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088:日本の銀杏とイギリスの「家族計画」を結ぶ縁(2)~「銀杏」の話(3)(望月吉彦先生) - ドクターズコラム

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望月吉彦先生

更新日:2018/06/18

100年前の恋愛暴露本

前回、「Married Love or Love in Marriage」(1918年刊)という本を書いて世界的人気作家となったマリー・ストープス(Marie Carmichael Stopes:1880-1958)のことを紹介しました。この本は結婚における「性教育」の本です。著者のマリー・ストープスは植物化石の研究者でした。「結婚」「愛」「家族計画」「性」などの研究をしていたわけではありません。化石を研究していた学者が、なぜ急に過激な性的表現もある本を書くようになったか謎でした。前回もお伝えしましたが、マリー・ストープスは日本に留学していたことがあります。留学先は東京帝国大学農学部です。そこに、この謎を解く鍵が二つあったと思います。

ここで簡単にマリー・ストープスの経歴を紹介しましょう。
1880年に英国エジンバラで生まれ、ロンドンで育ち、University College London に進学し植物学と地質学、地理学の学位を得ています。同大学出身者にはダーウィン、ガンジー、ネルソン・マンデラ、伊藤博文などがいます。ノーベル賞受賞者も29名います。そういう一流の大学で学び、植物の化石研究で有名になりドイツのミュンヘンにある「植物学研究所」に留学、1904年自然科学の博士号を取得します。
このミュンヘンの植物学研究所で日本から留学していた植物学者の「藤井健次郎」に出会います。この出会いが彼女の生涯に影響を及ぼすことになります。マリー・ストープスと藤井は1903年にミュンヘンで出会い、恋に落ちたのです。当時ストープス23歳、藤井37歳です。
1905年、二人は密かに婚約します。婚約をした二人ですが、一旦、お互いの母国に帰国をします。
1907年、マリー・ストープスは英国王立協会から助成金を得て「日本国北海道での化石研究」を目的に来日しています。彼女は単身で日本に来て、東京帝国大学農学部に籍を置き「北海道での白亜紀の被子植物探索調査」を行います。今から100年以上前の北海道で白亜紀の植物化石を採集し研究したのです。当時、若い英国人女性が北海道に赴いて化石の調査をするのはとても大変なことだったと思います。彼女にはかなりの護衛が付いたと記録されています。
北海道だけでなく日本各地も旅行してその紀行文を「A Journal from Japan:日本滞在記」(1910年刊:参考文献1)としてまとめています。また日本文化とりわけ「能」に魅せられ、「Plays of Old Japan: The‘No’」(1913年刊:参考文献2)を出版、「能」を世界で初めて英語で紹介しています。
本業もきちんとこなしています。北海道での植物化石研究を110頁に亘る報告書にまとめています。これは藤井との共著です(参考文献3)。

100年も前に勇敢にも一人で日本に留学し、きちんと科学研究を行いつつ、日本各地を旅行してその見聞を旅行記に書き、「能」という少し特殊な日本文化に関する本まで著すという多芸、多能、異能の女性でした。

しかし、彼女の来日の「真の目的」は植物化石の研究では無く藤井との結婚にあったのです。英国王立協会が「彼女の来日の真の目的」を知ったら驚き呆れたと思います。結婚を約した二人ですが、彼女の来日前から藤井の態度は一変し結婚は成就しませんでした。傷心のマリー・ストープスは1908年に離日しました。ここから、少し怖い話になります。この二人の恋の顛末は、後年、世界中に知れ渡ったのです。マリー・ストープスは藤井健次郎を、決して、許さなかったのです。

その証拠ともいうべき本を紹介しましょう。

写真1:「マリー・ストープスが書いた」ラブレター集
写真1:「マリー・ストープスが書いた」ラブレター集
国会図書館蔵(参考文献4)

題名が「Love-letters of a Japanese」です。著者は Kenrio Watanabe、編集は G.N.Mortlake とあります。1911年刊行、ロンドンで出版された本です。350頁もある大部の本です。英文タイトルの下に「一日本人の艶書(えんしょ)」と日本語で縦書きで書いてあります。この本は国会図書館に行けば見ることができます。
この本の序文に、この本の内容が書かれています。本書は、

  • 「日本人の Mr.Kenrio Watanabeと英国人 のMs.Mertyl Meredithとの間で交わされたラブレター集」であること
  • 日本からの芸術文化の研究のためにウィーンに留学していた日本人のMr.Watanabeと同じく芸術文化研究のためにウィーンに滞在していた英国人女性Ms.Meredithとが同地で出会い、多数のラブレターを交わす関係になったこと。その二人でやりとりしたラブレターが本書に載っていること
  • 二人が出会った当時Mr.Watanabeは既婚者だったが日本帰国後に離婚し、二人は日本で結婚する予定だったこと
  • Ms.Meredithは、ロンドンから日本に留学したが、 Mr.Watanabeに冷たくされて、結婚できなかったこと

などが書かれているとあります。
Mr.Watanabeは、
「自分は感染性のある病気に罹っているから結婚は無理だ」
「欧州人と日本人では “LOVE” に対する違いがあるからから諦めて欲しい」
と言ったと書かれています。本書を読んでいると 英国人女性のMs. Meredith が日本に来ると決まった時点で、Mr.Watanabeは、びっくりして戸惑っている様子がラブレターの内容から読み取れます。

「あれっ?」と思いませんか。誰かと境遇が似ていると思いませんか?実は、この本の「真の著者」はマリー・ストープスだったのです。Mr.Kenrio Watanabe が書いて G.N. Mortlake が編集したと書いてありますがどちらも偽名です。本名でこんな本を書けば、ストープスが「日本に行った本当の目的」が母国の人間に解ってしまいますからデタラメな名前をでっち上げてこの本を出版したのです。ラブレターの日付は書いてありますが、何年に書かれたかは記載がありません。巧妙にカムフラージュしています。なお、このラブレター集の中でMs.Meredith は、
“ロンドンで日本人の Baron Tに会い、日本に行くことを話した。Baron T はとても親切だった”
と書いています。
もしかしたら、このT男爵は東京慈恵会医科大学の創始者の高木兼先生かもしれません。マリー・ストープスが日本に来る前年の1906年、高木男爵はロンドンで「脚気の治療」に関する講演をしていますので彼女が高木男爵に会って訪日の相談をした可能性があります。

マリー・ストープスは今から100年以上も前にかなりの危険を冒して日本に来るほど、そして婚約者に振られたら振られた相手との350頁もある「ラブレター集」を書き、しかも当てつけのように表紙に「一日本人の艶書」などとわざわざ日本語で書いて恋の顛末を露わにするほど、非常に情熱的でエネルギッシュだったのだと私は思います。
そのラブレター集ですが内容にはやや疑問があります。藤井から来た手紙は保存してあったとは思いますが、ストープス自身が書いて藤井に出した手紙は控えを取っておいたのでしょうか? E-mailのように出した文章が保存される時代とは違います。もし控えを保存しつつ、ラブレターを出していたならそれはそれで怖いですね。
今でも破局した恋の相手とのラブレター集を勝手に出版されたら困るでしょう。1911年にロンドンで出版されたこの本を謹呈されたであろう「Mr.Kenrio Watanabe = 藤井健次郎氏」は腰を抜かすほどびっくりしたと思います(笑)。 この本が刊行された1911年、ストープスはカナダ人の植物学者 レジノルド・ラグルズ・ゲイツ(Reginald Ruggles Gates)と結婚しているので、恋愛のケリ、気持ちの整理をこの本でつけたかったのかもしれません。可哀想なのは、ストーブスの結婚相手のゲイツさんです。ゲイツさんは結婚してほどなく、奥さんと元カレとの交際を綴った本の出版を知らされます。マリー・ストープスはこの本はフィクションだという説明をした(結果的に嘘)らしいのですが、ゲイツさんはかなりショックだったと書き残しています(参考文献5、なおマリー・ストープスは1958年に死去しています)。
このショックが響いたのかもしれません。結婚して3年後、ゲイツさんはストープスから「性的不能により子供ができないこと」を理由に離婚を申し立てられます。なんだか、ゲイツさんはとてもかわいそうですね。

今はインターネット上でこの「Love-letters of a Japanese」を誰でも読むことができます(文献4参照)。ラブレターの内容は濃くしかも過激です。他人が読むことを念頭に置いていませんので、文章は自由奔放です。気恥ずかしくなるくらいのやりとりです。しかし、他人から見ると実に面白いやりとりです。交際を始めた始めた当初、「Mr.Kenrio Watanabe = 藤井健次郎」は情熱的な恋文を「Ms.Meredith = マリー・ストープス」宛にたくさん書いています。長文です。しかし!「Ms.Meredith」が本当に日本に来ることが決まったとたん「Watanabe」さんは「絵はがき」に申し訳程度の小文を書き添えたような手紙しか出さなくなります。 Ms.Meredith が日本に来るのを好まないような文書も書いています。Ms.Meredith は失望したでしょうね。

以上、マリー・ストープスの「恋」に関する物語です。植物化石学者だったマリー・ストープスが後年、「性」に関する本を書いてそれに関する啓蒙をするようになった原因の一端は「藤井健次郎との恋」にあったのだと思います。それだけではなく、加えて東京で出会ったもう一つの出来事が後の彼女の行動を強く後押ししたと思っています。それは、銀杏に関係する出来事です。

今回は銀杏の話から随分とそれてしまいました。ご紹介したいストープスの話があまりにも興味深く、銀杏と彼女の関係まで辿り着きませんでした。 次回で日本の銀杏とマリー・ストープスとの関係をご紹介しましょう。

【参考文献】

  • A Journal from Japan(1910)Marie Carmichael Stopes
    デジタルライブラリーです。
  • Plays of Old Japan: The‘No’(1913)Marie Carmichael Stopes, Joji Sakurai
    この本は、ストープスがイギリスに帰国後に著した「能」についての本です。日本に留学していた時、東京帝国理科大学の学長だった櫻井錠二博士に「能」を紹介されて「能」舞台を見るようになり、高じて「能」についての本まで書いてしまったのです。余程「能」が気に入ったのでしょう。本書はその櫻井錠二博士との共著です。西洋世界へ「能」を紹介した最初の本です。ストープスと櫻井錠二はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの同窓生です。櫻井錠二博士は化学者ですが、日本文化にも造詣が深かったのでしょう。この本には、Kindle版があり99円で読むことができます。本書の原本をインターネット上で読むこともできます。良い時代です。
  • Studies on the Structure and Affinities of Cretaceous Plants.(1909)Marie C. Stopes and K. Fujii
    110頁に亘る報告書を二人で書いています。 これもデジタル化されているので読めます。写真付きで詳細な解説です。
  • Love-letters of a Japanese / edited by G.N. Mortlake(1911)
    ストープスが“書いた”藤井健次郎との往復艶書集です。他人の艶書(ラブレター)を読む機会はほとんど無いと思います。お時間があるとき、是非、お読みください。思わず顔が赤らんでしまうくらい過激です。
  • (1) Draft (dated May 27.1962) of essay written by Reginald Ruggles Gates in response to the biography of Marie Stopes by Keith Briant.
  • 東京ウィメンズクラブという婦人団体もストープスが作っています。今も続いています。

望月吉彦先生

望月吉彦先生

所属学会
日本胸部外科学会
日本外科学会
日本循環器学会
日本心臓血管外科学会
出身大学
鳥取大学医学部
経歴
東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学)
獨協医科大学教授(外科学・胸部)
足利赤十字病院 心臓血管外科部長
エミリオ森口クリニック 診療部長
医療法人社団エミリオ森口 理事長
芝浦スリーワンクリニック 院長

医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階
TEL:03-6779-8181
URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/

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