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191:陸軍の名将「今村均大将」の話(1)(望月吉彦先生) - ドクターズコラム

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望月吉彦先生

更新日:2025/02/03

名将の話が、なぜか、当クリニックと関係の深いエミリオ森口先生につながります

今回と次回(3月更新分)では、旧日本帝国陸軍の大将だった方を紹介します。その方に関連した本を読んでいたら、当院と関係の深いブラジルのエミリオ森口先生(ブラジル、リオグランデ・ド・スル連邦大学大学院教授)の話が出てきました。びっくりしました。世界は広いようで狭いです。エミリオ森口先生に関するお話は次回で紹介します。

はじめに

本屋さんで岩井 秀一郎著「今村 均 敗戦日本の不敗の司令官」(PHP新書:2023年)という本を見かけました。陸軍大将だった今村均(1886年-1968年)に関する著書は、自著も含め、多数出版されています。雑誌などでも度々、特集が組まれたりします。直近では2023年12月号の文藝春秋に「今村、本間、栗林:旧制中学出身の非主流派は戦場で活躍する」と題されて紹介されていました。

その今村の名前を広く知らしめたのは角田房子(1914年-2010年)が書いた
「責任 ラバウルの将軍今村均」(ちくま文庫)
だと思います。
医療に関係無い同書を読んだのは、角田の著書「碧素ペニシリン物語」(新潮社 1978年)がきっかけです。この本は大戦末期、物資も情報も乏しい中、日本全国の医師、科学者、軍人、民間企業人が知恵を絞り、工夫を重ね、あっという間にペニシリン(和名:碧素 へきそ)を作ることに成功、実際に患者さんに投与するまでを書いた物語です。大変残念なことに『碧素ペニシリン物語』は廃刊となっています。名著なのにとても残念です(ペニシリン関係については文末の注をご参照ください)。
同書を読み、角田の行き届いた調査に驚き、同氏の著書を読むようになり、その中の一冊が上掲書「責任 ラバウルの将軍今村均」だったのです。これも名著です。この本が刊行されたのは1984年です。この時、すでに今村は鬼籍に入っていましたが、太平洋戦争時に今村と接していた兵はこの時、60-70代です。角田は今村均と接した元兵士に直接取材しています。今なら、この本を書くことはできません。

本題に戻ります。
角田房子著「責任 ラバウルの将軍今村均」を再読しました。まとめてみます。今の時代に今村大将のことを知るのは色々な意義があると思います。しばしお付き合いください。

今村は心優しい少年だった

今村は、私の故郷 山梨に縁があります。生まれは仙台ですが、裁判官だった父親の転勤で6歳の時に山梨県鰍沢町に移ります(私の本籍はこの鰍沢町(現:富士川町)にあります)。
この地で今村は生涯忘れえない経験をします。それは軽業(サーカスの一種)を演じる子供達にまつわる悲しい思い出です。当時、軽業小屋で、扱き使われていた子供達の多くは捨て子で過酷な環境で過ごしていました。殴られたり、蹴られたりが普通だったのです。鰍沢でそういう可哀想な少年を見た今村少年は心を痛めます。
「かわいそうだ」
そう思ったのです。そういう彼の心情が後年、彼の命を救います。

今村少年は夜尿症だった

今村は夜尿症で苦しめられます。寝小便をして、毎晩のようにお布団を汚すのです。なんとも、親しみがある話です。
小学校の時、宿泊を伴う遠足がありこの悩みを担任の先生に打ち明けると、先生は横に寝てくれ、数時間おきに今村を起こしてくれ、寝小便をしないですんだとあります。この先生のことを終生懐かしみ、尊敬していました。
長じても、夜中に何度もトイレに起きるのは変わらず。昼間眠くて仕方なかったとか、授業中あまりに眠くなるので唐辛子を噛んでいて教官にひどく怒られたことがあったそうです。

陸軍大学校を首席で卒業

小学校は甲府の冨士川小学校(現:善誘館小学校)に進みます。甲府中学(現:山梨県立甲府第一高等学校)に進学するも父親の転勤のため新潟の新発田中学(現:新潟県立新発田高等学校)に転校、その後陸軍士官学校、陸軍大学校を首席で卒業、陸軍の軍人になります。
元々は文学少年で文系の大学を志望していたのですが、新発田中学を卒業後、父親が急逝したので学費のかからない陸軍士官学校に進学。人生、わからないですね。
今村が入学した年の陸軍士官学校には陸軍幼年学校からの学生はいませんでした。異例の年だったのです。この年に陸軍士官学校に入学した全員が今村と一緒で旧制中学出身でした。日露戦争などがあったためです。この学年の陸軍軍人は上掲の2023年12月号の文藝春秋で紹介されているように「旧制中学出身の非主流派は戦場で活躍した」のです。

イギリスに武官として駐在、帰国時に禅の高僧と知り合う

今村は陸軍軍人として出世します。1918年-1921年、英国に滞在、大使館付き武官補佐官として過ごします。帰国途中の船中で慈照寺(山梨県甲斐市竜王)の大森禅戒禅師と出会います。これが後の今村の人生に大きな影響を与えました。大森禅戒禅師は後に「曹洞宗管長・永平寺70世貫首・總持寺独住11世貫首」となる禅の世界では有名な方です。こういう方と巡り会うのも「運」でしょう。今村は終生、陸軍時代も「歎異抄」と「聖書」を携えていましたが、特定の宗教に帰依していた訳ではありません。この辺りも、なんとなく人となりを感じます。

太平洋戦争が勃発、陸軍第16軍司令官に任ぜられる

太平洋戦争がはじまり、今村は司令官として、オランダの植民地だったインドネシアに侵攻、3ヵ月でオランダ軍を撃破しインドネシア占領の責任者になります。占領の際、今村自身も起草者の1人だった戦陣訓にある
「服するは撃たず、従うは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全しとは言い難し」
(拙訳:降伏する敵は攻撃しない。服従する者に対しては慈愛の心で接すべし)
に沿って仁政を敷きます。鰍沢で厳しい目に遭っていた軽業小屋の少年を「かわいそうだ」と思っていたくらい、心根の優しい今村は過酷な占領方法をとらなかったのです。しかし、他の占領地の日本軍は、厳しく、暴力的な占領を行っていました。

今村の占領方法は「生ぬるい」と批判され、厳しい占領政策をとるように度々促されますが、「戦陣訓」を盾に占領方法を変えませんでした。東京から今村大将を指導すべくインドネシアに来た日本陸軍指導部も、今村の方法で混乱が生じていないこと、占領地の経済が上手く回っている事などの事情があり、今村を左遷するような事はしていません。

戦後、今村は戦犯として裁かれていますが、死刑にはなっていません。過酷な占領政策をとっていた他占領地の司令官の多くは「死刑」となっています。
「情けは人のためならず」
を地で行っているような話です。
なお、インドネシアのスカルノ(元大統領、日本人にはデヴィ夫人の夫で有名?)は占領軍の今村と親交を結びます。戦後オランダ軍に捕らえられた今村を、スカルノは、救出しようと試みています。これは今村が断っています。潔い話です。

ラバウルの司令官として活躍

インドネシアからラバウルの司令官に任ぜられ異動しています。ラバウルの場所は私もよく知りませんでした。下記、地図を参照してください。日本からは随分と離れています。

ラバウルの地図1 東南アジア
ラバウルの地図2 パプアニューギニア
ラバウルの地図3 ニューブリテン島

ニューブリテン島全部を守っていました。「島」ですが、九州全体とほぼ同じくらいの広さです。これを10万の兵で守るのは大変だったと思います。

ラバウルの地図4 航空基地

航空基地はラバウルだけですが陸軍と海軍でニューブリテン島全体を守っていました。

1942年、今村はラバウル(パプアニューギニアの ニューブリテン島)に司令官として赴任。ここには陸海軍の軍人が10万人もいました(陸軍は7万人)。今村はガダルカナル島の悲劇(餓死者多数)を見ていたので、ニューブリテン島で農作物を作りました。ニューブリテン島に元からある農作物に加え、農業の専門家に相談して日本の農作物も作っていました。これが功を奏し、海軍の補給船が米軍の攻撃により、来なく(来られなく)なっても、陸稲、野菜、etc.を作っていたので、兵は飢えなかったのです。農作業をしつつ、強固な地下要塞を築き(全部で東京-名古屋間と同距離の地下通路を作っていました)、米軍、豪軍と戦い、終戦までラバウルの地を守り抜きました。餓死者はほぼゼロ。戦闘による死者も少なかったのです。名将と讃えられる所以です。漫画家の故水木しげるはラバウルで兵隊生活を送っていましたが、水木は今村から声をかけられた時の印象を「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と述べています。

戦犯となるが自ら申し出て過酷な生活を送る

今村は戦後、インドネシア占領下の事について懲役刑が科され巣鴨の戦犯刑務所に入ります。しかし、巣鴨の刑務所から、自分で志願してニューギニアの小島マヌス(生活環境が劣悪だった)の戦犯刑務所に移っています。巣鴨なら家族にも会えます。差し入れもあります。マヌス島では家族にも会えず、差し入れもありません。
今村が、なぜ、そんな島に移ったかというと、ラバウルで一緒に戦った部下が多数戦犯として同島の戦犯刑務所に入って苦労しているのを見聞きしたからです。自分がマヌスまで行って、苦労している元部下と共に過ごすことを希望したのです。読んでいて「あ り え な い」と思いました。当時の新聞に、マッカーサーが「今村の申し出に真の武士道を初めて見た」と言ったと報じられています。結局、昭和29年の刑期終了までマヌス島で部下と共に過ごしています。ラバウルでも行っていたのと同様に日本から農作物の「種」を持ち込んで農作物を作っていました。作業終了後の夜には元部下に英語や国語などを教えていたとあります。

刑期終了後はさらに凄い

さらに凄いのは「刑期終了後」です。東京の自宅の庭に3畳の自称「幽閉小屋」を作り、この部屋で戦死した部下を弔い、生き残った部下を助けるような仕事をしていたのです。家族の話によると「戦争中のことを書いた本を多数出版、その印税で元部下の生活援助をしていた」らしいのです。「援助をしていた」と言わないところに「責任」への考えが現れていると思います。戦争孤児への支援もしていました。死ぬまで自分なりに「責任」をとっていたのです。誰かに聞かせたいですね。

「責任 ラバウルの将軍今村均」を書いたきっかけは甲府の開業医

「責任 ラバウルの将軍今村均」の後書きを読んでびっくりしました。今村について角田が書くきっかけを作ったのはなんと「甲府の病院長、古守豊甫(こもりとよすけ)」だと書いてあります。後書きから当該箇所を抜粋します。

「古守豊甫さんから今村均大将こそ、あなたが書くべき題材」
「古守さんはラバウルの軍医で晩年の今村均と親しかった」
「私(筆者注:角田の事)はすでに阿南惟幾、本間雅晴、甘粕大尉について書いていて、もう陸軍軍人について書くつもりはなかった」
「古守さんから、今村についての血の通った資料が続々と送られてきた」
「資料の中の今村について戦後の部分だけ拾い読みしていたがこういう軍人もいたのかと驚き、彼への関心が急速に高まった」
「今村にのめり込んで3年を費やした」
「その取材中に多くの将校、兵士、軍属といった「赤紙で徴兵された」方と話すことができた。今村のおかげだ」

角田房子が今村均に、どんどん、ひかれていく様子がわかります。

つまり、角田の著書は古守先生無くしては書かれなかったのです。古守先生のことは次回で紹介します。天才とか超人と評しても良い医師です。そして今回、その古守先生の著作を読んでいたら、なんとブラジルの森口先生のことが書かれていました。思わず「えええええ!」と声が出てしまいました。ある医学研究で古守先生が世界的に有名になったこと、森口先生と古守先生の関係、古守先生がラバウルまで持っていってとても大事にしていた「紙」を私が持っている理由などを紹介します。

なお、上記の今村均大将の「3畳の幽閉小屋」は山梨県韮崎市に移築されて現在も残っています。そのことも次回で紹介します。乞うご期待。

注:「韮崎靖国の家 今村均大将謹慎室」の方から提供して頂いた写真です。

韮崎に移築された今村均大将の「幽閉小屋」(山梨県韮崎市穂坂町権現台)

【参考文献】

  • 角田房子 著:責任 ラバウルの将軍今村均(現在、ちくま文庫)1984年
  • 岩井秀一郎 著:今村 均 敗戦日本の不敗の司令官 (PHP新書)2023年
  • 文藝春秋 2023年12月号
  • 水木しげる:カランコロン漂泊記(小学館文庫)  など

注:ペニシリン関係の考察

ペニシリン関係の論考は以下のサイトに7つに分けて紹介しています。お時間がありましたらお読みください。
「碧素 ペニシリン物語」についても紹介しています。

望月吉彦先生

望月吉彦先生

所属学会
日本胸部外科学会
日本外科学会
日本循環器学会
日本心臓血管外科学会
出身大学
鳥取大学医学部
経歴
東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学)
獨協医科大学教授(外科学・胸部)
足利赤十字病院 心臓血管外科部長
エミリオ森口クリニック 診療部長
医療法人社団エミリオ森口 理事長
芝浦スリーワンクリニック 院長

医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階
TEL:03-6779-8181
URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/

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