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023:3億人を病魔から守り、地球上から2つの病気をなくしつつある薬の開発者(望月吉彦先生) - ドクターズコラム

大人の健康情報

望月吉彦先生

更新日:2015/10/08

今回のドクターズコラムは、このたび大村智先生がノーベル医学生理学賞を受賞されたことを記念しまして、2014年10月に当クリニックのメールマガジンにて配信しました先生に関するコラムを公開当時の文章のまま掲載いたします。

今、一週間に一回、一ヵ月に一回、半年に一回服用すれば済むようなお薬の開発研究が進められています。間隔をあければそれだけ服用が楽だからです。私の知る限り、現在実用に供されているお薬で投与間隔の最長期間は一年です。そのお薬の一種類しか無いと思います。実は、そのお薬のおかげで今、地球上から二つの病気が消失しつつあります。人類の歴史で厳密な意味での「お薬」によって病気が根絶した事は無いのではないか?と思います。天然痘は撲滅されましたが、ワクチンでの撲滅ですので厳密な意味での「お薬」とは多少違います。

さて、その一年に一回飲めば良いお薬を開発したのは日本人で北里研究所の大村智先生です。あまり知られていない方です。しかし、何度もノーベル賞(医科生理学賞、化学賞、平和賞)の候補になっている(らしい)です。ノーベル賞の登竜門とも言えるラスカー賞も受賞しています。
治療対象の病気が日本や先進国ではあまり見られない病気なのであまり知られていないのかもしれませんが、世界的にはとても評価が高いのです。日本でも解っている人は解っていて文化功労者になっています。
そういう評価は別にしても、なにより既に3億人を病魔から守っているのです。色々なお薬があるけれど、はっきりと病気が治る(それも一年に一回の服用)お薬は少ない。そういうお薬を発見した化学者です。今回はその「大村智先生」をご紹介しようと思います。

大村先生

微生物の「力」への目覚め

大村先生は1935年山梨県韮崎市に生まれ、韮崎高校から山梨大学学芸学部(現:教育学部)に進学、勉強はもちろんのことスキー(長距離)に励んだとあります。特にスキーでは山梨県選手権で優勝をして日本一を目指すべく長野県でオリンピック選手を多数輩出した指導者の下で特訓につぐ特訓をしたのですが、北海道の選手には歯が立たず日本一にはなれませんでした。しかし、日本一を目指した経験は後年の研究に役立ちます。「ほかの人と同じ事をやっていては一番になれない」と心底感じたと後に述懐しています。

1958年、山梨大学卒業後、「都立高校の定時制(夜学)の先生」になりました。ここがターニングポイントで、昼間に教える「普通の都立高校の先生」という選択肢もあったのですが、あえて「夜学の先生」を選んでいます。「夜学の先生」なら自分の勉強が昼間出来るのではないかと考えたからで、そのとおり、昼間は自分の勉強(語学etc)にいそしみ、夜間は熱血教師として勤労学生を教えます。

そういうなかで縁があり、大村先生自身が東京理科大学大学院に進学することになります。
実験は細切れ時間では良い成果が出ないので土日を含めて週のうち三日は寝袋を実験室に持ち込んで夜も昼も実験をしていたと言うから凄まじいです(ほかの4日は昼間は勉強、夜は夜学の先生をしています)。
修士課程を修了後、1年間山梨大学の発酵生産学科の助手として勤務します。山梨はワインの産地で発酵の研究が昔から盛んです。ここで微生物の「力」に目覚め、これが後年の大発見につながります。

その後、1965年北里大学の泰藤樹先生(注:抗生物質ロイコマイシン発見や抗がん剤マイトマイシンの発見で有名)の教室の研究員になります。秦先生が1956年に発見した抗生物質ロイコトリンはその構造が不明だったのですが、大村先生は東京理科大で学んだNMR(核磁気共鳴装置)などを用いた分析手法でその分析に成功します。その一連の仕事で東京大学から薬学博士号を、東京理科大から理学博士号を取得することとなります。

これらの業績が評価され、ついにアメリカに招請されてウェスレーヤン大学に客員教授として赴任します。この時、いくつもの大学からオファーがあったそうですが、一番給料が安いけど「勘」で何となく「良さそう」に感じたのが同大学だったそうです。結果的にそれが後の抗生剤の発見や海外企業からの研究費導入に結びついています。
なぜかと言うと同大学に招いてくれたティシュラー教授は、元メルク社の研究所長であったため、メルク社と縁が出来たのです。なお、当時あまりに仕事をしすぎたので体調を崩し、体調管理のためにゴルフをするようになります。それがまた後の大発見につながります(??)。

閑話休題。アメリカの研究費、研究体制を見て、とても日本の研究体制、研究資金では太刀打ちできないと感じます。それで帰国後の1973年に上記のティシュラー教授を介してメルク社と契約を結びます。産学協同などという言葉が無い時代の話だから凄い話です。どういう契約であったかを簡単に言うと、

  • メルク社は北里研究所に約800万円/年の研究費を寄付する
  • 北里研究所は土壌中などから新しい細菌や細菌が作る物質をメルク社に提供する
  • もし、そういう細菌や物質で特許がとれて製品化が実現したらパテント料を北里研究所に支払う

という契約でした。よほど研究者として見込まれたのだと思います。今ならこういう契約も普通ですが、これは40年前の話です。先見の明があったのでしょう。

ゴルフ場周囲の土に…

ゴルフ場

そして、大村智先生にも例のセレンディピティが生じます。
たまたまゴルフ(上述の健康のために始めたゴルフです)で静岡の川奈ゴルフ場に行った際、ゴルフ場周囲の土を採取します。その土に新種の放線菌(Streptomyces avermitilis)を見いだします。これが“当たり!”だったのです。
この菌をメルク社に提供、この菌が産生するエバーメクチンから合成された『イベルメクチン』という物質の投与で牛馬の寄生虫をほぼ100%駆除することが出来たのです。1981年商品化され世界中の家畜に使われ動物薬の売り上げトップに躍り出ます。

これでお終いではなく、このイベルメクチンは人の寄生虫に効くことが判明します。この病気は「オンコセルカ症」でブユ(ブヨ)を介してヒトからヒトへ感染します。感染者の2割は失明する恐ろしい病気です。ブユが川沿いに生息するため「河川盲目症」とも言われています。この病気にイベルメクチンが特異的に良く効くことが判明したのが1982年の話です。しかもなんと一年一回の投与で効くのです。ただし、この寄生虫は14年間ヒトの体内で生き続けるので14年間は一年に一回の投与が必要です。そういうことが判明しWHO を介して1988年からメルク社の無償供与が開始されています。
また、『イベルメクチン』は「オンコセルカ症」の他に「リンパ系フィラリア症」にも効くことが解りました。こうして、主にアフリカで使用され、2012年には3億人以上の方に投与される世界最大の薬になっています。この薬のお蔭で「オンコセルカ症」は2025年に、「リンパ系フィラリア症」は2020年には撲滅が予想されています(一般に抗生物質、抗菌剤は薬剤耐性が生じて苦しむのですが、一年に一回の投与では耐性が出来づらいのだと愚考しています)。

北里研究所には、このイベルメクチン関連で250億の特許料がメルク社から支払われ研究に使われています。ほかにも大村先生が発見して世界的に使われている物質は20数種あり、どれもこれもとても重要な物質なのです。研究者として何より凄いのは巨額の研究費を「自前」で捻出していることです。日本の科学史上、恐らく他に類例が無い。初めてだと思います。普通は税金から拠出される科研費、企業での研究費、寄付金等々を利用します。それもなかなか研究費は回ってきません。研究者の皆さんは苦労しています。大村先生は経営の才もあり、縁があって女子美術大学(女子美大)の経営相談を受け、同大学の経営を立て直した(現在、女子美大の理事長を勤めています)ので、同大出身の有名女流画家から沢山の絵の寄贈を受け、埼玉県北本市にある北里大学メディカルセンターはまるで美術館の様になっています。そしてついには故郷韮崎市に大村美術館(女流画家専門美術館です)まで作っています。ちなみに女流画家から大村先生はとても「モテル」のだそうです。こういうモテ方は良いですよね。あやかりたいです。

なんだか昔話「わらしべ長者」の話を聞いているみたいですね。一般に伝記は破綻した方が面白いのですが、この伝記(参考文献1)は実に面白いです。是非、お読みください。

なお、大村先生は2014年の「ガードナー国際保健賞」を受賞(注2)した事が最近報道されていました。とにかく、大村先生の事はもっと知られて良いと思っています。なお、私の実家は甲府で実家に帰ったときに大村先生の話をしたら、なんと大村先生のお姉さんと私の母は昔からの友達で母は大村先生にも会った事があると話していました。世間は広いようで狭いです。

大村先生の伝記 大村先生のサイン

【参考文献】

  1. 大村智 - 2億人を病魔から守った化学者:中央公論新社
  2. http://www.kitasato.ac.jp/new_news/n20140331.html
  3. http://www.senri-life.or.jp/lfnews/lf_pdf_64.pdf

【注記】

北里大学、北里研究所の北里の英語表記は「KITASATO」です。従って北里は「きたさと」と読むのでしょう。一方、北里柴三郎の郷里にある「北里柴三郎記念館」の英語表記は「SHIBASABURO KITAZATO MUSEUM」です。つまり北里柴三郎は「きたざと」と呼ばれている(いた)事がわかります。混乱の元は北里柴三郎がドイツ留学したからで英語流に「KITAZATO」と書くとドイツでは「キタツァート」になってしまうのですね。ドイツ語で「キタザト」と読ませるなら「KITASATO」です。ドイツ語で「sa」は「ザ」と発音するからです。北里柴三郎は西欧言語で論文を書くとき「KITASATO」を使っていました。北里柴三郎自身、後年「きたさと」とも呼称していたそうですので余計にややこしいですね。
今、北里柴三郎の書いた論文を読むのは大変です。「破傷風菌」「ペスト菌」の論文を読もうと思っても簡単ではありません。東京慈恵会医科大学の創始者の高木兼寬先生の「食事により脚気が発症しなくなった」という有名な論文は東京慈恵会医科大学のサイトから誰でも読めるようになっています。慶応義塾大学、北里大学も北里柴三郎の書いた論文を読めるようにして欲しいですね。いつも思うのですが、偉人が書いた論文を(著作権が切れていれば)、簡単に読めるようになれば良いなと思っています。
文献1.は北里柴三郎が書いたペスト菌発見の論文、文献2.は破傷風菌発見の論文です。どちらも100年以上前の論文です。こういう論文をさっと読んでみたいですね。

  1. 「The bacillus of bubonic plague」 Lancet August 25, 428-430, 1894
  2. 「Ueber den Tetanuserreger.」Dtsch. Med. Wscher. 1889 15, 635-636

望月吉彦先生

望月吉彦先生

所属学会
日本胸部外科学会
日本外科学会
日本循環器学会
日本心臓血管外科学会
出身大学
鳥取大学医学部
経歴
東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学)
獨協医科大学教授(外科学・胸部)
足利赤十字病院 心臓血管外科部長
エミリオ森口クリニック 診療部長
医療法人社団エミリオ森口 理事長
芝浦スリーワンクリニック 院長

医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階
TEL:03-6779-8181
URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/

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