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028:毎年の恒例「忠臣蔵」を違った視線で見て楽しむ(望月吉彦先生) - ドクターズコラム

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望月吉彦先生

更新日:2015/12/21

もう、年末です。時が立つのは早いですね。この時期、忠臣蔵のことが頭をよぎりませんか?

年末というと泉岳寺を思い起こします。30年前、泉岳寺駅のそばに住んでいました。
12月14日になると、お線香の匂いが駅まで漂ってきます。
泉岳寺には「忠臣蔵」で有名な赤穂浪士(あこうろうし)と呼ばれる浅野家家臣46人と、その主君だった浅野内匠頭(たくみのかみ)のお墓があります。47人が討ち入ったのですが、討ち入り後に1人(寺坂信行)はなぜか逃げているので、家臣のお墓は46人分です。逃げた理由は諸説ありますが、はっきりとはしません。
赤穂浪士は、元禄15年12月14日(西暦なら1703年1月30日)に吉良邸に討ち入りをして吉良の首級を上げているので、泉岳寺や浅野内匠頭の領地であった兵庫県赤穂市ではその日(12月14日)「義士祭」が盛大に執り行われます。
一方、討ち入られた吉良邸があった東京都墨田区両国本所松坂町公園では「吉良祭」が同日行われています。これは吉良上野介と共に討ち入りで斬り殺された20名の吉良家臣の供養のためですが、こちらはほとんど知られていません。

年末になると大概どこかのテレビで「忠臣蔵」が放映されます。何度も映画になっています。つい最近も「忠臣蔵」を題材にしたハリウッド映画『ラスト・ナイツ』が上映されていました。「忠臣蔵」も世界的になったと言えますね。
「年末」と「忠臣蔵」は、何故かワンセットです。夏に「忠臣蔵」が話題になることはないですね。今、使用されている暦は太陽暦ですから理屈を言えば1月30日に義士祭を行ったほうが理にかなっていると思います。しかし、年末の慌ただしい日々にあの討ち入りが行われたという気分を残すためにも12月14日に、お祭りが行われるのでしょう。

浅野内匠頭は精神を患っていたので、突発的に吉良に切りつけたと分析している人も

それはさておき、「忠臣蔵」は日本人の琴線に触れるのか、たくさんの書物が書かれ、さらに映画、テレビで繰り返しその物語が上演されてきました。忠臣蔵の話をよく知らない人のために纏めると、

  1. 浅野内匠頭という、今は兵庫県赤穂市を領地とする殿様がいた(注:内匠頭は官職名、本名は浅野長矩(ながのり))
  2. 浅野内匠頭は朝廷から幕府への使者接待役を仰せつかった
  3. その指導をしたのが吉良上野介(きらこうづけのすけ)であり、吉良家は代々、高家(こうけ)と言ってこういう朝廷からの接待時の礼法、作法指導や朝廷との連絡役などをしていた
  4. その作法指導時、吉良上野介は浅野内匠頭をイジメた(らしい)
  5. なぜイジメたかというと内匠頭から吉良へ「付け届け=賄賂」が少なかったのが大きな原因で、他にも「気が合わなかった」とかの理由があるらしい
  6. 陰に日向に吉良は内匠頭を馬鹿にした
  7. 浅野内匠頭は吉良上野介を江戸城内で切りつけた切りつけたのは朝廷から幕府への使者をもてなす最終日(三日目)毎日いじめられ堪忍袋の緒が切れた(ことになっている)
  8. 江戸城内(=将軍の住まい)での殺傷沙汰だったので「殿中抜刀の罪」で即日切腹を命じられる内匠頭は「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」という立派な辞世の句を残した。即日切腹しているのに、立派な辞世の句を作れるのは凄いですね
  9. 喧嘩両成敗?が定法なはずなのに“吉良におとがめ無しは変だ”の世論が次第に生じるようになった。一方、吉良は接待に不具合が生じたとして高家を辞任した(そもそも、切られたら、接待は出来ないのに、、、と思いますが)
  10. 浅野家は当然、お取りつぶしになり、浅野家家臣は全員失業
  11. 喧嘩両成敗では無かったので幕府に反抗して城に篭って戦おうと主張する一派もいたが、浅野家筆頭家老の大石内蔵助は城の明け渡しを決める
  12. その代わりに大石は吉良上野介への復讐をすることを決めて同志を密かに募る
  13. 大石内蔵助は“馬鹿”を装い、ひたすら遊び歩いた事になっている(幕府を油断させるため)
  14. しかし、大石は、遊んでいると見せかけて、裏で着々と復讐計画を練る
  15. 一方、吉良上野介はどうやら“嫌われ者”だったので、江戸城の側にあった屋敷を当時まだ相当な田舎だった本所に屋敷を移される
  16. 結局、大石内蔵助をはじめとするいわゆる四十七士は、旧暦12月14日、本所の吉良邸に討ち入り、台所に隠れていた吉良の首をはねる
  17. 幕府のなかには“四十七士を武士の鑑”と考え賞賛する向きもあったが、結局は全員切腹の命令が下され、浅野内匠頭と一緒に泉岳寺のお墓に入る事になった

というようなストーリーです。
要約すれば、底意地の悪い吉良が浅野内匠頭を苛めたのが発端で内匠頭の怒りを買って切りつけられたが、情けないことに吉良を殺すには至らず結局自分が切腹する羽目に。しかも、お家(浅野家)は断絶、家臣は路頭に迷うと言う最悪の結果になってしまった。そのため、家臣も決して一致団結していた訳では無く、冷めていた家臣も居た。しかし、一部の家臣が強固に団結して、すでに役職を降りてい余命幾ばくもないような老人吉良を殺害するという物語です。
勿論、吉良家にとっては面白くない話で、吉良家の領地だった現在の愛知県吉良町と赤穂市は平成2年まで交流が無かったとのことです(現在は仲が良く、赤穂の義士祭に吉良町の人が参加したりするそうです)。吉良町は洪水の被害に度々あったため、吉良上野介は堤防を築いたり、新田開発のために干拓をしたりしたので、領民には慕われており、名君の誉れが高かったらしいですね。

そもそも私が思うに「仇討ち」と言うけれど、浅野は「殿中抜刀の罪で死罪」になったのであり、吉良が浅野を殺害したわけではない。むしろ逆であり、普通に冷静に考えると「仇討ちは変」だと思います。浅野内匠頭の数少ない行動記録を病跡学的に検討すると、浅野はある種の精神疾患を患っていたと主張する人もいます(参考文献6)。病跡学=パトグラフィ=pathographyとは、歴史上の人物の行動、言動の記録から疾患分析をする学問で、病跡学会という組織もあります。脂質代謝の研究で有名な故五島雄一郎先生は多くの音楽家について、病跡学を用いて、分析した本を多数書いておられます(参考文献7.8.)。

それはともかく、要するに浅野内匠頭は精神を患っていたので、突発的に吉良に切りつけたとそう分析している人もいるということです。また吉良が浅野を理不尽に「いじめた」と言われているのは史実では無いようです(記録が無いのですね)。冷静に考えると、結構色々と問題のある話だったのかもしれないです。

「いろは歌」は「うらみ歌」?

ではなぜ日本人にこの復讐物語が広く受け入れられているかというと、ひとえに「仮名手本忠臣蔵」という歌舞伎が流行ったからです。上記1~17の事実(?)や憶測を適当にブレンドして判官贔屓の日本人にうけるように作られたのが、この「仮名手本忠臣蔵」です。
苛めに苛められた「清く正しい人」が我慢に我慢を重ねたけれど最後には怒って、相手をやっつけるというパターンは高倉健の映画の様式美の一つですね。こんな処にまで忠臣蔵は影響します。

さて、この歌舞伎の題名ですが、「仮名手本(かなてほん)」?とか「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」?って一体何でしょう。「仮名手本」を皆さんご存じでしょうか?
「仮名手本」とは仮名習字のお手本という意味ですが、このお手本は仮名47文字だけで歌を読むという離れ業を行っています。知られているのは数種あるのですが、圧倒的に有名なのは、この「いろは歌」は47文字です(古典で習ったこともあるかと思います)。

いろはにほへと ちりぬるを : 色はにほへど 散りぬるを
わかよたれそ  つねならむ : 我が世たれぞ 常ならむ
うゐのおくやま けふこえて : 有為の奥山  今日越えて
あさきゆめみし ゑひもせす : 浅き夢見じ  酔ひもせず

ですね。47文字で見事に歌になっています。仮名文字を覚えるのに寺子屋などで江戸時代、普通に使われていました。少し前まで「いろは」順で色々な順番が決まっていました。

どうでもいい話ですが、今となっては「いろは」順での席決めなど見られないと思います。数字+ABCD順(あるいはその逆)が多いですね。昔(といっても1991年まで)、ロッテの本拠地だった川崎球場の座席表示は「いろは」順でした。指定席券を買うと「への3番」などと記されているのです。席を見つけるのに一苦労だったのも良い思い出です(席を見つけるのに、いろは歌が必要なんて一寸素敵でした。今、これを東京ドームや甲子園でやったら大変な事になりそうです)。「日光いろは坂」は、今も「いろは」順ですね。数字だけの「日光47坂」になったら、一寸味気ないですね。

閑話休題、この「忠臣蔵」の前に「仮名手本」と付くのは何故でしょう?簡単な話で「仮名文字の数」と一緒の「47」人で討ち入ったからだと単純に考えていました。
しかし、これだけ有名な題名ですから、「ちょっと変わった」説を唱える方もいます。それは、少し怖い話です。「いろは歌」は「うらみ歌」だという説です。いろは歌を7文字ずつにわけてみます。

いろはにほへ
ちりぬるをわ
よたれそつね
らむうゐのお
やまけふこえ
あさきゆめみ
ゑひもせ

その最後の文字を見ると「とかなくてしす」となります。それを「咎(とが:罪)なくて死す」と書かれていたと説き、江戸時代、「仮名手本」と言えば「=恨み歌」であるのは常識だった主張し、それらを掛けて、「罪が無くて死んだ47人が入っている蔵の物語」を約めて「仮名手本忠臣蔵」とつけたと唱えているのですね。裏付ける文献は無く、一寸眉唾の様です。付会でしょう。

色々な物事には、色々な見方があり…

閑話休題、赤穂浪士と吉良上野介の話に戻ります。歴史上の事実は明らかになること無く、「吉良=悪者」「浅野=いじめられた弱者」の構図が作られてしまい、今に至ります。レッテル貼りの様なモノですね。創作はある意味怖いです。吉良家にも言い分があるだろうと、考える方もいらっしゃると思います。しかし、吉良家には言い訳が許されませんでした。討ち入りで主君を守れなかったのは武士の恥であると言われ、吉良家はお家断絶になってしまったからです。吉良家にとっては散々な話です。
しかし後世、参考文献2のように吉良家から見た忠臣蔵も書かれるようになりました。これは非常に面白い本です。視点を変えると、こうなるのか!と思います。いつも、このように多様な視点を持つことが出来ればと思います。

参考文献について
1.は、忠臣蔵がなぜ日本人に受けるかを分析していて面白いです。2.は上述。3.4.は“いろは歌”が「恨み歌」である事を主張しています。説としては面白いですが、一寸問題がありそうです。
5.は地図!から見た「忠臣蔵」です。こちらも別な視点から見る事の大切さ教えてくれます。
6.7.8.は病跡学に関する本です。病跡学とは、歴史に残された記録を「病歴」と見なして後から病気を推測する学問です。普通は病院にかかると「問診」をされますが、それを後世に行っていると思って頂ければわかりやすいかと思います。

毎年の恒例、忠臣蔵を違った視線で見てお楽しみください。今回はこんなお話でした。一寸まとまりが無く、申し訳ありません。まあ、色々と、忠臣蔵を契機として、色々な物事には、色々な見方があり、「絶対に正しいことなど、科学以外には、あまりない」と念頭に置きつつ、年末を過ごして下さればと思います。

【参考文献】

  1. 忠臣藏とは何か:丸谷 才一 著(講談社文芸文庫)
  2. 上野介の忠臣蔵:清水 義範 著(文春文庫)
  3. 水底の歌―柿本人麿論:梅原 猛 著(新潮文庫 上下)
  4. 柿本人麻呂いろは歌の謎:篠原 央憲 著(三笠書房)
  5. 日本史の謎は「地形」で解ける:竹村 光太郎 著(PHP文庫)
  6. 源頼朝の歯周病 歴史を変えた偉人たちの疾患:早川 智 著(診断と治療社)
  7. 偉大なる作曲家のカルテ:五島 雄一郎 著(医薬ジャーナル社)
  8. 死因を辿る―大作曲家たちの精神病理のカルテ:五島 雄一郎 著(講談社+α文庫)

望月吉彦先生

望月吉彦先生

所属学会
日本胸部外科学会
日本外科学会
日本循環器学会
日本心臓血管外科学会
出身大学
鳥取大学医学部
経歴
東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学)
獨協医科大学教授(外科学・胸部)
足利赤十字病院 心臓血管外科部長
エミリオ森口クリニック 診療部長
医療法人社団エミリオ森口 理事長
芝浦スリーワンクリニック 院長

医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
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