望月吉彦先生
更新日:2019/7/16
これまで私のコラムの中で「書き残す必要性」について何度か書いてきました。歴史に残る大発見をしても書き残さないと、それは「無い」ことになってしまいます。
日本人初のノーベル賞は物理学者湯川秀樹博士が受賞しています。ノーベル賞の受賞対象となった湯川博士の中間子理論に関する論文は『日本数学物理学会雑誌』の英文版に掲載されています(https://www.jstage.jst.go.jp/article/ppmsj1919/17/0/17_0_48/_pdf/-char/ja)。
湯川秀樹博士が偉かったのは
「発見した事を英文で書いたこと」
「自分の書いた英文論文が載っている雑誌を世界中の物理学者に送ったこと」
だと思います。『日本数学物理学会記事』の英文版を世界中の大学、研究施設が購読していたとは思えません。それでも湯川秀樹博士は折角の「大発見」を知らせたくて、世界中の物理学者に送ったのでしょう。それが後のノーベル賞につながります。歴史にifは禁物ですが、湯川秀樹博士が
論文を英文で書かず
英文で書いた論文を世界中の研究者に送らなければ
後のノーベル賞受賞は無かったでしょう。これは1934年のことです。今とは随分と時代が違います。
私の周りでも、もったいない話(折角の発見を論文にしなかった)をいくつか聞いています。私も1つだけ、論文にしなかった心残りの手術があります。今もそのことをチマチマと調べています。
それはともかく、今回は私が初めて書いた英語の論文のことを紹介しようと思います。
医師になってしばらく経ってから、いくつか目標を立てました。その内の1つが「インパクトファクターがある雑誌に論文を載せること」でした。「そして何時の日か教科書に引用されるような論文が書ければ良いな」と夢のようなことを考えていました。
少々「インパクトファクター」についてご説明します。
インパクトファクター(impact factor:文献引用影響率:略称は「IF」)とは「科学系雑誌の点数」です。これが高いほど、「レベルが高い雑誌」ということになっています。入学試験における「偏差値」のような指標です。
IFは1955年、アメリカの書誌学者ユージン・ガーフィールド氏(Eugene Garfield:1925-2017)が考案しました(参考文献1)。「科学を定量的に測定する方法 =IFの算出法」を世界で初めて考えついた方です。「科学を定量的に測定する方法」とは少し言い良すぎかもしれません。「科学雑誌に点数をつける方法を考案した」が正しいでしょう。
ここで IFの計算方法について、ごく簡単に説明しましょう。
ある雑誌「Q:仮名」の2016年の IFをどうやって計算するかをお示しします。
「Q」の IF= A / B
要するにある雑誌Qに載った論文がどれだけ引用されたかを計算するのですね。価値の高い論文ほど、引用される回数が多くなり、IFも高くなります。
IFのランキングが毎年6月に発表されます。2016年のランキングをお示ししましょう。
※()内は前年のIFです
しかし、これはあくまで雑誌の点数であり、雑誌に掲載された論文自体の価値を示しているわけではありません。IFは「研究者の科学者としての実力」と本来は無関係です。IFを考案したガーフィールドさんも、「これは雑誌の評価であり、科学者の評価とは関係が無い」と述べていました。しかし、ガーフィールドさんの思惑とは違ってIFは研究者の評価をするのに使われています。ある研究者の評価をするのに、その研究者の執筆した論文(正確にはその論文が載っている雑誌)のIFの総計が使われたりもします。
「IFは科学者の評価とは関係が無い」ことを示す良い例があります。以前にDNAの画期的な増幅法であるPCR法を考案して、ノーベル化学賞を受賞したキャリー・マリスのことを以前書きました。日本国の皇后陛下(現上皇后陛下美智子様)に向かって『 sweetie! 』と言った、あのハチャメチャなオジサン、キャリー・マリスです。
彼のPCRに関する論文は NATURE や Science のようなIFの高い雑誌には載りませんでした。NATURE、Science へ投稿したのですが、査読者に掲載を拒否されたのです。査読者には理解できないほど「凄い」論文だったのです。そこで、マリスは「Methods Enzymol」という雑誌( IF= 2.0)に論文を投稿し掲載されました。彼がノーベル賞を受賞できたのは論文を英語で書き、IFが付いている雑誌に論文が掲載されたからです。マリスはアメリカ人で英語が母言語です。日本人の私から見ると、それがとてもうらやましいです。
IFの高い雑誌に論文が載ることと研究者の研究レベルとはまた別な話とはいえ、IFの高い雑誌にたくさん論文が載るような研究者は間違いなくハイレベルです。今は、IFの他にも「Google Page Rank」、「Y- Factor」のような別の評価指数も出てきています。いずれは、IFに取って代わるような評価方法が世界標準になるかもしれません。
しかし、どうせ論文を書くなら、IFの高い雑誌に載せてもらった方がいいですね。IFの高い雑誌は読んでいる人も多いからです。でも、「言うは易く行うは難し」です。「Nature」、「Science 」、「Cell」のような雑誌に論文を載せるのは至難の業です。前述のごとく、IFは引用される論文が多くないと高い値にはなりません。「英語で書かれた論文が載る雑誌」以外は、事実上読まれることが少なく、高いIFを得ることは不可能です。
前置きが長くなりましたが、私も「何時か IFがある雑誌に論文を載せたい」と思うようになりました。しかし、色々な論文を読んでいると、IFのある雑誌に論文を載せるためには少なくとも、以下、二つの条件が最低条件であることが解ってきました。
どちらもハードルが高いです。特に、私は海外留学を経験しなかったので、英語で論文を書く方法論が一切解らなかったのです。学位論文は日本語で書き、症例報告などいくつかの論文を日本語で書いたことがありましたが、英語で論文を書いたことがありませんでした。そもそも、「世界初の新発見」、「世界初の新知見」がそう簡単には見つかるわけもありません。
もう27年も前のことになります。1992年のことです。私が勤務していた病院の小児科の先生から、「心臓に腫瘍が二つある」「全身に黒子(ほくろ)がある」「高熱が出ている」という15歳の高校生が入院していると連絡がありました。小児科の先生によると、この高校生の病気は「Carney complex(カーニー複合)」ではないかとのことでした。
「Carney complex」は1985年にクリーブランドクリニックのCarney先生が提唱した病気です。
などがその特徴です。
恥ずかしながら、私は小児科の先生に教わるまで「Carney complex」という病気があることすら知りませんでしたので、直ちに Carney先生の論文を読みました(参考文献3)。当時、日本でも未だあまり知られていなかった病気です。
丁度その頃、インターロイキン-6 (interleukin-6:以下「 IL-6 」と略)という物質が日本で発見されていました。液性免疫を調節するサイトカインの一種です。1986年大阪大学の平野俊夫先生、岸本忠三先生らが発見しています(参考文献4、NATUREです)。その後、 IL-6 についていろいろなことが解明されていました。そのうちの1つが心臓粘液腫の患者さんに関することでした。心臓に粘液腫がある患者さんは熱が出ることがあります。粘液腫自体が産生するIL-6が体に炎症反応を起こし、そのために熱が出ると推測されていました(参考文献5)。私が受け持った「Carney complex」の患者さんは、高熱を発していました。つまりこの患者さんの場合、
という2つのことが予測できました。この患者さんの血中のIL-6濃度の推移や粘液腫中のIL-6を分析することができれば心臓粘液腫とIL-6との関係が今までよりも明確になるだろうと思いついたのです。
話は少し変わります。当時、さまざまな臓器や腫瘍の中に存在する物質を明らかにするために「免疫染色」という方法が開発され、実臨床の場でもこの方法が使われ始めていました。「免疫染色」とは、臓器の中にある(と考えられる)物質に対する抗体を用い蛍光物質で標識して染色する方法です。実際に「臓器の中にある(と考える)物質」があれば、その抗体と反応して蛍光を発するという原理です。たまたま、私はその免疫染色のことを少しだけ勉強していたのです。そして「抗 IL-6 抗体を用いればこの患者さんの心臓粘液腫のIL-6染色ができるのではないか」「これができれば世界最初になる」と思いついたのです。
「免疫染色」は特殊な方法です。どこでもできるわけではありません。色々と探したら、ある検査会社S社の病理部門の方が興味を持ってくださり、抗IL-6 抗体を用意して、私の受け持っている患者さんの心臓腫瘍の IL-6 免疫染色を行ってくださることになったのです。
望外の幸せでした。IL-6 は上述のごとく日本で発見されたので日本で一番研究が進んでいました。詳しく調べてみると、血中IL-6も測定可能ということが判りました。早速、私の患者さんの血中 IL-6 を測ってみました。とても高い値でした。私は、これは「いける!」と考え、本格的に準備を始めました。
しかし、事は簡単ではありませんでした。摘出した腫瘍内のIL-6濃度は腫瘍を常温で放置すれば時間経過と共に急速に低下することが予想されました。IL-6 が別な物質に変化するかもしれません。S社の方々と議論を重ね、IL-6 の変化を防ぐにはー196℃の液体窒素の利用が有効ではないかという結論に至りました。心臓手術をして腫瘍を摘出したら直ちに液体窒素に浸せば、IL-6の変化は最小限に抑えられると考えました。液体窒素を入れる特殊な容器を用意してその中に液体窒素を入れてその容器に摘出した腫瘍を入れれば良いだけです。
ここまでは簡単な話です。
しかし、問題はその後でした。「腫瘍摘出+液体窒素に浸す」作業をしてから、できるだけ早期に免疫染色のための作業を行わないと「きれいに染まらない」可能性があると言われました。できれば腫瘍摘出後2時間以内に作業に取りかかりたいとS社の担当者から連絡がありました。
さて、困りました。当時私が勤めていた病院は栃木県にあり、S社は東京都八王子市にありました。病院から八王子市まで検体を搬送するには電車による輸送か高速道路を使った自動車での輸送しか方法がありません。。病院から最寄りの新幹線駅まで40分かかります。電車による輸送は選択肢から消えました。高速道路なら病院から研究所まで160kmくらいですが、当時は圏央道が無かったため首都高速道路を端から端まで通るルートしか選択肢がありませんでした。首都高速道路は平日の昼間なら確実に渋滞します。2時間で検体を届けるのは不可能です。どう考えても4時間くらいかかりそうです。そこで私は「免疫染色」を一旦、諦めました。
ところが、考えてはみるものですね。2時間で検体を届けることができる方法を思いついたのです。今でも、なんで思いつくことができたのか、自分でも不思議なくらいです。
以下次回へ。
望月吉彦先生
医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階
TEL:03-6779-8181
URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/
※記事内の画像を使用する際は上記までご連絡ください。