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012:あの「ハーレー」も!三共を興した高峰譲吉(望月吉彦先生) - ドクターズコラム

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望月吉彦先生

更新日:2015/02/16

以前、エフェドリンの合成に成功した長井長義について書きました。今回はエフェドリンと同様に世界中で100年以上使われている「アドレナリン」の合成に成功した高峰譲吉について書こうと思います。

お薬の会社がバイクも作る?

ハーレーダビッドソン

なんでそこに「ハーレーダビッドソン」が出てくるかと言うと、筆者は高校大学時代、バイクを乗り回していました。バイク青(少)年でした。30-40年も前の事です。
排気量400CCのバイクが自分で乗ったバイクでは一番大きいバイクです。当時も、おそらく今もバイク乗りの憧れは「ハーレーダビッドソン社製のバイクに乗ること」です。私もそうでした。大学時代読んでいたバイク雑誌に「ハーレー社製のバイクは太平洋戦争前後、日本でも作られていた。作っていたのは三共という製薬会社」だという記事がありました。当時(35年くらい前の事です)深く考えず「ふーん、お薬の会社ってバイクも作るんだ」くらいにしか思っていませんでした。考えてみれば変な話です。
今回、高峰について書こうと思って、バイクの事も思いだしたのでインターネットで探してみました。どうやら本当のようです。1935年、三共がハーレー社からライセンス供与をうけて日本でバイク制作を開始とあります。その後、バイク名も「ハーレー」から「陸王」に代わっています。慶応大学の応援歌の様な名前ですね。会社名も「三共」→「三共内燃機」→「陸王内燃機」に変わっています。1949年まで生産していたとありますから結構続いたのですね。現存する陸王のほとんどは戦後に作られたモノです。戦前の「三共マークが入った陸王」があったら是非見てみたいですね。
それにしてもなぜ、三共がバイク生産を開始したのでしょうか?三共の創始者高峰は米国に長く住み、お墓もニューヨークにあります。子孫のかたと何か関係があってバイク生産を始めたのでしょうか?興味は尽きません。どなたかご存じ方がいらしたらお教え下さい。調べても解りませんでした。

色々なことを次から次に

閑話休題、本題に入ります。高峰譲吉の話です。彼に関する評伝はたくさんあります(ちょっと検索しただけで20冊くらいあります)。2010年には映画『さくら、さくら ~サムライ化学者・高峰譲吉の生涯~』にもなっていますので見た方もいらっしゃるかもしれません。評伝のほとんどは褒め称える本ですが、なかにはあまり良いことを書いてない本もあります。
彼は母親の実家である富山の生まれ(1854年)ですが、すぐに父親(医師)の住む金沢に移住しています。(現在、石川県立金沢ふるさと偉人館で彼を顕彰しています。)
幼児期からとても優秀で、加賀藩から長崎への留学を12歳で果たします。1865年から1868年まで長崎で英語や化学(舎密:せいみ:CHEMICALからきている)を学んでいます。前回お話しした長井長義は1866年(22歳)に長崎留学を果たしますので、この時、長井と高峰はクロスします。どちらも坂本龍馬の写真で有名な上野彦馬写真館での写真が残っています。
高峰はその後、一時京都で英語の勉強をしますが、当時、英語の勉強をすることは危険でした。高峰の通っていた英語塾の塾頭は「英語を教えている」という理由で暗殺されています。尊皇攘夷です。
その後、京都から大阪、大阪から石川県七尾の語学所へと渡り歩き、医師となるべく、大阪の適塾に入学、転じて大阪医学校に入学、並行して大阪舎密学校(化学の勉強のため)にも通います。そこで出会ったリットル先生に化学分析手法を習い、医師になるのを止めて、化学の道に進むことを決めています
1872年上京して工部大学校(後の東京帝国大学工学部)に入学、漢学以外の授業はすべて英語で行われていたのですが、12歳から英語を学んでいた高峰は苦もなく授業についていけたと、後年述べています。1879年卒業し、1880年イギリスに留学します。スコットランドにあるアンダーソニアン大学で化学を学びました。1883年2月帰国。農務省に勤務しますが、同年9月に米国ニューオリンズに出張。翌1884年12月から1885年5月まで、同地で開催された万国博覧会に政府御用掛として赴任。この時、彼は後に奥さんとなるキャロラインと知り合っています。また、リン酸肥料に目をつけ、ニューオリンズから1000キロも離れたサウスカロライナ州から自費!でリン酸鉱石やリン酸肥料を購入し、日本に持ち帰ります
色々なことを次から次にやっています。
当時の官僚で英語に不自由がない人は限られており、いろいろなことをやらざるを得なかったのだと推測します。帰国して、人糞肥料ではなく、人造肥料の大切さを説き、ついには1887年、またも自費!でイギリス、フランス、ドイツ、アメリカの農業視察を行い人造肥料製造機械も購入しています。この渡航時にニューオリンズでキャロラインと結婚式もあげています。帰国後、東京人造肥料会社を興します。現在の日産化学です。

苦労のウイスキー製造

ウイスキー

彼はウイスキーの本場、スコットランドに留学していました。ウイスキーの醸造には麦芽の酵素を使います。原料となる大麦の栽培には半年もかかり、発芽させ加工して麦芽を作りますので時間がかかります。これを日本酒の麹で置き換えてみてはどうであろうかと彼は考えました。母親の実家が造り酒屋でそういう知識があったのが根底にあったと思います。このアイデアが基となり、1890年には「高峰式、元麹改良法」の特許を日本だけでなく外国にも申請します。これに目をつけたのがアメリカのウイスキー会社(ウィスキートラスト社:以下ウィ社と略)で、高峰を米国に招こうとします。同じ頃、子供が二人出来たのですが、キャロライン夫人は日本に馴染めず、ニセの手紙を母親に書かせ、高峰をアメリカに呼び寄せようとします。ウィ社からの招聘と義母からの手紙があいまって、1890年キャロラインと高峰は渡米、結局永住することになります。
キャロライン夫人ですが、高峰を支え尽くしたとされていますが、高峰死後、息子の友人(23歳年下)と再婚しています。ちょっと変わったと言うか情熱的というか、凄いと言うか、生命力にあふれていると言うか、言葉もありません。
高峰の渡米後の話に戻ります。ウィ社があるシカゴに移り、麹かびを使ったウイスキー醸造法を用いてウイスキー製造工場を作り始めました。しかし、工場を建設中に「家に入った暴漢に殺され」かかったり(うまく隠れていたので殺されなかった)、工場は「放火」されたり、されています。新しい製造法で仕事にあぶれそうな職人や同業他社の仕業だとか人種差別だとか言われていますが、真相は不明です。
それでも彼は挫けず、ウイスキー製造を再開します。彼の収入は特許料をウィスキートラスト社が払うことで成り立っていましたのでウイスキーが出来ないと収入が無いので必死だったと思います。しかし、そのかなめだった同社は高峰式醸造法に反対する人達の策略で倒産してしまいます。収入の途が閉ざされます。ここまで書いて、彼がどれだけ苦労したかと思うと、胸が詰まるような思いがします。普通なら諦めてしまうところですが、彼はくじけません。

その後、タカジアスターゼ、アドレナリンの生成に成功、商業的にも大成功し、科学の歴史に名を残す事になります
それにしても三共がバイクって、面白いですね。

次回に続きます。

望月吉彦先生

望月吉彦先生

所属学会
日本胸部外科学会
日本外科学会
日本循環器学会
日本心臓血管外科学会
出身大学
鳥取大学医学部
経歴
東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学)
獨協医科大学教授(外科学・胸部)
足利赤十字病院 心臓血管外科部長
エミリオ森口クリニック 診療部長
医療法人社団エミリオ森口 理事長
芝浦スリーワンクリニック 院長

医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階
TEL:03-6779-8181
URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/

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