望月吉彦先生
更新日:2023/10/16
最近(2023-10月)、COVID-19はなんとなく、収まっているような、収まっていないような感じです。当初の武漢からのビールスによるCOVID-19と今のオミクロンビールスによるCOVID-19とは随分違います。国によってもCOVID-19の重症度が違います。
このグラフは2022-03-20時点の100万人当たりのCOVID-19発症数です。
フランスや北欧の国々は概ね並んでいます。一方ワクチン接種を勧め強力な対策をとったとされる韓国はトンデモナイことになっています。インド、インドネシアなど一時人口辺りのCOVID-19死者数が激増した国々は発症数が激減しました。緩い規制、緩い検査体制の日本はというと発症数は半ば位です。色々な仮説が唱えられています。解析には数年、数十年かかるかもしれません。日本もきちんとしたデータを出して科学的な検証をすべきです。
話は変わります。
「新人医師は風邪に罹りやすい」と医師になったときに脅かされました。本当にその通りでした。救急病院の土日当直アルバイトに行き、多くの発熱患者さんを診療していると、月曜日火曜日頃に体調が悪くなるのです。辛かったです。感冒、風邪、インフルエンザに罹っていたのでしょう。若かったから、解熱剤をのんだりして休まずに働いていました。数年経つと救急病院でアルバイトをしても患者さんから風邪、感冒がうつらないようになりました。多分、様々なウイルス、細菌に対して「免疫」ができたのだと思います。コロナ禍の最中に医師になった方の様々なビールスに対する免疫能(どうやって測定するかは不明ですが)を検査して数年追えば面白い結果が出るかもしれません。
本論にはいります。
前回、小宮まゆみ氏が著した「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」という本にインドネシアから日本に連れてこられたオランダ人捕虜がいてその中に「アイントホーフェン」の名前を見いだしたことをお伝えしました。
一部抜粋して再掲します。
「オランダ人は、ジャワ島から連行抑留されたオランダ人電気技術者とその家族だった。W・アイントホーフェン博士はジャワ島バンドンの無線電信局で働いていた。1941年12月に太平洋戦争が勃発し彼らは日本軍に降伏、1943年11月、アイントホーフェンとその同僚は妻子とともに日本に送られることになった。」
とあります。前々回紹介した本橋均著「絃の影を追って:W. Einthoven の業績」の頁104にW. Einthovenは彼の第三子W.F. Einthovenと共に心電計の改良に努めたとあり、前々号で紹介しましたが、同書頁106に「第三子W.F. Einthovenは1945年3月の東京大空襲で亡くなった」とあります。
以下、わかりやすくするために
心電計を発明したアイントホーフェン医師(Willem Einthoven)を
“父アイントホーフェン”
その第三子(長男)の、電気技術者であり東京で亡くなったアイントホーフェン(Willem Frederik Einthoven, Jr.)を
“子アイントホーフェン”
と略します。
さて、この先どうやって東京で“子アイントホーフェン”がどのような生活をしていたのか、何が原因で床度お亡くなりになったのかを解明しようと思いました。解明には資料が必要です。2つ方法を考えつきました。
の2つです。最初に入手できたのは「日本電気ものがたり」でした。
立派な「函」に入っていました。
「日本電気ものがたり」は日本電気の社史です。日本電気は1899年(明治32年)に設立されています。この本が刊行されたのは1980年です。創業からの80年にわたる歴史が書かれています。元々日本電気はアメリカから電話を広めるために起こされた会社です。 電気通信関係のことを中心に多くの日本電気関係者が興味深いことを書き記しています。
それはともかく本稿と関係のある記述がいくつか見つかりました。“子アイントホーフェン”を始めとしたオランダ人電気技術者たちは神奈川県川崎市生田にある日本電気の生田研究所で仕事をさせられています。その生田の研究所は
「日本電気の小林正次さんが、1943年5月に訪欧した際、たまたまテレビを見ていた時に上空を飛行機が通り、飛行機が通ることによりテレビ画面が乱れたことから電波探知機開発のヒントを得て、日本電気研究所生田分所の建設が決まった」と書かれています。この研究所では電波探知機(略して電探)、つまりレーダーの研究を行っていたのです。
レーダーなどの兵器開発を行っていたこの研究所には1000人以上の日本電気社員が働いていたと書かれています。日本軍もレーダー開発に躍起だったことがわかります。昭和19年頃にあった研究所での出来事の中に私が知りたかったことが書かれていました(同書:頁157-159)。引用します。昭和19年日本電気生田研究所長だった大沢寿一さんという方が記しています。一部、解りやすくするため年号などを追記しています。
引用開始(注:下線は筆者)
「昭和19年から終戦までの一年の間のことですが、3人のオランダ人捕虜を生田の研究所で預かることになりました。なんでもジャワのバンドにあったオランダ国立電波研究所の所長と研究員ということでした。」
「外人の年齢はなかなかわからないものですが、所長のアイント・ベンという人は50歳をこえていたようでした。この三人を生田の研究所に連れて来たのは並木さんという陸軍大佐の担当官でした。その時私が心を打たれたのは、並木さんが捕虜に対する軍人という姿勢をまったく見せないばかりか言葉の端々にも相手に対する敬意と礼節を失わない態度だったことです。」
「急を要する電波兵器開発の細に役立てたいという考えで連れてこられたのですが我々にしてみれば敵国人を機密の作業につかせることはできません。3人のために別に1室を設けてそこで計算の仕事をしてもらいました。」
「並木大佐はその後も三人に面会するために幾度か来所したのですが敬意と親愛の情を持った接し方は初めと変わりませんでした。研究所の責任者が国際感覚と寛容さを兼ね備えた丹羽さんであったことも和やかな雰囲気を作った源だと思います。」
「3人のオランダ人は新宿から登戸まで小田急線できて稲田登戸の駅から生田の山道を歩いて通っていました。雨の中を歩く3人に誰からともなく傘が提供されたこともありました。」
「ところが3人のうちでは最年長だった方が病気になって終戦を待たずに亡くなりました。食糧難から来る体力不足と薬品欠乏のため十分な治療ができないことはその頃は常識でしたからこの死亡事故はやむを得ないものだったと思います。」
「戦後戦争犯罪の問題が起こりました。処罰された人もあると聞き、オランダ人捕虜の死亡事故で丹羽さんが責任を問われはしないかと心配したものです。」
「残された二人のうち一人は終戦の3,4年後に来日し、当時の生活を懐かしがって生田に来てくれました。彼はその頃ベル研究所の研究員になっていました。」
「戦争中の話となるととかく暗いものが多いのですが、並木大佐の誠実な態度と3人の捕虜の勤勉な仕事ぶりを通じて、
《人間はどんな時にも誠意をもって人間として正直に生きることが大切だ》
ということをつくづく感じさせられました。」
文中に「アイント・ベン」とありますが、これは「Einthoven」を英語読みしたのでしょう。このように「日本電気ものがたり」からも“子アイントホーフェン”が神奈川県川崎市生田にあった日本電気研究所で働いていたことが確かめられました。
本論とは関係ないですが、
《並木さんという陸軍大佐が捕虜対する軍人という姿勢をまったく見せないばかりか、言葉の端々にも相手に対する敬意と礼節を失わない態度をとった》
《雨の中を歩く3人に誰からともなく傘が提供された》
などの記述から「真っ当な」日本人もいたことがわかります。
さて、日本電気ものがたりを読み終わった頃、小宮まゆみ氏より資料提供の連絡がありました。まさに求めていたモノがそこにありました。長い間、探し求めていた資料そのものでした。ありがたい話です。何事もやってみないと解らないですね。
以下、次回へ続く。
いつかお読みください(再掲)。
心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/
望月吉彦先生
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