望月吉彦先生
更新日:2017/8/21
前回、PCIの創始者グリュンツィッヒ先生が、塩化ビニールの専門家であるホフ名誉教授の助言を得ながらバルーン付きカテーテルを制作し、それを下肢動脈狭窄症の治療に用いて成功したところまで紹介しました。今回はその続き、グリュンツィッヒ先生がPCI(経皮的冠動脈形成術)に成功したことと、その後に訪れる悲劇をお話します。
当時、グリュンツィッヒ先生が使用したカテーテルは全て彼の自宅キッチンで作られていました。文字通りの「手作り」で、夜間、休日にグリュンツィッヒ先生と奥さん、助手夫婦でバルーン付きカテーテルを作っていたのです。凄いことだと思います。
その後、PCIが本格的に広く行われるようになると、バルーン付きカテーテル製造は工業化され、製品化されていきます。このキッチン製バルーン付きカテーテルも段々と細く改良されていき、ついに動物の冠動脈狭窄(人為的に作った狭窄)の治療に成功し、そのことを1976年11月に米国心臓病協会で発表しました。しかし、本人曰く「ほとんど無視」されてしまいました。
グリュンツィッヒ先生は、そんなことにはめげずに「人の冠動脈治療(PCI)」を目指します。とは言え、そう簡単にはできません。失敗すれば、冠動脈が裂けて出血して、死亡する可能性もあるからです。
グリュンツィッヒ先生は外科医が行う冠動脈バイパス術に目を付けました。この手術では冠動脈を切開するので、その切開部からバルーン付きカテーテルを挿入して狭窄部位を広げてみたら良いのではないかと考えたのです。冠動脈が仮に裂けても手術中ですから、修復できます。グリュンツィッヒ先生は当時の拠点であったスイスの心臓外科医に相談しましたが、誰も賛成してくれませんでした。冠動脈狭窄部位が改善すると、冠動脈の血流が良くなり、バイパス血管が閉塞する可能性もあることや血管が裂けたりする合併症が怖かったのでしょう。
困ったグリュンツィッヒ先生はあちこちに声をかけます。その結果、米国サンフランシスコにあるセントメリー病院の心臓外科医エリアス・ハンナ医師(Elias Hanna 1936- 注:男性です)と循環器内科のリチャード・メイラー医師(Richard K. Myler:1936-2013)がこの試みに同意してくれます。
グリュンツィッヒ先生はスイスから、バルーン付きカテーテルを持参してサンフランシスコに行き、ハンナ先生が行った冠動脈バイパス時に、メイラー先生と共に冠動脈を切開した箇所からバルーン付きカテーテルを挿入し、狭窄している冠動脈を広げました。1977年5月9日のことです。2例に行い、多数の冠動脈狭窄部位を広げました。治療は成功し、エリアス・ハンナ、リチャード・メイラー両医師の名前は、冠動脈疾患治療の歴史に残りました。
なお、この「カテーテルを冠動脈切開部から入れて、狭くなっている冠動脈を広げる方法」は後にOTCA(Operative Transluminal Coronary Angioplasty)と称され冠動脈バイパス術を行う時に同時に施行することが流行りました。現在は様々な理由により行われていません。
それはともかく、グリュンツィッヒ先生は人間の冠動脈を、手術中ではありますが、広げることに成功したのです。そして、ついに!手術と一緒では無く「カテーテル単独での冠動脈狭窄の治療(=現在のPCIと同じ治療)」を行なうことにしたのです。実はこの時も、前回紹介したグリュンツィッヒ先生のよき理解者である心臓外科医セニング先生に相談したら、「もし、上手くいかなくなって困ることが生じたら、直ぐに手術してあげるよ。頑張れ!」と言われたそうです。この言葉が無ければ、グリュンツィッヒ先生もPCIを行わなかっただろうと述べています。セニング先生は偉いですね。
その言葉に勇気を貰ったグリュンツィッヒ先生は1977年9月1日に世界で最初のPCIをチューリッヒ大学病院で行いました。患者さんは37歳男性で、アドルフ・バハマン(Adolph Bachman)という方でした。奇しくも、グリュンツィッヒ先生と同年齢です。くどいようですが、全身麻酔では無く、局所麻酔でバルーン付きカテーテルを用いた冠動脈狭窄部の治療です。今、行われているPCIと同じです。
図1
図1はその、世界で始めて行われたPCIの画像です。狭い部分が広がっているのがおわかりになりますでしょうか?
黄色矢印が狭くなった冠動脈部位を示しています。その狭くなった冠動脈をバルーンで広げています(赤い矢印)。
1977年11月にアメリカ心臓病協会でその結果を報告します。発表時には立錐の余地も無いくらいの聴衆が集まり、グリュンツィッヒ先生の発表が終わるとスタンディングオベーションで彼を称えました。冠動脈造影の創始者であるソーンズ先生も涙を流しながら賞賛したと記録されています。
グリュンツィッヒ先生は、スイスや母国ドイツで、指導的立場で働く地位(=教授職)を求めましたが、そういう職は得られませんでした。38歳と若かったからです。しかし、米国の多くの大学やクリーブランドクリニックなどの有名病院から招請を受けます。その中で彼が選んだのはジョージア州にあるエモリー大学でした。彼はここで、思う存分働きます。エモリー大学病院では教授となります。グリュンツィッヒ先生は、コカコーラ社から105 million US$の寄付を貰って研究を続け、数多くの論文を書き、カテーテル治療を行い、その指導も行いながらカテーテルの改良(様々な企業で作成するようになっています)や開発を行いました。
グリュンツィッヒ先生は冠動脈治療用のバルーン付きカテーテルの特許を取っていました(前回参照)。そのお蔭で、グリュンツィッヒ先生は裕福になります。なお、チューリッヒの自宅キッチンで一緒にカテーテルを作っていた奥さんはアメリカ生活になじめず、スイスに帰ってしまっていたので、若い研修医と2度目の結婚をします。アメリカ全土はもとより世界中で講演やPCIのデモンストレーションなどを行っていました。PCIは世界中にあっという間に広がっていったのです。世界の冠疾患治療を一変させつつあったのです。
全米の病院で講演や治療をするのに、飛行機会社を利用しているのは時間のロスだと言って、飛行機を購入して自分で操縦し、全米各地を飛び回っていたのですが、悲劇が1985年11月27日に訪れます。この日、新妻と二人で嵐の中を飛び立った彼の操縦する自家用飛行機はジョージア州の森に墜落し、二人とも帰らぬ人となってしまいました。グリュンツィッヒ先生は46歳でした。もし生きていれば、今年で78歳、一般の方にも知られるような有名人になっていたことと思います。
カテーテルの創始者フォルスマン先生はノーベル賞を受賞しています。カテーテル治療の創始者であるドッター先生とグリュンツィッヒ先生も「ノーベル賞」を授賞してもおかしくなかったのです。実際にドッター先生は1978年のノーベル医科生理学賞にノミネートされています。グリュンツィッヒ先生がお亡くなりになった1985年は、カテーテル治療に携わる人にとって呪われた年でした。この年、
グリュンツィッヒ先生は46歳で、飛行機事故で
ドッター先生は65歳で、悪性リンパ腫で
ソーンズ先生は66歳で、肺がんで
ジャドキンス先生は63歳で、脳梗塞で
お亡くなりになっています。グリュンツィッヒ先生を除いて、皆60代です。新しい治療方法や治療器具、診断器具を考案して広めるように努力するのは、ストレスの多い仕事だったのかもしれません。今もこの4名の方の考案した治療方法、治療器具は世界中で普通に使われています。偉大な先達です。
初期のPCIはバルーンのみを用いた方法で、再狭窄率が20-30%ありました。
その後、
など、様々な改良がなされ、再狭窄率が10%以下になっています。今も、どんどん改良が進んでいます。
しかし、基本は禁煙、高血圧治療、高脂血症治療、糖尿病管理など、以前もお示しした冠疾患の危険因子を減らすことが必要です。
最初にPTCAを行われた Adolph Bachmanさんは今も元気だと思われます。お亡くなりになれば、ニュースとして流れると思います。2012年時点では特に心臓には異常なく暮らしていると報道されています。この方とグリュンツィッヒ先生は同年齢です。PCIを行ったグリュンツィッヒ先生がお亡くなりになって、今年で30年です。そう思うと、感慨深いですね。
一時、世界中で使われるほど普及したある冠動脈バイパス術用の特殊器具を開発した米国の起業家の講演を聞いたことがあります。講演の最後に「ジェット戦闘機の写真」が出てきました。これに乗るのが、私の趣味だと話していました。講演終了後に話を聞いたところ、アメリカでは1億円程度で古い型のジェット戦闘機を購入して、自分で操縦できるのだそうです。うらやましいような、怖いような話でした。
前回及び今回に名前がでた人々が全員写っている珍しい写真です。1980年
望月吉彦先生
医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
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