望月吉彦先生
更新日:2021/06/14
さて、前回話題にした井伏鱒二の小説「黒い雨」のことです。「黒い雨」は1989年に映画にもなっています。田中好子さんが主人公を演じました。映画を見た方も多いのでは無いでしょうか。その田中好子さんは残念なことに55歳で乳がんのためにお亡くなりになっています(2011/4/21)。さて、さまざまな言語に翻訳され世界中で読まれている「黒い雨」は盗作だと主張する方々がいます(文献1、2、3、4など)。
今回の主題は、それに関する論考です。
話は逸れます。坂本龍馬の名前を知らない人はあまりいないでしょう。坂本龍馬は元々、あまり有名ではありませんでした。日本史の教科書にも記述は少ないか、書かれていないことも多いのです。
司馬遼太郎が、小説「竜馬が行く」を書かなければ、坂本龍馬は有名にはなっていなかったでしょう。高知空港は「高知竜馬空港」になっていなかったと思います。司馬遼太郎は、幕末を主題にした小説を書くに当たり、考えるところがあり(理由は不明)、それまでほとんど陽が当たっていなかった坂本龍馬について資料を集め、何か感ずるところがありそれを小説にしたのだと思います。
以前「日本で一番《危険な》国宝建築を見に行く」を記した時、私の中学校通学路にあった坂本龍馬の「妻」のお墓の話を紹介しました。残念なことに「竜馬が行く」には、このお墓のことは触れられていません。このことは「捨てた」のです。
しかし、随筆ネタとして「余話として」という随筆集に、「竜馬が行く」には書かなかった「坂本龍馬の妻」にまつわるとても興味深い話を紹介しています。司馬遼太郎がある人物を書こうとすると「神保町からその人物に関する資料が無くなる」という伝説があります。その関係の資料を総ざらい司馬遼太郎が購入してしまうのです。伝説ですから、真実かどうか不明です。でもあり得る話だと思います。吉村昭も司馬遼太郎と同様で書こうとしている人物に関する資料を徹底的に収集することで有名でした。司馬遼太郎、吉村昭などの歴史小説を書く人は「歴史に関する論文」を書いているわけではありません。彼らは収集した資料を基に想像力を駆使し、主人公や周囲の人間に喋らせ(もちろん、作り話です)、主人公が活躍した当時のことを描いているのです。本物の歴史学者からしたら噴飯物かもしれないです。
2020年、明智光秀側からの視点でのNHK大河ドラマが放映されました。これまでの視点とは違いました。ただし、明智光秀側から見た資料は少ないので足りないところは想像で補っていました。明智光秀関係の資料などたくさんあるだろうと思うかもしれませんが、負けた方には資料があまり残っていません。当たり前ですが勝った側の資料はたくさん残っています。もちろん勝った側からの視点で書かれた資料です。
「明智光秀は名君でした」
「明智光秀は織田信長を単純に裏切った訳では無いです」
というようなことは、たとえ事実であったとしても、江戸時代には書けなかったと思います。
要するに何を言いたいかと言うと、歴史小説のほとんどは様々な資料を解読し、そこから得られた「感じ」「着想」を文章にしているのだと思います。一般人は、古文書などの資料を読む機会も、読む能力もありませんが、歴史小説家はそういう資料を集め読み解く能力があり物語を作ります。我々は歴史家の書いたものよりも小説家の書いた歴史小説を通して「坂本龍馬」を知り「戦艦武蔵」を知ることができるのです。それが悪いことだとは思えません。
以上、前振りです(長くて申し訳ない)。
井伏鱒二の「黒い雨」を盗作とする人は「黒い雨」は資料(主に「重松日記」)を書き直しただけだと言って批判しています。しかし、私は小説「黒い雨」は盗作では無いと思います。これが盗作なら、全ての歴史小説は「盗作」になってしまうのではないでしょうか?
井伏自身『黒い雨』を収載した井伏鱒二自選全集第六巻の「覚え書」にこの辺りの事情を書いています。紹介します。解りやすくするために整理改変していますが内容は同一です。
井伏は以下のごとく書いています。
「この作品は小説でない、以下の資料を用いて書いたドキュメントである。」
(1)閑間重松の被爆日記
(2)閑間夫人の戦時中の食糧雑記
(3)岩竹博医師の被爆日記
(4)岩竹医師夫人の看護日記
(5)複数被爆者の体験談
(6)家屋疎開勤労奉仕隊数人の体験談、及び各人の解説
によって書いた。
としています。「黒い雨」は野間文芸賞を受賞していますが、井伏鱒二は受賞の言葉で、
「私は『黒い雨』で二人の人物の手記その他の記録を扱ったが、取材のとき被爆者の有様を話してくれる人たちに共通していることは、初めのうちは原爆の話をしたがらないことであった。もう一つ共通していることは、話しているうちに実感を蘇らせてくると絶句してぐっと息をつまらせることであった。思い出す阿鼻叫喚の光景に圧倒されるのだ。そのつど私は、ノートを取っている自分を浅ましく思った。
要するにこの作品は新聞の切抜、医者のカルテ、手記、記録、人の噂、速記、参考書、ノート、録音などによって書いたものである。ルポルタージュのようなものだから純粋な小説とは云われない。その点、今度の野間賞を受けるについて少し気にかかる」
と書いています。
つまり、井伏鱒二は黒い雨は作家の創作になる空想小説ではないと自ら記しているのです。これから先は「小説か、小説でないか、はそもそも小説とは何か」という難しい話になってしまいます。小説を全て作家の創造物とするなら、歴史小説は「小説」と言えないことになってしまいます。
猪瀬直樹氏は「黒い雨」の6割以上は「重松日記」のリライトだと断じています(文献2)。
私は「黒い雨」と「重松日記」の両方を読んだのですがどちらも「良い」と思います。重なる部分も多いのですが、井伏鱒二の表現方法は独特です。井伏鱒二ならではの表現方法で原爆の悲劇を伝えています。一方「重松日記」は素人が書いたとは思えないほど、冷静に原爆投下後の広島の現状を書き記しています。どちらも素晴らしいと思います。「重松日記」はあまり知られていませんが是非お読みになることをお勧めします。「重松日記」には井伏鱒二から重松氏への手紙も収載されています。興味深いです。
井伏鱒二は広島県の出身ですが、前回も記したように山梨県と縁があり 1944年(昭和19年)7月に今は甲府市となっている山梨県甲運村(今の石和温泉駅と酒折駅の間)に疎開していましたが、1945年(昭和20年)7月広島県福山市外加茂村の生家へ再疎開しています。そして同年8月6日の広島原爆のことを知ったのでしょう。ただし同じ広島県ですが、福山市と広島市は80kmくらい離れていますから、原爆を直接体験した訳では無いでしょう。
戦後も、井伏は、昭和22年まで福山市に止まっています。この滞在中に重松氏と知り合い江戸時代の広島の資料を提供してもらい後にその資料をもとに小説を書いています。それから井伏氏と重松氏は交流が続いたのです。重松氏は日本繊維株式会社広島工場の社員でしたが、重松氏は広島市で原爆に遭い、その被害を後世に伝えようと思い原爆投下後の広島について詳細な日記を書いていたのです。
「記録すること」の大切さがこういうことでも解りますね。
昭和37年になって重松氏は井伏鱒二に原爆当時のことを詳細に記した日記があることを知らせます。重松氏に提供された江戸時代の広島に関する資料を基に井伏鱒二は小説を書き、小説を書くと掲載誌面を重松氏に送っていたので、それと同様自分の書いた原爆日記が井伏鱒二の手によって小説となり広く原爆の被害が知られるようになることを期待したのではないかと思います。 それから3年、井伏鱒二は「黒い雨」を発表したのです。
小説「黒い雨」は広く読まれ、映画にもなり原爆の悲惨さを世界に広めました。重松日記も後に刊行されました。つまり重松氏の当初の目的は達成されたのだと思います。 私は、それで良いのだと思っています。
私が尊敬している日本文学者で評論家としても活躍した故「板坂元(いたさかげん)」氏は、猪瀬直樹氏のことを批判しています。板坂氏の筆致は冷静ですが辛辣です。猪瀬氏が都知事になるよりもかなり以前のことです。
板坂元著「人生後半のための知的生活入門(PHP文庫)」より引用します(頁121-122)。
*********** 引用開始 ***********
“ある雑誌で「ミカドの肖像」の著者(筆者注:猪瀬直樹)が取材の苦労を語っていた。その苦労した例として「バンザイ」についての調べも語られているが、あの箇所(注:つまりミカドの肖像の中にある「バンザイ」についての記述部分)はほとんど私(筆者注:つまり板坂氏)から電話で聞いたことが書かれているだけだ。30分の電話取材が苦労の中に入るのかどうか。”
中略
“そういうことは気にならないが、私のバンザイ調べは20年になる。”
中略
“私がバンザイを調べているのは「一体何時から、両手を挙げてバンザイ」するようになったかそれを調べているのである。明治30数年頃までの写真錦絵では片手しか挙げていないのである。昔の新聞や雑誌の写真、錦絵を20数年収集して、両手のバンザイが普通になったのは何時からかを調べているのである。バンザイを調べるだけでそれくらいかかる。”
*********** 引用終了 ***********
言外に強く「ミカドの肖像」の著者を非難しているのです。これに対する猪瀬氏の反論を読んだり聞いたりしたことがありません。これを読んでから、猪瀬氏の著書や言動に対して私の頭の中では「?」が湧くようになりました。猪瀬氏は、後に東京都知事になりました。その後のことは皆さんご承知の通りです。
望月吉彦先生
医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
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