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102:「君が代」から「日本語」を考える~日本語について思うこと(4)(望月吉彦先生) - ドクターズコラム

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望月吉彦先生

更新日:2019/01/15

「君が代」の元歌とは?

今年は天皇陛下が退位し、皇太子殿下が即位します。この節目の年を迎えるにあたり「君が代」から日本語を考察してみたいと思います。

「日本語は1000年以上も基本的な文法が変わっていないという世界でも稀な言語」です。本当かな?と思われる方も多いと思います。その代表例として日本人が普通に歌える「1000年以上前に作られた詩歌」を紹介します。それは「君が代」です。こんなに古い歌を現代人が歌えるような言語はほかにありません(注:「君が代」に政治的議論があることは承知していますが、それにつきましては一切の論考をいたしません)。

さざれ石

「君が代」の元歌は、古今和歌集にあります。古今和歌集は醍醐天皇の命により編纂された勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)です。905年に醍醐天皇に奏上されています。その中に「君が代」の元歌があります。

古今和歌集第七 賀歌 343 題知らず 讀人知らず
(注:賀歌は御祝いの歌の意味、題は不明、読んだ人も不明です)
「我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔のむすまで」

あれ?ちょっと私たちの知っている「君が代」とは違います。実は、現在の「君が代」と同一の歌詞が現れるのは、「和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)」の鎌倉時代の写本です。

「和漢朗詠集」とは、「古今和歌集」が成立してから約100年経った1018年、平安時代の公卿「藤原公任(ふじわらのきんとう)」が私的に編纂した漢詩・漢文・和歌を集めた詩文集です。その「和漢朗詠集」にも同歌が775番目に載っています。元は古今和歌集と一緒です。当時は、今のような印刷技術はありません。ですから、元の本を書き写したモノが「写本(しゃほん)」として残っています。書き写す時に書き写し間違いあるいは意図的に歌を変更することもあったと思われます。
鎌倉時代の「和漢朗詠集」写本の中に初めて、

「きみが代は 千代にやちよに さざれ石の いはほとなりて こけのむすまで」

という現在の「君が代」に相当する歌(写本)が出てきます。「我が君」が「きみが代」に変わっています。意図的か、書き写し間違いか、今となっては不明です。

当時のベストセラー「和漢朗詠集」

この鎌倉時代の写本は「和漢朗詠集」が最初に編纂されてから、約200年後の安貞2年(1228年:鎌倉時代です)に「書き写され」ています。古今和歌集から、数えると300年も経っています。「君が代」の起源を古今和歌集とすると「君が代」は1100年前に詠まれた歌であることになります。「和漢朗詠集」の鎌倉時代の写本を起源としても800年前に詠まれたことになります。
「和漢朗詠集」は現代ではあまり知られていませんが、平安時代の文学作品(源氏物語、伊勢物語etc.)の中でも圧倒的に人気が高く広く読まれた詩歌集です。なぜ、そんなことがわかるのかというと、くどいようですが、当時は印刷ができませんので手で書き写すしか文章を広める方法が無く、色々な和歌集、源氏物語、伊勢物語etc.などが、書き写されて伝わっています。そうした写本が今もたくさん残されています。その中で「圧倒的」に多くの写本が残されている(=ベストセラー)のが、この「和漢朗詠集」です。なぜ、この「和漢朗詠集」がベストセラーであったか、多少説明をします。

「和漢朗詠集」は「和」=日本、「漢」=中国、「朗」=ほがらかに、「詠」=詩歌をうたうこと。今なら、「日本中国《ほがらか歌集》」とでも言えましょうか?「詠う(うたう)」と言っても現代のように、メロディーをつけて歌を歌うわけではありません。詠うとは「声を長く引き、調子をつけて詩歌を歌う」ことです。今も形をかえて「吟詠」として残っています。
「和漢朗詠集」には当時の日本と中国の流行歌が書かれています。おそらくは誰でも歌えるように使われている漢字には平仮名、片仮名でふり仮名が振られるようになりました(注2)。和漢朗詠集を歌えば自然に漢字の読み方がわかるのですね。だから文字の教科書としても使われたので、ほかの作品よりも広まったのだと思います(注:振り仮名があることで漢字がどう読まれていたかもわかります)。

とにかく多くの写本が作られた結果、「和漢朗詠集」は当時の貴族、そして後には武士を含めたさまざまな階層の人々の共通の「知識」となります。平安時代は元より、鎌倉、室町、江戸、幕末までこの「和漢朗詠集」の写本が広まっていました。ついに欧州にも伝わります。
16世紀、キリスト教布教のために日本に来ていたイエズス会の宣教師が印刷機を持ち込んで教育のために印刷をしたいわゆる「キリシタン版」に「和漢朗詠集」が入って、スペインにも渡っています。現在もスペインのエル・エスコリアル修道院(図書館を兼ねた修道院で世界遺産にもなっています)に残っています。
イエズス会の宣教師が、わざわざ印刷(アジア初のグーテンベルク式印刷機を用いています)するのに選んだくらいです。これも「和漢朗詠集」がいかに当時広く読まれていたかの証左の1つでしょう。

ともかく時代を超えて読み継がれ、歌われていた「和漢朗詠集」に載っていた「君が代」は1000年以上も前から、賀歌(御祝い歌)として普通に歌われ、江戸時代まで広く伝わっていました。

「君が代」が「国歌」に制定されるまで

時を経て「君が代」は明治政府によって「国歌」に制定されます。江戸時代は国歌などありませんでした、しかし、明治維新を機に西欧諸国と交流が始まりました。国家同士のお付き合いをするには儀式が必要です。儀式には国家が付き物だったのです。つまり国歌が無いと、儀式の際に困ったのです。それで「君が代」が国歌に決まったのです。
それも、実はめちゃくちゃな話です。明治2年(1969年)、英国皇太子が世界周遊航海の途中に、日本に立ち寄ることが決まりました。英国皇太子の歓迎儀式で、英国側は国歌「God Save the Queen(国王との時はthe King)」を使うと通告したのに対して、国歌を決めていなかった当時の明治政府は困ってしまい、急遽、皇太子の接待役だった原田宗助(元薩摩藩士)、乙骨太郎乙(おつこつ たろうおつ:元静岡藩士)両名に対して「国歌」を作ることを命じたのです。
両名ともに、英語は得意だったのですが、音楽や詩歌の専門家ではありません。なんだか、この辺り、とても「適当」です。
そしてこの両名が「和漢朗詠集」の「君が代」を国歌として使おうと相談して決まったのです。作曲もある意味とても「適当」です。
歌詞は決まったけれど曲がないので、薩摩藩で当時歌われていた琵琶歌(琵琶法師の奏でる歌)の「蓬莱山」という歌の中にある「君が代」部分の節を元に、当時横浜に駐留していた英国陸軍の軍楽隊長だったフェントンに頼んで、作曲してもらったのが初代「君が代」です。フェントンの楽譜は残っているのですが、歌詞と節がまったく一致しない奇妙なモノで、普通には歌えないですね(注:フェントンは軍楽隊長ですが、作曲の専門家ではありません)。
そのフェントンは、後に明治政府に雇われて、日本の海軍軍楽隊の指導に携わっていましたが明治10年に英国へ帰国してしまいます。彼が帰国するまでは「君が代」の変更はなされていません。フェントンに気を遣ったのだと思います。
しかし、明治12年(1879年)に、ドイツから軍楽教師エッケルトを招請して海軍軍楽隊の指導を受けたのを機にエッケルトはこの曲を手直しします。色々とあり(不明な点が多々あります)、宮内省雅楽課の雅楽師に作曲を依頼します。雅楽師が数点の曲を作り、その中から現行の「君が代」の節回しの曲が選ばれ、それをエッケルトが編曲して楽譜にしたのが、明治13年10月25日のことです。日付入りのエッケルト直筆楽譜が残っています。しかし、エッケルトは編曲をしたので「作曲」は別人です。そして実は君が代の作曲者は不明です。
今では、奥好義(おく よしいさ)と林広季(はやし ひろすえ)の合作だったことが概ね判明しています。「概ね」と申しますのは、表向き現行「君が代」の作者名は林広守(はやし ひろもり)になっているからです。林広守は宮内省雅楽課において奥好義と林広季の上司です。「君が代」候補作選抜にも携わっています。その関係で、名前を出したのでしょう。しかし、林広守は「君が代を作曲していない」と書き残しています。色々と謎が多いですね。
当初「君が代」は主に海軍軍楽隊で演奏されました。海軍が一番、諸外国と交流があったからです。当然、陸軍や文部省は面白くなかったのでしょう。その辺りのことは、参考文献1に詳しいです。興味があれば、ぜひお読みください。

色々な経過を経て「君が代」は広く国歌として歌われるようになりました。色々と「君が代」についての考察はあるでしょうが「国歌としては世界一古い詩歌」を我々が歌っていることは確かです。君が代は作詞者も、作曲家も不明で、選考過程も不明、すべて「曖昧」です。それも何となく日本に似つかわしく思います。
以上、1000年も前の文章が普通に読めるのが日本語の特徴であることが、「君が代」を通してもおわかりになるかと思います。しかし、これは「君が代」だけではありません。和漢朗詠集の和歌のうち、三分の一くらいは現代人でも、普通に読めます。残りの三分の二も、古語辞典があれば読めます。繰り返しますが、日本語は文法がほとんど変わっていないから読めるのです。

注1:

「古今和歌集」は、「和」というのは日本のことですから(大和の和です)、「古きから今風の歌まで集めた日本の歌集」というような意味でしょう。

注2:

国立博物館所蔵の国宝の「和漢朗詠抄」をデジタル画像で見ることができます。良い時代です。
http://www.emuseum.jp/detail/101065/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=49&num=3
現物は読めないので、テキストファイルにしたのがこちらです。
http://j-texts.com/chuko/wakanroah.html

注3:

2010年 春の選抜甲子園大会開会式での国歌斉唱です。高校生の独唱です。1000年も前の「詩」を朗々と、高校生が歌っています。なんとも良い光景だと思います。 https://www.youtube.com/watch?v=nSKUxKsLUNU

注4:

君が代が国歌として法律で定められたのはごく最近(1999年=平成11年)のことです。

【参考文献】

  • ふしぎな君が代:辻田真佐憲著 幻冬舎新書
  • 和漢朗詠集:角川ソフィア文庫など
  • 古今和歌集:岩波文庫など

望月吉彦先生

望月吉彦先生

所属学会
日本胸部外科学会
日本外科学会
日本循環器学会
日本心臓血管外科学会
出身大学
鳥取大学医学部
経歴
東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学)
獨協医科大学教授(外科学・胸部)
足利赤十字病院 心臓血管外科部長
エミリオ森口クリニック 診療部長
医療法人社団エミリオ森口 理事長
芝浦スリーワンクリニック 院長

医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階
TEL:03-6779-8181
URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/

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