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060:ペニシリン3:「ペニシリンの発見及びペニシリンがお薬になる」までのあり得ない偶然の数々の物語(3) 人間到る処バイキンあり(9)(望月吉彦先生) - ドクターズコラム

メディカルコラム

望月吉彦先生

更新日:2017/5/15

お薬を「発見」しても、すぐに使える訳ではありません。良いお薬を発見するのは大切ですが、それを世に出すには、

  • (1)大量生産ができること
  • (2)安全性を確かめること
  • (3)他の薬との比較

などが必要です。
フレミングは青カビから分泌する物質(ペニシリン)に抗菌作用があることを発見しましたが、それで直ちにペニシリンが世の中で広く使われるようになった訳ではありません。

今回はどのようにしてペニシリンが世の中に出ることができたのかについてのお話です。なお、ペニシリンは今でも現役バリバリのお薬です。経口摂取しても体内への移行性が良いので、今でもグラム陽性球菌感染症にはファーストチョイスです。

重要だった奇跡、米国イリノイ州ペオリアの地

フレミングが諦めたペニシリンの精製にフローリーとチェインが挑戦を開始、1940年に純度0.02%のペニシリンの精製に成功した後、さらに精製技術を上げて、純度は3%まで上げることができたところまで前回ご説明いたしました

さて、フローリーとチェインは精製した純度3%のペニシリンを、致死量の連鎖球菌を感染させた4匹のマウスに投与してみました。4匹のうち3匹は死にませんでした。ペニシリンを投与していないラットは“致死量の連鎖球菌感染”ですから、全部死亡しています。これは、凄いことなのです。この発見は1940年8月の「ランセット」で「化学療法剤としてのペニシリン:PENICILLIN AS A CHEMOTHERAPEUTIC AGENT」として発表しています(LANCET:Volume 236, No. 6104, p226-228, 24 August 1940)。
翌1941年の夏までに実際に連鎖球菌、ブドウ球菌に感染した患者さんにペニシリンが投与され、劇的な効果を挙げます。その結果もやはり「ランセット」に発表しています。しかし、この論文が掲載された前後、ヨーロッパは大変なことになっていました。

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が始まり、翌1940年5月10日にドイツ軍はヨーロッパ西部へ侵攻6月14日ドイツ軍はパリを占領し、フランスは降伏し、同年8月からドイツ空軍の爆撃機・戦闘機がイギリス本土空爆を開始しています。要するに、フローリーとチェインが実験をしていたイギリスは、戦争に巻き込まれていたのです。

素晴らしい結果を残したペニシリンの精製技術と効果でしたが、戦時下にあってドイツ軍の攻撃を受けていたイギリスではペニシリンの大量生産はできませんでした。そんな余裕は無かったのです。そこで1941年6月フローリーは青カビ(ペニシリンノターツム)を携えてアメリカに渡り大量生産を図ることにしました。アメリカ政府は、フローリーが持ちかけたこのペニシリン大量生産計画に賛成し、全面的な援助をすることを決定し、以後、事態はペニシリン大量生産に向けてどんどん良い方向に進みます。

フローリーは、最初にイリノイ州ペオリア(Peoria, Illinois)にある米国農務省地域研究センターに行きます。そこには農産物から有用な化学物質を作るための大規模実験施設があったのです。
ここでもまた偶然が訪れます。この実験施設では、トウモロコシからデンプン(コーンスターチ)を作る過程でできる「コーン・スティープ・リカー(Corn Steep Liquor)」という液体シロップを実験に用いていました。このコーン・スティープ・リカーを用いて青カビ(ペニシリンノターツム)を培養するとカビの成長が、とてつもなく、早くなったのです。このコーン・スティープ・リカーが大量に使えたので、実験が一気に進みます。
ペニシリンに関する奇跡や偶然について、当時の実験担当者は「ペニシリンに関する奇跡はたくさんある。その中で、一番知られていないけれどとても“重要だった奇跡”は、実験を行った米国イリノイ州ペオリアにあるこの農務省地域研究センターが、カビを培養するのに最適な“コーン・スティープ・リカーを使用できる唯一の場所だった”ことである」と書いているくらいです。

ペニシリンの大量生産を可能にしたのは

さらに偶然が続きます。
米軍は世界各地にいる軍隊にペニシリンをたくさん作るカビを捜すため「駐留地の土」を集めるよう指示します。そうして世界各地から集めたカビを片端から検査し、できるだけ大量のペニシリンを作るカビを見つけようとしました。中国の重慶、ケープタウンで見つかったカビは有望だったらしいですが、フレミングが見つけた青カビより良くペニシリンを作るカビは見つからなかったのです。しかし、自国内それも、実験施設のあるイリノイ州ペオリアで、一番効率よくペニシリンを作るカビが見つかったのです。このカビは、ペオリアの主婦が持ち込んだ腐ったメロンに生えていたのです。この主婦の名前はペニシリン発見の歴史に残っています。メアリー・ハントさんという方です。メアリーさんはカビが生えて腐りかけたモノをたくさん研究所に届けていたので「カビのメアリー:Moldy Mary」と呼ばれていました。世界中から、カビを集めていたのに、足下で見つかったという話です。作り話のようです。

いずれにせよ、このカビはフレミングが見つけたカビより3000倍!も多く、ペニシリンを作ることがわかり、このカビを用いた商業生産が可能となったのです。このカビの名前は「ペニシリウム・クリソゲナム(P.chrysogenum)」と名付けられました。というわけで、このペオリアで見つかったペニシリウム・クリソゲナムを用いて、ペニシリンの大量生産が開始されます。1943年後半からペニシリンの生産量は一気に上昇します。1944年6月頃にはアメリカの製薬会社では毎月1,300億単位のペニシリンを作っていました。一方、ペニシリンの発見国であった英国では、毎月数千万単位しかペニシリンを作れませんでした。このことでイギリスは影が薄くなります。そして、製造法の特許問題が起き、後に両国の間で争いが生じます
元々、ペニシリンの製造を始めたのはイギリスのフローリー、チェインです。チェインは元ユダヤ系ドイツ人でしたので、ドイツでは普通だった「産学連携」を経験しています。ですからペニシリンの製造特許を出そうと提案します。しかし、英国王立協会の会長から「生命を救う薬の製造方法に特許を取ることは倫理的でない」として却下されます。なお、当時の英国での特許に関する法律では「天然物」に対する特許は取ることができませんでした。ですから天然物である「ペニシリン」で特許をとることもできませんでした。
そのため「ペニシリン製造に関する」特許は、アメリカの製薬会社に取られてしまいます。イギリスでペニシリンを商業的に製造しようとすると、アメリカの会社に莫大な特許料を支払わねばならないという変なことになってしまったのです。これだけの発見で特許を取らないなど、今ならあり得ない話でしょう。ペニシリンで懲りた英国は特許に関する法律を改正しています。

こうして、米国ではペニシリンの大量生産に成功したので、1944年後半には米軍全体にペニシリンが行き渡るようになり、それは第二次世界大戦の戦勝要因の一つになります。
第二次世界大戦が終わった年(1945年)のノーベル医科生理学賞は「ペニシリンを発見した」フレミングと「ペニシリン製造方法を確立した」フローリーとチェインの3名に与えられました。戦功の意味もあったと思います。

今回まで3回にわたり、 ペニシリンの発見から商業生産に至るまでに、あり得ないような偶然が10数回も生じていたことをお示ししました。フレミングの実験室階下の青カビ、培養ペトリ皿の蓋を開けたままで休暇をとったタイミング、青カビが生える気温、実験動物のこと、フレミングが実験していた「グラム陽性菌」、米国でのコーンスティープリカー使用、ペニシリンを大量に作る青カビが実験施設のある町で見つかったことetc.文字通り「奇跡」の連続です。お時間があるときに、参考文献1.2.をお読みください。

さて、英国、米国に次いで世界で3番目にペニシリンの大量生産に成功した国はどこだかわかりますか? それはとてもカビが生えやすい国でした。
次回から、その国で、ペニシリン生成、製造が「とんでもない早さ」でなされたことを、数回に分けてお伝えしようと思います。

【参考文献】

  1. 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン (著), 北村 二朗 (訳) 平凡社刊
  2. ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル (著), 中山 善之 (訳) 佑学社刊
  3. 失われてゆく、我々の内なる細菌 マーティン・J・ブレイザー著 みすず書房刊
    他、多数。

追記1:
アメリカのミリアド・ジェネティクス社は、同社が保有するBRCA1とBRCA2として知られる2つのがん遺伝子に関する特許を申請していました。しかし、2013年6月にアメリカの最高裁判所でその申請は却下されます。BRCA1とBRCA2は人の遺伝子から見つかったモノだから特許にならないとの判断です。この遺伝子を持つと発がん率が高くなります。それを発見したのが、ミリアド・ジェネティクス社です。でも特許は成立しませんでした。これには議論があるところです。例のアンジェリーナ・ジョリーに見つかった遺伝子はBRCA1です。

追記2:
ペニシリンが使われはじめた頃の論文を読むと、ペニシリンを注射すると「ただちに」効いたと書かれています。ペニシリンを打つとすぐに効いたようです。速効性があったのですね。それが、今ではなかなか効きません。細菌が抗生物質に対する耐性を獲得しているからです。抗生物質投与による耐性菌の出現は元々ある細菌叢を変化させてしまうことは、今も、そして将来も大きな問題であり続けると思います。

追記3:
今、使われている薬でも「みるみる間」に効く薬があります。芍薬甘草湯(しゃくやくかんぞうとう)という漢方薬です。足がつっている時に飲むとすぐに効きます。漢方薬というとゆっくりのイメージがありますが、結構、速効性のある漢方薬があります。病気が「すぐに治る」薬がたくさんあれば良いですね。

追記4:
現在、抗生物質が一番多く使われるのは「家畜」です。感染予防をするために使っているのではありません。抗生物質を少量投与することで体重が増加するからです。抗生物質を少量慢性投与すると何故か体重が増えるのです。多くの食肉に少量の抗生剤が与えられています。それも問題になっています。
注:さまざまな実験がなされ、どうやら、抗生物質が腸内細菌叢を変化させ、そのために体重増加が起きているらしいのです。人間も同様だという報告もあります。必要で無い時に、抗生物質を使うと、耐性菌の発現も含め、良いことは無いですね。

望月吉彦先生

望月吉彦先生

所属学会
日本胸部外科学会
日本外科学会
日本循環器学会
日本心臓血管外科学会
出身大学
鳥取大学医学部
経歴
東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学)
獨協医科大学教授(外科学・胸部)
足利赤十字病院 心臓血管外科部長
エミリオ森口クリニック 診療部長
医療法人社団エミリオ森口 理事長
芝浦スリーワンクリニック 院長

医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-3-10 チサンホテル浜松町1階
TEL:03-6779-8181
URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/

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