望月吉彦先生
更新日:2018/04/02
2018年上半期の芥川賞、直木賞が1月に発表されました。芥川賞受賞作の一つは若竹千佐子(わかたけちさこ)の「おらおらでひとりいぐも」という小説でした。宮澤賢治ファンなら賢治の「永訣の朝」という「詩」をすぐに思い起こすと思います。「永訣の朝」は結核で死に行く賢治の妹トシとの永久の別れを描いています。
“けふのうちに とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ” で始まる悲しい詩です(旧仮名遣いですから「けふ」=「きょう:今日」、「とほく」=「とおく:遠く」、「いっていしまふ」=「行ってしまう」)。
「永訣の朝」の中には(Ora Orade Shitori egumo)という括弧でくくられ、ローマ字で書かれた一節が出てきます。妹トシの言葉として( )でくくられているのです。
死に瀕した賢治の妹トシが「おら おらで しとり えぐも」と語っているかのように記しているのです。標準語で書くと「私は、私で、一人で死んでいくよ」でしょう。
直木賞は、門井慶喜(かどいよしのぶ)の小説「銀河鉄道の父」が受賞しています。宮澤賢治の父についての小説です。奇しくも宮澤賢治に関係する小説が2018年上半期の芥川賞、直木賞に選ばれたのです。今でも宮澤賢治の人気は衰えていないことを示していると思います。
今回は、宮澤賢治と山梨県や八ヶ岳にまつわる話を思い出したので紹介します。私は山梨県出身ですが今回に記すようなこともあり、なんとなく宮澤賢治に親近感を覚えています。
テレビ東京の人気番組「なんでも鑑定団」には実に色々なモノが出て面白いですね。10年くらい前に宮澤賢治が書いた手紙73通がこの番組に出たことがあります。手紙を鑑定団に出したのは、山梨県韮崎市在住の医師、保阪庸夫(ほさかつねお:1927-2016)さんでした。
保阪さんの父親は、保阪嘉内(かない)と言います。嘉内は韮崎市の生まれで、甲府中学(現甲府第一高校)を卒業後、1916年に盛岡高等農林学校に進学、同校の寄宿舎で同室だったのが、宮澤賢治です。学年は賢治が1年上です。1917年、同校の学生4名(宮澤賢治、保阪嘉内、小菅健吉、河本義行)が中心となって校内の文芸誌「アザリア」を刊行します(文末余話4の写真参照)。宮澤賢治が初めて文学作品を発表したのが「アザリア」だったのです。しかし、アザリアは6号で終刊となっています。アザリア5号に保阪嘉内が「おい今だ、今だ、帝室をくつがえすの時は、ナイヒリズム(筆者注:帝室=皇室、ナイヒリズム=ニヒリズム)」という文章を書いて嘉内が退学処分を受けたのがアザリア終刊の遠因だと言われています。
寄宿舎で同室、且つ文芸雑誌を一緒に創刊するほど仲の良かった保阪嘉内に宛てて宮澤賢治が書いた手紙が「なんでも鑑定団」の鑑定に供されたのです。この手紙は宮澤賢治文学を研究する人にとって、とても大切なモノだと思います。「なんでも鑑定団」に手紙を出した保阪庸夫さんは医師ですが、宮澤賢治の研究家でもあり、この73通の手紙とその解説を出版しています。「宮澤賢治友への手紙」(1968年) という本です。
この本の表紙には保坂庸夫、小沢俊郎の名前が挙がっています。しかし、この本は正式には「宮澤賢治(著), 保坂庸夫(編集), 小沢俊郎(編集)」です。宮澤賢治(著)です。この本は1968年に出版されています。宮澤賢治が結核のために没したのが、1933年です。1968年は宮澤賢治が亡くなってから35年です。死後50年を経過していませんので、この手紙の著作権は宮澤家にあり、それゆえに著者が宮澤賢治になっているのです(著作者の死後50年までが著作権の原則的保護期間:著作権法第51条第2項)。
それはともかくこの手紙の内容はかなり「濃い」です。宮澤賢治は日蓮宗に深く帰依し、日蓮宗の信徒団体である「国柱会」に入り、親友だった保阪嘉内にも「国柱会」に入るよう、しつこく、熱烈に勧めています。結局、嘉内は断ります。賢治は嘉内が入信しないとわかったら、次のような手紙を書きよこしています。
「私が友保阪嘉内、私が友保阪嘉内、我を捨てるな」
「保阪さん。今泣きながら書いています。あなた自身のことです。あなたの神は力及びません。」
「そうでなかったら、私はあなたと一緒に最早、一足も行けないのです」
とか、公開を前提にしてはいませんのでかなり書き方が過激です。ラブレターのようにも読めますね。
「私が友○○、私が友○○、我を捨てるな」なんて書いた手紙をもらったら面食らうでしょう(○○に自分の名前を入れてみてください)。でもそういう熱いマグマのような情熱が宮澤賢治にはあり、それが作品にも反映され、今も多くの人々を魅了するのだろうと思います。
この本が出版されてから40年、すでに著作権も切れている宮澤賢治が書いた保阪嘉内宛の手紙73通がなんでも鑑定団に出されたのです。
鑑定額はいくらだったでしょうか?73通の総額がなんと、1億8000万円でした!
生前、2冊しか本が出版されず(「春と修羅」「注文の多い料理店」の2冊)、それもほとんど売れなかった賢治は泉下でびっくりしたのではないでしょうか?
話は代わります。
宮澤賢治の人気作品「風の又三郎」についての話をしましょう。巷間、知れ渡っているのは「風の又三郎」ですが、その元になったのは「風野又三郎」という小説です。現在、書籍となって読まれているのは「風の又三郎」です。しかし「風野又三郎」の方が“圧倒的”に面白いと私は思っています。
「風野又三郎」は主人公の「風の妖精:風野又三郎」が縦横無尽に活躍します。この主人公は、子供には見えるけれど学校の先生には見えない設定になっています。一方「風の又三郎」はかなり真面目な話になっていて、学校の先生にも見える設定になっています。お時間のある時にぜひ、読み比べてください。どちらも著作権が切れているので、青空文庫で読むことができます。
その「風野又三郎」には唐突に甲州の八ヶ岳が出てきます。サイクルホールという遊びを風野又三郎がするのです。サイクルホールは、風のいたずらのような意味だと思います。
“十人ぐらいでやる時は一番愉快だよ。甲州ではじめた時なんかね。はじめ僕が八ヶ岳の麓の野原でやすんでたろう。曇った日でねえ、すると向うの低い野原だけ不思議に一日、日が照ってね、ちらちらかげろうが上っていたんだ。それでも僕はまあやすんでいた。そして夕方になったんだ。するとあちこちから
『おいサイクルホールをやろうじゃないか。どうもやらなけぁ、いけない様だよ。』ってみんなの云うのが聞えたんだ。”
賢治は岩手の人です。八ヶ岳がいきなり出てくるのは違和感がありますね。
「風の又三郎」の名前は山梨県の清里高原にその元があるという説があります(文献2、3)。
写真:風切りの松がある一帯の全景、風野三郎社など
山梨県北杜市高根町清里に「風切りの松 風の三郎」という大きな松の木があり、その横に小さな祠があり、「風の三郎社」といいます。八ヶ岳の方から吹いてくる強く冷たい北風を「八ヶ岳おろし」と言います。八ヶ岳には「風の神様」がいて風を吹かせている。そういう伝説があります。その風の神様の名前を「三郎」とか「風の三郎」と言っていました。その神様を「風の三郎社」という祠まで作って祀っていたのです。
前述の保坂嘉内は、この松のスケッチを書き残しています。嘉内は地元の八ヶ岳に何回も登っているので、登山途中にここを通ったのでしょう。そして、賢治に八ヶ岳の「風の三郎」の話をしたのだろうと想像されます。何回もその話を嘉内がするので賢治は「保阪さん、またか、また風の三郎の話か」とでも言っていたのでしょう。それが「風の又三郎」に結びついたと想像してもおかしくないでしょう(文献2)。
この風切りの松の木や祠(ほこら)は清里高原にある「そば処清里 北甲斐亭」というおそば屋さんの裏手を5分くらい登ったところにあります。興味がある方は訪れてみてください。
前述のサイクルホールの話ですが、残念なことに原稿を推敲している内に賢治の気が変わったのか「風の又三郎」から八ヶ岳は消えています。
宮澤賢治が八ヶ岳に来ていれば面白いのですが、足跡はありません。
しかし、賢治は
“甲斐に行く万世橋の停車場をふっとあわれにおもひけるかな”
という歌を詠んでいます。
「Tokioの唱歌」と称する「歌」数編を詠み、保阪嘉内宛の手紙に記しています。その中の一つにこの歌があります。今は新宿駅が始発となる中央本線ですが、以前は万世橋駅(まんせいばしえき)が始発で、保阪嘉内のいる韮崎まで続きます。そう思うとこの歌は恋の歌のようにも思えます。
※万世橋駅は、中央線の神田駅と御茶ノ水駅の間にあった駅で1943年休止(事実上、廃止)となっています。
話は代わります。
賢治の童話「なめとこ山の熊」の主人公の猟師の名前は
“淵沢小十郎”
です。山梨県の北杜市にある小淵沢という地名から、思いついたとしか思えません。これも八ヶ岳が好きだった保阪嘉内つながりだろうと思います。
という訳で、八ヶ岳山麓に行く機会があったら、こんな話もあったと思い起こしてくだされば幸いです。
保阪嘉内の甲府中学の同級生に「林髞(はやしたかし)」がいます。条件反射で有名なロシアのパブロフの元で研究し後に慶應義塾大学医学部生理学教授になります。「木々高太郎」の名前で小説も書いて、直木賞を受賞しています。林と保阪は甲府中学時代から仲が良く、それもあって保阪嘉内は甲府中学時代から文学に目覚めていたようです。
星が見つかると名前がつけられます。ある小惑星は「Miyazawakenji」と命名され、ある小惑星は「Hosakakanai」と命名されています。宮澤賢治は銀河鉄道の夜という名作を書いているので、小惑星に賢治の名前が付けられたのは自然な話です。
保坂嘉内の名前が小惑星につけられたのはなぜでしょう。賢治の親友だから、名付けられた訳ではありません。嘉内は甲府中学時代にハレー彗星を見て、詳細なスケッチを残していたのです。そのスケッチは天文学的にとても貴重で、それゆえに天文学会が、ある小惑星に「保阪嘉内」の名前をつけてくれたのですね。期せずして、天空に親友同士の名前がついた星が輝いていることになります。何だか詩的で良い話だと思います。
八ヶ岳のそばに「茅が岳」という山があります。標高1704mです。中央線からもよく見えますし、中央自動車道からもよく見えます。八ヶ岳に似ているので「ニセ八つ」の異名があります。「日本百名山」に茅が岳は入っていません。しかし、この山で「日本百名山」の著者“深田久弥(ふかだきゅうや、1903-1971)”が亡くなったので、「日本百名山」ファンの間で「茅が岳」は有名です。深田久弥はこの山に登っている時に脳卒中で倒れました。この時に救助に向かったのが、何でも鑑定団に出演した保阪庸夫先生です。携帯電話も無く、ドクターヘリもない時代です。保阪先生が急変した深田久弥の元に着いたのは、脳卒中を発症してから随分と時間が経っていて深田久弥はすでにお亡くなりになっていたそうです。それはともかく、茅が岳は深田久弥が最後に登った山と言うこともあり、人気があり登山口の駐車場は土日祝日になると混雑しています。駐車場から頂上まで3時間あれば登れます。頂上からの眺めはとても良い山です。
アザリアの中心メンバーの出身県、生年月日、没年、死因を示します。当時の盛岡高等農林学校には全国から学生が集まっていたのですね。お一人を除いて若くしてお亡くなりなっています。
左上:保阪、右上:宮澤
左下:小菅、右下:河本
メンバー名 | 出身県 | 生年月日-没年 | 死因 |
---|---|---|---|
河本義行 | 鳥取県 | 1897年3月21日- 1933年7月18日(33才) | 水死 |
宮澤賢治 | 岩手県 | 1896年8月27日- 1933年9月21日(37才) | 結核 |
保阪嘉内 | 山梨県 | 1896年10月18日- 1937年3月8日(41才) | 胃がん |
小菅健吉 | 栃木県 | 1897年3月12日- 1977年5月30日(80才) | 肺気腫 |
保阪嘉内は「アザリア」のメンバーの手紙を全てきれいにスクラップして残していました。なにか感ずるところがあったのでしょう。後年、そのメンバーの一人が没後、人気作家となり、手紙が一通数百万円でやりとりされるようになるとは夢にも思わなかったでしょう。今なら、メールでやりとりするか、またはLINEで会話をするかもしれません。随分と味気ない時代になってしまいました。大切な手紙は、手書きで書きましょう。
「雨ニモマケズ」の中に「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」とあります。玄米を1日4合とあります。賢治の時代農作業は重労働でした。一日に4合では少なめだったのです。太平洋戦争中「一日ニ玄米四合」が問題になります。食糧不足で一日玄米四合も食べられなくなったからです。「一日ニ玄米四合」は贅沢だと言うことになり、教科書は「一日ニ玄米三合」と書き換えられています。悲しい話ですね。
本稿で紹介した宮澤賢治の73通の手紙全てが、2016年7月9日(土)~8月28日(日)山梨県立文学館で特別展示されたことがあります。私は、見に行きました。本物には、迫力がありました。
賢治の手紙のひとつです。「熱」が感じられますね。
さあ、お仕事、勉強をしっかりやりませう。
望月吉彦先生
医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
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