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009:覚せい剤を開発したのは日本人?(望月吉彦先生) - ドクターズコラム

大人の健康情報

望月吉彦先生

更新日:2015/01/05

前回からの続きをお話しましょう。いわゆる「違法ドラッグ」には、

  1. 覚せい剤
  2. LSD
  3. 大麻
  4. アヘンとアヘンから抽出されるモルヒネ、ヘロイン
  5. コカイン
  6. マジックマッシュルーム
  7. ある種のハーブ類
  8. シンナー

などがあります。
覚せい剤とLSDは科学的に合成されたモノがほとんどだと言われていますが、シンナー以外は植物からの生成が理論的には可能です。

覚せい剤の成分「アンフェタミン」と「メタンフェタミン」

さて、覚せい剤の話です。成分として2種類が知られています。
「アンフェタミン」「メタンフェタミン」です。
「アンフェタミン」は1887年(明治20年)、ルーマニアの化学者『ラザル・エデレアーヌ 』が「エフェドリン」から合成に成功しています(@ベルリン大学)。
そして「メタンフェタミン」は、なんと日本において1893年(明治26年)に『長井長義』により「エフェドリン」から合成されました。
どちらも「エフェドリン」から合成されていますね。
私が大変興味深く思うのは、『ラザル・エデレアーヌ』も『長井長義』もベルリン大学で学んでいることです。
二人はベルリン大学のホフマン(August Wilhelm von Hofmann)教室の同窓生で、長井が先輩です。長井がドイツから日本へ帰国後にホフマン研究室へ入ったのがエデレアーヌです。
長井は帰国後、漢方薬の「麻黄」から「エフェドリン」の分離に成功します(1885年:明治18年)。「エフェドリン」は、現在も使用される薬です。

合成に成功した頃の使われ方は?

実は、「アンフェタミン」、「メタンフェタミン」の合成に成功した頃は今のような覚せい剤作用は発見されていませんでした。下に構造式を示しましたが、実によく似ていますよね。

エフェドリン、アンフェタミン、メタンフェタミン

段々と「アンフェタミン」、「メタンフェタミン」の薬理作用が明らかになり、「アンフェタミン」は米国で1933年に喘息治療薬として発売されたところ、覚醒作用があることが解りました。今でこそ、使用禁止薬物となりましたが、つい最近(2004年)まで米国では「やせ薬」としても使われていました。以前ご紹介した「ヘンなオジサン:キャリー・マリス」も使っていました。

一方、「メタンフェタミン」は1938年にドイツで興奮剤として発売され、ナチスは「戦車用チョコレート」、「パイロットの塩」として兵士に支給していました。しかし、あまりにも覚醒作用が強い為に1941年には危険薬指定を受けて一般人での使用は制限されるにいたりました。
ところが日本ではドイツでその販売が規制された1941年(昭和16年)に「メタンフェタミン製剤」「アンフェタミン製剤」を各々発売しています。ここで圧倒的に強い覚醒作用を持つ「メタンフェタミン製剤」が 「アンフェタミン製剤」を上回って広まり、「飲めば眠らなくても仕事が出来る、勉強も出来る、何でも出来る万能薬」として一般にも広がり使われるようになったのです。勿論、日本軍はその作用を知っていて大量に使用します。「突撃錠」、「猫目錠」と謳わられ使われました。あの特攻隊でも使われた記録があります。
考えてみれば、ナチスも日本帝国陸軍・海軍も一部では薬を使い恐怖心を抑えて突撃をしていた軍隊だったとも言えるのです。戦争のお蔭で色々な事が発見されたりすると以前に書きましたが、これは悪い例ですね。なんだか兵隊さんの気持ちになるとかわいそうな話です。
日本では敗戦とともに軍隊から「メタンフェタミン製剤」が市中に大量に流出してしまい社会問題になります。昭和20年代前半には普通に町の薬局で「メタンフェタミン製剤」が売られていて、受験勉強や徹夜仕事をする人に使われていましたが、覚せい剤の「悪」の面が表に表れ、1951年覚せい剤取締法が制定され、規制の対象となりました。
絶対に皆さん、手を出してはいけません!人格は変わり、人生が崩壊します。
最近話題の有名歌手も、このメタンフェタミンを使った覚せい剤中毒になっていたのです。

日本人が合成して今でも命脈を保っている薬

それはさておき、メタンフェタミンはあまり良い作用はないですが、エフェドリンは今でも有用な薬剤です。両薬剤とも合成がなされてから100年以上経っています。100年以上の命脈を保って実用とされている薬は世界中を見回しても10に満たない数です。
長井先生の業績はスゴイですよね。驚くことに、日本人が合成して今でも命脈を保っている薬がもうひとつあります。それは、「アドレナリン」です。
「アドレナリン」は、『高峰譲吉』がアメリカで合成に成功しています。『長井長義』と『高峰譲吉』は、同時期に長崎で学んでいます。それも当時最先端の科学技術を持っていた上野彦馬写真館で舎密学(化学)に加え、薬の取り扱い方を学んだとされています。
上野彦馬写真館には坂本龍馬が出入りしていました。同写真館で坂本が写真を撮っていたらしい事は確実です。史実には残っていませんが、「高峰譲吉」、「長井長義」と「坂本龍馬」が出会っていた可能性は高いのです。そう思うと一編の小説くらい出来そうですね。
アドレナリン、タカジアスターゼの合成に成功し、経済的にも大成功をおさめた『高峰譲吉』は、日本で三共製薬(現 第一三共株式会社)を興します。その顧問は『長井長義』でした。
もし、仮に坂本龍馬が生き残っていたら、三共製薬の創立に関わっていたかもしれません。
元々、龍馬は貿易をしたかったのですから。なんだかワクワクします。

米国でベンチャー企業を起こした、この「快男児『高峰譲吉』」についてはまた改めて書こうと思っています。お楽しみに。

望月吉彦先生

望月吉彦先生

所属学会
日本胸部外科学会
日本外科学会
日本循環器学会
日本心臓血管外科学会
出身大学
鳥取大学医学部
経歴
東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学)
獨協医科大学教授(外科学・胸部)
足利赤十字病院 心臓血管外科部長
エミリオ森口クリニック 診療部長
医療法人社団エミリオ森口 理事長
芝浦スリーワンクリニック 院長

医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階
TEL:03-6779-8181
URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/

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