疾患・特集

日本製ペニシリン碧素(へきそ)の物語(3) 人間到る処バイキンあり(12)(望月吉彦先生) - ドクターズコラム

メディカルコラム

望月吉彦先生

更新日:2018/02/19

ペニシリンの大量生産に、日本で初めて、成功したのは御菓子やミルク製品で有名な「森永製菓」

日本で初めて患者さんにペニシリンが使われたのは東北大学病院です。1944年7月、同病院に入院中の敗血症の患者さんに投与されたのです。このペニシリンは劇的に効いて、死の淵にあった患者さんは奇跡的に回復しました。 ここまでが、前回のお話です。

前回に続き、日本におけるペニシリンの研究、開発、合成について時系列で整理していきます。

  1. しかし、思わぬことが原因で研究は一時的に頓挫しました。ペニシリンを産生する青カビは、1944年6月まで、多数見つかっていました。この中から有望な青カビを見つけて、ペニシリンを作ろうとしたのですが、6月になったら、青カビが急にペニシリンを作らなくなってしまったのです。後に分かったのですが、青カビは気温が25度以上になるとペニシリンを作らないのです。つまり6月になり、気温が25度を越えるようになったので青カビはペニシリンを作らなくなったのですね。しかし、9月に入り、気温が下がると、青カビはペニシリンを作り始めたのです。それで一気に研究が進みました。
  2. 第6回ペニシリン委員会が1944年10月30日に開かれました。この会議で3種類の青カビが、ペニシリンの大量生産のために使われることが決まりました。
    50番(イワタ研究所)
    176番(東大農学部藪田教室)
    233番(同前)

    の3種です。
    ここまで研究が進んだので「日本でもペニシリンが作れるようになったこと」を公表しました。1994年11月16日のことです。新聞各紙に大きく取り上げられました。稲垣軍医はペニシリンを大量生産するにはどうしたらよいか、そればかり考えていたそうです。お薬の大量生産と実験は別物だからです。宇治科学、三共、帝国臓器などの製薬会社がペニシリンの大量生産に名乗りを上げていました。
  3. しかし、最初に選ばれたのはお薬とは関係の無い乳業会社「森永製菓」でした。森永製菓が選ばれた経緯もあり得ないような話です。
    稲垣軍医がペニシリン関連の文献を収集していたことはこれまでにもお伝えしました。その収集した文献の中にエジプトで発行された写真雑誌「パレード」がありました。どういう経緯でエジプトの雑誌が日本に入っていたのでしょうか。興味が尽きませんが、それはさておき、この「パレード誌」の中にどこかの国のペニシリン工場が掲載されていたのです。その工場の写真を見ると、工場内に大きな牛乳瓶の様なモノが林立しており、それがミルクプラントのように見えたのです。それを見て、ペニシリン大量生産にはミルクプラントが利用できるのではないかと、稲垣軍医は考えたのです。
    稲垣がパレード誌を読んだのが、1944年11月17日のことです。11月18日には、当時ミルクプラントを持っていた「森永製菓」に連絡をとり、11月19日には、「パレード誌」を持って静岡県三島にある「森永製菓」の工場に赴いています。そして、森永の食品工場でペニシリン大量生産を試みることが決まります。それが11月21日のことです。
    稲垣少佐のフットワークの良さというか、着眼点と言うか、面白いです。写真雑誌を見て、それが本当にペニシリンプラントかどうか解らないのに、「何となくミルクプラントに似ているから森永に頼もう」と普通の人は思いつかないと思います。実行力も凄いです。
    稲垣は、当時の日本軍が敗戦に次ぐ敗戦状態だったのをうっすらと知っていたから、余計に「早くペニシリンを戦地に届けたかった」と後に述べています。それにしても、エジプトの写真雑誌を見て、文字通り“直ちに”“即日”森永に連絡をして、工場まで見に行く実行力には感服します。それが、結果的に「当たり」だったのです。
  4. 森永も偉かったのですね。稲垣軍医の話を聞き、直ちにペニシリン合成のための工場設備を作り上げます。といっても、僅か20坪の小さな工場です。ミルクプラントではありませんでした。森永が持っていたほかの技術を活かして、ペニシリン生産のための設備を数日で作り上げたのです。
    20坪の“工場”で、前述の176番株、233番株を使ったペニシリン生産が始まります。終戦前でもう物資が乏しい時代です。元は缶詰工場だった殺菌室を使い、使用済みのシロップ生産用ガラス、ソースを作るのに使ったガラス器具、牛乳からバターとカゼインを取った残りカス「ホエイ」を使った培地など、要するに「廃物利用」をして工場を作ったのです。指導したのは、後にカナマイシンやブレオマイシンの発見で世界的に有名になる梅沢浜夫医師です。
    信じがたい話ですが、この工場で12月に入ると、ペニシリン精製液ができたのです。稲垣軍医が、写真雑誌パレードを見てから、2週間しか経っていません。闇雲にやったわけではありません。それまでのペニシリン研究で解っていたことを全て投下したのです。適当に作ったのでは無く、きちんとブドウ球菌に効くのを確かめて作っていたのですから、凄いですね。
  5. 森永より一歩遅れて、万有製薬もペニシリン生産を開始します。梅沢の指導を受けて、愛知県岡の製糸工場の設備を用いてペニシリンを作りました。こちらのペニシリンも、指導を受けてから、1ヵ月で製品が完成します。
    なお、ペニシリンの製品化に当たり、英語をそのまま使うのは、まかり成らんと言うことで、ペニシリンは「碧素:へきそ」と名付けられました(余話1参照)。
  6. 1944年12月23日、第7回ペニシリン委員会が開かれました。その席上、森永製菓と万有製薬が作ったペニシリン精製液とが、披露されました。第1回ペニシリン委員会が発足してから、僅か10ヵ月で、ペニシリンの商業生産ができるようになったのです。
    これらのペニシリンは実際に患者さんに投与され劇的な効果を挙げています。たくさんの奇跡的治療例が得られたのです。碧素は全国民が渇望するお薬になりました。物資不足で大変だったと思いますが、両社ともに生産量を上げ、1945年8月にその生産のピークを迎えていました。
  7. 1945年8月15日、日本は終戦を迎えます。結局、日本でのペニシリン生産は、太平洋戦争に間に合ったと言えますが、米軍がペニシリンを大量に戦地で使用したのと違い、日本製ペニシリンは戦地では細々としか使われなかったのです。
    しかし、他国からの情報が閉ざされた日本で、わずか10ヵ月という短期間で、敗戦国日本が世界で3番目のペニシリンの大量生産に成功したのは誇っても良いことだと思っています。
    潜水艦がドイツから、キーゼの総説が載った雑誌を持ってこなければ、アルゼンチンからの「ペニシリン報道」が無ければ、稲垣軍医という稀有のコンダクターがいなければ、効率よくペニシリンを作る青カビを見つけることできなければ、つまりさまざまな偶然が重ならなければ、この偉業はなしえなかったと思います。色々と考えさせられます。

次回が日本製ペニシリン「碧素」のお話の最後です。
戦争が終わったのに、日本ではペニシリンが大量に必要とされるようになりました。何故でしょう?今に通ずる話です。以下、次回に続きます。

図1:

図1:日本製ペニシリン「碧素」(公益財団法人 日本感染症医薬品協会)

日本製ペニシリン「碧素」です。下の方に森永薬品とあります。碧素と名付けられていますが、碧色(へきしょく≒青緑色)はしていません。碧素をつくるカビが碧色だったので碧素なのです。

注:このペニシリン(碧素)は「公益財団法人 日本感染症医薬品協会」の所蔵物で、現在内藤記念くすり博物館に寄託されています。この写真は同博物館のホームページにあり、同協会、同博物館の許可を得て掲載しています。

こぼれ話1:

ペニシリンの製造特許は、ペニシリンを発見したイギリスではなくて、ペニシリン大量生産に成功した米国で出願されて成立しています。その様な話が、日本に伝わる訳も無く、日本製ペニシリンに関する製造特許は「日本帝国陸海軍大臣」を出願人として出すことが決まりました。結局、東京空襲のために軍医学校が山形に疎開したため、この特許話は流れてしまいます。

こぼれ話2:

稲垣軍医少佐は終戦を境にして、ペニシリンとは縁を切り、内科医として活躍します。繰り返しますが、稲垣先生が、いらっしゃらなければ、碧素は作られなかったと思います。碧素に関係した方々は、皆さんそう言っています。今でも新薬開発には、稲垣医師のような優秀なオーガナイザーが必要だと思います。

こぼれ話3:

国産ペニシリンの第一号は森永製菓が作りました。しかし、森永製菓は終戦後暫くしてペニシリンの製造を止めています。地元の雑誌(静岡県三島市の「大場誌」)には、「昭和19年10月三島工場で碧素第一号が完成し12月に軍に納入することになり、昭和20年10月に大場工場をペニシリン製造工場として森永薬品と改称し培養販売を続けた」旨の記載があるそうです。前出の写真にも見えますように、「森永薬品」という会社があったのですね。今は森永グループには製薬会社はありません(参考文献9.)。

【参考文献】

  • 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン(著), 北村 二朗(訳) 平凡社刊
  • 碧素・日本ペニシリン物語 角田房子(著) 新潮社刊
    内容が濃い、凄い本です。是非、新潮新書または新潮文庫で再刊して欲しいですね。
  • ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル(著), 中山 善之(訳) 佑学社刊
  • 失われてゆく、我々の内なる細菌 マーティン・J・ブレイザー(著) みすず書房刊
  • 水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業:犬丸秀雄関係文書を基にINK科学史研究』266, 2013年, pp. 70-80
  • 深海の使者 吉村昭(著) 文春文庫
  • 中谷宇吉郎全集:1-8巻 岩波書店
  • 抗生物質を求めて 梅沢浜夫 文藝春秋社
  • 三島市立図書館ホームページ 「レファレンス事例」
    http://tosyokan.city.mishima.shizuoka.jp/referencedetail?4&num=1943115
    これは凄いレファレンスです。三島市の図書館の調査能力は素晴らしいです。このリファレンスは公開されています。同リファレンスより抜粋、一部をお示しします。
    以下、引用
    「まず森永の社史を見、別置「K」and「ペニシリン」でヒットした市史を確認、その後地域資料ではないもので裏付けを得ようと、「ペニシリン」で検索して『碧素・日本ペニシリン物語』を確認。ちなみに大場の森永の薬品工場は、現在の大場駅前にあるコーポラス大場の辺りにあった。森永製菓一〇〇年史』p9年表に「昭和19年11.21 三島工場(食品工場でペニシリン生産研究開始(12.10液体抽出に成功、わが国初の大量生産によるペニシリン「碧素1号」完成)」「昭和20年10.1ペニシリン製造を薬品会社大場工場に移管」、p130に見開き解説あり。 また、『碧素・日本ペニシリン物語』p134にも、三島の森永で日本で初めてペニシリンを製造するに至った経緯が書かれている。<資料最終確認日2012年1月27日> 『大場誌』p222の「森永製菓㈱大場工場」の項に「昭和19年10月三島工場で碧素第一号が完成し12月に軍に納入することになり、20年10月に大場工場をペニシリン製造工場として森永薬品と改称し培養販売を続け」た旨記載あり。また、沼津の微生物科学研究所に、梅沢濱夫記念館があったが、記念館は現在東京の研究所内に移転している(記念館の設計は一高碧素会の浦良一氏)。」
    引用終了。

望月吉彦先生

望月吉彦先生

所属学会
日本胸部外科学会
日本外科学会
日本循環器学会
日本心臓血管外科学会
出身大学
鳥取大学医学部
経歴
東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学)
獨協医科大学教授(外科学・胸部)
足利赤十字病院 心臓血管外科部長
エミリオ森口クリニック 診療部長
医療法人社団エミリオ森口 理事長
芝浦スリーワンクリニック 院長

医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-1-1 浜松町ビルディング1階 プラザ 111 内
TEL:03-6779-8181
URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/

※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。