望月吉彦先生
更新日:2023/10/02
前回の余話5.をお読みいただけましたでしょうか?
ため息が出るほど良い話です。この発見をしたのは91歳で山形県立自然博物館の指導員の長岡信幸(中学校の元教員)さんです。長岡さんの発見を「真摯」に受け止めてそれを論文にして一流科学雑誌に投稿(京都大学の先生方の指導があったと思いますが)、投稿論文の第一著者は91歳の長岡さんです。京都大学は「とても素晴らしいことをした」と思います。こういう場合の多くは大学の研究者が第一著者になり、発見者は「謝辞に名前が載る」くらいになるのが普通です。
「銀杏の精子発見の業績」に対して学士院恩賜賞が贈られたときの東京帝国大学教授池野成一郎と中学の教員だった平瀬作五郎との関係を思い出します。池野は「学士院恩賜賞」は「「銀杏の精子を発見」した平瀬作五郎と一緒でないと受賞しないと言ったそうです。良い話です(参考記事:087:日本の銀杏とイギリスの「家族計画」を結ぶ縁(1)~「銀杏」の話(2))。
論文というと思い出すのは菅原道真の試験点数です。
学問の神様というと「菅原道真」です。全国各地に菅原道真を祀る天満宮があります。天神様。天神社とも言われます。菅原道真は学問に秀でていたので「勉強、学問の神様」ということになっています。さて、その菅原道真ですが彼が受けた試験の問題、回答、試験点数が残っています。「方略試」という試験で今なら、国家公務員採用試験でしょう。
問題は2問、質問は漢文です。
問1は特に難問です。氏族について迂闊なことを書くと出世に響くかもしれないです。地震について論じるのは今でも困難です。
成績は出題者の都良香(みやこのよしか)により、「文章は彩を成し、文体には観るべき点が有り、筋道はほぼ整っている」ことなどから、「中の上」と判定されていますが、合格者のほとんどが「中の上」なので、それほど悪い成績ではないのでしょう。それはともかく1000年以上前の試験問題、回答、成績が残っているのは凄いですね。「公的記録が無くなっている」とか、「無くした、見つからない、誤って廃棄した」とかいう報道が多い昨今とは隔世の感があります。
本論に入ります。
小宮まゆみ著「敵国人抑留―戦時下の外国民間人」
歴史文化ライブラリー 吉川弘文館(2009年)
という本を偶然発見したことを前回お伝えしました。この本には、太平洋戦争開戦当時日本にいた連合国側の民間外国人342名が強制収容されたこと、開戦後日本が占領した地域にいた外国民間人を日本に送り、様々な仕事に従事させたことが記されています。
最初ざっと立ち読みしました。面白そうなことがたくさん書かれていると気づきました。
清里高原を開拓した事や日本にアメフトを紹介したなどで有名なポール・ラッシュ(Paul Rusch 1897 - 1979年)さんも開戦と同時に「捕虜」になっています。ラッシュさんは開戦当時、立教大学の教授でした。英米仏蘭出身の民間人は全員、例外なく強制収容されています。戦争初期には米国などに送還されたり、赤十字の手厚い保護を受けたり、食事や収容所もそれなりに配慮されたり、していた様子がわかります。しかし戦争が進むにつれ食事、宿舎、衛生状態などが段々と悪化しています。なお、イタリアやドイツは日本より先に降参、降参後、イタリア人やドイツ人も「捕虜」となっています。
日米間では2回(1942年6月と1943年9月)、日英間では1回(1942年8月)、民間人捕虜の交換が行われています。そんなことは知りませんでした。
日本軍が占領したベトナム、インドネシアなどでもその地にいた連合国側の外国民間人は強制収容されています。なかでも人数が多かったのはインドネシアで、10万人のオランダ人が強制収容されています。戦争当時、アメリカでは日系アメリカ人約11万人が強制収容所に入れられましたが、それと同じくらいの人数のオランダ人がインドネシアで強制収容されています。
「ジャワから連行されたオランダ人」という見出しがあり読み進めたら、私が知りたかった「心電計を発明してノーベル賞を受賞したアイントホーフェン医師と一緒に心電計を改良していた同医師の息子さんが東京でお亡くなりになった事情」が書かれていました。直ちに買い求めて家に帰って熟読しました。
以下、同書より引用します。
173-176頁からの引用です。全文ではありません。青字は筆者が記しています。
この時期になって、もう一グループの外国人が連行されて、東京に抑留された。インドネシアのジャワ島から連行されたオランダ人技術者の一団である。
この抑留オランダ人については、よほど厳重に秘匿されていたらしく、『外事月報』にはまったく記載がない。
このオランダ人は、ジャワ島から連行抑留されたオランダ人電気技術者とその家族だった。W・アイントホーフェン博士は、オランダ領インドシナ、ジャワ島バンドンの無線電信局で働いていた。一九四一年一二月太平洋戦争が勃発し、開戦の二、三ヵ月後、彼らは日本軍に降伏、一九四三年一一月、アイントホーフェンとその同僚は妻子とともに日本に送られることになった。
1945年2月、一行のリーダーだったアイントホーフェンが肺炎のため死亡した。
抑留生活を証言したポーリン・レルス氏は2001年に来日して開発に協力させられていた秘密兵器とは、レーダーシステムだったということが明らかになったという。
と書かれています。前号で紹介した本橋均先生の著書には
「アイントホーフェンは東京大空襲で死亡」
と書かれていましたが、小宮氏の本には
「1945年2月、一行のリーダーだったアイントホーフェンが肺炎のため死亡した」
とあります。アイントホーフェンと東京で一緒に抑留された方の文章が引用されています。一緒に抑留されていた方の証言の方が正しいでしょう。
以下、次回に続く。
この小宮氏の「敵国人抑留」を読むと同書は広範な資料と当時を知る多くの当事者、関係者からの聞き書きを基に書かれていることがわかります。歴史を誠実に書くことは正にこういうことだと言うことがわかります。同書から著書の知的迫力を感じます。そういう本は少ないです。ぜひ、お読みください。
いつかお読みください(再掲)。
心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/
望月吉彦先生
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