望月吉彦先生
更新日:2023/10/30
本論の前に少しだけCOVID-19について考察をしたいと思います。
今回のコロナ禍で感じたのは「感染対策には、何らかの方法を用いて全ての医療機関の医療データを収集し分析することが必要」だということです。アメリカには1946年からCDC(Centers for Disease Control and Prevention:アメリカ疾病予防管理センター)があり、コロナのようなパンデミック時には指導的役割を果たします。そのCDCでさえ今回の様な新しい病気の対処に成功したとは思えません。新しい病気への対処は簡単ではないと思います。
今回のコロナ禍でもアメリカのCDCは様々な情報収集を行い分析していると思います。CDCには本部職員だけで8,000人もいます。COVID-19に関する論文は多数発表されています(COVID-19関連で39万もの論文が出版されています@ 2023-10-06(by Pubmed))。そういう論文を分析するだけの部門もCDCにはあります。
2020年3月3日、当時の総理大臣の故安部晋氏は国会答弁で「米国の疾病対策予防センター(Centers for Disease Control and Prevention)のような組織も念頭に置きながら、組織を強化していくことは重要な視点だ」と言っていました。
2023年になり、日本版CDC に関する法案が提出されました。それによると日本版CDCは「国立健康危機管理研究機構」と命名されました(参考:日本版CDC 名称は「国立健康危機管理研究機構」に 法案提出へ(NHK))。
名前はともかく、実効力のある組織になると良いですね。
これからも新しい感染症が出現すると予測します。今回のコロナ禍を正確に分析し、次に備えることが必要だと思います。
上記と関係しますが、「感染症対策にはIT技術を用いた分析が必要」というのが持論です。
日本はITが進んでいると思う方がいるかもしれません。下に令和2年(2020年)に発表された電子カルテの普及率を示します。決して進んでいるとは思えないですね。
1.上記の表を見ても解るとおり日本の電子カルテ普及率は50%を越しました。しかし、未だに、紙の手書きにこだわる医師が多いのです。某大学病院は5年前まで電子カルテを使っていませんでした。それゆえにでしょうか?、その大学病院に患者さんを紹介しても、紹介した患者さんに対する返事が来ることは稀でした。
2.上記の表で1番の問題は「和暦」を使っていることです。令和の時代になって平成20年が2008年で、今から15年前とすぐにわかる方がいらっしゃるでしょうか? 多発する銀行ATM障害も「和暦」が原因の1つだそうです(参考:「1989年5月7日」や「平成3元年」、令和対応トラブルが日本全国で相次ぐ(日経クロステック))。 昭和は12月25日から、平成は1月8日から、始まりました。令和は5月1日から始まりました。和暦だけしか書いてないと年齢を計算するのも面倒です。日本の公的書類は、基本、和暦での記入を求められます。マイナンバーカードも誕生日は和暦で記されています。和暦の「文化、伝統」は尊重しますが、それはそれ、これはこれで、公的文書は全て和暦と西暦を併記すべきだと思います。
3.私は電子カルテを使って20数年になります。電子カルテを使っていると同じ病院で自分の患者さんが他の診療科に受診してもその診療科のカルテも見ることができます。紙カルテだとそれには面倒な手続きが必要です。
4.北欧諸国では、ほぼ全ての医療機関が電子カルテを使っていて、インターネットを介して情報共有ができています。他の医療機関データも見ることができます。データはクラウドにあり、天災や人災で病院のデータが壊れてもクラウドに残っていれば翌日からPCがあれば診療ができます。日本でもクラウド利用の電子カルテシステムも普及し始めましたが、まだまだです。
5.一方、日本は……。言わない方が良いですね。2015年時点ですが、日本○○会の方針は「○○会としては、カルテの電子化は必須とは考えていない」と堂々と宣言しています。だから日本では遅々として医療機関のIT運用が進みません。
6.デンマークは電子カルテがほとんどの医療機関で使われていますが、電子カルテソフトを作っているメーカーがたくさんあり、インターネットでデータを共有できていなかったのです。それを2006年には共通項目だけは見られるようにしています(参考:デンマークの医療の効率化とIT(ジェトロ))。 日本はこの点でも、遅れに遅れています。
7.フィンランドの電子カルテシステムには富士通が開発したシステムが使われています。医療機関同士の情報の共有が可能になっています。 日本もそういうシステムの導入が必要だと思います。日本では別な医療機関に行く度に同じような採血、レントゲン、検査をされます。無駄です。
8.コロナ禍で解ったことは先進国、東南アジア諸国はインターネットで病院間がつながっていて情報共有ができることでした。それらのデータは各国の厚生担当者が瞬時に見ることができます。だから政策決定が早いのです。日本ではCOVID-19関連のデータは診療終了後に医師が入力していました。ネットが使えない医師は、FAXでデータを保健所に送っていました。これは、しかし、罰則規定のない登録です。データ入力は厄介で時間がかかりました。どれくらい正確だったのでしょうか?
9.ほとんどの国で、日本の厚労省に相当する行政機関は、医学知識のある人がコロナに対する施策や情報を発信していました。スウェーデンがその代表ですが毎日、テグネル医師がコロナに対する現状と対策を発表していました。記者の質問にも丁寧に答えていました。テグネル医師はスウェーデン全体の刻々のデータを持っていてそのデータをもとに、記者の質問が終わるまで、時には5-6時間も、毎日質問に答えている様子を見て羨ましく思っていました。一方、日本は、一社一問だけ質問を受け付けるという不思議なルールでの記者会見を行っていました。それも他国に比して、著しく短時間でした。尾身先生は別にして、COVID-19関係の政策説明をするのは医学を勉強したことの無い方です。とても変でした。
以下、本論です。なお文中の“子アイントホーフェン”とは心電計の発明でノーベル生理学医学賞を受賞した“父アイントホーフェン”の「子」です。なお、名前の読み方は難しいですね。オランダ人の名前はできるだけ、オランダ語での発音を取り入れるべきだとは思いますが、簡単ではないです。
さて、前回で敵国人捕虜に関する研究をしている小宮まゆみ氏から東京で亡くなった「アイントホーフェン医師の息子」さんに関する資料を提供して頂いたことを記しました。その資料をお目にかけましょう。なお、話が前後しますが、この中の資料の一部はすでに前回で紹介しました。
小宮さんからのメールには以下のように記されていました。
“子アイントホーフェン”氏を含むオランダ人電気技術者とその家族計22名の日本での生活についての史料としては、
従って私がお答えできることは限られています。
筆者注1:ヘンク・レルス氏の妻アニー氏とは下記のレルス家(4名)の中に記されている「Annie Lels-Visser(アニー)」さんのことです。
最初に日本に抑留されたオランダ人一行22名の名簿が記されています。上記の「アニーの日本抑留日記」に記されていた名簿を頂きました。紹介します。ハーゼンシュタブ家だけ、カナ文字の名前がありません。?と思いましたが、次回紹介しますが、このハーゼンシュタブ家はドイツ系で他の家族と交わらなかったのです。それゆえです。
「アニーの日本抑留日記」内に引用されているG・レーフェンバッハ氏の「日本への強制連行の報告」(1980年)にあるアイントホーフェン氏関連部分もコピーしてくださいました。引用します。
レーフェンバッハ氏「日本への強制連行の報告」
8. 一九四五年になると、B29の日本の都市への攻撃は激しくなった。多くの地域が焼け、明らかに多数の人々が酸素不足で死亡した。私達も一度近所が焼けて、庭に焼夷弾が落ちて来た。この鉄の構造物には爆薬が入っており、地面に一メートルの穴を開けるが、幸いなことに宿舎には命中しなかった。焼夷弾の一つが立ち木に当たり、近くの家も火に包まれたことがあり、私達もパケツの水で消火を手伝った。日本人は私達の奮闘振りにびっくりしていたが、私達はみんな、自分達の家が危ないと思って行動しただけだった。翌日どの家族も、かなりの額のお金の入った封筒をお礼として受け取った。
9. 一九四五年二月、激しい空襲のさなか、ヴィム・アイントホーフェン(筆者注:“子アイントホーフェン”のことです)が肺炎のため、何週間か病に臥した後亡くなった。私達は火葬場に付き添い、ベップ・アイントホーフェンは骨壺に入れた遺灰をオランダに持ち帰った。
やはり前回でもお伝えしたように、“子アイントホーフェン”は肺炎でお亡くなりになっていました。
「アニーの日本抑留日記」の“子アイントホーフェン”に関する該当部分もコピーしてくださいました。引用します(筆者注:文中 ヴィム=“子アイントホーフェン”です。なおこの文章の主語はアーニーさんです。下線は強調として私が記しています、ヴィム=“子アイントホーフェン”のことです)。
「アニーの日本抑留日記」
一日中することもないのに、上の部屋に行かなければならないのは、私達にとっても悩みです。全く暖房がないからなのです。練炭で小さな炎を起こす方法を知っているのはヴィムだけです。これでは私達はもうもちそうにありません。静かに座っているのは、寒さで不可能です。それで縫い物や学校の勉強はお手上げですし、どのように、どこで過ごせば良いのでしょうか?私達はちょっと仕事をしては、後は震えながら部屋の中を一日中歩き回っています。
二月十七日
一月の最後の日に、生田からジェオが病気で帰って来ました。インフルエンザです。翌日はヘンクが39.8の熱で、同じ目の午後にムルク、フリッツとルーキーもです。ムルクは夜になってとても熱が高くなり、布団の中でひどくうわごとを言っていました。私もすぐに高い熱が出始めました。翌朝、ヴィムとティネケも病気になったと聞きました。この家で8名の病人です。幸いポーリーンはしばらくは私達の後についてまわっていましたが、少し後の翌日の午から症状が出てきました。さらにベップも次の日から悪くなり、リークも寝付ききましたが、彼は早めに治りました。みんな風邪に似た一種のインフルエンザです。8日にはお風呂を沸かしました。ベップ、ティネケ、ムルク、私とやはりベッドに臥せていたコリー以外が入りましたが、これで良くなった人は本当にお風呂を必要としていた人のはずです。ヴィムはお風呂の後一日だけ熱が下がり、階下に降りて上に食事を運ぶのを手伝いました。ヘンクが治ってから初めて生田に出かけて留守だったので、私達にも持って来てくれました。それがヴィムを見た最後になってしまいました。彼はまた高い熱で苦しみました。14日にヘンクは仕事の後二階に上がり、彼と少し話して心配しながら降りて来たのですが、ヴィムは奇妙な行動をして訳のわからないことをしゃべったのです 。症状が出てからすでに四日間頼んでいたのですが、良い医者は来ませんでした。翌朝早くベップが私達の部屋をノックして、ヘンクにヴィムの意識がずっとないので、すぐに良い医者を呼んで来て欲しいと頼みました。10時半にやっと医者が来た時には、ヴィムはまさに最後の息を引き取った時でした。急性肺炎!――私はこれを他の人が火葬場に行っている間に書いています。医者からまだベッドから出てはいけないと言われて、残念なことにヴィムに最後の敬意を表することができませんでした。その医者はヴィムの時、手遅れになってから来た人です。私達は全員、とても打ちのめされています。現在の状況を考えると、日本人は適切な火葬とそれに伴う全てのことを、とても丁寧に面倒を見てくれています。昨日は空襲警報が早朝から夜遅くまで鳴り続けたので、火葬は一日延期されました。千機のアメリカの飛行機が、東京の郊外や港の上空にいました。高射砲の音が、ヴィムに対する最後のお別れのようにも聞こえました。今日もまた同様で、朝早くから空襲警報が鳴り、三時間毎に上空には飛行機群が来ています。この悲しみの日々に、私達はこれで少し救われるような気がします。
二月十八日
今夜は途切れなく注意報が出ていますが、今は飛行機は他を攻撃している様子です。二階で男性全員(あと二、三日は家にいて良いとのことです。)と女性達でヴィムの亡くなった部屋の片付けをしています。
アーニーさんの文章からもヴィム=“子アイントホーフェン”がインフルエンザによる肺炎で亡くなったことが記されています。なお、色々と興味深いことも書かれています。
このように色々と“子アイントホーフェン”の死に至る状況が解ってきました。公的記録には内務省警保局の『外事月報』に掲載されたわずかな記録しか無さそうです。私がいくら調べても“子アイントホーフェン”のことが解らなかったのも無理ないことでした。こういう特殊な捕虜の研究者である小宮まゆみ氏のような方でないとこのような事情を解き明かすことができなかったのです。
同氏の紹介で「オランダNPO法人日蘭イ対話の会」という《第二次世界大戦で生まれたわだかまりをいつまでも抱いたままでい続けたくないと願ったオランダ人、日本人、インドネシア人が対話をする会》の代表「タンゲナ鈴木由香里」さんとコンタクトをとることができました。タンゲナさんから貴重な情報を頂きました。
タンゲナさんから「最近エイントホーヴェンさん(筆者注:“子アイントホーフェン”)のお孫さんが、戦時中に日本に抑留された時の記録を出版した」と知らされたのです。
日本でお亡くなりになった“子アイントホーフェン”さんのお孫さんの「Ineke van der Wal」さんが、“子アイントホーフェン”の奥様(日本に抑留されています)が日本抑留中に書き残した「日記や手紙」元に日本滞在中のことを本にして出版していたのです。オランダ語版だけかと思ったら英語版も出版されていることがわかりました。
英語版を入手して、読んでみようと思いました。これが凄い本でした。
以下次回に続く……
抑留された22名のうち、2名は詳細な日記をつけていたことが解ります。記録すること、それを残すことは大切ですね。
いつかお読みください(再掲)。
心電計の発明者アイントホーフェン医師の共同研究者だった同医師の子息が太平洋戦争下の東京で亡くなっていたことに関する考察
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jse/41/1/41_30/_article/-char/ja/
望月吉彦先生
医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
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