望月吉彦先生
更新日:2018/01/09
ペニシリンの発見から、ペニシリンがお薬として、主に米国で大量生産が可能になるまでの奇跡的な経緯を以前お伝えしました。
「次回から、ある国でペニシリン生成製造がとんでもない早さでなされたことを数回に分けてお伝えしようと思います」と以前に当コラムで書いたのですが、筆者の都合で伸び伸びになってしまいました。お詫び申し上げます。今回からその続きをお伝えしようと思います。
英国、米国に次いでペニシリンの大量生産に成功したのは、なんと、米英との戦争に負けた「日本」でした。日本は高温多湿(特に梅雨時)の時期がありますので「青カビ」が多いからでしょうか、比較的簡単?にペニシリンを作ってしまいます。日本でペニシリンが大量生産されるまでの話も、本家本元には及びませんが、それでも奇跡のような嘘のような話の連続なのです。ただの奇跡ではなく、奇跡を起こす根底にはひとえにまじめに真っ当に努力した人々がいたこともお伝えしようと思います。
以前、お伝えしたようにペニシリンの発見者フレミングはペニシリンの発見を1929年「イギリス実験病理学雑誌」に、そしてペニシリン合成に成功したフローリーとチェインはペニシリンの抗菌力についての論文を1940年「ランセット」に載せています。フローリーとチェインは1943年までにペニシリンに関する論文を数編発表しています。外国で発行された雑誌を日本で簡単に見られる時代ではありません。
日本にペニシリン情報が入ったのが、1943年7月くらいだと推測されています。結構早いですね。記録は残っていないのですが、当時の小泉親彦厚生大臣が「アメリカでどんな感染症にも効く新薬が発見された」と演説したと言われていますが、記録がありません。この演説を聞いていた人の伝聞しか残っていません。
はっきりと記録に残っている「日本にペニシリン情報が伝来した日」は1943年12月21日です。当時32歳で陸軍軍医少佐だった稲垣克彦医師の手にペニシリンの医学情報が渡ったと記録されています。稲垣医師は日本におけるペニシリン開発のキーパーソンです。少しわかりづらいのでまとめます。
1943年8月7日、ドイツで発行されている「Klinische Wochenschrift誌:(日本語に訳すなら臨床週報?)」という医学雑誌にペニシリンに関する論文が掲載されました。
これを書いたのはベルリン大学薬理学教室のマンフレッド・キーゼ博士です。論文のタイトルは、"Chemische Therapie mit Antibakteriellen Stoffen aus Niederen Pilzen under Bakterien"です。当たり前ですがドイツ語で書かれた論文です。英文のタイトルは "Chemical therapy with antibacterial substances from various fungi and bacteria."です。これを以下「キーゼの総説」と略します。この論文が稲垣医師の元にドイツから届いたのです。「キーゼの総説」には「青カビから作られた“ペニシリン”と言う物質が様々な感染症を劇的に治す」と書かれていました。
1943年8月7日にドイツで発行された雑誌が1943年の12月21日の東京にあったのが“奇跡のはじまり”です。当時、欧米と日本は情報が途絶されていました。1941年12月8日、真珠湾攻撃により第二次世界大戦が始まり日本は「情報鎖国状態」となっていたからです。特に科学技術や医学に関する世界の情報は日本に入らなくなっていました。
日本の科学者、医学者は情報を渇望していました。戦争の勝ち負けは「武器、兵力」だけでなく、科学の総力戦の一面もあります。良きにつけ悪しきにつけ戦争を契機として科学は飛躍的発展を遂げることが多いのです。ペニシリンに関しても、同様のことが言えます。戦争が無ければ英国や米国でのペニシリン開発もスムーズには進まなかったと思います。
「情報鎖国」におちいっていた日本ですが、手をこまねいていたわけではありません。最新の科学技術情報を同盟国ドイツから得るために、色々な方法が試されました。その一つがなんと潜水艦です。日本海軍の伊号潜水艦がドイツに行き、様々な軍事や科学に関する情報をドイツから持ち帰ろうと画策したのです。言うは易く行うは難しです。日本から、インド洋、喜望峰、大西洋を航行しドイツに行きまた同じ航路を帰ってくるのです。平和な時代でも大変です。それに加えて途中の洋上には敵国の目が光っています。それをかいくぐる必要があります。結局、5隻の潜水艦が日本から、ドイツに赴いていますが、無事日本に帰ってこられたのはたった1隻です(この辺りは参考文献6が詳しいです)。その一隻によりドイツから日本にペニシリンの情報がもたらされたのです。
それを稲垣軍医が読んだのですね。キーゼの総説を読んでペニシリンの効果にびっくりした稲垣は日本でも直ちにこの「ペニシリン」なるモノを作らないと大変なことになると思ったのです。キーゼ博士の総説はそれくらい、インパクトがあったのですね。当時、ドイツ領になっていたオランダのデルフトでもドイツ政府によるペニシリン研究が始まっていましたが、その研究もこの論文を基に始まっています。
しかし「キーゼの総説」にペニシリンの詳しい作り方が書いてあるわけではありません。どうやら「青カビがペニシリンなる物質を産生しそれが感染症の治療に役立つ」らしいくらいのことしか書いてありません。それでも稲垣は直ちにペニシリンの検討会を組織します。とはいえ研究資材も少なく、簡単に研究が始まったわけではありません。
以下わかりづらいので時系列にします。
なお、上述した1929年にフレミングが「イギリス実験病理学雑誌」に発表した「ペニシリン発見」に関する論文ですが、奇跡的なことに日本にもある大学にもあったのです。この論文を所蔵していたのは日本でただ一つの大学だけでした。このような雑誌が日本に入っていたことも凄いですね。この論文は、英国でもそうであったように、日本でも誰にも省みられてはいませんでした。それは他の諸外国でも同様です。フローリーとチェインが目を付けるまでこの論文は「お蔵入り」していたのです。何れにせよ日本にこの論文があったことはとても重要でした。この論文にはペニシリンの作り方の基礎技術が書かれていたからです。
さて日本でのペニシリン開発の顛末を時系列で記していきます。
ここから、凄い展開となります。
終戦(1945年8月)まで、残り19ヵ月しかありません。物資も乏しい中、どのように日本でペニシリンを作ったのでしょう。
第二次世界大戦中の話ですから英語である「ペニシリン」には和名がつけられています。公募して「碧素:へきそ」と名付けられました。命名者は旧制の第一高等学校(後の東大教養部) の学生さんでした。後藤寬さんという方です。この方は後に銀行に勤めていますから医学には全く関係無いのですが日本医学史の片隅に名を残しています。「碧(へき)」は“青い”という意味です。紺碧の空、紺碧の海などの表現がありますね。
現在、高脂血症の薬として世界中で広く使われている「スタチン」ですが、その元はペニシリン同様「青カビが分泌する物質」の研究から見つかっています。「京都の米穀店で見つかった青カビ:ペニシリウム・シトリナム(Penicillium citrinum)が産生するML236という物質に含まれる「コンパクチン」からスタチン研究は始まったのです。コンパクチンは世界初のスタチン薬です。これを発見したのは旧三共製薬の遠藤章博士でした。スタチン研究開発の元をたどれば「青カビ」なのです。どういう経緯で「京都の米穀店」の青カビが、旧三共製薬の研究所に運ばれたのでしょうか?この経緯を書いてある本や資料はありませんでした。コンパクチンを分泌する青カビ「ペニシリン・シトリナム」が日本で見つからなければスタチン開発は遅れていたかも知れません。あまり知られていないけれど、高脂血症の特効薬スタチンも青カビが産生する物質から始まったことはもっと知られて良いですね。
望月吉彦先生
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