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013:高峰と上中に神が降りた日~高峰譲吉(2)(望月吉彦先生) - ドクターズコラム

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望月吉彦先生

更新日:2015/03/02

前回では、製薬会社である三共がハーレーダビットソンを作っていたという話題より、高峰譲吉についてお話を始めました。思いがけず三共がハーレーダビットソンを作っていた経緯がわかりました。このhealthクリックをご覧になった「高峰譲吉博士研究会事務局」の方から連絡を頂きました。その経緯が三共社史に載っておりその部分のコピーを頂いたのです。有り難いことです。
社史に載っている内容を紹介します。

三共は、明治41年(1908)3月、高峰譲吉の仲介でアメリカ・フォード社の代理店になっています。その関係で大正10年(1921)5月、自動車部品、機械類などの輸入商社として興東貿易株式会社の設立に参加します。同社は大正12年、ハーレーダビッドソン社のモーターサイクルの輸入販売を開始、同年におこった関東大震災復興需要により急速に需要がふえて業績が伸びたそうです。その後、昭和6年(1931)株式会社ハーレーダビッドソンモーターサイクル販売所を三共が設立し、興東貿易からモーターサイクル事業を分離、独立させます。しかし経済情勢のため、輸入車の価格が急騰したために国産のハーレーダビッドソン作成を計画。昭和10年4月に国産ハーレーと言うべきオートバイ陸王号を完成。陸王号は軍用車としても採用されましたが、第二次世界大戦終結に伴い、その製造も中止、会社も解散となっています。昭和25年、陸王モーターサイクル社として復活しますが、三共の系列からは離れています。

以上が、社史に載っていた事の要約です。三共とハーレーダビッドソンの関係がわかり、スッキリとしました。なお、「高峰譲吉博士研究会事務局」の方からのメールには「高峰譲吉にフォードを紹介したのはエジソンであるらしい」と書かれています。多分、どこかにそのような資料があるのだと思います。

今回はその本題、アドレナリンを薬として世に出したという側面から高峰譲吉をご紹介したいと思います。

高峰と上中に神が降りた日

この写真はアドレナリンの結晶化に成功した時に実験をしていた上中啓三が書いた実験ノートです(1900年7月20日から11月15日まで)。

(NPO法人近代日本の創造史懇話会の厚意による)

アドレナリン実験ノート
アドレナリン実験ノート
(日本国化学遺産002号)

アドレナリンの結晶
アドレナリンの結晶
(写真1の実験ノートに記されています)

まずはじめに、前回書き忘れた事があります。
高峰は米国ニューオリンズで開かれた万国博覧会に日本館職員として駐在します。
その時、日本館に通い詰めたのが新聞記者だったラフカディオ・ハーンです(=小泉八雲)。その縁で松江中学の英語教師として来日します。
こんなところにも歴史的にも興味深い繋がりがあったのですね。

さて、前号の続きですが、高峰はウィスキー製造をあきらめました。
しかし、ここからドラマがあります。
高峰式ウィスキー製造には日本の麹を利用していました。大根おろしと一緒に餅を食べると消化が良い事から、何かあると考え、麹カビの中から強力な「ジアスターゼ」を産生する「アスペルギルスオリゼ」を見いだします。
1883年フランスのペイアンによって発見されていた「ジアスターゼ」ですが高峰の発見した「ジアスターゼ」は500倍も作用が強かったのです。
高峰は自分の名前とギリシャ語で“最高”を意味する「タカ」をつけた『タカジアスターゼ』と命名し、特許を取ります。
そしてパーク・デービス社(現ファイザー社)が世界中に消化薬として「タカジアスターゼ」の製造販売を開始、高峰は巨万の富を得ます。
高峰は、日本の製造販売権は自らがが保持しました。後述いたしますが、自分で製造販売したかったからです。

余談ですが、夏目漱石の作品『吾輩は猫である』にも「タカジアスターゼ」は出てきます。漱石は胃が悪かった(胃潰瘍で死亡しています)ので服用していたのかもしれませんね。

パーク・デービス社は当時世界中で研究されていた副腎の抽出物の研究を高峰に依頼します。 しかし、米麹、発酵には精通していた彼も副腎からの抽出物など研究したことが無かったので研究は頓挫します。
しかし、彼はめげません。「エフェドリンの発見者、長井長義」を思い出します。長崎で同時代を過ごした仲です。当時長井は東大教授でした。
その彼に研究に協力してくれる人材の紹介をお願いしました。そして、米国の高峰の下に赴いたのが長井の弟子である、当時23歳の上中啓三です。上中も東大医学部薬学科専科出身(今で言う聴講生のような制度)だったので、この米国行きを喜んだと後年記しています。
上中は長井の下で長井流研究方法を学んでいます。1899年渡米、1900年の2月から高峰と共に研究を開始します。しかし、高峰はパーク・デービス社の社員ではありませんでしたので、マンハッタン(ニューヨーク)の自前の研究室がその舞台です。研究室は半地下にあり、決して快適なモノでは無かった様です。恵まれない環境でした。
しかし、ありえないような事が高峰と上中に起こります。

実験を開始して二日目に副腎髄質からの抽出物の結晶化(=アドレナリン抽出)に成功したのです。
『セレンディピティ(serendipity=求めずして思わぬ発見をする能力。 思いがけないものの発見。)』です。
科学的大発見には、『セレンディピティ』がつきものです。ペニシリンの発見でノーベル賞を受賞したフレミングも休暇中に細菌培養皿を間違って放置したらそこにカビが生えてペニシリンの発見につながります。(フレミングの『セレンディピティ』はそう伝えられていますが、実はもっとあり得ない事が起こっています。『セレンディピティ』の10乗くらいの事がおきています。これについては、またいつか書こうと思います)。

十分な準備と知識がある人にしか『セレンディピティ』は現れない

いずれにせよ世界中の科学者が探求して成し得なかった副腎髄質からの抽出物の精製に実験を初めて直ぐ成功したのですから凄い話です。
なんで?こんなに簡単にできたの??と思います。どの『セレンディピティ』もそうですが、十分な準備と知識がある人にしか『セレンディピティ』は現れません。現れても解らないからです。
そういう意味では高峰、上中には十分な下地がありました。

  1. 抽出物の検査方法(ブルピアン反応=抽出物が本当に副腎髄質由来かどうかを検証するための検査)について熟知していた
  2. パークデービス社には実験動物を使って薬の実験をする設備があった
  3. 長井長義伝来の物質抽出法を上中は熟知していた

などです。
1.2.があったので1900年7月21日に析出した結晶の検査が直ぐに出来たのです。
1900年11月5日には米国で特許を、1901年1月22日には英国で特許を申請しています。たった四ヶ月で特許を書き上げるだけの実験が出来てしまったのは驚異的です。他の研究者が「副腎髄質からの抽出物だと報告した物質」の1000倍から2000倍も強い活性を示していたので、皆、降参してしまいました。
栄光は高峰の下に訪れたのです。
冒頭の実験ノート(写真1、2)は、上中の菩提寺、兵庫県西宮市名塩の浄土真宗教行寺に残っています。
100年以上も前のノートです。そのノートどおりにすると副腎髄質からアドレナリンが抽出できることが証明されています。

因みに、かの「理研」は、高峰譲吉が発案して出来た研究所です。
アドレナリンは「ホルモン」がお薬として世界に踊りでた嚆矢です。ただし、1900年当時ホルモンという名前はありません。血液中の生理的活性物質をホルモンと命名されたのは1905年の話ですアドレナリンの発見が「ホルモン」研究のふたを開けたとも言えます。
それはさておき、高峰は死後に難癖を付けられます。高峰がアドレナリン合成に成功したのは実験方法をジョンホプキンス大学の研究室から盗みだしたと言う論文が出たのです。
そしてそれが米国では通ってしまったのです。
まったくヒドイ話です。

高峰に関する本は沢山あります。インターネットでもあること無いこと沢山書かれています。私が一番正しいと思っているというか、原典に当たっているのが「ホルモンハンター:アドレナリンの発見:石田 三雄 (著) :京都大学学術出版会 (2012/12/21)」です。これは名著です!是非ご一読ください。石田三雄氏は、英語、独語、仏語に堪能で、全ての原典に当たられていますので、この本が一番正しく書かれていると思います。COIなしです(笑)
「薬学の創成者たち:伊沢凡人(著)」も推薦します。この本には、当時生存していた上中さんに直接、話を聞いているのでとても価値があると思っています。

次回に続く。

望月吉彦先生

望月吉彦先生

所属学会
日本胸部外科学会
日本外科学会
日本循環器学会
日本心臓血管外科学会
出身大学
鳥取大学医学部
経歴
東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学)
獨協医科大学教授(外科学・胸部)
足利赤十字病院 心臓血管外科部長
エミリオ森口クリニック 診療部長
医療法人社団エミリオ森口 理事長
芝浦スリーワンクリニック 院長

医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階
TEL:03-6779-8181
URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/

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