だったのです。意外でした。1年生であった私はペースが解らないので「飛ばしていた」のです。ほかの運動部の人たちは互いに牽制しあって遅かったのでしょう。思えば、私はペースが解らないので、どんどん前を追い抜いていったのでした。「無名」だった私をマークしているほかの運動部員もいません。 そしてついに「市瀬(いちのせ)」、「下部(しもべ)」の検印所通過では、2番になっていました。全校で1200人くらい。男子が900人です。その中の2番です。 検印所近くには走らない女子生徒がいて(そういう選択もできたのです)、私達を応援をしてくれます。そうです!2番になった時、検印所にいた女子生徒の凄い歓声を浴びたのです。生涯であんなに女の子の声援を受けたことはありません。舞い上がってしまいました(笑)。1番になればもっと凄い歓声を得られそうです。「下部」の検印所で、ようやく先頭を走っている「野球部のエース S君」の後ろ姿を捉えることができました。彼を抜けば1番になります。なんとか追い抜こうとペースを上げ、もう少しで追いつきそうになった時、「S君」が後ろを振り返り、私のことに気づき、ペースをあげたのです。私も付いていこうと思ってペースを上げました、しかしその瞬間、「足がつった」のです。ペースダウンを余儀なくされました。 あとは足が思うように動かず、後ろからどんどん抜かれて、ようやく身延駅に到着しました。しかし、それでも12番で Finishしました。 強歩大会が終わって数日は女の子達から「望月君はあの時、2番だったね、来年は1番になってね!」と言われ、またまた舞い上がりました。校長先生からも、直々に「勉強の成績も強歩と同じくらいの順位になれよ」と励まされました。そういうわけで、運動部の中でも、少しは知られるようになりました。 さて、2年生になりました。私は、「今年こそは絶対に1番になって、さらに凄い歓声を浴びたい」と思って、随分前より計画を練りに練って、ついに私にとって2回目となる「強歩大会」を迎えました。その時の記録が図3です。 図3:2年時 強歩大会記録 走りはじめて解ったのですが、前年大会で成績が良かったので、多少、ほかの運動部の方のマークの対象とされてしまい、なかなか順位を上げることができませんでした。でも、前回のように「足がつる」ことはなく、終盤に抜かれることもなく、順位を次第にあげて無事ゴールしました。しかし、結果は何と17番。これでは女子生徒からの歓声は上がりません(泣)。いつでしたか、とある政治家が「なぜ、1番でないと駄目なんですか? 2番じゃいけないんですか?」と発言して顰蹙を買いました。この時から私は「1番で無いと駄目」だと解っていました(笑)。 陸上部でもない私がなぜこの「強歩大会」で(多少)早かったかというと、道中2箇所の峠越えがあったためです。峠越えは、ほかの運動部員はあまり経験したことがありません。山登り、山下りは走り方が違います。箱根駅伝で山登りの「神」などと騒がれますが、平地を走るのと山を登りながら走るのは、全く、違うのです。(前述の通り)山岳部で鍛えられていた私には「峠越え」が苦になりませんでした。峠から下るのも楽でした。それでタイムを稼ぐことができたのです。 私の思い出話はともかく、今一度、甲府第一高校の100kmを越える強行遠足の話に戻したいと思います。 100kmを越える距離だけでも凄いのですが、「甲府第一高校の強行遠足」の歴史は長く、その中では24時間距離無制限走行という時代もあったのです。24時間で、どこまで行けるかを競った時代があったのです。最高到達距離記録は、167kmです。24時間で甲府から長野県大町市簗場という地点まで到達したと記録されています。昭和32年のことです(参考文献1、2)。しかし、距離無制限は危険だということで現行の24時間105kmになって久しいです。 なんでこんなことを知っているかというと、この167kmの最高距離到達者が、私の中学校の先生だったからです。技術・家庭科担当のI先生でした。I先生は、当時から伝説の人でした。歩くのが速い先生でした。皆の尊敬を集めていました。私も、だから甲府第一高校の強行遠足に出場したかったのです。 また話は変わります。 中学を卒業して40年も経ったある日のことです。ある心臓病の方が緊急で入院されてきました。弁膜症と大動脈瘤を合併していました。心臓手術の中でもかなり難しい「ベンタール手術」が必要でした。私はほかの患者さんの手術の予定を変更して、その方の手術を繰り上げて行うことを決めました。「ベンタール手術」は、何度行っても緊張する難しい手術です。 さて、いよいよ明日が手術だという日の夕刻に看護師さんから連絡があり、その患者さんのお見舞いに来ているIさんという方が私に面会したいと言っているとのことでした。その病室に伺うと、何とIさんとは、あの尊敬するI先生でした。伝説のI先生が、山梨県から私が勤務する栃木県の病院にいらしたのです。40年も経っていましたが、I先生も私の顔立ちを覚えてくれていたのです。翌日にベンタール手術する予定の患者さんが、I先生の親戚の方でした。それでお見舞いに来ていたのです。ベッドサイドで担当医の名前を見て「担当医はもしや私の教え子ではないか?」と思い、それで看護師さんに私への連絡を頼んだのです。I先生は「望月君、明日は大きな手術だと聞いている。最善を尽くして欲しい」と仰ったのです。40年前に教えた生徒の名前を覚えていてくれたのです。私は感激しました。一段と手術にも気合いが入り、手術は成功しました。患者さんは、幸い術後も順調な経過で、元気に退院されていかれました。今、思うと私の技術・家庭科の成績はあまり良くなかったので、「手術は大丈夫か?」と、私の手先の器用さを危惧していたのではと今となっては思います(笑)。 そんなこともあり、あんなこともあり、秋になると「強行遠足」「強歩大会」のことが頭をよぎります。なお、私の高校3年時の「強歩大会」は受験勉強もあり、1番になろうとは思わずに晩秋の身延道の紅葉を楽しみながらゆっくりと走りました。これもまた、良い思い出です。 今は、もちろん、そんなに長い距離を走ったり歩いたりはしません。長い距離を歩くのは「天気が良い日だけに登る『富士登山』」だけにしています。富士山には今年も登りました。その写真をお目にかけて終わりとします。 富士山頂からの眺めです。 【参考文献】 甲府第一高校強行遠足の歴史 甲府第一高校強行遠足の記録 余談:文中に出てくるI先生に技術・家庭科で指導いただき製作した椅子は、大切に修理しつつ今でも使っています(笑) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/11/13 「虚血性心筋症」の治療とは ※文章中に医学的な術中の心臓の写真があります。苦手な方はお気をつけください。 虚血性心筋症状態になると、極めて危険なことは前回お話ししました。今回は、虚血性心筋症の治療法についてです。 まずは、虚血性心筋症の治療法について、以下にお示しします。 冠動脈病変への治療:冠動脈バイパス術、PCI 僧帽弁逆流に対する手術 薬物療法:「ベータ遮断薬」や「アンジオテンシン変換酵素阻害薬」などが使われます。ベータ遮断薬が使われるようになり、かなり予後が良くなりました。 人工心臓 左室形成術:Dor(ドール)手術 バチスタ手術など 心臓移植 などがあります。 冠動脈が細くなると普通は「胸痛」を生じます。しかし、糖尿病の方は、糖尿病による神経障害があり、「痛み」をあまり感じなくなります。ですから「ひそかに」病状が進行することがあります。虚血性心筋症まで行かなくても、心不全で救急入院して、初めて冠動脈に狭窄が多発していることがわかる糖尿病患者さんは結構多いのです。これを「無痛性心筋梗塞」と言います。全く痛みの無い心筋梗塞を生じることも糖尿病患者さんの場合は多いのです。気づいたときは、心不全を生じ、高じると虚血性心筋症になります。 カテーテル検査が普及すると、少し珍しい状態が心臓に生じることもあると解ってきました。それは、 Stunned Myocardium:気絶心筋 Hibernating Myocardium:冬眠心筋 と呼ばれる、少し特殊な心臓の状態です。 「気絶心筋」とは、主に急性心筋梗塞の時に生じます。冠動脈急性閉塞をカテーテル治療などで治療しても、一時的に心臓機能は回復しないことがよくあります。それを「Stunned(気絶)」と称します。一週間から10日、心機能が気絶(=動かない)した状態になりますが、次第に動くようになります。 「冬眠心筋」は、虚血性心筋症と少し関係します。3本ある冠動脈が全て狭窄ないし閉塞すると心臓は自動的に「冬眠」したような状態になることがあります。すなわち、心臓の働きを弱めて酸素、栄養をできるだけ消費しないようにするのですね。自衛現象と言っても良いでしょう。面白い現象です。 完全に心臓の筋肉細胞が壊死したホンモノの心筋障害(以下、ホンモノと略)とこの「冬眠心筋状態」ですが、心室の造影上は似たような感じ(心臓が動いていない)になります。この区別はとても大事です。「冬眠心筋」は、冠動脈血行再建で心臓機能が回復する見込みがありますが、完全に壊死した心筋は冠動脈を再建しても動きは回復しません。 同じように心機能が悪くなっていても、「冬眠心筋」状態ならPCI、冠動脈バイパス術の良い適応となります。冠動脈への血流が良くなると、春に冬眠から覚める熊と同じように、心臓の動きが回復してきます。その見極めはカテーテル検査ではできません。核医学検査が必要になります。 しかし、簡単に見極める方法もあります。それは心電図です。少し難しいのですが、完全に心筋細胞が壊死した場合の心電図と冬眠心筋状態の心電図とを比較するとかなり違うのです。 心電図は今から100年以上前に、オランダのアイントホーフェンが発明しました。それがいまだに十分役立っています。見極めのために、核医学検査は必須です、しかし、核医学検査ができないような緊急状態で判断を下す際、心電図はとても役立つのです。 「冬眠心筋状態」と判断して、冠動脈バイパス術を行うと心機能は回復します。別の道(バイパス)を作って心臓への血流が回復したことにより、心機能が正常になるのです。私自身、初めて「冬眠心筋状態」の患者さんの手術を行い、実際に心機能が良くなったのを見て、心の底から心臓の神秘に感動しました。 逆に「冬眠心筋状態でない=心筋が元に回復する可能性は少ない」と判断されたら、左室形成術や心臓移植手術が適応となります。左室形成術にはいくつかありますが、有名なのはバチスタ手術です。この術名はテレビや映画になりましたので、皆さんも耳にしたことがあるかもしれません。ブラジル人心臓外科医の Randas Batista ランダス・バチスタ先生が開発した手術です。また、南米人ですね。心臓治療というと南米の先生が良く登場します(冠動脈バイパス術の創始者はアルゼンチン人のファバロロ、パルマ-シャッツステントの開発者のパルマもアルゼンチン人です)。 心筋梗塞を繰り返し、虚血性心筋症となると心臓は拡大します(図1を参照ください、普通の倍くらい大きくなります)。この拡大した心臓の筋肉を切り取って、小さくするのがバチスタ手術です。 図1:バチスタ手術のイメージ 拡大した心筋の一部を切除することで心室壁にかかる張力を減少 バチスタ手術は、物理学の法則にのっとって考案されました。その物理法則はラプラスの法則【Laplace's law】です。バチスタ先生は心室を球体と仮定して、ラプラスの法則が適応できるのではないかと考えたのですね。 ラプラスの法則とは【球体の壁への張力は心室内圧および内径に比例し壁の厚さに反比例する】という法則です。要するに球体が大きく(内径が大きくなる)なるほど、球体にかかる張力が大きくなるのですね。拡張型心筋症、虚血性心筋症で心臓が大きく拡大してくると、心臓の壁にかかる力が大きくなる、そうなるとさらに心臓が大きくなる→さらに心臓が拡大するという悪循環におちいる。それを食い止めるためには心臓内腔を小さくすれば良いとバチスタ先生は考えたのです。心室内腔を小さくすれば心臓の壁(心室壁)への負荷が減ると考えたのです。しかし、この術式は長期成績が芳しくなく手術死亡率も高かったため、実は今はでは殆ど行われていません。物理法則だけでは、解決できなかったのですね。 一方、あまり一般的には知られてはいませんが、バチスタ手術の前に開発され今でも行われているのが、モナコ公国の心臓外科医 Dor先生が開発した「Dor(ドール)手術」です。 この手術は心臓の中に壁を作る手術です。 図2:Dor手術のイメージ ※以下、心臓の写真があります。苦手な方はお気をつけください。 図3:Dor手術写真 図3は、心臓の中に特殊な膜を用いて、Dor手術を行っています。しかし、Dor手術は心臓の壁の一部の動きが悪くなったときにしか行えません。全体の動きが悪くなる心筋症になってしまうとこの手術の適応はありません。 そうなると、次は、人工心臓の装着か心臓移植しか治療手段がありません。人工心臓は日進月歩です。今でも様々な人工心臓が開発されています。心臓移植は日本では1999年に再開され、1年間に40-50件しか行われていません。心臓移植を必要とする患者さんの数からすると一桁違います。難しい問題です(注:再開というのは1968年札幌医科大学において和田寿郎医師による日本初の心臓移植が行われていたからです。この心臓移植にはさまざまな問題があり、以後30年以上も日本では心臓移植が行われなかったのです)。 心臓移植に比して、人工心臓はハードルが低いので、心臓移植を受ける患者さんの9割は「既に人工心臓をつけて、移植を待っている」という状態です。 心臓移植の適応となる病気のうち、特発性心筋症は防ぎようが無い病気です。「特発性=原因不明」です。しかし、虚血性心筋症は防ぎようがある病気です。 リスクファクターとなる、「喫煙」、「糖尿病」、「高血圧」、「肥満」、「高脂血症」などはコントロール可能です。 今回で、長く続きました「冠動脈疾患」についてのお話は終了とします。 次回は、「冠動脈疾患の追補」と題して、珍しい患者さんをお目に掛けようと思います。 私が行った「極めて特殊な病状を呈した冠動脈疾患患者さん」に対する世界初の治療成功例です(“The Annals of Thoracic Surgery”という雑誌に掲載されました)。 お楽しみに。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/10/30 虚血性心筋症について(1) ※文章中に医学的な術中の心臓の写真があります。苦手な方はお気をつけください。 冠動脈疾患の診断、治療手段のさまざまな開発により、その治療成績は飛躍的に良くなりました。それでも心筋梗塞を発症すると、 不整脈による心停止 心筋梗塞による心臓破裂 心筋梗塞による僧帽弁閉鎖不全症 心筋梗塞による心室中隔穿孔(欠損) などの致死的合併症を生じる可能性があること及びそれぞれの疾患の特徴、病状、治療について、前回ご説明させていただきました。 これらの疾患は主に「急性期」に生じます。「急性期」とは心筋梗塞を生じた直後から、1ヵ月くらいを指します。今回は、心筋梗塞「急性期」を過ぎ、慢性期に移行した時に生じる合併症の中で、あまり知られていないけれど、重い病気である「虚血性心筋症(きょけつせいしんきんしょう)」についてお話ししようと思います。虚血性心筋症は、英語では Ischemic Cardiomyopathy です、略してICMです。 お復習いをします。心臓を栄養する血管が冠動脈です。この冠動脈が狭窄したり、閉塞したりして生じる疾患が冠動脈疾患です。冠動脈は心臓の筋肉に栄養、酸素を供給しています。冠動脈が狭くなると、心臓の筋肉に栄養や酸素の供給が途絶えるか、細々としか供給されなくなります。冠動脈は3本ありますが、その3本ともに狭くなると、心臓全体に栄養や酸素が行き渡らなくなり、心臓は動かなくなります。それが「虚血性心筋症」です。後述するごとく、実は「心臓が動かない状態」には2種類あるのですが、それはひとまず置いておきます。 時々、心臓移植が話題になりますが、心臓移植の適応となるのは、 拡張型心筋症 虚血性心筋症 の二つです。今回、お話しする虚血性心筋症も心臓移植の対象となっています。心臓移植は、もうあまり報道もされなくなりましたが、日本では年間約40-50人の方が心臓移植手術を受けています。 それはさておき、虚血性心筋症です。症例をお示しします。 55歳男性です。糖尿病と喫煙、高血圧がこの方のリスクファクターでした。 図1は、この患者さんの冠動脈造影像ですが、冠動脈があちこち狭くなっているのがお解りになりますでしょうか? 図2は、心臓の拡張期の映像です。 図2、3は、心臓の動きを示しています。実際は動画です。動画を見ると、もっと良くわかるのですが、心臓全体がほとんど動いていないように見えます。怖いです。 図1:あちこち狭い冠動脈 図2:拡張期 図3:収縮期 心臓の動きは、こうした画像から計算ができます。心臓の動きは左室駆出率(Left ventricular ejection fraction:LVEF)という数字で表します。正常値は60%以上です。この方のLVEFを計算すると22%しかありませんでした(図4参照:図中にEFと書いてあります)。 図4:左心室の動き これくらいになると、普通に働くのが無理なのはもちろん、夜も横になって眠ることができなくなります。座って寝ていないと、夜間に苦しくなってしまいます。こういう状態を起座呼吸(きざこきゅう)と言います。こうなると心臓全体が拡大して、前々回お話しした心筋梗塞急性期の僧帽弁閉鎖不全とは別な機序で、僧帽弁逆流を生じるようになります。弱り目に祟り目状態になります。 図5は、そういう心臓が虚血性心筋症により拡大して生じた僧帽弁逆流を示した心エコー検査の画像です。 図5:ICMに僧帽弁逆流を合併した症例の心臓のエコー写真です。 黄色矢印で示すモザイク部分が僧帽弁逆流を示しています。 とにかく、心臓が動かなくなると、心臓は拡大し、拡大がさらなる拡大をおこしてどんどんと動きが悪くなります。そして、ついには心臓内の血流はゆっくりと渦を巻くようになります。そうなると心臓内に血栓ができることもあります。怖いですね。 図6:虚血性心筋症により心臓内に血栓が生じています。 黄色い矢印で示しているのが血栓(血のかたまり)です。 ※以下、心臓の写真があります。苦手な方はお気をつけください。 図7 図8 図9:取り出した血栓 図7、図8は、図6の心臓内血栓(血のかたまり)を、左心室を切開して摘出したときの写真です。図9は摘出した血栓です。この血栓が大動脈を通して、全身に飛散すると、脳梗塞、腸管壊死、下肢壊死など悲惨な病気を引き起こします(そうなった状態をシャワーエンボリズムと言います)。 とにかく、虚血性心筋症状態になると、極めて危険です。さて、怖がってばかりでは話が進みません。次回は、虚血性心筋症の治療法をお示しします。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/10/16 急性期の「心筋梗塞合併症」 ※文章中に医学的な術中の心臓の写真があります。苦手な方はお気をつけください。 お薬、冠動脈バイパス術、PCI(PTCA)が発達し、ICU、CCUが整備され、標準的治療が受けられる機会が飛躍的に増えて、心筋梗塞による死亡率は劇的に減りました。それでも、治療が間に合わず、お亡くなりになることがあり、その代表として、 不整脈による心停止 心筋梗塞による心臓破裂 について、前回お示ししました。今回は、少し珍しいというか、あまり知られていない急性期の「心筋梗塞合併症」について解説したいと思います。 ひとつは、心筋梗塞による「僧帽弁閉鎖不全症(そうぼうべんへいさふぜんしょう)」、もうひとつは心筋梗塞による「心室中隔穿孔(しんしつちゅうかくせんこう)」です。 心筋梗塞による「僧帽弁閉鎖不全症」 最初に「僧帽弁閉鎖不全症」についてです。心臓の中に、弁膜は4つあります。「僧帽弁」「大動脈弁」「三尖弁」「肺動脈弁」の4つです。 このうち、僧帽弁と三尖弁は乳頭筋と腱索という組織で支えられています。 図1:心臓内の弁膜と血流の関係(聖路加国際病院心臓血管外科のサイトより) 僧帽弁を支える乳頭筋(図1)を栄養する冠動脈を栄養する動脈が閉塞することがあります。そういう特殊な心筋梗塞を生じると、僧帽弁を支える乳頭筋が壊死(えし)し、僧帽弁の支えが無くなります。そうなるとどうなるかというと、僧帽弁が閉まらなくなり、逆流が生じます。左心房から、左心室へと流れるのが正常な血流の流れですが、僧帽弁が閉まらなくなるので、一旦左心室に流れた血流が心臓の拍動により左房側に戻ることになります。そうなると、肺から左心房に帰ってくる血流が交通渋滞を起こすことになります。すると、肺の中に急速に血液が鬱滞します。それが図2です。 図2 1時間毎に、肺に血液が欝滞していくのがおわかりになりますでしょうか?肺に血流が急速に貯まるため、呼吸をしても酸素が身体に流れなくなります。窒息するのと同じような状態になります。そうなるとピンク色の泡沫状の血痰を吹き上げて、苦しがるようになります。 図2の患者さんが、まさにそういう状態で、待ったなしの「緊急手術」が必要でした。数時間手術が遅れると、非常に怖いことになります。 図3:僧帽弁逆流を示す心エコー検査図 赤くモザイク状に見える箇所が、僧帽弁逆流を示します。正常では、このモザイク状のパターンは見えません。何れにせよ、急速な僧帽弁での逆流を止めるためには、手術をするしかありません。 図4 図4は、この手術の開始時間です。午前1時です。手術が終了したのが、午前7時でした。もちろん、その日も診療があります。完全に「ブラック」ですね。 ※以下、心臓の写真があります。苦手な方はお気をつけください。 図5:矢印で示した部分が心筋梗塞で壊死した乳頭筋(にゅうとうきん)です。ちぎれていますね。 乳頭筋は赤ちゃんの小指くらいの大きさです。このように小さな乳頭筋を栄養する血管は細いのです。えっ?こんなに小さい枝の心筋梗塞が、僧帽弁閉鎖不全症を起こしているのか?と驚くことも多いのです。手術方法には2つあります。 僧帽弁を人工弁で交換する方法 僧帽弁を形成する方法 手術後に逆流が止まれば血行動態は劇的に改善しますが、手遅れになると肺が損傷を受けるため、手術後の治療も結構大変です。 手遅れにならないためには、どうしたらよいでしょうか?エコー検査を毎日行えば良いでしょうか?それは面倒ですね。実は簡単な方法があります。それは聴診器です。僧帽弁逆流が生じると凄い心雑音を聴取するようになります。心筋梗塞を生じた患者さんには、毎日数回、聴診器を当てて、心臓に雑音が生じていないかどうかを聞いてみることが必要です。 次にお話しする「心室中隔穿孔」という病気も、急に雑音を聴取するようになりますので、聴診器はその診断にも有用です。エコーがあれば何でもわかると思われがちですが、そうではありません。 注:「聴診器」は、1816年、フランス人医師、René-Théophile-Hyacinthe Laënnec「ルネ・テオフィル・ヤサント・ラエネック」が発明しました。発明されてから、200年が経ちましたが、今も現役で使われています。200年以上も使われている「診断用」医療機器は、聴診器以外はほとんどありません。 心筋梗塞による「心室中隔穿孔」 「心室中隔穿孔」は心筋梗塞により心室中隔という心臓の壁を栄養する血管が詰まることにより心室中隔という壁が崩れて生じる病気です。先天性の病気で心室中隔欠損症という病気があります。 心臓には4つの部屋があり、それぞれ壁で仕切られています。右心室と左心室の間にあるのが「心室中隔」です。ここに生まれつき「孔:あな」があるのが、心室中隔欠損症です。先天性心疾患の中で、一番発症率の高い病気です。左心室の血圧は100、右心室の血圧は20くらいですから、心室中隔に孔があると左心室から右心室に血液が流れます。生まれつき孔が開いている場合、孔が大きいと、生まれてすぐに孔をふさぐ手術後が必要となることもあります。 さて、心筋梗塞による心室中隔穿孔です。心室中隔を栄養する血管が閉塞する、そういうタイプの心筋梗塞が生じると、心室中隔に孔が開きます。そうすると、先天的に孔が開いているのと同じ血行動態になります。この孔を通る血流により、大きな心雑音が聞こえるようになります。左心室から、この孔を通して、血流が右心室に流れます。そうなると、肺に流れる血流が多くなります。心筋梗塞による僧帽弁閉鎖不全とは違って、一気に悪くなることは、そう多くはありませんが、それでも数時間単位でどんどん状態は悪化しますので、緊急手術が必要になります。 図6:心室中隔欠損穿孔手術直前のレントゲン写真 この写真を見てお解かりになるかと思いますが、肺の「うっ血」が著明です。黒い部分が肺ですが、そこが白くなっています。肺炎ではありません。「肺うっ血」と言います。心不全が生じると肺に大量の血液が「うっ滞=たまる」ために、レントゲンを撮影すると、このような画像を示すことになります。 先天的な心室中隔欠損症の手術は比較的容易ですが、心筋梗塞後の心室中隔穿孔の手術は極めて難しいのです。なぜかというと、先天的心室中隔欠損の場合、孔の周囲はしっかりとした組織です。ですから、この孔の周囲に糸をかけて特殊な布などを用いて孔を塞ぎます。心臓手術の中では基本的な手術です。しかし、心筋梗塞後の心室中隔欠損周囲の組織は、心筋梗塞で心筋が壊死しているために、極めて脆くなっています(脆くなっているから孔が開くのです)ので修復は容易ではありません。様々な手術方法が考案されてきました。1990年、Komeda-David法という方法が発表されて、その成績は一変します。 この方法は、脆くなった心室中隔欠損部周囲には糸をかけないという画期的な方法です。最初に読んだときは、一体どうやって手術をするのだろうと思いました。再三再四、論文を読み、「ああ、こういう方法なのだ」とわかった時は、ちょっと感動しました。 Komedaは元京都大学心臓外科教授 米田正始先生のことです。同じ、日本人として誇らしいですね。David先生はカナダ、トロント大学の心臓外科教授です。フルネームはTirone E. Davidです。ブラジル生まれ、ブラジル南部にあるパラナ大学出身、アメリカの病院で研修を行っています。 京都大学から、トロント大学に留学した米田先生が、David先生と共に開発したのが、Komeda-David法です。今は、この方法やこの方法を改良した方法が使われています。 図7は心室中隔に開いた孔です。プラスチックの棒で示しているのが開いた「孔(あな)」です。こちらは左心室側から孔を見ています。「孔(あな)」と言っても、心筋梗塞で、ぐずぐずと脆くなった組織ですから、わかりづらいです。何れにせよ、この孔の周りは、とても脆くなっていますので特殊な布を用いて、この孔を閉じるのは、簡単ではありません。 Komeda-David法は心室という三次元空間を構築する手術と言っても過言ではありません。構築する空間を想像しながら、心臓の脆くなっていない組織に糸をかけていきます。何れにせよ、左室と右室の間にある孔を塞ぎ、心筋梗塞によって生じた左室から、右室への血流を止めますので、血行動態は改善します。 図7-9は実際の手術図の図です。 ※以下、心臓の写真があります。苦手な方はお気をつけください。 図7:棒が挿入されているのは心筋梗塞で開いた孔(あな)です。 図8:孔を特殊な「膜」で閉じているところです。 図9:手術のために切開した心室を閉鎖しているところです(心筋梗塞で脆くなっている心臓ですので、細かいところに気を付けて繊細な針の操作が必要です)。 前述したごとく、心筋梗塞による僧帽弁閉鎖不全は細い血管の心筋梗塞が原因のことも多いのですが、心室中隔穿孔は、広範囲の心筋梗塞が原因で生じることがほとんどです。したがって、心臓の働きもかなり障害されていることが多く、手術も大変ですが、手術後の治療も大変です。 そういうわけで、心筋梗塞にならないのが、一番大切です。冠動脈疾患の危険因子をもう一度思い起こして下さい。季節の変わり目や寒い季節は、こういう病気が多く、発症します。お気を付け下さい。 次回は「虚血性心筋症」についてお話ししようと思います。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/10/2 心筋梗塞に伴う合併症 ※文章中に心臓手術中の写真があります。苦手な方はお気をつけください。 これまで、冠動脈疾患の治療について色々とお伝えしてきました。なぜ冠動脈疾患の治療が必要か、よくわからない方もいらっしゃるかもしれません。今回、次回は、心筋梗塞に伴う合併症を紹介しようと思います。 冠動脈疾患治療用のお薬、冠動脈バイパス術、PCI(PTCA)が発達したこと、ICU(集中治療室)、CCU(冠動脈疾患集中治療室)が整備されて標準的治療が受けられる機会が増えたことなどにより、心筋梗塞による死亡率は劇的に減りました。しかし、今でも、治療が間に合わず、心筋梗塞でお亡くなりになることがあります。 心臓に栄養を送っている冠動脈が完全に閉塞すると心筋梗塞を生じます。厳密な話をすると、完全に詰まっても心筋梗塞を生じない場合があります。緩徐に冠動脈が閉塞してきた場合です。ある種の条件が整っていると、冠動脈の閉塞と並行して、閉塞した部分のまわりから側副血行路ができます。自然のバイパスです。こうなると冠動脈が閉塞しても、心筋梗塞にはなりません。そういう「運の良い状態」になっているのを見ると、人体の不思議を感じざるを得ません。 それはともかく、普通は冠動脈が完全に閉塞すると心臓に血液が行かない状態、つまり心筋梗塞になります。心筋梗塞は血流の途絶、つまり心臓の筋肉の「壊死:えし」を意味します。壊死した心筋が原因で不整脈が生じやすくなります。不整脈の中で一番怖いのが心室細動(しんしつさいどう)です。心停止と同義です。心筋梗塞による死亡原因で一番高いのは、この心室細動です。病院に来るまでにお亡くなりになる方も多いのです。 図1:心室細動の心電図 図1が心室細動を生じている時の心電図です。ギザギザに揺れている心電図は心室細動を示します。これは心臓が規則正しく動いていないこと=心臓が止まっているのと同様の状態であることを示しています。このような心電図を示している時、心臓からは血液が送られない状態となります。全身に血液が流れなくなります。意識が消失します。直ちに、心臓マッサージを開始し、電気的除細動を行わないと、そのまま、お亡くなりになってしまいます。以前は、電気的除細動は病院でしか行えませんでした。今はAEDがありますので、一般の方でも電気的除細動を行なうことができます。職場等でAEDの講習会があれば、是非、AEDの講習を受けて下さい。 図2:図1となる直前の心電図 図2は、図1の心室細動が生じる直前の心電図です。不整脈が多発しています。この後に図1の心室細動になりました。不整脈が数多く、出現している時は、精密検査が必要です。 この図1、図2の心電図は私が勤めていた病院に救急搬送されてきた方の心電図です。トラックを運転中、病院の真裏の電柱に衝突して、搬送されてきました。搬送直後の心電図が図2です。意識はもうろうとしていました。 心電図から「心筋梗塞」の診断が下され、心カテーテル検査を行う準備をしていたら、図1のような心電図になり、意識が無くなりました。直ちに心臓マッサージを行い、電気的除細動(AEDと同じです)を行った後、カテーテル検査を行いました。冠動脈に多くの狭窄、閉塞を認めたため、カテーテル室から手術室に搬送し、そのまま緊急で冠動脈バイパス術を行い無事退院することができました。 患者さんは、元気になってから、意識がなくなる直前のことを話してくれました。 彼曰く、「トラックを運転していたら、急に目の前が暗くなった。気づいたら、病院だった」「数ヵ月前から、タバコを吸っている時や、歩いている時などに、胸が痛くなっていた」とのことでした。胸が痛くなっていたのが、心筋梗塞の予兆で、狭心症を生じていたのです。意識が無くなったのは、心室細動を生じたからです。衝突した場所が、病院の真裏で、衝突して、すぐに搬送されたから助かったのです。「運が良かった」のです。そういうことは滅多にありません。衝突したのが、電柱で良かったです。小学生の登校列に突っ込んだり、他の車と衝突していたら、悲劇になっていたでしょう。 とにかく、心筋梗塞を発症すると、心室細動がいきなり生じることがありますので、予兆(胸痛など)がありましたら、注意が必要です。 次は、心筋梗塞による心臓破裂です。 心筋梗塞による心臓破裂 図3:心臓破裂のCT写真 心臓の周りに血液が貯まっています。黄色矢印で示したのが、心臓の周りに貯まっている血液です。 図3は、心臓破裂でもまだ良い方です。心筋梗塞により、心臓に大きな孔(あな)が開くこともあり、その場合は、即死します。 ※以下、心臓手術中の写真があります。苦手な方はお気をつけください。 図4:心臓に孔が開いている例(矢印部) 図3の方の心臓手術写真です。黒く変色しているところが、心筋梗塞を生じた箇所です。心筋梗塞のために、心臓全体は、むくんで脆く(もろく)なっています。心筋梗塞により心臓に孔が開いた箇所は「豆腐のおからの様に」脆くなっています。ここを修復する手術は難易度が高いです。 図5:図4の修復後の写真 特殊な手術を行い、孔をふさぎました。手術は大変です。この方は、手術後10年以上経ちましたが、お元気です。 今回は、心筋梗塞による心室細動、心破裂の話でした。寒い季節や季節の変わり目は、心臓に負担がかかり、心筋梗塞発症率が上がります。お気を付け下さい。 次回はあまり知られていない急性期の「心筋梗塞合併症」について解説したいと思います。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/9/19 Palmaz-Schatz STENTから薬剤溶出生ステントへ、その元はイースター島の土! 前回お話した冠動脈の治療に革命を起こした「Palmaz-Schatz STENT(パルマス シャッツ ステント)」ですが、術後遠隔期にステントが入っている部分に狭窄を生じることが問題となりました。その遠隔期のステント内狭窄予防に対する「答」のひとつが、薬剤溶出生ステント(Drug-ElutingStent:以下DESと略)です。ステント内の血管内膜の狭窄を予防する薬がステントから溶け出るように設計された特殊なステントがDESです。ステント骨格の金属表面に内膜狭窄を防ぐお薬を含んだポリマーを塗り、少しずつ、お薬が溶出するようにしたのです。おおむね、DESステント留置後、1ヵ月でお薬の8割が溶出するように設計されています。このようなDESに対して、「Palmaz-Schatz STENT」のように金属がむき出しになっている形のステントをbare-metal stent(BMS)と称します(bare:むき出し)。 DESが製品化された後、アメリカでは主にDESが使われ、欧州ではBMSの方が使われていたのですが、DESが改良されて使いやすくなると欧州でもBMSは使われなくなり、時代は「DES」の時代になりました。 ざっくり言うと、1990年代は「Palmaz-Schatz STENT」に代表されるBMSの時代。2000年代はDESの時代でした。現在は、まだ混沌としていますが、近い将来、ステントが時間とともに溶解し2~4年で消失する、「BRS(bioresorbable scaffold)」とか「BVS(bioresorbable vascular scaffold)」と呼称される「生体吸収性ステント」が主流になるだろうと言われていますが、まだ、どうなるかわかりません(注:「Scaffold(スキャッフォールド)」とは聞き慣れない言葉だと思います。仮の構造物を意味します)。 さて、今回は薬剤溶出生ステント(Drug-ElutingStent:DES)の紹介をしましょう。 BMSの長期成績で一番問題だったのが、「遠隔期の狭窄、それも血の塊(血栓)による狭窄では無くて、血管内膜の肥厚による狭窄」でした。この狭窄は、ステントによって広げられた血管に炎症が生じ、内膜が肥厚することにより生じるということが解りました。それなら、血管に炎症が生じないようなお薬をステントに塗布すれば良いと考えたのです。 血管に炎症が生じなければ、狭窄は生じないだろうという予想の元に、様々な研究がなされました。そしてある種の「免疫抑制剤」や「抗癌剤」に血管内膜肥厚を抑制する効果があることがわかりました。「免疫抑制剤」と言ってもたくさんあります。その中でも血管内膜肥厚抑制効果の強い「リムス系」の免疫抑制剤が使われるようになりました。シロリムス、エベロリムス、ゾタロリムス、バイオリムスです。すべて「リムス」が付いています。最初に見つかったのがシロリムスで、このシロリムスと共通のマクロライド環を有するシロリムス類似物質を「リムス系」の薬剤と言い習わしています。このリムス系の薬剤の内、冠動脈ステントに応用されたのは、シロリムスです。シロリムスは、イースター島の土から見つかっています。このシロリムスの発見の経緯は興味深いので、ご紹介しましょう。 1964年、カナダの科学探検隊がイースター島に行って土などを採取し、それを色々な研究機関に送って解析しました。それから時が流れ、なんと8年も経ってから(1972年になっています)カナダで働いていたインド人研究者スレン・セーガル(Suren Sehgal)がイースターの土に含まれていた放線菌「ストレプトマイセス・ハイグロスコピクス(Streptomyces hygroscopicus)」が分泌する物質を発見し特定、その物質をシロリムスと名付けました。別名をラパマイシンと言います。イースター島の現地での呼称「ラパ ヌイ」に由来します(ラパ ヌイとは「大きい島」「大地」の意)。 1972年にこの物質が見つけられましたが、その特性にはあまり注意が払われなかったようです。しかし、スレン・セーガルは粘り強く、研究を続け、ついに1987年、シロリムスに強い免疫抑制効果があることを発見しました。それからまた時が流れ、1999年、FDA(アメリカ食品医薬品局)の認可を受けて、主に腎移植後の免疫抑制剤として使用されるようになりました。1964年にカナダの探検隊がイースター島の土を採取してから33年も経っています。 話は少し変わります。 シロリムスよりは発見が後ですが、1984年、藤沢薬品(現アステラス製薬)の筑波研究所で、タクロリムス(tacrolimus)という免疫抑制物質が見つかりました。このタクロリムスは筑波山の土から見つかった「ストレプトマイセス・ツクバエンシス(Streptomyces tsukubaensis)」という放線菌が分泌する物質から見つかっています。「tacrolimus」の「t」は、筑波山の「t」です。製品名が決まるまで「FK506」とも呼ばれていました。Fは藤沢のFで、Kは開発のKだそうです(開発に携わった方に伺いましたので間違いないです)。シロリムスはタクロリムスよりも先に見つかっていたのですが、お薬として世に出たのは日本のタクロリムスが先、1993年です(後述の注1を参照ください)。 閑話休題、シロリムスに話を戻します。シロリムスには血管内膜増殖抑制作用があったのです。シロリムスの研究を続けていたインド人研究者スレン・セーガルですが、こういう研究の成果もあってか、1994年、カナダとアメリカの市民権を得ています。 以下、「リムス系薬剤」が塗布された薬物溶出性ステントの一覧です。 シロリムス溶出ステント = CypherTM ジョンソン・エンド・ジョンソン社 エベロリムス溶出ステント = XIENCETM アボット社 ゾタリムス溶出生ステント = Resolute IntegrityTM メドトロニック社 バイオリムス溶出生ステント = NoboriTM テルモ社(日本発のステント) 最初に世に出た薬物溶出性ステント(DES)がCypherTMで、シロリムスを塗布したステントです。1999年のことです。日本では2004年から使用が開始されました。CypherTMは一時、世界中を席巻しましたが、2011年6月、ジョンソン・エンド・ジョンソン社はその製造発売を中止しました。ジョンソン・エンド・ジョンソン社は、現在、ステント開発を中止しています。 リムス系免疫抑制剤のほかにもDESに使われている薬品があります。それが、抗癌剤として、様々な癌治療に使われている「パクリタキセル」です。このお薬にも血管内膜増殖抑制作用効果があることがわかり、DESに使用されています。 「パクリタキセル溶出ステント = TAXUSTM ボストンサイエンティフィック社」です。 この「パクリタキセル」は1967年米国アメリカ国立がん研究所のモンロー・エリオット・ウォールとマンスック・C・ワニがセイヨウイチイ (Taxus brevifolia:漢字で書くと、西洋一位)という木の樹皮から発見しています。後に、樹皮に存在する「内生菌」がパクリタキセルを分泌していることがわかりました。 要するに、DESに使われたシロリムスもパクリタキセルも「菌」が作っていたのです。大村智先生が川奈の土壌で発見した放線菌の産生する「イベルメクチン」も大きな話題になりました。「菌」はあちこちで役立っています。 今も、様々なステントが開発されては消えると言うことを繰り返しています。段々と良いステントが開発、改良されていけば良いですね。当たり前ですが、どんなに良いステントができても、ステント治療後の全身管理が必要です。もちろん、こういうステントが必要になるような動脈硬化性の病気にならないことはもっと大切です。 それには、糖尿病、高血圧、喫煙、コレステロール、肥満などの基本治療が必要です。 注1: 余談です。藤沢薬品(現アステラス製薬)が開発に成功した「タクロリムス」は1993年5月に肝臓移植時の拒絶反応抑制剤として認可されています。シロリムスが日本で、「免疫抑制剤」として認可されたのはなんと!2014年、最近のことです。シロリムスが塗られているステントが日本で使用可能になったのが2004年です。10年の差があります。このことで多少の議論がありました。薬としてはまだ日本で認められていないシロリムスをステントに使っても良いかどうかの議論です。シロリムスは「免疫抑制剤」としてでは無く「血管内膜増殖抑制作用」を持った薬ということで、あくまでも薬物溶出性ステントに限りということで認可されました。 注2: イースター島と言えばモアイ像(写真1)が有名です。渋谷駅前にあるのはモヤイ像です。イースター島とは無関係で、伊豆新島産の「抗火石(コーガ石)」でできています。イースター島のモアイ像をまねて作ったのですね。渋谷駅だけでは無く、全国、あちこちに、このモヤイ像があります。なんと、私どものクリニックが入居している浜松町ビルディングの敷地内にもあります。それがこの写真2です。モヤイ像のモヤイとは船を「舫う:船をつなぐ、転じて「皆で一緒にいろんな行動をする」などの寓意が込められているそうです。 写真1:イースター島のモアイ像 モアイ像はカタチも特異で世界に類を見ません。5~20トンもあるモアイ像をどうやって移動させたのか不思議ですね。モアイ像の移動については、これまでにも多くの仮説が出されています。最近、話題になったのはカリフォルニア州立大学のカール・リポ博士が出した仮説です。モアイを歩かせて運んだのだろうという仮説です。「Nature」にカール・リポの仮説を確かめた動画が載っています。とても面白い動画です。こちらではカール・リポ博士の仮説も含め、これまでに考えられた「モアイ像移動に関する様々な仮説」をわかりやすく説明したアニメを見ることができます。当たり前の話ですが、どれが正解は解りません。是非、ご覧ください。 写真2:浜松町ビルディング敷地内のモヤイ像 写真3:その由来 注3: 薬剤溶出性ステントに使われたシロリムス(ラパマイシン)は、近年「不老不死」の薬として注目を浴びています。 Harrison DE, et al. Rapamycin fed late in life extends lifespan in genetically heterogeneous mice. Nature. 2009;460(7253):392-395. Bitto, Alessandro, et al. "Transient rapamycin treatment can increase lifespan and healthspan in middle-aged mice." Elife 5 (2016): e16351. ラパマイシンを餌に混ぜてた投与したラットは、ラパマイシンを投与していないラットよりも寿命が延びるという論文が2009年「NATURE」に載りました。その後、ラパマイシン投与と寿命に関する様々な後追い実験が出ています。ラパマイシンはたんぱく質代謝を遅らせる作用があるので、寿命が延びるのだろうと予想されています。しかし、免疫抑制作用もあるので、人間が使えば感染症にかかりやすくなるでしょう。これからもこのお薬からいろいろなことが解るかもしれません。 注4: 「iPS創薬治験1例目 骨の難病、京大が世界初」という報道がなされました。 iPS細胞を用いて「進行性骨化性線維異形成症」という難病に効く薬を見つけていたところ、なんと、今回お話しさせていただいている「ラパマイシン」がこの病気に効くことが解り、実際に患者さんへのラパマイシンの投与が始まりました。「ラパマイシン」には様々な薬効があり、冠動脈治療に、免疫抑制剤に、抗がん剤にと様々な病気の治療に使われています。将来、さらに効能が増えるかもしれません。 最後になりましたが、あのモアイ像で有名なイースター島から、特殊なお薬が見つかったと思うと、何となく歴史、自然の面白さを感じます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/9/4 冠動脈治療はステント治療の時代に何百万人もの命を救ったステント治療法の裏にあった“経済”のお話 前回、前々回で「狭窄した冠動脈を特殊な風船(バルーン)で広げる治療を創始し、冠動脈治療に革命を起こした」グリュンツィッヒ先生の「栄光と悲劇」をご紹介しました。 グリュンツィッヒ医師の栄光と悲劇(前編) グリュンツィッヒ医師の栄光と悲劇(後編) しかし、グリュンツィッヒ先生が始めた風船(=バルーン)だけで、狭窄した冠動脈を広げる方法は廃れつつあります。廃れるというと語弊が有るかもしれません。補助になりつつあるといった方が正しいかもしれません。現在、狭窄した冠動脈の治療は狭くなった冠動脈をバルーンで広げ、そこにステント(STENT)を入れる治療が主に行われます。「ステント治療」と称されます。 バルーン単独での治療はPOBA(Plain Old Balloon Angioplasty:風船治療:ポバ)と呼称します。POBAのみでは再狭窄や冠動脈内に血栓を作る確率が高いので今は「ステント治療」が主流になっています。 今回は、このステント(STENT)にまつわる話を紹介します。 さて、そもそもステントとは何か?「血管内治療について(2) 冠動脈疾患(16)」で簡単にご説明しました。もう一度、おさらいをしましょう。 「ステント」は、ロンドンで開業していたイギリス人歯科医の Charles Stent(チャールズ・ステント)の名前に由来します。歯科医 Charles Stentが歯科治療用に考案した器具の商標が自分の名前をつけた「STENT」でした。 図1:Charles Stentと彼が考案した中空状の治療器具 図2:Charles Stent考案器具の商標 図3:前立腺肥大治療器具などに使われていた「STENT」 現在血管治療に使われている「ステント」とは似ているような、似ていないような微妙な感じですね。泌尿器科領域などでは、中空状の金属治療器具を「STENT」と呼称していました(図3参照)。 「STENT」に「狭くなっている血管を広げるのに使う中空状金属性の管」の意味を持たせて使ったのは、血管治療を創始したドッター先生です。1983年、「Transluminal expandable nitinol coil stent grafting: preliminary report.」という論文を書いています(参考文献1)。この論文で初めて、「STENT」 という用語が使われます。以降、数多くの論文に「STENT」が使われ、定着しました。泉下の Charles Stentさんは、世界中の病院で毎日自分の名前である「STENT」が使われてびっくりしていると思います。 本題です。血管ステントの考案者は上述のごとく、ドッター先生です。当時さまざまな血管治療用のステントが開発されました。風船で広げた血管に金属製の足場を作り、再狭窄を予防するのがその目的です。私は冠動脈バイパス術を数多く行いました。手術の際、狭窄があると思われる箇所を触って確かめます。狭窄を起こしている冠動脈は、「硬い」のですぐに解ります。冠動脈バイパス術でバイパス血管を縫い付けるのはこの「硬い=狭窄を起こしている」箇所ではありません。狭窄の無い箇所にバイパス血管を縫い付ける必要があります。そういうわけで、冠動脈をよく触診しました。硬い部分はPCIだけでは再狭窄するだろうなと思っていました。ステントを使えば、硬くなっている血管を金属で押し広げるので再狭窄が減るだろうというのが、ドッター先生はじめ、ステントを考案した先生の考えです。 図4 上左:ドッター先生のステント 上右:Wright先生のステント 下左: Maass先生のステント 下右:Palmaz先生のステント 図:冠動脈治療用のステント各種 図4、図5にお示ししたごとく、たくさんのステントが開発され、実際に使われ、臨床試験が行われました。どのステントが良い成績(=再狭窄や合併症が少ない)を得られるかの競争でした。その中を勝ち抜いて、残ったのは「Palmaz-Schatz STENT(パルマス シャッツ ステント)」でした。 アルゼンチン人のフリオ・パルマス(Julio Palmaz:1945年12月13日生、以下「パルマス」と略)先生がその発明者です。アルゼンチンのラプラタ大学を卒業後、母国で研修を終えて、グリュンツィッヒ先生がPOBAの発表をした1977年に米国カリフォルニア大学デービス校へ放射線医学の勉強のために留学しています。 当時、グリュンツィッヒ先生は「このバルーンによる血管拡張術は良い方法だが、拡張術後急性期、慢性期に閉塞や再狭窄を生じること」を正直に発表していました。その再狭窄や急な再閉塞の話を聞いていたのが、当時32歳だったパルマス先生です。 パルマス先生の頭の中に「血管の内側に金属の足場を作れば再狭窄、再閉塞が防げるのではないか?」という考えが浮かびました。そして、ドッター先生やグリュンツィッヒ先生と同じく、自宅でこの「血管の内側に金属の足場」を試作します。 最初は鉛筆に銅線を巻いたステントを試作していました。原始的な加工方法ですね。誰でも最初はそうなのです。そういう工夫を始めるか、始めないか、そしてやり遂げるか、途中で止めるかで人生が大きく変わるのかもしれません。パルマス先生は、開発、工夫を途中で止めませんでした。しかし、金属の足場作りはなかなか上手くいきませんでした。そんなある日、自宅の壁工事に網目状の構造物が使われているのを見たパルマス先生は、それにヒントを得て(図6、図7)、網目状の構造を持ったステントを作ることを思いつきます。 図6:壁の“網目状”補強材 図7:図6の“網目状”補強材の構造図です 1985年、パルマス先生は、ステントの基本設計を始めます。そしてこの年にブルック陸軍医療センターの心臓病医シャッツ(Richard Schatz)先生と運命的な出会いをします。シャッツ先生も同じくPOBAで生じる冠動脈の再狭窄や急性閉塞を何とかしたいと思っていた一人でした。 二人は意気投合し、共同でステント開発を目指しました。しかし、二人にはその研究開発資金がありませんでした。 この年(1985年)の暮れのことです。シャッツ先生はテキサス州サンアントニオにある「ドミニオン・カントリークラブ」でゴルフをしていました。偶然、そのコース上で有名なレストランチェーン「ロマノーズ・マカロニ・グリル」を経営する富豪フィル・ロマーノ(Phil Romano)さんと出会います。シャッツ先生はロマーノさんに、パルマス先生と開発していたステントのアイデアを話し、資金援助を頼みました。ロマーノさんの側近達は全員反対したのですが、ロマーノさんは「Palmaz-Schatz」チームに研究資金を出すことを決め、積極的に援助しました。その額、日本円にして、約2500万円。これを原資に、パルマス、シャッツ、ロマーノ3人で「Expandable Graft Partnership」という会社を立ち上げ、3年がかりで、「Palmaz-Schatz STENT」の原型を作り上げ「Expandable intraluminal graft, and method and apparatus for implanting an expandable intraluminal graft」という特許を提出し、1988年3月29日に特許が成立します。米国特許番号:4.733.665Aです。 発明者はパルマス先生で出願者が Expandable Graft Partnership社です。 当時、図5のごとく、さまざまな会社でステントが開発され、競い合っていました。その中で、「Palmaz-Schatz STENT」を用いた冠動脈治療の成績が良く、その競争をこの「Palmaz-Schatz-Phil Romano」チームが勝ち抜いたのです。 詳しい経緯は省きますが、1991年には下肢動脈への応用がFDAに認可されます。1994年に冠動脈への臨床使用も認可されました。なんと、日本での冠動脈への臨床使用許可は1993年で、米国より1年早かったのです。これは大変珍しいことです。 何れにせよ、「Palmaz-Schatz STENT」は、あっという間に世界中に広まります。一時、冠動脈の血管内治療の7-8割にこの「Palmaz-Schatz STENT」が使われました。時は流れ、今はあまり使われなくなっています。現在使われているのは、薬物溶出性ステント(Drug Eluting Stent:DESと略)です。DESについては次回でご紹介をしましょう。 図8:Palmaz-Schatz STENTの模式図 図8は、バルーンにSTENTを付け、狭窄部で膨らませた後、バルーンを縮小させて、STENTだけ残しています。この編み目が、図7の壁工作に使う材料に似ているのがおわかり頂けますでしょうか? FDAの認可が下りた1991年から約10数年は「Palmaz-Schatz STENT」の時代となりました。上記の特許は「20世紀を変えた10の特許」の一つに選ばれ、スミソニアン博物館にパルマス先生の開発したSTENTが展示されています。 「Palmaz-Schatz Phil Romano」のチームは経済的にも恵まれました。レストランオーナーであったロマーノさんの投資した2500万円は、なんと400倍の100億の利益を彼にもたらしました。そのロマーノさんは、今は「抽象画家」になっています。彼の趣味が高じたのか、長年の夢であったのか?本人曰く、俺のことは「artist」と呼んでくれとインタビューで言っています。 図9:Phil Romano氏近影.自作品前 図10:Phil Romano氏の作品群 パルマス先生はというと、現在もSTENTの開発を続けています。そして、同時に「カリフォルニア州ナパバレー」でワインを作ったり、ビンテージポルシェの収集もしているそうです。優雅な話です。 【参考文献】 Dotter CT, Buschman RW, McKinney MK, Rosch J: Transluminal expandable nitinol coil stent grafting: preliminary report. Radiology. 1983; 147: 259-260. Palmaz-Schatz stent First coronary Palmaz-Schatz stent was placed in a patient by Eduardo Sousa in São Paulo, Brazil in 1987 with a US pilot study started in 1988,is the mother of all recent stents(Johnson and Johnson Interventional Systems, Warren, NJ) Palmaz-Schatz stent Palmaz-Schatz stent, the first stent approved by the USFDA was introduced by Johnson and Johnson(J&J)in 1994 http://fortune.com/2015/03/28/phil-romano/ どうでもよい話1: パルマス先生はアルゼンチン人です。冠動脈バイパス術の創始者もアルゼンチン人のファバロロ先生でした。 アルゼンチンの方にはそういう創意工夫の才能があるのかもしれません。 どうでもよい話2: シャッツ先生が「ドミニオン・カントリークラブ」でゴルフをしなければ、ロマーノ氏と出会わなければ、出会っても資金援助を頼まなければ、Palmaz-Schatz STENTという「世紀の発明」は無かったかもしれません。かの大村智先生もゴルフに行った際に採取した土から得た放線菌が元で今回のノーベル賞を受賞しています。ゴルフをすると良いことがあるかもしれません。今から、習おうかしらと思いつつ。 どうでもよい話3: ロマーノ氏は、自身の冠動脈には2個の Palmaz-Schatz STENTが入っているとインタビューで言っています。自分が開発を助けた器具に助けられているのですね。一寸良い話だと思います。 どうでもよい話4: 私も米国特許を持っています!番号: 7.264.626 B2です。これは、メスに関する特許です。このメスは製品化されています。自分が考えたモノが使われていると思うと、一寸、うれしいですね。 どうでもよい話5: Palmaz-Schatz STENT は、最盛期には一年間に100万個使われていました。一個20-30万円ですから、凄い売り上げでした。それが約10年続きました。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/8/21 冠疾患治療に革命を起こしたグリュンツィッヒ医師の栄光と悲劇(後編) 前回、PCIの創始者グリュンツィッヒ先生が、塩化ビニールの専門家であるホフ名誉教授の助言を得ながらバルーン付きカテーテルを制作し、それを下肢動脈狭窄症の治療に用いて成功したところまで紹介しました。今回はその続き、グリュンツィッヒ先生がPCI(経皮的冠動脈形成術)に成功したことと、その後に訪れる悲劇をお話します。 当時、グリュンツィッヒ先生が使用したカテーテルは全て彼の自宅キッチンで作られていました。文字通りの「手作り」で、夜間、休日にグリュンツィッヒ先生と奥さん、助手夫婦でバルーン付きカテーテルを作っていたのです。凄いことだと思います。 その後、PCIが本格的に広く行われるようになると、バルーン付きカテーテル製造は工業化され、製品化されていきます。このキッチン製バルーン付きカテーテルも段々と細く改良されていき、ついに動物の冠動脈狭窄(人為的に作った狭窄)の治療に成功し、そのことを1976年11月に米国心臓病協会で発表しました。しかし、本人曰く「ほとんど無視」されてしまいました。 グリュンツィッヒ先生は、そんなことにはめげずに「人の冠動脈治療(PCI)」を目指します。とは言え、そう簡単にはできません。失敗すれば、冠動脈が裂けて出血して、死亡する可能性もあるからです。 グリュンツィッヒ先生は外科医が行う冠動脈バイパス術に目を付けました。この手術では冠動脈を切開するので、その切開部からバルーン付きカテーテルを挿入して狭窄部位を広げてみたら良いのではないかと考えたのです。冠動脈が仮に裂けても手術中ですから、修復できます。グリュンツィッヒ先生は当時の拠点であったスイスの心臓外科医に相談しましたが、誰も賛成してくれませんでした。冠動脈狭窄部位が改善すると、冠動脈の血流が良くなり、バイパス血管が閉塞する可能性もあることや血管が裂けたりする合併症が怖かったのでしょう。 困ったグリュンツィッヒ先生はあちこちに声をかけます。その結果、米国サンフランシスコにあるセントメリー病院の心臓外科医エリアス・ハンナ医師(Elias Hanna 1936- 注:男性です)と循環器内科のリチャード・メイラー医師(Richard K. Myler:1936-2013)がこの試みに同意してくれます。 グリュンツィッヒ先生はスイスから、バルーン付きカテーテルを持参してサンフランシスコに行き、ハンナ先生が行った冠動脈バイパス時に、メイラー先生と共に冠動脈を切開した箇所からバルーン付きカテーテルを挿入し、狭窄している冠動脈を広げました。1977年5月9日のことです。2例に行い、多数の冠動脈狭窄部位を広げました。治療は成功し、エリアス・ハンナ、リチャード・メイラー両医師の名前は、冠動脈疾患治療の歴史に残りました。 なお、この「カテーテルを冠動脈切開部から入れて、狭くなっている冠動脈を広げる方法」は後にOTCA(Operative Transluminal Coronary Angioplasty)と称され冠動脈バイパス術を行う時に同時に施行することが流行りました。現在は様々な理由により行われていません。 それはともかく、グリュンツィッヒ先生は人間の冠動脈を、手術中ではありますが、広げることに成功したのです。そして、ついに!手術と一緒では無く「カテーテル単独での冠動脈狭窄の治療(=現在のPCIと同じ治療)」を行なうことにしたのです。実はこの時も、前回紹介したグリュンツィッヒ先生のよき理解者である心臓外科医セニング先生に相談したら、「もし、上手くいかなくなって困ることが生じたら、直ぐに手術してあげるよ。頑張れ!」と言われたそうです。この言葉が無ければ、グリュンツィッヒ先生もPCIを行わなかっただろうと述べています。セニング先生は偉いですね。 その言葉に勇気を貰ったグリュンツィッヒ先生は1977年9月1日に世界で最初のPCIをチューリッヒ大学病院で行いました。患者さんは37歳男性で、アドルフ・バハマン(Adolph Bachman)という方でした。奇しくも、グリュンツィッヒ先生と同年齢です。くどいようですが、全身麻酔では無く、局所麻酔でバルーン付きカテーテルを用いた冠動脈狭窄部の治療です。今、行われているPCIと同じです。 図1 図1はその、世界で始めて行われたPCIの画像です。狭い部分が広がっているのがおわかりになりますでしょうか? 黄色矢印が狭くなった冠動脈部位を示しています。その狭くなった冠動脈をバルーンで広げています(赤い矢印)。 1977年11月にアメリカ心臓病協会でその結果を報告します。発表時には立錐の余地も無いくらいの聴衆が集まり、グリュンツィッヒ先生の発表が終わるとスタンディングオベーションで彼を称えました。冠動脈造影の創始者であるソーンズ先生も涙を流しながら賞賛したと記録されています。 グリュンツィッヒ先生は、スイスや母国ドイツで、指導的立場で働く地位(=教授職)を求めましたが、そういう職は得られませんでした。38歳と若かったからです。しかし、米国の多くの大学やクリーブランドクリニックなどの有名病院から招請を受けます。その中で彼が選んだのはジョージア州にあるエモリー大学でした。彼はここで、思う存分働きます。エモリー大学病院では教授となります。グリュンツィッヒ先生は、コカコーラ社から105 million US$の寄付を貰って研究を続け、数多くの論文を書き、カテーテル治療を行い、その指導も行いながらカテーテルの改良(様々な企業で作成するようになっています)や開発を行いました。 グリュンツィッヒ先生は冠動脈治療用のバルーン付きカテーテルの特許を取っていました(前回参照)。そのお蔭で、グリュンツィッヒ先生は裕福になります。なお、チューリッヒの自宅キッチンで一緒にカテーテルを作っていた奥さんはアメリカ生活になじめず、スイスに帰ってしまっていたので、若い研修医と2度目の結婚をします。アメリカ全土はもとより世界中で講演やPCIのデモンストレーションなどを行っていました。PCIは世界中にあっという間に広がっていったのです。世界の冠疾患治療を一変させつつあったのです。 全米の病院で講演や治療をするのに、飛行機会社を利用しているのは時間のロスだと言って、飛行機を購入して自分で操縦し、全米各地を飛び回っていたのですが、悲劇が1985年11月27日に訪れます。この日、新妻と二人で嵐の中を飛び立った彼の操縦する自家用飛行機はジョージア州の森に墜落し、二人とも帰らぬ人となってしまいました。グリュンツィッヒ先生は46歳でした。もし生きていれば、今年で78歳、一般の方にも知られるような有名人になっていたことと思います。 カテーテルの創始者フォルスマン先生はノーベル賞を受賞しています。カテーテル治療の創始者であるドッター先生とグリュンツィッヒ先生も「ノーベル賞」を授賞してもおかしくなかったのです。実際にドッター先生は1978年のノーベル医科生理学賞にノミネートされています。グリュンツィッヒ先生がお亡くなりになった1985年は、カテーテル治療に携わる人にとって呪われた年でした。この年、 グリュンツィッヒ先生は46歳で、飛行機事故で ドッター先生は65歳で、悪性リンパ腫で ソーンズ先生は66歳で、肺がんで ジャドキンス先生は63歳で、脳梗塞で お亡くなりになっています。グリュンツィッヒ先生を除いて、皆60代です。新しい治療方法や治療器具、診断器具を考案して広めるように努力するのは、ストレスの多い仕事だったのかもしれません。今もこの4名の方の考案した治療方法、治療器具は世界中で普通に使われています。偉大な先達です。 初期のPCIはバルーンのみを用いた方法で、再狭窄率が20-30%ありました。 その後、 ステント治療(Palmaz-Schatz stent) 薬剤溶出ステント 薬剤コーティングバルーン 冠動脈内近接照射療法 ロータブレーター 生体吸収性ステント など、様々な改良がなされ、再狭窄率が10%以下になっています。今も、どんどん改良が進んでいます。 しかし、基本は禁煙、高血圧治療、高脂血症治療、糖尿病管理など、以前もお示しした冠疾患の危険因子を減らすことが必要です。 注1: 最初にPTCAを行われた Adolph Bachmanさんは今も元気だと思われます。お亡くなりになれば、ニュースとして流れると思います。2012年時点では特に心臓には異常なく暮らしていると報道されています。この方とグリュンツィッヒ先生は同年齢です。PCIを行ったグリュンツィッヒ先生がお亡くなりになって、今年で30年です。そう思うと、感慨深いですね。 注2:自家用飛行機に関する余計な話 一時、世界中で使われるほど普及したある冠動脈バイパス術用の特殊器具を開発した米国の起業家の講演を聞いたことがあります。講演の最後に「ジェット戦闘機の写真」が出てきました。これに乗るのが、私の趣味だと話していました。講演終了後に話を聞いたところ、アメリカでは1億円程度で古い型のジェット戦闘機を購入して、自分で操縦できるのだそうです。うらやましいような、怖いような話でした。 【参考文献】 Grüntzig A, Hopff H. Perkutane Rekanalisation chronischer arterieller mit einem neuen Dilatationskatheter. Dtsch Med Wochenschr (1974) 99(49):2502-10 Gruentzig A.; Transluminal dilatation of coronary-artery stenosis. (letter). Lancet. 1 1978:263 Grüntzig AR, Senning A, Siegenthaler WE. Nonoperative dilatation of coronary-artery stenosis: percutaneous transluminal coronary angioplasty. N Engl J Med. 1979 Jul 12;301(2):61-8. PubMed PMID: 449946. In Search of Andreas Roland Grüntzig, MD (1939-1985):Circulation August 28, 2007 Balloon angioplasty - the legacy of Andreas Grüntzig, M.D. (1939-1985) Front. Cardiovasc. Med., 29 December 2014 http://www.ptca.org/archive/bios/gruentzig.html この中に、最初にPTCAを行われた患者さん(Adolph Bachmanさん)や、一緒にキッチンでカテーテルを作ったMaria Sclunpfさんへのインタービューがあります。興味深いです。是非、ご覧下さい。 Monagan, David 著 “Journey into the Heart: A Tale of Pioneering Doctors and Their Race to Transform Cardiovascular Medicine” Gotham:1 edition February 1, 2007) Balloon angioplasty - the legacy of Andreas Grüntzig, M.D. (1939-1985) (1) Matthias Barton1 (2) Johannes Grüntzig (3) Marc Husmann (4) Josef Rösch http://journal.frontiersin.org/article/10.3389/fcvm.2014.00015/full 著者の2番目にJohannes Grüntzigとあります。グリュンツィッヒ先生の兄弟です。グリュンツィッヒ家のことが詳しく書いてあります。 前回及び今回に名前がでた人々が全員写っている珍しい写真です。1980年 ドッター先生 Charles Dotter, M.D.(2列目, 右から8番目):カテーテルによる血管内治療の創始者 グリュンツィッヒ先生 Andreas Grüntzig, M.D.(2列目, 右から3番目):PCIの創始者 ジャドキンス先生 Melvin P. Judkins, M.D.(3列目, 右から9番目):今も世界中で使われるジャドキンスカテーテルの開発者 ソーンズ先生 F. Mason Sones, M.D.(4列目, 右から4番目):世界で初めて冠動脈造影を行った シュルンプフさん Maria Schlumpf(2列目, 右から4番目):グリュンツィッヒ先生の助手 Richard K. Myler, M.D. (2列目, 右から7番目):本号で紹介したサンフランシスコの循環器内科医 番外:Grüntzig’s mother, Charlotte(5列目, 右から3番目) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/8/7 冠疾患治療に革命を起こしたグリュンツィッヒ医師の栄光と悲劇(前編) 前回、前々回で、 ドッター先生がクック氏と血管治療用カテーテルを作った話 ドッター先生が行った世界で最初に行った血管内カテーテル治療の話 を紹介して参りました。さて、今回から数回にわたり「狭くなった冠動脈をカテーテルで広げる治療」についての様々なお話を紹介いたします。今回と次回は、この治療の創始者のお話です。 「狭くなった冠状動脈を広げる治療」のことを経皮的冠動脈形成術といいます。英語表記では、 percutaneous transluminal coronary angioplasty=PTCA または、 percutaneous coronary intervention=PCI と略称します。現在はPCIを使うことが多いですので以下、文中、PCIと略します。 注:percutaneous=経皮的 transluminal=経管的(管=くだ=カテーテルのこと) coronary=冠動脈の angioplasty=血管形成術 intervention=操作 PCIにより冠動脈疾患に対する治療は一変します。冠動脈疾患の治療に「革命」をもたらしました。 このPCIを創始したのはドイツ人医師、アンドレアス・グリュンツィッヒ(Andreas Grüntzig, 1939-1985)先生です。グリュンツィッヒ先生は1939年、ドイツのドレスデンで生まれ、ロクリッツ(Rochlitz)という小さな町に引っ越します。父親は気象学者で第二次世界大戦中、ここで働いていたのです。その父は戦争中に行方不明となり、グリュンツィッヒ先生一家は、1950年にアルゼンチンに移住しますが、1年で当時東ドイツだったライプツィッヒ(Leipzig)に戻って来ました。1958年に高校を卒業した後、東ドイツから西ドイツに脱出します。東西ドイツの国境が完全に閉鎖されたのが1961年です。もうすこし遅ければ西ドイツに逃げることはできなかったでしょう。後の活躍も無かったでしょう。東西ドイツが統一された今では考えられないような話です。それはともかく、西ドイツのハイデルベルク大学に入学、1964年にハイデルベルク大学を卒業し、皮膚科、内科、放射線科、循環器科などを学び、1969年からスイスのチューリッヒ大学病院で働き始めます。この病院には「Department of Angiology」日本語なら「脈管学教室か血管学教室」とでも呼ぶ世界でも稀な血管疾患専門の治療部門があり、この教室に属していたグリュンツィッヒ先生は、「ドッタリング法」を学びます(ドッタリング法については前回参照)。 そして、ドッタリング法では治療が困難な血管の治療に 「ドッタリング法で用いているカテーテルに風船を付けて、その風船を膨らませて狭くなった血管を広げたらどうだろうか?」 と思いつきます。彼が偉いのは思いついただけではなく、実際に彼の自宅の「キッチン」でドッタリング用のカテーテルに細長い風船を付ける工作をしたのです。奥さんミヒャエラさん(Michaela Grüntzig)と助手のシュルンプフさん(Maria Schlumpf)と一緒に、工夫に工夫を重ねます(図2、図3)。そしてついにポリ塩化ビニールの風船をカテーテルに付けることに成功します。 図1 右:ドッター医師 中央:グリュンツィッヒ医師 図2:グルンツィッヒ医師の自宅キッチンで、助手のシュルンプフさんが カテーテルを試作している貴重な写真です。なんだか、楽しそうです。 図3:グルンティッヒ先生の考案したバルーン付きカテーテルと その特許です(アメリカ、スイス、ドイツ、フランス、日本) 実は、バルーン付きカテーテルの作成を試みたのは彼だけではありませんでした。同じようなことを考えた人はたくさんいたのです。ドッター先生やポルストマン先生(Werner Porstmann:1921-1982 動脈管開存症をカテーテルで治療したことで有名)などカテーテルで有名な先生も、バルーン付きカテーテルを試作して実際に使ったりしていますが、いずれも良い治療成績は得られませんでした。 しかし、グリュンツィッヒ先生の考案したバルーン付きカテーテルは違いました。とても良い治療成績が得られたのです。他の先生の考案したバルーンよりも材質が良かったのです。このバルーンはポリ塩化ビニール製です。このポリ塩化ビニールの専門家が、グリュンツィッヒ先生のすぐそばにいたのです。これもある意味セレンディピティ(偶然)ですね。 その専門家はチューリッヒ工科大学のハインリッヒ ホフ(Heinrich Hopff)名誉教授です。グリュンツィッヒ先生と同じドイツ人です。この先生がグルッンツィッヒ先生のバルーン制作に関わっていたのです。ホフ教授が所属していたチューリッヒ工科大学はその出身者や教官からノーベル賞受賞者を21名も輩出する世界でも指折りの理系大学です(例えば、レントゲン、アインシュタインなど)。そういう大学で塩化ビニールを研究していたのがホフ名誉教授です。つまり、世界レベルの塩化ビニールの専門家が、偶然にもグリュンツィッヒ先生の病院のあったチューリッヒにいらしたのです。グリュンツィッヒ先生が偉いのは、全く縁の無かったホフ名誉教授の所に行ってバルーン制作について相談したことでしょう。ホフ先生も面食らったと思います。しかし、快くグリュンツィッヒ先生の申し出を受けて、一緒にバルーンを作っていたのです。これほど強い味方はいないでしょう。新しい治療器具の開発の裏にはこういう偶然が必要なのかもしれません。グリュンツィッヒ先生とホフ名誉教授はこのバルーン付きカテーテルについて一緒に論文を書いています(文献1)。この論文はカテーテル治療の歴史に燦然と輝く素晴らしい論文です。ホフ教授は医療とは関係の無い有機化学の専門家ですが、グリュンツィッヒ先生のお蔭で医学史に名前が残りました。「情けは人の為ならず」という成句を思い起こします。 バルーン付きカテーテルを思いついても、普通はそれで終わりになるのかも知れませんが、別の大学の先生に相談に乗ってもらい、そしてその試作を自宅のキッチンで奥さんや仲間と何度もトライするなど、普通の人には、なかなか、できません。バルーンの試作品は100個を越えたと、助手の方が書き残しています。このあたりは、前回でもお示しした治療用のカテーテルを自作したドッター先生と相通ずるモノがあると思います。 さて、このホフ教授と一緒に共同開発したバルーンを付けたカテーテルを用いて、先ず、下肢動脈の狭窄に対して治療を開始します。 図4 図4は1974年2月12日にグリュンツィッヒ先生が最初に行ったバルーン付きカテーテルの治療カルテと経過を示す血管造影です。血管造影の一番左が治療前です。数珠状に狭くなっている血管がわかりますでしょうか?真ん中の図は治療直後の血管造影です。狭い部分が広がっています。そして、一番右が治療後2年を経過した血管です。狭窄していた部分がさらに広がっているのがおわかりになりますでしょうか?このような症例を15例続けて行い、グリュンツィッヒ先生とホフ先生は論文を発表したのです。しかし、ドイツ語で書いたためか、世界的にはあまり、注目されませんでした。グリュンツィッヒ先生はバルーン付きカテーテルの改良を重ね、細い血管でも使えるダブルルーメンカテーテルを作りました(図5参照)。 図5 少しわかりづらいかも知れませんが、ダブルルーメンとは2つの腔(くう:注:カテーテル内に二つの極めて細いトンネルがあると思って下さい)があるカテーテルです。一つの腔は普通の血管造影用で先端に穴が開いています。要するに普通のカテーテルにある腔です。それに加えてもう一つの腔があるのです。この腔はバルーンに通じています。この腔を通してバルーン内に造影剤を入れて、バルーンを膨らますことができます。 図6:ダブルルーメンカテーテルによる治療の血管造影像と そのカルテです(1975年10月27日に行われています)。 図4は一つの腔しか持っていないバルーン付きカテーテルによる治療ですから、狭窄部位が膨らんでいく過程がわかりません。しかし、図6に示すようにダブルルーメンカテーテルを用いた治療では、バルーン部分に造影剤がはいっているので狭窄部位がバルーンで広がっていくのが解ります。図6の左から3番目の血管造影でバルーンが膨らんでいるのがわかると思います(黄色の矢印)。バルーンに造影剤が入っているというところがこの治療の「味噌」です。狭くなっている箇所が、広がるのが目に見えるのです。世界初の「偉業」です。現在、行われているPCI治療でも、もちろん、このダブルルーメンカテーテルが、普通に使用されています。 グリュンツィッヒ先生は、このバルーン付きカテーテルによる治療を下肢動脈狭窄だけでなく、冠動脈狭窄の治療にも使おうと考えたのです。これが、今のPCIの始まりです(文献2)。 運が良いことに、当時のチューリッヒ大学病院の心臓外科にはセニング(Ake Senning)先生という世界的に有名な心臓外科医がいました(注:ある複雑先天性心疾患(大血管転換症)の手術は「Senningの手術」と呼ばれます。永久的ペースメーカーの創始者でもあります)。グリュンツィッヒ先生はセニング先生にPCIについて相談します。怒られると思ったら逆でした。「グリュンツィッヒ君の手技が成功したら、将来、僕の患者はいなくなる。でも、是非やりたまえ!」と背中を押してくれたのです。そればかりか、PCIが成功した後、グリュンツィッヒ先生とセニング先生は連名でPCIに関する論文を書いています(文献3)。グリュンツィッヒ先生は当時30代後半でしたが、世界的には無名です。一方、セニング先生は世界的に有名な心臓外科医です。そのセニング先生が一緒に論文を書いてくれたのですから、グリュンツィッヒ先生は、とても心強かったと思います。セニング先生も偉いですね。そして、セニング先生の予言通り、その後はPCIが、広く行われるようになると心臓外科医が手術する冠動脈バイパス術はかなり減ってしまいます。 今回は、グリュンツィッヒ先生が、バルーン付きカテーテル完成させPCIの発案に至るまでをお話しました。グリュンツィッヒ先生の大活躍はまだまだ続くのですが、悲劇は突然訪れます。 それは次回、後編にてお話致します。 【参考文献】 Grüntzig A, Hopff H. Perkutane Rekanalisation chronischer arterieller mit einem neuen Dilatationskatheter. Dtsch Med Wochenschr (1974) 99(49):2502-10 Gruentzig A.; Transluminal dilatation of coronary-artery stenosis. (letter). Lancet. 1 1978:263 Grüntzig AR, Senning A, Siegenthaler WE. Nonoperative dilatation of coronary-artery stenosis: percutaneous transluminal coronary angioplasty. N Engl J Med. 1979 Jul 12;301(2):61-8. PubMed PMID: 449946. In Search of Andreas Roland Grüntzig, MD (1939-1985):Circulation August 28, 2007 Balloon angioplasty - the legacy of Andreas Grüntzig, M.D. (1939-1985) Front. Cardiovasc. Med., 29 December 2014 http://www.ptca.org/archive/bios/gruentzig.html この中に、最初にPTCAを行われた患者さん(Adolph Bachmanさん)や、一緒にキッチンでカテーテルを作ったMaria Sclunpfさんへのインタービューがあります。興味深いです。是非、ご覧下さい。 Journey into the Heart: A Tale of Pioneering Doctors and Their Race to Transform Cardiovascular Medicine Monagan, David 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/7/24 前回、カテーテルによる血管内治療の創始者であるドッター先生とカテーテル製造業者のクック氏が二人三脚でカテーテル及びカテーテル関連製品の開発を行ったという話を紹介いたしました。 今回は、そのドッター先生が行った世界で最初の血管内カテーテル治療についてご紹介します。 世界で最初の血管内カテーテル治療 1963年のある日、ドッター先生は、造影剤が流れない(=閉塞していると思われていた)動脈を検査していました。いつものように、金属製のガイドワイヤーを使ってカテーテルを操作していたのです。その時、このガイドワイヤーが閉塞していると思われていた動脈部分を通過していることに気づきました。それまでの常識では、狭くなっている、あるいは閉塞している動脈にはカテーテルはもちろんのこと、ガイドワイヤーも通過しないと思われていたのです。この時、ドッター先生は、そういう狭くなっている血管でも細いワイヤーなら通過する可能性があることに気づいたのです。そして、閉塞部分を通過しやすいような工夫を凝らした特殊な治療用ガイドワイヤーと治療用のカテーテルを考案します。 簡単に説明すると、 細い治療用の金属製ガイドワイヤーを狭くなっているかあるいは閉塞している血管に通す 次に、このガイドワイヤーを中空のカテーテルに通します。そのカテーテルの先端は、ロケットの先端のように先細になっています。この先細カテーテルを、閉塞しているかあるいは狭くなった血管に通し、狭くなっている血管を広げる(このカテーテルの直径は2.5mm) 次に(2)で用いたカテーテルよりもやや太い先細カテーテルを用いて狭くなっている血管をさらに広げる 以上のような方法で、動脈硬化で狭くなっている血管をカテーテルで広げようとしたのですね。凄い発想です。 実際にカテーテルができあがり、虎視眈々と、このカテーテルを用いた治療に適した患者さんが現れるのを待っていたところ、ようやく、このドッター先生の治療に適した患者さんが見つかりました。Ms.Laura Shawという女性で当時82歳でした(この方は世界で最初にカテーテルによる血管治療を受けたおかげで名前が医学史に残りました)。 1964年1月16日、世界で最初の血管内カテーテル治療がドッター先生とジャドキンス先生(Melvin P. Judkins:1922-85)の二人で行われました(文献1及び文末の追記も併せてご参照ください)。 患者さんの左足指は動脈硬化が原因で壊死して真っ黒になり、痛みを伴っていました。壊死した部分を放置すると、その周囲は感染を生じやすくなり、感染が原因の敗血症でお亡くなりになることも稀なことではありません。ですから、主治医の外科医は足の切断を彼女に提案していました。 その足の写真が図5です。 図5 左がカテーテル治療前、 右が5ヵ月後です。 左図では動脈閉塞により足指が壊死した部分は黒く変色し硬くなっているのがわかります。 なんだ、5ヵ月後には、指が無くなっているのではないかと思われるかもしれませんが、左図のような写真の状態だと通常、段々と壊死部位が広がり足関節部くらいまで壊死部が広がることも多いのです。ですから、5ヵ月後に右図のような状態で壊死の進行が止まっているのは凄いことなのです。 この治療を行った血管造影が図6です。世界初の血管内の写真です。とても貴重な写真です。 図6 A:治療前(矢印部分が閉塞しているように見える動脈) B:カテーテル治療直後(閉塞部分が広がっているのがわかります) C:カテーテル治療3週後(閉塞部分は良好に開存しています) この治療終了後、効果は数分で現れ、冷たかった足が温かくなり、最終的に自分の足で歩けるまでに回復したと書かれています(文献1)。 手術をしないで治してしまう!外科医からは大きな反発が… この世界初のカテーテルを用いた血管内治療の成功をきっかけに、ドッター先生は多くの方法を開発しました。 そのうちのひとつが、一旦広げた動脈内部にコイルスプリングを留置して、動脈が再び詰まるのを防ぐ方法です(文献4)。これが「ステント療法」の原法と言えます(文末にある追記2参照)。なお、ドッター先生の治療がうまく行けば行くほど、手術を要する患者さんが減ってきます。手術をしないで治してしまうので外科医とは敵対します。その証拠が図7です。 図7 ドッター先生への血管造影の依頼書ですが、そこに太字で“VISUALIZE、 BUT DO NOT TRY TO FIX”と記載されているのがわかりますでしょうか?「造影をしてください。でも治療はしないように!」といったような意味でしょう。 ドッター先生の開発した方法はアメリカの外科医の仕事を奪うことになるかもしれないので、外科医からは大きな反発が起こりました。当時、まだ治療法としても未完成で合併症も多く、他の医師がドッター先生の方法を試してもなかなか上手くいかないなど、多くの問題点があったのです。始まったばかりの治療ですから、ある程度は仕方が無かったのだと思います。 いずれにせよ、ドッター先生は期せずして、外科医から敵視されるようになり、敵対する外科医から、とうとう “Crazy Charlie” というありがたくないニックネームを付けられます。そして長い間アメリカの医学界から、ドッター先生の方法は無視されてしまいました。 しかし、ヨーロッパの放射線科医はドッター先生の治療方法を受け入れて、この方法を「ドッタリング」と呼称するようになりました。 それがスイスで循環器内科をしていたドイツ人医師アンドレアス・グルンツィッヒ先生の目にとまり、今日のPCI、PTCAにつながっていきます。 【参考文献】 Dotter CT, Judkins MP. Transluminal treatment of arteriosclerotic obstruction. Description of a new technic and a preliminary report of its application. Circulation 1964;30:654-70 世界で初めてカテーテルを用いた血管内治療の論文です。 Charles Theodore Dotter. The father of intervention. Texas Heart Institute Journal 2001;28(1):28-38. ドッター先生の業績をまとめた論文です。追記1もご参照ください。 The Society for Cardiovascular Angiography and Interventions http://www.scai.org/About/History/Legends/Detail.aspx?cId=b95d88fb-fa6e-4d7f-8701-08ffbca7654a The Society for Cardiovascular Angiography and Interventions にあるジャドキンス先生の紹介サイトです。追記1をご参照ください。 Dotter CT, Buschmann RW, McKinney MK, Rosch J. Transluminal expandable nitinol coil stent grafting: preliminary report. Radiology 1983;147:259-60. 追記1: 世界で初めてドッター先生と一緒に血管治療を行い、ドッター先生の論文の共著者(上記文献2)となっているのは、Melvin P. Judkins, 先生です(1922-85)。“あの”と敢えて記しますが、あの「ジャドキンスカテーテル」の考案者です。ジャドキンスカテーテルは、冠動脈造影用カテーテルです。世界中で広く使われています。その名を知らない循環器内科医はいないでしょう。 このカテーテルには右冠動脈用と左冠動脈用の二種類があります。左右冠動脈の形にあわせて作られています。このカテーテルを使うとほとんどの患者さんで安全且つ容易に冠動脈造影ができます。 以前、クリーブランドクリニックのソーンズ先生が冠動脈造影法の創始者であることを紹介しました。ソーンズ先生の考案したソーンズカテーテルは、やや難しいテクニックを用いないと冠動脈造影ができません。しかし、ジャドキンスカテーテルはあまりそういった「テクニック」を要しないで冠動脈造影できる素晴らしいカテーテルです。 ジャドキンス先生はこのカテーテルに特許を取りませんでした。「このカテーテルに特許が無ければ、私の考案したカテーテルは誰でも作れる。そうすれば、このカテーテルが世界中に広がって安全に冠動脈検査ができるようになるだろう、そのことが一番大切だ」と述べています。ジャドキンス先生の予言通りになり、世界中でジャドキンスカテーテルは“標準使用”されるようになっています。とても良い話です。 そのジャドキンス先生ですが、大阪で働いていたことがあります。元は泌尿器科医で米国陸軍病院の医師として、1945-6年日本で働いていたのです。帰国後、家庭医として活躍後、放射線科医を志し、そこでカテーテル治療の創始者であるドッター先生と出会い、歴史に残る「ジャドキンスカテーテル」を考案したのです。日本で働いていたことがあると思うと、少し身近に感じます。 追記2: 「ステント」は、ロンドンで開業していたイギリス人歯科医のチャールズ・ステント(Charles Thomas Stent:1807-1885)の名前に由来します。 ステント先生が歯科治療用に考案した器具の商標が「STENT」でした。この「STENT」は中空の金属製の管です。現在血管治療に使われている「ステント」に形状が似ている治療器具(金属製の管)なので、なんとなく「STENT」と呼称されていますが、本来、心臓や血管とは無関係です。 泉下のCharles Stent先生は毎日、その名を世界中の病院で呼ばれてビックリしているのでは… 追記3: 参考文献2の Texas Heart Institute Journal は心臓病治療で世界的に有名なテキサス心臓病センターが出している雑誌です。先進的な心臓病治療の論文が載ることでも有名です。私も2回、同雑誌に論文を掲載してもらいました。良い思い出です。 Left common carotid artery cannulation for type A aortic dissections. Mochizuki Y, Iida H, Mori H, Yamada Y, Miyoshi S. Tex Heart Inst J. 2003;30(2):128-9. Novel single-stage operation and inflow source: for thoracic aortic aneurysm and limb ischemia. Kawajiri H, Mochizuki Y, Kashima I. Tex Heart Inst J. 2011;38(5):547-8. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/7/10 前回まで、冠動脈バイパス術のことについてお話ししました。今回から数回にわたり「狭くなった血管をカテーテルで治療する方法」についてお伝えします。 カテーテルによる血管内治療は「ドッタリング法」から始まる 「カテーテル」とは「中空の柔らかい管、中に孔があいている管」のことです。ドイツ語では“Katheter”「カテーテル」と読みます。英語では“catheter”「キャシーター」と読みます。日本ではドイツ語読みの「カテーテル」という読み方が一般的です。 最近は風船付きのカテーテルを用いて狭くなった冠動脈を広げる治療や狭くなった冠動脈をステントで広げる治療などに関する話を聞くことが多いと思います。前回までご紹介した冠動脈バイパス術は狭くなった血管の先に「別な道」を作る手術ですが、カテーテルによる治療は「狭くなった動脈を広げる」治療です。ある意味、こちらの方が根本的治療とも言えます。 「カテーテル」につきましては、以前心臓カテーテル検査を創始したドイツ人医師フォルスマンについて本コラムでお伝えしました。再度お読みいただければ、幸いです(自分の血管を17回も切って実験を行った医師:フォルスマン)。 「カテーテル」の先端部分に風船を付けたのが、バルーンカテーテルです。そのバルーンカテーテルを発明し、狭くなった足の動脈や狭くなった冠動脈を広げる治療を世界で初めて創始したのはドイツ人医師のアンドレアス・グリュンツィッヒ先生(Andreas Grüntzig, 1939-1985)です。しかし、その元となった「カテーテルによる血管内治療」の創始者はアメリカの放射線医チャールズ・ドッター先生(Charles Theodore Dotter ,1920-1985)です。グリュンツィッヒ先生は “自分が様々なカテーテルを考案して血管治療を行おう思ったきっかけはドッター先生の開発した「ドッタリング法(ドッター先生の名前からの命名です)」というカテーテル治療方法を知ったからである” と書き記しています。 今回は、まずその「ドッタリング法」誕生秘話について紹介いたしましょう。 「ドッタリング法」誕生秘話 その前に、簡単にカテーテルの基本的操作方法について説明します。目的とする動脈に造影剤をいれて撮影するためには、カテーテル先端を目的とする血管まで進めることが必要です。しかし「言うは易く行うは難し」です。カテーテルは柔らかい上に血管は蛇行しているので、ただ単にカテーテルを血管の中に入れただけでは、目的とする血管に到達するのは容易ではありません。そこで考えられたのが、細い金属製のワイヤーを使用する方法です(このワイヤーのことをガイドワイヤーと言います。目的血管まで案内(ガイド)するという意味でしょう)。 カテーテルを目的血管に入れる前に、金属製のガイドワイヤーを、血管内に入れ目的とする血管のそばまで通します。ガイドワイヤーは金属ですから適度な硬さ、弾力性があり、目的血管までこのガイドワイヤーを通すのは、比較的容易です。そして、目的とする血管の近くまでこのガイドワイヤーが到達したら、このガイドワイヤーの反対側で、体の外に出ている部分を中空のカテーテル内に通します。つまり中空のカテーテル内にワイヤーが通っていることになります。カテーテルに「芯」ができたようになり、カテーテルを目的血管まで送り込むのが容易になります。これは基本的なカテーテル操作手技の一つです。 米国オレゴン大学病院でドッター先生も、この「ガイドワイヤーとカテーテル」を駆使した方法で、血管造影を行っていました。1963年のある日、いつものようにガイドワイヤーを操作していたら、完全に閉塞していると思われた箇所をこのガイドワイヤーが通過したのです。以前の医学常識では考えられない出来事です。いつものまたかと言われますが、『偶然=セレンディピティ』です。 彼はこの「偶然」を見逃しませんでした。完全に閉塞していると思われた血管でも、細いワイヤーが通るなら、この狭い箇所を通過するワイヤーを利用して治療用のカテーテルを狭くなっている箇所に通せば、血流が再開するのでは無いかと考えたのです。それがドッタリング法につながります。彼は普通の医師ではありませんでした。若い頃から、工学技術が好きで、こんな絵(図1)を書いています。この図は、パイプとレンチですが、彼は「故障したパイプをレンチで治すように、血管もレンチのような器具で治せるのでは無いか」と思いついてこの絵を描いたそうです。「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」ですね。 図1:ドッター先生の書いた血管内治療予想図? それが後年、別なカタチで実現したのです。彼は、レンチでは無いですが、血管造影のための様々な器具を開発しました。例えば、カテーテル内を通すワイヤーを開発するのに「ギターの弦」や「車(フォルクスワーゲン)のスピードメーターのワイヤー」などを使ったのです。ほかにも様々なカテーテル検査、カテーテル治療のための器具を考案しては、ドッター先生の研究室の技術者に実際に作らせていたのです。 そして大げさに言えば、人類にとって幸せな巡り会いがシカゴで生じました。1963年のことです。現在も血管撮影、血管治療器具製造会社として世界一の売り上げを誇っている「Cook 社」の創業者のビル・クック氏(William Alfred "Bill"Cook,1931-2011)と出会ったのです。シカゴで開催されたRadiologic Society of North Americaという学会の展示場で二人は出会い意気投合します。 当時、クック氏は住んでいたアパートにあった狭い「SPARE BEDROOM(予備のベッドルーム)」でカテーテルを作る会社を起業したばかりでした。ドッター先生も自分の教室で作っている「手作りカテーテル、手作りガイドワイヤー」を商業ベースで制作してもらいたいと思っていた時でした。そういう二人が、ワイヤーが偶然に完全に閉塞した動脈を通った年(=1963年)に偶然、学会の展示場で出会ったのです。運命の出会いです。出会ってすぐに意気投合したのでしょう。会った日に、ドッター先生はクック氏が作っていたテフロンカテーテル10本とカテーテル成形用のガスバーナーを、クック氏から借り受けます。そして、ドッター先生は自分が泊まっていたホテルの一室でカテーテルを使いやすいように成形したのです。夜、ホテルでガスバーナーを使ってカテーテルをあぶりながら成形している姿を想像すると、私は映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のマッドサイエンティスト通称「ドク」を想起します。ドッター先生は同じような志を持つ起業家がいて、とても嬉しかったと思います。 クック氏は後年、この時のことを「このドッター先生が作った10本はあっと言う間に売れた。だから、ドッター先生は私の会社の最初の従業員だよ」と冗談交じりに回想しています。後年、クック氏はカテーテルの製造販売で米国史上に残る大富豪になりますが、「元はと言えばこの時の出会いからだ」と彼は回想しています。この出会いは、ドッター先生43歳、クック氏32歳の時の話です。お互いの情熱がわかるとても良い話です。 この出会いから、今のカテーテルによる血管内治療が始まったのです。ドッター先生がアイデアを出し、プロトタイプを作り、それをクック氏が製品化するという文字通りの二人三脚でカテーテル及びカテーテル関連製品の開発が始まりました。その関係はドッター先生が1985年に亡くなるまで続きました。お互い、幸せだったと思います。 図2:ドッター先生の写真です。 図3:クックさんの写真です。 図4:学会場でのクックさん(左)とドッター先生(右)が写っている珍しい写真です。 図3、図4の写真はクック社よりご提供いただきました。ありがとうございました。 次回はいよいよドッター先生が行った世界で最初の血管内カテーテル治療についてご紹介します。 【参考文献】 Dotter CT: Circulation 30, 654-670, 1964: Charles Theodore Dotter. The father of intervention. Tex Heart Inst J. 2001;28(1):28-38.ドッター先生の業績のまとめです。 クックメディカル社 このサイトはクックメディカル社のホームページです。創業者ビル・クックのことが詳しく書いてあります。ドッター先生との出会いについても書かれています。 IVRの歩んできた道,歩む道(PDF) 北海道大学の森田 穰先生がカテーテルの血管内治療についての歴史を書いています。細かいところまできちんと記されている素晴らしい文献です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/6/26 このページには、医学的な資料として「冠動脈バイパス術に関する写真」がありますので、ご注意ください。 少し間が開いてしまいましたが、また、冠動脈バイパス術のことをお伝えしようと思います。 アルゼンチンの英雄 冠動脈バイパス術の創始者 ファバロロ先生(1) アルゼンチンの英雄 冠動脈バイパス術の創始者 ファバロロ先生(2) の2回で、冠動脈バイパス術のことをお伝えしました。今回はその続きです。 バイパス用の血管探しの時代 アルゼンチンからクリーブランドクリニックに留学していたFavaloro先生が1967年に冠動脈バイパス術を開始、1968年に論文を発表したことを紹介しました。 図1:冠動脈バイパス術の模式図 (心疾患の診断と手術:南江堂 新井達太著より引用) 上図が、冠動脈バイパス術の概略図です。この図で使われているバイパスグラフト(別な通り道)は、「大伏在静脈」という足の静脈です。Favaloro先生の論文発表後、さまざまな血管をバイパスグラフトに使用することが試みられました。「血管探し」の時代です。冠動脈バイパス術に「至適」な血管は次のような条件を満たす血管です。 (1)採取しても、採取部の臓器、組織に影響を与えないか、影響が少ない血管が第一条件です。血管を採取したら、その部位の臓器が損傷を受けるなら本末転倒です。 (2)十分な血流が得られるような管腔を持っていることが必要です。採取した血管があまりに細いと十分な血流が得られません。 (3)長期に用いても、血管が劣化しないこと。 以上のような条件を満たす血管は多くありません。 以下に示すような血管が冠動脈バイパス術に使われました。 「内胸動脈:胸骨の裏にある血管」 「橈骨(とうこつ)動脈:手の親指側を走行する動脈」 「尺骨(しゃっこつ)動脈:手の小指側を走行する動脈」 「右胃大網動脈:胃を栄養する血管」 「下腹壁動脈」など様々な血管が、バイパス用の血管として用いられました。 人工血管 牛の内胸動脈 などです。 「大伏在静脈」は静脈ですから、動脈と違い劣化しやすいという欠点があります。日本人の静脈は比較的細いので欧米人のそれに比して劣化は遅いのですが、それでも経年劣化します。現在はできるだけ、静脈よりは耐久性のある動脈を使って冠動脈バイパス術を行おうというのが流れです。なかでも「内胸動脈」が一番使われます。その理由として内胸動脈は心臓のすぐそばにあり使いやすいこと、鎖骨下動脈からほぼ直角に分岐するので動脈硬化が極めて少ないこと、十分な流量を得ることができることなどから多用されます。バイパス血管としては理想的です。内胸動脈は心臓外科医への“神様からの贈り物”であると評する先生もいるくらいです。 内胸動脈が冠動脈バイパス術に用いられるようになったのは、1968年米国でのことです。米国に千葉大学から留学していた廣瀬輝夫先生は、指導医だったCharles Bailey先生とともに論文を書いています(文献1.2.)。それも、なんとFavaloro先生が論文を発表した1968年のことですからごく初期のことです。Favaloro先生よりも先に、人工心肺を用いない方法で、内胸動脈と冠動脈とのバイパス術を世界で初めて行っています(文献11)。 右胃大網動脈を多用した冠動脈バイパス術を行ったのは、須磨久善先生とカナダのPym先生です(文献3.4.)。「多用した」とあえて書いたのは、最初に右胃大網動脈を用いた冠動脈バイパス術に用いたのは別の先生です(文献3)。しかし多数例に、右胃大網動脈を用いた冠動脈バイパス術を行い、結果も良く一躍世界中の心臓外科医に名を知られたのは須磨久善先生です。テレビや小説にもなったので知っている方もいらっしゃるかと思います(文献4.5.)。 橈骨動脈は前腕の親指側にある動脈です。この血管を用いた冠動脈バイパス術を世界で最初に行ったのはフランスのCarpentier先生です(文献6)。しかし、手術後のバイパスグラフト造影の結果はあまり芳しくありませんでした。しかし!橈骨動脈を用いた手術後10数年近く経過したある患者さんの血管造影を行ったところ、閉塞していたと思われていた橈骨動脈が実は開通していて、バイパス血管として機能していたのです。これに気づいたのが、Carpentier先生の部下だったAcar先生です。 偶然、そういう症例があることに気づき、橈骨動脈を用いて手術をした患者さんを片端から検査します。驚くべきことが起こっていました。Carpentier先生が用いた「芳しくない結果だった=閉塞または細くなっていた」橈骨動脈が良く開存していたのです。変だと思うかもしれません。Carpentier先生がこの手術を開始した当時、内服できる良いカルシウム拮抗剤がありませんでした。橈骨動脈は少しの刺激で細くなってしまいますが、それはカルシウム拮抗剤で予防できます。時代が進み、カルシウム拮抗剤が普通に内服投与されるようになりました。そのカルシウム拮抗剤が「閉塞したと思われていた橈骨動脈」を開存させたのです。1992年、Acar先生がこのことを発表した後、世界中で橈骨動脈がバイパス血管として使われるようになります。これも偶然から生まれた発見です(文献7)。 なお、これらは西洋世界の出来事です。当時、東西対立がありました。西欧世界には広く伝わっていなかったのですが、ソ連の中ではとんでもない手術が行われていました。1964年からすでに、人工心肺を用いない冠動脈バイパス術、それも内胸動脈を用いた冠動脈バイパス術が行われていたのです。ソ連のコレソフ先生(Vasilii Ivanovich Kolesov:1904-1992)が1967年に論文を発表しています(文献8)。しかし、当時のソ連には冠動脈造影を行う技術がありませんでした。ですから、評価も高くなく、あまり省みられませんでした。 1991年にKolesov先生は多数例の報告をします(文献9)。丁度、その頃から、世界中で人工心肺を用いない冠動脈バイパス術が、世界中で行われるようになります。オフポンプバイパス術(Off-pump CABG)と言われますが、Kolesov先生に敬意を表して「Kolesovの手術:コレソフの手術」とも言われます(注:ロシア語で書いた論文の英語表記は Kolesov ですが、英語で書いた論文での英語表記は Kolessov となっています。英語での名前は何故か「s」が一つ多くなっています。不思議ですね。その理由?は、本論から外れますので、本文最後に記しました。ご興味がある方は、お読みください)。 現在の冠動脈バイパス術は、 できるだけ人工心肺を使わない できるだけ動脈を用いる 方法が主流となっています。 この流れは今後もあまり変わらないと思います。冠動脈バイパス術は「確立された」術式になり、そういう術式の確立に廣瀬輝夫先生と須磨久善先生という日本人外科医が大きな貢献をしているのは大変嬉しいことです。なお、バイパスに用いる血管ですが、人工血管や牛の血管などで代用しようとする試みがなされていますが、未だ成功していません。将来、代用血管が実用化されれば、手術は飛躍的に楽になると思います。 時代は流れ、この術式を脅かす方法がスイスで開発され、冠動脈の治療は、世界中でそちらの方法が主流となっています。その話にも悲喜劇が沢山あります。次回からは、そちらの話をしましょう。 【参考文献】 Bailey CP, Hirose T. Successful internal mammary-coronary arterial anastomosis using a “minivascular” suturing technic. Int Surg 1968;49:416-27. Mehta NJ, Khan IA.Cardiology's 10 greatest discoveries of the 20th century. Tex Heart Inst J. 2002;29(3):164-71. Edwards WS, Lewis CE, Blakeley WR, et al. Coronary artery bypass with internal mammary and splenic artery grafts. Ann Thorac Surg 1973;15:35-40. Suma H, Fukumoto H, Takeuchi A: Coronary artery bypass grafting by utilizing in situ right gastroepiploic artery: basic study and clinical application. Ann Thorac Surg 1987; 44: 394-397 Pym J, Brown PM, Charrette EJ, et al: Gastroepiploic-coronary anastomosis. A viable alternative bypass graft. J Thorac Car-diovasc Surg 1987; 94: 256-259 Carpentier A, Guermonprez JL, Deloche A, et al: The aorta-to-coronary radial artery bypass graft. A technique avoiding patho-logical changes in grafts. Ann Thorac Surg 1973; 16: 111-121 Acar C, Jebara VA, Portoghese M, et al: Revival of the radial artery for coronary artery bypass grafting. Ann Thorac Surg 1992; 54: 652-659; discussion 659-660 Kolessov VI. Mammary artery-coronary artery anastomosis as method of treatment for angina pectoris. J Thorac Cardiovasc Surg 1967;54:535-44. Kolesov VI, Kolesov EV. Twenty years' results with internal thoracic artery-coronary artery anastomosis [letter]. J Thorac Cardiovasc Surg 1991;101:360-1. 在米日本人医師の独白:廣瀬輝夫著 学生社 米国で心臓外科医として大活躍した先生の本です。面白いですので、ぜひ、ご一読ください。 以下、冠動脈バイパス術に関する写真を数枚紹介します。 写真1:内胸動脈を採取しています。 細長いヒモの様に見えるのが内胸動脈です。 写真2:内胸動脈を冠動脈に縫合しています。 写真3:大伏在静脈を冠動脈に吻合した状態です。 余話1:内胸動脈の「自己修復力」 内胸動脈には「自己修復力」とでもいう力があります。いったん解離(動脈が裂ける)しても治る可能性があるのです。そういうことを世界で初めて発見しました。びっくりしたので論文にしました。 ↓ Mochizuki Y, Okamura Y, Iida H, Mori H, Shimada K. Healing of the intimal dissection of the internal thoracic artery graft. Ann Thorac Surg. 1999 Feb;67(2):541-3. 手術直後に造影した内胸動脈です。矢印部位で血管損傷が起こり、途中で血流が無くなっています。幸い、患者さんの症状が落ち着いていたので、経過を見ていました。そして一年後のことです。 一年後の造影では損傷して流れなくなった内胸動脈が見事に流れています。内胸動脈には「自己修復力」があるのだと思います。他の血管ではあまり無いことです。これを見た時は、本当に嬉しかったので、一生懸命英語の論文を書きました。論文を書いて投稿すると「査読」と言って専門家の先生が、評価をしてくれます。ダメ出しをされることも多いのです。この雑誌はアメリカの雑誌ですから、アメリカ人心臓外科医数人に査読して頂いています。皆さん、掲載にO.K.で高評価だったのですが、一人の先生は「こういう現象(内胸動脈の自己修復力)は自分でも数例経験している。珍しいことでは無い。でも論文になるのは初めてだ」と書いてきました。自分たちも似たような経験があったのでしょう。でも、書いたモノ勝ちですから、掲載してくれました。嬉しい出来事でした。 余話2:「Kolesov or Kolessov?」Sが一つ or 二つの理由 ロシア人であるコレソフ先生の名前は、ロシア語を表記するキリル文字では Василий Иванович Колесов です。これを英語表記にしたのが「Vasilii Ivanovich Kolesov」なのでしょう。 ここまでは、私にも解りましたが、その先は皆目見当もつきません。フランス在住の言語学者・小島剛一氏にご教示いただきました。 以下、小島氏からご教示いただいた内容です。 「Василий Иванович Колесов」の読み方は、なるべく原語に近いカタカナ転写にしようと思うと「ヴァスィーリィ・イヴァーナヴィッチュ・カリェソフ」です。「スィ」や「リィ」は広範に用いる表記ではありませんね。中の名前も「イバノビッチ」か「イワノビッチ」と書くのが普通でしょう。折衷案として「バシーリ・イバノビッチ・コレソフ」が考えられます。 英語名の綴りで「ss」となっているのは、ズ[z]でなくス[s]と発音してもらうための方策です。 以上、引用終了です。これで、すっきりとしました。言語のプロは、凄いですね。 小島剛一氏は、トルコ語およびトルコの少数民族諸言語が専門の言語学者です。今、トルコの少数民族諸言語のうち、特に消滅しそうな「ラズ語」の辞書刊行を目指しています。ぜひ、このサイトをご覧ください。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/6/12 ここのところ、アニサキスによる食中毒のことが、報道されています。 アニサキス被害急増、サバやアジの生食注意 10年で20倍、流通発達の影響も(西日本新聞 2017/5/21) サバ・アジ・イワシ…寄生虫アニサキスの食中毒にご注意(朝日新聞デジタル 2017/5/20) アニサキスは前回で紹介した線虫の一種です。比較的身近にいます。 今回は、アニサキスとは何か?アニサキス食中毒とは何か?アニサキス食中毒を予防するにはどうしたらよいか?美味しく「サバ」を食べるにはどうしたらよいか?などについてご紹介しようと思います。 ある授業をきっかけに、鯖が食べられなくなり… 大学時代を過ごした鳥取は鯖が豊富にとれるところでしたので、美味しい鯖が食べられ、幸せでした。しかし、ある授業をきっかけに、私は鯖が食べられなくなってしまったのです。その授業とは、「衛生学」の授業です。「保健所の仕事を知る」そういう内容の実習の一環で、鳥取県の境港に揚がった鯖や烏賊を解剖して「アニサキス幼虫」がいるかどうかを調べたのです。アニサキスは海産物に寄生する線虫の総称です。要するに寄生虫の一種です。アニサキスの成虫は鯨などに寄生します。アニサキスの一生?はこのサイトに漫画で、とても解りやすく書かれていますので、ご参照ください。 話は戻ります。実習授業で鯖を解剖したら、内臓からたくさんのアニサキス幼虫が見つかりました。一匹の鯖の内臓に、10-20匹のアニサキス幼虫が見つかりました。 写真1は鯖の内臓から見つかるアニサキス幼虫です。白い糸のように見えるのがアニサキス幼虫です。ウニョウニョと動きます。 写真1:鯖の内臓から見つかるアニサキス幼虫 烏賊では、見つけるのが多少厄介です。アニサキス幼虫は白いので保護色?となって見つかりにくいのです。しかし、鯖の内臓のアニサキスは簡単に見つけることができます。写真1のごとく、肉眼でアニサキスがハッキリ見えるのです。 生きたアニサキス幼虫を人間が食べると、胃アニサキス症、腸アニサキス症、腸管外アニサキス症を生じます。有名なのは、胃アニサキス症です。アニサキス幼虫が胃で暴れるのです。胃壁にアニサキス幼虫が食いつくので、強烈に痛いのです。 写真2は胃壁に食いついているアニサキス幼虫を鉗子で取り出す様子です。 写真2:アニサキス幼虫を鉗子で取り出す様子 国立感染症研究所 魚を食べてから数時間後に強い腹痛と吐き気が出現し、嘔吐します。家族、友人で同じ魚を食べていると、一斉に同様の症状が発現することもあります。私もそういう方を拝見したことがあります。家族全員(4名)が胃アニサキス症を発症して胃カメラによるアニサキス除去を受けています。 さて、そういう「鯖の内臓からアニサキス幼虫を探せ」という授業を受け、アニサキス症の勉強をしたら、また鯖が食べられなくなりました。烏賊も一時、食べられなくなったのです。もう30数年前のことです。当時、その授業の指導をしてくれた衛生学の先生に、「鯖や烏賊に、こんなにアニサキス幼虫がいて食べても大丈夫でしょうか?」と質問しました。先生からはハッキリとした答えはありませんでした。しかし、その先生が言うには「この辺り(鳥取)でとれた鯖は大丈夫だと、漁師も寿司屋も魚屋も言っている」という“あいまい”な話が返ってきたのでした。当時はそれを追及することはなく終わらせていました。 鳥取の鯖は食べても大丈夫? 大学を出て関東地方で働くようになり、そして救急患者さんが搬送されるような病院で働くようになると「胃アニサキス症」は珍しい病気では無いことに気づきました。胃カメラが普及して、比較的容易に診断がつくようになったこともあるかもしれません。今も日本全国で年間7000-8000件の発症があると予測されています(国立感染症研究所の推定)。私はアニサキス症が怖くて、鯖の刺身やシメ鯖が食べられない状態がまた長い間続いたのです。焼き鯖や味噌煮といった加熱調理された鯖以外は食べる気にはなりませんでした。 なお、アニサキス幼虫が寄生するのは鯖だけではありません。マグロ、イカ、サンマ、サケ、アジ、タラなど、様々な魚に寄生します(約150種の魚から見つかっています)が、なぜかよくわかっていませんが、鯖に寄生することが多く、アニサキス症の多くは鯖が原因です。 2011年のことです。東京都健康安全センターからアニサキス幼虫に関する論文が発表され話題を呼びました(文献2)。この論文を読むと「鳥取の鯖は食べても大丈夫」という言い伝えが、ほぼ(8割?)、正しかったことがわかります。それを説明しましょう。 アニサキス幼虫は4種に分類(Ⅰ~Ⅳ)されるのですが、アニサキス症をおこす原因として最も多いのはアニサキスⅠ型幼虫(Anisakis simplex)です。このアニサキスⅠ型幼虫はさらに3種類に分類されることがわかってきました(分類というと面白く無さそうですが、実はとても重要であることが以下からもわかります)。 Ⅰ型幼虫の分類です。 (1)アニサキス・ピグレフィー(Anisakis pegreffii) (2)アニサキス・シンプレックス・センス・ストリクト(Anisakis simplex sensu stricto) (3)アニサキス・シンプレックスC(Anisakis simplex C) の3種です。 顕微鏡を見ても、この3種のアニサキス幼虫の違いを区別するのは不能なほど似ているのだそうですが、遺伝子レベルではかなり違うので、遺伝子検査によりこれら3種を区別するのだそうです。東京都健康安全研究センターが2007-2009年、「築地市場」に全国各地から集まる「鯖」に寄生するアニサキス幼虫を遺伝子レベルで調べた結果がこの論文です。とても面白いことがわかりました。 図1がそのまとめです。 図1:産地別マサバにおけるアニサキスの検出割合 東京都健康安全研究センター 日本海側~九州地方の「サバ:鯖」に寄生するアニサキスの8割は(1)のアニサキス・ピグレフィー(Anisakis pegreffii)で、太平洋側の「サバ」に寄生するアニサキスの8割は(2)のアニサキス・シンプレックス・センス・ストリクト(Anisakis simplex sensu stricto)であることがわかりました。 非常に面白いことに、「太平洋側にいるアニサキス・シンプレックス・センス・ストリクト」は「日本海側にいるアニサキス・ピグレフィー」の100倍も筋肉に寄生することがわかったのです。どうしてこうなったのでしょうね。それはともかく、刺身は筋肉を食べるのですから、日本海側でとれる新鮮な「鯖」は「ほとんどアニサキス症を生じない」のです。これが「鳥取の鯖はアニサキスがいてもアニサキス症はほとんど発症しない」理由の「答」でした。長年の疑問が氷解しました。寄生虫の分類という地味な作業に臨床的意味を付与するとても素晴らしい研究だと思います(私が大学の実習で見た、鳥取県境港から揚がった鯖のアニサキス幼虫も内臓への寄生がほとんどでした)。 安全に「サバ」を食べるなら、産地&冷凍がポイント さあ、ここからは鯖を安全に美味しくいただく方法をご紹介しましょう。 酢で締めてもアニサキス幼虫は死滅しません。酢で締める作業で鯖は旨味が増すかも知れませんが、アニサキス症とは無関係です。図1を眺めていると、「刺身」でも食べられる鯖があることがわかりますね。というわけで、私は産地を聞いて「鯖」を食べるようにしています。しかし、これで絶対安全な訳ではありません。内蔵寄生型アニサキスでも、釣られてから時間が経つと、筋肉に移行することがあるからです。つまり、100%筋肉に行かないわけでは無いからです。 しかし、100%安全に「鯖」を食す方法があります。それは、加熱(70℃以上で死滅)または冷凍(-20℃で24時間以上冷凍すると感染性が無くなります)すれば良いのです。きちんとした冷凍処置は医学的には良いことだらけです。ところが、冷凍の義務規程や冷凍しない場合の罰則規定はありません(後述のごとく、欧米には冷凍しないと罰則があります)。冷凍すると不味くなると言う方もいますので、この辺りは個人の判断ですね。そうは言ってもサバを生で食べたいですね。私なら「産地が日本海側~九州」で「1度はきちんと冷凍した」鯖なら躊躇無く食べます。 アニサキス症は「食中毒」ですから届け出る義務があります。調理する方も食べる方も「多少の美味しさ」を大切に考えるか?アニサキス症を念頭に置くか?考えれば答はひとつだと思います。 もっと確実に鯖を安全に食べる方法は無いのでしょうか?「1度でも冷凍した鯖は美味しくないから食べたくない」という方のために別な解決方法が考えられています。そのひとつを紹介します。 今、「安全な鯖を供給しよう」という取り組みが鳥取県で始められています。その方法とは「鯖の陸上養殖」です。海上での養殖は安全ではありません。海上養殖だと、他の海中生物から寄生虫が感染する可能性があるからです。鳥取県立栽培漁業センターでは生け簀を陸上に置き、地下から海水(!)をくみ上げて、くみ上げた水を生け簀に供給することで「アニサキスが付いていない陸上養殖サバ」の開発に成功しています。ブランド名を「お嬢サバ」と言うのだそうです(笑)。ムシ(寄生虫)の付いていない「ハコ入り娘」ならぬ「ハコ入り鯖」というところでしょうかね。このネーミングは、1回聞けば忘れないですね。 ちなみにこの「お嬢サバ」ですが、まだ、あまり流通していません。鯖専門店「SABAR」で食べることができます(参考文献3)。 というわけで、今回は、アニサキスを巡るアレコレを考えてみました。前回ご紹介したように「線虫を用いた癌の早期発見」手技開発のきっかけは「胃アニサキス症」です。私が診ているある患者さんは、胃アニサキス症に罹った時、同時に腹部の様々な検査がなされ、それを契機に別のもっと「重い」病気が見つかり、そちらの治療が行われ、命拾いをしています。その方は「アニサキス様々」だと仰っていました。「病」を診ていると色々なことがあります。 追記:外国でのアニサキス症は? アニサキス症は、外国でも発症することがあるのでしょうか?日本を除いた他国では魚の生食をほとんどしないので、発症がほとんどありません。しかし、オランダは特別です。昔から生ニシン料理「ハーリング」があります。1960年代に、「ハーリング」によるアニサキス症が報告されたため、1968年以降、ニシンに関し「-20℃以下24時間以上の冷凍保存」が法律で義務付けられています。米国やオランダ以外のEU諸国も生食用の魚は最低でも-20℃以下で24時間の保存が義務 付けられています。アニサキスがいてもこの保存条件ではアニサキスは「凍死」しますのでアニサキス症は発症しません。 【参考文献】 厚生労働省のアニサキスに関する情報(PDF) 鈴木淳,村田理恵:わが国におけるアニサキス症とアニサキス属幼線虫 東京都健康安全研究センター研究年報第62号2011年 奇跡のブランドサバ「お嬢サバ」を食べてきた!東京・浜松町「SABAR GEMS大門店」 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/4/24 今回は、前回とは違った角度から「花粉症」に纏わるエピソードをご紹介したいと思います。スギ花粉症の症状(鼻汁、鼻水、目の痒み、ノドの痒み、流涙など)が、なぜ生じるかというお話をします。花粉症はアレルギー性疾患のひとつです。アレルギー性疾患は5個の型に分類されます。クームス分類と言います。 Ⅰ型アレルギー: IgEが関与します。代表的疾患として、気管支喘息、花粉症、アトピー性皮膚炎、じんま疹、アナフィラキシー(蜂、ソバアレルギーなど) Ⅱ型アレルギー: IgGが関与します。代表的疾患として、B型肝炎、C型肝炎などのウイルス性肝疾患、悪性貧血、橋本病、不適合輸血、リウマチ熱、円形脱毛症、自己免疫性溶血性貧血 Ⅲ型アレルギー: 抗原・抗体・補体が結合した免疫複合体という物質が免疫反応で作られることによる疾患です。代表的疾患として、SLE、関節リウマチ、シェーグレン症候群、多発性動脈炎 Ⅳ型アレルギー: T細胞が関与します。他の型と違い、細胞性免疫が関与します。抗原と反応したT細胞から様々な物質が遊離して、周囲の組織障害をおこします。代表的疾患として、金属アレルギー、ツベルクリン反応、移植免疫です。 Ⅴ型アレルギー: 受容体に対する自己抗体が産生されることにより発症します。代表的疾患はバセドウ病です。 アレルギーの原因となる物質を「アレルゲン」と呼称します。要するにアレルゲンがあり、それによってさまざまな「カタチ」のアレルギー症状が出るのですね。今、多くの方を悩ませているスギ花粉症ですが、そのアレルゲンはスギ花粉で、発症形式がⅠ型ということになります。 今回は、このⅠ型アレルギーについてお知らせしようと思います。 Ⅰ型アレルギー反応を解明した、石坂夫妻 Ⅰ型アレルギー反応で重要な役割を果たすのがIgE(「免疫グロブリンE」というタンパク質)です。最初にスギ花粉が体内に入る(=目や鼻の粘膜に付着する)と体内でスギ花粉に対するIgE抗体が作られます。IgEは目や鼻の粘膜にある肥満細胞(太って見える細胞であり、体の肥満とは無関係です)につきます。肥満細胞にくっついているIgEは次にスギ花粉が入ってくると、肥満細胞を刺激して、ヒスタミン、ロイコトリエンを分泌させます。このヒスタミン、ロイコトリエンが様々な症状(鼻汁、目の痒みetc.)を引き起こします。IgEは、このⅠ型アレルギー反応の主役です。免疫グロブリン(Immunoglobulin)は5種あります。IgG、IgM、IgA、Igについで見つかったのがIgEで紅斑を示す(Erythema)のEがつけられています。と、簡単に書きましたが、これが決まるには大変な出来事があったのです。 Ⅰ型アレルギー反応を解明したのは、米国デンバーにあった小児喘息研究所免疫部長 石坂公成(いしざかきみしげ:1925-2018:1948年東京大学医学部卒)、石坂照子(いしざかてるこ:1926-2019:1949年東京女子医科大学卒)夫妻です。IgEを発見したのは、石坂公成博士ですし、IgEが肥満細胞に付着し、そこにアレルゲンが付着するとヒスタミンやロイコトリエンが遊離されるのを発見したのが、石坂照子博士です。石坂公成博士がIgEを発見したことを、ニューヨークで行われた全米アレルギー学会の進歩で発表したのが1966年2月20日で、日本アレルギー学会はこの日(2月20日)を「アレルギーの日」と定めており、各種イベントが開催されます。 それはともかく、例えば、IgEをWikipediaで検索するとIgEは、石坂グループとスウェーデンのグループの共同で、発見したかの如くに書かれています。石坂公成先生自身の自伝には「凄い」ことがかかれています(参考文献1)。 石坂公成先生が上述の如く1966年に「γE」としてこの抗体(後のIgE)発見を発表したのですが、研究材料が不足していました。研究するためにはIgEが大量に必要です。他のImmunoglobulinは、それらを産生する腫瘍があり、多発性骨髄腫と言います。IgG産生型 60%、IgA 産生型 20%、軽鎖型 20%gです。それでほぼ100%です。他のIgM型、IgD型 、IgE型は極めて稀です。IgEを産生する腫瘍が見つかれば、その患者さんの血液中には多量のIgEがあるので研究がはかどります。 1966年当時、石坂(公)先生が研究していた米国でIgE産生型の多発性骨髄腫の方を見つけることができませんでした。そんななか、1967年、スウェーデンウプサラ大学の内科医 Johansson SG(ガナ、ヨハンソン)と生化学者の Hans BENNICH(ハンスベニク)から、石坂(公)先生の下に、スウェーデンに「γE(後のIgE)らしきImmunoglobulinを産生する多発性骨髄腫」の患者さんがいるらしいとの連絡があり、石坂(公)先生がその患者さんの血液を色々と検査したところ、γEを産生する腫瘍に間違い無いことがわかったのです。 しかし、その後、石坂(公)先生がスウェーデンのグループに、この患者さんの血漿(IgEが大量に含まれる)を送ってもらい協同研究するように持ちかけたのですが、突然音沙汰無しとなってしまったそうです。音沙汰無しになっただけでは無く、石坂(公)博士が発見した「γE」抗体を、スウェーデンのグループが勝手に「自分たちが発見した」として、「IgB」という名前にするようにWHOに命名申請したのです。石坂(公)先生は驚愕し、激怒しています。しかし、WHOの「γEの正式命名会議」が1968年2月にスイスのローザンヌで開催され、論文を先にきちんと出していた石坂(公)先生に命名権があたえられ、石坂(公)先生が命名した「IgE」が正式に使われることになったのです。アブナイ話です。 なぜスウェーデングループが石坂(公)先生にIgEを大量に含んだ血漿を送らなかったか、後年、明らかになります。この患者IgEを用いた検査方法をスウェーデンの医師グループとスウェーデンの製薬会社ファルマシア社が特許を申請し、10数年にわたって特許を独占していたのです。しかし、その特許も10数年後、石坂(公)先生に間違いを指摘され特許は維持できなくなってしまいました。でも10数年間、スウェーデンの研究者グループとファルマシアはこの検査の特許を独占することができていたのですから、それはそれで良いでしょう。 スウェーデンのグループは、血漿を隠していたため、論文発表が遅れます。それまでに石坂夫妻のグループは、ほぼIgE関連でわかったことは発表しています(参考文献2-7)。後に、スウェーデンのグループは石坂夫妻と共同でIgEに関する論文を発表していますが(参考文献8)、論文引用回数は上記の参考文献2-7と比して三桁違います。血漿を隠さず、石坂(公)先生と協同研究をしていれば、道は違ったかも知れません。 数々の賞を受賞、「現代版キュリー夫妻」とも呼ばれる IgEを発見し、他のImmunoglobulin(IgG、IgM、IgA、IgD)はⅠ型アレルギー反応には関与しないことや、IgEがⅠ型アレルギーで果たす役割を発見した石坂夫妻は数々の賞を受賞しています。ですから、石坂夫妻は「現代版キュリー夫妻」とも呼ばれます。 パサノ賞(アメリカ国内における顕著な医学的業績を挙げた研究者を表彰、これまで日本人は石坂夫妻のみ)は夫妻の共同受賞です。他の、ポールエールリッヒ賞、ガードナー賞、学士院恩賜賞、文化勲章は石坂公成博士単独授賞です。夫妻で共同受賞してもしかるべきだと思っています。しかしただ一つ、受賞していないのが「ノーベル賞」です。大学時代、石坂夫妻が「次のノーベル賞」だと聞いていました。それから幾星霜、残念なことに、受賞の報はありません。今でも、IgEの発見やⅠ型アレルギー反応の解明にノーベル賞の栄冠が輝いても不思議はありません(参考文献9)。受賞しないのは、スウェーデンのグループと軋轢があったからかも知れません。そんなことは、小さいことです。石坂夫妻の発見により、数え切れない人が助かりこれからも助かると思います。夫妻の業績は「ノーベル医学生理学賞」を越えた業績です。 石坂公成先生は、帰国後山形に在住し、重い病に伏している奥様の看病に当たられています。すでに91歳です。奥様は90歳。 今年こそ、是非、受賞して欲しいと思います。 (2019年3月追記) 大変残念ですが、石坂公成先生は、2018年7月6日に逝去されました。 (2019年7月追記) 誠に残念ですが、石坂照子先生は、2019年6月2日に逝去されました。 お二人のご冥福を心からお祈り申し上げます。 【参考文献】 我々の歩いて来た道―ある免疫学者の回想 石坂 公成(著) MOKU出版刊 (石坂夫妻が歩んでこられた道のりが書かれています。とても面白い本です。その場にいないとわからない生々しい話が沢山でてきます。) Ishizaka K, Ishizaka T, Hornbrook MM (1966). "Physico-chemical properties of human reaginic antibody. IV. Presence of a unique immunoglobulin as a carrier of reaginic activity". J. Immunol. 97 (1): 75-85. Ishizaka, K. Ishizaka, T. and Hornbrook, M. M. Physicochemical properties of human reaginic antibody. IV. Presence of a unique immunoglobulin as a carrier of reaginic activity. J. Immunol. 97:75 1966 Ishizaka, K. Ishizaka, T. and Hornbrook, M. M. Physicochemical properties of reaginic antibody. V. Correlation of reaginic activity with γE globulin antibody. J. Immunol. 97:840 1996 Ishizaka, K. and Ishizaka, T. Identification of γE-antibodies as a carrier of reaginic activity. J. Immunol. 99:1187 1967 Ishizaka, K., Tomioka, H. and Ishizaka, T. Mechanism of passive sensitization. I.Presence of IgE and IgG molecules on human leukocytes. J. Immunol. 105:1459 1970 Ishizaka, K. and Ishizaka, T. Immune mechanism of reversed- type reaginic hypersensitivity. J. Immunol. 103:588 1969 Ishizaka, T. and Ishizaka, K. Triggering of histamine release from rat mast cells by divalent antibodies against IgE receptors. J. Immunol., 120: 800 1978 Bennich H, Ishizaka K, Ishizaka T, Johansson SG. A comparative antigenic study of gamma E-globulin and myeloma-IgND. Bennich H, Ishizaka K, Ishizaka T, Johansson SG. 2から8まで、全てIshizaka K(石坂公成), Ishizaka T(石坂照子)の名前が入っています。現代版キュリー夫妻と呼ばれる所以です。 2016年ノーベル生理学・医学賞を予想するその1 アレルギー反応機構の解明~IgEの発見編(日本科学未来館 科学コミュニケーターブログ) 石坂 公成 先生を偲んで 冨岡玖夫・斎藤博久 共著 素晴らしい追悼文です。ぜひ、お読みください。 追記:IgEの「E」は一般的には、そしてそれが正しいのでしょうが、「アレルギーで生じる紅斑(Erythema)」のEに由来すると言われています。しかし、これは私の愚考ですが、IgEの命名者である石坂公成先生の名前「SHIGE」の一部「IGE」からの命名かもしれません。それなら、実に、素晴らしく、真に格好いいことだと思います。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/4/17 ややスギ花粉の飛散のピークは越えてきましたが、スギ花粉症でお悩みの方も多いかと思います。今回はこの「花粉症」についての話題をご紹介しようと思います。 スギ花粉症はどこで見つかったか 「スギ花粉症」ですが、一体いつからあるのでしょうか?答え:「1964年」です。 スギ花粉症はもっと古くからあったのですが、見つかったのが1963年、発表されたのが1964年です。「参考文献1.」が日本初の「スギ花粉症」を報告した論文です。論文の筆者は、当時の東京医科歯科大学耳鼻咽喉科学教室教授堀口申作先生と教室員の斎藤洋三先生です。斎藤洋三先生が、古河電工日光電気精銅所付属病院(今はありません)の耳鼻科に勤務していた時に発見したのです。当時のことは「文献2.」に詳しく書かれています。なお、論文の筆頭著者が堀口申作先生となっています。この辺りの経緯が、よくわからなかったのですが「文献3.」に斎藤洋三先生自身が「当時の教室(筆者注:医科歯科大学の耳鼻科教室のこと)の慣習で筆頭著者は教授になっている」と書かれています。これを読んではじめて、実際に「スギ花粉症」を発見したのは日光に赴任していた齋藤先生だったことがわかりました。私が凄いなと思うのは、斎藤先生が日光に赴任したのは1963-64年の、たった2年間だけだったことです。この2年で、きちんとした症例検討、研究を行い、病名まで名付けてしまったのことです。普通ならあり得ないような話です。 斎藤先生は、日光赴任前、欧米諸国では「枯草熱(hay fever)」や「花粉症(pollinosis)」として広く知られていた「花粉によるアレルギー性疾患」が日本でも見つからないかと考えていたそうです。1963年3月、たまたま日光に赴任したところ、欧米諸国で報告されている花粉症(pollinosis)に似たような症状をもつ患者さんが、日光にたくさんいることに気付いたのです。そして「花粉症」に間違いないと思われる21例の患者さんの検査を精密に行っています。この時点で、なんの花粉がこの花粉症をおこしているかは不明でした。つまり、原因物質=アレルゲンは不明だったのです。最初に行ったのは、原因と思われる花粉の同定です。斎藤先生は、日光に大量に飛散している黄色い花粉を採取し、顕微鏡で見て「文献4.」にある『日本植物の花粉』を参照して、この花粉が「スギ花粉」であるのを確かめています。この辺りが普通の人とは違いますね。このスギ花粉こそ、花粉症を起こす原因物質=アレルゲンだと推測して、多種多様な検査を行いスギ花粉が日光の“花粉症”患者さんの“アレルゲン”であることを確かめ、スギ花粉による“花粉症”を「スギ花粉症:Japanese Cedar Pollinosis」と名付けたのです。 それまで、「スギ花粉症」という病名の病気は無かったのです。隔世の感がありますね。繰り返しますが、2年間でここまで成し遂げられたのは驚異的だと思います。 さて、その診断や治療はどうすれば良いのでしょう。スギ花粉症に限って考えてみます。 花粉症の診断や治療はどうすれば良いのか まずは診断です。通常は症状と症状の発現時期から診断は容易です。スギは1月から花粉を飛ばします。その頃から症状が出ること、スギ花粉が飛ばなくなる5月上旬に症状が急速に良くなることなどで、診断は容易です。しかし、スギ花粉症の方はヒノキにもアレルギーがあることが多く、ヒノキ花粉飛散が終了する5月下旬まで、花粉症の症状が続くこともあります。スギ花粉とヒノキ花粉は似ていますので、スギ→ヒノキと連続して「花粉症」が続く場合も多いのです。採血をして診断を付けることもあります。元々スギやヒノキで花粉症を発症する方はスギやヒノキに対するIgE抗体が高値です。この値を測定すれば良いのですね(齋藤先生は、スウェーデンのファルマシア社とスギ花粉症のRAST検査キットを開発しています。この話は、次号のお話とも関連します。)。 ほかにも「パッチテスト」など、色々な診断方法があります。しかし、病歴が一番大切だと思います。 診断がついたとして、治療はどうしたらよいのでしょうか?いくつか紹介します。 1. 治療の第一は、スギ花粉が目や鼻に入らないようにすることです。 防花粉眼鏡、防花粉マスクを装着するのも良いでしょう。とはいえ、簡単では無いですね。一番手軽なのは、鼻腔(鼻の中)や眼の下にワセリンを塗布することです。ワセリンがスギ花粉を吸着し、奥まで(つまり粘膜がある箇所まで)届かないようにするのです。防花粉眼鏡、防花粉マスクとワセリンを併用すれば、かなり楽になると思います(注:スギ花粉の分子量は約4万、ワセリンの分子量は280程度です。分子量が小さい物質ほどアレルゲンとはなりにくいのです。ですからワセリンアレルギーは稀です)。 2. 「抗ヒスタミン薬」、「抗ロイコトリエン薬」、「ステロイド」 による薬物療法 鼻粘膜、目の粘膜にある肥満細胞から放出されるヒスタミン、ロイコトリエンがさまざまな症状(鼻汁、目の痒みetc.)を引き起こします。 ですから、一般的に抗ヒスタミン薬が、花粉症治療に多用されます。それでも効き目が悪いときは抗ロイコトリエン薬を併用します(抗ヒスタミン薬がなぜ効くかについては、後述します)。それでも症状が軽減しないなら、ステロイド剤を使います。ただし、ステロイド剤の長期投与は副作用が多いので注意が必要です。 3. 減感作療法 減感作療法は古くから行われていました。少量のアレルゲンを体に投与して、アレルゲンに体を慣らしてしまうのです。日本では、古来、漆職人になる人には少量の漆を子供の頃から、舌の下に入れて「減感作療法」を行っていました。経験的に少量のアレルゲン(この場合は漆です)を使えば、今、行われている減感作療法と同様な効果があることがわかっていたのですね。最初にこのことに気付いた人の記録はありませんが、凄い発見だったのだと思います。スギ花粉症の減感作療法も同様です。少量のスギ花粉を皮下注射あるいは舌下投与して減感作療法を行います。 4. 星状神経節ブロック 5. 鼻粘膜のレーザー焼灼 6. 漢方薬による治療:「小青竜湯」が有名です ほかにもさまざまな治療方法があります。 それだけ、困っている方が多いのです。花粉症の症状の出方には、(1)個人差 (2)花粉の飛散量が大きく関与するので、これを行えば、絶対に治るという治療法はありません。 花粉症治療で一番多く使われ治療薬が「抗ヒスタミン薬」です。以前、β-ブロッカーを開発したブラック先生のことをご紹介しました。 ブラック先生はβ-ブロッカーの後にH2ブロッカー(シメチジン)の開発にも成功し、この両薬の開発に対してノーベル賞を受賞しています。そのH2の“H”はヒスタミンを表します。スギ花粉が鼻や目の粘膜に到達すると、肥満細胞に付いているIgE(「免疫グロブリンE」というタンパク質)にスギ花粉が付着し、肥満細胞から「ヒスタミン」が遊離されます。このヒスタミンが、鼻汁、クシャミ、目の痒みを生じます。ヒスタミンが遊離され、体内でさまざまな反応が生じますが、ヒスタミンはレセプター(受容体)と結びついてはじめて、その効果を発揮します。 ヒスタミンレセプターには4種類あることがわかっています。 H1:平滑筋、血管内皮細胞、中枢神経系に分布します。 H2:胃壁細胞、平滑筋、リンパ球、中枢神経系に分布、特に胃壁細胞のレセプターは胃酸分泌促進作用をもたらします。ブラック先生の開発したH2ブロッカーはここに作用し、胃酸分泌を抑制します。 H3、H4、この残りの二種の両者については未だよくわかっていません。 鼻、目に多く分布するのはH1レセプターです。H1レセプターをブロックするのが、いわゆる「抗ヒスタミン薬」です。歴史的にH1レセプターの方が先に見つかり、お薬として使われていたので、H2ブロッカーは、あえて「H2ブロッカー」と記されます。 H1ブロッカーの開発者は、イタリア人薬学者のダニエル・ボベット先生(Daniel Bovet、1907 -1992)です。ボベット先生はインディオが毒矢に使っていたクラーレを麻酔薬として使えるようにしたこと(筋弛緩剤)及びクラーレの化学合成にも成功、後にアレルギーの治療薬である抗ヒスタミン薬(H1レセプターブロッカー)の開発にも成功し、1957年ノーベル医科生理学賞を受賞します。つまり、ヒスタミン関連薬ではH1ブロッカーとH2ブロッカーの2回、ノーベル賞が出ているのですね。それくらい、ヒスタミン関連薬は、体に効くと言っても良いでしょう。 上述の如く、H1レセプターは中枢神経系にも多く分布します。初期に開発された抗ヒスタミン薬は中枢神経にも作用するので、眠くなることが多いのです。今でも多くの抗ヒスタミン薬は「服用する際、車の運転は禁止」と薬局方に書かれています。私が、今多く処方するのは中枢神経系にあまり入らない(=脳血液関門(BBB)を通過する量が少ない)抗ヒスタミン薬です。中枢神経系にあまり入らない抗ヒスタミン薬は眠くならないからです。昨年も、新たに2種類の「中枢神経系にあまり入らない」タイプの抗ヒスタミン薬が使えるようになりました。眠くならず、効き目の良い薬がたくさん使えるようになると良いですね。 無花粉スギ「はるよこい」 花粉が飛ばなければ、花粉症にはなりません。今のスギ花粉症の原因は太平洋戦争後、住宅建設のために大量に植林された杉から大量の花粉を飛散させていることが原因です。農水省の発表によると“無花粉スギ”が開発され、実用に供されています。「はるよこい」という品種です。良い名前ですね。平成16年に開発されてすでに数万本が植林されています。 この「はるよこい」の発見はセレンディピティです。富山県農林水産総合技術センター森林研究所でスギ花粉の定点観測をしていたある神社の境内で、平成4年、偶然に「無花粉スギ」が見つかったのです。そして、それを改良した無花粉スギが「はるよこい」です。しかし、普及するには何十年という時間がかかりそうです。今、日本で木材として使われている杉の8割は輸入材木ですので、今、花粉を盛んに飛ばしている国内のスギは「売れない=切り倒されない」可能性が高く、切り倒されないなら「はるよこい」も植えられないのです。ですから、「はるよこい」のような無花粉スギが多用されて、スギ花粉飛散が減るまでには時間が罹りそうです。難しい話です。 図1、2ともに富山県農林水産総合技術センター森林研究所のHPからの引用です。 スギ花粉から逃れる方法として、スギ花粉が飛散する時期だけ、外国に移住するか、杉が道南以外には自生しない北海道に移住するのも一つの方法ですが、非現実的ですね。 と言うわけで、さまざまな治療法があります。治療タイミングの問題もあります。例えば、抗ヒスタミン薬は花粉が飛散する前から服用していると、とても良く効きます。花粉症で困っている方はご相談ください。 余談:日光は世界最長の杉並木で有名ですが、あの杉並木の杉は300-400年以上経った老木です。ですからスギ花粉を大量に飛散させている訳ではありません。斎藤先生が「スギ花粉症」を発見し命名したのが日光市の「花粉症」だったので日光には花粉症が多いと思われがちですが、関東各地と比して格段に多い訳ではありません。スギ自体は山村に多いのに、花粉症で苦しんでいる人は、大都市やその周辺に多いのです。その原因として、アスファルトが原因とする説(土なら花粉を吸着、アスファルトは吸着しないので舞い上がる)や排気ガス説などがあります。今でもよくわかっていないようです。 【参考文献】 堀口 申作、斎藤 洋三:「栃木県日光地方におけるスギ花粉症Japanese Cedar Pollinosisの発見」アレルギー 13(1-2), 16-18, 1964(PDF) ここから誰でも読めます。是非、お読みください。 斎藤洋三:「スギ花粉症の発見・命名」特集 アレルギーと免疫学 - 日本免疫学会 JSI雑誌 VOL.12 NO.1 2004年4月(PDF) 斎藤 洋三:7.花粉症 日本内科学会雑誌 vol.91, no.9, pp.2627-2629, 2002 『日本植物の花粉』(廣川書店)1956年 幾瀬マサ著 注:幾瀬マサは帝国女子医薬専(現・東邦大)出身の薬学者、植物学者 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/3/21 今回は、番外編です。心臓病、冠疾患治療薬のひとつが「ある皮膚疾患」を劇的に治すことの発見についてのお話です。ノーベル賞をとった「心臓のクスリ」がある種の皮膚疾患を劇的に治すことがわかったのです。これはぜひ知ってもらいたいので、番外編でお伝えしようと思います。番外といっても、冠疾患治療薬の話ですから、まったく関係無い訳ではありません。 ※本号の途中に小児の「いちご状血管腫(乳児血管腫)」の治療経過を示すための写真がありますので、ご注意ください。 以前、冠疾患治療薬でもあり、心臓病治療薬でもある「β-ブロッカー」というお薬の紹介をいたしました。まだ、お読みで無い方は先にこちらを読んでから、本稿をお読みください。その方がわかりやすいと思います。 1964年に、このお薬の合成に成功した英国の薬理学者 James W Black先生(1924-2010)は1988年にノーベル医学賞を受賞しました。それくらい、このお薬の出現で心臓病治療が1歩も2歩も進んだのです。しかし Black先生の合成した「β-ブロッカー」の「プロプラノロール」というお薬は重い副作用が出ることがあり、今ではあまり使われなくなっています。 そのプロプラノロールに、赤ちゃんの皮膚にできる「いちご状血管腫(注:乳児血管腫とも言います)」を劇的に改善する作用があることが見つかりました。「いちご状血管腫」は、日本でも、年間約8,000~18,000人の乳児が発症すると推定されています。この病気は皮膚や内臓など、さまざまな場所に異常な毛細血管が増殖することで発症します。できる場所によっては、さまざまな障害を生じます。目の周囲にできれば視力障害や失明を、鼻腔内、口腔内にできると呼吸困難や開口障害などの機能異常を生じます。軽症のいちご状血管腫なら7歳までに70%は自然治癒します。しかし、できる部位や大きさによっては、重い機能異常を生じます。このような場合は、自然経過を見るわけにはいきません。早期の治療が必要です。ステロイド投与、インターフェロン投与、レーザー治療などが行われてきました。小さな子供にこれらの治療を行うのは大変です。副作用も心配です。しかし、上述のプロプラノロールが、この病気にとても良く効くことがわかり、2016年から、日本でも使えるようになりました。その「発見」のお話が本稿の主題です。 いちご状血管腫はプロプラノロールで治るかもしれない! 上述のプロプラノロールに「いちご状血管腫」を治してしまう作用があることを世界ではじめて発見したのは、フランスのボルドー大学病院皮膚科の Christine Léauté-Labréze先生(クリスティーヌ・レオテ・ラブレーズと読みます:以下、レオテ・ラブレーズ先生と略します)です。同先生は「The New England Journal of Medicine」誌の2008年6月号にそのことを発表しています。題名は「Propranolol for Severe Hemangiomas of Infancy」です。プロプラノロールを投与したら、乳児に発症する「重症のいちご状血管腫」が劇的に治ってしまったことを報告した論文です。この発見こそ正に「セレンディピティ:偶然」です。この論文では11例の「いちご状血管腫」を持つ乳児に、プロプラノロールを投与していますが、数週間から数ヵ月でこの「いちご状血管腫」が劇的に消退、消失することを報告したのです。 皮膚科医であるレオテ・ラブレーズ先生が、なぜ心臓病治療薬のプロプラノロールに目をつけたのでしょう?この論文には、記念すべき第一例目のことが詳しく書いてあります。第一例目は、偶然、プロプラノロール投与が行われたのです。この第一例目の患児は鼻腔にイチゴ状血管腫が生じていました。鼻の中に大きな血管腫(腫瘍)ができるのですから呼吸が苦しくなります。そこで、ステロイド投与が開始されましたが、血管腫には変化が認められませんでした。しかし、偶然!この患児は「Hypertrophic obstructive cardiomyopathy(HOCM):肥大型閉塞性心筋症」という心臓病を併発したのです。先天性のHOCMの発症率は極めて低く、0.47/100,000程度です。 ここで簡単にHOCMを説明します。心臓の左側の心室(=左心室)の心筋が肥大する病気です。HOCMは大動脈弁の下にある左心室筋の一部が厚くなり(左心室内に突出します)、そしてこの突出した心筋により、左心室から大動脈に出て行く血流に障害が起きます。それがHOCMという病気です。ひどくなると、左心不全が生じ(血液が左室から出るのが傷害されるためです)、さらにひどいと突然死することもある怖い病気です。その治療に心臓手術をすることもあります。色々な治療法、手術法がありますが、初期治療にはβ-ブロッカーが使われます。β-ブロッカーは大動脈弁の下にある左室心筋の突出を弱め、左室から大動脈に、血液がスムーズに流れように作用するのです。 前述のごとく、レオテ・ラブレーズ先生が報告した第一例目の患児は、鼻腔に生じたいちご状血管腫に対し、ステロイドを投与されていました。その時、この患児が偶然HOCMを合併していることがわかり、β-ブロッカーであるプロプラノロールが投与されたのです。プロプラノロール投与後数日で、強烈な赤みを帯びていた血管腫の色が紫色になり、柔らかくなったのです。当初はステロイドが効いたと考えて、その投与は中止されました。乳児への長期にわたるステロイド治療は副作用が多いのです。しかし、ステロイド投与を止めても、血管腫はどんどんと小さくなり、14ヵ月でほとんど、消滅したのです。この間、この患児に投与されていたのはプロプラノロールだけです。レオテ・ラブレーズ先生は、はっきりとは書いていませんが、「これだ!!いちご状血管腫はプロプラノロールで治るかもしれない!」と思ったはずです。 第一例目は写真が掲載されていません。おそらくは、あまりきちんと撮影されていなかったのだと思います。いちご状血管腫を劇的に改善する治療法は無かったので、レオテ・ラブレーズ先生は、あまり写真を撮っていなかったのだと思います。しかし、プロプラノロールの効果に気付いてから治療を行った2例目は違います、詳細な写真が残されています。図1がその2例目です。この2例目の患児の血管腫は、 1. 右上肢全体にできて 2. 目を塞ぐような形状で顔面に 3. 頚部にもできて、気管や食道を圧迫するくらい大きくなります そして、レオテ・ラブレーズ先生は、この患児の心エコー所見も記しています。 「Ultrasonography showed increased cardiac output.=心拍出量が増大している」としか書いてありません。第一例目のようにβ-ブロッカー投与が必要な心臓の病気は、この2例目の患児にはありません。心臓に関してはこの記述のみです。この患児にもステロイドが、最初に投与されました。しかし、ステロイドでは改善が認められませんでした。 そこで、プロプラノロールが投与されています。 ※以下、医学的な資料として「いちご状血管腫(乳児血管腫)」の治療経過を示すための写真がありますので、ご注意ください。 4枚の写真は、この論文に載っている、イチゴ状血管腫のプロプラノロールによる治療経過を示しています(各写真左上に小さく A B C D 符号があります)。 Aは、プロプラノロールによる治療前の写真です。生後9週間の写真です。この時すでにステロイド治療が4週間なされていますが、改善は見られていません。目が塞がれています。 Bは、プロプラノロール投与7日目です。たった7日で血管腫が劇的に良くなっています。小さくなっています。目がうっすらと開いています。 Cは、プロプラノロール投与半年後です。まさに「劇的」です。 Dは、投与9ヵ月後で、この時点でプロプラノロールの投与は(必要が無いので)止められています。 “簡単には治らない”ような「重症のいちご状血管腫が、プロプラノロールで治る」可能性があることを確信したレオテ・ラブレーズ先生は、インフォームドコンセントをきちんと取って、さらに9例の「いちご状血管腫」の患児に投与しています。結果は“劇的”でした。どの症例もプロプラノロール投与24時間後に変化が現れ、どんどんと良くなっていったのです。それを2008年に発表したのです。そしてただちに世界中の病院で、「Randomized Controlled Trial」を行いました。フランス、ドイツ、アメリカ、オーストラリア、カナダ、ハンガリー、ペルー、スペイン、ニュージーランドで行われました。残念なことに日本は入っていません。 この「Randomized Controlled Trial」の目的は、 1. 本当にプロプラノロールがいちご状血管腫に効くのか? 2. 効くとしたら、どれくらいの「量」を投与すれば良いのか? 3. 投与するなら、どれくらいに期間投与すれば良いか? 以上3点について検討が行われたのです。その結果「いちご状血管腫」に対するプロプラノロールの効果は世界中の病院でも確かめられました。一日あたりのプロプラノロールの最適投与量は患児の体重1kgあたり3mgであることや最適投与期間は6ヵ月ということがこの「Trial」でわかったのです。 このプロプラノロールの新たな効果に関する特許は、レオテ・ラブレーズ先生が発明者、フランスのボルドー大学が出願人で2008年10月16日に提出されています(参考文献3)。 フランスのPierre Fabre Dermatologie社は、乳児にも飲みやすいようなシロップ剤を開発し「ヘマンジオル」と言う名前で日本でも、2016年9月から発売されています(参考文献6)。 何れにせよ、 1. 第一例目の患児がイチゴ状血管腫と心臓病のHOCMを合併したこと 2. そのHOCM治療にプロプラノロールが使われたこと 3. プロプラノロールでイチゴ状血管腫が劇的に良くなることにレオテ・ラブレーズ先生が気付いたこと(これが大事ですね) 4. 他のイチゴ状血管腫の患児にも“慎重に”使ってみたこと 5. それをきちんと論文にしたこと 6. 自分の病院だけでなく世界中の病院と共同で「Randomized Controlled Trial」を行ったこと 以上が、プロプラノロールによるイチゴ状血管腫の治療を短期間に世界中に認知させることができた要因だと思います。「あるお薬」を世界中に広める、「ある治療」を世界中に効率的にしかも安全に広めるにはどうしたらよいかという「答え」がここにあると思います。レオテ・ラブレーズ先生は、世界中の医師や患者さんの家族から大絶賛されています。当然ですね。同先生が講演している動画があります(参考文献4)。 この動画で、レオテ・ラブレーズ先生は「やらなかった やれなかった どっちかな」(相田みつを「にんげんだもの」:文化出版局)と言っています。冗談です。 長く使われているお薬は安全性、副作用などが充分に確かめられています。ですから、ある意味、とても安全だとも言えます。長く使われているお薬に新しい薬効が見つかるのは、なんとなくうれしいです(参考文献5)。 すでにある薬に新しい効果を見いだし、それを実用化することを Drug repositioning:ドラッグ・リポジショニングと言いますが、この代表例のような出来事です。 いちご状血管腫に別な新しい治療薬、治療法が出現するまで、プロプラノロールは使われるでしょう。なお、プロプラノロールには他にもさまざまな作用があることが見つかりつつあります。色々と面白い薬です。 静岡県立こども病院形成外科の木下佳保里先生が、2011年に日本で初めての「プロプラノロールによるいちご状血管腫の治療」について報告しています(参考文献7、8)。 木下先生が報告している第一例目は、レオテ・ラブレーズ先生の論文に載っている二番目の症例と似た経過をたどっています。右眼を塞いでいたイチゴ状血管腫は、プロプラノロール投与後3日で小さくなり、眼が開けられるようになっているのです。右眼が塞がれたまま経過すると、右眼が失明するかもしれない、そういう状態がたったの3日で無くなり、その後もどんどんと良くなっています。この患児の親にしてみれば、レオテ・ラブレーズ先生、木下先生は「神様」に思えたはずです。 前述のごとく、2016年からこの薬はいちご状血管腫に投与可能になっていますが、日本小児耳鼻咽喉科学会、日本小児血液・がん学会からの「未承認薬・適応外薬の要望」が早期から厚労省に提出されていたからです。こういう「要望」をきちんとした学会も偉いですね(参考文献8、9)。 さて、プロプラノロールという心臓病治療薬がなぜ「いちご状血管腫を小さくする」作用を持っているのでしょう?今のところ、正確な作用機序は不明です。いちご状血管腫を形作る異常血管の中にもβ-ブロッカーに対する受容体があるので、おそらくここに作用するのだろうと言われています。 なお、このイチゴ状血管腫に対するプロプラノロール治療ですが、「著効する」のは増殖期(生後数週間~20ヵ月頃まで)と推定されています。時期を誤らず、適切に使用することが必要です。 この治療を受けるためには、数日の入院が必要です。喘息発作などの副作用が出ないかどうかを監視するためです。都内にも、いくつか、この治療のために入院できる病院があります。何かありましたら、いつでもご紹介できますので、ご相談ください。 追記:プロプラノロールは副作用が多いため、心臓病治療薬としてはあまり使われないということをお伝えしました。今、いちご状血管腫の治療に、副作用が少ないタイプのβ-ブロッカーを用いた治療報告がいくつか出ています。数年で、また標準治療が変わるかも知れないですね(参考文献10)。 たとえ、プロプラノロールが使われなくなったとしても、β-ブロッカーに「いちご状血管腫を治す作用があることを発見した」レオテ・ラブレーズ先生の功績は消えません。 【参考文献】 Propranolol for Severe Hemangiomas of Infancy: N Engl J Med 2008; 358:2649-2651 A randomized, controlled trial of oral propranolol in infantile hemangioma. NEngl J Med. 2015 Feb 19;372(8):735-46. (1も2もLéauté-Labréze レオテ・ラブレーズ先生が筆頭著者です。) http://www.google.com/patents/US20130131181 この薬効に関する特許です。 レオテ・ラブレーズ先生が講演している動画 旧い薬に、新しい薬効を付加する意義についての論考です。 http://www.cebm.net/old-drugs-new-indications/ 日本でも2016年7月4日に乳児血管腫治療剤「ヘマンジオル®シロップ小児用0.375%」として、マルホ株式会社から発売されています。 https://www.maruho.co.jp/medical/hemangiol/ 血管腫に対するプロプラノロール(β-ブロッカー)内服療法について 木下 佳保里, 朴 修三, 木村 眞之介 [他] 形成外科 54(6), 669-676, 2011-06 苺状血管腫に対するプロプラノロール(β-ブロッカー)内服療法 (特集 血管腫・血管奇形の治療戦略) 木下 佳保里 , 朴 修三 形成外科 55(11), 1197-1204, 2012-11 未承認薬・適応外薬の要望 (1)日本小児耳鼻咽喉科学会からの要望(PDF) (2)日本小児血液・がん学会からの要望(PDF) Atenolol versus propranolol for the treatment of infantile hemangiomas: a randomized controlled study. J Am Acad Dermatol. 2014 Jun;70(6):1045-9. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/3/6 このページには、医学的な資料として「心臓手術時の写真」がありますので、ご注意ください。 ファバロロ先生の栄光と“悲劇” 前回、アルゼンチン人のファバロロ先生が冠動脈バイパス術の創始者であることを紹介しました。今回は、同先生の栄光と悲劇のお話です。 ファバロロ先生は、アルゼンチンで医学部を卒業後、地域医療に貢献するため、田舎で開業し「農村医」として働いていましたが、心臓病に興味を持ち、一念発起して、米国のクリーブランドクリニックに留学を果たすのです。留学したのが39歳、1962年のことです。心臓外科医としてクリーブランドクリニックで働き始めます。そこで ソーンズ(F. Mason Sones, Jr:1918-1985)先生と出会い彼の人生は変わります。 ソーンズ先生はクリーブランドクリニックの循環器内科医です。世界で初めて、選択的冠動脈造影を行い、冠動脈造影法を世界に広めたことで有名です。実はこの冠動脈造影をソーンズ先生が始めたのも「serendipity」なのです。またか!です。1958年10月、ソーンズ先生が大動脈造影を行おうと大動脈に留置した(と思った)カテーテルが、誤って冠動脈に入ってしまったのです。冠動脈に入っていたことに気づかずに造影剤を注入して得られたのが下の図2で、世界で最初に撮られた選択的冠動脈造影の画像です。 図2:世界で初めての冠動脈造影写真 この出来事が起きるまで、造影剤を冠動脈に注入することは禁忌とされていました。なぜかと言うと、造影剤を冠動脈に流すことは「一時的に冠動脈に血液が流れなくなること」を意味します。一時的にでも冠動脈に血液が流れなくなると、心臓は停止すると思われていたのです。しかし、ソーンズ先生が行った造影で心臓は一瞬、止まっただけでした。 ソーンズ先生はこの後、造影剤や造影剤の注入量などを工夫して冠動脈造影が安全にできる方法を確立しました。偉大な業績です。この方法は ソーンズ法として世界中に広まり、クリーブランドクリニックの名を世界に知らしめます。そういう時期にクリーブランドクリニックに留学したのがファバロロ先生です。ソーンズ先生と出会い、冠動脈バイパス術を考え出したのです。留学して5年、1967年に冠動脈バイパス術を開始し、前回紹介した冠動脈バイパス術の論文を発表し、世界中の外科医を驚かせました。 私は、ちょっとだけ気になることがあります。普通、こういう論文は一人では発表しません。手術は一人だけではできないので、この手術に貢献のあった医師と共著とするのが普通です。しかし、この論文の著者は ファバロロ先生一人です。上司の外科医や同僚外科医の名前はありません。普通は、あり得ない話です。 冠動脈バイパス術を創始してから3年後の1971年、彼はアルゼンチンに凱旋帰国し、クリーブランドクリニックに似た研究所「Fundación Favaloro」を、クリーブランドクリニックの支援を得て、設立します。そこで、心臓病の研究や医師の教育を行います。1992年に「Favaloro Foundation Institute of Cardiology and Cardiovascular Surgery」が設立され、1998年には「Universidad Favaloro (ファバロロ大学)」まで設立されます。 余談ですが、ファバロロ先生は、心臓血管外科関係の著書はもちろん多いのですが、アルゼンチンをスペインから独立させるために活躍した「ホセ・デ・サン・マルティン」に関する本を2冊も書いています。よほど、歴史が好きで、勉強が好きだったのだと思います。そういう幸せな人生を送っていた彼の人生が一転します。2000年アルゼンチンは経済危機に陥り、なんとファバロロ先生は破産してしまったのです。巨額の負債を抱えたファバロロ先生は、思い詰めてしまい自身の心臓をピストルで撃って自裁します。これが、「アルゼンチンの英雄 Favaloroの悲劇」です。 彼を救済する方法は無かったのでしょうか?アルゼンチンがダメでも周辺諸国やアメリカが彼に救済の手を差し伸べることができなかったのかと思うと胸が痛くなるような思いがします。 冠動脈バイパス術の実際と余談 ここからは、冠動脈バイパス術の実際や余談を具体的な資料などでご紹介いたします。 余話1 手術にあたったチームのカンファレンスに使った手術の模式図です。手術の設計図と言っても良いです。皆さんにはなんだかよく解らないでしょう。この患者さんには3箇所、身体のほかのところから持ってきた血管を代用してバイパスをつなぎました。「SVG(大伏在静脈:下肢の静脈)」は saphenous veinのこと、「LITA」は左内胸動脈のことです。 図3:手術模式図 余話2 図4:超音波血流計 これは、冠動脈バイパスを作成後、バイパスに血流が流れているかどうかを手術中に測定した記録です。青い部分が血流を示します。この事例は、良く流れています。もし、青い部分があまり現れないとバイパスを再度つなぎ直すことが必要になります。 余話3 下の写真は、冠動脈バイパス術後の造影です。すでに手術から数日経った退院前の造影検査です。我々心臓外科医にとっては、循環器内科医師の先生からの「試験」を受けているようなモノです。ここで良い評価が得られないと、内科からの手術適用患者の紹介が途絶えることになります。 目安となる一つは、「グラフト開存率」です。バイパスに用いた代用の血管を「グラフト」と言い、術後にグラフトが狭窄や閉塞を起こさずに機能し続ける割合を言います。毎年、年末にこのグラフト開存率を計算します。これが落ちてきたら、その術医には患者さんが紹介されなくなります。手術死亡率とグラフトか依存率が冠動脈外科医の生命線です。 私のグラフト開存率は最後まで 95%以上だったので、心臓外科医としては良しとしていただきましょう。 図5:橈骨動脈をグラフトとして左前下行枝に吻合した例 図6:右胃大望動脈をグラフトとして右冠動脈に吻合した例 図7:一本の大伏在静脈をグラフトとして使い、3箇所に分けて吻合した例 この術式は「sequential bypass (シークエンシャルバイパス)」と言います。 非常に難度が高いです。 以下、医学的な資料として「心臓手術時の写真」がありますので、ご注意ください。 この時は、グラフトに足の大伏在静脈(saphenous vein)を用いました。グラフトと冠動脈を糸で吻合しているところです。下の写真は、その拡大です。糸の太さは0.05mmです。見えないかもしれませんね。 図8-1 図8-2:拡大図 余話4 私は心臓外科医として、多くの患者さんにこの手術を行ってきましたが、この手術の際に使われる特殊メス(ナイフ)を開発するお手伝いをする機会に恵まれ、私の考えになるメスが、日米欧の特許をとるという望外の幸せに恵まれました。製品化もされ、日本だけでなく海外でもこのメス(ナイフ)が使われるようになりました。外科医として、こんなに嬉しいことはありません。 そのメス(ナイフ)のカタログです。 http://www.mani.co.jp/pdf/surgery_06.pdf 人生、行き詰まったらバイパスだ!! さて、最後になります。私が冠動脈バイパス術を行ったある患者さんの、感動的な「話」をご紹介したいと思います。 数年前、小学校の元校長先生だった患者さんに冠動脈バイパス術を行いました。術後の経過は良好で、今は「命の電話のボランティア」をなさっており、「命の大切さを伝える」講演もなさっています。その講演でご自身が経験した冠動脈バイパス術の話をされたそうです。要旨は、 ・人生には、つらいことや行き詰まることがある ・私は心筋梗塞になり死にそうになったけれど、冠動脈バイパス術を受けて助かった ・バイパスという別な道を作ってもらい、私は生き延びたのだ ・だから、あなた方も人生行き詰まったと感じても、バイパス術のように別の道を模索して頑張れ! というお話をしたそうです。この話は、その講演にたまたま出席していた、私と同じ病院に勤務していた、看護師さんから聞きました。私はそれまで心臓外科医として多くの冠動脈バイパス手術を行いましたが、この元校長先生のように「バイパス術」を「人生の生き方になぞらえて」考えたことが無かったので、ちょっと感動してしまいました。医者冥利に尽きます。 今、仕事や人生で行き詰まったと感じたり、悩んでいる方はいませんか?「ダメだ」と思い詰め諦めてしまう前に、ちょっと別の道(バイパス)を探してみませんか?乗り越えられるかもしれません。 冠動脈バイパス術の話は続きます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/2/20 マラドーナと同じくらい愛されているファバロロ先生 アルゼンチンの英雄と言えば、サッカーのマラドーナでしょう。その、マラドーナと並び称されるくらいアルゼンチンで、尊敬されている医師がいます。それはアルゼンチン出身の心臓外科医ファバロロ(René Gerónimo Favaloro:1923-2000)先生です。 20年以上前の話です。赤坂にあったアルゼンチン料理屋さんで、食事をとっていたときのことです。周りには、多くのアルゼンチン人がいて、酔っ払いながら大声で「マラドーナの歌」を合唱していました。その人達に「ファバロロっていうアルゼンチン人の医者を知っているか?」と聞いたら、全員が知っていました。なんで、お前は知っているんだと聞かれたので、私は心臓外科医でファバロロ先生のことは、深く尊敬していると伝えました。それからは「マラドーナ」の代わりに「ファバロロ」の名の連呼で大騒ぎでした。ファバロロ先生は、マラドーナと同じくらい、一般のアルゼンチン人にも愛されているんだなあと思いました。なぜ、ファバロロ先生が英雄か、お話ししましょう。 狭い冠動脈の先に別の道を作ってあげる「冠動脈バイパス術」 冠動脈疾患の外科手術の代表は冠動脈バイパス術です。今上天皇陛下が、この手術を受けられたことで、一躍有名になりました。この手術の創始者がファバロロ先生なのです。 心臓を栄養する冠動脈は3本あります。本流から支流へと細かく枝分かれします。そして、それぞれの枝には番号が付いています。 #1 #2 #3 #4PD #4AV #5 #6 #7 #8 #9 #10 #11 #12 #13 #14 と記します。住所番地のようなモノで、世界共通の番号です。冠動脈を造影して、どの冠動脈が、どれくらい狭くなっているかを調べて、冠動脈の状態を記載します。 例えば、「#5 90%」と記載されていたら、それは、「左冠動脈主幹部という場所に90%の冠動脈狭窄がある」ことを示しています。90%狭窄とは、本来あるべき血管が90%閉塞していることを示します。狭窄している血管の場所と狭窄箇所、狭窄程度で治療は決まります。 狭窄している冠動脈が「危ない」状態で無ければ、お薬での治療が優先されます。「危ない状態」とは、狭窄している血管が、もし閉塞したら「死亡」する可能性があるという意味だと考えてください。冠動脈が「危ない」状態であると判断されたら、次に行うのは、カテーテル治療または冠動脈バイパス術です。冠動脈が 1. 主要な冠動脈の根元にある血管が狭窄している場合 2. 多数の冠動脈に狭窄がある場合 3. 危険な側副血行路(「jeopardized collateral」と称します)を持つ場合 などの状態だと判断された場合は、冠動脈バイパス術が推奨されてきました。 冠動脈が完全に詰まると心筋梗塞を生じます。心筋梗塞を生じるとその部位の心筋は機能しないことになり、その範囲が広いと心不全になります。ある種の弁膜症が生じることもあります。死に至るような不整脈を生じることもあります。 そのような怖い状態が生じないようにする手術がいくつか考案されました。最初に「狭窄した冠動脈部分を別な血管に置き換えたらどうか?」と考えたのがアメリカ人のMurray医師でした。1953年のことです。しかし、この方法は普及しませんでした。血管が細すぎて交換した血管がほとんど閉塞してしまったからです。 そこで、「狭くなっている冠動脈はそのままにして、その先に別の道を作ろう」と考えたのがアルゼンチン出身で、アメリカのクリーブランドクリニックに留学していたファバロロ先生です。1968年、ファバロロは医学の歴史に残る論文を著します。それは 「Saphenous vein autograft replacement of severe segmental coronary artery occlusion: operative technique. Ann Thorac Surg. 1968 Apr;5(4):334-9.」 という論文です。 この論文でファバロロ医師は下肢にある大伏在静脈(saphenous vein)を用いて冠動脈バイパス術を180人の患者さんに施行したことを報告しています。実は、同じ手術を、ファバロロ先生以外にも、思いついた先生がいて、ファバロロ先生よりも以前にこの手術を行っています。色々な文献を調べると冠動脈バイパス術を行ったのはファバロロ先生が3番目です。しかし、180人という多数症例にこのバイパス手術を行って、きちんと論文にしたのはファバロロ先生が最初です。以前にも書きましたが、思いついたこと、新しい発見は、論文にして早期に発表することが大切です。後から「実は俺たちの方が同じことを先にやっていた」と論文に書いても、どうしようも無いのです。そういうわけで冠動脈バイパス術の創始者はファバロロ先生ということになっています。 医学の歴史に残る偉大な業績です。それゆえに、アルゼンチンでは、マラドーナと並び称されるくらいの「英雄」だったのです。 ここで、冠動脈バイパス術の説明をしましょう。冠動脈バイパス術は、狭い冠動脈の先に別の道を作ってあげることです。道路によくある「○○バイパス」とコンセプトは一緒です。本来の冠動脈が狭くなっている、或いは完全に流れなくなっているので別の道(バイパス)を作りましょうということです。私は、実は、この手術がしたくて心臓外科医になったのです。30代半ばに何とかこの手術が、出来るようになりました。1年間で180人の患者さんに、この手術を行った年もありました。来る日も来る日も、バイパス術を行っていました。しかし、その後、カテーテルによる冠疾患治療が普及するようになると、冠動脈バイパス術の件数は激減します。医学の進歩は素晴らしいことですが、ちょっと哀しさを感じた私です。 今でもこの手術は冠動脈の外科的治療の基本術式です。この手術について、色々とお目にかけようと思います。図1は、冠動脈バイパス術の模式図です。狭いところの先にバイパスを作っているのがおわかりになりますでしょうか? 図1:冠動脈バイパス術の模式図(心疾患の診断と手術:南江堂 新井達太著より引用) 一見すると、簡単な手術と思われるかも知れません。しかし、「言うは易く、行うは難し」です。なぜ「難しい」かと言うと、冠動脈は直径が1-3mmしかないからです。昔は、そういう所に血管を吻合する技術が無かったのです。吻合する技術(糸、吻合方法など)を確立し、広く使えるようにしたのが、ファバロロ先生なのです。次回に続きます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2017/1/23 ワルファリンの効果を減弱させる「納豆」 「ワルファリン」の人間への応用は偶然に始まりました。1951年、米国の軍隊に徴用された男性がこの殺鼠剤である 「ワルファリン」を飲んで自殺を試みましたが、上手く行きませんでした。ワルファリンを飲んでも死ねなかったのです。これは自殺しようとした当人にとっても、そして大げさに言えば人類にとっても幸いなことでした。殺鼠剤として用いられる「ワルファリン」を「適切に使用」すれば、血液を凝固しないような状態に保ち、かつ死に至るような出血も生じないようにコントロールができることがわかったのです。これも、ある意味、偶然の出来事が発端です。 ここから「ワルファリン」の人への応用研究が始まり、人工弁が移植された患者さんへの投与(人工弁への血栓付着防止)、心房細動による心臓内血栓形成予防効果などに効果があることがわかり、ワルファリンは広く使われるようになりました。 「ワルファリン」の作用は食生活や体格に影響されますので、1ヵ月に1回は採血をしてPT-INRという検査を行い、効き目を確かめる必要があります(前回の“適切”とはこのことを指します)。 ワルファリンの効果を減弱させる食物がいくつかあります。その代表は「納豆」です。納豆は健康に良いのですが、「ワルファリン」を服用している方が納豆を食べると「ワルファリン」の効果が落ちてしまうのです。これを発見したのは東京医大八王子医療センター心臓外科の工藤龍彦先生です。この発見も『セレンディピティ』です。 工藤先生がワルファリンを投与していた患者さんに、重い血栓症(けっせんしょう)を発病する方が続いたのです。血栓症は、本来、きちんとワルファリンを服用していれば発症しない病気です。おかしいと考えた工藤先生は、患者さんが食べていた食事を調べました(その経緯について、工藤先生自身がお書きになった論考を見つけたので、本文の最後に添付しました。ご参照ください)。納豆が原因で、ワルファリンが「効かなくなっていた」のです。納豆自体に、ビタミンKは少ないのですが、食べた納豆菌が体の中で「ビタミンK」を作るのです。この「ビタミンK」がワルファリンの作用を阻害します。納豆により「ワルファリン」が効かなくなる機序を発見したのです。とても素晴らしい研究です。ビタミンKはあまり含まれていないけれど、体内で「ビタミンK」を作る食物は、ほかには、今のところ見つかっていません。 とにかく納豆を食べるとワルファリンが効かなくなることがわかったおかげで助かった方はたくさんいると思います。私の患者さんのなかには「死んでも良いから納豆を食べたい」と言う患者さんがいました。「納豆と命のやりとりをするのは馬鹿馬鹿しいだろう」と説得し、何とか納得してくれた思い出があります。 スイートクローバーから「ワルファリン」を発見したカール・ポール・リンクは1978年に亡くなっているので、この「納豆」と「ワルファリン」の関係を知ることは無かったのですが、知ったらびっくりしたと思います。 時々テレビで海外の方に「くさい」納豆を食べさせてみる番組をやっています。番組スタッフはこういう事実を知って番組を作っているのか心配になります。安易に納豆を食べさせて、もしそのなかに「ワルファリン」を服用している方がいたら大変なことになりかねません。納豆のほかにも「ワルファリン」の効力を減弱させる食材、飲料水があります。ワルファリン服用中の方は主治医とよく相談することが必要です。 2011年、50年ぶりに新しい抗凝固薬が発売 「ワルファリン」は、非常に良い薬です。世界中でたくさん使われていますが、上述のごとく食べ物に影響されたり、体格に影響されたりもします。ある種のお薬にも、影響を受けます。そのため、効果を確かめる採血検査が必要だとお話しました。それが面倒だと思われる患者さんも多いのです。 2011年、50年ぶりに新しい抗凝固薬が発売されました。現在、ワルファリン以外の抗凝固剤で使用できるのは、 1.「ダビガトランエテキシラート(プラザキサ®)」:第Ⅱa因子(トロンビン)を阻害 2. 因子Ⅹaと拮抗するお薬で「リバーロキサバン(イグザレルト®)」:第Ⅹa因子を阻害 3.「アピキサバン(エリキュース®)」:第Ⅹa因子を阻害 4.「エドキサバントシル(リクシアナ®)」:第Ⅹ因子を阻害 です。しかし、これらのお薬にはワルファリンを投与する際に必要な、採血検査や食事制限がありません。夢のような薬です。しかし、値段が高いのです。 現時点では、ワルファリンとかなり値段の差があるため、費用のことを患者さんと相談しながら使わければいけません。将来的には値段も下がり、多くの患者さんに使われるようになることと思います。そうなると「ワルファリン」は、上記1-4の薬では効かない、(1)金属性人工弁が入っている患者さんと(2)弁膜症を持っている心房細動の患者さんなどにしか使われなくなることと思います。 不整脈を感じる、動悸を感じることがあったら、是非、検査を受けてください。 注:「ワルファリンの作用が食した納豆により障害される“機序”を発見した経緯」を工藤先生自身が書いた文章を見つけました。挙げておきます。是非、お読みください。南江堂 胸部外科1977年 からの引用です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2016/12/26 このページには、医学的な資料として「心臓手術時の画像」がありますので、ご注意ください。 凝固系に作用するお薬「ワルファリン」 冠動脈疾患シリーズ(8)(10)は抗血小板作用を持つ様々なお薬についてお話しました。今回は凝固因子による血液凝固(けつえきぎょうこ:血液が固まること)を阻害するお薬について説明したいと思います。 すり傷や切り傷を負ったとき、血が出ます。これを出血といいます。よほど大きな傷でなければ次第に出血は止まります。これを止血とか血液凝固と言います。要するに血液は凝固(固まること)して血が止まるのですね。 血液凝固には(8)(10)でお伝えした「血小板」と「凝固因子」の2系統がはたらくことで機能します。この機能が障害されると、血が止まりませんので、非常に怖いことになります。 凝固因子は12個あります。これらの因子が身体の中で作られない血友病という病気があります。血友病Aと血友病Bがあります。Aは第Ⅷ因子欠乏、Bは第Ⅸ因子欠乏です。Ⅸは「クリスマス因子」とも呼ばれます。「クリスマスさん」という患者さんの名前から名付けられたのです。そのため、血友病Bはクリスマス病とも言います。なお、この論文が掲載されたのはBritish Medical Journalのクリスマス号です(注:参照)。 血液製剤でこれらの因子を補わないと死に至る出血を生じます。いわゆる「薬害エイズ事件」は、血友病治療のために投与された血液製剤の中にHIVウイルスに感染した血液より作られた血液製剤が混ざっており、それを使ってエイズが感染したのが問題になった事件でした。 学生の頃、この12個もある因子を覚えるのは結構大変でした。Ⅵ番が欠番で、番号はⅠからⅩⅢまであったりと…(初めて勉強していた頃が懐かしいです。ⅩⅡは「ハーゲマン因子」でこれだけはすぐに覚えました。) この凝固因子のうち、Ⅱ、Ⅶ、Ⅸ、Ⅹ番が作用するためにはビタミンKが必須です。このビタミンKに拮抗する作用(ビタミンKの作用を減弱させる作用)を持つのが「ワルファリン」でした。(「ワーファリン®」とよく言われますが、これは商品名です。今回は、一般名である「ワルファリン」を使います。) つい最近まで、凝固系に作用するお薬は「ワルファリン」しかありませんでした。「ワルファリン」は古い薬ですがとても良く効きます。ただし、抗血小板薬のように狭心症や心筋梗塞の予防にはなりません。 では、どういうときに使うかというと、心筋梗塞をおこすと心筋の動きが悪くなり、そういう箇所は血液が滞留するので血栓ができやすくなります。その血栓形成予防に使います。また心房細動を生じるときにも高率で心臓内に血栓ができやすくなります(正常な脈の状態に比して、10数倍危険率が高くなります)が、ワルファリンを適切に服用すれば、血栓ができる率は劇的に減少します(適切の意味は次回お伝えします)。 以下、医学的な資料として、「検査画像」、「摘出時の手術画」、「摘出した血栓画」がありますので、ご注意ください。 図1は、心臓の中(左心室)にある血栓(血のかたまり)です。この血栓が心臓の中から出て「頭の血管」をはじめとする「重要な動脈」に詰まると「動脈塞栓症」を生じます。それを予防するために、図2のごとく、手術をして、左室を切開して「血栓」を取り去る必要があります。ワルファリンはこういう血栓ができるのを予防してくれます。 図1:心臓エコーの画像: 心筋梗塞後で動きが悪くなった心筋に付着した血栓を示します。 左心室内に丸い心臓内血栓が見えるのがおわかりになりますでしょうか? 図2:この血栓を取り除く手術の画像です: ピンセットの先にあり赤黒く見えているのが図1の血栓です。 図3:取り出した血栓: これが血流に乗って頭に飛ぶと脳梗塞を起こします。 「ワルファリン」にまつわる発見は面白いのでちょっと詳しく書きますので、おつきあいください。 牛が死亡するほど出血する原因は? ときは1920年代の北米の話です。当時、牛の餌にするためヨーロッパから輸入したスイートクローバーという干草を使い始めていました。スイートと言うくらいですから甘い干し草で、牛たちも好んで食べていたそうです。 あるとき、冬に備えてサイロに保存していたたスイートクローバーを食べた牛が次々に、死んでしまいました。解剖すると体中に出血を生じていました。餌を別の飼料に変えると、そういうことは起きませんでした。 1933年2月ウィスコンシン州の農夫エド・カールソン(Ed Carlson)は、自分が飼っている牛がスイートクローバーを食べては次々に死んでしまうので困ってしまい、「死んだ牛」と「食べたスイートクローバー」と「固まらない血液」を300kmも離れた獣医師がいるウィスコンシン農事試験場に持ち込もうとします。しかし、生憎、この日は猛吹雪で、週末だったこともあり獣医師がいる事務所は閉まっていいたのです。たまたま、その近くにあった化学事務所が開いていて、そこへ牛やクローバーや血液を持ち込むことになってしまいました。それが、人類にとってとてもラッキーなことだったのです。またかといわれますが、そう、『セレンディピティ!』です。 この化学事務所に居たのは「カール・ポール・リンク」という熱心な化学者でした。彼は途方に暮れている農夫カールソンに自分が何もしてあげられず、とても気の毒に思ったのです。それで「牛が出血する」、それも「死亡するほど出血する」事と、「スイートクローバー」との関係を解明してあげようと思い立ったのです。名前にスイートと付くくらい甘いクローバー(草)です。まずここから調べ始めてみると、その甘さの原因物質はクローバーに含まれる「クマリン(coumarin)」という物質でした。 「カール・ポール・リンク」はそこから研究すること7年!ついに“スイートクローバーが発酵すると「クマリン」が「ジクマロール(Dicoumarol)」という物質に変化すること”を発見します。そして「ジクマロール」がビタミンKに拮抗して、血液中のⅡ、Ⅶ、Ⅸ、Ⅹ番の凝固因子の作用を減弱させて、体内出血を引き起こすことを解明したのです。雪の日に農夫が農事試験場に来なければ、そしてかたわらの化学事務所が開いてなければ、そしてそこに熱心な化学者リンクがいなければ、この偉大な発見は無かったかもしれません。 「ジクマロール(Dicoumarol)」は当初、殺鼠剤として使われます。ネズミに「ジグマロール」から合成した物質を食べさせると腹腔内で出血をおこして、ネズミは死んでしまうのです。 この物質は「ワルファリン(ワーファリン®)」と名付けられます。英文名は "Warfarin" です。" Wisconsin Alumni Research Foundation(ウイスコンシン大学研究基金同窓会)" に由来します。残りの " rin " はクマリン(coumarin)の " rin " からきています。武器を意味する " warfare " をかけていると思います。この同窓会が「ワルファリン」の特許を持っていたのですね。莫大な資金をこの特許から得ました。「ワルファリン」は今でも殺鼠剤として使われていますが、最近、「ワルファリン」を食べても死なないネズミが出現し、スーパーラットと称されています。ネズミも進化するのです。 次回に続きます。 注:British Medical Journal1952年、クリスマス特別号に載ったクリスマス病に関する論文です。 「Christmas disease: a condition previously mistaken for hemophilia. Br Med J. 1952 Dec 27;2:1378-82. 著者:BIGGS R et al.」 British Medical Journal.は毎年クリスマス特別号を出します。この特別号には、珍しい症例、毛色の変わった研究の論文を載せています。しかし、クリスマス病に関するこの論文はクリスマス号特有の“少し変わった”論文ではありません。たまたま、クリスマス号に載ったことになっていますが、当時のBritish Medical Journalの編集者が「狙った」のではないかと愚考します。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2016/12/12 世界で分かれるBCG接種の対応 前回、BCGの話をいたしました。おさらいをするとBCGは、Bacille de Calmette et Guérin の略で日本語にすると「カルメット・ゲラン桿菌」です。いま、日本で使われているBCG菌は今から90年前、志賀潔がパリから持ってきた菌です。日本では、以前はツベルクリン反応が陰性だと「結核予防」のためにBCG接種を行っていました。2005年からは、生後6ヵ月までにツベルクリン反応を行わずに接種します。実は、世界ではBCG接種の対応が分かれています。 (1)日本のように一律に年齢で接種する国は、フランス、ロシア など (2)ハイリスク群にのみに接種する国は、ドイツ、オランダ など (3)接種を行わない国は、アメリカ など に分かれます。そこで問題が生じます。 日本人ですと普通はBCGを打っているので、アメリカの地でツベルクリン反応を行うと陽性になります。そうするとアメリカでは、かなり厳密な結核検査が要求されます。いくらBCGを打ったと言っても結核感染を疑われてダメなのだそうです。なんということでしょう。 私が何故、BCGに詳しくなったか さて、今回は私が何故、BCGに詳しくなったかをご説明しましょう。 色々な医学の雑誌があります。そういう雑誌に論文を載せるには「査読」が必要になります。医学雑誌にある「論文」を投稿しても全てが掲載されるわけではありません。その論文が、その雑誌に掲載に値するかどうかを判断する必要があります。通常数名の担当者(査読委員)が応募してきた論文を読み、その論文が応募した雑誌に載る価値があるかどうかの判定をします。それが「査読:peer review、ピア・レビュー」という作業です。 私も以前、各種雑誌の「査読委員」をやっていました。ある雑誌から、「膀胱腫瘍に対するBCG療法後に生じた心臓血管疾患に対する外科治療経験」という論文の査読依頼がきました。私は泌尿器科医では無いので「膀胱腫瘍に対するBCG療法」を知りませんでした。査読をするため、膀胱腫瘍に対するBCG関連の論文をたくさん読んで勉強しました。 100年以上前から結核患者さんに癌が少ない事が解っており、1930年代に既にBCGを用いたがん治療の報告がありましたが、効果は、はっきりとしませんでした。しかし、1976年、カナダのモラレス医師が膀胱癌に対して、BCGの膀胱内注入療法を考案し、実際に患者さんに使い始めました。抗癌剤としての効果も高く、世界的にも広まり、今では「ある種の膀胱癌の標準治療」になっています。 この治療の極めて稀な副作用として「心臓や血管に病気を引き起こすことがある」と、この論文査読のために勉強して、始めて知りました。 具体的には膀胱内に注入したBCGが 1.血流を介して全身に運ばれて動脈壁に付着して動脈を壊す「感染性動脈瘤」、2.BCGが心臓の弁膜に付着して弁膜を壊す「BCG感染性心内膜炎」という病気が生じることがあるのだそうです。その時点でも10数例しか世界で報告がありません。そのとても稀な「BCG菌により引き起こされた心臓血管疾患」をきちんと診断して、外科治療にも成功したという要旨の論文でした。 査読をするのは結構大変なのですが、新しいこと、知らないことを勉強するのは楽しいことなので結構楽しみながら、査読作業を行いました。 それから約1ヵ月後のことです。私が勤務していた病院に「原因菌不明の僧帽弁位感染性心内膜炎」の患者さんが紹介されました。心臓エコー検査をすると、心臓の中にある僧帽弁という弁膜が破壊され、ばい菌の塊(vegetationと言います)が僧帽弁について「ふらふら」しているのが、見えました。この患者さんには僧帽弁置換術(ばい菌によって破壊された僧帽弁を人工弁に交換)か僧帽弁形成術が必要です。しかしこの病気を引き起こしている細菌(起炎菌といいます)がわからないと、効率の良い抗生物質投与ができません。起炎菌がわからないと、手術をしても、再発することがあります。ですから何とか起炎菌を探るために、血液培養が繰り返されていました。起炎菌はわからないまま、私が勤務していた病院に、手術を目的として紹介されてきました。 手術が必要だということで入院中の患者さんに色々と話を伺いました。手術をする前には、よくよく話を聞くことが必要です。よく話を聞くと、色々なことがわかるのです。 いつも通り、色々と、お話を伺っていたら、心臓病を発症する前に「膀胱癌で治療を受けていた。その治療後に熱が出た。それから心臓が悪いと言われた。膀胱癌はほぼ治っていると言われている」と話してくれました。 もしや?まさか?その治療にBCGを使ったのではないか?と思い、膀胱がん治療を行った病院に問い合わせました。「当たり」でした。この患者さんはBCGによる膀胱癌治療後でした。BCGがこの患者さんに生じている感染性心内膜炎の原因菌であることが予想されました。それを証明するには極めて特殊な血液培養検査が必要です。通常では行わない検査です。BCGが起炎菌なら普通の血液培養検査をくりかえし行っても、絶対に検出されません。BCGを検出するための特殊血液培養検査を行ったら、すぐに血液からBCGが検出されました。ただちに結核治療に準じた治療を開始して、無事手術(僧帽弁置換術:そうぼうべんちかんじゅつ)を終え、患者さんは元気に退院しました。内科の先生から「この病気の起炎菌が解ったのは凄い」と誉められました。 これも「偶然=セレンディピティ」です。私が上記の論文を査読していなければ恐らく何も解らないまま手術をして、手術後にBCG感染が続き、悲劇的結果を生じていたかもしれません。それを思うと「偶然=セレンディピティ」の恐ろしさを感じます。私にもまだ、訳がわからないけど「カミサマ」が付いていたのだと勝手に思っています。今風なら「神っていた」のだと思っています。それはともかく、そういう訳で、私はやけにBCGに詳しい外科医になったのです。 補足: 膀胱癌の抗癌剤治療に用いられたBCGは志賀潔がパリのパスツール研究所から持ってきた菌を大事に継代培養したBCG菌です。各国でBCG菌を継代培養していますが、日本のBCG菌はカルメット・ゲランの培養法に沿った方法で行われており、初代BCG菌と殆ど変わらないと言われいています。 泉下の志賀潔先生も、まさか、自分がパリから持ってきたBCG菌が膀胱がん治療に使われ、そしてその副作用で弁膜症を生じるなど思ってみなかったと思います。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2016/11/28 「人間(じんかん)到る処“バイキン”あり」ただし例外もあり また感染のお話に戻します。お付き合い宜しくお願い致します。 あまり、どこにでもバイキンがいると思うと滅入ってしまうかもしれませんね。人体の中、至るところにバイキンがいることは以前にもお話しました。ただし、例外もあります。どこだと思いますか?それは尿路系です。尿路系とは、尿を作っている腎臓から、尿が出る尿道口までの経路のことを指します。この経路には基本的にバイキンはいませんし、尿は基本的に無菌です。 以前、「飲尿療法」というのが流行りました(?) 怪しい治療で、尿を飲めばガンも治るというモノでした。勿論、治るわけがありません。 この療法を唱えた医師は元軍医でした。第二次大戦に従軍しました。当時は点滴などありません。南方の戦地でいつも飲める水が調達できるわけではありませんでした。そういうときに飲尿療法を行って効果があったのです。尿は無菌でしかも電解質を含んでいるので、点滴代わりに使ったのですね。尿を飲むことで、脱水状態や電解質バランス治療に効いたかもしれません。戦争のような特別な状況での使用は、理にかなっていると思います。私も「アリ」だと思います。発想は面白いですね。しかし、それを現代の日本に持ち込むのは如何なモノかと思います。以前、ヨットが転覆し、約1ヵ月、6人が漂流し1人だけ助かったというニュースがありました。助かった1人は尿を飲んで凌いでいたとありますから、戦争と同じくそういう極限状態に置かれた時に(置かれたくはないですがね)、尿は無菌で電解質も含んでいて飲んでも問題は無いという知識ぐらいは持っていると良いかもしれません。 志賀潔を世界的に有名にした「赤痢菌」の発見 さて、今回は細菌にまつわる「パリからのすてきな贈り物」です。その贈り物とは、細菌学者「志賀潔」がパリから持ってきたモノのことです。今も現役で使われています。それはBCGです。 BCGの話の前に志賀潔の話をしましょう。彼を世界的に有名にしたのはなんと言っても「赤痢菌」の発見でしょう。 赤痢菌の学名は「Shigella:シゲラ」です。志賀の名前をとって命名されています。日本人の名前が付いている細菌はほかにもありますが、世界で誰でも知っている細菌で日本人の名前が付いているのは赤痢菌くらいです。細菌性赤痢の病名は「Shigellosis:シゲローシス」です。勿論、志賀からの命名です。 病名に名前が付いたり、細菌に名前が付くと医学の歴史に残るので名誉なことです。 志賀が赤痢菌を発見したおかげで、赤痢の診断が正確にできるようになり、多くの人が助かります。病名が解るのが治療の第一歩です。 赤痢などもう昔の話だと思っている方も多いと思いますが、2015年4月5日にアメリカのアメリカ疾病管理予防センター(Centers for Disease Control and Prevention:CDCと略)から緊急レポートが出ました。題は「A drug-resistant form of Dysentery has begun to appear in the U.S. The highly contagious bacteria, Shigella, is resistant to Cipro and has caused outbreaks in several states this year, CDC reports. 」 このレポートを要約すると、「アメリカでは毎年50万人が赤痢に罹患している(注:世界中では年間1億人が罹患し、60万人が死亡している)。そのアメリカでシプロキサン耐性赤痢菌が増加しており、アウトブレークを生ずるかもしれない。」というレポートです。 当たり前ですが、志賀潔由来の“ Shigella ”が菌名として使われています。 赤痢にはシプロキサンという抗生物質が良く効きます。下痢患者さんが多いある国では、赤痢による下痢かどうかの診断を待っていると下痢で死亡してしまうかも知れないので、医師の処方箋無しにシプロキサンが購入できます。下痢というと何でもシプロキサンを投与するので、そのために耐性菌ができてしまったのだろうと思われます。このCDCレポートでも危惧しています。難しい話です。先進国では下痢の患者さんに、便の細菌培養も行わないで、抗生剤を投与するなどありえないですね。赤痢も少ないし…… これが志賀潔の顔写真です。 戦争中に妻を病死で、長男は戦死、三男は戦後すぐに結核で死亡、空襲で一切の財産を失い、郷里仙台の廃屋のような草屋しか志賀には残されませんでした。そこで、文字通り赤貧の生活を余儀なくされます。その草屋で残った次男と野菜を作ったりしていました。 メガネの補修も儘ならず、紙で補修しています(左側)。後ろの背景は解りづらいかもしれませんが、壁を新聞紙で補修しています。なんだか可哀想ですが、晩年に書かれた志賀潔自伝を読むと、 『近隣の小学生から「先生は教科書に載るような偉い人なのに、どうやって収入を得ているの?」と無邪気に聞かれて戸惑った。』 『色々とあったが、自分は幸せだった。ほかの人が発見してもおかしくなかったのに、赤痢菌を発見することができた。それも26歳のことだった。それだけで一生が過ぎたようなモノだった。』 『清貧の学者と言うが私は赤貧だ。科学者にもある程度の収入を保証せよ。』 と淡々と書かれています。なんだか胸が詰まるような台詞です。 今は、文化功労者、文化勲章受章者には年額350万円の年金が支給されます(昭和26年~)ので、ここまで赤貧洗うがごとしの生活にはならないと思います。それはともかく、志賀潔の自伝は冷徹な科学者の目で書かれているのでとても面白いです。一読をお勧めします。 志賀潔がパリから持ってきたモノ「BCG」 さてパリからの贈り物の話です。その志賀潔が1924年パリで開催された赤痢に関する学会に出席。その際にパリのパスツール研究所から持ち帰ったのが今も使われているBCGです。「Tokyo172株」と言います。これがパリからの贈り物です。172代に渡って培養されたので172です。現在も使われています。 BCGは懐かしいと思われる方も少なくないかもしれませんね。小さい頃、「はんこ注射」や「スタンプ注射」と呼ばれるBCGを受けた方も多いと思います。これは結核予防ワクチンです。さてBCGってなんでしょう? BCGの正式名称はフランス語で“ Bacille de Calmette et Guérin ”の略です。Bacille は桿菌(棒状の細菌)のことです。日本名は「カルメット・ゲラン桿菌」です。フランスパスツール研究所のカルメットとゲランがウシ型結核菌(Mycobacterium bovis)の培養を繰り返して作製した細菌です。BCGとは本来ならこの細菌名なのです。 しかし、一般的にBCGというとこの菌を利用して作られたワクチンを指すことの方が多いですね。 このBCGワクチンですが、あまり知られていない使い方があります。結核予防に使われるのは勿論ですが、膀胱癌治療に用いられているのです。糖尿病に効くかもしれないという研究もあります。川崎病の診断になるという研究もあります。要するに今でも現役バリバリのお薬です。 今から100年近く前、パリのパスツール研究所のカルメットとゲランから(無償で)世界中の研究者にプレゼントされた細菌が今も使われているのです。凄い話です。ちなみにこのパリからの贈り物を早期に受け取ったのが、日本、ブラジル、ソビエト連邦、ルーマニア、スウェーデンです。志賀潔のおかげで日本はごく早期からBCGを使うことができたのです。今ならお金が絡んだりするので大事な細菌を簡単に渡すなど考えられないですね。 1.BCGに関するあれこれ 2.0-157の毒素=赤痢菌が排出する志賀毒素だった! 3.そもそもなんで私のような外科医が赤痢や志賀潔に興味を持つようになったか?あるいはなぜBCGの勉強をしなければならなくなったか? など、この話はまだまだ長くなるので、次回以降に続きます。 余談: パリ発で「ゲラン」と言うと一般的には「夜間飛行」「ミツコ」等で有名な香水メーカーの方が有名ですが、人類への貢献と言うと、カルメット、ゲラン菌の「ゲラン」でしょう。 【参考文献】 志賀潔自伝:日本図書センター:ある細菌学者の回想 他 多数。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2016/11/14 冠動脈疾患の危険因子 これまで冠動脈疾患の治療薬について書いてきましたが、そもそも、そういう病気に罹らなければ良いですね。さまざまな研究で冠動脈疾患の危険因子(=病気にかかりやすい因子)が解っています。これらの危険因子を念頭に置いて生活すれば、冠動脈疾患にかかる確率は格段に低下します。危険因子については、これまでに何度もお伝えしておりましたが、改めて以下に列挙します。 (1) 加齢: ⇒ どうしようもないです (2) 性差:男性に多い ⇒ どうしようもないです (3) 家族歴:近親者に50歳以下で冠疾患を発症の既往がある ⇒ どうしようもないです (4) 高血圧:予防や治療が可能です。減塩、禁煙、減量などでかなり対処できます。 (5) 糖尿病:予防や治療が可能です。食事療法、運動療法、薬物治療などで対処できます。 (6) 高脂血症:LDL高値、HDL低値 ⇒ 予防や治療が可能です。食事療法、薬物療法などで対処できます。 (7) 喫煙:喫煙により発症率は2倍になります ⇒ 禁煙する。喫煙しなければ良いのですね。 (8) 肥満:A型性格:「Active 活動的」「Aggressive (攻撃的)」の頭文字のAで、競争心が強く、せっかちで、仕事はテキパキやるというタイプ(のんびりしているのはB型性格といい、A型の方がB型の性格の方に比して約2倍の発症率です。血液型ではないです。) (9) 痛風:食事、飲酒制限、ストレス軽減、薬物療法などで、治療可能です。 (10) 腎不全(特に透析患者さん):予防可能ですが、透析が始まるとなかなか大変です。 上記の(1)(2)(3)は自分でコントロールができない因子です。しかし、残りはコントロールができます!この中に幾つ自分が当てはまるでしょうか?当てはまる方はぜひ、コントロールしましょう! 今では当然のごとくに思われるこれらの因子が解ったのはそんなに昔のことではありません。1957年、高血圧と高コレステロール値が冠動脈疾患と大きな相関があること、さらに喫煙や座りがちの生活も冠動脈疾患のリスクを増大させることが確認されました。(参考文献 2~4 )なぜこんなことが解ったのでしょう。それは全て「フラミンガム研究」から得られた偉大な結果です。あまり知られていないので、ちょっとご紹介しましょう。 この研究から、米国における冠動脈疾患死亡率が劇的減少へ 1930年代から米国では心臓病、特に狭心症や心筋梗塞を発症する方が多いことが社会問題でした。しかしなぜこのような疾患が多いのかよく解りませんでした。 1940年代、米国の死亡原因のトップは心血管疾患(主に心筋梗塞)でした。米国公衆衛生局はその原因を探る計画を立てます。米国全体を代表するような集団を長年にわたって研究すれば、どのような人に心臓病が発症しやすいかが明らかになるのではないかと考えたのです。 白羽の矢が立ったのはボストン郊外のフラミンガム町でした。この町で長期の疫学研究を開始したのです。この町が選ばれたのは大都市ボストンに近く産業が多く、働き場所が多いので、人口の出入りがきわめて少ないことが一番の理由だそうです。 フラミンガム町の住人のうち、健康な男女5,209人(30~62歳)が参加した研究が始まりました。こういう研究をする際の集団を「cohort(コホート)」と言い、このようにある集団を長年にわたって観察し分析する研究を「コホート研究」と言います。結果的に米国公衆衛生局がフラミンガム町をこの研究に選択した判断は正しく、30年後にこの研究から脱落したのはたったの3%でした(死亡を除く)。それだけ人口の出入りが少なく、また研究への参加意識が高かったことが立証されました。 話を危険因子に戻します。このフラミンガム町でのコホート研究を始める前に米国公衆衛生局が立てた仮説を示します。 1.冠動脈疾患は加齢とともに増加し、男性でより早く発症し頻度も高い 2.高血圧は正常血圧よりも冠動脈疾患の発症率が高い 3.血清コレステロール値の上昇は冠動脈疾患増加と関連する 4.喫煙は冠動脈疾患発症増加と関係する 5.習慣的な飲酒は冠動脈疾患増加と関連する 6.身体活動が多ければ冠動脈疾患の進展は少ない 7.甲状腺機能亢進は冠動脈疾患発症を低下させる 8.ヘモグロビン高値あるいはヘマトクリット高値は冠動脈疾患発症の増加率と関連がある 9.体重増加は冠動脈疾患の素因となる 10.糖尿病例では冠動脈疾患発症率が上昇する 11.痛風例では冠動脈疾患発症率が高い 5,209人の集団(コホート)を追跡して最初に解ったのが、(1) 高血圧の方、(2) 高コレステロール血症の方に心筋梗塞の発症が多いことです。それが上述の1957年のことでした。 その後、次々と色々なことが解ります。喫煙、肥満、糖尿病、家族歴、痛風などが心筋梗塞の発症寄与因子であることが解明されたのです。 結果的に研究開始前に立てた仮説のほとんどが証明されたのです。素晴らしいですね。なお、この研究結果が発表される以前は「高血圧は冠動脈への血流維持に必要で血圧を下げると、狭心症や心筋梗塞が発症しやすい」と考えられていたのです。「高血圧の方の狭心症、心筋梗塞発症を予防するためにはきちんとした高血圧治療が必要である」という常識がこの研究で確立されたのです。血圧治療に関するパラダイムシフトです。 この研究から解った「危険因子」を減らしましょうという指導が全米でなされます。米国心肺血液研究所(NIH)による「高血圧指導プログラム」、「コレステロール教育プログラム」を実施。更に「禁煙指導」などを行った結果、1970年から1990年の20年間で冠動脈疾患による死亡率が半分に低下しました。その結果を示します。米国における冠動脈疾患死亡率の変化です。「劇的減少」を示しています。 この研究が無ければまだ米国いや世界中の心筋梗塞発症率は高いままだったかもしれません。 余談です。先年「ハンナ・アーレント」という映画を見ました。1950年代から60年代にかけての米国の風景が描かれています。女性も含めて、ほぼ全員、ヘビースモーカーです。映画に登場する出演者はひっきりなしに煙草を吸っています。それが普通の風景だったのでしょうね。 しかし、フラミンガム研究結果が知られるようになると、米国は厳格な禁煙政策を実施し、それは世界中に広まります。このように米国のみならず世界中の健康政策に大きな影響を与えているのがフラミンガム研究です。なんて素晴らしい研究でしょう! 1.仮説を立て 2.それを立証するために計画を立て 3.それに賛同する人達がいて 4.それをきちんと解析する研究者がいて 5.その結果を見て、健康プログラムを立案する人がいて 6.そのプラグラムを指導する医療人がいて 7.そしてそのプログラムを受け入れる人達がいて 初めて成立する研究です。 壮大なドラマを見ているようです。これこそ「THE 臨床研究」だと思います。 そして、更に素晴らしいことに、今もこの研究は続いています。現在は初期参加者の孫が参加している研究などがなされています。これだけ息の長い研究も珍しいですね。第4世代、第5世代と続けば、さらに色々なことが解ってくることでしょう。 なお、この研究の参加者に特に経済的な特典があった訳ではありません。それどころか研究に参加するため、検診を受けたりするので時間がとられます。詳細なアンケートに答える必要もありました。初代フラミンガム研究の統括者であったThomas Dawber医師は『この研究への参加者が時間とエネルギーを提供してくれることに感謝して、それに報いなければいけない。』と繰り返し述べたそうです。 またフラミンガム町に常在する5人のコーディネーターの存在も大きかったと思われます。コーディネーターは全員女性で参加者と長年信頼関係を築いてきたのです。そういう熱心な医師、コメディカルスタッフの協力があって初めてこの研究がなされたのです。 最初の研究成果がもたらされてから、この研究に参加した方々の意識に微妙な変化が生じました。参加者は「人類の利益という大きな目的に貢献していることを認識するようになった」と述べています。フラミンガム町は「世界の心臓を救った町」とも言われています。フラミンガム町の人々が外国旅行中病気に罹った時、受診先病院でフラミンガム町出身ということが解ると尊敬されるそうです。それだけフラミンガム研究は世界中で尊敬されている研究なのだと言えます。 日本で行われているコホート研究 さて、日本でもこのようなコホート研究が行われています。 1961年から福岡県久山町で行われている「久山町研究」は世界的に有名です。何が有名かというと 1.久山町全町民が参加、追跡率99% 2.死後に剖検を行う = 死因が明らかになる そういう際だった特徴があります。久山町研究から解ったことが日本の医療施策に反映されています。他にも「山形県船形町研究」、「岩手県北研究」、「富山スタディ」、「北海道の端野・壮瞥町研究」、「宮城県大崎研究」などが知られています。 ちょっと変わった所では30歳以上の日系ブラジル人1世(移民)およびその子孫を対象とした「日系ブラジル人糖尿病研究」とか、ハワイに移住した日系米国人を対象とした「ホノルル心臓調査」もあります。 日系人がその土地、土地での生活習慣に染まるにつれて、段々とその国の疾病傾向に似た疾病罹患様式になることが明らかになりました。要するに「遺伝病以外の疾病は生活習慣によって発症する」ことがこういう研究で明らかになりつつあります。 いずれにせよこういうコホート研究を続けるには長い年月にわたる観察が必要で、そのために費用も人手もかかります。とても大変ですが、それから得られる恩恵は大変大きいのです。その代表がフラミンガム研究でしょう。もう一度、フラミンガム町からの大きな贈り物をよく考え、危険因子に該当する項目がある方はぜひ、お気を付け下さい。必要があると判断されたら、治療を受けることも必要です。病気は「予防」が一番大切です。 【参考文献】 嶋康晃. 世界の心臓を救った町―フラミンガム研究の55年. ライフサイエンス出版. 2004 DAWBER TR, MOORE FE, MANN GV. Coronary heart disease in the Framingham study. Am J Public Health.1957; 47: 4-24. DAWBER TR, KANNEL WB, REVOTSKIE N, STOKES J, KAGAN A, GORDON T. Some factors associated with the development of coronary heart disease: six years' follow-up experience in the Framingham study. Am J Public Health.1959; 49: 1349-56. Kannel WB, Eaker ED. Psychosocial and other features of coronary heart disease:insights from the Framingham Study. Am Heart J. 1986; 112: 1066-73. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2016/10/31 感銘を受けた学生時代の「恩師」 感染症に纏わる随筆は一時置いておき、今回は私が感銘を受けた学生時代の「恩師」についてエピソードとともにご紹介したいと思います。幼小中高大学、そして社会人になってからも多くの「先生」に習ってきました。反面教師の先生もいましたが、多くの先生は真面目で良い先生方に恵まれました。その中である意味、とても強烈な印象を残している先生がいます。高校の同窓会で皆が集まると、決まってその先生の話になります。そして、「あの先生は偉かった」、「あの先生に教わって良かった」となります。それほど皆に強烈な印象を与えた先生です。本当は実名を出したいのですが、今号の内容を誤解されると困るので実名は差し控えます。その先生はA先生といい、数学の先生で、高校1年から3年まで数学を習いました。40代の先生です。 高校3年になり、数学は一段と難しくなりました。教えるA先生自身も四苦八苦していました。 教える先生が四苦八苦してはいけないだろうと思いますが、A先生は正直なので、「今日の授業は難しい」と正直に我々生徒に話すのです。A先生の手に負えない(解けない)問題が模擬試験などで出題されることもあり、その問題の解説をする授業で、彼は文字通り四苦八苦していました。 ある時、A先生が黒板に向かって、かなり難しい問題の解法を黒板に書いていたのですが、突然、唸りはじめ、授業が止まってしまったのです。そして、後ろを向いておもむろに「B君、ここはどう解いたら良いかなぁ?」と僕たちの同級生のB君にその問題の解説をすることを求めたのです。B君は数学の天才で、後に東大数学科に進学し、今では某超有名国立大学理学部数学科の教授になっています。そのB君ですが、高校時代、数学のテストはいつも100点でした。指名を受けたB君はすたすたと黒板に向かって、「エレガントでわかりやすい」回答を書いて皆に解説してくれたのです。 誰もがA先生のとった行動に最初はびっくりしていましたが、その後も時々、B君に助けを求めることがありました。生徒が教壇に立ち、先生と我々がそれを聞いているという極めてシュールな光景でした。前代未聞?の話だと思います。今でも教育現場ではあまり聞かない話だと思います。生徒の我々は、当時、そんなA先生のことを「数学がろくにできない数学教師」だと馬鹿にしていました。 しかし、我々生徒も長ずるに従い考えが変わります。A先生の行動、「あれはなかなかできないこと」だと思うようになりました。高校の同級会があるとA先生の思い出になります。「一生懸命、自分で調べたり勉強したりしてもわからないことは何でも聞いて良い。そうやって聞くのは恥ではない。」と言うことを教えてくれたのだと心の底から思うようになったのです。 「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」と言います。しかし、「言うは易く行うは難し」です。それを、身をもって教えてくれたA先生に、皆、感謝していました。A先生も模擬試験の解答は持っていますので、適当に解説をすることはできたはずです。しかし、それでは「真の解説」にならないので、もっと理解度が深いB君に解説をさせたのでしょう。そういう正直な良い先生だったと思い皆で感謝しています。目的は数学をわかりやすく生徒に教えることであり、自分(教師)の体面は後回しにしていただと思います。なかなかできないことです。 同窓会でそうやって思い出してもらえる先生もあまり無いと思います。あれからもう何年が経ったでしょう。遥か昔の学生時代を思い出しつつ、そんな恩師のことを考えていました。 皆さんにも心から感謝している恩師やご友人はいらっしゃいますか? 忙しい毎日の中で忘れがちになりそうですが、自分を育ててくれた、世話になった方々を思い出してみる機会を作ってみるのも良いことです。 次号は、また話を感染症に戻して参ります。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2016/10/17 様々な「抗血小板薬」 冠動脈疾患(8)では「アスピリン」についてご紹介しました。簡単にまとめると「低用量のアスピリン」服用することで、血液が血管内で固まるのを予防し、その効果により心筋梗塞や脳梗塞予防になる、そういうことをご紹介しました。 さて、少々難しい話をします。血液が固まるためには血液の中にある2系統の作用が必要です。 (1)「血小板血栓形成過程」 (2)「フィブリン血栓形成過程」 の2つです。血管内に血栓ができるのを予防する薬を総称して「抗血栓薬」と称します。 「抗血栓薬」には(1)血小板血栓を抑制する「抗血小板薬」と、(2)フィブリン血栓形成を抑制する「抗凝固薬(代表がワーファリン)」があります。 冠動脈疾患(8)でお示ししたのは「抗血小板薬」の代表である「アスピリン」についてでした。今回は「アスピリン以外」の「抗血小板薬」をご紹介いたします。この中には、一時、世界売り上げ第二位となった薬もあります。そのくらい、世界中でたくさん使われています。(注:なお、「抗凝固薬」については次号から、ご紹介致します。) 狭心症、心筋梗塞、脳梗塞予防には様々な「抗血小板薬」が数多く使われています。 以下、代表的な「抗血小板薬」を紹介してまいりましょう。概ね下記の如く、6種に分類されます。それは、 「COX-1阻害薬」 「チエノピリジン誘導体」 PDE3阻害薬 5-セロトニン受容体2拮抗剤 プロスタグランジン製剤 魚油 の6つですね。何のことやら、難しいですが、少しだけお付き合いください。 1.「COX-1阻害薬」 「COX-1阻害薬」の代表が「アスピリン」です。こちらは、すでにご紹介しました。 2.「チエノピリジン誘導体」 「チエノピリジン誘導体」のうち、現在臨床使用可能なお薬は3種類あります。 (1)塩酸チクロピジン Ticlopidine(パナルジン®) (2)クロピドグレル Clopidogrel(プラビックス®) (3)プラスグレル Prasugrel(エフィエント®) 今、この「チエノピリジン誘導体」がたくさん使われています。 狭くなっている冠動脈を広げるPCI(Percutaneous Coronary Intervention:経皮的冠動脈拡張術)を行った後に「アスピリン」と「チエノピリジン誘導体」を、1年間、服用するのが標準処方です(抗血小板剤二剤併用療法[Dual antiplatelet therapy: DAPTと略します])。1年後にカテーテル検査を行い、DAPTを継続するかどうか判断いたします。 (1)のチクロピジンは日本発の様々なデータが出されたので日本では「低用量アスピリン」が抗血小板薬として、使われる以前からこのチクロピジンが導入されていました。私もたくさんの患者さんに投与しました。 しかし、チクロピジンには血栓性血小板減少性紫斑病、無顆粒球症などの重篤な肝障害などの重大な副作用が出ることがあり、今は(2)のクロピドグレル(プラビックス®)が主に使われています。プラビックス®は2011年には世界の医薬品中第2位の売上がありましたが、パテント切れになり一気に売上が半減し、現在売上35位以下になっています。この辺りは、難しい問題です。(3)のプラスグレルPrasugrel(エフィエント®)は日本発(第一三共)の医薬品です。最初に2009年英国で認可され、2014年3月日本で認可されています。70ヵ国以上で使われています。CYP2C19機能喪失型対立遺伝子を持っているとプラビックスの効きが悪いこと、および効果発現までプラビックスはやや時間がかかります。一方、プラスグレルPrasugrel(エフィエント®)の方は遺伝子に関係なく効きます。しかも服用してからの効果発現がプラビックスより早いのです。しかし、長所は短所にもなります。出血性合併症がやや多いとの報告があります。 以前、低用量アスピリンをご紹介した際、一般に抗血小板薬を内服している方の手術をする時は、一週間程度お薬を止めてから手術をしますとお伝えしました。 一週間も経つと抗血小板薬の作用が無くなるか減弱するからです。そうすると血が止まりやすくなります。緊急手術ではそういう時間がとれません。そういう方の手術では止血に難渋する、そういうこともお伝えしました。上述のDAPTを行っている方の緊急手術はさらに厄介で、手術中、とてもとても止血に難渋します。思わず「泣き」がでるほど血が止まらないのです。どうしても止まらない時は血小板輸血を行います。血小板輸血を行うと出血は劇的に減少します。そういう時は、心の底から輸血に応じてくれた献血者の方に感謝しました。 話は少し横にそれます。「血小板輸血」は「成分輸血」と言いまして、献血に若干の時間がかかります(1時間くらい)。そのお蔭で多くの患者さんが助かります。今、献血者が減少し、輸血が足りなくっています。献血しても良いよと思われている方は、是非、献血をお願いします。以前、元駐日大使ライシャワーさんの輸血がきっかけで無償の献血事業が始まったことを書きました。このまま献血者が少なくなると有償の献血(売血)が再開されるかもしれないと危惧されています。 話は戻ります。 3. PDE3阻害薬 PDE3阻害薬は、シロスタゾールCilostazol(プレタール®)です。 シロスタゾールは日本発のお薬です。大塚製薬の創薬です。慢性動脈閉塞症や脳梗塞再発予防によく使われます。この薬の別な作用(認知症予防)が注目を集めています。「またか」と言われますが、『セレンディピティ!』です。 認知症と診断された患者さんはどんどん症状が進行するのが普通です。淡路島(兵庫県洲本市)にある洲本伊月病院の岡田雅博先生は、ある患者さんの認知症が全く進行しないことに気付きました。そして、さらに進行が遅い人たちがいることに気づきます。調べてみると、進行が遅い人たちはシロスタゾールを服用していたのです。認知症と診断された患者さんは、時間が経つにつれ認知機能がどんどん低下していくのが普通ですが、シロスタゾールを飲んでいる人たちは認知機能の低下が80%!も抑えられていることが解りました。 この岡田先生の発見を基に国立循環器病研究センターで行われた動物実験でシロスタゾールを投与するとアルツハイマー病の原因ともいわれる脳内のアミロイドベータが減少することが解り、今ちょっとした話題になっています。本当に進行が抑制されるなら素晴らしいことです。 洲本という地とシロスタゾールが開発された大塚製薬(徳島研究所)は、目と鼻の先です。もしかしたら地の利(?)でしょうか、シロスタゾール使用量が関東地方などに比べて多かったのかもしれませんね。(まさか、、、)何れにせよ、岡田先生の偉大な発見は、大変興味深いものです。 4. 5-セロトニン受容体2拮抗剤 5-セロトニン受容体2拮抗剤は、塩酸サルポグレラートSarpogrelate hydrochloride(アンプラーク®)。主に慢性動脈閉塞症に使います。 5. プロスタグランジン製剤 プロスタグランジン製剤は、2種類あります。 (1)PGE1誘導体製剤リマプロストアルファテクスLimaprost Alfadex(オパルモン®)など (2)PGI2誘導体製剤ベラプロストBERAPROST Na(ドルナー®)など (1)は経口薬ですが、点滴製剤もあるのが特徴です。これらの薬も慢性動脈閉塞症の適応がメインです。 私は末梢血管閉塞性疾患の患者さんに投与します。とてもよく効きます。 6. 魚油 魚油は、面白い発見からお薬になりました。 デンマークに住むイヌイットは都市部に住むデンマーク人に比して心筋梗塞の発症率が10分の1以下だったという疫学的発見があり、そこから研究が始まりました。「魚の摂取」がキーワードになりました。結局、魚油に含まれているエイコサペンタエン酸(Eicosapentaenoic acid、略称EPA)やドコサヘキサエン酸(Docosahexaenoic acid、略称 DHA)には抗血小板作用と弱い血管拡張作用を示すことが解ったのです。 世界初のEPA製剤は日本発のお薬で、エイコサペント酸エチル Ethyl eicosapentaenoic acid(エパデール®)です。EPAにDHAを加えたのがロトリガ®です。エパデール®は日本で大規模研究(JELIS: Japan EPA Lipid Intervention Study)が行われ、心筋梗塞発症予防効果があることが発表され、世界中の研究者の注目を集めています。私どものクリニックの名誉院長の板倉弘重先生もその研究者のお一人です。 このように各種の抗血小板薬があります。心筋梗塞、脳梗塞予防には未だに古くからあるアスピリンが標準薬です。シロスタゾールのように思わぬ効果(認知症進行予防)を認める製剤もあります。 まだまだ発展する領域だと思っています。この領域に日本発の薬が数種あるのも何となく誇らしいですね。いつかはアスピリンを超えるような薬が日本で創薬できれば良いと思っています。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2016/10/03 他国とかけ離れた日本の喫煙規制事情 タバコについてあまり知られてはいないけれど、重要な情報をお伝えします。 2020年東京オリンピックでの禁煙が話題になっています。それに関することです。本来、話題になるのがおかしい話なのです。 なお、本稿の要旨は屋内での受動喫煙防止を訴えることを旨としています。日本国から、タバコを追放せよとか、屋外で他者のいない場所での喫煙までも禁止しようとか、そういうことを言っているのでは無いことを予め、申し添えます。 日本国は“たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約:WHO Framework Convention on Tobacco Control、略称FCTC”を批准しています。世界172ヵ国が批准しています。 日本も2004年3月9日、この条約に署名し、同年5月19日国会の承認を得ています。つまり、批准しているのです(注:批准とは署名をした条約の内容について国家が最終確認を行い、署名した条約に拘束されることについて同意を与えることです。国会の承認を得るとはそういう深い意味があるのです)。 対外条約に署名した国は署名した条約に反しないよう、国内法を改正して、法律を整備する義務があります。それが「世界標準」です。しかし、タバコに関する限り、日本は「異端児」です。国内法を整備していません。各国と比べると、その異常さがよく解ります。 下図は厚労省のホームページに掲載されている各国の「公的場所での喫煙規制事情」です。日本だけ特異であることがよく解ります。日本は飛行機以外、法的規制がありません。あまりにも他国とかけ離れています。 表: 主要国の受動喫煙防止法の施行状況(2012年時点) 「進んでいる世界の受動喫煙対策」e-ヘルスネット 情報提供(厚生労働省) ※ここを見る(クリックする)と詳しい説明とこの表の詳細がわかります オリンピック開催都市には受動喫煙防止法(条例)が必須です。レストラン、バー、移動手段(交通機関)を含む完全禁煙が求められています。IOCは1988年よりオリンピック大会及び開催都市での禁煙方針をつらぬいています。日本でも、一時議論されましたが、いつの間にか沙汰止みになっています。ブラジルでは全土が、屋内全面禁煙です。平昌オリンピックを開催する韓国も、北京オリンピックを開催した中国も、ソチオリンピックを開催したロシアも同様です。日本だけが、FCTCを無視した格好になっています。2020年東京オリンピックまでには、FCTCに関わる国内法をしっかりと整備して、対策をしないと世界中の物笑いの種になります。 FCTC第8条には、「(条約の)締約国は、屋内の職場、公共の輸送機関、屋内の公共の場所および適当な場合には他の公共の場所におけるタバコの煙にさらされることからの保護を定める効果的な措置を講ずる。」とあります。 FCTCを批准しているなら、諸外国と同様、法の整備が必要です。タバコ問題は、さまざまな議論がありますが、単純な話なのです。日本国が署名、承認、批准したFCTCを遵守するように法改正をすれば良いだけなのです。このまま、FCTCを無視して、屋内全面禁煙を認めないなら、国としてFCTCの枠組みから外れるように宣言すべきです。今のままなら、「約束を守らない、守れない国」の烙印を押されてしまいます。及び、このままだとFCTCを遵守しないのは「憲法違反」です。日本国憲法第98条 第二項にはこうあります。「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」当たり前ですが、締結した条約を無視するのはこの項にも違反していることになります。 屋内全面禁煙が解除された結果、入院患者数が増加… 屋内全面禁煙の健康に及ぼす影響に関しては、さまざまな研究報告があります。有名なのはアメリカモンタナ州ヘレナ町での研究です。 同町では2002年、屋内全面禁煙法が施行され、劇的に心筋梗塞での入院が減りました。半減したのです。ここまでは普通の話です。 しかし、タバコ会社から訴訟がおこされ、屋内全面禁煙が解除されます。それが2003年のことです。そうしたら、一気に心筋梗塞での入院患者数が、増えて元の木阿弥状態になってしまいました。 禁煙を解除したら悪化する報告は、私が探してもこれしか見つけられませんでした。禁煙を解除するのが極めて稀だからだと思っています。 とにかく、タバコが原因で生じる病気にかかりたくなかったら、禁煙しましょう。 【参考文献】 タバコの規制に関する世界保健機関枠組条約(タバコ規制枠組条約) FCTCの解説:禁煙学会による解説です。 Sargent RP, et al. Reduced incidence of admissions for myocardial infarction associated with public smoking ban: before and after study.BMJ. 328: 977-980.2004(BMJ:British Medical Journal) 厚労省の喫煙の健康影響に関する検討会報告書(いわゆるタバコ白書):2016年8月31日 改定版 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2016/09/12 1950年代までは「タバコは健康に良い!」? 喫煙と心臓血管系の病気との関係は、よく知られるようになってきました。 例えば、喫煙者は非喫煙者に比して心筋梗塞(冠動脈が閉塞することにより発症)の発症率が2-6倍も高いのです(幅があるのは、喫煙開始年齢、喫煙年数、性別などの要因によります)。 あまり知られてはいないのですが、禁煙して3年が経てば心筋梗塞発症率は非喫煙者と同等まで下がります。覚えておいてください。 昨今「タバコの害」は常識のような話になっていますが、1950年代までは「タバコは健康に良い!」とも言われていました。当時、ようやく、肺がん、舌がん、喉頭がん、咽頭がん、膀胱がんの発症率が喫煙者では非喫煙者よりもかなり高いことが知られるようになっていましたが、タバコと心臓血管系の病気との関係はよくわかっていませんでした。 しかし、アメリカにある「フラミンガム」という町の住民を長期に亘って観察した結果、喫煙と動脈硬化性疾患(脳卒中、心筋梗塞など)との密接な関係が、1960年頃に明らかになりました(参考文献1)。喫煙者では心筋梗塞、脳卒中など「動脈硬化性疾患」に罹る率が非喫煙者よりも2-3倍くらい高いことが解ったのです。 タバコは各種のがんを発症させるだけではなく、動脈硬化も進行させることが明らかになりました(フラミンガム町を知らない医師はいません。心臓病研究で有名な町です。近いうちに、この町で行われた(今も行われている)有名な心臓病研究についてご紹介しましょう)。 タバコを吸うと冠動脈はどうなるか 喫煙が動脈硬化を引き起こすメカニズムに関しては様々な研究が行われ、その機序は次第に明らかになりつつあります。タバコには、身体に対して有害にはたらく物質が7000種類も見つかっています。本稿ではあまり細かい議論に立ち入らず、タバコを吸うと心臓に栄養を供給している血管(冠動脈)がどうなるかをお示しします。 以前、心臓カテーテル検査中にタバコを吸わせて血管がどうなるかを検討した論文があることを書きました。その論文を紹介いたします。 「Cigarette smoking during coronary angiography: diffuse or focal narrowing (spasm) of the coronary arteries in 13 patients with angina at rest and normal coronary angiograms.」という題名で、 Catheterization and Cardiovascular Diagnosis という雑誌に1986年に掲載された論文です。題名の翻訳です。 「冠動脈造影中に患者さんに喫煙をしてもらい冠動脈がどういう変化を示すかの検討を行ったところ、喫煙により冠動脈は全体的に狭くなるか一部が狭くなった。喫煙により血管が“けいれん”して狭くなることがわかった。安静時に狭心症があり、喫煙しながらの冠動脈造影に先立つ冠動脈造影で冠動脈が正常であった13名に対しての検討結果である。」(注:逐語訳ではありません。) こういう血管の“けいれん”を医学用語では“攣縮(れんしゅく)”と言います。難しい言葉ですね。本稿では“けいれん”を使うことにします。 この論文では、狭心症が疑われるけれど、冠動脈造影では、狭い箇所が無い、そういう患者さんが対象です。こういう患者さんの冠動脈造影を行っている時にタバコを吸ってもらうと冠動脈はどうなるか?を検討したという研究です。今なら許されないでしょうが、こういう研究があって、タバコの血管への影響がわかり「今」があるとも言えます。 図1-a:患者Aさんの右冠動脈造影像です。どこにも狭い箇所はありません。 図1-b:この患者Aさんにタバコを吸ってもらいながら行った右冠動脈造影像です。 矢印部分の冠動脈が強烈に収縮しているのがわかると思います。もちろん、胸痛が出現しています。 図2-a:患者Bさんの左冠動脈造影像です。どこにも狭い箇所はありません。 図2-b:この患者Bさんにタバコを吸ってもらいながら、行った左冠動脈造影像です。 矢印部の冠動脈が狭くなり、その先の冠動脈にはあまり造影剤が入っていません。 タバコにより血管が“けいれん”しているからです。胸痛が出現しています。 図3-a:患者Cさんの左冠動脈造影像です。どこにも狭い箇所はありません。 図3-b:この患者Cさんにタバコを吸ってもらいながら、行った左冠動脈造影像です。 左冠動脈全体に造影剤があまり入っていきません。左感度脈全体が細くなっています。 タバコにより左冠動脈全体が“けいれん”し、胸痛も出現しています。 タバコを吸うと血管が“けいれん”する この研究により、タバコを吸うと血管が“けいれん”することが解りました。タバコを吸うことで血管は細くなり、心臓に栄養や酸素が行かなくなるので、胸痛を生じます。 喫煙者全員の血管に、いつも、こういうことが起きているわけではありません。しかし、タバコを吸わなければ、こういう「血管のけいれん」は生じません。 このような“けいれん”が続くと血管は損傷を受けます。そのため、喫煙者は非喫煙者よりも圧倒的に動脈硬化の進行が早いのです。 喫煙をしている方には禁煙を強くお勧めします。 前述の如く、禁煙すれば、心筋梗塞発症率は劇的に低下します。 次回は、2020年東京オリンピックでのタバコ問題についてご紹介します。 【参考文献】 Summary of recent literature regarding cigarette smoking and coronary heart disease. Circulation 1960; 22:164-166. フラミンガム町について:フラミンガム心臓研究の舞台となった町の解説です。 http://www.epi-c.jp/e201_1_0001.html Cigarette smoking during coronary angiography: diffuse or focal narrowing (spasm) of the coronary arteries in 13 patients with angina at rest and normal coronary angiograms.Cathet Cardiovasc Diagn. 1986;12(6):366-75. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2016/08/29 趣味も高じれば、人類の歴史を変えるかも… バイキンの存在がわかったのはいつ頃かご存じでしょうか? オランダの織物業者!レーウェンフックが顕微鏡で「細菌」を見つけたのが最初だと言われています。1680年頃の話です。レーウェンフック自身の歯垢からです(図1)。 図1:レーウェンフックが観察した「細菌」 当時としては驚異的倍率の顕微鏡(250-500倍)を自作し!、趣味!として色々なモノを見ています。細菌は元より、精子、赤血球、原生動物、植物細胞などを自作顕微鏡で観察し、それを書き残しています。この顕微鏡は単式顕微鏡と言います。小さな球形の透明レンズがあれば、今なら、簡単に誰でも作れますし(参考文献4を参照ください)、レーウェンフック式顕微鏡作成キットもインターネット販売されています。それくらいシンプルな顕微鏡です。完全球形レンズを作るのが難しかったので、レーウェンフック以外にはこのような高倍率の顕微鏡は作れなかったのだと思います。 「細胞」がさまざまなことで話題となっていますが、細胞を世界で初めて観察し記述したのがこのレーウェンフックです。だから彼は「細胞生物学の父」とか「微生物学の父」とも呼ばれています。しかし、彼は生物学の教育を受けた科学者ではありません。織物業者です。細胞や細菌の観察は彼の「趣味」です。当時「細胞」や「細菌」という概念はありません、自分でレンズを磨き、顕微鏡を作り、色々なモノを見ては観察し、記録するのが趣味だったのです。素晴らしい趣味です。彼の趣味がなければ、細胞や細菌の発見はかなり遅れていたと思います。 ちなみに彼は絵が下手で画家に図を依頼しています。その画家がフェルメール!だったという説もあります。フェルメールの遺産管理人に指定されたのがレーウェンフックだったので、そのように推測されているのです。 レーウェンフックの顕微鏡 レーウェンフックはその生涯で200とも300とも言われる顕微鏡を作りました。ヨーロッパ各国に現存しますが9個しか残っていません。それらはすべて「国宝のような扱い」をされています。その顕微鏡のレプリカが私どものクリニックの待合室に飾ってあります。一度ご覧ください。レプリカですが、きちんと操作すると顕微鏡として機能します。 レーウェンフックの顕微鏡やレーウェンフックの残した原図はオランダのライデンにあるブールハーフェ博物館:Museum Boerhaaveで見ることができます(http://www.museumboerhaave.nl/english/:写真1)。 写真1:ブールハーフェ博物館 普通のガイドブックには載っていませんが、オランダではとても有名な博物館ですので、オランダの観光案内所に行けば、場所などを教えてくれます。ちなみに日本人には馴染み深いシーボルトを記念した「シーボルトハウス」はこの博物館のすぐ近くです。 ブールハーフェ(Boerhaave)は医師で植物学者です(1668-1738年)。 特発性食道破裂という病気の発見者で、この病気にはブールハーフェ症候群という名前が付いています。ブールハーフェは科学者と言うよりは教育者として有名で、たくさんのお弟子さんを教育したので、彼の名を冠して博物館が作られたのです。 同館には、一日中見ていて飽きないような「ブツ」がそろっています。レーウェンフックの作った顕微鏡の本物(写真2:迫力があります)、レーウェンフックが観察して描いた絵、さまざまな人体や動物の解剖図、アイントホーフェンが世界で初めて記録に成功した心電図(写真3)、それを記録した心電計などなど、極めて興味深いモノが多数展示されています。 写真2-a:ブールハーフェ博物館に展示されているレーウェンフックが自作した顕微鏡 写真2-b:レーウェンフックの顕微鏡拡大像 板にレンズがはめ込んであります。針先に観察物をおいて、反対側からのぞき込むようになっています。 写真3:ブールハーフェ博物館に展示されている世界ではじめて記録された心電図 同館では、オランダが誇る科学的業績を見ることができます。アイントホーフェンも含まれますが、オランダの自然科学系統ノーベル賞受賞者は14名で、その業績を見ることができるようになっています。 ノーベル賞メダルの本物もさりげなく展示されています。日本にもそういう博物館があれば良いですね。湯川秀樹とか朝永振一郎と言っても通じない若い方も多いので、余計にそう思います。ちなみに日本人の自然科学系ノーベル賞受賞者は21名です(米国籍の南部陽一郎氏と中村修二氏を含む)。 レーウェンフックの発見から「細菌学」が発展 図1:レーウェンフックが観察した「細菌」 閑話休題、図1は冒頭でも紹介したレーウェンフックが観察した歯垢内細菌です。 レーウェンフックの発見に続いて、パスツールの発見があり、コッホの発見があり、北里柴三郎、志賀潔、秦佐八郎など日本人研究者の多大な貢献もあり、「細菌学」は発展しました。その延長線上に2015年の大村智先生のノーベル賞があるのだと思います。 感染症との戦いは、今後も永遠に続くと思います。感染症対策が難しいのは、今も昔も簡単に「バイキン」を見ることができないからです。 その「バイキン」を初めてみたレーウェンフックはびっくりしたと思います。至る処に、歯垢から見つかったのと同じような構造を持つ物質(それが細菌です)が見つかったからです。 レーウェンフックの素晴らしい趣味のお蔭で色々なことが解り、科学が進歩しました。こういう「良い趣味」を持ちたいですね。 【参考文献】 外科の夜明け(講談社文庫) トールワルド著 塩月正雄訳 近代医学のあけぼの―外科医の世紀(へるす出版) トールワルド著 小川道雄訳 1.の本が新訳です。小川先生は外科医ですので、翻訳がこなれていて読みやすいです。興味がある方はぜひ、お読みください。 フェルメール 光の王国(木楽舎) 福岡伸一著 レーウェンフックの紹介とフェルメールとの関係を論じています。 キヤノン(Canon)社のサイトに、レーウェンフックの顕微鏡の作り方が紹介されています。一度、作ってみてはどうでしょう?簡単です。ペットボトルのキャップと透明ビーズ玉(DIYショップで売っています)があれば作れます。 http://web.canon.jp/technology/kids/experiment/e_02_07.html 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2016/08/15 日本は例外的に重篤な感染症が少ない 今現在、世界でどのような感染症が発生しているかを示すサイトがあります。「OUTBREAKS」というサイトです。 OUTBREAKS http://outbreaks.globalincidentmap.com/ 世界地図が表示され、各種感染症(例えば、ジカ熱、デング熱、コレラ、豚コレラ、豚インフルエンザ、鳥インフルエンザなど)が世界各地で、どの程度発生しているか、リアルタイムにわかります。本稿を書いている2016年7月、ジカ熱、デング熱が世界各地でたくさん報告されているのがわかります。その他にも世界各地で数多くの重篤な感染症が発生しているのがわかります。このサイトは各国の保健省の報告を掲載しているのです。海外旅行、海外出張する際には参考になさってください。 このサイトを時々眺めていると日本は例外的に重篤な感染症が少ないことがわかります。日本は清潔だからと思います。「水が普通に飲める国」であることと関係していると思います(水道の蛇口からでる水を安全に飲める国は、世界で10指に満たないです)。大正10年から、水道の塩素消毒が行われ、それを期に一気に乳児死亡率が減少しました。大正10年?何があったのでしょう。この件、非常に面白いので、いつかご紹介しようと思います(乞うご期待)。 もっとも、このサイト“OUTBREAKS”の全てが正しいかどうかはわかりません。きちんと報告、調査がなされている国は感染症の発症が多く、調査もされないような国は、一見すると感染症が広まってないようにも見えるからです。 日本の近くにも日本と同じくらい感染症(の報告?)が少ないか、ほとんど無い国があります。その国は、報道の自由も渡航の自由も無い国ですから、検証は不可能です。 国全体の経済状況を表す、一番単純で信頼性が高い数字は「平均寿命」だと言われています。上記某国の平均寿命は68歳(2008年)、その某国の南にある国の平均寿命は80歳ですから、12歳も違います。その分、経済状態、衛生状態、栄養状態も悪いのだろうと予想されます。 衛生状態統計からはさまざまなことが読み取れます。 本稿を書いている時点(2016年7月末)で、“OUTBREAKS”から、エアポケットのように、ブラジルの情報が抜け落ちています。ジカ熱、豚インフルエンザが流行していると報道されていますが、そういう情報は、正式には発信されていないようです。ブラジルは、現在、こういう統計を出せないような政情なのだと思います。オリンピックが始まるというのに、これで良いのでしょうか? 感染するのに、エボラウイルスは3-4個?インフルエンザウイルスは1,000-2,000個? コレラ、天然痘、チフス、結核、狂犬病、小児麻痺、梅毒、インフルエンザ、日本脳炎、ツツガムシ病、日本住血吸虫、肺吸虫、赤痢、ペスト、マラリア、エイズなど書いていると気が滅入ってくるくらい多くの感染症に人類は苦しめられ、今でも苦しめられています。 バイキンについては、わからないことが多いのです。そもそも、どれくらいの数の「バイキン」が体内に入ると感染が生じるかもよくわかっていません。 仮説、推測値は報告されています。 例えばエボラウイルスは3-4個のウイルスが入ると感染すると言われています。 インフルエンザウイルスは1,000個から2,000個が感染に成立するのに必要だと言われています。 「言われています」ですから、これらは仮説で、立証はされていません。患者さんとの接触率、接触時間などから、予測されているだけです。 もし、この仮説が本当なら、エボラウイルスを封じ込めることは難しいですね。エボラウイルスに感染している患者さんの血液1mlに1億個のウイルスが見つかりますので、エボラウイルス3-4個で感染が成立するのが事実なら、ほんの少し、エボラウイルス感染者の血液に触れただけでも、感染する可能性があるのです。だから、エボラウイルスによって発症するエボラ出血熱は、なかなか、終息しませんでした(注:幸い2016年1月、ついにWHOにより終息宣言が出されています)。 バイキンの存在がわかったのはいつ頃かご存じでしょうか?次回に続きます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2016/08/01 前回、冠動脈が血栓(血の塊)で閉塞するのを予防する薬「アスピリン」についてお伝えしました。ここから先はアスピリンと「癌」の話です。こちらもセレンディピティの話です。冠疾患には関係無いですが、余話として読んでいただければ幸いです。 アスピリンを投与したところ、ポリープが完全に消えた 関節炎でアスピリンを服用している患者さんに大腸癌を発症することが少ないことは昔から何となく言われてきました。アスピリンは安価な薬ですから、それで癌予防の大規模スタディを行う企業はありませんでした。 1970年代後半、コロラド大学健康科学センターの、ウォッデル(William R. Waddell)医師はびっくりするような発見をします。まさにセレンディピティです。 彼は家族性大腸腺腫症(大腸にポリープが数百、数千できそれらはいずれ癌化する、そういう病気です)の患者さんにたまたまアスピリンを投与したところ、ポリープが完全に消えたのでびっくりします。 その患者さんの家族3名(家族性大腸腺腫症を発症している)にもアスピリンを投与したところ、やはりポリープが消失することを発見しました。 この発見も一流雑誌には掲載されず、1983年ようやく「外科腫瘍学雑誌」に掲載されましたが、相手にされませんでした。健康科学センター勤務で、癌が専門では無い医師の報告だったからでしょう。 しかし、6年後、今度はジョンホプキンス大学の大腸癌専門医、フランシス M. ギアディエロ(Francis M. Giardiello)医師が22名の家族性大腸腺腫症の患者さんにNSAID(エヌセイド;非ステロイド系抗炎症剤;アスピリンもその一つ)を投与したところ、ウォッデル医師の報告と同様にポリープの消失や著明な減少を発見します。 それを1993年ニューイングランド医学雑誌に報告、これは超一流雑誌ですから世界中でアスピリンなどのNSAIDの癌予防に関する研究が始まり、今も続いています。なぜアスピリンが大腸ポリープを縮小、消滅させるかも解明されています。 2015年1月20日にも英国の大学から、低用量アスピリンを服用すれば、癌死が減るとの報告がありました。今でもホットな話題です。 毎日飲めば、癌にも脳梗塞にもならない? 以前、ある方と話をしていたら「私はこれを毎日飲んでいるから、癌にはならないし、脳梗塞にもならない」と言って小児用バッファリンを見せてくれました。残念なことに小児用バッファリンには、ややこしいのですが、アスピリンは入っていません。アセトアミノフェンがその主成分で、アセトアミノフェンにはがん予防効果も脳梗塞予防効果も認められていません。 その方の勘違いを訂正し、服用するなら、低用量アスピリンの方が良いですと伝えました。それも、主治医とよく相談するように話しました。低用量アスピリンでも出血を生じることがあるからです。 話は冠疾患に戻ります。狭心症、心筋梗塞予防に低用量アスピリンはよく効きます。高脂血症、高コレステロール血症、肥満、糖尿病、家族歴、高血圧、喫煙などの危険因子を持っている方はぜひ相談ください。 【参考文献】 Miner J1, Hoffhines A.The Discovery of Aspirin's Antithrombotic Effects: Tex Heart Inst J. 2007; 34(2): 179-186. http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1894700/ 全文が読めます。 CRAVEN LL、Acetylsalicylic acid, possible preventive of coronary thrombosis. Ann West Med Surg. 1950 Feb; 4(2):95. CRAVEN LL、 Coronary thrombosis can be prevented. J Insur Med. 1950 Sep-Nov; 5(4):47-8. CRAVEN LL、 Experiences with aspirin (Acetylsalicylic acid) in the nonspecific prophylaxis of coronary thrombosis. Miss Valley Med J. 1953 Jan; 75(1):38-44. CRAVEN LL、Prevention of coronary and cerebral thrombosis. Miss Valley Med J. 1956 Sep; 78(5):213-5. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2016/07/19 アスピリンの起源はヤナギにあり これまで、ニトログリセリン、βブロッカー、カルシウム拮抗剤など、冠動脈疾患治療薬について書いて参りました。今回もその続きとして、冠動脈が血栓(血の塊)で閉塞するのを予防する薬「アスピリン」についてお伝えしようと思います。 アスピリンは150年近い歴史がある薬です。今も世界中で、広く使われています。色々な作用があり、色々なエピソードがあります。 一般的にアスピリンは解熱、鎮痛剤として使われます。冠動脈の閉塞予防で使われるのは低用量のアスピリンです。そのアスピリン量としては1日量が80-100mg程度です。解熱鎮痛剤として使うなら、その10倍以上の量が必要です。 なお、アスピリンはピリン系のお薬ではありません。アスピリンはヤナギの樹皮から合成された物質にその起源があります。古来、色々な植物の樹皮や植物そのものに鎮痛作用があることが知られていました。ヒポクラテスはなかでも「ヤナギの葉や樹皮」に鎮痛解熱作用があることを書き残しています。日本でも歯痛には「柳楊枝が効く」と言い伝えられてきました。このヤナギに科学の目を向けたのはイギリス人聖職者エドワード・ストーン(Edward Stone)です。 彼はマラリアが流行っている地域でもヤナギがたくさん生えていることから(この理屈は、少なくとも私には理解不能です)、ヤナギの樹皮に抗マラリア作用がある物質があると考え、乾燥させたヤナギの樹皮を細かく砕いて、50名の患者に投与したのです。投与後、解熱したり痛みがおさまったりしました。この結果についての手紙を1763年4月25日に記して、英国王立協会会長に送りました。それが現在も残っています。重要な発見だったので、その手紙は後に、出版もされました。しかし、残念なことに彼の名前が間違えられて出版されています。Edward StoneがEdmund Stoneになっているのですね。 これがその文献の表紙です。Edwardsのはずが、Edmundになっています。 閑話休題、ヤナギの樹皮の成分分析をしたのは、フランスの薬剤師アンリ・ルルー (Henri Leroux) とイタリアの科学者ラファエレ・ピリア (Raffaele Piria) で、1830年のことです。彼らは解熱成分を分離してサリシンと名づけます。サリシンはラテン語の salix=「柳」から命名されています。このサリシンは体内で分解されてサリチル酸として作用します。ピリアはサリシンから、サリチル酸の分離にも成功します。 これとは別にセイヨウナツユキソウ(学名:スピラエラ・ウルマリア)という植物から分離されたスピール酸も同様な鎮痛解熱作用を持っていることがわかりましたが、後年、スピール酸とサリチル酸は同一物質であることがわかっています。スピール酸はイボ切除用「スピール膏」にその名を留めています。 解熱鎮痛作用は強いが、胃炎を生じやすかったのを改良 さてサリチル酸です。解熱鎮痛作用は強いのですが、胃炎を生じやすく、服用するとかなりの頻度で胃痛を生じていました。それを解決したのはドイツバイエル社のフェリックス・ホフマン(Felix Hoffmann)です。 彼の父親は関節リウマチによる痛みに苦しみ、サリチル酸を服用していましたが同時に胃痛にも苦しんでいました。それを見て、親孝行だったホフマンはサリチル酸の改良に取り組み、サリチル酸にアセチル基を付与したアセチルサリチル酸の合成に成功します。アセチルサリチル酸は消化管への影響がサリチル酸より圧倒的に少なくなり、今でももちろん現役バリバリで使われています。 1899年3月6日、バイエル社は、アセチルサリチル酸を「アスピリン」と商標登録します。アはアセチル基の「ア」から、「スピリ」はセイヨウナツユキソウの学名:スピラエラから名付けられています。アスピリンによる胃腸障害はかなり減少しましたが、それでも胃腸障害が生じることがあるので制酸剤とアスピリンを混ぜたのが「バッファリン」です。Buffer=緩衝するから、その名の由来です。 話は戻りますが、アスピリンがなぜ、痛みを和らげたり、熱を下げたりできるのか長らく不明でした(注:作用機序は不明だけど「効く」薬はたくさんあります)。それが解ったのは1960年代後半のことです。英国王立外科学校基礎研究所のジョン・ベインとプリシラ・パイパーがその作用機序を発見しました。 彼らはラットの肺に卵白を投与するとラット肺はショック状態になることを発見、そしてこのショック肺で作られる物質を動脈や気管に投与すると動脈も気管も収縮することを発見。この物質がプロスタグランディンであることを同定、同時にアスピリン投与でこのプロスタグランディン生成が抑制されることを発見。アスピリンのこの作用が、鎮痛解熱作用の本態であることを発見。それが1971年のことで、ジョン・ベインはその業績で1982年ノーベル賞を授賞します。 早すぎて誰にも理解されなかった発見 ここまではアスピリンの鎮痛作用の話です。ここから本題の冠疾患治療の話に戻ります。1940年代、アメリカでは扁桃摘出術がたくさん行われました。この時、米国カリフォルニア州の開業医(耳鼻科が専門!)だったローレンス・クレーベン(Lawrence Craven)医師にセレンディピティが訪れます(文献1)。 クレーベンは扁桃腺摘出術後の鎮痛剤としてアスピリン含有ガムを噛むように患者さんに勧めていました。ある時、アスピリン含有ガムを投与した患者さんで出血が「ひどく」多いことに気づきます。クレーベンはアスピリンが血液を固まりにくくしていると推定します。そしてアスピリンを投与すれば動脈の閉塞が防げるのでは無いかと考え、彼の患者にアスピリンを投与します。 最初は1948-1950年に400名の患者さんにアスピリン投与したところ、心筋梗塞も、脳梗塞も発症率がゼロだったと報告します。その後、1950-1956年、45-65歳、8000人!の男性患者にアスピリンを投与します。観察期間中に、心筋梗塞、脳梗塞を発症した患者さんはゼロでした。 その結果は1956年9月にMississippi Valley Medical Journalという無名の雑誌に掲載されますが、残念なことにクレーベンは翌年、狭心症?でお亡くなりになっています。あまりにもその発見(アスピリンに心筋梗塞、脳梗塞予防があること)が早すぎたので誰にも理解されなかったのだと思います。耳鼻科が専門だったのも仇になった可能性があります(文献2-5)。 低用量アスピリンの投与が脳梗塞、心筋梗塞予防の標準治療に アスピリンに抗血小板作用があることが薬理学的に証明されたのが1967年のことです。1980年代に大規模スタディが世界中で行われ、低用量アスピリン投与が脳梗塞、心筋梗塞を予防することが裏付けられます。1988年以降、世界中で低用量アスピリンの投与が脳梗塞、心筋梗塞予防の標準治療となりました。 ローレンス・クレーベン(Lawrence Craven)は「そんなことは今から40年も前に俺が発見していた」と天上で呟いているかもしれません。彼は生存中、全く無名でした。もう少し長生きしていれば世の賞賛を浴びたことでしょう。しかし、医学の歴史に彼の功績はしっかりと残りました。これも彼が「きちんと書き残した」からです。以前も書き残す必要性を書きましたが、再度強調したいと思います。 なお、血小板凝集抑制作用は低用量アスピリンでないとその作用を発揮しません。それが面白いところです。鎮痛解熱剤として使う一日1.5グラムの投与では血小板凝集抑制作用は認められなくなります。その量だと、血管内皮細胞が作るプロスタサイクリンの生成も抑制するので、血小板凝集抑制作用が無くなってしまうからです。ややこしいですね。要するに低用量アスピリンは心臓や脳の血管閉塞を予防するけれど鎮痛剤としての使用量ではそういう効果は認められないと覚えておいてください。 外科医にとって、しかし、この低用量アスピリンは実に厄介です。低用量アスピリンを服用している患者さんの手術をすると血が止まりづらいのです。多くの狭心症患者さんはこの薬を服用しています。緊急で無い場合は一週間休薬して手術をしますが、緊急時はそんなことを言っていられないのです。そういう場合、止血に時間がかかります。結局は止血できるのですが、実に厄介でした。 次回は、アスピリンと「癌」についてお話しします。 【参考文献】 Miner J1, Hoffhines A.The Discovery of Aspirin's Antithrombotic Effects: Tex Heart Inst J. 2007; 34(2): 179-186. http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1894700/ 全文が読めます。 CRAVEN LL、Acetylsalicylic acid, possible preventive of coronary thrombosis. Ann West Med Surg. 1950 Feb; 4(2):95. CRAVEN LL、 Coronary thrombosis can be prevented. J Insur Med. 1950 Sep-Nov; 5(4):47-8. CRAVEN LL、 Experiences with aspirin (Acetylsalicylic acid) in the nonspecific prophylaxis of coronary thrombosis. Miss Valley Med J. 1953 Jan; 75(1):38-44. CRAVEN LL、Prevention of coronary and cerebral thrombosis. Miss Valley Med J. 1956 Sep; 78(5):213-5. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2016/07/04 腸内細菌学を世界に先駆けて拓いた 光岡知足先生 前回に続き、腸内細菌叢の話をします。 腸内細菌叢の系統的研究により「腸内細菌学」という新しい学問を世界に先駆けて樹立したのは、日本人です。光岡知足先生という東京大学農学部の出身で、理研や東京大学等で研究をなさった先生です。参考文献の「腸内細菌の話:岩波新書」は1978年の刊行で、当時から腸内細菌がいかに大切かを説いています。 光岡先生は、世界的にも腸内細菌学を世界に先駆けて拓いたとして有名な先生です。なぜ腸内細菌に目を付けたのか、非常に面白いです。 光岡先生は学会でイタリアに行った時、日本とは異なる風景や風土、建物を見て「こんなに違う文化が日本と同時代にあったのだから腸内にも別な文化(細菌叢)があるのではないか?」と考え、次から次に新しい手法でそれまで知られていなかった腸内細菌を発見します。凡人には理解し難い発想ですね。 私が小学校高学年の頃のお話です。当時、カッパブックスで「うんこによる健康診断」という本がベストセラーになりました。内容はよく理解はできなかったのですが、とても面白がって読んだのを覚えています。子供は「うんち」(という響き)が好きなのです。また、絵が大変面白かったです。久しぶりに再読しようと思いましたが、カッパブックスはもうありません。残念です。(2005年をもって新刊の発刊はなくなりました。) ヨーグルトを食べると長生きする? 話はちょっと変わります。便移植とは違う話ですが、ヨーグルトを食べると長生きする?という話を聞いたことがあると思います。 1908年、白血球の貪食作用の発見により、ノーベル賞を受賞したメチニコフが唱えたのが最初です。彼は「老衰の原因は動脈硬化であり、動脈硬化の原因は大腸にいる細菌が毒!を作るからだ」という仮説を唱えます。 そしてブルガリアには長寿の方が多いこと、長寿の方はブルガリア菌で作ったヨーグルトを食べていることを聞き及び、このヨーグルトを食べれば腸内にブルガリア菌が住み着き、動脈硬化を遅らせ長生きできると唱えたのです。そして自らヨーグルト製造会社を作ってヨーグルトの普及に努めます。それが今に続いているのです。 しかし、当時の製法で作ったヨーグルトに入っているブルガリア菌は胃酸で死滅することが解っています。「うーん?」というような話です。メチニコフが現代に生きていれば、長寿の人の便を移植しようと言い出すことでしょうね。ちなみに彼は71歳で天寿を全うしています。当時としてはとても長生きです(参考文献6を参照ください)。 話は戻ります。前回お話ししたCDIですが、結局は抗生物質の使いすぎが原因です。「You use it, you lose it」というのが抗生物質治療を開始するときに頭に入れて置かなければならないことだと習いました。”Use it or lose it(頭や体を使わないとダメになるという慣用句)”からの転用でしょう。要するに、抗生剤を使うなら「適切に」使わないと負けるよということです。 天然痘は地球上から無くなったものの、感染制御は難しい ところで、皆さんは「三大感染症」は何かご存じでしょうか?よくある三大何とか(「三大祭り」とか「三大夜景」とか)ではありません。死亡者数の上位3つです。 エイズ :180万人 結核 :170万人 マラリア: 78万人 です。 世界エイズ・結核・マラリア対策基金という組織があり、お金、人材を投下して何とかこれらの感染症を減らす様な努力が続けられていますが、難渋しています。これも耐性を獲得したエイズウイルス、多剤耐性結核菌、アルテミシニン耐性マラリアの発生があるからです。感染制御は本当に難しいです。 1980年、WHOの事業により、天然痘が地球上から無くなりました。天然痘ウイルスは比較的素直なウイルスで、ワクチンがよく効いたのです。それでもWHOの天然痘撲滅プロジェクトリーダーとしてその撲滅作戦の中心にいた蟻田功先生によると「天然痘は最後には『弱い天然痘』しかいなくなり、ワクチン接種をする地域を特定するのが難しくなっていた」と言っています。 要するに、強い天然痘だとすぐにどこに天然痘患者がいるかわかってしまうので弱くなっていたとのことです。一種の進化です。 ちなみに日本最後の天然痘患者は、中島知子さんというタレントさんだそうです。(正確に言うと、幼少期にワクチン接種をした家族から感染したので「仮性天然痘」に感染。) エボラウイルスも初期のエボラウイルスに罹るとその死亡率はと70-90%と大変高かったですが、今では50%に下がっています。それでも高い死亡率です。当たり前ですが、人間が死に絶えるとエボラも死に絶えるから、エボラも弱くなっているのだと推測されます。これも一種の進化だと思います。 「バイキン」にも実は人間が定義できない「知性」が隠れているのかもしれません。 【参考文献】 99・9%が誤用の抗生物質 医者も知らないホントの話(光文社新書) 岩田 健太郎著 感染症 中公新書 井上栄著 絵でわかる感染症 with もやしもん(KS絵でわかるシリーズ) -岩田 健太郎(著), 石川 雅之(著) 感染症の世界史 洋泉社 石弘之著 「腸内細菌の話」(岩波新書)光岡知足(著) 長寿の研究―楽観論者のエッセイ- メチニコフ 著 幸書房; 復刊版(2006/06) 注)100年以上前に書かれた本の復刻翻訳本です。優れた日本の翻訳文化を示す好例だと思います。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2016/06/20 梅雨時になり、寒暖の差が、結構あります。こういう時期は、血圧が乱高下するので、お気を付けください。また、食中毒が発症しやい時期でもあります。こちらもお気を付けください。最近の話題を幾つかご紹介しましょう。皆さんは「便移植」と言う治療方法が広まっているのをご存じでしょうか? 健康な人の便を患者さんの肛門から大腸に流し込む 色々な病気で抗生剤の投与を受けていると本来持っている腸内細菌叢が変化して、「クロストリジウム・ディフィシル(Clostridium difficile:CDと略)」という困った細菌が腸内に住み着くようになります。そして感染症状を生じます。それをCDIと略します。IはinfectionのIです。 この菌は、偽膜性腸炎や下痢を生じます。治療が非常に厄介な細菌で抗生物質もなかなか効きませんし、感染力が強いので、感染者は個室隔離が必要になることもあります。命取りなることもあります。 こういう時、「健康な人の便を移植する」という治療法を1958年、Dr.Ben EisemanがJournal of Clinical Gastroenterologyに発表しています。Ben(べん)医師が「便」治療の創始者です。(日本人にしか笑えませんね、、、)。 当時は肝炎の検査法が確立していませんから、この便治療はあまり広まりませんでした。健康な人の便を患者さんの肛門から大腸に流し込むという、ちょっとびっくりするような方法ですから、なかなか世間では理解を得られなかったこともあるでしょう。どうしてこういう方法を思いついたのか、私には理解不能です。 偽膜性腸炎が、90%も治った エイズ、肝炎などの感染症のチェックが簡易にできるようになり、この「便移植」は安全に行えるようになり、最近、この治療法が脚光を浴びているのです。 一番大きな影響を与えたのは、N Engl J Med. 2013 Jan 31;368 (5):407-15.に載った: 「Duodenal infusion of donor feces for recurrent Clostridium difficile.」という論文です。 抗生剤では20-30%しか治癒しなかったCD菌による偽膜性腸炎が、90%も治ったという報告です。これを受けて、日本でもCD菌による偽膜性腸炎はもとより、潰瘍性大腸炎やクローン病など様々な腸疾患に対して治験が行われています。 腸内細菌叢が変わることで体質が変わる? そして次の論文が注目を集めました。「Weight Gain After Fecal Microbiota Transplantation」:Open Forum Infect Dis(Winter 2015) 2 (1)。「便移植」のドナーになった方(この報告では若い娘さんです)は顕著な肥満者でした。その便を移植された患者さんは、目的通り偽膜性腸炎は治りました。しかし、元は何を食べても太らなかったのに、肥満者だったドナーと同じようにドンドン太ってしまったのです。 類似した報告がいくつかなされ、現在、便のドナーになるにはあまり肥満でない方にしましょうという流れになっているようです。要するに、腸内細菌叢が変わることで体質が変わるということが明らかになりつつある、そういう情勢です。ここ数年で、もっと色々なことがわかると思います。言葉は悪いかもしれませんが、「デブ菌」「ヤセ菌」といった腸内細菌叢が明らかになるかもしれません。食糧難で苦しんでいる地域があれば、そこの人々には「デブ菌」を移植すれば良いのです。「ヤセ菌」は、手軽な「便移植ダイエット」を流行らせるかもしれません。 もし、そういう「デブ菌」「ヤセ菌」が見つかれば実に面白いとは思いますが、残念ながら、単独でそういう機能を持った菌は見つからないと思います。腸内細菌叢という「腸内に存在する菌の総和」がそういう機能を持たせるのだと思います。 次回に続きます。 【参考文献】 99・9%が誤用の抗生物質 医者も知らないホントの話(光文社新書) 岩田 健太郎著 感染症 中公新書 井上栄著 絵でわかる感染症 with もやしもん(KS絵でわかるシリーズ) -岩田 健太郎(著), 石川 雅之(著) 感染症の世界史 洋泉社 石弘之著 「腸内細菌の話」(岩波新書)光岡知足(著) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2016/06/06 狭心症の治療薬のひとつ、カルシウム拮抗剤 以前のコラムでリンゲル液の組成について、お伝えしました。 文中、心臓がより良く動くためにはカルシウムが必要であることをリンガー医師が明らかにしたことをお示したのを覚えていらっしゃるでしょうか? 今回は、そのカルシウムに関するお薬を紹介したいと思います。 冠動脈が細くなって生じる狭心症の治療薬のひとつにカルシウム拮抗剤というお薬があります。カルシウムというと「骨」が連想されますね。骨を作るカルシウムとは別に血液中を流れるカルシウムと心臓の細胞や血管の細胞でのカルシウムに作動するお薬の話です。前述の如く、カルシウムは心臓を動かすには必須の物質であることがリンガー医師の研究であきらかになりました。また、カルシウムは動脈を収縮させることも明らかになりました。そのカルシウムの作用を弱めようというのが今回お話しする「カルシウム拮抗剤」です。 少し難しい話です。「カルシウム拮抗剤」が体の中で、どのように作用するかを、できるだけ簡単に説明します。 「カルシウム拮抗剤」は血管平滑筋細胞膜上や心筋細胞膜上にあるカルシウムチャネルを抑制し、細胞外から細胞内へのカルシウムイオンの流入を減少させます。本来なら「カルシウムチャンネル拮抗剤」と呼んだ方が良い(注:英語では正しく“calcium channel blocker, CCB”となっています)のですが、日本では「カルシウム拮抗剤」と言い習わしています。 それはともかく、要するに、血液中を流れるカルシウムは血管平滑筋細胞に入ると血管を収縮させますし、心筋細胞内に入ると心筋を収縮させます。カルシウム拮抗剤はこの細胞内に流入するカルシウムをブロックするので、心筋の収縮力を弱め(心臓を保護するように弱めるという意味です。誤解無きように)、血管の収縮を抑制する、そういう作用があります。血管の収縮抑制=血管の拡張ですから、この系統のお薬を使うと血圧も下がります。(注:“カルシウム拮抗剤”というと、カルシウムと拮抗すると誤解され骨がもろくなると思われるかもしれませんが、骨の代謝にカルシウム拮抗剤は全く関与しません。ただし、骨のカルシウムと動脈硬化、高血圧には関係があります。注3参照。) カルシウム拮抗剤は、その薬理作用から、3つに分類されます。 ヒドロピリジン系:主に血管に作用する(血圧も良く下げる) ベンゾチアゼピン系:心臓と血管の両方に作用する フェニルアルキルアミン系:主に心臓に作用する の3つに分類されます。 1. ヒドロピリジン系 1. ヒドロピリジン系は、主に血管平滑筋細胞に作用するので降圧剤として使われます。ニフェジピン(アダラート®)や ニカルジピン(ペルジピン®)や アムロジピン(アムロジン® や ノルバスク®)がその代表です。その代表は、今でもとてもよく使われるニフェジピン(アダラート®)です。 そのニフェジピンは日本と深い関係があります。ニフェジピンは元は、ドイツのバイエル社で発見された物質です。 1966年のことです。バイエル社は、自社内だけでなく、日本人研究者にも「ニフェジピン」の研究を要請します。この辺りの事情はよく解りません。その結果、東北大学医学部薬理学教室の橋本虎六教授のグループは、ニフェジピンに強力な冠血管拡張作用があることを1968年に見いだしています。 1969年には日本医科大学の木村栄一教授がニフェジピンには「冠攣縮を抑制する作用があること」を発表します。 1972年には、金沢大学医学部第二内科村上元孝教授がニフェジピンの降圧効果を世界に先駆けて発表します。 というわけで世界中で広く使われているニフェジピンは、発見はドイツですが、臨床応用に至る道筋は日本の研究者が作っています。ちょっと、誇らしいことです。ニフェジピンは今でも、現役バリバリのお薬です。 ヒドロピリジン系には多くの薬がありますが、その内のひとつニカルジピン(ペルジピン®)は日本製です。山之内製薬(現アステラス製薬)が1976年に創薬したお薬です。今でも、世界中で狭心症、高血圧の治療薬として使われています。 2. ベンゾチアゼピン系 2. ベンゾチアゼピン系は、血管平滑筋、心筋細胞の両方に作用します。代表は、ジルチアゼム(ヘルベッサー®)です。ジルチアゼムは日本で創薬されました(田辺製薬(現:田辺三菱製薬)が1973年に創薬)。抗狭心症作用、抗不整脈薬作用、降圧薬作用を併せ持つので、広く世界中で使われています。 ドイツ語のHerz(心臓)と bessen(良くする)からヘルベッサーと名付けられています。心臓を保護し、血圧もそこそこ下げてくれる、とても良いお薬です。 3. フェニルアルキルアミン系 3. フェニルアルキルアミン系は、主に心筋細胞に作用します。代表は、ベラパミル(verapamil:ワソラン®)です。Vasolan=ワソラン®は、血管を拡張する=Vasodilatorから命名されましたが、現在では血管拡張薬というよりは頻脈性不整脈の治療薬として使われることが多いですね。 ベラパミルには、多少、面白い歴史があります。ベラパミルの元は、アヘンの原料であるケシの研究から生まれたのです。 注:アヘンとはケシから得られる乳液のような物質です。ケシの実にキズをつけると白い液が流出するそうです。 アヘンには、麻薬として作用があるのでアヘン戦争で知られるように、その取り扱いには注意が必要です。日本では、栽培が許されていません。江戸時代には、日本でも栽培されて、主に医療用(麻酔、鎮痛)に使われています。 この写真のようにアヘンを作れるケシは、英語でOpium poppy、学名(ラテン名)を Papaver somniferumtといいます。アグネスチャンの歌で有名な「ひなげし」も芥子の花の一種ですが、ひなげしからはアヘンがとれません。Papaver somniferumtというケシはアヘンを作ることができます。このアヘンから、今から100年以上前に3種類のアルカロイド(天然由来の有機化合物のこと)が分離、生成されました。1.モルヒネ(morphine) 2.コデイン(codeine) 3.パパベリン(papaverine)の3つです。この3つとも、100年以上に亘って、大活躍するお薬です。アヘン5000年に亘る医療薬としての歴史があるのですから、それも当然かも知れません。なお、パパベリン(papaverine)はケシの学名である“Papaver somniferumt”から命名されています。 モルヒネ、コデインは麻薬作用を持ちますが、パパベリンは麻薬作用を持っていません。血管拡張作用、気管支拡張作用が認められ、今も普通に使われています。1968年、このパパベリンから、ドイツ人科学者Ferdinand Dengelが合成したのがベラパミル(verapamil)です。さらに、さかのぼれば、パパベリンは1848年(嘉永元年)にドイツ人大学生Georg Merckが発見しています。この名前に一寸聞き覚えがあるかと思います。Georg MerckはMerck社(現:MSD社)の創始者であるEmanuel Merckの息子さんです。 閑話休題、カルシウム拮抗剤は、心臓手術時の心筋保護液、心停止液にも添加されます。心臓を止めている間に心臓の手術をするのですが、この際、心筋が収縮状態になっていると手術後に著しく心筋障害を引き起こします。また、冠動脈を拡張させる作用もあるので、カルシウム拮抗剤を心筋保護液に添加することで、心臓手術の周術期心筋梗塞を劇的に減少させました。 というわけで、カルシウム拮抗剤は、まとめると (1)血管を広げる作用 (2)心筋収縮を抑制させる作用 (3)心筋保護作用 を併せ持つとても良いお薬です。そういうわけで、狭心症治療に、高血圧治療に、不整脈治療にと、大活躍しています。多くのカルシウム拮抗剤が使われていますが、そのうちの二つは日本で作られ、世界中で使われていることはもっと知られて良いと思っています。 次回は冠動脈が血栓(血の塊)で閉塞するのを予防する薬「アスピリン」についてお伝えしようと思います。 注1:カルシウム拮抗剤とグレープフルーツを一緒に摂取するとカルシウム拮抗剤の作用が強く表れ、血圧が過度に低下したりすることがありますので、ご注意ください。 注2:マクロライド系抗生物質(エリスロマイシン、クラリスロマイシンなど)と併用した場合、カルシウム拮抗剤の血中濃度が上昇し、血圧が下がることがあると報告されています。 注3:カルシウム摂取量が少なくなると、骨から血中にカルシウムが溶出して、動脈硬化の原因の一つになります。カルシウムが多く含まれている水を飲む地域は、脳卒中が少ないことを岡山大学農学部小林純名誉教授が世界に先駆けて発表しました。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2016/05/23 頭を悪くするウイルスが発見される!? 承前、前回の最後に「頭を悪くするウイルスが人の咽頭から発見される」論文が2014年11月に発表されました、と書きました。40%の人はこのウイルスに感染しているらしいという驚きの話の続きです。 Proc Natl Acad Sci U S A. 2014 Nov 1;111(45):16106-11.に載っています。Proc Natl Acad Sciは、通称「プロナス」という科学誌です。 NATURE、SCIENCE、CELL に次いで掲載が難しい雑誌です。実は一度、私も載った(共著者ですが)ことがあります!これは名誉なことでした(プチ自慢)。 それはともかく、「頭を悪くするウイルス」に関する論文の題名は、「Chlorovirus ATCV-1 is part of the human oropharyngeal virome and is associated with changes in cognitive functions in humans and mice.」です。この論文の要旨を簡単に紹介します。 この論文を書いたのはジョン・ホプキンス大学の研究者です。彼らは全く別の研究をしている時、人間の喉の中に、このウイルスがいる事を、偶然、発見したのです。また『セレンディピティ!』 健康な被験者の咽頭から発見されたさまざまな物質のDNAを調査したところ、通常は緑藻(りょくそう:いわゆる“も”)に感染するウイルス「ATCV-1」のDNAと一致している物質があるのを発見します。 この藻類ウイルスは、これまで人間には無害だと考えられていました。ところがこのウイルスが「感染している40%の人」は、「感染していない人」に比べて10%ほど認知能力が低下していたのだそうです。ネズミに感染させるとやはり認知能力の低下が見られたとも書いています。これが本当なら「○カは感染(うつ)る」は、真実かもしれません。まだまだ多くの検証が必要だと思いますが、これは大変面白いですね。あまり緑藻があるところには近づかない方が良いかもしれません(現時点では、冗談です) 。 そもそも風邪とは?ウイルスと細菌の違いとは? 閑話休題。 風邪(感冒)は、実に嫌な病気です。通常ヒトはその生涯で200回風邪に罹ると言われています(参考文献7)。そもそも風邪ってなんでしょう?風邪の定義はさまざまですが基本的には「ウイルスによって生じる上気道炎」です。原因となるウイルスの代表的なのは「ライノウイルス」や「コロナウイルス」です。このほかに、夏を中心に腹痛、下痢などお腹の症状を伴いやすい「エンテロウイルス」、「エコーウイルス」や「コクサッキーウイルス」。春・秋のシーズンの風邪に多い「アデノウイルス」と「パラインフルエンザウイルス」。冬に多く、子どもに重症の肺炎を起こすことのある「RSウイルス 」、「インフルエンザウイルス」などがあります。 「ウイルス」と「細菌」とは違います。お解かりになりますか? 「ウイルス」は「細菌」の1/20から1/200くらいの大きさです。単独では増殖できません。宿主が必要になります。「ウイルス」はタンパク質の殻とその中にDNAかRNAしか持っていません。そのDNAやRNAを細胞に感染させて繁殖します。要するに、「ウイルス」と「細菌」はかなり生物としての性質が違います。そもそも、「ウイルス」が生物かどうかさえ定まっていません。 ここからが今号の本題というか。『随筆』ということで、私の「診療における持論」を書かせていただきます。 これは、あまり知られていないけど本質に迫る話です!皆さんも考えてみてください。 風邪を引くと多彩な症状が出ませんか?咳、鼻汁、鼻閉、咽頭痛、痰、発熱、頭痛など。この多彩さこそ、「ウイルス」が原因である証拠とも言って良いのだと思います。何故なら、「ウイルス」は単独では増殖できないために体内各所に到達し、その細胞に寄生してその部位で各々症状を出します。ですから症状があちこち出て多彩になるのです。 一方、「細菌」は単独で増殖できますから、基本的には体内の何処か一箇所で増殖します。「ウイルス」による風邪のように上気道炎+胃腸炎を併発するようなことを「細菌」は起こしません(AIDSのように免疫能が低下した場合は別です)。「膀胱炎を生じる細菌(ほとんどが大腸菌)」が、咳、痰、咽頭痛は起こしません!「腸炎をおこす細菌」、例えば腸炎ビブリオ菌や赤痢菌は上気道炎を起こしません! 「細菌」は自分が繁殖しやすい場所で増えて症状を発します。要するに多彩な症状を示すのは「ウイルスによる風邪」と思ってください。 ウイルスが原因の風邪には、基本的には抗生物質(抗生剤)は効きません。そもそも抗生物質は「細菌」に効果があるのであって、全く別物である「ウイルス」には効果がないのは当たり前でしょう。 そんなことを言っても「抗生剤を飲んだら治った」とおっしゃる方も多いのです。それは風邪が自然治癒する病気だからで、治る時期に抗生剤を飲むとそれで治ったと思えるのです。または、本当に“稀な”「細菌感染により生じた風邪」だった可能性もあります。例えば「ノドが痛いけど、そのほかは何とも無い」と言うときは、「細菌感染による咽頭扁桃腺炎」を疑います。 それであれば、抗生剤です。それも使う抗生剤はペニシリンが基本です。口腔内、咽頭内の菌は連鎖球菌がメインですから、感受性が高いペニシリンを選択するのが正しいのです。 第3世代のセフェム系抗生剤の使用は論外です。第3世代のセフェム系抗生物質は体への移行性があまり良くない=体にあまり入らないのです(ただし、ある種の感染症には特効薬ということはありますが)。 キノロンは抗菌力が強いので、使用期間は短い方がいいですね。長く投与すると体に必要な菌まで殺してしまいます。そうなると、本来存在すべき「常在菌」を死滅させたりするので、逆に厄介なことになります(女性の場合で言えば、膣内デーデルライン桿菌が死滅するのでカンジダが感染しやすくなります。そういう経験をされた方も多いのではないでしょうか)。 「常在菌」の話が出ましたので、少し「人間の常在菌」についての話を少々述べさせていただきます。 人体のさまざまな場所で「常在菌」が見つかっています。舌には約8000種、喉には約4000種、耳の裏には約2400種、大腸には約30000種、女性器の入口には約2000種も見つかっています。腸管には大腸菌、乳酸菌、ウェルシュ菌が“超”大量にいます。上気道から肺には肺炎桿菌、肺炎球菌などがいます。常在菌の数ですが、口の中には100億個、皮膚には一兆個以上、人間の体全体では数百兆いるだろうと推定されています。正に『人間(じんかん)到る処“バイキン"あり』です! 人間は、たくさんの常在菌と上手に共生しているのです。常在菌は我々の味方なのです。味方を殺すような抗生剤を必要も無いときに投与すると、前号で述べたように「耐性菌」を生じさせます。「美人は菌でつくられる」なんて言う本もあります。面白いです(参考文献9-10)。 オランダには「MRSAがいない」と言われているのをご存知ですか?オランダという国は、抗生剤の使用基準が国中で厳しく決められており、勝手に抗生物質を投与できないのです(参考文献8を参照ください)。 一方、日本ではどうでしょう?普通は病院内にいるMRSAが外来患者さんに見つかることが報告されるようになりました。それが市中MRSAで、大きな問題になっています。なにをか言わんやですね。 WHO(世界保健機関)は、世界中で抗生物質の適正な利用を呼びかける「抗菌薬啓発週間」(2015年11月16~22日)をスタートさせました。日本でも国立国際医療研究センターの国際感染症センターが中心となり、医師に対しても含めて、適正使用を呼びかけています。要するに、抗生物質の使いすぎは止めようということです。 細菌には約2億年の歴史があり、700万年の歴史しかない人類が太刀打ちできるような生物ではないです。細菌の方が人間より賢く、強いのです!私は、抗生物質が本当に必要な時は投与します。しかし、本当に必要な時にきちんと「効く」ようにしておくためには、日頃からあまり抗生剤を乱用しないことです。「耐性菌」ができてしまえば、抗生物質が効きません。 さらに言えば、○○リ○、○ス○マ○クという○○○ライド系抗生物質は不整脈を引き起こすことが知られており、突然死の原因にもなっています。FDAはそれに関する勧告を出しています。 抗生剤を使うことで不整脈死を起こすことがあるのだから怖い話です。もっと言うと、スタチン(血中コレステロールを下げる薬)を服用している方が上記○○リ○を服用すると、スタチンの怖い副作用発症率が上がります。横紋筋融解症の発症率が上がるのです。スタチンを服用している方で、抗生物質を飲まれる時はよくよく注意なさってください。 私は風邪症状の診療に当たる時、もし、抗生剤が必要と判断しても、その抗生剤の選択については非常に慎重にすることを心がけています。 皆さんも風邪症状で受診する時、自身の症状が如何なるものか考えて受診してください。安易に抗生剤を処方して貰って満足などしないようお勧めします。興味がある方は是非、下記の参考文献をお読みください。 それにしても面白いのはインフルエンザです。ある時期から急に患者さんの数が増えますが、暖かくなると、発症する方はゼロに近くなります。何かがあるのだと思います。自然免疫が多くの方に広まったとか、人間には解明されていないインフルエンザ繁殖条件があり、それが変わるのかもしれません。単純に温度、湿度だけなのでしょうか。スギ花粉が飛ぶとインフルエンザウイルスが弱るのかもしれません。冗談です。 世界的に風邪(カゼ)が大流行したのが1968年から1969年のことです。1968年6月に香港で発生し、翌年にかけて世界中で流行したインフルエンザでした。「香港カゼ」と名づけられました。世界中で50万人が香港カゼ(インフルエンザ)のために死亡しています。それから、50年以上、インフルエンザによるパンデミック(=世界流行)は生じていません。しかし、そろそろ強烈なインフルエンザのパンデミックが生じるかもしれません。1968年に比して、交通手段が圧倒的に発達していますから、強いインフルエンザが何処かで発生したら、あっという間に世界中に広まるかもしれません。 【参考文献】 予防接種は「効く」のか?ワクチン嫌いを考える (光文社新書): 岩田 健太郎著 99・9%が誤用の抗生物質 医者も知らないホントの話 (光文社新書) 岩田 健太郎著 感染症 中公新書 井上栄著 もやしもん 1-13巻 石川雅之著 (モーニング KC) 絵でわかる感染症 with もやしもん (KS絵でわかるシリーズ) -岩田 健太郎 (著), 石川 雅之 (著) 感染症の世界史 洋泉社 石弘之著 かぜの科学:ジェニファー・アッカーマン著:ハヤカワノンフィクション文庫:「風邪」についてのまとまった研究書です。 オランダには何故MRSAがいないのか?―差異と同一性を巡る旅:岩田 健太郎 著 人体常在菌のはなし ― 美人は菌でつくられる:青木 皐 著 (集英社新書) 新書 第三の脳 ―― 皮膚から考える命、こころ、世界傳田光洋 著 朝日出版社 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2016/05/09 今回から、時々、感染についてのお話をしようと思います。 話のなかに出てくる「バイキン」とは細菌、真菌、ウイルス、プリオンなど微生物の総称と思ってください。 SARS、エボラ、鳥インフルエンザ、エイズ、結核、マラリア、デング熱、ジカ熱 etc. とにかく、感染は怖いですね。目に見えないモノが相手ですから大変です。 突然ですが、「もやしもん」という漫画を読んだことがありますでしょうか?「もやし」は日本酒を作るときに使う種麹のことで、野菜のモヤシとは関係ありません。この漫画の主人公の大学生には「バイキン」が見えて「バイキン」と会話もできる!そういう設定の漫画です。 この主人公には至る所にいる「バイキン」が見えるのです。「バイキン」の基本を理解するのにとても良い本です。 漫画だけではちょっと…という方には「絵でわかる感染症 with もやしもん (KS絵でわかるシリーズ) 」という少し専門的なマンガ本もあります。興味のある方は、一度手に取りお読みください。 人間が生活している場所はもちろん、南極の氷の中、深海など至る所に「バイキン」はいます。 人体にもたくさんいます。口腔内、皮膚、腸管などには常在菌がいて、体の平衡状態を保つのに役立っています。まさに、人間到る処“バイキン”あり、です! その「バイキン」が人に入り込んだときに悪さをするのが『感染』です。 「バイキンがいる」ことと『感染』は別モノです。『バイキンが入る』=『感染する』ではありません。 しかし、一旦、『感染』が成立すると厄介で死に至ることもあります。 色々と怖いのですが、怖いものの一つに「耐性菌」があります。「耐性菌」の代表は「MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)」ですね。「耐性菌」のなかには一つの抗菌薬(抗生物質)に耐性を持つだけでなく、多くの抗菌薬に耐性を獲得した「多剤耐性菌」というものも生まれています。これは本当に怖いです。「多剤耐性菌」にはダーウィンが唱えた「進化論」が当てはまります。菌は進化しています。この話に流れてしまうとまた長くなりますので、身近なところのお話にしましょう。 「手を洗う」ことが全ての感染予防に通じる この写真を見てください。 左は、MRSAを排菌している患者さんに触れた後、MRSA増菌培地に手をつけてMRSAの発育を見た写真。 右は、同様にMRSAを排菌している患者さんに触れた後、手をアルコールで洗浄した後にMRSA増菌培地に手をつけてMRSAの発育を見た写真です。 一見してお解りになるかと思いますが、手を洗わないとMRSAがたくさん生えてきます。この写真から色々なことが考えられます。 手を洗えばMRSAの「手による伝播」は防止できるかも知れないと考える人がいるかもしれませんし、逆にどこにMRSAがいるのか解らない(目に見えない)のだから、手の洗浄を一体いつすればいいのか解らないと頭を抱えてしまうかもしれません。 いずれにせよ、目に見えない菌を相手にするのは大変です。理論上、患者さんに触るたびに手を洗浄できればよいのですが、それもなかなか大変です。 ちなみに、上記に“MRSA増菌培地”と書きましたが、この培地は特殊な培地でMRSA以外は繁殖できないような特別な培地です。なぜかというと、普通の培地で同様の培養をするとMRSAよりもたくさんいる皮膚常在菌の方が早く増殖してしまい、MRSAの存在がよく解らなくなってしまうからなのです。通常の培養ではMRSAなんかよりもたくさんの「バイキン」が培養されてしまいます。 とにかく、この写真からも解るように、できるだけ「手を洗う」ことがすべての感染予防に通じます。日本は一般に清潔です。トイレ文化も世界一、上水道はほぼ完備しています。 あと、私見ですが、「箸」も大きい要素だと思います。日本食を食べる場合、普通は箸を使います。手でおかずやご飯を取って食べることはしません。しかし、パンは違います。汚れた手でパンを食べたら感染が波及する可能性があります。そういうことをひっくるめて日本は清潔です。 ご先祖様に感謝しなければいけません! 日本のインフルエンザワクチン予防接種は有効? 2015年末よりインフルエンザが猛威をふるっていました(これを書いているのが2016年4月3日で、インフルエンザは下火になっています)。 「予防接種をしているとインフルエンザには罹患しない」と思われる方が結構いらっしゃいますが、それは間違いです! 予防接種をしていてもインフルエンザに罹患することはあります。ちょっと難しい話になりますが、お付き合いください。 日本のインフルエンザワクチンは通常は腕に接種します。そして血中にIgG抗体を作ります。 しかし、インフルエンザウイルスは血中に入りません。インフルエンザは鼻腔粘膜から感染するので、原理原則をいえば、鼻腔粘膜にIgA抗体が分泌させるようなワクチンでないと有効な感染防御はできないことになります(これに比し、例えばB型肝炎ワクチンは話が解りやすいです。B型肝炎ウイルスは血中を循環しますから、B型肝炎ワクチンを摂取すれば抗体が血中にできるので、ほぼ100%感染予防ができます)。 有効な感染予防を実現するために直接鼻粘膜に接種するワクチンなんて見たことないですよね。実は、米国ではそのようなワクチンがあるのです。 これは鼻腔粘膜に生菌ワクチンをスプレーし鼻腔にIgA抗体を作らせるので、インフルエンザの型さえ合えばインフルエンザ感染を高率に予防できます。しかし、生菌ワクチンですので、当然、インフルエンザに罹患する恐れもあり、このワクチンは日本では認可されていないのです。 理屈でいってしまえば、鼻腔撒布型ワクチンを使っていないので「日本でのインフルエンザワクチン接種で予防はできない」のも一理あります。 そんなこともあり、巷ではインフルエンザワクチンに関しては「感染予防にならない」という趣旨の本がたくさん出ております。 しかし!WHOのサイトでも、 「Vaccination is the most effective way to prevent infection and severe outcomes caused by influenza viruses.」@2015-02-05 (ワクチン予防接種は、インフルエンザウイルスの感染や重篤化を防止するための最も効果的な方法です。) と書いてあります。日本形式のインフルエンザワクチン予防接種は、有効な手段なのです。 ちょっと脱線しますが、先日、ある患者さんからお問い合わせいただきました。 「インフルエンザはワクチンで予防不可と結論」というニュースが世間に流れていたそうで、ショックを受けたということでした。 あるブログで、世界保健機関(WHO)がホームページ上に「ワクチンで、インフルエンザ感染の予防はできない。また有効とするデータもない」などと書いてあることが分かったというものでした。 それを聞いた私は直ぐにWHOのサイトを確認しましたが、事実無根。全くそのようなことは書いておらず、前述のように有効性を認めていることしか載っていませんでした。 不思議に思ってこのブログのニュースソースであった別のサイトを見てみると、何と、「●月●日に掲載致しました本件記事につきまして、現在追加取材中につき一時的に非公開にしております」と記事を下ろしているではないですか…… このブロガーさんも世の中に出すのなら、もう一歩踏み込んで確認してからでも良かったのではないかと、残念に思いました。 インフルエンザ感染で怖いのは「脳症」 話を戻しましょう。インフルエンザは激しく型が変わるので、予め今年はこれが流行るだろうと考えてワクチンが作られます。その予想が外れると効果が低くなってしまうので、これがインフルエンザワクチン不要派の論拠の一つになるのです。 それでも健康成人ではおよそ60%程度の発症を防ぐ効果があると報告されていますし、インフルエンザワクチンを接種していると罹患しても軽症で済むことが多いのです。 この冬もクリニックに受診された「熱が出ないインフルエンザ感染者の方」が何人もいらっしゃいました。これまでの私の経験からも総合的に考えると、インフルエンザワクチンはWHOの勧告通り、受けておいたほうが良いと思っています。 インフルエンザ感染で怖いのは「脳症」です。先ほどインフルエンザウイルスは血中を循環しないと書きました。よって、インフルエンザウイルスが脳に到達することはないのですが、「脳症」として発症します。「脳症」というのは、発熱、頭痛、意識障害、痙攣などの脳炎の急性症状を示すのですが、脳実質内に炎症は認められません。 「インフルエンザ脳症」も意識障害や痙攣など怖い病状を生じます。「サイトカイン・ストーム」という状態が「インフルエンザ脳症」の原因になります。「サイトカイン・ストーム」がなぜ生じるかは解っていませんが、解熱剤との関係が報告されています。 インフルエンザによる熱発で安全性が確立されている解熱剤は「アセトアミノフェン」と「イブプロフェン」だけです。ですから私は、インフルエンザが疑われる場合で解熱剤を処方する時は「アセトアミノフェン」と「イブプロフェン」以外は処方いたしません。 「人間(じんかん)到る処“バイキン”あり」です。 寒いと、感冒、インフルエンザが増えます。それは気温が15-18度以下になり、さらに低湿度になると風邪を起こすウイルス(200種類くらいあります)の活動が活発になるからです。それに加えて換気がどうしても悪くなり、「バイキン」と接触する可能性が高くなります。空気が乾燥すると鼻腔粘膜も乾燥して免疫力が落ちてしまい、余計に風邪に罹りやすくなります。 風邪予防に一番効果があるのが「手洗い」です。どうか手洗いを励行してください。そして、湿度管理もお忘れなく! 風邪とインフルエンザでは、あなた自身のみならず家族や職場といった周囲の方への影響が随分と違います。もし、風邪かな?インフルエンザかな?と思ったら、早めにクリニックにおいでください。簡単な検査でインフルエンザかどうか判定可能です。 感染のお話は次回に続きます。お楽しみに。 (次号はこんなお話も……) 頭を悪くするウイルスが人の咽頭から発見されるという要旨の論文が2014年11月に発表されました。40%の人に感染しているらしいです。 Chlorovirus ATCV-1 is part of the human oropharyngeal virome and is associated with changes in cognitive functions in humans and mice Proc Natl Acad Sci U S A. 2014 Nov 11;111(45):16106-11. ※おせっかいな注釈を: 表題の『人間(じんかん)到る処…』ですが、『人間到る処青山あり(じんかんいたるところ せいざんあり)』を捩っています。 幕末の僧、釈月性の詩の一部です。「人の住む世界(人間:じんかん)は広く、何処にいっても死んで骨を埋めるところ(墓場:青山)はある」ということより、「大きな望みを成し遂げるためなら何処にでも行って、活躍するべきである」という意味です。 ※さらにおせっかいな注釈:釈月性の七言絶句全文と注釈です。 男兒立志出郷關 男の子だったら学問を志して郷里を出よう 學若無成不復還 頑張っても学問がならなかったら帰らないよ 埋骨何期墳墓地 骨を埋めるは故郷の土地だけではない 人間到処有青山 どこにでも墓地に適した土地(青山)はあるよ ※さらにさらにおせっかいな注釈: 東京都港区青山にたまたま青山墓地がありますが、これは徳川家の大名だった青山家の広大な屋敷跡が青山という地名に残り、そこに墓地を作ったので、この七言絶句の「青山:せいざん」とは関係ありません。 【参考文献】 予防接種は「効く」のか?ワクチン嫌いを考える(光文社新書) 岩田健太郎著 99・9%が誤用の抗生物質 医者も知らないホントの話(光文社新書) 岩田健太郎著 感染症(中公新書) 井上栄著 もやしもん 1-13巻 石川雅之著(モーニング KC) その他多数 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2016/04/18 前回は、冠疾患治療薬のうち「ニトログリセリン」の話を書きましたが、ほかにも冠疾患治療薬がたくさんあります。今回はベータ遮断薬についてお伝えしようと思います。 薬や細菌が『受容体』と結びついて、さまざまな働きをする ベータ遮断薬は「ベータブロッカー」とも言います。「ブロッカー」とは「遮断」と言う意味ですね。バレーボールで「ブロック」というのがありますが、同じ意味です。 では、「ベータ」とは何か? 一般的に「ベータ」は「β」とギリシア文字で表記するのが普通です。「β」があれば「α」もあります。「α」も「β」も『受容体』の名前です。 細胞にはさまざまな『受容体』があり、薬や細菌が『受容体』と結びついてさまざまな働きをするだろうと予見したのは、ドイツの細菌学者・生化学者 パウル・エールリッヒ(Paul Ehrlich)です。 エールリッヒは、免疫学の進歩とジフテリア抗血清の開発に貢献して、1908年にノーベル医学生理学賞を与えられています。 北里研究所の秦佐八郎はエールリッヒの下に留学し、エールリッヒと共に梅毒の特効薬「サルバルサン」を発明します。ちょっと、日本人にもなじみ深い人物ですね。 エールリッヒは真の天才で、幾つものパラダイムシフトを起こしています。 そのうちのひとつが「側鎖説」で、今の『受容体』にあたる概念をすでに100年も前に表していました。ある種の毒物は体に作用するのに似た種類の毒物は体に作用しないのを見て、細胞には側鎖があり、その側鎖と毒物や細菌が結合しないと色々な作用が現れないと考えたのですね。「側鎖 ≒ 受容体」という考えです。素晴らしい発想です。 『アドレナリン受容体』には2種類ある! 「α」「β」の話に戻ります。これらは、細胞にある『アドレナリン受容体』の名称です。 これを発見し、提唱したのは米国ジョージア医学校の薬理学教授であった Raymond P. Ahlquist(1914-1983)で、1948年のことです。 “A study of adrenotropic receptors”という大変有名な論文です。この論文で『アドレナリン受容体』には2種類あることを提唱しました。 なかなか受け入れられなかったようですが、Ahlquisは1954年薬理学の有名な教科書“Drill's Pharmacology in Medicine”の『アドレナリン受容体』の項の執筆をまかされ、それを機に、その概念が広まります。 「アドレナリン」の精製に世界で初めて成功し企業化したのは高峰譲吉だったのを覚えておられるでしょうか?この時代まで「アドレナリン」が実際にどうして効くのか不明だったのですね。 心臓を休ませる!『β受容体』に拮抗するお薬の合成に成功 その「α」「β」受容体に目をつけたのが、英国の薬理学者 James W Black(1924-2010) です。特に「β受容体」に目をつけ、「β受容体」に拮抗するお薬を作ったら心臓を休ませることができるのではと考え、1958年、ついに世界初のβ受容体拮抗薬(=ベータブロッカー)である「プロプラノロール(インデラル®)」の合成に成功します(文献2.)。 その作用機序ですが、「内因性(体内で作られる)アドレナリン」はβ受容体に作用して心臓の動きを強めます。しかし、「β受容体拮抗薬」はアドレナリンが作用する受容体が作用しないように働くので、心筋収縮力増強作用を抑えます。これにより心臓の動きは(少し)抑制され、脈はゆっくりになります。 結果的に、心臓はお休みすることができて「狭心症」に良く効きます。 狭心症は心筋への酸素供給不足が原因ですから、相対的に心筋の仕事量を減らすことで狭心症を抑えることができたのです。また心筋収縮力を落とすことで血圧も下がることもわかりました。 プロプラノロールが合成され、狭心症や高血圧に効くとわかるまでは、内因性のアドレナリン作用を抑えるのは禁忌であると考えられていました。心臓の働きが弱るからアドレナリンが分泌されるのであり、それを抑制しようとするのは間違いだと考えられていたのですね。それをBlackは見事に覆しました。 Blackは「H2受容体」にも目をつけて、その拮抗薬である「シメチジン(タガメット®)」も発明しています(文献3)。このお薬で胃潰瘍に対する手術は激減します。 こういう合目的創薬を創始したことに対して、Blackは 1988年ノーベル医科生理学賞を受賞します。 その授賞講演で、Ahlquitがいなければプロプラノロールは産まれなかったとも述べています。Ahlquistは1983年に亡くなっています。もう少し長生きすれば一緒に授賞していたかもしれませんね。それにしても、生涯に二つも医学の歴史を変えるようなお薬を発明したBlackは素晴らしいです。 「プロプラノロール」は現在、あまり使われていません。それは気管にあるβ受容体にも作用して喘息を引き起こすことがあり、窒息死を招くことがあるからです。 現在多く使われているβブロッカーは心臓への拮抗作用が強く、気管にはあまり作用しないお薬です。β1選択性の高い薬剤といいます。私も、このβ1選択性の高いβ-ブロッカー製剤を非常に多くの患者さんに処方してきました。実によく効きます。 末期の心不全患者さんへ投与すると、心臓が止まってしまうはずが 閑話休題、プロプラノロール合成成功から、17年経った1975年のことです。 β拮抗薬は狭心症や高血圧に広く使われるようになっていました。当時、β拮抗薬の絶対的禁忌は心不全患者さんへの投与でした。心臓移植を待つような末期の心不全患者さんへβ拮抗薬を投与すると心臓は止まってしまうと考えられていました。 そういう時に何を思ったのか?1975年スウェーデンのWaagstein先生は、心臓移植を要するような拡張型心筋症の7名の患者さんに「アルプレノロール(Alprenolol)」というβ拮抗薬を投与したところ(2-12ヵ月間)、心不全症状のみならず心機能が改善することを報告しました(文献4.)。 しかし、本来なら心機能を抑制する作用のあるβ拮抗薬が、なぜ心機能をよくしたのか不明でした。今でも、はっきりとこれだという作用機序はわかっていません。仮説はたくさんあります。 当時、どのβ拮抗薬をどれくらいの量を投与したら良いかも不明でしたが、密かに(ほかに治療方法がないような患者さんに対して)使われるようになります。 β拮抗薬の心不全治療に関する大規模なstudyは1990年代になって行われ、今では心不全患者さんへの少量β拮抗薬投与はゴールデンスタンダードとなっています。日本でも、1980年頃に導入というか、密かに使われるようになっていたようです。 左)治療前、右)治療後 大きかった心臓(真ん中の白い部分)がベータブロッカー投与により、小さくなっています。 もう試みる治療がないという患者さんにメトプロロールを… 私が医師になった1983年当時も、教科書には「β拮抗薬は心不全患者への投与は絶対禁忌」と書かれていました。 しかし、日本では今でもなかなか心臓移植は受けることは容易ではありませんが、当時は移植を受けられる可能性はゼロでした。拡張型心筋症の患者さんは当時の標準治療を受けておられましたが、末期状態になると治療に反応しなくなります。そういう時代でした。 1984年のこと、やはり拡張型心筋症で末期の患者さんが入院してきました。もう試みる治療がないという患者さんでした。当時、私の指導医だったS先生が「スウェーデンのWaagstein先生が創始したβ拮抗薬による心不全治療を試みてみよう」と仰いました。 とはいえ文献も少なく、投与量もよくわかりません。薬局に行って通常量の20分の1量のメトプロロールというβ拮抗薬を粉にして作ってもらい、おっかなびっくり投与しました。 薬局の先生にも、何に使うのか、説明するのに苦労しましたのを、よく覚えています。 朝から数時間おきに、この1/20量のメトプロロールを飲んでもらいました。心臓がほとんど動いていない患者さんへの投与ですから、いくらご家族へ説明をしてあるとはいえ、大変怖かったのを憶えています。S先生も怖くて、1-2時間ごとに心臓エコーをとることと、少しでも容態が悪化するなら、メトプロロール投与を止めるように、そして夜間は絶対に投与しないようと指示されました。 2週間くらい、病室に張り付いて少量メトプロロール投与を行っていたら、心機能が段々回復してくるのが心エコーでわかりました。また心不全の末期だと頻脈となりコントロールに苦しむのですが、頻脈も収まりました。 結局、通常の使用量の1/10くらいのメトプロロールを一日三回に分けて投与することで心不全のコントロールができ、ついには退院できるまで改善したのには本当にびっくりしました。指導医のS先生と共に喜んだのをとても今でもよく憶えています。 朝から夕方まで、この患者さんの病室に出入りを繰り返していたことを思い出します。私も結構真面目だったのです。この患者さんの娘さんが「ミス東京の1人」だったので、病室に入り浸ったのはそのためだろうと周囲からはからかわれましたが、そんなことはありません。真摯に治療に当たっていたのです。 退院するとき、この娘さんが、当方が照れてしまうほど喜んでくださり、かなり嬉しかったのは確かです(笑)。 狭心症の予防に一番大切なのは、冠動脈の硬化を防ぐこと 長々と書いてきましたが、「β拮抗薬」は狭心症に著効はしても血管を良くするわけではありません。 心臓の働きを少し弱めて狭心症状を改善させる薬であることを忘れないようにしてください。 狭心症の予防には、何と言っても冠動脈の硬化を防ぐのが一番大切です。寒い時期や季節の変わり目には、血圧が上昇し、狭心症を発症しやすくなります。どうかお気を付けください。 狭心症の初発症状は、胸痛に限りません。歯痛、肩痛、腹痛で生じることもあります。「冠疾患に関する危険因子」をお持ちの方は、特に気をつけてください。思い当たるような症状がある方は、早めに、クリニックへ相談ください。 【文献】 Ahlquist RP (June 1948). "A study of the adrenotropic receptors". Am. J. Physiol. 153 (3): 586-600. PMID 18882199. Black JW, Crowther AF, Shanks RG, Smith LH, Dornhorst AC (1964). "A new adrenergic betareceptor antagonist". The Lancet 283 (7342): 1080-1081. The pharmacology of cimetidine, a new histamine H2-receptor antagonist. Brimblecombe RW, Duncan WA, Durant GJ, Ganellin CR, Parsons ME, Black JW. Waagstein F, FIjalmarson A, Varnauskas E, Wallentin I : Effect of chronic betaadrenergic receptor blockade in congestive cardiomyopathy. Br Heart J 1975 ;37 : 1022-1036 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2016/03/28 今回より冠動脈疾患の治療についてお示しします。冠動脈疾患治療には大きく3つあります。 薬物治療 カテーテル治療 冠動脈バイパス術 まず、(1)の「薬物治療」についてお話しましょう。「薬物治療」では、 硝酸薬(ニトログリセリンおよび長時間作用型硝酸を含む) ベータ遮断薬 カルシウム拮抗薬 アンジオテンシン変換酵素(ACE)阻害薬 抗血小板薬 が使われます。 「ニトログリセリン」は狭心症治療薬として最初に使われました。今回はその「ニトログリセリン」にまつわる話を紹介したいと思います。 ダイナマイトでも知られる「ニトログリセリン」の薬効がわかるまで 「ニトログリセリン」は1847年(弘化四年:江戸末期)にイタリア人化学者アスカニオ・ソブレロが合成に成功します。 硝酸、硫酸、グリセリンを混合して作られました。「熱すると直ぐに爆発する」始末におえない物質でした。 ソブレロは、「ニトログリセリンをなめると激しい頭痛が生じる」ことも報告しています。 その後、スウェーデンの化学者だったアルフレッド・ノーベルは、「ニトログリセリン」を珪藻土に染み込ませて安定化させることに成功し、これを「ダイナマイト」と名付けて爆薬として売り出し大成功を収めます。建築土木にも戦争にも使われました。その遺産で皆さんもよくご存知の「ノーベル賞」が運営されています。 「ニトログリセリンの薬効」はどのようにして解ったのでしょうか?これも「セレンディピティ」です。 ダイナマイト製造工場の工員達が強い頭痛や動悸を訴えることに目を付けたのが米国フィラデルフィアのハーネマン医科大学コンスタンチン・ヘリング医師です。ヘリングは友人の化学者にニトログリセリンを合成してもらい自分でも使ってみます。「ニトログリセリンには強い血管拡張作用」があることが解り、狭心症治療薬への応用を発案します。それが1853年のことです。 しかしその後、「ニトログリセリン」は狭心症に対して「効くとする一派」と「効かないとする一派」に分かれます。 その論争に終止符を打ったのは若干26歳のイギリス人医師ウィリアム・ミューレルです。 彼は1879年「Lancet(ランセット誌)」に「ニトログリセリンを数滴舌下投与させると血管拡張を生じるが、内服では効かない」と報告します。 内服では胃の中で吸収され、肝臓で代謝を受けるので「ニトログリセリン」は分解されて作用を発揮できないのですね。舌下なら、そのまま血中に入るので効くわけです(舌下の粘膜からの吸収が大変早く、即効性が期待される薬にはこの投与方法が用いられます)。 今も「ニトログリセリン」が舌下使用されます。ミューレルの報告を読んで狭心症に悩まされていたノーベル自身、「ニトログリセリン」を使用するようになります。 1879年にLancetでの報告がなされて世界中で狭心症の患者さんに「ニトログリセリン」が使用されてきました。今も現役のお薬です。100年以上経ってから「ニトログリセリン」の薬理作用が判明します。「ニトログリセリン」は体内では分解されて「NO(一酸化窒素)」を放出しています。 なんと血管内皮細胞は「血管内皮由来弛緩因子(EDRF:Endothelium-derived relaxing factor)」を分泌していることがわかっていたのですが、この「EDRF=NO」だったのです。この証明でRobert F. Furchgott, Louis J. Ignarro とFerid Murad.は1998年のノーベル医学賞を受賞しています。 要するに血管の一番内側にある血管内皮細胞は「EDRF=NO」を分泌して血管を「弛緩=拡張」させていたのですね。ちなみに「NO」を体内で分泌させるお薬にはシルディナフィル(バイアグラ®)やミノキシジル(リアップ®)があります。バイアグラはED以外にも難病である肺高血圧症の治療にも使われます。 一方、血管を収縮される因子もあり、「血管内皮細胞収縮因子はEDCF(endothelium-dependent contracting factor)」と言い、そのうちのひとつはエンドセリンで元筑波大学の柳沢先生のグループが発見しています。 古くてもよく効く「ニトログリセリン」です。上手に付き合っていけば狭心症にはとてもよく効きます。労作時や早朝の胸痛、ストレス時や疲労時の胸痛を認める方は、ぜひご相談ください。 胸痛に「ニトログリセリン」が効く場合は、狭心症の疑いが強いです。狭心症から心筋梗塞に移行すると、とても怖い合併症が生じることがあります。寒い時期と季節の変わり目は心筋梗塞発症率が上がります。ご注意ください。 次回も狭心症に効く色々なお薬のお話をしようと思います。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2016/03/14 前々回(冠動脈疾患その2)は動脈硬化が主原因の狭心症を例示しました。 冠動脈疾患の危険因子もお伝えしました。 自分には関係無いと思われる方もいらっしゃるかと思います。 今回はごく軽度の動脈硬化でも狭心症や心筋梗塞が生じることをお示ししたいと思います。 それは冠動脈が痙攣(けいれん)することで生じる狭心症です。医学的には『冠攣縮(かんれんしゅく)』と言います。 「攣縮(れんしゅく)」って難しい言葉ですね。要するに血管が痙攣して細くなることです。 この痙攣は一見すると正常に見える動脈にも生じますが、攣縮を生じる血管には程度の差はあれ、動脈硬化の所見が認められます(図1)。 アメリカの心臓病学者プリンツメタル先生が1959年に発見したので『プリンツメタルの狭心症』とも言います(文献1)。 あるいは『異型狭心症』とも言われます(注:普通の狭心症は労作時に生じるのでそれに比して型が違う=「異型」という意味です)。 これは、全狭心症の40%程度に認められると言われています(循環器学会編:「冠攣縮性狭心症の診断と治療に関するガイドライン」による)。 全狭心症の40%程度に認められる狭心症 実際に症例をお目にかけましょう。 56歳男性です。喫煙が危険因子です。仕事が忙しくなると胸痛が生じ、ホルター心電図で「冠攣縮による狭心症」が疑われカテーテル検査を行いました。 図1は左冠動脈の造影所見です。狭いところは一部です。しかし、冠動脈の攣縮を誘発するような薬(アセチルコリン)を投与すると図2のように血管が強烈に細くなります。 誰でもこの薬を投与すると血管が細くなるわけではありません。攣縮を生じる様な病態を持っている方に特異的にこういう現象が生じます。この攣縮は図3でお示ししますようにニトログリセリン投与で解消します。 図1 左冠動脈造影像 図2 アセチルコリン負荷後 図3 ニトロ投与 ストレスが多い喫煙者で早朝に胸痛を生じたら… この患者さんは攣縮が生じている時、胸痛を感じていました。「冠攣縮による狭心症」は、 朝方に生じることが多い(一般的に動脈緊張は朝方に多い。早朝高血圧が生じるのも同じ理由) 労作に関係なく生じる 喫煙者の場合、喫煙により誘発される 常習飲酒者に多い(飲酒によりマグネシウムが排出されそのために血管痙攣が生ずると言われています) ストレスで誘発される などの特徴があります。 典型的な症例はストレスが多い喫煙者で早朝に胸痛を生じます。そういう場合は注意が必要です。 診断はホルター心電図(24時間心電図)や胸痛時のニトログリセリン舌下投与による症状の軽減を認めることなどから行います。 特にホルター心電図は有用です。なぜなら症状が出ていない発作(無症候性発作)が冠攣縮による狭心症ではよく見られるからです。 これはホルター心電図を装着していないと診断がつきません。 なお、普通の狭心症は心電図でSTと呼ばれる部分が低下するのですが、冠攣縮による狭心症はST部分が上昇します(図4)。 治療はニトログリセリン、カルシウム拮抗剤の投与です(お薬については後述します)。 図4 異型狭心症の心電図 「冠戀縮による狭心症」を“なめている”と大変なことになります。それは冠動脈の痙攣がとれなくなってしまうことがあるからです。 そうなると心筋梗塞に移行します。冠攣縮による心筋梗塞は実は厄介です。どういうわけか普通は“効く”ニトロもカルシウム拮抗剤も効かなくなることがあるからです。そういう患者さんが心臓カテーテル室でショック状態になったのを何度も見ました。 冠攣縮による狭心症から心筋梗塞を生じた方の3%は死亡します。軽く考えてはいけません。以前はあまり動脈硬化が関係無いと言われていましたが、冠攣縮による心筋梗塞でお亡くなりになった方の冠動脈を解剖して検査すると結構強い動脈硬化性変化が生じていることがわかりました。 血管が強く狭窄する前に血管の内皮障害が生じて本来なら血管内皮から分泌されるNOの分泌不全が生じていることが冠攣縮の原因であろうと推測されています。 ストレスがあり、常習喫煙者で、ほぼ毎日の飲酒機会がある。そういう方はどうかお気を付けください。 冠動脈疾患の治療には 薬物治療 カテーテル治療 冠動脈バイパス術 の3つが挙げられます。 これらについては順次、解説したいと思います。 雑談) 心臓病とは何の関係ありませんが、プリンツメタル先生はシェイクスピアの初版本の収集家として有名でした。 今なら一冊6~10億円もする全てのシェイクスピア作品について初版本を所蔵していることでも世界的に知られていました。 【文献】 Prinzmetal M, et al. Am J Med. 1959;27:375-88. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2016/02/22 前回は動脈硬化が加速するとどうなるか、実際の症例でお示ししました。今回は、冠疾患の診断に必要なカテーテルの「創始者」についてお話します。 まず、「カテーテル」とは「中空の柔らかい管」のことです。ドイツ語では”Katheter”と表記され「カテーテル」と読みます。英語では“catheter”と表記され「キャシーター」と読みます。日本では一般的にドイツ流に「カテーテル」と呼称します。 元は尿道から膀胱にいれて膀胱から尿を出すための管です(図1参照)。 なぜ、それが心臓の治療や検査に使われるようになったかを今回の話題にしたいと思います。 尿管用カテーテルを心臓に入れた医師 図1 尿管に入れるゴム製カテーテル 図1は「尿管に入れるゴム製カテーテル」の写真です(今でも普通に使われています)。 フランス人医師ネラトンが発明したので「ネラトンカテーテル」とも呼ばれます。 カテーテルの太さ(外径)の単位はフレンチ(Fr)です。上記に色々なサイズのカテーテルを示していますが、例えば、18フレンチ=6mm の外径のカテーテルです。 Aフレンチ単位=A/3mm なのです。 19世紀にフランスの医療機器メーカーのJoseph-Frédéric-Benoît Charriéreさんが決めたので、当初はCharriére単位(Ch単位)としていたのですが、英語圏では「Charriére」の発音が難しいため、フランス製だから、フレンチ(Fr)単位と呼ばれる様になってしまいました。 しかし、フランスではフレンチ(Fr)単位ではなくてCh単位となっています。発音が難しい名前は「損」ですね。もう少し英語で発音しやすければ、本名が「単位」になるという栄誉が得られたからです。 なぜ「ミリメートル(mm)」にしないのかと時々聞かれましたが、フレンチ単位を使うと決まって世界中で使われているので、今更「mm」は使えないのでしょう。 ちなみに「1kg(キログラム)」を決めているのはフランスにある「kg原器の重さ:白金イリジウム合金製の分銅」で物理量ではありません。「kg原器の複製」を各国に配って、それに基づいて各国が1kgを定義しています。他の国際単位は全て物理量が決めています(2018年、それが変わるかもしれません)。 図2 ネラトンのお墓 これは、ネラトンのお墓です。パリのペールラシューズ墓地にあります。ショパンのお墓のそばにあります。 ペールラシューズ墓地にはパリで亡くなられた著名人のお墓がたくさんあり、ちょっとした観光名所になっています。有名な作家、画家、化学者、医学者も沢山ここに眠っています。パリに行くことがあれば、訪れてみると良いかも知れません。あそこにも、ここにも知った名前があります。入り口で「お墓の位置が書いてある有名人一覧表」を購入することができます(参考文献6を参照ください)。 閑話休題、話を戻します。尿管に入れるゴム製のカテーテルがすでに広く使われていたのですね。このカテーテルを心臓に入れた医師の話です。 自分の左肘皮膚を切開して実験 図3 これはカテーテル(尿管用)を人間の心臓の中に入れることができることを証明した世界で最初の写真です(1929年)。 この論文から始まった心臓カテーテル検査に関する研究に対して1956年にノーベル賞が贈られました。 これを撮影し、論文を書いたのはフォルスマンというドイツ人医師です。この写真は自身にカテーテルを挿入して撮影しているのです。 撮影したのは、1929年のことです(医師国家試験に受かったばかりの25歳の時です)。自分の左肘皮膚を切開して(!)肘静脈(ちゅうじょうみゃく)を露出してそこから尿管カテーテルを挿入したのです。 カテーテルを挿入後、歩いてレントゲン透視室に赴いてカテーテルを心臓付近へ誘導して撮影したのが、この図3のレントゲン写真です。 細い管が肘静脈 → 腋窩静脈 → 鎖骨下静脈→ 無名静脈 → 上大静脈 → 右心房を通っているのがお解りになりますでしょうか?自分で麻酔をして皮膚を切開していますが、麻酔をしても痛そうです。 私はこれまでにこの肘部の切開をたくさん行いましたが、両手で操作をしても肘静脈をきちんと出すのはそんなに簡単ではありませんでした。フォルスマンは、右手だけで切開し血管露出操作をしているのだから凄いと思います。 さらに実験(?)終了後には切開した皮膚の縫合が必要です。どうやって片手で縫合したのか外科医としてはとても気になるところでもあります。一緒に実験に立ち会った看護師さんが縫合したのでしょうか?この辺りのことは論文には書かれていません。 実は元々、この実験は立ち会った看護師ゲルダさんに対して行われる予定でした。ゲルダさんは練達の外科看護師で彼女の協力が無ければこの実験は行うことは不能でした。ゲルダさんの体で実験を行うことを約束して実験に協力する約束を取り付けます。しかし、彼女が実験準備を整えて、彼女を手術台に乗せるとフォルスマンはそのまま彼女を手術台に縛り付けてしまいます。実験はフォルスマン自身の体で行ったのでした。 何故、直前になってこうした行動をとったのか、フォルスマンは後年「カテーテルを心臓に入れることが安全かどうか解らなかったので、自分の体を使った」述べています。今でも私なら絶対にこんな実験(?)は行いません。自分で皮膚を切開してカテーテルを挿入するのは怖いです、絶対にやりたくないです。 しかし、フォルスマンは決して「ただの危ない医師」ではありません。この写真が掲載されている論文(参考文献1)を読めば、「危ない医師」どころか際立って「合理的かつ科学的」な医師であることがわかります。 論文を読むと、まずこのカテーテル挿入実験の目的は、緊急時の心臓近くへの薬剤投与をするための方法を確立するためとあります。心臓用カテーテルが開発されるまでは、心臓へのお薬投与は胸壁から心臓へ向かって針をさして行っていたのです。 石川啄木の歌に「死にし児の 胸に注射の針を刺す 医者の手もとにあつまる心」:一握の砂(1910年)」という歌があるのをご存知でしょうか?これは啄木の子供が亡くなる前に心臓に針を刺してお薬を注入している光景です。要するに、心臓にお薬を入れるのには胸から直接心臓に針を刺して、お薬を注入していたのです。今でも、緊急時にそういう処置を行うこともあります。 フォルスマンはまず動物を用いてカテーテル挿入実験をしていますし、屍体を用いてカテーテルが肘静脈から心臓に到達するのを確かめています。そういうことを確かめてから自分の体で実験をしているのですね。論理がきちんとしています。 この人体実験の後も犬や自分の血管(静脈)を切開してカテーテルを心臓に挿入する実験を繰り返しています。自身の身体を使ったその回数は17回。何故17回で止めたのはもう切開する血管が無くなったからだと言われています。 一介の開業医がノーベル賞! 1931年、ドイツ外科学会で成果を発表しますが、無視、冷笑されます。医師だった叔父さんだけが学会発表の後に「このうすら馬鹿どもにはこの研究の価値はわからない。お前はいずれノーベル賞をもらうよ。」とフォルスマンを励ましています。「ご冗談を」と受け流したフォルスマンですが、後年、叔父さんの言ったとおりになったのです。 なお、当時のフォルスマンの上司だったザウエルバッハ先生はこの研究が気に入らず、中止を命じます。後に、この先生は医学史に残る大事件を起こします(参照文献7)。ザウエルバッハ先生は認知症になったのです。認知症になっても診療を続け、“とんでもない手術や診療”を行い続けたのです。それで多数の患者さんが死亡します。患者さんは実に可哀想です。ザウエルバッハ先生が悪かったというよりも周りが悪かったのだと思いますが、なかなか難しい話です。 さて、実験中止命令を受けたフォルスマンはどうなったかというと、病院を“クビ”になります。当然、心臓カテーテルの研究はそれ以降、行っていません。 フォルスマンは、病院を馘首(かくしゅ)されましたが、それでも別の外科医の指導を受けて泌尿器科医になります。尿管カテーテルを使った実験を行っていますので、そういう器具を使う泌尿器科の仕事が好きだったのかもしれませんね。その後、フォルスマンは第二次世界大戦で医師として従軍します。ここでもちょっとした逸話を残しています。 1945年、ドイツ軍が敗色濃厚になるとエルベ川を泳いで渡って対岸にいた連合国軍に投降して自ら捕虜になっています。そして戦後はドイツの片田舎シュバルツバルトで泌尿器科医として開業しています。 1931年を最後に、彼自身は心臓カテーテルの研究はもちろん行っていませんが、1932年にアメリカでクールナンド医師とリチャーズ医師はフォルスマンが1929年に書いた論文を読み、心臓カテーテルの研究を進めます。1941年にはアメリカで初めて心臓カテーテルを行い、その後も心臓カテーテルに関する研究を進め、心臓病の治療・診療に貢献します。その功績でこの二人も1956年にノーベル賞を受賞します。 しかし、受賞したのはこの二人だけではありません。52歳になっていた泌尿器科医フォルスマンも含めた三人で受賞したのです。フォルスマンは友人と食事をしていたとき、至急家に帰るようにという連絡が入り、家に帰ると「ノーベル賞受賞」の知らせでした。一介の開業医がノーベル賞をもらったという稀有の出来事です。以前も書きましたが、きちんと記録して論文にしていたおかげです。まさに叔父さんの予言は的中したのです。 自分の血管を使って実験を行ったフォルスマンのような医師がいたおかげで、心臓病の診断や治療に不可欠な心臓カテーテル検査が広まったのです。 次回は、ごく軽度の動脈硬化でも狭心症や心筋梗塞が生じることをお示ししたいと思います。 余談: フォルスマンの子供の一人は心臓から分泌されるホルモンANP(Atrial natriuretic peptide)の研究で世界的に有名です。 【参考文献】 フォルスマンのノーベル賞論文: Werner Forßmann: Die Sondierung des Rechten Herzens. Klinische Wochenschrift 8 (45), 1929, S. 2085-2087. 注:つい最近まで無料で公開されていたのですが今は読むのに多少のお金がかかるようになっています。フォルスマン死後50年は著作権があるので、課金しようと考えた人がいたのでしょうね。 人体探求の歴史:笹山雄一 著:築地書館 自分の体で実験したい。Mel Boring C.B. Mordan著:紀伊國屋書店 医学の古典をインターネットで読もう。諏訪邦夫著 中外医学社 心臓をめぐる発見の物語;Comroe JH Jr (著),諏訪 邦夫 (翻訳) 中外医学社 ペールラシェーズの医学者たち: 岩田 誠 (著) 中山書店 崩れゆく帝王の日々―外科医の悲劇:ユルゲン・トールヴァルト(著)、 小川道雄 訳 へるす出版 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2016/02/15 今回は、冠動脈疾患その2です。動脈硬化は生まれた時から始まります。それを加速するのが前回にお伝えした危険因子です。(憶えていますか?) 危険因子が特に複合的にあると動脈硬化は加速します。今回は、動脈硬化が加速するとどうなるか、実際の症例でお示しします。なお、お見せします画像は、すべて動画から静止画像にしています。実際には冠動脈造影は動画で見ます。 正常冠動脈画像は前回提示しました。正常ならどこにも狭窄は認めませんし、冠動脈が瘤状(りゅうじょう=こぶ)変化もしません。 また、動脈硬化は冠動脈だけに生じる訳ではないことも示したいと思います。冠動脈に病変がある方は他の動脈にも強い動脈硬化を認めることが多いのです。具体的には腹部大動脈瘤、胸部大動脈瘤、脳梗塞、脳出血、下肢動脈閉塞などを合併します。逆にこれらの病気が見つかってそれから冠動脈疾患が見つかることも結構あります。血管は三次元構造なので色々な方向から撮影して血管形態を確かめます。同じ血管を左右上下や斜め方向から撮影します。 今回お示しする三人の患者さんは全て冠動脈疾患と動脈瘤を合併する方です。 危険因子は高血圧、高脂血症、喫煙。80歳男性の冠動脈造影と腹部CT画像 1番目の患者さんは80歳の男性です。この方の危険因子は高血圧、高脂血症、喫煙です。この方の冠動脈造影と腹部CT画像を示します。図1-1から1-8の画像は全て全てこの患者さんの画像です。 図1-1 右冠動脈造影 図1-2 左冠動脈造影像 図1-3 左冠動脈造影像 図1-4 左冠動脈造影像 図1-5 左冠動脈造影像 図1-6 左冠動脈造影像 図1-7 左冠動脈造影像 図1-8 腹部大動脈CT よく解らないと思いますが、冠動脈に多数の狭窄があることと冠動脈が「こぶ状変化(医学用語で瘤状変化)」を生じているのが解ると思います。 参考までに、これを医学記号で表すと、下記のようになります。 「#1: 50% #2 :50% #3 #4PD #4AV:75% #5 50% #6 75% #7 75% #8 #9 #10 #11 #12 」 #1 、#2 などの数字は冠動脈の部位を表します。50%というのは正常の50%が狭窄しているという意味です。 危険因子は高血圧、喫煙。62歳男性の冠動脈造影と腹部CT画像 2番目の患者さんは62歳の男性です。高血圧、喫煙が危険因子です。この方の冠動脈造影と腹部CT画像を示します。図2-1から図2-5までは全てこの患者さんの画像です。 図2-1 図2-2 左冠動脈造影像 図2-3 左冠動脈造影像 図2-4 腹部大動脈造影 図2-5腹部大動脈CT 危険因子は高血圧、喫煙。70歳男性の冠動脈造影と腹部CT画像 3番目の患者さんは70才の男性です。危険因子は高血圧、喫煙です。図3-1から3-5までは全てこの患者さんの画像です。 図3-1 図3-2 図3-3 図3-4 図3-5 色々とお目にかけましたが、動脈の硬化により動脈が狭くなったり(狭窄)、太くなる(瘤状変化:りゅうじょうへんか)のがお解りになられたと思います。 これらの患者さんは別に珍しい患者さんではありません。どの患者さんも冠動脈バイパス術に加えて瘤状変化を生じた血管を人工血管に置換する手術を行い、皆さん元気で生活に復帰されています。 こうした患者さんは、術後は手術前に存在した危険因子に対する治療を行っています。この危険因子を放置すると再発してしまうからです。 歳を重ねれば誰でも動脈硬化が進行します。 動脈硬化危険因子を再度、記します。 糖尿病 高血圧 喫煙 肥満 高LDL血症、低HDL血症 家族歴 ストレス 腎不全(特に透析中) これらに心当たりがある方は、早めに相談ください。 次回は冠疾患の診断に必要なカテーテルの「創始者」についてお話します。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2016/01/25 今回から数度にわたって狭心症や心筋梗塞の原因となる冠動脈疾患(かんどうみゃくしっかん)についてお話しします。 先ず、1回目は冠動脈(冠状動脈とも言います)疾患の概略をお話しします。とても大切なことですので、是非お読みください。先ずは冠動脈の解剖についてお話しします。 冠動脈とは 冠動脈は、文字通り心臓を「冠(かんむり)」のように覆っている動脈のことです。冠動脈は心臓の筋肉に栄養、酸素を供給しています。 左心室から、全身に動脈血を送る大動脈が出ます。その大動脈から一番始めに分かれる動脈です。大動脈の根本から左右に冠動脈が出ています。左側はすぐに2本(前と後)に分かれます。ですから通常、冠動脈というと3本あることになります。 右側はそのまま右冠動脈と呼びます。左側は、左前下行枝(ひだりぜんかこうし:前側にある)と回旋枝(かいせんし:後ろ側にある)の2本です。右冠動脈は心臓の右側(右房、右室)と左心室の下側へ栄養を供給しています。左前下行枝は心臓の前面から側面を、回旋枝は心臓の後面へ栄養を供給しています。 冠動脈の評価には、冠動脈に造影剤を入れて検査します。実はこの冠動脈造影の開始、創始もセレンディピティなのですが、その話はまたいつか書こうと思います。 さて、冠動脈疾患の説明をうける時に図1、2の様な模型を見た方もいらっしゃるかと思います。 図1 冠動脈を正面から見た時、向かって左の血管が右冠動脈 図2 冠動脈を側面から見たときの向かった左の血管が左冠動脈(前と後ろに分かれています) 心臓の中から、冠動脈だけ取り出した模型です。この模型は、世界中で使われましたが、実は日本製です。考案者は現在、大崎にある東京ハートセンターの理事長の遠藤真弘先生です。同先生が考案し、京都科学社が制作、針金で冠動脈を表しています。 この模型が凄いのは、心臓から筋肉を取り除いたことです。心臓の中から、冠動脈だけ取り出し、針金で表現したのです。冠動脈の走行がとてもわかりやすくなっています。針金がまた絶妙で、実にリアルです。京都科学社の技術力、表現力の高さを物語っています。この模型は、日本は元より、バイエル社を通じて、全世界で使われています。この模型を知らない循環器科の医師はいないと思います。 文献1 はその遠藤先生が「知的財産」について書いた論考です。遠藤先生はこの模型について「知的所有権に無知だったので意匠権あるいは著作権に未登録だった」と後悔の言を書いています。本来なら、この模型は「遠藤モデル」と呼ばれても良かったのですが、外国人の医師は元より、日本人の医師もこの模型の考案者が遠藤先生であることを知る人はまれです。残念な話です。 閑話休題、話を戻します。この3本の冠動脈の重要性には順位があります(もちろん全ての冠動脈が大切なのですが)。 前下行枝 右冠動脈 回旋枝 の順番に大切です。 大切と書きましたが、その意味はそれぞれの血管が急性閉塞した時の死亡率順だと思ってください。 それより怖いのが、図3の部分の狭窄です。これは前下行枝と回旋枝に分かれる前の左冠動脈主幹部(ひだりかんどうみゃくしゅかんぶ)と呼ばれる部分の狭窄です。この部分が急に閉塞すると突然死します。 図3:左冠動脈主幹部狭窄 この写真の患者さんは少し動いただけでも、胸痛が生じるとのことで来院されました。心電図からも狭心症を強く疑ったため、直ちに心臓カテーテル検査を行ったところ、図3のように、左冠動脈の根元が糸のように細くなっていました。このままでは、心臓への血流がいつ途絶するかわかりません。ですから、直ちに緊急で冠動脈バイパス手術を行いました。一歩遅ければ、怖いことになっていたと思います。 血管は文字通り“ぼろぼろ”に… 時々、新聞に著名人の方が「散歩中に突然死」「就寝中に突然死」という記事が出ます。こういう方の解剖をすると、この部位の冠動脈閉塞か、大動脈解離という病気であることがほとんどです。 こういう病気は動脈硬化が原因です。動脈硬化は、血管が硬くもろくなるために生じます。誰にでも動脈硬化は進行します。既に1歳から動脈硬化の所見が現れるとする研究もあるくらいです。 では、動脈硬化が進行するとどうなるでしょうか? 二通りに分かれます。動脈が狭窄、閉塞する場合と、動脈が弱く脆くなって瘤状(りゅうじょう)に変化(瘤状:こぶのように太くなる)する場合の二通りです。混在することもあります。冠動脈に生じる動脈硬化は、狭窄するタイプの変化がメインです。それが狭心症であり、心筋梗塞です。 こういう病気の危険因子(動脈硬化の進展因子とも言えます)はたくさんあります。それは、 加齢:年を取れば動脈硬化は進展します。誰でもです。 性別:男性の方が多い 糖尿病 高血圧 喫煙 肥満 高LDL血症 低HDL血症 家族歴 ストレス これらのうち、いくつかをお持ちの方は、動脈硬化の進行が早いのです。このうち、加齢、性別は本人にはどうしようもありませんが、糖尿病、高血圧、喫煙、肥満などは、コントロールが可能です。 もともと糖尿病があり、且つ、喫煙をして、さらに高血圧がある方は血管が文字通り“ぼろぼろ”になります。 なかでも、私が心の底から怖いと思っているのは糖尿病です。 糖尿病は“血糖値が高くなる病気”、“おしっこに糖が出る病気”くらいに思っている方も多いと思いますが、違います。糖尿病の方は血糖値がアップダウンすることで血管が激しく損傷しますし、神経障害を生じます。神経障害が生じると冠動脈疾患に付きものである胸痛を生じなくなります。これが“無痛性心筋梗塞、無痛性狭心症”です。気が付いた時には、心臓の筋肉がかなりダメージを受けていることも、糖尿病の方には結構多いのです。痛みが無いので深刻な陥っていることが自覚できないのです。糖尿病の方は特に注意しましょう。 喫煙していると、いざという時の全身麻酔リスクが増大しますし、手術後の肺炎リスクも高いのです。喫煙していると、麻酔から覚めた後にも痰がたくさん出るので大変です。どうか、喫煙している方は禁煙してください。 喫煙と冠動脈に関する論文は多数あります。中でも有名なのがこの論文です(文献2)。 「Cigarette smoking during coronary angiography: diffuse or focal narrowing (spasm) of the coronary arteries in 13 patients with angina at rest and normal coronary angiograms.」:喫煙しながら(患者さんがです)、冠動脈造影をしたらどうなるかということを調べた論文です。 今なら、絶対に許されないような研究ですが、このような研究があって初めて「喫煙で冠動脈がどうなるか」がわかったのですから、この研究に参加した患者さんには感謝しなければならないですね。 結果は、「冠動脈造影を行っている間に喫煙をしてもらった13例を検討したところ、喫煙により、冠動脈全体または一部のSpasms(スパスムス:けいれん、収縮)を認める」というものでした。 喫煙で冠動脈は激しく収縮するのですね。喫煙することで、冠動脈に何度も“スパスムス”を誘発しているのです。ですから、喫煙を繰り返していたら血管が損傷するのは目に見えています。 最近、本屋さんでこんな本を見つけました。「早死にしたくなければ、タバコはやめないほうがいい」。煙草を吸った方が長生きすると言っているのです。はっきり!言って、間違いだらけです。どうか、喫煙している方は禁煙してください。それが健康への第一歩です。 次回、動脈硬化が加速するとどうなるか、実際の症例でお示しします。 【参考文献】 人工臓器:Vol. 24 (1995) No. 5 P 966-975 Cathet Cardiovasc Diagn. 1986;12(6):366-75. 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2015/12/21 もう、年末です。時が立つのは早いですね。この時期、忠臣蔵のことが頭をよぎりませんか? 年末というと泉岳寺を思い起こします。30年前、泉岳寺駅のそばに住んでいました。 12月14日になると、お線香の匂いが駅まで漂ってきます。 泉岳寺には「忠臣蔵」で有名な赤穂浪士(あこうろうし)と呼ばれる浅野家家臣46人と、その主君だった浅野内匠頭(たくみのかみ)のお墓があります。47人が討ち入ったのですが、討ち入り後に1人(寺坂信行)はなぜか逃げているので、家臣のお墓は46人分です。逃げた理由は諸説ありますが、はっきりとはしません。 赤穂浪士は、元禄15年12月14日(西暦なら1703年1月30日)に吉良邸に討ち入りをして吉良の首級を上げているので、泉岳寺や浅野内匠頭の領地であった兵庫県赤穂市ではその日(12月14日)「義士祭」が盛大に執り行われます。 一方、討ち入られた吉良邸があった東京都墨田区両国本所松坂町公園では「吉良祭」が同日行われています。これは吉良上野介と共に討ち入りで斬り殺された20名の吉良家臣の供養のためですが、こちらはほとんど知られていません。 年末になると大概どこかのテレビで「忠臣蔵」が放映されます。何度も映画になっています。つい最近も「忠臣蔵」を題材にしたハリウッド映画『ラスト・ナイツ』が上映されていました。「忠臣蔵」も世界的になったと言えますね。 「年末」と「忠臣蔵」は、何故かワンセットです。夏に「忠臣蔵」が話題になることはないですね。今、使用されている暦は太陽暦ですから理屈を言えば1月30日に義士祭を行ったほうが理にかなっていると思います。しかし、年末の慌ただしい日々にあの討ち入りが行われたという気分を残すためにも12月14日に、お祭りが行われるのでしょう。 浅野内匠頭は精神を患っていたので、突発的に吉良に切りつけたと分析している人も それはさておき、「忠臣蔵」は日本人の琴線に触れるのか、たくさんの書物が書かれ、さらに映画、テレビで繰り返しその物語が上演されてきました。忠臣蔵の話をよく知らない人のために纏めると、 浅野内匠頭という、今は兵庫県赤穂市を領地とする殿様がいた(注:内匠頭は官職名、本名は浅野長矩(ながのり)) 浅野内匠頭は朝廷から幕府への使者接待役を仰せつかった その指導をしたのが吉良上野介(きらこうづけのすけ)であり、吉良家は代々、高家(こうけ)と言ってこういう朝廷からの接待時の礼法、作法指導や朝廷との連絡役などをしていた その作法指導時、吉良上野介は浅野内匠頭をイジメた(らしい) なぜイジメたかというと内匠頭から吉良へ「付け届け=賄賂」が少なかったのが大きな原因で、他にも「気が合わなかった」とかの理由があるらしい 陰に日向に吉良は内匠頭を馬鹿にした 浅野内匠頭は吉良上野介を江戸城内で切りつけた切りつけたのは朝廷から幕府への使者をもてなす最終日(三日目)毎日いじめられ堪忍袋の緒が切れた(ことになっている) 江戸城内(=将軍の住まい)での殺傷沙汰だったので「殿中抜刀の罪」で即日切腹を命じられる内匠頭は「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」という立派な辞世の句を残した。即日切腹しているのに、立派な辞世の句を作れるのは凄いですね 喧嘩両成敗?が定法なはずなのに“吉良におとがめ無しは変だ”の世論が次第に生じるようになった。一方、吉良は接待に不具合が生じたとして高家を辞任した(そもそも、切られたら、接待は出来ないのに、、、と思いますが) 浅野家は当然、お取りつぶしになり、浅野家家臣は全員失業 喧嘩両成敗では無かったので幕府に反抗して城に篭って戦おうと主張する一派もいたが、浅野家筆頭家老の大石内蔵助は城の明け渡しを決める その代わりに大石は吉良上野介への復讐をすることを決めて同志を密かに募る 大石内蔵助は“馬鹿”を装い、ひたすら遊び歩いた事になっている(幕府を油断させるため) しかし、大石は、遊んでいると見せかけて、裏で着々と復讐計画を練る 一方、吉良上野介はどうやら“嫌われ者”だったので、江戸城の側にあった屋敷を当時まだ相当な田舎だった本所に屋敷を移される 結局、大石内蔵助をはじめとするいわゆる四十七士は、旧暦12月14日、本所の吉良邸に討ち入り、台所に隠れていた吉良の首をはねる 幕府のなかには“四十七士を武士の鑑”と考え賞賛する向きもあったが、結局は全員切腹の命令が下され、浅野内匠頭と一緒に泉岳寺のお墓に入る事になった というようなストーリーです。 要約すれば、底意地の悪い吉良が浅野内匠頭を苛めたのが発端で内匠頭の怒りを買って切りつけられたが、情けないことに吉良を殺すには至らず結局自分が切腹する羽目に。しかも、お家(浅野家)は断絶、家臣は路頭に迷うと言う最悪の結果になってしまった。そのため、家臣も決して一致団結していた訳では無く、冷めていた家臣も居た。しかし、一部の家臣が強固に団結して、すでに役職を降りてい余命幾ばくもないような老人吉良を殺害するという物語です。 勿論、吉良家にとっては面白くない話で、吉良家の領地だった現在の愛知県吉良町と赤穂市は平成2年まで交流が無かったとのことです(現在は仲が良く、赤穂の義士祭に吉良町の人が参加したりするそうです)。吉良町は洪水の被害に度々あったため、吉良上野介は堤防を築いたり、新田開発のために干拓をしたりしたので、領民には慕われており、名君の誉れが高かったらしいですね。 そもそも私が思うに「仇討ち」と言うけれど、浅野は「殿中抜刀の罪で死罪」になったのであり、吉良が浅野を殺害したわけではない。むしろ逆であり、普通に冷静に考えると「仇討ちは変」だと思います。浅野内匠頭の数少ない行動記録を病跡学的に検討すると、浅野はある種の精神疾患を患っていたと主張する人もいます(参考文献6)。病跡学=パトグラフィ=pathographyとは、歴史上の人物の行動、言動の記録から疾患分析をする学問で、病跡学会という組織もあります。脂質代謝の研究で有名な故五島雄一郎先生は多くの音楽家について、病跡学を用いて、分析した本を多数書いておられます(参考文献7.8.)。 それはともかく、要するに浅野内匠頭は精神を患っていたので、突発的に吉良に切りつけたとそう分析している人もいるということです。また吉良が浅野を理不尽に「いじめた」と言われているのは史実では無いようです(記録が無いのですね)。冷静に考えると、結構色々と問題のある話だったのかもしれないです。 「いろは歌」は「うらみ歌」? ではなぜ日本人にこの復讐物語が広く受け入れられているかというと、ひとえに「仮名手本忠臣蔵」という歌舞伎が流行ったからです。上記1~17の事実(?)や憶測を適当にブレンドして判官贔屓の日本人にうけるように作られたのが、この「仮名手本忠臣蔵」です。 苛めに苛められた「清く正しい人」が我慢に我慢を重ねたけれど最後には怒って、相手をやっつけるというパターンは高倉健の映画の様式美の一つですね。こんな処にまで忠臣蔵は影響します。 さて、この歌舞伎の題名ですが、「仮名手本(かなてほん)」?とか「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」?って一体何でしょう。「仮名手本」を皆さんご存じでしょうか? 「仮名手本」とは仮名習字のお手本という意味ですが、このお手本は仮名47文字だけで歌を読むという離れ業を行っています。知られているのは数種あるのですが、圧倒的に有名なのは、この「いろは歌」は47文字です(古典で習ったこともあるかと思います)。 いろはにほへと ちりぬるを : 色はにほへど 散りぬるを わかよたれそ つねならむ : 我が世たれぞ 常ならむ うゐのおくやま けふこえて : 有為の奥山 今日越えて あさきゆめみし ゑひもせす : 浅き夢見じ 酔ひもせず ですね。47文字で見事に歌になっています。仮名文字を覚えるのに寺子屋などで江戸時代、普通に使われていました。少し前まで「いろは」順で色々な順番が決まっていました。 どうでもいい話ですが、今となっては「いろは」順での席決めなど見られないと思います。数字+ABCD順(あるいはその逆)が多いですね。昔(といっても1991年まで)、ロッテの本拠地だった川崎球場の座席表示は「いろは」順でした。指定席券を買うと「への3番」などと記されているのです。席を見つけるのに一苦労だったのも良い思い出です(席を見つけるのに、いろは歌が必要なんて一寸素敵でした。今、これを東京ドームや甲子園でやったら大変な事になりそうです)。「日光いろは坂」は、今も「いろは」順ですね。数字だけの「日光47坂」になったら、一寸味気ないですね。 閑話休題、この「忠臣蔵」の前に「仮名手本」と付くのは何故でしょう?簡単な話で「仮名文字の数」と一緒の「47」人で討ち入ったからだと単純に考えていました。 しかし、これだけ有名な題名ですから、「ちょっと変わった」説を唱える方もいます。それは、少し怖い話です。「いろは歌」は「うらみ歌」だという説です。いろは歌を7文字ずつにわけてみます。 いろはにほへと ちりぬるをわか よたれそつねな らむうゐのおく やまけふこえて あさきゆめみし ゑひもせす その最後の文字を見ると「とかなくてしす」となります。それを「咎(とが:罪)なくて死す」と書かれていたと説き、江戸時代、「仮名手本」と言えば「=恨み歌」であるのは常識だった主張し、それらを掛けて、「罪が無くて死んだ47人が入っている蔵の物語」を約めて「仮名手本忠臣蔵」とつけたと唱えているのですね。裏付ける文献は無く、一寸眉唾の様です。付会でしょう。 色々な物事には、色々な見方があり… 閑話休題、赤穂浪士と吉良上野介の話に戻ります。歴史上の事実は明らかになること無く、「吉良=悪者」「浅野=いじめられた弱者」の構図が作られてしまい、今に至ります。レッテル貼りの様なモノですね。創作はある意味怖いです。吉良家にも言い分があるだろうと、考える方もいらっしゃると思います。しかし、吉良家には言い訳が許されませんでした。討ち入りで主君を守れなかったのは武士の恥であると言われ、吉良家はお家断絶になってしまったからです。吉良家にとっては散々な話です。 しかし後世、参考文献2のように吉良家から見た忠臣蔵も書かれるようになりました。これは非常に面白い本です。視点を変えると、こうなるのか!と思います。いつも、このように多様な視点を持つことが出来ればと思います。 参考文献について 1.は、忠臣蔵がなぜ日本人に受けるかを分析していて面白いです。2.は上述。3.4.は“いろは歌”が「恨み歌」である事を主張しています。説としては面白いですが、一寸問題がありそうです。 5.は地図!から見た「忠臣蔵」です。こちらも別な視点から見る事の大切さ教えてくれます。 6.7.8.は病跡学に関する本です。病跡学とは、歴史に残された記録を「病歴」と見なして後から病気を推測する学問です。普通は病院にかかると「問診」をされますが、それを後世に行っていると思って頂ければわかりやすいかと思います。 毎年の恒例、忠臣蔵を違った視線で見てお楽しみください。今回はこんなお話でした。一寸まとまりが無く、申し訳ありません。まあ、色々と、忠臣蔵を契機として、色々な物事には、色々な見方があり、「絶対に正しいことなど、科学以外には、あまりない」と念頭に置きつつ、年末を過ごして下さればと思います。 【参考文献】 忠臣藏とは何か:丸谷 才一 著(講談社文芸文庫) 上野介の忠臣蔵:清水 義範 著(文春文庫) 水底の歌―柿本人麿論:梅原 猛 著(新潮文庫 上下) 柿本人麻呂いろは歌の謎:篠原 央憲 著(三笠書房) 日本史の謎は「地形」で解ける:竹村 光太郎 著(PHP文庫) 源頼朝の歯周病 歴史を変えた偉人たちの疾患:早川 智 著(診断と治療社) 偉大なる作曲家のカルテ:五島 雄一郎 著(医薬ジャーナル社) 死因を辿る―大作曲家たちの精神病理のカルテ:五島 雄一郎 著(講談社+α文庫) 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2015/12/14 前々回で、脈がゆっくりになるタイプの不整脈の話をしました。今回は、脈がはやくなるタイプの不整脈の話をします。「はやく」の意味は二つあり、一つは文字通り「脈がはやくなる」タイプ、もう一つは「予想される脈より、はやいタイミングで脈がでる」タイプです。 「ドキン」「どきどき」としたとき、脈は触れている? 自分で不整脈を感じたとき「ドキン」とか「どきどき」とか、そういう風に患者さんは症状を訴えます。そういう訴えの脈が「危険かどうか?」の判断ですが、その判定には「脈を触れること」がとても役立ちます。脈の触れ方は以前お伝えしました。ざっくり言うと「どきっと」感じた時に脈が触れるタイプの不整脈の多くは「上室性不整脈(じょうしつせいふせいみゃく)」です。 「どきっとした時に脈が触れないか触れづらいか触れない」タイプの不整脈は「心室性不整脈(しんしつせいふせいみゃく)」です。 どちらが怖いかというと、後者の「心室性不整脈」です。その診断には、前々回でもお示ししたように、24時間の心電図検査(ホルター心電図検査)が必要です。少しでもおかしいと思ったら、是非、検査を受けてください。人生の分かれ目になるかも知れません。 少しだけ、専門的な話になります。「上室性不整脈」「心室性不整脈」のお話をします。 「上室性」というのは心房(しんぼう)が発生源です。「心室性」というのは心室(しんしつ)が発生源になります。 図1:正常心電図 図2:赤印が上室性期外収縮 図3:橙色印が心室性期外収縮 図1は正常な心電図を示しています。 少しだけ、言葉の説明をします。これからのお話に「期外収縮(きがいしゅうしゅく)」という言葉が出てきます。耳慣れない言葉ですね。「期外収縮」というのは心臓の正常に動く周期以外に出現する不整脈のことです。それには「上室性期外収縮(じょうしつせいきがいしゅうしゅく)」と「心室性期外収縮(しんしつせいきがいしゅうしゅく)」があります。 図2は「上室性期外収縮」の時の心電図です。赤色矢印部分が上室性期外収縮を示します。 図3は「心室性期外収縮」の時の心電図です。橙色矢印部分が心室性期外収縮です。 一見して、普通の心電図波形と形が違うのがわかると思います。期外収縮の波形が正常波形と同一なのが「上室性期外収縮」でその波形が正常波形と大きく違うのが「心室性期外収縮」です。 期外収縮の「出方、発現の仕方」にはたくさんの種類があります。先ほど、上室性不整脈よりは危険と書いた「心室性期外収縮」ですが、実は健康成人の20-30%に見られます。多くは単発生で、その場合は危険ではありませんし、治療の必要もありません。治療が必要になるのは、単発性でも「数が多い場合」や、形の違う心室性期外収縮がたくさん出てくるタイプです。「数が多い?たくさん?」かどうかの判断には、くどいようですが、24時間心電図検査(ホルター心電図)が必要です。 上室性不整脈なら心配ないかというと、そういう訳でもありません。上室性不整脈でも数が多く、持続する時間が多いなら、治療を要します。その代表が、図4の上室性頻拍症(じょうしつせいひんぱくしょう)です。1分間に心拍数が150から200にも達しますので、かなりドキドキします。長く続くと、心不全を生じます。心臓がバテてしまうのです。原因は様々です。治療には抗不整脈薬投与が基本ですが、カテーテル治療を行うこともあります。 図4:上室戦頻拍症:150/分 「心房細動」は珍しい不整脈ではないものの… さて、ここまでお話ししたタイプとはまた別な不整脈があります。それは「細動(さいどう)」という不整脈です。細動とは、心臓から、てんでんばらばらに電気が放出されている状態です。オーケストラの演奏前に各楽器がてんでんばらばらに練習しているのと同じような状態です。どこから、電気がてんでんばらばらにでているかで、二つに分けられます。一つは心房から電気が出る「心房細動」(図5)、もう一つは心室から電気が出る「心室細動」です(図6)。 図5:心房細動 図6:心室細動 図5は「心房細動」の心電図です。 心房細動とは、右房、左房がてんでんばらばらに電気が放出されている状態です。心電図の基本波形である部分の波形は変わりませんが、その間隔は全くバラバラになっています。QRS波の前にある小さい波の形が千差万別ですが、大きい波の形は一緒です。心房細動の原因は加齢、弁膜異常などです。65歳以上方の8%に心房細動を認めますので珍しい不整脈ではありません。この不整脈「自体」で死亡することは滅多にありませんが、正常な脈に比して脳梗塞、手足の塞栓の発症リスクは2-7倍になるので、注意が必要です。 心房が文字通り細かく震えるので心房内で血液がうっ滞して心臓内に血の塊が出来ます。その塊が心臓から血管に流れ出て、頭(脳)に届き、脳の血管を詰まらせたり、手足の血管を詰まらせたりもします。脳の血管が詰まると重い脳梗塞を生じることが多いのも特徴です。 数多くの「心房細動が原因と思われる脳梗塞の患者さん」を診てきました。実は、“しっかり”と抗凝固薬による治療を行えば脳梗塞発症は予防出来ます。“しっかり”と抗凝固薬を服薬している患者さんで、脳梗塞を発症することは稀です。さて、心房細動自体への治療です。治療の基本は3つです。 出来るだけ慢性化しないようにする=心房細動が生じないようにする 心房細動が慢性化した場合は心拍数のコントロールをする 抗凝固薬の投与で脳梗塞予防を行う この3つです。1の心房細動予防には、「抗不整脈薬の投与」「カテーテル治療」が行われます。2にはベータブロッカー、ジギタリス製剤の投与があります。3の抗凝固薬の基本はワーファリンというお薬です。 最近は、ワーファリン以外にも4種の新しい経口抗凝固薬が使えます。こういうお薬をきちんと服用していると、大きな脳梗塞を起こすことはまれになりますが、逆に血が止まりづらくなります。 これまで治療薬の主流であったワーファリンの効き目には個人差があるので、時々、採血をして薬が効いているかどうか確かめる必要もありました。また日常の生活のなかでは、ワーファリン服用中に納豆、クロレラ、青汁を食べる(飲む)とその作用が減弱されますので注意が必要でした。 上述の如く、“しっかり”ワーファリンを投与するのは結構、大変です。“しっかり”とワーファリンを使うのは循環器が専門の医師の「腕の見せ所」でもあります。 ワーファリンは安価です。その為もあり、世界中で多くの患者さんに使われています。 最近、使えるようになった抗凝固薬は、使用に際して定期的な採血は不要ですし、納豆などの食事の制限もありません。非常に使い易くなりました。しかし、ワーファリンに比し、高価です(10-20倍:幅があるのは比較対象となるワーファリンの必要量に個人差があるためです)。 これらの治療薬には各々の特性があるので、患者さんとよく相談して、使用しています。なお、金属性の人工弁が入っている患者さん及び弁膜症に伴う心房細動を認める患者さんにはワーファリン以外の抗凝固薬に塞栓症予防効果は無いのでワーファリンの内服が必要です。 二十歳の女性であっても危険な不整脈が… 次に、「心室細動」の話をします。 図6:心室細動 心室細動は図6に示す如く、全く不規則な心臓の動きを示します。心室が細かく振るえる(=細動)状態になるため、心臓から血液が拍出されません。それは心臓が止まったのと同じ状態です。つまり心室細動状態になると血液が回らなくなるのです。長く(数分から10分まで)そういう状態が続くと、たとえ後で心臓が動くような状態になっても、脳障害を起こします。 図7は、形の違う心室性期外収縮が多発しています。これは極めて危険な状態です。 図8は、図7から30分経った時に記録された心電図です。心室細動(=心停止)を起こしています。 図7:形の違う心室性期外収縮がたくさん見られます。 図8:心室細動を起こした時の心電図(図7と同一の患者さん) この患者さんは二十歳の女性です。基礎心疾患も無く元気に働いていました。しかし、風邪をひいたことによりウイルスが心臓に入り、「劇症型心筋炎」を引き起こして、このような不整脈を生じています。 最初は「動悸がする」、「苦しい」、「熱が下がらない」と訴えて近所の病院を受診しました。その時の心電図が図7です。「危険な不整脈が出ている」と判断され、私が以前勤務していた病院へ救急車で搬送されることになったのです。 しかし、病院到着1分前に心室細動になってしまいました。電気ショックをかけて心拍は再開しましたが、心臓の動きは極めて悪く、人工心臓を装着しての治療が必要になりました。 1ヵ月半後に心機能が回復しました。長く、厳しいリハビリの後、無事退院され、今では普通に生活し、結婚もされ、お子さんもいらっしゃいます。 回復した後、患者さん自身が図8の心室細動の状態になった時の事をよく覚えていると話してくれました。「病院が救急車の窓から見えたと思ったら、目の前が真っ暗になり意識がなくなった」そうです。怖いですね。人工心臓というのは、普通は左心室の補助だけ行いますが、この方は右心室も全く動かなくなってしまったので、左室と右室の両心補助という特別な補助を行いました。 図9はまた別な方の心電図です。74歳の患者さんです。 図9:心室細動を起こした時の心電図 糖尿病、高血圧があり、ヘビースモーカーでした。急性心筋梗塞を発症しました。カテーテル検査で冠動脈に狭窄をたくさん認めたため、緊急手術(冠状動脈バイパス術)を行うことになりましたが、手術室に入って手術台に上った時に心室細動(=心停止状態)となりました。 手術室にいたので心マッサージを行い、そのまま、冠状動脈バイパス術を行い、幸い、助かりました。もし、心室細動が日常生活中に生じていたら、まず助かりません。まさに“運”ですね。 自分には不整脈なんて関係ないと思っていても 3回にわたり、不整脈についてお話をさせていただきました。 「自分には不整脈なんて関係ない」と思っている方も多いと思いますが、動悸を感じたり、脈が乱れるような感じを自覚したら、絶対に我慢しないで医療機関で相談してください。 不整脈の治療は、文字通り「日進月歩」です。お薬、カテーテルアブレーション治療、冷凍凝固治療、外科的治療などがどんどんと進んでいます。専門医にかかり、しっかりとした治療を受けられることをお勧めします。 【追記1】 最近、あちこちでAED(Automated External Defibrillator:自動式体外除細動器)という機械を見ると思います。簡単に言うと電気ショックを心臓に与える装置です。AEDは「心室細動」の治療に使います。くどいようですが、心室細動=「心臓停止状態」です。心臓停止状態が長引けば長引くほど、救命率は低下します。脳神経系の合併症も増します。一分一秒を争います。AEDの使い方の講習会などが開催されると思います。是非、使い方を覚えてください。実は簡単です。AEDの電極を胸に付けると機械が喋ります。機械の指示通りにすれば良いのです。救急隊が来る前にAEDが行われていると救命率が約2倍になります。 【追記2】 ここ数年、検診などで「ブルガタ型心電図」を指摘される方が結構いらっしゃいます。 1992年、スペイン人医師のブルガダ先生達(3兄弟!の連名論文です)は、特殊な心電図波形(ブルガダ型心電図波形といいます)を持ち、且つ“突然死”や“ポックリ病”をひきおこす家系があることを報告しています。 ブルガダ型心電図波形があり、且つ心室細動を生じる病気があることが解り、今はそういう病気を「ブルガダ症候群」と言います。多くは遺伝性ですので、ご家族の方で突然死をした方がいらっしゃる場合は注意が必要です。「ブルガダ症候群」の方は普段は何とも無いのですが、急に心室細動を生じます。しかし、これが大切ですが、「ブルガタ型心電図」=「ブルガダ症候群」ではありません。「ブルガタ型心電図」のほとんどは良性です。しかし、なかには、高率に心室細動を発症すると予測される心電図を示すこともありますので注意が必要です。「ブルガタ型心電図」を指摘されたら、ご相談ください。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2015/10/26 前回お話ししましたとおり、心臓がきちんと動くためには電気が刺激伝導系という電線を正常に流れることが必要です。 その電気ですが、一番最初に「洞房結節」にスイッチ(電気刺激)が入ります。このスイッチの速さ(=脈拍数)は交感神経系、副交感神経の支配を受けています。運動したり、興奮したり、好きな人の手を握ったりすると脈が早くなるのはこのせいです。これを交感神経系が優位になると言います。 逆に、副交感神経が優位になると脈が遅くなります。副交感神経が急激な刺激を受けると心臓が止まってしまうこともあります。極端な例ですが、冷えたビールを大量に一気飲みしてお亡くなりになった患者さん(大学生)を診たことがあります。冷えたビールが食道から胃を通るときに副交感神経系を刺激して心臓が停止したと思われました。急性アルコール中毒と違い、飲んですぐに意識がなくなったのです。救急搬送されましたが、心拍は再開されませんでした。大量のラーメンの一気食いをして意識消失をきたした患者さんもいました。これも一気に胃が拡張して副交感神経が刺激され、一時的に心臓が止まった可能性が高いです。この方は幸いにも意識が戻り、今は普通に生活しています。何れにせよ、一気飲み、一気食いは止めましょう。 心臓に関する「不思議」とは 話は戻ります。要するに脈の数は交感神経系と副交感神経のバランスが決めているのです。ということがこれまで、世界中の教科書に書かれていました。しかし、図1に示すように、心臓への交感神経系と副交感神経の分布バランスが極端に悪いのです。 図1.心臓に分布する神経 これは心臓に関する「不思議」の一つでした。要するに交感神経系が多すぎるのです。 解りづらい話ですが、交感神経が心筋へ「動け」という命令を出すときにはノルアドレナリンという物質を出します。一方、副交感神経が心筋に命令を出すときにはアセチルコリンという物質を出します。ノルアドレナリン、アセチルコリンは神経伝達物質といいます。ノルアドレナリンは心臓の筋肉を動かすのですが、過量になると心臓は「バテて」しまい、心不全になりますし、もっと過量になると心臓は動かなくなってしまいます。正常の心臓にノルアドレナリンをたくさん与えるような実験系を作って実験をするとわかるのですが、ノルアドレナリン投与当初は心臓の動きも良いのですが、段々と心臓の働きは弱ってきます。そういう作用を持つノルアドレナリンを分泌する交感神経が心臓内にはたくさん分布しています。一方、副交感神経系はアセチルコリンを分泌し、心臓の収縮を抑制し、心臓を保護するように働きます。 さて、そのバランスです。あまりに副交感神経が少なすぎます。これでは心臓が「バテて」しまいます。おかしいと思ったのが高知大学の柿沼由彦先生です(現:日本医大)。 柿沼先生は、心臓の筋肉自体がアセチルコリンを作っているのではないか?と思いつき、それを立証します(詳細は参考文献1.-4.)。普通、そんな事は思いつきません。世界で初めて、柿沼先生が証明した事象です。何故、凄いかというと、「心筋細胞自体が心臓を保護するように働くアセチルコリンを作るので、心臓は上手く休める」ことを世界で初めて証明したのです。 だから、心臓にたくさんある交感神経系からたくさん命令が出ても(=ノルアドレナリン出て)、心臓は(心筋自体がつくるアセチルコリンのお蔭で)適度に休むことが出来るので、心臓はバテないのです。心臓が休まずに動ける原理を発見したのですね。凄い研究です。 この現象を証明するような、別な研究も出ています。認知症の研究からです。認知症と心臓は関係がありませんが、認知症治療薬でアリセプト®(ドネペジル:エーザイが開発した日本発のお薬)というお薬があります。詳細は省きますが、この薬は体内のアセチルコリンを増やす作用があります。 2013年、そのお薬を使った5100人を解析した結果、同薬を服用している人は心筋梗塞発症率、心臓病死亡率が減少している事をスウェーデンのグループが発表しています。柿沼先生のグループが行った基礎研究と臨床研究の結果がぴったりと合っています。今、ホットな話題です。要するにアセチルコリンを体内で増やす事が出来れば、心不全の改善や予防が出来ることになりますので、アセチルコリンを体内に増やす器具(もう実は一部臨床使用されています)やお薬の開発が盛んに行われています。 脈がゆっくりになるタイプの不整脈について 前振りが長くなりましたが、話は不整脈に戻ります。そういう緻密な仕掛けで心臓は動いているのです。それでも刺激伝導系の障害が生じる事があります。それが不整脈です。今回はそういう刺激伝導系障害の内で脈がゆっくりになるタイプの不整脈についてお話ししたいと思います。 脈が遅くなるタイプには 房室(ぼうしつ)ブロック(写真 1) 洞機能不全症候群(どうきのうふぜんしょうこうぐん)(写真 2) 徐脈性心房細動(じょみゃくせいしんぼうさいどう)(写真 3) の3つがあります。 (写真 1) (写真 2) (写真 3) これら脈が遅くなるタイプの不整脈に共通するのは、 (1)意識消失を生じる可能性があること (2)徐脈による心不全を生じる可能性があること です。 写真1は、「完全房室ブロック」です。“房室ブロック”とは文字通り、心房と心室の電気の流れが“ブロック”されること=伝導障害により発症します。原因は様々で、生まれつき房室ブロックを認めることもあります。房室ブロックは意識消失も生じますが、心不全になる事もあります。正常成人では約一日10万回!心臓は動いていますが、完全房室ブロックでは1日5万回位の心拍数になり、一回あたりの心拍出量が多くなるため心臓肥大を生じ、心不全状態となり病院に救急搬送されることもあります。 脈が遅くなるタイプの不整脈で怖いのは写真2、3に見られるように急に心臓が止まる場合です。 3秒以上心臓が止まると意識消失を生じます。写真 2 は8秒、写真 3 は6秒の心停止とそれに伴う意識消失を生じています。このタイプの意識消失は、突然生じ、頭に血液が流れなくなるため防御姿勢が取れずに倒れてしまいます。 余談です。私が医学生の頃は不整脈による意識消失を 「Adams-Stokes発作」と習いました。しかし、最近ではその名前が段々長くなっています。現在、欧米の教科書では「Gerbec-Morgagni-Adams-Stokes syndrome」となっています。 これは、Gerbecは1692年、Morgagniは1761年、Adamsは1827年、 Stokesは1846年に、各々が同様の内容の発表をしていたことが後々になって判明したため、病名に4名全員の名前が入るように変わったのです。出世魚とは違いますが、同じ病気でも学んだ時期で名前が変わってしまうのは驚きですね。このままですと、「Adams」や「Stokes」の名前が消えてしまい、「Gerbec-Morgagni発作」となってしまうかもしれません。 閑話休題、この病気は大変恐ろしいです。不整脈により頭に血が通わなくなるので身体は防御態勢をとる事も出来ずに倒れます。ですから、交通事故を起こしてからこの病気が見つかったり、階段から落ちて見つかることもあります。一昨年のことです。外来診療中に目の前で、意識消失を生じた患者さんがいました。直ちに心電図を記録したら、何回も心臓が止まっているので即刻救急車で心臓専門病院に搬送しました。そして、その日のうちにペースメーカーを移植しています。(なんと、その患者さんは車を運転して病院に来ていたのです。ふらふらしたり、交差点でぶつかりそうになったと言っていました!) この病気の治療の基本はペースメーカー移植です。局所麻酔で出来る手術です。ペースメーカーは500円硬化3枚ぐらいを重ねた程度の大きさです。この病気と診断されて、ペースメーカー移植を拒否すると警察に通報しなければいけないこともあります(交通事故予防のためです)。こういう病気の診断に24時間心電計(ホルター心電計)が必要です。24時間、タバコの箱くらいの心電図記録装置をつけて検査します。意識消失はもちろん、ふらついたり、不整脈を感じることがありましたら、すぐにこの検査を受けることを強くお勧めします。 次回は、脈がはやくなるタイプの不整脈の話をします。 【参考文献】 「心臓の力 休めない臓器はなぜ「それ」を宿したのか」(ブルーバックス新書):柿沼由彦著 名著です。アセチルコリンを心筋が作ることを発見した当事者の書いた本ですので、面白くないわけがありません。実に面白い本です。心臓に限らず、生物に興味がある方やお薬に興味がある方は、是非お読みください。 Cholinoceptive and cholinergic properties of cardiomyocytes involving an amplification mechanism for vagal efferent effects in sparsely innervated ventricular myocardium. Kakinuma Y, Akiyama T, Sato T.:FEBS J. 2009 Sep;276(18):5111-25. Anti-Alzheimer's drug, donepezil, markedly improves long-term survival after chronic heart failure in mice. Handa T, Katare RG, Kakinuma Y, Arikawa M, Ando M, Sasaguri S, Yamasaki F, Sato T. J Card Fail. 2009 Nov;15(9):805-11. Donepezil, an acetylcholinesterase inhibitor against Alzheimer's dementia, promotes angiogenesis in an ischemic hindlimb model. Kakinuma Y, Furihata M, Akiyama T, Arikawa M, Handa T, Katare RG, Sato T. J Mol Cell Cardiol. 2010 Apr;48(4):680-93. The use of cholinesterase inhibitors and the risk of myocardial infarction and death: a nationwide cohort study in subjects with Alzheimer's disease. Nordström P1, Religa D, Wimo A, Winblad B, Eriksdotter M. Eur Heart J. 2013 Sep;34(33):2585-91. 注1:アセチルコリンは今から、約100年前の1914年、イギリス人の脳科学者サー・ヘンリー・ハレット・デール(Sir Henry Hallett Dale、1875年-1968年))が発見しています。そして、アセチルコリンの機能はユダヤ系ドイツ人生理学者オットー・レーヴィ(Otto Loewi、1873年-1961年:後にアメリカに亡命)が発見しています。レーヴィは2つのカエル摘出心標本を用いて実験を行いました。迷走神経(副交感神経)を刺激中に採取した心灌流液で別の標本の心収縮が抑制されることを示したのです。要するにアセチルコリンが神経伝達物質であることを証明したのです(なお、この実験は夢を見て思いつき、それをノートに書き付けたのです。この実験でノーベル賞をもらえると確信したとレーヴィは書いています)。実際、デールとレーヴィは1936年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。ああ、そういう夢が見たいです。ちなみに湯川秀樹の中間子理論も寝床で思いつき、それをノートに記したのが元です。 注2:アセチルコリンは、真性細菌などの原核生物を始めとして、ほぼすべての生物での存在が報告されています。30億年前から存在したのです。ある意味、生きとし生けるもの全て(動物、植物、etc.)の生存に関与している物質であるとも言えます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2015/08/31 今回から数回、「不整脈(ふせいみゃく)」のお話をしようと思います。皆さんは「不整脈」という言葉をご存知と思います。正常な脈は整脈といいます。一定のリズムで心臓が拍動していることを示します。不整脈はその名前の通り、脈が不整=「一定リズムでは無い」状態です。不整脈は様々です。無視して構わない不整脈から一瞬にして死に至る怖い不整脈まで色々な種類があります。そういう不整脈に関する基本的なお話しを数回に分けてします。お付き合いください。 基本的な「脈の取り方」とは 心臓は1日に約10万回動いています。±2万回くらいは正常範囲です。1日10万回なら、平均すると1分間当たり約70回心臓が動いていることになります。安静時なら、心臓が収縮する度に約70ccの血液を拍出します。1日なら7000リットルにもなります。それはガソリンなどを運搬するタンクローリー車のタンク一個分に相当します。凄い量の血液を心臓は拍出しているのです。心拍数、心拍出量は年齢、性別、運動量などでもかなり変動します。以前、オリンピックに出たこともあるマラソン選手の心電図をとったことがありますが、平均心拍数が30代前半でした。 不整脈のお話するにあたり基本的な「脈の取り方」を紹介します。不整脈を知るには脈を触ってみることが必要だからです。そもそも「脈」とはなんでしょうか? 心臓が収縮して、動脈を通って、全身に血液を送り出すと、動脈が動きます。その動きが「脈」です。心臓が動いている、証拠とも言えますね。江戸時代には脈を触れてよく観察するための「脈机」という脈を触るための専用机があったくらいです。 それはさておき、「脈の取り方」です。正確に言うと「動脈」の触り方ですね。簡単に触れる事ができる動脈は、 手の動脈…橈骨(とうこつ)動脈:親指測 肘の動脈…上腕(じょうわん)動脈 首筋の動脈…頸動脈 足の付け根の動脈…大腿動脈 足の甲の動脈…足背(そくはい)動脈 など何ヵ所もあります。お風呂に入った時などには触れ易いので、一度触れてみると良いと思います。 ただし、頚動脈を試す時には少し注意が必要です。頸動脈は触りすぎると脈がゆっくりになることがあり、これを「アシュナー反射」と言います。「アシュナー反射」を用いて「ある種の脈が早くなる不整脈」の治療をするくらいですから、要注意です。それ以外の動脈はいくら触っても大丈夫です。もし、触れなかったら、それはそれで問題です(脈無し病=高安病、なんていう病気もあります)。もし本当に脈が触れないなら、医師にご相談ください。色々な病気が隠れているかもしれません。 「ちょっと脈がおかしいな?」「動悸(どうき)がするかな?」と思ったら、手の脈(橈骨動脈:とうこつどうみゃく)を触れてみましょう。橈骨動脈は手首の親指側が一番触れやすい箇所です。普段から気をつけて脈を触れてみる習慣を持つと良いですね。 脈の数も数えてみてください。時計を見ながら、脈を数えてみてください。20秒で脈が20回だったら一分間の心拍数は60/分になります。その際、脈が一定リズムでないなら注意が必要です。脈拍数が一分間に40拍以下、あるいは安静にしていても100以上が続くなら、要注意です。 脈拍数を数えるのが面倒であれば、今はスマホで脈拍を数えるアプリが沢山ありますので、そういうものを利用してみるのも良いでしょう。ただ、脈が触れなくなったり、急に早くなったりする現象はアプリでは判りませんので、「おかしいな」と思ったら、医師に相談してください。 「カエルの脚が3回動く」と「心電図の記録」 そもそも、脈が早くなったり、遅くなったりするのはなぜでしょう。心臓は電気が心臓の筋肉に伝わることで、動いています。心臓の動きと共に電気が流れることを発見したのはドイツ人医師アルベルトフォンケリカー(Albert von KÖlliker)とハインリッヒ・ミューラー(Heinrich MÜller)です。1856年のことです。坐骨神経が付いたカエルの脚の一端を別なカエルの心臓に付けたら、カエルの脚が心臓の一周期当たり3回収縮するのを見つけたのです。この発見は実は偶然なのです。カエルの脚を、別な実験をしていた心臓のところに落としてしまったことからこの発見が得られたのです。脚を落としてなければ、この歴史に残る凄い発見は得られなかったと思います。凄い偶然ですが、それを見逃さなかったのは偉いですね。 次に、簡単に心電図の話をします。心臓の中をどのように電気が流れるかを記録したのが心電図です。オランダのウィリアム・アイントホーフェン(Willem Einthoven)医師が心電図を発明したのが1903年のことです(図2参照)。アイントホーフェン先生の息子さんは電気技師でお父さんの発明した心電計を改良し、簡単に測れるよう改良しました。今、心電図が簡単に測れるのは、この息子さんの貢献が結構大きかったのですが、その息子さんは、オランダから遠く離れた東京で、1945年にお亡くなりになっています。その経緯は何れ、お話ししようと思いますが、「悲劇」です。 さて、その心電図です。皆さんも一度は心電図検査を受けたことがあると思います。 図1 心電図の基本波形 図1は、心電図の基本的波形です。P波は心房の興奮を現すと言われています。PR間隔は心房から心室へ電気が伝わる時間を、QRS波は心室が興奮する時間を、ST部分は心筋の再分極を、T波は心室筋の再分極を示すと言うことになっています。 なぜ、「P Q R S T 」が使われているのか諸説紛々です。「A B C D E 」でも良かったと思うのですが、アイントホーフェンは波形の命名に「P Q R S T 」を使っています。心音の研究もしていたので、PhoneのPを使ったという人もいます。ただ単に「P」が好きだったのかもしれません。真相は不明です。 先ほど、カエルの心臓が1回打つ間にカエルの脚が3回動くと書きました。それは心臓が一回動く度に、P波、QRS波、T波と一致して3回電気が流れるからです。心電図が記録できるようになって初めて、実際に心臓内に電気が流れていることとカエルの脚が3回動くという事実が結びついたのです。逆に言えば、心電図は正しく電気記録をしているとも言えます。 図2 1903年アイントホーフェンが 世界で初めて記録した心電図 図2は、世界ではじめて記録された心電図です。オランダ、ライデンにあるブールハーフェ博物館に展示されています。今の心電図と変わりありません。PQRST全てそろっています。実にきれいです。(注:ブールハーフェ博物館はオランダ自然科学博物館です。オランダで発明、あるいは発見された。自然科学に関する偉大な業績のあれこれが展示されています。例えば、歴史上はじめて顕微鏡を使って微生物を観察したレーウェンフックの顕微鏡などです。日本で発行されているオランダの観光案内本には載っていませんので、行きたい方は博物館のサイトをご覧ください。) ブールハーフェ博物館 心臓の中をどのように電気が流れるか 次は、心臓の中をどのように電気が流れるかのお話しです。これの解明には日本人医師の大きな貢献があります。心臓の中には「刺激伝導系」という経路(電線と思っていただければ結構です)があります。最初に電気スイッチが入るのが洞房結節という部位です。心臓の右心房と上大静脈の間にあります。以下、1→2→3→4 の順に電気が流れます。 洞房結節:イギリス人医師 キースとフラックが1907年に発見:キースフラック結節ともいいます 房室結節:1905年日本人医師 田原淳(たわら すなお)が発見。TAWARAの結節とも言われる。 (注:人間の体の中で日本人の名前がついているのはここだけです。) ヒス束:スイス人医師Hisが 1893年に発見 プルキンエ(Purkinje)線:チェコの医師プルキンエが1839年に発見 1→2→3→4 の順に電気刺激が伝わりますが、発見されたのは、4→3→2→1 の順です。逆なのです。面白いですね。何れにせよ、1→2→3→4 の順にきちんと電気が流れると効率よく心臓が動きます。きちんと電気が流れないと脈は乱れます。それが『不整脈』です。 伝導系の細胞は、心臓を形成する心房細胞や心筋細胞とは形態が違います。それに気づいたのが、プルキンエ、ヒス、田原 淳、キースフラックで、その連続性までにも気づいたのが、田原です。 田原は房室結節のみの発見者のように記載された教科書が多いのですが、これは完全に間違いです。彼の学位論文は「哺乳動物の刺激伝導系」です(図3)。 1から4にいたる「伝導系の全貌」を最初に記載したのは田原です。近年、欧米でも田原の論文が再評価され、ドイツ語で出版されていた「哺乳動物の刺激伝導系」の原文が英訳されて通販でも購入することが出来ます。興味のある方は、読んでみてください。 図3 1906年 田原淳の「哺乳動物心臓の刺激伝導系」表紙 少し振り返ります。オランダのアイントホーフェン先生が心電図法(ECG/EKG)を発明したのが1903年のことです。前述の如く、田原淳による刺激伝導系の発見が1906年です。ほぼ同時期に、心臓に流れる電気に関するとても重要な発見があったことになります。 当初は、刺激伝導系と心電図の関係など全く不明でした。しかし、次第にその関係がわかってきました。両者が相まって解明されていきます。そして、Einthovenは1924年ノーベル賞を受賞します。残念なことに田原の受賞はありませんでした。 以下、次号続く。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2015/11/09 今話題の二つの話がこんなところで結びつくというエピソードをご紹介しようと思います。 今回は、今、日本中を沸かせているラグビーの話から書きます。 再三再四、報道されているように、今回のラグビー ワールドカップ(以下、W杯と略)の予選で3勝しました。これまでのW杯では、24年前にジンバブエに1回勝っただけなので、今回の3勝は凄いことなのです。 サッカーでは「まぐれ」で勝ってしまうこともままあります。天皇杯で、J1のチームが、J2やJ3、JFL、大学生チーム相手に負けたことが、結構、たくさんあります。J1よりJ2へ一度も陥落したことのない横浜Fマリノスですら市立船橋高校に延長戦の末、PKでようやく勝ったことがあります。2003年のことです。憶えている方もいるかと。それくらい、サッカーでは1回勝負なら、「まぐれ」を生じることがあります。サッカーはゴールが小さく、極端なことをいえば、ゴール前を10人で固めれば、なかなか失点もありません。 一方、ラグビーのゴールはゴールライン全体です。ですから防御は簡単ではありません。ちょっと油断するとすぐに点を取られます。しかも格闘技の要素がふんだんにある競技ですから、極めて「まぐれ勝ち」が少ない競技です。 実は私は、大学時代にラグビーをやっていました。ラグビー競技経験者ならすぐにわかるのですが、最初のキックでのタックルやボール回し、タックルに行ったときの当たり具合(倒れ具合、倒し具合)、スクラムの強さで勝ち負けがだいたいわかって(感じて)しまいます。始まって5分もするとだいたいの勝ち負けが悟れる、そういう競技なのです。 1987年から始まったラグビーのW杯で日本は、幸いアジア各国がサッカーほどには強くないため、毎回出場しています。しかし、上述の如く、1回しか勝ったことがありませんでした。引き分けも二度あっただけです。それも消化試合です。1995年の対ニュージーランドオールブラックス戦では 4-106 と歴史的な大敗と最多失点記録を作っているくらいです。しかも、この時のオールブラックスは2軍でした。1軍ならば200点を超える失点になったかもしれません。 全くレベルの違う話で強縮ですが、私の大学時代、大抵の試合相手は他大学医学部のラグビー部でした(医科大学のみで構成される連盟組織があります)。ですから、力はある程度均衡しており、そんなに点差が開きません。 ところが4年生の時のことでした。我々もラグビー合宿のメッカの一つである山中湖で、合宿をしました。夜になると、色々な大学のラグビー部の選手やマネージャーが、あるスポーツ用品店に集まり、情報交換や練習試合を組みます。皆、普通の体育会の強いチームばかりです。医学部のラグビー部のことは、どのチームも相手にしてくれませんでした。しかし、筑波大学ラグビー部のマネージャーが何を思ったのか、練習試合をしてくれると言ったのです。筑波大学医学部ラグビー部ではありません。本物の筑波大学ラグビー部です。早速、次の日に試合をしたのですが、それは試合と言えませんでした。我がチームはボールに触らせてもらえないのです。あっという間に何回もトライを重ねられて、3-97で負けました。 余談ですが、当時、筑波大学はラグビーに力を入れていて、元スコットランド代表で世界的に有名なラグビーコーチ、ジム・グリーンウッド氏を招請していたのです。試合後にグリーンウッドコーチはうなだれている私たちの所に来て一言「Good spirit!」と言ってくれました。良い思い出です。 私は1987年、代表チームレベルで、この時と同じような光景を国立競技場で目にしました。ニュージーランドオールブラックス対日本の試合においてです。オールブラックスの全てのキックはトライに結びつけられ、タックルはかわされ、大人と子供の試合でした。0-94で日本が負けています。それは「試合」とは言えないモノでした。改めて、ラグビーは実力差通りだなと思い知らされました。日本とラグビー強豪国であるニュージーランド、オーストラリア、南アフリカとの力の「差」はそれくらい有ったのです。しかし、それは「4年前まで」はです。 どう考えても、勝てるような相手ではない相手に勝てるようにというミッションを与えられたのが、今大会のエディー・ジョーンズ コーチです。彼は、元はオーストラリアの監督で、W杯で準優勝したのに「優勝出来なかった」という理由でオーストラリアとの契約を切られています。厳しいですね。そのジョーンズ氏が3年かけて作り上げたのが今回のジャパンです。初戦の相手は2年前から「南アフリカ」に決まっていました。南アフリカは「世界一」のオールブラックスに何度も勝っているくらいの強豪です。私は、いくらジョーンズ コーチが名監督でも、「無理だろうな、50点差はついて日本が負けるだろう」と思って、試合当日は寝てしまいました(早朝4時が開始時間)。一生の不覚です!朝、起きたら、エラいことになっていました。エディ ジャパンが南アフリカに勝っているではありませんか!私の中であり得ないことが起きていました。 悔やみながらも何回も試合のビデオを見ました。ジャパンは真っ向勝負をしています。正面攻撃をして、トライを3つも取って勝っています。色々なスポーツを見てきましたが、これほど感動した試合はありません。最後の最後に、南アフリカがペナルティーを犯して、ジャパンはペナルティキックを蹴る権利を得ます。ここで、五郎丸選手がキックをして決まれば3点で、同点どまりで試合終了です。それでも充分凄いことです。しかし、ジャパンはペナルティーキックを選択せずに、スクラム(決まれば5点です)を選択しました。「スクラムを選択する=トライを取りに行く=攻め続ければ試合は終わらない=そしてトライする=逆転する」それを狙っている。この無謀な意図を理解した観客は、その「勇気」を称えて「ジャパン、ジャパン」と言っているではありませんか。それを聞いて、鳥肌が立ちました。そして、最後のトライ成功! 何というか言葉もありません。世界中のTV、新聞などで「あり得ない!」、「ラグビー史上いや全てのスポーツ史上最大の番狂わせ」、「こんなシナリオ書いたら笑われる」、「何かの間違い」と書かれました。W杯開催地の英国中がこの試合の結果に湧いたとも報道されています。それくらい凄いのでした。 一体どうやって訓練したら、南アフリカに勝てるのでしょう。いろいろと報道されていますが、ジョーンズ コーチは「世界一厳しい練習」の賜物だと言っています。早朝5時、6時からの始まる(一日に)3部や4部構成の練習とか、総合格闘技家を呼んでタックルの練習をしたとか……恐ろしいことが書かれています。まあ、それくらいやらないと南アフリカやサモアには勝てなかっただろうと思います。世界を相手にするとは、そういうことだと改めて感じました。 試合をよく見ると、南アフリカの4番の選手と16番の選手(両選手ともフォワードです)の猛烈な突進によるトライが印象的でした。タックルに行った選手ははじき飛ばされています。二人とも体重は120kgを越えています。そういう選手に走らせる機会を与えると止めようがありません。一瞬の隙をついて、100kgを越えた選手が走ってくるのですから恐いです。ほとんどの場面で南アフリカの選手が走りだす前に、ジャパンの選手はハードタックルに行っていました。怖いですね。私もラグビー中のタックルで、鎖骨を一回、指を一回、肋骨を二回折っています。だから、怖さが解かります。 ラグビーに力を入れていた神戸製鋼の亀高素吉さんと大村先生 ここから本題、今や強豪国をも倒す日本ですが、今回のチームにも3名の神戸製鋼所属の選手が選ばれています。神戸製鋼といえば、平尾、大八木、林、本木など沢山の名選手を輩出しています。元はといえば神戸製鋼の社長、会長を務めた亀高素吉さんが、社長秘書室長時代からラグビーに力を入れて、先に挙げたような選手を直接口説いて集めたのです。簡単な話ではありませんでした。 また、日本で初めて練習グランドに芝生を導入し、クラブハウスを作り、ラグビーをやるのに素晴らしい環境を整えたのです。そして、亀高社長は、元オーストラリア代表だったイアン・ウイリアムス選手を神戸製鋼に招きます。今でこそジャパンチームには外国人が結構いますが、その先鞭をつけたともいえます。イアンのプレーは異次元でした。イアン以降、素晴らしい経歴を持った外国人選手が日本でもプレーするようになり、今のジャパンの元というか原型を作った功労者の一人だと思います。イアンはジャパン(代表)にも選ばれています。 さて、亀高さんは社長や会長を歴任した後、なんと、72歳で大学に入り直します。彼は神戸大学経済学部出身でした。それがなんと神戸製鋼会長退任後、北里大学の大学院の薬学研究科に入学します。なぜそんなことをしたのかは文献3に詳しいです。 全くの畑違いですから高校の教科書で自習したり、復習・予習やリポート書きを一所懸命行い、ついには薬理学など13教科26単位を3年で取得!その成績は、平均96.5点!だったそうです。お孫さんをも呆れさせるほど勉強していたと、本人が述べています。凄いですね。それから7年にわたり研究生活を送り、計10年で大学院博士課程を終え、論文を4編書いて薬学博士号を取得しています。その時、82歳です。日本最高齢薬学博士号です。 亀高さんは、目の水晶体を特殊なカメラで撮影する装置を開発し、そのカメラで糖尿病性白内障の有無を調べ、お薬で治るかどうかを判明させるという研究をしていました。その北里大学の研究所長が、かのノーベル賞を受賞した大村智先生だったのです。年齢は、亀高さんの方が大村先生より10歳上です。時々、大村所長室を訪れていたそうです。大村先生はこの年上の熱心な高齢学生を尊敬していたのだと思います。そして、またかと思いますが、セレンディピティが大村智先生に訪れます。 当時、大村先生は「亀高文子」という高名な女流画家の「絵」を探し求めていました。当時は既に物故していて、作品が流通していなかったので、なかなか見つからなかったのですね。大村先生も「まさか!と思った」と記していますが、亀高というのは珍しい名前だから、「もしかして、亀高文子さんとなにかご関係がありませんか?亀高文子さんの絵が欲しくて探しているのですが、なかなか見つかりません。」と伝えたところ、亀高素吉さんは「それは、私の母です。絵がどこかに残っているかもしれません。」ということで探してもらい、大村先生は亀高家に残っていた最後の1枚を入手することが出来たのです。今は、韮崎の大村美術館に掛かっています。大村美術館へ行く機会があれば是非、「亀高文子さんの絵」も見てください。そして、退職して勉強して学位まで取った素吉さんのこと、素吉の作った神戸製鋼ラグビー部のこと、ラグビーに纏わる話もついでに思い起こしてくださればと思います。 【参考文献】 大村智 :2億人を病魔から守った化学者:馬場錬成 著 人生に美を添えて:大村 智、 小杉小二郎 共著 日本最高齢で薬学博士号を取得:ファルマシア 45(2), 111-114, 亀高素吉:新規小動物用in vivo水晶体デジタル画像取得システムの開発並びに糖尿病性白内障予防・治療薬の探索に関する研究:北里大学 博論 【注記】 今回のラグビーワールドカップはイングランドで開催されています。まだ、準決勝、決勝が残っています(2015/10/20時点)。ややこしいのですが、英国(イギリス)とアイルランド(国)には、「イングランド」、「スコットランド」、「アイルランド」、「ウェールズ」とそれぞれに四つのラグビー協会があります。アイルランド(国)は、英国とは別な国ですが、なぜか、英国領である北アイルランドの出身者は、アイルランド協会に属しています(サッカーは違います)。 今回のラグビーW杯でも、イングランド、アイルランド、ウェールズ、スコットランドは別々に参加していますさらにややこしいことに、時々、これらの協会は「ブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズ」という英国3協会とアイルランド(国)協会の統一チームを結成して、オーストラリアや南アフリカ、ニュージーランドに遠征をします。一緒になれば、当然かなり強いのですが、国の威信をかけた大会にはあくまで別々なチームを作って出場します。個々の国単独でも強く、イングランドはW杯で1度優勝していますが、今回のW杯では、開催地でありながら予選で敗退しました。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2015/10/08 今回のドクターズコラムは、このたび大村智先生がノーベル医学生理学賞を受賞されたことを記念しまして、2014年10月に当クリニックのメールマガジンにて配信しました先生に関するコラムを公開当時の文章のまま掲載いたします。 今、一週間に一回、一ヵ月に一回、半年に一回服用すれば済むようなお薬の開発研究が進められています。間隔をあければそれだけ服用が楽だからです。私の知る限り、現在実用に供されているお薬で投与間隔の最長期間は一年です。そのお薬の一種類しか無いと思います。実は、そのお薬のおかげで今、地球上から二つの病気が消失しつつあります。人類の歴史で厳密な意味での「お薬」によって病気が根絶した事は無いのではないか?と思います。天然痘は撲滅されましたが、ワクチンでの撲滅ですので厳密な意味での「お薬」とは多少違います。 さて、その一年に一回飲めば良いお薬を開発したのは日本人で北里研究所の大村智先生です。あまり知られていない方です。しかし、何度もノーベル賞(医科生理学賞、化学賞、平和賞)の候補になっている(らしい)です。ノーベル賞の登竜門とも言えるラスカー賞も受賞しています。 治療対象の病気が日本や先進国ではあまり見られない病気なのであまり知られていないのかもしれませんが、世界的にはとても評価が高いのです。日本でも解っている人は解っていて文化功労者になっています。 そういう評価は別にしても、なにより既に3億人を病魔から守っているのです。色々なお薬があるけれど、はっきりと病気が治る(それも一年に一回の服用)お薬は少ない。そういうお薬を発見した化学者です。今回はその「大村智先生」をご紹介しようと思います。 微生物の「力」への目覚め 大村先生は1935年山梨県韮崎市に生まれ、韮崎高校から山梨大学学芸学部(現:教育学部)に進学、勉強はもちろんのことスキー(長距離)に励んだとあります。特にスキーでは山梨県選手権で優勝をして日本一を目指すべく長野県でオリンピック選手を多数輩出した指導者の下で特訓につぐ特訓をしたのですが、北海道の選手には歯が立たず日本一にはなれませんでした。しかし、日本一を目指した経験は後年の研究に役立ちます。「ほかの人と同じ事をやっていては一番になれない」と心底感じたと後に述懐しています。 1958年、山梨大学卒業後、「都立高校の定時制(夜学)の先生」になりました。ここがターニングポイントで、昼間に教える「普通の都立高校の先生」という選択肢もあったのですが、あえて「夜学の先生」を選んでいます。「夜学の先生」なら自分の勉強が昼間出来るのではないかと考えたからで、そのとおり、昼間は自分の勉強(語学etc)にいそしみ、夜間は熱血教師として勤労学生を教えます。 そういうなかで縁があり、大村先生自身が東京理科大学大学院に進学することになります。 実験は細切れ時間では良い成果が出ないので土日を含めて週のうち三日は寝袋を実験室に持ち込んで夜も昼も実験をしていたと言うから凄まじいです(ほかの4日は昼間は勉強、夜は夜学の先生をしています)。 修士課程を修了後、1年間山梨大学の発酵生産学科の助手として勤務します。山梨はワインの産地で発酵の研究が昔から盛んです。ここで微生物の「力」に目覚め、これが後年の大発見につながります。 その後、1965年北里大学の泰藤樹先生(注:抗生物質ロイコマイシン発見や抗がん剤マイトマイシンの発見で有名)の教室の研究員になります。秦先生が1956年に発見した抗生物質ロイコトリンはその構造が不明だったのですが、大村先生は東京理科大で学んだNMR(核磁気共鳴装置)などを用いた分析手法でその分析に成功します。その一連の仕事で東京大学から薬学博士号を、東京理科大から理学博士号を取得することとなります。 これらの業績が評価され、ついにアメリカに招請されてウェスレーヤン大学に客員教授として赴任します。この時、いくつもの大学からオファーがあったそうですが、一番給料が安いけど「勘」で何となく「良さそう」に感じたのが同大学だったそうです。結果的にそれが後の抗生剤の発見や海外企業からの研究費導入に結びついています。 なぜかと言うと同大学に招いてくれたティシュラー教授は、元メルク社の研究所長であったため、メルク社と縁が出来たのです。なお、当時あまりに仕事をしすぎたので体調を崩し、体調管理のためにゴルフをするようになります。それがまた後の大発見につながります(??)。 閑話休題。アメリカの研究費、研究体制を見て、とても日本の研究体制、研究資金では太刀打ちできないと感じます。それで帰国後の1973年に上記のティシュラー教授を介してメルク社と契約を結びます。産学協同などという言葉が無い時代の話だから凄い話です。どういう契約であったかを簡単に言うと、 メルク社は北里研究所に約800万円/年の研究費を寄付する 北里研究所は土壌中などから新しい細菌や細菌が作る物質をメルク社に提供する もし、そういう細菌や物質で特許がとれて製品化が実現したらパテント料を北里研究所に支払う という契約でした。よほど研究者として見込まれたのだと思います。今ならこういう契約も普通ですが、これは40年前の話です。先見の明があったのでしょう。 ゴルフ場周囲の土に… そして、大村智先生にも例のセレンディピティが生じます。 たまたまゴルフ(上述の健康のために始めたゴルフです)で静岡の川奈ゴルフ場に行った際、ゴルフ場周囲の土を採取します。その土に新種の放線菌(Streptomyces avermitilis)を見いだします。これが“当たり!”だったのです。 この菌をメルク社に提供、この菌が産生するエバーメクチンから合成された『イベルメクチン』という物質の投与で牛馬の寄生虫をほぼ100%駆除することが出来たのです。1981年商品化され世界中の家畜に使われ動物薬の売り上げトップに躍り出ます。 これでお終いではなく、このイベルメクチンは人の寄生虫に効くことが判明します。この病気は「オンコセルカ症」でブユ(ブヨ)を介してヒトからヒトへ感染します。感染者の2割は失明する恐ろしい病気です。ブユが川沿いに生息するため「河川盲目症」とも言われています。この病気にイベルメクチンが特異的に良く効くことが判明したのが1982年の話です。しかもなんと一年一回の投与で効くのです。ただし、この寄生虫は14年間ヒトの体内で生き続けるので14年間は一年に一回の投与が必要です。そういうことが判明しWHO を介して1988年からメルク社の無償供与が開始されています。 また、『イベルメクチン』は「オンコセルカ症」の他に「リンパ系フィラリア症」にも効くことが解りました。こうして、主にアフリカで使用され、2012年には3億人以上の方に投与される世界最大の薬になっています。この薬のお蔭で「オンコセルカ症」は2025年に、「リンパ系フィラリア症」は2020年には撲滅が予想されています(一般に抗生物質、抗菌剤は薬剤耐性が生じて苦しむのですが、一年に一回の投与では耐性が出来づらいのだと愚考しています)。 北里研究所には、このイベルメクチン関連で250億の特許料がメルク社から支払われ研究に使われています。ほかにも大村先生が発見して世界的に使われている物質は20数種あり、どれもこれもとても重要な物質なのです。研究者として何より凄いのは巨額の研究費を「自前」で捻出していることです。日本の科学史上、恐らく他に類例が無い。初めてだと思います。普通は税金から拠出される科研費、企業での研究費、寄付金等々を利用します。それもなかなか研究費は回ってきません。研究者の皆さんは苦労しています。大村先生は経営の才もあり、縁があって女子美術大学(女子美大)の経営相談を受け、同大学の経営を立て直した(現在、女子美大の理事長を勤めています)ので、同大出身の有名女流画家から沢山の絵の寄贈を受け、埼玉県北本市にある北里大学メディカルセンターはまるで美術館の様になっています。そしてついには故郷韮崎市に大村美術館(女流画家専門美術館です)まで作っています。ちなみに女流画家から大村先生はとても「モテル」のだそうです。こういうモテ方は良いですよね。あやかりたいです。 なんだか昔話「わらしべ長者」の話を聞いているみたいですね。一般に伝記は破綻した方が面白いのですが、この伝記(参考文献1)は実に面白いです。是非、お読みください。 なお、大村先生は2014年の「ガードナー国際保健賞」を受賞(注2)した事が最近報道されていました。とにかく、大村先生の事はもっと知られて良いと思っています。なお、私の実家は甲府で実家に帰ったときに大村先生の話をしたら、なんと大村先生のお姉さんと私の母は昔からの友達で母は大村先生にも会った事があると話していました。世間は広いようで狭いです。 【参考文献】 大村智 - 2億人を病魔から守った化学者:中央公論新社 http://www.kitasato.ac.jp/new_news/n20140331.html http://www.senri-life.or.jp/lfnews/lf_pdf_64.pdf 【注記】 北里大学、北里研究所の北里の英語表記は「KITASATO」です。従って北里は「きたさと」と読むのでしょう。一方、北里柴三郎の郷里にある「北里柴三郎記念館」の英語表記は「SHIBASABURO KITAZATO MUSEUM」です。つまり北里柴三郎は「きたざと」と呼ばれている(いた)事がわかります。混乱の元は北里柴三郎がドイツ留学したからで英語流に「KITAZATO」と書くとドイツでは「キタツァート」になってしまうのですね。ドイツ語で「キタザト」と読ませるなら「KITASATO」です。ドイツ語で「sa」は「ザ」と発音するからです。北里柴三郎は西欧言語で論文を書くとき「KITASATO」を使っていました。北里柴三郎自身、後年「きたさと」とも呼称していたそうですので余計にややこしいですね。 今、北里柴三郎の書いた論文を読むのは大変です。「破傷風菌」「ペスト菌」の論文を読もうと思っても簡単ではありません。東京慈恵会医科大学の創始者の高木兼寬先生の「食事により脚気が発症しなくなった」という有名な論文は東京慈恵会医科大学のサイトから誰でも読めるようになっています。慶応義塾大学、北里大学も北里柴三郎の書いた論文を読めるようにして欲しいですね。いつも思うのですが、偉人が書いた論文を(著作権が切れていれば)、簡単に読めるようになれば良いなと思っています。 文献1.は北里柴三郎が書いたペスト菌発見の論文、文献2.は破傷風菌発見の論文です。どちらも100年以上前の論文です。こういう論文をさっと読んでみたいですね。 「The bacillus of bubonic plague」 Lancet August 25, 428-430, 1894 「Ueber den Tetanuserreger.」Dtsch. Med. Wscher. 1889 15, 635-636 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2015/08/10 書き残すことの必要性について考察したいと思います。 これまで高木兼寛(栄養学)、北里柴三郎(細菌学)、荻野久作(排卵日の発見)、高峰譲吉(アドレナリンの発見)など、日本人学者について書いてきました。これらの方々に共通するのは論文を西洋言語(英語、ドイツ語)で書いていることです。西洋言語で書かないと世界には広まりません。 当たり前ですが、日本語で書かれた論文や教科書を読む西洋人はきわめて少ないです。「入唐求法巡礼行記:にっとうぐほうじゅんれいこうき」を知っている方は少ないでしょう。これは円仁(後の慈覚大師、伝教大師=最澄の一番弟子です。東北地方の有名なお寺:平泉の中尊寺・毛越寺、松島町の瑞巌寺、山形市の立石寺(山寺)の開祖は全て円仁が開祖です)が、遣唐使で唐の国で仏教を学んだ時に書き残した旅行記です(838年から9年間の記録)。 円仁が実際に行って見て感じたことを書いていますから、資料としては一級資料です。しかし、世上有名なのはマルコポーロの「東方見聞録」です。 「黄金の国ジパング」はでたらめなのに 「東方見聞録」は1300年の頃のアジアの見聞録です。日本の部分が有名ですが(黄金の国ジパング!)、日本に関する記述はすべて「でたらめ」です。行ったことも見たこともない国「ジパング」のことを適当に書いているのです。ちなみに、なぜ「ジパング」かというと、元の時代の中国語では「日本国」を「ジーベングォ」と発音していたからです。現代の北京語では「リ゛ー ベン グゥォ」と読むそうです。この「ジパング」がJAPANの元になっているのですね。 閑話休題、中国に関する部分もかなり怪しく、万里の長城や纏足、印刷術や中国の文字について何も書かれていませんので、実際に中国に行ったかどうかも怪しまれています。 しかし、しつこいようですが知られているのはこちらです。 元は古いフランス語で書かれていました。その後、イタリア語やヨーローッパ諸語に翻訳されたので、世界中に広まりました。コロンブス自身の書き込みのある「東方見聞録」が残っています。「黄金にあふれたジパング」を夢見た人も多かったでしょう。 一方、「入唐求法巡礼行記」は今もほとんどの方は知らないと思います。それは漢文で書かれていた事や、長く門外不出だったからです。平安時代、鎌倉時代までは結構有名だったようです。 明治16年に東寺観智院で写本が発見されます。漢文ですから、なかなか広まりませんでした。しかし、今は世界中で読めるようになりました。それは駐日大使をつとめたライシャワーのおかげです。 ライシャワーはフランスに留学していたとき、指導教授から、この「入唐求法巡礼行記」の研究を進められ、英訳しています。そのおかげで今は英語でも読めます。800年頃の中国(唐の時代)の記録として世界的に評価されていますが、東方見聞録ほど広く知られているわけではありません。ちなみにライシャワーは港区白金生まれです(宣教師の子息だった)。 それはさておき、要するに、西洋言語にして書き残さないとなかなか世界には広がらないといういい見本だと思っています。(注:ライシャワーさんは、日本の医療を変えてもいます。彼が駐日アメリカ大使時代、精神を患った人に大腿部を刺され、輸血を受けます。輸血後に肝炎になり終生苦しめられました。当時、輸血は売血によるものがほとんどでしたがこの事件を契機に献血が広まりました。) なにも書き残さないよりは書き残したほうが良い しかし、なにも書き残さないよりは書き残したほうが良いという例をここに挙げます。 埼玉県行田市にある埼玉県立さきたま史跡の博物館に展示してある全長75cmの「鉄剣」のことです。通称、「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」、金の象嵌で字が彫られています。 この剣には、「其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加」と書かれてあります。多分「其の児たかりあま?、其の児の名は?? 加利獲居」と読めます。 この剣は431年(推定)に制作されていますが、現代にも通ずる漢字で先祖の名前を書き残しています。それが1600年を経ても読めるのですからすごい話です。この剣を見ていると時間がたつのを忘れてしまいます。 ちなみに、この「漢字」の発見はいわゆる“セレンディピティ”です。1968年に発見されていたのですが、この剣は錆びており、ただの「錆びた剣」として10年間、倉庫の中で放置されていました。しかし、一度この剣のレントゲンを撮ってみようと考えた研究員がいました。レントゲンを撮ったら「漢字」が浮かび上がり「錆」を落としたらこのきれいな金象嵌の文字が現れたのですね。レントゲンを撮ってなかったら今でも「錆びた剣」としてそのままになっていたかもしれません。 今は当然、「国宝」です。この漢字が記された剣があるおかげで、少なくとも1600年前、埼玉県行田市辺りには漢字が伝来し、使われていたことがわかります。書き残すことの重要性がよく分かる一例です。 論文を書いてもそれを理解する頭がないと? 話は全く変わります。日本で初めてノーベル賞をもらったのは湯川秀樹です。彼は若い頃全く論文を書かず、指導教官にこっぴどく怒られています。そのため、その指導教官とは生涯疎遠になります。かなり怒られたのですね。でも、怒られたおかげで英文論文(注:日本で発行されている英文雑誌に掲載、それを世界中の物理学者に送っています。送らなければ、ノーベル賞は貰えなかったと思います。英文雑誌とはいえ、日本の雑誌ですから誰も読まなかったでしょう)を書いて、後にノーベル賞を授賞したのですから恨む理由など無いと思いますが、よほど怒られたのでしょう。 その指導教官は八木秀次です。阪大時代に湯川秀樹の指導教授だったのです。 八木と言っても知らない方が多いかと思いますが、日本を含めて世界中ほとんどの家の屋根に八木が考案した「八木アンテナ」が立っています(した)。日本人としては少し誇らしいですね。デジタル放送がメインになるまでは世界中の屋根にこのアンテナが立っている事と思います。魚の骨に似たアンテナです。八木は東北大学時代にこのアンテナを考案し、このアンテナに関する英文論文!や世界特許!を出しています。 日本では評価されなかったのですが欧米では評価されます。しかし日本軍のレーダーには採用されず!英米のレーダーに採用され、そのために日本軍は大変な目にあっていたのは有名な話です。英米のレーダーの性能は「八木アンテナ」によって飛躍的に高まったのです。日本人が発明したこのアンテナを有効利用したのが英米軍だったのは実に情けない話です。原子爆弾の先端にもこの八木アンテナがついています。スミソニアン博物館に行けば原爆の模型があり、このアンテナがついているのを見ることが出来ます。要するに、論文を書いてもそれを理解する頭がないとダメという悪しき見本ですね。 論文や文章を残すことは必要ですが、嘘はいけません 千円札の肖像で有名な野口英世は、その生涯で約200本の英文医学論文を書き残しています。 だから、世界的にも知られていたのですが、30数年前、Isabel Rosanoff Plesset というアメリカの研究者が「Noguchi and His Patrons」という本を書いて野口の論文のほとんどが間違っていたことを示しています。日本語にも翻訳されています。読むと「アメリカでの野口英世の現在の評価」がわかり、千円札を見ると一寸複雑な気分になります。何れにせよ科学ですから仕方がありません。 論文を書き残すことは必要ですが、「嘘」や「ごまかし」で塗り固められた論文は後にきちんと断罪されます。「背信の科学者たち 論文捏造はなぜ繰り返されるのか? ウイリアム・ブロード (著), ニコラス・ウェイド (著)」という本があり、この本には野口英世も出てきますが、実に多くの科学者が「論文捏造」をしてきたかわかります。それもこれも「論文を書かないと業績にならない」「論文を書いて歴史に名を残そう」などと考えるからこういう捏造論文が出てくるのだと思います。論文や文章を残すことは必要ですが、嘘はいけませんね。 参考文献をいくつか挙げます。 インターネットが普及して色々な論文が読めるようになっていますが、何故か日本人が書いた歴史的論文を読むことは容易ではありません。あまり紹介されていないからです。伝記は沢山書かれているのですが、論文、原典の紹介はあまりというかほとんどなされていません。読むのが面倒、読んでもわからない?どうせ読まないだろう。そういう理由で紹介されていないなら残念です。 コールタールをウサギの耳に塗って世界で初めて発がん実験に成功したドイツ語で書かれた山極、市川論文も見つけられませんでした(世界中で使われている癌の教科書には必ず引用されています)。 北里柴三郎記念館や野口英世記念館のHPからも、彼らの論文は読めません。もうとっくに著作権も切れています。是非、論文をPDFファイルにして広く知らしめた方が良いだろうと思っています。 ちなみに高木兼寛先生の論文は東京慈恵会医科大学のリポジトリーから読むことが出来ます。 欧米では論文は元より、西欧語で書かれた古い本も依頼電子出版形式で安価に読めます。 参考文献5の「医学の古典をインターネットで読もう」には、インターネットで読める古典的、基本的医学西欧語論文が沢山紹介されています。日本も見習うべきです。あの先生はこういう風に偉かったとかこういう生涯だったとか、そういう伝記に私はあまり興味がありません。論文の方を読みたいです。 【参考文献】 円仁著「入唐求法巡礼行記:現代語訳」:中公文庫 ライシャワーが英訳した本「Reischauer, Edwin O. (1955). Ennin's travels in T'ang China. New York: Ronald Press Company.」 野口英世 単行本 イザベル・R. プレセット (著), 中井 久夫 (翻訳), :星和書店刊 元は「Noguchi and His Patrons」と言う題で米国で刊行された。 高木兼寛の論文:LANCET掲載 http://ir.jikei.ac.jp/bitstream/10328/1754/1/49-2-69.pdf 荻野久作著:「Conception period of women Unknown Binding - January 1, 1934 by Kyusaku Ogino」 医学の古典をインターネットで読もう:諏訪邦夫著 中外医学社刊 背信の科学者たち 論文捏造はなぜ繰り返されるのか? 単行本 - 2014/6/20 ウイリアム・ブロード (著), ニコラス・ウェイド (著), 牧野 賢治 (翻訳) 私が書いた英文論文の一つです。 http://www.annalsthoracicsurgery.org/article/S0003-4975%2899%2900056-9/abstract 私自身の心電図が載っています。私が死んでも心電図は残りますね(笑)。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2015/07/27 “がん”と“癌”の定義とは 心臓には「がんは無いのですか?」とよく聞かれます。ほとんどの方が“がん”と言うと、胃がん、肺がんなどの悪性腫瘍を思い浮かべて“がん”と言う言葉を使っていると思います。 少し話はそれますが、言葉の定義をしておきましょう。“腫瘍”という言葉があります。腫瘍には良性と悪性があります。腫瘍とは「体の中で正常な細胞が性質を変えて、自律的に増殖してしまったかたまり」です。腫瘍には良性と悪性があります。良性は皮膜を持ち境界鮮明です。悪性は皮膜を持たず境界が不鮮明で正常組織を障害します。ですから、腫瘍は固形腫瘍のことだと思ってください。 次に“がん”という言葉です。先ず、カタカナのガンは正式な医学用語ではありませんので出来るだけ使わないようにしましょう。ひらがなでの“がん”は悪性腫瘍全般を指します。つまり肉腫や白血病・悪性リンパ腫も含まれます。 一方、漢字の“癌”は上皮由来の悪性腫瘍を、例えば、肺癌・胃癌・大腸癌・乳癌などを指します。また、難しい言葉です。上皮性と言う言葉ですね。上皮性とは、体表に繋がっている全ての部分と考えてください。皮膚はもちろんですが、口から肛門に繋がっている場所です。つまり、口腔、舌、咽頭、喉頭、気管、食道、胃、胆道、膵臓、胆嚢、肝臓、肺、子宮、卵巣、乳腺などほぼ全ての臓器が含まれることになります。 皆さんが「心臓にがんはないのですか?」と質問する時、その頭の中には恐らく「癌」がイメージされていると思います。上記定義での(上皮由来)癌は心臓には発生しません。しかし、“がん”なら発症します。癌では無くて、悪性肉腫という形で発症します。血管肉腫、横紋筋肉腫、中皮腫、繊維肉腫、リンパ腫、骨肉腫などです。しかし、極めてまれです。臨床医が診ることはほとんどありません。診断も難しいです。胃がん、大腸がんのように一部を切り取って顕微鏡診断するわけにもいきません。診断がたとえついても治療は極めて難しいと思います。 熱が下がらなかったり、動悸が続いたりしたら? それでは腫瘍がほとんど生じないかというとそうではありません。良性の腫瘍(正常部位との境界がはっきりとしている)が生じることがあります。そのほとんどは粘液腫(ねんえきしゅ)です。 図1-図4は全て手術で摘出した粘液腫です。図5はそういう粘液腫の心臓超音波検査画像です。 静止画像ですと解りづらいですが、この腫瘍は心臓の中で行ったり来たりします。ある一定以上になると心臓の中にはまり込んで心不全を生じたり、ショック状態になって救急車で搬送されることもあります。たまたまエコー検査で見つかることが多いです。なぜ腫瘍が出来るかよく解っていません。遺伝的に粘液腫が多発する家系の方がいらっしゃいます。日本にも数家系あり、うち1家系は私が発見しました。 http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/15371594 この腫瘍があると熱を発することが結構あり、熱発の精密検査で見つかることもあります。なぜ、熱を発するかというと粘液腫はインターロイキン6を分泌することがあるからです。それは心臓粘液腫の患者さんで熱発している患者さんから取り出した腫瘍に対してインターロイキン6染色をして確かめました。これは私が世界に先駆けて行った“仕事”です。興味がある方はリンク先をご参照ください。 http://www.annalsthoracicsurgery.org/article/S0003-4975%2898%2900569-4/fulltext それはさておき、図1-図4の写真の腫瘍は「ゼリー」の様に見えると思います。まさにその通りでぶよぶよしています。ですから時々、ちぎれて飛び散り、脳梗塞を生じることがあります。ちぎれて飛んだ場所で再発を起こすこともあります。良性腫瘍と書きましたが、上記の様に脳梗塞を生じたりすることもあるので、決して“良い”とは言えません。治療は手術による摘出です。ぶよぶよして摘出するときに取りこぼすと危ないので慎重が上にも慎重な操作が必要な手術です。 熱が下がらなかったり、動悸が続いたりしたらこの病気を疑うことも必要です。診断は心エコーで簡単につきますが疑うことが一番肝心です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2015/07/13 医師、看護師を対象とした講演「傷の湿潤治療」in ポルトアレグレ 前回に続き、ブラジルのポルトアレグレで行った「傷の湿潤治療」講演についてご紹介します。 ポルトアレグレに到着後、さすがに疲れた(日本から30時間かかる)ので2日休憩を頂き、5月28日にモインニョスデベント病院を訪問しました。午前中9時から11時半まで、医師、看護師を対象とした「傷の湿潤治療」に関する講演を行いました。看護師さんが多いので、講演内容を森口先生にポルトガル語で伝えてもらえました。当初11時に講演終了予定でしたが、講演途中から質問が相次ぎ講演が長引いたので会場を移して12時まで講演+質疑応答を行いました。 なお、この講演はテレビ撮影され、院内で見られるようになっていましたし、事後も院内のサイトからは見られるようにもなっていると伺いました。 同日、午後2時から4時まで病院の外来で実際の「湿潤治療の手技、湿潤治療に使う治療材料の作り方」を指導しました。ブラジルは医師の数が少ないので、傷の治療は看護師さんがするのだと、その時、初めて伺いました。傷の処置室は看護師さんで一杯でした。びっくりしました。 実際にどうやって治療をするかのか?、治療材料の作り方(ブラジルで入手できる材料で作れるように指導)や傷の処置の実践方法、膿がある場合はどのように対処するか?。抗生物質の使い方は?など細かいところまで指導したつもりです。 この治療を行うと患者さんの痛みがほとんど無くなるので、患者さんからは感謝され、看護師さんはびっくりしていました。 と言うわけで、診療終了後は皆さんとても良い笑顔で沢山写真を撮って下さいました。 その後、森口先生のお部屋に戻って休んでいたら、病院のホームページに午前中の講演と午後の診療風景がアップされていました。その晩はブラジル老年医学会の会長さん、副会長さん、森口先生、サンパウロで緩和ケア医療をなさっている日系の千葉先生と夕食を共にしました。 翌日がブラジル老年医学会での講演です。午後2時から40分+質疑応答でした。治療原理、傷の治り方をお示しした後、実際の症例をお目にかけたら、皆さんびっくりして、どよめいていました。 講演終了後、質疑応答に移りました。沢山の質問が出ましたが、森口先生の通訳のお蔭で意義深いディスカッションが出来ました。会長さんからは、今回の学会でこの「湿潤治療」の話を聞いただけで、十分意義深い学会になったと言われ、お世辞もあるでしょうが、うれしかったです。 帰りもアブダビ経由で無事、帰国しました。30時間の長旅です。多少疲れましたが、ブラジルで好評で喜んで頂いたので疲れも吹っ飛ぶような気がしていました。 5月31日に帰国し、6月1日がクリニックの開院でしたので、頭を切り換え、6月1日からクリニックで頑張っております。今後とも、宜しくお願いします。 余談1:森口先生の同僚および看護師さんにフリクションボールペンをお土産に持って行ったら大受けでした。 余談2:2015/06/04の森口先生からのメールでブラジルで看護師グループが湿潤治療と消毒+ガーゼの旧来治療の比較治験を始める試みをしていますとの事の報告がありました。 余談3:今年もブラジル奥地に住む日系ブラジル人を対象とした無償巡回診療を横浜市立大学の先生、医学生、看護学生と共に行います。3000kmを走破します。本当に大変だと思います。この時期ブラジルは冬で時に雪が降る中の強行軍です。森口先生から、これからもご支援を宜しくお願いしますとの事です。 日系ブラジル人の無償巡回診療 余談4:ブラジル国内の禁煙事情:公共の場所は元より、全てのレストラン、ホテル内は禁煙です。100%禁煙でないとレストラン、ホテルの営業は出来なくなっています。喫煙は屋外でごく限られた場所でしか許可されていません。段々、日本が禁煙に関しては後進国になっていると感じました。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2015/06/29 エミリオ森口先生にお招き頂き、ブラジルへ講演に行ってきました。 エミリオ森口先生の事を知らない方も多いかもしれません。エミリオ先生は、ブラジル国リオグランデ・ド・スール連邦大学医学部内科学/大学院教授です。同大学の付属病院でもある Moinhos de Vento Hospital(モインニョスデベント病院)の老年医療センター長でもあり、私どものクリニックの顧問です。毎年、7-8月にかけてブラジル奥地に住んでいる4-500人の年老いた日系ブラジル人の無償巡回診療をなさっています。 今回、当クリニックで行っている(日本でしか行われていない)湿潤治療について、モインニョスデベント病院での講演及び実技指導、またブラジル老年医学会での講演を行って参りました。それには多少の経緯があります。 エミリオ先生に降りかかった災難! エミリオ先生は毎年1-2度来日されます。今年も3月来日されました。その際、当クリニックでの診療内容についてご説明していました。湿潤治療についても説明していましたが、元より先生は内科医ですので、あまりぴんとこないようでした。 その数日後、災いがエミリオ先生に降りかかります。旧知の先生方と会食なさった際、仲居さんが足を滑らせて持っていた熱々のお味噌汁6人分がエミリオ先生の両側大腿にかかってしまったのです。直ちに救急車で某大学病院に搬送され、治療を受けました。従来行われている、消毒して火傷部にガーゼを当てる治療を受け、数日同病院に通っていましたが、この治療だと「強烈に痛い」のです。 4日間、その治療を受け、お風呂もシャワーも浴びてはいけないと言われ、且つ、夜も眠れないほど痛みがあり、難渋していました。その時、望月が話していた「湿潤治療」について思い出し、クリニックに来られました。途中、あまりの痛みのため何度も歩くのを止めたと仰っていました。 当クリニックに来られて火傷部を拝見しました。両側大腿の広範な火傷です。ガーゼが当たっていました。温水で優しくガーゼを剥がし(そうしないと乾いたガーゼを傷から剥がすのは、また強烈に痛いのです)、消毒をしないで患部にワセリンを塗った湿潤治療材料を当てたところ「痛みが嘘のように無くなった!」「痛くない!」と驚いていました。 お風呂、シャワーに入っても構わないこと、その際、患部が濡れても構わないこと、患部をお湯で洗う事、消毒薬は絶対に使わないことをお伝えしました。 2日、当クリニックに通い、その度に「全く痛みが無くなった!」「風呂に4日も入ってなかったが患部も含めて首までお風呂につかって気持ちよかった。患部もそのままお風呂に入れたが痛くなかった!」とびっくりされていました。 ブラジルでも湿潤治療を! その後、帰国されたのですが、ブラジルから患部の写真が添付されてe-mailが届き、湿潤治療開始後7日で、きれいに、治っていました。 エミリオ先生はブラジル帰国後、同僚の外科医、皮膚科医、形成外科医に「湿潤治療」を知っているか伺ったそうですが、誰も知らないと言われたそうです。 「湿潤治療」は練馬光が丘病院の夏井睦先生が1996年に創始した日本でしか行われていない治療です。知らないのも当然です。 その後、エミリオ先生とメールで何度かやりとりがあり、最初は病院での講演、実技指導だけだったのですが、偶々、エミリオ先生の勤務する大学が主催するブラジル老年医学会が5月29日に開かれるので、それにも出席して講演して欲しいと言う事になり、クリニック開院前の慌ただしい時期に訪伯することになりました。 ブラジル老年医学会から招請して頂く事になり、旅行費を負担して下さることになりました。ただ、エコノミークラスです。5月24日に日本を出発、アブダビ経由でサンパウロに行き、そこからブラジル南部の都市、ポルトアレグレに行きました。30時間かかります。エコノミークラスでの30時間は一寸、大変でした。 ポルトアレグレはブラジル南部の街です。南半球の南部は北半球の北部となり、ブラジルの中でも結構寒い地域です。今6月ですが、気候は真逆で今は初冬で、上着が無いと結構寒く感じる、それくらいの気温です。またサッカーが盛んでポルトアレグレのインテルナシオナルというクラブは2006年に東京で行われたFIFAクラブワールドカップでロナウジーニョを擁するバルセロナを破って優勝しています。 次回、ポルトアレグレで行った「傷の湿潤治療」講演についてご紹介します。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2015/05/25 あまりノーベル賞論文を読む機会も無いと思うのですが、ノーベル賞論文の全訳をご紹介したいと思います。心臓血管外科領域でノーベル賞をもらったのはフランスの外科医アレクシス・カレルだけです。彼は円い血管を三角にする事で血管吻合が簡単に出来るようにしました。カレルが29歳の時(1902年)に書いた論文です。 私は、このカレルの論文を入手し、訳出して1996年外科学会雑誌に投稿しました。原文はフランス語です。 まず血管外科、移植外科の基礎を築いたカレルの論文の原典を探しました。彼の血管吻合に関する論文は1902年、リヨン医学会雑誌に発表されている事は解っていたのですが、原典を入手する事は中々出来ませんでした。教科書に出て来る有名な3点支持による図はこの論文が初発です。 たまたま、リヨンに留学する友人がいて、捜してもらいました。1902年の論文ですからリヨンでもなかなか入手が難しかったそうです。 今から見ても完璧な論文と思います。この論文を書いた後にカレルは自分の腸結核の末期患者が「ルルドの奇跡」と称される南仏ルルドの泉水を飲んで治ったのに驚き、その事を論文に書いた結果、リヨン医学会から追放され、アメリカに渡り、ロックフェラー医学研究所において血管外科、移植外科、心臓外科の基礎を作り、後にノーベル賞を受賞しています。野口英世の同僚でした。野口をノーベル賞に推薦したのもカレルである事が解っています。そのことはさておき、この論文がヘパリンも無い、糸も現在我々が使っている血管吻合用糸や針の無い時代に書かれた事と彼の着想のすばらしさに圧倒されます。以下が論文の訳です。 20141008号 3-論文.pdf(仏語版) 20141008号 3-論文.pdf(日本語訳版) この文献が凄いのは カレルが臓器移植の方法の1つとして、血管吻合を開発した事 血管吻合の基礎が全て書かれている事 の2点だと思います。 この論文の題からも解る様に、血管吻合だけがこの論文の眼目ではありません。先ず、臓器移植があり、その方法として、血管吻合を開発している事が解ります。フランス人は時に思いもよらない発想の論文を書きますが、一体何が違うのでしょうか。余談ですが、腹腔鏡手術も同じリヨンの外科医フィリップ、ムレー が1987年に発表し、現在に至っています。 追記:カレルは刺繍師のおばさんに縫い方を教わったそうです。織物産業で昔から有名な町ですから、刺繍の上手い方が昔からたくさんいたのでしょう。なお、1996年にはリヨンでサミットが開かれました。美食でも有名で、フランスで有名なシェフのほとんどはリヨンで料理を学ぶそうです。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2015/05/11 日本人医師で世界中にその名前が広く知られている先生と言えば誰だと思います? 山中伸弥先生ではありません。一般人はYAMANAKAの名前さえ知らないでしょう。それは多分、世界が無知なのではなくて、山中先生と一緒にノーベル賞を受賞した先生の名前:ジョン・ガードンを(恐らく)一般の日本人の9割以上は知らないのと一緒です。野口英世先生の名前も世界中とまでは知られていません。 しかし、私がこれから書こうとする医師の名前を知っている外国の方(特にカトリック信者)は多いと思います。 その名前は「Ogino」です。Ogino は、荻野久作先生のことで、新潟の開業医の先生です(1882-1975)。 彼は東大卒業後3年で、経済的理由から新潟の開業医竹山病院の産婦人科部長として赴任します。部長といっても部下はいません。 大学卒業してまだ日が浅いので、夜はひたすら勉強していたと伝記にあります。 新潟で「不妊」で困っている患者さんや逆に「子だくさん」で困っている家庭の窮状を見ているうちに、排卵日が解れば「不妊治療」も「避妊」も出来るだろうと考えるようになったと後に述懐しています。 排卵は、月経開始日から計算して14-16日に生じる? さて、彼の偉大なる発見です。それまで、排卵日については「シュレーダー学説」が当時の主流だったのです。それは、「排卵は、月経開始日から計算して14-16日に生じる」という説でした。つまり、月経があり、それに伴って排卵が生じるという説です。 しかし、荻野先生は、その説では説明がつかない事が多いことに彼は気づきます。 そこで、患者さんに協力をお願いして、月経の開始日、性交日、妊娠の有無をカレンダーに記入してもらい膨大なデータを集めます。 ご自身のデータも集めています。大正初期にそういうデータを集めるのは容易ではなかったと思います。今でも簡単では無いでしょう。 とても親切で患者さんの話を良く聞く、優しい医師であったので、皆さんが協力したと伝えられています。 しかし、いくら根気強く膨大なデータを集めてもはっきりとした事はわかりませんでした。 ところが、偶然の神様が彼にも訪れます。 「ハナ」さんという不妊患者さんの診療をしていてある事に気づいたのです。 この患者さんは生理不順も無く、子宮にも異常がありませんでした。それでも子供が出来ませんでした。「ハナ」さんの話では「月経が始まる2週間前に決まって腹痛が数日は生じるので、その時に性交はしていない」と言ったのです。 そこで彼は腹痛は排卵痛と考え、その時期に妊娠がしやすいと考え、「お腹が痛い時に性交をしてみないか」と伝えたところ、その一ヶ月後見事に妊娠したのです。ちょうど、ドイツ産婦人科学会雑誌に「月経と排卵痛」に関する論文が発表されていて、それを読んでいたから思いついたのです。これも前稿のリンガーのセレンディピティに通じます。 この「ハナ」さんの経験と開腹手術69例の卵巣、黄体の観察、黄体の状態と手術後の月経開始時期の詳細な観察から、それまで「月経→排卵」と考えられていたのが間違いで「排卵→月経」が正しく、次の月経予定日より12-16日前に排卵が生じていると思いついたのです。すごいですね! さらにすごいのは、例のカレンダーを見なおして、月経前12-16日に性交していた患者さんの多くが妊娠している事を確かめたことです。 同じデータを見ても、見方を変えると全く違って見えるという良い見本です。 3年の歳月をかけて118例の検討を行い、1924年(大正13年)に論文「排卵の時期、黄体と子宮粘膜の周期的変化との関係、子宮粘膜の周期的変化の周期及び受胎胎日に就て」を完成させ、「日本婦人科学会雑誌」に発表しています。その結論は「婦人の排卵期は月経の長短に関わらず、次に来る月経の12-16日前に生じる」です。「排卵があって月経が生じる」という今では世界中の常識になっていることをこの論文で世界に先駆けて初めて示したのです。なお、この論文の118例中1例はご自身の例です。 広めたかった「妊娠のための方法」ではなく… 1929年(昭和4年)6月、ドイツに留学し、 1930年(昭和5年)2月22日にドイツの『婦人科中央雑誌』(1930年第22巻2号))に『排卵と受胎日』を発表しています。内容は日本での発表内容と一緒です。そこから世界中にOgino(荻野)の学説が広まります。 しかし、結果は、荻野が広めたかった「妊娠のための方法」ではなく、それを逆手にとった「避妊法」として広まったのです。 カトリックは避妊を認めていませんでしたので人工的な方法を使わない荻野の方法はカトリック信徒の間に広まります。 1934年には「CONCEPTION PERIOD OF WOMEN」と言う英語の本を出版し(図1)、密かなベストセラーになります。 荻野先生は自身の研究成果を世界に広めるためには英訳して世に出すことが必要と考え、東大の別の先生に英訳をお願いし完成させました。(荻野先生は独語には長けていたようですが、英語力は論文化するまでには至らなかったようです。) 図1「CONCEPTION PERIOD OF WOMEN」の表紙 結局、 1968年にローマカトリック協会がオギノ式避妊法を認めることにつながります。 それまでカトリック教徒は避妊が認められていなかったので福音となりました。今でもローマカトリック教会が公式的にみとめる避妊法は「オギノ式」と「ビリングス法(膣から流れ出る子宮頚管粘液所見から排卵日を予測する方法)」だけです。 自身の本意とは異なった形で功績が認められた荻野先生は、「避妊ではなくて不妊治療に使うべきだ」と後々も主張していました。 実は、荻野先生はその他にも多くの論文を残しています。子宮頸がんの手術方法もその一つで、「荻野術式」として知られています。 大正10年から昭和26年に行った子宮がん手術674件の5年生存率は61.1%と驚異的な数字でした。 少しでも消息がしれない患者さんがいると本籍や現住所に確かめて生死を確かめているので正しい数字だと思います。 日本中の大学から教授への招請が続きましたが、荻野先生は92歳でお亡くなりになるまで終生、新潟の開業医として暮らしています。偉大な一生でした。 全ては「ハナ」さんの話に耳を傾けた事と排卵痛に関する論文を読んでいた事から始まっています。いかに観察し、検討すること、考える事、勉強している事が大切かわかります。高峰譲吉、リンガーに続き、荻野先生の話も共通していますよね。 皆さんも研究者でなくとも、これまでの目線や思考を変えて仕事をしてみては如何でしょうか?何か発見があるかもしれませんよ! 最後に医学的に言うと「安全日」はありません。どうかお気をつけください。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2015/04/20 前回に続き「リンゲル液」の話についてご紹介します。「リンゲル液の発見」と言うか「発明」はまさに『セレンディピティ』でした。 私が考える偶然は四つです。これらがそろって初めて大発見につながったと思っています。 リンゲル液のシドニー・リンガー:兄、長崎のフレデリック・リンガー:弟 リンゲル液の発見 偶然その(1)は、リンガー家が非英国国教会信徒だった事です。それゆえに幾ら優秀で勉強が出来てもオックスフォード、ケンブリッジ大学(以下、「オックスブリッジ」と略。)には入れなかったのです。 そのため兄リンガーは1854年18歳の時、「自由な学風」で知られたロンドン大学医学部に入学します。これが後に大きな意味を持ちます。 兄リンガーは、1860年に24歳で卒業し、そのまま同大学病院に就職します。内科の臨床医として研鑽を積み、1866年には30歳で指導医となります。しかし、よくわからないのですが、卒後2年にしか満たない26歳の時に“Professor of Materia Medica”に就任してしまうのです。“医薬品教授”とでも言うのでしょうか。「オックスブリッジ」に入学していたらこの年齢でProfessorになるなどあり得なかったでしょうからロンドン大学で兄リンガーが勉強出来たのは大袈裟な言い方かもしれませんが、人類にとって幸せなことでした。余談ですが、1870年には英国国教会信徒以外でも「オックスブリッジ」に入学できるようになっています。 話は戻ります。兄リンガーは、臨床医として確固たる地位を築き、「治療法」に関する教科書も執筆、版を重ねています。兄リンガーの弟子には、カナダから来たオスラーがいました。彼こそ、後に“内科の神様オスラー”と呼ばれた名医です。そのオスラーですらも兄リンガーの事はべた褒めしています。“神様”が褒めるのだから超一流の内科医だったと推測されます。兄リンガーは、とにかく観察し、勉強し、治療、研究に熱心だったと、別な弟子が残しています。兄リンガーは、臨床医として患者さんの治療に当たる一方で“医薬品教授”として実験も続けています。超人的な取り組みです。臨床の論文はもとより実験に関する論文も書いていますが、はじめは彼の論文が世間から注目されるような大当たりはありませんでした。 しかし、神が降り立ったとしかおもえない出来事が1882年彼の実験室に生じます。偶然その(2)です。 兄リンガーはこの当時、食塩水に血液やタンパク質を添加して作った液でカエルの心臓を灌流する実験を行っていました。要するに食塩水にどういうモノを添加すれば心臓の働きが長時間持続するか?そういう実験を行っていたのです(注:心電図の発明は1906年です)。 1882年5月のある日の実験で急に心臓の動きが良くなったのです。4時間も心臓が勢いよく動いたと報告としています。心臓の動きは「血圧」を測定してその指標にしていました。とにかくいつもなら数分から数十分で心臓はその動きを停止してしまうのにその日の実験はいつもと違ったのです。4時間も心臓が動いていたのです。兄リンガーは、この心臓の動きの良さは、 今までの実験がどこか間違っていたか? 実験方法がこの日に変更していたか? のどちらかだと考えて検討します。 簡単に“検討”と書きましたが、その日だけ上手くいって、それを見過ごしていたら彼の偉大な発見はなされていなかったと思います。兄リンガーは違います。その日の実験を詳細に検討します(元々、臨床医で患者さんの詳細な観察と診断には定評があった医師です。そういう科学者、医師としての“感”もあったと思います)。結果、とても面白いことが解りました。 いつもは食塩を蒸留水に溶かすのに、その日に限って助手が間違って“New River Water Company”の水道水を使ってしまったのに兄リンガーは気づきます。 これが偶然(2)です。嗚呼、なんと素晴らしい間違いでしょう。この助手は無名ですが、彼にも栄誉の半分くらい与えても良いと思います。普通なら怒ってお終いとなるところですが、兄リンガーは違います。 そして次の偶然(3)です。それは水の中の電解質濃度測定が1880年頃にはすでにこの測定方法がある程度確立されていたということです。 この測定方法は1869年にドイツのフリードリッヒ・コールラウシュにより発表され、兄リンガーの実験の頃(1882-1885年)にはこの測定方法が確立されていました。このタイミングに電解質濃度測定方法が確立されていなかったら偉大な発見もあり得なかったのです。測定方法を勉強していた(これがとても大事ですね)兄リンガーはこの水道水中の電解質濃度を直ぐに測定したのです。 次に、偶然その(4)です。この“New River Water Company”の水道水組成が心臓の動きに適した電解質を持っていた事です。普通の水道水だったのですが、これが偶然心臓還流液として理想に近かったのです。ここに兄リンガーが測定したその水道水の組成を書きます。 カルシウム:38.3ppm マグネシウム:4.5ppm ナトリウム:23.3ppm カリウム:7.1ppm 各種炭酸:78.2ppm 硫酸:55.8ppm 塩素:15ppm 珪素:7.1ppm 遊離炭酸:54.2ppm ここまででも十分すごいのですが、兄リンガーはさらに凄い実験を行います。どの要素が心臓の動きに重要かを詳細に調べたのです。 その結果、 心臓の働きにはカルシウムが不可欠である事 カリウムが多いと心臓は止まってしまう事 カルシウムとカリウムの割合が良くないと心臓の働きが悪くなる事 を突き止めています。 2.のカリウムが多いと心臓が止まる事を利用して心臓外科医は心臓を止めて手術を行います。 全ての心臓外科医は彼の発見した事の恩恵を受けています。元心臓外科医の私も足をロンドン方向には向けて眠られません。今度、ロンドンに行く機会があったら、是非とも兄リンガーのお墓参りをしたいと思っています。 助かった患者さんの数は数億人~数十億人 閑話休題、いわゆる「リンゲル液」はこの実験を元に開発された点滴液です。血液の代用として使われています。ここでも戦争が関わります。 第二次世界大戦中、輸血が使えない時に血液の代用として「リンゲル液」が大量に使われて認知されます。元々の「リンゲル液」とは組成内容に多少の違いはありますが、基本はこの1882-1885年にかけて行った兄リンガーの実験がベースになっています。 この「リンゲル液」で助かった患者さんや心臓を止めて手術を行うことにより助かった患者さんの数は数億人~数十億人でしょう。これからも救い続ける事になると思います。 私は、兄リンガーの「リンゲル液」の発見・発明は、典型的、教科書的『セレディンピティ』と思っております。 ところで、弟リンガー(フレディック・リンガー)は、1865年に長崎に入った後、非常に幅広い事業活動を始めました。 長崎の殖産興業に力を注ぎ、長崎の国際交流に尽力しましした。しかし、1907年英国に帰国中に亡くなっています。兄リンガーは、それから間もない1910年にイギリスで亡くなっています。弟リンガーは兄リンガーと日本そして長崎の地ことを語ることが出来たのでしょうか?興味があるところです。そういう資料がどこかにあるかもしれませんね。機会があったら調べてみましょう。 皆さん、長崎に行った時、グラバー園のグラバー邸の下にあるリンガー邸も是非訪れてみてください。 そして、長崎ちゃんぽんを食べる機会があったら「リンゲル液」の事も思い出してください。 点滴を受けることがあったらこのことを思い出してください。 最後に兄リンガーの口癖とパスツールの言葉を引用して終わりにします。 “ Duty first, pleasure after.” by Ringer “ Chance favours the prepared mind.” by Pasteur 心に響きませんか? 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2015/04/06 「リンゲル液」にまつわる『Serendipity(セレンディピティ)』と… 皆さんは、「リンゲル液」をご存じでしょうか? 世界中の何処の病院にも必ずあると言っても過言ではないでしょう。勿論、エミリオ森口クリニックもあります。大抵は、「乳酸リンゲル液」と言う名前がついています。これは、基本中の基本の「点滴液」です。 ところで、皆さん、「長崎ちゃんぽん」を好きですか?私は好きです。一ヶ月に一度くらい食べに行くほどです!と言っても、長崎まで行くわけではありません。 「リンガーハット」のお店(正式名称:リンガーハットジャパン株式会社、本社:長崎県長崎市)へ行って食べます。耳より情報としては、糖質を減らそうと思われる方なら“野菜増量で麺抜き”をお勧めします。 「リンガーハット」の名前の由来はご存知ですか? 長崎旅行をすると必ず(?)行く観光名所に「グラバー園」があります。大変眺めが良い所です。私も20年位前に学会で長崎に行った時に行きました。 「グラバー園」と称する一帯の中にはグラバー(トーマス・ブレーク・グラバー、1838- 1911年、スコットランド出身の商人)と仲の良かったイギリス人貿易商2名(リンガー、オルト)の邸宅もあります。仲良く、長崎の山の上に邸宅を建てたのですね。それらの邸宅はすべて重要文化財です。リンガー邸を見学していた時、その説明文に「このリンガー邸はフレデリック・リンガー氏の邸宅で、同氏はリンゲル液で有名なシドニー・リンガーの弟である。」と書かれていました。我々は、「リンゲル液」と通称していますが、「リンガーのドイツ読み」だったのですね。びっくりしました。世界中の医師が「リンゲル液」を点滴に使っています。別に日本でリンゲル液が作られたわけではありませんが、ちょっとだけ親しみを感じませんか? リンガーハットはこのリンガー邸を元に名付けられています。ハットは小さな家という意味ですので、『リンガーハット=リンガーさんの小さな家』という意味です。リンガー邸は確かに小ぶりですが、とても住み心地が良さそうです。なお、「リンガー家」と「リンガーハット(チェーン)」とは全く無関係です。名前を借りただけです。 そういう訳で、「リンゲル液」と「長崎ちゃんぽん」とは無関係ですが、私はリンガーハットでちゃんぽんを食べている時、よくこの事を思い出します(笑)。 リンゲル液のシドニー・リンガー:兄、長崎のフレデリック・リンガー:弟 「リンゲル液の発見」と言うか「発明」はまさに『セレンディピティ』です(「セレンディピティ」については、前号からお読みください)。 どうしてこんな偶然が生じたのか、思わず“神様”に感謝したくなります。同時に偶然を生かす知識、準備、好奇心について考えさせられます。 また、「リンゲル液」と称しますが、リンガーはイギリス人ですから正式には英語読みで「リンガー液」なんでしょうね。ただ当時、医学の主流はドイツでしたから、この読み方で広まったのでしょう。 さて、前置きはここまで。 次回は本編、大発見につながった偶然について紹介します。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2015/03/23 人類が初めて手にしたホルモン「アドレナリン」 1900年7月21日、高峰と上中のチームは、ついに副腎髄質から分泌される物質の抽出に成功します。人類が初めて手にした「ホルモン」です。 同年11月5日には米国で製法特許を提出、11月7日にはその抽出物を「adrenalin(アドレナリン)」と命名、翌1901年1月ニューヨーク州医学会年次総会で「腎上体の血圧上昇活性物質―予報」として口演発表、同4月16日米国で「adrenalin」の商標登録、同じ時期にパーク・デービス社から「solution adrenalin chloride」として販売開始、同11月「腎上体の活性物質アドレナリンとその調整方法」というタイトルで米国薬学会誌上に発表という、目まぐるしい一年半を駆け抜け、以後、「adrenalin」は心機能維持、止血、鼻炎、花粉症、喘息等に著効したので瞬く間に世界中広まり、高峰は巨万の富を得ることになりました。 高峰は、エジソン氏、フォード氏(元エジソン社社員)、ベル氏(電話の発明)、コダック社をおこしたイーストマン氏などと並び「科学技術を富に結びつけた偉人」として米国において強い影響を与えます。 これらの人に共通しているのは富豪になった事と、単なる研究者では終わらなかった事、そのためかノーベル賞の受賞者にはならなかった事です。 1902年、英国のベイリスとスターリングが「セクレチン」という物質が小腸から分泌されている事を発見、1905年に両人が内因性の生理的活性物質を「Hormone:ホルモン」と命名しました。これが世界で二番目の「ホルモン」の発見です。 以降、ホルモンに関する研究が世界中で広まります。ノーベル賞もホルモン関係では沢山の方が受賞しています。 しかし、ホルモンの最初の発見者である高峰も上中もノーベル賞には縁がありませんでした。アドレナリン発見後も、その関係の研究を進めていればあるいは受賞したかもしれませんが、高峰は産業を興す方を選択しました。 タカジアスターゼもアドレナリンも日本以外はパーク・デービス社が製造販売していました。日本では「三共商店」が輸入販売を行っていました。三共商店は、後に三共株式会社となりますが、三共商店はもともと塩原又策、西村庄太郎、福井源次郎の三人による共同出資会社でした。但し、塩原のみが三共株式会社の経営に参画します。 もともとタカジアスターゼを三共商店で販売していた塩原ですが、1902年高峰の日本帰国時、塩原は高峰に直談判してアドレナリンの独占販売権も得るようになったのです。三共株式会社は、日本でもタカジアスターゼ、アドレナリンの製造をするために1913年に設立されました。初代社長は高峰、専務取締役が塩原です。上中は、タカジアスターゼの製造を任されます。(実は、アドレナリンの精製には失敗してしまいます。原料となる多量の牛副腎が日本では入手できなかったというのが理由です。) 一方、米国ではパーク・デービス社がタカジアスターゼもアドレナリンも順調に「世界に向けて」製造、販売し、莫大な利益を得ています。 タカジアスターゼとアドレナリンの特許を得ていたことで高峰は経済的に成功します。 今で言うベンチャー企業を100年以上も前に米国で興して成功したのですから驚嘆すべき話です。米国に居ながら日露戦争を側面から支援したり、ワシントンポトマック河畔やニューヨークハドソン河畔の桜植樹支援をしたり、今話題の「理化学研究所」の創設に関わったりもしています。事業で成功するほか、色々と社会貢献もしています。 しかし、そんな彼も病には勝てません。1922年67歳で、心不全のためにこの世を去ります。 その後の顛末は色々おもしろおかしく間違えて書かれています。難癖をつけられたというか…… 高峰のアドレナリン抽出は盗んだもの?高峰は功績を独り占めしようとした? 代表的な間違いが二つあります。 間違い(1): ジョンホプキンス大学のエイベル教授は高峰達とは別な方法で副腎髄質からアドレナリンと同様な物質を抽出し、それに「epinephrine(エピネフリン)」と命名しました。 エイベルは高峰の死後に「高峰のアドレナリン抽出は私の研究室に来て盗んだ」とサイエンス誌に書いたと言われています。 しかし、実際にはそんな事は書かれていなかったのです。単に翻訳間違いなのですが、これが連綿と続いていたのです。 真実は、「パーク・デービス社が商標である“adrenalin”を守るため、米国薬局方での名称を“adrenalin”ではなく“epinephrine”という名前を推したのです。それが原因で今に至るまで米国薬局方にはadrenalinの名前は無く、epinephrineになっている」のです。 こうした事実が公文書で明らかになり、エイベル教授が「高峰を貶めていた」と言うのは間違いだと判明したのです。 なお、日本も米国にならって2006年までは薬局方名は「エピネフリン(epinephrine)」だったのです。これも考えてみれば酷い話です。現在は「アドレナリン(adrenalin)」になっています。 間違い(2): 「実際にアドレナリン抽出の実験を行ったのは上中であり、上中の名前が論文に出てきたのは一回だけで、特許にもその後の発表にもどこにも上中の名前は書かれていない。これはアドレナリン抽出の功績を高峰が独り占めしようとしたからであり、褒められたことでは無い。」という内容を記してある本が多いのですが、私はこれも間違いだと思っています。 前号までにも書きましたが、実験設備を整え、実験指示を行い、パーク・デービス社と共動実験体制を整え、実験費用も出したのは高峰です。 上中の活躍も確かに素晴らしいとは思いますが、こと「adrenalin」の発見者は誰かと問われたらそれは高峰だろうと思うのです。 2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞したiPS細胞の山中先生を例にしましょう。iPS細胞の最初の論文は山中伸弥先生の部下である高橋先生が書いていますし、iPS細胞を作る際の遺伝子注入も高橋先生のアイデアだと山中先生自身が書いています。 ではiPS細胞を高橋先生が作ったかと言えばそうでは無いと思います。そういう研究環境を作り、そういうアイデアも実行した山中先生がiPS細胞を作ったと思います。だから彼がノーベル賞を得ています。もっとも高橋先生も同時受賞すべきだったと言う意見も多くありました。 しかし高橋先生が単独での授賞はあり得ないでしょう。それと同じ事が高峰 ― 上中 関係にもあると言えます。 実際、上中は三共を退職後にインタビューに応じていますが、高峰に対して一切、恨み言など述べていないし、高峰の遺言で上中にもそれ相応の遺産も残されています。何より上中は高峰が米国で病に倒れた時、直ちに日本から高峰のお見舞いために渡米しています。 ですから他人はどうあれ、上中は高峰に感謝していたと思います。勿論、高峰も上中に心の底から感謝していたと思います。 Japanese father of American Biotechnology. さて、三回にわたり「高峰譲吉」という人物を紹介してまいりましたが、如何だったでしょうか? 「“History”は “his story”(彼の物語)から来ている」とも言われます。“Takamine’s story”はまさに“History”だと思います。 最後に正に彼が偉大なる人物であったかを示す言葉を。 高峰はニューヨークのウッドローン墓地に眠っていますが、その案内文に“Japanese father of American Biotechnology.”とあるそうです。もって瞑すべしです。 高峰に関する本は沢山あります。インターネットでもあること無いこと沢山書かれています。私が一番正しいと思っているというか、原典に当たっているのが「ホルモンハンター: アドレナリンの発見:石田 三雄 (著) :京都大学学術出版会 (2012/12/21)」 です。これは名著です!是非ご一読ください。石田三雄氏は、英語、独語、仏語に堪能で、全ての原典に当たられていますので、この本が一番正しく書かれていると思います。 COIなしです(笑)。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2015/03/02 前回では、製薬会社である三共がハーレーダビットソンを作っていたという話題より、高峰譲吉についてお話を始めました。思いがけず三共がハーレーダビットソンを作っていた経緯がわかりました。このhealthクリックをご覧になった「高峰譲吉博士研究会事務局」の方から連絡を頂きました。その経緯が三共社史に載っておりその部分のコピーを頂いたのです。有り難いことです。 社史に載っている内容を紹介します。 三共は、明治41年(1908)3月、高峰譲吉の仲介でアメリカ・フォード社の代理店になっています。その関係で大正10年(1921)5月、自動車部品、機械類などの輸入商社として興東貿易株式会社の設立に参加します。同社は大正12年、ハーレーダビッドソン社のモーターサイクルの輸入販売を開始、同年におこった関東大震災復興需要により急速に需要がふえて業績が伸びたそうです。その後、昭和6年(1931)株式会社ハーレーダビッドソンモーターサイクル販売所を三共が設立し、興東貿易からモーターサイクル事業を分離、独立させます。しかし経済情勢のため、輸入車の価格が急騰したために国産のハーレーダビッドソン作成を計画。昭和10年4月に国産ハーレーと言うべきオートバイ陸王号を完成。陸王号は軍用車としても採用されましたが、第二次世界大戦終結に伴い、その製造も中止、会社も解散となっています。昭和25年、陸王モーターサイクル社として復活しますが、三共の系列からは離れています。 以上が、社史に載っていた事の要約です。三共とハーレーダビッドソンの関係がわかり、スッキリとしました。なお、「高峰譲吉博士研究会事務局」の方からのメールには「高峰譲吉にフォードを紹介したのはエジソンであるらしい」と書かれています。多分、どこかにそのような資料があるのだと思います。 今回はその本題、アドレナリンを薬として世に出したという側面から高峰譲吉をご紹介したいと思います。 高峰と上中に神が降りた日 この写真はアドレナリンの結晶化に成功した時に実験をしていた上中啓三が書いた実験ノートです(1900年7月20日から11月15日まで)。 (NPO法人近代日本の創造史懇話会の厚意による) アドレナリン実験ノート(日本国化学遺産002号) アドレナリンの結晶(写真1の実験ノートに記されています) まずはじめに、前回書き忘れた事があります。 高峰は米国ニューオリンズで開かれた万国博覧会に日本館職員として駐在します。 その時、日本館に通い詰めたのが新聞記者だったラフカディオ・ハーンです(=小泉八雲)。その縁で松江中学の英語教師として来日します。 こんなところにも歴史的にも興味深い繋がりがあったのですね。 さて、前号の続きですが、高峰はウィスキー製造をあきらめました。 しかし、ここからドラマがあります。 高峰式ウィスキー製造には日本の麹を利用していました。大根おろしと一緒に餅を食べると消化が良い事から、何かあると考え、麹カビの中から強力な「ジアスターゼ」を産生する「アスペルギルスオリゼ」を見いだします。 1883年フランスのペイアンによって発見されていた「ジアスターゼ」ですが高峰の発見した「ジアスターゼ」は500倍も作用が強かったのです。 高峰は自分の名前とギリシャ語で“最高”を意味する「タカ」をつけた『タカジアスターゼ』と命名し、特許を取ります。 そしてパーク・デービス社(現ファイザー社)が世界中に消化薬として「タカジアスターゼ」の製造販売を開始、高峰は巨万の富を得ます。 高峰は、日本の製造販売権は自らがが保持しました。後述いたしますが、自分で製造販売したかったからです。 余談ですが、夏目漱石の作品『吾輩は猫である』にも「タカジアスターゼ」は出てきます。漱石は胃が悪かった(胃潰瘍で死亡しています)ので服用していたのかもしれませんね。 パーク・デービス社は当時世界中で研究されていた副腎の抽出物の研究を高峰に依頼します。 しかし、米麹、発酵には精通していた彼も副腎からの抽出物など研究したことが無かったので研究は頓挫します。 しかし、彼はめげません。「エフェドリンの発見者、長井長義」を思い出します。長崎で同時代を過ごした仲です。当時長井は東大教授でした。 その彼に研究に協力してくれる人材の紹介をお願いしました。そして、米国の高峰の下に赴いたのが長井の弟子である、当時23歳の上中啓三です。上中も東大医学部薬学科専科出身(今で言う聴講生のような制度)だったので、この米国行きを喜んだと後年記しています。 上中は長井の下で長井流研究方法を学んでいます。1899年渡米、1900年の2月から高峰と共に研究を開始します。しかし、高峰はパーク・デービス社の社員ではありませんでしたので、マンハッタン(ニューヨーク)の自前の研究室がその舞台です。研究室は半地下にあり、決して快適なモノでは無かった様です。恵まれない環境でした。 しかし、ありえないような事が高峰と上中に起こります。 実験を開始して二日目に副腎髄質からの抽出物の結晶化(=アドレナリン抽出)に成功したのです。 『セレンディピティ(serendipity=求めずして思わぬ発見をする能力。 思いがけないものの発見。)』です。 科学的大発見には、『セレンディピティ』がつきものです。ペニシリンの発見でノーベル賞を受賞したフレミングも休暇中に細菌培養皿を間違って放置したらそこにカビが生えてペニシリンの発見につながります。(フレミングの『セレンディピティ』はそう伝えられていますが、実はもっとあり得ない事が起こっています。『セレンディピティ』の10乗くらいの事がおきています。これについては、またいつか書こうと思います)。 十分な準備と知識がある人にしか『セレンディピティ』は現れない いずれにせよ世界中の科学者が探求して成し得なかった副腎髄質からの抽出物の精製に実験を初めて直ぐ成功したのですから凄い話です。 なんで?こんなに簡単にできたの??と思います。どの『セレンディピティ』もそうですが、十分な準備と知識がある人にしか『セレンディピティ』は現れません。現れても解らないからです。 そういう意味では高峰、上中には十分な下地がありました。 抽出物の検査方法(ブルピアン反応=抽出物が本当に副腎髄質由来かどうかを検証するための検査)について熟知していた パークデービス社には実験動物を使って薬の実験をする設備があった 長井長義伝来の物質抽出法を上中は熟知していた などです。 1.2.があったので1900年7月21日に析出した結晶の検査が直ぐに出来たのです。 1900年11月5日には米国で特許を、1901年1月22日には英国で特許を申請しています。たった四ヶ月で特許を書き上げるだけの実験が出来てしまったのは驚異的です。他の研究者が「副腎髄質からの抽出物だと報告した物質」の1000倍から2000倍も強い活性を示していたので、皆、降参してしまいました。 栄光は高峰の下に訪れたのです。 冒頭の実験ノート(写真1、2)は、上中の菩提寺、兵庫県西宮市名塩の浄土真宗教行寺に残っています。 100年以上も前のノートです。そのノートどおりにすると副腎髄質からアドレナリンが抽出できることが証明されています。 因みに、かの「理研」は、高峰譲吉が発案して出来た研究所です。 アドレナリンは「ホルモン」がお薬として世界に踊りでた嚆矢です。ただし、1900年当時ホルモンという名前はありません。血液中の生理的活性物質をホルモンと命名されたのは1905年の話ですアドレナリンの発見が「ホルモン」研究のふたを開けたとも言えます。 それはさておき、高峰は死後に難癖を付けられます。高峰がアドレナリン合成に成功したのは実験方法をジョンホプキンス大学の研究室から盗みだしたと言う論文が出たのです。 そしてそれが米国では通ってしまったのです。 まったくヒドイ話です。 高峰に関する本は沢山あります。インターネットでもあること無いこと沢山書かれています。私が一番正しいと思っているというか、原典に当たっているのが「ホルモンハンター:アドレナリンの発見:石田 三雄 (著) :京都大学学術出版会 (2012/12/21)」です。これは名著です!是非ご一読ください。石田三雄氏は、英語、独語、仏語に堪能で、全ての原典に当たられていますので、この本が一番正しく書かれていると思います。COIなしです(笑) 「薬学の創成者たち:伊沢凡人(著)」も推薦します。この本には、当時生存していた上中さんに直接、話を聞いているのでとても価値があると思っています。 次回に続く。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2015/02/16 以前、エフェドリンの合成に成功した長井長義について書きました。今回はエフェドリンと同様に世界中で100年以上使われている「アドレナリン」の合成に成功した高峰譲吉について書こうと思います。 お薬の会社がバイクも作る? なんでそこに「ハーレーダビッドソン」が出てくるかと言うと、筆者は高校大学時代、バイクを乗り回していました。バイク青(少)年でした。30-40年も前の事です。 排気量400CCのバイクが自分で乗ったバイクでは一番大きいバイクです。当時も、おそらく今もバイク乗りの憧れは「ハーレーダビッドソン社製のバイクに乗ること」です。私もそうでした。大学時代読んでいたバイク雑誌に「ハーレー社製のバイクは太平洋戦争前後、日本でも作られていた。作っていたのは三共という製薬会社」だという記事がありました。当時(35年くらい前の事です)深く考えず「ふーん、お薬の会社ってバイクも作るんだ」くらいにしか思っていませんでした。考えてみれば変な話です。 今回、高峰について書こうと思って、バイクの事も思いだしたのでインターネットで探してみました。どうやら本当のようです。1935年、三共がハーレー社からライセンス供与をうけて日本でバイク制作を開始とあります。その後、バイク名も「ハーレー」から「陸王」に代わっています。慶応大学の応援歌の様な名前ですね。会社名も「三共」→「三共内燃機」→「陸王内燃機」に変わっています。1949年まで生産していたとありますから結構続いたのですね。現存する陸王のほとんどは戦後に作られたモノです。戦前の「三共マークが入った陸王」があったら是非見てみたいですね。 それにしてもなぜ、三共がバイク生産を開始したのでしょうか?三共の創始者高峰は米国に長く住み、お墓もニューヨークにあります。子孫のかたと何か関係があってバイク生産を始めたのでしょうか?興味は尽きません。どなたかご存じ方がいらしたらお教え下さい。調べても解りませんでした。 色々なことを次から次に 閑話休題、本題に入ります。高峰譲吉の話です。彼に関する評伝はたくさんあります(ちょっと検索しただけで20冊くらいあります)。2010年には映画『さくら、さくら ~サムライ化学者・高峰譲吉の生涯~』にもなっていますので見た方もいらっしゃるかもしれません。評伝のほとんどは褒め称える本ですが、なかにはあまり良いことを書いてない本もあります。 彼は母親の実家である富山の生まれ(1854年)ですが、すぐに父親(医師)の住む金沢に移住しています。(現在、石川県立金沢ふるさと偉人館で彼を顕彰しています。) 幼児期からとても優秀で、加賀藩から長崎への留学を12歳で果たします。1865年から1868年まで長崎で英語や化学(舎密:せいみ:CHEMICALからきている)を学んでいます。前回お話しした長井長義は1866年(22歳)に長崎留学を果たしますので、この時、長井と高峰はクロスします。どちらも坂本龍馬の写真で有名な上野彦馬写真館での写真が残っています。 高峰はその後、一時京都で英語の勉強をしますが、当時、英語の勉強をすることは危険でした。高峰の通っていた英語塾の塾頭は「英語を教えている」という理由で暗殺されています。尊皇攘夷です。 その後、京都から大阪、大阪から石川県七尾の語学所へと渡り歩き、医師となるべく、大阪の適塾に入学、転じて大阪医学校に入学、並行して大阪舎密学校(化学の勉強のため)にも通います。そこで出会ったリットル先生に化学分析手法を習い、医師になるのを止めて、化学の道に進むことを決めています。 1872年上京して工部大学校(後の東京帝国大学工学部)に入学、漢学以外の授業はすべて英語で行われていたのですが、12歳から英語を学んでいた高峰は苦もなく授業についていけたと、後年述べています。1879年卒業し、1880年イギリスに留学します。スコットランドにあるアンダーソニアン大学で化学を学びました。1883年2月帰国。農務省に勤務しますが、同年9月に米国ニューオリンズに出張。翌1884年12月から1885年5月まで、同地で開催された万国博覧会に政府御用掛として赴任。この時、彼は後に奥さんとなるキャロラインと知り合っています。また、リン酸肥料に目をつけ、ニューオリンズから1000キロも離れたサウスカロライナ州から自費!でリン酸鉱石やリン酸肥料を購入し、日本に持ち帰ります。 色々なことを次から次にやっています。 当時の官僚で英語に不自由がない人は限られており、いろいろなことをやらざるを得なかったのだと推測します。帰国して、人糞肥料ではなく、人造肥料の大切さを説き、ついには1887年、またも自費!でイギリス、フランス、ドイツ、アメリカの農業視察を行い人造肥料製造機械も購入しています。この渡航時にニューオリンズでキャロラインと結婚式もあげています。帰国後、東京人造肥料会社を興します。現在の日産化学です。 苦労のウイスキー製造 彼はウイスキーの本場、スコットランドに留学していました。ウイスキーの醸造には麦芽の酵素を使います。原料となる大麦の栽培には半年もかかり、発芽させ加工して麦芽を作りますので時間がかかります。これを日本酒の麹で置き換えてみてはどうであろうかと彼は考えました。母親の実家が造り酒屋でそういう知識があったのが根底にあったと思います。このアイデアが基となり、1890年には「高峰式、元麹改良法」の特許を日本だけでなく外国にも申請します。これに目をつけたのがアメリカのウイスキー会社(ウィスキートラスト社:以下ウィ社と略)で、高峰を米国に招こうとします。同じ頃、子供が二人出来たのですが、キャロライン夫人は日本に馴染めず、ニセの手紙を母親に書かせ、高峰をアメリカに呼び寄せようとします。ウィ社からの招聘と義母からの手紙があいまって、1890年キャロラインと高峰は渡米、結局永住することになります。 キャロライン夫人ですが、高峰を支え尽くしたとされていますが、高峰死後、息子の友人(23歳年下)と再婚しています。ちょっと変わったと言うか情熱的というか、凄いと言うか、生命力にあふれていると言うか、言葉もありません。 高峰の渡米後の話に戻ります。ウィ社があるシカゴに移り、麹かびを使ったウイスキー醸造法を用いてウイスキー製造工場を作り始めました。しかし、工場を建設中に「家に入った暴漢に殺され」かかったり(うまく隠れていたので殺されなかった)、工場は「放火」されたり、されています。新しい製造法で仕事にあぶれそうな職人や同業他社の仕業だとか人種差別だとか言われていますが、真相は不明です。 それでも彼は挫けず、ウイスキー製造を再開します。彼の収入は特許料をウィスキートラスト社が払うことで成り立っていましたのでウイスキーが出来ないと収入が無いので必死だったと思います。しかし、そのかなめだった同社は高峰式醸造法に反対する人達の策略で倒産してしまいます。収入の途が閉ざされます。ここまで書いて、彼がどれだけ苦労したかと思うと、胸が詰まるような思いがします。普通なら諦めてしまうところですが、彼はくじけません。 その後、タカジアスターゼ、アドレナリンの生成に成功、商業的にも大成功し、科学の歴史に名を残す事になります。 それにしても三共がバイクって、面白いですね。 次回に続きます。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2015/02/02 1月が終わってしまいしたが、せっかく(?)ですので今回もお正月に因んだ話をしたいと思います。 新年の行事は色々とありますが、中でも「かるた」大会は昔から続く行事として有名ですね。滋賀県の近江神宮では1月の第二週に全日本かるた協会が主催して「かるた名人」、「かるたクイーン」決定戦が行われます。時々、その映像がテレビで放映されます。上の句を少し読んだだけで電光石火の如く、かるたを競い合って弾き飛ばしている風景を見た方も多いのではないでしょうか? 近江神宮は『百人一首』の1番目の和歌の作者である天智天皇を祀っているので、その縁で「かるた大会」が行われているのでしょう。 「秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ」 これが『百人一首』で第一番の歌です。これしか覚えていない方も多いのではないでしょうか?私もこの歌と他に数首しか覚えていません。 「カルテ」の由来はかっこつけ? 「かるた」は、ポルトガル語の「カルタ(carta:ポルトガル語)」 から来ています。カルテ(Karte:ドイツ語)、カード(card:英語)、カルト(フランス語:carte)は、ラテン語のchartaを語源として、どの言葉もいわゆるカードを意味します。 実は、ドイツでは“カルテ”は医師が診療を記録する紙を意味しません。明治時代、ドイツに留学した日本人医師が、ドイツの医師がカード状の紙に診察記録を書いているのを見て、診療記録用紙の事をかっこつけて「カルテ」と使い始めたのだと言われています。それが今に至るまで使われている訳です。 先日、床屋さんにも「カルテ」があるのを発見しました。お客さんの髪の毛の性質やこれまでのカットデータ(?)が大きく「○○様のカルテ」と記したノートに書かれていました。昔、ヨーロッパでは理容師(床屋)が外科医も兼ねていてために床屋の三色サインポールは、赤:動脈、青:静脈、白:包帯かリンパ液を表すなんて説も有名ですが、そんな床屋さんでカルテなんて関係もあるのでしょうか?いずれにしても、こんな所にまで明治時代にドイツ留学した医師の“誤用”が影響しているのだとは…… 床屋さんと外科医の関係はかなり深く、この話はまたどこかで書こうと思います。 全日本かるた協会が使用する「かるた」は『小倉百人一首』です。『百人一首』を使った「競技かるた」があり、段位が無段から10段まであります!上述のごとく「名人戦」や「クイーン戦」があります。段位は各地で行われるかるた大会で良い成績を修めないと上がりません。将棋や碁と一緒です。 『百人一首』とは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍活動した公家で歌人だった藤原定家が、天智天皇から順徳天皇までの約550年の間に、貴族や歌人たちの間で詠まれた和歌の中から100首を選んだのが基です。 各地で「歌」を作って競い合う さて、今回のタイトルにもつけた餃子の街、「宇都宮」です。この100首の歌の選定を藤原定家に依頼したのが、現在の「栃木県」にあたる「下野国(しもつけのくに)」を治めた経歴を持つ「宇都宮家の第五代当主宇都宮頼綱(よりつな)」だったのです。 頼綱は源頼朝から謀反(むほん)の疑いをかけられ出家し、京都に移り住みます。そして、京都の嵯峨野にある小倉山に居を構えます。宇都宮頼綱は有名な歌詠みでもあり藤原定家とは仲が良く、子供同士が結婚もしています。頼綱は定家に頼み、小倉山に構えた自分の屋敷の襖(ふすま)に和歌を100首書いてもらいます。それが「小倉百人一首」なのです。このときに定家が書いたのが「小倉色紙」です。残念な事に本物は残っていないようです。 定家が活躍した鎌倉時代初期には「京都歌壇」、「鎌倉歌壇」があり、京都も鎌倉もそれぞれ、和歌が盛んでした。そういう時代に宇都宮頼綱とその仲間が下野国宇都宮で盛んに歌を作ったので「宇都宮歌壇」と呼ばれています。当時から各地で「歌」を作って競い合っていたのですね。音符があったわけではないのでどのように詠まれたかは不明ですが、何らかの節回しでもって歌を詠んでいたらしいのです。恋の歌は恋の歌らしく、非歌(エレジー)は非歌らしく、そう言う節回しで持って歌われていたらしいです。今の時代でいうAKB(秋葉原)、SKE(栄)、NMB(難波)、 HKT(博多) と同じような事が、すでに800年前にもあり、AKB、SKE、NMB、HKTはそういう伝統を保っていると言えるかもしれません。(秋元康さんはそこまで考えているのかもしれません。) 「京都歌壇」や「鎌倉歌壇」で詠まれた歌とは比べるべくもないですが、それでも「宇都宮歌壇」発の歌は1100-1300年の200年間に16人、119首が新勅撰和歌集や新古今和歌集に選ばれています。そういう下地を作った宇都宮頼綱ですから藤原定家とはウマが合ったのでしょうね。 余談ですが、『百人一首』の歌の約半分は恋の歌です。小学生や中学生には一寸どうかなというような歌も多いですね。例えば、 君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな (藤原義孝) しのぶれど 色に出にけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで (平兼盛) などです。 それはともかく、日本では古来、一般庶民から天皇まで、都でも田舎でも、おおらかに「歌」を楽しんでいたこと事が伝わってきます。これは世界に誇って良い文化だと、私は思います。 おまけ: 京都嵯峨野小倉山にはその名に由来するある有名な物があります。それは「小倉餡(おぐらあん)」です。「小倉餡」の命名由来ですが、中国から持ってきた小豆(あずき)を小倉山の地で栽培し、そこから作られた餡子を「小倉餡」と呼び習わしたのがその始まりで、現在は小倉山とは関係無くても「小倉餡」、「小倉アイス」と「小倉」の名前が使われています。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2015/01/19 明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。 今回は新年号という事で、言祝ぎ(ことほぎ)歌を紹介させていただきます。万葉集に載っている大伴家持(おおとものやかもち)の歌のことです。 万葉集は奈良時代に編纂された日本最古の和歌集です。この中にはいくつか新年を祝う歌あるそうですが、中でも有名なのがこの歌です。 新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰 あらたしき としのはじめの はつはるの けふふるゆきの いやしけよごと 新しき年の始めの初春の今日降る雪やいや重け吉事 新しい年の初めの初春の今日、降り積もっている雪の様に良い事が、ますます重なってくれよ 1.が実際に万葉集に載っている歌。全て漢字で何がなにやら解らないですね。これは万葉仮名です。 この万葉仮名から類推した音読み(注:音読みは本来中国語の発音)が 2.です。 万葉仮名の時代の日本語の音韻体系は現代とは違っているので本当にこれが正しい読み方かどうかは不明です。少し解りづらい話ですが、当時の人は 2.の様に発音して和歌を作り、当時、仮名はまだ無かったので、適当に文字を当てたのが万葉仮名です。だから漢字に意味がある場合とあまり意味が無い場合があります。 「新」、「年乃始乃」はそれなりに意味があるとは思いますが、以降に使われている「波都波流能:はつはるの」などは完全に当て字(=万葉仮名)でこの漢字自体には全く意味がありません。暴走族が使う「夜露死苦/よろしく」、「仏恥義理/ぶっちぎり」の様なモノだと考えて頂ければわかりやすいかもしれません。余談ですが、「よ」、「し」、「く」に相当する万葉仮名はそれぞれ「夜」、「死」、「苦」なので、暴走族の中には万葉仮名に造詣が深いお兄さんがいたのかもしれないですね。それなら「ろ」も万葉仮名にすればと思われるかもしれませんが、「ろ」に相当する万葉仮名は「路」で、「よろしく」をそのまま万葉仮名にすると「夜路死苦」になり、さすがにそれでは、「夜路上で死んで苦しむ」になるので「路」だけは「露」に変えたのかもしれませんね。そこまで解って「夜露死苦」を作っていたのだとしたら、相当教養がある人が暴走族にはいたのでしょう。 万葉仮名については、もう一つ。時は下がり、平安時代(794-1192)になって平仮名、 片仮名が出来てはじめて、現代にも通じる様な文章(とは言っても、古い文章は簡単には読めませんが)が作られるようになります。とにかく、仮名が出来るまでは、このような万葉仮名が使われていました。 行田市の埼玉博物館に所蔵されている国宝:金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)に彫られている文字は、日本最古の万葉仮名だと言われています。金で装飾された文字が今でも普通に読めますので、ぜひ一度ご覧になってください。 閑話休題、 3.は現代の漢字仮名交じりに翻訳した歌です。 4.はそれをさらに私なりに解読した文章です。 万葉集成立当時、新年の雪はその年の豊年の吉兆として、愛でられていました。そう言えば、今年(平成27年)の1月1日、東京に雪が降りました。吉兆だったら良いですね。 万葉集に収められている葛井連諸合(ふじのむらじもろあい)作の歌 「新しき 年のはじめに 豊の年 しるすとならし 雪の降れるは」 も、正月の雪とその年の豊作を祈念した歌として有名です。この歌も勿論、本歌は万葉仮名で 「新 年乃婆自米尓 豊乃登之 思流須登奈良思 雪能敷礼流波」 です。なんだかこれでは全く解らないですね。 万葉集最後の歌 話を大伴家持に戻します。家持作の「新しき年の始めの初春の今日降る雪やいや重け吉事」の方は別な事でも大変有名です。それは20巻4516首もある万葉集最後の歌だからです。この歌は家持が因幡国(現:鳥取県)に国守(現在の知事)として赴任していた時に詠んだ歌です。制作年、制作場所も解っています。制作年は天平宝字三年(759年)正月一日で、制作場所は因幡国庁(注:今で言えば県庁舎でしょう。鳥取県岩美郡国府町にその跡が残っており、今は史跡公園になっています。私は大学時代、ここから遠くない所で学生生活を送っていました。それでこの歌だけは詳しいのです)で、国郡司(今なら市長さん、町長さん)らをもてなした後に詠んだ歌です。 大伴家持は785年まで生きていますが、この歌以降は亡くなるまでの26年間、正式に記録されるような歌を詠んでいません。何か心境の変化があったのでしょうか?それは謎です。万葉集には「挽歌(死者を弔う歌)」、「雑歌(自然などを詠んだ歌)」、「相聞歌(恋の歌)」などが納められています。そんな万葉集の最後の最後に「良い事が沢山おこれ」と言う意味の歌を置いたのは一寸、洒落ていると思います。 因みに大伴家持は万葉集4516首中、479首も載っており、実質上の編纂者だと目されています。万葉集20巻のうち17-20巻は大伴家持の歌日記とも言われているように彼の歌とその歌を詠んだ時の心象風景が書かれているので、この17-20巻は家持の私家集とも言われています。759年以降、歌を残していないのは編纂に忙しかったのかもしれませんし、各地の国主を歴任しているので、そちらの方の仕事や政治に忙しかったのかもしれません。 それにしても奈良時代に庶民から天皇まで幅広い階層からどのようにして歌を集めたのでしょうか?紙も貴重で個人の間での文書のやりとりも簡単にできなかったと思いますが、どうやって膨大な歌の編纂をすすめたのかとても興味があります。それも地方の知事を行いながらの編纂ですから、郵便やe-mailが使える今だって大変だと思います。当時の政府内に歌編纂専門部署があったと想像されますが、記録は残っていません。謎です。 正月はめでたい?めでたくない? 話はまた変わります。私が面白いなと思う新年の歌は他に二つあります。 一つは高浜虚子の 「去年(こぞ)今年(ことし)貫く棒の如きもの」 で、もう一つは「とんち話」で有名な一休さんが晩年に作ったとされる 「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」 です。 虚子の句は時の流れを上手く表現していて、気宇壮大で面白いですね。病跡学で解析すると、虚子は年末年始に食べ過ぎて便秘に苦しんで着想したと分析されてしまうかもしれません。(冗談です。) 後者は本当に一休さんが作ったかどうかは不明だそうですが、あの「とんちで有名な」一休さんならそれくらいの皮肉を言いそうですね。不吉と感じるかもしれません。しかし、一休さんは1481年に88歳でマラリアに罹患して(病跡学での推測)お亡くなりになっています。当時としては破格の長生きです。あまりに長生きしたのでこんな歌を作ったのかもしれませんし、ただ正月をめでたいとお祝いするだけではなくて色々な事を考えるのも必要だよと言っているのかもしれませんね。 因みに日本では古代から1960年代初期までは土着マラリア(日本に生息するマラリア原虫をもっているハマダラカによる感染)の発症が見られていましたが、土着マラリアは現在その発症は無く、マラリアは外国で感染した方が1年に100-150人発症するのみになっています。マラリアを媒介するハマダラカは日本に生息不能と言われていますが、デング熱の流行が見られたように何が起こるか解りません。温暖化、交通手段の発達があり、感染症は何時、パンデミックを生じるかわからないので注意が必要です。お気をつけください。 皆様に いやしけよごと(良い事が沢山)生じるように祈りつつ、本年最初のコラムを終えたいと思います。 本年もどうぞよろしくお願いします。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2015/01/05 前回からの続きをお話しましょう。いわゆる「違法ドラッグ」には、 覚せい剤 LSD 大麻 アヘンとアヘンから抽出されるモルヒネ、ヘロイン コカイン マジックマッシュルーム ある種のハーブ類 シンナー などがあります。 覚せい剤とLSDは科学的に合成されたモノがほとんどだと言われていますが、シンナー以外は植物からの生成が理論的には可能です。 覚せい剤の成分「アンフェタミン」と「メタンフェタミン」 さて、覚せい剤の話です。成分として2種類が知られています。 「アンフェタミン」と「メタンフェタミン」です。 「アンフェタミン」は1887年(明治20年)、ルーマニアの化学者『ラザル・エデレアーヌ 』が「エフェドリン」から合成に成功しています(@ベルリン大学)。 そして「メタンフェタミン」は、なんと日本において1893年(明治26年)に『長井長義』により「エフェドリン」から合成されました。 どちらも「エフェドリン」から合成されていますね。 私が大変興味深く思うのは、『ラザル・エデレアーヌ』も『長井長義』もベルリン大学で学んでいることです。 二人はベルリン大学のホフマン(August Wilhelm von Hofmann)教室の同窓生で、長井が先輩です。長井がドイツから日本へ帰国後にホフマン研究室へ入ったのがエデレアーヌです。 長井は帰国後、漢方薬の「麻黄」から「エフェドリン」の分離に成功します(1885年:明治18年)。「エフェドリン」は、現在も使用される薬です。 合成に成功した頃の使われ方は? 実は、「アンフェタミン」、「メタンフェタミン」の合成に成功した頃は今のような覚せい剤作用は発見されていませんでした。下に構造式を示しましたが、実によく似ていますよね。 段々と「アンフェタミン」、「メタンフェタミン」の薬理作用が明らかになり、「アンフェタミン」は米国で1933年に喘息治療薬として発売されたところ、覚醒作用があることが解りました。今でこそ、使用禁止薬物となりましたが、つい最近(2004年)まで米国では「やせ薬」としても使われていました。以前ご紹介した「ヘンなオジサン:キャリー・マリス」も使っていました。 一方、「メタンフェタミン」は1938年にドイツで興奮剤として発売され、ナチスは「戦車用チョコレート」、「パイロットの塩」として兵士に支給していました。しかし、あまりにも覚醒作用が強い為に1941年には危険薬指定を受けて一般人での使用は制限されるにいたりました。 ところが日本ではドイツでその販売が規制された1941年(昭和16年)に「メタンフェタミン製剤」「アンフェタミン製剤」を各々発売しています。ここで圧倒的に強い覚醒作用を持つ「メタンフェタミン製剤」が 「アンフェタミン製剤」を上回って広まり、「飲めば眠らなくても仕事が出来る、勉強も出来る、何でも出来る万能薬」として一般にも広がり使われるようになったのです。勿論、日本軍はその作用を知っていて大量に使用します。「突撃錠」、「猫目錠」と謳わられ使われました。あの特攻隊でも使われた記録があります。 考えてみれば、ナチスも日本帝国陸軍・海軍も一部では薬を使い恐怖心を抑えて突撃をしていた軍隊だったとも言えるのです。戦争のお蔭で色々な事が発見されたりすると以前に書きましたが、これは悪い例ですね。なんだか兵隊さんの気持ちになるとかわいそうな話です。 日本では敗戦とともに軍隊から「メタンフェタミン製剤」が市中に大量に流出してしまい社会問題になります。昭和20年代前半には普通に町の薬局で「メタンフェタミン製剤」が売られていて、受験勉強や徹夜仕事をする人に使われていましたが、覚せい剤の「悪」の面が表に表れ、1951年覚せい剤取締法が制定され、規制の対象となりました。 絶対に皆さん、手を出してはいけません!人格は変わり、人生が崩壊します。 最近話題の有名歌手も、このメタンフェタミンを使った覚せい剤中毒になっていたのです。 日本人が合成して今でも命脈を保っている薬 それはさておき、メタンフェタミンはあまり良い作用はないですが、エフェドリンは今でも有用な薬剤です。両薬剤とも合成がなされてから100年以上経っています。100年以上の命脈を保って実用とされている薬は世界中を見回しても10に満たない数です。 長井先生の業績はスゴイですよね。驚くことに、日本人が合成して今でも命脈を保っている薬がもうひとつあります。それは、「アドレナリン」です。 「アドレナリン」は、『高峰譲吉』がアメリカで合成に成功しています。『長井長義』と『高峰譲吉』は、同時期に長崎で学んでいます。それも当時最先端の科学技術を持っていた上野彦馬写真館で舎密学(化学)に加え、薬の取り扱い方を学んだとされています。 上野彦馬写真館には坂本龍馬が出入りしていました。同写真館で坂本が写真を撮っていたらしい事は確実です。史実には残っていませんが、「高峰譲吉」、「長井長義」と「坂本龍馬」が出会っていた可能性は高いのです。そう思うと一編の小説くらい出来そうですね。 アドレナリン、タカジアスターゼの合成に成功し、経済的にも大成功をおさめた『高峰譲吉』は、日本で三共製薬(現 第一三共株式会社)を興します。その顧問は『長井長義』でした。 もし、仮に坂本龍馬が生き残っていたら、三共製薬の創立に関わっていたかもしれません。 元々、龍馬は貿易をしたかったのですから。なんだかワクワクします。 米国でベンチャー企業を起こした、この「快男児『高峰譲吉』」についてはまた改めて書こうと思っています。お楽しみに。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2014/12/15 最初に、覚せい剤を擁護するわけではない事を予め申し述べておきます。しかし、こんな人もいるという事で紹介させていただきます。キャリー・マリスという生化学者です。 from Nancy Mullis この方は実に多面的な仕事をしています。マリス博士は真面目な仕事はもちろんですが実に色々な事をしでかしたりもしています。 彼は、 大麻の常用者です サーファーです。こよなくサーフィンを愛しています あちらこちらで“女性問題”を起こしています 泊まっているホテルから通行人に向けてレーザーポインターを当て、警察に捕まりそうになったりもしています 大学生時代LSD(幻覚剤)を愛用していました その大学生時代に書いた天文学!に関する論文が「NATURE」に載っています 天文学が好きだったけど、天文学では女の子にもてないし、「クスリ」も作れないので、生化学・化学を本業にしています 皇后陛下に『 sweetie! 』(ナンパ用語で「かわい子ちゃん」)と言葉をかけたりしています という人です。結構、とんでもないこともしていますね。しかし、彼は1993年にDNAを増幅させるPCR法で「ノーベル化学賞」を受賞しました。サーフィンをやっている時に連絡があったのですが、新聞記者にはたくさんのサーファーの中で誰がキャリー・マリスかわからず困ったと言う逸話を残してもいます。 さらに、実にとんでもない写真を自伝に載せています(参考文献:「マリス博士の奇想天外な人生(ハヤカワ文庫 NF)」をぜひお読みください)。めちゃくちゃ変です!山中伸弥先生なら絶対にこんな写真を撮らせないでしょうというような写真です。 20世紀の偉大な科学者の名前は多数挙がりますが、誰か一人を挙げろと言われたら、私は迷わずこの「キャリー・マリス」を推します。ホントに凄い人なのです。 彼の発見したPCR法はそれまで誰も考えつかなかった方法です。この発想は突如として出てきました。 この方法を思いついた日時、場所、経緯も知られています。(日本のHonda社製)シビックを運転しての夜のデート中に思いつき、彼女を放ったらかしにしてノートに書き留めたのです(彼女とは、それが遠因で別れています)。 こんな夜に思いついたアイデアですが、彼はあまりにも簡単すぎると考えて、時間をかけて同様の論文や発表がないかどうか確かめつつ、実験や実用化を測ります。彼は併行して論文も書いていますが、前述の如く、あまりに発想が飛躍しており、恐らく査読者に忌避されたのだと思います。それは、「NATURE」にも「SCIENCE」からも掲載を断られていることから推察できます。結局、「Methods in Enzymology」というマイナーな雑誌にしか掲載されませんでした(文献1)。ところが、生物学研究者の間で最初は密かにですがこの論文が広がると、それから一気に世界中に広がっていきました。 マリスと彼が勤めていた会社はPCR法を用いたDNA増幅器を作り、世界中に売り出します。そしてマリスはノーベル賞を受賞してしまうのです。 身持ちが悪いのでノーベル賞は貰えないかもしれない? 彼は自身を「自分は非常に身持ちが悪いのでノーベル賞は貰えないかもしれない」と評していました。 前述の 4. は、彼がノーベル賞受賞のためにストックホルムに滞在した時の出来事です。 7. はノーベル賞を貰う前に日本国際賞を受賞した際、皇后陛下にかけた言葉です。彼の自伝には皇后陛下と喋った内容が書かれていますが、「皇后陛下ってこんなに普通に喋るのかな?」とちょっと疑わしいような事も書かれています。ただ、彼の信条は「honest」ですから、嘘は無いとも思っています。 彼はまた、多少の覚せい剤や大麻の使用くらい良いではないかと考えていたそうです。 「アンフェタミン」は、現在は覚せい剤として指定され米国でも日本でも使えませんが、マリスが小さい頃は違いました。風邪をひくと「アンフェタミン」を鎮咳剤として、「アヘン」も下痢止めで使われていたそうです。彼は大学生時代に「やせ薬」として売られていた「スピード」という覚せい剤を使って試験勉強をしていたそうです。成績は「全優」を取り、問題もなかったし、「NATURE」に載るような論文も書けました(文献2)。 もちろん私は、「彼が言うからきちんと使えば薬も悪くはない」などと言うつもりは毛頭ありません。絶対に止めておくべきだと思います。 この続きは、次回「覚せい剤を開発したのは日本人」ということをご紹介しながら話を続けます。 # COVID-19の検査でPCRという言葉が何回も使われています。 # マリスは2019年8月7日,肺炎のためにお亡くなりになっています。享年74歳,偉大 な一生でした。 【参考文献】 「マリス博士の奇想天外な人生(ハヤカワ文庫 NF)」 【文献】 Mullis KB, Faloona FA. Specific synthesis of DNA in vitro via a polymerase-catalyzed chain reaction. Methods in Enzymology. 155: 335-50. PMID 3431465 DOI: 10.1016/0076-6879(87)55023-6 1987年 Mullis K. Cosmological significance of time reversal [4] Nature. 218: 663-664. DOI: 10.1038/218663B0 1968年 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2014/11/17 欧米には「冷え性」と言う病名がない!? 今回は「冷え性治療と足にまつわる病気」のお話です。 段々と朝晩、冷えてまいりました。すでに暖房を使っていらっしゃる方も 多いかもしれません。「冷え性」の方はこれから辛い思いをされるとおもいます。通勤、通学時やデスクワークをしていると足先や手先がしびれるように冷える方がいらっしゃいます。「冷え性」と呼ばれていますが、欧米には「冷え性」と言う病名がありません。日本に特有な病気、病状です。 冷え性は血管の痙攣(けいれん)とか自律神経失調症が原因と言われていますが、正確な原因は不明です。様々な研究がなされています。色々な治療法があります。軽症から重症、症状の出方は千差万別です。治療はそれぞれに応じて行います。冷え性でQOLが低下していると感じる方は是非、一度ご相談下さい。簡単な治療で軽快する場合も多いのです。なお、喫煙していて冷え性がある方は、絶対に禁煙が必要です。 足が冷たく、痛く重く感じるなら… 冷え性とは別に足の動脈が細くなる「閉塞性動脈硬化症(へいそくせいどうみゃくこうかしょう)」という病気があります。 閉塞性動脈硬化症の方の足の血管造影写真です。左足の血管が細くなっているのがわかりますでしょうか?こういう病気は糖尿病の方、喫煙している方、高血圧の方に多い病気です。こちらは「冷え性」と違い、血管が器質的に細くなる病気ですので簡単には治りません。 ひどくなると下肢の壊死を生じて足を切断することもあります。 私は、この病気の外科的治療を沢山行ってきました。108歳の方の手術を行ったこともあります。 この病気は「冷え性」と違い、血管が硬く、ボロボロになっているので手術は簡単ではありません。 「閉塞性動脈硬化症」は症状が出てからの5年生存率は大腸がん全体の5年生存率と変わりありません。どんな病気でもそうですが、特に「閉塞性動脈硬化症」は、予防が一番大事です。糖尿病の方は血糖値をきちんとコントロールする事が大切ですし、スモーカーの方は禁煙が必要です。血圧管理も大切です。 「閉塞性動脈硬化症」は歩いた後に足が痛くなったりして気付きます。以前はどんなに歩いても足が冷たくなったりしなかったのに最近は少し歩いても足が「冷たく、痛く重く感じる、しびれることもある」、そういう症状がある方は是非、ご相談ください。 「冷え性」か「閉塞性動脈硬化症」かは、簡単な診察、検査で鑑別が可能です。 少し別な症状の話です。 「足がつって」困っている方はいらっしゃいませんか? 足がつるのには色々な原因がありますが、ある漢方薬(芍薬甘草湯)が著効します。マラソンで足がつった時もこのお薬が効きます。 ただし、“足がつる”裏には重い病気が隠れていることもあります。是非一度ご相談ください。 以上、今回は足にまつわる病気についてのお話でした。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2014/11/04 クリミア戦争やトルストイから食事を考える 戦争は悲惨です。しかし、戦争によりいろいろな分野での発展や発見もあるのも事実です。ナイチンゲールもクリミア戦争という出来事が無ければあの活躍や名声もなかったでしょう。そうなれば現代の看護師制度も大きく変わっていた可能性もあります。また、クリミア戦争では服装に大きな革命(?)がおきました。それは「カーディガン」の発明です。英国陸軍軽騎兵旅団長であったカーディガン伯爵(7th Earl of Cardigan)は「セーター」を改良して怪我をした兵隊でも簡単に着られる服を考案しました。これが今の「カーディガン」の始まりなのです。ちなみに「トレンチコート」も第一次世界大戦時に塹壕(=トレンチ)で着た防水コートが始まりです。どちらも今では誰もが着る服装として定番ですよね。私は、戦争は大嫌いですが、思わぬ副産物が得られ世の中に役立っていることには恩恵を感じます(複雑な気持ちです)。 以前、クリミア戦争とナイチンゲールの事を書きました。 クリミア戦争にはトルストイ(帝政ロシアの小説家で思想家。『戦争と平和』の著者。)も従軍していました。「セヴァストーポリ」という従軍記(1855年刊 注:日本語訳本は絶版)を書いています。このトルストイも私の興味を引く人物です。トルストイは後に不朽の名作「アンナ・カレーニナ」 を書きます。1870年頃の小説で、貴族社会に生きる人妻アンナの不倫物語です。この小説の中に今、話題の「糖質制限」に関する話が出てきます。 アンナの不倫相手のヴロンスキー伯爵は競馬レース前の減量のために「糖質制限」を行っていることが書かれています。当時、糖質を減らせば体重が落ちるのは常識だったのでしょう。 文学に「糖質制限」が出てくるのは、これだけではありません。 アメリカのノーベル賞作家であるソール・ベローの小説「ハーツォグ:1964年刊」には「炭水化物を摂っていると服が着られなくなる」とあります。 ブリア=サヴァランの「美味礼賛:1848年刊」にも「肥満の原因はデンプンと小麦粉と砂糖であり、脂肪の蓄積は穀物とデンプンのみによって起こる」と書いてあることから、現代で流行する「糖質制限ダイエット」は少なくとも1840年頃から1960年頃までは欧米では広く知られていた事が推測されます。 飽和脂肪酸(=肉)は悪者? しかし、1961年にアメリカ心臓病協会(AHA)が「飽和脂肪酸(=肉)を悪者」としたガイドラインを発表してから様相が変わります。 「肉を食べると太る」、「肉を食べるとコレステロールが上がる」という常識(?)が広まり、肉の代わりに炭水化物や糖分の摂取量が上がり、結果的にアメリカは肥満大国になってしまいました。 このガイドラインの基はミネソタ大学のキーズ博士が「飽和脂肪酸(肉)はコレステロール値を上げ、その結果、心臓疾患の原因になる」という説を主張したのが始まりです。 この研究には色々な問題があり、 1950年代に行われたこの研究の再検討がなされました(2002年)。キーズ博士はクレタ島での住民665人の食生活から「飽和脂肪酸=悪玉」という結論を得ていますが、実際に詳細な検討がなされたのは数十人しかいなかった事が明らかになり、その研究に大きな疑問が投げかけられるようになりました。こういう研究の見直しをきちんとするのは、アメリカの偉いところだと思います。 食事内容と健康については膨大な研究と検討がなされていますが、2014年3月アメリカ内科学会雑誌に「飽和脂肪酸(=肉)は心臓疾患の原因にはならない」との総説が載り話題となっています。 結局、トルストイの時代に戻った訳です。今までの「肉=悪玉」説はなんだったの?という話になりますね。 何を食べたら一番良いかは、本人の体重、性別、環境、背景疾患、季節、食文化、遺伝関係等々で変わるので難しい話です。 食事は一つの文化ですから、話はさらにややこしいと思います。 薬の研究と違い、栄養の研究は「何をどれくらい食べたか」きちんとした数字が残らないので科学的検討が難しくなります。 くどいと思われる方もいらっしゃるかと思いますが、前に紹介した「高木兼寛先生」が行った研究は、年齢と背景が似た母集団である海軍演習航海乗組員における「食事による脚気の発病率比較」ですから、当時にしても大変質の良い研究を実施され結果を出されたのだと思います。 今、こういう研究をやろうとしたら大変なことになろうと想像します。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2014/10/14 ご存知のごとく、コレステロール、特にLDL(悪玉)コレステロールは「動脈硬化を促進」します。 これまでもどの程度の(コレステロール)数値が良いか色々と議論をされてきました。 新聞などの報道で知っている方も多いとは思いますが、今年2014年4月4日に人間ドック学会が中性脂肪、LDL(悪玉)コレステロールの正常値の変更を発表しました。 新たな基準値では、150mg/dl未満が良いとされてきた男性の中性脂肪は198mg/dl以下に変更されています(女性は134mg/dlです)。 120mg/dl未満が良いとされてきたLDL(悪玉)コレステロールですが、なんと、男性は178mg/dl以下、女性は年齢を3段階に分け、66歳以上では190mg/dlまでが正常値となっています。 このLDL基準ですと今まで人間ドックで要精査、要治療とされてきた方の殆どが正常となります。まさに衝撃的な基準値の激変!!! 高脂血症の患者さんが減る? もっとも、この基準値をそのまま採用するかどうかは各施設の判断に委ねられています。健康な方 1万人の採血結果を分析した結果からこの値が得られています。 これまで高脂血症治療はLDLが140mg/dl以上を対象としてきました。食事指導でLDL値が140mg/dlに下がらない患者さんにはスタチン系の薬をメインに投与してきましたので、今回の基準値変更は衝撃的です。 男性でLDLコレステロール値が178mg/dl以上の方はあまりいらっしゃいませんので、この値が広く使われるようになると高脂血症の患者さんは激減します。 コレステロール、中性脂肪の基準値には日本動脈硬化学会、脂質栄養学会等で推奨値が違いますし、米国、英国と日本でも違います。何を正常値とするかとても難しい問題です。しかし、糖尿病の方、高血圧症の方、肥満がある方、虚血性心疾患、脳血管疾患、閉塞性動脈硬化症の既往のある方はLDLを下げた方が良いのはある程度コンセンサスが得られています。 健康診断でコレステロール値、中性脂肪値が高いと言われた方、高くはないけれど上述のような病気をお抱えの方は、どうぞ一度、クリニックなどへ相談にいらしてください。クリニックには動脈硬化度を測定する機器(脈波測定器:CAVI)や血管の動脈硬化を判定するエコー装置も備えているところもあります。 こうした検査機器で動脈硬化が疑われたら、是非、治療をおすすめします。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2014/10/06 昨今のウクライナ、クリミア情勢について小説家の塩野七生(※)は、「ヨーロッパの人々はクリミア戦争とナイチンゲールを思い起こすだろう」と書いているのを見て、思い出しました。(※ 歴史小説『ローマ人の物語』の著者として知られる女性小説家) ナイチンゲールは、「天才」でした。彼女が統計学者でもあり、様々な統計解析を用いて、病院に科学を持ち込んだことを皆さんはご存知でしたでしょうか? 今日は、「博愛の看護師:ナイチンゲール」について書いてみたいと思います。 白衣の天使 ナイチンゲール ナイチンゲールは、クリミア戦争(1853-1856年:ロシアvs英仏トルコ連合軍:ロシアは負けてアラスカをアメリカに売却)で活躍し「白衣の天使」と呼ばれるようになります。イギリスに帰国し政治家としても活躍しながらロンドンのセントトーマス病院で看護師の養成にも力を尽くします。1860年、同病院に看護学校を作りました。 セントトーマス病院は前回このコーナーでご紹介した「高木兼寛先生」とクロスします。高木先生は1875-1880年、セントトーマス病院に留学しており、ナイチンゲール看護学校や看護教育に接しています。ただし、この時期すでにナイチンゲールは50年に及ぶ引きこもり、寝たきり状態となっており直接は会っていないはずです。高木先生が会っていればその旨を書き残したと思いますが、そういう記録は残っていません。ただ、同病院における看護、看護教育に感銘を受けたのは確かだと思われます。それは、帰国後の明治17年(1884年)日本初の看護学校(後の慈恵看護専門学校)を開校し、米人宣教師リード女史と共に本格的な看護教育を開始したからです。1回生は僅か5名ながら皇后陛下臨席の下で卒業式が行われていますから、当時の日本国にとって大切な出来事であったことが解ります。その後、二番目に看護教育を開始したのは同志社病院(京都)です。こちらは残念なことに現存していません。 ちょっと変わった子供? 話はナイチンゲールに戻ります。彼女は、イギリスの資産家であるナイチンゲール家の次女として生まれました。イタリアのフィレンツェで生まれたのでフローレンス(フィレンツェの英語読み)と名付けられています。彼女は正式な教育は受けていません。お金持ちの子息(特に女性)は当時、家庭教師により哲学、数学、科学や語学等の高等教育を受けています。ナイチンゲールも家庭教師と父親から高等教育を受けています。ちょっと変わった子供?で、高等数学に熱中したり、哲学書を読みふけったりしていたことがどの伝記にも書かれています。勉強をし始めると集中して他のことが全く目に入らなくなる、と書かれています。(数学は後に統計学者としても活躍するナイチンゲールの役に立ちます。)ナイチンゲールは16歳の時、「神が入った」と書き残しています。神が彼女の体に宿り、世の中のため、困った人の救済をする使命が与えられたというのです。長じて周囲の猛反対を押し切り、彼女は看護師となっています。そして、病院に科学を持ち込みます。具体的には(1)配膳エレベーター (2)ナースコール (3)温水配管 を病院に設置したのです。これは、看護業務を楽にするためです。エレベーターや温水配管があれば看護師は配膳、給湯のために階段昇降を繰り返さなくてすみます。ナースコールがあれば看護師は休むことが出来ます。看護師が本来業務である看護により目を向けることも出来、患者も安心します。 ここまで書いみて、彼女は真の天才だったなと、あらためて思います。 相田みつをは沢山の「詩」を書いています。なかに「やれなかった、やらなかった どっちかな」というのが詩あります。多くの人は「やらなかった」で人生を終えていきます。 ナイチンゲールは神から与えられた使命と信じていますので、「やらなかった」人生など考えられなかったのでしょう。 その後、クリミア戦争が勃発します。戦争に関するナイチンゲールの伝記は沢山書かれているのでここでは略します。(興味のある方は読んでみてください。) クリミア戦争終結後、一躍英国のヒロインとなったナイチンゲールは優れた統計学者、数学者としても活躍します。当時まだ、棒グラフくらいしか使われていない時代に初めて「視覚化した円グラフ」を用いて疾病解析、病因解析、様々な統計解析を行っています(ページ下部 図参照)。こうした分析で、病院には 1.清潔、2.栄養、3.空気の循環が必要であると結論付け、それらが円滑に行われるような病院設計まで行っています。これを「ナイチンゲール型病院」と言います。今でも世界中でこのタイプの病院建築が標準となっています。高木兼寛先生は多分、セントトーマス病院に留学中にこういうことも学んでいたので、帰国後に脚気の病因分析を行ったのだと推測されます。因みに高木先生は、英人同級生を押しのけて成績一番でセント・トーマス病院医学校卒業しています。これも考えてみれば凄い話です。 皆さんが子供時代に読んだナイチンゲールの伝記のほとんどが「看護」に関するモノだと思います。是非、統計学者、医療人、政治家、哲学者としての伝記も読んでみてください。とても面白いですよ。彼女は天才でしたから、周りの人々は困惑し、なかなか理解もされなかったのですが、そんな事は構わずにドンドン仕事を進めていたため周囲との軋轢もすごかったようです。しかし、彼女の行ったことは「科学的に正しかった」と証明されており、今も彼女の考えは深く浸透しています。 以下、ご参考まで。 ナイチンゲールの円グラフ(バッツウィング:蝙蝠翼と称される)病因分析を行っています。 写真はロンドン、ワーテルロー広場にあるナイチンゲール像です。彼女はこういう偶像が大嫌いでした。遺言で断っています。だから彼女の全身像はセントトーマス病院とここにしかありません。 しかし、何故か日本の川西市に世界で3個目のナイチンゲール像があるようです。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
大人の健康情報 望月吉彦先生更新日:2014/09/22 皆さんは「EBM」という言葉を聴き慣れてはいないでしょう。私たち医療者はこの言葉をよく耳にします。 昔の医療は医師個人の経験とそれに基づく勘により行われていました。近年は、EBM(根拠に基づいた医療)が定着し、エビデンスやガイドラインをベースにした医療が行われるようになりました。私が所属するエミリオ森口クリニックでは、EBMを基本としながら患者様一人ひとりに合わせた個々のヘルスバリューの向上を目指す医療の提供者であろうと考えて、日々の診療にあたっています。 いずれこのコラムでも紹介いたしますが、私は「糖質制限治療」を様々な患者さんに勧めています。「糖質制限治療」について勉強した時、「食事」と「病気」について色々な事を考えした。今でも色々と思いを巡らせています。「食事」と「病気」はまさに初めてEBMを実証した関係にあります。今回はそのお話をしたいと思います。 海軍から脚気をほぼ根絶したのは 世界で初めて食事による病気治療を報告したのは、イギリス海軍軍医のジェームズ・リンドで1753年の事です。リンドは、「壊血病」はミカン、レモンを食べることで予防する事ができると報告しています。 世界で二番目の報告は、日本人の高木兼寛(たかきかねひろ)です。高木は洋食や麦飯を食べることで「脚気」の予防や治療になる事を報告しています。高木もリンドと同じく海軍軍医です。軍艦に乗っている間の食事により、それぞれ壊血病や脚気という病気が予防できることを示したのです。高木は東京慈恵会医科大学の創始者で本邦医学博士第一号としても有名です。 イギリスに留学中、脚気がイギリスでは見られないことに着目し、航海中の食事を従来の米食を主体とした和食から洋食に変更(最終的には麦飯を採用)して海軍から脚気をほぼ根絶しています。高木はその成果を当時から有名な医学雑誌「LANCET」に報告しています。 この論文が本格的なEBMの嚆矢とされています。 何故かと言うと、航海に赴く2隻の軍艦の内1隻は米食主体の和食を供し、もう片方は洋食を主体とした食事を供し、洋食を主体とした船には航海中には脚気が見られなかったと報告しています。まさにEBMです。高木(Baron Takaki)の名は世界中に広まりました。その成果を世界各地で講演しています。正確に言うと航海の年月が違いますが、時期、コースは一緒です。 南極大陸にビタミン学に貢献した功労者数名の名前がついた地名があります。うち一つがTAKAKI岬です。Eijkman岬、Funk氷河、Hopkins氷河、McColumm峰などと並んでいます(脚注参照)。 それくらい当時も今も栄養学でTAKAKIの名は有名ですが、残念ながら日本ではあまり知られていません。 ちなみに、日清戦争では脚気病死者が、「海軍0名」に対し「陸軍で病死者4,000名」。日露戦争で「海軍脚気患者87名、死者0名」に対し「陸軍脚気患者25万人、病死者28,000名」。また脚気で体力が低下した結果、十分な戦闘が出来ずに戦死した兵も少なくないと言われています。ロシア兵は「日本兵がヨロヨロしながら突撃してくる」と描写しています。脚気でヨロヨロしていたのです。かわいそうな話です。日清戦争での海軍の教訓も生きていません。 当時の陸軍軍医総監は森鴎外で、脚気は「脚気菌」で起きると主張した為、陸軍は麦飯を取り入れませんでした。そのため悲惨な結果になっています。森鴎外のいうことを聞かずに麦飯をとりいれた陸軍部隊もあり、その軍隊では脚気が出ていません。しかし大半の陸軍兵はかわいそうな事になっていました。 興味がある方は、吉村昭 著「白い航跡」(講談社文庫)をお読みください。 今でも食事は様々な病気と関わっています。それに気づいた高木やリンドは偉かったとつくづく思う今日此頃です。 注: Eijkman、Hopkinsは脚気の原因となるビタミンB1の発見でノーベル賞を受賞 Funkはビタミンの発見者で命名者 McColummはビタミン(A、D)の発見者 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2014/09/08 『湿潤(しつじゅん)治療』について 「傷は消毒しないとキレイに治る!」なんて言われて驚く方も多いかと思います。 今回は、『湿潤(しつじゅん)治療』についてご紹介致します。 ちょっと生々しい写真でもありますが、実際の写真を見ていただくのが一番と思います。 まずは、火傷を負ってしまった患者さん(6歳女児)へ『湿潤治療』を施した事例、治療前後の写真です。治療後1年で傷痕は殆ど目立たなくなりました。お解かりになりますか? 火傷時 湿潤治療 1年後 一方、下記の写真は、上記とは別人ですが、「旧来の治療」を行われた症例(6歳女児)です。 赤黒くなっている所が火傷による肥厚性瘢痕部です。こうなってからではキレイには治りません。 私のところにこの状態になってから傷痕について相談に来られましたが、残念な事にこの瘢痕は一生残ってしまいます。偶然ではありますが、同じ6歳の女児でした。 受療した治療方法の違いで人生が変わってしまうと思いませんか? 最近、当クリニックで行った治療例を示します。 最初から風呂、シャワーO.K.で湿潤治療を施した患者さんです。 ほぼ3週間できれいに治っています。 従来治療ではありえません。 これは火傷で皮膚移植をされた患者さんの写真です。 この痕は一生消えません。『湿潤治療』を行っていれば皮膚移植は不要で、且つキレイに治ったと思われます。 皆さんは「旧来の治療法(消毒して皮膚移植治療)」を受けますか? 擦り傷、切り傷、火傷は消毒をしないでキレイに治ります。「えっ?消毒しないで大丈夫なの?」と言われることも多いのですが、全く大丈夫です。それどころか、「あれれ?」と思うほど痛くなく、しかもキレイに治ります。 消毒をして、ガーゼを当てるのが「旧来の治療」です。しかし、そういう治療は創面(きずぐち)を痛めてしまい痛みを生じさせ、創の治りを遅らせ、更には最終的に肥厚性瘢痕(一般の方は「ケロイド」と言いますが、正式には「ヒコウセイハンコン」と言います)を生じさせます。私がクリニックで行っている傷の治療(火傷を含む)は、『湿潤治療』と称される治療です。具体的には、創面をよく温水で洗浄して湿潤治療用の被覆材で創部を覆います。その際、創部にワセリンを塗布します。ワセリンを塗布することで創面に露出している神経末端が空気と接しなくなるので痛みは収まります。もちろん、痛みがゼロにはなりませんので、1~3日は痛み止めを服用していただくこともあります(創の大きさ、創の深さにもよります)。また、よほど創面が汚染されている時以外には抗生物質の投与は行いません。ドロで汚染されているときは破傷風予防で「破傷風トキソイド予防接種」を行うこともあります。 ここで少々話は逸れますが、破傷風ほか細菌について触れておきましょう。屋外での外傷時に破傷風トキソイドが必要かどうかは、実は不明です。破傷風トキソイドなど打った記憶が無い人がほとんどでしょう。しかし小学校時にDPTワクチンとして接種を受けていると思います。破傷風菌予防では消毒が必要と思われるかもしれませんが、破傷風菌は土中10cmまでの処に芽胞のカタチで寝ています。芽胞状態の菌は消毒はもちろんの事、100度の煮沸でも死滅しません。消毒をしても無意味なのです。沢山の細菌が手、顔、皮膚、口腔内、腸管など自身にはもちろん日常生活をしている場所には沢山います。電車のつり革、階段の手すり、椅子、机、パソコン、トイレ等で特にキーボードは汚く、実は便器よりも単位面積当たりの細菌数は多いそうです。 そういう菌は傷口にとりつきますがほとんどは共生して静かなのです。傷に細菌がいるのは普通のことなのです。穏やかにいる細菌をやっつけようとして消毒をしたり、抗生物質で殺そうとすると悪さをするようになります。それが「痛み」であり、「耐性菌の出現」なのです。 消毒薬の効果はせいぜい10-15分程度 治療の話に戻りましょう。これまで傷に細菌が入ったとして消毒が必要と思われてきたのですが、消毒薬の効果はせいぜい10-15分程度しかありません。一日1回の消毒をしたとしても、23時間45分は消毒をしていない状態に戻ってしまうのです。ですから、消毒にはさほど意味がないのです。それに加えて悪いことに、傷口から出てくる「じくじくした液(浸出液)」には傷を治す物質や細菌感染を生じないようにする細胞が沢山含まれています。消毒することによりこれら傷を治す成分や細胞を消滅させてしまいます。だから消毒をすると痛いし、傷が治りにくいのです。それでも(消毒しても)治ってきたのは身体が強いからとしか思えないです。 傷口を「湿潤環境」に保つことで、身体から出てくる傷を治す成分を活かすことが出来ます。 エミリオ森口クリニックでは『湿潤治療』のための材料を揃えております。ここまでの話の通り、火傷で旧来の治療を施すと醜い瘢痕が残る(私の右手にも小さいときの火傷跡が残っています)が、『湿潤治療』では残りません。これには最初びっくりしたのですが、本当にきれいに治ります。 創感染の予防策を提唱したのは英人外科医のリスターです。現在でも出版されている一流医学雑誌Lancetに「石炭酸に浸したリント布で傷を覆うと傷が化膿しない」と1867年発表しています。「ホラ見ろ!リスター先生が言うように傷は消毒しないとダメだ。」と医者も多いと思います。しかし、今では石炭酸の消毒力は極めて弱い事が判明しており、リスターの効果は洗浄によるものだろうと推定されています。当時のあるとても優秀な外科医が「いくら濃度の高い石炭酸に浸しても傷は治らない。治らないどころか悪くなる事も多い。消毒で傷は治るのか?」と述べていますが、消毒一辺倒となった医学界からは無視されます。今でもその無視状態が続いていると言っても良いかもしれませんね。因みに日本国内ですが、Y県、T県で『湿潤治療』をしているのは一人ずつしかいません。県庁所在地で『湿潤治療』をしていない県も沢山あります。もとより、この治療は日本で始まったので(畏友;夏井睦先生@練馬光が丘病院が「湿潤治療」の創始者です)外国でこういう治療を受けることは出来ません。余談ですが、普通の医師は大学卒業前も後も、創傷治療を習いません。明治時代のままの治療が続いています。 ご興味のある方は、http://www.wound-treatment.jp/tiryou-a.htm(※外部サイト)にある症例を時間のある時に見てください。「旧来の治療」を行うとどうなるか、『湿潤治療』を行うとどうなるかよく解りますよ。自身でこの治療法を実践してみて実感します。出来ることなら50年前に戻り、自分の腕の火傷治療を行いたい。そうすればこのような火傷痕は残すことはなかった…… 『湿潤治療』は、慣れると素人でも治療は出来るようになります。治療中、シャワーも浴びられるし風呂に入っても構いません。外科医の出番は感染が生じているかどうかを判断するだけです。時間が経っても痛ければ感染が生じているかもしれないし、赤くなってくればさらに感染の確率が増します。逆に言えば、痛くなければ自宅治療していれば良いのです。こういう治療で感染するのは1%以下です。日本でもまだあまり行われていない、欧米でも全く行われていない最先端治療です。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。
メディカルコラム 望月吉彦先生更新日:2014/08/25 毎日暑い日が続いています。しかも日本の夏はジメジメと暑い!この高温多湿の時期にこそ、この話をしたいと思います。 「動物咬傷」は高温多湿の時期に多い? なぜ、「動物咬傷」について話題にするかと申しますと、「動物咬傷」がこの高温多湿の時期に多いからです。ご存知でしたか? 「多い」と書きましたが、日本には正確な統計は存在しません。インターネットで厚生労働省のホームページ(HP)や保健所等のHPで統計を調べてみましたが、月別動物咬傷発症数のデータはありませんでした。しかし、米国にはそういうデータがありまして、確実に夏に動物咬傷が多いとされています。日本では統計こそありませんが、私の経験上、これは間違えないと思っています。私は若い頃、救急診療も行う外科の病院で勤務した時に「高温多湿、特に梅雨時には異様に動物咬傷が多い」事に気づきました。 犬や猫にかまれるのは年間を通して平均的では無く、ほぼ梅雨時とその後に集中していたのです。よく人間界での例えとして「飼い犬に手を噛まれた」という成句が使われますよね。本当の飼い犬が飼い主の手を噛むのは年中起こりうる人間とは違って6-7月に多いのです。きっと、犬も猫もその他の動物もこの時期には人間と一緒で「イライラ」するのではないでしょうか。 この推論には根拠があります。梅雨時には多く見られる病気には他に、急激な血圧上昇で発症する「大動脈解離(だいどうみゃくかいり)」が知られています。梅雨という時期は「身体に堪える」のですね。老若男女、体調管理が重要です。 ここからは夢想ですが、例えば初診での病院受診理由を「クラウドを利用したビッグデータで収集分析」すれば、天候と病気の関係を解明する事が出来るのではないかと思っています。例えば、『7月2日 本日の気温は27度、湿度は65%、関東甲信越地方の方は「動物咬傷」に注意しましょう』とか、『大動脈解離』に注意しましょう』とか、「健康」と「天候」の緻密な関係を予報する『健候予報』なんて出来るようになるかもしれません。今は残念な事にそういうデータ収集システムがありませんが、これからの時代に整えて欲しいものです。 閑話休題、私がすすめる創傷治療の「湿潤治療」では、「外傷」処置に消毒は不要であると考えております(湿潤治療についてはコチラ ※外部サイト)。 「動物咬傷」も基本的に消毒は不要ですが、多少、創傷処置方法が違います。何が違うかというと、「動物咬傷」には「感染」が必発です。要するに動物の牙には沢山の細菌がついており、噛まれると牙先端が真皮下や筋肉内まで達するため、そこで細菌が繁殖します。それを防ぐため、あるいは感染してからでも構いませんが、細菌が体外に出やすいような処置をします。一工夫こらしたナイロン糸を創部に挿入するだけです。数日、糸を留置すれば糸に沿って膿が体外に流失します。これを「ドレーナージ」と言います。ほとんど2-3日で膿の流失は止まり感染も治ります。抗生剤も数日投与します。場合によっては破傷風ワクチンも投与します。この辺りが「普通の傷」と「動物咬傷」の違いです。 と、ここまで書いていた時、今夏盛り上がりをみせたワールドカップでウルグアイの選手がイタリアの選手の肩を噛んで問題になっていることに話題提供者として運命を感じます。人間の唾液には唾液1ml中の細菌数は、一億から十億個あります。“Kiss”をするのは、他人同士の細菌が絡み合う事になります。そして、細菌同士もO.K.なら「恋人になっても良いよ」と脳に指示しているという仮説もあります。例えば、血液を介して感染する病気に罹患されていた場合でも“Kiss”でその病気がうつる確率は極めて低いとされています。ただし、噛み傷は違います。感染者が噛まれて出血すれば、噛んだ人の方が感染する可能性はゼロではありません。噛んで感染を生じれば傷害罪になります。かの「噛みつき選手」は、9試合もの出場停止処分になりました。人が人を噛んで良いことはありませんよね。 外国旅行する方に「狂犬病」の注意を 感染症の話になりましたので、最後にこんな話題も。 高温多湿時期とは関係が無いのですが、外国旅行する方に「狂犬病」の注意をお伝えしておきましょう。日本では昭和31年から「狂犬病」を発症した人はいません。動物の「狂犬病」も昭和32年を最後に発症がありません。ところが、外国では違います。北欧とイギリス、オーストラリア、ニュージーランド以外の国では今でも「狂犬病」が発症しています。そして、年間5万人もの人が死亡しています。「狂犬病」といっても、「犬」だけではなく「コウモリ」などの動物からも感染ります。死亡率99.9%の病気です。可愛いからといって外国で犬をなでたりして噛まれると感染する可能性もありますので注意が必要です。日本国内での狂犬病発症はありませんが、渡航先から帰国後に発症して死亡した例があります。 高温多湿の夏、特に来年からは梅雨時には「動物咬傷」に注意してください。 望月吉彦先生 所属学会 日本胸部外科学会日本外科学会日本循環器学会日本心臓血管外科学会 出身大学 鳥取大学医学部 経歴 東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学) 獨協医科大学教授(外科学・胸部) 足利赤十字病院 心臓血管外科部長 エミリオ森口クリニック 診療部長 医療法人社団エミリオ森口 理事長 芝浦スリーワンクリニック 院長 医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック 東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階 TEL:03-6779-8181 URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/ ※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。