望月吉彦先生
更新日:2025/10/14
注:本稿では「ウイルス」を「ビールス」と表記しています。理由はこちら。ただし、固有名詞(書名、施設名など)の表記は別です。
https://www.health.ne.jp/library/detail?slug=hcl_column250741&doorSlug=dr
前回ご紹介したインフルエンザの病原体を発見した方々を、今回と次回で履歴書風に紹介しましょう。
1919年(大正8年)、世界に先駆けてインフルエンザの病原体を発見した日本人研究者のことを紹介してきました。
以下は「インフルエンザの病原体を発見」したことを証明する論文です。
「THE INFECTING AGENT IN INFLUENZA: AN EXPERIMENTAL RESEARCH」 1.
Lancet: Volume 193, Issue 4997p971June 07, 1919
著者は
1.Prof. T. Yamanouchi(山内保:やまのうちたもつ)
2.Dr. K. Sakakami(坂上弘蔵:さかかみこうぞう)
3.Dr. S. Iwashima(岩島寸三:いわしますんぞう)
の3人です。
今回は、山内保の経歴を紹介します。次回は坂上弘蔵、次々回は岩島寸三を紹介します。
山内一也(やまのうち かずや)著「インフルエンザウイルスを発見した日本人」2023年刊 岩波科学ライブラリー321からの引用や、自分で調べた資料などを元にしています。
なお、色々と調べていたら山内一也先生にも、多分、発見できていなかったことが見つかったのでそれも紹介します。なぜか、この論文の著者名にはトンデモ無い間違いがあることを発見しました。えええ?なんで間違えるの?という話は次回になりますが。。。。
第一著者の山内保、と第三著者の岩島寸三は東京帝国大学医学部出身で同級生です。それぞれ、出身、経歴もよくわかっています。今回は、山内保の経歴紹介です。なかなか、劇的な人生を送っています。紹介しましょう。
同年1月、東京帝国医科大学衛生学教室大学院に入学。同年暮れに大学院を中退し、渡欧。
最初はドイツのコッホの研究所に、そして1907年(明治40年)にはフランス、パリにあるパスツール研究所に留学。
以後、前回でも紹介したとおり、様々な研究をしています。論文も多数発表。

「血清内における抗タンパク消化酸酵素について」中外医事新報 57巻 855-856 1913年(大正2年)という論考を日本語で書いています。


1913年(大正2年):医学博士号も東京帝国医科大学より授与されています。
「東京府士族 山内保」とあるのが時代を感じさせます。

東京帝国医科大学から、大学院出身者と同等以上の学力があると認められ「医学博士の学位を授与する」と記されています。


1918年(大正7年):父親危篤の報を聞いて帰国。
帰国した山内保を受け入れる日本の医学部、医学研究所はなかったようです。当時世界最先端の医学研究所だったパスツール研究所で世界レベルの研究をしてきた山内は日本医学界では受け入れられなかったのです。残念な話です。なぜ、受け入れられなかったのか? 考察してみます。
山内保は帰国後、日本の医療の現状について批判をしています。例えば読売新聞の「医学会所見」という論説では、「我が国の医学者がいかなる考えを用いてやっているかわからぬが、腸チフス、結核、肺炎、淋病、化膿症、肺結核、百日咳、ニキビのワクチンまでできていると聞いた」「パスツール研究所で効果が確認できなかったインフルエンザワクチンまで製造されている」と激しく批判しています。

1919年の仏蘭西時報でドイツ医学を厳しく批判というか馬鹿にしています。「仏蘭西精神」というタイトルです。


山内保曰く、
「近世文明はフランスに負うところが多い」
「コッホ博士の研究はパスツールに多大な影響を受けている」
「コッホの研究所で私も研究していたが、実験器具があまり揃っていなかった。パスツール研究所には一流の器材が揃っていた」
「フランス医学はドイツ医学より進歩している」
「フランスの医学者には専門がない。多岐にわたって勉強している」
「パスツールは、病理学、理化学、工学、数学に通じていた、フランス人は、パスツールのように様々なことを勉強する」
「専門とか組織とかはドイツでできたことである」
「ドイツでは議論ばかりしているが、フランスではどんどん実験して論文を書く」
「科学は議論でするものではない。フランス人はそのことを知っている」
「本当に学問が好きな人はフランスに行くべきだ」
「フランスでは、議論よりも先にどんどん実験して論文を書く」
と記しています。山内保はその言葉通り、帰国後、大学の同級生の岩島寸三医師、星製薬株式会社の坂上弘蔵医師と共にどんどん実験して「インフルエンザ病原菌を発見した」という論文をLANCETに投稿したのです。凄いことです。
THE INFECTING AGENT IN INFLUENZA: AN EXPERIMENTAL RESEARCH
BY Prof. T. Yamanouchi, Dr. K. Sakakami, Dr. S. Iwashima
Lancet: Volume 193, Issue 4997p971 、June 07, 1919
前々回でも紹介した通り、この論文には所属機関が記されていません。普通、所属機関が記されていないと論文は載りません。山内保は帰国当時、所属機関がありませんでした。しかし、それでも論文が載っています。すでにパスツール研究所での業績で有名だったからLANCETも論文を掲載したのでしょう。そこに山内保の矜持を、私は、感じます。
この論文を最後に欧米の医学専門雑誌には投稿していません。LANCETに論文が載った後の1919年(大正8年)9月には渋谷で開業、1922年(大正11年)には麹町に転居して開業。

山内保医師麹町での開業を報じる医海時報 1923年(大正12年)4月
「開業早々から、患者が殺到。邸内にて園遊会を催した。来客100余名」とあります。結構、流行った医院だったのでしょう。
しかし、山内保は1932年(昭和7年)に阿片を巡る騒動に巻き込まれます。文献9.「インフルエンザウイルスを発見した日本人」の頁108-109を見ると、1932年9月20日の国民新聞に「張学良の阿片を種に山内医学博士の怪行動」という記事が載っているそうです。それによれば山内保は、
「張学良の金庫から押収された阿片の払い下げを受けて、元陸軍大臣の南次郎と共に奉天に阿片専売会社を設立すると称して資金を集めていた」
「南次郎元大臣は、フランスの提携と10億フランの借款を構想して、フランス人の妻を持つ山内保をフランスに派遣している」
どちらも詐欺ではないかと疑われて憲兵隊が調べているという記事です。しかし、どうやら、どちらも無罪だったようです。
「インフルエンザウイルスを発見した日本人」には「その後の山内の動静は新聞では見当たらなかった」とあります。
少し調べたら、それから10年後の昭和17年6月号の「治療医学」誌に映画「白い壁画」の評を書いているのを発見しました。「白い壁画」は西表島でマラリアに冒されながらも、その治療に当たる医師を描いた映画です。しかし、山内保が書いているのは映画のことでは無くて、穿頭術(トレパナチオン)を世界に広めたフランス人医師ドワイヤン(Eugéne-Louis Doyen:1859-1916)の紹介です。それはともかく、戦争中に映画評論を書いているくらいだから、上記の阿片まつわることで罪には問われなかったのだと思います。

山内保は1944年(昭和19年)2月13日に、63歳で死亡。死因は不明です。フランス人の夫人は戦争前にフランスに帰国。実子は無く、養女(八重子)がいたと記録されているが、消息は不明です。つまり山内保の子孫については不明です。なにかわかれば良いのですが。
パスツール研究所で世界最先端の研究をして、論文を書き、帰国後もインフルエンザの病原体(=インフルエンザビールス)を発見。最近になって、その業績が評価されています。泉下で喜んでいると思います。 それにしても、帰国後、山内保が細菌学、ウイルス学の分野で活躍していれば、と思ってしまいます。
最後になりますが、本稿で引用した古い写真原稿は国立国会図書館で入手しました。
望月吉彦先生

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