望月吉彦先生
更新日:2021/09/09
9月9日は日本では「救急の日」。偶然ですが「世界初の心臓手術成功の日」です。
今回は世界で初めて行われた(成功した)心臓手術を紹介します。本編後半に少しショッキングな写真が載っています。お気をつけください。
世界で初めて心臓手術をした(成功した)のはドイツ人外科医の「Ludwig Wilhelm Carl Rehn(ルートヴィッヒ・レーン)」医師です。1896年9月9日に、この手術は行われました。
患者名:Willhelm Justus(ヴィルヘルム ユスツス)さん、22歳の庭師です。昔はこのように患者名まで報じられたのですね。隔世の感があります。
病歴風に記します。
この患者さん(Willhelm Justusさん)は1896年9月7日、歩行中にナイフで左胸を刺されて路上に倒れた(らしい)。たまたま、通りがかった人が連絡を取ってくれて、救急馬車!でレーン医師が勤めていた Frankfurt State Hospital 病院に搬送された。
この時、おり悪しく、レーン医師は所要で不在でした。
9月9日、レーン医師はこの患者さんを診察します。
レーン医師は、この22歳の患者さんが
などから、このままでは死亡してしまうと考えそれなら左胸を開けて損傷を受けている心臓、、つまり心臓の出血部位を糸で縫合止血しようと考えたのです。
「言うは易く行うは難し」です。
失敗すれば、笑いものになるし、下手をすれば職を失うかもしれません。それでも彼は手術を敢行しました。
図1:世界で初めて心臓手術に成功した Frankfurt State Hospitalの写真です。当時の写真です。
当時、外科の常識では心臓の手術は禁忌つまり「心臓の手術は行ってはいけない」とされていました。イギリス人外科医Paget医師とドイツ人外科医Billroth医師の「心臓手術」に対する意見を紹介しましょう。
Paget医師は「心臓の手術は外科医の限界を越えている。心臓手術をする外科医は仲間から受け入れられない」と記し、ビルロート医師は「心臓の筋肉を縫合しても、直ぐに外れるだろう」としています。
レーン医師がナイフによる心臓外傷を負ったこの患者さんを診た1896年はそういう時代でした。
「心臓の手術はしてはいけない」
「心臓手術が成功するわけがない」
が常識でした。
Stephen Paget医師はイギリスの外科医です。がんの転移の研究で有名です。同医師の父はSir James Paget医師で「Paget病」にその名が残っています。ビルロート医師は胃の手術の創始者で今もビルロートの考案した術式は胃切除の基本です。そういう有名外科医達がこぞって心臓手術に反対していた時代だったのです。
レーン医師は、患者さんが
を見て取り、それなら左胸を開けて損傷を受けている心臓の出血部位を糸で縫合し、止血しようと考えたのです。
「言うは易く行うは難し」です。
失敗すれば、笑いものになるし、下手をすれば職を失うかも知れません。それでも彼は手術を敢行しました。
下に示す図2、3がこの時の手術図です。
左:図2、右:図3
図3:図2の拡大図です。右心室にナイフによるキズが見えます。
レーン医師は左胸を切開し、第5肋骨を切離して、心膜がよく見えるようにしました。恐らく心膜は損傷した心臓から流出していた血液で緊満していたと思います。その心膜を切開。切開すると心嚢内に貯まっていた血液が大量に流出し、図3の如く心臓に孔が開いていたのがわかったのです。ここに絹糸(けんし)を3針かけて縫合し、止血に成功しました。
「ナイフにより傷つき心臓に開いた孔に、3針目の糸をかけて縛ったら、出血はとまった」とレーン医師は記しています(図4)。
心臓の損傷を縫合して止血した後、胸腔や心嚢内を生理食塩水で良く洗浄、ヨードホルムガーゼを心臓縫合部に巻いて手術を終了しています。患者さんは手術後重篤な膿胸(注:胸の中に膿がたまる病気です。今でもその治療は簡単ではありません)に陥ったのですが(抗生物質など無い時代です)、幸い助かり、無事退院し元の仕事に戻ることができたのです。
手術から6ヵ月後、ベルリンで開かれた外科学会でレーン医師はこの手術の経過を詳しく報告しました。
「心臓を手術しても死なない」
「心臓を縫合することができる」
というニュースは瞬く間に世界中に広まり、世界のあちこちで成功例が報告されるようになりました。心臓外科の幕開けです。レーン医師はその後の10年間に124例の心臓縫合手術を行い、40%は救命できています。素晴らしい成績です。
図4:レーン医師が書いた世界最初の心臓手術成功例の論文です。全文が読みたい方は筆者まで連絡をください。
実はレーン医師が心臓手術を最初に行ったわけではありません。
ノルウェーの外科医 Axel Cappelen は1895年9月4日に、イタリアの外科医 Guido Farina は1896年3月にレーン医師と同様な心臓外傷に対して手術を行っています(文献2、3)。レーン医師が手術を行ったのは1896年9月です。Axel Cappelen 医師、Guido Farina医師の手術より遅いのです。しかし、彼らの手術は成功しませんでした。患者さんはお亡くなりなっています。
つまり、心臓手術に「最初に成功」したのがレーン医師だったのです。心臓が傷ついた場所が良かった(血圧が低い右心室だったのです)のと、手術後に感染を生じても、なんとか、治ったのでレーン医師は医学の歴史に名前が残りました。Axel Cappelen 医師、Guido Farin医師が手術した患者さんが助かったら話は違ったと思います。
心臓外科の教科書にはこのレーン医師の手術のことが必ず載っています。ある教科書にレーン医師の名前を冠した通りがドイツのフランクフルトにあると書いてありました。フランクフルトに行く機会があったら、ぜひ訪れてみたいと思っていました。なかなか行く機会がなく、フランクフルトを訪れる友人に頼んで写真を撮ってきいただきました。図5-1.2がその写真です。図5-1に「Ludwig-Rehn-Stra?e」とあるのが解りますでしょうか? Stra?e= streetです。日本語なら「ルートヴィッヒ・レーン通り」でしょう。
図5-1:Ludwig Rehn 医師の生年と没年(1849-1930)、心臓外科医(Arzt, Herzchirurg. 注:Arzt=医師 Herz=心臓 chirurg?=外科医)と書いてあります。
図5-2:通りの全景です。当たり前ですが何の変哲もない通りですね。
図5-3:フランクフルト駅の対岸にこの通りはあります。
図5-4:図5-3の拡大図です。「ルードヴィッヒ・レーン通り」と記されているのがお分かりになりますでしょうか?
現代でも心臓外傷の治療は容易ではありません。特にナイフ、包丁、刃物による心臓外傷は「即死」することが多いのです。病院に搬送されても、お亡くなりになっていることが多いのです。
私も様々な心臓臓外傷を経験しましたが、一番良く覚えているのは左胸に包丁が刺さっていた患者さんです。包丁は深く刺さっていましたが、患者さんは生きていました。30年も前のことです。デジカメなど無く、刺さっていた状態を示す写真はありません。
普通は左胸に包丁が深く刺さっていたら、左側にある心臓に包丁が刺さって「即死」します。生きて病院に搬送されてきたのが不思議でした。レントゲンを撮ったら凄いことが解りました。この患者さんは「右胸心」といって心臓が右側にあったのです。左胸を刺した犯人は、そんなことは知らずにナイフを心臓がある側(左側)を刺したのです。右胸心は12,000人に1人しか見られない特殊な心臓です。
この左胸を刺された患者さんですが、肺損傷はありましたが、心臓にキズはなく無事救命できて元気に退院しました。刺した犯人は「傷害罪」で逮捕されましたが「殺人罪」にはならなかったのです。色々な意味で思い出深い患者さんです。
図6:「右胸心+包丁刺傷」を「再現」したレントゲン写真
図6は、この「右胸心+包丁刺傷」を「再現」したレントゲン写真です。実物ではありません。30年前のある日、救急治療室で、こんな感じのレントゲンが現像されてきた時、歓声が上がりました。
心臓外傷を実際に手術している写真は、あまり撮影できません。緊急状態だから、そんな余裕があまりないのです。図7は包丁が刺さったまま病院に搬送されてきた患者さんです。おおむね、こういう患者さんが搬送されると「阿鼻叫喚状態」になります。
などなど、たくさん行うべきことがあります。
こういうときはいつも「Let’s everybody keep cool. Let’s solve the problem.」と思いつつ行動していました(つもりです)。
※リンク先に手術の写真があります。苦手な方はお気をつけください。
図7-1
図7-2:包丁が心臓に刺さっています
図7-3:心臓に刺さっていた包丁を抜いて損傷を受けた心臓を修復しています
こういう場合、今では縫合部位を補強するためにフェルトパッチを使います。図7-3に見える白い布が「フェルトパッチ」です。セーターなどの肘に当てるパッチと同じです。こういうフェルトパッチを使わないで心臓を縫合すると「心臓が裂けます」。糸は細いのでそのまま強い力でしばると心臓の筋肉が裂けてしまいます。心臓が傷ついている時の修復にはパッチ状のモノを使って修復するのが基本です。パッチで糸にかかる力を分散させ筋肉が糸で裂けないようにして止血操作を行います。心臓外科医は、動いている心臓を縫う機会はあまりありません。普通の心臓手術は心臓を止めて行うからです。ビルロート医師が100年前に喝破したように、動いている心臓に不用意に糸をかけると心臓の筋肉が裂けます。そういうわけで、動いている心臓を縫うのは、慎重が上にも慎重な操作が必要です。神経を使います。
それはともかく、この患者さんは元気に退院しました。良かったです。こういう手術の元は、1896年9月9日に行われたLudwig Rehn:ルートヴィッヒ・レーンの手術です。
日本で9月9日は「救急の日」です。レーン医師は世界で最初に心臓手術に成功した日でもあります。世界で9月9日を「心臓手術の日」と定め、心臓病、心臓手術の啓蒙に努めてはどうでしょうか?
望月吉彦先生
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