望月吉彦先生
更新日:2021/02/01
前回より続きます。数年前のことです。古本屋さんで「慈恵医大の創始者、日本最初の医学博士、高木兼寬」と紹介されていた「めくり(注:紙だけ、表具なし)」が展示されていました。それには高木兼寬先生が書いた和歌が流麗な書体で書かれていました。幸い所持した金額で買えるくらいの値段でしたので購入しました(写真)。
このような感じで和紙に書かれた「書」が丸まって輪ゴムで閉じられていました。
この中に入っていた「書」を広げると、前回でも紹介した「書」が入っていましたが、なんて書いてあるのか良くわかりません。「なんとかの上」くらいは読めます。たまたま、私の患者さんに「骨董」や「書」に詳しい方がいらっしゃりこの和歌を解読して頂きました。
左が「書」、右は解読して頂いたものです。「謹書」とあるから高木先生本人の歌ではなく高木先生の上司か皇室の方が詠んだ歌を筆写したのだろうとのことでした。
この書について、その患者さんと知り合いだった栃木県足利市にある日本料理屋さん「文楽」の御主人岡田さんが色々と調べてくださいました。
その結果「明治天皇御集 明治神宮編纂(昭和39年刊)」の中にこの和歌が載っていることがわかりました。明治天皇陛下が明治37年に詠んだ和歌だったのです。明治天皇陛下は、その生涯で約10万首(正確には9万3032首)の和歌を作っています。そのうちの1つだったのです。
何回か声に出して読んでいるうちに、この歌の中に高木(たかき)兼寛先生の名前である「たかき」が入っていることに気づきました。
話は逸れます。
日清日露戦争による脚気による死者数を紹介します。高木先生が行った食事指導の結果は明らかでした。
結果は明らかだったのです。海軍は「麦飯」を食べ、陸軍は「白米」を食べていたのです。洋食ではなくて麦飯?と思う方も多いかもしれません。洋食は当時の兵隊さんに嫌われました。洋食だと費用もかかります。洋食から麦飯を主とした食事でも脚気に効果があることがわかり、高木先生は海軍の兵食は麦飯を基本としたモノに変更していたのです。
海軍、陸軍、医学界で論争が起きていました。陸軍、東大は脚気の原因は「脚気菌」であり、脚気菌に罹患して発症すると主張、高木兼寬の兵食改善には「学理がない」と糾弾します。日清日露戦争で明らかに結果が出ていても、森鷗外一派は白米に固執していたのです。酷い話です。
日本各地に少しだけ残っている日露戦争戦没者の忠魂碑の1つです。このような忠魂碑は軍国主義の象徴だとして太平洋戦争後、GHQの指示で多くが廃棄されましたが、少し残っているのです。
裏には戦没者の名前が記されています。時が経ち、名前もよくわかりません。
よく見ると戦没者のほとんどが陸軍の若い兵士です。一番身分の低い「陸軍二等卒」の方がほとんどです。この死者の7割は、海軍にいたなら死ななかった、「脚気」による死者です。それを思うと本当にかわいそうです。病気の診断、治療がいかに大切か、わかります。
和歌の話に戻ります。
私は明治天皇が高木先生のことをどう思っていたか、それがこの歌に現れていると私は思うのです。
明治天皇は「たかき」を入れた和歌を作り高木兼寛先生を褒め称えるだけでなく、
《高木を見習え》
と言っているのではないかと思うようになりました。
「雲の上に立ち栄えたる山松の高きにならへ人の心も」という和歌は、
「雲の上に立ち栄えたる様な業績を残した高木(たかき)を見習おうよ」
という寓意をこめて、明治天皇陛下が高木兼寛先生のみならず、陸軍に向かって詠んだ和歌ではないかと思うようになったのです。
吉村昭著「白い航跡」や松田誠先生の高木兼寬先生に関する著書、論文にもこの歌は紹介されていません。松田誠先生にこの書をお目にかけましたがこの和歌は知られていないそうです。明治天皇陛下が直接高木先生を褒め称えた言葉は残っていませんが、この和歌を見れば明治天皇陛下の高木兼寬先生に対する思いがわかるのではないかと思っています。
その後、この和歌が高木兼寬先生に向けられているという私の推測を裏付ける強力な傍証を入手しました。それは実物を見ないと誰も信じてくれない様な「本」です。
色々と調べると、明治天皇陛下は、生前、御自身の和歌が外に漏れることを禁じていたことが解りました。明治天皇陛下の和歌を添削、指導していた高崎正風(歌人、侍従、元薩摩藩士)が時々明治天皇陛下の和歌を新聞などに漏らすことがありそのたびに高崎は明治天皇陛下に叱責されていたそうです(文献1.2.)。
そういうことを知るにつけ、「雲の上~」の和歌も高木兼寛先生向けて作ったなどとは公表されなかったと思います。私は高木先生が「書」にして残しているくらいだから、この和歌は高木先生を褒め称えて作られたのだろうと思っていました。しかし、その私の仮説を確かめる「強力な傍証」を入手したのです。
明治天皇陛下崩御後「明治天皇御集」が編纂され、この中には明治天皇陛下が詠んだ歌の中から1687首が選ばれて出版されました。前回、今回で紹介している「雲の上~」の和歌も掲載されています。この御集で初めて一般人が明治天皇陛下の和歌を知ったのです。その後も明治天皇陛下の和歌は度々出版されています(文献3-8など)。色々な団体、色々な方が10万首の中から良いと思う和歌を選んで出版しているのです。たくさんあります。今でも明治神宮に行くと明治天皇陛下の和歌集(御製集)を購入することができます。
これまでに出版された明治天皇陛下の御製集の中で多分1番読まれたのが明治天皇陛下に殉じた乃木希典を顕彰する「乃木講」の方達が出版した「明治天皇御製百首」だと思います(写真1、この御集は大正6年が初版ですが、昭和7年事典で212版も版を重ねていたことがわかっています。参考文献8)。
私は偶然、「高木兼寛先生が所有」していた乃木講が編んだ「明治天皇御製百首」を入手しました(写真2)。ワイシャツの胸ポケットに入れられるくらいの小さな本です。
写真2には、「東京麻布東鳥居坂 男爵 高木兼寛」の印が押してあります。
高木先生は、鳥居坂に住んでいました。この中の7頁に「雲の上~たかきにならへ~」の和歌が載っています(写真3)。これをもってこの和歌が、明治天皇陛下から高木先生に向けられた和歌だと確実な証明はできませんが、強力な傍証になると思います。これを見つけた時、大げさで無く、感動というか手が震えました。
「明治天皇陛下が高木兼寛先生を褒め称えた(かもしれない)和歌」を紹介させていただきました。いつか「脚気論争」のこと、資生堂と高木兼寬先生の関係なども紹介したいと思います。
注1:御製:天皇や皇族が詠んだ詩歌、文書
注2::御集:御製を集めた本
注3:この和歌は、高木兼寛先生のことは別にしても、明治天皇陛下の作られた和歌の中でも特に素晴らしいとして様々な本で紹介されています。
「教育勅語と御製」亘理章三郎(著)、「公教育再生」 八木秀次(著)など
望月吉彦先生
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