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082:コロンブスが持ち帰ったとされる病気「梅毒」にご注意を! 人間到る処バイキンあり(14)(望月吉彦先生) - ドクターズコラム

メディカルコラム

望月吉彦先生

更新日:2018/03/19

前回、第二次世界大戦が終わり日本に米軍が進駐し、その米軍の間に広まった性病治療にペニシリンが大量に使われたことを紹介しました。性病とは性行為により感染する病気で、その代表格が「梅毒」です。ペニシリンをはじめとした抗生物質が広く使われるようになり、この病気はかなり下火になっていました。しかし、ここ数年、急増しています。
数年前から、新聞、TVなどで、梅毒が急増しているとの報道を度々見聞きするようになりました。例えば、

などです。
多数の報道があります。ここ数年、「指数関数的に」と言っても過言では無いほど「梅毒に罹患する方」が増えています。梅毒は、日本では感染症法における「5類届出伝染病」ですから、診断がついたら保健所にその旨を届け出る義務があります
その梅毒の届出数が5,000人を越えているのです。実際の患者数は未治療、未診断、無自覚、無届けなどがあり、その10倍や20倍あるいはもっと多いかもしれません。

図1:梅毒患者報告数の年次推移(厚労省「感染症発生動向調査」より)
図1:梅毒患者報告数の年次推移
(厚労省「感染症発生動向調査」より ※平成29年は速報値)

コロンブスが持ち帰ったとされる病気

アメリカ大陸の「風土病」だったとされる梅毒は、1493年のコロンブスがアメリカを「発見」したことに伴い、ヨーロッパ中に猛烈な勢いで伝播したとされています。性病予防を行わない男女間の通常の性行為におけるHIV感染率は0.1%程度ですが、梅毒は10%程度と推定されています。つまり同じことをしても梅毒の方が100倍感染しやすいのです。HIVはキスでは感染しませんが、梅毒はキスでも感染します。それくらい梅毒は感染力が強いので世界中にあっという間に広まったのでしょう。

コロンブスと一緒に「アメリカ」まで行った水夫の一人、Juan de Moguer(ファン・デ・モゲール)は、スペインに帰国後典型的な梅毒症状が出現し2年の経過で大動脈瘤破裂により亡くなったとされています。死ぬ直前には進行性麻痺(痴呆)が出現し、英雄だった彼は、悲惨な最後を送っています。 ちなみに、Moguerはモゲールという地名です。Moguer町は優秀な船乗りを数多く輩出していました。Juan de Moguer(ファン・デ・モゲール)は「モゲール町のJuan(ファン)」さんくらいの意味でしょう。コロンブスの航海にはJuanという名前の水夫が8名もいたので、地名で区別をしていたのでしょう。梅毒は後に「鼻がもげる」病気としても有名になります。その病気にヨーロッパで最初に罹ったのが「モゲール町」出身です。日本人にしかわかりませんが、奇遇です。それはともかく、あっという間に梅毒はヨーロッパ中に広まりました。

ポルトガルの探検家、バスコダガマが1498年、インドに到達しインドにも広がります。バスコダガマご一行様は病気も広めてしまったのです。インドから、東南アジア、中国へ、そしてついに、1510年頃(室町時代です)日本に到達します。梅毒は元々日本には無かった病気です。平安時代、鎌倉時代、室町時代初期には梅毒を思わせるような記録や文献が一切ありません。その梅毒は1510年頃、日本にも伝わり(倭寇が中国から持ち帰ったらしい?)、あっという間に日本中に広まります。
なぜ、そんなことがわかるかというと、京都に住んでいた医師「竹田秀慶」が1512年に書いた「月海録」に「唐瘡:とうそう、唐の国から伝来した病気の意」や「琉球瘡:りゅうきゅうそう、琉球伝来の病気の意」という名前で、梅毒にそっくりな症状を持った患者さんのことを記しているからです。それまで目にしたことが無かった病気ですから、竹田秀慶医師は詳細な記録を残したのでしょう。こういう病気の記録があると色々なことがわかります。記録することは大切です。「月海録」以降、「梅毒」を思わせる所見を書いた文章や梅毒における皮疹の図が無数、記録され残っています。1512年に京都で患者さんが見つかっているということは、おそらくその数年前に、日本のどこかに伝わっていたのですね。鉄砲伝来が1543年ですから、それよりも30年前に、新大陸の病気が極東の日本まで到達したのですね。コロンブスの航海が1493年ですから、地球をぐるりと回って、日本に来るまで10数年しかかからなかったとも言えます。
当時は、治療方法も診断方法も無い病気ですから、罹った人はもちろん、医師も苦労します。杉田玄白が晩年に書いた「形影夜話」には「毎年1000人位の患者さんの治療をしたが、そのうち7-800人くらいは梅毒だった。医師として、数万の梅毒患者を診たが、治療の手立てがなかった」と嘆いています。江戸時代に埋葬された骨の研究者は「江戸時代、その人口の約半分は梅毒に感染していた」だろうと推測しています。それくらい広まっていたのですね。

梅毒の原因菌が判明したのは1905年です。ベルリン大学の細菌学者「フリッツ・リヒャルト・シャウディン(Fritz Richard Schaudinn)」とベルリン大学付属シャリテ病院(今もヨーロッパ最大の病院)の皮膚科医Eric Hoffmnn(ホフマン)が梅毒患者の硬性下疳(患部に出来る数cmの硬いしこりにできる潰瘍)からの浸出液中にらせん状の菌(スピロヘータの一種である梅毒トレポネーマ (Treponema pallidum))を発見したのです。 野口英世が梅毒トレポネーマの発見者だと勘違いされている方がいます。野口英世は、死亡した進行性麻痺(痴呆)を発症して亡くなった梅毒患者さんの脳の中に梅毒トレポネーマを発見し、梅毒末期に生じる進行性麻痺(末期梅毒による痴呆)の原因が「梅毒トレポネーマ」であることを証明したのです。これは、「病原菌が痴呆という精神疾患を生じさせることを世界で初めて報告した」野口の素晴らしい業績です。
野口は、梅毒トレポネーマの培養にも成功したという論文を書いていますが、今に至るまで追試に成功していません。こちらの発見は、おそらく間違いだったのでしょう。

それはともかく、梅毒トレポネーマが発見されるまで、梅毒の治療というと、日本でも欧米でも「お祈りをする」か、「加持祈祷をする」くらいしか「手立て」が無かったのです。1905年に原因菌がわかっても治療方法は、なかなかわかりませんでした。しかし、オーストリア人医師ユリウス・ワーグナー=ヤウレック(Julius Wagner-Jauregg: 1857-1940年)は画期的治療法を発見しました。進行した梅毒患者に、マラリアを感染させるという治療です。ヤウレック医師が診ていた「進行した梅毒患者さん」が、マラリアに罹患したところ、梅毒によると思われる症状が軽快したのを見逃さなかったのが、この治療発見の元です。
色々な研究で梅毒トレポネーマは41度で死滅することもわかりました。マラリアによる発熱(多くは42度を越える高熱を発する)で、梅毒トレポネーマが死滅させるという「肉を切らせて骨を断つ」ような治療です。多くの梅毒患者さんにこの「マラリア感染治療」が行われ、効果が認められました。その功績に対して1927年のノーベル医科生理学賞が授与されました。当たり前ですが梅毒は治ったけれどマラリアで死亡してしまう人も多く、勿論、今では行われません。こんなに危うい治療でも「ノーベル賞」が授与されるくらいですから、ペニシリン発見以前には、この病気がいかに人類の脅威だったかがわかります。
この「マラリア感染療法」とほぼ同時期の1910年、医師であり細菌学者であった秦佐八郎とドイツの細菌学者エールリッヒが、ヒ素から梅毒特効薬の「サルバルサン」の開発に成功します。これがいわゆる「化学療法」治療薬第一号です。こちらの方が、本来、ノーベル賞に値すると思います。しかし、サルバルサンはヒ素から出来た化合物で、副作用が多く、梅毒の治療にはあまり使われませんでした。そして、ついに梅毒治療の特効薬である「ペニシリン」が使われるようになり、日本でも梅毒患者を診ることはほとんど無くなりました。
私は、感染してからあまり日が経っていない新鮮感染の梅毒患者さんは数人しか見たことがありません。そういう患者さんは感染症を専門とする先生のところに紹介していますが、最近、その先生の病院では毎週のように、梅毒患者さんの入院や治療依頼があるのだそうです。「10年前にはあり得ない話、いったいどうなっているのだろう」と仰っていました。

近年、爆発的に梅毒が増えている原因ですが、どの報道でもその原因は不明だとされています。しかし、私には、その原因が何となくわかります。グラフ「スマートフォン契約数の推移・予測」(MM総研)と、先ほどの図1の梅毒の患者報告推移と一緒に見てください。平成19年(2007年)にiPhoneが発売され、インターネットの接続が容易になりました。それに少し遅れて、梅毒感染者数が増えているように思えます。いわゆる「出会い系サイト」の出現が、梅毒の急激な増加の原因だと思います。「出会い系」というオブラートに包まれたような言葉で隠されていますが、実態は「買春、売春」です。管理者がいませんので、病気も野放しになっていると推測されます。ゆめゆめ近づいてはいけません。

最後に梅毒という病気について、簡単に症状と病期を記します。「3」という数字がキーワードです
ペニシリン普及以前、「梅毒の診断ができて、初めて一人前の内科医だ」という言葉があったくらい、多彩な症状を示します。

第1期 そういう関係があってから、3週間後、感染部位に数cmのしこりができます。
しこりは潰瘍になることもあります。多くは鼠径部のリンパ節腫脹および圧痛を認めます。
これらは、自然に治ってしまいますが、感染力はあります。
第2期 それから3ヵ月経つと、病原菌が体中にばらまかれ、皮疹を生じます。
小さなバラの花に似ているので、バラ疹と言われます。小さなバラの花に似ているので、バラ疹と言われます。この発疹も消えたり、できたりします。
第3期 それから3年以上経つと、皮膚や筋肉、骨などにゴムのような腫瘍ができます。
さらに進行すると、進行性麻痺、大動脈瘤を生じます。

診断は、採血でできます。治療は「ペニシリン」です。幸い、未だに「ペニシリン耐性梅毒トレポネーマ」は見つかっていません。ですから、早期に適切な治療がなされると完治します。思い当たるようなことと症状がありましたら、ぜひ検査を受けてください。
なお、予防は、あまり怖いところには近づかない(しない)ことと、フランス語では「capote anglaise(イギリス人の帽子)」、イギリスでは「French letter(フランス人の手紙)」と言われている「モノ」の装着です。

【参考文献】

  • コロンブスが持ち帰った病気―海を越えるウイルス、細菌、寄生虫 ロバート・S. デソウィッツ(著) 翔泳社
  • 1493――世界を変えた大陸間の「交換」 チャールズ・C. マン(著) 紀伊國屋書店
  • 病が語る日本史(講談社学術文庫) 酒井シヅ(著)
  • 形影夜話(けいえいよわ):杉田玄白著
    玄白が70歳の時、1810年に刊行されています。今は、これがPDFで読めます。
  • Columbus Ships Crew
    コロンブスと一緒に航海した乗組員の一覧表です。気の毒なJuan de Moguerも入っています。

注1:

梅毒は新大陸(南北アメリカ)から、コロンブスの航海により世界中に広まったとする説が一般的になりつつありますが、元々、コロンブス航海以前から世界中にあったという説もあります。後者は近年の研究で、否定されつつあります。コロンブス航海以前の死亡者の骨をいくら研究しても、梅毒らしい所見が無いからという理由と、梅毒らしい所見を記した文献が無いからです。

注2:

日本名である「梅毒」という名前は、「楊梅(ようばい=ヤマモモ)の実」と梅毒に見られる皮疹が似ていることから、つけられています。確かに似ていますね。

図:楊梅の実図:梅毒による皮疹
図左:楊梅の実、図右:梅毒による皮疹

注3:

2016年のNature Communications誌に「人間が一夫一婦制であるのは、性感染症対策による」という論旨の論文が掲載されました。先史時代から、基本人類は「一夫一婦制」でした。それはどうやら「乱婚」すると、梅毒をはじめとする性感染症が蔓延し、人口減少につながることが「感覚的」に大昔からわかっていたので、性病蔓延を防ぐ方法として「一夫一婦制」が制度として取られたのだろうという論文です。現代に通じる話を、先史時代に当てはめ、数理学を用いて検討しています。面白いです。
Disease dynamics and costly punishment can foster socially imposed Bauch CT1, McElreath R2. Nat Commun. 2016 Apr 5;7:11219. doi:10.1038/ncomms11219.

望月吉彦先生

望月吉彦先生

所属学会
日本胸部外科学会
日本外科学会
日本循環器学会
日本心臓血管外科学会
出身大学
鳥取大学医学部
経歴
東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学)
獨協医科大学教授(外科学・胸部)
足利赤十字病院 心臓血管外科部長
エミリオ森口クリニック 診療部長
医療法人社団エミリオ森口 理事長
芝浦スリーワンクリニック 院長

医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階
TEL:03-6779-8181
URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/

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