望月吉彦先生
更新日:2020/07/27
前回より続きます。
1854年8月のロンドン、ソーホー街でのコレラを収束させたスノー医師とホワイトヘッド副牧師の話です。
最初にスノー医師を紹介します。
スノー医師は、45年という短い人生で多種多様なことを成し遂げています。苦労人というか、たたき上げです。いわゆるエリートではありません。
スノー医師は、ヨークシャーの労働者の長男として生まれます。14歳の時にニューカッスル・アボン・タインの外科医に弟子入りします、この外科医修行中に1831年のイギリスコレラ禍を体験。コレラを研究する契機になったとされています。
当時のイギリスで「医師」になるには3つの方法がありました。
の3つです。もちろん3.が一番良いのですが、簡単では無いです。費用もかかります。
スノーは最初に外科医に弟子入り、次に2.を選択、ハンテリアン医学校に進学「薬剤師」と「外科医」の資格を得て、ロンドンでクリニックを開業します。彼は無口で愛想も悪かったのですが、病気の観察力には優れたものがあり、患者さんが多く訪れるようになり、経済的に成功します。
彼はそれだけでは収まらず、26歳から医学論文を書き始め、最初の論文は「LANCET」に掲載されています。以後、10年にわたり毎年平均5編の論文を投稿しています。天然痘、血管病、猩紅熱など内容は多岐にわたっていました。さらに上を目指し、30歳にしてロンドン大学で「医学士」の学位を取得、翌年難関の「医学博士試験」に合格しています。念願の「内科医」の資格を得たのです。1844年のことです。
普通ならここで終わりですが、彼は更に別なことにチャレンジします。それは「麻酔」です。
麻酔は色々とその創始者について言われています。歯科医師であるホーレス・ウェルズ、歯科医師であるウィリアム・T・G・モートン及び、医師のロングです。加えれば、日本人医師華岡青洲も創始者かもしれません。ここでは深入りしません。論文で確かめられるのはクロウフォード・ウィリアムソン・ロング(Crawford Williamson Long、1815年-1878年)です。彼が世界で最初に全身麻酔を行っています。1842年3月30日のことです。ジョージア州ジェファーソンという街でのことです。患者ジェイムズ・M・ベナブルの頸部腫瘤を、エーテルガスを用いた全身麻酔を行って、ロングは切除しました。そのことを後に論文にしています。
その後、エーテル、笑気、クロロホルムなどが「全身麻酔」に使われるようになりました。その全身麻酔の創始期にスノー医師は居合わせたのです。ガスによる全身麻酔は、今でも何故「効くのか」わかっていません。不思議な話です。
それはともかく、当時、様々なガスによる全身麻酔が最初はアメリカから、そして世界中に広まります。そういう時代にスノー医師は「全身麻酔」を積極的に取り入れました。当時、エーテル、笑気、クロロホルムなどのガスが使われましたが、どういう濃度のガスを使えば効果的か不明でした。スノー医師はこの濃度を研究したのです。
スノー医師がなした麻酔学への貢献を挙げます。
そしてエーテルやクロロホルムも使用した麻酔を英国に広めます。ついには当時のビクトリア女王の出産の麻酔を依頼されるようにまでなっています。凄いですね。
彼は麻酔に関する実験は全て自分を使っていました。自分で自分に麻酔をかけています。危ないですね。彼は自宅に動物をたくさん飼っていました。動物を使って実験し、自分にも様々な濃度の麻酔をかけて、どれくらいで麻酔が効くか、その持続時間はどれくらいか調べていたのですね。意識が無くなる直前に時間を記し、意識が戻った時間を記し、どういう麻酔が1番効くか実験していたのです。彼の学んだハンテリアン医学校の創始者、ジョン・ハンターに似ています。というか、ハンターの教えを忠実に守ったのでしょう。
普通の医師なら、王室に出入りできるようになったら、それで満足します。しかし、彼は満足しません。今度は、徒弟時代に経験した「コレラ」を研究することにしたのです。スノーは「多能」で「勤勉」でした。スノー医師の多能さがロンドン市民を救うことになったのです。
スノー医師が行ったのはコレラの「実地調査」と「統計調査」です。
「実地調査」とはコレラの流行った地域、場所を調べること、その場所の「水道、下水道、ゴミ、etc. 」の状態を調べることです。
「統計調査」とは、コレラの発症人数、多発する地域、多発する季節などを調べることを指します。
ここでも「記録」が物を言います。ロンドンにはそういう調査記録があったのです。
それを分析し、どうやらコレラ患者はロンドン市の南には少ないこと、空気の良い上流階級が住む高地でもコレラが発症することなどから「コレラは水を介して伝染する」と気づき、そのことを1849年に「コレラの伝播様式について」という論文にし、自費出版しています。
麻酔医として働きながらの研究です。凄いことだと思います。元々は「外科医」でそれから「内科医」となり、世界初の「麻酔科専門医」となり、麻酔科医としてとても忙しく働きながら、夜には時間を作ってコレラの研究も行っていたのです。「二兎を追う者は一兎をも得ず」と言いますが、彼には当てはまらなかったのです。
この論文から5年が経った、1854年、ロンドン、ソーホー街でコレラが流行り始めます。
最初は1854年8月28日、午前6時、ソーホーブロードストリート40番地に住むルイス家の赤ん坊が嘔吐と下痢をし始めたのが、コレラの始まりでした。汚れたおしめを洗った水をブロードストリートにある「汚水溜め」に流したのです。こういう「記録」が残っていたのです。この赤ん坊から始まるロンドンソーホー街のコレラの発症状態、発症場所、発症した家族の状態などが記録されていたのです。後にこれが役立ちます。
さて、話は戻ります。
ソーホー街はスノー医師のクリニックのすぐ側です。当然、スノー医師はこれらの「実地調査」を行います。彼の予想に反して、ソーホー街で使っている水はきれいでした。スノー医師も「あれ?おかしい? 水はきれいだ?」と思ったことでしょう。ソーホー街で使われている井戸水を自宅研究所に持ち帰り、顕微鏡で見たりもしていますが、何もわかりませんでした。
しかし、ソーホー街にあったある井戸Q(仮称)に彼は注目します。
などがスノー医師には解ったのです。もとより「コレラは水を介して伝染する」と主張していたスノー医師は、ソーホー街の教区役員会に「井戸Qの使用禁止、井戸Qの閉鎖」を提案。
1854年9月8日、この井戸Qは閉鎖され、使われなくなったのです。
その後、ソーホー街でのコレラ患者は激減したでしょうか?それとも逆に増えたのでしょうか?
ホワイトヘッド副牧師の役割はなんだったのでしょう。
以下、次回へ続く。。長くなり、申し訳ないです。
望月吉彦先生
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