望月吉彦先生
更新日:2026/02/02
前回、1714年にイギリス人のヘイルズ神父(Stephen Hales、1677-1761)が世界で初めて直接頚動脈圧の測定に成功したことをお伝えしました。1. ヘイルズ神父のことを有名にしたのは心臓カテーテル法の創始者でノーベル生理学医学賞を受賞したWerner Forssmannです(参考:自分の血管を17回も切って実験を行った医師:フォルスマン 冠動脈疾患(3))。
彼はノーベル賞受賞講演16.で「ヘイルズ神父こそ、動物にカテーテルを入れた最初の研究者だ」と紹介したのです。そのお蔭もあってヘイルズ神父の血圧測定実験は広く知れ渡るようになりました。
同じく前回、現在も普通に世界中で使われている血圧測定法を発見したコロトコフ医師のことを紹介しました。
コロトコフ医師については、さまざまな論文、論考が書かれています。有名なのは1996年にロシアで出版された文献12.です。しかし、この本はロシア語で書かれています。読むことはなかなかできません。入手もできません。幸いなことにこの本の内容を元に英語の文献13.が書かれています。さらにさまざまな資料を元に日本語の本14.も出版されています。
これらの資料を元にコロトコフの生涯、コロトコフの名前が忘れられた経緯やコロトコフの偉大な発見(血圧測定法)と日露戦争との関係などを紹介していこうと思います。特に文献13.は貴重です。著者のIgor E. Konstantinov先生はロシア出身の外科医です。現在はオーストラリアのUniversity of Melbourne, Consultant Cardiothoracic Surgeonです。専門は小児心臓手術、小児心臓移植です。その分野の専門的論文を多数(300以上)書いています。
Igor先生は、外科の歴史、医学の歴史に関する論文も多く書いています。私がIgor先生に注目したのは彼の経歴です。
Background of Igor E. Konstantinov(CTSnet)
https://www.ctsnet.org/home/ikonstantinov
Igor先生はカナダのトロント大学で学位を得ていますが、医学を学び医師になったのはロシアのSt. PetersburgにあるMilitary Medical Academyです。コロトコフはモスクワ大学出身ですが、卒業後、Military Medical Academy, St. Petersburgで研修を受けています。そういう関係からコロトコフのことも掘り起こして書いたのだと思います。
話は少し逸れます。
Igor 先生はコロトコフの紹介論文を書く前年の1997年、スウェーデンで外科医として働きながら、以下の論文を書いています。
「The First Coronary Artery Bypass Operation and Forgotten Pioneers.」
The Annals of Thoracic Surgery, Volume 64, Issue 5, 1522 – 1523
この論文で「冠動脈バイパス術はソ連で始まった」と紹介しています。この時、Igor 先生は大学を卒業してわずか5年目です。The Annals of Thoracic Surgeryという一流医学雑誌に「一般には、アメリカで冠動脈バイパス術が始まったように思われているが、それは間違いで、冠動脈バイパス術はソ連で始まっていた」という主旨の論文を書いているのです。このことはすでに簡単に紹介しました(参考:バイパス用の血管探しの時代 冠動脈バイパス術(3) 冠動脈疾患(14))。
お時間があるときにお読みください。
話を戻します。コロトコフの経歴を紹介します。
コロトコフは帝政ロシア時代の1874年2月13日、クルスク(筆者注:現在はロシア国内です。ウクライナと接しています。今、戦場になっています)で誕生。1893年ハリコフ大学医学部(現在はウクライナにある大学です。医学部ではなくて正式には医学進学課程)に進学。その後、モスクワ大学医学部に進学。1898年同大学を優秀な成績で卒業しています。
1898年-1900年:大学卒業後はモスクワでボブロフ教授の下で、外科医として勤務。コロトコフは医師として勤務しながら、チェコ人医師Eduard Albert(1841-1900)がドイツ語で書いた外科学書「Diagnostik Der Chirurgischen Krankheiten」(外科疾患の診断)をロシア語に翻訳しています。この本は312頁もあります。当時コロトコフは20代後半です。仕事をしながら大部の外科学書を翻訳するくらいですから、コロトコフはかなり勤勉だったのでしょう。後にコロトコフの専門となる動脈瘤のこともこの本に載っているそうです。13.14.
1900年7月-1901年5月:義和団事件に際して、赤十字の従軍医師に志願。中国と国境を接するブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスクで負傷兵やチフスの治療に従事。この時、大腿動脈、大腿静脈を損傷した兵士に外科手術(損傷した血管を結紮)を行っています。これが後の血圧測定法発見につながります。
1901年-1903年:モスクワでボブロフ教授の下で、外科医として勤務。研究、手術に従事。
1903年:ボブロフ教授の先輩フェドロフがサンクトペテルブルグの陸軍医科大学の外科教授となり、フェドロフに請われて、コロトコフもサンクトペテルブルグの陸軍病院に移っています。同年、学位授与のための試験に合格、ちなみにこの時の試験官は条件反射で有名なパブロフです。
1904年2月8日:日露戦争が始まり、コロトコフは再度、赤十字の従軍医師に志願。戦場で医師として働きます。働いた場所はハルビン。中国領です。義和団事件後、本来は撤退すべきだったロシアは中国領の満州に居座ったので、ハルビンは中国領だけれど、帝政ロシアが事実上占領していたのです(今も似たようなことを…)。
余談です。ハルビンは伊藤博文が1909年10月26日に暗殺されたことでも有名です(日露戦争終結後です)。2025年映画「ハルビン」が上映されていました。
閑話休題
ハルビンでコロトコフは日本軍に銃撃されたロシア兵の治療にあたります。その治療の最中、大発見をします。それが、血圧測定法の発見につながります。コロトコフは傷ついた兵士を、なんとかして、救おうと考えて実に様々な事を試しています。それが大発見に結びついたのです。日露戦争が無ければ、そしてコロトコフが軍医として兵士の治療に従事していなければ血圧測定法の発見には至らなかったと思います。
ここで、すこし話は逸れます。
日露戦争での両国の戦死者、戦傷者を見てみましょう。
国立公文書館 アジア歴史資料センターによると、
日本軍:戦死者数:約8万4000人、戦傷者数は約14万3000人
帝政ロシア軍:戦死者約4万2600人、戦傷者約9万1000人
日本の方が戦死者は多いのです。それには理由があります。日露戦争の陸軍の脚気患者は25万人、うち2万8000人が死亡。つまり、陸軍は脚気で死亡した兵士が多かったのです。一方海軍では脚気はほとんどゼロでした(参考:高きにならへ 人の心も~東京慈恵会医科大学創始者「高木兼寬(たかきかねひろ)」先生にまつわる話(1))。
陸軍が海軍で導入していた麦飯を採用していれば、日本の戦死者は「8万4000人」-「2万8000人」=5万6000人となり、ロシア側の戦死者数に近づきます。脚気恐るべしというか、ろくな脚気予防をしなかった日本陸軍の頑迷さ(というか森鴎外を元とする陸軍軍医一派)にあきれかえります。
それはともかく、ロシア軍兵士の治療に当たっていたコロトコフは何をどうやって発見したのでしょう。次回以降で紹介します。
終
日露戦争を描いた「坂の上の雲」は面白い小説です。しかし、司馬は同書を書く際に参考にした参謀本部編纂の陸軍公刊戦史「明治三十七八年日露戦史」全十巻が、いかにインチキなものであるかを縷々述べています(最終巻の後書き)。「明治後日本で発行された最大の愚書であるかもしれない」と記しています。どうやら日露戦争の戦争記録は「?」の付くモノが多いのでしょう。司馬によると「明治三十七八年日露戦史」を編纂するにあたり、以下のような制約が課されていたのです。
なんだ……都合の悪いことは書かなかったのです。「明治三十七八年日露戦史」は戦史ではなく、軍人に都合の良い小説ですね。後の軍人に悪影響を及ぼしたと思います。
望月吉彦先生

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