疾患・特集

167:恩師:新井達太先生 追悼(望月吉彦先生) - ドクターズコラム

大人の健康情報

望月吉彦先生

更新日:2022/11/21

少し悲しいお知らせがあります。恩師、新井達太先生が2022年9月15日、逝去されました。
先生は日本の心臓外科学を牽引してきた泰斗です。私は臓外科医を志した時から、医学(心臓血管外科学)のことのみならず、様々の大切なことを先生にお教え頂きました。以下、先生の業績、先生に教わったことなどを紹介いたします。

新井先生は、

「世界的業績が多数」

  • A型単心室の根治術に世界で初めて成功
  • 日本製人工弁(SAM弁)の開発に成功、多くの患者さんに使われました。臨床応用された日本製人工弁はこの弁だけです。大阪万博の際、未来に残す医療器具の1つに選ばれ(他は聴診器、ファイバースコープ、人工血管)、大阪城の地下に納められ5000年後に開けられることになっているそうです。
    ※SAM:Sは榊原仟先生 Aは新井達太先生 Mは人工弁を製造したMERA社(泉工医科工業))の頭文字から名付けられています。
  • ある種の大血管転位症に対する手術法を開発し、実験をおこないその成果を世界で初めて報告。後にこの手術方法は「標準術式」となります。

等々、多くの業績があります。先生は母校である東京慈恵会医科大学を卒業後、東京女子医科大学心臓血圧研究所にて故榊原仟先生の元で心臓外科の研鑽を積み、上記のような世界的業績を挙げ、母校東京慈恵会医科大学の初代心臓外科主任教授として迎えられました。人工臓器学会長、胸部外科学会長を歴任、日本の心臓外科の発展に大きな功績を残しました。慈恵医大退職後は故郷埼玉県の埼玉県立循環器・呼吸器病センター初代総長となり、埼玉県の医療に多大な貢献をなさいました。

「勉強熱心」

先生は勉強熱心で学会に行くといつも最前列で講演を熱心に聞いていました。先生は「心疾患の診断と手術(南江堂)」という日本を代表する心臓外科の教科書を単著として執筆していましたので、この教科書を適宜更新するために新しい知見の収集に余念がありませんでした。それ故にこの教科書は多くの心臓外科医のバイブルとなっていました。

「学会発表やスピーチが上手」

コロナ禍前、先生は多くの学会でスピーチを頼まれていました。そのスピーチですがいつもきっちりと時間通りに終わるので有名でした(3分、5分、10分etc. 頼まれた時間通りに終わっていました)。
だらだらと長く、いつ終わるとも知れないスピーチを聞くことが多い中で、新井先生のスピーチ時間、スピーチ内容も際立っていました(後にスピーチ内容と時間は奥様が、厳しくチェックしていたと伺いました)。そんな先生ですから、もちろん、学会での講演や発表もきっちりと時間通りに終わっていました。1つの「芸」と言っても過言ではないと思います。また、声を出す練習(合唱など)をなさっていて、いつもよく通る美声で発表をなさっていました。

「学会発表の指導は厳しい」

そんな先生ですから我々が学会発表をする際には厳しいチェックがありました。発表時間を厳守することが基本であり、医局での学会リハーサルで発表時間を超過すると叱られました。時間を守るためには「発表原稿を書いてそれを覚えてくるように」そしてその「原稿を見ないで発表ができるように」指導されていました。厳しい指導でした。言葉遣い、発声の仕方(もごもご言わないで口調をはっきり)の指導もしていました。そういうわけで学会発表よりも医局でのリハーサルの方が厳しかったです。今、思うと「折角発表するのだから、心地よく聞いてもらう」「発表が聴衆に伝わる」ようにとの心遣いだったと思います。
後に独り立ちしてから、多くの学会で発表をしましたが、お教え頂いた通りに原稿は諳んじるまで読み込んでから発表をしました。

「手術が早く、正確」

手術の早さ、正確さは、言葉で伝えることができないくらい凄かったです。とにかく手術が早くスムーズに進むのです。卒業して1-2年目の頃は、その凄さが解りませんでした。しかし、第2、第3助手として段々と手術に参加するようになりその手術に圧倒されました。手術器具の用い方、手さばき、手術用鋏の使い方、糸のかけ方、手術の進め方は言葉には表せないほどスピーディー且つ正確でした。

難しい箇所への針糸をかける時も軽々と運針が進みます。優雅でした。この辺りの技量を伝えることは、言葉では難しいです。段々と手術を覚え、色々な先生と手術をするようになると、メスの持ち方、鋏の使い方、鑷子の使い方、体の使い方で「上手いか下手か」が直ぐにわかる様になりました。手術が上手な外科医は「所作が様になっている」のです。新井先生は、その所作が様になっているのはもちろん、優雅でした。卒業後、新井先生の下で手術を勉強することができたのは私にとって生涯の僥倖でした。

「とても親切でした」

私は、少しでも、新井先生の手術技量に近づきたく先生に直接、色々な質問をしました。今、思うと汗顔の至りですが、ちょっとしたことでも嫌がらずに教えくださいました。手術にはその「ちょっとしたこと」が大切なのです。「新井先生に質問をする」のが実は大変でした。はっきり言って「怖かった」のです。新井先生は、手術が始まると、ほぼ無言でした。

無言のうちにどんどん手術が進みます。手術担当看護師さんも数名は専属でした(今ではあり得ないです)ので、新井先生が手術機械を看護師さんに返すと次に使う手術器具が、次から次に出てきます。そういうわけで、手術が、どんどん進みます。声を交わすのは人工心肺のオンオフの時などに限られています。手術助手の先生も手慣れているので、手術に遅滞がありません。凄い時代でした。

そんな先生ですから気やすく質問することなどできませんでした。しかし、そんなことを言っていると何時まで立っても手術は上達しません。1度、勇を鼓して質問すると気さくに答えてくれました。それからは色々と質問させて頂きました。そういうことがあってから幾星霜、病院は移っても手術の指導にお越し頂き、みっちりと手術指導をして頂いたこともあります。

「迷ったら1番厳しい道をとるべき。それがおおむね正しい」

大きな手術の最中、滅多に無いのですが、時に迷うことがあります。そういう時は「厳しく辛い道が正しいことが多い」「人間は易きに流れることが多い。易きに流れると間違う」。そういうことをいつも仰っていました。

「様々な文章を書くことを好みました」

忙しい先生でしたが、公職を退任後時間がとれるようになり、シミック社の運営するサイトでコラムを連載することが決まりました。先生は、常々「生涯で経験したことを書き残したい」と仰っていたので、丁度良いタイミングでした。

何事にも「時機」が大切ですね。先生はすでに多くの教科書や随筆集も出版されていました。シミック社での連載コラムも文章が上手で、内容も多岐にわたっています。初出の話が多く、毎号楽しみに読ませて頂いていました。毎月毎月、2000-5000文字のコラムを送ってくださいました。もう読めないと思うと寂しいです。これを機会に皆様にも読んで頂ければと思います。

最後のコラムは新井先生の恩師である「榊原仟先生」のことが記されています。今頃、恩師と天国で語らっていることと思います(参照記事:第71話 —心臓外科の恩師・榊原 仟(シゲル)先生—【part3】)。これが最後かと思うと、とても、寂しいです。

「新井先生の大きな悔い」

新井先生、外科医の生涯で唯一の大きな悔いがあり、その「悔い」について色々なところで話したり、文章にして残しています
それは新しい手術法に関することです。先生は大血管転位症の新しい手術法を考案、実験も行いました。

【新井先生談】
「この実験結果を『弁付きhomograftを用いた右心室- 肺動脈,左心室-肺動脈,左心室 - 大動脈bypassの実験的研究」』と題し総動脈幹症,大血管転移症の臨床に応用できると1964年の第17回日本胸部外科学会にて発表しました。その翌年の1965年,英文で『Bulletin of the Heart Institute, Japan』(女子医大) と、和文で1966年に『胸部外科』 (南江堂)に発表しました。」

「私はSAM弁の臨床成績を報告するために,第15回国際心臓血管学会 (Atlantic City,1967年) に行きました。外国に行くのはその時が初めてでした。その学会の第1席が, Mayo ClinicのRastelli先生の報告でした。 パッと映し出されたスライドの写真を見て私はびっくり仰天しました。それは私が3年前に報告した, 弁付きのhomograft を使って右心室から肺動脈にバイパスした実験内容と全く同じでした。 なぜ3年も経った今ごろ国際学会で報告されるのだろうと虚をつかれた感じでした。」

「英文にはしていたが、世界中で読まれるような雑誌では無かったから、私(新井先生)が3年も先に論文にしていた手術法が今では『Rastelliの手術』となってしまった。それが、かえすがえすも、残念である。」

と仰り、

「何か大きな発見や手術法を思いついたら、一流の英文雑誌に投稿しなさい。」

とことある度に仰っていました。それを聞いていたので私も一流の英文雑誌に数編の論文を載せることができました。臨床外科医が仕事の合間に英文論文を書くのは結構大変です(参照:「論文を書く」ということ(1))。

今、グーグルスカラー(Google Scholar)で自分の論文がどれだけ引用されているかを知ることができます。私が書いた論文もかなり有名な外科医の論文に引用されていることや欧米の教科書に引用されていることがわかります。嬉しい話です。これも「英語で頑張って書いた」からです。

「新井先生の生きがい」

お亡くなりになってから、新井先生の娘さんからメールを頂きました。

“望月先生からコラムのお話をいただき、父は生き甲斐を見つけました。ほとんど1日中2階の書斎に籠ってコラム作成をしておりました。緊急入院する2週間前からは2階へ上がることができなくなっていたのですが、なぜか緊急搬送された日に母と私が家にいない状態の時に2階に上がりコラムを作成していました。きっと、そろそろコラムを提出する時期だと思ったのだと思います。父が緊急搬送されたときに書いていたコラムが残っていました。本当に書いていた途中で苦しくなった、という感じです。”

“パソコンの横に張り紙がしており、今後シミックのコラムで書きたいと思っている内容が番号をつけて25近く記載されており、その下にはシミックの担当者の○崎さんの電話番号が記載されています。そして、先生からのコラムを読んでの感想が記載されたメールをプリントアウトして貼付けてあります。
本当にこのコラム執筆が父の生き甲斐だったと思います。ネットで調べるのみならず、YouTubeを見たり、書籍を購入したりしていました。”

89歳から96歳までPCを用いてコラムを書いていたのです。凄いことだと思います。90歳を越えて、きちんとした文章を定期的に書ける方は多く無いと思います。

今、「生きがい」が話題となっていますが、恩師である新井先生にコラムを書くように頼んだ私も恩師の晩年の「生きがい」に関与できたかと思うと、少し、恩返しができたかと思っています。

今年頂いた最後の年賀状です。先生は敬虔なクリスチャンでしたので、毎年、聖書の言葉を年賀状で紹介していました。最後の年賀状は、
「常に喜べ 絶えず祈れ 全てのこと感謝せよ」とありました。

新井達太先生最後の年賀状

新井達太先生が最後まで書いていたコラムです。文章が上手で、とても読みやすいです。ぜひ、お読みください。
新井 達太 先生のコラム一覧

【参考文献】

  • 新井達太著  「心疾患の診断と手術」南江堂(1974年 刊)
  • 新井達太編著 「心臓外科」医学書院(2005/11/1刊)
  • 新井達太編著 「心臓弁膜症の外科」医学書院(2007/11/1刊)
  • 新井達太著 「この道を喜び歩む」幻冬舎(2018/3/2刊)
  • 新井達太著  「外科医の祈り」メディカルトリビューン(2001/10/1刊)

紹介しきれないくらい多くの論文、業績があります。
このうち、2.と3.は私も一部書かせて頂きました。
3.の「心臓弁膜症の外科」は、現在アマゾンで10万円!近い値段で取引されています。名著です。

余話:

あるとき、「病院の警備員がお前(望月)と○○先生は何時も早く来て、遅く帰ると褒めていた」と仰ってくださいました。その警備員の方は新井先生が手術をした患者さんでした。

望月吉彦先生

望月吉彦先生

所属学会
日本胸部外科学会
日本外科学会
日本循環器学会
日本心臓血管外科学会
出身大学
鳥取大学医学部
経歴
東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学)
獨協医科大学教授(外科学・胸部)
足利赤十字病院 心臓血管外科部長
エミリオ森口クリニック 診療部長
医療法人社団エミリオ森口 理事長
芝浦スリーワンクリニック 院長

医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階
TEL:03-6779-8181
URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/

※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。