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014:Japanese father of American Biotechnology.~高峰譲吉(3)(望月吉彦先生) - ドクターズコラム

大人の健康情報

望月吉彦先生

更新日:2015/03/23

人類が初めて手にしたホルモン「アドレナリン」

研究イメージ

1900年7月21日、高峰と上中のチームは、ついに副腎髄質から分泌される物質の抽出に成功します。人類が初めて手にした「ホルモン」です。
同年11月5日には米国で製法特許を提出、11月7日にはその抽出物を「adrenalin(アドレナリン)」と命名、翌1901年1月ニューヨーク州医学会年次総会で「腎上体の血圧上昇活性物質―予報」として口演発表、同4月16日米国で「adrenalin」の商標登録、同じ時期にパーク・デービス社から「solution adrenalin chloride」として販売開始、同11月「腎上体の活性物質アドレナリンとその調整方法」というタイトルで米国薬学会誌上に発表という、目まぐるしい一年半を駆け抜け、以後、「adrenalin」は心機能維持、止血、鼻炎、花粉症、喘息等に著効したので瞬く間に世界中広まり、高峰は巨万の富を得ることになりました。
高峰は、エジソン氏、フォード氏(元エジソン社社員)、ベル氏(電話の発明)、コダック社をおこしたイーストマン氏などと並び「科学技術を富に結びつけた偉人」として米国において強い影響を与えます。
これらの人に共通しているのは富豪になった事と、単なる研究者では終わらなかった事、そのためかノーベル賞の受賞者にはならなかった事です。

1902年、英国のベイリスとスターリングが「セクレチン」という物質が小腸から分泌されている事を発見、1905年に両人が内因性の生理的活性物質を「Hormone:ホルモン」と命名しました。これが世界で二番目の「ホルモン」の発見です。
以降、ホルモンに関する研究が世界中で広まります。ノーベル賞もホルモン関係では沢山の方が受賞しています。
しかし、ホルモンの最初の発見者である高峰も上中もノーベル賞には縁がありませんでした。アドレナリン発見後も、その関係の研究を進めていればあるいは受賞したかもしれませんが、高峰は産業を興す方を選択しました。

タカジアスターゼもアドレナリンも日本以外はパーク・デービス社が製造販売していました。日本では「三共商店」が輸入販売を行っていました。三共商店は、後に三共株式会社となりますが、三共商店はもともと塩原又策、西村庄太郎、福井源次郎の三人による共同出資会社でした。但し、塩原のみが三共株式会社の経営に参画します。
もともとタカジアスターゼを三共商店で販売していた塩原ですが、1902年高峰の日本帰国時、塩原は高峰に直談判してアドレナリンの独占販売権も得るようになったのです。三共株式会社は、日本でもタカジアスターゼ、アドレナリンの製造をするために1913年に設立されました。初代社長は高峰、専務取締役が塩原です。上中は、タカジアスターゼの製造を任されます。(実は、アドレナリンの精製には失敗してしまいます。原料となる多量の牛副腎が日本では入手できなかったというのが理由です。)
一方、米国ではパーク・デービス社がタカジアスターゼもアドレナリンも順調に「世界に向けて」製造、販売し、莫大な利益を得ています。

タカジアスターゼとアドレナリンの特許を得ていたことで高峰は経済的に成功します。
今で言うベンチャー企業を100年以上も前に米国で興して成功したのですから驚嘆すべき話です。米国に居ながら日露戦争を側面から支援したり、ワシントンポトマック河畔やニューヨークハドソン河畔の桜植樹支援をしたり、今話題の「理化学研究所」の創設に関わったりもしています。事業で成功するほか、色々と社会貢献もしています。
しかし、そんな彼も病には勝てません。1922年67歳で、心不全のためにこの世を去ります。
その後の顛末は色々おもしろおかしく間違えて書かれています。難癖をつけられたというか……

高峰のアドレナリン抽出は盗んだもの?高峰は功績を独り占めしようとした?

代表的な間違いが二つあります。

間違い(1):
ジョンホプキンス大学のエイベル教授は高峰達とは別な方法で副腎髄質からアドレナリンと同様な物質を抽出し、それに「epinephrine(エピネフリン)」と命名しました。
エイベルは高峰の死後に「高峰のアドレナリン抽出は私の研究室に来て盗んだ」とサイエンス誌に書いたと言われています。
しかし、実際にはそんな事は書かれていなかったのです。単に翻訳間違いなのですが、これが連綿と続いていたのです。
真実は、「パーク・デービス社が商標である“adrenalin”を守るため、米国薬局方での名称を“adrenalin”ではなく“epinephrine”という名前を推したのです。それが原因で今に至るまで米国薬局方にはadrenalinの名前は無く、epinephrineになっている」のです。
こうした事実が公文書で明らかになり、エイベル教授が「高峰を貶めていた」と言うのは間違いだと判明したのです。
なお、日本も米国にならって2006年までは薬局方名は「エピネフリン(epinephrine)」だったのです。これも考えてみれば酷い話です。現在は「アドレナリン(adrenalin)」になっています。

間違い(2):
「実際にアドレナリン抽出の実験を行ったのは上中であり、上中の名前が論文に出てきたのは一回だけで、特許にもその後の発表にもどこにも上中の名前は書かれていない。これはアドレナリン抽出の功績を高峰が独り占めしようとしたからであり、褒められたことでは無い。」という内容を記してある本が多いのですが、私はこれも間違いだと思っています。
前号までにも書きましたが、実験設備を整え、実験指示を行い、パーク・デービス社と共動実験体制を整え、実験費用も出したのは高峰です。
上中の活躍も確かに素晴らしいとは思いますが、こと「adrenalin」の発見者は誰かと問われたらそれは高峰だろうと思うのです。
2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞したiPS細胞の山中先生を例にしましょう。iPS細胞の最初の論文は山中伸弥先生の部下である高橋先生が書いていますし、iPS細胞を作る際の遺伝子注入も高橋先生のアイデアだと山中先生自身が書いています。
ではiPS細胞を高橋先生が作ったかと言えばそうでは無いと思います。そういう研究環境を作り、そういうアイデアも実行した山中先生がiPS細胞を作ったと思います。だから彼がノーベル賞を得ています。もっとも高橋先生も同時受賞すべきだったと言う意見も多くありました。
しかし高橋先生が単独での授賞はあり得ないでしょう。それと同じ事が高峰 ― 上中 関係にもあると言えます。
実際、上中は三共を退職後にインタビューに応じていますが、高峰に対して一切、恨み言など述べていないし、高峰の遺言で上中にもそれ相応の遺産も残されています。何より上中は高峰が米国で病に倒れた時、直ちに日本から高峰のお見舞いために渡米しています。
ですから他人はどうあれ、上中は高峰に感謝していたと思います。勿論、高峰も上中に心の底から感謝していたと思います。

Japanese father of American Biotechnology.

ニューヨーク

さて、三回にわたり「高峰譲吉」という人物を紹介してまいりましたが、如何だったでしょうか?
「“History”は “his story”(彼の物語)から来ている」とも言われます。“Takamine’s story”はまさに“History”だと思います。
最後に正に彼が偉大なる人物であったかを示す言葉を。
高峰はニューヨークのウッドローン墓地に眠っていますが、その案内文に“Japanese father of American Biotechnology.”とあるそうです。もって瞑すべしです。
高峰に関する本は沢山あります。インターネットでもあること無いこと沢山書かれています。私が一番正しいと思っているというか、原典に当たっているのが「ホルモンハンター: アドレナリンの発見:石田 三雄 (著) :京都大学学術出版会 (2012/12/21)」 です。これは名著です!是非ご一読ください。石田三雄氏は、英語、独語、仏語に堪能で、全ての原典に当たられていますので、この本が一番正しく書かれていると思います。 COIなしです(笑)。

望月吉彦先生

望月吉彦先生

所属学会
日本胸部外科学会
日本外科学会
日本循環器学会
日本心臓血管外科学会
出身大学
鳥取大学医学部
経歴
東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学)
獨協医科大学教授(外科学・胸部)
足利赤十字病院 心臓血管外科部長
エミリオ森口クリニック 診療部長
医療法人社団エミリオ森口 理事長
芝浦スリーワンクリニック 院長

医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階
TEL:03-6779-8181
URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/

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