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163:指紋研究は盗まれてしまった? 指紋の研究は100年以上前に日本で始まり世界に広まった(5)(望月吉彦先生) - ドクターズコラム

大人の健康情報

望月吉彦先生

更新日:2022/08/01

未だCOVID-19は収まりません。RNAウイルスは変異しやすく対処が難しいです(コロナウイルスもその一種です)。インフルエンザウイルスも代表的なRNAウイルスです。変異します。それゆえに毎年「今冬流行するだろうと予測するインフルエンザウイルスの型」を予測してそれに対応したワクチンを製造します。
少し気が早いかも知れませんが今冬つまり2022-2023年冬に日本で流行ると予想される型は

  • A型株
     A/ビクトリア/1/2020(IVR-217)(H1N1)
     A/ダーウィン/9/2021(SAN-010)(H3N2)
  • B型株
     B/プーケット/3073/2013(山形系統)
     B/オーストリア/1359417/2021(BVR-26)(ビクトリア系統)

です(参考:令和4年度インフルエンザHAワクチン製造株の決定について 国立感染症研究所)。
滅多に無いですが、この予想が外れると「インフルエンザワクチンは効き目が悪い」ことになります。
今、南半球でインフルエンザが流行しています。コロナ禍でインフルエンザはほとんど流行りませんでしたが、日本でも今冬は流行ると予想されます。インフルエンザワクチンを受けておきましょう(10月から今冬用のワクチンが供給されます)。

医学の歴史は、当初「感染症と痛みとの戦い」の歴史です。これに関する本はたくさんありますが、以下に挙げる本は「感染と痛み」と医学の戦いに焦点を当てて書かれた本です。

  • 近代医学のあけぼの―外科医の世紀 ユルゲン トールヴァルド(著),小川道雄(翻訳)2007年刊
  • 外科の夜明け(講談社文庫) トールワルド(著), 塩月正雄(翻訳)1977年刊

1.も2.も元本は一緒ですが翻訳者が違います。2.は絶版になっていますが、古本は入手可能です。どちらの本でも構いません、医学に興味がある方はぜひお読みください。

幸いなことに痛みに対しては「麻酔」が確立されましたが、今も全身麻酔が「なぜ効くのか」は解明されていません。それはともかく、感染症に対しても様々な方法、様々な手段を人類は手に入れましたが、未だ完全な対処法はなく、これからも人間は感染症に苦しめられると思います。

指紋の歴史


ここから、本来の指紋の話を始めます(前回はこちら)。
感染症対策として電子マネーが使われるようになっています。お札にコロナウイルスが付着するとお札のやりとりで、手から手へウイルスが伝播します。それゆえにできるだけ、現金に触れないのも感染予防になり得ます。その電子マネーの個人識別には「指紋」が用いられています。指紋は古くて新しい「個人識別方法」です。そして、もちろん、犯罪捜査にも「指紋」は必須です。

指紋の歴史について少し整理します。

古代?:
土器を作るときに、偶然付いた指紋があります。指紋を何かの目的に意図して利用した形跡はありません。
1880年10月:
築地にいたスコットランド人医師ヘンリー・フォールズは指紋のもつ医学的、法医学的な意味に気づいてNATUREに論文を投稿、掲載されました。ヘンリー医師はNATURE投稿前にイギリス人探検家、科学者のゴールトン(ダーウィンの従兄)と指紋について相談しています。
1880年11月:
イギリス人博物学者・科学者ハーシェルは1858年から自分がインドに滞在していた時に「指紋を個人識別に使っていたこと」をNATUREで発表。「自分こそヘンリー医師よりも先に指紋を世界で最初に活用した」と主張。これはもちろん築地のフォールズ医師が書いた論文に触発されて書いたのでしょう。
1888年:
ヘンリー医師はスコットランドヤードに対して、指紋が犯罪捜査に役立つことを提案。しかし無視されています。
1888年5月:
英国王立協会でゴールトンは「ハーシェルが書いたNATUREの論文を紹介、ハーシェルこそ世界で初めて指紋を個人識別に使うという考えを考案した人物であり、ハーシェルの後にヘンリー医師が指紋についてNATUREに論文を書いた(実際は逆)」と講演。ヘンリー医師が、インドでハーシェルが行っていた指紋認証を知るよしもありません。
確たる証拠はありませんがハーシェルとゴールトンは「組んだ」と推測する本もあります(文献1)。ハーシェルとゴールトンは旧知の間柄です。2人とも英国の上流階級です。そう思われても仕方ないでしょう。ゴールトンはプロの科学者です。「指紋研究」を続けて、ついに指紋に関する本を出版します。
1892年:
ゴールトン「Finger Prints.」を出版。
1893年:
個人識別法に関する委員会がイギリスに設置されました。委員長の名前をとってトゥループ委員会と称されました。1894年に報告書が出ます。指紋鑑定を個人識別に使うことが決定されたのです。それには「ゴールトンが見つけた指紋分類」を採用することになったのです。
その決定書には
「ゴールトンの名前と不可分になっている指紋はハーシェルによって最初に提案された」
とあり、ヘンリー医師の名前はありませんでした。ヘンリー医師は憤ります。トゥループ委員長に直談判しますが、無視されます。ヘンリー医師が用いていた指紋分類を用いると計算上17兆も違った指紋を識別できるのですが、ゴールトンが提案していた方法では数十万しかできません。明らかにヘンリー医師の方法が優っています。
1893-1894年頃:
ヘンリー医師は、ゴールトンがすでに「Finger Prints.」という本を出版していることに気づきます。しかしこの本には残念なことにヘンリー医師が書いたNATURE論文のことはあまり触れられていませんでした。
1894年10月:
ヘンリー医師はNATUREに「指紋による累犯者の識別をめぐって」と言う論文を書き「自分の方が先に指紋について論文を書いた」ことを訴えました。その論文で厳しくゴールトン、ハーシェルのことを非難しました。ゴールトン、ハーシェルの怒りを買い、彼らから反撃されます。
1895年:
ゴールトン「Finger Print Directories.」を出版。
1905年:
ヘンリー医師「Guide to finger-print identification」を出版。
1909年:
ゴールトンは、指紋を始めとする科学研究の業績により「男爵」に叙せられました。1910年ヘンリー医師は当時内務大臣だったあのウィンストン・チャーチル(当時35歳)に「自分の指紋に関する業績も認めてくれる」ように嘆願書を提出しましたが、無視されています。
1911年:
ゴールトンは他界。
1912年:
ヘンリー医師「Dactylography; Or, the Study of Finger-Prints」を出版。
1915年:
ヘンリー医師「How the English fingerprint method arose」を出版。
1916年:
ハーシェルは「The Origin of Finger-Printing指紋の起源」を著しますが、ヘンリー医師のことには全く触れませんでした。ヘンリー医師は再度「自分こそ指紋を発見」したとNATUREに投稿しますが、無視され、ハーシェルに「自分の方がインドで指紋を最初に発見した」と反論されます。
1917年:
ハーシェル他界。
1930年:
ヘンリー医師も他界。ヘンリー医師は亡くなるまでに指紋に関する本を3冊出版しています。それらの本では、かなり詳しく指紋研究、指紋分類etc.のことを書いています(文献3-5)。残念なことにヘンリー医師の「指紋」に関する業績は生前には認められず、彼は失意、困窮の内に亡くなり、彼の子供2名も困窮していました。
1937年:
スコットランドの裁判官ジョージ・ウィルトンはヘンリー医師の業績を認める運動を開始、貧しい生活を送っていたヘンリー医師の子供に功労金が支払われるようになり、ヘンリー医師の墓も建てられました。見ている人は見ているのですね。しかし、その後ヘンリー医師の業績を顧みる人もなく、ヘンリー医師の墓はどこにあるのか解らないような状態になっていました。
1978年:
二人のアメリカ人指紋検査官がヘンリー医師の「指紋に関する業績(論文や著書)」に気づき、英国ストーク・オン・トレント市(Stoke-on-Trent)のウルスタントン町(Wolstanton)の共同墓地に埋もれていた墓を探り当て自分たちでお金を出し合って、お墓をきれいに建て直し、今ではウルスタントン町の名所になっています。アメリカ人がイギリス人の業績を掘り起こし顕彰しているのです。良い話ですね。2007年には地元の警察がヘンリー医師の顕彰碑を建てています。

ゴールトンの指紋識別は基本的に単指(1本指)指紋による方法で、どう考えてもヘンリー医師の主張する10本指指紋を用いた方法の方が優れていると、私は、考えていました。しかし、スマホが出現し、話は変わってきました。スマホで使う指紋認証は、普通、単指指紋認証です。単指指紋にも光が当たったのです。10本全ての指をかざして個人識別をしていたら時間がかかります。

つまり、単指指紋識別にも10本指紋識別にもそれぞれ意味があり、それぞれに役割があると、今では考えます。まさか100年以上たってからゴールトンが主張した単指指紋識別が普通に使われるようになるとは思わなかったでしょう。

まとめ

1.イギリス人科学者ハーシェル:

1850年代、インドで指紋を使った個人識別を、世界で最初に、行った。後に指紋は生涯不変であることを証明。

2.ヘンリー医師:

1880年、日本で行った指紋に関する研究をNATUREに発表。10本全ての指で指紋を採取する必要性と犯罪捜査に指紋が役立つことを論文にした。この論文が世界で最初に書かれた指紋に関する論文であり、日本滞在中にこの論文を書いています。

3.イギリス人科学者ゴールトン:

指紋が犯罪捜査に役立つこと、単指指紋も個人識別に役立つことを追求。指紋に関する論文、著作を重ね「指紋の持つ意義」を広く知らしめた。 https://galton.org/fingerprinter.html にゴールトンが書いた指紋に関する論文、一般記事がPDFになって読むことができます。大量にあります。
以下、上記サイトより引用します。

  • 1888 'Personal identification and description.' Nature 38 : 173-7, 201-2
  • 1888 'Personal identification and description.' (revised version) Proceedings of the Royal Institution 12 : 346-60
  • 1889 'Personal identification and description.' Journal of the Anthropological Institute 18 : 177-91
  • 1900 'Identification offices in India and Egypt.' Nineteenth Century 48 : 118-26
  • 1910 'Numeralised profiles for classification and recognition.' Nature 83 : 127-30
  • 1888 Personal Identification Scientific American Supplement 26 (659, August 18) : 10532-3
  • 1888 Personal Identification. Times, The (May 26) : 13c
  • 1890 'The patterns in thumb and finger marks.' Nature 43 : 117-8
  • 1890 'The patterns in thumb and finger marks.' Proceedings of the Royal Society 48 (November 27) : 455-7
  • 1891 Identification by finger tips. Nineteenth Century 30 (August) : 303-11
  • 1891 'Methods of indexing finger-marks.' Nature 44 : 141
  • 1891 'Methods of indexing finger-marks.' Proceedings of the Royal Society 49 (May 28) : 540-48
  • 1891 'The patterns in thumb and finger marks.' Philosophical Transactions of the Royal Society, B 182 : 1-23
  • 1891 'The patterns in thumb and finger marks.' Journal of the Anthropological Institute 20 : 360-1
  • 1892 'Imprints of the Hand, by Dr. Forgeot (exhibited by Francis Galton' Journal of the Anthropological Institute 21 : 282-283
  • 1892 'Finger prints and their registration as a means of personal identification.' Transactions of the Seventh International Congress of Hygiene and Demography 10 : 301-3
  • 1893 'Identification.' [Letter] Nature 48 : 222
  • 1893 'Finger prints in the Indian Army.' Nature 48 : 595
  • 1893 'Recent introduction into the Indian Army of the method of finger-prints for the identification of recruits.' Report of the British Association for the Advancement of Science : 902
  • 1893 'Enlarged finger prints.' Photographic Work (February 10)
  • 1893 'Identification.' [Letter] Times, The (July 7) : 4e
  • 1893 'Payments through telegram by P.O. Savings books.' [Letter] Times, The (December 27) : 7e
  • 1895 'The wonders of a finger print.' Sketch (November 20)
  • 1896 'Les empreintes digitales' Comptes-rendus du IVe Congres International d'Anthropologie Criminelle. Sessions de Geneve : 35-8
  • 1896 'Prints of scars.' [Letter] Nature 53 : 295
  • 1896 Prints of Scars. Scientific American 74 (March 14) : 168
  • 1899 'Finger prints of young children.' Report of the British Association for the Advancement of Science 69 : 868-9
  • 1902 'Finger print evidence.' Nature 66 : 606
  • 1905 [Review of] Guide to Finger Print Identification, Henry Faulds Nature 72 : iv-v Supplement
  • 1909 Identification by finger prints. [Letter] Times, The (January 13)

以上、引用終了。 これらは全て上記のサイトでPDFになっているので誰でも読むことができます。ゴールトンの指紋に関する熱意、思いを感じます。TIMESにも解説を書き、一般人にも啓蒙しています。指紋に関する論文を次から次に書いて発表したゴールトンも「偉い」と思います。

スマホ全盛時代となり指紋が広く使われるようになるとは、ヘンリー医師、ゴールトン、ハーシェルの誰もが思わなかったでしょう。今考えると各々が良い仕事をしたのだと思います。

ヘンリー医師の研究は、繰り返しになりますが、東京築地で行っています。そこに、私は、親しみを覚えます。

築地に行くことがあれば聖路加国際病院の脇にあるヘンリー・ヘンリー医師の顕彰碑をご覧ください。そして今から140年前、東京都大森の縄文土器から「指紋」に気づき、指紋の持つ価値、意味を研究し、そして世界初の「指紋研究論文」をこの地で書き上げてNATUREに投稿したことを思い起こして頂ければ、と思います。

終。

追記:

元警視庁捜査1課長の光真章(みつざねあきら)さんは、指紋だけで無く足紋(足指の指紋)も個人識別に役立つことを提唱しています。足の方が靴を履いているため、そして靴下を履いているため保護され、大震災のような災害時には手よりも足の方が残る確率が高いからだそうです。
その光真章さんはヘンリー・フォールズ医師の眠るイギリスのWolstantonを訪れ、日本に残っていたヘンリー医師の遺品を地元の警察に贈呈しています。良い話です。

【参考文献】

  • コリン・ビーヴァン著、茂木健訳「指紋を発見した男―ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け」主婦の友社:2005刊
  • HENRY FAULDS著「Dactylography; Or, the Study of Finger-Prints」1912年刊
  • HENRY FAULDS著「Guide to finger-print identification」1905年刊
  • HENRY FAULDS著「How the English fingerprint method arose」1915年
  • HENRY FAULDS著「Nine Years in Nipon. Sketches of Japanese Life and Manners」1888年
  • ウェルカム図書館 Wellcome Collection
    医学史に関する膨大な資料、文献を所蔵していることで有名です。入場料は無料、コロナ禍で一時閉館していましたが、今は開館しています。予約不要と書いてあります(2022-06-15 確認)。ロンドンにあります。行ってみたい場所の1つです。
    Letters of Notable Victorians

    2-5は全て、電子化されています。
    Historic Works on Fingerprints」というサイトで読むことができます。

    The Project Gutenberg EBook
    グーテンベルグプロジェクトでも上記文献2.は紹介されています。
  • S Inaga , H Osatake, K Tanaka:SEM images of DNA double helix and nucleosomes observed by ultrahigh-resolution scanning electron microscopy J Electron Microsc (Tokyo). 1991 Jun;40(3):181-6.
  • アン・セイヤー 著:ロザリンド・フランクリンとDNA―ぬすまれた栄光  草思社(1979/1/1)
  • ブレンダ・マドックス 著: 福岡 伸一 (翻訳):ダークレディと呼ばれて: 二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実 化学同人(2019/9/6)
  • 高野 麻子:「指紋と近代――移動する身体の管理と統治の技法」(みすず書房) 2016年刊
  • 高野 麻子:「指紋法」誕生の軌跡 : 大英帝国のネットワークと移動する身体の管理という「課題」
    The History of Practical Application of Fingerprinting : Networks of the British Empire and the "Problem" of Controlling Human Mobilities
    東京大学大学院情報学環紀要 -(82), 43-68, 2012-03
  • Francis Galton :Personal identification and description.' Nature 38 : 173-7, 201-2 1888年
  • Francis Galton:'Personal identification and description.'(revised version) Proceedings of the Royal Institution 12 : 346-60 1888年
  • Francis Galton:'Finger print evidence.' Nature 66 : 606,1902年
  • Henry Faulds[Review of] Guide to Finger Print Identification, Nature 72 : iv-v Supplement 1905年

望月吉彦先生

望月吉彦先生

所属学会
日本胸部外科学会
日本外科学会
日本循環器学会
日本心臓血管外科学会
出身大学
鳥取大学医学部
経歴
東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学)
獨協医科大学教授(外科学・胸部)
足利赤十字病院 心臓血管外科部長
エミリオ森口クリニック 診療部長
医療法人社団エミリオ森口 理事長
芝浦スリーワンクリニック 院長

医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階
TEL:03-6779-8181
URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/

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