望月吉彦先生
更新日:2024/01/06
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。昔は年齢を数えで表していました。「数え年」ですね。数え年だと、出生時に1歳です(なんとなくこちらの方が正しい?ような気がします)。そして元旦を過ぎると1つ年を取ることになっています。
正月は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし 一休
正月を越すことができたのはめでたいが、一歩、あちらに近づくことになる無常を詠んでいます。一休らしいですね。
さて、正月の風物詩の1つに書き初めがあります。縁起の良い文字を書き初めで書きます。
今回はめでたい「書き初め」に関する話です。
10代の頃から開高健を読み始めました。高校の教科書に彼の「青い月曜日」が載っていて面白かったからです。ちなみに「青い月曜日」で、1番面白く大事な場面は教科書に載っていません(笑)。なお現在、高等学校の国語は文学的な文章を学ぶ「文学国語」と論理的な文章を学ぶ「論理国語」にわけられ選択できるようになっています。大学入試を考えると「論理国語」が重んじられるようになり、文学作品は高校で教えられる機会が少なくなると予想されています。それはかなり寂しい話です。
閑話休題
開高健の作品はほとんど読みました。中に吉行淳之介との対談集があります。
『街に顔があった頃』(吉行淳之介・開高健/著 TBSブリタニカ・ペーパーバックス 1985年:絶版)
昭和20年代後半~40年頃にかけての盛り場の風景を2人で懐かしがって語っています。浅草、銀座、新宿を語り明かしています。
吉行淳之介は、対談の名手として有名で「軽薄対談」「面白半分対談」「恐怖対談」etc.多数の対談集を出版しています。
開高健は吉行淳之介との対談について以下のごとく記しています。
「大兄にはいつも感服させられるけれど、話させ上手、聞き上手であって、また“間”の とりかたが巧みなので、ついつい井戸水がわいてくる。もちろんこれには“人生”の甘い辛いを、したたかに通過しておかねばならないし、たっぷり身銭を切って元金をふりこんでおかなければなるまい。その涙と吐息でふりこんだ元金からあがる利息が、そのようなものが、一言半句のはしばしに顔を覗かせるのである」
井戸水とか、身銭を切って元金をとか、涙と吐息でとか、開高健らしい表現です。真似ようと思ったけれど難しいですね(注:大兄とは吉行淳之介のこと)。
一方、吉行淳之介は開高健との対談について以下のごとく記しています。
「しかし、その相手というのは、博学多識、機知縦横、美味求真にして鯨飲馬食、『もっと遠く!』 『もっと広く!』 『オーパ!』ともっと大声で叫べという、かの「開高健』だと聞いて、承諾する気になった。」
そういう両者の対談です。面白い。絶版になっているのが、残念。二人で何を語り合っているかというと、もっぱら盛り場にまつわる「猥談」です(笑)。よくもまあ、、こんな話を仕入れたナ、相当授業料を払っているナと思って楽しく読めます。
両者の対談で正月の書き初めの話が出てきます。
『街に顔があった頃』に
「名筆で初春を寿ぐ」
という一項があります。
引用します。
前半部省略
吉行 :ウルトラCの演技だな。
開高:それから字を書くのもあります。○○○に墨汁をひたした筆をはさんで……。
吉行:馬という字を逆さに書く……。
開高:私が浅草で見たのでは、続け字で「江戸一代女」。「寿」というのもあった。
吉行:それは、新字体でしょうね(笑)。
開高:もちろん略字で「寿」ですが、最後の点は打ってあった(笑)。古畳に半紙をのせて、四隅をピンで止めて、その上へ□□□が跨って墨痕淋漓、何枚も書く。で、その一枚を千円でもらってきました。
吉行 :もらったのにはワケがありそうだな。
開高: そう。翌日、重役の一人に見せる。「これは、篠田桃江さんではないさる女流の名筆で、莫大なゼニを払って戴いてきましたが、このまま新年の全紙広告に使おうと思います」なんて言ったわけよ。「男の強い手首で書いたみたいで、達筆でしょう」とか念を押してね。すると重役も「女にしてはなかなかすごいなあ」なんて感心するんだワ。
吉行:たしかに名筆には違いないものね。
開高:それからが大変。黒地に白抜きしてみたり、白地に墨のせにしてみたり、アミをかけたり、朝・毎・読、一紙ごとに変えましてね、全紙広告に仕上げてしまった。 全紙いっぱいにたった一字「寿」とおき、 ワキに、「まためぐりくる 王城の春に捧げる この無声歓呼」 などと書いてね。これが元旦、全部に出たわけです。
こっちは宿酔、寝床のなかでよれよれの目で確かめ、ウフフフと陰気な笑い…… こういうダダイズム的反撃をやった。サラリーマンの儚い抵抗ですわ。
これを読んでいて遠い昔のことを思い出しました。大学に入ってすぐの新入生歓迎コンパがあり、その流れで怪しいところに連れて行かれました。怪しいところの女性に「入学祝いに兄ちゃんの名前書いて上げる」と言うので一字だけ書いてくれました。「望」の字です。とっくにどっかに行ってしまいました。残念。それからそういう「芸」は見た事がありません。
閑話休題
開高健は正月元旦の全国紙の新聞を使って“いたずら”をしたのです。何故「寿」という字を選んだのか?
サントリーは1963年まで「壽屋」でしたから、正月のめでたさの「寿」と寿の旧字体で社名の「壽」にかけたのだと思います。
ここからが本題です。ある日、この話は本当かな?と思い始めました。
開高健記念会のホームページに開高健の経歴が載っています。それによると、
「1954(昭和29)年 【24歳】2月 寿屋(現・サントリー)に入社、宣伝部員に。」
「1963(昭和38)年 【33歳】10月 サントリー嘱託を退職。」
とあります。サントリーの宣伝部に在職したのは彼が24歳~33歳の時です。その年齢で、大金がかかる正月元旦の新聞紙一面全面広告でいたずらができたのでしょうか?そんな力が開高健にあったのか、疑問に思い始めました。
調べるのは簡単でした。
最初にインターネットで調べてみました。有名な逸話です。いくつかのサイトで「名筆で初春を寿ぐ」を取り上げています。
曰く、
「開高健一流の反骨精神を現した」
「権威を転ばす開高健らしいいたずら」
「開高健一流のシャレである。素晴らしい」
など、開高健のいたずらを賞賛するサイトが多いのです。
開高健のいたずらが本当なら、その特殊技能を用いた「寿」を見てみたいですね。だからナンダという話ですが、酔狂なこと、好きなんです。調べるのは簡単でした。調査は15分で終了しました。
「開高:全紙いっぱいにたった一字「寿」とおき、中略、これが元旦、全部に出たわけです」
とあります。開高がサントリー(元壽屋)に在籍していた時の正月元旦の新聞紙面調べました。1955年正月から1963年正月の新聞を調べれば良いのです。
こういう古い新聞の縮刷版が揃っているのは、国会図書館です。土曜日も開館しています。国会図書館利用には登録利用者カードが必要です。国会図書館では医学論文の検索もできますし、論文コピーもできます。利用しない手はないですね。
マリー・ストープス(Marie Carmichael Stopes:1880-1958)のことを調べたとき、国会図書館に行ったので、ついでに開高健正月のいたずらを調べたのです。
朝日新聞、毎日新聞、読売新聞の縮刷版で元旦の新聞を見てみました。どこにも開高健のいう一面全部を使って掲載した「寿」の広告はありません。
結論:開高健が自慢しているような広告はない。
どこにも無いです。それらしい広告はあります。
1959年1月1日 毎日新聞の広告:完成したばかり(1958年12月23日竣工)の東京タワーの写真があり時代を感じます。
1959年1月1日 朝日新聞と同年1月3日の読売新聞の広告 同じです。
「寿」という字を使った広告はこの2種類しかありせん。開高健が言う元旦の全面広告なら、毎日新聞の広告です。確かに元旦の全面一杯の広告ですが、どうみても活字の「寿」です。朝日新聞、読売新聞の広告も筆で書いた字ではないですね。
というわけで開高健は嘘をついていたことになります。多分、オイタをしようと試みたのは本当でしょう。しかし、さすがに誰か気がついてストップをかけたと愚考します。
この小文を開高健が読んだら
「センセ、小説家言うんは嘘吐きでっせ、センセのようなのを不粋言うんや」と呟かれるかも……
終
開高健の名コピーを紹介します。
“「人間」らしくやりたいナ トリスを飲んで「人間」らしくやりたいナ 「人間」なんだからナ“
サントリー宣伝部には開高健(芥川賞)、山口瞳(直木賞)がいて名宣伝を多数作っています。
1934年1月1日 朝日新聞の広告の上は「美智子様」です。時代を感じます。
望月吉彦先生
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