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079:ペニシリン5:日本製ペニシリン碧素(へきそ)の物語(2) 人間到る処バイキンあり(11)(望月吉彦先生) - ドクターズコラム

メディカルコラム

望月吉彦先生

更新日:2018/02/05

「2番じゃダメですか?」良いんです! 本当?

1943年8月7日に「ドイツ人医師キーゼが書いたペニシリン関する総説」が掲載されたドイツの雑誌「Klinische Wochenschrift誌」が、日本からドイツに赴いた日本のイ号潜水艦により、同年12月に日本に届けられ、日本におけるペニシリン開発が始まったことを前回でお伝えしました。そして、その中心人物が稲垣軍医少佐でした。

前回に続き、日本におけるペニシリンの研究、開発、合成について時系列で整理していきます。

  1. 第1回ペニシリン委員会が1944年2月1日に開催されました。稲垣少佐が中心となって人選をすすめ、医学部、農学部、理学部など色々な分野の研究者が参加しました。この委員会が最初に行ったのは、日本全国からペニシリンを作る(かもしれない)青カビの菌株を集めることでした。それと並行して世界中から、ペニシリンに関する情報を集めることを、関係方面に依頼もしています(繰り返しますが、戦争のため、日本に西洋の科学情報は殆ど入ってこなくなっていました)。
  2. 第2回ペニシリン委員会は1944年3月8日に開かれました。この会合で、ペニシリンの実験に要する資材確保を進めることが決まりました。1944年は終戦の前年です。様々な物資が不足しており、実験のための資材調達が一番の問題でした。しかし、ペニシリン研究のためということで、貴重な資材がかき集められました。
  3. 1944年3月23日、東京帝大農学部発酵化学研究助手の棟方博久(むねかた ひろひさ)が「菌株120番が分泌する物質は、5倍希釈でも有効」と報告しています。この報告が本邦初の「ペニシリン」の報告だと思われます。棟方助手は発酵化学が専門の研究者ですから、カビに造詣が深かったのでしょう。ペニシリン委員会が発足して1ヵ月足らずで、ペニシリンを分泌する青カビを見つけたのですね。凄い話です。ほかにも、いくつかの「ペニシリン」を分泌する菌株の報告がありました。一方、後述する如く「こっそり」と研究をしていたグループもありました。
  4. このペニシリン合成に関する研究は、「情報戦」「知的な戦い」だと見抜いていた稲垣少佐は、旧制第一高等学校(現在の東大教養部)の学生を、ペニシリン委員会に「学徒動員」します。色々な言語の文献を翻訳させるためです。この辺りの着想が凄いですね。
  5. ペニシリン委員会発足後、約2000種!の菌株が集められました。次々と培養し、ペニシリン合成の可能性を探りました。その中でも、東京滝野川にあった岩田植物生理化学研究所の「イワタ50番」、東京帝大農学部の「M24番」「H9番」などが比較的有望でした。
  6. 同年5月16日、第3回ペニシリン委員会が開かれ、それぞれの菌株の検討が行われますが、「ペニシリンを作る菌株」はあるのですが、「低濃度でも有効に効くペニシリンを作る菌株」は見つかりません。大量生産するには、力価の高い(=少量でも良く効く)ペニシリンを作る菌株を見つけることが、一番大切です。
  7. 丁度、日本で第1回ペニシリン委員会が開かれた頃に、ペニシリンの合成に成功したフローリーは英国からソ連に赴き、ペニシリン合成の指導をしています。そういう情報が1944年5月9日、ペニシリン委員会にも、もたらされました。
  8. 同年7月4日、第4回ペニシリン委員会が開かれますが、これだ!というような菌株の報告はありませんでしたが、少しずつ結果の良い菌株が得られています。
  9. 同年8月19日、前述の「イワタ50番」の菌株が250倍希釈でも有効との報告がありました。ほかの菌株もだんだんと力価が上昇していきます。研究開始、半年ですから凄まじい速さだと思います。目標がわかると研究はしやすいとはいえ、簡単な話ではありません。
  10. 同年9月1日 、第5回ペニシリン委員会が開かれます。「イワタ50番」東京帝大農学部の「P176番」「P233番」の菌株が有望視されました。これらの株をまとめて、動物実験、大量生産、臨床治験を行うことが決まりました。集中的に、物資、人材を纏めて研究することになったのです。
  11. 同時に、非常に面白いことがペニシリン委員会とは別に密かに進行していました。稲垣少佐は公平な方で例の「キーゼの総説」を全国各地の大学や研究者に送り、その後も資料を送り続けていました。しかし、ペニシリン委員会とは全く別に「ペニシリン合成」を目指した研究者がいたのです。東北大学医学部細菌学研究室の方々です。
  12. 東北大学医学部細菌学研究室は1944年9月15日に開かれた東北医学会で、その研究成果をいきなり発表しました。9月17日付の全国紙に「東北大学医学部細菌学研究室は米英の研究を遙かにしのぐ、躍進する万能薬を開発!」と報道されます。しかも、既に臨床使用(患者さんへ投与)して、劇的成果を上げたと報道されました。同大学黒屋政彦教授のグループの研究です。
    前述したこととはちょっと、矛盾するのですが、何故か、黒屋教授の元には「キーゼの総説」が届いていませんでした。しかし、ペニシリンを英国のフレミングが発見したことはアルゼンチンからの朝日新聞の報道で知っていました。そして、1929年にフレミングが「ペニシリンの発見を発表した」1929年の「イギリス実験病理学雑誌」が東北大にあったのです(前回を参照ください)。それを元に研究していたのです。この雑誌が東北大学にあったのも「奇跡」だと思います。
  13. 東北大学では密かにペニシリンの研究が進められていました。日本初のペニシリン合成に成功したのは、東北大学医学部細菌学研究室です。ペニシリンを分泌する菌株を発見したのは近藤師家治(コンドウ シゲジ)医師です。近藤は東北大学医学部を卒業して間もない研究生でした。驚いたことに黒屋教授に命ぜられたわけではなく一人でこっそりと実験をしていたのです。教授に命ぜられた仕事は昼に行い、夜にこっそりとペニシリンの研究をしていたのです。
    近藤はフレミングのペニシリン発見時の逸話を真似て、「シャーレの蓋を開けておいた」のです。そうしたらフレミングのときと同様に「効率よくペニシリンを作り、毒性も低い菌株」がその開けておいたシャーレの培地に生えたのです。あり得ないですが実話です。
    この菌株を用いて作ったペニシリンで動物実験から人体への投与まで行っています。凄いバイタリティです。1944年4月に動物実験を行い、同月末には、日本初の「ペニシリンの人体への投与」も行ったとされていますが、カルテで確認できるのは、1944年7月、東北大学外科に入院した敗血症の患者さんへの投与です。この「ペニシリン」は劇的に効いて、死の淵にあった患者さんは奇跡的に回復しました。ほかにもカルテで確認できるのは、同大学の外科、皮膚科での計5例の記録です。何れにせよ、1944年7月、日本で初めてペニシリンが臨床使用されたのです。

ペニシリンに関する情報が日本に入って半年しか経っていない時期の出来事です。戦時でありながらも(戦時だからかもしれませんが)、科学者の研究意欲が盛んで会ったこと、イギリスでの開発方法がおぼろげながらでもわかっていたことも、研究が早く進んだ要因だったと思います。

以下、次回に続きます。

注1:

東北大でのペニシリン研究について、ペニシリン委員会は、かなり面白く無かったと思います。後に東北大学のグループもペニシリン委員会に参加します。戦時ですから、感情よりも、実績が重んじられたのですね。普通なら足の引っ張り合いをするような場面ですね。こういうところは、今でも通じるところがあるのではと思いますが、平時では難しいと思います。

注2:

日本が当時行ったペニシリン研究を「二番煎じ」だから、科学、医学の世界ではあまり意味が無いと思う方がいらっしゃるかもしれません。以前、ある議員さんが「2番ではダメですか?」とやって批判されました。科学の世界で「2番は無価値か?」というと実はそうでも無いのではと私は考えています。日本のペニシリン研究は、科学の世界では、いわゆる「二番煎じ」です。でも私は充分な意義があったと思います。日本は世界で3番目にペニシリンの商業生産に成功し、それにより多くの患者さんが助かりました。また、この研究が元になって研究者が育ち戦後の日本で抗生剤の研究が花開いたとも言えます。このペニシリン研究に携わった優秀な研究者は、後に多くの抗生剤や抗がん剤を発見しています。
少し話は変わりますが雪の研究で有名な物理学者「中谷宇吉郎」は太平洋戦争が始まる前、アメリカ発の「原子力に関する細かい実験に関する論文」が異常に増えていることに気づいていました。中谷は、この膨大な数の論文を読んで、遠からず米国で原子爆弾が作られるであろうことを予見していました。原子爆弾を作るには巨額の費用がかかります。大がかりな装置や多くの専門家も必要です。日本で原爆製造を行うのは無理だからそういう米国発の論文をよく読んで(できれば追試実験をして)、世界から置いてきぼりにならないようにする(=2位でも良い)ことが必要であるとする論考を書いたところ「勇ましい人」に批判されました。でも中谷宇吉郎の態度は当時の「物資や研究資金の乏しい日本にとって必要だった」と思います。冷静で現実的な態度だと思います。
そういう冷静な態度を、ペニシリン研究において、とったのが、稲垣少佐です。稲垣少佐をはじめとするペニシリン委員会の目標は英米のペニシリンと同等の効力を持つペニシリンを大量生産するのが目標であり、ペニシリンに対抗して、ペニシリンよりも強力な抗生物質を作ろう(=1番を目指す)などとは考えていません。それだから、早く目標を達成できたと思います。というわけで、状況が許せば「1番」を目指すのは当然ですが「2番や3番では意味が無い」とは思いません。

【参考文献】

  • 碧素・日本ペニシリン物語 角田房子(著) 新潮社刊
    これは凄い本です。徹底的に調べて日本でのペニシリン開発経緯を明らかにしています。これぞノンフィクション!と言っても過言では無いと思います。この本が出版された当時、「碧素」開発に携わった方がまだ、ご存命でしたので、貴重な話が聞けています。今、絶版となっています。ぜひ、再版して欲しいですね。
  • 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン(著), 北村 二朗(訳) 平凡社刊
  • ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル(著), 中山 善之(訳) 佑学社刊
  • 失われてゆく、我々の内なる細菌 マーティン・J・ブレイザー(著) みすず書房刊
  • 水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業:犬丸秀雄関係文書を基にINK科学史研究』266, 2013年, pp. 70-80
  • 深海の使者 吉村昭(著)
    第二次世界大戦中に日独間を密かに航海した潜水艦の物語です。とても面白く、しかし、悲しい物語です。
  • 中谷宇吉郎全集:1-8巻:岩波書店

望月吉彦先生

望月吉彦先生

所属学会
日本胸部外科学会
日本外科学会
日本循環器学会
日本心臓血管外科学会
出身大学
鳥取大学医学部
経歴
東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学)
獨協医科大学教授(外科学・胸部)
足利赤十字病院 心臓血管外科部長
エミリオ森口クリニック 診療部長
医療法人社団エミリオ森口 理事長
芝浦スリーワンクリニック 院長

医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階
TEL:03-6779-8181
URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/

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