望月吉彦先生
更新日:2024/06/24
この論考「記録を残す、論文を書く」とは少し離れますが、今回は前々回ご紹介した戦時下の聖路加国際病院にて子アイントホーフェン一家の診察を行った池田泰雄先生のこと及び池田泰雄先生と故日野原重明先生との深い関係などを紹介します(12.)。
前回、心電計の開発、発明でノーベル賞を受賞した“父アイントホーフェン”に会ったことがある「池田泰雄」医師が戦争末期の聖路加国際病院に在籍、“子アイントホーフェン”の診療に当たったことやその診察室に“父アイントホーフェン”の写真が掲げられていたことを紹介しました(注:聖路加国際病院は、昭和18年に、大東亜中央病院と改称されています。戦後直ちに元の名前に戻っています)。
池田泰雄医師のことを調べたところ、「聖路加国際病院の100 年」 14)に 1939年同院に勤務していた医師の名簿が載っており、その中に「第2内科医長 池田泰雄」とあります。
色々と調べたところ、1898年東京帝国大学医学部から「池田泰雄」名で医学博士号が授与されていることがわかりました。その学位が記載されている官報 15)です。池田泰雄先生の箇所だけ拡大します。
話は逸れますが、この学位記は「大蔵省印刷局編:官報 1921年08月27日」からの引用です。大蔵省印刷局が編集していたのでしょう。
この学位記から察するに、池田先生は東京帝国大学医学部出身でしょう。
戦後、米軍が作った資料16)の中にも、聖路加国際病院に勤務する IKEDA Yasuo の名前を認めます。
この本の579頁に「Ikeda Yasuo」とあります。ちなみに、この本はアメリカ軍が作ったアメリカ人が東京で生活するためのガイドブックです。かなり細々としたことまで書かれています。英語ができる医師もリストアップされていて、その中に以下のような記述があることを発見しました。
「IKEDA Yasuo 医師は 1914 年までドイツに留学し、その後アメリカでも学んだ」と記されています。
池田泰雄先生はドイツ、アメリカに留学したと書かれています。留学時代の事を池田先生が何か書き残していないか探しましたが、見つかりませんでした。1914年、第一次世界大戦がはじまっています。同年8月23日、日本はドイツに宣戦布告していますから、ドイツでの留学生活は、思う様に行かなかった可能性が高いと思います。その辺りの事を記した資料が見つかりました。
1914年発行の神経学雑誌に第一次世界大戦に巻き込まれて進退きわまっている留学生の中に「池田泰雄」の記述があります。残念ながら、これ以上のことはわかりませんでした。池田泰雄先生が“父アイントホーフェン”に面会した時のこと、あるいは“子アイントホーフェン”を診察したことなどを書いた文献や記録があればと思い探しましたが、そのような資料を見つけることはできませんでした。父子アイントホーフェンのサインが入った肖像写真の行方にも興味があるのですが、こちらも不明です。
しかし、論文に「池田泰雄先生のことなど、ご存じの方がいらっしゃればご教示いただければ幸いである」と記したおかげで、戦後の池田泰雄先生のことがわかりました。
ご親族の方(土倉英資様)からメールを頂いたのです。ありがたいことです。そのメールを紹介します。
突然のメール、失礼致します。
貴「心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察」を偶然拝見しました。私は、池田泰雄の連れ合い(池田やま)の妹の子供でございます。伯母は後妻であります(先妻は病死)。伯父泰雄は東京帝国大学医学部の出身で間違いありません。家族は、先妻との間に息子一人(泰矩:やすのり)と二人?の娘がありました。息子は、外科医になり歯科医師と結婚しましたが、早逝してしまいました。その後は、伯母と二人睦まじく暮らしておりました。
聖路加在籍中のことはよく存じません。後に横浜・山手町に居所を定め、長らく伯父は横浜・山手病院に務め、伯母はフェリス女学院大・関東学院大で教鞭をとっておりました。二人とも職住近接でした。私も折に触れて父母などと、自宅を訪問したりしました。伯父は自身の専門外のことに非常に意識が高く、よく父が質問責めにあっておりました。穏やかで優しい人でした。夫婦で近所の、放火で有名になった聖公会の信徒でありました。自宅は、その後に相続をした伯母の弟(母の兄)により教会に遺贈され、聖公会の施設「祈りの家」となっております。
さて、本題でございます。
日野原重明氏の著書の一つの中にこんな記述がありました。望月様のお知りになりたいことには程遠いとは存じますが、それでも些かの手掛かりになればと失礼乍ご紹介致します。
尚、伯父・伯母の生年没年は次の通りです。
池田泰雄 生 1885年(明治)18.09.07 没 1980年(昭和)55.3.30
池田やま 生 1902年(明治)35.5.28 没 1992年(平成)4.3.8
青山墓地に眠っております。
土倉英資
戦後、池田泰雄先生は「横浜・山手病院に勤め」とあります。戦後もお元気で活躍していたのです。なお、この方のメールにも書いてありますが、あの日野原重明先生と池田泰雄先生との重要な関係があることがわかりました。自分でも「誰も知らない?日野原重明先生の姿」というコラムを書いて、日野原先生のことは調べたつもりだったのですが、迂闊にも忘れていました。私が所蔵している日野原先生の本「幸福な偶然をつかまえる(光文社:2005年)」にも同様な記載がありました。そう思って調べなおしたら、日野原重明先生が池田泰雄先生について記している本が複数ありました。両先生の関係がよくわかる箇所を引用します。複数の本からの引用です。
****** 日野原重明先生のご著書から引用開始 ******
私(注:日野原先生)は京大YMCAの寮にいたし、長く学生YMCA運動にかかわっていたでしょう。そこへYMCA同盟の総主事の斎藤惣一先生が京都に来られて、「同級生の池田泰雄医長が聖路加で心臓病を専攻している若い医者を求めている。君は心臓病を研究中だそうだが、東京に行かないか」とお誘いがあった。
聖路加国際病院からの話は、そんな時に舞い込んで来ました。聖路加の内科にドイツ語と英語が堪能で外国人の患者を多く診ている池田泰雄先生と、民間では日本で初めて心電図を使用し日本語で不整脈の本を出版した橋本寛敏先生とがおられることは、「実験医報」という病院の臨床医学の雑誌の記事でよく知っていました。 この二人の医長は、東大の稲田龍吉内科教授らと対等に討議しています。そんな記事を読んで、私はこんな病院だったら就職したいと思ったのです。
外国人には心臓疾患を持つ患者が多かったにもかかわらず、池田医長の配下には心臓に明るい医師がいなかった。池田医長は自分の配下に心臓の専門医がほしい、とクリスチャン学生に接することの多いYMCAの斉藤先生に話していたのです。
斉藤先生に聖路加赴任の話をいただくまで、私の人生の選択肢に聖路加は全くありませんでした。話をいただいてから、ほかの医学雑誌で、聖路加では東大定年後に来られた内科の稲田龍吉先生、塩田広重教授先生、そしてロックフェラー財団の第一回フェローとして東大卒業後アメリカに留学された橋本寛敏先生などが出席するカンファレンスをやっているという記事を、強い関心をもって読みました。この記事を読んで、京大閥をはなれ、箱根の山を越える決心を固めました。
「東京へ行く」
****** 引用終了 ******
つまり、池田泰雄先生が「心臓病を専攻している若い医者を求めた」ことが発端で、京都大学にいた日野原重明先生が東京の聖路加国際病院に移ったのです。当時は京都大学から東京の民間病院への就職など考えられなかった時代です。日野原先生は、戦後、長く聖路加国際病院は元より、日本の医療に深く広く関わり、最晩年まで大活躍なさいました。その元は池田泰雄先生だったのです。人のつながりとは何か? 運とは何か? 色々なことを考えさせられます。
次回続く。
いつかお読みください(再掲)。
心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/
望月吉彦先生
医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階
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