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143:高きにならへ 人の心も~東京慈恵会医科大学創始者「高木兼寬(たかきかねひろ)」先生にまつわる話(1)(望月吉彦先生) - ドクターズコラム

大人の健康情報

望月吉彦先生

更新日:2021/01/18

今から150年前、日本人が苦しんでいた病気とは?

新年あけましておめでとうございます。昨年末、私共のクリニックは入居していたビルの解体に伴い、一時閉鎖しました。以前の場所から50mくらい離れている場所で2021年1月12日(火)にクリニックを再開しました。今後ともどうかよろしくお願いいたします。

さて、現時点(2021-01-06)で、COVID-19(通称:新型コロナウイルス感染症)は収束の見込みが全く立っていません。COVID-19はどうしたら予防できるか、どういう治療が良いか、全く解っていません。「これだ!」という決定打がありません。
感染症ではありませんが、今から150年も前、日本人が苦しんでいた病気があります。それは「脚気(かっけ)」です。
脚気は「江戸患い」とも言われていました。田舎から江戸に来ると脚気になったからです(注:参照のこと)。COVID-19の原因はSARS-CoV-2というウイルスが原因だと解っていますが、もし解らなかったらCOVID-19は東京に多いので「東京患い」などと言われていた可能性もあります。

さて、その脚気の予防法、治療法を世界で初めて発見し、それを英国の一流医学雑誌に発表した日本人医師がいます。その医師の名前は高木兼寬です。今回、次回はその高木先生にまつわる話です。

南極に「高木岬=Takaki Promontory」という岬があります。日本人が勝手につけた訳ではありません。英国人が日本人医師「高木(Takaki)」に因んでつけてくれたのです。
「高木」は東京慈恵会医科大学の創始者「高木兼寬」先生に由来します。高木兼寬の名は一般にはあまり知られていません。しかし、世界の栄養学者やEBM(Evidence-Based Medicine)研究者で「Takaki」の名を知らない人はいません。
それは高木先生が今日の栄養学の元とも、EBMの元ともなった研究論文を今から100年以上前に「LANCET」に論文を載せたからです。その論文は世界中に広まり、医学の歴史に燦然と輝いています。それが「高木岬」につながります。
高木兼寬は「たかきかねひろ」と読みます。「たかぎ」と呼ぶ方がいます。間違いです。少しだけ寄り道をします。

図1 BARON TAKAKI 著
図1 BARON TAKAKI 著

図1は 1906年(明治39年)5月19日号のLANCETに掲載されている高木兼寬先生の論文冒頭です。ここにBARON TAKAKIと記してあります。「TAKAKI たかき」と御自身で書いています。TAKAKIの横に「F.R.C.S. Eng.」とあります。この意味は後述します。なお、この論文ですが、タイトルは
「The preservation of health amongst the personnel of the Japanese navy and army. 」
日本語に訳すなら「日本の海軍・陸軍の兵士の健康保持法」でしょうか?
The Lancet 1906年の5月19日号、5月26日号、6月2日号に Lecture I、II、IIIとして連載されています。

話はさらに横に逸れます。名前は音読みにすることで敬意や親しみが増すことが多いようです。有名な方ほど音読みにされる傾向があります。勿論、全例ではありません。 音読みすると違和感を覚えるような名前は音読みされないでしょう。私の名前は「吉彦」です。訓読みでは“よしひこ”ですが、音読みなら吉は「きち」彦は「げん」なので“きちげん”です。それでは困ります。
音読みが本名よりも広まっている例を少しだけお示ししましょう。

松本清張(本名:まつもときよはる→まつもとせいちょう)
開高健(本名:かいこうたけし→かいこうけん)
福田恆存(本名:ふくだつねあり→ふくだこうそん)
安部公房(本名:あべきみふさ→あべこうぼう)
原敬(本名:はらたかし→はらけい)
菊池寛(本名:きくちひろし→きくちかん)
木戸孝允(本名:きどたかよし→きどこういん)

など多数あります。
高木兼寬も同様です。本名は「たかきかねひろ」ですが、「たかきけんかん」と呼称されることも多いのです。話を戻します。

日本の「医学、科学、社会」に、そして世界の「医学」に大きな足跡を残す

皆さんは 「病気を診ずして 病人を診よ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?これは高木先生の言葉です。病気の診断や治療というと「病気」だけを診ることに注力しがちですが、高木先生は「病人を診よ」と言っています。医療の本質を突く深い意味を持つ良い言葉だと思います。しかし、「病人を診よ」は「言うは易く行うは難し」です。しかしこの言葉を胸に医業をなすべきだと思っています。

高木兼寬先生は日本の「医学、科学、社会」に、そして世界の「医学」に大きな足跡を残しました。その一端を紹介します。順不同です。

1.高木先生は日本の医学博士第一号の一人です。1888年(明治21年)5月7日、医学博士号を授与されています。同日、池田謙斎、橋本綱常、三宅秀、大澤謙二の4名も医学博士号を授与されています。全員、医学博士第一号です。

2.高木先生は海軍軍医として「脚気を日本海軍からほぼ根絶」することに成功し、その功により、海軍軍医総監になっています。

3.現代医学の主流となっている「根拠に基づく医療=EBM(Evidence-Based Medicine)」の世界の先駆けとなる臨床試験を行って、その結果を上述のLANCET誌に投稿しています。

4.「軍艦の兵食を、米を主体とした和食から洋食に変更したら脚気が激減した」というのがLANCET誌に掲載された論文の要旨です。「食事で病気が治る可能性」を実証し、きちんとした論文にしたのは高木先生が世界で初めて成したことです。高木先生以前にもビタミンC欠乏で生じる壊血病は果物を食べれば予防され、あるいは治ることは経験的に知られていました。しかし食事の「臨床試験」を長期に亘って行い、医学論文、それも英語で論文にしたのは高木先生が世界初です。

5.日本で最初の「看護学校」を明治18年に創設しています。「慈恵看護専門学校」です。現代まで続いています。高木先生の留学先のセントトーマス病院にはナイチンゲールがいました。二人が接触した記録はありませんが、セントトーマス病院でナイチンゲールが創始した「看護」を実際に見聞きした経験は大きかったと思います。多分、同病院での看護を見て看護学校を作ったのだと思います。ちなみに2番目の看護学校は同志社大学の創設者新島襄が創設した「京都看病婦学校」です。こちらは廃校になってしまいました。

6.高木先生は、セントトーマス病院に留学中(1875-1880)、勉学に優れていたので同病院から13回も表彰され、さらにF.R.C.S. (Fellow of the Royal College of Surgeons:王立外科医師会会員) にもなっています。今でもF.R.C.S.となることは簡単ではありません。今から、140年以上も前に日本から留学した高木先生が英語を勉強しつつ医学を勉強、英国人医学生でもなかなかなれない「F.R.C.S.」になったのです。上述の論文にもBARON TAKAKIの後に「F.R.C.S.」とあります。これが記されていることで解る人(欧米系医師)には高木の優秀さが解るのです。

7.冒頭に記した様に南極に高木先生の名前を冠した岬があります。
英国の南極地名委員会(United Kingdom Antarctic Place-names Committee、UK-APC)が南極の岬や氷河に、ビタミンの研究に多大な寄与をした人の名前を冠しました。1952年のことです。

「エイクマン岬(Point)」
「ホプキンス氷河」
「フンク氷河(Glacier)」
「マッカラム峰(Peak)」

と並んで「高木兼寬」の名を冠した

「高木岬(Takaki Promontory)」

があります。日本人が頼んで命名した訳ではありません。英国の南極地名委員会が命名してくれたのです。
エイクマンとホプキンスはビタミンの発見により、1929年のノーベル生理医学賞を受賞しています。そういう世界的に有名な栄養学者と並んで高木(TAKAKI)の名前もあるのです。日本人として誇らしく、嬉しいことです。高木先生はビタミン発見の元となった論文を書いていたから、このビタミン地名に選ばれたのです。
なお、大変厳しいことを書きますが、高木先生は、和食を洋食にすることでタンパク質摂取量があがり、それで脚気を予防、治療できると論じていますが、これは間違いです。洋食では「野菜」を摂ること、白米を食しないことが肝心な点だったのです。
だからといって高木先生の論文の価値が減じることはありません。なにより、脚気は食事を変えることで「予防できる、発病しても治療できる」ことを示した業績の価値は「高い」のです。

8.ナイチンゲール型病棟を日本に初めて作っています。今の病院形態(ナースステーションがあり、そこから病棟を見渡せる形)の原型です。セントトーマス病院の病棟(ナイチンゲール設計)を模したのでしょう。

9.福澤諭吉の弟子だった松山棟庵(まつやまとうあん)と共に民間医学団体「成医会」を創設しました。この団体は「患者を研究対象としてみる医風から、患者を人間とみる医療を研究する」ことが目的に結成されました。今から考えると、このような考えは当然の話ですが、当時としては画期的でした。「成医会」は医学校になり、それが東京慈恵会医科大学に発展します。下に銀座にある「成医会」発祥の地の碑を示します。「成医会講習所跡」と記されています。

銀座にある(中央四丁目) 「成医会」発祥の地を示す碑
銀座にある(中央四丁目) 「成医会」発祥の地を示す碑

表は英文ですが、裏には「明治十四年男爵高木兼寛英国医学教授ノ目的ヲモッテコノ地ニ成医会講習所ヲ開設ス コレ東京慈恵会医科大学ノ濫觴ナリ.創立百年ヲ記念シコノ碑ヲ建ツ. 昭和五十五年五月一日 第七代学長 名取禮ニ」とあります。

余談になりますが明治初期、松山棟庵の先生だった福澤諭吉は「慶応医学舎(1873年 - 1880年)」を設立し医者を養成していました。福澤諭吉は大阪の「適塾」出身です。適塾は蘭学の塾です。その出身者で医師になった方も多いのです(大村益次郎、佐野常民、手塚良仙(手塚治虫の曾祖父)、長与専斎など)。福澤は生来「血を見るのが嫌い」で医学の道に進みませんでした。慶應義塾の創生期に私立の医学校としては日本初の慶応医学舎を作ったのは、福澤も医学に関心があったからだと思います。慶応医学舎は閉校しましたが、それから40年後、北里柴三郎を医学部長をとしての慶應義塾大学医学部が作られました。「再出発」ですね。この辺りは文献9(次回に文献を示します)を参照ください。

10.前述の如く、高木先生は脚気が洋食で予防できることを論文に書いて発表、実際、海軍の食事改革をして海軍から脚気をなくしています
しかし、何が面白くなかったのか、「高木の論には学理がない」と陸軍の軍医でもあった森鷗外は糾弾しはじめました。小説家でもあった森鷗外は華麗、流麗、説得力のある?文章で高木先生の事を攻撃したのです。

「脚気は食事で予防できる。脚気は食事を代えることで治る」
「白米を食べ過ぎると脚気を生じる。麦飯を導入すべし」
「現に食事を代えることで脚気は、ほぼ制圧できているではないか?」

とする一派(高木兼寬先生がその代表的人物)と

「食事で脚気が治るなど学理がない」
「白米は日本古来の伝統食で素晴らしいモノである。それを否定するのは何事か?」
「そもそも脚気は脚気菌で生じる」
「脚気菌を見つけた」

とする一派(森鷗外がその代表的人物)との間で脚気論争が勃発します。後にビタミンが発見され、「脚気はビタミンB1不足により生じること、脚気になってもビタミンB1投与で治ること」がわかり、森鷗外一派の「論」は一掃されましたが、一掃されるまでには紆余曲折があったのです。今でも「森鷗外は間違ったことはしていない」という本を書いている方もいるくらいです。この脚気論争は医学、科学を考える上でとても大切です。別な機会に紹介します。

11.高木は貧しい病者のための「有志共立東京病院」を設立。その成立資金として皇族(有栖川宮家)の援助を受けています。その後も皇族からの御下賜金を頂いて病院を経営していました。その縁でしょうか、今でも東京慈恵会医科大学看護学校の卒業式には女性皇族の方の列席を賜っています。
有栖川宮威仁親王は逝去後、高木兼寬先生に遺品を御下賜しています(写真1-4)。実物を拝見したことがあります。少し解りづらいですが、写真1の左上に「高木兼寬」の名前があり、煙草盆、花瓶、鎌倉塗の卓を送られたのでしょう。それくらい、有栖川宮威仁親王と高木兼寬先生は、交友が深かったのでしょう。

有栖川宮威仁親王が高木兼寬先生に御下賜した遺品1
有栖川宮威仁親王が高木兼寬先生に御下賜した遺品2

12.高木先生が書いた「上述の3、4、10でも言及した、LANCETに掲載された」論文の内容を少し詳しく紹介します。
この研究は明治16年に日本海軍が行ったニュージーランド、南米航海で多数の脚気病者を出したのが元となっています。その航海で乗組員376名中169人が脚気を発症、25人が死亡しています。海軍の航海でこれだけ病者が出たら、戦争になったら戦えません。高木は翌年(明治17年)、同じ航路を同じ時期に回る予定だった軍艦の食事を、前年の航海で兵隊が食べていた白米を主体とした和食を洋食にしたのです。留学していた英国には脚気はなく、食事の違いで脚気の予防ができるのではないかと考えたのです。
しかし「言うは易く行うは難し」です。洋食に変更するには多額の費用がかかります。反対する軍人も多かったのです。しかし、高木は諦めませんでした。様々な方面に働きかけて、この食事変更案をなんと明治天皇陛下に直接上奏したのです。これが功を奏して、明治天皇陛下の許可が得られ、陛下から多額の費用の援助も受け、高木の食事変更案は実現したのです。
遠洋航海における食事変更の効果は劇的でした。同じ時期、同じ航路を航海したにも関わらず脚気にかかった兵員は数名しかいませんでした。当然、明治天皇からも「絶賛」されたと思いますが、絶賛されたとする直接の証拠はありません。それが本稿の要旨につながります。

13.高木は結婚式を改革しています。今、結婚式には新郎新婦の家族だけでなく新郎新婦の友人が列席するのが普通になっています。これは高木先生が日本で初めて行った「神前結婚式」に由来します。
明治30年(1897年)7月21日に、東京日比谷大神宮(現在の東京大神宮)で高木兼寛先生が媒酌をした「神前結婚式」が執り行われました。高木先生はこの結婚式で新郎新婦の家族、親戚、友人を集めて結婚式を行ったのです。従来家庭だけで行われていた結婚式を今の様な形態の結婚式に変えたのです。
それ以来、今のように多くの人が集い祝福する形の結婚式が広がりました。7月21日はそれ故に「神前結婚式記念日」になっています。高木先生は、英国留学中に見聞きした英国流の結婚式を日本でも行ったのだろうと思います。

14.高木先生は「書家」としても有名でした。これも、今回次回に大きく関係します。下図は明治時代の書家番付です。解りづらいかもしれませんが、向かって左側大名家の左横にある大隈重信の左横9番目に医家「高木兼寬」の名前が見えます。

明治時代の書家番付

15.「生命保険会社」の設立に貢献しました。明治時代初期、元海軍主計官の加唐為重(かから ためしげ)氏が日本初の生命保険会社を興そうとしましたが、当時は「生命保険」に社会の理解が得られず難渋していました。加唐は資生堂薬局(海軍の薬局だった)の創業者福原有信に相談、同氏と高木先生の支持を得ることができて、日本で二番目の生命保険会社となる「帝国生命(現朝日生命)」を設立したのです。
以後日本でも「生命保険会社」が多数設立されました。資生堂と高木先生との関係も面白いのですが、長くなるので割愛します。いつかご紹介しましょう。

このように、高木先生は、医学に留まらず、社会や文化に様々な影響を日本社会に与えたのです。
高木兼寬先生に関する本は今でも数多く出版されています。興味がある方は
吉村昭著「白い航跡」(講談社文庫)
松田誠著「高木兼寬伝」(講談社)
を読むことをお勧めします。どちらの本も広範な資料を用いて「高木兼寬」の生涯を描いています。
「白い航跡」は小説仕立てで高木を紹介しています。読みやすいです。松田誠先生は東京慈恵会医科大学生化学の名誉教授ですが高木兼寬の研究者としても有名です。高木先生に関する多くの著作、論文があります。その代表作が上述の「高木兼寬伝」です。

いつも前段が長く申し訳ないです(笑)。これまでは前段です。
本稿の主題は、ここからです。数多ある高木兼寬先生のことを書いた本にも紹介されていないことを本稿で紹介します。本稿の一部は慈恵医大新聞にも寄稿しました(2020年2月、3月)。

上述のごとく様々な功績があり、高木先生は明治天皇陛下から「男爵」を賜っています。明治38年(1905年)のことです。その他にも明治天皇陛下が高木先生の功績を賞賛していたであろうことは、多くの資料から推測されていますが、直接高木先生を賞賛した文章などが残っているわけではありません。
しかし、私は先年、偶然、明治天皇陛下が直接高木先生を賞賛したと(思われる)資料を2つ入手しました。最初に見つけた資料は高木兼寬先生の書いた「書」です。

高木兼寬先生の書いた「書」

以下、次回へ続く……
文献は次回に掲載します。

注:

江戸に来ると田舎で食べていた雑穀米ではなく、精製した「白米」を好んで食べるようになったため、江戸で脚気が流行ったのだと推測されます。

望月吉彦先生

望月吉彦先生

所属学会
日本胸部外科学会
日本外科学会
日本循環器学会
日本心臓血管外科学会
出身大学
鳥取大学医学部
経歴
東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学)
獨協医科大学教授(外科学・胸部)
足利赤十字病院 心臓血管外科部長
エミリオ森口クリニック 診療部長
医療法人社団エミリオ森口 理事長
芝浦スリーワンクリニック 院長

医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階
TEL:03-6779-8181
URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/

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